七十八

 ワンエンドワン。堀内振りかぶって、三球目、予想どおり、遠い外角に落差のあるカーブ。ストライク。次のコースが鮮やかに予想できた。内角低目の百五十キロ超え。ツーワン。三盗をするはずのない江藤を放っておいて、堀内はまた頭上にグローブを高く掲げて振りかぶった。速球で三振を取りにくる。私はボックスの前方に移動した。浮き上がるところを打つ。堀内の腕が振り下ろされる。ボールの軌道が一本の線になって膝もとに収斂する。踏みこみ、足の甲にヘッドを投げつけるように振り抜く。いつもの質量のある感触が掌にきた。ボールが瞬く間にピンポン球のように小さくなり、ライト観客席の仕切り網の彼方へ消えていった。地響きのような歓声に包まれた。一塁を回る。
「きみ、すごいなあ!」
 王の声を背に、速力を増して走った。神無月、神無月、と喚声が調子を合わせた。圧力のある温かい拍手。黒江が、バケモン、と声をかけ、長嶋が、ナイスセン、とわけのわからないことを言った。水原監督とロータッチ。初めて思い切り尻を叩かれた。
 ―野月校長!
 涙が湧き、手の甲でこすった。江藤が両手を挙げ、おどけたふうに後ろ向きでホームベースを踏んだ。私が泣いているのを見て、彼も顔をゆがめ、ベースを踏む私を待ち構えて抱き締めた。
「ホームイン」
 富澤が小さな声で宣告する。電車の運転士の指差し点呼のようだ。コーチ陣と一人ひとり堅く握手。太田が抱きつき、驚いたことに葛城と徳武が腰を巻くように抱き締めた。菱川が、
「涙が止まりませんよ。いつ引退してもいいや!」
 半田コーチのバヤリース。一対八。トレパン穿いた池藤トレーナーがやってきて、腕や肘や、あごを手で触って確かめる。ズボンを下ろさせて太腿と尻を調べた。仲間たちが指笛を吹いた。
「よし、だいじょうぶ」
「そりゃそうです。転んだだけです。なんともありません」
 木俣が打席に入った。初球高目ストレート空振り。遅ればせながら室内練習場から駆けつけた浜野が、
「俺に代わったら、森と堀内にぶつけてやる」
「やめてください。せっかくの試合が今度こそ乱闘で穢されます」
 島谷が、
「あのボール、俺はよけられないな。あごが砕けてた。神無月くんはボクシングみたいに見切ってたけど、たしか近眼だったよね」
「弱い近視と、鳥目です。明るいうちはふつうにできます。多少暗くなっても、勘でできます」
 葛城が、
「俺は頭に当たって死んでるな」
 小川健太郎が、
「ロートルだからな。動きがにぶい」
「おまえだって死んでるよ」
「ああ、ロートルだからな」
 和やかな笑いがベンチに満ちた。私は江藤に、
「最初の打席で、森に何か言われてましたね」
「新人なんか見習わないで、年寄りらしいバッティングをしたらっち言われた。よほど蹴り上げちゃろうと思うたばってん、退場はもったいなか。森はねちっこかけん、ペナントレースになっても気をつけんばいかん」
 木俣が三振した。走って守備についた。
 三回から乱打戦になった。両チームとも、バントは一本もなかった。十一対十八。七点差で勝ったが、僅差のような気がした。小野が打ちこまれて、山中巽、伊藤久敏とつなぎ、彼らも六回まで打ちこまれた。七回は浜野、八、九回は小川が無得点で締めた。
 巨人は堀内から城之内、高橋一三とつないだ。城之内から三点、高橋一三から七点取った。巨人の三回以降の十点は、堀内が小野からツーラン、王が山中からスリーラン、柴田が伊藤から左打席でソロ、長嶋は伊藤からきょう二本目のソロホームランを打って計五本。ほかの三点は適時打だった。ドラゴンズの八点は、江藤が城之内と高橋からソロとツーランを一本ずつ、高木が高橋からソロ一本、島谷の代打で出た太田が高橋からソロ一本、私は八回裏まで五回打席が回ってきて、城之内に二凡打、高橋一三からセンターへスリーランを打った。高橋一三の失点はすべてホームランだった。
 城之内に二打席とも凡退したのは心残りだった。一本は外角高目のシュートを打ち上げてセカンドフライ、もう一本は外角高目のストレートをジャストミートしてレフトライナーだった。一度背を向けたあと、何やらギクシャクと頭を振りながらサイドスローから投げてくる投球フォームに幻惑された。しかもストレートは速くて重く、シュートのキレは抜群によかった。彼がホームランを打たれたのは江藤だけだったが、あの球威で長短打を五本も打たれたのは解せなかった。
 山中から打った王のホームランはすばらしかった。口を真一文字に結び、筋肉質のからだを大きく揺らしながらすごいスピードでバットを振り抜いた。打球は右中間の最上段に舞い降りた。スイング自体は、レベルなのかダウンなのかわからなかった。やはり波打っているように見えた。長嶋の二本目は、バックスクリーンの左横に飛びこむ目の覚めるような一直線の当たりだった。
         †
 食事会は五時からだった。両チーム混じり合うようにテーブルがセッティングされていた。私のテーブルには、江藤、高木、中が座り、隣のテーブルには、長嶋、王、堀内、高田が座った。首脳たちと久保田さんは大テーブルについた。審判員六名のテーブルも設けられた。弾き語りの女性がピアノを演奏し、報道陣が部屋の壁に貼りついている。ときおり、シャッターの音がする。ビールと食事がどんどん運びこまれる。長嶋が私に、
「手を見せて」
 マメをギュッ、ギュッと押し、
「ぼくのより、ずっと柔らかい」
 王が、
「千本も振る必要がないからですよ。荒川さんが、神無月くんは仙人だっていつも言ってます」
 堀内が、
「内角低目が猛烈に強いね。ま、そんなことはいいや。きょうはね、ぶっちゃけたことを言うと、金田さんも俺も、わざと顔を狙ったんだよ。川上御大と森さんの命令でね。長嶋さんは丸く治めたけど〈悪気〉があったんだ。かならずよけるとわかってたから、自分の最速のボールを投げた。だいたい試合を申しこんだのは御大だよ。礼儀を知らん。どういうつもりなんだか」
 王が、
「堀、口を慎めよ。川上さんなりの考えがあってのことだ」
「ほんとにぶつかってたら、〈考え〉じゃすまなくなってましたよ。三カ月は入院でしょう。へたしたら……」
 江藤が、
「金太郎さんの見切りは神業たい。当てようとしてもむだばい」
 長嶋が話題を移す。
「江藤さんのおかげで、ワンちゃんは二度も三冠王を逃がしちゃった」
「ワシの狙えるのは打率ぐらいやけんな。しかし、今年からは何も狙えんようになった。五割打者、いや、六割打者が誕生するかもしれん」
「ヒョー! ぼくもだめだ。ワンちゃんも危機!」
 王が大きな目をギョロつかせ、
「きょうのホームランを見て、あきらめました。努力はします。六十本を目標にします」
 高田が高木と中に向かって、
「俺たちレベルがそんな話してたたら、単なるホラにされちゃいますね」
 愉快そうに笑い合う。
 村迫が乾杯の音頭をとったあと、白井中日新聞社社長と小山球団オーナーが、巨人軍の遠征に感謝する旨を手短に述べた。中年男性の司会者が、
「どうぞお食事をしながらお聞きください。それでは、監督就任以来八年間で、四連覇を含む六回のセリーグ優勝を成し遂げた名将、川上哲治監督からひとこといただきます」
 みないっせいに食事にかかる。大テーブルの陰気な眼鏡男が立ち上がり、
「川上でございます。もうすぐ五十歳になる老いぼれであります。しかし、頑健であります。頑健のゆえに、こうして毎年いたずら小僧たちの親分として覇権を争うことができます。すべて若いころの修練の賜物です」
 巨人軍の選手たちが熱い眼を注いでいる。いやな感じだ。
「プロとは、たとえヒヤ飯を食いながらでも練習三昧境にある者、つまり無我の境地の鍛錬ができる者のことであります。転じて、監督はどうでしょうか。勝つこと、そのための能力と経験のある者のことを言います。勝利を達成する過程においては、個々のプレーヤーへの同情や感傷などは禁物であり、勝つことこそ大義です。きょうは勝てませんでしたが、勝つためのヒントを大いに与えられる有意義な試合をさせていただき、ありがとうございました。中日ドラゴンズのみなさまに心より御礼申し上げます」
 巨人軍の選手たちの盛大な拍手の中、腰を下ろす。試合に関する感懐も省察もいっさいなかった。この川上という人物は頭が悪い。だれのために勝つのか、自分か、他人か、勝利そのものの価値は? そういうことを一度も考えたことがないようだ。長嶋はポカンと周囲を眺めている。ほかの選手たちは何に拍手したのだろう。
「それでは、川上監督以前の巨人軍監督時代に、リーグ優勝八回、日本シリーズ制覇四回という偉業を成し遂げた水原茂監督からひとこと」
 小柄な水原監督は飄々とした雰囲気で立ち上がり、
「本日は真剣、かつ胸躍る親睦試合を催していただき、巨人軍のみなさまに心から御礼申し上げます。スター揃いのチームの死闘に、フアンのかたがたも心底感動し、大喜びで帰っていかれました。監督初め、プロ野球選手の大義は、観客を喜ばせることであり、勝ち負けは小義です。結果、球団の営利も上がるということになります。優勝はそのあとについてきます。その証拠に、きょう中日は勝って、巨人は負けましたが、あす、観客はそんなことなど覚えておりません。試合が楽しかったことを思い出すだけです。ファンは勝ち負けよりも、選手を見にきているのです。そのために金を出す。その金の一部を選手たちが分けていただく。選手一人ひとりにしても、克己鍛錬そのもののためではなく、スターになろうと願って、あるいはスターでありつづけようと願って鍛錬するのが至当です。無我の境地にしても、その願いのあとについてくるものです。宗教的なものではありません。さて、きょうは試合ができてほんとうによかった。きのうの夜半も雨が降っていたから心配だったんですよ。せっかく巨人軍にきていただいたのだし、ぜひやりたかった。もしきょう試合がやれなかったら、四国中国地方のファンに、地元で中日巨人戦を観てもらう機会は二度と訪れなかったでしょう。宮崎という遠方よりわざわざお越しくださった読売ジャイアンツのみなさま、ほんとうにありがとうございました」
 ウオーッという歓声とともに拍手が逆巻いた。川上監督は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。私は首脳のテーブルにいき、水原監督と握手し、フロントたちと握手し、それから久保田さんと握手した。
「きょうもホームランを打てました。ありがとうございます」
「何をおっしゃる。お礼を言いたいのはこちらです。私の作ったバットでいつもホームランを打ってくださって、心から感謝します」
 小山オーナーが、
「金太郎さんが死球で殺されたら、球団葬にするからね。ウハハハハ」
 私は辞儀をして自分のテーブルに戻っていった。川上監督以外の巨人軍選手たちの握手の手が次々と伸びてきた。川上のそっぽを向いた顔に、西松の岡本所長や母の面ざしを見た。私はビールを飲み干し、鶏の足を手に取ると一口齧って皿に置き、
「ちょっと、審判のかたたちにお酌をしてきます」
 と言って、遠く離れている審判員たちのテーブルへいった。六人の審判が目を瞠った。
「こんにちは。ビールの酌をさせてください」
「そんな、畏れ多い」
 富澤が手で止めた。
「座っていいですか。いろいろお話をお聞きしたいんです」
 手沢がきまり悪げに、
「審判団は選手と親しくしてはいけないんですよ」 
「それはグランドででしょう? もうおたがいスーツを着てるんですよ。遠慮なしでいきましょう」
「きょうの席には水原さんが特別に呼んでくれましてね。それはねぎらいの意味であって、親しくするためじゃありません」
 私は意に介さず六人のコップにビールをついだ。
「見ていると、選手以上の運動量ですね。ぼくは飯場で育ったので、肉体労働こそ男の美の本質だと思ってるんです。みなさんはその基本を備えているうえに、整然とした美しさがある。服装に加えて立ち姿が美しいので、プレイをする側は張り合いが出ます」
 大里が堅苦しい表情を解き、
「私どもも一年じゅう鍛錬の連続です。鍛錬は義務ですからいたしかたないとして、東奔西走の生活は応えます」
 レフト線審の井筒が、
「東京近辺の試合のときは家に戻りますが、あとは遠洋航海みたいなものです」
「上下関係の厳しさは、大学のスポーツクラブに匹敵するものがあると聞いてますが」
 六人が顔を見合わてニヤニヤする。谷村が、
「先輩のスパイク磨き、審判控え室の掃除、試合後の風呂の準備、お茶汲み。あらゆる雑用は後輩審判の仕事です。この六人の中では、手沢がいちばん後輩です」
 手沢が、
「今回、ホテル詰めなので風呂の準備はありません」
「ぼくもよく建設会社の社員寮で風呂を洗いました。けっこう好きでした。あのキュッキュッとなる感じがね」
 谷村がにこやかにうなずき、
「さっき服装とおっしゃいましたが、身だしなみに関しては、こちらの富澤さんがとても厳格です」
 富澤はあえて表情を謹直に整え、
「服装から気持ちのゆるみも生まれ、ジャッジに対する不信も芽生えますからね。審判たるもの、グランドではいつも信頼される人間でなければなりません。……きょうの神無月さんの態度は立派でした。金田投手に次いで二度目の危険球だったので、よほど私もその場で堀内選手に戒告を与えようと思ったんですが、神無月さんの目を見ていると、重大事にしないでくれと言ってるようで」
 試合のときと同じように目を赤らめた。
「いろいろやられるにちがいないと、入団時から覚悟してましたから。それにぼくは、小学校以来デッドボールを受けたことがありません。いや、法政戦で山中投手から膝かスネに一回軽くぶつけられたかな。とにかく、デッドボールを食らうとしたら、南海の杉浦さんのような、急激に曲がってくるボールを脛や腹に当てたときだと思います。杉浦さんの超絶変化球、あんなものを見ると腰を抜かします」
「これからもほんとうに気をつけてください。敵意を抱いている者は、噛む気がなければ吠えませんからね」
「吠えるだけですむことを願ってます」


