三十七 

 一塁ベンチにゆっくり駆け戻る。鉦太鼓が止み、スタンドの楽しげなざわめきが球場に拡がる。田中勉がギャンブル仲間の小川と何やら冗談を言い合いながら水を一杯飲み、ブルペンへ出ていく。すでに伊藤久敏が吉沢とウォーミングアップをしていた。きょうの一番打者一枝がバッターボックスに向かう。私はマウンド上の外木場を見つめながら、江藤に、
「反り返るフォームが浜野に似てますね」
「反り返りをちゃんと反動にしてフォロースルーにつなげとる。浜野より五キロは速いし、キレもだんぜん上たい」
「ぼくと同じ考えです」
「高木と江島は外木場に弱かけんが、ワシはかなり得意にしとるんぞ。金太郎さんになんとか回すけんな」
「はい!」
「ヨエ、ヨエ、ヨエー!」
 コーチ陣のかけ声。初球、胸もとのシュート。ストライク。力がある。打たなくて正解。
「ナイスセン、ナイスセン!」
 私のかけ声の意図がわかって、ベンチ中がナイスセンを唱和する。外木場がこちらに胡乱な眼を向けた。二球目、浮き上がってくる真ん中ストレート。空振り。江藤は新聞でこのボールを打つと言っていたが、そう簡単にはいかないものだ。一枝はスパイクの底をバットでコンコンと叩いた。たぶん外角へカーブを落とす。とすればわかりやすい配球になる。三球目、外角ぎりぎりへパワーカーブ。バックネットへファール。ネットがあることを忘れて、観客が左右へ身をよけた。ボールに力があるのでわかっていても打てない。しかしタイミングが合っている。
「一枝さん、打ちますね」
「おお、打つやろうな」
 四球目、外角甘い高さへふつうのスピードのカーブ。叩いた。一、二塁間をライナーで抜けた。高木が気力にあふれた素振りをしてボックスに入った。きょうは七番に入っている中がクスクス笑い、
「バントだよ」
 と言った。江藤もニヤニヤしながらウェイティングサークルに向かった。きょうは控えの中が、
「モリミチがブンブン振って打席に入るときは、たいていバントだ。平光さんはふつうの審判よりストライクゾーンが広いんだけど、鈴木さんは同じコースでも直球はストライク、変化球ならボールなんだ。きょうの外木場の内角外角のカーブはたいがいボールにされるぞ。直球が多くなる」
「それなら打ったほうが……」
「浮いてくるから難しい。早い回はまず目慣らしでバントだね」
 早い回の目慣らしのバントというのは貴重な情報だった。パワーカーブはボールにされるので無理にバントしなくてすむ。高木は難なくバントを決めた。ワンアウト二塁。
 私は、第一打席はウェイティングサークルに入らないことにしている。斜め横からボールの勢いと動きを確認するためだ。江藤が打席に入った。中に訊く。
「ほかに特徴のある審判はいますか」
「田中俊幸さんぐらいかな。高いボール球をストライクにして、低いストライクをボールにする。まだ二十八歳、審判になって四年目の新人だ。オー、ナイスバッティング!」
 レフト前へ強いゴロで抜けた。打球が強すぎて、一枝、三塁ストップ。江藤が一塁ベース上から私にピースサインを送る。大歓声が沸き上がる。ワンアウト一塁、三塁。ライトスタンドから金太郎コールの波がスタンド全体に伝わっていく。広島の内野陣がマウンドに集まる。三塁コーチャーズボックスの水原監督がパンパンと手を叩く。
 外木場が小刻みにうなずき、談合成立。外木場は振りかぶり、コロッとしたからだを存分に反らせて、投げ下ろす。膝もとへ速いカーブ。ベースの角をよぎった。平行スタンスでは自打球になるストライクだ。見逃す。
「ボー!」
 中の言ったとおりだ。キャッチャーの田中が立ち上がって鈴木球審を睨み、
「低い?」
「外れている」
 鈴木の冷厳とした返答に田中はあきらめてしゃがんだ。私に内角のストレートを投げるのは怖い。二球目、キレのいいシュートがホームベースの外角の端をよぎった。これもストライクだ。
「ボー!」
 外木場は最高の持ち球を二球ともボールにされたが、あまり残念がっていない。しかし同じコースに投げるのは直球しかなくなった。直球は投げられない。フォアボール覚悟で同じコースにカーブとシュートを投げてくる。三球目、真ん中低目のストレート。投げてきた。ボールひとつ低い。
「ストライーク!」
 よし、審判の癖はわかった。もとより外木場も田中もわかっていたということだ。もう一球真ん中には放ることはしないで、内か外のギリギリにストレートを投げてくる。内ならホームランを狙い、外なら左中間の長打を狙おう。四球目、立ち上がったキャッチャーの顔の高さへ剛速球。ワンスリー。敬遠をにおわせる目くらましだ。場内が不満らしくざわめいた。田中が一歩前に出て、低く低くという仕草をする。どんなキャッチャーもやる猿芝居だ。私の得意コースだと知っている内角にはもう挑んでこないと踏んだ。空振りを狙う外角のカーブだ。踏みこむ必要はない。曲がりぎわを叩く―。ミートを確実にするために三十センチほどピッチャーに寄る。五球目、外角にきた。ストレートに見せかけたキレるカーブ。曲がりぎわをハッキリ見切った。ひっぱたく。フラッシュが何十発も光った。白球が左中間に向かって舞い上がった。球場全体に歓声が立ち昇る。一枝と江藤がバンザイをしながら走りだす。ボールはおもしろいように伸びていき、左中間場外に立つ照明灯の鉄脚に当たった。私の疾走に合わせて江藤もスピードを上げる。一枝ゆっくりホームイン。江藤と私は疾走しながら水原監督と片手でひっぱたくようにロータッチ。すぐ背後に迫った私から逃れるように江藤がホームベースを駆け抜ける。私も駆け抜け、ベンチ前に整列したチームメイトたちと次々タッチしていく。
「ナイス、ホームラン!」
「ミラクルショット!」
 島谷の控えの太田が、
「すごいす! このあいだのライト場外よりでかいす!」
 外木場が金田のようにみずからマウンドを降りようとした。根本監督があわてて走っていく。外木場は笑顔でグローブを振り、きょうはもうだめだという仕草をした。根本が鈴木球審にピッチャー交代を告げた。一対三。
「カープの選手交代を申し上げます。外木場に代わりまして、ピッチャー大石、ピッチャー大石、背番号19」
         †
 三時間半になんなんとするゲームだった。タコ踊りの大石を打ち崩し、つづく救援のメガネ白石を打ち崩して、五対十四でα勝ちした。私は三人のピッチャーから一本ずつスリーランを打った。五回に大石から真ん中高目のカーブをライト上段へ、八回に白石から外角低目のスライダーをバックスクリーンに打ち当てた。相手の決め球だと思われるボールを打つように心がけた。残りの二打席は敬遠のフォアボールだった。私のホームラン以外のドラゴンズの五点は、島谷が大石から打ったツーラン、私と江藤を塁に置いて白石から木俣が放ったスリーランだった。すべてホームランで挙げたゴロンゴロンとした得点だったが、敵を灰にするには効果的な焼夷弾だった。
 衣笠のソロ以外カープの四点は、四回、七回、九回の、ランナーを置いての適時打だった。すべて衣笠、山内、山本一義のクリーンアップが打った。衣笠と山本浩司のバッティングフォームは、構えからインパクトまでよく似ていたが、片手打ちもできる山本のバットコントロールのほうが微妙にしなやかだった。バットをちょこちょこ動かして間合いをとっているせいかもしれない。山本はそのバットコントロールで、適時打ではなかったがヒットを二本打った。
 田中勉は九安打を喫しながらも、どうにか完投した。無理をして完投したのは、西鉄戦の〈恩返し〉に備えてしばらく休養するつもりがあってのことだろう。長谷川コーチの考えにちがいないと思った。江藤には打点もホームランもなかったが、チーム貢献度は高かった。シングルヒット二本、フォアボールを三つも選んだ。
「江藤さん、遠慮しないで長打を狙ってください。お掃除役でしょう」
「遠慮はしとらんばい。選球眼の訓練をしとるだけたい。打てるボールがきたら思い切り打つけん、心配せんでよか」
 激しいフラッシュの中でインタビューが始まった。後ろ髪引かれて帰り渋る観客が、あこがれの表情を浮かべてスタンドに立ちつくしていた。ときどき思いついた選手の名を呼んだりする。彼らとのあいだに氷の壁ができる瞬間だ。この瞬間を避けるためにいち早く帰る観客もいる。小学生のころ、私も身がよじれるほどさびしい思いをした。
 まず水原監督にマイクが向けられた。
「快進撃が止まりませんね」
「オープン戦が始まって以来、神無月に始まり神無月に終わるといった試合を繰り返しておりますが、これはたまたまのことで、ペナントレースが始まれば、様相がガラリと変わってくると思います。個々の選手や攻略方法の研究が成果を上げはじめるでしょうし、各チームの団結力が高まることで戦いにくくもなるでしょう。ただ、ペナントレースに入っても、神無月のバッティングがキーになることはまちがいありません。ほとんどの選手が彼に刺激を受け、たゆまぬ鍛錬に明け暮れています。その意味でのキーです。江藤、神無月、木俣のクリーンアップは十二球団随一であると自負しておりますが、各球団も有力な新人をこつこつ育成しているので、シーズンに入って急速に台頭してくるチームがあるかもしれない。いずれにせよ、一シーズン、気を抜かずに戦います」
 それだけ言ってベンチへサッサと引き揚げた。レポーターは私にマイクを向け、
「七試合目にして十七号ですね。王選手が八試合四本で二位です。打点は言わずもがな、打率は七割超えでダントツです。ペナントレースに入っても熾烈な競争が展開されそうです。いかがですか?」
「競争には興味がありません。自己鍛錬を厳しくさせるのは、相手を自分と同等に考えるライバル意識ではなく、相手を高い位置に置くあこがれや尊敬心です。ぼくはきょうの相手であった広島の山内さんはじめ、ジャイアンツの長嶋さん、王さん、森徹さん、野村さん、張本さん、桑田さんといったバッターたちを尊敬してきました。尊敬は探究心に結びつきます。王さんは研究し尽くされています。それでも四本打つ。超人です。ぼくは模擬試験の成績がいいだけの受験生です。まだ大学に受かってもいません。むかしから模擬試験に強いやつは本番でだめだというジンクスがありますから、公式戦が始まるまでは戦々恐々とした気分です」
 無難に答えた。
「広島というチームに対する印象は?」
「衣笠さんの豪快なスイングが印象に残りました。彼はフルスイングという使命を自分に課した自由人です。山本浩司さんの左手の柔軟な使い方にも感心しました。山内さんの力を抜いた立ち姿は、なかなかまねできるものではありません」
「ファンへのひとことをお願いします」
「ドラゴンズファンのために戦おうという気持ち半分、野球ファン全体のためにホームランを打とうという気持ち半分、と言っておきます」
「南海戦、西鉄戦に向けての抱負をお聞かせください」
「また杉浦さんと対決したいですが、どうでしょうか。野村さんのパンチショットのホームランを、もう一度レフトの守備位置から眺めて感動したい。特に西鉄戦に胸をふくらませています。稲尾さんの伝説のスライダーを打ってみたい。いちばんの望みは、中西さんのライナーの伸びと飛距離をこの目で確かめることです」
「中西選手は監督兼任なので、ほとんど出場機会がありません。稲尾さんも来年から監督をなさるということで、同様です」
「そうですか。ぼくは事情があって、十五歳からここ四、五年の世間のことや、野球界のことをほとんど知らないんです。プロ野球の鮮やかな記憶は、小学校五、六年生でストップしています。しかも、ドラゴンズが主たるものです。以上」
「ありがとうございました」
 木俣、島谷、田中勉ら、ほかの選手へのインタビューも終わると、半田コーチがベンチの全員にバヤリースを振舞った。あらためてうまいと感じた。
 水原監督が関係者専用駐車場で待たせていた車に乗りこみながら、
「じゃ、あしたの夕方までに、先日ハガキで知らせた指定のホテルに入るように。二人相部屋になるから、ホテルに着いたらフロントで確認してください」
 そう言って、サングラスをした女の運転する車で去っていった。自家用車で帰るコーチや選手たちもスパイクをスリッパに履き替え、持参した用具をトランクにしまうとそれぞれ去っていった。あとに残った寮組はユニフォームにスパイクのまま、用具を手に提げながら球場のバス駐車場へ歩いていった。私は彼らに手を振り、一般駐車場へ向かった。
 にこやかに四人が待っていた。後部座席におトキさんと千佳子も座っている。
「ただいま」
 助手席に乗りこむ。おトキさんが、
「お帰りなさい。何もかもすてきでした。サーカスのように楽しかったです」
 主人が鷹揚に笑いながら、
「きょうも興奮する試合を見せていただきました。いつもながら、ピンポン球かゴルフボールかというホームランですなあ。江藤選手やほかの選手が神無月さんのクロコに徹しているのがすばらしかった」


