六十

 カズちゃんが、
「あしたは千佳ちゃんとムッちゃんの合格祝賀会。おトキさんたちが腕をふるうそうだから、楽しみにね。二十三日はキクエさんの正看の発表。今月末には節子さんとキクエさんが出てくるわよ」
 素子が、
「文江さん、東京の書道展、どやったの」
「青山の毎日書道展が、やっぱりいちばんすてきやった。ふるえてまった。連れてった子たちも立ちすくんどったわ。三万人から選ばれるんやもん、すてきなのはあたりまえやけど、漢字部門なら入賞する自信があるわ。来年以降に、毎日書道展の東海展に出してみよう思っとる。まず今年の夏の中日書道展の公募一科で、一科賞を獲ってからやね」
 トモヨさんが、
「どんどんかけ離れた人になっていきそうで、さびしいわ」
「そんなことあらすか。あんたも私もキョウちゃんのそばにいる女やないの、離れるはずがあれせん」
 おトキさんが菅野にサンマの開きを焼いたものと、なめこの味噌汁、私には紫蘇ウメ茶漬けを持ってきた。カズちゃんが残りの全員にコーヒーを出す。
「睦子はお城のマンションに落ち着いたの?」
「はい。みなさんに手伝ってもらって、お部屋の片づけも終えました」
 千佳子が、
「でも、お部屋の細かい整理は今月いっぱいかかるわね。のんびりやればいいわよ。カーテン替えたければ、手伝いにいってあげる」
「あのままでいいです。すてきなカーテンだから」
 カズちゃんが、
「みんなでいろいろプレゼントしたのよ。私はガスストーブと炬燵と自転車、千佳子さんは洗濯機、素ちゃんは小型冷蔵庫、トモヨさんは新しい調理道具一式」
 菅野が、
「女の友情ですね。おトキさん、ごはん、おかわり」
 千佳子が、
「和子さん、私にも自転車買ってくれたんですよ。おたがい往復したり、泊まったりできるようにって」
 素子が、
「私も買ってもらった。私もときどきマンションに遊びにいかせてもらうわ」
 主人夫婦が、
「じゃ、ワシらは寝るわ。ほんとに二人とも、あしたゆっくり寝とってな。神無月さん、スクラップ見たければ、居間に置いてあるでな」
「はい、あしたのんびり見させていただきます」
「まだ神無月さんは知らんでしょうが、アトランタ・ブレーブスが三年間五百万ドル、十八億円の俸給、譲渡金二百万ドル、七億二千万円、合計二十五億二千万円で小山オーナーに打診したようや。もちろんオーナーは断りましたがね」
「興味ありません」
「もちろんそうでしょう。これからこの手の話は多くなりますよ。気にせんように」
 菅野が、
「気にしなくても、お金がどんどん入ってくるようになります。たとえば年度MVPなんかは、終戦直後は醤油一樽と、生きた豚一頭だったのが、いまでは高級車と数百万円の現金ですよ」
「そういうこと。税金も面倒くさくなりますよ。まあ、その方面は私たちにまかしといてください。それじゃ、お休みなさい」
 カズちゃんが、
「じゃ、私とメイ子ちゃんは、百江さんと則武に帰ります」
 文江さんが、
「じゃ、私も失礼させてもらうわ。あしたの夕方寄せてもらいます。お休みなさい」
「お休みなさい。キョウちゃん、夜道は暗いから文江さんを送ってってあげて」
「オッケー」
「さ、素ちゃんと千佳ちゃんとムッちゃんは、お風呂入ってさっさと寝なさい。あしたからメニューの案を詰めるわよ。二十九日から三日間、模擬開店なんだから」
「はーい」
「菅野さんは早く食べて、座敷じゃなく、二階の階段框の部屋にいって寝てください」
「ほーい」
 文江さんといっしょに玄関を出た。黒ずんだ庭木の梢越しに白い夜空が見える。私は深呼吸した。文江さんも深呼吸し、
「お帰りなさい。ご苦労さまやったね」
「なんだかあまりにも順風満帆になってきた。これまでも大した苦労はなかったけどね」
「それはないわ。死ぬ思いしたんよ……。どんだけ他人にちっちゃく言い繕ってもあかん。ドラゴンズの仲間とはうまくいっとる?」
「うん、コーチやトレーナー全員とも分け隔てなくやってる。小山オーナーもぼくの要望を叶えて、練習や休暇の例外規定を作ってくれた。それだけでぼくは満足なのに、ロードのホテルは有力選手たちと同じように最高の部屋を用意してくれる」
「それに甘えないのがキョウちゃんやね。……あした、二人に何贈ろうかな」
「定期入れがいいんじゃない?」
「そうする!」
 塾の玄関で口づけをして別れた。
 北村席に帰ってくると、門にトモヨさんがにこやかに笑って立っていた。手をつないで玄関へ歩いていく。
「二十五日から模擬開店の一週間、全品五十パーセントオフで試運転ですって」
「忙しいぞう」
「千佳子さんと睦子さんが手伝います。私も、直人が保育所にいってるあいだ手伝います」
「従業員はきちんと決まったの?」
「万全のようです。あとはメニューだけ」
「一番客でいきたいけど、無理だな阪急戦がある」
「四月一日の一番客できてくださいと言ってました。九時開店」
「わかった」
 玄関戸を開けると、こぼれるような笑顔で睦子が立っている。
「さ、二人でお風呂に入りなさい。千佳ちゃんは遠慮してくれましたよ」
「みんなやさしい。トモヨさん、お腹、大きくなってきたね」
「はい、あと四カ月。直人よりひと月早く生まれます」
 式台で全裸になり、睦子の手を引いて風呂へいく。背中でやさしいトモヨさんの笑い声がした。
 脱衣場に下着が用意してある。睦子が裸になるのを見つめる。すばらしい均整だ。胸が豊かに張り、重そうな尻がツンと跳ね上がっている。
「あらためて、合格おめでとう」
「ありがとうございます」
 張りたての湯に二人で抱き合って浸かる。まだ熱い湯が恋しい季節だ。抱き寄せてキスをする。
「ああ、郷さん、逢いたかった―」
「いつ以来だろう」
「一月? 二月? 郷さんが思うほど、ほっぽってないんですよ。関西のほうは寒かったですか」
「名古屋より妙に寒かった。寒いと故障が心配になる。入念に準備体操をした」
「テレビで観てると、バッターボックスに立ってる雰囲気が、青高時代とぜんぜんちがわないんです。不思議な感じがします。何年もずっと同じ場所に立ってるようで。ただ、青高や東大のころよりは安心して観ていられます。もうたどり着こうとするところへたどり着いたからでしょうか。でも……」
「でも?」
「たどり着こうとしてたのは、そこかなって思わせるような表情をしてます」
「もともとそんな場所、なかったりして」
「よく神無月さんは、机って言ってました。私もそこが最後の場所だと思います。だったら、もともと神無月さんはそこにいたんです」
「……しばらく、机から離れてることにしたよ。しばらく……」
「ええ。チームのかたたちと約束したんですね。離れないって」
「うん。いずれは別れていくんだろうけど、それまでは彼らを悲しませたくない」
「はい。西沢先生と相馬先生に会ってきました」
「元気だった?」
「とても。遠い人になっちゃったけど、よろしくって。神無月さんを追って名古屋大学を受験したこともお話しました。初志貫徹だなって言われました」
 遠慮がちに握ってくる。
「もう、こんなに……」
「入れたい?」
「いいえ、まだ……。入れると私はあっという間ですから」
 言葉と裏腹に強く握る。
「ほしいんだね」
「いえ、……はい。……糸千の下駄、三足取り寄せました。玄関の下駄箱に入れてあります」
 何とか意識を逸らそうとする。
「ありがとう。睦子の忘れちゃった。見せて」
「はい」
 睦子は喜び勇み、湯を鳴らして浴槽の縁に座り、いつもの形をとる。
「微妙に複雑で覚えられないんだ」
「勉強しているとき、よく、カッて熱くなりました。がまんするのがたいへんでした」
 薄い陰毛、猫の肉球のような淡い褐色の小陰唇、肌色の前庭。クリトリスが大きくふくらみかけている。抱きかかえて湯船に入り、向き合った格好で跨がせる。
「あああ、郷さん、愛してます、ウン!」
 あっという間に達したからだを抱き締めながら唇を吸う。尻を抱えてアクメを繰り返しやすくしてやる。温かい襞が射精を導くように緊縛し、うねりを繰り返す。トモヨさんと交わって以来十日も禁欲していたせいか刺激が強く、往復を始めないうちに差し迫った射精をする。喜んで呼応する睦子の反射にまかせるだけで、陰嚢の中身が快適に吸い上げられていく。いとしさが募る。
         †
 三月二十一日金曜日。夜明け方に激しい雨音。
 目を覚ますと雨が上がっている。カーテンの明るさから陽が高いことがわかる。睦子はいない。柱時計がそろそろ十時になろうとしている。こってり疲れが溜まっていたようだ。居間のほうから一家の幸福そうな笑い声が聞こえる。起き出し、朝勃ちしていたので裸のままトイレにいき、前屈みになって小便をする。風呂場へ直行。すでに新しい湯が張ってある。シャボンを泡立てて全身を洗い、歯を磨き、洗髪する。朝勃ちが治まらない。エヘ、と笑いながら素子が裸で入ってきた。
「お風呂の音がしたから、ちゃんとお姉さんに言ってきた。一分で終わるから、お願い」
 洗い場に手を突き、尻を向ける。二つの丸い丘を撫ぜながら、
「素子、好きだよ」
「うれしい。でも言わんといて、苦しなるから」
「どうして?」
「いままで言いすぎとる。キョウちゃんのやさしい言葉をたくさんもらうのはお姉さんやないとあかん」
 挿入する。さっそく強い反応が返ってくる。
「すぐ出しちゃうね」
「ほんとにすぐやないと死んでまう」
「一分で出すから、イキつづけて」
「うん、がんばる。最初から強くイクようにする。そしたらキョウちゃんすぐ出せるから」
 あっという間に達した素子は激しく反応しつづけた。ひさしぶりに最初から最後まで素子の正味の反応の強さを味わった。射精したとたんに、
「もう、あかーん!」
 と叫んで素子は横倒しになった。エビのように伸縮する。抱きかかえて湯船に入った。口づけをすると、舌を吸いこんだ。
「愛しとるよ、愛しとるよ、う、うう、まだイッとる、もうちょっとイクね、ごめんね、ああ、イク!」
 目をつぶりながら伸縮をしばらくつづけた。
「ああ、こんなに強く感じたの中村公園以来やわ。三カ月分くらいイッてまった。ありがと、キョウちゃん」
 ふるえるからだが落ち着くまで抱き締めている。やがて素子は深く息をつき、
「―ねえ、キョウちゃん、いっしょに旅行するの、忘れとらんよね?」
「忘れてないよ。栄養士に合格したらだったね」
「そう、五年後の三月発表。だから旅行は四月。二泊三日ぐらい」
「だいぶ先だね」
「でも、ちゃんと憶えとってね」
「うん、憶えてる」
「じゃ、先に上がるね」