         七十九

 私は尻に根を生やした。清潔な雰囲気の人々のそばから立ち去りがたい。
「……審判をしていて何か驚くようなことはありませんか」
 井筒、富澤に次ぐベテランだと言う岡田が、
「キャッチャーのリードですかね。捕手は重要な役割を担ってます。リードの巧拙でゲームの流れが大きく変わってくる。配球、捕球音、ミットの静止、ピッチャーの叱りどき、すべてにおいて野村さんがダントツです」
 富澤が、
「私は、きょうの神無月さんですね。顔から落ちかかる金田投手のボールをホームランした、あの目にも留まらぬスイングです。十四年間球審をしていて、一度も見たことのない寒気のするスイングでした」
 手沢が、
「ああ、ライトから見ていて、まったく見えませんでした。野球盤のバットみたいな感じでしたね。じつは、二打席目に堀内投手からホームランを打ったときの、膝もとのスイングも見えませんでした。ボールがもうすぐ森捕手のミットに入る瞬間にバットが始動しはじめて、スイングは見えず、あっという間にボールが金網を越えていきました」
 江藤が赤い顔でやってきて、
「何やっとうと、金太郎さん、みんな退屈しとるばい。金太郎さんはいてくれるだけでよかけん、早う帰ってこんね。飲まんちゃよかけんさ」
 審判団が笑った。大里が、
「やっぱり金太郎さんと言うんですか。試合中何度も聞こえてきましたが、ぴったりですね」
 富澤が、
「神無月さん、きょうはお気遣いありがとうございました。選手のかたにこんなに親しくしていただいたのは初めてのことです。忘れません」
「判定の贔屓はしないでくださいね」
「それはもちろん!」
 みんなでうれしそうに笑った。
 ドラゴンズの主力たちと巨人の主力たちがビールを差し合いながら話していた。ほとんど全員が煙草を吸っているのにビックリした。長嶋が、
「ヘイ、金ちゃん、江藤ちゃんの話だと、吉祥寺に住んでるんだって?」
 江藤が、
「太田に聞いたとよ。名古屋は駅西の新築やそうやな」
「東京も名古屋も、ファンからいただいた家です」
「すごいね。家をプレゼントするなんてね。家は重要よ。ぼくは知らない人が訪ねてこないように、世田谷の田園調布に建てた。三浦朱門、石原慎太郎、張本くん、ノムさんの家もある」
 どうでもいいことだ。スーパースターのしゃべる話柄ではない。
「ぼくは飯場の三畳一間育ちですから、家のイメージはなかなかふくらまないんです。六畳二間と小さい庭のある家か、広い階段のある旅館ふうの家の二室を借りて、一室に孤独な大きい机。ま、どんな家でも気になりません。たしかに見知らぬ人が訪ねてくるのはいやですが、基本的には門戸開放がいいですね。何らかの事情を抱えた善意の人をシャットアウトしたり、親しい知り合いと疎遠にならなくてすみますから」
 王が、
「アタマいいねえ、神無月くんは。さすが東大だ。森さんも、東大にいくかプロ野球にいくかで選択した口だ。うちでは川上さんと並んで頭のよさでは双璧だ」
 川上監督の頭がいい? 私は王の顔をしみじみ眺めた。似たようなことを常々言われる中がニヤニヤしている。私は、
「頭のよさには善良さが添えられていないと、ツヤ消しです。さかしらなことと、頭がいいこととは相反するところがあります。頭のよさとは情操の豊かさのことです。やさしさこそ理知なんです。大勢の人たちがそのことを誤解しています。そして、インテリぶっています。東大に頭のいい人はめったにいません。この中さんも、東大かプロかで選択しましたが、インテリぶりません。東大よりも野球を、そして野球を愛する人たちを愛していたからです。さっきの川上さんの言葉には、野球と野球ファンへの愛が感じられませんでした」
 王がびっくりして大きな目を剥いた。
「そんなことを言ってると、球界を干されるかもしれないよ」
「それほどの権力はチームの監督にはありません。彼も雇われ人です。王さんもわかってるでしょう。あなたたちと同様、ぼくにもファンと興行主がついています。彼らが見捨てないかぎり、干されることはありません。干されるのは、興行主が川上さんの太鼓持ちであった場合だけです。ドラゴンズのオーナーは川上さんと昵懇じゃないでしょう」
 堀内が泣いている。高木が、
「慎ちゃん、中さん、生まれてきてよかったねえ! こんな言葉、あと何百年生きてたって聞けないよ」
「そのとおりたい。ワシは金太郎さんについていくと言ったろうが」
 王が私に手を差し出して握った。
「きみに比べれば、ぼくは小さい人間です。……堀内すまなかったな。いつかおまえを殴ったのも、生意気だからカツを入れてやれと、先輩の××から言われたからなんだよ。ぼくは生意気とも何とも思っていなかったんだ。長いものには巻かれろでね。気の小さいところがあるんだよ。悪かったね」
 堀内がまぶたを指の背で拭いながら、
「そんなことだろうと思ってましたよ。日本一のホームラン王が、俺ごときに目くじらを立てるはずがないですからね。神無月くん、この長島さんや王さんともども、俺たちの永遠のライバルでいてね。きょうはすまなかった。二度とビンボールは投げない。二度とそういう指示にも従わない」
 長嶋が、
「グッ、フレンド、グッ、フレンド。堀、ライバルはよくない。フレンドよ、フレンド」
「はいはい」
 堀内が苦笑いした。王が、
「長さんの奥さんは、三カ国語が堪能なんですよ。それですっかり影響受けちゃって」
「こうしているのが夢のようです。野球人に囲まれて、野球のことだけを考えて暮らしたいと、小さいころから願ってきましたから。自分なりに障害を乗り越えて、この場所にたどり着いたという感があります。そして、思っていたとおりすごしやすい。いられるかぎりここに安住しようと思います」
 中が、
「神無月くんは人格者なんだ。水原さんがきょう森くんを怒鳴りつけた声が、すごく重たく思い出されるよ。監督が愛してるのは、いや、首脳陣を含めて私たちみんなが愛してるのは神無月くんの人となりだ。もちろん重宝してるのは野球の才能だけどね。ハハハ……」
 江藤がまた私を抱き締めた。フラッシュが光った。王が、
「菱川くんが言ったように、神無月くんに悪さしたら、叩き殺されるよ」
 入団式と同様、田宮コーチがカラオケ装置をいじっている係員の脇に立っていって、何かリクエストをして歌いだした。