         三十八

 車が走り出す。菅野がハンドルを器用に操りながら、
「インタビューで、山本浩司のことを褒めてましたが、そんなにいい選手ですか」
「プロにきて、変身したみたいですね。息の長い選手になると思う。衣笠は本来的な大選手だ。心に翼がある。山内は右中間に二塁打を打ったけど、すっかり衰えました」
 主人が、
「敬遠二つですか。オープン戦でこれじゃ、先が思いやられるなあ」
「……だいじょうぶだと思います。勝負どころでしかやってきませんよ。四打席に二回とか、五打席に三回なんて割合で歩かされたら、ホームラン百本どころか、五十本、四十本のホームランも無理になります」
 千佳子が、
「でも、狙いつづけてくださいね」
「うん。観客はチームの勝敗よりも、個人の能力のぶつかり合いを観にきてるんだ。チーム同士の思惑なんか楽しんでもしょうがない。逃げるが勝ちという一般社会の理屈をプロの世界に持ちこんじゃだめだ。プロスポーツの勝敗は、能力ある個人の戦いの結果なんだよ」
「そのとおりですな! ワシがきょう感じたのも、大勢の観客たちが感じたのも、それです。広島ファンからビンなんか飛んでこんかったし、野次も飛んでこんかった。ブーブー言ったのは神無月さんが敬遠されたときだけで、ネット裏の広島ファンも恥ずかしいと嘆いてましたよ」
 菅野が、
「プロ野球の監督というのは川上のようなやつばかりだから、やっぱり四球が増えるでしょうね。しかし、客がブーブー言いつづけてくれれば、オーナーも商売に響くと思うにちがいありません。一縷の望みはそこですね。何てったって、ファンの力がいちばん強い」
「ぼくもそう思います」
「社長、帰ったらすぐめし食って、見回りですよ」
「お。そのあと一杯やって、めし食って、風呂入って寝るわ」
「私は夕食のあと、少し女将さんと勉強してから帰ります。神無月さん、あしたもランニングだけはしますね?」
「はい。それから少しゴロゴロして、新幹線に乗ります」
「菅ちゃん、あしたでいいから、新大阪までの一等車の切符とっといて」
「アイアイサー」
 帰宅すると菅野はボルボを北村席の駐車場に入れた。
「あした点検に出しときます」
         †
 玄関の式台でユニフォームを脱いで百江に渡す。直人がまとわりついてくる。唇にキスをする。
 にぎやかで豪華な夕食になった。鶏ももの香辛料焼き、レンコンとワカメの煮物、サバの塩焼き、キュウリとシラスの胡麻和え、豚汁。一日として同じおかずがない。おトキさんが、
「あしたのお昼は焼肉にしますからね」
 カズちゃんが、
「どうだった、おトキさん」
「野球って、ほんとにきれい。楽しくて仕方ありませんでした」
 素子が、
「キョウちゃんがいなけりゃ、退屈やよ」
 千佳子が、
「もちろんそうです。神無月くんがいなければいきません。いつものことですけど、思う存分楽しみました。ホームランてほんとうにすばらしい」
「あしたの二時ごろ、ひかりで新大阪に向かうよ。今回はホテルに荷物の到着するのが間に合わないと思うから、荷物は手で持ってく。バット三本、グローブ、スパイク一足、ビジター用ユニフォームふた組、帽子は一つでいいな。アンダーシャツ、それから、一週間分の下着、バスタオル……」
 カズちゃんが、
「ちょっとそれ、自分で持ってくのは無理ね。スーツも足りないし」
 主人が、
「菅ちゃんにクラウンでいってもらったらどうや」
「ほい、いきましょう! まかせてください。無事に送り届けます」
「昼に出たほうがええな。大阪ロイヤルホテルやな。そのあとは九州まで集団行動やろ。九州からは自力で帰ってきてください。荷物はこっちへ送って」
「はい、ほんとにありがとうございます。あさってはみんな集まるみたいだから、文江さんと睦子によろしく」
 カズちゃんが、
「すれちがいの基本形ができ上がったみたいね」
 菅野が、
「ボルボはきょうの午前のうちにディーラーへ持っていきます。ロイヤルホテルから福岡への移動はどうなってるんですか」
「たぶん、電車で移動だと思う。山陽本線」
「大阪空港から福岡空港ゆう手やないかな。山陽本線は時間がかかりすぎるわ。航空券は球団が用意するやろ」
 カズちゃんが、
「心配してたらきりがないわよ。プロ野球のチームなんだから、ちゃんとした移動のシステムが整ってるはず。問題は集合と解散よ」
「平和台のときは、福岡の、ええと……」
「西鉄グランドホテルよ」
「帰りは名古屋まで飛行機で帰ってこれるね」
 女将が、
「プロ野球の移動もたいへんやねえ。ここまでとは知らんかったわ」
 直人が私の膝から離れない。おトキさんが、
「神無月さんがおとうさんだって、ハッキリわかってきたんですね。かわいらしいこと」
 トモヨさんがやさしく抱き取って、子供用の食事をさせる。口を動かしはじめると案外食が太い。旺盛な生命力に安心する。
         †
 主人と菅野が夜の店回りに出かけた。トモヨさん母子が風呂へいったので、女将や千佳子、おトキさんたち賄いにお休みを言い、カズちゃんと素子とメイ子と百江と五人で北村席を出た。百江がカズちゃんに、
「私……少しわからなくなってきてるんです……お嬢さんは、神無月さんでなければ、からだの快楽を求めませんか」
「ははあ、私が経験したことのない悩みを抱えてるのね。私はね、快楽自体を求めたことがないの。小さいころからオナニーさえしたことがないのよ。百江さんの質問の答えから先に言うわね。もちろん。キョウちゃんでなければからだの快楽を求めない。それより何より、キョウちゃんが生きていてくれるなら最高なの。いつもキョウちゃんを抱き締めてる人生よ。そうしていられるなら、快楽なんてものがなくてもかまわない。もともと進んで求めたことはないし、キョウちゃんが性欲のあるときしかいっしょに感じたいって思わない。いまはキョウちゃんが元気だから、せっかくだからご相伴にあずかって悦ばせてもらってるの」
「すてき……。世の中の男と女がみんなそういう気持ちだったら、恋愛ってとても美しいものになるでしょうね」
「どんな気持ちでも、恋愛は美しいものよ。生理的にからだの快楽がほしいときだってそれはあるわ。そんなときでも、抱いてもらうと、それまでの欲望をぜんぶ忘れてとてもキョウちゃんを愛しく思うの。生きていてくれさえすればいいって気持ちになるの。心の予行演習もなくからだだけ目覚めちゃうと、ほかの男でも快楽は満たされるんじゃないなんてことを考えだすのよ。中年過ぎた女が肉体に目覚めちゃうと、サカリがついて、毎日でもしたくなるものだって聞いたことがあるわ。男という男を張り形みたいに思っちゃうんでしょうね。コトが終わったあと、横にいるのがキョウちゃんじゃなかったらって思えばすぐわかるわ。私はゾッとする。……もっとキョウちゃんを深く愛することね。深く愛すれば、からだの快楽は心の快楽以上のものにはなれないってわかるから。快楽はいつも〈ついで〉のもの。ついでのものをあれこれ理屈をつけて考えるのは、愚かもいいところ。どうしても抑えきれないなら、キョウちゃんの迷惑でないときに夜這いでもかけるしかないわね」
「……悟りですね」
「悟りなんてシンネリしたものじゃなく、自分の気持ちに素直に生きてるってこと。パーッと明るい気持ちでね。キョウちゃんほど自然じゃないけど―キョウちゃんは、流れに浮かぶ笹舟のような人だから」
 メイ子が、
「すごいですね。ほんとにお嬢さんは身も心も神無月さんでしか満たされないんですね。この仕事をつづけてきて、悲しいことに、女というのは、好きでもない男とそうなっても感じるのがあたりまえだと思ってました。でも、神無月さんを思うようになってからそうならなくなったんです。きっとお嬢さんと同じ気持ちだと思います。もちろんお嬢さんはもともとちがう体質だということもわかりましたけど、愛情の深さは同じような気がします。なんだかいまの言葉を聞いて、からだも心も澄みわたった気がします」
 百江が、
「私もモヤモヤ考えていたことがぜんぶ晴れ上がりました。こんな齢になって、見境のない、いままでとちがったからだになってしまったのかなって、少し怖かったんです」
「ちがうからだになったんだけど、心はもっとちがうものになったのよ。安心してね」
「はい。抱いてもらえるときに燃えて、そうでないときは消えてるというのが、とてもすばらしいことだってわかりました」
「キョウちゃんはふつうの男じゃないから、相手はだれでもいいというような性欲を女が見せるようになったら、もう応えてくれなくなっちゃうわよ。私たちはただキョウちゃんを恋して、ただ待っていればいいだけなのよ」
「はい」
 素子が、
「あのソテツゆう子なんか、こんな話聞いたら腰抜かすやろね。世間道徳とか、女漁りの色情狂とか、そんな男を庇って疑問を感じないんですかなんて難癖つけて、ふらふら道草食っとる人間のアタマのはるか先をいっとる話やもんね」
 カズちゃんが、
「先をいってる話じゃなくて、彼女の知らない話なのよ。先も後ろもないの。いつもわかりやすい話をしてる人には、永遠にわからない話。おたがいにぜんぜん別の話をしてるのよ。別の話をする人は相手しにくいわ。……アフターケアもなくクビにはできないの。世間常識に凝り固まってる人は口が軽いから、とばっちりを食っちゃう。でもキョウちゃんのこと、好きです、なんて言って、北村席を離れたくないような気持ちを見せたから、だいじょうぶだと思う」
「お姉さん、そこまで考えとったん」
「とっさにキョウちゃんの安全を図ったわ。トモヨさんもすぐ思い直したみたい。あの子がほんとにキョウちゃんを疑わなくなって、好意を持つまではしっかり様子を見てないといけない。そのうえで、行為の先の期待を持たせないように、私たちもべたべたキョウちゃんにくっつかないようにしないと。キョウちゃんはあの子に気がないから、そんなことになったら拷問よ」
 百江が、
「イネちゃんはいい子ですね」
「そうね、キョウちゃん好みの、感じのいい子。でも、派手に動かれるとキョウちゃんの負担になるわ。これまでの守りも手薄になるしね。イネちゃんはだいじょうぶだと思う。とにかく身内の不行届きがいちばん怖いのよ。三年でも五年でもキョウちゃんに野球をやってもらうことが、私たちの当面の願いだから」
         †
 三月十四日金曜日。新居の一階の玄関を上がってすぐの客用の寝室で目覚めた。カズちゃんは、私が同衾(どうきん)してくれと求めないかぎり、メイ子の離れで寝るようにしている。私をむだに疲れさせないための心遣いだ。孤独な共同体。過去のギクシャクした徘徊のつづきにいまがある。心の奥でちがうという声がする。目指したのは、孤独な共同体を作ることではなく、自分一人の孤独を求めることだった気がする。いまの意に沿わない賑やかな生活も、カタツムリのようにねばねば這いずり回った跡についた模様の一部なのだ。
 まだ六時半を回ったばかりだ。枕もとの腕時計の温度は零下一・四度。下に降りて軟らかい便をし、シャワー、歯磨き、洗髪。ステレオを聴きたくなった。枕もとのパジャマを着、廊下の向かいの防音の洋間へいく。カズちゃんの高級ステレオ。音圧のいい音を出すが、やっぱりテクニクスのほうが数段音のキレがいいと思う。そこいらに散らかっているEPレコードを手当たりしだいに聴いていく。少年の趣味に合わせて揃えた六十年代ポップス。
 やさしい声のマーガレット・ホワイティング。花の木の家で何度も聴いた。マイ・フーリッシュ・ハート、フォレバー・アンド・エバー、ホワイ・ドンチュー・ビリーブ・ミーと聴き、それからゼア・アー・サッチ・シングズとアイ・ビーン・ゼアを二度聴いた。
 満足して二階の勉強部屋に上り、桜材の机に向かう。一階の客用寝室の上にあるこの部屋は臨時の寝室も兼ねていて、足もとに万年蒲団が敷いてある。椅子も十年は保ちそうな新しい革装の高級品だ。吉祥寺で仕入れた革椅子より座り心地がいい。違い棚の地袋(じぶくろ)の上に原稿用紙の束が載せてある。
 庭に向いた窓のカーテンを開ける。ガラス戸の空が晴れ上がっている。水色の空が顔にぺったり貼りつく。ひどく寒い。大阪は暖かいのだろうか。薄緑のこのカーテンは、八坂荘で使って以来、引越しのたびに持ち歩き、そのつど箪笥にしまいこんであったものだ。テープレコーダーから始まって、いろいろカズちゃんがプレゼントしてくれた思い出の品の一つだ。捨てられない。この二階の北西向きの部屋は臙脂のカーテンを引くといよいよ暗くなるので、しばらくのあいだわざとカーテンを開けっ放しにしておいたが、露出している窓ガラスのせいで部屋のたたずまいが冷たく感じられ、少しでも温もりがほしくなった。結局このカーテンを引っ張り出してつけ替えてもらった。すると部屋がほんのり明るみ、冷気も和らいだ気がした。






