四十三 

 森下コーチが大阪訛りを激しくし、
「そこの高島屋からな、北に拡がっとる盛り場には、食い物屋からバーから高級クラブまで何でもあるで。試合が終わったあとも、客たちはそこで目いっぱい楽しむわけや。ここは地下鉄の難波駅から五分もかからん。ほやさかい難波球場とも呼ばれとる」
 球場を見上げると、視界いっぱいに蜂の巣のような窓を並べた九層の外壁が飛びこんでくる。正面の壁の上部には〈サンケイスポーツ〉の文字が独特の字体で踊っている。窓と見えるのは建築上の壁飾りだろうか。その壁に、満員につき入場できません、という垂れ幕が下がっている。森下コーチが、
「三時間前に満員てか? 大阪球場始まって以来やろ。巨人相手のオープン戦でもこうはいかん。うろうろ客にくっついてるオバチャンな、あれダフ屋なんやで。ふつうダフ屋ゆうたら男やけど、大阪球場はオバチャンばっかりや」
「森下コーチ、あの蜂の巣みたいな窓は飾りですよね」
「ほんものの窓や。五階建てのテナントビル。三階までを商店に貸し出しとる。四階が空(す)きすきになっとるやろ。あれは大プロムナードゆうてな、野球と関係ない特設会場が並んどる。日本の球場でああいうことをやったのは大阪球場が初めてや」
 うれしそうに説明する。球場の外壁を取り囲むように自転車がひしめいている光景がめずらしい。一階部分に内外野の入口はあるが、それに接して場外馬券売場や、室内ゴルフ場、ビリヤード場、卓球場と並んでいる。娯楽センターの上に球場の建物が乗っかっている格好だ。アイススケート場、ボーリング場、プールなどの施設の看板も出ている。
「プロムナードにはな、文化会館ゆうのがあって、土井勝が料理学校をやっとる」
 ドラゴンズのスタジアムジャンパーを着た人びとの群れがワッとバスに押し寄せてきた。私は笑いながら手を振る。江藤たちも手を振った。
「すてきい! 神無月さん!」
「江藤、格好いいぞ!」
 女たちの悲鳴、男たちの喚声。ひとしきり車中に笑いが満ちた。ファンの群れを見下ろしながら板東が、
「蠅捕りリボンにくっつくハエやな。見とれんわ」
 と笑った。私の胸の針点を突いた。聞き捨てならなかった。自分の血相が変わるのがわかった。おのずと立ち上がった。
「ハエだとォ! 本気で言ってるんですか!」
 板東も勢いよく立ち上がった。ひさしぶりの耳鳴り。
「なんや、その態度は! 調子こきゃがって」
「調子こきついでに、あなたをハエみたいにつぶしてあげましょうか!」
「つぶせるものならつぶしてみい。わいは天下の板東やで。きのうきょうのヒヨッコとちゃうわ!」
「こんな狭いところじゃラチが明かない。表に出ましょう!」
「二人とも慎みたまえ!」
 水原監督が叫んだ。江藤が声高に、
「板ちゃん、ワシらはファンあっての存在やろが」
「ほうほう、そやった、そやった。おかげでめしが食えるんやった」
 私は椅子の枕を叩いて、
「めしを食うんじゃない、野球ができるんですよ! ファンのいないゴミ漁りの乞食だってめしは食えるんです。プロ野球選手はファンがいなけりゃ、野球ができないでしょう」
「そのとおりだ!」
 長谷川コーチが怒鳴った。水原監督が、
「理は金太郎さんにある。しかし節度がない。いやしくも大先輩だ。先輩の失言ぐらい大目に見なさい。いやはや、短気だとは噂に聞いていたが、怒髪天を衝く怒りを実際に見ることができてうれしいよ。爆発したら手がつけられなくなると聞いていたからね。そういう人間だとわかって、かえってホッとした。金太郎さんは静かで、謙虚で、得体が知れないとみんな思っていたはずだ。これでみんなもホッとしただろう。冷静とはほど遠い、熱い人間だ。しかし金太郎さん、こらえることを覚えなさい。野球ではビンボールにも怒らないきみが、人間のちょっとした失言にそこまで怒ってはいかん。情熱は野球に向けなさい」
「はい―軽率でした」
 私は立ったままでいた。ファンという存在は球団や選手から見たら脇役にすぎない。それは、群衆の一員となって球場を去るとき、胸に沁みてわかる。むかしもいまも、ファンあってのプロ野球だとしばしば言われるけれども、プロ野球関係者たちが本気でそんなことを思うはずがない。観客席に集まる人びとの心持ちは、わけても少年の心持ちは切実なものだ。
「板東さん、中日球場のスタンドに座って野球選手を見てたころ、自分がどんなに彼らにあこがれて胸を高鳴らせたかを思い出すと、涙が出そうになるんです。ぼくも野球選手になれるだろうか、いままで感じたことのないさびしさとあきらめの入り混じった気持ちが湧き上がってきてやるせなかった。それくらいプロ野球選手は華々しかった。あなたもその一人です。ファンはあのころのさびしいぼくなんですよ。応えたいって思うんです。どんなにさびしくても、そのさびしさの中で、けっしてあきらめるな。……失礼な態度をとってすみませんでした」
「おう」
 穏やかな気質の葛城が頬を紅潮させ、
「板ちゃん、おうはないだろ。全力でしゃべってる人間に、おう、は失礼じゃないか。〈天下の〉なんてカンムリを自分でかぶるのは恥ずかしいぜ。かぶせてくれるのはファンだよ。金太郎さんは調子なんかこいてない。まじめに熱心に自分の考えを言っただけだ。こんな天才を少年のころにさびしい気持ちにさせたのが俺たちだとしたら、すごく光栄なことだけど、それだけ責任が重いってことだ。どんなにすごい才能が俺たちを見て、さびしい気持ちの中で発奮するかもしれないんだからな。……しかし、金太郎さんもとつぜん怒り出すんだもの、びっくりしたよ。太田から喧嘩っ早いとは聞いてたけど、口上もおっかなくて、ふるえ上がっちゃった。でも、すばらしい意見だった。目にきた」
 板東はそっぽを向いていた。半田コーチがやってきて私を抱き締めた。
「あなた、いい人ね。ほんとのスターよ」
 太田が私の手を握ってうつむいていた。小野や浜野はおろおろしていた。トレーナーとスコアラーはひたすら沈黙していた。
「どいつもこいつも書生っぽだな。あほらし」
 板東の悪罵を黙殺してゆっくり座席に腰を下ろすと、江藤がやさしく肩を叩いた。後部座席から一枝の、なんで喧嘩になったの、という心配そうな声が聞こえた。水原監督の不快な気持ちが、しかめた眉から伝わってくる。板東が、
「監督、きょう俺の先発予定ないですよね」
「ない」
「スパッときましたね。そりゃそうだ。この三年で、先発二回だもんなあ。屋内ブルペンで汗かいたら、上がらしてもらっていいですか」
 不貞腐れたように言う。悲しかった。小山田さんが連れていってくれた巨人戦で、翼を広げるように溌溂とブルペンで投げていた板東英二、威嚇する目で客席を睨み上げていたあの精悍な板東英二が、鬱屈した小市民になっている。
「リリーフがあるかもしれないよ」
「予定から外してください。俺を出したら、打たれるだけですよ」
「そうか、選手として自信がないんだね。来年からコーチかスカウトに回るかい?」
 車内がざわついた。穏やかに引退を勧告したことになるからだ。
「スカウトは俺に合いません。コーチをさせてくれるなら、現役を退きます」
「その線で考えてみよう。今年はリリーフでがんばってください」
「ほーい」
 バスが三塁側スタンド地下のビジター用駐車場に入る。ここから先はほかの球場と大差がなさそうだ。ベンチ裏にロッカールームがあり、監督・コーチ控え室があり、投球練習場があり、中央ゲートに近いほうにレストラン喫茶がある。廊下に素振り用の姿見があるのがめずらしい。ゴム製の床がスパイクで生々しく削れている。ロッカールームはごくふつうの造りだ。奥に大きな風呂があり、コンクリート壁に囲まれていて薄暗い。森下コーチが、
「大阪球場で選手がものを食えるのはここだけや。売店も西宮球場のお好み焼きみたいなうまい食いものはあらへんさかい、客はたいてい自家製の弁当持ってきよる。売店に力を入れとらへんのよ。みなさんも食堂で食いたくなければ弁当持ってくるんやな」
 ベンチに入ってグランドを見渡す。たしかにとんでもないすり鉢だ。急勾配のスタンドにびっしり観衆が貼りついている。ネット裏を含む内野席が異様に巨きい。ファールゾーンがこれまた異様に狭い。森下コーチに、
「ファールエリアが狭いので、すぐ観客席ですね」
「大阪球場と川崎球場な」
 レフトスタンドがバックスクリーン上部まで看板も含めてかなり高く作ってある。百五、六十メートル飛ばないと場外に出ない。右翼は百三十メートルほどで場外ホームランになる。右中間にスコアボードがあるのがめずらしい。中日球場よりはるかに右だ。中日球場と同様、八基も照明灯がある。それでも薄暗い球場だと森下コーチが言う。観客席と選手の距離とが近いのに驚く。バックネット裏の最上段に『がんこ』というギョッとするほど大きい看板が掲げられている。漫画で描かれた寿司職人が球場を睨み下ろす。大阪で有名ながんこ寿司の宣伝だと太田が言う。日本で初めてというボックス席が見える。そこにも広告が貼りついている。
「中さん、どうして野球場って四方が広告だらけなんですか」
「ああ、それね。入場料金からは高い税金が引かれるけど、広告収入からはほとんど引かれないんだ。広告で球場経営が成り立ってるようなもんだね」
「ボックス席というのは、高いんですか」
「高い。ほとんど関西財界人しか座らない。ミス大阪球場というのがいてね、ロングスカートのワンピースを着て、ボックスに案内したり、メンバー表を配ったりする。つまりボックス席は、財界人の社交の場だってことさ」
 何でも知っている。中にかぎらず、みんな私よりもたくさんのことを知っている。私は毎日少しずつ〈物知り〉になっていく。視線をグランドに戻すと独特の赤土だ。赤が球場の緑のカラーと不思議にマッチして美しい。
 それにしても静かだ。あの静かな小中学生時代の野球が髣髴として甦ってくる。静けさの中で南海チームがバッティング練習をしている。東京球場にしてもそうだったが、パリーグのスタンドは総じてうるさくない。かつてはセリーグのプロ野球も静かだった。私は中日球場で拍手すらしたことがなかった。白球を追うのに夢中でそんなことをする余裕がなかった。ため息の総和が声援だった。それでじゅうぶん球場内は盛り上がった。中日球場はまだその伝統を保っている雰囲気がある。後楽園はうるさい。この大阪球場はどうだろう。試合が始まっても静かに観戦してくれるだろうか。
「静かですね。ボールの音がよく聞こえます」
「擂鉢だから、声がよく反響する。喚声に迫力がある」
 広瀬、柳田、樋口、国貞とスカスカのバッティングをしている。なかなかフライが上がらない。ブレイザーは当たっている。野村とトーマスが左右のケージに分かれて入る。スタンドにポンポン放りこむ。木俣がうなずく。
「きょうはこの二人だけだな。……金太郎さん、さっきはいい話だったよ。みんな金太郎さんの剣幕にビビッてたが、話の中身が濃いんで、おっかなくない。板ちゃん、あいつ本気で引退する気だぜ。水原さん怒らせちゃったら、後がない」
 耳鳴りが低くつづいている。太田が、
「ちょっと尊敬してたんですけどね。イヤになりました。このあいだも、引退してもテレビが待っとるなんて言って、ガッカリしました」
 菱川が、
「俺はぶん殴ったろうかと思ったけど、ちょっとクビが怖かった。神無月さんの上品なタンカ迫力あったなあ。スカッとした」
 田宮コーチが、
「太田、菱川! 節度、節度」
「はい、すみません」
 野村がニヤニヤ笑いながらベンチ前にやってきた。大きな前歯を剥いたままスタンドを振り返り、
「すげえ客や。三万一千人。巨人とのオープン戦と日本シリーズとオールスター以外こんなに入ったの初めて見たわ。先発、浜野やてなあ」
「そうなんですか。知りませんでした」
「きょうの皆川は打てんで。球がキレとる」
「芯を外すボールばかりですよね。シュート、シンカー、小さく曲がるスライダー、ストレートまで沈むわけだから。そういうのはすべて、バッターボックスのぎりぎりまでピッチャーに寄れば克服できます」
「もっと早く曲がったらどうするんや」
「ありえませんね。だいたいベースの前で変化してしまったら、ぜんぶボールになっちゃうじゃないですか。どんな変化球もベースを過ぎて曲がるんです。だからベースの前で叩けばいい。怖いのはストレートだけです。速いストレートにまさるボールはありません」
 江藤が、
「そうか! スケベったらしくキャッチャー寄りに構えるから、やられちまうわけだ」
「スケベったらしくというのは、速いストレートにできるだけ長い時間対処しようとするということですね」
「そうや。五十センチも一メートルも前に出たら、差しこまれちまう」
「そこは勘とバットスピードでカバーするしかありません」
 野村がせせら嗤って、
「ふつうの人間はそれができんのや。あーあ、きょうも天馬にやられるんか」
 ドラゴンズのフリーバッティングになった。


