百十五

 林がマイクに口を寄せ、
「俺の敬愛する神無月がきている。十月に東大やめちまって、いまはプロ野球選手だ。知らないやつはこの中に一人もいないだろ? しかし、神無月の天から降ってくる歌声は、この中の一部しか知らない。身近な人間でも知らないやつが多い。神無月はこういう場でしか歌わないからな。発見したのはここにいる山口勲だ。青森高校一年のときだ。ふるえて泣いたそうだ。俺も神無月の声を聞くとかならず泣く。涙が止まらなくなる。泣いてたんじゃ歌えないから、神無月の声を聴くのは第二ステージだ。ビーチ・ボーイズをつづけるぞ。飲みながら、食いながら聴いてくれ。ウドゥント・イット・ビー・ナイス、それからグッド・バイブレーションだ!」
 客たちのからだが弾む。雅子とトシさんはどうしていいかわからず、小さく手拍子を打っている。和音が美しいので、音はうるさく感じないようだ。私は、
「音ってきれいでしょう? これが〈音〉なんだ」
 雅子が、
「はい、こんなに大きい音なのに、きれいで、気持ちがよくて、びっくりします」
 そのあとも、ヘルプ・ミー・ロンダ、ドゥ・ユー・ワナ・ダンス、カルフォルニア・ガールズとつづいた。テーブルがいろいろな食い物で埋め尽くされた。若い女たちと記者グループがどんどん処理していく。私は果物ばかりを食った。最後の曲になり、山口がマイクを手に取った。
「キンキロウも、川端ノーベル賞も、三億円事件も、心のどこかでナルホドと思えるところがある。俺はそこに座っている神無月の野球の異常な才能なんかより、彼と彼を囲む惑星たちの宇宙が信じられない。なるほどと思えない。そういうとき、みなさんならどうします? 俺は疑惑の解明のために、神無月に生涯ついていくことにした。その結果、東大にもついてきたし、ギターにもついてきた。神無月がギターの天才だと言ってくれたからね。宗教じゃないぜ、ワンダーにもとづく愛だ。セカンドステージでみなさんも俺の言ったことをビビッと感じるはずだ。神無月は三曲以上唄いたがらない。全力で唄うので、すぐに力尽きる。セカンドステージは二曲、そのあと俺たちでイージーリスニングを流す。ベンチャーズがいいだろう。第三ステージは、俺の歌のメドレーのあと、神無月が最後に一曲唄う。じゃ、ファーストステージのラスト、サーフィンUSA!」
 足踏み、喚声、指笛、拍手喝采。カズちゃんが、
「山口さんたら、信じられないなんて言って、嘘ばっかり。疑ったことなんか一度もないくせに。キョウちゃんを愛して、愛して、愛し尽くして、いまそこにいるのよ。私たちもそう。キョウちゃんが最後に唄う曲は、ここに幸ありだって雅子さんから聞いたけど、最初の二曲は何を唄うの?」
「日本の曲と外国の曲を唄う。少し考えるよ」
 盛大な拍手に送られて六人がステージ裏に引っこんだ。五分もしないうちに、彼らが私たちのテーブルにやってきた。東奥日報連中が、
「お疲れさま! すばらしかったです」
 エレキギターの一人が、
「ありがとうございます。神無月さん、お会いできて光栄です。野球も天才で、歌も神がかり、そんな人間に会えるのをずっと心待ちにしてきました。山口さんや林さんはもちろんのこと、ほかの三人のメンバーもすでに神無月さんの声を聴いていて、ただ、人間の声じゃないと言うだけなんですよ」
 トシさんと雅子と千佳子が六人にビールをつぐ。素子が、
「神さまの声やよ」
 林が、
「あの声を聴けると思っただけで、からだがおかしくなるぜ。神無月、とうとうプロ野球にいっちまったんだな。去年のバス旅行のときにもらったサイン、額に入れて諏訪の部屋に飾った。おまえ、ひとこと気まぐれに、名前の脇に小っちゃく書き入れてたんだよ。忘れたろ」
「うん」
「順風、逆風、頬に受けよ」
 カズちゃんがうつむいてハンカチで目を覆うと、浜中がすばやくメモを取った。二度目の皿がドッサリ運ばれてきた。チャーハン、肉野菜炒め、生ハム、鶏胸肉唐揚げ、ボテトチップ、きゅうりバー、チーズ盛り合わせとクラッカー、小鉢にもったライスまでついている。林が、
「ちょっと食っとこうぜ。神無月の声を聴きながらだと疲労困憊する」
 六人が箸を動かしはじめた。女たちや東奥日報たちも茶碗を手に取る。六人はたちまち食い終わり、ビールを飲み干した。もう一人のエレキギターが私に、
「何を唄われます?」
 山口が、
「まだ早いよ。こいつはステージで決めることもあるんだから」
「いま決まった。小林旭のギターをもった渡り鳥、コンウェイ・トゥィッティのイッツ・オンリー・メイク・ビリーブ。サードステージは大津美子のここに幸あり」
「渋!」
 林が言った。山口が、
「福田さん、菊田さん、一生忘れられない声を聴けますよ。よかったですね。恩田さん、撮影はフラッシュでよろしくお願いします。録音もしたほうがいいと思います」
「わかりました」
「林にシックティーン・キャンドルズ、山口にランブリング・ローズを唄ってほしい」
「よし、ギターをもった渡り鳥のあと、俺からいく。山ちゃん、ランブリング・ローズってナットキング・コールだよな」
「そう、明るく、さびしい曲だ。心をこめて唄う」
 私が、
「林はやっぱりプロにならないのか」
「ならない。プロよりうまいというのが自慢だからな。自慢は素人のあいだですることにした。ところで、五月六日の巨人―中日戦、後楽園の特別席、山ちゃんもほしい? 五カ月も先の話だけど」
「ほしい。ネット裏か」
「ああ、叔父が手に入れられる。七席まで」
「私たちもお願いします!」
 福田さんが言った。
「オッケー。じゃ、俺を入れて四席だな」
「そのお金、ぜんぶお支払いします」
 トシさんが言う。
「いいんですよ、優待席だから。火曜日、試合開始は六時ですけど、試合前の練習も見たいでしょうから、五時に正面二十二番ゲートで」
 山口が、
「俺といっしょにいきましょう。四時に菊田さんの不動産屋さんにいきますよ。スナックでも買って、のんびり観戦しましょう」
「ありがとうございます。何から何まで」
 カズちゃんが、
「よかったわね、菊田さん、福田さん。私たちは名古屋で、飽きるほどキョウちゃんの試合を見られるわ。申しわけないです」
「七時半だ。セカンドステージ、いくぞ!」
 林の声にうなずき、男たちが立ち上がった。私もステージに進む。
「キョウちゃん!」
 素子が叫んだ。
「よ! 神無月!」
 まだ歌が始まらないうちから、ブラボーと叫ぶやつがいる。
「薄いオレンジ、そのあと薄い赤林檎、次、炎の色、次、真っ赤なバラ色から薄いピンクへ、そして空色へ、最後にコバルトブルー、つづけてダークブルー」
 山口が照明に向かって呼びかけると、淡いオレンジ色のスポットライトが点いた。しゃべりはじめる。
「いよいよ神無月郷の登場です。東京六大学リーグ春秋二季三冠王、東大初優勝の立役者、中日ドラゴンズ電撃入団。並べ立てるとよほど華やかな男に見えますが、ごらんのとおりもの静かな美丈夫というだけのノッポです。ホッとするでしょう? 声を聴くと胸が締めつけられ、嵐が吹き荒れ、安堵感が吹き飛びます。彼の奇跡の声でふるえてください。昭和三十年代初期は、日活歌謡映画の全盛時代でした。有楽町で逢いましょう、夜霧に消えたチャコ、あんときゃどしゃ降りなどはよくご存知でしょう。なかんずくタフガイ石原裕次郎は、歌謡映画の中の綺羅星でした。俺は待ってるぜ、錆びたナイフ、嵐を呼ぶ男。そこへ同時並行的に現れたのがマイトガイ小林旭だった。しかし日の出の勢いというわけにはいかず、歌もあまり流行らなかった。声が高すぎて哀愁がなかったからです。とはいえ彼の歌の中にも、ポツンポツンと名曲があるんです。十字路などはその最たるものです。いまから神無月が唄うこのポピュラーな曲もその一つです。人に気づかれない知られざる名曲と判定したのは神無月です。神無月は名曲を聞き逃しません。いきましょう―ギターをもった渡り鳥!」
 口笛、拍手。山口のアコースティックの爪弾き。歌い出す。