         六十一 

 腹が冷えてきたので一度上がって、下痢を搾り出し、もう一度風呂場に戻ってシャワーを浴びる。トモヨさんの用意した下着をつけ、ジャージを着る。座敷にいく。菅野が一人きりで新聞を読んでいた。遅番の女たちは麻雀をしている。
「あれ、やっぱり走りますか?」
「置いてあったジャージを着ただけ。でも、朝めし前に走ろうか」
「私の分のジャージもあります?」
「ある。もう、みんな食事終わったんでしょ?」
「はい。社長は出かけたし、女将さんはトモヨさんと芋掘りに出かけました。保育所の行事だとかで。お嬢さんと千佳ちゃんとムッちゃんは、居間のテーブルでソテツと三人でツムリ突き合わせてます。素子さんは……」
「いまぼくと―」
「ああ、あの声がそうだったんですか。おトキさんと百江さんがクスクス笑ってるし、メイ子ちゃんがイネちゃんに耳打ちしてるし」
「素子は純真にノビノビ生きてる」
「素子さんは親切で、いい人です。店の女たちにもやさしいんですよ。よく相談に乗ってやってます。ソテツの扱いがいちばんうまいのも素子さんです。いま睦子さんといっしょに買い物に出かける準備をしてますよ。好きなもの買ってあげるとか言って。ああ、一晩ですっかり疲れが取れました。さ、ひとっ走りしましょう」
「あ、その前に、お父さんのスクラップ読んでおきます」

 天馬オープン戦十一戦連発! 前人未踏へ       
  デール・ロング(パイレーツ・一九五六年)の八試合超え
 オープン戦とは言え、とんでもない記録が飛び出した。これまでの公式戦連続試合本塁打記録は、日本では昨年六月十八日大洋ホエールズの長田幸雄が記録した五試合、アメリカでは一九五六年パイレーツのデール・ロングが記録した八試合だったが、これが大幅に更新された。四月からの公式戦での天馬の新たな記録達成が待ち望まれる。
 中日ドラゴンズ神無月郷外野手(19)が世界新記録となる九試合連続ホームランを打ったのは、今月十六日の対南海戦だったが、昨二十日西鉄河原からオープン戦二十四号ソロを放ち、記録を十一試合に伸ばした。
 神無月郷にとって緊張感や重圧は集中力を研ぎ澄ませてくれるカンフル剤だ。彼はもともと個人記録には興味を示さない。
―ホームラン量産の秘訣は?
「強いスイングの結果です。すべて的確というわけにはいきません」
―ホームランを打ったときのお気持ちは?
「浮遊感です。ホームランの軌道と距離を目撃するとき、無上の幸福を覚えます」
―プロにきて思ったことは?
「初めて野球というものを見た感じがして、肌が粟立ちました。自分もすごいところでやっているんだと思いました」
―練習の鬼と言われはじめました。前評判とまったくちがいます。
「悪い評判は不満の表れです。ぼくにとってそれは現実世界における逆境ですが、甘受し、たゆまず練習することで自分を苦しめようという気になります。ただ、人びとの不満を解消して自分を解放しようとは思いません。ぼくは逆境の中で苦しんでいないと生きている感じがしないからです。しみじみとした幸福に浸れるのは、実戦の場でだけです。実戦の場は逆境でないので、自己が解放され浮遊している感じの幸福感を覚えます。人と会話し、触れ合うときと同じ幸福感です。苦しみがないので生きている感じがしませんが、たぶん桃源郷にいるからでしょう」
 神無月郷は緊張や重圧を浮遊感の中の幸福と捉えているのだ。グランドは非現実的な桃源郷だと言う。現実を苦悩として甘受し、苦悩の結果を携えて桃源郷に遊ぶ―やはり天馬と呼ぶしかない。


 川上喝! 若G打つ! 貧打地獄から脱出        
  六年目23歳上田二試合連続適時二塁打
   移籍三年目柳田二安打―一球も見逃さず全部に手を出そうと

 川上監督の喝をきっかけに、巨人打線が上向いた。直前まで二試合連続一安打と沈んでいた打線が八安打で三得点を奪い、三対ゼロで近鉄バファローズを下した。
 練習前川上監督が円陣の中心に立ち、
「みんな同じように打ち取られている。一打席一打席、もっと広い視野で周りを見て何かを考えないと。頭を使って考えて、テーマを持ってやろう。若いやつらが変わらないとチームは変わらないぞ」
 と伝えたテーマを若手選手が打席で体現。監督の愛ある喝に応えた。

  
 何を言っているのかちんぷんかんぷん、さっぱりわからない。打席ごとに広い視野で周りを見るって何のことだ。若手がテーマを体現したというのは? ヒットを打ったってことか? それなら、ヒットを打て! の一喝でいいじゃないか。テーマというのは、外角に強くなれ、低目を掬い上げる技術をつけろ、そういったことだろう。テーマを持てと説教するのは、おまえたちはアタマが悪いから打てない、と言っているのと同じだ。喝にも檄にもなっていない。おまけに三対二で勝ったって、打ち勝ったことにならない。
 貧打地獄から脱出というサブタイトルもオーバーだ。十五安打放ったとか、ホームランを五本打ったとかいうならわかる。柳田という男にしても、一球も見逃さずぜんぶ手を出したら、〈考え〉たことにならないだろう。だいたい考えるのではなく、感じるのだ。

 中日オープン戦九連勝 西鉄戦二試合三十得点失点ゼロ
  神無月二戦三発二十二、二十三、二十四号! 
 
  代打千原、島谷(新人)、徳武一本ずつ        
 オープン戦十六試合も余すところ四つとなった。ドラゴンズは十一戦して、九勝二敗一降雨中止。ジャイアンツは十二戦して六勝五敗一分け。残り全勝しても十勝。その場合、中日が全敗すればようやく優勝となるが、まず無理だろう。中日が一勝した時点で中日の同率優勝、二勝すれば単独優勝が決まる。昨年最下位チームの怒濤の巻き返しだ。
 名将水原茂率いる新生中日ドラゴンズの強みは、神無月一人に勝敗を負っているのではないという点だ。投手陣が好調で、打撃陣も好調だ。とりわけ打撃陣は打ち出すとかならずつるべ打ちになり、とどまるところを知らない。
 第二戦、神無月は自身にはめずらしい最前列に飛びこむホームランを打ったが、思わずグローブでキャッチした中学生を試合後のコメントの対象に選び、
「これも何かの縁です。ぼくは森徹のホームランをキャッチしたとき、プロ野球選手になれなければ死ぬとまで決意しました。どうか将来プロ野球選手になってください。いっしょにプレイができるかもしれません。きみの捕ったきょうのホームランは打ちそこないでした。これからはきみのいないもっと上のほうに打つからね」
 いつもながら胸に沁みるコメントだった。残念ながらこのインタビューの最中に、観客がグランドに乱入し、ドラゴンズの選手たちはベンチ裏へ退避することになってしまった。