         四十四 

「よし、前の立ち位置で打ってみるか」
 江藤が飛び出していく。耳を立てて聞いていた千原がつづいた。門岡と水谷則博がマウンドに向かう。水原監督とコーチ陣はケージの後ろについた。野村にくっついて南海の選手たちも何人か集まってくる。江藤が、
「モンちゃん、速球頼むで」
 千原が、
「水谷くん、ぼくも速球だ」
 右腕門岡も左腕水谷則博もストレートは速い。四、五球、詰まった当たりがつづく。そのうちいい当たりが外野へ飛びはじめた。出番のない控え選手たちが十人ほどで球拾いをしている。コーチたちまでグラブさばきを競い合いながら楽しんでいる。野村が、
「そんなに前に出たら、ぶつけたるで」
 高木が、
「労せずして満塁だ」
 大阪出身の一枝が、
「そして金太郎さんがかっさらう。金太郎さんにわざとぶつけたら、懲罰もんやで」
「天馬には工夫のしようがないわ。打率を下げるのは、打ち損じだけやろ」
 おのおの二本スタンドに放り込んだところで、私と高木に交代した。高木はベースの真ん中に立つ。江藤が、
「あと十キロ速いと、あの位置では打てんな」
 千原がうなずく。野村が、
「あたりまえや。あの位置に打てるのは、球界で天馬一人や」
 高木、初球をセンター前へ。ピッチャーの肩口をするどく突き抜けていった。私は門岡の初球を場外へ叩きだした。野村が、
「ほう! たいしたもんや」
「よーし!」
 水原監督の満足げな声。
「グレイト! アンビリバボー!」
 トーマスが拍手する。田宮コーチが明るい声で、
「腰の始動が秒速だ。まるで機械だな」
 二球目、高木、左中間へライナーのホームラン。全員こぞって、
「ナイスバッティング!」
 私はバックスクリーンへ。
「文句なーし!」
 こぞって拍手。二球でやめた。
「走ります」
「よし、俺も」
 江藤と二人で外野へダッシュ。江藤の怒り肩を追う形で、ライトからレフトに向かってフェンス沿いにじっくり走る。
「金太郎!」
「金太郎さーん! すてきィ!」
「江藤、打点王だけは獲れよ!」
 レフトスタンド前から引き返す。
「いい男ォ!」
 二人で手を振る。キャー、キャーという黄色い声がつづく。
「金太郎さん、ワシ、いい男か」
「はい」
「金太郎さんのことだとわかっとっても、悪い気せんな」
「このあたりへブチこんで喜んでもらいましょう」
「おっしゃ!」
 声援がどよめきにはならない。やはり静かな球場だ。
「静かだなあ」
「ほやろ。この球場はオープン戦で何度もきとるけん、わかっとう。大阪のファンちゅうのは野次は飛ばすばってん、ほとんど声援も拍手もせん。ホームチームのクリーンアップがバッターボックスに入ってもせん。ま、二打席くらいつづけてヒットやホームランを打つと、三打席目にパチパチやるくらいやな。ファンの声援に背中を押されるなんてことはまずない」
 太田の打球が飛んできた。きれいな弧を描いてスタンドに飛びこむ。突き立った壁に当たる感じだ。それでも内野スタンドほど垂直な感じはしない。客席も看板までかなり距離がある。
「金太郎さん、さっきの場外、百四十は飛んどるばい」
「そうですね、スタンドに意外と奥行きがあります」
「野村も場外は一本しか打ったことがないゆうとった」
「左翼場外はきびしいですね。右翼場外の速報ボードを狙います」
「確実百五十はあるな。右中間のスコアボードに当たれば百六十超え。ワシには夢のまた夢や」
 ライトポールへ引き返す。併走する。アホ! ボケ! と罵声が間近に飛んできたので、思わず笑ってしまった。
「南海ファンの追っかけ癖には気ィばつくるほうがよかて森下さんゆうとったばい。谷町六丁目ゆうホテル街があるらしくてな、近鉄のだれやったか、女とそこ歩いとるの目撃されて、〈谷六〉うろうろしとったらあかんぞて野次られたらしか」
 柔軟をしていた高木が聞きつけて、
「センスのいい野次もあるみたいだぜ。これも近鉄の話だけど、去年の新人永渕がライトを守ってたとき、スタンドから、おまえの顔は一円玉や、という野次が飛んできたんだってさ」
 よくわからない。
「な、意味がわからないだろ。永淵が振り向いて、なんでという顔したら、これ以上崩しようがないっちゅうことや、って」
 三人で声を合わせて笑った。ベンチに戻ると長谷川コーチが、
「きょうあすの試合は、毎日テレビ、読売テレビ、ラジオは朝日放送、大阪放送、NHK第二が中継するらしい。オープン戦で、しかも人気薄のパリーグ相手でだぞ。異例中の異例の全国区放送だ。浜野、男を見せろ」
「ウィス!」
 宇野ヘッドコーチが、
「平和台も超満員になるだろうな。金太郎さん、パリーグがセリーグより人気がないのはテレビのせいなんだ。テレビ中継は現場の客足を減らすと思いがちだけど、テレビ中継されるチームほど人気が出て、球場にも観客が集まるということがわかった。パリーグは研究不足だったんだよ。東映、南海ときて、このままテレビ中継がつづけば、きのうまで閑古鳥だったパリーグは人気を盛り返すぞ。金太郎さんの登場が球界全体を三倍にも五倍にも盛り立てたわけだ」
 ライトスタンドで南海ホークスの応援旗が四、五本、一塁内野スタンドでも一本振られている。鷹の三角小旗が内外野のいたるところでバタバタし、それに加えて、手拍子、太鼓の合奏、呼子笛、チャルメラ、ドラ、豆腐ラッパが盆地にこだまして鳴りわたる。喚声は上がらないにしても、やっぱりうるさい球場だった。
 飯田監督と水原監督のメンバー表交換。トンボと線引きが入る。
         †
 試合が始まると、皆川も浜野も好調子で、四回まで投手戦がつづいた。球審がひさしぶりに露崎なので、ストラックアウトのジェスチャーが派手だ。そのたびにスタンドが笑いさざめく。
 先攻のドラゴンズは、一回の中のセンター前ヒット一本きり、南海もトーマスのライト前ヒット一本だけだった。私は第一打席に中を一塁に置いてショートゴロエラーで出塁したが、後続がなく、残塁に甘んじた。四回の第二打席は早打ちのセカンドライナーだった。絶好球だと思ってミートしても、ベースのはるか前で微妙にボールが沈んでくるので、打球が上がらない。次打席からは低目だけを狙って掬い上げることにした。
「どや、打てんやろ。これが皆川や。打ちやすいボール投げさせたろか」
 野村にくすぐられても、何も言い返せず、全員凡打を積み重ねた。しかし、ボテボテの打ち損じはないので、三順目で打ち崩せると思った。
 五回表は六番島谷からだった。
「大喰らい!」
「ウド!」
「ザル!」
「こりゃ、しまったニー」
 ザルと、ダジャレ以外は意味不明の野次。きょうの島谷は、ヒットのトーマスを一塁に置いて野村のサードゴロをトンネルエラーしている。ダブルプレーを焦ったのだろう。幸い得点に結びつかずにすんだが、レフトから眺める背中にしばらく元気がなかった。百八十三センチ、八十九キロの巨漢なのに、いやに振りが小さい。コンパクトな打法といえば聞こえがいいが、凡打を気にして、江藤や太田のように思い切りバットを振り出せないのだ。大きなからだが器用にバットを振るので、かえって鈍重な感じを与える。田宮コーチがいつも、
「前を大きく」
 と彼に言っている。無理だろうと思う。彼はアベレージヒッターなのだ。もう十センチ身長が低ければ、シュアなバッティングをする小兵として重宝されただろう。
 ―ライト前かな、レフト前かな。
 と思っていたら、ライト線に痛打した。外のスライダーをコンパクトに打ったのだ。島野がラインぎわへ打球を追いかける。中日ベンチが沸き立った。三塁側スタンドにようやく小さな歓声が上がった。胴長のからだが二塁ベース上に立つ。この二塁打が出るまでボールが外野に飛ばなかったことに気づいた。レフトの柳田もセンターの広瀬も暇そうにしていた。
 代走に太田が送られた。島谷は上機嫌に太田とタッチして交代した。太田の足が速いわけではない。次打席からのバッティングに期待しているのだ。第一打席で三振している江島に代打が出た。菱川だ。彼は島谷と似たような身長体重だが、胴が短く、すらりとスタイルがいい。何より振りが大きいのがガタイに似合っている。森下コーチが、
「島谷なんか野次られたうちに入らんぞ。ガラガラのときはこの球場の野次はもっとひどいんだ。これだけ客がいると野次を飛ばすやつもアガッちまうんやろう。きょうは静かなもんだ」
 そう言ったとたんに一塁内野スタンドから、
「クロンボ!」
「アフリカ帰れ!」
 タチの悪い野次が飛んできた。菱川は、
「一本打ってからな!」
 と叫び返した。一塁スタンドが静まった。その直後、乾いた金属音がしてレフトへ大飛球が上がった。入る角度だ。
「よーし、いった!」
 田宮コーチが叫ぶ。ベンチが吠える。三塁コーチャーズボックスから水原監督が打球を見送っている。上段まで飛んでコンクリート塀に打ち当たった。野村が立ち上がり、しまったというふうにキャッチャーミットで太腿を叩いた。
「コースは?」
 江藤に訊くと、
「真ん中高目のクソボール。空振りを取るつもりだったんやろうが、球に伸びがなかったばいね。もう一人打たれたら交代やろうもん」
 水原監督に尻を叩かれて太田と菱川が戻ってくる。ベンチ前に並んで二人を待ち受ける。太田がいち早く列の先頭に並び、ロータッチして菱川の尻をどやす。菱川はかすめるようにみんなとタッチしていく。喜びにあふれた顔だ。一試合一試合が彼の正念場なのだ。これまでの調子からして、今年はおそらく二軍落ちはないだろう。二対ゼロ。
「ナイス、ティング。はい、バヤリース。大阪球場は、オポウネントにはファンファーレ鳴らさないのよ」
 半田コーチ差し出されたバヤリースをいつものように一気に飲み干す。去年まで監督代行だった本多二軍監督が、
「水原さんという人は、こうやって少しでも野球をおもしろくしようとするんだ。神無月くんと同じ気持ちだよ。ファン第一。バスの中の話、じっくり聞いてました。ファンのそれぞれの心情は、あこがれの選手や贔屓チームに対して向けられるものだ。でも、ファンのそういう気持ちは企業側から見れば、会社と消費者を結ぶチャンネルでしかないんだ。水原さんの意識改革のおかげで、中日ドラゴンズの野球経営は、利益そこのけの大名商売になりつつある。それでいいんだよ。おもしろい野球にはファンがたくさんつくから、最終的に企業の利得になる。金儲けしようなんて思わなくても、ちゃんと棚からボタモチが落ちてくるんだ。水原さんと神無月くんにきてもらって、中日ドラゴンズは根っこから生き返ったよ」
 そう言って菱川の肩を揉んだ。菱川はくすぐったそうにした。ベンチの寒暖計が五度を指している。春の気温ではない。長谷川コーチが、
「寒いんだな。おかげで皆川の球威がなくなってきた。続投だとコース攻めでくるぞ」
 三塁ベンチから出てきた飯田監督が野村といっしょにマウンドへいく。ひとことふたこと話し合い、続投が決まった。


