第三部


三章 オープン戦




         一

 三月一日土曜日。六時、文江さんの部屋で七時起床。マイナス二・三度まで冷えこんだ。
 指を彼女の股間のかすかな湿りに浸す。あふれてくる具合と温度が昨夜と微妙にちがって反応が早い。指を動かしはじめると切迫した吐息が漏れる。文江さんの脚を開き、陰部を舐める。するどく反応する。アクメをこらえている。やがて、
「ああ、キョウちゃん、それ以上舐めたらあかん」
 ひと舐め、ふた舐めすると、
「あ、あかん、キョウちゃん、イク!」
 文江さんは懸命に私のものを握り、股間に導き、押しつけるように尻を突き出して呑みこむ。あっという間に達する。自分の腹をつかみながら痙攣する。うねりが激しいので私も堪(こら)えられなくなる。素早くピストンして吐き出し、律動する。文江さんの下腹が身も世もなく伸び縮みする。抜き去り、胸を寄せて抱き合う。文江さんの頬にキスをする。
「ごちそうさま。また来月よろしくね」
「今月の末だね」
 文江さんが朝食の支度をしているあいだに、排便。昨夜は飲んでいないので、ふつうの軟便。シャワーを浴びながら歯磨き。少し伸びかかった髪を洗う。
 新聞に、百六十メートル以上の本塁打を何本も打ったことで有名なミッキー・マントルが引退したという記事が載っていた。三十八歳。膝の故障を抱えながら、一九五○年代後半に四度のホームラン王、一度の首位打者、一度の打点王。当代一の俊足かつ、スイッチヒッターのホームランバッターはアメリカでただ一人だと書いてある。百八十センチ、九十キロ。金剛力のかたまりという感じだ。遠い偉人。
 アジの開き、目玉焼き、納豆、板海苔でめしを二膳食う。
「じゃ、いってくる」
「いってらっしゃい。ケガせんように祈っとるよ」
 北村席に戻ると、カズちゃんたち全員が出てきた。ランニングを中止して、一家に見守られながら庭で素振りを六十本。直人にせがまれて肩車し、トモヨさんといっしょに庭を一周。直人は私の頭を叩いて喜ぶ。
 キツネきしめんを軽くすすり、グローブ、ユニフォーム一式、ソックス二組、アンダーシャツ二組、特殊眼鏡、おトキさんの用意したいなり寿司と海苔巻をダッフルに入れる。菅野に、
「名鉄で一駅だけど、きょうは迷惑かけるね」
「これから何年も私は神無月さんつきの運転手ですよ。それより神無月さん、バットは中日球場のほうにもあるんですよね」
「うん、たっぷりある。ああ、気力がみなぎるなあ。生まれたときから野球をやってる感じだ。死ぬときも野球をしていたいな」
 主人が、
「ええですな、スッキリしとって」
「社長も置屋の亭主一筋でしょう。スッキリしてますよ」
 自分が何者かを理解するには、いちばんスッキリするものを特定すればいい。
「菅ちゃん、神無月さんを送り届けたら、すぐ入場しよまい。オープン戦初戦で神無月フィーバーときたら、開場が一時間ぐらい早まると思うで。練習が見たい」
「私もです。神無月さん、忘れ物ないですか」
「あ、スパイク二足、帽子! それからタオル五本、バスタオル一本」
 トモヨさんがあわてて廊下へ出る。スパイクとタオルと帽子を抱えて戻ってくる。ダッフルに詰める。
「よし、オッケー、準備万端。お母さん、直人にキスさせて」
 女将は直人を抱いていたからだを傾ける。額にキスをする。
「てらっちゃい」
 土曜日なので保育所は通園自由の日だ。私がいないので、直人はたぶんいきたがるだろう。カズちゃんが、
「がんばって。デッドボールはちゃんとよけてね」
「うん。尾崎に会えたらきょうの目的は達したよ」
「張本さんは乱暴者だっていうから、あまり人なつこく近づかないほうがいいと思うわ」
「心配ないよ。関心ないから」
 素子が、
「あまり頭低くすると、イヤミにならんかなァ」
「プロの選手は潔いよ。嫌味と受け取られる心配はない。握手求めるだけでブン殴るやつもいないしね。きょうは下手投げが多いから、二本打てるかもしれない」
「頼みますよ。試合開始から東海テレビの中継が入るで、球場いかんやつらも観るでな」
 千佳子がトモヨさんの手を握って、
「デッドボールって、打ち所が悪いと死んじゃうんでしょ」
「戦争にいくわけじゃないんだから。いままでやってきた紅白戦や交流試合がオープン戦と名前を変えるだけだよ。じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい!」
 店の女たちも式台に居並んで見送る。菅野はダッフルを担いで門まで大股で歩き、うれしそうにクラウンのトランクに入れる。九時二十五分、門前を出発。
「二十分から二十五分で着きます。荷物をロッカーに運ぶ手伝いをしてもいいですかね」
「関係者以外は入れてくれないでしょうね。気にしなくていいですよ」
 笹島に出、新幹線の高架に沿って名駅通を南へ真っすぐ走る。ビルがときどき建っているだけのさびしい大通りだ。大洲通を横切り、中川運河を渡る。すぐに名鉄中日球場前駅に出る。
「むかしは山王駅と言ってました」
 十五分も走っていない。ガードをくぐり、高架が左に移る。少し道が細くなる。
「時計、在庫がなかったので注文しました。二、三日中に届くそうです」
「ありがとう」
「もう露橋ですよ。ここが露橋公園。もうすぐ中日球場です」
「こんなに近いんだ。自転車でもこれるね」
「自転車は無理です。交通量も多いし、やめてください」
 尾頭橋。なつかしい景色になってきた。小山田さんたちと何度も歩いた道。球場に向かう人びとの賑わい。窓を開ける。大気のにおいまでなつかしい。九時五十分、正面三塁側の、秩序なく車が停めてある駐車場までくる。鉄筋コンクリートの中日球場がそびえている! 球場を取り巻く広い道路の周囲に緑はなく、ふつうの民家と零細工場が肩を並べている。井戸のある家もある。
 内野席入口、内野席券売場、といった目に憶えのある文字が見える。やはり九時半開場と掲示が出ている。すでに人びとが肩をぶつけ合いながら各入場ゲートに寄り集まっている。
「ちょっと、記念の切符を買ってくるね」
 車から降り、入場切符売場までいく。ブレザー姿を気づかれる様子はない。人の少ない列に入ると、ネット裏特別席の窓口だった。七百円の特別席券を一枚買う。生まれて初めて手にする高額の入場券に目を凝らす。

 主催中日新聞・中日ドラゴンズ 1969・CHUNICHI DRAGONS
 3月1日(土)12時30分 中日―東映 25列6番 特別席券 ¥700


 裏面に何やら宣伝が印刷されている。

  材料をいかすこつ 味・形・色つやを良くする相生みりん

 車に戻り、
「この券、だれかにあげてください。一人離れた席になるけど、ネット裏です」
 主人が、
「半券を捨てないでとっといて、スクラップにしましょう」
 菅野が主人に、
「きょうこれそうなのは百江さんですか」
「トモヨに電話すればいい。どうせ百江に伝わるから、電車で出てくるやろう」
 トモヨさんは直人を見てなくてはいけないし、おトキさんは賄い頭だ。女将は留守番だし、カズちゃんと素子はアイリスの開店準備で忙しいし、千佳子は受験直前ときている。なるほど切符は百江にいく。
 トランクからダッフルを出して担ぎ、正面ゲートの関係者入口へ菅野と二人でいく。球場係員に頭を下げる。神無月ですと告げると、あらたまった敬礼を返された。
「じゃ、いってくるね。試合は三時過ぎに終わると思うけど、駐車場で待っててくれますか」
「もちろん。これからは毎回そうなります。いってらっしゃい。がんばって!」
「OK!」
 菅野は車に戻っていった。廊下の奥からユニフォーム姿の太田が走ってくる。
「運びますよ」
「だいじょうぶ、これ一つだから」
 ユニフォームを着た江藤も出てきた。
「いよいよ野球の季節がきよったばい」
「はい。浮きうきします」
「きょうは寒いけん、肩こわさんようにせんば」
「はい、気をつけます」
 殺風景なコンクリートの廊下を歩き、室内投球練習場を見ながらベンチ裏のロッカールームに入る。東大の部室に比べてすばらしく豪華だ。みんないた。田宮コーチにバットを五本渡される。
「あと二十五本はコーチ控室で預かってるからね」
 中が、
「ここにくる途中で迷ったかと思ったよ。尾頭橋あたりは大混雑だからね。さあ、着替えた着替えた。まず、フリーからだ」
 神無月と名札が嵌めこまれたロッカーの棚に替えのアンダーシャツを載せ、バットをボックスの隅に立てかける。予備のスパイクを一足その脇に置く。スカイブルーのアンダーシャツをつけ、クリーニングしたてのホーム用の白地のユニフォームを着る。胸のロゴはスカイブルーの筆記体の Dragons。背番号8もスカイブルーだ。ロゴも背番号も赤く縁どられている。左肩に中日新聞社の社章である黄色いドラゴンワッペンが縫いつけられている。白のアンダーソックス、スカイブルーのストッキング、白のズボン、袖とズボンにもスカイブルーのラインが入っている。黒革のベルトを締める。スカイブルーの帽子をかぶる。富沢マスター謹呈の黒革のスパイクを履き、しっかり紐を結ぶ。緊張感がみなぎる。
「よし! いくぞ!」
 みんなが驚いて私を見る。グローブを差したバットを肩に担ぐ。高木が、
「決まった。イロ男!」
 短い階段を上ってベンチに上がる。快晴。九時半の気温三・一度。微風。グランドに出る。視界が展ける。ついにたどり着いた中日球場! 内野の土と外野の薄い黄土色の枯れ芝のコントラストが美しい。冬枯れした芝は四月あたりから芽を吹き、五月には一面の緑になる。その季節の球場は絶景だ。巨大な吊り下げネットを見上げる。昭和三十五年の小学校五年生のときには、三面の大きな立ち金網だった記憶がある。中村図書館の資料冊子をめくって仕入れた知識によると、ちょうどその年からネット裏中央スタンド、ダッグアウト、記者席、放送室、特別席、食堂、バックネットの仕様などの改良が始まり、翌年に完了していまの形になったようだ。どことなくむかしの記憶よりも球場全体が美麗に感じるのはそのせいかもしれない。
 照明灯は八基。贅沢だ。スタンド上端に、イカリソース、サロンパス、千代田火災、名糖アイスクリーム、住友林業、日清食品などの看板が見える。こんなに看板が多いとは知らなかった。もちろんあのころとは数も中身も配置も変わっているだろう。
 黒い長方形のバックスクリーン、時計台つきの緑のスコアボード。いちばん上段の左右にSEIKOと山一證券、中段にスズキアルト、マツザカヤ、日本火災海上。下段に日本電建、日本電建、日本電建と、くどいリフレイン。左端に縦書きでサンヨーカラーテレビ、右端にカルピス。ここも宣伝まみれだ。子供のころにはまったく気づかなかった。これらの雑然とした調和でフィールドが輝かしい光を発していたのだ。
 しばし感動をしたあと、グランドの確認にかかる。両翼九十一・四メートル、センター百十八・九メートル。右中間左中間百十二メートル。両翼は百三十メートル飛べば場外、スコアボードに当てれば百五十メートル前後。フェンスの高さは? 中に訊く。
「フェンスの高さはどれくらいですか」
「二メートル十三センチ。日本一低い」
 小さな球場だったのだ。カメラが一塁側と三塁側の報道員席にずらりと並んでいる。四割がた客が入っている。まだ熱気のようなものはない。菱川が、
「いまのところ、一万五千人ぐらいですね。入団以来、オープン戦でこんなに客が入ったの見たことないすよ。満員になるぞ。去年までの公式戦よりすげえや」
 十時、中日のバッティング練習開始。すでにブルペンで浜野が投げている。ブルペンキャッチャーは新宅。ケージのそばにいた一枝に、
「浜野さんが先発ですか?」
「いや、あしただ」
 そう言いながら一枝は、手前のケージに入った。バッティングピッチャーを買って出た浜野が軽く投げこむ。
「外角ゥ!」
 一枝がしきりにライト打ちをする。隣のケージにいる江藤が盛んにレフトスタンドに放りこむ。江藤に投げているピッチャーは……知らない顔だ。
「ボールの行方にご注意くださいませ」
 ギョッとするほど美しい声が場内に響く。