         三十九         

 スタンドを点ける。原稿用紙に鉛筆で五百野と大きく題名を書く。何度目の手入れになるだろう。次の行の下方に小さく神無月郷。小学校以来の同じ作法だ。エピグラフに、悲しみの果てなむ国ぞ、と書いて、さっそく思考が分散しはじめた。
 ―書きたいのは母の悲しみ? 父の? 私の? 彼らと私の? 
 たちまちすべてが馬鹿らしくなって、机に頬杖をついた。それにしても、野辺地へ送られてからの私の生活の目的は何だったのか。祖父母や教師に更生を誓い、空しく海辺や山辺を歩き、あきらめ(何をあきらめたのだ? たぶん順調な生活というやつか)、坦々と生きる日常にようやく張り合いを見出し、自分なりの再生の計画の中に息をひそめた。息をひそめるだけでは飽き足りずに、死のうと決意した理由は? 甦ったのは母や父を書くためだったのか? いったい、あれからきょうまでの長い時間は何だったのか。いき当たりばったりの人生。カタツムリの徘徊。何かを〈したい〉人間が羨ましい。私は何かをしたい人間ではない。そんなふうには生まれつかなかった。求めるのはいき当たりばったりに出会った葉群れから垂れる水。唯一の救いは、葉に置いた水にたまたま喉を潤され、死の誘惑からどうにか脱したことだ。
 ふいに机に落ちた涙が、自分のおめでたさを笑い、幻滅の火が心を乾かした。冷たい紙と鉛筆だけで、不滅の生命を手に入れること、その僥倖の可能性こそ、私を生かしつづけた力だった。周到に詩人を気取りながら、その僥倖を手に入れることが心からの願いだった! そのために早くねぐらに帰って、詩を書かなければならないといつも自分を駆り立ててきたのだった。書く? 何を? この世界を? この世界を潤しているはずの精神を? 私には何も書けない。何も書かずに、この豪華な部屋にこうしてじっといることこそ私に見合った人生だ。侘びしすぎる。生きていられない。この場所から去るべきか、それとも、むしろ人生そのものから去るべきかという短絡的な考えが浮かんだ。そしてすぐに決まった。
「この場所から去らない、人生からも去らない」
 それは、きょう一日だけでもカズちゃんの愛情を感じてすごせるなら、ただ私がどれほど自分の無能に苦しい思いをし、その苦しみの中でどれほどカズちゃんを愛しているかをなんとか証明して彼女に納得させられるなら、ただそれだけのためにすごせるのなら―どんないき当たりばったりの形でも生き永らえたいと思うようになったからだ。なぜ証明する必要があるのか、なぜカズちゃんを納得させなければならないのか、そんなことは私の頭では考えつかない。しかしそうしなければいけない。そうすることは、ナマクラな倦怠の中で孤独に生き延びるよりも確実に大切なことに思える。
 すべてが馬鹿らしくなったのだから、心がどこに着地してもかまわない、つまり書いても書かなくてもかまわないわけだ。だからホームランを打つのと同じように書こう。ホームランを打った結果と同じように、表現した結果など少しも望まない。そうすることが幸福で、そうした結果に関心はない。使命感など持たずに、いき当たりばったりのまま生きよう。命はカズちゃんに捧げた。残余のことは野球と詩にくれてやる。
 書きはじめる。保土ヶ谷の父を訪ねていったくだり。どうしてもここからだ。道の描写をする。書きながら涙を流す。十行ほどでやめる。台所から二人の声が聞こえた。パジャマのままだったので、ジャージに着替えた。ステーキを焼く音がする。
「愛してる!」
 と言って元気よく台所へ入っていく。
「愛してる!」
 と二人で答える。アハハハと笑い合う。いまこのときを生きていて、いずれ死とともに途切れるからだが、心が愛しい。ステーキを半分食べた。机のつづきの涙が落ちた。
「あら、キョウちゃん、どうしたの?」
「幸せなので、思わず泣けた」
 カズちゃんはたちまち目に涙を滲ませ、
「私もよ」
「私も」
 メイ子も目頭を押さえた。ふと彼女の首もと見ると、ペンダントを垂らしている。カズちゃんが、
「熊本象嵌、プレゼントしたのね。とてもすてきよ」
 メイ子は涙の雫のペンダントを握って赤くなった。
「手鏡はいつもバッグにしまってあります」
「子持ちが生まれて初めて恋をしてる。見てて気持ちいいわ。キョウちゃんに気に入ってもらってよかったわね」
「はい。でも、お嬢さんが私のこと神無月さんの好みだって見抜いてくれたんです」
「猫目で丸顔はキョウちゃんの好み。厨房のイネちゃんもそう。ソテツちゃんは気の毒だけど、どんなに努力してもだめ」
「そこはきびしいんですね」
「そう。キョウちゃんがその手の場所にいかない理由も、猫目で丸顔の女の子に会えるとはかぎらないからよ。痩せた女はぜったいだめだし、肥ってても、キツネ顔はだめ。映画女優はほとんどそういう顔してるから全員だめね。だから芸能人とのスキャンダルは起こりようがないの」
 八時。車のエンジン音が車庫に入る。
「おはようございまーす!」
 菅野の声。ジャージ姿で玄関土間に入ってくる。メイ子が、
「菅野さん、ステーキ半分残ったの食べてくれる?」
「喜んで。神無月さんの残したものは、アイスキャンデーでも舐めますよ」
「気持ち悪いこと言わないの」
 あっという間に平らげ、ぬるくなった味噌汁をグイと飲んだ。
「鳥居通りまでいって引き返そう」
「ほいきた。大阪へいくのは名神を突っ走るだけですから、出発は十二時くらいでいいと思いますよ。北村で昼めしを食ってから出かけましょう。予定の荷物はトランクにすべて積みこんであります」
 カズちゃんが、
「のんびり運転でいってね」
「まかせてください。業者がさっきボルボを持っていきました。半日ぐらいじゃボルボは調整できませんし、やっぱり二、三日かけないと心配なんで、大阪へはクラウンでいきます。九州へはボルボで迎えにいきますよ」
 コーヒー一杯。
「さ、いこ」
「ほい」
 駅西銀座からむかしの遊郭街へ向かって走り出す。寂れた町並を鳥居通りまでかなりのスピードで走り通し、ゆっくりと引き返す。
「菅野さん、ほんとに体力ついてきたね」
「マラソン大会に出ても、どうにか完走できるところまでいけると思います。いや、もう少し鍛練が必要かな」
「そんな大会あるの」
「名古屋市にはないんですが、豊橋市にあります。日比野賞中日マラソン。昭和二十七年からつづいているフルマラソンです。エリートランナーが多くて、参加は簡単にできてもまともに走れるとは思えないな、まだまだ先ですね」
「出るとなったら好成績を目指してね」
「はい、そのつもりでがんばります」
 戻ると、女二人せっせと掃除洗濯をしていた。
 菅野とシャワーを浴び、スーツを着る。女たちが洗濯物と蒲団を干し終わるのを待って、みんなでクラウンに乗って北村席へ出かけていく。二分とかからない。
 居間に入ったとたん、直人に抱きつかれる。見送りのために保育所を休んだとトモヨさんが言う。キスをしてやる。直人はハハハとかわいい声で笑いながら、畳に降りると主人や女将とキスをしにいく。場が和んだ。カズちゃんとメイ子が笑っている。
「直人が卵形の顔に生まれてよかった。健児荘の鏡で自分の顔が四角張ってきたとわかったときは、想像以上の痛手だったからね」
 カズちゃんが驚いて、
「寅さんの下駄面じゃあるまいし、外人の映画スターのようないい形のあごよ」
 トモヨさんも、
「そうですよ、のっぺり長い顔は、嫌い。最高の顔だわ」
「はいはい、ありがとうございます。おトキさん、もうすぐ山口に逢えますよ」
「待ち切れません」
「一日も忘れない?」
「一秒も」
「立派だ。ぼくも、さすがに人の顔は忘れないけど、できごとは忘れてしまうなあ。特に野球」
 主人が、
「ほんとですか!」
「はい。たとえば、中学三年のとき、十月の一試合を残したまま野辺地へいくことになったんですが、その前の練習試合、西区の中学校が最後の相手校でした」
 菅野が、
「何中ですか」
「それが、中学校の名前どころか、西区の何という場所だったかも憶えてない。名古屋駅から名鉄に乗って北へいったことぐらいしか思い出せないんです。もちろん校舎のたたずまいも、グランドの広さも記憶にない。ただ、相手が左ピッチャーで、生まれて初めてレフトへホームランを打ったことを憶えてます。それも詰まった当たりではなく、踏みこんで打ったライナーのホームランだった。たしか、五番バッターのデブシがダウンスイングでセンター前にヒットを打った。ほかのやつらのことはまったく記憶にありません。そればかりでなく、そのころの周囲の人びとの行動もいっさい憶えていない。寺田康男も、加藤雅江も、小山田さんも吉冨さんも、クマさんでさえ、そのころどこでどうしていたのかまったく思い出せない」
 カズちゃんが、
「あの一年はそれどころじゃなかったのよ。仕方ないわ」
 素子が、
「これからも、どんどん有名になるで、憶えとる暇ないで」
「そう、有名というのは記憶に毒だね。金、政治、流行、そんなものにまみれて身近な者同士の大切な交流を忘れてしまう。ぼくは有名になってもならなくても忘れない。世間を知らない馬鹿だけど、ほんとうの意味のバカではないということだね。大衆というのは有名になりたい人間しか有名にしてやらないというルールを持ってる。名誉欲のない人間は自分たちの模範にならないからね。だから有名人というのは、有名になりたかったそこらへんのバカだ。野辺地からこちら、不思議なことに何でもかんでも憶えてる。人も、できごとも」
 自分の言葉がまた大仰になりはじめている。母や岡本所長の冷めた視線を思い出す。恐ろしい。トモヨさんが、
「名誉欲を捨てたからですね」
 千佳子が、
「そしたら、大衆が自分たちのルールを破って、神無月くんを有名にしちゃった。皮肉なものね」
 菅野が、
「ルールなんかと関係のない特別な存在ということですよ。もう二度と現れません」
 カズちゃんが、
「かつて現れた者はこれからも現れる―と言うわよ。でも何百年後でしょうね。キョウちゃんは名誉欲を捨てたのはいいけど、どんな面倒でも受け入れるのが趣味にまで嵩じちゃった。ちょっと心配」
「そう言えば、野辺地以降でも忘れてるものがあるなあ。自転車とか、炬燵とか、抽斗の中身とか。ああいうものはいったいどこへいっちゃうんだろう。小学校以来の通信簿も一つも残ってない。十五歳でほとんどのものがなくなったら、物をなくすのがくせになっちゃった」
 カズちゃんが、
「どんどんなくして、スッキリしなさい」
 女将が、
「江藤さんと太田さんから電話があって、いっしょに大阪へいきたいってゆうから、これこれこういうことになったんですよって教えたら、ぜひ同乗したいって。断る理由がないから、出発の時間をあとで知らせますゆうて電話切ったんよ。どうします?」
「いっしょにいきましょう。ぼくは助手席がいい」
 カズちゃんが、
「賑やかになるわね。よかったじゃない」
 菅野が、
「十二時出発です。チェ、神無月さんを独占できないのか」
 女将が、
「何ゆうとるの。だれも神無月さんを独占できんわよ。十一時ぐらいにきてもらって、いっしょにお昼食べてもらいましょ」
         †
 大座敷で一家の者やトルコ嬢たちが打ち揃って焼肉を食った。煙を室内に充満させられないという理由から厨房で焼いた牛肉が、大皿に山盛りで出された。野菜焼も山盛りで出た。直人はモリモリ食う江藤の膝で、少しだけ肉と野菜を〈齧った〉。太田は肉も野菜も二人前食った。
「金太郎さんの顔をたった一日見とらんだけで、力抜けしてまって、食うことに身が入らんかったばい。きょうは食欲が出たァ」
「俺もです。神無月さんの顔は食欲増進剤ですね」
「ありがとう。でも、おトキさんたちの料理がまずかったら、食欲もへったくれもないよ」
 あらためて賄い連中を見やる。めしどきに台所からおさんどんに出てくる女中たち。時分どきでないときは、お家大事とばかりに、朝から晩まで家の中や外を掃いたり拭いたりしている女たち。老若いることはわかっているが、その姿格好から年齢に見当をつけることはできない。いままで彼女たちの人生を考えたことはなかったし、これからも考えるつもりはない。江藤も太田も同じ気持ちのようだ。見向きもしない。
 トルコ嬢たちにしても似たり寄ったりだ。彼女たちの内気さが、そしてそれに加えて私自身の立場の特殊さが、少しばかり大部屋の空気を息苦しくする。それでも、野辺地のあの最初の秋に道ゆく人と行き交ったときと同じように、私のほうから頭を下げると、恥ずかしそうにお辞儀を返す。そんなとき私は、少しずつ北村家の女たちにまぎれこみ彼女たちの〈身内の人〉になっていく気がする。
 心の奥に、こういう人たちといつまでもいっしょに暮らしたいという願望はある。同時に、関心もない女たちとこんなところでいったい何をやっているのだという自嘲の気分に冒されもする。それなのに、ともに暮らしたいという願望は消えない。しかし、そういう願望は、生活の環境に満足した上で付け足しのように作り出される安堵の気分がもとになっている。私はその安堵の源を突き詰めることもなく、肉体に触れることのない女たちのそばで暮らしている。そうすることしかできない。しかし、そういう女たちと暮らしていても、人生の瑣末事を超越したような気にはならない。彼女たちが瑣末な一人ひとりではないからだ。