  赤い夕陽よ 燃え落ちて
  海を流れて どこへゆく

 ホウッと店内のそこかしこからため息が洩れた。私に夕陽色のスポットライトが当たる。

  ギター抱えて あてもなく
  夜にまぎれて 消えてゆく
  俺と似てるよ 赤い夕陽

「すげえー!」
「声よね」
「だろ、唄ってるから」
 ギターの爪弾き。ざわついた空気が静まり返る。

  汐のにおいのする町が
  どこも俺にはふるさとさ
  独りぼっちのさみしさも
  ギター おまえを爪弾けば
  指にからむよ 汐のにおい

「ブラボー! ブラボー!」
「声なんだよ、まちがいなく声なんだよ」
 山口がうつむいている。林は天井を向いて、ハーモニーを作っている。

  別れ波止場の止まり木の
  夢よさよなら 渡り鳥
  俺もあの娘も若いから
  胸の涙も すぐかわく
  風がそよぐよ 別れ波止場


「うおおおお!」
「ヒエー!」
 歓声が上がり、拍手の旋風が逆巻く。指笛。指笛。
「信じらんない!」
「神さまァ!」
「すてきー!」
 楽器の余韻が止み、林が指で目を拭いながらマイクに進み出た。スポットライトの色が蝋燭の焔のような黄色い赤色に変わった。林がもう一本のマイクに進み出る。
「クレスツ、シックスティーン・キャンドルズ!」


         百十六

 突風のようなコーラス。 

  Happy birthday, happy birthday, baby, oh, I love you so

ドラムがするどくリズミカルに拍子をとる。山口もまぶたを拭って顔を挙げた。アコースティックのスタッカート。

  シックスティーン、キャンドーズ―
 
 清澄なコーラスが噴き上がる。
「ひょうー!」
 私たちの席から奇声が上がる。田代だ。

  メイク ア ラブリー ライト
  バット ノット アズ ブライト
  アズ ユア アイズ トゥナイト

 私はドラムの横に立ち、夢中で拍手した。

  Blow out the candles
  Make your wish come true
  For I’ll be wishing that you love me, too
  You’re only sixteen
  But you’re my teenage queen
  You’re the prettiest
  Loveliest girl I’ve ever seen

「アイブ、エバ、シーン」
 思わず私もいっしょにコーラスを入れている。

  Sixteen Candles in my heart will glow
  For ever and ever for I love you so
  You’re only sixteen
  But you’re my teenage queen
  You’re the prettiest
  Loveliest girl I’ve ever seen
  Sixteen Candles in my heart will glow
  For ever and ever for I love you so

 林の長い、高い発声。ドラムのドンで終わる。
「林、すごいぞ!」
 私は背中に声を投げた。拍手、喝采、拍手、歓声、指笛、足踏み。林は振り向いてVサインを突き出す。山口の番だ。
「浮気女を愛する歌、ナット・キング・コール、ランブリング・ロウズ!」
 高らかに唄い出す。
「ラーン、ブリーン、グ、ローズ」
 私の倍もあろうかという声量。美しいコーラス。
「ランブリング、ローズ」
 コーラスとギターの合奏のみ。すごい迫力だ。たちまち嵐のような歓声が沸き上がる。
「ワイ、ユー、ラーンボー、ノーワン、ノーズ」
 首筋に戦慄が走った。山口はギターを置いて立ち上がった。足を踏ん張って唄う。

  Wild and windblown, that’s how you’ve grown
  Who can cling to a Ramblin’ Rose?
  Ramble on, ramble on
  When your ramblin’ days are gone
  Who will love you with a love true?
  When your ramblin’ days are gone

 こんなに甘くミスティな声だったか。客席の人びとのシルエットが波のように揺れている。すばらしい! スポットライトがツルバラのどぎつい赤色からピンクへ、つづけてマリンブルーに変わる。男の寛容をさわやかな水色に変えて唄う山口の心がいとしい。

  Ramblin’ Rose, Ramblin’ Rose
  Why I want you, Heaven knows
  Though I love you with a love true
  Who can cling to a Ramblin’ Rose?
  (One more time, everybody now)
  Ramblin’ Rose, Ramblin’ Rose
  Why I want you, Heaven knows
  Though I love you with a love true
  Who can cling to a Ramblin’ Rose?

 ふたたび大歓声。林と二人で山口に抱きついた。歓声と拍手が止まない。女たちが狂ったように拍手している。
「山口、いつのまに?」
「ようやく、歌もプロ級になってきただろ?」
 林が、
「ああ、一家をなしたな。しかし、神さまが控えてる」
「怖いよ。泣いたら指が止まっちまう」
「ギターの音だけ考えようぜ」
「よっしゃ。ニューブリーダーズ、鳥肌だけにしとけよ」
「イエース!」
 山口はマイクに口を寄せ、
「神無月が一曲だけ英語の歌を歌います。昭和三十三年、一九五九年、カントリー歌手コンウェイ・トゥィッティが歌ったビルボードナンバーワンヒット、イッツ・オンリー・メイク・ビリーブ。もう涙が湧いてきたので、これ以上の説明は勘弁してください。ギターはしっかり弾きます。ワン、ツー、スリー」
 四人のギターがいっせいにジャーンと弾き降ろされる。静かに語るように歌いだす。
「ピーポー・シー・アス・エヴリウエア、ゼイ・シンク・ユー・リアリ・ケア」
 ジャーン。
「バット・マイセルフ・キャント・ディシーブ」
 ジャーン。
「アイ・ノウ・イッツ・オンリー・メイク・ビーリーブ」
 絃のトレモロの響き。叩き下ろし、ジャッ、ジャッ、ジャッ。ドラムのスティックが縁を叩く音、タッタッタ、タッタッタ。コーラス、ワワワ、ワワワ、ワワワワー。
 息を深く吸い、最初から張り上げて発声する。三十メートルごとに短い息継ぎをし、一挙に百メートルを走り切る覚悟だ。

  My one and only prayer
  Is that someday you'll care
  My hopes my dreams come true
  My one and only you
  No one will ever know
  How much I love you so
  My only prayer will be
  Someday you'll care for me
  But it's only make-believe

 ヒャー! キャー! ヘイヘイヘイヘイ! この一息で三十メートル。

  My hopes my dreams come true
  My life I'd give to you
  My heart a wedding ring
  My all, my everything
  My heart I can't control
  You rule my very soul
  My hopes my prayers, my schemes
  You are my everything
  But it's only make-believe

 これで六十メートル! いつものように客席が静まり返った。暗がりの中にハンカチの花が咲いている。東奥日報も、カズちゃんたちも、トシさんも、福田さんも、みんなハンカチや手で目を覆ったり、頬を拭ったりしている。微笑みながらバンドのメンバーを見回すと、みんな涙を流したまま、ひたすら楽器を弾いている。私の声のどこがそんなに悲しいのだろう。ギターとコーラスとかすかなドラムの音が美しく調和する。

  My hopes my dreams come true
  Is that someday you'll care
  My hopes my dreams come true
  My one and only you
  No one will ever know
  How much I love you so
  My only prayer will be
  Someday you'll care for me
  But it's only make-believe

 よし、百メートル! 唄い切った。客席が総立ちになり、怒涛の拍手を送る。いつまでも鳴り止まない。まるで野球場のスタンドだ。
「最高だ!」
「感激した!」
「天から聞こえた、いつ死んでもいい!」
 山口と林が泣きながら握手を求める。握手し、抱き締め合う。東奥日報やカズちゃんたちが立ち上がって、叫び声を上げている。山口が、
「よーし、神無月は休憩! じゃ、みなさん、ベンチャーズいくよ。好きなだけ拍手したら、お座りください」
 私はよろよろテーブルへ戻っていった。ソファの端にへたりこみ、
「ああ、野球より疲れた」
 千佳子の席だったので、彼女は私を抱えこみ、涙に濡れた目で見つめながら頬をさすった。ベンチャーズが演奏されている。まだ拍手が止まらない。丹生が、
「神の声、しかと聞き届けましたァ!」
 握手する。浜中が、
「北村席以来、あらためて恐怖感を覚えました。どこかでまだ人の声だと信じようとするからでしょう。これからは聞き惚れるだけにします」
 福田さんを胸に抱き寄せていたトシさんが、ハンカチで目を拭いながら、
「キョウちゃんはお祈りを捧げられる人ですね。いつも祈ってますよ。私より長生きしてくださいね。そうじゃないと祈れませんから」
 カズちゃんと素子は私を見つめながらただハンカチを頬に当てているだけだった。葦原がやってきて、
「胸の奥に溜まっていたものを洗い流させていただきました。神無月さんの歌を聴くと、いつも涙が止まらなくなるのですが、気持ちがいいのでそのまま放っておくことにしてます。こんないい気分のときになんですが、お客さんにビクターのかたがいらしていて、お話できないかということです」
「お断りします。ぼくは野球選手ですから」
「そう申し伝えます。神無月さんのおっしゃること、もっともだと思います。話があるなら自分のほうからやってくるべきです。失礼いたしました。きょうもすばらしい声を聞かせていただき、ほんとにありがとうございます。もう一曲聴けると思うとうれしくてたまりません。それではごゆっくり」