         二 

 高木が、
「金太郎さん、打ってこい」
 一枝と交代する。シャッターの音が連続で鳴る。
「低目だな!」
「はい!」
 少し浜野の球速が増す。一球目膝もと、軽く掬い上げ、ライナーで中段へ。もう一球と指で示す。外角低目の速球。踏みこんで押しつける。左中間のフェンスをかすめて打ちこむ。江藤が、
「ナイス、バッティング!」
「サンキュー! きょうはこれでいいです」
 三塁側ベンチに東映のユニフォームがいちどきに現れる。一塁ベンチからじっくり見る。地色はグレー、アンダーシャツと上着の袖とズボンラインは紺、ストッキングも紺で、上部に赤を白で囲んだサークルラインが入っている。スパイクは黒。紺の帽子のロゴはF。胸のロゴは青い筆記体で、Flyers TOEI。白と赤で囲んでいる。あまりスッキリしたユニフォームではない。水原監督のデザインではないだろう。
 客が七割方になった。二万五千人。あと一時間もすればぎっしり満員になるだろう。ネット裏を見るが、主人たちがどこにいるかわからない。島谷がしきりにセンターに打ち返している。太田は常にスタンドを狙う。フォックスの姿はない。二軍に落とされたままなのだろう。三塁ベンチに東映の選手たちがぞろりと座った。目を凝らす。尾崎がいた! 鼓動が早くなる。
 十時五十分、東映バッティング練習開始。真っ先に黒手袋の張本。ほとんどがラインドライブの打球だ。ときどきスタンドに突き刺さる。右投げ左打ちの毒島(ぶすじま)、強打俊足白、大杉と打っていく。毒島と白は強烈なライナーを飛ばし、大杉はポンポンといい角度でスタンドに放りこむ。ケージの向こうへ背番号19が背番号22と歩いていき、キャッチボールを始めた。尾崎行雄と種茂(たねも)雅之だった。
 ―尾崎がブルペンでキャッチボールをしている!
 先発とはかぎらないのだ。このままキャッチボールだけで引っこんでしまうかもしれない。いましかない!
 私はベンチを飛び出て三塁側ブルペンへ走っていった。フラッシュが何発も光る。
「尾崎さん!」
 振り向いた丸い顔がニッコリ笑った。私の目のあたりまでしか背丈がなかったが、圧倒的な重量感があった。
「お、神無月くんだね。ホームラン製造機。美男子だなあ!」
「握手してください。小さいころからあこがれだったんです」
 握手をする。すぐそばの客席から拍手が上がり、スタンド全体に拡がっていく。カメラを抱えた記者たちが集まってきて写真を撮りまくる。
「ぼくと対戦したいと言ってくれたんだってね。ありがとう。とんでもなくうれしかったよ。きょうは二回まで投げる。松木監督の計らいだ。金田さんを打ち砕いてしまったきみと対決するのは怖いけど、なんとか打ち取るように全力でがんばるから、きみも全力でぶつかってきてくれ」
「はい! 背番号19を触らせていただけませんか。一生の思い出にします」
「ああ、いいよ。さあ、どうぞ」
 大きな背中を向ける。上下にさするように丁寧に触る。自然と涙がこぼれた。喚声の混じった拍手の中でストロボが焚かれる。
「ありがとうございました」
 振り向いて、
「泣いてたの? ありがたいなあ。ぼくも一生の思い出になった。ぼくは小さいころから水原監督の大フアンだった。彼にどこまでもついていきなさい」
「はい!」
 尾崎も目を潤ませた。
「じゃ、失礼します!」
 もう一度握手し、走ってベンチに戻ると、水原監督がやさしい目でうなずいた。江藤が私を抱き締める。東映のほかの選手と握手する気はない。幼いころに腹の底から感動したのは尾崎だけだったから。田宮コーチが、
「あんなことできるのは、金太郎さんだけだよ。きょう投げるって言ってた?」
「はい、二回まで。松木監督がぼくと対戦するよう取り計らったそうです」
「肩も砕けよとばかりにくるな」 
 観客が隙間なく埋まった。三万五千人。子供のころもこんな満員の中日球場を見たことがない。諸所でテレビカメラが回る。ベンチ後列で何人かのレギュラーが、握り飯を食ったり、弁当を使ったりする。
 十一時四十分。ドラゴンズが守備練習に入る。私は独り塀沿いにスピードを乗せたランニングを一本やってウォーミングアップ完了。レフトの守備位置につく。ノッカーは水原監督。内野ノック十分。外野ノック十分。何本かのレフトゴロをセカンドへ手首だけのゆるいボールを返す。
「もう一本!」
 水原監督のノック姿は美しいことで有名だ。その監督が各外野へ頭上を越えるライナーを打ってきた。中、江島、太田、葛城、菱川、私とつづく。私はクッションボールを素早く処理し、渾身の力でバックホームする。返球は三本間で激しく滑り、木俣の顔を目がけて突き刺さった。
「ウオーッ」
 三万五千人の歓声が湧き上がる。尾崎はこんなことを七年もつづけてやってきたのだ。バックホームなぞ、一試合に二、三回にも満たない。どんなナマクラ肩だって長持ちするに決まっている。また涙が流れてきた。肩も砕けよ! 腕ももげよ! 
 十二時。守備練習交代。涙を腕で拭いながら駆け戻る。ベンチの隅にいき、タオルで涙を拭う。水原監督と松木監督がバックネット前でメンバー表の交換をする。いなり寿司と海苔巻を食う。
 東映の内野守備。大下と大橋の連係プレイをじっくり見る。堅実だ。しかし巨人と同様、華麗さがない。外野守備。張本の肩が弱い。十二時二十分。東映の守備練習が終了すると同時に、係員三名が内野グランドの整備にかかる。入念な整備と併行して、美しい声のウグイス嬢が両軍のスターティングメンバーを発表しはじめる。
「本日は中日球場へご来場まことにありがとうございます。本日の試合は、中日ドラゴンズ対東映フライヤーズオープン戦第一回戦、五分遅れて十二時三十五分試合開始でございます。まず両チームの先発バッテリーを発表いたします。中日ドラゴンズ、ピッチャー小川健太郎、キャッチャー木俣達彦、東映フライヤーズ、ピッチャー尾崎行雄、キャッチャー鈴木悳(のり)夫」
 期待とも失望ともつかないどよめきが上がる。尾崎の現在の評価がわかる。
「つづいて、東映フライヤーズのスターティングメンバーを発表いたします。一番セカンド大下、セカンド大下、背番号1」
 カールトン半田コーチが、
「ガッツの人ね。水原さん、かわいがってました」
 江藤が、
「大橋と鉄壁の二遊間と呼ばれとる。大下の隠し球に気をつけろ」
「二番ライト毒島、ライト毒島、背番号33」
 なぜか幼いころに強烈な印象を受けた覚えがある。細面の青いヒゲ面。背番号33も憶えている。右投げ左打ちだからだろうか。三塁打の多い男だったからだろうか。打球が外野のあいだを抜けていくことが多いのだ。いや、そんなのは、わがチームの中も専売特許にしている。やっぱり、その名前のおどろおどろしさのせいだ。
「三番センター白、センター白、背番号7」
 きょうバッティング練習で見かけただけで、テレビで観た覚えがない。強打俊足というのは資料で知った。私が小学生のころにはプロ球界にいなかったのかもしれない。
「四番レフト張本、レフト張本、背番号10、五番ファースト大杉、ファースト大杉、背番号51」
