四十九

 カズちゃんが私の手を握り、
「私も、一生キョウちゃんを守るわ。ほんとに、一生。……お母さんを許してあげてね。お母さんの味方をしてるんじゃないのよ。この世には許してあげなければいけない人っているの。キョウちゃんを捨てたお父さんもそう。だれを許さなくてもいいから、親だけは許さなくちゃいけないのよ。……キョウちゃんは野球の才能には恵まれてるし、勉強もできるし、絵だって金賞だしするから、お母さんは怖いのよ。お父さんは、一級建築士で、博打の達人で、歌は作るし、女にはもてるし、それこそ男の中の男だったそうね。そのスーパーマンにキョウちゃんがだんだん似てくる。それがいやな感じなのね。何の事情もない親なら、大喜びするでしょう。お母さんだって心の底では、これほどすばらしい子はいないと思ってるにちがいないわ。でも、もろ手を挙げてキョウちゃんを褒めれば、お父さんのように増長した人生を送ってしまうと思いこんでるのよ。きっと、キョウちゃんが将来、お父さんとはちがって、傲慢じゃない、素直で元気いっぱいの男になって、自分の人生をもう一度生きがいのある場所にしてくれることを夢見てるのよ」
 私はカズちゃんの言うことを不思議な気持ちで聴いていた。母は私が傲慢な危うい人生を送りそうな〈いやな予感〉がして、スカウトを追い返したということになる。でもそのせいで私は致命傷を受けた。致命傷を与えて知らんぷりを決めている母親を、私は許してやるべきなんだろうか。私は母の得体の知れない疑心暗鬼といっしょに死ななくちゃいけないんだろうか。
「父ちゃんは、傲慢な人じゃないよ。横浜で一度会いにいったんだ」
 父は自惚れ屋にも、驕った人間にも見えなかった。父はきっと母の口でワル者にされているのだ。少なくとも母は、みんなにそう言い触らしている。母は父といっしょに暮らしているときも、そんなふうに父をワル者にしてきたのにちがいない。私は悪人にされてしまった父に深く同情してきた。母を騙し、痛めつけ、人生を奪ったと彼女に罵られてきた父のやるせない生活を思った。たぶん依怙地でない父は、そしてきっと母よりもいきあたりばったりだった父は、いまもどこか、この世の隅っこで苦しい生活に追われ、ときどきこっそりため息をついているだろう。
 カズちゃんはもっと手を強く握って、
「……許すなんて無理よね。じゃ、忘れるようにしてね。忘れられれば、恨むことはないもの。キョウちゃんはお母さんに似てないから、やっぱりお父さんに似てるということになるわ。キョウちゃんがお父さんのことを傲慢じゃないって言うのなら、お父さんはますますキョウちゃんにソックリな人だったんでしょう。キョウちゃんは傲慢じゃないから。きっと、お母さんのほうがお父さんに見限られたのね。もう何もかも忘れて、お父さんのように真っすぐ突き進んでね。私、一生守ってあげる」
 ふいに父に対してなつかしい連帯の気持ちが生まれ、何かが喉もとにこみ上げてくるのを感じた。保土ヶ谷へ訪ねていった一夜が思い出された。そのなつかしい思いは、胸にひとかけらの愛情を生んだ。
 ―ぼくはきっと、あの父に似ているのだ!