「さ、走りましょう。きょうはどこへいこうかな」
「東西南北、ほとんどいきましたからね。桜通にしますか」
「そうだね」
 おトキさんがコップに牛乳を入れて持ってきて、
「何もお腹に入れてないのはダメですよ。これをグーッと飲んで」
 二人で言われたとおりにする。
「お昼ごはんまでには帰ってきてくださいよ」
「はい、すぐ帰ってきます」
 睦子と千佳子が素子といっしょに、いってきますと言って、うれしそうに玄関に出る。
「買い物だね?」
 素子が、
「そ、ついでにパーマ屋さんに寄ってくる」
「パーマ屋か。いよいよ新学期の準備だね」
「それと月末の模擬開店の準備。二十五日から」
 浮きうき歩いていった。
 駅西に向かって菅野と歩く。コンコースを抜けて桜通を走るつもりでいる。
「神無月さん、たまには目先を変えてみましょうか。名鉄で一宮までいって、一時間ほど走るというのはどうですか?」
「いいね、その手があったか。一度やってみましょう」
 太閤口から中央コンコースを通って大時計に出、名鉄の切符売場窓口につづく地下の階段をくだる。菅野が二人分の切符を買い、岐阜行の赤い鈍行電車に乗る。一宮から急行になると放送している。
「二十分で着きます」
 列車が原野を走る田舎とちがって、都会の沿線風景はいつも変わらない。一般住宅と低層ビルと申しわけ程度の緑のみ。見るべき景色はない。
「あ、枇杷酒でうがいするの、忘れた。ここ二日間」
 菅野が何のことかと訊いてきたのでわけを話す。
「あれは風邪の予防に効果的なんで、朝と晩にするのがいいんですよ。その小瓶、帰ったら私がもらいます。……稲尾の二連続四球から考えて、ペナントレース、いやな予感がします」
「ぼくも。公式戦でマトモに打たせてもらえるかどうか……。五十五本に近づいたら、露骨になるだろうな」
「スペンサーの八連続四球もありますしね」
「逆さバットね。野村とホームラン王を争ってたんだったよね」
 尾張一宮駅で下車。名鉄と国鉄合同で一箇所しかない改札を出る。むかしふうの売店や会社事務所のテナントが埋まりこんでいるコンコースをいききして、両端の賑やかさを見比べる。ロータリーにタクシーやバスの姿が少なく、家並が低く見えた名鉄側の西口へ出る。外から見返ると三階建てビルの駅舎だった。そこだけ近代的だけれど、味がある。駅前は未舗装。瓦屋根やトタン屋根の家が建てこんでいる。空地と瓦屋根を眺めながら歩く。神戸ラーメン第一旭。
「あ、これ老舗ですよ。一宮にあるなんてめずらしい。帰りにチャーシューメンを食っていきましょう」
「そうしよう。空気がいいな。走ろう」
「はい」
 人通りの少ない田舎道を走り出す。畑と民家ばかり。民家のあいだに、五十メートルに一軒くらいの割合で商店がある。クリーニング屋、理髪店、貸し自転車・リヤカー、うなぎ、電器店、中日新聞販売店……。こちら口は不便そうだ。遠くの辻を荷車牽いた馬が通っていった。一瞬目を疑った。
「お、公園があった。三種の神器」
「オッケー!」
 滑り台とブランコしかない狭い公園で、腕立て、腹筋、背筋。あぐらをかいてしばし休憩。
「個人記録とチームの関係ってどういうものなんでしょうね。ぼんやりした質問だけど」
「王のホームランのような飛び抜けた個人記録は、チームの勝敗と切り離して讃えられることもありますけど……。日本の野球は長年にわたってチームの勝敗を中心に云々されてきましたからね。犠牲バント、ヒットエンドラン、スクイズなんかが〈日本野球〉を特徴づけてきたんですよ。野球が普及した初期のころは、たしかに個人の意志の力と技量の戦いという要素が武道や相撲と結びつけて重視されたんですが、すぐれたピッチャーとバッター同士の対決だけでチームの勝敗が決まることは少なくて、黒白をつけるためには、別に個人はすぐれていなくてもいいということになったんでしょう」
「個人の輝きに興奮する楽しさをないがしろにしたわけだね」
「そういうことですね。ベーブ・ルースに価値を認めないわけです」
「ほかに、日本野球の特徴は何でしょうね」
「試合展開が比較的スローペースですね。ほとんどの試合が三時間を超えます。それから統計好き。数字が大好きなんです。日本人の性格にピッタリです」
 ふたたび走り出す。少女の自転車、老人の押す乳母車、エプロン姿の主婦、あとはすべて民家。
「この町は隠居場所みたいだね」
「暮らせませんね」
 喫茶店。トロワ・フレール。意味不明。男子中学生がこんな時間にカバンを提げて一人歩いている。
「右手に緑のかたまりがある」
「いってみましょう」
 走っていく。ただの公園だ。さっきより少し広くて、遊具設備も多い。
「左手のシャドーを五十本やっていきます」
 首のタオルをはずし、五十回左腕を振りつづける。ベンチに腰を下ろした菅野が、
「人間の完成形だなあ。何もかも。言うこと、すること、何もかも完璧だ」
「ほんとかな」
「ほんとです。おじさんの言うことを信じてください」
「信じます。小便していきましょう」
「私はいいです。新陳代謝が盛んじゃないですから」
 公園の便所で小便をしてまた走り出す。チャーシューメン、チャーシューメンと言って走る。菅野が笑い出す。
「まだ出てきてない選手で、有望だと思う人は?」
「パリーグですけど、おととしのドラフト一位の、ロッテ、村田兆治。広島の福山電波出身です。去年三回しか登板していないんですが、全球全力投球なんです」
「いいですね―」


         六十二
 
 第一旭に到着。小さいがいい店構えだ。入ると、店主一人、カウンターのみ。客は十人ほど。十一時前なのに、この田舎町でほぼ満席だ。目の前に唐辛子の入ったガラス壺が置いてある。白木のスプーンがさしてある。水が出る。壁のメニューは三種類のみ。