         百十七

「ああ、やっと涙が止まったがや。どうなるかと思った」
 素子が言うと、
「ほんと、涙が乾く暇があってよかった。最後もまた泣いてしまうわけだから、少し休んでおかないと」
 カズちゃんがにっこり笑いながら言った。恩田が、
「ボーッとして、だいぶ写真撮り損なってしまいました。さあ、撮るぞ」
 パチパチやりはじめるが、どこか上の空だ。ボソッと言う。
「……神無月さんの存在意義と言うんでしょうか、あまりにも一つひとつの才能が輝いていすぎて、つまり意義がありすぎて、ふつうの人のように一つにまとまらない。世間にはお嫁さんになることだけを生きる目標にする人もいるくらいですからね。そういう単純で平凡な生活を送れないというのが、とても気の毒で。茫洋とした人生はつらいんじゃないかと……」
 カズちゃんが、
「だいじょうぶよ。キョウちゃんは存在意義なんてことを考えてないから。それで本人が苦しんでるというなら困っちゃうけど、とにかくキョウちゃんは何も考えてないから。だから私たちも考えないようにするの。考えてない人に考えることを強要したら、パニックを起こしちゃうでしょ」
「はあ、たしかに。……いまもそうでしたが、ふつうビクターとかコロンビアなんて言ったら、うれしくて躍りだしますよね」
 浜中が、
「歌手を目指してる人ならね。神無月さんは野球選手なんだよ」
 私は彼らを押し留め、
「野球選手も、歌手も、特殊な臨時仕事です。肩をやられ、喉をやられたら、一般に戻るしかありません。いつもそのことを考えるんです。左の肘をやられたときの絶望から、ぼくはまだ立ち直っていないんです。右腕に換えられたというのは得がたい幸運です。そういうものがなかったらどうなっていたか。教育を受けて、企業に勤め、働くしかなかったでしょう。そういう意味の立ち直りをしていない。いつかそういう立ち直り方をしなければいけませんが、いまはそれをイメージに留めて、大事な幸運を守り抜くことだけに全力を集中します。この先、野球をやめたらそのイメージトレーニングが生きてきます。かつては詩人とか、小説家とか考えましたが、才能や熟練が必要な仕事に就くのは、ほんとうに立ち直ったことになりません。それでいて死ぬまでやれる仕事でなければいけない。肉体労働を理想の仕事に考えたこともありましたが、生涯懸けてとなると、持久力のなさで人に多大な迷惑をかけそうだ。結局、掃除人か皿洗いという軽度の肉体労働。しかし、そういう仕事は、いずれ自動化されていくでしょう。生涯の仕事にはさせてくれない。……野球をやれるところまでやり、その後は軽度の労働でも働けるうちはなるべく長く働き、働けなくなったら、人に迷惑をかけながら、本を友に部屋に籠もるしかない―いまのところの結論はそれです」
 田代が、
「その迷惑をかけてほしいと言っているのが、あなたたちですね」
 素子が、
「そういうこと! これまでどれほどあたしらが迷惑かけたと思ってるの。一生かけてもお返しできんわ。ぜったい働かせることもせんよ!」
「はい!」
 と千佳子が大声を上げる。けっこうな音量に包まれて会話をしているので、それぞれの声が大きくなる。みんな自然と笑いだした。浜中が、
「こういうのを、話にならないと言うんでしょうね。いや、話す必要がないというか」
 カズちゃんが、
「そうよ、あなたたちが疑問に思ってることは、私たちが何十回も話し合ってきたことなの。とっくに結論は出てるのよ。キョウちゃんといっしょに生きて、何も考えず、自分なりの労働をすること」
 ベンチャーズが終わり、山口と林が戻ってきた。丹生と田代が一服つけた。
「十番街の殺人、弾いた?」
 私が山口に尋くと、
「弾いたぞ、聴いてなかったのか」
「話に夢中でね」
「ニューブリーダーズの独壇場だったのに、ガッカリだな」
 林が、
「あの歌のあとじゃ仕方ないよ。ほとんどの客が聴いてなかったぜ」
 山口が、
「バンドの連中が怖いってさ。プロって何だろうと思ってしまったらしい。世の中、プロプロとうるさいからな。林も俺もプロじゃない。音楽を専門職にしてないから。来年からは、俺はたぶんプロだ。林は蹴った」
「ビクター?」
「それと、コロンビアとテイチク」
「理由は博報堂?」
「むろんそれもあるけど、俺は山ちゃんとちがって作曲が不得手だから、いずれ頭打ちになる。会社で出世する道のほうが確実だ。山ちゃんは、近いうちに日本を席巻するよ。弾けるし、唄えるし、作曲できる」
 丹生が、
「恐れ入った人たちの集まりですね」
 浜中が、
「ああ、いずれ取材する折がくるよ。うんと取り入っておこう」
 自分の言葉にハハハハと照れ笑いする。
「神無月の恩人が、俺たちに取り入る必要なんかないですよ。ピッタルーガに入賞したときは、電話でいいから取材してくれますか」
「もちろん、願ってもないことです。ありがとうございます」
「博報堂に入社したときは―」
「それはちょっとニュースバリューに欠けるというか」
 テーブルに大きな笑い声が上がった。私はそばを通った黒服に、
「すみません、清酒、コップ一杯いただけますか」
「承知しました」
 山口が、 
「どうしたんだ、酒の弱いおまえが」
「喉を広げとこうと思ってね。思わせぶりを唄って、ちょっと狭くなった」
 田代が、
「さっきの歌、日本名は思わせぶりと言うんですね」
「うん、叫びっぱなしの歌だから、喉が狭くなった。次がここに幸ありだから、豪快に唄うためには喉を広げなくちゃ」
 すぐに持ってきた日本酒を半分ほど空ける。雅子が、
「チャンポンはよくありませんよ」
「チャンポンというほど飲んでない」
 五、六人の女性がサインを求めにきた。快く応じる。がんばってください、いつも応援してます、すごい美男子で驚きました、歌のプロでやっていけると思います。彼らの常套文句には心がない。山口が苦々しい顔で聞いていた。男たちもきたが、次があるので、と握手だけで遠慮してもらった。
「山口はときどき遊びにくるからいいとして、林も学生のあいだに名古屋に遊びにこいよ。北村の人たちをびっくりさせたいんだ。家の中に小さなステージを作ってるんだぜ」
「いきたいな。夏にでも」
「俺もいくから、いっしょにいこう」
 浜中が、
「私どももごいっしょしますから、十一月あたりにしてくれませんか」
「いいよ、そうしよう」
 カズちゃんが、
「気が早いけど、むこうに落ち着いたらすぐ、おとうさんに言っときます」
 林が、
「俺たちも神無月のまねして、バーボンで喉広げとくか」
「よし。ここにある食いもの平らげちまうぞ」
「オッケー」
         †
「最終ステージになりました。昭和二十年代後半のアメリカで、ジャズ系ポップスシンガーとして活躍したJ・P・モーガンのバラードをメドレーでお送りします。俺も林もお気に入りの歌手です。一九五三年から五十九年にかけて、ぜんぶで八曲、俺と林が交互に四曲ずつ唄います。ニューブリーダーズの演奏とコーラスも極上ものです。神無月、おまえは六十年代の鬼だが、五十年代にもこんないい歌があったんだぞ。さっきおまえが唄ったコンウェイの思わせぶりも、五十九年だったんだ。じゃ、まずは五十三年からいきましょう。ライフ・イズ・ジャスト・ア・ボウル・オブ・チェリー、人生は楽しいことばかり」
 テリー・スタッフォードの霧のロンドンブリッジのような、バババ、バババ、バババのコーラス。たしかに極上ものの演奏だ。山口がしっとりと歌い出す。美しい旋律が店内に満ち、拍手も口笛もない。みんな音楽に溶けこみ、静かに飲食にかかっている。浜中が私に、
「J・P・モーガンというのは、女性ですか」
「そう。イギリスでは、アメリカナンバーワンのジャズシンガーという評判でした。五十年代後半から六十年代前半は、たぶん歴史に残るポップスの黄金の十年と言っていい。七、八歳から十五歳。ぼくの黄金時代でもあるんです。クマさんに遇ったのが十歳だから、それ以前の数年はぼくの盲点です。学び直さないとわからない。山口や林はぼくと同い年なのに、やっぱり音楽の専門家はすごい」
 林の番になる。ザッツ・オール・アイ・ウォント・フロム・ユー。ハスキーボイスが店の天井を突き抜ける。メドレーなので拍手の間がない。
 山口が五十四年と紹介して、デンジャー・ハートブレイク・アヘッド。発見! 切れのいい抒情歌。思わず涙が落ちた。テーブルのおしぼりを目に当てた。カズちゃんがあわてて奪い取り、ハンカチを差し出した。
 林、五十五年、ザ・ロンゲスト・ウォーク、軽快なスウィング。ハスキーのかもし出す悲しみが香辛料になる。
 山口、五十五年、イフ・ユー・ドント・ウォント・マイ・ラブ。コーラスのうねり。ハンカチに顔を埋める。私のその姿を見て女たちが泣きだした。山口は歌いながら私たちの光景に驚き、
「神無月たちが泣いてる! うれしいなあ!」
 と叫んだ。林が、
「神無月、泣くな! うれしくて歌えなくなるだろ。五十五年、ペッパー・ホット・ベイビー」
 林のうなり節が炸裂する明るい曲。エレキとベースとドラムが華やかに踊りだす。やっと客席から手拍子が出た。
 山口、五十五年、ゲット・アップ・ゲット・アップ。林につづいてリズミカルな明るい曲。寝坊すけ、起きろ、起きろ、と唄う。店じゅうが手拍子になった。
 林で締めくくり。五十九年、アー・ユー・ロンサム・トゥナイト。彼女がオリジナルだったのか。プレスリーしか聴いたことがなかった。チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、シンバルの響き、コーラス、林の高い声、演奏が高潮になって押し寄せる。ズダダダとドラムが終わると、店内に沸き返るような拍手が起こった。林がマイクに進み出た。
「このセッションは、俺の永遠の記憶に残るでしょう。山口勲、神技テクのアコースティック、ありがとう。歌も絶品だった。彼はいずれ日本を席巻する。まちがいない。ニューブリーダーズのみなさん、超絶テクのカルテットありがとう。あなたたちの演奏技術には、そこらへんのロックバンドが束になってかかっても敵わないものがある。パンチのある女性ヴォーカルを一人入れるなどして、早くメジャー進出を果たしてください。そして、そのニューブリーダーズの心胆寒からしめるほどの天与の声の持ち主、神無月郷、ありがとう。その声できょうのステージを締めくくらせてもらう。たまたまこの店にきたお客さんはラッキーだった。めったに唄わない神無月の声を聞けたんだから。俺も東大のバス旅行で聴いたきりだったのを無理やりステージに引っ張り出して、結局何度も聴くことになった。でも、いつも彼の声を聴くときはこれが最後だと覚悟する。求めないかぎり唄わない男だからね。たぶんこれが東京で彼の歌声を聴く最後だ。これからは彼の声を思い出しながら、テレビの画面でユニフォーム姿を見るしかない。名古屋のドラゴンズ連中とカラオケなんかやるんじゃないぞ。もったいないし、俺が嫉妬に狂っちまう。さあ、いこうか! 山ちゃん、曲紹介」
 山口は私を手招きした。「神無月、ステージへ。ゆっくり、ゆっくり、呼吸を整えて。よし、上がった」
 マイクの前に立たせる。