 もし母が私に意地悪をしたい気になるとするなら、夫への憎しみや、私の将来に対する不安が原因ではなくて、たぶんそういう私の愛情に嫉妬したせいにちがいない。
「父ちゃんに会いにいったのか。やさしい男だな、キョウは。きっと、父ちゃん、喜んだだろう。キョウと父ちゃんは気が合うに決まってるからな」
 これも誤解だった。私はもう何も言いたくなかった。信号が変わり、クマさんはフロントガラスを真剣に見つめながら、ハンドルを小刻みに動かした。私は彼と同じようにフロントガラスに向かってきちんと姿勢を正した。
「テレビ塔にいくの、久しぶりだ。名古屋にきたばかりのころ、英夫叔父さんの奥さんが連れてってくれた」
「そうか、俺は初めてだな」
 二年前、郁子や法子といっしょにミッちゃんに連れられて栄町へいき、テレビ塔に登った。従妹たちは景色も見ないで、名物の手相占いをしてもらっていた。私は手入れの悪いガラスの下の街並を眺めた。魅力のない景色だった。帰りに松坂屋に寄り、うろうろくっついて歩いた。柳橋の映画館で裕次郎の『紅の翼』を観た。もうそのころは、裕次郎に感激する気持ちはなくなっていたのに、観たいと言い出したのは私だった。どういう気分だったのか、たぶんそう言いたくなるほど退屈していたのだろう。
「テレビ塔なんかいかなくていいよ。何もないところだから」 
「じつは俺も、このあいだ房ちゃんといってきたんだ。いちおう名古屋の名所だからさ」
「私は地元の人間だから、見飽きてる。遠足で何度もきてるし」
 カズちゃんが言った。私はクマさんに、
「屋上の売店で、手相占いしてたでしょ。やった?」
「ああ、婆さんがいた。二人で診てもらったが、どんな相が出たか忘れちまった」
 クマさんは愉快そうに笑うと、煙草に火を点けた。百メートル道路に入ると、雲突くばかりの鉄の塔がそびえている。木々も色づいて、広い遊歩道に人びとの流れがところどころに日傘を浮かせて動いていた。遠くにエンゼル球場が見えた。
 松坂屋の館内は混雑していて、歩き回るのに苦労した。
「どこだ? キョウの絵が飾ってあるのは」
 案内図を眺めながら、クマさんは首をかしげた。小山田さんもカズちゃんもしきりにキョロキョロ店内を見回している。
「さあ、松坂屋って聞いただけだから」
 二度三度とエスカレーターを上り下りして、売場から売場へめぐり歩いた。四人とも特別な展示ルームのようなものを思い描いていた。
「ないなあ」
「尋いてみようよ」
「それじゃ、ありがた味がない。見つけようや」
 鼻の反り返ったマネキンたちが、高そうな服を着て見下ろしている。エスカレーターで最上階までいき、一階へ戻った。展示室はどこにもなかった。
「ちょっと一休みだ」
 やれやれといったふうにクマさんは、階段の踊り場に昇ってベンチに腰を下ろした。灰皿を引き寄せて、小山田さんと二人で煙草を吹かす。カズちゃんがどこからかソフトクリームを買ってきて、私に差し出した。野毛山の坂道のベンチを思い出して、ぼんやり舐め残したソフトクリームを、カズちゃんはペロリと食べてしまった。
「ん?」
 小山田さんが踊り場のクリーム色の壁に水彩画らしいものが何枚か掛かってっているのに気づいた。クマさんは立ち上がり、じっと見た。私も並んで見つめた。
「これじゃないか、キョウ」
「そうかも……」
「これだ、これだ。入選て書いてある。金賞銀賞はもっと上の階だな」
 四人で階段を上っていった。二階から三階の踊り場にたどりつくまでの脇壁に次々と入賞作品が展示されていた。
「よくできてるわねえ。よくできてるけど……」
 カズちゃんは首を振りながら、時折足を休めてはきれいな絵に眺め入った。クマさんが、
「うん、なんか、こう、すとんと満足するには何かもの足りない感じだな。ロマンチックすぎるし、牧歌的すぎるんだな」
 四階にはたった一枚の絵が掛かっていた。
「ほう! うまいもんだ」
 銀賞と銘打った厚紙の下に、横井博文・千年小学校と記されている。夕暮れの校庭を描いた美しい絵だった。小山田さんが顔を近づけ、
「夕照、か。小学生がつけられる題名じゃないな」
 青っぽい光を背景にして、高いところにある校舎の屋根は薄白く、低いところにある人気のない校庭と、イチイの生垣は黒いシルエットなっている。見覚えのある孤独な色彩だった。横井くんは、金色のクロッカスが咲く花壇や、校庭で騒ぎまわる生徒など描いたためしがない。桜の季節に名古屋城へ写生にいったときも、彼は暗い空(から)堀の上に架かる木造りの橋を丁寧に描いていた。
