六十七 

 とつぜん、ヌーッと田宮コーチが顔を突き出し、
「荒川は人との協調は教えない。思いやりも教えない。個人的な求道精神だけだ。選手としては頭角を現せなかった人間だから、当然技能は教えられないし、自分のことだけで苦しんだ人間だから、思いやりや協調も教えられないわけだ。こうすれば個人的に向上するんじゃないかという理想論を個人に当てはめてみようとするだけだ。その情熱の強さがあいつを人格者に見せる。それも一種の才能だとは思うが、教えるのは別に野球のようなチームプレイの分野でなくてもかまわなくなる。相撲でも、ボクシングでも、ゴルフでもよくなる。言われたほうはたいてい有能な人間だから、合気道精神とか臍下(せいか)丹田とか、自分なりに解釈して、咀嚼して、ものにする。その先は荒川と関係がない。一流選手になった当人が荒川に終生感謝するという寸法だ。土台、榎本や王の振り方を荒川ができるわけないだろ。まあ、榎本が勝手に一流になったことで、荒川ももてはやされるようになったんだな。それで、王を教えてくれというオファーが川上さんからきた。個人的な開眼をさせてくれというわけでね」
 私は、
「打てないときは精神の見直しに戻ればいいというのは、とてもラクな気持ちのありようですね。精神よりも技能の欠陥を探らなければいけないのに。精神なんていうものは欠陥だらけのもので、どうやったって指導できないですよ。それを矯正すれば技能が改善されるなど一種の神秘主義です。自力で技能を改善し、それを喜んでくれる人と幸福感を共有する。それこそスポーツ選手の本来の姿です」
 田宮コーチは、
「精神なんて詐欺くさいものを金太郎さんには教えられないよ。精神鍛錬のまったく必要のない人間なんだからな。というより最初から精神の彼方にいて、他人の精神をおもしろがって見つめている人間だからね。プレーも個人的な技量をしっかり発揮した上で、結局チームのことしか考えていない。いや、客のことまで考えてる。スポーツに精神なんて要らないんじゃないかな。人を思うやさしささえあれば。金太郎さんはそれを教えてくれる」
 高木が、
「太田に倣って、神無月郷についていくか」
 江藤が、
「いまさらたい。ワシは遇った瞬間から金太郎さんの軍門に降(くだ)っとるぞ。理屈はわからんが、惚れたけんな。さ、フリーいくばい」
「一人目でいっていいですか。お客さんが待ちかねてるようなので」
 徳武が、
「おお、いけいけ。俺も待ちかねた。打ち終わったら帰って休め」
「いえ、守備につきます。休むわけにいかないんです。ファンはぼくのバッティングばかりじゃなく、守備も見にきてくれてるんです。たかが練習でも、球場にやってきたファンにとっては一生に一度の機会かも知れません。もしぼくがグランドにいなかったら、どう感じるでしょうか。彼らをがっかりさせないために、どんなときでも姿を見せ、最高のパフォーマンスを見せること。それが自分の使命だし、義務だと思います。特打になったら引き揚げます」
 中が、
「プロ野球を背負っているという自覚だね。新人と思えないな」
 グランドに戻り、ケージに入る。ピッチャーは小川、板東、小野。三球ずつ順繰り投げる。捕手は新宅。アンパイアもついた。スタンドから盛大な拍手が湧き上がる。
 一本一本、丁寧に打つ。外野へライナーを飛ばすよう心がける。ライナーよりも高いフライに歓声が沸く。九本中ホームラン四本。残りの五本もすべてフライだ。
 二人目にどこからか現れたフォックスが入る。彼は日本語がおぼつかないので、いつも半田コーチといっしょに行動する。水原監督やコーチ陣にあまり期待されているふうはない。まず練習にめったに姿を見せない。ふだんはサボって町なかをうろついたり、風呂で歌っていたりするという噂がある。たまに出てくる食堂では、みんなにコンちゃんと呼ばれてかわいがられているらしいが、私は見かけたことはない。
 木俣、一枝、江藤兄弟、伊藤竜、島谷、千原、菱川、太田と打つ。特打組の高木、徳武、中、葛城を除いたメンバーが九本交代で打っていく。全員張り切っている。九本打ち終わるとそれぞれ守備につく。フリーバッティングから守備につくのはめずらしいので、観客は大喜びだ。ゴロ、フライ、ライナー、みんなまじめに捕球しては、ゆるいボールでマウンド付近のトレーナーやコーチに投げ返す。ボールを踏むと大ごとになるので、外野に転がしておけない。散らばっているボールを拾ってスタッフへまとめて投げ返しておくのは、キャンプにきて以来私が率先してやっていることだ。みんなまねをするようになった。一つ改革をしたような気になる。
 四時から特打特守になったので、フリーバッティング組は引き揚げた。アンパイアは上がり組と居残り組に別れる。夕方の時分どきなので客たちもスタンドを去りはじめる。ホテルへ戻ろうとする木俣に、
「特打を見て帰ります。ピッチャーはだれですか」
「ええと、伊藤久と浜野だろう。めしは五時から七時だ。遅れんようにな」
「はい」
 特打組の四人と、特守組の江藤、太田、島谷がベンチでアンダーシャツを着替える。島谷が筋骨隆々なのに驚く。渡哲也にそっくりな風貌と似合わない。
「そのからだ、みごとですね」
 私が言うと、みんなでペチペチ叩く。
「四国電力時代に鍛えた。社会人ではセカンドだったけど、水原監督にサードへコンバートされた。おかげで太田と競争するハメになっちゃったよ」
「高木さんと競争するよりマシでしょう」
「まあね。水原監督は高松商業の先輩だから、何ごとも仰せのとおりです」
 太田は目を輝かせながら聴いている。島谷の余裕のある口ぶりに、一歩リードされた感じがするのだろう。太田が訊いた。
「中日に九位指名される前に、なんで三回も他球団のドラフトを拒否したんですか」
「指名の事前連絡がないんで、失礼だと思ったんだ。プロ野球というものに対してそのイメージが消えなかったんで、それからも二年連続で拒否した。そのうちに、なんだか社会人野球が物足りなくなってね。それで、何位でもいいやって気分で中日にきた。水原さんもいたしね」
 太田は首を振りながら、
「神無月さんみたいに中日を愛してたわけじゃないんですね」
 島谷はシラッとした顔で、
「愛なんて気持ち悪いこと言わないでよ。神無月くんは異常だよ。ふつう、巨人にいきたがるでしょ。神無月くんは巨人に居留守使ったんだぜ。ぼくには信じられないよ」
 私は島谷の隠れた一面を見たような気がした。太田はブスッと黙りこんだ。不機嫌のままに打った彼のボールが、浜野の防御ネットに激突した。
「てめえ、俺にケガさす気か!」
 この男も巨人恋しの人間だ。
「なんだとう! そんな気があるわけねえじゃねえか!」
 太田はこれまでの鬱憤晴らしのように、浜野よりも大声で怒鳴り返した。浜野はにやつきながら、はぐらかすように次の投球にかかった。太田は二本連続でレフトスタンドに放りこんだ。
「さすが、ど真ん中は打つな」
「ど真ん中じゃねえ。甘い内角高めだ。失投だよ」
「おまえに失投が見抜けるのか、二軍上がりが」
 半田コーチが飛んできて、
「だめよ、ケンカ、だめ。それに太田と島谷は特守じゃないの。なんで二人並んで打ってるのよ」
 島谷が、
「特打の徳武さんも中さんも、なかなかケージに入らないんで」
 葛城が、
「そう言えば、徳さん、きょういないね」
 太田が浜野にぶつけた怒りの原因は、島谷に苛立ったことはもちろんのこととして、私に対する入団式のときの態度を思い出したこともあるにちがいなかった。なんだかありがたくて、私は太田に、
「太田、ありがとう」
 と言った。え? という顔で振り向いた彼は、照れくさそうに笑った。そして黙々と次の打撃にとりかかった。特打を申しつけられている高木も葛城も笑っている。半田コーチもホッとした表情で、腕組みしてケージの背後に立った。田宮コーチが、
「犬と猿だな。しかし、この二人はダイナマイトコンビになるぞ。いずれ金太郎さんの両腕だな。しかし、まず出世するのは島谷だろう」
「まずというのは、どういう評価ですか」
 島谷がケージから振り向いて不満そうな顔をする。
「ソツなくレギュラーを獲るということさ。二割七、八分、二十本塁打。チームの中心選手になる」
「太田はその上ですか」
「上とか下とかいうことじゃない。出世は遅れるが、いずれ三十本は打つだろう。根気よくおまえの控えで使うさ。さ、気を散らさずに打て」
 渋い顔で、ふんわり投げる小川からするどい打球を飛ばしはじめる。身長は太田と寸分たがわず同じ、少しスマートさに欠けるせいで重量感がある。打球も重そうだ。即戦力ということを考えると、水原監督やコーチ陣は、長打力はあるが荒っぽい太田よりも、アベレージヒッターの島谷のほうに軍配を上げそうだ。私は田宮コーチに訊いた。
「最高打率というのは、どの程度のものですか」
「上からいくと、日本は昭和二十六年、大下の三割八分三厘、同年川上の三割七部七厘、昭和三十七年ブルームの三割七分四厘、昭和三十九年広瀬の三割六部六厘―」
「つまり、四割打者がいないわけですね」
「うん、メジャーリーグにはいるよ。千八百年代後半から千九百年代前半にかけて、四割四分を筆頭に延べ二十何人かいる」
 ケージから出てきた太田が、
「二十四人です。そのうちカージナルスのホーンスビーが三回、タイガースのタイ・カッブが三回、フィリーズのデラハンティが三回、ブラウンズのシスラーとスパイダーズのバーケットが二回ずつ記録してます」
「そんなに……。でも、四割五分の打者は世界にいないわけか」
 田宮コーチが、
「いない」
「目標ができました」
「金太郎さんはプロ野球史上初の五割打者になれそうだな。六大学の打率が七割越えだものね。紅白戦と南海戦を足すと九割近い。それが予行演習としても、五割は打てそうだ」
「難関は打点です」
「そうだな、ランナーがいるいないは、自力ではいかんともしがたいからね」
 太田が、
「日本記録は小鶴誠の百六十一、世界記録はウィルソンの百九十一。二百打点叩き出した選手はいません。ホームラン記録は知ってますよね」
「うん。王の五十五本、マリスの六十一本。ぼくの目標は、マスコミに八十本と見得を切ったけど、二試合に一本打てれば百三十試合で六十五本なので、連続打席で打てることもあると考えて、八十本はなんとかいけると思う」
 田宮コーチが、
「もっといくんじゃないの。大学時代に春秋二十試合で五十本打ったわけだからね。百三十試合で三百二十五本、プロのピッチャーの力量とか、細かく研究されることや敬遠に近い投球をされることを計算に入れても、大学時代の六割減と踏んで、百三十本。そこまでいかないにしても、とにかく前人未到の記録になるよ。おそらく二、三百年は破られないと思うぞ」
「ケガをしないことが大前提です。あとは一年を乗り切る体力作り。一年間休まずにコンスタントに作っていかなければいけないと思います」
「いい心がけだ。とにかく走ることだね。走るのがいちばんだ」
 特守は見ものだった。ノッカーに水原監督が出てきた。太田の守備は宮中時代の堅実さにますます磨きがかかり、捕球から送球まで連動する動作が力強くまとまっていた。高木のような美しさはまだ出てこないけれども、ボールが低く一直線に江藤のファーストミットに突き刺さるのが爽快だ。私はしきりに拍手した。
 島谷は多少鈍重だが、腰を落として捕球すると、オーバースローでコントロールのいい送球をする。太田とちがってベースぎわの捕り損ないもなく、あらゆる打球を慎重に処理する。江藤は島谷から一球だけきたショートバウンドの送球をポロリとやった。
「慎ちゃん、へたくそォ!」
 森下コーチのするどい声。江藤は去年までレフトを守っていた。彼の守備位置を奪った罪悪感に苛まれる。途中から、送球なしの内野ノックに切り替わった。返球はただ地面に転がすだけ。外野手はすべて内野を抜けて転がってきたボールを拾う役に回った。江藤や太田や島谷はもちろん、さすがの高木や一枝もへたばった。外野手でよかったとつくづく思った。
 五分ほど休み、最後は江藤だけの特守になった。外野手はライトに回った。
「さあこい、さあこい!」
 江藤は呼吸を乱して叫びながら、右に左に百本ものノックを受けた。地面に両手をついてゼーゼーやる三十男の背中に私は、がんばれ江藤さん! と声を投げた。