  山の煙の ほのぼのと
  たゆたう森よ あの道よ

「伊藤久男の山のけむりか。田宮コーチのオハコたいね」
 おーい長嶋、と川上監督が呼んだ。
「はーい」
「スズカケの、ほら、友と語らん、いけ!」
 まだ田宮コーチが歌っている途中から催促する。長嶋は嬉々として立っていき、田宮に並びかけた。田宮は一番を歌ったきり、長嶋にマイクを譲った。山のけむりが止み、別のカラオケに変わった。私は川上監督と長嶋の神経を疑った。中年の司会者が言う。
「昭和十七年の曲ですね。長嶋選手は昭和十一年生まれですから、六歳ですか。この歌を聴いた記憶はないでしょうね。唄い継がれてきたのを覚えたんですね」
 長嶋が得意げに、
「では、灰田勝彦、スズカケのみち」

  友と語らん 鈴懸の径  

 異様に音痴な声が飛び出してきた。

 通いなれたる 学舎の街
 やさしの小鈴 葉かげに鳴れば

 一節唄うたびに、ウーン、という鼻息を入れる。聞くに堪えない。ウーン、が気になる。
  
  夢はかえるよ 鈴懸の径

 長嶋が恥ずかしそうに笑いながら小走りに戻ってきた。水原監督の声が上がった。
「田宮コーチ、まだ歌が終わってないよ。最後まで唄い切りなさい。そのあとで、金太郎さん、きみも一曲唄ってください。東北のある新聞筋から、とんでもない声だと聞いている。しかし、われわれに一度も聴かせたことがない。唄ってください」
 田宮コーチが頭を掻きながら、やさしく笑ってマイクの前にいき、カラオケの伴奏に合わせてあらためて一番から唄いはじめた。正調の民謡ふうの、しみじみといい喉だ。唄い終わると、いっせいの拍手になった。田宮コーチは照れくさそうにお辞儀をし、
「金太郎さん」
 と私を呼んだ。私は小さく返事をし、カラオケの前に歩いていった。マイクを握りしゃべる。
「長嶋さんと同じ灰田勝彦の唄ったきらめく星座を唄います。鈴懸の径の二年前、昭和十五年の曲です。父の好きだった歌だと、母の妹から聞きました。八歳のときに思い立って会いにいった父は、ぼくにお金を握らせて追い返しました。そんなことはどうでもいいです。この曲は『秀子の応援団長』という映画の主題歌です。とても明るい屈託のない野球映画で、灰田勝彦が新人投手の役、ここにいらっしゃる水原監督はじめ、スタルヒン、吉原正喜さん、中島治康さん、当時の巨人軍や大阪タイガース、セネタース等の名選手たちが実名で出演しています。じゃ、高いキーで、ゆっくり唄います」
 カラオケ係がキーとテンポを調整する。伴奏が流れ出す。

  男純情の 愛の星の色
  冴えて夜空に ただ一つ
  あふれる想い
  春を呼んでは 夢見ては
  うれしく輝くよ

 グランドのようにドッと喚声が上がり、拍手喝采になった。バシャ、バシャ、バシャとフラッシュがつづけて光り、ボ、ボ、とストロボが焚かれた。白井社主と小山オーナーがハンカチを出した。水原監督が、
「すばらしい……」
 と呟いて、目頭を押さえた。次の小節を促すようにカラオケの伴奏が大きく鳴った。

  思いこんだら 命がけ
  男のこころ
  燃える望みだ あこがれだ
  きらめく金の星

 父が歌っている姿を浮かべながら、目をつぶって歌った。水屋の写真しか浮かんでこなかった。歌い終えると、すべてのテーブルの人びとが立ち上がって拍手をしていた。村迫代表と小山オーナーは激しくうなずきながら手を拍ち合わせ、川上や森までつられて拍手した。田宮コーチがハンカチで目を拭っていた。拍手の中を席へ戻った。司会が、
「驚きました。なんという声なんでしょうね。表現のしようがありません。自然と涙が湧いてきました。神無月選手はフィールドのホームランばかりでなく、何もかもホームランですね」
 太田や菱川たちとタッチしたり手を握られたりしながら、拍手の中をテーブルに戻った。長嶋が、
「ナイスボイス、ホームラン」
 と言って指でオーケーマークを作った。高田と王が呆れ顔で長嶋を見つめ、堀内はムッとした顔で横睨みした。
 デザートのケーキとコーヒーが配られた。司会が、
「みなさま、どうかごゆっくりご歓談くださいませ。ビールもまだまだご用意してございます。このたびは、記念すべき親睦試合を当地明石で催していただき、感謝の念に堪えません。またいつの日か当地で熱戦を繰り広げてくださることを心待ちにしております。中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ両チームともども、きょうの交流戦を終えて、春季キャンプ打ち上げでございます。一週間の準備期間を置き、三月からオープン戦、四月からはペナントレースに突入いたします。天馬と言われる前代未聞の逸材、神無月郷を擁するドラゴンズと、プロ球界最強のONを擁するジャイアンツは、まちがいなく今後も熾烈な戦いを展開していくことでございましょう。われわれファン一同、胸躍らせながら見守っております。ご活躍をお祈りします」
 太田や菱川たちもこちらのテーブルにやってきて、握手をし合ったり、ビールをつぎ合ったりして歓談した。両チームほとんどのレギュラー陣が、テーブルからテーブルを回ってコップを打ち合わせていた。長嶋と高田はジャイアンツ首脳陣のテーブルから離れなかったが、堀内と王はドラゴンズのテーブルを次々と回りながら、じつにうれしそうに話をした。