「さびしい絵。少し滅入るわね」
 ちっともさびしくない。才能とは、こういう深みがあって力強いものなのだ。みんなで私の絵を褒める心準備をしているのが透けて見える。
「これは銀賞だな。どこだ、金賞は」
 クマさんについてみんなで階段を上っていくと、
「おお、あった、あった!」
 最上階の踊り場に『雨上がりの土方』がガラスケースに納められて展示してあった。金賞と墨字で書いた大きな緑色のリボンがピンで留められている。その絵には、何か漠然とした、嘘くさい感じがただよっていた。
 カズちゃんが両手を胸の前で合わせて、
「この景色、よく知っているような気がするわ。ほかの絵とぜんぜんちがう。真に迫ってて、甘えたところがなくて、身の周りの生活を上手に切り取っているように思えるわ。野球だけが取り柄だなんて、とんでもない話ね」
 なんという不正だろう! 私は、さっき見た夕暮れの校庭の絵のほうがどれほど素晴らしかったか、写生大会のときの肌寒くなるような池の絵が、どんなにみんなをなぎ払っていたかを思い出して、しゃがみこみたいような気持ちになった。
「神無月郷、千年小学校六年。うーん、うまい! こりゃ、どう見ても、金賞だ」
 クマさんは大満悦の態で、恥ずかしい絵に見入った。
「変わった絵だなあ!」
 と小山田さん。
「こんなもの、なぜ選ばれたのかわからない」
 横井くんが銀賞なら、選外に落ちた絵の中にも、私のものよりすぐれた作品がたくさんあったにちがいない。
「いやいや、土方がたくましく描けてる。力あまって空に飛び上がった感じだし、この泥みたいな水たまりもリアルだしな。雨上がりの土方か。どこか現実離れしてて、おかしみもある」
 選ばれたものにはどんな理屈もつけられる。選ばれた以上は何かあると考えるのがふつうだから。―何もないことは私がいちばんよく知っている。
「描いてるうちに、足が開いちゃったから、でたらめに絵具を塗ったんだ」
 クマさんは絵から振り向き、一瞬、哀しそうな顔をした。
「……そういうことにしておこう。しかし、キョウは万能だな。マグレか何か知らんが、この絵はいま見てきた中で、いちばん特殊だぞ」
 呟くように言うと、やさしい目を向けた。私は、いつも見慣れた彼の柔らかな視線に、いままでになかった真剣さがこめられているのに気づいた。
「ほんとよ、キョウちゃん、お世辞を言ってるんじゃないのよ。吉冨さんがいたら、またドヤされるわよ」
「そうだ、俺だってこの絵を選ぶぞ」
 小山田さんがどぎまぎして、もう一度絵を念入りに眺めた。クマさんが私の肩に手を置いて見下ろし、
「キョウ、万能ってのは、たしかに能無しにはヨダレものだ。だけど、あんまり器用すぎるとロクなことにならないって、よく言うだろ。それだけが心配だな。天才がただの人になるなら、もとに戻るだけだから実害はないけど、せっかく天才のままでいさせてもらえるのに、本人がありがたがらないってのは、精神的にも害がありそうだ。どう見たってキョウはただの人じゃないぞ。ま、絵は置いとこう。少なくとも、野球は大天才だ。それだけは素直に喜べ。しかし、一本道の天才で通せないもんかなあ。おばさんも罪なことをしたもんだ。素直に喜ばせてくれないんだからな。キョウは、まっすぐ野球選手になるのがいちばん似合ってる」
 野球だけやっとればええ、という康男の声がクマさんの声に重なって聞こえてきた。
「うん、ほんとに自信があるのは、野球だけなんだ。勉強なんか、友だちに教えてもらってやっとできるようになっただけだし……」
「まあ、それも謙虚すぎると思うけどな。ただ、何でもできちゃうと、いちばんいい才能を軽く見られちゃうことになる」
 クマさんは気を取り直したふうに明るく笑うと、あらためて私の絵に見入った。
「でたらめにしてもよく描けてるなあ。なんか、〈ゴン〉とくるものがある。こりゃ、ゴッホも目を回すぞ」
「ゴッホ、て?」
「うん、俺もよく知らないんだが、有名な絵描きだ」
「なあんだ」
 カズちゃんと小山田さんが顔を見合わせて笑った。
「オランダの印象派の画家だ。ひまわり、ってのが有名だ」
「私は、アルルの跳ね橋が好き。星月夜とか二本の糸杉もいいわ。それこそ、キョウちゃんの野球と同じくらいの大天才ね」
 クマさんが意外そうに、
「詳しいな、カズちゃん。絵をやるのか」
「ふふ、ゴッホとセザンヌが好きなだけ」