         百十八

「この曲はだれかのリクエスト?」
 知っていることをわざと訊く。
「ああ、あそこのテーブルにいる福田雅子さんという女性のリクエストだ。昭和の歌で好きな歌はと訊いたら、長崎の鐘、白い花の咲く頃、ここに幸あり、この世の花、アカシアの雨が止むとき、函館の女、と六曲あげた。その中で、メロディが情緒纏綿(てんめん)としていない三曲を選んだ。ここに幸ありとアカシアの雨が止むときと函館の女。ぼくは歌詞を聴かずにメロディだけを聴くタチなんだ。さっきの思わせぶりという曲にしても、中身は自分を振り返らない女にイラついているだけの詞で、曲調のように雄大な恋愛ドラマを唄ったものじゃない。しかし、メロディが秀逸だ。ここに幸ありとアカシアの雨が止むときと函館の女のメロディは甲乙つけがたいできだ。となると最後の決め手は、ふだん聞こうとしない〈歌詞〉に注目するしかなくなった。いちばん荒唐無稽でないものを選んだ。ここに幸あり。一人の男だけを心に秘めて明るく生きていくという決意の歌だ。古風な詞が胸を打つ。林の言うとおり、これからしばらく唄えなくなるので、叫ぶように唄いたい」
 山口はもう泣いている。林も目頭を押さえている。山口は、唄い終わるまで拍手を控えるように客席に向かって言うと、椅子に腰を据え直し、哀調を帯びた前奏をトレモロで弾きだした。五つの楽器の美しい響きが和音になって溶け合う。