         八十

 少し酔ってきたので私は立ち上がり、同じテーブルの人びとに挨拶した。
「じゃ、みなさん、ぼくは部屋に帰って横になります。酒がめっぽう弱いので申しわけありません。巨人軍のみなさん、またオープン戦でお会いしましょう」
 江藤が、
「あした、ロビーでな」
「みなさん、もしあした予定がないなら、名古屋の北村席に寄りませんか。太田もくることになってます」
 中が、
「いきたいのは山々だけど、みんな家庭持ちでね、いったん家に戻らなくちゃいけないんだ。今度、名古屋で試合のあるときにあらためてね」
「わかりました」
 江藤が、
「ワシはいくばい。金太郎さんの周りの人間も知りたか」
 堀内が高田の顔を見ながら、
「神無月くん、俺と高田は独身だ。誘ってくれるか?」
「喜んで。しかし、たとえ私生活でも、敵と交流していいんですか」
 王が、
「それはかまわないんだ。野球選手同士の付き合いはゆるやかだ。チームの秘密を洩らし合うわけじゃないし、がんらい秘密にするようなこともないしね。二人とも、一泊したら門限までに寮に戻りなさい。寮長には言っとくから」
「はい」
 チラリと戻ってきた長嶋が、
「ドンマイ、ドンマイ」
 と意味不明のことを言う。私は水原監督のテーブルへいき、疲れたので横になると告げた。小山オーナーが、
「きょうは、グランドでも会場でも、みんなを喜ばせてくれてありがとう。ほんとに疲れたろう。ゆっくり休みなさい」
 久保田さんが、
「あまりバットを折らないようなので、神無月さんから連絡があるまでは次の製作にはかからないことにします。残り十本程度になったらご連絡ください。平均して二試合に一本は、折れたりヒビが入ったりするのがふつうですから」
「はい、そのときはお願いします」
「グローブはだいじょうぶですか。グローブ製作部もございますが」
「だいじょうぶです。高校時代から使ってる愛用のものがあります」
 水原監督が、
「私はきみという人間を手離さないよ。村迫くんも、白井社長も、小山オーナーも同じことを言ってる。たとえ若くして引退することがあっても、フロントに迎えたいそうだ。きみは断るだろうがね」
「はい。そのときは、自分の部屋の机に戻ります。しかし、その後も懇意にさせていただくつもりです。一度心を結んだ人びととは、ぼくは決して離れません。別れのドラマほどつまらないものはありませんから」
 みんな満足そうにうなずいた。礼をしてテーブルをあとにする。川上監督の白い視線を感じたが、振り返らなかった。
 鍵を受け取ったばかりの百江と、ロビーで鉢合わせになる。私の顔を見てびっくりする。大きな紙袋を提げている。たがいに他人のふりをして、二人きりのエレベーターに乗りこむ。
「野球の見物客が押し寄せて、きょうは満室でした。先週帰ってすぐ、旦那さんが予約を取ってくれました。先週と同じ部屋です。すごく逢いたかった!」
 小鳥のキスをする。下腹が疼きはじめる。彼女も同じだろう。三階の百江の部屋のドアまでいっしょに歩く。廊下に人がしげく往き来しているが、立てこんでいるので一瞬では私に気づかない。
「今夜は思い切りする!」
「わあ、怖い。でも楽しみです」
「じゃ、あとでね。遅くなるかもしれない」
「はい。寝ないで待ってます」
 部屋に戻り、北村席に電話をした。おトキさんが出た。
「あ、神無月さん、キャンプ終わったんですね!」
「はい、予定より一日長引いて、きょう終わりました。オープン戦まで五日間の休暇に入ります」
「おめでとうございます。トモヨ奥さん、神無月さんですよ」
 すぐにトモヨさんに代わった。
「郷くん! あしたね」
「うん、あしたの午後になると思う」
「お嬢さんたちは、きょうの夜遅く着きます。山口さんは、横山さんといっしょに開幕前に遊びにくるそうです。もう一週間もすれば、郷くんのお家も、お店もでき上がります」
「人を連れてく。江藤選手、堀内投手、高田選手、新人の太田選手」
「太田さんのことは百江さんから聞いてます。いま一家で巨人戦の録画中継を観てるとこなんです。おとうさんに代わりましょうか」
「いや、いい。テレビを観ててほしい」
「新大阪で新幹線に乗る時間がわかったら、電話ください」
「わかった。直人は?」
「元気。いまも走り回ってます。保育所も二時までいてくることが多いです」
「二人目も元気?」
「お腹の中を走り回ってます」
「ハハハ、菅野さんは?」
「理事の貫禄が出ました」
「理事って言ってるの。じゃ、お父さんは社長だね」
「はい。いろいろな部署の役職名を考えたみたいです。菅野さんは、郷くんが帰ってきたらまたいっしょに走るんだって張り切ってます。文江さんも二日にいっぺんは顔を見せます。とても元気です」
「素子や千佳子の部屋は決まったね」
「はい、千佳子さんは少なくとも四年間は暮らすので、二階の明るい角部屋に決めました。お嬢さんには家ができるまで私の離れを使ってくださいと申し上げたんですが、素子さんと同じ部屋でいいとおっしゃるので、二階の八畳間にしました。一人ずつ訪ねていけるように工夫してくださいね」
「トモヨとはどうしようか」
「私は四月に入ってからでいいです」
「あいだが空きすぎだ。一度しておこうよ」
「そうですね。そっと隠れて。ふふ」
 太田が戻ってきた。
「あ、太田がきたから。じゃ、あしたの午後。連れてくのはさっき言った四人の予定だけど、はっきり決まったわけじゃない」
「わかりました。お気をつけて」
「さよなら」
「お休みなさい」
 太田が、
「四人に増えましたね」
「うん、王さんはあんなことを言ってたけど、堀内さんと高田さんにお許しは出るかな」
「危ないですね」
「うん。当初の予定になかった人たちだからどうでもいいけどね。さあ、送り返す荷物を整理しなくちゃ」
「やりますか」
 太田はフロントに電話して、段ボール箱を五つくらい持ってきてくれと頼んだ。二分もしないでボーイがきた。色紙を差し出し、遠慮がちにサインを求めたので、ひさしぶりに楷書でサインペンを動かした。太田は断った。
「もう少し名が売れてからじゃないと、気が引けます。来年あらためて」
 バットが大荷物になった。キャンプ中は、折れた二本も含めて四本しか使わなかった。
「ボーイさん、あしたチェックアウトしたあとでいいですから、ここにあるバットと、足木マネージャーが預かってる分ぜんぶを球団のほうへ、ユニフォーム三式、グローブ、スパイク、それからこのダンボールの小物類、背広一式は、名古屋の北村席へ送り返しといてくれませんか。いま着ているブレザーはそのまま着て帰ります」
「承知いたしました」
 太田に、
「どう? 久保田さんのバット、使いやすかった?」
「はい」
「ぼくのこの二本、持ってっていいよ」
「いえ、久保田さんから昇竜館に届いてるはずですから。神無月さんのよりほんの少し握りの太いバットです」
 ボーイが、
「机の上のノートや文具類はどうしましょうか」
「それは自分で持って帰ります。歯ブラシや簡易剃刀なんかは風呂場の更衣室の屑籠に捨てていきますから、適当に処理してください。きょう汗まみれになった下着は、ユニフォームといっしょに持って帰ります。みっともないものを残していっちゃいけない」
「わかりました。太田さまも同じですね」
「うん、俺はぜんぶ送ってもらう。名古屋の昇竜館ね。ジャージ、洗濯物、バット五本、グローブ、スパイク、それからユニフォーム二式だけです。背広は着て帰ればよしと」
 ボーイはまじめにメモをとると、もう一度サインの礼を言い、辞儀をして出ていった。
「川上監督は予想どおりの人でしたね。それはいいとして、長嶋さんともちょっと話したんですけど、彼の印象が変わってしまいました」
 太田が首をひねりながら言う。
「そうだね。野村さんも含めて、ひどく現実的なものに変わった。先天的に明るいだけの人だと思っていたら、世間の風潮はしっかり見てる人だった。いわゆるミーハーだね。大スターというのはミーハーの要素を持っている人なのかもしれない。王さんはまじめな努力の人だ。これからもどんどんホームランを打つだろう」
「神無月さんの言うミーハーというのは、社会的なことを重んじる人ということですね」
「うん。社会的なものばかり見て、それを取り払ったときの人間そのものを見ない人」
「それなら、みんなミーハーですよ。競争意識が強いし、冠婚葬祭のしきたりには喜んで従うし、親族の付き合いを大事にする。神無月さんとはまったく逆です」
「ああ、だからぼくは彼らとは付き合わない。人間を愛して、離れたがらない人以外とはね。そういう人とは、ぼくも離れたくないから」
「俺も半分ミーハーですけど、いいんですか。一生ついていきますよ」
「いいさ。ぼくは太田の半分の〈社会〉にタッチしないから。それでよければ一生付き合おう」
「お願いします!」
 二人でシャワーを浴びる。
「北村席は賑やかなところだよ。驚くぞ。カズちゃんも今夜帰ってくるらしい」
「楽しみです。ほんとに楽しみです。カズちゃんとトモヨさんと直人くん」
 背中を流し合う。
「俺、巨人じゃなくてよかった。もちろん巨人のドラフトに引っかかりもしなかったけど、もし引っかかっていたら、永遠に陽の目を見れなかった」
「そんなことはないだろうけど、巨人にいったら息が詰まって苦しかったろうね」
 風呂から上がり、パックの茶を飲みながらゆっくりする。
「江藤さんは口が堅いのでだいじょうぶですが、巨人の選手はだいじょうぶですかね」
「ぼくを殺したくなければ、しゃべらないさ」
 そんな話をしてるところへ、ドアがノックされた。開けると、堀内と高田が立っている。堀内が心からすまなさそうに、
「川上さんから中止命令が出てしまった。王さんは腹にしまっておけない人だから、俺たちの外泊のことを報告しちゃったのよ。団体行動を乱しちゃいかんという理由らしい。三日間はオフのはずだったんだけどね。よく意味がわからないよ。神無月くん、すまなかった」
「仲がよくなると、試合に響くと見てるんですね。勝つことだけに関心がある人ですから。ぼくは小さいころから負けてばかりでしたが、勝ち負けに人から強いられるほどの関心がありませんでした。それどころか、負けることに人生の意義を見出してたくらいです。いずれ機会があったらということにしましょう。じゃ、オープン戦まで、ごきげんよう」
「うん。じゃね、またそのときに」
 高田はうつむいたきりひとこともしゃべらなかった。彼らの背中が廊下に消えると、
「ある意味、助かりましたね」
「ああ、助かった。どんな噛みつかれ方をされるかわかったもんじゃなかった。巨人は川上監督一色だ。一種の独裁国家だね。触らぬ神に祟りなし」
 太田はすぐ江藤に電話して、二人がいかないことを報告した。私もすぐ北村席に電話を入れ、おトキさんに同じことを伝えた。女将が出て、
「気をつけて帰っていりゃあよ。テレビ観たで。巨人の選手なんかこんでええわ」
 主人に代わり、
「あれはわざとですよ。許せん。神無月さんだから助かったものの、ふつうの選手なら死んでたかもしれんで。あしたはのんびりしましょう。元気で帰ってらっしゃい」