「セザンヌって、リンゴとミカンばかり描いた画家か?」
「山とか、屋根もね」
「まあ、とにかくキョウはすごいよ。カックンとやって、チョイサッと一等賞になっちまうんだから」
「ほんと」
 私は自分の絵をあらためて眺めながら、クマさんだって《金賞》というレッテルが貼ってなかったら、こんな見どころのない絵に〈ゴン〉とこなかったんじゃないかなと思った。クマさんたちの細かい気遣いはそれからもしばらくつづいたけれど、横井くんに対する私の〈過失〉の重さを軽くすることはできなかった。


         五十

 帰り道、カズちゃんの案内で桜通りの日本料理屋に入って、金鯱(しゃち)御膳という豪華な弁当を食べた。これまで経験したことのないおいしさだった。
「おいしい? キョウちゃん」
「うん。こんなうまいごはん、食べたことない」
「よかった」
 クマさんが、
「亭主とは、いくつちがうんだい」
「四十だから、十三歳かな」
「かわいがってもらってんだろ」
「ご無沙汰、ご無沙汰。ゴロゴロしてるだけの退屈な男。いまごろは、テレビで日曜演芸会でも観てるんじゃないの」
 笑うと、並びのいい奥歯まで見えて、神秘的な感じがした。私がその引き上がった口角を見つめていると、カズちゃんは笑いを収め、
「キョウちゃんは、まだ十二歳なのね。……苦労が多いけど、長生きしてね」
 と、おかしなことを言った。目が潤んでいる。クマさんがキョトンとして、
「おいおい、キョウの影が薄いようなことを言うなよ」
「影が薄くなるようなことが多いから、心配で」
「……せいぜい俺たちで濃くしてやろうぜ」
 男二人でうなずいた。
「あら、もう三時。もうすぐ夕方の仕入れの時間だわ」
 四人で腰を上げる。小山田さんが、
「カズちゃんよ、この店、高いんじゃないのか」
「心配ご無用」
 彼女の知り合いの店だということで、弁当代もビール代も男たちに払わせなかった。
「カズちゃんて、ほんとは金持ちの娘じゃないの」
 小山田さんが言うと、
「高校時代に跳ねてたから、顔が広いだけよ」
 と答えた。
 クマさんのほろ酔いの〈安全運転〉で飯場まで帰った。
         †
 卒業が近づいてきた。二月。庭のトネリコの木が少し太くなった。地面にくまなく陽が当たっているのに、ときどき吹いてくる風のせいで、いつもより寒く感じる。このくらい寒いと、分団を先導するリサちゃんのズボン姿が不自然に映らない。仲間と話しながら歩く彼女の様子が心なしか明るい。もともと顔はふくよかで愛らしいので、あの残酷な傷さえなければもっと幸せな気分でいられるのにと思う。
「五月に手術を受けることに決まったんよ」
 正門のところでこっそり寄ってきて、小声で言った。
「よかったね」
 私も小声で応えた。
「中二の春には、スカートが穿けるかもしれんわ」
「パンツ覗かれるぞ」
「うん、神無月くんならいい。そうなったら、てる子のこと、好きになってね」
「いまも嫌いじゃないよ。言っただろ」
「嘘ばっかし。雅江さんが、神無月くんは女嫌いで、野球のことしか考えとらんて言っとったわ」
 クマさんの〈液〉のことを思い出し、私は横を向いた。
「……宮本さん、帰ってきた?」
「帰ってこん」
「そう」
「警察が何回かきとった」
「捕まらなきゃいいのにね」
「おとうさんも、そう言っとる。おかあさんは、やっぱりいつか捕まるだろうって」
 あの二人の娘は、どうしているだろう。色の白い奥さんは? どこか遠くで、みんなで隠れるように暮らしているんだろうか。
 春までの野球部の練習は、ベーランとキャッチボール、それにせいぜい五、六本のフリーバッティングだけで早々に切り上げる。部員たちは、
「スイスイスーダララッタ、スラスラスイスイスイー」
 なんて歌を唄いながら、適当にグランドを走り回っている。あとひと月もすれば、素振りと、外回りのランニングだけになる。最上級生はもう退部してもいいということになっていて、少し邪魔者扱いされているけれど、私はきっちり練習に出ている。みんなが引き揚げたあとも、日の暮れたグランドの隅で、腕立てを五十回、懸垂を二十回やる。ときどき、帰らないで待っている康男といっしょに門を出ることもある。このごろは東海橋まで送らずに、千年の交差点で手を振り合う。
 そんなある日、腕立てを終わって鉄棒へ向かおうとした背中へ、桑子の大声が飛んできた。
「おい、春に頼んだこと、忘れとらんだろな!」
「忘れましたァ」