         四十

「江藤さん、監督や選手は審判の判定に抗議することはできるんですか」
「監督にも選手にも抗議権はなかよ」
「水原監督がダーッと走ってきて、審判に詰め寄ることがありますね」
「あれはよか。のう、タコ」
 太田が、
「はい。判定に異議を唱えてるんじゃないからです。神無月さんに対する危険球のときでしたね。裁定に誤りがあるんじゃないかと疑ったからです。監督だけがその裁定を規則に基づく正しい裁定に訂正するよう〈要請する〉ことができます」
「ただし、その裁定を下した審判員に対してだけな」
 大硝子の外の庭を眺める。早春の庭が華やかだ。縁側に寄って、晴れた空の下の彩りを眺めている女たちがいる。自然の無用な美しさが、彼女たちの生活の煩わしさをやさしく包みこむ。
「走ってますか」
「きょうはサボったばい」
「俺もバットを振ったくらいです」
 菅野が、
「神無月さんは、ランニングを一日も欠かしませんよ」
「いつもブルッとくるんやが、なして金太郎さんはそげん努力するんやろのう」
「キャンプでも、目立たないようにだれよりもやってましたね。マスコミが、練習嫌いというでたらめの噂を流しましたから。……川上までいい気になって」
「あれはゲスばい。なんかなし、金太郎さんば見習わんといけんばい。ワシらのようなふつうの人間が、少のうとも金太郎さんぐらい練習しぇな、一生ふつうで終わてしもうばい」
「野球をこの上なく愛してたころは、人に褒められても、それを噛みしめてエネルギーにすることはなかったんです。野球が好きで好きでたまらいという気持ちで、バットを振ったり、グローブを磨いたりしてただけです。背番号を自分で縫いつけ、朝からユニフォームを着て学校へいったこともあります。その格好で朝礼にも並びました。野球以外のことは何も考えていませんでした。それなのに、練習はバットを振る程度のことしかしなかったんです。根っからの練習嫌いだったんですよ。いまは練習好きです。……ぼくはわがままな感情のまま生きてきた人間です。そのせいで人に迷惑をかけ、拒まれ、流転してきました。そういうぼくを愛してくれる人たちが現れたんです。そのまま生きればいいってね。愛されることは奇跡です。生まれたこと自体が奇跡なのに、その上愛されるなんてね。泣きたいほどの感謝の気持ちが芽生えました。その純粋な感謝がなんとか目で見える形を取ってくれないと、感謝の気持ちを伝えられないんです。野球という手段しか思いつきません。だからできるだけ野球生活を長保ちさせるために、鍛錬を欠かさなくなりました」
 舌が、油を差しすぎた機械みたいに、円滑に回りすぎる気味がある。
「いつもながら、金太郎さんの言葉は難しか。ばってん、言いたかことがビンビンわかるばい。……金太郎さんはだれよりも野球を愛しとるよ。うまく言えんが、人間を愛するのとはちがう種類の愛し方で愛しとる。それを感じんば、見習う気にはならんたい」
 言葉に温もりがある。主人が、
「神無月さんは難しい言葉をしゃべっている気はまったくないんですよ。だから信用できる。しゃべりはじめると、じっと聴いてしまいます」
 信憑性とは何だろう。生死の根もとにある原始性のことだろうか。それとものちのち発見された才能のことだろうか。何かの才によって、人が生まれることも、命をつなぐことも、増殖することも、死ぬこともできない。やはり信憑性とは原始性のことだろう。太田が、
「言葉だけじゃありません。現場を見てきたので、俺にはよくわかります。ホームラン王で秀才の神無月さんは一部の同級生や教師から嫉まれてました。関心がある以上、嫌われてたんじゃなく、憎まれてたんです。しかし、まじめさと、やさしい心と、そして、だれよりもすぐれた才能で大勢の人たちの敬意を勝ち取りました。神無月さんには飛びぬけた才能があります。……その才能を野球だけに使う必要はありません。ぼくは神無月さんのどんな才能にも拍手を送って応援します。練習、ですか。寺田さんを見舞ってたころも神無月さんは、いまと同じ気持ちだったでしょう? 神無月さんくらい練習するチームメイトはいませんでしたよ。野球が好きで、寺田さんも好きだった。神無月さんはどんな環境でも、同じレベルで愛情を分散できるんですよ。そういう自分を練習嫌いだったなどと言ってコキ下ろす必要はないです」
「口直しに」
 とおトキさんが言って、雑煮きしめんが出た。去年カズちゃんの雑煮を山口と食ったのが、まともな雑煮を食った生まれて初めての経験で、けっこうめずらしい思いをしたけれども、きしめんと餅の組み合わせは新鮮だった。主人が、
「きしめんすすって、ビールを一杯、キューッとやってから出かけてください。菅ちゃんはがまんしろよ」
「へーい」
 いのちの記録と筆記用具、枇杷酒と適当な文庫本を入れた小バッグを提げて玄関に立つ。グローブ、スパイク、グリース、タオル、眼鏡などを詰めたダッフル、衣類や身の回り品を納れた段ボール箱、バットを三本収めたケースはクラウンのトランクに積んである。
 北村夫婦、トモヨさん母子、賄いからトルコ嬢たちまで一家全員数寄屋門まで送って出た。もう一度直人にキスをする。
「一週間、お土産を楽しみに待ってなさい」
「うん」
 車に乗りこみ、彼らに手を振って走り出す。主人夫婦、トモヨさん母子、カズちゃんと素子と千佳子、おトキさん、百江、メイ子、イネ、ソテツまで別れの手を振った。メイ子の首に細い鎖が光った。
 則武のガードをくぐり、菊井町から明道(めいどう)町ジャンクションへ出る。清洲ジャンクションを経て一宮東インターまで、北村席から二十分ほど。太田に、
「言いたくないけど、人間的に信用できないものを長嶋に感じるんだ」
「巨人軍だからでしょう」
「入団の経緯から遡ってだ。権威主義、力ある不誠実な人間や集団に従う心、つまり事なかれ主義。だからプレイも気取っていて根本的に不誠実になる。野球そのものは解放感があってすごい。突出したところのない総合得点的な成績だけど、十年その総合得点を挙げつづけてきたことを考えると、歴代ナンバーワンのプレイヤーだと思う。ただ、あのおかしな言葉使いに象徴されるように、不誠実な感が否めない。人間として信用できない。絶賛したいと思うのはスイングスピードだけ」
 江藤が、
「金太郎さんにかかったら、どんな記録も突出しとらんことになるし、人間としても信用できん部分が残るばい。しかし、十年間、庶民の希望でありつづけたことは大した功績として認めんば」
「はい。大舞台での勝負強さは際立ったものがあります。日本シリーズ、天覧試合、オールスター、日米親善野球」
「大舞台で活躍するゆうんが、いま一つ引っかかるんやろう。金太郎さんは坦々の人やけん。どんなときも最善を尽くす人やけん」
 太田が、
「神無月さんみたいな、坦々と励む人を、なぜお母さんはいじめたんですかね」
 さっそく母の話になる。彼らの永遠の話題だ。車が百十キロまでスピードを上げる。
「父親に似ていたぼくを生理的に愛せなかったんだろうね。愛せないから、懲らしめて教育しようとした。愛していない者を自分の思いどおりに矯正しようとすると、えてしてそうなる。ぼくは彼女を許さないことにしてる。もともと、怨恨を持続するエネルギーを保てない体質だけど、不正を許すのは自分の気質ではないので、許すと自殺しなくちゃいけなくなる。自分に嘘をつく者を生かしちゃおけないからね」
「自分に嘘をつく者、ですか?」