  嵐も吹けば 雨も降る
  女の道よ なぜけわし
  きみを頼りに 私は生きる
  ここに幸あり 青い空

 叫ぶことだけを頭に置いて、感情をこめずに淡々と唄う。短いトレモロの間奏。エレキの角張った音色を包みこむコーラスがやさしい。

  だれにも言えぬ 爪のあと
  心に受けた 恋の鳥
  泣いて逃れて さまよいゆけば
  夜の巷の 風かなし

 長い間奏。ベースがビオラのような弦の音を立てる。どういう技巧なのだろう。

  命のかぎり 呼びかける
  こだまの果てに 待つはだれ
  きみに寄り添い 明るく仰ぐ
  ここに幸あり 白い雲


 かなり長い後奏が女の決意を讃えている。割れるような拍手が湧き上がった。拍手の中ニューブリーダーズのメンバーが寄ってきて、固い握手をする。ドラムが言う。
「神々しい音楽を堪能させていただきました。野球場でも神無月さんは神々しい雰囲気をただよわせています。その神無月さんがあくまで人間であることにホッとします。人間の奇跡を見ました」
 七人手を重ね合い、抱擁し合った。フラッシュが何発も光る。拍手がつづいている。山口が、
「なんという感動的な一夜だったことでしょうね。声と楽器のすばらしさを満喫しました。豪華なセッションの場を提供してくれたグリーンハウス店主、葦原さん、並びにセッションに馳せ参じてくれたニューブリーダーズの面々、林、神無月、あなたたちに心から感謝いたします。本日のステージはこれで終わりです。客席のみなさん、盛大な拍手喝采、ありがとうございました。神無月、また会える日を! ホームラン、たくさん打ってくれ」
 あした私たちと会う予定の山口が、客の手前わざとらしく別れの挨拶をする。林が、
「秋に会いにいくからな。姿くらますんじゃないぞ!」
 こちらはほんとうの別れの挨拶だ。私は手を挙げた。大拍手の中、カズちゃんたちが立ち上がっているテーブルに向かう。いろいろな手が左右の席から伸びてくる。できるだけ握るようにする。
「がんばってください」
「ホームラン王獲れよ」
「後楽園、観にいくからな」
「神さま―」
 カズちゃんがレジに向かうと、葦原が走ってきて、
「一曲、一曲、値千金でした。飲食代を払うなどとおっしゃらないでください。きょうの出演だけで向こう十年のおつりがくるくらいです。何十枚も写真撮らせていただきました。店内に飾ってよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「ありがとうございます。東奥日報さま、写真がご入用の場合はご連絡ください。また何かの都合でこの店をご利用なさる場合は、最大限の便宜を図らせていただきます。みなさま、本日はほんとにご来店ありがとうございました」
 黒服を何人か呼んで玄関ドアに見送りに出る。最敬礼する。女たちや東奥日報の一人ひとりから、ごちそうさまでした、の声が上がる。揃って夜の道へ歩み出す。カズちゃんが、
「じゃ、伊勢丹の駐車場に車停めてるから、私たちはこっちからいくね。あしたの六時にうちで夕食ね。みんなで腕によりをかけるわ。菊田さん、福田さん、きょうはお疲れさま」
 トシさんが、
「とんでもない、日ごろの疲れが吹き飛びました」
「送っていきましょうか。ちょっと窮屈だけど、乗れないことはないわよ」
「いえ、きたときと同じようにタクシーで帰ります」
 浜中が、
「われわれもタクシーで西荻窪に帰ります」
「キョウちゃんは、菊田さんと福田さんのタクシーに乗せてもらいなさい」
「そうする」
 恩田が、
「伊勢丹まで歩きましょう」
 浮きうきとした声で言う。素子が、
「あたしらは、名古屋でときどきキョウちゃんのこういう姿が見れるけど、男の人たちは気の毒やね。めったに会えんもん」
 丹生が、
「そうですよ。今回もこの三人の先輩がいなかったら、ただのビデオ屋の私が、こんないい目を見られませんでしたよ。十一月には何とか同行の申請を通さなくちゃ」
 田代が、
「十一月と言わず、もっと数多く取材にいきたいですね」
 浜中が、
「そうしたいのは山々だけどね。キャンプは無理としても、四月の開幕戦に一回、七月に一回ぐらいね。許可は出るだろう」
 千佳子が、
「開幕戦は和子さんのお父さんが連れてってくれるはずです。ね、和子さん」
「四月十二日の開幕戦は広島市民球場だから無理ね。十五日の巨人戦はみんなで出かけるわよ。中日球場だから」
 恩田が、
「神無月さんたちといると、愛という言葉を何の躊躇もなく言えます。おはようとか、さようならと同じように」
 素子が、
「だってそういう言葉やもん」
「ですね!」
 浜中が、
「もとの集団に戻ると、また言えなくなる。それが神無月さんの嫌う〈社会〉でしょう」
 私は、
「と思います。社会は、全体の発展に寄与しないものは、すべて、個人的で浮ついたものと見なしますから。個人の集合が社会だという観念が持てないからです。日本の文学界が私小説を嫌う原因もそこにあるでしょう。個人の心が満たされないかぎり、社会は充実しないのに」
「ごもっともです」
 カズちゃんの車は伊勢丹の駐車場から新宿通りへ出て去っていった。浜中たちも新宿通りからタクシーを拾って去った。トシさんと雅子と三人残された。
 すぐにタクシーを拾い、後ろの座席に私を真ん中にして三人で乗った。二人の掌を握って、私はしみじみと幸福だった。
         †
 トシさんがカーテンを開ける音で目覚めた。
「おはよう」
「おはようございます」
「泊まったの」
「はい、二人とも。神無月さんがだいぶ酔ってらっしゃったので、心配で、二人隣の部屋に寝ました」
「ありがとう。何時?」
 雅子が廊下から顔を出し、
「七時半です。コーヒーを一杯飲んで走る時間でしょ?」
「うん。その前にシャワーを浴びて歯を磨かなくちゃ」
「ジャージは脱衣場に出してあります」
「ありがとう。きょうは水曜日。休みだね」
「はい。何の予定もありませんけど、福田さんと丸井にいって、お洋服でも見て歩こうかなと思ってます。お昼ごはんを作ったあとにします」
「ぶらぶら適当に見てくるだけです」
 シャワーを浴び、歯を磨く。きょうから二十四日までの十日間、走るコースを変えてみようかとも思ったが、これといって思いつかなかったので文化園で走りつづけることにした。
「朝ごはんは?」
「マグロのお刺身です。朝の五時に西荻窪の鮮魚店にいって仕入れてきたんです。ツマも食べてくださいね。からだにいいですから。菊田さんが千切りしたんです。がんもどきと大根の煮物は薄口醤油で煮ました」
 福田さんが言う。
「楽しみだ。いってくる」
 ジャージを着て、いつもの道に出る。スピードを上げても肺は苦しくない。アルコールは抜けている。快晴。三・五度。
 走りながら、もの心ついてから出会った人の名前と、出会ったときの目鼻立ちを思い出そうとする。じっちゃ、ばっちゃ、善司、善夫、義一、椙子叔母、サイドさん、すべて浮かぶ。お盆に会いにきたときの母―浮かばない。城内幼稚園のミチコ先生、女先生、二人とも浮かばない。けいこちゃん、濡れた下歯と白いゆばりしか思い出せない! すべての女の原型だったはずなのに。いつだったか、幼稚園の帰り、道の辻でスキー板の後ろに乗せてくれた青年、背中しか浮かばない。正月に英夫兄さんとミッちゃんに連れられて野辺地に訪ねてきた郁子、着物姿しか浮かばない。 
 文化園に到着する。周回に入る。
 飛行機のおもちゃを持ってアメリカから野辺地を訪れた君子叔母、四角い輪郭しか浮かばない。国際ホテルの人びと、一人も思い出せない。崖の長屋の爺さん婆さん―想像で作り上げた着物姿の肥満婆さん、痩せた地下足袋の爺さん。二人とものっぺらぼうだ。鹿島建設の男たち、一人も浮かばない。四宮先生、眼鏡しか思い出せない。福田雅子ちゃん、克明に憶えている。さぶちゃん、嘘だろう、浮かばない! ひろゆきちゃん、みごとなまでに思い出せる。朝もやの中の顔! ひろゆきちゃんのママ、のっぺらぼう。パパ、伊藤雄之助? 内田由紀子、顔の長い……目の細い……浮かばない。成田くん、目の前にいるように思い出せる。兎口の形も。京子ちゃん、のっぺらぼう。サルを牽いていた小僧、浮かばない。大家のテルちゃん、先日会ったばかりだから思い出せるけれども、浅間下でドブの水を掬ってかけたテルちゃんは憶えていない。サーちゃん、ター坊、だめだ。西松建設と飛島建設の社員たち、永遠に忘れない。青森高校の野球部員たち、輪郭がぼやけはじめた。東大の野球部員たち、危うい。記憶し直さないといけない。やさしい寛紀、意地の悪い善郎、お節介の義夫、確固とした存在として浮かぶ。
 三周して外へ出る。福原さん、ギョロ目と大きな口が鮮明だ。貸本屋のお婆さん、パラフィン紙と白髪しか浮かんでこない。父、写真では知っている。階段の暗がりで会ったとき、顔が長髪に隠れていた。サトコ、肥った女、のっぺらぼう。カズちゃん、女たち、記憶が鮮明になる。思い出すまでもない。
「ただいま! トシさん、福田さん」
「お帰りなさい!」
 二人を抱き締める。トシさんが、
「どうしたの、キョウちゃん、どうしたの」
 福田さんが、
「どうしたんですか、神無月さん、ああ、そんなに強く、うれしい!」
「うれしくなったんだ。ぼくに遇うまで、思い定めた男を忘れないで孤閨を守ってきたことがとってもうれしくなった」
 トシさんが、
「そんな、忘れないなんて。思い出そうとすれば思い出せるくらいのものですよ。キョウちゃん、痛い、馬鹿力なんですから」
 ますます強く抱き締める。
「ぼくは思い出せないんだ。うつむいて生きてきたのかな、ほんの少しの人の顔しか憶えてない。トシさんはぼくに似た男の顔を忘れなかった。福田さんは病気で死んだ夫の面影を忘れずに、忘れ形見を立派に育て切った。ぼくを愛してくれる女は、みんな大切だった人の面影を忘れなかった女だ。素子でさえそうだ。何百人の男と寝てきた女が初恋の大学生の顔を忘れなかった。心の中に大切に秘めていたんだ。だからぼくに遇ったとたんに目を覚ましたように愛情が芽生えた。大切だった人を忘れない人間は、面影を大切に抱えながらかならず希望を持ってる。捨てなかったその希望がぼくを明るくする。自分が次の希望になったんだと思うと、心が明るくなる。明るい心がぼくの生きてる証だ。希望を断たれたときの絶望をいまなおぼくは忘れない。たぶん永遠に忘れない。だから、愛する女は希望に満ちた明るい女でなければだめだ。……決めたんだ。とにかく最善を尽くす。忘れないためだ」
 しっかり抱き合う。
「うれしい」
 二人で言う。