 ニッコリ笑いながら答える。桑子は小走りに近づいてきて、
「とぼけるな。相撲だよ。熱田神宮の奉納相撲に出てくれって、四月に頼んだろう」
 先週のクラス選抜勝ち抜き大会で、私は〈運悪く〉優勝してしまった。その瞬間、しまったと思った。でも、それっきり桑子は奉納相撲の件をもちかけてこなかったので、その話は立ち消えになったんだろうと思っていた。
「佐々木くんが出ればいいのに」
 平畑の分団仲間の佐々木くんは、校内きっての相撲巧者だ。四年生、五年生と、クラス選抜で優勝している。
「結局、佐々木にも勝ったじゃないか。十一人勝ち抜いたんだぞ」
 勝ち抜いたといったって、たまたま運がよかっただけだ。あの成田くんから学んだ押しと引きの呼吸で、土俵ぎわまで押していってすくい投げを打ったら、おもしろいようにみんなコロコロ土俵に転がった。最後に佐々木くんと当たり、彼の引き技につけこんでうまい具合に押し出しで勝った。組み合ったときの感触で、まぐれだとわかった。
「あれはまぐれです。引かれなかったら負けてた」
「たしかに佐々木は強いことは強い。ただ背が小さいから、突かれたら、すぐ吹っ飛んじまう」 
「ぼくだって小さいです」
「体重がある」
 桑子は譲らない。
「じゃ、康男は? ぼくより、あいつのほうが強いです」
「いや、相撲はだめだな。寺田は喧嘩屋だ」
 たしかに康男は、相撲の授業では、なぜだか他愛なく負けてしまう。彼の細いからだが土俵に投げ飛ばされると、私は、チェッという気分になる。ほんとうの康男じゃないような気がするのだ。でも、やっぱり喧嘩となると、桑子も認めるとおり、とんでもない腕っこきになる。
 ついこのあいだも、日比野小学校の番長と名乗るガタイの大きな六年生が、子分を三人連れて正門で待ち伏せしていた。中に、あの少年がいた。春の公式戦で、私に足を引っかけて転ばしたやつだ。康男はちょうどそのとき、腕立てをしている私に声をかけて誘ったところだった。
「話(ナシ)つけたるわ」
 康男はそう言うと、千年公園へ一味を促していった。私はバックネット越しに彼らの様子を窺っていた。頼む、あの男をのしてくれと思った。子分三人が威勢のいい声をあげながら、前と後ろからまとめてかかってきた。康男の手がカマキリの斧のように、規則正しく、素早く動き、あっというまに前の二人を始末した。すぐさま足で後ろの一人の腹を蹴ってこれもたちまち地面に沈めた。あの少年だった。蹴りが浅いと思ったのか、すぐさま振り向いて顔面を蹴った。胸がスッとした。十秒も経っていない。とにかく相撲とぜんぜんちがう動きだった。きっと彼にとって、喧嘩は神聖な儀式のようなもので、だから敵のどんな攻撃にもあわてず、彼なりの手順どおり一息に処理してしまうことができるのだろう。日比野の番長は、しばらく康男と睨み合っていた。
「おまえ、中学はどこいくんや」
 間の抜けた質問だった。
「宮中に決まっとるが」
「俺もや。ほんなら、宮中で、どっちがバン張るか決着つけよまい」
 手下たちが起き上がり、顔を押さえながら、番長の背中についてとぼとぼ歩いていった。康男は薄いカバンを拾い上げ、私に向かって手を振った。
「土俵があるくせに、相撲部がない。どの小学校も奉納相撲では相撲部の部員を出してくる。だから勝たなくたっていいんだ」
 桑子の言っている意味がよくわからなかった。
「勝たなくていいなら、だれが出てもいいんじゃないですか」
「うーん、要するにだ、プロの力士が喜んでくれるようなウイウイしさが重要だ。おまえは白くてきれいだから、見栄えがいい」
 春の選挙以来、こんなふうに桑子は何かにつけて私を表舞台へ上げようとする。高橋弓子のようにヒイキしているわけではなく、引っ張り上げた舞台の上で、私がなんとか機転を利かせて予想外の成果を上げてほしいふうだ。康男がにやけた顔で言っていた。
「マスコットつもりなんだがや。かわいて仕方ないんやろ」
 先月も日曜練習の最中に職員室に呼びつけられ、区の交通週間討論会とやらに無理やりいかされた。
「井上の都合がつかんのよ。守随も鬼頭も、日曜は一日じゅう習いごとだ。こういうときは、ふだんお目こぼしを受けてるおまえが買って出るべきだろ」
 伝馬町の熱田警察署へ一人でいった。講堂みたいなところに集められ、大勢の小学生と丸テーブルに向き合いながら、話し合いを強いられた。私の苦手なディスカッションというやつだ。意外にもばらばらと手が上がり、愚にもつかない意見が順繰りに出た。発言者以外の生徒たちは、申し合わせたように行儀よく口をつぐんでいる。気持ちの悪い集団だった。