 暴れん坊がたくさんいるチームの中でも大杉は筆頭格だそうだ。分別がないということだ。好ましい。才能と分別を兼ね備えた者は少ない。残念ながら、評判高い暴れん坊たちが暴れている現場を目撃した記憶はない。案外分別があるのかもしれない。
「六番サード岩下、サード岩下、背番号2、七番キャッチャー鈴木、キャッチャー鈴木、背番号9、八番ショート大橋、ショート大橋、背番号3、九番ピッチャー尾崎、ピッチャー尾崎、背番号19。つづいて、中日ドラゴンズのスターティングメンバーを発表いたします。一番センター中、センター中、背番号3」
 轟然と拍手が上がる。ここからはアナウンスが聞き取れないくらい拍手と歓声が引きも切らなくなる。
「二番セカンド高木、セカンド高木、背番号1、三番ファースト江藤、ファースト江藤、背番号9、四番レフト神無月、レフト神無月、背番号8、五番キャッチャー木俣、キャッチャー木俣、背番号23、六番ライト伊藤竜彦、ライト伊藤竜彦、背番号7、七番サード太田、サード太田、背番号40、八番ショート一枝、ショート一枝、背番号2、九番ピッチャー小川、ピッチャー小川、背番号13。球審は萩原、塁審は一塁竹元、二塁柏木、三塁山本、線審はレフト沖、ライト田川でございます」
 高木に、
「萩原という球審の特徴はありますか」
「これといって、ないね。戦後六、七年、巨人のセンターで活躍した人だ。呉(ご)という名前でね。その後結婚して萩原に改名したようだ。そろそろ五十近いパリーグのベテラン審判だよ。さ、張り切っていこう!」
 十二時三十五分、喝采の中、全員守備位置に散る。ホームチームなので後攻だ。レフトスタンドの拍手にグローブを上げて応える。中とキャッチボールをしながら、オープン戦初日の興奮を静める。外野手間の距離はおよそ三十七メートル。遠投というほどのものではない。中は伊藤竜彦とキャッチボール。伊藤竜彦は江藤と同期の十年選手だと頭に入れている。三年間二軍でくすぶり、四年目でレギュラー格になった。内外野をこなすユーティリティプレーヤー(便利屋)らしい。出場機会はけっこうあるようだが、影が薄い。一度も会話をしたことはない。いつも食堂の片隅でひっそりめしを食っている。
 小川のスイスイ投球練習。相変わらずスピードが乗っていて見応えがある。
「プレイ!」
 萩原球審の右手が上がった。大下が打席に入る。小川、初球内角のシュート、見逃しストライク。外角打ちがうまい立ち方をしている。バレバレだ。芸がない。二球目内角高めシュート、からだを引いて見逃しストライク。次は内角にカーブを落としてオシマイだろう。三球目、真ん中から膝もとへ落ちるシンカー。空振り三振。カーブじゃなかったけれど、内角の変化球ということだけは当たった。大下がこれを予想していたら外野の前に落とせたはずだ。
 二番毒島。恐ろしげな名前に似合わず、立ち姿はきわめて温厚だ。あいだを抜くのは常に偶然なので、左中間は詰めない。初球内角高目のストレート。バシッと大根切り。ファーストライナー。江藤が横っ跳びに飛びついた。長いグローブにスッポリ収まり、四つん這いになりながら高々と差し上げると、竹元がアウトを宣した。生きいきと内野にボールが回る。
 ―きょうも勝った。
 勝利と敗北は一瞬のうちに直観される。それを口に出すのははしたないとされているので口に出さない。ボールを回す同胞たちのユニフォーム姿が美しい。野球は数値化のゲームだ。数値化なら言葉よりも安心できる。しかし数値化は言葉がないので、ある種の永遠の無だ。正体のない無は、美しいユニフォームで正装しなければならない。
 三番白。中背だが、構えはホームランバッターのそれだ。風がある。旗がセンター方向へたなびいている。塀ぎわまで下がる。外角低目のカーブを三球見逃して、ツーワン。もう一球外角だろう。中が右中間に寄った。四球目、外角低目へシンカー。へっぴり腰で出したバットにコツンとボールが当たり、フラフラとセカンドの後ろに上がった。
「オーライ! オーライ!」
 中が突っこんでくる。みごとなスライディングで股間に捕らえた。大歓声。これこそ〈魅せる〉野球だ。胸が大きくふくらむ思いでベンチに駆け戻る。十五年目で衰えを見せない中が、みんなに尻や肩を叩かれている。私は握手して、
「右中間移動、ナイスプレイでした」
 と言った。伊藤竜彦が、
「超能力ですよ、中さん」
 とオベッカを言った。
 ベンチの最前列に座って尾崎の投球練習を見つめる。引きの早い腕からスッとスリークォーターに投げ出されるボールに、やはり驚くほどのスピードがある。
「ほんとにこのボールでダメなんかい。打てんぞ」
 一枝が言った。私もそう思った。水原監督が、
「いや、往年のドスンという感じがないよ。二回、もつかな」
 と言って、三塁コーチャーズボックスへ歩いていった。信じられなかった。中が口を引き締めてバッターボックスに向かった。尾崎は二度ワインドアップし、ものすごいスピードボールを投げこんできた。キン! と打った。センター前にライナーで抜けるかというところへ、するするとショートからやってきた大橋がさっきの江藤のように跳びついて捕った。水原監督がぼんやり空を向いている。信じた。あんな強い当たりを打たれたということは、きっと彼の言うとおり、ドスンというボールではないのだ。
 二番高木。二球つづけてストレートを空振り。三球目、外角へ小さなカーブ。バックネットへファールチップ。一瞬、百江を真ん中に主人と菅野が並んでいるのが見えた。あの券を持って年間予約席へ移動してきたのだろう。主人が誘ったのにちがいない。その十列ぐらい下の一塁寄りの席に村迫と小山オーナーが坐っていた。尾崎が二度ワインドアップした。すごいボールがくるとわかった。うなりを立てて速球がど真ん中にきた。高木のからだがバットといっしょにくるりと空転した。私はマウンドに向かって拍手したい気持ちを抑えた。
「すごいよ、とんでもなく浮いてきたよ」
 高木は小走りに戻ってきて言った。
「きょうの尾崎はちがうぞ。おい、首位打者、なんとかしろ」
 田宮コーチが言う。江藤が手に土をつけてボックスに入った。すべての投球が二度ワインドアップになった。私はネクストバッターズサークルに入らずに、ベンチ前に片膝を突いて尾崎の球筋を横から見きわめようとした。初球、真ん中ストレート。空振り。確かに浮いてくる。ただし、低から高へではなく、高から高へ浮いてくるのだ。低目を投げても伸びないということだ。それなら、もう一歩前へ出れば、浮く前のボールを高目の速球としてバットを合わせることができる。低から高へ浮かれたら対処のしようがない。浮く瞬間を捉えにくいからだ。高から高へのボールは、ミットがパーンという音を立てるが、低から高ならバツンだろう。つまりドスンだ。水原監督が言ったのはこのことだ。江藤が少し前へ出た。二球目、外角へ速いカーブ。ストライク。江藤はバットをピクリとも動かさずに見逃す。三球目、真ん中低目の速球。ボール。やはり浮き上がらない。江藤のグリップが高くなった。高目狙い。尾崎が打たれないようにと祈った。四球目、真ん中高目のストレート。振り下ろす。空振り!