         六十八

 喜春で肉・天ぷら御膳を食ったあと、部屋に戻り、太田とあしたの予定などを話し合っていると、山口から電話が入った。ラビエンで林と飲んでいると言う。
「上野詩織もここにいるよ。もう涙ぐんでやがる。胸がいっぱいで、いま電話に出れないってよ。来週中に一人で電話するとさ」
 ごしょごしょ詩織の声がする。
「毎日、新聞やテレビはおまえのことで持ちきりだ。消息をメディアが知らせてくれるからラクだよ。こっちは相変わらずだ。消息と言えるほどのものもない」
「ギター一筋だね」
「そう。グリーンハウスとラビエンを辞めてから、さびしく一筋。五月の国内コンクールの結果は、おまえが遠征にきたときに知らせる。法子さんの酔族館、繁盛してるぜ。それもよろしくって言われた」
 よしのりに替わる。
「よ、有名人。バット一本でついに天下取りやがったな。しかし、おまえの本領は文学だからな。いつも心の片隅に置いとけよ。新宿のフーテンが家に帰りたがらないのは、寺山修司のせいだな。あいつが、書を捨て街へ出よう、なんてほざくから、もともと捨てる書もないやつまでが、のこのこ街に出てくるんだ。出てきたのはいいが、街で何していいのかわからないし、やることも思いつかない。そこで仕方なくシンナー吸ってるんだな。寺山なんて本の虫だろ。無責任なことを言ったもんだ」
 何の話かさっぱりわからない。いつか山口から寺山修司が青高の先輩だと教えられたきりで、彼の作品を読んだことはない。
「長髪、ラッパズボン、フォークギター、ジーパン、サイケデリックか。いまどきのフーテンは、少し政治性のあるヒッピーとかイッピーなんて集団とは、またちょっとちがうんだな。自分がかわいくて仕方がない。そのかわいい自分をどうにかして目立たせたいわけなんだけど、脳味噌腐ってるから何も考えつかなくて、みんながやる〈悪そうな〉ことをやってるわけだ。空しくて悲しいバカヤロウたちだ。神無月のような濃厚で原初的な悲しさじゃない。自分の身辺事情を苦しむことだけで、うろうろして終わりっていう悲しさだな。ジャニスやジミヘンみたいな天才も、そういうミーハー性は残してる。ミーハー性がないと大衆は振り向かないって肌で知ってる。大衆が振り向かないと、歴史には残らない。日本の芸能人なんか天才でないただのミーハーなんだけど、大衆が振り向くから歴史には残る。おまえはミーハーじゃないのに歴史に残る」
 なつかしい語調だ。
「ありがとう」
 と思わず言った。
「何がありがとうだ。ありがたいのはこっちだよ。島流しの少年が天下取ったんだからな。うれしくて泣けるぜ」
 林が替わる。
「林だ。むちゃくちゃ久しぶりだな。会いたくて死にそうだよ。歌声が聴きたい。横山さんの話のつづきだけど、脳味噌腐ってない人間には三とおりあるんだな。本物だけに振り向かれる天才と、馬鹿も少数派も振り向く世界レベルのミーハーと、馬鹿だけが振り向く芸能人レベルのミーハー。そしてその三つとも歴史に残るというわけ。結局、脳味噌腐ってるミーハーだけが、ただ生きて、死んでいくんだね」
「ありがとう」
 意味不明のまま礼を言う。窓に激しく雨が降りかかった。太田と目で合図し合う。あしたの練習は中止だなという合図だ。
「へ、神無月がありがとうって言ってるよ。だめだ、涙出てきちゃった」
 よしのりが電話を奪い、
「そ、林(リン)ちゃん正解。いずれにしてもミーハーでないと、有名にはなる可能性はかぎりなく低い。だからおまえはその意味で派手に有名になれないが、魂の歴史にはひっそり残る」
 山口が替わって、
「こればっかしだ。野球史には派手に残るんだよ」
「詩織は丸眼鏡かけてる?」
 山口に訊くと、
「おう、かけてる。どうしてわかるんだ」
「それが貞操帯だからだよ」
 ごしょごしょ話す。そうよ! と詩織の声が上がった。
「上野がグリーンハウスまでやってきて、どうしてもおまえに電話してくれって林に言ったらしいんだ。それで、林と阿佐ヶ谷で待ち合わせてラビエンにきた」
 林に替わり、
「きのうからカントリーの外人バンドが入っててさ、じつは三番ステージからはやつらの出番なんだ。だからきょうも上がれたわけ。そいつらに誘われて、俺、休学して、一年ほどアメリカに歌の修行に出ることにしたよ。五月に出発だ。おまえの巨人戦をみんなと見てからな」
「帰国したら、プロか」
「いや、楽しく歌って帰ってくるだけ」
「あくまでも、博報堂か」
「イエッサー。じつは英語の力をつけるのが目的だ。ぺらぺらになって帰ってくるぜ。博報堂でも大出世だな」
 詩織に替わった。
「私、わかったの。どうしてもきょう電話したいなって思ったのは、そのせい。言っちゃうわ。神無月くんは生まれっぱなし。軌道(レール)なし。神無月くんには何もないけど、すべてある。こちらが欲を出して求めると報いてくれないし、求めないとかえってぜんぶ満たしてくれる。人間て、だれでも謎だらけの胡散くさい生きものだから、みんないろんなやり方でその胡散くささを消そうとしてる。だけど、神無月くんは人生に何の方針も持ってないから、素直に自分は胡散くさいって宣言して、胡散くさいまま生きてるのよね。それって私たちの基準からしたら、狂ってるってことよ」
 酔っているようだ。詩織の言葉に林が反応して電話を替わり、
「山ちゃんが、神無月のことをいつもダイアって言うんだけど、その欠けらが目に刺さって泣けるんだな。神無月がどんな生き方してきたのか知らないけど、いや、生き方なんてなかったのかもしれないけど、俺たちが三十年、四十年、ひょっとしたら一生かかってもわからないことを、生まれつき〈わかってた〉んじゃないの。こうしてるときも、神無月は俺たちを量ってる。人間としての愛情の深さをね。それだけが神無月の関心事だから。量られるとホッとする。神無月といると俺は、少なくとも気取らずに、量られたままやさしい人間になれる」
 よしのりの声が聞こえる。
「サンキュー、サンキュー、神無月は愛され慣れてるから、きっと面倒くさそうに聴いてるんだろうけど、ちゃんと感動してるからね。神無月に代わって礼を言う。サンキュー」