         百十九

 朝食のあと、三人でゆっくり湯に浸かる。
「今年もいろいろあったね」
 福田さんが、
「いいえ、一つしかありません」
「そう、一つしかなかったわね。キョウちゃんに遇ったこと」
 湯船の中でまたしっかり抱き合う。福田さんが、
「きょうの予定は?」
「昼近くに浜中さんたちと本郷で合流。夕方に高円寺に回る」
 風呂から上がったとたん、山口から電話が入った。
「きょうは四人で勝手に本郷構内と東大球場を撮ってくるそうだ。おまえに迷惑をかけたくないってさ。鈴木睦子のインタビューも、受験勉強のじゃまをしたくないというわけで、今夜和子さんとこで食事をするだけになった。それまでゆっくりしてくれ」
「わかった」
 二人に告げる。福田さんが、
「じゃ、きょうは夕方から和子さんのところにでかけて、あしたの午前は東奥日報さんをお見送りして、十八日に中井のお友だちのところにお泊りになる、ということですね」
「そう。十八日はたぶん徹夜になると思う。正確な検査らしいから」
「じゃ、十九日の日曜日はふだんどおり朝食を用意して、掃除洗濯をしてます」
「よろしく。午前中には帰ると思う」
「なぜ、神無月さんの知能を計るんですか?」
「論文の資料にするそうだ」
 中一のときのメンタルテストの経験を語った。馬鹿は馬鹿らしく振舞おうと心を決めたきっかけになったとも言った。康男のことも語った。少し得意な気分になった。
「でも、自分じゃサボったってわかってたんでしょう?」
 福田さんが気の毒そうに尋く。
「人は公式記録を信頼する。どういうわけでそういう記録が出てしまったかは考慮しない。公式記録というのはそこまで恐ろしいものだ。だから、それに逆らって利口らしく振舞ったら軽蔑される。おふくろはそのことをよく知っていて、烈火のごとく怒ったんだ。馬鹿のまま生きていけばいいって。今回きっとふつう以上の知能は出ると思うけど、それは公式に記録されない。これからも事情は変わらない。要するに今回の検査も公的には意味がない。それでも検査されにいくのは、水野という男の学問に役立ちたいということと、たとえ非公式でもほぼ正確な自分の評価を知っておきたいということだけだ。結果は翌日彼が知らせてくる。ぼくを愛する人たちには意味のない結果だ」
 トシさんが、
「とんでもない知能が出ると思います」
 福田さんが、
「それでも、神無月さんは馬鹿のように振舞いつづけるんでしょうね。なぜって、そういうことと関係なく、神無月さんは自分のことを馬鹿だと思ってますから。どうしても許せないのは、その保健婦さんと、知能試験だと前もって知っていた耳敏い生徒たちです。寺田康男さんは憎めません。知能試験だと知らなくても、寺田さんにとってはふだんの試験より簡単だったでしょうから、一生懸命やるのはあたりまえです」
 なるほどそうだったのかもしれない。
 二人を誘って音楽部屋にいく。聞かなくなって久しいテープレコーダーを半濡れの布巾できれいに磨き上げた。なつかしいリールテープをかける。トシさんが、
「すごい量ですね」
「中二からだからね。カズちゃんに買ってもらったテープレコーダーだよ。まる六年、そろそろ壊れるころだ」
 福田さんが、
「音楽も、映画も、徹底してるんですね。いつの間にという感じ」
「野球の合間に音楽ばかり聴いてたからね」
「勉強も、読書もしてたんですよね」
「そうだね。合間にものをやるというのが、むかしからぼくのリズムだから」
「それにしても……」
「みんなそうやって生きてるもんだよ。ああ、この曲、なつかしいなあ、ビキニスタイルのお嬢さん。ブライアン・ハイランド。でもこういうテンポは苦手だ。歌えない」
 テープを止め、別のテープに入れ替える。
「ぼくが歌えるのは、こんなやつ。セピアンジー、アモーレ、イヨソノコンテ、ペルケー」
「ああ、だめです、ゾクゾクしちゃう」
 そう言ってトシさんが掃除に立つ。私はテープを流しっ放しにして、バットを振りに庭に出る。寒いけれど陽射しがいい。福田さんが蒲団を干し、トシさんが洗濯物を干す。高い青空。
「名古屋にいったら、今度この家に戻ってくるのは、五月の巨人戦かな。試合が終わったらタクシーで帰ってくる」
 トシさんが物干しから振り向いて、
「そんな時間はないんじゃないかしら。でも、こられるなら電話ください。私たちは一足先にここにきて、お食事用意してます」
「詩織もくるかも。あ、春シーズンの真っ最中か。山口もいちばん忙しい時期だ」
 福田さんが、
「そうですよ。ここに寄るのは、少なくとも山口さんが落ち着いてからじゃないと」
 お茶になる。
 玄関チャイムが鳴り、荷物が届いた。茶色い包装紙にくるまれたバット一本、久保田さんからだった。包みを開けると、短信が入っていた。

 前略。完成しました。ご返事待たずとも、これが神無月さんの理想の握り、重さ、バランスのバットだと確信しています。わずかでも違和感がございましたら電話でお知らせください。連絡のない場合は、このバットをキャンプ地に二十本、中日球場のロッカールームに五十本、名古屋の北村席に三十本お届けします。どうかこのバットでホームランを量産してください。
   敬愛する神無月さま                      久保田 拝