「オートバイが車のあいだを通り抜けるように走ったり、追い越して逆の車線に出たりするのは、危ないと思います」
「車がこなくても、信号を守ったほうがいいと思います」
 一人ひとり立ち上がって、くだらない思いつきを言うたびに、あちこちでフラッシュが焚かれた。私にも質問が回ってきた。
「あなたは、毎日の生活の中で、気づいたことはありませんか?」
 議長をしていたテレビレポーターに訊かれたとき、
「自転車に乗った蕎麦屋の出前持ちが、何段にも積んだソバを肩に担いで、車道を走っているのは危ない」
 と、前の発言者に合わせて、日ごろ思ってもいないことを適当に答えた。それが翌日の地方版に、区内の小学生の代表的な意見として載った。
「今後、危険な自転車走行は、鋭意取り締まっていくつもりです」
 という警察署長のコメントが添えてあった。でもテレビのニュースに映っていたのは私ではなく、目の細い女の子が、
「青信号で渡るときでも、左右をよく確認するべきだと思います」
 と得意げにしゃべっている場面だった。
「バカばかりでした」
 と、私は桑子に事後報告した。彼はニヤニヤしていた。
「とにかく頼んだぞ。まわしは俺が締めてやる」
 桑子は念を押した。
「やだなあ、まわしなんか」
「ほんものの相撲取りにぶつかるのに、トレパンではいけんやろ」
         †
 宮の杜の奥まった空地の一画に、一段高く土俵がしつらえられていた。二月の末の、めずらしく陽気のいい日だったけれど、前日にかなりの雨が降ったせいで、地面からしきりに陽炎が立っている。木陰で、生まれて初めてまわしを締めてもらった。桑子は一回り締めこむごとに、硬い生地にプッと水を吹きかけた。
「わざわざ買ってきたんだぞ。気持ちいいだろ。湿らせとけば外れん」
 ごわごわした白い厚布に締めつけられて、チンボが痛かった。パンパン、と桑子はまわしの表面を叩いた。
「腹ごしらえしとけ」
 冷たいサツマイモを差し出した。私はそれを一口齧って桑子に返した。しょうがないなあ、と言いながら、彼はそのサツマイモを背広のポケットにしまった。二十人ほどの豆力士たちが向き合うように土俵の裾に坐った。私よりもはるかに大柄で太った子供がほとんどだ。桑子の言ったように、みんな相撲部なのだろう。
 サガリをつけない白地のまわしをつけた本職の力士たちが、控えの建物から出てきて土俵に上がった。彼らはいい音でシコを踏んだり、何番か組み手を見せたりした。みんな見慣れない力士ばかりで、若乃花や朝潮はもちろん、いまをときめく大鵬や柏戸の姿もなく、褐色の弾丸房錦も、〈白い稲妻〉北の洋(なだ)も、抱え投げの陸奥嵐も、うっちゃりの明歩谷も彼らの中に混じっていなかった。テレビで観たことがあるのは、北葉山と青ノ里の二人だけだった。彼らは黒いまわしをしていた。
 二組に分かれて勝ち抜き戦が始まった。優勝者には大学ノート五冊とシャープペンシル、そのほかの参加者には鉛筆二本が与えられる。半パンを穿いた少年行司の呼び出しがかかる。たちまち、早送りのコマのように、目の前で何番か取り組みが消化されていった。中に私ぐらいの小兵がいて、ぴちぴちと跳ね回りながら大きな敵を送り出しで倒した。彼は勝ちつづけた。番が回ってきた。私は張り切って土俵に上がった。勝てるかもしれないと思ったのも束の間、前ミツを取られ、あっというまに引き落とされた。
「すみません」
「気にするな。余興だ。勝ち負けなんかどうでもいいんだ。……ひょっとしたらとは思ったんだがな」


         五十一

 優勝したのは、そのすばしこい少年を突き出したデブだった。大会委員の手で表彰が終わると、北葉山と青ノ里を筆頭に四、五人の白まわしが土俵に上がり、豆力士たちにぶつかり稽古をさせることになった。有志の者が何人か手を上げて土俵に上がり、私も桑子に背中を押されて彼らにつづいた。北葉山と青ノ里は、おどけたふうにチラチラと白まわしたちと目配せし合っていた。ぶつかり稽古のあとで彼らのやろうとしていることは、毎年のテレビニュースで見て知っていた。子供たちのまわしをつかんで、円陣を組んだ力士に順ぐり投げ渡していくのだ。
 北葉山は筋肉質の四角いからだつきで、低い額とあごの目立つ粗暴な顔立ちをしていた。彼は大鵬キラーとして有名だった。浅黒くて手足の長い青ノ里はからだ全体がすべすべしていて、顔は玉子のように丸く、目つきもやさしそうだった。彼はたえず照れたふうに微笑み、人慣れしない様子をしていた。私は恐そうな北葉山を避け、青ノ里に挑戦することにした。