 私は大上段な文芸芝居を聴いているようで、半ば呆れ、半ば胸を打たれて、どう会話に参加したものか戸惑った。林が私の耳に言った。
「ハタから見たら、神無月はほとんど神さま扱いされてるように見えるけど、そういうのどう思ってるの。イヤじゃない?」
「何も思わないことにした。白痴は愛されやすいってわかってからだいぶ経つ」
「ムイシュキン公爵か」
「ぼくは天才的な白痴だ。ぼくに愛を感じるのは大いなる誤解に基づいてるけど、その誤解がうれしい。病みつきになる」
 林は大声を上げて笑った。林が私の言葉を伝えると、その場にいる全員がけたたましく笑った。最後に山口に替わり、
「じゃ、五月の遠征のときにな。こっちにいる女性たちのことは心配するな。彼女たちに目配りするのも俺の仕事だからな。……おトキさんに会ったらよろしく」
「彼女はおまえのこと以外考えてないよ。安心しろ」
「サンキュー。じゃな。五月に」
 野球は観にいかないぞ、とよしのりの声。ほんとに愛してます、と詩織の声。五月には歌ってくれ、おまえの声を聴かないと旅立てない、と林の声。電話が切れた。
 私は、人生のある時期から、たぶんカズちゃんに愛されるようになったころから、周囲の人びとに宮沢賢治の小説に出てくる〈虔十〉のように思われている気がしていた。純真な虔十、ものを知らない虔十、頭の回らない虔十、無意識に善をなす虔十。しかし私のからだは、たぶん虔十が終生懸けても獲得できないような不純な雑念と〈知恵〉ででき上がっている。それは無垢で無私の虔十が思い当たりもしない、人間の精神と肉体の幸福にまつわる暗い秘密だ。
「楽しそうでしたね」
「楽しそうだった?」
「……楽しそうというのとはちょっとちがいましたけど、神無月さんの誠実な人付き合いが滲み出てました。まじめで大きい宇宙という感じでした」
「命懸けでしゃべるやつばかりなんだ。まじめでないと対応できない」
 太田は窓を見つめ、
「……あしたはまちがいなく練習中止です。あさってからは雨の晴れ間にボチボチですね。一日寝てようっと」
「あのノックは応えただろう」
「はあ、特守はきついです。買って出たいとは思いません。あしたは一枝さんと高木さんと葛城さんの番だったんですが、この雨で順延ですね」
「なんで外野は特守がないんだろう」
「一本一本のノックに時間がかかるからですよ。それに外野まで連続で打つのは、ノッカーもきつい」
「ノックする側の事情か。内野手も気の毒だな。キャンプは死ぬほど苦しいという触れこみだったけど、外野手にはなんてことないね」
「神無月さんの体力が尋常じゃないからですよ。内野も外野もみんなバテバテです。俺思うんですけどね、神無月さんはあっちの精力も並じゃないですよね。猛練習のあとも、何気なく女を抱ける。野球の練習というのは、サラリーマンの会社勤めとは比較にならない運動量ですよ。そのサラリーマンだって、ほとんど、疲れた、寝る、でしょ。どうなってるんですか」
「よくわからないけど、愛しいと思うと、どんなに疲れてても勃っちゃうんだよ」
「尊敬します。それも一人じゃない。何人もですからね」
「人数が多いだけで、頻度はふつうの人以下だよ」
「……そうしときましょう」
 私はベッドにゴロリと横たわり、
「いつか話に出た柴田の手袋のことだけど、バッティングのときにはめてるのは、東映の張本だけだね」
「ですね、右手だけにはめてます。彼は子供のころに右手に大ヤケドして、薬指と小指がくっついちゃってるんです。おまけに親指も曲がってゆがんでます。ああしないと手にまとまりがつかないんですよ」
「……偉人だな。それであんなすごいバッティングができるなんて」
「俺もそう思います。手がまとまるってどういうことかなあと思って、俺も高校時代にバックスキンの手袋をしてみたことがあったんです。素手の感覚が狂って、指が太くなってギュッと握るもんだから、グリップが硬く、リストをうまく使えない。張本さんは大したもんです。そう言えば、神無月さん、足速かったですねえ! ホームランを打ったときの二倍のスピードがありました。ホームランのときって全力疾走じゃなかったんですね。二塁打を打って、ベースのあたりをうろちょろされたら、ショートは気を使いますよ。ベースカバーを意識すると次打者のヒットゾーンが広くなるし、足の速い選手はとにかくいやなものなんです」
 私は真剣な顔で、
「どうも、スタメンは島谷に分があると思わないか」
「わかってます。公平な目で見て、強打者よりも巧打者。アベレージヒッターは重宝がられます。心配しないでください。いずれアベレージも高い強打者になりますから」
「ベンチスタートのときは暇になるんだろう?」
「はい。素振りでもするふりをして抜け出します」
「どこへ?」
「バックネット裏のスコアラー席にいって、配球の研究でもしてます」
「ヒッティングカウントってよく聞くけど、ワンツー、ワンスリー、ワンワン、ノーツーのこと?」
「はい」
「意味がないね。ぼくは、フォアボール以外はすべてバッティングカウントだから。当然ノースリーも」
「わかってます。だから、神無月さんがヒッティングカウントになったからといって、ストライクゾーンから外へストンと落とす球を投げても、ボールであるかぎり手を出してくれないわけですよ。ふつうのバッターは、たとえワンバウンドでも、十人中十人が手を出します」
「状況で考えるんじゃなく、いつもボールそのものを見切らないとね」
「仰せのとおりです。コースを決めての素振りは、あれ以来実行してます。きょうも二本ラクにホームランを打てました」
「その意気だよ。将来の中日をしっかり背負ってね」
「なんすか、それ」
「いっしょに背負おうということさ」
「はい!」
 交代でシャワーを浴び、早い時間に床に就く。窓の明かりを見ても、床頭の埋めこみ時計を見ても、天井に埋まった警報装置を見ても、何も思わない。いま、ここにいる意味をまったく思わない。ものを思わず寝るという夜がもう何日もつづいている。明石にきて以来、いのちの記録を一度も開いていない。カズちゃんが恋しい。カズちゃんがそばにいれば何かの想いが回復するはずだ。あと五日間の辛抱だ。