 握ってみた。満点だった。
「すばらしい……」
 庭で五回、十回振ってみる。インパクトの感触まで実感できる。
「最高だ!」
 二人がにこにこ見ている。
「準備万端、あとはキャンプ地に乗りこむだけだ。そういえば、睦子にしばらく逢ってないな。さびしく受験勉強してるはずだ。いまからいってくる」
 福田さんが、
「はい。睦子さん……やさしい人。お顔を思い出すだけで、胸がギュッとなります」
 トシさんが、
「思い立ったが吉日、早く逢いにいってあげて」
「うん。夜はカズちゃんところで東奥日報さんたちと食事会をして、ここに帰ってくるのは十時過ぎると思う」
「泊まっていらっしゃれば?」
「うん、翌朝のインタビューの時間までに帰ってくればいいわけだからね。場合によりけりだけど、たぶん泊まってくる」
 福田さんが、
「私はあしたの朝、ふだんどおりにきます」
 トシさんが、
「私もこれで帰ります」
「わかった。じゃ、いってくる」
         †
 睦子はジャージ姿で戸口まで迎えに出た。
「郷さん!」
 ひと声上げると抱きついてきた。ディープキス。
「カズちゃんちで、東奥日報の記者たちといっしょに夕食だ。睦子は勉強しててね」
「はい、もちろんそうします」
「じゃ、すぐするよ」
「うれしい、ものすごく溜まってました。もう濡れてきました」
 隣の部屋にいそいそと蒲団を敷く。敷布を手でのしている背中に抱きつく。ブラジャーをしていない胸を揉む。
「ああ、愛してます。名古屋にいく前に、ぜったい一度きてくれると思ってました」
 仰向けにしてジャージを引き下ろし、パンティの上に口を当てる。睦子は自分で上着を脱ぎ、豊かな乳房を曝け出す。見つめ合う。ほんとうに私を慈しむ眼だ。その眼の前で全裸になる。それに合わせて睦子はパンティを脱ぐ。股を割り、愛撫もなく、濡れそぼった膣に挿入する。口づけをする。いっさい動かないうちに睦子は一度気をやる。
「愛してます!」
 かわいらしい頬に口づけをする。
「この濡れ具合だと、危なそうだね」
「いいえ、あと二、三日で生理です。発情してるんです。フフ」
「思い切り出すよ」
「はい、私も思い切りイキます」
 動き出すと、休まずアクメが連続する。私は心地よく上昇し、するどく吐き出す。睦子も全身を硬直させて応える。結び合ったまま抱き締め合う。睦子との時間は不思議なほどゆるやかに流れる。
「これからはなかなか逢えなくなるよ」
「覚悟してます。自分の時間をしっかり作りあげないと、ただ神無月さんを恋しがるだけですごしてしまいます」
 睦子は、郷さんはセックスを三時のおやつみたいに考えてる、と古めかしい言い回しをした。
「食べる時間がないほど忙しいときは、食べないでいても少しもおかしくないの。おやつの私たちは、いつも食べられるのを楽しみに待ってるんです」
「主食じゃないということか。上手な表現だね」
「おやつが義務になると、生活がめちゃくちゃになります。おやつが自己主張してはいけないんです。結婚すると女はそうなります。子供を作るために無理やり求めたり……」
「女に子供ができると、ぼくにこだわらずに生きていく理由が見つかってよかったな、と思うけど」
「郷さんがいるとかえって幸せでないことって、たしかにあるんです。女が郷さん以外の何かを抱えている場合です。子供はその最たるもの。全力で郷さんのことを愛せなくなります。そうなると、もう郷さんから返ってくるものはありません。たいへんな不幸になります」
「ぼくは子供を産んだ女を棄てないし、子供がいても会いにいく」
「それは愛情じゃなく、義務感です。やがて一年、二年に一度、三年、四年に一度になっていくことは目に見えています。たしかに子供のいる女は不幸じゃありません。郷さんの残した愛らしい命が、すぐそばで息づいているから―。でも、そういう代償にもたれかかる幸福が、私にはさびしいんです。郷さんの身代わりはいません。だれよりも大事な人です。だから私は、子供は作りません。齢をとったら、どこかの高校か大学で古典の講義でもしながら、郷さんが年に一度でも逢いにきてくれるのを待ちます。それはちっともさびしいことじゃないんです」
 私は結び合いを解き、睦子の傍らに横たわった。睦子が私の手の甲に自分の手を重ねた。「私は郷さんのほかに関心はないんです。とにかく私は、郷さんと生きていきます。郷さんの人間関係もすべてひっくるめて。郷さんは私の人間的理想です。私は愚かな人間なので、もし郷さんに遇っていなかったら、ほかの男の人と家庭を作っていたかもしれませんし、子供を作っていたかもしれません。でも、そこへ郷さんが現れたら、その生活を捨てて郷さんの胸に身を投げていたでしょう。たとえ生活のしがらみから抜けられなくて、郷さんに飛びこまずにそのままの人生を送っていたとしても、現実生活の価値観で理想的な人間を批判することはぜったいしなかったと思います。幸いにもそうなる前に、私は理想の人に会えました。これからは郷さんと私の生涯を見届けることだけが仕事です。男は女とは愛情の質がちがいます。男は愛されながら、自分の好む目標に向けて独尊の道を歩まなければいけません」
 涙が流れてきた。私を理想にする睦子の〈幸福〉を思った。
「どうして泣くんですか? すばらしい人。自分がどれほどすごい人間かもわからずに、取るに足らない者のために泣いてくれる。郷さんは、それがまるで当然のことのように、何の下心もなく、他人の思惑の中に安住するんです。そう思いたいならそう思えばいいし、思いたくないなら思わなければいい、どう人が思おうと動じない、そういう自然な心持ちなんです。きっと口では言えないほどつらい経験をしたあとでそうなったんだと思いますけど、自己抑制の器の底が、かぎりなく深くなってしまったんです。どんな天才的な才能より、まさにその器こそ貴いものです」
 もう一度交わった。睦子は、愛してます、愛してますと悶えながら、何十回となく激しく気をやりつづけた。
 快楽が静まると、睦子はカズちゃんと同じくらい静かな会話の時間を連れてくる。
「知ったふうな口を利いて郷さんに立ち向かおうとする人は、みんな蟷螂の斧。和子さんや、山口さんのような態度がいちばん自然で、正しいと思います。キリストを裏切った人には世界ぐるみで復讐するくせに、郷さんには平気で逆らう。偉大なのは歴史上の人物だけだと思ってるからです。生きていると少し軽く見られるんです。いままでの話を聞くと、たいていの人がそうだった気がします。母は強しというのは神話でしょう。母は弱い。自分を守ってもらうために子供を作ります。自分を守るためにだけ子供の人生に口を出し、支配しようとします。そういう母親は論外として、郷さんが尊敬してきたお父さんも、結局は郷さんを苦しめた一人です。私はけっして郷さんを苦しめません」
「睦子といると、愛というものを言葉の形で実感できる。肉体に下駄を預けることは簡単だからつい……」
「からだは言葉より大切です。生きつづけてますから。抱いてもらうたびに、言葉にはできない愛を感じます」
 夢のような会話だ。
 たがいに服をつけ、机に向かう睦子に口づけをし、ふた月の別れを告げる。
「三月の下旬に、落ち着き場所を北村席に連絡します。愛してます。キャンプ、オープン戦とハードな日々がつづきますけど、無理してからだを壊さないようにしてください。ケガは注意していても起こることなので仕方ありません。ケガをしたらじっくり治してください。手紙は一生書きません。たとえ返事は要らないと書いても、どこかで期待してしまいますから。その気持ちは敏感な郷さんに伝わります。むだな時間を使わせることになります。手紙を出さなくていい距離にいつもいます」
 睦子は机を離れて、道まで送って出た。彼女の棲み家とそこに寄り添う睦子の形を目に焼きつける。


