百四十一

 市電通りの信号を渡り、桜通のイチョウ並木に入る。大名古屋ビルヂングから走りはじめる。高層ビルの空は高く、イチョウの緑が濃い。アレイを腰の高さに保つ。泥江町の信号まで緩急をつけながら走り、足踏みをして振り返る。新宿や池袋ほどビルが密集していないことがわかる。腕が少し疲れている。鍛えられている感じがする。
 道を一本脇の細い通りに替えて引き返す。並木がないせいで空がだだっ広く目に映る。駐車場とテナントビルが交互に並ぶ中に、ポツンと瓦屋根の家が一軒ある。××モータース。三和土の土間に工具が散乱しているきりで、自転車もオートバイも置いていない。もう二度と目にすることのないだろうモトショップの名を記憶しようとする。いつもそうやって私は人の営みの場所を通り過ぎる。そしてすぐに忘れる。
 さらに道筋を替えて細道に入る。マンション、喫茶店、食堂の古い家並。丸魚卸売市場と書かれた、崩れ落ちそうなモルタルの建物がある。反対側に背の低い瀟洒な新築ビルが建っている。進むと、××昆布。きちんとした店構えだ。卸売市場から独立して出した店だろう。丸中食品センター。奥行きのある通路を挟んだ屋内商店街。五十ほどの店舗の表札が入口の軒にずらりと並んでいる。並びに鮮魚関係の食堂が十軒ぐらい。食品センターの売り物が食材になっているようだ。食堂のあいだに青果店や喫茶店が混じる。柳橋食品ビルという長い建物がつづく。
 突き当たった広いT字路に《柳橋中央市場》の立派な看板。錦通に出る。右折して駅の方向へ引き返す。鉄アレイをしっかり振り、スピードを上げて走る。笹島から名鉄百貨店へ向かう見慣れた市電通りに出る。左に近鉄グランドホテル、名鉄百貨店、右に映画館ビル、大名古屋ビルヂング。青年像。戻ってきた。汗をビッショリかいている。早くジャージを脱いでシャワーを浴びたい。コンコースに入り大時計を見上げると、八時四十分だ。少し時間がかかった。アレイのせいだ。
「あれ? 神無月くん! また会えた」
 名鉄口の階段を降りていこうとしていた女が声をかけた。黄色いミニスカートに白いブラウスをはおった金原だった。
「おう!」
「何持ってるの」
「鉄アレイ。走りながら腕の鍛錬。こんなに早くどうしたの」
「九時から体育の授業。新聞に出とった家、見にいってもええ?」
「いいよ」
 二人並んで歩きだす。
「……最近よく神無月くんのこと考えるんよ。社会的にあり余る才能を持って生まれてきた神無月くんが、隣の人やものしか見なくなったのはいつなんだろうって」
「もの心つく前から」
「生まれてからずっと、隣よりちょっとだけ向こうの人たちを見んと、もっと遠い空を見上げたり、隣の人に唄ってあげたり、隣の女のスカートの中を覗いてきたりしたということやね。何度も見離されて悲しかったのに、泣きごとひとつ言わんと」
「見離されることを悲しいと思わなかったから、泣きごとも言わなかった」
「ふうん……そういうのを生まれながらの近眼言うんよ。特別な能力。ほんの少しの人だけが持ってる能力」
「能力と思わなかった」
「バカだからよ。神無月くんは自分で思うとおり賢くないから」
「…………」
「野球がじょうずにできたり、人よりたくさん本を読んだりしたくらいじゃ、賢くはなれんのよ。賢いというのは、社会の大勢の人に対する正しい応対を適切なときにできること。神無月くんにはできん」
「適応の努力はしたくない。バカのままでいい」
「すばらしい選択やよ。そういう生き方を選んだ神無月くんの周りに広がる世界はある意味大きいわ。ふつうの人は、そういう生き方を受け入れる度胸がないの。だから広そうな世界にあこがれて死にそうになっとるんよ。近づいてもこん死にそうな人に神無月くんがしてあげられることなんかあれせん。してやりたがりの神無月くんには、何もしてあげられんのっておもしろないやろ? でも、手の届かない世界の人に何かしてやっても報いがないわ。神無月くんには、してやり甲斐のある狭い世界の人たちが待っとる。神無月くんみたいな人間が生きていくにはちっちゃな世界で羽ばたくしかあれせんの。広い世界にしがみつかんのを才能と言うんよ。バカにしかできんことや」
「小夜子はどうやってバカのぼくを見つけ出したの?」
「私に才能があったか、ラッキーだったからやがね」
「ちゃんとした答えじゃないね」
「察しはええみたいやね。生理的なもんやろな」
「たぶん、たまたま見つけたバカがめずらしかったんだね。それで好きになった」
「きっかけはそんなとこやね。いまは命を懸けとる。……才能を遠慮せんと発揮してほしいと思うわ。それを使って、神無月くんを見離してきた〈社会〉を幸せにしてほしい」