「怨みを持続できないのはぼくの精神的な体力の問題だけど、愛のない人間を憎まないのは正常なぼくじゃない。ぼくは母子の恨みがましいぎくしゃくした生活の中から、飯場という心やさしい人たちの中へまぎれこんだとき、ときどきたまらなく孤独でいたいと思うことがあったんだ。人のやさしさに甘えて本能を喜ばせることをしている自分が怠け者に思えたんだね。愛のある人たちと幸福の中で怠けてくらす生活を息苦しく思った。怠けないためには、愛のない人の中にいて彼らを憎まないことにエネルギーを使うのが、人間として正しい行動だと信じたんだ。まちがいだった。正しくもなんともなかった。ただ自分に嘘を一生懸命ついていただけだ。ぼくは甘えを息苦しく思う中で、どんどん正直な人間になっていった。そして結局、甘えることをきちんと喜び、愛のない甘えさせてくれない人間を憎むようになった。それは自分に正直な行動だ。エネルギーが必要だけどね。それに逆らったら、嘘をつく人間になる。嘘をつかなくなったら、孤独でなくなった」
「……お母さんに愛されたかったんですね」
「うん、母親に愛されるなんて奇跡が起きていたら、ぼくの人生は曲折しなかったかもしれない。でもたとえ曲折しなかったとしても、母の自己愛の強い権高な気質を憎んだろうね。……面倒だな、こういう話は」
 江藤が、
「よかよか、面倒なことは話さんでも」
 菅野が、
「つまらないことは人に聞かせないというのも、神無月さんの長所ですよ」
「ワシらは何もなかくせに、身の上話をべらべらしゃべるけんな。しゃべるなら聞き応えのある人間がしゃべらんといかん」
「野辺地へ送られてからの話なら、いくらでもします。母の人格の話じゃなく、彼女の行為の結果の話ですから。―結果的に、彼女から突き放されて、ぼくの人生は有卦(うけ)に入ったんです。野球や友人や馴染んだ生活環境を失って、へたばりそうになったぼくを救ってくれたのは、カズちゃんと山口でした。いまこうして生きていられるのは、その二人と、二人の慈愛を受け継いだ人びとに救われたからです」
 私は窓の外に顔を向けた。風景を殺すフェンスが断続的に過ぎる。
「……人間はとても強欲です。心血注いで自分の利益を追求します。でも同時に、美しいものを発見し、それ他人に分かち与えようとする無欲さも持っています。そういう無私の気持ちは きっとぼくにもあるはずです。その無欲さから生まれる果実をどうにか言葉に表現して、愛する人たちに分け与えたいんです」
「ものば書きたいゆうことね。新聞に載っとる詩のごつ」
「はい。いき当たりばったりに這いずり回って、挫折を繰り返さないかぎり、その無欲さは獲得できないし、発揮する意欲も出てきません。ぼくに表現の才能があるかどうかわからないけど、そんなものがなくても、這いずり回っているうちに、表現の心意気だけは身につくと思うんです」
 菅野が、
「野球と同じように、感謝の行為が形のない精神的なものになるわけですね。よくわかります。神無月さん、ものを書くのはいつでもできます。野球はいましかできません。そのいまを長びかせてくれませんか。たとえば……三十歳まで」
「そうですよ!」
「そうたい! ファンのためにホームランば打つといつも言っとるやなかね。水原さんが引退するまでは野球をやるといつも言っとるやなかね。何年もせんとやめてしもうたら、ファンが泣くばい! ワシも泣く。みんな泣く。金太郎さんのアタマなら、野球をやりながらでも書ける。それはだれもじゃません。秋季キャンプとプレキャンプには出んちゅう金太郎さんの申し出ば球団が受けよったのは、書きもののためとは思わんばってんが、そういう金太郎さんのふところの深い生活を考慮したからやろうもん。菅野さんの言うとおり、末永く野球をやってくれんね」
「勝敗にこだわって十年以上も生きられるか心配です。……野球を楽しみたい。もちろんホームランも打ちたい。それはぼくにとって勝ち負けと関係のないあこがれですから。チームメイトの精魂こめた奮闘に力を貸しながら、勝利に貢献する……あこがれだけでそんなことができると思いますか? できればいちばんいいでしょうけど」
 江藤が、
「あこがれだけではできんと思うばい。プロ野球チームは勝ってナンボやけんの。勝つためには、ときには短打や犠打が必要なこともあるけんな。ばってん、そのときもホームランば打てばすむこったい。ワシは勝負と関係なく野球を楽しむことば金太郎さんに教えてもろうた。勝負というのは、突き詰めれば、金と権力ばい。金太郎さんはそんなもの屁とも思うとらん。ただホームランば打ちたいと願うとる赤ちゃんたい。金太郎さん、野球ば楽しもう! ついていくけん」
「俺も、どこまでもついていきます」
 青臭くて生ぬるい会話の中で、私はちっとも恥ずかしさを覚えなかった。こういう会話の中で小さくたむろして暮らせることに強く心を打たれた。菅野はしきりに目もとを拭っていた。
「ちょっと運転が危ないので、路肩に寄せます」 
 ときどきフェンスが途切れ、遠く市街地が見えたりする。菅野は道の窪へ入りこんだ。
「神無月さん、すばらしい友人に恵まれましたね。驚きます。……それでもなかなか好きなようには生きられないと思いますが、いつまでも自分の気持ちに素直に生きてください。見物させてもらいます。もちろん野球ばかりでなく、神無月さんの人生も見物させてもらいます」
 それだけ言って、ハンカチで目を拭うとふたたび車線に出て走りはじめた。私たち一人ひとりの肌のあいだに友愛が充ちていた。
 湖東三山という自販機しかないパーキングエリアでトイレ休憩し、東大阪インターを目指す。太田が、
「ものを書くというのは、記録を樹ち立てるものじゃないですよね」
「うん。評価されるものじゃなく、人を救済するものだ。でもこの社会では、芸術も記録を樹ち立てるものだとされてる。数字では表わせない記録をね。古代ギリシャやローマの時代には、公開の場で詩を作って争ったんだ。だれがいちばんすぐれているかって。勝利者には頭には月桂樹の冠がのせられた。現代も同じ。やれ何々賞、何々プライズ。学問も芸術もそんなエントリーの形で〈成し遂げる〉ものじゃない。ひたすら孤独に、自分だけの関心事にこだわり、結果的に人びとの利益になる業績を残すものだ。芸術もエントリーなんかしないで作り溜めていって、折々に、愛する人びとに披露する。現代では〈成し遂げる〉という言葉の意味は、試験に受かったり、表彰されたりして、段階的に登竜門をくぐるというイベントに変わってしまってるけど、そんなものは業績じゃなく、努力の過程に与えられるご褒美だ。業績というのは、努力の過程なんか示す必要がなく、何かにしっかり関わり、最終的に人びとの利益になる成果を挙げることだ」
 江藤が、
「そう言えば、何とかいう作家が芥川賞を取ったとき、ようやく十両優勝しましたって言っとったな。ゲスばい」
 口癖のゲスが出た。太田は、
「職人技を磨けばすむ野球なんかより、神無月さんの言う〈芸術〉は、はるかにきびしいですよ。エントリーしない以上は、成果の目安がほとんど死んだあとにしかないんですから。がんばってくださいと言うしかありません」
「からだを使って金を得るのが生活というもので、心を使うのは生活の役に立たない。もし心を使って生活できるような賃取り仕事ができたら、とてもうれしいことだけど……。でもがんばる。野球もがんばる。野球は記録という数字の目安があるからがんばりやすい。それにホームランは人びとの幸福という利益を与える」
 菅野が、
「神無月さんは、生きながら伝説の偉人ですね。神無月さんのような考え方は、神無月さんに手を差し伸べる人以外には認められないでしょう。手を差し伸べると言っても、私は物質的なほうは無理ですから、もっぱら精神的な応援をさせていただきます。神無月さんは、金は生きる分だけあればじゅうぶんと考える人なので、支援が必要なのは心の面だけです。精神的と言っても、ほんとに、私には大したことはできません。神無月さんが折々携わる仕事にエールを送りながら、一生神無月さんを見守るだけです。私、語り継ぎますよ」