         四十五

 一枝がバッターボックスに入る。初球、内角へ落ちるシュート。曲がりが少ない。からだを開いてカシッと打ち返す。三遊間を抜けた。飯田監督が身を乗り出す。浜野を打ち取ったら交代の気配だ。しかし浜野は打撃がいい。ときどきフリーバッティングに混じって熱心にやっている。粘っこいバッティングだ。無気力に三振してしまうことも多いけれども、当たれば飛距離がある。それがわかっているのだろう、田宮コーチが、
「浜野、いっちょいけ!」
 と叫んだ。ベンチを見返す浜野の細い目が笑った。バットを半握り短く持ち、力をみなぎらせて屈みこむ。初球、浮き上がるシュート、みごとな空振り。またにやりと笑う。打つ、と思った。二球目、同じ胸もとに浮き上がるシュート。無理やり強振する。バットの根っこに当たって、フラフラとサードの後方に上がった。国貞が懸命に追ったが、飛びついたグローブの先に落ちた。ショートの小池がかろうじて抑えて長打を防ぐ。ノーアウト一塁、二塁。中に回った。ピッチャー交代。合田(ごうだ)という小さな右ピッチャーがリリーフで出てきた。森下コーチが、
「外角にフォークみたいに落ちるカーブ、それ一本の男や。直球は屁だ」
「ぼくには内角にくるわけですね」
「金太郎さんの内角には投げ切れん」
 野村が不安そうに投球練習のボールを受けている。高校野球並みに遅い。いや、高校野球にも彼より速いピッチャーがいくらでもいる。ボールが遅くてもコントロールがよければ名ピッチャーになれるとよく言う。たぶんそれは正しいだろう。しかし、ホームベースを無視して前に出る私には効果がない。水準以下の遅いボールを打てなかったことは一度もない。
 合田の初球、内角フォーク、ボール。二球目、フォークがコースミスで真ん中にきた。
 ―ギン!
 中の実戦でのホームランを初めて見た。百六十八センチの小柄な彼は、島谷よりも前の大きいバッティングをする。だからホームランを年間平均して十本以上打つ。そのことは知っていたが、フリーバッティング以外のホームランの打球を初めて見た。一直線のすばらしい軌道だった。中段に真っすぐ突き刺さった。ふだんとちがってダイヤモンドをゆっくり回る。中らしく大股だ。私は真っ先にベンチを飛び出し、中に抱きついた。
「みごとでした! 理想的な軌道でした」
「ありがとう。やっと金太郎さんに私のホームランを見てもらえたよ」
 人格者の中にみんな暖かいハイタッチやロータッチをしていく。半田コーチがバヤリースを差し出さない。
「中さん、甘いものだめね。お酒大好きだから」
「そうなんですか。中さん、すみません、ぼく酒弱いんですよ」
「知ってるよ。甘いものも弱いみたいだね」
「ケーキは苦手です。ジュースはいけます」
「カールトンさんに気を使わなくていいよ」
 半田コーチがキョトンとして、
「気を使ってたの?」
「いえ、ホームランを打ったあとのオレンジジュースは甘露です」
「カンロ? カンロ飴?」
 ベンチじゅうが大笑いになる。五対ゼロ。ホームランで攻勢をかけるいつものパターンに火が点いた。高木レフト線二塁打。江藤右中間二塁打。六対ゼロ。ノーアウト。
 ピッチャー交代。背番号20。あの五千万円の渡辺泰輔だ。パームボール。あとはスライダーとシュート。杉浦さんはもう投げないのだろうか。コーチのようにベンチ内をうろうろしている。リリーフの成功率は球界ナンバーワンと聞いている。前のピッチャーが残したランナーを生還させたことは一度もないと、交流試合のとき森下コーチが言っていた。
 江藤がセカンドベース上で手を振る。見慣れた図だ。私も手を振る。さっきの約束をまず守らなければいけない。レフトスタンドへのホームラン。目標を左中間最上段の通路穴に定める。球種に関係なく、外角を狙う。野村がホームベースを掌で掃いた。話しかける前触れだ。彼の頭には私を二打席打ち取った皆川の沈むボールがある。
「喧嘩っ早いそうやな。人は見かけによらんな。デッドボール喰らってもワシを殴らんでくれよ」
「野球が原因では暴れませんよ」
 もうバスの情報が耳に入っている。たぶん森下コーチからだろう。デッドボールをにおわせるのは、及び腰にさせる思惑があるからだ。とすると、初球は外角だ。低目ならば持っていける。
「駄馬!」
「空で遊んどれ!」
 私は菱川のまねをして叫んだ。
「一本打ってからね!」
 今度は左右のスタンドから笑いと拍手が湧いた。きょういちばんのざわめきだ。菱川が手を叩いて笑っている。初球、外角のとんでもなく高いストレート。ゆるい。二球目、真ん中、ワンバウンドしそうなカーブ。混乱させようとしている。どうしても外角に落とすつもりだ。落ちぎわを打ち損わないようにしよう。打ち損じてもギリギリスタンドに刺さるように踏みこんで強く叩く。野村が真ん中に構えた。私に何も予測させないためだ。三球目、外角へスッときて、いったん止まったふうに見えた。さらに外へ逃げていこうとした。パームだ。すかさずひっ叩く。真芯だ。
 ―上がれ! 
 ショートの位置で見守っていた江藤が右手を突き上げた。フックもスライスもしないで伸びていき、通路穴に吸いこまれた。水原監督が両手を上げた。一塁ベースから全力疾走に入る。江藤があわてて三塁を回り、すばやく監督と片手でハイタッチした。私は三塁前でスピードを緩め、水原監督とロータッチ。
「金太郎さん、芸術だ!」
「ありがとうございます!」
 しっかりホームベースを踏み、チームメイトの腕の中へ飛びこむ。
「ホーム、イン!」
 露崎の甲高い声が聞こえた。板東がチラッと様子を見にきて、すぐベンチ裏に引っこんだ。菱川が自分の打った大ホームランを忘れて叫ぶ。
「すげ、すげ、とにかくすげえ!」 
「島谷さんの二塁打と菱川さんのホームランから始まったんですよ」
「俺のは衝突事故だよ。神無月さんのはワザだ」
 浜野がブルペンに向かいながら、
「俺の渋いヒットも忘れるなよ」
 半田コーチが深々とお辞儀してバヤリースを差し出す。半分飲んでベンチに腰を下ろすと、太田が奪って残りを飲み干した。木俣が、
「八対ゼロか。もう一点追加してくるわ」
 言葉どおり、二球目の外角のスライダーを叩いて、ライトポールを巻いた。ベンチが出迎えにあわただしくなる。木俣は水原監督に尻を叩かれ、ダンスをしながらホームインした。そしてすぐに吉沢とブルペンキャッチャーを交代した。吉沢はダッグアウトを通り屋内ブルペンへ去っていった。背中に一抹のさびしさはあったけれども、彼にしてみれば私が思うよりも淡々とした心持ちなのだろう。九対ゼロ。