         三

 私はグランドへ飛び出し、笑みを浮かべながら一目散に守備位置へ走った。よかった。だれにも打たれなかった。あのボールは江藤のように工夫しても、まず打てない。尾崎は百パーセントあのボールで勝負してくる。伸びない低目を私に投げてくることはない。全球高目のフロートボールだろう。一か八か、球筋の上を振るしかない。私はイメージの中で胸の高さのレベルスイングをした。
 二回表、小川は張本をショートゴロ、大杉をセンターライナー、岩下を三振に切って取った。小川にいつもの牛若丸の雰囲気が出てきた。ベンチに駆け戻り、コーチャーズボックスに向かおうとする水原監督に、
「ぼくに打たれなかったら、尾崎は復活ですか」
「いや、金太郎さんには打たれる。気の毒だけどね」
 そう言って、両手をパチンパチンやりながら歩いていった。
 ライトが最深の守備位置をとった。センターとレフトも定位置よりはるか後方へバックした。大歓声が上がる。私はボックスに入ると、ヘルメットを取り、慇懃無礼にならないようかすかに萩原球審に頭を下げた。歓声が止んだ。
 尾崎は二度ワインドアップした。独特の笑っているような顔だ。スッと腕を引いて胸を張り、ほとんどサイドスローの角度で素早く投げ下ろす。球筋を見失うほど速い。どこにくるんだ? 鈴木のミットが差し出され、浮き上がって外角高目に納まった。ボール。キャッチャーがミットで捕れるボールをバットで打てないはずがない。キャッチャーの目はピッチャーを真っすぐ見ている。迫ってくるボールを両目の真ん中で見て捕球する。バッターは正面を向くわけにいかないので横目で見る。
 ハッと気づいた。私の顔はほとんど正面を向いている。野球を始めたころからだ。阪急の長池が肩にあごを載せるのも、顔を正面に向かせたいからだ。私は徹底して顔を正面に向かせるために、かなりオープンスタンスにした。二球目、胸の高さの外角のボールが真ん中へするどく曲がり落ちた。ストライク。やはり大投手だった! ストレートもカーブも水準をはるかに超えている。ずっと対決したいと思ってきた偉大なピッチャーと、いま私は対決している。
 ワインドアップ、そしてもう一度ワインドアップ、三球目。きた! ど真ん中のストレート。とんでもなく速い。しかし軌道は見える。振らなければボールだとわかる。でも私はこのボールを打つと決めていたのだ。揃えた両腕が唇の高さで水平に回転するように心がけながら、迫ってくる直線軌道のわずか上を強く振る。当たった! いつもの質量のある反撥の手応え。
 ―芯を食った。真芯でないのでホームランになる。
 すごい勢いでボールが弾き飛んだので、行方を知るために一塁ベースまでゆっくり走った。ライトの二基の照明灯のあいだを通って看板のむこうへ消えた。ライナーで看板を越えたので、ゆうに百五十メートルはいっているだろう。中日球場歴代ナンバーワンの距離にちがいない。長谷川コーチとタッチ。とつぜん、初めて聞くファンファーレが鳴る。大杉が背中を向けてボールの行方を眺めている。その傍らを素早く走り抜ける。ファンファーレが鳴り止み、スタンドが静まり返る。二塁ベースを蹴る。嵐のような歓声が押し寄せてきた。尾崎を見ると、私に向かって笑いながらグローブを振っている。私も左手を振りながら走った。フラッシュが何発もきらめく。三塁を回り、水原監督と初めての両手ハイタッチ。監督は私といっしょに走りながら、
「尾崎はきょうだけ復活したよ。あれはふつう打てる球じゃない」
「はい、そう思います! マグレでした!」
 ホームベースをしっかり踏んで駆け抜け、待ち構えているチームメイトにからだを預ける。太田と菱川が目を赤くしている。菱川が胸をぶつけるようにして私の腕を握り締める。田宮コーチが、
「金太郎さんはよほどスタンドに入るホームランが嫌いなんだな。看板の内側に打ってもホームランなんだぞ」
「嫌いじゃありません。金田でスタンド入り最短のホームランを打ちましたよ」
「そうだったな。一週間も経ったから忘れちまった」
 半田コーチのバヤリース。
「右手の使い方、すばらしかったネ。ジーニャスさん」
 復活尾崎は、木俣、伊藤竜彦、太田と三者三振に切って取った。二回裏も、一枝、小川、中と三振に切って取り、そうして、にこやかにマウンドを降りた。七人に対戦して、三振六つ。あしたの新聞の見出しは、尾崎一色になるだろう。もと広島のエースピッチャーの長谷川コーチが、
「尾崎は、きょう幕引きの予行演習のつもりで力投したんだな。肩の悲鳴が聞こえてきた。だましだまし、三、四年もしないうちにまちがいなく引退だよ」
 聞く耳を持たなかった。私にはそんな悲鳴は聞こえなかったからだ。ゼロ対一。
 二回以降小川は、コース取りのきびしい、柔軟な投球をつづけ、六三振、単発三安打を許したきり、七回まで零点に抑え切って浜野に交代した。
 フライヤーズは三回から七回まで高橋直樹が投げ、五安打四点に抑えた。私は三度顔を合わせて、左中間二塁打、センターバックスクリーンへのツーラン、胸もとに曲がりこむカーブを打ち損ねたキャッチャーフライだった。タイミングはしっかり合っていた。高橋が奪った三振は伊藤竜彦の一つきり、高木、一枝にシングルを打たれ、七回には伊藤竜彦の代打で出た千原にツーランを浴びた。
 七回裏が終わってゼロ対五。八回表の東映はクリーンアップからだった。小川の後を託された浜野のふてぶてしい態度を見ていて、洗礼を受ける必要があると思った。いつも勝ち試合で出てきて、楽に勝利投手になってはいけない。追い詰められる心理というものを経験しないまま増長していく。打たれろ、と思った。
 思いが通じた。さっそく白が右中間の二塁打を放った。数少ない東映ファンが沸き立った。つづけて張本が右中間へツーランホームラン、さらに大杉が左中間へソロを打って、たちまち三対五になった。水原監督はピッチャー交代を告げない。
 岩下、私の前へヒット、鈴木ライトフライ、大橋センター前ヒット、ワンアウト一、三塁。浜野は六人に五本の長短打を打たれた。高橋直樹に代えてピンチヒッター三沢。聞いたこともない名前だ。この小さな左バッターが初球のカーブを強振して、ライトポールぎわへスリーランを放った。六対五。あっという間の逆転劇だった。生半可な変化球で小細工しようとした結果だ。それでも水原監督は浜野を代えようとしない。浜野は鬼のように真っ赤になり、大下、毒島とストレートだけで勝負し、三振に切って取った。カーブやシュートで打ち取ろうとしないで、慎重にコースを突いたストレートを使ったのだ。プロ野球選手は変化球の見切りに慣れている。それに浜野は気づいたのだ。いや、直観が囁いたのだ。判断が常に後手後手に回るのはこの男の習性かもしれない。水原監督が彼の丸まった背中を叩いてねぎらった。
「浜野さん、約束を果たしますよ。逆転します。九回を投げ切ってくださいね」
「九回は小野さんだよ」
「いえ、浜野さんの続投だと思います」
 水原監督は責任をとらせるつもりだ。八回裏は二番の高木からだった。高橋直樹に代わって同姓の高橋善正が出てきた。