         八十一

 太田と二人でぶらりと散歩に出た。海に向かって歩く。黒塗りのセダンが近づき、
「こらこら、夜歩きはだめだと言ったでしょう。乗って」
 宇賀神だった。二人で笑いながら乗りこむ。
「神出鬼没だなあ」
「最後の最後まで気を抜けませんからね。どうします? 三十分もドライブすれば気がすむでしょう」
「そうだね。もうこの町には来年までこないと思うと、少しセンチになる」
 宇賀神の機嫌のよさそうな背中が、
「きょうは二度も危ない目に遭いましたね。顔に当たってたら、松葉さんの特攻隊が客にまぎれてグランドに紛れこむところでした」
「飛びこんでどうするの」
「ちょっとヤキをね。神無月さんは立派でした。ベンチを止めましたからね」
 太田が、
「ヤキは菱川さんが入れてたと思います。バット持ってましたから」
「選手が逮捕されたらやばいでしょう。そういう役回りの人間はちゃんといますよ。ほんとはことが起きてからじゃ遅いんですが、グランドじゃどうしようもない」
「川上監督と森捕手の指示だったようで、ピッチャーに責任は……」
「指示を受けた以上あります。まんいち死んでたらどうなってました? ピッチャーが実行犯ですよ。プロ野球界では罰せられませんけど」
「ぼくは百七十キロでもよけます。グランド内のことは心配しないでください。それにしてもひと月のあいだご苦労さまでした」
「私は都合二週間ほどでしたが、配下の者は詰めっ放しだったのでたいへんだったでしょうな。こういう遠征先が少しきつい仕事になりますが、東京は浅草から、名古屋は熱田から四人送られることになってます。ファンの群がる球場にはかならずいると思ってくれていいです」
「ぼく以外の選手にも気を配っているんでしょう」
「はあ、神無月さんと仲のよいかたが公の場に出るときは警戒します。そういうかたの単独行動にまでは手が回りませんがね。水原監督はじめ、ドラゴンズ首脳陣、太田さん、江藤さん、中さん、木俣さん、高木さん、小川さん、一枝さん、菱川さんなどには注意します。自宅を警護しているのは神無月さんだけですが」
 太田が野球に話を移し、
「中さんはあと一つで三百盗塁です」
「ぼくも一年に十回ぐらい走ってみたいな。中さんは一年間でどのくらい走るの」
「十四年間で三百だから、平均二十個ぐらいじゃないですか。五十個走った年もあったって聞きました。今年の中日は記録ラッシュですよ。中さんは、盗塁のほかにも千五百本安打、千五百試合出場」
「気が遠くなるね」
「江藤さんの二百五十本塁打、高木さんの百本塁打」
「その都度お祝いするのは面倒だな。お祝いはするのもされるのも苦手だ」
「それぞれ、自宅でするでしょう。俺たちはおめでとうと声をかけるだけです」
「太田さんの記憶は抜群ですな。人を思いやる気持ちがないと、なかなか記憶できないものです。感心します」
 夜の大海原を見渡す道に出る。車から降りる。
「舞子の浜です。目の前が明石海峡」
「恐ろしいような感じだな」
 海というものに魅力を感じない。線路や、アスファルトの道や、ネオンのほうがなつかしい。太田が、
「俺は、何か遠い、ロマンチックなものを感じます」
「池のような適度な水には身近な命を感じるけど、海はちがう。過剰すぎる。適度なものがいい」
「たとえば?」
「永遠を感じさせないもの。人間の営み。深い思いがあると、そこに永遠を投影することもあるけど、それは命にかぎりがあるからだね。自然より人間がいい」
「人間が作り出したものも」
「いいね」
 大蔵海岸を通って帰る。耳を傾けていた宇賀神が、 
「私はこれでしばらくお役御免です。いずれお会いできることもあるかと思いますが、いつになるかはわかりません。……松葉会の牧原若頭は、神無月さんのことをオトコと言ってましたが、私も会うたびに痛感します。神無月さんといっしょにいられる人間は幸せ者です。じゃ、また」
 運転席の人相を初めてじっくり見た。髪をオールバックにした細面の好男子で、特徴という特徴はないが、目つきがするどかった。玄関前で降ろされる。
 太田と喫茶ラウンジに入った。酒を出す空間に変わっている。生ビールの小ジョッキを頼んだ。
「彼が現れると、ガラリと神無月さんを包む空気が変わります。神無月さんは本来ああいう人だったんじゃないかという感じなんです。口は悪いですが、ふだんの神無月さんは受け身です。しかし彼が現れると、神無月さん本来の攻撃的な性格がドンと見えてくる」
 ジョッキを打ち合わせる。
「自分でもわからないんだよ。寺田康男や、松葉会のワカといると、血が同化していく感じがする。まったくの別人格だとわかっているんだけどね。暴力的な生き方をしたいわけじゃない。ただ、激しく生きたいという気持ちになる。弱い生き方のせいで遠回りしちゃったからね」
 ロビーがしんとしている。
「さっきの食事会の賑やかさが嘘みたいですね」
「うん。華やかで賑やかだったり、しんねりと静かだったり、毎日この繰り返しだ。その賑やかさを自分から求めているわけでないところが、異常と言えば異常な生活だね。異常なときのことばかり思い出して、英雄気取りでいちゃいけない。英雄でいなくちゃいけないのは、グランドでだけだ」
「……昼間、英雄を観にきてた人たちは、いまごろ何をしてるんでしょうね」
「球場を出たとたんに、もう英雄のことは忘れてしまうと思う。英雄のいない静かな生活に戻るんだ。そしてほとんどその単調な生活の中で暮らす。働いて金を稼ぐ。生活のための大事な金だ。それを使って年に何度か英雄を観にいく。賑やかで異常な気分になりたいから。ぼくたちはいつもそのことを考えなくちゃいけない。彼らの単調な生活は国の大事な基盤だ。騒がしく華やかに暮らしている英雄は、その彼らの慰みものにすぎない。ぼくたちのような人間は、自分以外の人びとが大切だと思って生きるのが基本だよ」
「……はい」
「ぼくたちの存在意義は、勝つことじゃなく、異常さを見せるところにある。異常を体現している人は、長嶋や王みたいに何も考える必要がない。観るだけで人は喜んでくれるからね。異常を体現できない人は、勝利に意義を求めて自分の存在理由にする。自分を雇っている企業体の営利のために尽力することにね。企業体の求めているのは、じつは観客動員であって、勝利じゃない。選手が異常であれば客は集まる。それでいいんだよ。川上監督はまるでピエロだった。勝利勝利と叫ぶピエロ。堀内も高田も、長嶋も王も、なぜあんな人に従うんだろう」
「たぶん、川上さんにトレードの権限があるからですね。監督のひとことで、フロントは動きますから」
「それは異常でない人のトレードの場合だよ。彼らは心配ない。現実主義者はよく人を裏切る。裏切りをいつも想定して、ただ異常な人間でいれば、騙されることはないんだ。太田ももっと異常な選手になれよ」
「はい!」
「じゃ、ぼくは新庄さんのところにいってくる」
「あした、いっしょに帰りますか」
「たぶん彼女が先に帰っちゃうと思う」
「ラージャー」
         †
「きょうは、巨人との練習試合だった。たぶん何日後かに、録画で全国放送される。テレビで観てね。ぼくは観ない。あまり自分の姿に興味がないんだ」
「そういうものかもしれませんね、飛び抜けた人って。きっと、内側から自分を見つめるので、外の姿に興味が湧かないんでしょうね。放送日を調べて、トモヨ奥さんや旦那さんたちと観ます。あしたの朝は、神無月さんは忙しいでしょうから、私は一足先に帰ります」
「うん、ぼくは江藤さんと太田といっしょに帰る。もうカズちゃんたちも東京から帰ってるだろうから、なんだか楽しみだな」
「私も初めてお会いします。あ、そうでした、神無月さんとお嬢さんお二人の家が来週完成すると伝えてくれと、旦那さんに言われてたんでした。お店もほとんど同時にでき上がるそうです」
「とうとう完成か。部屋を見るのが楽しみだ」
「写真で見た和子お嬢さん、人間でないようにきれいでした」
「彼女も自分の外見を気にしない人だ。若いころは、飯場で姉さん被りして炊事婦をしてたんだから」
「聞きました。神無月さんのお母さんの下で働いてたって。大学まで出て。……驚きました」
「東京からそんな女ばかりくるよ。素子はもと大門の立ちん坊だけど、一級品の人間だ。節子、キクエ、睦子、千佳子、みんな一級品」
「トモヨ奥さんも、文江お師匠さんも」
「そう、百江もね。……ぼくは幸運児だ」
「運がいいのは私たちのほうです。そう言えば、先週、娘たちが同志社の息子を誘って遊びにきてくれて、北村席で楽しい夕べをすごさせていただきました。みんな私の仕事場所を見てホッとしたようです。トルコにいかなくてほんとによかった」
「そうだね。いってたら気持ちがすさんでただろうね。子供たちにもいずれ知られて険悪なことになってただろう」
「ほんとにそう思います。神無月さんに遇ってなければ―。旦那さんは息子にお小遣いまであげたんです。困ったことがあったら何でも言ってこいって。……今朝女将さんが言ってました。神無月さんは絶倫だって誤解されてるけど、ほんとはちがうのよって」
「ぼくは女に面と向かうと、ロマンチックな気分より性欲を満たしてあげたいって思っちゃうし、自分も釣られてロマンチックな気分を捨てて興奮してしまう。何回でもしたいならそうしてあげようって気になる。絶倫だって誤解されてしまうよね」
「気をつけます」
「気にせず、したいときにすればいいんだよ。ぼくが応えられるかぎりね。女は快楽が大きいからそれでじゅうぶんだ。百江は覚えたてなので頻繁にしたくなるだろうけど、そのうちあいだを置いてもだいじょうぶになるよ。均すと、みんな二カ月にいっぺんくらいの頻度になってる。あいだを置くと、思いのほうが強くなってくるから、からだも強く反応する。そうするとぼくも気持ちいい。均すと、ぼくも四、五日に一度くらいの頻度になるから、ごくふつうの男の回数になる。ずっと禁欲しなくちゃいけない期間もあるしね」
「はい。こんな年になってようやく……すみません」
「しょうがないよ。相性というものがあるから」
「……女将さんのおっしゃったことがよくわかって、なんだか胸がスッキリしました」
 百江の顔を指先に触れながら仔細に調べはじめる。髪のツヤ、生えぎわの密度、地肌の透け具合、耳たぶの大きさ、眉の形、目の大きさ、目尻の皺、淡い染みぼくろ、鼻梁の高さ、頬骨の尖がり具合、頬の豊かさ、唇の厚さ、エラの張り具合、首の長さ。
「どうしたんですか?」
「風化してしまうものをいとおしんでる」
「…………」
 首の皺、ほくろが二つ、腕の太さ、腋の毛の濃さ、乳房と乳首の大きさ、左乳房の下にほくろが一つ。いちいち触れながら肌の湿りを確かめていくので、百江はもそもそしはじめた。臍の窪の深さ、腰の張り具合、太腿の太さ、脚の長さ、ふくらはぎの形、足の甲のきれいさ、足の裏のガサつき、足指の曲がり具合。裏に返す。背中に近い右脇にほくろが一つ。左右の尻の凹みに白い脂肪皺がある。表に戻し、臍の窪を舐め、薄い陰毛を掌でそっとなぜる。脚を広げ、快楽を待ちかねている性器を見つめる。黒くて幅のある小陰唇が期待にふくらんでいる。ゆっくりと股間を開いた。
         †
「ありがとうございました。やさしいかた。……神無月さんたら、機械の精度を確かめるみたいな顔をしてました。子供がおもちゃをいじるような顔。ちっともスケベでない、かわいらしい顔」
「女のからだは精密機械だからね。よく手入れをして、機能を高めないと」
「期待どおりに動きました?」
「うん、みごとに」
「よかった。とってもうれしいです。私も、自分のからだが勝手に反応するので、機械みたいに感じます」
「セックスは機械的な行為なので、愛情で味つけしないと殺伐としたものになる。だから愛し合う者同士でしないセックスは、うまく機能しないで快楽の少ないものになる。女はただ〈感じる〉だけで終わり、男は充実感のない〈放出〉で終わる」
「……思い出すと、そのとおりで、恥ずかしい気がします」
 百江は起き上がると、私のものを含んで丁寧に舐めた。
「自然にそういうことをするようになったね。もうぼくたちは離れないよ」
「はい」
 私は窓へいって、カーテンを滑らせ、ガラス戸を開けた。冷たい風が吹きこむ。
「……ぼくは、この世のことはぜんぜんわからない。国の政治の深いところまで理解できるはずもないし、人びとの生活の仕組みもよくわからない。よく知っているのは、野球というゲームの緊張と楽しさと、女のからだの神々しさだけ。この先つつがなく生きていくための課題は、人間の愛情の奇跡に深く感謝して、できればそれを表現すること」
「書くということですか?」
「うん。芸術なぞと意識しないで、ただ表現する。表現で生活の隙間を埋めていく」
「野球をやめてしまうんですか?」
「スッパリやめることを人生設計に加えたこともあったけど、いつか人間を表現するということを見据えながら、流れにまかせることにした。野球をする人たちも愛しはじめたんだ。ぼんやり……とね。プロ野球選手が愛情の範囲に入ってきたので、しばらく彼らと付き合おうと思う。やがて書くだけのときがきても、ぼんやり、愛する人びとを書いていたい。社会の表舞台で活躍しないという意味では、表現する者はその筆頭だ。生活場所が机だからね。いまぼくは表舞台で活躍してる。運命がぼくを野球へ押し流しているあいだだけだけど」
 窓を閉めてベッドに戻る。
「表舞台から降りたあとも、いっしょにいさせてくださいね。十代二十代なら、へんな欲から、社会的に昇っていく人を求めたかもしれません。もう先がないんです。愛だけに素直に生きていきたい」
 百江は裸の私をベッドに残して、裸のままあしたの帰り支度をする。もうさびしさは背中に貼りついていない。一夜逢いにきて、汚れ物を受け取り、朝に帰る……それをさびしいと感じるのは私で、彼女ではない。もう一度ベッドに戻ってきて、私の胸に寄り添う。