 
特製  ラーメン  肉なし

 ラーメンというのはチャーシューメンのことのようだ。店員募集の貼紙がある。人手がほしいのだ。中年の店主が私をキョロキョロ見ている。
「ラーメン二つ」
 手を動かしながら、
「へい。中日の神無月さんですか」
「はい、走りにきました」
 客がこちらを向いて、オー! とどよめく。店主が無言で色紙を差し出した。
「お願いできますか」
「はい」
 すらすらと文江サインを書く。第一旭さんへ。小さめの丼に薄切りのチャーシューが六枚載ったラーメンが出てくる。すする。菅野もすする。脂の効いたやさしい醤油味だ。唐辛子をかける意味がわかった。チャーシューは脂身がなくアッサリしている。チャーシューの下にモヤシが敷いてある。
「うまい!」
「うまい!」
「ありがとうございます。夕方には閉じますので、いい時間帯にいらっしゃいました。休暇ですか」
「いっときのね。二十六日から神宮でアトムズ戦です」
「今年からサンケイが取れて、アトムズという名前になりましたね」
「はい。サンケイアトムズがアトムズだけになっちゃった。中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ、大洋ホエールズ、広島カープ、阪神タイガース、アトムズ。何かへんだ」
 菅野が、
「スポンサーが未定だからでしょう。もう一つ。神宮球場は今年からスタンドに看板を掲げてもいいことになったんですよ」
「そういえば、去年看板なかったなあ」
 ごちそうさんと言って帰る客が、一人ひとり握手を求める。
「大ファンです。いつも応援してます」
「オープン戦、三十本打ってください。公式戦、百本期待してます」
「こんな漫画みたいにホームランを打つ野球選手が出てくるなんて、思いもしませんでした。生まれきてよかった」
「大リーグへいかないでください」
 二十代から三十代の男の客だ。菅野が涙を落としそうになっている。
 店主がサインのお礼と言って金を受け取らないので、ありがたくご馳走になって店を出る。
「がんばってください!」
 と背中に声をかけられた。
「おトキさん、怒るかな。チャーシューメン食ってきたなんて言ったら」
「カンカンにね」
 ついでにコンコースの逆口の東口に出て見る。タクシーの群れ。角ばった建物が多いが、家並は低い。普段着で歩いている女の髪型が一律で現代ふうだ。ロングスカート、背広にネクタイ、腕を組むアベックの若者はポロシャツとバミューダショーツ。その中に制服を着た男女学生たちが混じると凛々しく見える。
「少し歩きましょう」
「お付き合いします」
 少し横道へ踏みこむと、ツタの絡まる極めて古い洋館の喫茶店、シャッターの閉じた三軒並びの廃屋、物寂しいアーケード商店街、カメラ屋、おもちゃ屋、文具店、薬局、はきもの店、薄暗い洋服店、蕎麦屋、焼鳥屋、ウバ車(老人車)店などという看板もある。
 商店街が途切れると、とつぜん真清田(ますみだ)神社という石柱が立つ門前に出る。小森の丈が低く、目に涼しい。大鳥居を通り、広大ですがすがしい小砂利の敷地に入る。ほうぼうに楠の大木が立っている。参拝。二人とも百円。おもかる石を持ち上げてみる。二度目に持ち上げたときに軽いと感じれば願いが叶うらしい。二度とも軽く感じた。覗き井戸という岩桁の井戸は覗かず、赤い糸のお守りも買わず、龍が霊水を吐く手水舎にも寄らなかった。
 帰りの電車は国鉄に乗った。東海道本線豊橋行快速。十二分で一駅目の名古屋に着く。飽きあきする車窓。ビル、空、草原、田畑、民家、川、車、遠い看板、土手、新幹線。
「このごろ、本を読んでます。プロ野球の歴史に関する本が多いんですが……つくづくプロ野球の仕組みがわかってきました。わかったところでどうしようもないんですがね」
「どういうふうにわかってきたんですか」
「ジャイアンツの超のつく人気と、政治力と、読売新聞という巨大メディアのパワー、この三点セットが過去何十年にもわたって、日本の社会的公共財であるプロ野球の上にのしかかっているということなんです。プロ野球に留まらず、いろいろな企業の製品の品質など些細なことを針小棒大にネチネチ批判する。恐怖のジャイアンツ謀略です。巨大マスコミを使ってネガティブキャンペーンを仕組まれたんではたまったものではない。この独裁に恐れをなして、他球団のオーナーたちも触らぬジャイアンツに祟りなしの態度を装いつづけてます。ここにようやく光が射してきそうなんです。神無月さんの登場と、小山オーナーの四方に対する強硬な姿勢と、プロ野球ファンの動き。神無月さんに刺激されて、今後いかなる独裁者も許さないとフンドシを締め直している感じです」
「ふーん、甘いんじゃないかな。フンドシを締め直しているのは中日ドラゴンズ関係者だけです。野球ファンはそうはいかない。一度でき上がった権力はそんなにヤワじゃないですから。―悲観してるんじゃなく、ぼくにはこの国の人びとの気持ちがわかるだけです」
「ええ、たしかにこれからも五年、十年にわたって巨人は独裁の威力を見せつづけるでしょう。大それた騒動を仕出かしつづけるでしょう。ただ、恥をかく確率が高くなる」
「それでいて、チーム人気はいささかも衰えることなく、依然として十二球団のトップを保ちつづける。その恩恵として、ジャイアンツと対戦する球団は多額の興行収入にありつく。プロ野球の勧進もとであり公正中立であるべき日本野球機構にしても、その長であるコミッショナーにしても、キャスティングは巨人主導で行なわれてます。彼らは批判がましいことは言わず、何かあっても用心深く口をつぐみます。この情けない実情は、おそらくプロ野球がつづくかぎり変わらないままです。……一つ質問を受けてくれますか……ぼくの周りのみんなを代表して」
「はい……」
「ぼくは自分の人生に疑問の余地はありませんでした。幼いころからの宿命だった気がします。野球で大成することです。康男やカズちゃんや節子と出遇ったとき、ぼくは未来のある若者でした。ぼくと付き合いはじめてからも、彼らにはぼくの将来がわかってたはずです。少なくとも想像はついたでしょう」
 菅野は笑いながらうなずいた。
「つまり、菅野さんに訊きたかったのは、もし見当が外れて、ぼくの将来がちがうものになって、宿命をまっとうできなくても、それでもぼくを愛してくれるかということです」
「……遠からずプロ野球界を去るつもりですね。だからプロ野球界の趨勢に異を唱えないんですね? プロ野球界は快く宿命を達成させてくれる場所じゃないと思ってる……。快不快など気にかけないでください。神無月さんの生きる場所そのものが、神無月さんにふさわしい宿命を達成させる場所なんです。野球のグランド、道、部屋、そこで生きればいいんです。グランドでは、ベーブ・ルースやミッキー・マントルやウィリー・マッコビーと同じように、ごくあたりまえに記録を築くでしょう。机ではすばらしい文章を書くでしょう。道の上では目の覚めるような言葉を語るでしょう。どんな場所でも神無月さんは豊かな才能を発揮するでしょう。私たちはそれを見守るだけです。私たちにわかってる神無月さんの宿命はそういうものです。たとえグランドを去って、ちがう場所に歩み出したとしても、ただ場所を移した神無月さんであるにすぎない。……〈それでも〉なんてないんですよ。どんな神無月さんも私たちは愛しています。どんなことがあっても神無月さんを愛してます。いつまでも」
 私は隣に座っている菅野の手を握った。背高のビルの群れが現れはじめた。
         †
 おトキさんは笑って許してくれた。
「お昼はケンチンうどんでしたから、それほど残念じゃありません。夕食までは何も食べないでくださいね」
 主人が懸命に新聞の切抜きをしている。睦子が赤いミニスカートを穿いていた。素子に買ってもらったのだと言う。千佳子はと見ると、お揃いの青いミニスカートを穿いていた。
「私にも買ってくれたんです」
 二人とも女学生風に髪がまとまっている。素子はトモヨさんそっくりのセシルカットだ。睦子が、
「パンティも同じ赤のを買うと言うから、断わりました」
「私もいやです。青いパンティなんか」
 カズちゃんが愉快そうにからだを折る。トモヨさんと女将が直人を連れて帰ってきた。女将が目をクリクリさせて、
「どんな遊びが好きかって、保育所の先生がみんなに訊いてったんよ。そしたら直人、野球って答えたの」
 トモヨさんが、
「野球なんて言葉、いつ覚えたんでしょう」
「何十回も聞いてるうちに覚えたんだろう。どういうものかも知らないで。いい子だ」
 頭を撫でる。
「ヤチュウ!」
 大声で応えた。主人が、
「よしよし、野球選手になれ」
 トモヨさんが感激して直人を抱き締めた。
「メニューはどうなったの」
 カズちゃんに尋くと、
「完成したわ」
 ソテツが台所から走ってきて、
「でき上がりました!」
 太い眉毛を上下させた。カズちゃんが、
「あとはデザイナーに調整してもらって、印刷屋に仕上げてもらうだけ。料理人さん二人とソテツちゃんには、一週間ぐらい料理の練習をしてもらうわ。飲み物とケーキ系以外の全品をね。私と素ちゃんは、コーヒーいれの特訓。そうしていよいよ二十九日から船出よ」
「コーヒー豆は?」
「いまのところ十三種類入れた。セールを兼ねると豆挽きが面倒だから、お店だけで使うようにしたの。素ちゃん、コーヒーの名前、憶えてる?」
「うん。キリマンジャロ、ガテマラ、モカ、コロンビア、マンデリン、コスタリカ、サントス、ジャワ、ハワイアンコナ、ブルーマウンテン、ブラジル、トラジャ、ケニア」
「ホワイトハウス御用達(たし)は?」
「ハワイアンコナ」
「フルーツの香り」
「モカ」
「カフェオレ向き」
「マンデリン」
「強い酸味」
「キリマンジャロ」
「コーヒーの主な効果は?」
「肥満予防、消化促進、筋肉疲労回復、心臓の活性化、血流促進、動脈硬化予防、二日酔いの緩和、癌予防」
「オッケー、どのコーヒーも味わいが微妙だから、何度も飲んで覚えることね」
「うん」
 拍手、拍手。大部屋からも拍手が飛んでくる。主人夫婦まで拍手している。
「すごーい! 素子さん」
 千佳子と睦子が両側から素子の腕を取った。主人が、
「まるで横山さんやな。人は意外な特技があるもんや。菅ちゃん、もう疲れ取れたか」
「はい、すっかり」
「四時から鯱のほう廻ろか。面接が二名や」
「いきましょ。ラクでしょ。アイリスの面接はくたくたになりましたもんね」
「おお、緊張した。女のほうは見慣れとったでええけど、男がな。特に若いのは難しい」
「ありがとう、おとうさん、菅野さん。おかげでいい人たちを雇うことができました。制服があと五日もしたらでき上がってくるわ。お店で試着会。それも見にきてくれる?」
「いくしかないやろ」
「千佳子さんや睦子さんも、夏前に寸法取るわね」
「ワァ!」
 二人で手のひらを合わせる。
 遅番の女たちがポチポチ出かけていき、早番の女たちが帰ってくる。おトキさんが、
「そろそろお祝いの下ごしらえにかかります。トモヨ奥さん、ケーキは何時ごろ届くんですか」
「もーそろそろよ。十人分のを三つ」 主人が、
「そんなにか!」
「ペロリですよ」
 直人が、
「ケーチ、ケーチ」
 とはしゃぎだした。
「はい、お昼寝、お昼寝」
 トモヨさんが抱きかかえて離れへいった。素子と睦子がおトキさんといっしょに厨房に入った。私はカズちゃんに、
「すっかり忘れてた。野辺地にカラーテレビ送っといて。一月にじっちゃからきた手紙に、春先に送るって返事を書いたんだった。アンテナは地元でつけるしかないけど、テレビ本体は質のいいやつを選んであげないと」
「そうね。心配しないで。近いうちに東芝かソニーの製品を送っとく。アンテナは電気屋さんに頼むようにって書いて」