「さっ、かかってきなさい。思いっきり押してごらん」
「ヤア!」
 と、かけ声を上げて私は頭からぶつかった。ゴムのように柔らかい青ノ里のお腹がへこみ、頭がニュッとめりこんだ。青ノ里は私に押されながら歯を食いしばったり、苦しそうに目を細めたりした。びくともしなかった彼のからだが少しずつ後退していく。
「おっ、いい押しだ、いい押しだ。こりゃ、負けそうだ」
 受け止め、じりじり後退していく物腰のすべてが、自然に感じられた。青ノ里の譲歩を知っている大人たちの笑い声の中で、押せば押すほど、大きなお腹は私を庇うように柔らかく凹んだ。
「とっとっとっと、押し出されちゃったァ。強いなあ。さ、もう一番」
 ふたたびドシンとぶつかった。
「うーん、これはすごい。とても勝てそうもない。悪い相手に当たっちゃったなあ」
 私はわれを忘れて青ノ里のお腹を押しつづけた。そして二度目の挑戦でも土俵の外へ押し出した。そのとき私は、大きな柔らかいお腹と対照的に、彼の両脚がスマートな筋肉でできあがっていることに気づいた。
 ぶつかり稽古が一段落すると、北葉山と青ノ里に代わって、白まわしの力士たちが土俵の上に輪になって並んだ。そして、あのすばしこい少年と私の二人を指名し、まわしの結び目を片手でつかんで、
「ほい」
「そりゃ」
「ほい」
「そりゃ」
 と順ぐりに隣の力士へ投げ渡していった。二周、三周―目がくらむようだった。私は力士たちに抛り投げられ、受け止められながら、アハハ、アハハと大声で笑った。桑子がうれしそうに眺めていた。プロの力士が喜ぶ、と彼が言ったのは、このことなのだとわかった。
       †
 底冷えのする校庭に人影はなく、門の外をときどき車のライトが通る。甘い香りが懸垂をしている鼻をくすぐる。眼を挙げると、鉄棒の上の梅がまばらな枝を伸ばしていた。枝のところどころに赤い蕾と、開きはじめた白い花がくっついている。梅の花に首を近づける格好でまた懸垂を始めた。
「八、九、十、十一……」
 この一カ月で二十回から三十回まで数字をのばした。中学に入ったら、五十回はいけるようにしなければならない。腕力がないとインパクトの瞬間にシボリがきかない。懸垂を終えて裏門へ向かいかけたとき、バックネットの陰から、神無月くーん、という声が聞こえた。振り向くと、大柄なシルエットがこちらを見ている。いつのまにあんなところに潜んでいたのだろう。大きなからだに似合わない短いスカートを穿いている。冬なのに脚をむき出したスカート姿がグロテスクに映る。
「だれ?」
 寄っていくと、知らない顔だった。胸にどっしり肉がついていて、中国人の辮髪みたいなポニーテールを垂らしている。
「ユニフォーム、似合っとるわァ。腕立てと懸垂、いつもまじめにやっとるね」
 背中のランドセルが小さく見える。ランドセルからセルロイドの定規が突き立っている。ポニーテールが辮髪のように見えたのは、髪が薄いからだとわかった。私に反応がないとわかると、作り笑いをした。じっと見つめている。
「好きなことは努力しないと。いつまでも好きでいられるように」
「ふうん」
 下の歯が一本欠けている。おばさん、という感じだ。
「なんの用。ぼく、家に帰ってバットを振らなくちゃいけないんだ」
 眉毛の薄い目を小ずるそうに光らせ、
「ちょっとぐらい、お話してもええでしょ」
「きみ、見たことないけど」
「ありがみちこ。五年生」
「五年生! 大きいなあ。何センチ?」
「百六十センチ。五年の女子で、いちばん大きいかも」
「全校の女子で一番大きいよ」
「そう言われると、なんか、イヤやわ」
「クラブやってるの」
「ソフト部。……神無月くんはいつも、ユニフォームの上に学生服着て歩いとるね。みんな笑っとるけど、あたしは好き。……もうすぐ卒業やね」
「うん」
「いっしょに卒業して中学校にいきたいんやけど、学年が下だでいけんわ」
「あたりまえだろ」
「宮中にはソフト部がないし、高蔵にいくしかないのかな。やっぱり、ソフトはもうええわ。神無月くんのこと好きやから、同じ中学へいこうっと」
 私はイライラと校門のほうを見た。
「私立にいったほうがいいよ。公立よりスポーツを徹底的にやるし」
「ソフトはもうええって言っとるやないの。神無月くんも、私立にいくん?」