「そんな人たちを幸せにするつもりはない。彼らに紛れこんで、意地悪をされないようにするだけだ。そのバロメーターは喚声の大きさだからすぐわかる」
「徹底しとるね」
 金原は北村席の門まで送ってきた。
「スポンサーの家だ」
「すごい家やねえ! 遊びにきにくいわ。このあいだ神無月くんの電話番号もらったけど、やっぱり神無月くんがうちに電話してや。神無月くんが逢いたなって、時間の都合がついたときだけでええよ。66の××××。……メイチカで撮った写真、部屋の机に飾っとるよ。神無月郷が恋人だ言っても、おかあさんもおねえさんも信用せんのよ。たまたま道で出会って記念写真でも撮ったんやろって。別にそれでもええけど。……じゃ、またね。電話待っとる」
 と言って踵を返そうとする。
「卒業したら、大学院いくの?」
 振り向きながら答える。
「うん。数学、好きやから」
「がんばれよ」 
「神無月くんもね。才能を出し渋ったらあかんよ。いつでも、どこでも応援しとるよ。さよなら」
「さよなら」
 重いアレイを振った。八時半。一時間のランニングになった。
 居間にカズちゃんたちの姿はなく、座敷の早番の女たちも出かけていた。トモヨさんがソテツといっしょに直人にゆっくり食事を与えている。主人夫婦とおトキさんと千佳子に混じって、ジャージ姿の菅野がきていた。主人が、
「ゆっくりだったですね。アレイ持って走るのはきついんじゃないかって心配しとったんですよ」
「そのとおりでした。でもメドは立ちました。これからもアレイを持って走ります」
 菅野が、
「神無月さんが出かけた二十分後にきたんですよ。残念」
「アイデアを早く試してみたかったんでね。いきは何ということもなく、あっという間に泥江町だったんで、鉄アレイをしっかり振りながら柳橋中央市場まで引き返したんだけど、さすがに腕がだるくて棒みたいになった」
「そりゃそうでしょ。バットだって一キロないんですから。やっぱり、アレイはやめたほうがいいですよ。走ることに意識がいかなくなります」
「そうだね、遠征先ではやめましょう。名古屋でときどきやります。ソテツ、簡単なめしにしてくれる。目玉焼きと納豆と味噌汁」
「はい。おトキさんも食事にしてください。チッキ、うまく送れました?」
「だいじょうぶ、山口さんがほとんど運んでくれたから。衣類と小物と化粧品ぐらいだったし」
 にやにやコーヒーを飲んでいる山口に、
「何時だ?」
「十一時八分のひかり。お父さんが一等車を取ってくれた。餞別までもらっちゃった」
 主人が、
「何言うとるんですか。ええもの聴かせてもらったことへのささやかな謝礼やがね。おトキ、向こうで困ったときはかならず連絡寄こすんやで」
「はい、何から何まですみません。ありがとうございます」
 私はおトキさんと並んで食事をした。しみじみする。
「名残惜しいですね。また東京でぜひ会いましょう。そして最後は、みんなでいっしょに暮らしましょう」
「はい、その日が待ち遠しいです。くれぐれもおからだに気をつけてがんばってくださいね。ときどき野球場に観にいきます。……神無月さんが山口さんを連れてきてくれなかったら、こんな幸せに巡り合えませんでした。心からお礼を言います。山口さんは、私がしっかり面倒を見させていただきます。安心してください」
「安心してるよ、おトキさんだもの。カズちゃんたちとはお別れしたの?」
「はい、きちんとしました。みなさん泣いてくださって。旦那さんと女将さんがいちばん泣いてくださって」
 女将が、
「あたりまえやがね。うちらが先代の跡を継いでから、三十年以上もおまえといっしょに暮らしてきたんやからな。ほだされてあたりまえやろ」
 賄いたちが台所からゾロゾロやってきて、おトキさんに膝を折った。
「お幸せに」
「ありがとう。世界一幸せよ」
「山口さん、一日でも早く出世して、いっしょに戻ってきてくださいね」
「二、三年のうちにはどうにかなると思う」
 主人が、
「おトキは若いころからきれいな女やったが、年とってもいつまでもきれいでなァ。それなのにぜんぜん男に目もくれんと、白髪が生えるまでめし炊いとった。それを山口さんがよう見つけてくれて。山口さん、おトキを末永くよろしくな」
「はい、喜びも悲しみも幾年月、でいきます」
 私は、
「あれは子育ての完成物語だぞ。二人の愛情を完成させないと」
「死ぬまでいっしょという意味だよ」
「それなら死ぬまで幾年月が楽しくなるね。忙しさにかまけないで、おトキさんをいたわり、かわいがってやれよ」