         六十三

 おトキさんが、
「あと三時間ほどで夕食です」
 座敷に声をかける。千佳子とカズちゃんとソテツが、完成したメニュー表の再検討にかかる。
「菅野さん、シャワー浴びましょう」
「ほいきた」
 シャワーを浴びながら、菅野がしみじみ言った。
「さっきの日本の野球の話のつづきですが―。寮に一年じゅう住みこんで、毎朝交代で庭に球団旗を上げているような低賃金の二軍選手から、オフシーズンに自分のやるべきトレーニングを自分のペースでやれるようなベテラン選手に至るまで、すべてを野球に捧げているという意味では、本質的に何ら変わるところはありません。自分の才能を活かして必死で手に入れた野球は、仕事であり、人生そのものなんです。これはアメリカのプロ野球選手も変わらないでしょう。神無月さんはどっちでもない。仕事でも人生でもないんです。神無月さんのする野球は一見仕事であり人生でもあるように見えますが、じつは必死で手に入れたものではなく、苦難の多い生活にたまたま舞いこんできた〈ご褒美〉か〈ねぎらい〉のようなものでしょう。神無月さん自身もそう考えているので、才能や仕事の意識などなく、ひたすらそのご褒美を喜んで、オフシーズンもオンシーズンも見境なく自由にトレーニングします。ねぎらってくれた人びとへの感謝の印としてね。少なくとも野球に身を捧げるという姿勢じゃない。人びとに身を捧げてるんです。だからこそチームに最大貢献をし、個人記録も前人未到の域まで達するという結果になります。もともと飛び抜けた才能があったんですから当然です。もちろんそんな神無月さんにも、自分なりに心に懸けている人生も、仕事もある。それは……私たち〈人間〉を見守ることなんですよ。それが最近ひしひしとわかってきて……感無量です」
「ぼくに関することより、ぼくのことを信じてくれてるんですね」
「みんなそうです。代表者として答えました」
「菅野さんたちを失いたくないです」
「失いません」
「この数年ではっきりわかったことがあります。五年後の人生がどうなるかわからないし、一年後、一週間でさえも予想できない。だから大切なことは―失ってから気づいたんで遅いんです。……心から菅野さんたちを愛してます」
「私もです」
 風呂から上がると二人で座敷にいき、祝賀会が始まるまでのあいだ、肘枕で庭を眺めた。
 梅よりも大きいピンクの花をつける杏の木の下に、色とりどりの花が咲いている。白いニリンソウ、青いヤグルマギク。馬酔木の木の下には紫のルビナス、淡紅色のレンゲ、淡黄色の土筆も突き出している。
 店の女たちが隣の座敷で麻雀をしている。ぺチン、パチンと快適な音がする。忙しくない女たちの醸し出す柔らかい空気がただよってくる。そちらに目をやる。開け放った襖越しに見ず知らずの女たちをこうして眺めていることが、何かひどく恐ろしいことのようで、同時に奇妙に幻想的な気分にもなり、現在の自分の状況をうまく感じ取ることができない。
「ロン!」
 牌が柔らかく混ぜられる。座布団を枕にうとうとした。眠りこんだ。
         †
 目覚めると、菅野も店の女たちもいない。三十分かそこら眠ったようだ。厨房のほうで仕事がたけなわの物音がする。寝足りないので、トモヨさんの離れで横たわることにする。廊下でばったりトモヨさんに遇う。涼しげな顔で息を呑み、頬をパッと輝かせる。
「あら、郷くん、ちょうど直人が眠ったところです」
 思いがけないトモヨさんの喜びの表情の筋道をたどりながら、
「めったにないチャンスだね」
「はい……」
「どこで?」
「離れのお風呂場。後ろから。前からは、そろそろお腹がじゃまになるようになってます。離れのお風呂は声が大きく出てもだいじょうぶです。母屋のお風呂は響きます」
「今朝の素子のこと?」
 こくりとうなずき、
「……千佳子さん、少しかわいそうでした」
 風呂場にいき、素子のように洗い場に両手を突かせる。台所の割烹着なので後ろからまくりやすい。
「終わったら、奥の寝室で休んでてください。祝賀会が始まったら呼びにきます」
 すぐさま浅く挿入し、収縮のリズムを受け止める。
「あ、走る、走る、愛してます、だれよりも愛してます、うーん、イク! 郷くんがイクまでイキつづけます、うんと出してくださいね」
 動きだす。不意にトモヨさんの放尿が始まり、みごとに膣壁がうねりだした。浅いところを往復する。
「イ、イキます、イクイク、イク! あ、あ、あ、好き、死ぬほど好き、うーん、イク! あ、大きくなりました、いっしょに、いっしょに、ウンウン、イクウ!」
 ジョッ、ジョッ、と放尿がつづく。うねりと緊縛が極限まできたのに合わせて射精した。
「あああ、うれしい!」
 ジョッ、ジョッ、と痙攣しながら水切りをする。最後に強く痙攣して放尿がやんだ。腹を抱えるのは怖いので、乳房を抱える。そっと抜くと、トモヨさんは裸の尻を曝したままその場に屈みこんだ。嗚咽するような声を出して最後の痙攣をする。
「腹帯をしてないね」
「予感がして、直人としばらく添い寝してから、腹帯とパンティを脱いだんです」
「つらそうだったよ」
「ええ、すっかり下も緩んでしまって。出産までもうセックスは無理かもしれません。むかしの何倍も強くイクようになってしまったので、お腹の子供に危険な感じがします」
 トモヨさんは立ち上がり、小水を放ったあたりにシャワーをかける。陰部もそのシャワーで洗い、割烹着の裾をおろした。私のものを含み、時間をかけて舐める。
「下着と腹帯を着けて台所にいきます。郷くんはもう少し休んでてください。ほんとにありがとうございました。気が遠くなるほど気持ちよかった」
 衣裳部屋へ去った。私は直人の小さな寝床へいき、熟睡している顔を見つめながら冷たい畳に横たわった。かわいらしい頬を撫ぜたいが、目覚めさせるのが怖いので手を出さない。自分が世界の、この世の中のどんな場所にいるのかわからない。生物界にいることだけは理解できる。生物として交わり、結果、生物のこの子がここにいる。そういう無機質な考え方をするのはやるせないので、生物であることを忘れ、魂へ帰っていこうとする。この程度の生物的な因果を魂の手ごわい足留めとは思わないけれども、油断ならない容喙(ようかい)の力が働いていることだけは感じ取れる。