         四十一

 二時四十分、吹田インターを降りる。中村日赤の鳥居通りと似た庇の低い質素な町家筋に入る。空が広い。
「すっきりした町やのう」
 太田が、
「すっきりしすぎて、何かさびしいですね」
 かなり大きな川を渡る。吹田大橋。一級河川神崎川と書いてある。二十分ほど走り、さらに大きな川を渡る。淀川。ものすごい川幅だ。長い巻雲が一筋、水色の空を横断している。広い空の下に青春が四つ。江藤がポツリと、
「回天の大業……」
 太田が、
「え? カイテン?」
「時勢をひっくり返す業績ゆうこったい。ワシはその現場に立ち会うとる。ぞくぞくするばい。五十本を七月に超えれば、百本が見えてくる。何百年も破られんぞ」
「はい、興奮しますね!」
「ワシはシーズン五十六本を狙う」
 橋を渡り切ると、一転、高層ビルの街に入った。それを突っ切り、さらにもう一本の大川というこれまた大河を渡った。もう使っていない渡船場のような場所があって、古びた平底の和船が一艘岸につながれて、所在なげに揺れている。太田と百江といっしょに明石から見物にきた大坂城を過ぎる。太田もなつかしそうに見ている。江藤が、
「菅野さん、北村席ゆうんは、トルコ風呂ば経営してらっしゃるんやな」
「はい」
「むかしの赤線の大元締めと考えて差し支えなかですか」
 菅野は含み笑いをしながら、
「はい。三十三年以降は、青線と呼んでました。もぐりの集団売春地域です。そこの元締めでもありました」
「ワシが言いたいんは、そういう歴史はさておき、ご主人夫婦が慈善家のように女たちに接しとるゆうことですばい」
「そのとおりです。給料も生活も、儲けを還元するつもりで、とことん面倒見てます。社長が言うには、むかしあくどくやりすぎた、ときすでに遅しかもしれんが、女たちに恩返しをせんとあかん、ということだそうです。何がどう影響を与えたか、お嬢さんと神無月さんを見ていて決心したそうです。きれいな人間たちに似合うような家にしたいと言ってました。トモヨ奥さんを養子に採ったのも、そういう気持ちからです」
「……何をしても、金太郎さんは回天の大業たいね」
 ゴチャゴチャした街並を右折し、左折し、ときどき通行人に道を尋ねながら、ようやく大阪ロイヤルホテルに到着。三時三十五分。市内を一時間近く走った。菅野が三十階建ての建物を見上げながら、
「やっと着きましたね。荷物を下ろしましょう。一服したら、私はUターンします」
「ありがとう、菅野さん。長距離の運転、ほんとうにご苦労さまでした」
 江藤と太田も頭を下げ、握手した。クラウンを降りてトランクを開けると、ボーイたちが走ってきた。大阪も寒い。名古屋は今朝零下だったが、それよりも底冷えするように感じる。腕時計を見ると、四・八度。
「中日ドラゴンズのみなさまですね。荷物は私どもがお持ちします。どうぞフロントのほうへ。お車は地下駐車場に入れておきます。お出かけのときはお申しつけください。キーをこちらへ」
 玄関を入ると、一般の客がたむろするなか、中老の黒背広が三人立ち並び、からだをくの字に折って挨拶する。薄紫のスーツを着たフロント係も深々と辞儀をする。男二人、女一人。女の鼻が目立って高い。鼻のそびえた女の横顔を見ると厭世的な気分になる。十四日、十五日、十六日と三泊の手続をし、だれと相部屋かを教えられる。私は江藤と、太田は島谷と、どちらも六階スタンダードツイン。江藤と太田が鍵を渡された。六階の十四部屋が選手部屋、七階の五部屋が監督とコーチとそのほかのスタッフの部屋だと聞かされる。太田は一号室の私たちから三部屋離れていた。
「ご夕食は六時より八時、二階小宴会場、楓の間で。ご朝食は七時より十時、一階リモネで洋食、なだ万で和食、どちらをお選びになってもけっこうです」
「チェックインはワシらが一番乗りですか?」
「はい、選手のかたがたの中ではそうです。監督、コーチのかたがたがすでにお見えになっていらっしゃいます」
 江藤はロビーを眺めわたし、
「菅野さん、ま、コーヒーでも飲もうや」
「はい。三十分もしたら帰ります。名古屋には八時前くらいかな」
 溝を川のように蛇行させて水を流しているレストランふうのラウンジへいく。グランカフェという看板が出ている。だだっ広いが、テーブルの配置が整然としているので和んだ感じがする。二百人はゆったり座れる空間だ。壁一面のショーウィンドーふうのガラスケースに、大阪の町や川を写した江戸期の絵画が展示してある。たぶん本物だろう。大きなガラス窓のそばに席をとる。窓の外に、森林と滝に擬した空間をしつらえてある。四人ともアイスコーヒーを注文する。
「菅野さん、きょうはほんとにありがとう」
「神無月さんのためなら、月へでもいきますよ。二十一日は名古屋空港にお迎えに出ます。修理に出したボルボの試運転をします」
 江藤は申しわけなさそうに、
「帰りは金太郎さんといっしょでなかばい。ワシは熊本の実家に顔を出したあと、福岡の本宅へ回りますけん。それからゆっくり飛行機で帰ります」
 太田が、
「俺も津久見の実家に寄ります」
「そうですか。残念ですね。またいずれ名古屋でお会いしましょう」
 江藤がうんうんとうなずき、
「うれしかなあ、三日間も金太郎さんと寝物語ができるばい」
 菅野が、
「それ、女以外は史上初ですよ」
「ありがたか」
 太田が、
「たまに二人の部屋に遊びにいきますよ」
「仕方なかな。おまえと金太郎さんは歴史が古かけんな」
 アイスコーヒーが出てきた。うまい! 太田がはしゃいだ。
「めちゃくちゃうまいすね」
「阿佐ヶ谷のポエムと競る味だ」
 どこにいたのか、カメラが湧いてきた。あちこちでシャッターが切られる。音に釣られて客たちも寄ってくる。菅野はあわててストローなしで一口グラスを傾けると、
「じゃ、がんばってください。テレビで観てますからね」
 足早に玄関へ出ていった。
「北村席の人たちだけでなか。ワシも人間が変わったばい。からだの細胞ゆうんかな、そっくり入れ替わった感じがする。ありがとう、金太郎さん」
 三十路を過ぎた武者顔が、私をまともに見つめている。太田も、
「こうしてチームメイト以上の関係でいられるのが不思議な気がしますよ。運命に感謝してます。神無月さんの倍の努力を目標にします」
 なぜか二人を自分のほんとうの兄弟のように感じた。私は胸がときめくような気恥ずかしさを覚えながら、このでき上がったばかりの友情に甘い家族愛のようなものを重ねた。 
 よろよろ荷物を担いだボーイらにつき随って、選手たちが意気揚々と入ってきた。木俣、中、高木、一枝、島谷……。彼らはチェックインを終えると、手を上げながらこちらのテーブルへやってきた。全員が飛行機組だ。カメラマンがここぞとばかり、シャッターを押しつづける。みんな私たちのまねをしてアイスコーヒーを頼む。あれこれ笑いながら話し合っているうちに、大ガラスの外に小糠雨が落ちはじめた。
「だいじょうぶかなあ」
 私が言うと、中が、
「あしたの天気予報は快晴だよ。午後の陽が射してくると、外野守備がやりにくいぞ」
 太田が、
「神無月さん、サングラスかけたらどうですか」
「いや、だめなんだ。視界が暗くなると目が利きにくい。薄暮のときは特殊眼鏡をかける。東大の鈴下監督が専門家に頼んで作らせたものだよ」