「わかってる。おまえを見習ってるから」
 ソテツが、
「山口さん、おトキさんはこれからどんどん年とっていきますよ。いやになって、捨てるなんてことないでしょうね」
 女将が、
「ソテツ、またつまらないこと言い出して。そんなこと、山口さんがいちばんよう知っとるわ。それでなくてもおトキは、何もかもなげうって山口さんの胸に飛びこもうとしとるんやないの。いっしょにおれるのは十年もないなんて考えてさびしゅうなっとったらあかんのよ。男と女は一年もいっしょに暮らせば、あとは腐れ縁や。何十年も同じように暮らせるんや。山口さんは神無月さんを見習っとる言うたやろ。神無月さんは、一日一日大切に女と付き合っとるんよ。東京の菊田さんゆう人は、うちら夫婦よりも年上の人やゆう話やないの。神無月さんはその人とも死ぬまで添い遂げるつもりだがね。ふつうの男と女がそんなこと考えられるか。からだの勝負は短くて、そのあとは心が待っとるなんてくだらんことを考えとらんのや。山口さんは、その神無月さんの大親友やで。おトキとあと十年やろうと三十年やろうと、死ぬまで、からだも心も現役でいっしょに暮らすわ。うちら夫婦も死ぬまで身も心も現役でいようって決めたんは神無月さんのおかげなんや。うちらに心もからだもあったことに気づいたからや。とにかく、山口さんはその神無月さんの大親友やで。生きとるうちに捨てるはずがあるかい」
 トモヨさんが、
「そうよ、ソテツちゃん、女は愛されれば心とからだは年とらないの。お義母さんも、おトキさんも、私たち女はみんなそう。老いて体力が尽きるまで愛してもらいたいと思うのが女なの。それに死ぬまで応えられる男がいたら奇人変人です。郷くんは奇人変人ですから、その親友の山口さんも奇人変人でしょう。奇人変人は信じられます。信じたら、自分も奇人変人にならなくてはならないの。おトキさんは奇人変人になりました。だから、からだも心もぜんぶ愛されるでしょう。捨てられるなんて平凡なことはぜったい起こりません」
 千佳子が手を挙げて、
「私も、ふつうでない人間になろうと決意したときが人生の転機でした。そしたら、ぜんぶ吹っ切れて、何にでも挑戦してみようって気になったんです。ふつうでなければ何だって挑戦できる。挑戦は時間を忘れさせます。私は時間を忘れられる人間になったの。先のことなんか考えたこともありません」
 山口がいつもの感涙を浮かべながら、
「……俺は神無月に心の冒険を教えてもらったんですよ。常軌を逸して生きるという冒険をね。それを行動に表すのも冒険家の義務だということをしっかり学んだ。冒険家というのは孤独なものだけれども、その孤独を支える別の冒険家がかならず現れることも神無月は教えてくれた。ほうぼうの場所で実践しながら教えてくれた。そしたらほんとにおトキさんが現れた。冒険の範囲には、恋愛も、芸術も、スポーツも……自殺さえもある。命を懸けて何かを証明するという意味のね。その一つひとつに一途にあこがれ、一途に取り組む。冒険家で、芸術家で、スポーツマンの神無月は、俺の人生のあらゆる面の師匠だし、救い主なんです。その男が巡り合わせてくれた女は、常軌を逸した冒険家に決まってる。あまりにも気に入ったんで、死ぬまで別れられないな」
 おトキさんが指で涙を拭った。私ももらい泣きした。
「師匠が泣いてどうするんだ。うん、柄にもなく泣かせる演説をしてると、門出の列車に乗り遅れる。さ、おトキさん、そろそろ仕度しようか」
「はい。ソテツちゃん、ありがとう。つまらないこと言ってなんて女将さんに叱られたけど、ソテツちゃんが言わなかったら、女将さんもトモヨさんもこんなふうに一生懸命しゃべってくれなかったし、千佳子さんも山口さんもしゃべってくれなかったと思う。ありがとうね。神無月さん、私は山口さんを心からお慕いしてます。私を信頼してくださいね。あなたは私たちみんなの恩人です。私も山口さんも、たとえしばらくのあいだでもあなたに会えなくなるのがさびしいです」
 菅野がまぶたを掌でこすり、
「その分、私らが神無月さんを独り占めして贅沢させてもらいますよ。早く二人で帰ってきてください」
 山口は、
「見送り、けっこうです。コンコースやホームをおトキさんとぶらぶら歩きたいんで。どうせ何年もしないで戻ってくるんです。大げさな別れ方はよしにしましょう」
 二人は着替えに立った。山口は濃紺の背広、おトキさんも濃紺のツーピースだった。パーマをかけた髪がすっきりと黒かった。主人が、
「山口さんはええ男や! おトキ、おまえも負けとらん。浮気したらあかんぞ」
「いやですよ、旦那さん、死んでもそんなことしません」