 私には、自分が愛という無計画な心の働きに満ちた人間だという認識がある。その心の働きを肉体の行動に移すには、無計画をよしとする枷のない生活を送るほかに目安がない。私は自分と接する人びとに自分では律し切れないほどの愛情を感じているので、何よりも心と行動の齟齬が恐ろしい。愛情を疑われることになるからだ。しかし私は、日常的に生物として交わらなくても、彼女たちを部屋か道端で見かけて、うなずき合ったり、微笑み合ったりすることさえできれば、私にとって齟齬のない関係を維持しているという確信に満たされる。そういう生活を送りたいけれども、彼女たちは自分が愛情にあふれた精神だけの存在であることに不安を抱き、生物としての自分の機能が健康であるかぎり、自分のからだを快楽に浸し、その過程で私のからだに快楽を与えることに、精神だけでは叶えられない総合的な愛情を見出している。
 しかし、ここまで度を超えた、まるでスケジュールに則ったような肉の交接は、愛情という無計画に澄んだ情熱をないがしろにする。単純な肉体の交りから生物として産み出され、複雑な精神の情熱を受け継ぐこの子に、私はどう接すればいいだろう。思わず頬を撫ぜる。少し身動きする。私は恐怖のどん底に突き落とされる。恐怖を忘れるために、トモヨさんの寝室にいって蒲団をかぶる。
         †
 一時間ほどうとうとして、また直人の寝床へいく。トモヨさんがやってきた。
「郷くん、ケーキ切りますよ。いらっしゃい。あら、直人をいじってる。ふと、不思議に感じてしまうのね。ほっとけばいいんですよ。心もからだも、いつまでも身軽でいてください。郷くんはもっと広々とした世界で動き回るために生まれてきたんですよ。……愛してます。心から」
 そう言って、私を抱き締めた。言葉がほとんど通じるようになると、かえって気持ちが通じなくなるというのがふつうの人間関係だけれども、私の周囲の人びとは言葉がなくても気持ちはやすやすと通じるようだ。それが身に応える。寝が足りたらしい直人がパッチリ目を開けた。
 大座敷にテーブルが長く並べられた。ケーチ、ケーチ、と言いながら直人が指を突き出す。女将が止めて抱き寄せる。上座に顔を並べた睦子と千佳子の前に、名大合格おめでとう、とチョコレートで書かれた大きなケーキが置いてある。主人が代表でお祝いの言葉を述べた。
「千佳子さん、睦子さん、名古屋大学に合格おめでとう。これから最高学府でしっかり勉強して、千佳子さんは優秀な法律家に、睦子さんは優秀な文学博士になってください。そのための援助は惜しみなくいたします。安心して楽しい学生生活を送ってください」
「ありがとうございます!」
「がんばります!」
 全員で、
「おめでとう!」
 と叫ぶ。おトキさんとトモヨさんとソテツがケーキを切りはじめた。まず、うるさい直人の前に皿を置いてやる。女将が小さなスプーンで食べさせる。文江さんが、
「これ、定期入れ。二人同じ。革のいいものやよ。四年間使って」
「ありがとう、文江さん」
 メイ子が、
「私も置いときますね。あとで楽しみに開けてください」
 音楽部屋のステージに置きにいく。賄いや店の女たちも続々と置きにいく。睦子と千佳子が揃って頭を下げ、
「みなさん、ありがとうございます」
 ソテツが、
「沖縄の壺屋焼のカップにしました。机で使ってください」
 菅野が、
「うわ、コーヒーカップか。かぶったな。ま、私のは安物ですけど」
 イネが、
「わだし、なんも思いつがねかったから、下着にした。五枚ずつ」
 千佳子が、
「ありがとう! 足りなくなってたの」
 女将が、
「学費は心配せんとな。国立なんてタダみたいなもんやから」
 睦子が、
「私は父母がきちんとしてくれます」
「あかんあかん、二人の実家に卒業まで娘として預かるゆう電話してまったもの。生活費は心配せんでええて言うとるのに、どっちのお父さんもお母さんも聞こうとせん。ムッちゃんのお母さんは、きっちり毎年の初めに送ります言うて、もう電報為替で三十万も送って寄こしたわ。口座作って入れといたから。千佳ちゃんの親御さんもやっぱり同じこと言うて、全財産です、これで四年間よろしくお願いしますって、百万も送って寄こした。それも口座作って入れといたで。はい、これ二人の通帳と判子」
 二人は感激してお辞儀をしながら受け取った。カズちゃんが、
「それをムッちゃんは一年間、千佳ちゃんは四年間のお小遣いにしなさい。あとは何も心配しないこと。来年には中島秀子さんが、三年後には葛西美代子さんが出てくるわよ。おとうさん、おかあさん、よろしくね」
「その二人は、やっぱり名大か?」
「そう、二人とも青森高校の学生。それで、キョウちゃんの恋人は括弧閉じかな。東大の詩織さんが、卒業したら名大の大学院にくるかもしれないわね」
 賑やかな夕食の最中に、直人とトモヨさんが離れに去り、カラオケになった。主人や素子たちカラオケ教室勢がマイクを独占した。祝いの中心の千佳子と睦子も明るく参加した。私はぼんやり楽しみたかったので唄うのを遠慮し、酔わない程度に菅野や女将とビールをさし合った。ソテツはおトキさんについて、住みこみの賄い連中といっしょにせっせとおさんどんをしていた。イネがカズちゃんに何やら話しかけている。カズちゃんが真剣な顔でうなずく。素子がイネの肩を叩いた。
 やがて、主人夫婦、菅野がお休みの挨拶をして去った。トルコ嬢や、おトキさんはじめ住みこみの賄いの面々が、一人去り、二人去りすると、千佳子と睦子は私やカズちゃんに丁寧な挨拶をして、素子を誘って風呂を使いにいった。素子はイネにウィンクをした。それから私に、
「お休みなさい」
 と言って、よろしくね、というような目を向けた。はっきり意味がわかった。
「お休み」
 カズちゃんとメイ子と百江とイネが残った。カズちゃんが、
「とうとうイネちゃんにお願いされちゃったの。千佳ちゃんも協力するから、イネちゃんを女にしてあげて」
「―うん」
 イネが深々と頭を下げた。
「お嬢さんに、こっちさくる二人の人(ひと)で括弧閉じって言われで、おっかなぐなってしまって」
「焦ることないよ。二、三カ月にいっぺんでいいなら、ぼくはかまわない」