「だれですか。のらりくらりと投げてますね」
 長谷川コーチに訊く。
「おととし中央大学からドラ一できて、十五勝挙げて新人王になった男だ。去年も十三勝挙げてる。まあエース級だな」
「ダブル高橋か」
「善正とは去年のオープン戦以来の対決だ。サイドハンドのクセ球使いだけど、ストレートには威力がない」
「落ちるシュートは?」
「それがウィニングショットだよ。追いこむまでは投げてこない」
 そんな話をしているうちに高木がそのシュートを呼びこんで、レフト前へ渋いヒットを打った。高々と上がる喚声に、ここが中日球場であることをあらためて思い出した。超満員のスタンドを見渡す。バックネットを見る。同じ場所に三人と二人がいる。主人たちは固唾を飲んでいる雰囲気だ。村迫代表や小山オーナーの態度には余裕がある。彼らのほかに、最前列に居並ぶ関係者たちの顔がようやく目についた。他球団の偵察要員もいるようだ。スタンドの観客が期待していることはただ一つ。江藤が私につなぐバッティングをして、私がランナーを一掃すること。
 江藤が私に向かって親指を立てた。私に回すためのチームバッティングをするという合図だ。たぶんライト方向の短打狙いだろう。察してライトの毒島がやや前進する。それがアダになった。初球、外角高目のスライダーを流し打った打球は彼の頭上を越え、フェンスにぶち当たって転々と転がった。ノーアウト、ランナー二塁、三塁。水原監督が激しく手を叩く。ネクストバッターズサークルを出るとき、きょう初めてベンチから金太郎コールが上がった。
「金太郎!」
「金太郎さん!」
「もう一発いけ、金太郎!」
 バッターボックスに立ったとたん、ベンチの怒鳴り声に合わせるようにスタンドから歓声が沸き立ち、たちまち静まり返った。
 シュートを投げてくる前に打つと決める。初球、まず胸もとのカーブだろう。そのとおりにきた。ボール。横に大きく動く奇妙な曲がり方をするが、尾崎に比べればヘロヘロ球だ。ヤマをかける必要などない。二球目、外角へ外しすぎたカーブ、と見せて、大きい曲がりでギリギリのストライクコースに落とす。ワンワン。三球目、膝もとへボールになるストレート。
 ―よし!
 あわよくば引っかけさせてファーストゴロにでも打ち取るつもりだったのだろうが、このコースは私には絶好球なのだ。素直に力をこめたゴルフスイングをする。しっかりと芯を食い、第一打席よりも少し右の看板を越えていった。マッコビーが越えた看板だ。めずらしく高木が跳びはねてホームインする。大杉が、
「どえらいのが出てきよったなあ!」
 と言って、ファーストミットで私の尻をバンと叩いた。ファンファーレ。江藤が拍手しながら走る。すさまじい歓声が追いかけてくる。水原監督と三度目のハイタッチ。ベンチの祝福。バヤリース。六対八。逆転し返した。スコアボードの時計は二時五十五分。一本だけ立っている旗が垂れている。
 ベンチの椅子に落ち着く間もなく、木俣レフト線の二塁打、千原ライト前ヒットとつづく。木俣生還して六対九。太田センター前ヒット。ノーアウト一、二塁。高橋から剛球森安にピッチャー交代。一枝の代打島谷、左中間へ二塁打。一点追加して六対十、ノーアウト二、三塁。やはり浜野がそのままバッターで出てきた。森安は荒れ球だと知っているので、ホームベースから遠く離れて立つ。見逃し三球三振。中、レフトへ浅いフライ。弱肩張本は中継の大橋への送球がやっとで、太田ホームイン。六対十一。高木レフトライナーでチェンジ。ドラゴンズの全攻撃終了。
 五点差で九回表に入った。浜野続投。
「何点でもくれちゃれや。また取り返しちゃるけん」
 江藤の激励に発奮し、浜野はマウンドへ走っていってウオーッと一声吠えた。同僚でいるのが恥ずかしい。
 白、初球の真ん中ストレートを島谷へ速い打球のショートゴロ。島谷、胸に当ててハンブル、すぐに拾い上げて一塁送球、間一髪アウト。島谷の強肩を見た。一枝がハンブルしていたら間に合わなかった。
 張本が一球目の内角高目にヘッドアップしてすごい空振りをした。彼のもくろみが透けて見える。流し打つ。きょう一日で彼の癖がすっかりわかった。早いカウントでは大振りをするが、すぐに単打法に切り替える。長打の前に空振りをする江藤とまったく逆だ。打率にいちばん価値を置いているからにちがいない。やはり握手したくないと思った勘は正しかった。すでに三塁ベンチに尾崎の姿はない。背番号19の感触が甦ってきた。
 両ベンチ脇の記者席の動きがあわただしくなってきた。試合終了が近い。とたん、張本が流し打った。ドライブのかかった打球が私の前に飛んでくる。ふつうに取りにいったのでは間に合わない。私は中をまねてスライディングした。滑りすぎて、打球が股間ではなく顔にきた。キャチボールのように捕球した。照れくさい。観客はファインプレーと誤解して盛大な拍手をした。照れくさいまま三塁へ走っていって、太田にボールをトスした。
「早く滑りすぎたよ」
「格好よかったですよ。ナイスプレイ!」
 浜野が私に向かって吠えている。仕方なく手を上げて応えた。守備位置に駆け戻る。
 あと一人。大杉勝男。美しくないモッコリした体形、えらそうで恐ろしげな面構え。グローブのような手がバットを軽そうに握っている。ヘッドをピッチャーに向けて倒した構えから手首が強そうだとわかる。
 初球内角高目シュート、バックネットへ高く打ち上げるファール。それを見上げる顔つきもえらそうだ。さっきファーストベースを回るときに私の尻を叩いた力も、祝福にしては強すぎた気がする。二球目、内角低目のシュート。見逃し。ボール。いちいちバッターボックスを外して呼吸を整え、足もとを均してバッターボックスに立つ。プロ野球選手のほとんどがこれをやる。私の最も嫌いな作法だ。高校野球まではだれもやらない。大学野球の強豪チームの選手にチラホラこの傾向が出てくる。
 三球目、外角低目のカーブ。ストライク。どうしたのだ。どうしてストレートで押さないんだ。四球目、内角シュート、ショートバウンド。歩かせようとしてるのか? そんな馬鹿な。みんな早く帰ってあしたに備えたいのだ。五球目、外角ストレート。のめってガシンと引っ張る。やられた! 彼は流さない。のめった態勢から確実に引っ張っている。私の頭上に高いフライが上がる。中日球場の塀は日本一低いと聞いた。森徹のホームランをキャッチしたスタンドに向かって打球が伸びていく。私は低い塀によじ登って金網につかまり、左半身をグランドに向けながら待ち構えた。白球が曇り空から落ちてくる。のめって打った分伸びがない。捕れそうだ。捕れる。グローブをスタンドに差し出して、捕った! 飛び下り、線審の沖に示してアウトのコールを受け、そのボールをスタンドに投げ入れた。
「ゲーム!」
 萩原球審がバックネットに向かって試合終了を宣告する。スコアボードの時計が三時十八分を指していた。ダッシュ。スタンドの北村一家に手を振る。代表とオーナーに手を振る。彼らも気づいて振り返す。