 六番太田はバッターボックスに入る前に、観客に顔見世をするように、ぐるりと四方のスタンドを見回した。三塁側のスタンドから、
「太田ァ!」
 のかけ声が上がる。彼はファンのありがたみを再確認するように微笑み、照れくさそうにヘルメットを取った。初球、内角低目を三塁線へ痛烈なファール。すぐにクローズドに構え直す。ライトスタンドの観客が、
「太田、太田、もうオオワッタ!」
 と声を合わせはじめた。野村が太田のスタンスをじっと見て、狙いが外角と踏み、もう一球内角低目に要求した。太田は待ってましたとばかり、素早く左足を引き、豪快に掬い上げた。高く舞い上がる。
「いったか!」
 ベンチ全員太田といっしょになって、切れるかどうか打球の行方を数秒見ていた。太田はベンチに大きくうなずいて走りだした。照明灯の下の最上段に落ちた。レフトスタンドの観客が総立ちになって拍手している。一イニング五人のホームラン―記録かもしれない。
「クソガキー!」
「アホー!」
 ライトスタンドからウィスキービンが一本投げこまれた。慣れたふうに島野が拾い上げ、走ってきた係員に渡す。何人かの警備員が人混みを漕いでいって、一人の男を取り押さえた。男は両手を合わせて拝んでいる。それでも連れていかれた。
 十対ゼロ。菱川は何か心得たふうにレフトライナーを軽く打った。一枝センターフライ。ニコニコ笑って戻ってくる。江藤が、
「バレたら、水原さんに大目玉食らうばい!」
 高木が、
「よーし、遠慮なく二十点取るぞ」
 浜野はつつがなく見逃し三球三振だった。
「ストラッキー! バッター、アウ!」
 やっと露崎のパフォーマンスが炸裂した。
 六回表、渡辺に代わってベテラン三浦清弘がマウンドに上がった。彼のスリークォーターからの速球とナックルに手こずりながらも、ドラゴンズはめった打ちにし、六、八、九回と二点ずつ六点取った。内わけは、江藤と私のソロホームラン(二人ともバックスクリーンに打ち当てた。初めてのアベックホームランになった)、浜野と中を二塁、三塁に置いて高木の左中間二塁打、ライト前ヒットの私と四球の太田を三塁、一塁に置いて(このとき私は三盗した)一枝のライト線三塁打だった。
 九回の裏に『南海ホークスの歌』の合唱が内外野のスタンドから湧き上がった。私の背後のレフトスタンドからも聞こえてきた。

  グランド照らす太陽の
  意気と力をこの胸に
  野球に生きて夢多き
  南海ホークスさあゆこう
  ああ金色(こんじき)の羽ばたきに
  空に鳴る鳴る翻る勝利の旗
  ホークス ホークス 南海ホークス

 その歌を聞きながら、浜野は南海ホークスを完封した。被安打二。そのうちの一本は最終回ツーアウトから野村が放った左中間の大ホームランだった。腹にズンとくるファンファーレを聞いた。浜野はほとんど吼えず、何か新しい境地を得たのかもしれないと思えるほど丁寧にコースを突いて打たせて取り、打者三十三人、三振五、フォアボール四、じつにみごとなピッチングをした。あとはフォームを正しく気取りのないものにし、球速を増す鍛練をつづけるだけだと感じた。十六対一の圧勝。しかし、どこか野村という天才キャッチャーに小手調べて遊ばれたような気がした。三浦からバックスクリーンへソロを打ちこんだとき、野村が、
「さっきはパームを狙ったんかい。もういっちょいってみるか」
 と囁いた。外角にナックルを落とすと仄めかしているのだと思って、逆の内角を読んだら、案の定、内角低目にボール球の速球がきた。得意コースなので思わず手を出して打てたが、まともに受け取っていたらファーストゴロぐらいで終わっていたかもしれない。ある意味プロの厳しさを味わった。
 試合後、水原監督と浜野がヒーローインタビューを受けているあいだに、バットを二本持って南海ベンチへいき、杉浦と野村にサインしてもらった。カメラマンが何人も詰めかける。
「ありがとうございます。一生の宝にします」
「サインしないとぶん殴られるからな」
 野村は杉浦と顔を見合わせて笑った。杉浦が、
「神無月くん、じつはぼくたちも色紙を用意してたんだよ。あしたにしようと思ってたが、ちょうどよかった。きょう書いてもらおう」
 用具バッグから色紙を二枚取り出す。スコアラーがにこやかにもう一度サインペンを差し出した。
「へへへ、これが天馬のサインもらってくれってうるさくてな。ひとこと添えてくれ」
 野村が小指を立てて笑った。杉浦が微笑した。楷書でサインし、S・44・3・15 神無月郷 力あるかぎり、と添えた。
「ぼくは自分の宝にしたい。歴史的な直筆サインだ」
 同じサインをし、オトコの天はるか、と書いた。一瞬杉浦の目が潤んだ。
「ありがとう」
「とんでもない。サインなど大先輩に対しておこがましいです。お許しください」
「バッティング練習のとき、森下さんにバスでのできごとを聞いた。若いのによく野球ファンのことを考えてるものだと感心した。ファンにはそれぞれの思いがある。彼らがチームや選手に対して抱く思いはあまりにも多様だ。その最大公約数を見つけるのは難しい。彼らの思いや願いが何であれ、野球選手は華麗な超絶プレイを見せるしかない。スタジアムで買ったジャンパーを着てまで応援している彼らは、それを見て初めて選手と一体になるからね。舶来の野球というゲームは、がんらいエリート文化の一つだったんだ。大学から始まって、社会人、高校とアマの求道精神を重視する野球を経て、ようやく技能と才能に重きを置くプロ野球が発足した。大学や社会人や高校から集めた有能な人材を企業が金で操ってると曲解されて、最初は胡散くさい軽業興行みたいに見られてたんだ。しかし、その企業のおかげで観戦設備が充実し、才能ある選手を全国から集めることができて、華やかな野球が庶民のものになったんだよ。野球が学生文化から都市文化に成長したわけだね」
「はあ……」
「神無月くんは、その根幹を見つめてることになる」
「インテリやなあ。こんなにしゃべる杉浦を初めて見たわ」
 野村が大きな歯を剥いた。南海の選手たちが寄ってきて、私のまじめな楷書のサインを覗きこんだ。カメラがパシャパシャやっている。広瀬はじめ、何人かの選手たちが、あしたは自分にも頼むと言質を取った。大男のトーマスが、
「プリーズ・オートグラフ・フォ・ミー・トゥマロー。アイル・センディット・トゥマイ・ファミリ・イナメリカ。オネガイします」
 私にも聞き取れる英語で言った。私は笑ってうなずいた。