「いかないよ!」
「あたしのこと、嫌いですか?」
 声が男みたいに太くなった。眼光がするどいくせに、人の気配はしないかと不安そうに振り返ったり、自動車のライトが生垣を横切ると、あわててそちらへ視線をやったりする。ぞっとした。
 ―こいつ、頭がへんだぞ。
「嫌いですか!」
 辮髪はバックネットに片手を突いて、じっとうなだれている。こんな台所のタワシみたいなやつ、好きなはずがない。でも、下手に刺激しないほうがいいと思った。走って逃げるのも一計だけれど、何だか意気地がないような気がして、
「からだが大きいとこだけは、好きかもしれない」
 と言った。カズちゃんのことを思い浮かべていた。
「嘘! 神無月くんは、高橋先輩みたいな人が好きなんでしょうが。色が白くて、目が大きくて。……あたしなんか、色は黒いし、お婆さん顔だし。でも、神無月くんが好きになってくれれば、お嫁さんになってあげてもいいな、って思っとる」
 ―お嫁さん? 高橋弓子が言ったんだな。
「おい、つけあがるなよ。なってあげてもいいだと? よりによっておまえみたいな変ちくりんな女を、だれがお嫁さんにするんだ。半殺しにするぞ」
ぐいと近づいた。辮髪は妙な笑いを浮かべながら後ずさった。私は門に向かって早足で歩きだした。
「神無月くーん、あたしのこと忘れないでね! ありがみちこ!」
 甲高い声があとを追ってきた。
 バットを振り終え、机に向かうころには、ようやく気分も落ちついてきて、いつものようにステレオのスイッチを入れた。渚のデイトをターンテーブルに載せる。潤んだ声が高らかに唄い上げる。ジャケットの英語を見ても意味がわからないので、耳に聞こえるとおり、カタカナで書き取る。

  アー ファローザボー ウェエバ ゼイゴー
  アー ファローザボー コズ インマイハーライノー……

 クマさんの言うとおり、声が泣いている。窓の外に、その泣き声と同じような、悲しげで、つやつやした夜が戻ってきた。つづけて、リッキー・ネルソンのティーンエイジ・アイドル。

  サムピーポー カミーヤ ティーネージ アイドー
  サムピーポー セイゼイ エンディーミー……

 もう一度庭に出て、五十本の素振りをする。
 ―〈半殺し〉はみっともなかったな。でも、どこかカッちゃんみたいにコワそうな感じの女だったし、脅しをかけていなかったら危なかったかもしれない。
 食卓にクマさんがいなくなってだいぶ経つ。なんだかつまらない。ときどき昼食をいっしょに食べることはあるけれども、クラブ活動のせいでなかなかうまくいき会わない。きょうは、めずらしく夕食をたべたクマさんが長っ尻になった。小山田さんや吉冨さんとニヤケ面で世間話をしている。吉冨さんが、
「このあいだ、道で嫁さんに会いましたよ。顔色悪かったですよ」
 クマさんは顔を赤らめ、
「種まいたら、さっそく芽が出てさ」
 と頭を掻いた。カズちゃんが、クスッと忍び笑いをした。
「来年の秋口ぐらいですか?」 
「だな、順調にいけば」
 母は流い場に背を向けたまま黙っている。
「キョウ、赤んぼ生まれたら、見にこいよ」
「うん。きょうは泊まっていくの?」
「そりゃ無理だ。房ちゃんが布団を敷いて待ってっから」
 小山田さんがクマさんの脇腹をつついて、
「かわいがりすぎて、せっかく出た芽をつむなよ」
「俺のモノはそんなにでっかくねえよ」
 小山田さんは天井を向いてガハハと笑った。
 私は、腰を上げそうになるクマさんにねだって、いっしょに風呂に入った。そして辮髪女の声真似をしながら、きょうのできごとをしゃべった。
「でもなあ、キョウ、女から声をかけるってのは、よっぽど珍しいことだぞ」
「でもいやだな、あんなやつ」
「ま、これからはそういう〈据え膳〉はなるべく素直にお受けして、あとは成り行きにまかせるんだな。だいたい、男より先に女のほうが飽きるから、七面倒くさいことにはならないもんだ」
「そういうの、スエゼンて言うの?」
「ああ。上げ膳、下げ膳、のスエゼンだ」
「でも、まずそうなスエゼンだったよ」
「ハハハ……、それじゃ、お引きとり願うしかないよなァ」
「お引きとりしてくれそうもないから、脅かして逃げてきちゃった」
 クマさんは腹の底から愉快そうに大声で笑った。

(第一部第五章千年小学校終了)


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六章 宮中学校へお進みください。