         八十二          

 十五歳のとき、私には時間を背負って歩いていく道がとても長いように思われた。自分の命を道しるべにしていたからだ。しかしいまは、それがとても短く思われる。恋人たちの年齢が長けているからだろう。彼女たちの余命を考えると、長く生きる必要がないように感じる。
 飯場の築山から節子と眺めた小屋の窓にごそごそ動いた母のおぞましい影、旅館の柱時計を何度も見上げたこと、浅野の殴打で昏倒したこと、こめかみに塗られた軟膏が氷のように冷たく感じられたこと、妨害者などものともしないと思っていた私の奔流のような短い時間は、あの神宮の旅館で一頓挫した。自分の余命を考えて長い時間になった。
 私を連れて名古屋駅の改札を通った善夫の背中、野辺地駅のホームで淡い希望の中に立ち尽くしたこと。野辺地駅から野辺地川へ下る坂道。もの言わぬ叔父に牽かれながら登っていった本町の坂道。薄白く黙りこんでいた家々。あのときの長い時間の一部始終を思い出す。
 年を経るにつれ、過去の悲しみは、だんだんおぼろになっていく。どうして悲しみが生まれたのかさえ思い出すことができない。おぼつかない憂愁のカサブタをさすりながら、その手触りに生甲斐を感じてきた。見かけは派手な戦いの痕に見えながら、そのじつ、新たな戦いに飛翔する精神を殺してしまうような、そういう憂愁の中に私はいつまでも低徊してきた。そして、相変わらず僥倖の〈化けの皮〉にくるまれながら、誤解された人間のまま凡俗な悲しみの中をさまよっている。低徊の時間は一瞬一瞬、短く感じる。
 滝澤節子が大鳥居のそばのアパートで言ったことがある。
「最初ちょっとしたあやまちを犯したばかりに、人の一生を台無しにしてしまう人がたくさんいるんです。私はその人たちよりも罪が深い。ほかの人たちは、憎しみとか、貪欲とか、自分かわいさにそそのかされてあやまちを犯します。でも私は恐怖にそそのかされてやったんです。ほかの人たちは望むところがあってやったのに、私は怖いと思ってやったんです。でも、いまの私とむかしの私は別人よ。キョウちゃんはむかしから世間の人たちと別人。私が身を切られるように罪の意識を感じるのも、それがわかるようになったからなの。この世の中を見渡して、キョウちゃんほどの値打ちの人間、キョウちゃんに似ている人間といったら、だれ一人見当たらないわ」
 人はおのおの、ある人は才能で、ある人は勤労で、他人のために尽くさなければならない。生命の意味は自分に尽くすところにない。私は怒りの奔流を脱したことで、岸辺の人びとに対して報恩の心が湧き、彼らのために生きられる人間になった。幸いすぐれた才能が一つあったので、その才能で彼らの喜びに紛れこむことができた。これまで私は自分の力というものを誤解していた。男の大力(だいりき)のもとは他人に対する怒りであり、それが土壇場になって生命力に転化するものと思っていた。私は誤解したまま、何年もその力によって支えられてきた。
 百江は、私が思いに沈んでいるのを眺めていた。私は目を挙げて彼女を見つめた。
「わあ、百江きれいだね。きれいすぎて、なんだかやるせなくなる」
「私は、弱くて、見栄坊な人間です。やさしい言葉を聞くと、本気にして、うれし涙が出ます。トモヨ奥さんや旦那さんご夫婦が、神無月さんのことを神さまと言った意味が、しみじみわかります。神さまはけっして悪いことをしません。神さまは、踏み留まろうと思うところでちゃんと踏み留まることができるからです。神無月さん、私は人間です。神さまの大慈大悲(だいじだいひ)を褒め称えるのは、人間のほうです。神さまが人間を褒めると、神さまが穢(けが)れます」
「大層なものだね」
「はい、神無月さんは、大層なかたです。まちがって下界に生まれてきた命をなんとか人のために役立てようとがんばってらっしゃいます。神さまだから何とも思っていないんでしょうけど、見ていてお気の毒になります。いらっしゃるだけで役立っているんですから、私たちのことなど気にしないで、そのままぼんやりしていてください。……ぼんやりしているお顔、すてきでした」
         †
 死の眠りでないかぎり、覚めるときがくる。冬の終わりの青みがかった光がカーテンから透いている。危篤の康男ベッドに射していた光だ。尻を向けている百江の肩を引いてこちらに向ける。頬に寝癖の皺が一本引かれている。愛らしい。シャワーを浴びにいく。頭を丁寧に洗う。湯船を埋めて浸かる。百江が手に歯ブラシを持ってやってきて、湯殿に横坐りになる。歯を磨きはじめる。私も磨く。
「今度はいつだろうね」
「いつでしょう……楽しみにしていますね」
 百江も髪を洗った。男とちがって束にして取りまとめ、指で梳く丁寧な洗い方だ。
「三百六十五日かける五十年。……生まれて一万八千日か。少なくとも五千回はそうやって髪を洗ってきたんだね」
「まあ、考えもしませんでした。……神無月さんは、よく話しかけてくださいますね。信じられないほどたくさん。このひと月で一年分の会話をしました。包み隠さずに、心から正直なお話。ほんとうにありがとうございます。神無月さんは、人をいつ死んでもいいと思わせるおかたです。心からそう思います」
 背中を流してやる。泣いている。髪がキラキラ光っている。野辺地の海の上に注いでいた金色の光。苦い海の香。燐光を放つ水尾(みお)を残しながら船が進んでいく。名残の光を見せていた太陽がゆっくりと水平線に没しようとしている。老いた女の宿命だ。見守り、大切にしてやろう。
 朝食前の時間に廊下を前後に立って歩いた。客が目立ちはじめていたので眼鏡をかけた。
「じゃ、私はこのままチェックアウトします。道中くれぐれもお気をつけてお帰りくださいね。名古屋でお待ちしています」
 紙袋を持った百江とホテルの玄関で手を振って別れた。
 朝食に向かう一般客の集団を避けながら、五階の相部屋に戻る。ベッドに横たわって太田と話をする。
「名残を惜しみましたか」
「しっかりとね」
「きのうは審判の人と話をしてましたね」
「うん。おもしろかったな」
「水原監督らしいですね、会食の席に審判を呼ぶなんて。そのテーブルにいく神無月さんも変わってる」
「飯場の人たちの雰囲気がしたから。給料は安そうだったな」
「一軍の球審に特別手当が出る以外は、基本給は世間のサラリーマン程度だと一枝さんから聞きました。二軍戦の場合、遠征試合は、食費は弁当代しか出ませんし、ホテル代も交通費も実費支給です。特急券は自腹、飛行機はエコノミー限定。ボランティアみたいなもんですね。これが一軍戦になると、毎試合球審に何万円もの特別手当がつき、塁審にも控え審判にもそれに準じた手当てが出ます。ホテルはデラックスシングル、毎試合クリーニング代が出るし、移動は一等車になります。きょうの審判員たちは少なくとも安月給じゃありません」
「ぼくたち選手はどうなってるの。よくわからないので教えてくれないかな」
「オーダーメイドの帽子、スパイク、ユニフォームは、毎年春、夏、秋用が三着ずつ、メーカーから支給されます。バット、グローブ、プロテクターなどの用具代も別途支給されます。キャッチャーの用具は最高級品です。きっと審判用具も似たものだと思います」
「移動費は一軍審判より扱いが低いね」
「人数が圧倒的に多いからでしょう」
 とにかくよく知っている。