         四

 記者たちの手で小川といっしょにベンチ前へ引っ張っていかれた。顔の前にマイクの束が突き出される。メモ片手に報道陣が取り囲む。デンスケが回る。水原監督はベンチ脇でインタビューを受けている。
「オープン戦、新人初打席ホームラン、新人一試合三ホームランは、ともに史上初の快挙です。ご感想はいかがですか」
「オープン戦で活躍した新人は本番ではだめだというジンクスがありますから、そうならないよう心して鍛錬します」
「きょう、印象深かったことは?」
「尾崎行雄選手と握手し、背番号を触らせてもらったことです。涙がこぼれました」
「尾崎選手も目を赤くしていました。私も記者席でもらい泣きしました。ドラゴンズ、今年は優勝ですね」
「この一戦だけで胸を張ることはできませんが、交流試合を二つ闘った感触を合わせて考えて、まっしぐらに優勝を目指してもいいんじゃないかと思います」
 球場に拍手と歓声が渦巻いた。小川にマイクが向けられる。
「勝利投手を浜野選手に持っていかれましたね」
「いいんだよ。オープン戦だから。今年は、ベテランはもちろんのこと、神無月や島谷や太田といった新人、それから五年目の菱川がいい。これにベテランを足して打撃陣はオッケーだ。俺たち投手陣もそれにグイグイ引っ張られてる格好だよ。四月から破竹の進撃をしますよ。うちの悪い癖で、途中で勢いがパタッと止まっちまうことが多いんだが、今年はなんとかいけるんじゃないの。俺もやるよ。浜野は燃えたら強い。いずれ何かのタイトルを獲るな。続投させた水原さんはよく見抜いてるよ」
 褒めすぎだ。きょうはどこもいいところがなかった。小川と私は半田コーチや長谷川コーチに肩を抱えられ、記者の群れをよけながらベンチに退がった。バヤリースを一本。
「お疲れさん!」
 太田と江藤と握手する。水原監督が、
「金太郎さん、チームがすっかり生まれ変わった。ありがとう。あしたも頼む」
「はい。でも江藤さんのライト打ちがなかったら、逆転できませんでした」
「そうそう、そうやって団結していってください」
 私は田宮コーチに、
「みんな、どこへ帰るんですか」
「名古屋在住でないスタッフは、タクシーで名古屋観光ホテル。寮生は球団バスで西区堀越の昇竜館。名古屋に自宅がある連中は自家用車でご帰還だな。東映チームは自前で調達したバスで名古屋駅だ。金太郎さんは?」
「駐車場に北村席の車が待ってますので」
「そうか。気をつけて帰れよ」
 初対面のスコアラーが寄ってきて、手描きの図を見せる。
「これが、神無月さんが紅白戦以来ホームランを打った全コースです。顔より下の高さ、外、中、内、ぜんぶ打ってます。このデータは全チームにショックを与えてるはずです。あとは敬遠のボールでも打てば、ショックが絶望になります」
 水原監督が声を上げて笑い、ベンチじゅうに伝染した。
「スコアラーって、どこにいるんですか」
「ウグイス嬢の横です。彼女、下通(しもとおり)さんというんですが、神無月さんの大ファンで、バッターボックスの姿を見てるだけでからだが熱くなると言ってましたよ」
「二十五、六歳の人の声ですね」
「三十過ぎてますけど」
「え! あんな若々しい声で」
 またまた爆笑になった。
 ロッカールームに戻る。高木のロッカーに紐で縛った小さいグローブが吊るしてある。水に漬けて濡らしたらしいグローブの掌にソフトボールが握らせてあった。高木が、
「あのまま二週間ぐらい干しとくんだ。それからこぶしで叩いたり、ギュウギュウ曲げたりして形を作る。俺は利ちゃんとちがって三年にいっぺんはグローブを換えるからね。新品のグローブはかならずそうする。俺がチームやファンに貢献できるのは守備が八十パーセントだから」
 胸の底からひたひたと感動が押し寄せてきた。なんという精力! 私はグローブを磨くだけだ。高木は守備による他者への貢献を心がけている―私はバットによるそれを心がければいい。その努力は足りているだろう。
 着替えをすまし、汚れたユニフォームやアンダーシャツを入れたダッフルを提げて、みんなに別れの挨拶をしてから関係者通用口を出る。菅野と主人と百江が待つ駐車場へいく。三人が車のそばに立っている。
「ただいま!」
「お帰りなさい!」
「大活躍、おみごと!」
「ありがとうございます」
 男二人にちょこんと添いかけている百江に訊く。
「初めてプロ野球の試合を見て、どうだった?」
「ただ美しいだけで……夢のようでした」
「ぼくも小学校のとき初めて見て、同じように感じた。校庭とちがう。それでプロ野球選手になろうと本気で思った。どんな没頭にも美しさが最優先する」
 主人が、
「ナイターはもっときれいやぞ。芝生が色づくころは特にな。また連れてきてやる」
「はい、楽しみにしてます」
「これ、きょう着たユニフォーム一式。帽子もクリーニングに出して。トモヨさんに渡してくれればいい」
「帽子も? 洗えるんですか」
「洗えるよ。放っておくと、汗の塩が染みてみっともなくなるんだ」
 主人が助手席に、私と百江が後部座席に乗りこんだ。
「そろそろ四時半になります。飛ばして帰りましょう。今夜はお嬢さんがすき焼きだって言ってました」
 主人が、
「打撃戦にしてはけっこう短い試合でしたね。三時間弱」
「これで短いほうなんですか?」
「はい、ペナントレースはたいてい三時間を超えます」
 菅野が、
「平均して、中学生は二時間、高校生は二時間十五分、大学生は二時間半、プロ野球は三時間二十分。最短試合はご存知ないでしょう」
「知りません」
「昭和二十一年の一リーグ時代です」
「あ、菅ちゃん、正解を言うな。……五十五分やろ?」
「はい。どこ対どこですか?」
「うーん、片方は大阪やったな」
「そうです。七月二十六日、西宮球場、パシフィック対大阪、ゼロ対一で大阪がα勝ちしてます。勝利投手渡辺誠太郎、負け投手湯浅芳彰。二塁打も三塁打もホームランも出なかった試合です」
 私は、
「クイズ王になれる! そのころの試合って、興味あるなあ。一リーグ制というのはいつごろのものですか」
「昭和十一年から十九年、中断があって昭和二十一年から二十四年の十三年間です。その間、巨人が六連覇を含めて九回優勝してます。巨人軍第一期黄金時代。昭和二十一年の優勝は、山本一人(かずと)、去年まで南海の監督だった鶴岡さん率いる近畿グレートリングです。大阪は三位、パシフィックは八チーム中最下位でした」
「その十三年間のホームラン王はわかりますか」
「年度順じゃないですけど、だいたいわかります。二本から十本打てばホームラン王の時代が昭和十九年までつづいて、主だったところでは大阪タイガース藤村富美男、東京巨人軍中島治康、大阪タイガース松木謙治郎、南海軍鶴岡一人、東京巨人軍川上哲治、名古屋軍服部受弘。昭和二十年のプロ野球休止期を挟んで、二十一年からとつぜん二十本打つ人間が出てきました」
「大下弘ですね」
「はい、セネタースの大下弘。二十二年には東急フライヤーズで十七本打ちました。それから二十本以上打つ人が続々出てきて、昭和二十三年には読売ジャイアンツの青田昇と川上哲治が仲良く並んで二十五本、二十四年に大阪タイガースの藤村富美男が一挙に四十六本打って、一リーグ時代の終わりに花を添えました」
 主人が、
「菅ちゃん、最長試合はどうや」
「それも一リーグ時代です。昭和十七年の五月二十四日、後楽園での名古屋対大洋戦です。延長二十八回、四対四、三時間四十七分」
 私は驚き、
「なんだ、その程度ですか。三試合分やってそれなら、一試合一時間チョイ」
「どんな打撃戦も四時間を超えるなんてことは考えられなかったですからね。三時間半がメドです」
 百江が、
「男の人ってすごいですね」
「菅ちゃんがすごいんだよ。野球の生き字引だから」
「お父さん、座敷にいつも百貨事典を置いといてください。寝転んで見るようにします」
「ちゃんと新しいのを買って置いときましょう」 
「社長の知識もすごいですよ。二人合わせて野球百貨事典ですね」
 名駅通に並行する二車線の県道を通って笹島へ。極端に家並の低い、並木に縁どられたすがすがしい道だ。いちいち菅野が通りの名前や建物の名前を口にするのが楽しい。暮れなずんできて、空が薄紫に染まりはじめる。百江が、
「試合中にお二人にいろいろ野球のことを教わりました。これからは一人で観てもだいたいわかります」
 手を握ってやる。菅野が、
「あの二本の特大場外ホームラン、米粒みたいになって消えていきましたね。あしたの新聞に推定飛距離が出るでしょうが、日本の最長不倒じゃないかなあ。たぶん中西太を抜きましたよ」
「田宮コーチが、スタンドの中に打てばホームランなんだからと言ってたので、これからはスタンドにもたくさん打ちこんで、数を稼ごうと思います。とにかくシーズン記録を樹ち立てなくちゃ」
「その意気です」
「あとは江夏からホームランを打てば、当面の目標は達成です。……尾崎行雄の背中も背番号も大きかった。彼は復活したと思います。彼はぼくにしか打たれてない」
 主人が、
「神無月さん、尾崎は最後の蝋燭を灯したのかもしれませんよ。そうでないことを祈りますけどね。まだ二十五歳なんですから」
「……水原監督は復活だと言ったけど、長谷川コーチはさびしそうな顔をしてました」
 北村席に着くと、百江はユニフォームの紙袋を持って急いで門に駆けこんでいった。
         †
 すき焼きの宴のあと、尾崎や、ホームランや、特別席や、テレビ中継やインタビューの話も尽き、千佳子は勉強に戻り、素子はトルコ嬢たちと風呂にいった。厨房の後片づけの音が心地よく響く。主人と菅野はのんびり酌み交わし、経営上のかなり専門的な話をしはじめた。カズちゃんがコーヒーを持ってきた。
「キョウちゃんのバッターボックスだけ、テレビの前に坐って見ました。あんなにユニフォームの似合うプロ野球選手はめったにいないわね。どこか少年のころの初々しい雰囲気が残ってるからかもしれない。きょうは初日だから疲れたはずよ。お風呂に入ってお休みなさい。こら直人、あんたもお風呂に入って寝るのよ」
 カズちゃんは、菅野や主人の膝を渡り歩いていた直人を抱き上げてトモヨさんに渡した。
 トモヨさんと直人と三人で離れの風呂にいった。いろいろなおもちゃを浮かべて湯船に立っている子供の姿がめずらしい。はしゃいでいるのに孤独な感じがする。子供といるときの女の裸は、急に魅力が薄れる。子育ての器にしか見えなくなる。その感想はけっして口に出さない。出せばトモヨさんは悲しむ。
 直人のからだを洗ってやる。尻のあいだや睾丸の裏も洗ってやる。皮をかぶった小さな突起が愛らしい。全身に湯をかけて石鹸を流す。 
 しばらく湯に浸かって、直人の遊ぶ姿を二人で見つめる。浮かべるオモチャは、プラスチックのウルトラマン人形、ゴムボール、ひよこ、カニ、カメ……。直人は網で掬っては戻す。飽きると私たちを水鉄砲で撃つ。