 中は茶目っ気のある眼を私に向けた。
「眼鏡をかけた金太郎さんを早く見てみたいな」
 私は雨の様子を見に玄関へ出ていった。江藤もついてきた。降りは強くない。
「利ちゃんの言うとおり、上がりそうやな」
 西の空が明るく、いくらか赤みが射していて、なんだか夕焼けのようだ。テーブルに戻り、だれにともなく語りかける。
「グランドはだいじょうぶでしょう。……野球グランドが大好きなんです。小中学校の固いグランドのころはあまり思うところはありませんでしたが、初めて青森市営球場の土を直(じか)にスパイクで踏んだとき、その絶妙な軟らかさに感動しました。そこへ陽射しが映ると芝生が輝きだし、土の黒さが雄々しく際立つんです。空気まで澄んで感じられました。一生飽きませんね」
 みんな声を上げて笑った。高木が、
「相思相愛だね。金太郎さんを見ていると、グランドに愛されているのがよくわかる」
 一枝が、
「ユニフォーム姿がフィールドに溶けこんでるからなあ」
 江藤が腕組みをして、
「相思相愛か。ええ言葉や。ワシもグランドに好かれるように愛情ば注がんと。ホテルの玄関に雨の具合を見にいく野球選手ば初めて見たばい」
 めったに口を利かない島谷が、
「いつもグランドに会いたいんですね。見習わなければいけない気持ちだ。ファンのためといつも神無月くんは言ってるけど、観ているファンに精いっぱいのプレイでお礼をするのは当然として、その前に愛情を注ぐ対象がグランドそのものにあるという基本を貫く。その姿を見てファンは喜ぶ……。ほんとに見習わなくちゃいけない」
 太田が、
「ああ、俺も早くグランドに会いたいな」
「似合わんことを言うな」
 一枝が太田の後頭部をポンと張った。
 二階の楓の間という小宴会場にチーム全員集まって夕食になった。十人がけの丸テーブル四脚。洋室なのに、大きな明り採りの窓に障子を立てている。華美だ。しかし、私の居場所でないと幼い愚痴を言うのにも飽きた。
 フレンチのコース料理というのを初めて食った。ウェイターが目の前に皿を置くたびに、ごしょごしょと横文字をしゃべった。こういう応接は初めてだった。ワインというのも初めて飲んだ。いがらっぽくてうまくない飲み物だった。とにかくあれやこれやにフォークを突き刺して食った。
 キャンプに入って以来、よくものを食うようになった。食欲があるからではなく、腹に溜めても苦痛でなくなったからだ。もともと腹がすいたことを苦痛に感じるタチではなく、しゃにむに貪り食いたいと思ったことはなかった。小学校のときも給食の時間が苦手だったし、中学時代は、ばっちゃの弁当を除いてほとんど昼めしを食わなかった。葛西さんの下宿でも、健児荘でも同じだった。朝めしを食いだしたのは野辺地からと遅かったが、食えば育つ。身長はどんどん伸びて、やがて打ち止めになった。百八十二センチ。昨夜則武の簡易体重計で量った体重が増えていた。八十四キロ。理想と考えていた体重だ。あと二、三キロ増えてもいい。飛距離が一メートルでも伸びる。
 水原監督やコーチ陣も、訓話らしきものをいっさいしないで、ただ楽しげに食事に没頭していた。魚の次に、カボチャのシャーベット、つづけて肉を食わされたのには驚いた。アイスクリームが出て、コーヒーで〆になった。
「ああ食った。ちょっと牛になりたいたいので、先に部屋に上がってます」
「おう、ワシはもう少しこいつらとビールば飲んでいくばい」
 控え選手を除いたレギュラー全員がそこに座っていた。江藤から部屋の鍵を渡される。
「あしたの朝食は、なだ万にします」
 中が、
「私らもそのつもりだったんだよ。やっぱり朝は和食だね」
 私は辞儀をして、エレベーターに乗って六階へいった。一号室の鍵を開け、自動的に明りの点いた立派な室内を見回す。ベッドメイキングをきちんとしたツインベッド、花を置き、蛍光灯を備えた造りつけの机、椅子も立派な皮張りだ。窓際には丸テーブルと二脚のソファ椅子が置かれ、江藤と私の野球用具が間隔を空けてまとめてある。厚いカーテンを開けると、窓の外に街のネオンがまるでクリスマスツリーが何本も立っているように輝いていた。テレビ台の脇に小型冷蔵庫。開けると、ビール、栄養ドリンク、ジュース類が入っている。床頭のラジオを点けることはないだろう。電話が入る。宇賀神だった。
「おひさしぶりです。すばらしいご活躍、日々感動を新たにしています」
「ありがとうございます。これからも期待を裏切らぬようがんばります」
「ハハ、がんばりはこのへんで。ところで、秋月先生はこれから遊説等で忙しくなりますので、その旨牧原さんに申し上げたところ、護衛のほうはすべて松葉会さまのほうで引き継ぐとのこと、当分のあいだわれわれの任は解かれることになりました。師走の衆院総選挙終了後は、また私どもがボディガードの任務に就かせていただくことになると思います。今後は各試合後のバスに乗りこむまでのあいだ、および、パーティやサイン会がある場合は、その会場に、それぞれ松葉会さまが二名以上のガードをつける予定です。これまでの様子を見ると、危惧することもない感じはいたしますが、念を入れるに越したことはありませんので」
「今回もこのホテルでガードが目を光らせてるんですか」
「はい。お気になさらぬようにということでした。目立たぬ形で護衛しております。黒服を着たり、サングラスをかけたりといった派手なことはいたしません。とりあえずご報告まで。一年間がんばって乗り切ってください。秋月先生ともども、血を湧かせ、肉躍らせて応援しております。失礼いたします」
 私の礼の言葉を待たずに切れた。ワカの顔を浮かべ、そこまで心配する必要はないと断わることはできなかった。


         四十二

 オープン戦の予定表を書き写した手帳を開く。三月一日、二日、東映戦(中日球場)終了。五日、六日、ロッテ戦(東京スタジアム)終了。八日、九日、巨人戦(後楽園球場)終了。十二日、阪神戦(中日球場)雨天中止。十三日、広島戦(中日球場)終了。これからの予定は、十五日、十六日、南海戦(大阪球場)。十九日、二十日、西鉄戦(平和台球場)。二十六日、アトムズ戦(神宮球場)。二十七日、大洋戦(川崎球場)。二十九日、三十日、阪急戦(中日球場)。三十一日、近鉄戦(中日球場)。残り九試合。
 小バッグからいのちの記録を取り出し、机に向かう。

 一個の人間ではなく、複数の分身の集合体を構築する。複数の人間を創造しなければならない。主人公の容量の大きさは、何人の分身を含んでいるかだ。現実の人間は文学の題材にはならない。私は〈もう一人の人間〉を捏造しなければならない。しかし、たとえ虚像でも、現実味に分厚いオブラートをかけてはならない。
 いくらこしらえものにしても、紋切り型にすぎてはならない。人間の中にまともな精神の動きを見ようとしてはならない。精神のあるなしは人間の基準にならない。人間の特色は精神の外にある。理屈を通して、思わず悪人になってしまう善人や、思わず善人になってしまう悪人など存在しない。人間は振り子的な運動はしない。曲げられない気質に基づいて動く。
 もっともっと、習慣的にバットの素振りをするように、架空の人間のこしらえ方を研究しなければならない。