 門前に一家が勢揃いした。山口とおトキさんは直人の頬っぺたにキスをして小さな手を握った。全員と握手した。みんなまた新しい涙を流した。二人の背中が辻を曲がって消えるまで手を振りつづけた。


         百四十二

 昼めしを終えると、すぐに雅江の家に電話した。いつものように母親が出て、ひどく喜んだ。私に取り立てて喜びはなかったし、喜びに応える言葉もなかった。
「ゆっくりして、あしたの夕方に帰ります」
 告げたのは予定だけだった。クラウンで出る。菅野が、
「雅江さんにはだいぶ逢ってないんでしょう?」
「去年の春、東奥日報の記者たちがきたときにひさしぶりに逢って、八月に彼女から東京に電話があり、春に会う約束をして……今年のキャンプ前に半年ぶりに逢った。その前の年に、ドッキリカメラを気取った法子に、ノラで引き合わされてる。雅江の家には何度か菅野さんに車を飛ばしてもらってる」
「ええ、何度かいってます。一回一回楽しかったなあ。今回も楽しいけど」
「逢瀬の間隔が長くて、さびしい思いをさせてます」
 反省があるだけで、それ以上のものがない。雅江という人間に対する感激はある……愛情は? 一夜でそれが芽生えればいいと願う。
「……神無月さんは店の女や賄いの女たちにあまり、というか、特定の女以外まったく声をかけませんよね。や、責めてるんじゃなく、どんな気持ちなのかなあと思って」
「無関心というのじゃないけど、親しいという感じもしない。大気で隔たってる感じがする。眺める星座みたいなものかな。彼女たちの仕事の性質が神秘的だからでしょうね。彼女たちは地上の人に平等に光を与える。自分を主張しない神聖な光。そんな独特の光を発する星が、内部でどれほどいろいろな精神活動をしているか、そう考えるだけで恐ろしくなる。彼女たちは自分を理解しない人びとに秘密を明かさずに安全に暮らし、自由で、静かだ。娼婦は地上の光明ですね。それなのに彼女たちを誤解して、身勝手な説教を垂れてしまった。……きのうの夜たまたまだけど、安全と自由を捨てて近づいてきたキッコちゃんをぼくは喜んで抱いた。手のひらに受け取るみたいに。それだけがせめてもの救いです」
「そうですか、キッコを。……よかった。あいつはいい子です」
「夜中に蒲団にもぐりこんできました」
「救ったのは神無月さんですよ。だれもそんな、あえて挑戦するようなことはやりません。誇りに思います。神無月さんのそういう生き方を」
「ありがとう。でも、柔らかい綿で首を絞めてもらうような生き方は、腰抜けのやることです。柔らかさを見くびってるんですよ。いつか本気で首を絞められたら、死ぬことになる。それを願ってるところがあるんですけどね」
「神無月さんは勇敢な挑戦者だけど、挑戦することが目的じゃありません。受けて立って、救うことが目的です。救われて、締め殺すやつなんかいないでしょう」
 耳鳴り。
 大瀬子橋を渡り、三カ月ぶりの楠木を眺める。
「あしたは雅江の家から法子のほうへ回りますから、気兼ねなく。一泊して、七日じゅうに帰ります」
「了解です。何日かゆっくりしたあと、サイン会、そして水原監督ですね」
「はい、またいろいろご迷惑をおかけすると思います」
「かけてください。私、神無月さんの右腕をよろこんでやってるんです。うれしいんです」
 菅野は雅江の家の前で私を降ろし、手をひらひら振った。私はワイシャツの腹をしごいてベルトを締め直し、玄関の戸を引いた。明るく呼びかける。満面の笑顔で、雅江が母親といっしょに出てきた。
「郷さん! 待っとったよ」
「まあま、ようこそ。さ、上がって」
 廊下をいき、居間の鴨居に頭をぶつけまいとして本能的に身を屈めた。鴨居は頭をこするほど低かった。すでに用意した徳利と猪口を置いた角テーブルの前に父親があぐらをかき、大きく笑っていた。
「大きくなりましたね。たった三カ月のあいだに」
「少し伸びたようです。関節が発達したのかもしれません」
「泊まっていけるんでしょう?」
 早々と尋ねる。
「はい、あしたの夕方帰ります」
「そうですか。ようやくゆっくりしてもらえますね」
「はい」
「あしたは鰻を食いにいきますよ。ヒツマブシではない正統な鰻を食わせる店です。私もひさしぶりに休みを取りました」
「ぼくのためにわざわざすみません。ありがとうございます。相変わらずの食通ですね。雅江から聞いてます」
「いや、食通というより、食い道楽です」
 母娘が台所を往復して、昼下がりの食卓が酒のつまみでにぎやかになる。キンキの煮魚、厚切りチャーシュー、ベーコンとシイタケ炒め。刺身の盛り合わせが出てくると、