         六十九

 二月二十日木曜日。七時半起床。小雨。六・七度。相変わらず寒いと感じる。午前のグランドの練習中止。一軍、二軍ともにピッチャー陣は屋内練習場で投げこみだという。ユニフォームを着て見学にいく。
「俺もいきます」
 太田もユニフォームを着る。
「練習している選手にジャージは失礼だからね」
 ホテルの玄関でスリッパからスパイクに履き替える。運動靴は雨を吸うので履かない。スリッパをボーイに預ける。太田はふだんどおり運動靴を履き、スパイクをぶら提げている。ホテルの傘を差して、街路の梅を見ながら歩く。ちらほらだが、紅梅、白梅の両方が公園の生垣沿いに咲いている。大気が冷えびえとしている。濡れたアスファルトに響くスパイクの音がなつかしい。なつかしくて、恐ろしい。
「左肘をやられて帰ったときも、こんなふうにスパイクの音がしてた。思い出すと怖くなる。野球だけが命だったころだから」
「いまは?」
「野球以外に命を分配できるものがたくさんできた。一つでも失えば、連動して一巻の終わり。一つでも蝕まれれば、ぼくもじわじわ死んでいく」
 太田はじっと私の横顔を見ながら歩く。野球の話をする。
「プロって、大学野球とちがって、バッティングマシーンを置かないんだね」
「この球場に置いてないだけです。ホーム球場には全球団が備えてます。でも俺は、死んだ球より生きた球を打つほうがいいなあ」
「マシーンのボールは死んでる……ということ?」
「そう思います。ストレートマシーン、変化球マシーン、どちらもボールは一定のコースとスピードででしか飛んできません」
「見切りと、タメの練習にはなるね」
「ですね。この球場には、バッティングの室内練習場ががないから、トスバッティングもできません。きょうはピッチングの見学だけですね」
「そのつもりで出てきた。このあいだバットを持って打席に立たせてもらったけど、プロのベテランピッチャーの球はつくづくすごいと感じた。伸びとキレ。高校や大学とはぜんぜんちがう」
「浜野なんか打ちやすいですもんね」
「正直、打ちやすい。たぶん、投げこみの量のちがいだと思う。そういう意味では、ぼくのバッティングもまだまだだという気がする。大口叩いちゃったけど、勝負は来年かな」
「ピッチングもバッティングも、もともとプロ以上の人間はいると思いますよ。そういう人ですよ、神無月さんは。きのう電話がきたのは、東大の人ですか」
「四人のうち三人はね」
「東大か。二軍の練習で、井手さんとも口を利きましたけど、まともに相手にされなくて……。電話の様子じゃ、そういう感じじゃなかったなあ」
「東大出身者というのは、どの世界にいってもつまらない連中が多くてね。人間的に下卑てる。でも、それも個人差があって、ぼくを育ててくれた二つの飯場では、どちらも東大出の所長が頭目だったけど、片やゲス、片や高貴な人間だった。きのうの電話の三人も上質な人間だ。飯場だろうと、東大だろうと、プロ野球だろうと、俗な人間もいれば立派な人間もいる。ただ、一つ秀でたものがないと、通俗に流れてしまうんだけどね。一道に長けた人間は俗にならない」
「一道というのは、何かができるということですか」
「もちろんそれが第一だけど、その一道を情熱的に継続することに加えて、情熱のもとになってる人間的な素養だね。たとえば、楽しみながらたゆまず努力するとか、愛する者に献身的だとか、見知らぬ者にもやさしいとか、動物に情が深いとか。そういう人はたいていがんらい才能がある。才能は豊かな心にくっついてるオマケだ」
「……ドラゴンズのほとんどの人も才能があることはわかってるんですけど、レギュラー陣以外は、やさしいとか、情が深いとか、心が豊かとは思えないんですよ。信用できないと言うほど強い気持ちがあるわけじゃないんですが、うまく付き合えません」
「うん、じつにアッサリしたもんだよね。とても淡々としてる。いっしょに飲みにいくこともないし、そういう会合も開かない。向こうから絡んでくることはまずないし、こっちから話しかけることもない。彼ら自身気づいていないと思うけど、プロ野球選手として猛烈な挫折感があるんだよ。だから希望を持って練習できないし、心を開いて同僚と接するということもできない。それでもほんとに才能のある人なら心も豊かなはずだよ。レギュラーの人たちとか、監督、コーチたちとか一家をなした人たちならあたりまえだけど、二軍からだっていつか何人か出てくるはずだ。いずれそういう人たちといい付き合いができると思う。そうだ、太田に聞きたいことがあったんだ。プロのベンチ入りって何人できるの? 高校時代や大学時代には意識したこともなかった」
 太田はやさしい顔で笑って、
「二十五人です。登録人数は二十八人ですけど、その日のローテーションから外れたピッチャーを三人入れないので、二十五人がベンチ入りです。その三人のことをアガリと言います。三日前までに先発していたピッチャーがそうなります。もちろん連投を命じられることもあるんですけどね。大学野球も同じはずですよ」
「第一回ドラフト以降、いまのプロ球界で、ドラフト外で活躍してる選手は?」
「すぐ思いつくのは、西鉄のセカンド基さん。これからは神無月さんはじめ、もっともっと出てくると思います」
「ほんとによく知ってるね! ぼくの友人たちもいろいろと博識だけど、太田の野球の知識の豊富さはそれ以上だ。舌を巻く」
「神無月さん、俺たち野球選手ですよ。神無月さんがへんなんですよ」
「たしかにね。反省!」
「その気もないくせに」
 二人で声を合わせて笑った。
 屋内投球練習場で、水原監督とコーチ陣が金網の後ろからするどい眼を光らせていた。記者たちが取り巻いている。第一陣の小川健太郎、水谷寿伸、山中巽、浜野百三が投げていた。第二陣の板東、小野、田中勉、若生は通路のベンチに腰を下ろしている。何やら記者たちと話している。
 小川のボールが断然キレている。姿勢の高いアンダースローから手首を利かせて投げるスピンのかかったボールが、内外角にビシビシ決まる。それに比べるとほかの三人はスピードがあるだけで一本調子だ。水原監督が私と太田に、
「よう、仲良しコンビ。きょうは練習できなくて残念だね。見学にきたのか」
「はい。ほかのみなさんは、きょうはどうしてるんですか」
 宇野ヘッドが、
「ネット裏の階段を昇り降りしてるよ。屋根がないのでずぶ濡れだ。風邪ひくからやめとけって言ったんだけどな。第二球場のほうも同じだ」
 田宮コーチが、
「バット振る場所がないんだよ。来年はもっと設備の整ったキャンプ地を考えないといかんな。雨が降るたんびに休んでたんじゃキャンプの意味がない」
 水原監督が、
「来年も明石ですよ。設備満点でぬくぬくとやるより、工夫する楽しみがあったほうがいいじゃないですか」