 十時を回って、江藤が戻ってきた。アルコールはさほど効いていない様子だった。酒の強い人間は羨ましい。
「やっぱり机に向こうとったな。寒かねェ。きのうの昼、雪が降ったそうや。今夜は冷えこむぞう」
「空調が効いててよかったですね」
「喉やられるけん、風呂に水張っとく。シャワーは朝でよかな」
「そうですね」
 江藤はバスタブに水を入れて戻ると、ホテルの寝巻に着替え、ドスンとベッドに横たわった。
「作戦会議ですか?」
「そういうもんは自分一人で立てる。金太郎さんの話ばっかりよ。みんな人生が変わったて言いよる。なんも背負わずに何気なく野球をしてきたことば痛かほど反省したて、中も高木も言いよったばい。田宮さんなんか、年食ってようやっと人生が始まった気がするゆうて泣いとった。北村席の話ばした。ご夫婦やら和子さんやらの話もした。将来金太郎さんがものを書きたか思うとる話もした。みんな感激よ。一枝は金太郎さんの影が濃く見えたり薄く見えたりすることがあるのがオソロシカゆうてな、それでワシも泣いた。……とことんいっしょに野球ばして、みんなで金太郎さんを見守ろうゆうことになった。優勝やら考えずに、シチャクチャ野球ばするばい」
「ぼくみたいな人間をそこまで……ありがとうございます」
 私がノートから離れないのに気を差して、
「そのままやっとればよか。ワシは寝る。あんまり夜ふかしばせんようにな」
「はい」
 江藤はベッドにもぐり、しばらくゴソゴソ動いていたが、やがて安らかな寝息を立てはじめた。角刈りの後頭部に、心の中で声をかける。
 ―江藤さん、ありがとう。
 どんな人間も、横たわった後頭部はさびし気に見える。机の明かりを消してベッドに入った。枕もとの豆灯を消す。神経が昂ぶっていて眠れない。目をつぶり、野辺地の雪道を浮かべる。人馬に踏み固められてワックスがかかったようにつやつや光る道。足を取られて転びそうになる。牛巻坂の家並を一軒一軒、思い出せるかぎり浮かべる。鮮やかに浮かんでくる。名前まで浮かんでくる店もある。開かずの踏切から緩やかな上り坂へ。民家やアパートを挟みこみながら、魚市場、アサイ薬局、パチンコ紅白、雑貨店、中京眼科、浜島煙草店、田中クリニック、美容室、空地、神宮薬局、一つだけ買って齧りながら病院まで歩いた今川焼屋、四辻、蕎麦屋、理容カズ、神宮飯店、判子屋、空地、四辻、焼肉伊勢屋、肉屋ふじ、喫茶店、家具屋、クリーニング屋、電気屋、蒲団店、いつも戸が閉まっている質屋、喫茶店、税務署、書店、空地、銭湯、風のある日にサラサラと葉ずれの音を立てていた二十メートルほどのヤマナラシの並木道、短い急坂になる、坂のいただきの新堀川を渡って、浜野石材店、ウィンドウの品物が魅力的な質屋、下り坂に入って民家と事務所の群れ、水谷桶店、ガソリンスタンド、自動車修理工場、文具店、自転車屋、孫ちゃんといった切手屋、広い交差点、牛巻病院……。
         †
 七時過ぎに目覚める。江藤は掛布を剥いで寝ている。カーテンをわずかに開けると、真青な空。三・九度。
 枇杷酒でうがい。ほとばしる下痢便。シャワーを浴びながら、持参した歯ブラシで歯を磨く。洗髪。下着を替える。洗面室を出ると、江藤はまだ寝ている。汚れた下着をビニール袋に入れて段ボール箱に納める。二、三日ごとに洗うつもりだ。
「江藤さん、シャワー!」
「おォ―」
 むっくり起き上がり、風呂場へいく。ドアの隙間にスポーツ新聞が差し入れられている。これも初めての経験だ。東京のニューオータニはこうではなかった。選手たちは起床すると同時に、朝刊を貪るように読みふける。また朝でなくても、廊下や球場の外で報道記者に出遇ったりすると、たいてい、
「何か新しい情報は?」
 と問いかける。そうやって少しでも最新の情報を入手しようとするのだ。

  
七割・十七本 魔神ナンバ盆地でも大暴れか 

 中身を読まずに江藤のベッドに置いた。頭をバスタオルでこすりながら、パンツ姿の江藤が出てきた。見出しを見て、
「毎日毎日、いやになるやろう」
「別にうれしくはないですが、いやにはなりません。もの心ついて以来の生活の色合がすっかり変わってしまったんですから、騒がれることに慣れなければ。ナンバ盆地というのは何ですか」
「難波にある大阪球場のことや。一層式、すり鉢状」
「すり鉢と言うくらいなら、すごい傾斜なんですね」
「内野スタンドは崖やな。三十七度の傾斜らしか。収容人員三万二千。ここ四、五年、大阪球場は一試合に五千人も客が入らん状態ばい。ばってん、きょう、あしたと確実に満員になる。この見出しはその宣伝も兼ねとる。金太郎さんに野次ば飛ばす南海ファンはおらん。きてもらって、ありがたくてたまらんやろう」
「狭い球場らしいですね」
「両翼が八十四メートルしかなかけん、後楽園と同じようにヘラになっとる。センターが百十六メートル、左右中間百十メートル。ポールぎわなら、バット折っても高く上がれば入ってしもうたい。ライトスタンドはレフトスタンドの三分の二もなかけん、金太郎さんはほとんど場外やろう」
 八時から、なだ万で監督以下、トレーナー、スコアラーも交えた十数名と和やかに朝めしを食う。残りの二十数名はリモネの和食バイキングへ回った。バイキングは落ち着かないし、行列に急かされて、バラエティに富んだおかずを選べない。のんびり小さい座敷で食うのがいい。ふっくらとした鮭、揚げだし豆腐、たらこ、ヒジキと豆の煮物、豆腐とミツバの味噌汁、オシンコ。めしをふつうの茶碗で三杯食った。そのあとで、生卵をかけただけのめしを、醤油を垂らして一膳食った。ほとんどの選手は二杯だった。
「よう食うなあ。羨ましか」
「小中学校のころはあまり食わずにチビスケでしたから、その反動でしょう」
 そう言って味噌汁の残りをグイと流しこむ。ここでももちろん、ミーティングも訓話もなし。隣り合せたテーブルから水原監督が声をかける。
「金太郎さん、きょうの南海は皆川でくるようだ。交流試合では、金太郎さんにスコアボードを越えるホームランを打たれたからね。二百勝投手の面子にかけても打たせないと言ってるらしい。返り討ちにしてやってね」
「はい」
 コーチ陣がうれしそうにカラカラ笑う。トレーナーの池藤が、
「このあいだ試合の帰りぎわに、神無月さんの禁断の筋肉を触らせてもらいました。餅みたいに柔らかいんで驚きました」
 田宮コーチが、
「なるほど禁断だ。女以外に触らせないという噂だからな。チンポの毛は生えてるが、脛毛も腋の毛も生えてない。手のひら足の裏には汗をかかん。なんもかんも常識外れなんだよ、金太郎さんは」
 江藤が、
「ヒゲは少し生えとるばい。近くで見んとわからんが」
 どれどれ、と言って水原監督が顔を近づけた。
「うん、たしかに。あと二、三年したら、ブラウンの髭剃りでもプレゼントするかな」
 半田コーチが、
「レイザーで剃っていれば、だんだん濃くなるでショ。でも、剃らないでいいなら、そのほうが便利ネ」
 高木が、
「バット、滑らないかい?」
「なぜかそれはだいじょうぶなんです。インパクトで握り締めるからでしょう」
「そういうものかなあ」
 みんなで手のひらと足の裏を触りにくる。中が、
「紙の手触りだな!」
 小野が、
「本をめくるの不便じゃないの?」
「とっても不便です。麻雀を初めてやったときもたいへんでした」
 小川健太郎が、
「わかるわかる、ツルツルしちゃうんだろ。金太郎さん、麻雀打てるのか」
「下手くそすぎます。初めて上がったのが、四枚使いのチートイツでした。それっきり二度とやりません」
 ドッと上がった笑いがしばらく止まなかった。
 部屋に戻って、江藤と二人でグローブとスパイクを磨き、ユニフォームに着替える。
 九時半。ダッフルを担ぎ、ホテルの外に待っている二台の送迎用バスに乗りこむ。地元のバス会社のようだ。玄関前に縄が張られ、その向こうにおびただしい数の人だかりがある。ほとんどの人がカメラを構えている。メガホンを持ったホテルマンが、選手に近づこうとする彼らを制している。意外と歓呼の声は少ないが、拍手とフラッシュの光が絶えない。
「歩行者のかた、舗道にお上がりください。車輌が出発します!」
 遠征時の野球用具は本人の持ち運びになる。最終日の試合が終わると球団職員が回収し、球場に集荷にきた運送業者に渡してコンテナに詰めたあと、翌朝の飛行機に乗せて次の試合地まで運ぶことになっている。空港からトラックに載せたコンテナが直接球場へ運ばれてくる。私はそうしない。遠征先のホテルに郵送するか、今回のように常に肌身離さず持ち歩く。収納ケースに入れたバットを三本、ダッフルにグローブ、スパイク、ふつうのタオル、バスタオル、帽子、替えのアンダーシャツ、眼鏡。主な荷物はそれだけだ。最終試合のあと溜まったユニフォームは、ホテルから北村席へ送り返す。バットは十試合も使うと表面が少しささくれてくるので、遠征前に常に新しいものを準備する。
 太田が隣の席に座った。
「九州への移動手段は何?」
「飛行機です。大阪伊丹空港から福岡空港まで、二時間十五分。空港からバスで西鉄グランドホテル。福岡空港からホテルまでは八キロぐらい。試合当日も、ホテルからバスで平和台球場。ホテルから球場までは二キロくらいです」
「調べたね、博士」
「サガですね」
「きょうは、大阪球場まで何分?」
「中之島のこのホテルから大阪球場までは、直線距離だと五キロですが、曲がったり信号にかかったりして、十キロ程度でしょう。時速三十キロでも二十分で着きます。十時には神無月さんの愛するグランドですね」
 靱(うつぼ)公園を左右に見ながら、ハナミズキの連なるビル街を抜けていく。交通量が少ないので十五分もあれば着きそうだ。道頓堀川を渡る。もと南海の選手だった森下コーチが口に出さなければ、公園の名も濁った川の名もわからなかった。大阪一の繁華街、通称ミナミの街路を二曲がり、三曲がりして、大阪球場に到着する。



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