「ま、一杯」
 父親が徳利を差し出す。受けて、差し返す。彼は醤油にワサビを溶き、刺身を浸してつまむ。
「ドラゴンズはいかがですか。長居できそうですか」
 変わった訊き方をする。雅江が、
「なんやの、おとうさん、それ」
「いや、どこにいっても神無月さんの理解者はいないと思ってね」
「快適です。このあいだも言ったとおり、フロントはじめ、水原監督以下有力選手たちが気に入ってくれてます」
「天才を気に入らない人はいないでしょう。ただ、ここまで異常な能力を発揮すると、やっかみはきついでしょうね」
「それもありません。みんなぼくと二人三脚の心構えでいます。きっとぼくは適所を得たんですね。とにかく、真剣に、かつ、ゆったり構えるつもりです」
 雅江は私の手をとり、いじり回す。
「硬い手。人生が変わってしまった証拠やね」
「変わってない。日常の時間配分が変わっただけで、学校の授業やクラブ活動の延長にしか感じない。たしかに社会人になったのに、何の責任も与えられない。好きなように遊ばせてもらってる」
 父親が、
「時間配分が変わったということは、時間がままならなくなったということですね。それが給料取り、つまり社会人になったということなんですよ。無責任な遊びと感じて楽しんでいるのは、大いなる才能を存分に満喫している神無月さんの天真爛漫さのなせる業です。雅江が言いたいのは、有名人という特殊階級のことです。サラリーマンのように定年まで働くことができ、年金までもらえるなんて幸運は望めないでしょうが、特殊階級の実入りはそれを超えて余りあるものがあります。そのことを人生が変わったと言ったんです。たしか神無月さんは、野球をやめたら皿洗いのような簡便な職に就きたいと言いましたよね。もうそんなことを言える身分ではないと雅江は言いたいんです。全国的に有名になったことで、チームという個別のものに対してより、国民全体に対して責任を負うことになった。……雅江は神無月さんの天真爛漫さに甘えていられないと決意しました。神無月さんの声価に一点の傷もつかないようにするために、永遠に愛人でいることに決めたんです。神無月さんに愛される幸せを噛みしめることだけを人生の目標に決めたんです」
 雅江が自然な微笑を浮かべながら、
「逢いにきてくれるのは、年にいっぺん、二年にいっぺんでええんよ。身を引かなあかんときは身を引きます。……それでも郷さんはときどき、きっときてくれます。私はそれだけでええんです」
 父親は自分の盃に酒をさし、私にもさす。人生物語を愛する人たち。
「先々月から東奥日報を取り寄せて読んでるんです。特集記事のアタマに、かならず神無月さんの短い詩が載ってます。揺さぶられます」
 上品な縁なしの老眼鏡をかけた母親が、
「ノートに書きつけとるんですよ」
 雅江は、
「私もノートに書いて暗記しとる。果ても知れぬ蒼(あお)空は不思議だ、その空の彼方に浮かぶ白い雲は、もっと不思議だ、雲を眺める視界に紛れこんでくる蠅は、さらにさらに不思議だ、戦慄する葉、地上に響く軽快の人音……」
 父親は雅江と母親のグラスにビールをついでやる。私は彼に徳利を傾ける。さし返される。女二人は大皿の料理を小皿に盛り分けて、男二人の前に置く。自分たちは茶を飲む。
「いずれ野球をしなくなる日がきます。短ければ、水原監督が引退するまで、長くても十年くらいでしょう。世間的な身分はなくなります。そのときぼくは、いつかここで言ったような、頭を使わない雑役をしようという計画はもう考えていません。単純労働よりは充実した気持ちで長く生きられるように、本を読み、ものを書きます。評価を受けるためじゃなく、愛する人びとに殉死するために、愛情を持って眺められる身辺のことしか書きません。愛していない大勢の人びとに伝える大上段な思想は、ぼくのどこを探してもない。だから人に見せようと意図した作品は書きません。ぼくが死んだらその作品を彼らがどう扱おうとかまいませんが、生きてるうちは引き出しにしまっておきます。もちろん興味ある人たちが求めれば見てもらおうと思います。彼らは世間評価をするつもりはありませんから。そういうふうに生きるぼくと付き合って、満足できますか」
 雅江が、
「もちろん! そっちのほうがずっとうれしい」
「今度こそ社会から断絶されるよ」
「郷さんの求めることは、私も心を一つにします。生活やなく人生のパートナーやから。どんなときもすべて共有します。考えも、生き方も」