         六十四 

 則武への夜道を六人で歩く。イネに語りかける。
「妊娠は?」
「わがんね」
 百江が、
「前の生理は?」
「いつだったべ。たいてい月末だ」
 カズちゃんが、
「危ないわね。千佳ちゃんに出して」
「うん」
 イネはきょとんとしている。精神とやらに固執して自分が生物であることを忘れようとする私は、生物界の慎ましく計画的な生殖の原理を極端に恐怖する。そして軽んじようとする。無計画な精神の情熱が尊重されるとしたら、その結果の、計画的に洗練された命の受け渡しを軽視していいということになるのだろうか。
 椿神社を過ぎると、百江はイネに自分の家を指差し、私たち四人に挨拶して去った。イネはぺこりとお辞儀した。私はイネに、
「まだ気持ちは変わらない? ぼくはやめてもいいよ」
「気持ちっこ、変わらねす。初めて神無月さんを見たときから、この人しかいねって決めてたす」
 カズちゃんは則武の玄関戸を開けて式台に昇ると、イネにやさしく微笑みかけ、メイ子と二人でサッサと奥へ引っこんだ。私は一階の部屋を千佳子とイネにザッと案内して回り、風呂からバスタオルを持ってきてイネに手渡した。イネは意味がわからない表情で受け取った。千佳子がイネの耳に囁く。イネはうなずいた。三人で玄関脇の階段を上って二階の十畳の寝室にいく。千佳子が蒲団を二組敷いた。その背中に言った。
「千佳子、長いあいだ待たせたね」
「いいえ。ムッちゃんも言ってましたけど、いつもそばにいるから待ってる感覚なんかぜんぜんないって」
「きょうは睦子が遠慮したんだね」
「はい、たっぷり抱いてもらって幸せになったからって。あしたの朝早く自転車で二、三時間お城の周りを散歩してみたいんですって。私もいっしょに自転車で回ってきます。……私は神無月くんに抱かれるならどんなふうに抱かれても幸せですけど、イネさんの気持ちが心配。イネさん、私がいないほうがいいんじゃないかしら」
「んにゃ、いでください。ワに粗相がねようにしてほしすけ」
 千佳子は一組の蒲団にシーツを二枚とバスタオルを敷いた。まるで儀式のようだ。その様子を緊張した面持ちで見つめているイネに、
「神無月くんを誤解しないでね。私たちのためにここにいてくれるんだから」
「はい」
 千佳子はみずから進んで裸になった。私もつづいた。うつむいて何も見ないようにしているイネに千佳子は、
「イネさんも脱いで。恥ずかしいなら私が脱がせてあげるけど」
「脱ぎます……」
 イネはおそるおそる服を脱ぎ落とした。千佳子はイネに蒲団に横たわるように言う。イネは胸を押さえて蒲団に横たわった。
「脚を開いて、神無月くんに見せてあげて」
「……すたらこど、恥ずかしいス」
「大切なことなの。あなたも神無月くんのオチンチンを見たいでしょう。ほら、ちっちゃくなってる」
 イネは私のものを見てすぐ目を逸らした。
「イネさんとするには大きくならなくちゃいけないわ。いつもこんなじゃないけど、きょうはイネさんのを見ないと大きくならないみたい。神無月くんも緊張してるのね。じゃイネさん、私のを先に見る? そしたら恥ずかしくなくなるでしょ」
 千佳子は尻を落とし、イネの前で脚を開いて股間を曝す。蛍光灯の下に濡れそぼった性器がある。かつてとちがって神秘は感じないが、美しいと思う。
「グチャグチャして、そこだけちがうものみてだ」
「あなたもそうよ。自分のものがどういう色と形をしてるか知ってる?」
「知らねす。見えねすけ」
「鏡でも見たことないのね」
「んだ」
 私はイネの脚を割って見入った。濃い陰毛の下に、何の特徴もない生殖器が薄っすらと濡れていた。私はイネの胸を吸った。驚きながらイネは身動きしない。臍の周りを指先でさする。イネが目をつぶった。私は屈みこむと、門渡から始めて襞の溝を舐め、含み、白い性器に舌を使った。
「あ、気持ぢいじゃ……恥ずかしい」
 自分の声を聞きとがめて、思わず顔を横向け、口に手を当てた。膣口から包皮を舐め上げ、少し勃起した先端が出たので、指を膣口に浅く入れながら吸い上げた。
「ああ、いいじゃ、うだでいいじゃ、ああ、神無月さん、好ぎだ、好ぎだ、イグじゃ、イグ、神無月さーん、イグイグイグ、イグ!」
 ガクンと鞭打つように痙攣する。千佳子がその様子を静かな目で見ている。
「よほど神無月くんのことが好きだったのね。神無月くんもそれに応えるように勃起したわ。神無月くん、最初に私に入れて、すぐイクから。イネさん、しっかり見ててね。セックスってどんなにすてきなものかわかるから」
「は、はい……」
 全身をブルブル揺すりながらイネがうつろな声で答える。千佳子の蒲団に移り、挿入と抽送が始まる。口を吸いながら四度、五度往復すると、
「愛してる、好き、イク……」
 一度気をやり、抜き取ると、横向きになって上品に痙攣した。イネが大きく目を剥いている。
「……こたらこど……ほんとだべが? サネコでねのに?」
 千佳子は、
「ほんとよ。もう少し待っててね。すぐ治まるから」
 私はしばらく愛液が鈴口に滲み出すままにしている。そのまま、千佳子が起き上がるまで動かない。やがて千佳子がからだを起こし、私の亀頭を強く吸った。
 睾丸を揉み、カリを舐めてふたたび強く勃起させる。
「もうだいじょうぶです。できます。してあげてください」
 驚きの表情を崩さないイネの蒲団に戻り、脚を割り、亀頭を前庭に押し当てる。しっかり潤っている。抵抗もなく頭が入った。思い切り挿入して腰を止める。
「タタ、タタタ、いっ痛アア!」
 イネの口を吸う。痛みの中で懸命に唇が応えようとする。
「か、神無月さん、好き好き好き、好き!」
「動かすよ、痛いけどがまんして」
 素早く動かし、わざと強い痛みを与える。
「イツツツ、ツツツ、ツツー!」
 やがて膣がブワッと拡がり、入口あたりのつっかえがなくなった。引き抜き、すぐバスタオルを見る。千佳子も這ってきて覗きこむ。シーツに赤くて丸い染みができている。
「よかったわね! イネさん、大人になったわ」
 イネは気丈にからだを起こしてそれを見る。
「ツツ……。痛みが取れたら、千佳ちゃんみたいになるんですか?」
「なるわ。神無月くんでなければ、何年かかっても無理だけど」
 千佳子は二階のトイレの洗面所にいき、絞ったタオルを持ってきて、私の性器についた血液混じりの汚れを拭い取った。
「少し萎みかけたけど、手に取って見てごらんなさい」
 イネはこわごわ掌に載せる。
「……おっぎぇ。こたらにでげのがオラの中さへったんだべが。いではずだ」
「これで少し萎んだのよ。まだ射精してないから、私に出してもらいます」
 口に含み、きちんと勃起させる。
「どんなふうに入るか見ててね。イネさんにもこんなふうにして入ったのよ。ちゃんと見ててね。神無月くん、入れて」
 ふたたび千佳子の蒲団に移る。イネは結合部に視線を集中させる。イネが、
「千佳ちゃんのマンジュ、きれい! ふつうの女のマンジュでねえ。造り物みて」
「カズちゃんと瓜二つなんだ。ぼくの初めてのオマンコ。入れるよ」
「はい」
 入口へわずかに入れる。
「わ、へった」
「あああ、神無月くん、イク!」
 ギューッと腹を絞る。イネが、
「イッたてが? 入れただげで?」
「あ、あなたもこうなるわ。神無月くん、証拠を見せてあげて」
 千佳子から抜いて、またイネの蒲団に戻って、挿入する。
「ツツウ……あ、痛ぐね」
「イカせてあげて、やさしく」
 奥をつづけて突いてから、ゆっくりと深く浅くを繰り返す。二分、三分……千佳子が辛抱強く両方の胸を吸う。強く腰を引いて上壁をこりはじめる。すっかり痛みは消えたようだ。私の額に汗が浮いてきたころ、
「神無月さん、好ぎだよ、うだで好ぎだよ、ああ、いい……」
 ようやく脈が動いた。抽送を速める。
「あ、やめで、やめで、ああ、しょんべ、しょんべ出る!」
「もうすぐイクみたいだ。千佳子、手を握ってあげて」
「出る、出る出る、見ねで、恥ずがし、見ねでェ! ああああ、うだでいいい! あ、神無月さん、しょんべ出る、勘弁して、出る出る出る、ああ、イグイグ、イッてまる、イッてまる、うううー、イグじゃ!」
 細いスキーン液が私の陰毛の上部に強く飛んだ。白糸のように細い愛液が間断なく飛びつづける。素早く引き抜く。イネが腹を波打たせる。千佳子が、
「イネちゃん、おめでとう、イッたのよ!」
 イネが何度もうなずく。
「しょんべしてしまった!」
「オシッコじゃないの、強くイクとそうなるの。安心して」
「ほんとに? しょんべんでねんですね」
「ええ、ちがうの。気持ちよすぎるときに出る愛液なの。死ぬほど気持ちよかった証拠よ」
「からだぜんぶ、うだで気持ぢいい!」
 千佳子は慈しむような目つきで、イネのひくつく下腹をなぜている。
「神無月くん、出してないわね?」
「うん、もちろん。出したら危ないから」
「よかった。ください!」
 血の染みたタオルの上で四つん這いになる。私は挿入し激しくピストンする。
「ああ、すごいすごい、イク、イクイク、強くイク! あ、またイク、イクイク、だめ、イクウ! あ、またイク、あ、イク、か、神無月くん、大きい、いっしょによ、いっしょに、あああイク! イックウウウ!」
 奥へ突き入れて射精する。千佳子は四つん這いの股から赤いシーツに慎ましい愛液を飛ばしながら腹をひくつかせる。こういう格好で体液を飛ばす千佳子を初めて見た。よほど強い快感だったのだろう。尻をしっかりつかみ、最後の律動をする。
「神無月くん! イク! あああ、イク! ン、イクウ! だめ、もうだめです、イックウウウ!」
 私は引き抜いて、目を見開いているイネにうなずいた。イネはただ驚き、私の性器と千佳子のふるえる様子を凝視している。千佳子が、
「イネさん、お腹搾るから見てて」
「はい」
 千佳子が腹を数度収縮させると、トロッと精液が出てくる。陰毛のほうへ滴り流れた。
「赤ちゃんの素よ。オチンチンがイクときに、オマンコの中で最高の大きさになるの。女はその大きいオチンチンにこすられて天国へいくわ。これを出したら、神無月くんは萎んでしまうの」
「ほんとだ、ちっちゃくなってきたじゃ!」
 千佳子が私に寄り添った。口づけをする。私の耳もとでイネに聞こえるように言う。
「イネさんは羨ましいくらい敏感よ。初めての経験でしっかり愛液を出すんだもの。大きな花を咲かせてあげたわ。……イネさん、これからは一人で抱いてもらうほうがいいと思う。神無月くんをへんに疲れさせなくてすむから。あしたから苦しくなるでしょうね。一日ごとに神無月くんを愛しく思うようになるわ。神無月くんは何も考えてない人だし、独占できない人なの。放っておかれることが多くなる。でも、イネさんが自分の意思で抱かれたのよ。神無月くんを怨むことはできないわ」
「深く思ってれば、ときどき思い返してもらえるべ。それでじゅうぶんだじゃ」
「私は思い返してもらうことさえ贅沢だと思ってます。神無月くんの女はみんなそういう気持ちでいるわ」
 イネが私に密着し、肩に唇を寄せた。泣いている。
「悲しいの?」
「んにゃ、うれしんだ。うだでぐ好きだ人に抱いてもらっで、信じられねほどいい気持ぢにさせてもらっで。……もっともっと好ぎだって思えで」
 イネは私の目を見て、もう一度キスをした。