「太田は野球評論家で食っていけるよ。審判は、もとプロ野球選手が多いと言うけど、それにしても彼らはガタイがでかいね」
「体質で肥れない人もいるんですが、相撲取りと同じように、肥るということが至上命令のようです。選手に負けないような貫禄を出すためですね。神無月さん、俺が神無月さんをさすがだと思ったのは、入団契約のとき、十一月のシーズン終了から一月いっぱいまで自主トレーニングには参加しないと主張して、しかも認められたことです。あれを申し入れたのはプロ野球史上ただ一人です。もちろん受理されたのもただ一人です。球界の宝物の神無月さんですから認めるのが当然といえば当然なんですが、正しい申し立てでした。選手にとってシーズンオフはほんとうに大切なんです。一年間酷使してきたからだは、あちこちにガタがきてます。内臓もです。そのケアを徹底的にしなくちゃいけません。これをきっかけに、いずれ、いきすぎたトレーニングが規制される日がくるかもしれないと期待してます。川上監督が苦い顔をして神無月さんを見てた理由がわかったでしょう」
「わかった。ぼくは、からだのケアというより、机に向かったり、人と付き合ったりする時間がほしかっただけなんだ」
「わかります。俺たちみんなにいい影響を与えるエゴです」
「ねえ、去年、十一月の新人研修会てのに出たんだろ」
「出ました」
「どういうことするわけ」
「先輩選手が講師になって、暴力団対策やマスコミ対策という講義を受けることになってました」
「ああ、聞かなくてもわかる。暴力団には近づくな、マスコミとは仲良くしろ。……受けることになってたっていうのは?」
「垂れ紙の演目は表向きで、じつはその種の話なんかしてくれないんです。まったくね。まともな講義じゃなく、もっとくだらない雑談です。契約金を使わず貯金しといて退団してから税金を払うのに役立てろ、とか、オーナーと仲良くしとけば退団後に評論家の道が開ける、なんて話ばかりです。冗談のつもりだったのかもしれませんが、幻滅でした。でも、そんなことをしゃべってた先輩たちが、神無月さんに出会ってから、少しずつ変わりはじめたんです。そしてこのひと月で、ガラリと変わりました」
 私は掌を枕にし、
「それはよかった。きっと江藤さんや小川さんのことだろう。実力のある人しかそういう冗談は言わないからね。彼らはそういうすがれた気持ちを抱えながら、むかしの純粋な自分に回帰させてくれる何かを待っていたんだね。そこにバカが現れた。ショックだったろうね。待つのはいいことだ。待っていなければ何も起こらない。試合開始を待ち、打席の順番を待ち、投球を待つ。……何かが起こるのを待つ。それは生きることと似てるね。野辺地に流されたころは、人びとのやさしすぎる笑顔の中で、みんとな合わせて登校し、下校し、祖父母の手伝いをし、勉強をしながら、何も待っていなかった。あのころの毎日は死んでいた。いまのぼくは死んでいない。ただ喜ばしきものを待っている。未来に向かってただ喜ばしきものを待ちながら、こうして充実した待ち時間をつづけているぼくは、生きていると実感できる。ぼくはいま、喜ばしい時間を生きつづけてるんだ。自分を喜ばせているだけのぼくが、みんなの役に立っているのがうれしい」
 太田がくすんくすんやっている。
「名古屋に戻るのには、たしかにいろいろ複雑な事情があったけど、野球から少し離れてみたのはいいことだった。野球は幼いころからのぼくの命だったけど、ほかにも見落とした貴重な命があるんじゃないかって、ときどき気にはなってたんだ。この機会にそれを探るために、名を高めてくれた青森を去り、無名だったころの古巣へ戻って、坦々とその貴重なものを〈待って〉みたらどうか―勉強をし、読書をし、新しい人間関係を築きながら―心の底ではそんなふうに思い直してた」
「見落としてたものを見つけましたか」
「うん。……もともと待っていたものだった。愛されること。自分を愛してほしいからじゃなく、ぼくを愛する人がいるという奇跡に触れること、それだった。その奇跡の人たちに感謝して、自分の能力でできるかぎりの恩返しをすること、それこそぼくの待っていたものだった。恩返しの手段として持てる能力を磨こうという意欲が湧いた。そういう手段として、野球を考えるようになった」
「セックスもですね―」
「うん、セックスも。だからセックスは遠慮しないでうんと好色にやる。セックスをするときだけはどんな女だってうんと好色になりたいからね。好色に好色で応じるのを恥ずかしがるのは、まだ自分に体裁をつけてるからだ。自分がかわいいうちは、恩返しなんかできない。だから恩返しがもとで、いつ社会から葬られてもいいと思ってる。感謝して行なうことに難癖つけるようなやつらとはいっしょに暮らしていけない。友人や女たちは、ぼくのこの報恩を自滅的な過剰反応のように危ぶんでるけど、それが死にたくなる原因にならないなら心配は要らないとも思ってくれてる。つまり、彼らにとってぼくは、死なないかぎりどんないきすぎた暮らし方をしても安心して見守れる存在だということなんだ。ありがたいね」
 太田は、ホーと深い息をついた。
「心のこもった、すばらしい言葉です。これまで聞いたことも、考えたことも、感じたこともなかった言葉です。宇賀神さんは、神無月さんといっしょにすごせる人間は幸せ者だと言いましたが、ほんとに俺、幸せです。神無月さん、もうじゅうぶんです。……きのうの歌、泣きました。めし、いきましょうか」
「うん、いこう」
 最後のバイキング会食に出る。ドラゴンズと巨人軍の合同会食だ。両軍は厚い透明な壁で隔てられている。監督、コーチ陣は、両チームとも姿を見せない。村迫代表や小山オーナーもいない。首脳陣同士、別部屋で会食しているのだろう。水原監督に挨拶したかったが、あきらめた。隅のテーブルに太田と江藤と座る。一人でテーブルにいた堀内が手を振る。振り返す。笑うと、透明な壁に弾き返されるので、笑わない。
「チェックアウトしたとや?」
「いえ」
「こうしとっても胸くそ悪いけん、はようチェックアウトして出発せんね」
「そうしましょう」
 高木や中や一枝たちに挨拶にいく。小川ら投手陣のテーブルに頭を下げる。浜野が、
「いつかおまえの仇討ちしてやるからな」
「必要ありません」
 小川が片目をつぶり、
「俺がバレんようにやる」
「必要ありません。デッドボールは喰らうほうが間抜けです。まだ喰らってないので、間抜けだと証明されてません。プライドを傷つけられていないなら、復讐などする必要がありません。ふつうに勝負を楽しみましょう。勝負して、いたぶってやればいいんです。あんなチームに優勝なんかできっこないですから」
 みんなふんぞり返って笑い声を上げた。
 王と森と高田が長嶋と笑いさざめいているテーブルが遠くの窓際に見えた。出口付近のテーブルにいた菱川と固い握手をした。
「三月一日と二日の東映戦は中日球場です。土日だから超満員になりますよ。三万五千人。代打でも出られたら、かっ飛ばしてやります」
「おたがい、それまで走りこみを忘れないようにしましょう」
「ほい!」
 まだ九時前だが〈巨人軍の人びと〉を尻目に大食堂を出る。足木マネージャーが駆けつけて見送りに出た。
「お気をつけてお帰りください。オープン戦の予定表なくさないようにね。じゃ、名古屋で」
「お世話になりました。監督たちやフロントによろしく」
「わかりました。江藤さん、寮では太田と菱川の面倒見よろしく」
「わかっとう」