「みんな、あしたリデイにしたいからイッショ懸命ね」
 半田コーチが片目をつぶる。私が、
「あさっては紅白戦ですよ。サボってられないでしょう」
 と言うと、水原監督が、
「南海戦の噂を聞いて、巨人が練習試合を申しこんできたよ。申しこんだ以上は、向こうからくる」
「ヒェー!」
 太田の声がひっくり返った。
「宮崎からですか」
「そう、飛行機と電車でね。大阪まで飛行機できて、あとは山陽本線。この親睦試合でキャンプを打ち上げにするようだ。グリーンヒルに一泊して東京に帰るらしい。二十三日の日曜日だ。あしたを休日にして、土曜日は予定していた紅白戦を中止にして練習日にする。キャンプを一日延ばして、うちも巨人と同様、日曜日で打ち上げにします。月曜日にチェックアウトになるね」
 小川の投球に一段と力がこもっている理由がわかった。
「何時からですか」
 田宮コーチが、
「南海戦と同じ一時からだ。審判はセリーグから六人くる。岡田、富澤、井筒、谷村、手沢、大里。腕の確かな一流の審判ばかりだ。サインは、前回俺が言ったとおり。基本的にノーサイン。スタメンを言うから、頭に入れて階段組に伝えといてくれ。じゃいくよ。一番、センター中、二番、セカンド高木、三番、ファースト江藤、四番、レフト神無月、五番、キャッチャー木俣、六番、ライト葛城、七番、サード島谷、八番、ショート一枝。六番と七番に当たりが出ない場合は、江島と太田と菱川のいずれかに交代する。ピッチャーは、まず小野でいく。打たれなければそのまま。打たれたら、山中、伊藤久敏、浜野、小川を予定してる」
 太田と二人、雨の階段昇降に参加した。ユニフォーム姿は私たち二人だけだった。すでに汗を流していた江藤が並んで走りながら、
「巨人がくるゆう話、聞いたとね?」
「はい!」
「金太郎さんがおれば敵なしたい。前売がなかけん、ファンが徹夜で並ぶやろう」
 太田がハアハアいいながら、レギュラーたちに二十三日のスタメンを伝えた。高木や中たちはうなずいたきり黙々と昇降している。私は江藤と並んで昇降しながら、ふと気になっていたことを訊ねた。
「ドラフト外の選手が活躍しすぎると、この先、締めつけが厳しくなりませんか」
「ドラフト外で活躍した選手なんぞ一人もおらん。うちでは、ピッチャーの北角、外山、大西、川口、野手の日野。だれも活躍しとらん」
 中が、
「たとえこれから活躍する選手が出てきたとしても、そういう締めつけに結びつくことはないだろうと思うけど、ドラフト外選手を何年か二軍と一軍を往復させたり、すぐ使うにしても一年目は開幕から何カ月かは出場させなかったりして、お茶濁すことをするかもしれないね」
 高木が、
「そうでもしないとドラフトの権威がなくなるからね」
 江藤が、
「ほうや。金太郎さんはドラフトにかかり損ねたのを拾われたんやなかけん、ドラフト外でなかぞ」
「はい、自由契約だとわかってます」
「ドラフト以前の自由契約時代のほうがすごか選手がようけいたんぞ。そういう選手は札びら切る名門球団に集まった。金ば出さん弱小球団に進んでやってきた金太郎さんは、変わりもんばい」
 太田が、
「中日は結局どこよりもたくさん出しましたよ」
「結果論たい。巨人対策やったと聞いとる。ある意味、金太郎さんの心意気がわかっとらんかったということやろ」
「中日ドラゴンズは、金とは関係なく、高校時代から誠意を見せてくれました」
 江藤は雨にしっとり濡れた観客席にジャージの尻を下ろした。
「神無月郷、意気に感ずというやつたいねえ。ばってん、巨人の誘いを蹴ったんは、プロ野球史上金太郎さんが初めてやなかと? フロントも半信半疑やったろう。浜野がどう取り繕っても、金太郎さんを気に入らんのはその一点ばい。ごにょごにょ金太郎さんにおべっか使っとっても、ふっと見ると、きびしか目ばチラッと金太郎さんに向けとることが多かけんな」
 菱川が、
「……巨人戦では、神無月さん、巨人の連中にいじめられますよ。神無月を叩きつぶしてこいという至上命令が出てるはずですから」
 江藤が、
「むだな抵抗たい。今年のペナントレースは金太郎さんが連中の顔色をなくしてくるうやろう。楽しか一年をすごしぇそうや」
 太田が、
「ドラフトと言えば、オリンピックの飯島が代走専門でロッテに入団しましたけど、どう思いますか」
 高木が、
「永田雅一の金儲けだろうな」
 そのひとことだった。雨脚が強くなってきたので、全員切り上げる。太田と雨の中へ傘を握って駆け出す。
「長嶋を見れるね」
「王も。たぶんピッチャーは堀内、城之内、高橋一三……」
「ふるえるね」
「はい」
 部屋に飛びこむと、雨に濡れたユニフォームをビニール袋に詰めこみ、シャワーを浴びる。太田はユニフォームをフロントに預けにいった。私には新しいユニフォームがもう一着ある。それをあさっての練習と巨人戦で着る。


         七十

 からだを拭き終えてさっぱりすると、ジャージ姿で机に向かい、ひさしぶりにいのちの記録を開いた。

 彼らと対話をすることは、野球をすることとはまったく別種の無作為な没頭を要求する。それはまぎれもない有機的な充実にちがいないけれども、有機から離れて統計学的な没頭をする日々にも、またちがった充実がある。たしかに感情に凝り固まった私のような人間が、機械的な鍛練のごとき反復作業に充実を覚えることは理に適っていない。
 しかし、理に適わない作業にかまけることに全精力を没入させても悔いのないほどの奇妙な快感を覚える。なぜだろう。この感覚を人に説くことは容易ではない。ノータリンがようやく手に入れた、延命のための武器とでも言えばいいか。
 無機的な充実は有機的な充実をじわじわと蚕食する。それは〈人間的な高み〉に昇る充実ではないからだ。あるときそのことに気づき、私はこの無機的な充実を人びととの有機的な対話へ回帰させようと努力してきた。人間的な高み? 愛。好悪の感情にすがって人間の例外を許せない私には昇れない高みだ。だから十把ひとからげに取りまとめて〈彼ら〉へ謝礼しようとしてきた。叶わない。純粋な対話に戻る以外に、人間的な高みへ昇るすべはない。
 彼らは思っている―徒手空拳の私が何らかの高みへ昇るためのとっかかりは、まず野球に関係することから始まるだろうと。彼らがそう思っているかぎり証明したい。しかし、たぶんそれは彼らに愛を返すことを可能にしない。証明したい高みの意味が、私と彼らとではちがうからだ。彼らは愛を人間的な高みと思っていない。おそらく彼らが思っているのは社会的成功だろう。
 証明して見せる相手が〈彼ら〉ではなく〈愛する者たち〉だとするなら、もうすでにその証明は終わっている。愛情以外の高みなど存在しないことを愛する者たちは知っているからだ。