         四十六

「あしたは杉浦さんが投げるんですか?」
「いや、投げない。ペナントレースまで、ぼろぼろの右腕を休めてる状態なんだ。こんなありさまでは、もう神無月くんとの対決はないかもしれないね」
「そうですか……残念です」
 しんみりと握手をして、礼をし、バットを両手に提げてベンチへ戻ろうとすると、テレビ局のデンスケが追いかけてきた。
「あしたまとめてお答えします。チームの人たちを待たせてるので」
 何人かの警備員が、バスへ急ぐ私たちを取り囲んだ。むかしから暴動の多い球場なので万一に備えているようだ。森下コーチが、
「あした勝ちムードで試合やっとったら、グランドにヤンチャもんがゴッチャリ降りてきよるかもしれんで」
 警備員から何メートルも離れていない群衆の前列に、するどい目つきをした男が何人か立って、キョロキョロと列を外す人間がいないかを見張っていた。ふつうのサラリーマン風の格好をしているが、まちがいなく松葉会の男たちだった。太田はすぐに気づいたようで、目で私に合図した。私が彼らに礼をすると、彼らも表情を変えずに礼を返した。選手たちがバスに乗りこんだとたん、彼らはどこへともなく姿を消した。江藤が小声で、
「金太郎さん、だれに挨拶しよったんね」
「ボディガードです」
「おお、例の……」
 それ以上訊かずに、話を浜野の好投のことに移した。
「三振五個はよう取ったな」
「俺のリードのおかげだ!」
 木俣が大声を上げた。浜野が、
「そりゃひどい。俺のボールも走ってましたよ」
「あんなもん、へなちょこ球だ。走ってるというのは小川さんや小野さんのようなキレのある球のことを言うんだ。シュートもほとんど曲がらなかったぞ」
「はあ、シュートは課題です。スライダーはどうでした?」
「あれはいい。稲尾二世になれるかもしれん。もっと磨きをかけろ」
「はい!」
 稲尾二世は褒めすぎだと思った。板東が苦々しい顔をして聞いていた。
 球場の正面広場に人だかりがしている。怒号が聞こえるような剣呑な雰囲気なので何ごとかと見ると、ファン同士で殴り合いの喧嘩をしていた。森下コーチが、
「ハハハ、やっとる、やっとる」
 水原監督も窓から見つめて笑いながら、
「バッティングがよければ、ピッチャーは勝たせてもらえます。昭和二十九年、三百勝まであと十二と迫っていた三十八歳のスタルヒンが、高橋ユニオンズに移ってからなかなか記録を達成できなかったのは、打線の援護がなかったからです」
 小川がアハハと笑い、
「俺、ユニオンズに合格しなくてよかったよ。昭和三十二年にユニオンズの入団テスト受けたんだ。仮採用ということになったんだけど、結局不合格にされちゃった。その前の年に東映フライヤーズ辞めて、社会人野球でぶらぶらしてたんだけど、カッタルイなと思って試験受けたんだ。受かってたら、ぜんぜん勝てずにつぶされてたな」
 水原監督はうなずき、
「採らなかったコーチに見る目がなかったんだね。ユニオンズというチームは、ロートルばかり集めて史上最弱と言われた球団だった。試験官たちもロートル選手だったから、目が肥えてなかったんだろう」
 田宮コーチが、
「去年のドラゴンズもユニオンズと似たようなものだったと思うよ。全球団負け越しだからな。しかし今年からのドラゴンズはちがう。いくらでもピッチャーを援護できるバッターが勢揃いして、二リーグ最強と言っていいくらいのチームになった」
 長谷川コーチが、
「今年の最多勝はうちから出るぞ。小川も小野も浜野もその候補者だ。小川は三十勝するかもしれない。おととし二十九勝してるしな。二十勝ピッチャーが二人、十五勝ピッチャーが二人いれば、どんなチームも優勝できる」
 監督が、
「タイトルは結果論です。投げるべき人が投げ、打つべき人が打てば、おのずといい結果は出るんです。優勝はその最良の結果にすぎません。がっついちゃいけない。今年は三位ぐらいに見当をつけておけばいいんです。大事なことは、投げてやろう、打ってやろうというみずからを奮い立てる気持ちです」
 みんな大きくうなずいた。私は太田に言った。
「疲れてるか?」
「ぜんぜん」
「一日一回走らないと落ち着かないんだ。晩めしの前に、ホテルの周りを走ろう。一時間も走って、シャワーを浴びたらめしだ」
「いいですね。堂島川沿いに走りましょう」
 江藤が、
「若いやつらには敵わんな。さすがきょうはいけん。ワシは風呂に入って、晩めしに備えるばい」
「俺もいきます」
 島谷が言うと、
「俺も」
 と菱川が言った。水原監督の顔に笑みがこぼれた。中や高木が頭を掻いていた。
 四時半。ジャージに着替え、フロントに汚れたユニフォームを預けると、ホテルの玄関前に出た。四人集合。
「いくか!」
「おっしゃ!」
 夕方の空が明るい。中の島通に出て堂島川沿いに走る。川幅は堀川と同じくらいだ。太田が、
「神無月さんは、一試合ごとにユニフォームを洗濯に出しますね」
「新しいユニフォームを着ると、すがすがしい気分で野球ができるからね。学生時代には考えられない贅沢だ。プロ野球人の特権だよ。せいぜい活用しないと」
 菱川が、
「高木さんも毎試合、ユニフォームを替えます。いまのところ、神無月さんと高木さんと二人だけです。俺たち下っ端の支給ユニフォームは、ホーム、アウェイ、二着ずつですから、なかなか贅沢はできません。公式戦から三着になります」
 私は五着だ。毎試合着替えるので、それでもギリギリだ。右折して、大瀬子橋より少し広い堂島大橋を渡る。道の分離帯が残っている様子に、かつて市電が走っていた痕跡がある。北詰に下福島公園というのがあったので入ってみる。広いだけの寂れた公園だ。立木はほとんどイチョウ。藤棚が美しい。一周して道路に戻る。みんな浮きうきしている。閑散とした道筋へ走りだす。ポツンポツンとビルがあるばかりで何もない。ひたすら走る。上船津橋という橋に出た。走りつづける。船津橋、中央卸売市場。飽きてきた。
「十分ちょい走りましたね。二キロぐらいでしょう。戻りますか」
 菱川が言う。
「戻ろう」
 踵を返し上船津橋北詰まで走る。渡って、南詰から道沿いに休憩場所を探すが、喫茶店はおろか一軒の商店もない。左折して休憩場所を求めつづける。また別の橋があり、別の川が流れている。
「休憩しましょう」
 みんな足踏みをして立ち止まる。菱川が、
「土佐堀橋か。じゃこの川は土佐堀川だな。堂島川と土佐堀川が合流して、あの広い安治川になるわけか」
 妙に詳しい。
「菱川さんは倉敷工業でしたね」
「はい」
「倉敷は息を飲むほど美しい町だと言いますが、どんなふうなんですか」
「水路、石橋、枝垂れ柳、民家、神社、とにかく美しい。食いものもうまいし、人も親切だし、噂を聞いて、よく外人がやってきます」
 みんな黙った。菱川は厚い唇から白い歯を覗かせ、澄んだ眼を三人に向けた。
「外人がやってこなけりゃ、俺はいまいないわけだ」
 島谷が、
「きょうは悔しくなかったですか」
「慣れてる。頑丈なからだをもらってラッキーだった、野球ができてラッキーだった、と思えば、何も腹が立たない。金太郎さんの苦労に比べたら……」
「ああ、神無月くんの人生はおっかない。あんな人生押しつけられたら、百人が百人挫折しちゃう」
 太田が、
「不死鳥で、天馬で、神さまですよ。バスで切ったタンカはものすごかった」
 菱川が、
「サッと退いたのも爽やかだったな。金太郎さんの退きの爽やかさは、俺にとっても生きてく上で模範になる。あの徹底的な退きのおかげで、金太郎さんは挫折しなかった」
 島谷がうなずいた。
「あれほど退きぎわがいいと、それ以上突っこめない不気味さがあるしね。ふつう先輩後輩でああなると殴り合いになる。社会人でもそうだった」
「帰りましょうか。付き合ってもらってありがとうございました」
 走りだし、高層の円筒形の住友病院を過ぎる。
「ハナミズキの並木というのはめずらしいなあ。大阪は町じゅうがこれだ」
「これがハナミズキなんですか。名前だけは知ってたけど。末広がりできれいな木ですね」
 太田は目を細めて眺めやった。ビルの谷間を抜けていく。堂島大橋南詰に戻り、川沿いを走ってホテルの玄関に帰り着く。ロビーのベンチに腰を下ろす。太田が、
「ホテルの中にジムがあるんですよ」
「知らなかったな。めしのあと、マシンで背筋やろっと」
 菱川が、
「神無月さんはほんとにたゆまずですね」
「猫めしのように少しずつね。ランニングマシンはやらない。あんなものじゃ、ほんもののランニングにはかないませんよ」
 島谷が、
「小川さんはジムの鬼だよ。バーベル、ダンベル、スイミング、ランニングマシン。何年も前からやってるらしい」
 菱川が、
「あの人は天才。オーバスロー、サイドスロー、アンダースロー、ぜんぶいける。コントロールはいいし、ストレートは伸びるし、大きなカーブ、キレのいいシュート、スライダー、一度浮かんで沈むシンカー、なんでもこいだ。百七十センチそこそこ、体重七十キロ弱だぜ。猿飛佐助か小天狗だね」
 島谷が眉を曇らせ、
「……ギャンブルが心配だなあ。姿が見えないなと思うと、かならず場外馬券売場か競輪場でしょう」
 菱川が、
「自分の度量と財布でやってるんだから、いいんじゃないの」
 太田が、
「ですよね。へんな人と付き合わないかぎり、だいじょうぶですよね。じゃ、シャワー浴びて、めしいきますか」
「ぼくは江藤さんと同室、太田は島谷さんと同室だけど、菱川さんはだれと同室?」
「伊藤竜彦さん。大先輩。そろそろトレードかなって、いつも愚痴ってる。去年十本もホームラン打ってるんだけどね」
 太田が、
「俺の隣部屋は、木俣さんと千原さん。三十九年の同期みたいです」
「江島さんて、ぼくや太田と同い年ですよね?」
 菱川は、
「うん、衣笠と同じ平安高校。肩は一級品です。長打力はあるんだけど、打率がね。俺と同じ悩みです」
 四人で六階までエレベーターに乗る。
「じゃ、またあとで」
 手を振り合う。