         五

 翌日のスポーツ新聞の見出しは、

     
オープン戦初戦 三本!
       怪物 ホームラン王へ点火準備


 という派手なものだった。尾崎と握手しながら明るく笑っている写真が大写しで載っていた。
 その日の東映との二回戦は、七対四で負けた。プロ野球の負け試合というのを初めて経験した。打たれたピッチャーは、小野と田中勉。完投した東映のピッチャーは、新人の金田留広だった。偉大な金田正一の弟だということで、みんな物見高い目では見ていたけれども、その実力を軽んじているふうがあった。そこそこの速球とそこそこのカーブとそこそこのフォーク。それをドラゴンズの選手たちが打ちあぐねたのは、兄ほどではないだろうと飲んでかかって油断したせいだった。私と江藤と太田は油断しなかった。私は四打席のうち、ストレートとカーブをそれぞれライトスタンドの看板に打ち当て、残りの二打席は、低目のフォークを一打席は上から叩き、一打席は下から掬い上げて、それぞれセカンドゴロとセンターフライに終わった。フォークは高目しか打ってはいけないとあらためて銘記した。江藤も太田も四打席二安打、ホームラン一本。私のホームランも、江藤と太田のホームランもソロホームランだった。フライヤーズのホームランは毒島のソロ一本きりで、残りの六点は、コツコツ九回まで盗塁やヒットエンドランで搾り取ったものだった。ランナーが出ないかぎり、野球は勝てない。
 選手控え室でひさしぶりにミーティングが行なわれることになったので、観戦にきていた菅野とカズちゃんに先に帰るように手振りで告げた。二人は何だろうという顔で最前列まで降りてきた。金網越しにカズちゃんに、
「ミーティングだから、先に帰ってて」
「わかった。勝負は勝ちもあれば負けもあるんだから、がっかりしないことよ」
「わかってる。中日球場前から名古屋まで駅一つだから、ミーティングが終わって四十分もしたら帰り着くよ。六時には帰れる。きのうのすき焼きの残りがあったら、すき焼き丼作っておいて。きょうのユニフォームは自分で持って帰る」
「はい。ボルボで名古屋の道を走るのにようやく慣れたから、今度はときどきボルボでくるのもいいわね」
「そうだね。アイリスを留守にしてもいいときね」
「だいじょうぶよ。往復一時間なら、素ちゃんたちにちょっとお店を見ててもらえばいいだけのことだから」
 菅野は、
「上段に一直線のホームランというのも美しいもんですねえ。きょうはあれを見ただけでじゅうぶんです。とにかくホームランは野球の華ですよ」
 二人は手を振って帰っていった。
 ミーティングは十五分もしないで終わった。まず一人ひとりの反省。私は、
「低目のフォークに手を出してはいけないことをあらためて学びました。長打にこだわると、ともすれば機動力を忘れます。東映から単打で勝てる機動性を学びました」
 中が同じようなことを言った。
「一人ひとりが出塁率を上げないと勝てない。スラッガーの長打が生きるのも、それがあってこそのことです」
 半田コーチが、
「ソロホームランはもったいないねェ」
 島谷が、
「中継ロスでだいぶ得点されました。足のあるチーム相手のときは守備の細かいミスが響くと思います。張本さんまであんなに走ってくると思いませんでした」
 田宮コーチのまとめ。
「金太郎さんのホームランに浮かれて、ちょっとはしゃいでるところがあった。それぞれの持ち場を意識して仕事をしよう。しかし、ホームランを狙うべきところでは狙うというのが俺の持論だ。のびのびと野球をやってほしい」
 長谷川コーチが、
「完投する心意気で投げてください。打たれるまで投げて、代えてもらおうなんて思って投げちゃダメだ」
 浜野が笑いを誘うつもりで、
「それでも打たれたら、代えてくださいよ。きのうは拷問でした」
 だれも笑わなかった。長谷川コーチが、
「あれでおまえは五倍にも、六倍にも成長したんだ。ライオンに変身したんだろう? あんなに吼えたんだからな。遠吠えになりそうなときは慎めよ」
 今度は少し笑いが湧いた。最後に水原監督が、
「五日、六日のロッテ戦は、派手に足を使ってみましょうか。中くん、高木くん、フォアボールでも短打でも、もっと出塁を心がけてください。ちょっと早打ちが目立ちます。苦しいボールを打ちにいってる。金太郎さんも、ホームランか凡打というのではなく、ホームランかヒット、つまり目標を十割打者に据えてください。それでようやく五割打者になれると思う。きみはいま歴史を作っている。ただの三冠王ではなく、異様な数字の三冠王になってほしい。シングルか二塁打を打ったときは、二盗三盗を狙うこと。盗塁王争いにも加わってほしいんです。それから、みんなに忠告します。どんなピッチャーも一流と思って対決しなくちゃいけません。きょうのような油断はもってのほか。その心がけさえあれば、十二チーム中最強のクリーンアップが平らげてくれます。オープン戦はあと十四戦です。全勝するつもりでいきましょう」
「オウ!」
 江藤と太田と三人ダッフルを担いで通用口へ向かう。太田が江藤に、
「ホームスチールはどうなんでしょう」
「あれは邪道ばい。バッターのじゃまばするスタンドプレイたい。……金太郎さん、水原監督は異様な数字と言ったろう。ワシもそう思うばい。百三十試合、五十本は現実ばってん百本は架空ばい。四割は現実ばってん、五割は架空ばい。打点は二百ば超えるんでなかね。どれもこれもぜんぶ架空ばい。だれも二度と達成できん。ただ、そうなると、金太郎さんが球界を早く去ってしまうごたあ気がしてしょうがなかとよ」
「去りません。二年目からは少しずつ記録が減りますよ。いくらがんばっても、だんだん歩みはのろくなるに決まってます。今年はとにかく、八十本です」
 二人をクラブハウスの玄関まで送っていく。球場裏の関係者通用口から二分ほど歩いた。二階建てモルタルの中規模の建物だった。バスが一台停車している。周りを広い芝生で囲まれていて、生垣の外に球場帰りの人びとの姿が見えた。太田が、
「中日球場前駅まで一キロ近くありますよ。だいじょうぶですか」
「歩くのが好きなんだ」
「そうなんですよね、神無月さんは」
「中日球場前駅って山王駅のことですよね」
「昭和三十年くらいまではそう呼んどったらしか。ワシらもちょっと散歩しようや。寮バスに乗らんでよかけん、帰りはここに戻ってタクシーばい」
「いいですね、そうしましょう」
 彼らはクラブハウスの玄関に頭陀袋を置き、私と並んで歩きだした。新幹線の高架沿いの道をゆっくり歩く。空き地が多い。目になつかしい町並だ。私設工場があり、倉庫があり、アパートやマンションがあり、カバンの卸問屋があり、うどん屋がある。手のひらのような公園もある。子供の姿はなく、老人が夕暮れのベンチに座っている。
「きょうはぼくたち三人、ホームラン打ててよかったですね」
「……ワシは三十二歳で、金太郎さんより一回りも齢が上ばってん、なんやろうな、自分のほうがガキに思えて仕方なかばい。いままでやってきたことが俗やけん。商売に手出したり、宝塚の女優と結婚したり」
「そうだったんですか。知りませんでした。きれいなかたでしょうね」
「俗ばい」
「俗ということじゃないと思います。商売はいざ知らず、女性は、ふもとや高台の哲学で考える問題じゃなくて、江藤さんの純粋な興味の問題です。興味に高低はありません。ぼくは小さいころから、人が高低の感覚で捉えている金や身分に関心がない。それだけのことです」
 太田が、
「根っから競争が嫌いなんですね。恋人はあんなにみんなきれいなのに、競争で勝ち取ったわけじゃないから……」
「彼女たちの外面が美しいのは偶然なんだ。彼女たちは自分の外面を意識している美人じゃない。内面から輝いてる愛らしい女たちだ。巷の女。社会的な地位に根を張った生活をしていないので、奔放にさえ見える。ぼくだけを相手にしてくれる女たちだし、ぼくも彼女たちしか相手にしない。ぼくは、高低の哲学に冒されている女にいままで相手にされたことがない。つまり、もっと大まかに言うと、社会的な地位を得ている女から気に入られたことがないんだ。注目すらされない。自然、スキャンダルを起こすこともないんだよ。ありがたいね」
「つまり、カネば得て、うまいものば食って、女ば抱いてという生活が、人生の目標になっとらんちゅうことやな」
「はい。世間でうまいと言われるものを食ったり、世間の人たちが憧れる贅沢品を買ったり、世間が高嶺の花と言っている女と付き合ったりすることは、人生の飾りにはなるでしょうが、それだけのことです。実際においしかったり、贅沢だったり、高嶺に咲いていたりすることはまれです。うまいのは、食わせたいと思って作る人の料理だし、贅沢なのはできいい趣味の道具だし、最高の女は道端の花のように可憐で、愛情に満ちた女です」
 江藤は深い息を吐き、
「金太郎さんのごたる男は、プロ野球界に一人もおらん。みんな少しでんよけい金ば稼ぐことや、少しでん値段の高かものば食うことや、あわよくば芸能界の女と結婚することばっかし考えて、キョロキョロ目ば光らせとるばい。それが人生の目標たい。恥ずかしか。そういう浅はかなことばワシはいままでおかしかと思わんかったとたい。金太郎さん、あんたは人間国宝たい。ワシはもうぜったい離れんばい。錆びついた根性ば磨き直してもらわんといけん」
 広い通りに突き当たって右折する。喫茶店のある洒落た町並を通って中日球場前駅のガードに出た。ガードを二つくぐり、ほんの少し繁華な駅前に出る。かわいらしい木造駅舎の看板に名鉄中日球場前駅と書いてある。切符を買う。
「金太郎さん、ロッテ戦の集合の仕方、わかっとうや」
「どこのホテルか知りません。帰って確かめます」
「手紙がとっくに着いとるはずばい。和子さんが持っとうやろう。定宿は赤坂のホテルニューオータニ。名古屋からひかりで品川に出て、品川から新橋、新橋から銀座線で赤坂見附。ぜんぶで二時間かからん。品川駅にニューオータニの専用バスが待っとることもあるばってん、時間がようわからん。初日は別に最初にホテルに寄らんでもよか。十一時までに東京スタジアムにくればよかたい。午後二時試合開始だけを覚えときんしゃい」
「はい。東京スタジアム……。たしか南千住じゃなかったかな」
 四国屋のマーくんといった光の球場東京スタジアムだ。グランドが角張っていたような記憶がある。
「そうや、南千住たい」
 太田が、
「俺は江藤さんに連れてってもらうだけだからラクです」
「おう、次からはニューオータニには一人でいけるやろう。東京スタジアムは、東京球場とも言うてな、ほんなこつ豪勢な球場ばい。利ちゃんの話やと、ヤンキーズスタジアムに似せて造ったらしか。洗面台、冷蔵庫、製氷庫完備のダッグアウト、照明灯は直立六基、これがまっこと明るか。球場へ直接いくつもりなら、新幹線で東京に出て、京浜東北線で上野まで七、八分、常磐線の取手行に乗り換えて十分いうんがいちばん近いやろう。名古屋からだいたい二時間で着く」
「面倒ですね。ニューオータニで合流することにします。でも、バット、グローブ、スパイクやユニフォームは新幹線じゃ運べないなあ。やっぱり明石と同じようにしないと」
「じつは運べるったい。グローブ、スパイク、帽子といっしょに、ダッフルバッグにユニフォーム二式詰めて、バットはケースに二本持てばよかたい。一等車に乗れば、周りの客のじゃまにはならんやろ」
「なるほど。しかし、やっぱり送ったほうが安心です。移動は手ぶらがラクですから。じゃ、試合前日の夕方、ホテルニューオータニでお会いします。失礼します」
 改札を入り、二人に手を振った。
 犬山行きの赤い電車が入ってくる。乗りこむ。高架を走る。運河を渡る。一瞬、奇妙なものが見えた。一対の尖塔のようなエキゾチックな建造物だ。
「いま向こうに見えたのは何ですか」
 前の席に乗り合わせた眼鏡の中年女性に訊く。週刊誌から顔を挙げ、
「松重閘門(こうもん)です。水位のちがう堀川と中川運河の橋渡しをしてます」
「ああ、そういうの、聞いたことがあります。たしかパナマ運河がそうだった」
「ええ、松重閘門も東洋のパナマ運河と呼ばれてるんです。いまは使われていなくて、あのあたり一帯、公園になってるんですよ」
 上品に応える。ふたたび週刊誌に目を落とす。
 暮れていく市街地から、すぐにネオンの柱の連なりへ入る。次は名古屋だというアナウンスが流れている。名古屋の次は栄生(さこう)に停まると言っている。そうか。西高のそばにあったあの駅は、名鉄の路線の一駅だったのか。対向電車のまぶしいヘッドライトとすれちがう。たった二分半で名古屋駅ホームの光の中へ突入する。
 中年女性に挨拶して降りる。ホームの上にある名鉄百貨店から外へ出て、公衆電話に入る。山口や林とラビエンから酔って電話してきた詩織のことが気にかかっていた。五度コールしたが、やはり留守だった。春季キャンプで東京でない土地に遠征しているのだろう。確実に東京にいる法子に電話を入れる。先日北村席に、四月に会いにいくと電話をしてきたばかりだ。法子は大喜びした。予想していた喜びを確かめられるのはうれしい。四日の火曜日から八日の土曜日まで、ロッテ戦、巨人戦とつづくことを話す。
「毎日、新聞やテレビで見てるのよ。もう立派なプロ野球選手ね」
「ああ、別の人生が動きだした」
「東京はホテル暮らし?」
「うん。赤坂見附のホテルニューオータニ。御殿山にいってもよかったんだけど、山口のリズムを壊したくないし、毎日球場から吉祥寺へかようのもたいへんだ。それに御殿山に泊まれば、菊田さんと福田さんに迷惑をかける」
「わかる。二人ともとても忙しくしてるみたいだから。私もそわそわしちゃうし。神無月くんにしても、もう人と会うにもピンポイントを狙わなくちゃいけないような仕事に就いちゃったのよ。しばらくはとにかく、おたがい自分のことをがんばらなくちゃね」
「そうだ。がんばらないとね」
 東京の二人の女に連絡をとろうとした自分の行為に、なぜか安堵する。