「……すばらしいですな。いつものことですが、神無月さんの言葉に触発されて、私たちも自分の器以上の言葉をしゃべることができる。神無月さんの周りの人間はみんなそうじゃないかな。そうやってからだの血が澄みわたっていく。その喜びに比べたら、社会もくそもない。どんなに青くさいと言われても、その喜びに叶うものはありませんよ。……神無月さんの開幕戦、広島球場で観たいんですけど、私も娘も土日出勤が多くて、そうもいきません。むかし、広島出張のとき、市民球場に巨人戦を観にいったことがありました。あそこの野次の強烈さが小気味よくてたまらなかった」
「臨場感はあきらめて、テレビでがまんするしかないですね。人生、臨場感を満足させることはめったにありません」
 いずれ、だれもが臨場感の興奮を捨てて、冷静な結果だけを求める世の中になるだろう。潔い例外としてそうなるのではなく、喜ばしい習慣として固着するだろう。
「そうですね。ま、夏場の中日球場のナイター待ちです。で、どうですか、神無月さんの目から見たプロ野球界は」
「プロに入って初めて、中一ぐらいから自分がとんと野球を観なくなっていたという事実を知りました。愕然としました。小六のころまでに知っていた選手を捜してみても、ほとんどが三十代になっていて、あとは名前も顔も知らない選手ばかりなんです」
 父親は感慨深げに、私のさした盃を含み、
「十年前の有力選手がまだ活躍していること自体めずらしくて、ほとんど引退したり、引退間近だったりで、ガラッと様変わりしてるでしょう。でも、やっぱり数少ない古参の選手がまだメインでがんばってるんですよ」
「バッターは長嶋、ピッチャーは尾崎。そこで知識が止まってます。いまなおバリバリのスターは、長嶋、王、江藤、野村。消えかけているスターは稲尾、山内、張本、榎本、葛城。消えてしまったスターは、森、桑田、藤本、権藤。……消えないと信じているスターは、尾崎、杉浦」
「長嶋はいまも、ナンバーワンですよ。杉浦と尾崎は終わりました」
「オープン戦で対戦したときは、二人ともすばらしい球を投げていましたが……」
「どちらにも一発ブチかましましたね。テレビのニュースで観ました。打たれたときの杉浦と尾崎の笑顔がよかった。神無月さんを祝福する笑顔でした」
 独酌になっている。私も独酌する。ゆっくりと時間がめぐる。女二人が穏やかな表情で男二人を見比べている。


         百四十三
 
 私は盃を含み、
「野球は、速球とホームラン。それがオールで、あとはナッシングです。小技なんか観ても、おもしろくもなんともありません」
「手厳しいですな。観客の中には速球とホームランが嫌いな人もいるんですよ」
「ほんとですか?」
「ええ、いずれ、ランナーがいないときの内野安打にさえ、拍手するような時代がくるような気がします。つまりプロ野球の高校野球化です。その兆しはあるでしょう?」
「巨人野球―ですか。ぼくのホームランを喜ばない人もいるということですね」
「はい、プロ野球にかぎらずすべての分野で、ドングリ化現象が進んでいます。……会社でも、仕事ができる人間が嫌われる」
 ふと堤の愚痴を思い出した。彼はそれに耐え切れず、大学にきた。自分が〈ふつう〉と見なされる集団、自分を脅威としない集団に紛れこんで苛立ち、別のドングリの群れに呑みこまれて安らぐために―。無能者の中で有能でいたり、有能者の中で無能でいたりすることは不安の素にちがいない。仕方のないことだ。人間は平等に作られていない。それが迫害のもとになる。迫害は甘んじて受けなければならない。父親もゆっくり盃を含み、
「集団の中で暮らすときは、少しでも中心から遠い窓際にいるのがいちばん安全なのかもしれません。ポカポカ暖かい陽射しの中でのんびりしていられます。有能な人は窓際から引き剥がされて、薄暗い仕事場や実験室へ駆り出されます。さもなければ秩序紊乱の科で排斥されます。でも人間と生まれた以上、そういうふうに負荷を担って危うく生きるべきです」
 しかしそれは人間の集団を情緒的に捉えたときの危うさにすぎない。太古から人間全体を支配してきたのは、情緒と関係しない権力と富のシステムだ。単純な事実だが曲げようがない。だれが全体を動かしていてもそうなる。その二つをめぐって人は分断されて争い、システムの継続を容易にしていく。みごとだ。そのことにいつでも人は気づくことができるけれども、いつでも気づいたときには遅すぎる。人はシステムの一員である以上、そのシステムに同調して安全に生きるか、反撥して危うく生きるしかない。反撥を決意した人間は、絶望して自らを抹消しないかぎり、危うく生きることを宿命づけられている。