 鉛筆を走らせる窓の外から、勤勉な雨音が聞こえてくる。こうしているのが信じられない。カズちゃんとの障害のない生活を最高の願いにして生きてきただけなのに、最初の厄介な仕事が現れた。プロ野球選手。しかもそれは長く望んできた仕事なのだ。
「クリーニングに出すユニフォームでフロントがあふれてましたよ。めし、いきますか」
「もう少し日記を書いてから」
「そんなもの書いてましたっけ?」
「ごくたまにね」
「からだも頭も休めない人ですね。じゃ、俺、汗流してから下にいってます。先輩たちに巨人の話を聞きたいんで」
「うん。よく聞いといて。昼めしをルームサービスで届けるようフロントに頼んどいてね。日曜の夜は新庄さんがくるよ」
「あ、そうでしたね。俺は、きょうは先輩たちと夜更かしします。高木さんと一枝さんと板東さんが声をかけてくれたんですよ。飲みにいくかもしれません」
「よかったね」
「はい、うれしいです」
「同僚というのは、おたがいにバカをやったり、励まし合ったりして裸の自分を曝け出すものだよ。まだまだぼくはだめだね。意味のない恐怖が勝ってるというか、人嫌いというか、何かこう、冷たい感じだね。そんなつもりはサラサラないんだけど」
「アタマがするどいからですよ。俺にはむかしからわかってますけど、神無月さんをよく知らない人には、人間味が乏しくて冷たい感じがするでしょうね。気にしないでください。ちゃんと説明しときます」
「いいよ、余分なことをしなくて。板東さんは徳島出身だったね。阪急の長池選手と同郷だ。板東さんに会ったら、ぼくが長池選手を気に入ってることを伝えてほしいんだ。いつも注目してるって。同じ徳島の鳴門市だし、四つしか歳がちがわないから、知り合いだと思うんだ。気に入ってるなんてえらそうだけどね」
「はい、伝えときます」 
 太田が出ていき、やがてルームサービスが届いた。カツカレー。頬張りながらふたたびノートに向かう。丹念に書きはじめる。

 自分の不実を忘れるために、酔っている必要がある。野球でもいい、詩でもいい、唄でもいい、跳躍するもの、語るもの、唄うものに。一つひとつのことに注ぐ精力の総量が、活きいきと生きる時間を引き延ばす。
 活きいきと生きることはすばらしい。関心あることにほんのわずかでも精力を注ぐ生活―いつまでも精力家でいて、生き延びる時間を長びかせよう。私が生き延びれば、私と相思相愛の人びとも幸福に生き延びられる。