         四十七

 部屋に戻ると、江藤がベッドにのんびり横たわってテレビを観ていた。
「お帰り。汗流したら、めしだぞ」
「はい。あ、寅さんですね」
「渥美清、知っとるのか」
「知ってますよ。テレビドラマの渥美清は破格におもしろいですね。映画になったら小ぢんまりして、天然のユーモアが出てこなくなっちゃった」
「そんなもんかの。ワシにはようわからんが」
「理屈屋の監督の映画だと、理屈っぽいコマ撮りのせいで、人柄もユーモアもぶつ切りにされてしまうんです。やっぱり監督があってなきがごとき自由なテレビのほうが、寅さんも生きいきとして、科白に枷をはめられずに、アドリブを利かせて奔放に動き回ってます。映画は彼の持ち前のユーモアのリズムとパンチが死んでしまいます。監督の知性に合わせて、押し隠していた教養がどうしようもなく出てきて、わざとらしくなるんですね。伴ジュンやアチャコがどんな監督の映画でも引き立つのとはまるで逆です。彼らや由利徹や南利明にはつまらない教養がないので、監督の知性に合わせる策がない。しかも、並外れた天然のおかしみがある。くだらない教養は演技のじゃまになりますね。表情や動きがわざとらしくなる。ただ、どういう具合なのかわかりませんが、テレビドラマの伴ジュンやアチャコはまじめくさくて見ていられない。舞台の広さ狭さの問題でしょう。狭いスタジオに閉じこめられると天然でいられなくなるんだと思います。映画でもインテリくさい役は似合わない。知性の狭苦しい枷に閉じこめられるからです。飢餓海峡の伴ジュンがそうでした。寅さんにテレビが合ってるのは、知性を捨てなければならなかった浅草の破天荒な狭い舞台からデビューしたからでしょう。ふっと安心して破天荒に戻れる」
「すごかねえ、金太郎さんは。何でんしっかと見て、考えとるばい」
「考えてはいませんけど、何かしゃべってないと生きていられないタチのようです。ハハハ……」
 シャワーを浴びながら頭を洗った。きのう別れてきたばかりなのに、カズちゃんをなつかしく思い出した。西鉄戦を終えて名古屋に帰れば、かわいらしい睦子がいる! 
 風呂を出ると、江藤はピンクのワイシャツ姿で待っていた。灰色のズボンに鰐皮のベルトを締めている。私もきちんとワイシャツを着た。
「ドラゴンズのめしは豪華なことで有名なんやが、今年は特に豪華や。水原さんが財界人ば抱えこんだせいばい。それもこれも、金太郎さん効果たい」
「責任が重いです」
「思ってもおらんくせに。ウハハハハ」
 廊下に出ると、ぞろぞろ大柄の選手たちが歩いている。自分が彼らとほとんど背丈が変わらないことがうれしい。成長というのは不思議だ。チビだった小学校四、五年生のころを思い出す。あれから三十センチ近く伸びた。体重も五十キロ増えた。あとはこのからだを維持するだけだ。小さな板東が寄ってきた。
「さっきはすまんかったな」
「ぼくこそ失礼しました」
「金太郎さんの言っとることは正しい。小野ともしゃべったんやが、いちばん忘れちゃいかんことをワシは忘れかけとったてな。……たぶん、来年コーチの話はない。水原さんの逆鱗に触れてまったもんでな。来年からテレビへいくわ。この一年、金太郎さんの言うことしっかり暗記して、テレビでしゃべるわ」
 小野たちのほうへ歩いていった。江藤が、
「ふつうやないのう、金太郎さんの感化力は。あの坂東が心入れ替えたばい。……ワシもほうやった」
 楓の間の障子窓は、障子をモチーフにした光壁であることがわかった。考えたらあたりまえだ。ここはホテルの中心部の部屋なのだ。外光を採り入れられるはずがない。穏やかな春の陽射しが障子越しに柔らかく室内を照らしていると誤解したのは、ここしばらく昼夜の自然な光を意識しないで生活してきた証だ。人工の光に慣れてはいけない。
 首脳陣のフロントテーブルに、ひさしぶりに村迫代表の顔があった。辣腕スカウトの榊は受持ち地区でも巡っているのか、このところ見かけない。
 恒例の視察にきたのだろう、小山オーナーもテーブルにいて、コーチ陣といっしょに煙草をうまそうに吹かしている。選手たちを見守る目が温かい。村迫が私にお辞儀をするので、丁寧に返した。痩せて色黒の見知らぬ男が彼の隣に座っている。箸やフォークをみんなが持ちはじめたとき、村迫が立ち上がって、
「食事をしながらお聞きください。いまから申し上げるアイデアは、すでに巨人軍を皮切りにもろもろの球団が採り入れておりますが、遅ればせながら、わが中日ドラゴンズも追随することにいたしました。すなわち、ランニングコーチの導入です。こちらにいらっしゃるかたは、昨年度メキシコオリンピック一万メートル二十一位、日大時代には、箱根駅伝で三度優勝なさっているランニングの達人、鏑木柔(やわら)さんです。現在日大で指導なさるかたわら、東洋ベアリングでも現役選手で活躍なさっています。昭和二十年生まれの若干二十三歳。しかし、年齢に似合わぬきびしい指導で有名です。ドラゴンズでもビシビシ指導をなさってくださることを期待しております。背番号は70。いずれ正式にマスコミ発表をいたしますが、いち早くみなさんにお伝えしました。では、具体的な話を鏑木さんからしていただきます」
 小柄で首の長い精悍な目をした男が立ち上がった。
「東洋ベアリングの鏑木と申します。水原監督はじめドラゴンズ首脳部のかたがたからの強い要請に抗し切れず、というよりも、投げる、打つを専門とするプロ野球選手に〈走る〉を教えるという奇妙な仕事に並々ならぬ魅力を覚え、やってみようと決意しました。もちろん、みなさまの専門の〈ベース間を走る〉や〈守備位置間を走る〉は教えられません。ひたすら〈走ること〉をお教えすることになりました。今年一年、東ベアから出向という形で、ドラゴンズのみなさんにランニングのノウハウをお教えいたします。背番号までつけていただいたユニフォームを着るのは望外の喜びです。その格好に、バットもグローブも持たず、首からストップウォッチと笛をぶら下げるだけです。私の職場は、試合前のフィールド、あるいは場外ランニングのための路上です。路上では、みなさまと雑談しながら併走するというのが仕事の主な内容になります。しかし、場外ランニングは一、二度で終了する予定です。走り方を覚えてしまえば、同伴の必要がなくなるからです。そのあとの指導はほとんどグランドになります。一連の筋肉は足の五本指で地面を蹴ることによって鍛えられます。鍛錬の目標は、優勝を競り合う大事な時期である九月、十月のスタミナ切れを防止することです。したがって、みなさまの身近に付き添ってきびしく指導するのは、正味七カ月のあいだです。その後のストーブリーグは、寮などでトレーナーに徹します。ふだんはグランドでぶらぶらしてますので、何なりとランニングや体調に関する相談をしてください。足の速さ、肩の強さ、バッティングアイの三つは持って生まれたものなのでお教えできません。私が教えられるのは、基礎体力を維持することだけです。九月にスタミナ切れを起こすのは、六月の梅雨時からオールスター明けまで、手を抜いたランニングをした証拠です。九月以降の体力は、梅雨時の走りこみで決まります。走りこみの仕方は特殊なものではありません。この走りこみがかならず自分の身になるという自覚を持って走るだけです。球場での試合前の練習では、ポールからポールへの直線距離約百四十メートルを無理せず一往復してもらいます。セカンドベースの十メートルほど後ろを横切ることになります。無理できるなら無理してください。無理できるペースは自分で決めてください。たいていの人は百四十メートルでヘタリます。初回だけそのタイムを計ります。路上では、適当な走路を決めてだべりながら走ります。二度目、あるいは三度目以降は私は参加しません。各ホテル近くの走路を研究して、見つけた走路をみなさまにお教えします。それではとりあえず一年間、よろしくお願いいたします」
 盛大な拍手が上がった。やる気を高める語り口だった。水原監督が、
「できるだけ、一年じゅう走りこんでください。スタープレーヤーの過去の栄華はご破算です。若手は自分の可能性を伸ばしてください」
 森下コーチが、
「あしたの試合開始前、守備練習の時間を十五分ほど割いて、二人一組でポールからポールへ走ってもらう。キャンプからひと月半経った。からだはほとんどできている。肉離れに気をつけて、最大限の無理をしてください」
 標準語に戻っている。小山オーナーは、きょうはひとこともしゃべらず、ひたすらニコニコしている。村迫が、
「ではゆっくり食事をしてください。あしたの勝利も確信しています。がんばれドラゴンズ!」
 江藤が、
「ポールからポールて、いつも金太郎さんのやっとることやなかね? 水原さんは、そっからヒントを得たとたい」
「新しい気持ちでやります」
 海の幸の塩焼きソバと、牛肉のビール煮込みがうまかった。めしは鮭ピラフ。野菜サラダをもりもり食った。太田が、
「年間安打数の新人記録を知ってますか?」
「さあ、百五十本ぐらいかな」
「きょう、バスの中で監督が言ってた高橋ユニオンズというチームは、たった三年しかつづかなかったんですが、そこに一年間だけいた佐々木信也という選手が、昭和三十一年に百八十本打ってます。試合数は百五十四です。新人でなければ、昭和二十五年の藤村富美男の百九十一本、試合数は百四十。どちらも神無月さんが破るでしょう」
「もっといろいろシーズン記録を教えてよ。二塁打とか三塁打とか。通算記録じゃなくてシーズン記録」
「積み重ねて、偉大になりたくないんですね」
「足し算はいやだね。積み重ねはだれの記憶にも残らない。ベーブ・ルースの総本塁打数知ってる?」
「知りません」
「積み重ねようとする精神はスケベだ。ぼくは青森では彗星と言われた。彗星らしく、一瞬輝いて消えていくのがいい。通算記録なんかどうでもいい。とにかく、塗り替えられるシーズン記録はすべて塗り替えようと思う」
 アイスクリームとコーヒーが出てくる。太田はさびしそうに胸のポケットから手帳を取り出し、目を落とした。
「二塁打は昭和三十一年山内一広の四十七本、三塁打は二十六年金田正泰の十八本です。ほかに、塁打は、ええと……」
「塁打というのは、シングル、ツーベース、スリーベース、ホームランを足し算したものだね」
「はい。昭和二十五年小鶴誠三百七十六、打点は、同じく二十五年小鶴誠百六十一、打率は……四割を超えればいいんでしたね。ちなみにシーズン最高記録は、二十六年大下弘の三割八分三厘です」
「盗塁は?」
「走るつもりなんですか!」
「走る人はどのくらい走るのか知りたいだけだよ」
「三十一年河野旭輝(あきてる)、八十五」
「河野って、中日にいた背番号12の河野?」
「はい、昭和三十六年から三十八年までいました。そのころには毎年二十個ぐらいしかやってません」
 江藤が無理に笑いながら、
「いまここにいる連中で、何かの記録保持者はおらんとね」
「シーズン歴代一位の人はいません。長谷川コーチが防御率1・69という、稲尾と同じ記録を持ってますが、歴代七十五位です」
「そうやろな、ある年度のリーグ最高記録は作れても、歴代となるとな」
「はい、長嶋もだめです。神無月さんは、オープン戦の三冠歴代最高をとっくに作りました。ペナントレースでも同じだろうと思います」
「金太郎さん、がんばってな! 天馬空をいくや」
「はい! 散歩してきます」
 江藤がなぜか涙目で、
「遠くへいかんようにな」
「はい」
 太田が、
「俺、さっきの公園でバット振ってきます」
 土産物店で何というあてもなく八枚セットの絵ハガキを買った。中之島の周囲の八つの橋を写真に撮ったものだった。地図まで書いてある。堂島川に架かる上船津橋から右回りに、堂島大橋、玉江橋、田蓑橋、土佐堀川に架かる筑前橋から右回りに、常安橋、越中橋、土佐堀橋。中でも越中橋がさりげなく美しかった。胸ポケットにしまう。フロントを過ぎようとすると、
「神無月さま、お出かけでございますか」
「はい」
「お気をつけていってらっしゃいませ」
「ありがとう」
 夜の中へ散歩に出る。詩の取っ掛かりを思いつき、足を止めて頭に刻んだ。