「お父さん、あなたは有能だからそう思えるんです。実際の話、有能無能に関わらず引退間近の人間が窓際に置かれ、そのほかの者は各所に散りばめられて駆り出されます。しかしどうのこうの言っても、駆り出されるメンバーのメインは、飛び抜けて仕事ができる有能な人間です。ただ均一化の顕著ないまどきの風潮では、彼らは尊敬されずに嫌われるんですよ。生き方としては、危うくつらいものです」
「そうですね。そんなわけで、ドラゴンズでの神無月さんの扱いを心配したわけです」
「お父さんも、苦労しているようですね」
「いいえ、便利屋として駆り出されてます。つまり、尊敬されても嫌われてもいません。そういう仕事の快適さに身をまかせています」
「理想的ですね」
 雅江が美しく笑って、
「便利屋だなんて、謙遜しすぎ。おとうさんて考え方が郷さんそっくりやわ。だから気が合うんやね」
 女房が、
「そうそう、あなたは自分で思うより何倍も有能で、気持ちの大きい人ですよ」
 ハハハ、と父親は笑い、
「いいですか、神無月さん、こういうふうに褒め倒されるんで、自分を貶めるのは考えものなんですよ。つくづく、本心を言うということには不便がつきまといますなあ。とにかく、神無月さん、すばらしいものに拍手をし、つまらないものに悪口を浴びせて生きていきましょうよ」
 この男は私を理解している。私とちがうのは、自分を褒められるために謙遜を振舞うことだ。
「賛成です。精力があるうちは、そうしましょう」
「とっとっと、精力をなくさないでくださいよ。あなたを信頼する人たちのためにも」
 雅江がテーブルの下の私の手を握る。抹消されるのは怖くない。じつは案外大勢の人間がそう思っている。怖いのは情緒を抱えこんで生きていくことだ。
「飲みましょう、お父さん」
「おとうさん、きょうの郷さんは、私のものよ。あまり飲ませちゃだめ」
 情緒の絡まないセックスなどお安い御用だ。
「お、そうだった。よし、めしにするか」
 母親が箸を置いて、飯櫃からめしを盛る。雅江は台所へ味噌汁を温めにいった。
「神無月さん、夕食のあとで、きょうも一曲お頼みします。ずっと楽しみにしていたんです。どんな歌でもけっこうです。あの声を聴くと、気持ちよく床に入れます」
「わかりました。まだ夕方にもなりませんよ」
「それまで寝ます。神無月さんは酔い覚ましに、雅江と散歩でもしていらっしゃい」
 父親が寝室に退がると、私は母娘といっしょに後片づけの台所に立った。率先して皿を洗う。雅江と並んでスポンジを使うのが楽しい。母親は皿鉢を拭い、食器棚にしまう。雅江のからだはもうほとんど傾かない。私の視線に気づき、あの日のようにスカートをまくって太腿を見せる。筋肉が張り、ほとんどふつうの太さになっている。
「立派になったね。固く実が詰まってる感じだ」
「為せば成る。もう裸になっても恥ずかしないわ」
 母親が、
「あの、神無月さん」
「はい」
「無理に避妊をしないでくださいね。成り行きにまかせてください」
「わかりました」
 キッチンテーブルに三人座って和んだ話をする。母親が、
「神無月さん、堀川のちゃんとした名前、知っとります?」
「いえ、知りません」
「山崎川って言うんですよ。大瀬子橋の上流も下流も両岸がぜんぶ桜の名所です」
 雅江が、
「白鳥橋の一つ北の石川橋のあたりから、瑞穂区を通って名古屋港までずっと」
「桜は、あした白鳥公園に見にいきましょう。あそこも名所ですから」
 雅江は切れ長の煙るような目で私を見つめ、
「記念碑まで建てられる人なのに、ポワッと座っとる。小学校のころからちっとも変わらん。……西高にも青森高校にも、郷さんの顕彰碑が建ったのに、宮中は建てん。名誉に思わんのかな」
「神無月さんを追い出したから、後ろめたいのよ。うちの生徒だったって胸を張って主張することはできないわね。啄木を追い出した盛岡一高も記念碑を建ててないわ」
「ふうん……千年小学校だって、三階校舎前の花壇の脇に立て札を立てとるんよ。神無月郷は小学四年生のときにこの校舎を越えるホームランを打ったって。推定百十メートルって書いてあった。いまは百五、六十メートルのホームランをふつうに打つんでしょう?」
 私は首を振り、
「そんな距離はなかなか打てないよ。百三十メートルから四十メートルが平均だね。あのころはDSボールという小学生用の小さいボールだったし、打ったバットが大人用のものだったからね。じゃ、その千年小学校へいってみようか」
「おとうさんは六時前ぐらいに起きると思うから、ゆっくり散歩してらっしゃい」
 私は胸ポケットを探り、
「眼鏡をかけてく。せっかくの散歩をじゃまされたくない」