 土産物店で明石城の櫓の写った観光ハガキを買い、机に戻って、ユリさんと四戸末子にハガキを書いた。やっぱり書いておかなければならないと思ったからだ。

 忘れたことはありません。実際に顔を見て手を握り合う日を待ち望んでいます。いずれ機会があれば、かならず逢いにいきます。それまでくれぐれもお元気で。不一。

 二人に同じ文面のハガキを認め、手帳を開いて見つけた住所を書きつけた。
 ブレザーを着、傘を差してホテルを出る。ふだんの眼鏡ではなく、鈴下監督から贈られた眼鏡をかけてみた。薄暗い日に効果のあることがはっきりする。道端のポストにハガキを投函した足で、散歩に切り換える。もう散歩に出ないと決意しても、こうしてさまよいたくなる。十五歳の冬に刷りこまれた習慣だ。明石公園の堀に沿って歩く。明石小学校の校庭を眺めながら緩やかな坂を上っていく。道よりも低く建てられた民家の葡萄棚が、節だらけの黒ずんだ蔓を絡み合わせていた。
 坂の途中で文化博物館という建物にぶつかる。ふと、明石原人、西八木海岸、直良信夫、長谷部言人という受験知識が頭に浮かび、入場料を払って入る。
 常設展示室にいく。象の骨格模型、鹿の復元頭部などといっしょに、教科書の写真で見覚えのある腰骨がガラスケースの中に置かれていた。頭に浮かんだとおりの単語の並んだ説明書きが添えられている。石器や銅鐸、堅杵、臼といった出土物も並べられている。どの土地にも太古の時代があるに決まっている。自慢しても詮がない。展覧会室には入らずに出る。
 堀沿いの林を眺めながら坂を下る。城郭のない石垣を巡る幅広の堀。その堀の数箇所にしつらえられた噴水がさびしい音を立てている。低い市街地の上空の雲が白んでいる。空と、林と、背の低いビルディング。何もない街だ。車の少ない道をバスがいく。大きすぎる駐輪場の建物。右も左も空ばかりだ。この町のどこからあんなに大勢の人びとが湧いてくるのだろう。
 駅の東の高架ガードをくぐり、街道沿いの繁華な町並を歩く。明石銀座と看板が掛かっている。名鉄神宮前より栄えている。ウォンタナ商店街の入口に出た。特殊眼鏡とブレザーのせいでだれにも気づかれない。ゆっくり見物する。魚介を売っている店のほかにも、ありとあらゆる種類の店が賑やかにひしめき、道ゆく人たちの足を引き留めている。
 商店街を戻って大通りを一本渡ると、たちまち民家の並びになる。二軍用の大きいだけでみすぼらしいキャッスルホテルがある。線路の高架に突き当たった。ガードをくぐり、県立図書館のT字路に出る。ふたたび石垣の堀を眺めながら、織田家(信長の遠い一族のようだ)の手入れの悪い長屋門を過ぎて、ホテルに戻る。
 喜春の間が一般客に占められている。眼鏡を外す。フロントで鍵を受け取り部屋に戻る。部屋に太田はいなかった。ラウンジにいるか、それともだれかの部屋で話しこんでいるのだろう。二十八人の選手枠に入るために彼は苦労している。彼が控えで島谷がスタメンというのは理解できないでもないが、浜野が一軍というのがなぜかしっくりこない。上体に力が入り、上半身が反り返るような投げ方が直らないし、紅白戦や交流戦でも成果を出していない。上層部の受けがいいのは、私たちの知らないところで見せる彼の政治力のせいかもしれない。
 ルームサービスを頼む。焼穴子丼と天ぷらうどん。
 太田が戻るのを待たず、早めに床につく。眠れないのでテレビを点ける。渥美清の男はつらいよ。妹の結婚式で角面が素っ頓狂なことをやっている。由利徹や南利明とちがって寅さんに計算高い知性がにおうので心地悪い。そのうち眠った。
         †
 二月二十一日金曜日。七時起床。よく寝た。曇。三・八度。休日。
 太田とバイキングを食ったあと、ロビーでコーヒー。太田が夢中で新聞を読んでいるあいだに、そっと部屋に戻ってジャージを着、運動靴を履く。ホテルのタオルとバスタオルを持つ。球場に観客は一人もいないとわかっている。練習しやすい。
 裏のドアから出ようとすると、ロビーに降りてきた江藤が、
「球場ね?」
「はい」
「芝は滑るけん、ゆっくり走れや」
「はい」
 公園内を走って第一球場へいく。内外野のグランドは水こそ浮いていなかったが、疾走できる状態ではない。江藤の言ったとおり、芝はたっぷり水を含んでいた。
 運動靴を脱ぎ、左右のポールのあいだを裸足でゆっくり十往復する。左腕のシャドーをまず三十本。かなり負荷がかかるので、安全を図ってきょうはここまで。いつの間にかジャージ姿のレギュラーたちが六、七人グランドにたむろしている。江藤に聞いたのだろう。葛城が、
「大将を一人にしておけないからな。ほれ、足木さんから借りてきたグローブだ」
 江藤、中、太田、菱川、葛城、島谷。葛城と三十メートルのキャッチボール、山なりで二十本。六十メートル離れ、力をこめて十本。もう少し離れようとすると、
「これ以上は無理だ。蹴り足が滑る。勘弁!」
 と声が上がった。裸足のまま芝に立ち、葛城から渡されたバットで素振り五十本。葛城も並びかけて五十本。
「しかし恐ろしい肩だな。ふつうにグローブ出したら、ぶっ飛びそうになったぜ。俺もそろそろ引退かなと思わせるやつはときどきいるけど、金太郎さんはそういうのじゃないな。俺たちの満ち退きと関係なくドーンとそびえてる。最初から比較を越えてるんだよ。それなのに、もっといっしょにやりたい、引退したくないって思わせるから不思議だ」
「ありがとうございます。いつまでもいっしょにやりましょう」
「泣かせるな」
 遠くで太田と島谷がやはり裸足でバットを振っている。フェンスの金網にジャージの上下とバスタオルを掛け、パンツ一丁になって、腹筋、背筋、両腕立て五十回ずつ。しばらくストレッチしながら休み、最後に片手腕立て、右二十回、左十回。中がニヤニヤやってきて、
「おいおい、毛が透けてるよ。キンタマが三つあるの? 竿はどこ?」
「真ん中のキンタマがそうです」
「何から何まで変わっるなあ」
 パンツ一枚になっているのは私一人だった。片手腕立てを菱川や太田がまねをしたが、二、三回でスッ転んでジャージを濡らした。
 バスタオルでからだを拭き、パンツを脱いで絞る。もう一度穿くのは気持ち悪いので、じかに着たジャージのポケットに入れた。周囲に集まったレギュラーたちが一部始終を笑いながら見ていた。葛城が、
「おかしなキンタマだなあ。頭だけでっかくて、胴体がない」
「いざというときだけちょっと伸びます。便利ですよ」
 江藤が、
「金太郎さんは女泣かせやと太田が言っとったばってん、それが伸びたんじゃ泣かん女はおらんやろう」
「ほんのちょっとです。如意棒じゃありません」
「ちょっとでもそこから伸びるのがおかしかろう。やっぱり人間やなかばい」
         † 
 シャワーを浴び、ワイシャツにブレザーを着てロビーに降りる。ラウンジのテーブルにコーヒーを注文し、大窓から昼下がりの鈍い光を浴びながらゆっくり飲む。特殊眼鏡をかけてみる。明るい館内にはあまり効果がない。一つ離れたテーブルで、太田が高木と一枝に向き合って話しこんでいる。聞こえてくる。
「いつでもストライクをとれるという球を一つ持っていると、それを中心にピッチングを組み立てられる。大投手はみんなそうだ。バッターはその〈一つ〉を打ち崩すように努力するわけだ。金太郎さんは本能でそれができちゃってる」
「俺たちは研究しなくちゃいけない、と」
「当然だ。おまえだっていつもノートを取ってるだろ」
「はい」
 一枝は、
「いずれにしても、ノーコンピッチャーは大成しない。二軍止まりだ。ノーコンになるのは下半身が安定していないからだよ。上半身とうまく連動しないわけだ。バッターも同じで、下半身主導。軸足で体重をしっかり支えて腰を回転させる。腕が腰に巻きつくように出てくれば、バットの芯でバチーンとボールを叩くことができる。おまえは守備はいいんだけど、バッティングがなんかギクシャクしてる。毎日縄跳びをやれ」
「縄跳びですか?」
 高木が、
「そうだ。縄跳びは足首と膝を使うから、すごくいい訓練になる。下半身で止まっていた動きが、上にもつながるようになる」
「わかりました! 縄を買ってきます」
「俺のをやるよ。余分に持ってるから」
 抽象的でよくわからない会話だ。しかし、何でもやっているうちに、ふと何かをつかむということはある。とにかく〈やる〉ことが重要だ。ボールの速いノーコンピッチャーは怖い。ふつうの速さで、コントロールがよくて、インローだ、アウトハイだと言ってるようなピッチャーは征服しやすい。
 ―太田、とにかくバットが届くところを強く打って、届かないところを打つな。
 太田が気づいて手を挙げた。高木たちが笑った。私は眼鏡を外して胸ポケットにしまい、彼らのテーブルに移った。