  この身の年来 うろとなりゆけば
  世事に向ける あたたかい目と意欲的な勤労と……


 もう詩を書くのはやめようと思った。頭の中身と表現が完全に一致するということ、それはいつもきわめて単純な主題だけを一直線に追いかけているからこそできることだ。おそらく、あれこれの感情にルビを振るような詩では、主題が分裂して散漫なものになる。主題のぼやけた頭に詩は湧かない。私の主題は? 神ではなく、人間にさまざまな洗礼を受けたからだに喜びや悲しみが付着したこと―それが私の一生を貫くテーマだろう。一直線に表現できない。散文を書くしかない。
 二十分ほど歩いて、さっき折り返した中央市場までくる。寿司ゑんどう、創業明治四十年の幟。歩きつづける。むかしから流れているにちがいない川が海へ向かっている。大瀬子橋から見るのと同じように、ここには海ぎわからの縹渺とした眺めが存在しない。海は予感させるだけで、川面しか見えない。目の前にあるのは、堀川が流れる郊外の町ともまったくちがう、さっぱりと都市化した街だ。川端の道路沿いに高層ビルがにょきにょき頭を突き出している。いま泊まっているホテルもその一つだ。


         四十八

 引き返し、安治川沿いに歩き、堂島川と土佐堀川との合流地点に出る。右へ曲がり、端建蔵橋(はたたてくらばし)と書いてある橋のアスファルトの歩道を渡る。大瀬子橋の二倍もある長さだ。街灯のない細道へ右折し、ふたたび安治川の左岸に沿って歩きだす。舷側にタイヤを貼りつけた達磨船が、何艘も岸辺に停泊している。夜空の下に倉庫がつづく。街灯と民家のにおいを求めて歩く。街灯がチラホラ見えてきた。事務所のような民家もある。岸沿いの駐車空間に自家用車がたくさんボンネットを並べている。日建連帯労働組合近畿地方本部などという得体の知れない建物がある。どう見てもただの倉庫だ。事務所が挟まりこむたびに倉庫が途切れる。
 歩きつづける。ふたたび一側(ひとかわ)並びの倉庫がつづく。辛抱して歩く。江藤が心配しているかもしれない。先に寝ていてほしい。三栄工業という三階建のビル。直進する。三栄工業の倉庫がつづく。四辻に、尖塔をいただいた城内幼稚園のような建物がある。尖塔の位置が低い。教会のようにも見える。川口聖マリア幼稚園の門標。この付近の人びとの子供たちがかよっているのだろう。民家があるはずだ。
 とつぜんアパートと民家の群れが現れた。夜目に暖かく見える緑が周囲に植わり、何十もの窓にほのぼのと明かりが灯っている。延々と民家とアパートがつづく。一帯が集合住宅地になっている。歩きやめることができない。緑、遊び場、自転車、電線。二階建てのアパートに対峙して、冷たい高層マンションも建っている。人の住む空間。ロイヤルホテルの周りとはまったくちがう景色だ。清潔なゴミ置き場がある。なつかしい。何を製作しているのか屋内が見えない大浜製作所。アパートが途切れると、小公園の周囲に民家が並ぶ。〈ねじ〉という看板の出ている会社がある。
 広い通りに出た。通りの向こう側にまたネジ会社がある。並びにアイドルという喫茶店がある。閉まっている。道を渡って、その喫茶店の脇のひどく細い道を直進する。なるべく直進しておかないと帰れなくなる。三分咲きの桜の公園に突き当たった。引き返しどきだ。左手の民家の中に南宗寺という小さな寺があった。門が美しい松に飾られている。門前の雑草に花が咲いている。花は米粒のような小さいもので、赤いのもあれば白いのもあり、それぞれ趣向を凝らした咲き方をしていた。こんな遅い夜に、鈍く、緩慢な木魚の音がする。ホテルを出て一時間は経ったろうか。
 引き返そうと振り向くと、一台の車が、プッと警笛を鳴らした。
「歩きましたねえ!」
 運転手が窓から顔を出す。利かない目をすがめて見ると、昼間のボディガードの一人だとわかった。笑いかける。彼も恥ずかしそうに笑った。近寄っていき、
「松葉会の人ですね」
「はい、牧原若頭の至上命令で出張(でば)ってきました」
「名古屋からですか」
「はい。一度お目にかかってますよ。熱田の宴会の座敷に食事を運びました」
「あのときの。そうですか、失礼しました」
 助手席に乗りこむ。男はあわてて地図などを後部座席に放った。
「助手席でいいんですか」
 車を出す。
「助手席が好きです。景色がよく見えるから。運転する人に話しかけやすいし」
「ごいっしょすることがあったら何を言われても逆らわないように、変人だから、と宇賀神の旦那から言われてましたが、なるほどね」
「助手席に乗りたがらない人はいないでしょう」
「事故が起きたとき、死にやすいからいやだと言う人間がほとんどですよ」
「ふうん。ワカは元気ですか」
 なつかしい人を話題にのぼせる。
「はあ。寺田執行と二人で忙しくしてます。元気いっぱいです」
「あなたは三十歳くらいですか」
 男はホテルに早く着くのを惜しむように車をゆっくり走らせながら、
「三十四です。蛯名と言います。舎弟頭補佐をしとります。神無月さんの散歩好きは有名ですよ。かならず夜歩きすると聞いておりした。玄関見張っとってよかった」
「女との逢瀬だったらどうします」
「その家の外で待ちます」
 二人で声を出して笑った。さっき渡った橋を戻り、ゆっくり堂島川沿いにカーブを切る。
「きょう球場にいたもう一人のかたは?」
「若頭第二補佐です。四十男ですよ。ヤクザのくせに内気な男でしてね、いっしょにいくかと言ったら、恥ずかしいときました。部屋に引っこんでますよ。ケンカはピカイチですけどね」
「時田さんがナンバーワンだと思ってました」
 海老名は愉快そうにうなずき、
「素手なら、寺田執行でしょう」
「光夫さんか」
「川を見たり、家を見たり、建物や木を眺めたり、神無月さんのたたずまいと言うんですかね、恥ずかしながら、涙が出そうになりました。そこに自分がいない。自分を捨てて景色に融けこんどりました。若頭や執行や支部長が惚れるのもわかります。……任俠というのはおのれを捨てることだというのが若頭の口癖です。神無月さんはヤクザじゃないが、ヤクザ顔負けの任俠人だといつも言っとります。重たい命を持っとる人だから護らんとあかん、とね。野球の世界にはヤクザがまとわりつく、それも見張らんとあかんとね」
「どうお礼を言っていいか」
「……俺たちヤクザはシマのミカジメで食っとるダニです。仕事はシマの見廻りと、衛(まも)りと、新しいシマ取りのケンカです。そんな下種(げす)野郎が日本人の希望の星を支援できるなんてことは、何度生まれ変わってもできることじゃありません。命を懸けても護ります―」
「ありがとうございます。執行の弟も、よろしくお願いします」
「弟さんは六月に戻ったら、執行下部の幹部ですよ。いずれ若頭補佐五人のうちの一人になります。最年少です」
「時田さんは?」
「舎弟頭補佐二名のうちの一名になります。俺の下に控えます。出世です」
「齢ばかり尋いてすみませんけど、牧原さんはいま何歳ですか」
「ちょうど三十です」
「三十! そうか、あのころ二十五、六歳だったのか。見たとおりだった。とても若かったんだ」