         六十五

 千佳子が、
「さあ、お風呂入って、私たちは帰りましょう」
 一階に降りると、居間でカズちゃんとメイ子が11PMを観ていた。小島武夫という男が麻雀のイカサマ技を披露している。興味なし。カズちゃんがイネに、
「つつがなく終わったの?」
「はい。ほんとにありがとうごぜました」
「みんなお礼を言う相手をまちがえるんだから。いいことをしてくれるのは、いつもキョウちゃんでしょう。千佳ちゃん、ご苦労さま」
「いいえ、とても満足させてもらいました」
「すぐお風呂に入りなさい。入れといたから。上がったら、インスタントラーメン食べましょ」
 千佳子が、
「それをいただいたら、私たちは帰ります」
 メイ子が、
「マジックリンで新品の浴槽を洗って、シャワーで流したんです。ピッカピカ。気持ちよかった」
 イネが、
「タオル、汚してしまって……」
「片づけとくから、だいじょうぶですよ」
 三人で風呂へいく。私が湯船に沈んでいるあいだに、二人でからだを流し合う。二人の裸身が彫像のように美しい。イネがため息をつきながら、
「マンジュまでお嬢さんに似てるなんて、千佳ちゃんはぜんぶ美しく生まれついたんですね。イグときの顔も、格好も、声も、ぜんぶきれいだったじゃ。それにしても、神無月さんのカモは不思議な気がした」
「神無月くんは、頭の先から足の爪の先まで芸術品。オチンチンだってふだんは毛の中にほとんどしまいこまれてるのよ。最初はびっくりしたわ。だれも神無月くんの大きいときを想像できないわね。残念」
「だれに見せるわけでもねんだすけ、それでいいと思る。ワはうれし」
「そうよね、愛のない女は神無月くんに抱いてもらえないから、何も知らずに幻滅して去っていくだけね。もったいない。愛情があれば、立派なものを最初から見せてもらえるのにね。でもそれは神無月くんにとっては都合のいいこと。愛のない女を抱かなくてすむもの。神無月くんに遇って私は生まれ変わったの。トンボや蝉が脱皮するみたいに」
 イネが、
「女の人たぢの事情は、ぜんぶ女将さんから聞いでます」
「事情なんてないわ。神無月くんに比べれば、だれの事情もゼロみたいなものよ」
 風呂から出ると、インスタントラーメンがちょうどでき上がったところだった。豆板醤を少し混ぜた辛醤油ラーメン。もやし、メンマ、ネギ、ゆで卵、チャーシューが載っている。
「さ、食べましょう」
 うまい! 辛味が絶妙だ。イネが、うめ、を連発する。千佳子は涙目になっている。
「インスタントでこんなにおいしくできるんですね」
「基本の醤油ラーメンよ。ちょっと辛くしただけ」
「山口、ラーメンが好きだったなあ。康男も」
 イネが、
「康男さんて人は話こしか知らねけんど……神無月さんのお友だぢで、山口さんは特別ですね。飛び抜げでます」
「康男さんに会うチャンスはないかもね。ヤクザだから。康男さんと山口さんは特別中の特別。私にはもう二人の神さま。男としてはキョウちゃんの第一、第二発見者で、山口さんはキョウちゃんの命の救い主」
「だども、発見したのは―」
「そう……女の第一発見者は私だけど、少し意味がちがうわね。私は、かわいさとか、姿の美しさとか、頭のよさとか、外見にはあまり気持ちが向かなかった。発見したのはキョウちゃんという人間に対する自分の本能的な恋心。だから、才能も、野球がうまいというぐらいしかわからなかった。康男さんは幼い少年同士の友情が絡んでるから、また別の意味の発見だったんでしょうけど、山口さんは私と同じで、顔かたちや才能なんていうのは二の次。出遇ったとたんに、キョウちゃんの生まれてきた意味と価値を雷に打たれたように発見したのよ。私なんかの一段上をいってたわけ。山口さんにはいろいろ細かい影響を受けたわ。山口さんが、キョウちゃんへの私の愛を完璧なものにしてくれたのね。もちろんそれ以前から、私の中に、キョウちゃんと心中したいって気持ちは芽生えてたけど、山口さんはキョウちゃんに遇った一瞬でその気持ちになったみたい。すごいわ」
 千佳子が、
「早く会いたいです。四月が待ち遠しい」
 メイ子は、
「何度も会ってるけど、やっぱりちがう星の人ですね。神無月さんと同じように、〈人間〉の感じがしないの。きれいな目をして、穏やかそうだけど、何かふつうとぜんぜんちがう筋が一本通ってるんですよね。神無月さん、お嬢さん、山口さん、この三人は別世界の人です」
「そんなことを言ってるあなたたちも、地球外生物になっちゃったわね。もう居直って生きるしかないわよ」
 三人で椿神社まで千佳子とイネを送っていった。
「千佳子」
「はい」
「あらためて、名大合格おめでとう」
「はい、ありがとうございます」
「ほぼ半年で受かった。天才だ」
 イネが、
「ほんによ、たまげるじゃ」
 カズちゃんが、
「ほんと、ふつうじゃないわね。信じてたけど」
「マグレです」
「ぼくのお株を奪うなよ」
 五人で声高く笑った。
         †
 清潔なシーツを敷き直した蒲団に入ってから、私は、自分の理想と思う社会は実現しないと、カズちゃんに言った。
「どういうこと?」
「ぼくの理想と思う社会は、教室一つ分くらいの小さな集団なんだ。社会と呼ばずに、五十人部落と呼んだほうがいいかな。脱退自由、会費なし、一堂に会する義務もなし。かぎられた空間の中を一人ひとりが自由に飛び回り、愛し合い、協力し合う。女が子供をほしいと言い出したら、産む。男は子供というものの存在を本能的に理解し切れないから、ただ女に従う。子育ての責任は負う。そんなふうにしてそれ以上の発展を望まない集団。……だれもそんな集まりを理想と思わないだろうね」
 カズちゃんが、
「その何万倍の土地に人間が数え切れないほどいるから、その人たちと付き合えば、自由も協力も愛情もままならなくなるのね。規則重視の社会になるのは仕方のないことよ。人間がたくさんいることを基本にして理想が決まってるんだもの」
「そうだね。自分の周囲の人たち以外の大勢の人びとと仲良く暮らすことが避けられないと考えればね。でもぼくたちは生涯のあいだにそれほど大勢の人たちと付き合わないだろう」
「そうね、顔見知り全員と付き合うのさえ、物理的に無理ね。小集団で暮らすことのほうが圧倒的に多いわ。これまで出会ってきた教室の生徒数を足し算しただけでも、たぶん顔見知りが千人近くいる。そしてその一人ひとりが出会ってきた人びとを足し算すると、合わせて何億という数字になる」
「それが社会というやつだね。つまり、社会の中へ出て全員と付き合うわけにはいかないということだよ。付き合うと無理やり仮定したうえで、社会の理想は成り立ってる。そして社会の理想は小集団の理想を相手にしない。どうしてそうなるんだろう。大集団を形成してる人びとに名前を知られたいという欲望をだれもが持ってるからだ。……そうすると人は売名のためにかならず、家庭の外、教室の外、村の外へ出て、社会の一部と接触しなければならない日がやってくるし、大集団の理想を自分の理想にしなくちゃいけない日がやってくる。大集団を乱すバラバラの自由は許されないから、大集団全体の利益になる秩序が必要になる。それは曲げようもない。それをしっかり理解して生きてる人たちを社会人と言うんだろう。でも、名前は人を飲みこむ。彼の考えも、一生の仕事も、名前として略される。……大切なのは名前ではなく、何者としてそこにいたかだ」
「キョウちゃんは何者?」
「わからないからいつも問いかけてる。ぼくは何者だ? ここにいた証はホームランの軌跡とタイトルの数だけ? それとも、書き残した文章の断片が私の見た世界を映し出す? 人が心の中で噛みしめた真実が文章に滲み出るだろうか。ぼくの足あとはどうなる? ずっと残るのだろうか。それとも、野球という海に沈んでしまうのだろうか。私はいくつの人生に触れたろう。愛し合った記憶は?」
「キョウちゃんの〈何者〉は、そういうことを問いかける人間のことね。名前だけ求めていると、そう言うことを考えて暮らせなくなるのね」
「うん、だからぼくは、社会人であることを拒否して生きようという無謀な決意をしてる。そういう決意を持った集団だけで仲良く暮らしながら死んでいきたいと決意してる。そういう人間同士いっしょにいると、見知らぬ大勢の人たちとのあいだにかならず摩擦が起きる。その人たちと仲良くするためのルールを守らないかぎり、爪弾きにされる。爪弾きを不快に思うと、彼らの理想と心中しなくちゃいけなくなる。心中しないためには、彼らの理想を傷つけないように工夫しながら、できるだけ彼らから遠ざかって暮らすしかないということだね。カズちゃんや山口が言う心中というのは、彼らの理想と心中するという意味じゃなく、愛する者同志の理想と心中するという意味だ。その覚悟があるからこそ、ぼくたちはここまで信頼し合って仲良くできるんだ。―でもちょくちょく外に出ていかないわけにはいかない。つまり厳密な意味で、ぼくの理想と思う社会は実現しないということなんだ」
「愛してるわ、キョウちゃん」
「ぼくもだよ。命懸けで愛してる」
「いいのよ、キョウちゃん、言わない約束でしょ。……社会的な拘束は避けられないものよ。でもそれを意識して暮らしたくないわ。どうして意識して暮らしたくないのか、自分でもわからない」
「何か拘束のないものにあこがれながら、それに衝き動かされて生きたいと思うからだろうね」
 メイ子が洟(はな)をすすりながら、
「先の知れた人生ですけど、どこへでも連れてってください。ごいっしょします」
 三人手を差し伸べ合い、からだを寄せ合って眠った。
         †
 三月二十二日土曜日。朝方零度に冷えこむ。カズちゃんとメイ子が六時に起き出して朝食の支度にかかった。いっしょに起きて、うがい、排便、シャワー、洗髪。門の外に出て爪を切る。
 一階廊下の突き当たりのジム部屋にいき、菅野が買い整えてくれた機器を二つ試す。チェストプレスとラットプルダウン。基本指導のパンフレットを見ながら、まずチェストプレスを慎重にやる。椅子の高さを調整して握りを肩の高さに持ってくれば肩の筋肉が鍛えられ、胸の高さに持ってくれば大胸筋が鍛えられると書いてある。姿勢を正し肩甲骨を寄せて行うことが肝心のようだ。握ったグリップを一、二で押して、一、二で戻す。握るバーの高さで胸を鍛えるか肩を鍛えるかが決まっていることに感心する。体重の九割弱、七十キロで十五回一セットをやり、二分休んで、残り二セット。
 次に、広背筋を鍛えるラットプルダウン。ぶら下がっているバーを握り、姿勢を少し反らして胸前に引き下ろしゆっくり戻す。姿勢を真っすぐにして首の後ろに引き下ろす。これは僧帽筋を鍛える。どちらも五十キロを思い切り引っ張って、ゆっくり戻す。からだが浮き上がらないように注意して、フロント十回、ビハインド二十回、二分休んで、もうワンセットやる。肘を伸ばし切らないというコツをつかんだ。則武にいるときはかならずやることにしよう。やりすぎてはいけない。
 薄っすらとかいた汗をシャワーで流す。
 カズちゃんがオムレツを作り、メイ子が私のリクエストの赤ウィンナーを炒め、豆腐とワカメの味噌汁を作った。
「うまいなあ!」
 女二人で握手し合う。
「今度これに丸干しを足してね」
「はい!」



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