         七十一

 一枝が、
「くだらない話をしてると思ったんだろ」
「まさか。ぼくは努力家です。一生努力家でありたい。努力して初めて、観客の前で恥ずかしくない気持ちでプレイできると思ってますから。観客が見たいのは、自分たちには到達できない努力の成果です」
 高木が、
「そうだな、金太郎さんのたゆまぬ努力にチーム全体が引っ張られてるってところがあるからね」
 一枝が、
「走る、筋肉を鍛える、振る、投げる。どれもこれも人一倍やってる。ケチのつけようがない。野村が帰りぎわに言ってたよ。一年でも多く神無月に野球をさせれば、それだけプロ野球界があらゆる意味で向上するってな」
 高木がうなずきながら、
「勝敗よりも選手の能力に対する驚きが最優先するようになれば、日本の野球も大リーグに近づくな」
 一枝が、
「ああ、そのことを野村は言いたかったんだろう。さっきのへんてこな眼鏡は何だ?」
「少し近眼で鳥目なんで、薄暗いときにかけるんです。東大の監督が特別注文で作ってくれました。薄暮とナイターのときだけ使おうと思ってます。縁が透明なんで、それほど人相が変わって見えないでしょう」
「ちょっと見はな。目が悪いのはハンデだな。しかし敵さんにはそのくらいでちょうどいいか。ナイターになったら、眼鏡の金太郎ってわけで、また話題になるぞ」
「あの……フォークのストライクとボールの見切りをやりたいんですが。だれの投球を見ればいいですか」
 太田が、
「うちでフォークを投げるのは、山中さんでしょう」
 一枝が、
「練習ではめったに投げないよ。巽は中商で江藤の弟と同期だし、木俣の一年先輩だ。あしたのフリーバッティングで投げるよう木俣から頼んでもらおう」
「お願いします。ボールからストライクに入ってくるフォークを見切ったあと、落ちる瞬間を叩くイメージを鍛えたいんです。落ちてからでは、空振りするか、詰まったヒットぐらいしか打てないでしょう」
 高木が、
「フォークをしっかり打てれば、打率は急上昇だな。回転がかかってない分、ストレートより飛ばないけどね。さ、晩めしだ」
 一枝が腕時計を見て立ち上がった。みんなで喜春へ移動した。がやがやと会食が始まっている。私は一人でテーブルについた。さっそく大男の山中がやってきた。切手マニアの孫ちゃんソックリの顔をしている。
「大きいですね」
「いやあ、百八十一センチ、八十キロです。神無月くんより小さいですよ。木俣から聞きました。あした投げさせていただきます」
「ありがとうございます。二十球見切ったあと、二十球振らせてください」
「わかりました」
 去っていった。太田が、
「ストレート速いですよ。三十八年、四十年と最高勝率を獲ってます。小川さんが現れるまでは、権藤さんのあとのエースでした。去年も八勝を挙げてます」
「いままで目立たなかったね」
「おとなしい人なんです。木俣さんの中京商業の先輩です」
 一枝が、
「おとなしすぎる男だよ。胃腸が悪いせいだって長谷川コーチが言ってた。胃潰瘍の手術を来年するらしいよ。去年の五月、長嶋を敬遠したときさ」
 太田が、
「長嶋がバットを持たないで打席に入ったんですよね」
「おう、それでも敬遠した。三振十個も取って、零対零の延長十回に柴田の二点適時打でやられた。八月にはサンケイの豊田に連夜の代打サヨナラホームランを喰らってる。かならず最終回にやられる。いいピッチャーなのに、なんだろうなあ、やっぱり気が弱いんだろうなあ」
 私は席を立ち、独りテーブルを別にして耳を立てることにした。ウェイターやウェイトレスたちが肉と魚と野菜を運んでくる。ただ豪華というだけで、和食か洋食か区別がつかない。酢豚とアサリの味噌汁がうまい。それだけでめしをしっかり食う。高木時夫という控え捕手が、木俣、新宅と同じテーブルでしゃべっている。
「……東映の白仁天な。キャッチャーで入団して、種茂が出てきて外野に回ったやつ」
 新宅が、
「おお、シュアなバッター」
「バントを指示されると、ツーストライクまでわざと失敗するんだよ。そうなるとサインは取り消しになる。そこで悠々ヒットを打つ。バントなんか金にならないってさ」
 木俣が、
「だよな。どのチームの年俸も、二割五分でいくら、三割でいくらってドンブリ勘定だからな」
 新宅が木俣に、
「川上巨人は、バント一回三千円出すというぜ」
「当然だよ。そうでもしなきゃ、だれもバントなんてやってくんないだろ。プロは打たなきゃ損しちゃう世界なんだからさ」
 さっきのテーブルでは新しく江藤が混じって高木守道や一枝や太田と話していた。高木が、
「王の打球はゴロでもすごい。セカンドゴロでグローブ持っていかれそうになった」
「金太郎さんの打球も恐ろしかよ。ファーストに回ってからは、ゴロもライナーも飛んでこんことを祈っとる。フリーでライトライナーば受けたとき、グローブが後ろへグイて押された。あげん打球初めてばい。内野を守るのは恐ろしか」
 恐怖の底に、私の打球が速くて強いという先入観がある。恐怖を感じないでいるうちはどんなものでも掛け値なしに見える。恐怖を感じたが最後、すべてが割り増しになる。ふたたび木俣たちの声。
「野村はわかりやすいキャッチャーだよ。ランナーがスタートのポーズをとると、肩が弱いから遠いボール球を放らせようとする。ワンボール稼げる」
 恐怖のない正しい意見だ。江藤と同じテーブルについている太田が、
「モリミチさん、巨人の黒江と土井が、いちばんいやなランナーはって訊かれて、中日の高木守道と答えてます」
「うれしいね」
 江藤が焼肉をめしの上にきれいに並べて一息に掻きこみながら、
「ランナー三塁で、内野ゴロ。ランナー自動スタート。これを、ゴロ・ゴーいうんやが、球界で常にこれをやるのは守道一人や。おーい、金太郎さん」
 私に声を投げる。
「はい」
「金太郎さんの外野守備は芸術そのものやと思うばってんが、何をいちばんに考えて守備しとると?」
「バットとボールの当たる角度です。バットが下からきたらドローしてくるし、上から叩けば風に逆らって伸びてきます。あとは、強風と、引っ張り癖、流し癖。飛距離は打球音でだいたいわかります」
「模範解答やな。みんなそぎゃんにしとるばってん、人一倍感覚がするどいんやろな。広瀬が打った瞬間、金太郎さんは風みたいに一直線にレフトポールの下に飛んでいきよったもん。あれはできん」
「一塁スタンドにファールを打ったあと、ホームランを打ったのを憶えてたんです」
「いつね」
「昭和三十六年のオールスター第一戦です。中日球場」
「あれか。ワシも代打で出て、土橋から三振ば喰ろうた。四回に広瀬が巨人の伊藤からスリーランば打って、三対ゼロでパリーグが勝った」
「それです、その一発が出る前に一塁スタンドにファールを打ったんです」
「……て、それ、何の必然性もなかよ」
「あのときと同じわざとらしいファールだったので、思い切り引っ張ってくると読みました。それであらかじめ……」
 高木が愉快そうに笑いながら、
「金太郎さんには必然性があったんだな。ボールにバットが当たってからでも同じように走ったと思うぜ。あんな守備を見るのはあれが初めてじゃないもんな。ああいう目の切り方は天性のものだよ。理屈じゃない。金太郎さんに、どうやって打つんだ、どうやって守るんだって訊いても明瞭な答えは返ってこないさ。無意識でプレーしてるからな。だからこそ本物のスーパースターなんだよ」
 江藤が手招きしたので、彼らのテーブルにつくことになった。
「巨人はキャンプで、のべつ練習しとるそうや。百メートル十本とか、特守二時間とかな。どう思うね」
「ONが率先してるという話を聞きました。彼らが練習嫌いだったら、いずれその慣行は消えるでしょうが、彼らがやる以上はみんなやりますよ。二人が引退したらほかのチーム並になると思います」
「金太郎さんはそういう特訓、やりたかね?」
「やりたくありません。むちゃな練習で故障することがいちばん多いとわかってますから、ファンのために、球団のためにも身を護ります。無理をしないやつは置いておけないと言うなら、球界を去るだけです。特訓好きのファンには涙を飲んでもらうしかありません。そもそも、努力というのは集団でやるものじゃないはずです。独りひそかに修練を積むものでしょう」
「さすが!」
 太田が、
「独りでなら百メートル十本、素振り千本ぐらいこなしてしまうからこそ、神無月さんの言ってることには真実味があるんです。できないわけじゃないんです」
 私は手を振り、
「それは太田の願望だよ。ほんとに故障が怖いんだ」
 どこからか小川が聞きつけてやってきて、
「わかってるって。金太郎さんは、集団で努力してますってのがイヤなんだろ。俺もそうだよ。ただ、俺は百メートル三本が限界だ」
「ぼくも全力なら、インターバルをとって三本ですね。それ以上は適当なサボリが入るでしょう。訓練したことになりません」
 私は小川に笑いかけながら、生野菜を皿に大盛りにし、マヨネーズをかけて食った。小川はすぐに去っていった。江藤たちは本格的に食事にかかった。しきりに箸やスプーンを動かしている彼らに挨拶をして立ち上がる。太田が、
「俺、今夜飲んで帰りますから」
「うん、ゆっくりしてきて」
 部屋に戻ると、暗い窓の外に冷たそうな雨が降っている。白っぽく見えるのは夜霧が立ちこめているからかもしれない。カーテンを閉める。遍歴時代をしばらく読んでから、ノートに向かう。

 どんなに明るく振舞っていても、みんなそれぞれの事情を抱えて苦しんでいるのだとわかる。身近で苦悩する人びとに比べて、自分のほうがずっと苦しんでいると思うのが人の常だけれども、それは思い上がりだ。私は苦しんでなどいない。幸福に満たされている。幼いころと同じだ。
 あのころの私は、飢えることも裏切られることもいっさい心にかけたことはなく、ただ希望だけを失わずにいた。結局、無意識のままに、やはり飢えもせず、裏切られもしなかった。思いのほかのことは起こらず、抱いた希望ももとどおりだった。野球選手として成功すること―。
 静かな漁港の町を職業野球のユニフォームを着てのし歩くようになるなど、その希望の中でさえ想像もしなかったことだ。

 ノートを閉じると胸に穏やかな感謝の気持ちがふくれ上がり、涙がこぼれ落ちた。古間木の駅長室のうどんや、国際ホテルの小池の金魚や、母のビールくさい息や、鉈マメ煙管や、榮太樓飴や、バターを塗った醤油めしや、肥柄杓でかけられたドブ水のにおいや、暗い階段の下で握らされた硬貨や、労災病院の手術室や、神宮前の旅館の畳や、早朝の野辺地駅や、いろいろな思い出がめまぐるしく頭の中を巡った。幸福なことは何一つ巡らなかったが、それを幸福なことだったと感じた。



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