「この一月、群馬の北関東大久保一家の十代目組長を拝受しました。熱田の牧原組の組長でもあるので、群馬は代行を置いて治めてますが、ときどき顔を出さなきゃいかんので忙しいんです」
「若いのに、どうしてそんなに出世したんですか」
 蛯名はむかしを懐かしむように、
「もともと若頭は、熱田区の松葉会系浅丘組の舎弟頭だったんですが、昭和三十年代の真ん中に中京抗争というヤクザ同士のケンカがありましてね、そのとき、若頭はケンカと知略で獅子奮迅の活躍をして、県下の暴力団の親睦会を作りあげました。中京五社会と言いました。瀬戸一家、平野屋一家、運命共同会、導友会、浅丘組の五社会です。それからまもなくして名古屋は、山口組や弘道会に攻めこまれて、続々と傘下に入りました。もちろん浅草の松葉会も同様です」
「そしていまは、山口組配下松葉会系浅丘組の若頭、しかも大久保一家組長と牧原組組長を兼任しているということですね」
「そのとおりです。浅丘組長の跡目相続をすれば、そこでもまた組長になって、三つの組の組長をすることになります。……浅丘組長はいま名古屋大学病院で床に臥せっております。長くありません」
「ワカが浅丘組の跡目を継いだら、大久保一家と牧原組はどうなるんですか」
「群馬の大久保一家は弘道会系なので、だれかに跡目を譲ると思います。たぶん、寺田執行でしょう。執行も組長を兼ねて忙しくなります」
「名古屋の松葉会は、他界なさった父親の血筋で受け継いだような語り口でしたが……ぼくの勝手な解釈ですけど」
「若頭一流の謙虚さです。コネはありません。自力でのし上がった人です」
 蛯名の話す内容が複雑すぎてわからなかった。ホテルの私道に着いた。江藤と中が心配顔で玄関に立っていた。十時を回っていた。
「じゃ、私はこれで。あまり一人で出歩かんようにしてください」
 車が駐車場のほうへ去っていった。
「心配したばい! 遠くへいかんようにって言うたのに」
「すみません。ふらふら安治川のほうまでいってしまいました。一時間も歩いたかな」
 中が、
「あの車は?」
「いま話しとったガードマンたい」
「ああ、護衛か」
「さあ帰ろうと振り向いたら、そこにいたんです。驚きました」
 十二時までやっている一階のリーチバーというのに入る。カウンターから、壁、テーブル、椅子まですべてツヤ出しをした材木でこしらえた重々しい雰囲気のバーだ。壁には前衛ふうの写真や陶器が飾ってある。酒飲みは酔えさえすれば場所の雰囲気を選ばない。しかし、私の酒の場のイメージは北村席の座敷か、飯場の食堂だ。酒に弱いのでどこで飲んでも最適の場所ではないと言えばそれまでだが、なるべく胃袋の具合が悪くならないと思える雰囲気のある場所が好みだ。松尾の下宿のような狭い場所はだめだ。スナックやバーやキャバレーのような賑やかな場所もだめだ。こういう気取ったサロン風の場所もだめだ。飲み過ぎないようにしよう。
 壮年のバーテンが二人、助手の青年が二人いる。テーブルに座る。二人はジントニック、私はビールの小瓶を頼んだ。中が、
「金太郎さん、ああいう人たちと深い付き合いはご法度だよ」
「承知してます。中学校以来目をかけてもらっているので、適度に深い付き合いになってます。でも、害のある人たちではありません。名古屋の熱田区の浅丘組という松葉会系のヤクザの若頭が、陰に日に見守ってくれているんです。かいつまんで話します。そこで若頭の補佐役についている男の弟が、小学校以来ぼくの親友です。彼は中学二年の大晦日に大ヤケドをして、熱田神宮のそばの病院に運びこまれたんですが、その日からぼくは、彼が退院する日まで、担任の家に強制下宿をさせられている期間を除いて、見舞いにかよいつづけました。それがもとですったもんだあって、挙げ句、青森に流されました。若頭と補佐役はぼくのそういう行動を義俠心の顕れと見て、いたく感激して、生涯かけてぼくを支援しようと決意したようです。ぼくにしてみれば、ただ親友に会いたい、そしてそこにいる好きな看護婦に会いたいという一心だっただけのことで、義俠の気持ちなどまったくなかったんですけどね。彼らはぼくに、人目がうるさいので自分たちに近づくなと言います。野球で名が売れるようになってからは、ますます強く言うようになりました。ぼくは彼らの忠告をきちんと守っています。つまり、彼らが一方的にぼくを気遣い、護ってくれていることに深く感動するからです」
「ふうむ……」
「むかしから野球選手にありがちな、賭博系のヤクザが近づくことにも目を光らせてくれています。若頭と昵懇だという民社党の秋月議員の秘書も、彼らと交替でぼくをガードしてくれています。ぼくだけでなく、ぼくに関係する主要な人たちも目立たない形で護っています。松葉会は賭博系の組織ではないので、どうか安心してください。細かいことを言えば、たしかにヤクザですから、政治経済がらみのいろいろな悪いこともしているでしょうが、素人には決して手を出しません」
 中は強くうなずき、
「すばらしい話だ。それはもう暴力団じゃないね。現代の暴力団というのは素人から金をむしり取る集団で、素人を支援する集団じゃない。金太郎さんにかぎってのことなんだろうが、あまりにも特殊だ」
 江藤が、わかったか、という顔で中を見て、
「秋月と言えば大物中の大物ばい。小賢しい悪さを仕掛けるようなヤクザと親しくはせん。それよりワシは、ときどき勉ちゃんに寄ってきよる妙な男たちのほうが心配や」
「ああ、あれは確実に〈そっち〉だね。ギャンブルの借金でもあるのかな。おかしなことにならなきゃいいけど。せっかく再起を図ってがんばってるところだからね」
 黒毛和牛のヒレカツサンドというのを一人前とり、ちょうど三切れだったので、三人で一切れずつ食べた。私は二人に訊いた。
「場外ホームランが無理な球場ってありますか」
 すぐ中が、
「甲子園だね。百八十メートル以上飛ばなきゃ無理だ」
 江藤があとを継いで、
「甲子園はポールぎわの看板の上の端まで、直線距離が百四十メートルあるごたァ。そこば越えていく角度で飛び出したとしたっちゃ、百五十メートル必要ばい。右中間、左中間になると、百八十メートル以上か。金太郎さんはこれまで百六、七十メール級は何本か打っとるけん、ポールぎわならいけるかもしれん。左中間右中間は理屈で可能でも、実際には無理やろう」
「はい、あきらめました。甲子園ではひたすらスタンド入りのホームランを狙います」
 中が、
「金太郎さんのホームランは馬鹿でかいし、美しいから、お客さんはそれでじゅうぶん満足するよ」
「利ちゃんはきょう、ええホームラン打ったもんなあ」
「ああ、生涯最高の当たりだった。ほんとうにジャストミートしたときには、手に何の感触も残らないものなんだ。金太郎さんに抱きつかれてうれしかったよ。さ、あしたもう一本打てるように、きょうは寝るか」
「お、寝ろう」
 フロント前で中と別れる。 
 歯を磨く前に、おトキさんの枇杷酒でうがいをする。喉に沁みわたる。朝より、声を張った試合後のほうが効果がありそうだ。



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