         百二十

 午後の三時を回った。最後の挨拶をするつもりでフジに寄る。馴染みの客たちに目で挨拶する。カズちゃんがコーヒーを持ってくる。
「ドラゴンズから一回目のお給料が振りこまれてたわ。これまでの貯金と合わせて、もう六百万近くになってるのよ」
「恐ろしいね。ホームランが打てなかったらどうしよう」
 富沢マスターが寄ってきて、
「神無月さんはそういう心配の仕方をするんだね。ヒットを打てればなんてことないんだから、ふつうはケガの心配をするでしょ。でも、それがホームランバッターの気持ちなんだろうな」
 カウンターから金城くんが、
「長嶋みたいに、四打席四三振も格好いいけどなあ。相手が広島だと、どうしても一本か二本出ますね」
「オープン戦はどうなってるの」
「三月一日から十四、五試合するようです。新人なので、二、三試合おきぐらいに出させてもらえるんじゃないでしょうか」
「毎試合出ないと、神無月さんを観にきた人に公平でなくなっちゃうな。でも毎試合となると、二軍より体力の消耗が激しくなっちゃうしね」
「はあ、ぼくは公式戦でたくさん使ってもらいたいです。記録が作れますから」
 浜中たちがやってきた。
「やあ、神無月さん、いらっしゃってたんですか。撮影が終わったら寄るようにって、和子さんに言われてましたものでね」
 若いウェイトレスが注文をとりにくる。
「ナポリタン。コーヒーは最初で」
「コーヒー」
「ミックスサンド」
「ミートソース」
 マスターが、
「お客さんの飛び入り取材なしで、撮影と録音オッケーですよ」
 恩田が、
「ありがとうございます。神無月さん、安田講堂の瓦礫を撮ってきました。あれは大学じゃないですね。戦場跡だ。三四郎池だけが静かでしたよ」
「はあ……」
 恩田がパチリパチリやりはじめる。丹生がビデオを回しながら、
「フジが撮れましたね。ラッキー」
 カズちゃんが、
「コーヒーを飲んだら、せっかくだからポートに素ちゃんも撮りにいってあげて」
「わかりました」
 シンちゃんもやってきて、みんなでがやがやコーヒーを飲む。いままで静かにしていた客たちが、サインを求めにやってきた。気分よくサインをする。シンちゃんが、
「中日ドラゴンズは明石キャンプだって?」
「はい」
 田代がデンスケを回しはじめる。
「紅白戦でケガすることが多いって言うから、気をつけてよ」
「はい、ご心配ありがとうございます」
 マスターが、
「紅白戦なんてのは出ても出なくてもいいんだけど、オープン戦はベテランが調整して若手がアピールする場だから、新人や二軍選手もなかば強制的に出されるんだよ」
「毎試合は勘弁してほしいと思ってます」
 シンちゃんが、
「キョウちゃんはアピールの必要がないもんな。ホームラン五本でも打っときゃいいんじゃないの」
「はい、そのくらいでしたら」
 ワッと拍手が湧いた。
「じゃ、こちらで試合があるときには、また顔を出します」
「五月だね。待ってるよ。あのスパイク、プロでも使ってくれる?」
「もちろん使わせていただきます。最高の履き心地ですから。基本的にはチーム一括支給のようですが、自由にメーカーを選択して履いてもよいということになってます。支給されたほうは練習に使います」
「そう、それじゃ、二月の末にカズちゃんに五足持たせるよ。二十七・五センチ一足、二十八センチ二足、二十八・五センチ二足。餞別だと思って受け取って」
「ありがとうございます。それだけあれば、三年がんばれます」
 マスターは目頭を指でこすりながら、
「あっという間だったね……」
 カズちゃんがもらい泣きして、
「だいじょうぶよ、マスター。キョウちゃんは忘れない人だから。東京に試合にきたら、しょっちゅう顔を出すわよ」
 客たちが拍手する。金城くんが、
「ぼく、四月が文学座の初舞台なんです。……通行人役で」
「科白はないの?」
「ここを通っていきましたよ、だけです」
 和やかな笑いが上がる。
「五年やって芽が出なければ、クニに帰ります」
 私は、
「演劇が好きなんだし、文学座に受かったんだから、もう芽は出てるでしょう。少なくとも十年、できれば一生やって、好きなことと腐れ縁にならなければ何も見えてきません。いつも帰るところを用意してちゃだめですよ」
「はい! がんばります」
 浜中がハンカチを出した。
 五人でポートに向かう。浜中が、
「好きなことと腐れ縁になる、は胸にきました。……十日後は名古屋ですか。そして、キャンプ」
「はあ、何気なく近づいてきました。この時期、ベテランと新人が顔合わせして合同練習なんかをしているはずですが、あえてツンボ桟敷でいるのはからだのためにいい。しわ寄せがきそうですけど、それもまた楽しみです。摩擦があったほうが生きてる感じがする」
「独特の考え方ですね」
 ポートのドアを入る。ママが思わず両手を上げ、
「あらあ、義理堅いのねェ。出発前に顔を出してくれたんだ。カメラまで引き連れて、うれしいじゃないの」
 素子が得意そうに、
「そういう人なんよ、キョウちゃんは」
「カズちゃんの命令だよ」
「お姉さんイコール、キョウちゃんでしょ」
 フラッシュが光る。何人かいた客たちがざわついた。肩を触ったり、握手したり、サインを求めたりする。窓際の大テーブルに陣取る。素子が、
「こちら、東奥日報さん」
 一人ひとり自己紹介する。ママが壁の額縁を指差し、
「これ、おたくの新聞が載せた高校時代の神無月さんよ」
 青森市営球場でホームランを打ったときの写真が飾ってある。恩田が、
「それ、私が望遠で撮りました。自信作です。ふつうボールがバットに当たる瞬間は、バッターは歯を食いしばって、目をカッと見開いてるものですが、やさしい表情をしてるでしょう? じつに美しい」
「ほんと。バックナンバーで取り寄せた中で、いちばんいい写真。浜中さんの書いた記事も飾ってありますよ。ほら、あっちの壁。あなたの言ったとおりになりましたね。彗星が戻ってきたわ」
 私の金釘のサインの横に、拡大した記事の額が掲げてあった。浜中は一瞬、涙ぐんだ。
「これからも渾身の力で書かせていただきます」
 素子が、
「この人たち、泣き上戸なんよ。すぐ泣いてまうの」
 そう言って、自分もまぶたを拭った。恩田が、
「素子さん、今夜はごちそうになります。最後の夜ですから撮りまくりますよ」
 田代が、
「デンスケも回しっぱなしにします」
 丹生がママに、
「神無月さんは、こういう店にきて息抜きするということはあまりないんでしょう」
「そうね。でも二、三度きてくれたわよ。一度きてくればじゅうぶん。目と心に焼きついちゃう」
 客の一人が、
「無口な雰囲気ではないんだが、重厚というか、静かで落ち着いた感じがする人なんだよね。神宮球場にも何度か観にいったけど、バッターボックスにせよ、レフトの守備位置にせよ、神無月さんのいる場所だけが凍りついたように静かなんだ。ゾッとするような魅力だね。そばにくるとこんなに温かい人なのに」
 浜中が、
「私も青森でよくそんなふうに感じました。鉱物質の輝きです」
 恩田が、
「実際、周囲の温度が変わってるんじゃないんですか? ファインダーを覗いているときもその冷気が伝わってきましたから。真夏でもね」
 別の客が、
「機械のように冷たいというんじゃなく、熱い血をクールダウンしたからだが青白く発光してる感じですよ。味方にも観客にも、けっしてミスを犯さないという安心感を与える輝きです。たぶん、敵にも信頼感があるんじゃないかな」
 丹生が、
「敵も信頼する、か。わかるなあ。神無月さんのバッターボックスを、敵も味方も身を乗り出して見つめてますからね」
 浜中が、
「どうなんでしょう、プロ野球界で神無月さんのような孤高のスターというのはもてはやされるものでしょうか」
 別の客が関西弁で、
「そりゃ、もう、たまらんわな。いっぺんで虜(とりこ)になるんやないか。報道する側がまずイカレるわ。どんどん支援する記事を書くんやないんですか? わしゃ阪神ファンやが、甲子園の阪神中日戦は三塁側で観ようと思っとる」
 素子が、
「そんなふうにうまくいけばええんやけど、ねえ、浜中さん」
「はあ、反感を抱いているマスコミ連中もまれにおりますが、しかし、総じていまお客さんのおっしゃったような具合になるとするなら、われわれも安心です。たしかに、法政戦のインタビューの際には、泣いていた報道陣が多かったようですからね」
 ママが、
「あれ、私も観たわ。半日涙が止まらなかった。つらい時期の神無月さんをかわいがった人たちの気持ちが、痛いほどわかって……」
 私は、
「つい先月、友人のアルバイト先が西松建設だとわかって、とうとうその恩人たちに会えました。感激でした。彼らもニュースでインタビューを観ていてくれました。泣いたそうです」
「願いが通じることってあるのねえ」
「お姉さんに聞いたんやけど、そのころキョウちゃんはどん底やったんよ。お母さんや所長さんにスカウトを追い返されて、まず絶望のどん底やろ、それが小学六年の秋。それから半年もせんと肘が使えなくなってますます絶望のどん底や」
 私は素子がしゃべるにまかせた。
「神経にカルシュームがくっつく病気やよ。切って閉じただけ。手術不可能やったんよ。そんな中で、二カ月もせんと右投げをマスターしたんよ。信じられんでしょ。そのときに力を貸してくれたんが飯場の人たちやが。毎日食べることも忘れてやで。一生かけても会いたい気持ち、わかるわ。野球でバンバン活躍しとる中三のときに、友だちの見舞いから帰ってくるのが遅いって責められて、不良扱いされて、島流し。友だちも、野球も、何もかも捨てさせられてまった。もうダメ押しのどん底や」
 浜中が、
「八カ月間、かなうかぎり一日も怠らず見舞いにかよいつづけたんですからね。十五歳の少年が……その異常さが恐ろしかったんでしょう。そしてついに追放です。その八カ月を起点にノンフィクションを書く構想をずっと貯えてきました。一年もしたら書きだすつもりです。プロ生活からフラッシュバックさせる形で」
 コーヒーが出てくる。ママが、
「ふつうなら、島流しの時点でサヨナラよね」
「はい。何よりも神無月さんが偉大なのは、突発的に野球や友人や親しんだ環境を理不尽に奪われたときも、それを奪った人間にふたたびわがままな追い討ちをかけられたときも、けっして自暴自棄に陥らなかったことです。泣きっ面に蜂の人生を歩まされたにも拘らず、討手(うって)の思惑に逆らわない生活を演じて見せ、ついに、ほとんど自力でもう一度すべてを取り戻したことです。これはもう荒唐無稽なフィクションと言っていいほどのもので、神無月さんの人生そのものがみごとな芸術作品になっています」
 浜中はコーヒーをすすって一息つき、 
「しかし、それは神無月郷という作品の骨組みにすぎないんです。彼はそれに百倍する複雑な人生を送ってきました。幼いころの悲しい経験や、討手の思惑どおりに演じて見せる日常の労苦や、困難な人生の途上で彼を救済し支援した大勢の人びと、そういったものがあまりにも複雑に入り組んでいるので、いまの私にはうまい具合に語れません。私にとって神無月郷は変幻自在に形を変えて動く芸術作品で、どう表現したらいいかわからないような、信じがたいほど貴い存在です」
 最初に発言した客が、
「なるほどね。なぜ神無月さんがバッターボックスで静かに青白く発光しているように見えるのか、ハッキリわかりましたよ。きっちりファンになっちゃったな。神無月さん〈ぜんぶ〉のファンになった。野球だけのファンでいるのは申しわけない気がする」
 素子が目をごしごしやりながら、
「あたしなんか、最初からぜんぶのファンやよ。アハハハ」



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