         八十三

 ホテル前で警備員に制されながら〈出待ち慣れ〉した数百人のファンの人だかりができている。いっせいにフラッシュが光る。ストロボの短い破裂音。カメラやマイクを担いでいる報道陣が近づく。江藤がファンたちに手を振る。太田と私も合わせて手を振った。
「神無月さーん!」
「江藤、闘将!」
「太田! いいホームランじゃったぞ」
「またきてねー」
「優勝せいよう」
「ええ汗かきょー」
 おもしろい鼓舞だ。
「バンザーイ!」
 私は深く辞儀をした。二人もからだを折った。
「ひとこと、ひとこと!」
 竿マイクが突き出される。
「プロの初年度の最初のひと月をすごした町を一生忘れません。ウォンタナ商店街の発展を祈ります」
「野球は正々堂々とやらんばな。今年は金太郎さんと打ちまくるばい」
「金太郎さん!」
「金太郎!」
「太田!」
「四月中に一軍に定着します。神無月さんの背中から離れないようがんばります。太田という名前を覚えておいてください」
 色紙を持って追いすがってくる大勢の人たちに三人でできるかぎりサインしながら、ようやく明石駅にたどり着く。切符を買い、すぐホームに向かう階段へ上がる。改札で手を振る人びとに手を振り返した。
         †
 新大阪駅から北村席に電話を入れた。すぐトモヨさんが出た。
「十時十六分のひかり。八号一等車。ビュッフェの隣の車両。名古屋に十一時二十五分に着く」
「わかりました。迎えに出ます。和子お嬢さんたちは、いまお店や新居を見に出かけてます。いらっしゃるのは江藤さんと太田さんですね」
「そう。きょうじゅうに帰る予定だけど、どうなるかわからない」
 江藤が電話を奪い、
「江藤です。図々しくおじゃまします。金太郎さんにぞっこん惚れたんで、これからもときどき寄せてもらいます。あ、はい、ありがとうございます。はい、はい、気をつけていきます。じゃ失礼します」
 勝手に切ってしまった。乗りこむ。すぐに三人ビュッフェに入って、コーヒーを注文する。旅とも言えない一時間十分の移動のあいだに、自分の事情を江藤に少しは話しておかなければならないと思った。
「江藤さん、話しておかなければいけないことが―」
「太田からぜんぶ聞いた。ワシは心の狭か男でなかぞ。女ごが何十人おったっちゃ驚かん。その顔と様子に惚れん女ごは化けものばい。子供がおることも聞いた。そぎゃん数おれば、だれかが孕むんはあたりまえたい。ま、巨人の連中がこんごつなってよかった」
 太田がコーヒーをすすりながら、
「江藤さんの実家はどちらなんですか」
「福岡たい。女房一人、ガキ三人。公式戦が始まると放ったらかしになる。中日球場で試合があるときは昇竜館に寝泊りするけんな。遠征のときはホテル。今年は、オールスターに選ばれんかったら、福岡に戻って骨休めばい。選ばれたっちゃ、オールスターのあとで少し帰るばってん」
「百パーセント選ばれるでしょう」
「そうやとしたっちゃ、一塁は王がおるけん、ベンチウォーマーになるやろ。トップで選ばれんと、ただの祭り見物になってしもうとたい」
 一等車の座席に戻り、話をつづける。
「太田がよう金太郎さんの島流しの話ばするけん、事情はつくづくわかった。野球に戻れんごとなっとったらと思うと、ヒヤッとするわ」
 太田が、
「俺、北の怪物という新聞記事見て、泣きましたもん」
 いつも同じことを言う。
「こうして江藤さんたちといると、どうしていっときでも野球から離れようと思ったのかわからなくなります」 
「……よっぽどヤケクソやったんやろのう。いまは金太郎さんの野球が惜しまれとるけん、そげな気持ちになることもなかろうばってん、ちかっぱ野球を愛しとる金太郎さんがヤケクソな気持ちになったんがまっこと不憫に思わるるったい。金太郎さんばむかし突き放したやつらは、金太郎さんの野球ば惜しまんどころか、知ろうともせんかったにちがいなか。あのとき、このとき、その差があまりにも大きかけん、いまは面食らっとるんやろう。安心して野球ばすりゃよかよ。……少しでん金太郎さんの野球ば見たら、だれだって惜しむばい。プロにいって大勢の人間ば喜ばせてやってほしかと思うばい。それはあたりまえのことやけんが、なんでじゃまばっかりしよったんかのう……」
「神無月さんには、ものを求めない人間の雰囲気がつきまとってるんですよ。グランドにいてもそうです。欲がないというのか、拘りがないというのか、そういう雰囲気をほんとに自然な感じで持ってるんで、だから、そいつらは神無月さんから野球を奪っても惜しくなかったんですよ。好きなようにいじったんですね。野球なんかなくなっても悲しまないだろうって。……俺にはまぶしいくらいです。何をやってもダレたところがないのに、ものごとに拘らないように見える。よく神無月さんは机に戻ると言いますけど、もともと静かな、家の中にいると落ち着く人なんだと思います。でもこれからは自分を応援してくれる人たちへ感謝の気持ちをこめて野球をすると、きのうハッキリ言いました」
「おお、それでよか。みんなのために野球ばやりつづけてくれるんやな。ばってん、金太郎さんのごつアタマのよか人間は、家の中でじっと考える時間がほしかゆうのも痛いほどわかる。これからは野球場でも考えてくれんね。考えるんはどこでんできるばい。もう追いかけてきてじゃまばする面倒くさか人間はおらん。野球ば本道にしてほしか」
 私は、
「もちろん、そのつもりです。水原監督が引退するまで野球をやりつづけます。ぼくは彼を野球人というより父親だと思っています」
「―そのあとは野球をやらんのか」
「やりません」
「それまで中日が優勝せんでもか」
「はい、水原監督が引退するまでです。でも、中日は今年か来年、確実に優勝します。ドラゴンズの戦力は尋常じゃない。優勝すれば、水原監督もチームメイトも喜ぶでしょうけど、それは実力どおりの結果です。だから、優勝してもぼくはやりつづけます。いまの戦力で何連覇かしましょう。水原監督へのプレゼントです。そのあとは、水原監督が引退するまで、Aクラスを目指して楽しく野球をやります。水原監督引退のあとは、中さんや江藤さんたちが順繰り引退していく。それもぼくの気持ちのフンギリになります。でも、真実を求めるなら意見を持つな―それ以外の生き方が真実なのかもしれません。ただ、ぼくは区切りをつけて生きるのが好きなんです」
 太田が、
「タイトルを総なめしたら、引き止められますよ。水原監督や江藤さんたちの進退とは関係なく、十年やそこらじゃやめられなくなります」
「やめる。とにかく野球界にいるあいだは、この強いチームの一員として、連続三冠王を目指す」
「ワシも、金太郎さんが引退したらやめるばい!」
「それはいけません。大勢の人たちが野球を観にいく楽しみがなくなります」
「変わった男やのう! 金太郎さんがやめたらのまちがいやろう。そうなったら、ファンの楽しみがのうなるどころか、プロ野球界は闇になるばい。たまがったばい。金太郎さんはやっぱり人間でなかろうもん。拝んでついていくばい。金太郎さんがやめたら、ワシもやめる」
「やれるかぎりいっしょに野球をやるということにしましょう」
 私たち三人は手を重ね合った。
 京都で弁当を使った。柿の葉寿司。鮭、鯖、鯛、穴子。美味。江藤が太田に、
「プロにきて、たまがったことはあったね?」
「去年テスト生で参加した初日でめげました。ボールの速さ、スイングの速さ、足の速さなど、桁ちがいのスピードのレベルに圧倒されちゃって……。キャンプ前の紅白戦なんか見てると、各投手の球種と特徴、投手によって異なる球種のサイン、木俣さんのノートにビッシリ書きこまれた相手打者のデータなど、ついこのあいだまで高校野球をやっていた俺に処理しきれるわけもない情報量とレベルの高さにまったくついていけませんでした」
「それで野球博士になったんやな。ほかの球団やと、ベンチから出る作戦のサインが加わるばい。……ワシもそうやった。キャッチャーで入団したけん往生したわ」
「才能があればそういうことも娯楽になります」
「ふつうの選手はスラッとそう言えん。鳴り物入りで入った選手も、ほとんど二軍暮らしのあと、だいたい五、六年で戦力外通告ばい。九月の末か十月の初めに、あしたはスーツ着てこい言われてな」
「二軍は恐ろしい場所ですよ。入団四、五年目の選手のほとんどは試合に出してもらえません。新人は無条件で出られますし、調整の一軍選手も無条件で出られます。クビの近い二軍選手は、朝早くから球場にかよってくるだけで、試合に出ることのないまま空しく帰ります。それが毎日つづくうちに、プライドが傷つき、気持ちが切れ、一気に冷める」
「プライドゆうても、プロになれたゆうだけやろうもん。給料はサラリーマン並やしな」
「はい。たいていの選手は寮を出て、一人暮らしをしてるか結婚生活をしてますから、家賃、食費、交通費、光熱費、電話料金、保険の支払いをすると、ほとんど残りません。いちばん怖いのは、二軍で冠を獲ったり、オールスターに出られたりして手応えを感じていた選手が、来年もできるかもしれないと淡い期待を抱いていたのに、しっかりクビを通告されることです」
「滅入る話やのう。二十代の真ん中で世間に放り出されるんやけんな」
 私はひたすら窓の外を眺めながら、右腕をさすっていた。この腕を失ったら、私は神でも仏でもない。
「金太郎さん、そんな顔せんとけ。現実の質がちがうんやけん。プロのほうが金太郎さんに圧倒されとる。これはどうしようもないことや」
「ええ。ただ、プロになるだけで達成感に浸ったら、プロの選手は終わりだと思ってます。そこが出発点ですから」
 太田が、
「ふつうの選手は技術の鍛練にしても、自分の理屈に合っていることを求めますけど、理屈なんかわからないほうがいいと考える人がいます。ただ集中するだけで、からだが勝手に反応する人です。神無月さんはそういう大天才です。誰かと比べる人ではありません。俺、南海戦のあとで第一球場からホテルに戻るとき、野村さんが杉浦さんと話をしてるのを歩きながら聞いたんです。神無月さんのことを言ってました。あんな天才、二百年、三百年に一人だ、キャッチャーというのはピッチャーが投げた瞬間にある程度の軌道がわかる、その瞬間によしと思ったボールは、いいバッターでもだいたい見逃すし、打っても空振り、凡打、ファールぐらいにしかならない、ところが神無月さんは彼がヨシと思った瞬間、バットが上のほうからバーンとめちゃくちゃ速く出てきた、しっかり芯を食ってレフト中段へホームラン、上のほうからボールに届くまでのバットの速さは目にも留まらなかった、アウトローいっぱいの百五十キロ近いフロートボールをだぞ、信じられん、そう言ってました」
「それが金太郎さんの抱えとる現実や。ただ野球をやっとればよか」
         †
 定刻どおり真昼の名古屋駅に着いた。ジャケット姿の大男が三人ホームに降り立ったので、あたりの人びとが注目した。
「神無月やろ!」
「江藤!」
「あれ、太田だな」
 気温は明石よりほんのわずか暖かいが、明石と同じ曇り空だ。北村一家がずらりと立っていた。主人夫婦、菅野、カズちゃん、トモヨさんと直人、素子、千佳子、おトキさん、文江さん、みんないた。たぶん何時間か早く着いたにちがいない百江はいない。見習い期間なので遠慮したのかもしれない。
「お帰りなさい!」
「おかえりなちゃい!」
 五人の女と唇でキス。カズちゃんを固く抱き締める。直人にもせがまれてキス。江藤と太田は驚きもせず、
「江藤です」
「太田です」
 と頭を下げた。女将が、
「ようこそおいでなせゃーまし」
 全員でお辞儀をする。菅野が、
「北村家の運転手の菅野です」
 私は、
「お父さんの仕事の右腕です。明石にいくまでは、ぼくといっしょに毎朝走ってくれました。あしたからまた走るよ」
「ガッテン。席までタクシー三台でいきましょうか」
「いや、五分足らずだから歩こうよ」
「そうですね。ふわあ、ほんものの江藤選手か! さすがの貫禄だなあ。こちらは太田選手。神無月さんより大きいや」
「いや、そっくり同じ身長です。体重が三キロ太いんです」
 女たちがまぶしそうにする。素子と千佳子が両側から私の手を握る。江藤が、
「みなさん恐ろしゅうきれかねェ。まるで女優んごたる」
 太田も目を見開き、
「神無月さんでなければ、位負けしますね」
「このチビちゃんもかわいらしかあ! お人形さんのごたる」
「ごたる、ごたる」
 直人がまねると、みんなで明るく笑う。主人が、
「今夜は三味と踊りを入れます。カラオケ設備もございます。どうか愉しんでください」
「は、ありがとうございます」



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