         六

 トルコ嬢たちや菅野も交えて一家で夕食。大勢の賄いたちにおさんどんをしてもらいながら、何種類かのおかずの中から春雨の炒め物と、イサキの塩焼きと、餃子を選んで食った。百江は日曜日なので休みをとっている。午後のあいだじゅうテレビを観ていた北村席の人びとは、食事が終わっても私に気を使ってそばを離れない。なるべくきょうの負け試合のことを話題に出さないようにしていたが、菅野が、
「勝っても負けても、かならず神無月さんのホームランを見られると期待してファンは球場にくるんです。きょうも超満員でしたね。ライト看板の二連発。みごとでしたよ」
 別の角度から慰めようとする。私は笑いながら、
「気を使ってくれなくていいんですよ。チームのだれも負けたことを気にしてませんから。監督もね。いままで交流戦から三連勝だったから、つい油断しちゃったんですね。金田留広という新人をナメちゃった。予想とちがうボールがきたとき、ナメる気持ちがあると振りが荒っぽくなって、どんなヌルいピッチャーも打ちにくくなる。ぼくはフォークを二度つづけて打ち損じました。ロッテ戦は気を引き締めてやります」
 千佳子が、
「私もナメないで、全力で試験を受けます。模擬試験の成績がちょっといいくらいで、受かった気になってたから」
「千佳子はあしたから試験じゃないか。少し早いけど、風呂に入って横になったほうがいい。とにかく蒲団に入って目をつぶるんだ」
 素子が、
「お風呂付き合ったげる。いこ」
「うん」
 二人が去ると、トモヨさんが眠そうにしている直人を抱き寄せながら、
「大学の試験なんて、信じられないほど難しいものなんでしょうね。私なんかには想像もつきませんけど」
 私はうなずき、
「難しい。だから受かればマグレだ。マグレを起こすのは情熱しかない。千佳子には情熱がある」
 主人がカズちゃんに、
「名大というのは椙山と比べたらどうなんや」
「百倍難しいわね。椙山は情熱がなくても受かるもの」
 女将が、
「おまえでも名大は難しいかね」
「うんと勉強しないと無理ね」
 菅野が、
「私は、うんと勉強しても無理です」
「うんと勉強すれば受かるわよ。試験なんてそんなものよ。理屈なし」
 トモヨさんが直人を覗きこみながら、
「直人はどこを受けるのかしら」
 主人が即座に、
「東大に決まっとる。父親に敬意を払うなら、受かろうと落ちようと、話はそこからやろが。そのうえで何かの才能があったら、それを伸ばせるよう手を貸してやる。次に生まれてくる子はぜったい女や。そいつは和子みたいに好きにさせる。やさしい女に育ってくれればそれでええ」
 カズちゃんが、
「二人が平凡ならラクよ。世間を見習って生きるでしょうから。少しでもキョウちゃんのような才能があったら、型破りに生きるのを支えてあげないと」
「ちょっとやそっとの才能じゃ、型破りには生きられん」
 父親は菅野といっしょに煙草を吹かす。カズちゃんは直人の顔をしみじみ見つめた。
「……そうね。でも、できれば何かの才能を持って遠慮のない生き方をしてほしいわね」
 おトキさんが、
「どんな若武者になるのか、長生きして、見てみたいです」
 女将が、
「私は、このままかわいらしだけでいてほしい気もするわ」
 トモヨさんが、
「伸びのびとして、皮肉れていない子なら、それはもう郷くんのタネだという証拠です。私はそうなってくれさえすれば満足です」
「賛成。それも才能だと思うわ」
「ありがとうお嬢さん。寝かせてきますね」
 女将が、
「そのまま寝てまいなさい。ザッとお風呂入れてやってな」
「はい」
 トモヨさんが微笑しながら立ち上がり、直人を抱いて去った。おトキさんも片づけに腰を上げた。台所の物音が大きくなり、座敷の隅では女たちが雀卓をガラガラやりはじめた。
「あさっての午後には、ホテルニューオータニにチェックインか」
 私が呟くと、カズちゃんが、
「東奔西走の日々が始まるわけね」
「うん。しかしプロ球団て妙だね。一般室のホテル代、交通費、野球用具代、何から何まで出すのに、一等車だけは自腹なんてね」
「そのことだけど、きょうの昼、村迫さんから電話があって、シングルのデラックスでも宿泊代を出すと言ってたわ。ホテルから球団本部に請求がいくんですって。移動費も一等車充ての交通費を給料に加算するから遠慮しないでくださいって」
「ふうん、ぼくだけ特別扱いなんだね」
 菅野が、
「そりゃそうでしょう。言わずもがなですよ」
「ノーマルのシングルならともかく、デラックスに泊まりたいなんて言い出せるわけがないし、泊まりたくもないからね。給料に加算してくれるなら、一等車だけは遠慮なく使わせてもらおう」
 素子が風呂から戻ってきた。
「千佳ちゃん、きょうは早く寝るって。ものすご緊張しとったが」
「そりゃそうよ、生まれて初めての大学受験だもの。じゃ、キョウちゃん、お風呂入って寝なさい。客部屋に蒲団敷いとくから」
「うちももう寝るわ。お休み」
「お休み。あしたもちょっとアイリス見て回るわよ。募集の案も練らないといけないし」
「はい。メニューもそろそろ考え始めんとな」
 女将が、
「私も寝ます。おトキ、あとをよろしくな」
 厨房に声をかけた。
「はーい」
 おトキさんの返事が返ってきた。
「じゃ社長、私たちも見回りにいきましょうや。きのうはサボっちゃいましたから」
「ほうやな。これからは、中日球場の見物は交代でいかんとあかんな。店に目が届かんようになってまう。チドリと、ヤエ子が栄の夢御殿に引っこ抜かれた。アホやな。最初よくても、ケツの毛まで毟られるぞ」
「あの二人、売れっ子じゃなかったですよね」
「だから引っこ抜かれたんや。羽衣も鯱も、ナンバーファイブぐらいまではそんな不義理はせん」
         †
 風呂から上がってパジャマに着替え、カズちゃんに連れられて客部屋にいくと、一人の女が蒲団をかぶって横たわっていた。座敷でいつも私の傍らに遠慮がちにすり寄ってくる女だった。三十そこそこ。一つ二つ過ぎているかもしれない。顔に疲れのない、愛くるしい女だなとは思っていた。
「私がど真ん中の危険日に入っちゃってるし、素ちゃんもちょっと危ない日だから、きてもらったの。先週、中に出せなくてつらかったと思うから」
「きのう文江さんに出したよ」
「あさっては東京にいっちゃうんだから、一度でも多く出しておきなさい。どう、好みでしょ?」
「……うん」
 たしかに美しさよりもかわいらしさが感じられる好みの顔をしていた。しかし、また一人増えたという重苦しい気分のほうが勝っていた。女はシュミーズ姿で正座し直し、
「羽衣に勤めているアイコと申します。よろしくお願いします」
 と言った。
「本名?」
「いいえ、本名は桜井メイ子と言います。片仮名のメイ。三十一歳です。北村席に腰を落ち着けて五年になります。四年前にお見かけして以来、神無月さんのことが好きで好きでたまらなかったんです。今夜神無月さんのお相手をしてくれないかとお嬢さんにとつぜん言われて、飛び上がるほどうれしかったです。うれしすぎて、どうしていいかわかりません。おっしゃるとおりにします」
「お金になるのに、一回損するね」
「とんでもない! 私がお金を払いたいくらいです」
 カズちゃんが、
「お布施ね。いまトルコの相場はいくらぐらいなの?」
「二時間五千円です。東京のほうは八千円と聞いてます」
「高いわね! いやな男相手だから当然と言えば当然だけど。じゃ、キョウちゃん、私いくわね。なるべく早く寝てね」
「うん」
 カズちゃんが去ると、メイ子はシュミーズと下着を取って全裸になった。
「―お嬢さんは、神無月さんと一度したらからだを純潔にしなくちゃいけないから、近いうちに仕事を辞めなさい、バンスは払ってあげるからと言いました。……お風呂に入ってきました。おトキさんの枇杷酒でうがいして、お嬢さんに言われていたので、オシッコもしてきました」
「カズちゃんに気に入られたんだね。心強いことだよ」
 私も全裸になった。私のからだを見ようとしない。
「一日、七、八人としますから……ナンバーツーなんです。すみません、かなり使いこんでしまいましたけど、性病はありません」
「射精するけど、だいじょうぶ?」
「はい、安全日です」
「中でイッたことは?」
「よくわからないんですけど、一度とても気持ちよくなったことはあります。オマメちゃんみたいにイクというのじゃありませんでしたけど。……どんなことになっても、この先神無月さんにまとわりついたらいけないと言われました。もちろんそんな図々しいことはしません。北村席さんでずっと働きたいと思ってるので、そんなことしたら自分の首を絞めることになります」
 私はメイ子の股間に顔を寄せた。
「ドキドキします。あの……」
「なに」
「……大好きです」
「ありがとう」
 メイ子の太腿が激しくふるえはじめ、
「すみません、すみません、イッちゃいます、イク!」
 両脚が爪先までピンと伸びて、ふつうのアクメに達した。ふるえているあいだに挿入する。アッと息を呑み、一瞬腰がふるえた。その腰をさすりながら動きだす。ハッ、ハッ、と呼吸が荒くなる。
「ああ、神無月さん、好きです、好きです」
 反応らしい反応はない。ゆっくり動く。やさしく包みこんできた。潤沢な水気の中で弱く締めつけはじめる。少し速く往復する。
「あ、いい気持ち! すみません、へんな感じ、あ、うそ、すみません、イッちゃいます」
 きっちり締まってきた。
「イクよ、メイ子」
 名前を呼ばれた女の顔がパッと輝いた。とたんに急激な緊縛がきた。それに合わせて私は小陰唇にぶつけるように射精した。
「ああ、イックッ、イックッ!」
 射精の律動のとおりにメイ子は四度、五度と弾む。
「ううう、イク! イクウ!」
 膣が驚いたように蠕動している。こそぐように抜き去ると、横向きに丸くなって痙攣しはじめた。最初のときの素子と瓜二つだ。腹や尻を撫ぜてやる。やがてメイ子は顔を紅潮させて肘で起き上がり、すみません、とひとこと言って、もう一度ぐったり横になった。ときおり小さく深呼吸するメイ子にティシュの箱を渡す。彼女は数枚抜き取ってそっと股間を拭った。
「よかったね。とても喜んでた。ぼくもうれしい」
「こんなに感じるものだとは、きょうのきょうまで知りませんでした―。それより……神無月さんが信じられないほどやさしくて驚きました。お嬢さんから、神無月さんでないと自分の思ったようには感じられなくなるから、ついわがままを押しつけてしまう、だからじゅうぶん気配りをするようにと念を押されました。神無月さんはイロゴト師じゃないので、女のほうから本気でぶつかっていかないかぎり、ぜったい手を出してくれない。そのうえ忙しくてきつい仕事についてるわけだから、自然、放っておかれることが多くなる。でも、まちがっても浮気しちゃだめ、すぐ捨てられるわよって」
 メイ子は自分の陰阜をそっと押さえ、懸命にしゃべろうとする。
「……素ちゃんも言ってました。神無月さんのすることをぜんぶ足し算してみなさい、神さま以外の何ものでもないってわかるわよ、神さまに払うのはおカネじゃなくて人生なの、命懸けになってあたりまえよって。女の人たちばかりでなく、山口さんや、いつかいらっしゃった東奥日報のかたたちも同じだったんですね。私、決めました。……旦那さんに言って、あしたにでも仕事を辞めます」
「桜井さんは五年選手でしょう。いまはトルコだけど」
「はい、芸がないので、あの長屋で男待ちしてました。いまは羽衣のナンバーツーです。どうでもいいことですけど」
「貢いでる男がいるかもしれないね。ひょっとしたら子供がいるかも」
「男は、もう六年もいません……」
 そう言ったきりしばらく黙った。




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