 玄関を出て、丸一鋼管の工場を右手に見ながら、平畑に向かってだらだら坂を下りはじめる。雅江はサンダルでゆっくり歩く。ナンジャモンジャの並木。青空に雲がある。
「小四の秋から中三の秋まで、五年間歩き慣れた道だ。でも、このあたりは雅江の家しか知らない」
 坂下の辻にくる。右手を見やる。
「この道を帰る鬼頭倫子の後ろ姿を偶然見たのを覚えてる。ランドセル背負って、外股の足でへこへこ歩いてた」
「鬼頭さんのことを思い出すと、さびしくなるね。どうしても青木くんの見舞いを思い出しちゃう」
 左手を見る。
「米鍵……米屋か。憶えてないなあ」
 どちらにも曲がらずに歩き出す。赤く錆びたトタン塀の家がつづく。屋根は板のような瓦で葺いてある。
「一階建ての民家が多い。このあたりに布目って女の子の家がなかったかな」
「布目美鈴。その角の家」
「いた、というだけのやつだね。この分かれ道を入っていったところに、豊島って男がいたな」
「憶えてないわ」
「そいつも、いただけのやつだよ。一度そいつの家にいったけど、なぜいったのかも憶えてない。……康男の子分じゃなかったかな。いやちがうな」
 二階家が多くなってきた。大瀬子橋からここまで、商店はあの米屋一軒きりだ。商店のない通り。
「うん? 千年一丁目のバス停か。十年変わらずだね。ここを右へ曲がれば熱田高校」
「わが母校。いま歩いとる道、何とゆう道かわかる?」
「宮の渡しが近いから、ひょっとして東海道?」
「当たり!」
「へえ! 知らなかった。あ……クマさんの社宅跡がついに駐車場になったか。さびしいね。クマさんにはいつかかならず会うつもりだ」
 たこ焼き、すずき。むかしは今川焼屋だった。
「杉山薬局よ。……啓子さんが死んでもう三年。お人形さんみたいにきれいな顔で、神無月くん、神無月くんていつも言っとった。悲しい」
 思わず頬がふるえた。どうにか涙を押しとどめる。
 西松建設の事務所跡が近づいてくる。民家に商店がポツポツ雑じりはじめる。クリーニング屋、ペンキ屋、スナック、また米屋、クマさんがよく連れてきてくれた喫茶店が見当たらない。名前を忘れた。オレンジとかメロンとか、果物の名前でなかったか。これまでのセンチメンタルジャーニーではいつも見落としていたので、とっくのむかしになくなっていたのかもしれない。千年二丁目のバス停。寺田康男、偽造定期券、シロ。濃密すぎる思い出。事務所跡を目前に、駄菓子屋を左折する。
「この場所に飯場があって、浄水場の現場から移転して半年ぐらい暮らしてた時期があった。……忘れていた道だ。そこを右に曲がれば空地があって、錦律子の家がある」
 なぜか染みついている記憶だ。
「錦さん……憶えてる」
 右折すると、空地はなく、民家が群がり生えていた。錦という表札はなかった。
「空地でメンコやビー玉をしていると、キチガイのカッちゃんという歯の尖ったオカッパのおばさんがやってきて、竹棒を振り回したものだ。このあたりのどこかの家で、ひっそり年をとってるんだろうなあ」
 雅江がおかしそうに笑った。右折して新幹線のガード沿いを東海道に戻り、堀酒店に出る。ここの息子のエピソードは割愛した。目の前が西松建設の事務所跡だった。
「ようお母さんや和子さんに会いにきたわ。さっき言いそびれたけど、お母さんの手の形と郷さんの手の形がそっくりでドキッとした。二人とも指が長いの」
 長テーブルに皿を並べたり、顔も挙げずに高島易断のページを繰ったりする母の皺ばんだ手を浮かべた。私が母に似ているのは、せいぜいその程度のものだ。自分が母の子だと認識する日は永遠にやってこない。
「いまおふくろは中村区の岩塚の飛島建設寮というところでめし炊きをしてる。カズちゃんは駅西の北村席にいる」
「新聞に載っとった」
「カズちゃんはその近所でアイリスという喫茶店をやってる」
 雅江は何も言わない。
「おふくろがいろいろありがとう。連絡を寄こした。きっと雅江には礼状も出してないんだろう」
 表情を窺うと、母に物品を送っていることを隠す様子でもなさそうだ。左目の上を、新幹線の高架が一直線に貫いている。
「そうしたい気持ちになっただけやが」
「つまらない関係に引きずりこむなと書いてあったけど、こうなってしまってる」
「きょう、もっと深い関係になるよ。お母さんは女の幸せがわかっとらん人やから、引きずりこまれた女が幸せな生活を送っとるゆうことを知らん。小学校の校庭でからだが痺れるほどの人と出会ったり、その人と抱き合ったり、遠く離れて身をよじるほどの恋しさに苦しんだりという経験をしたことがない人。不自由さを価値だと思っとる人」
「雅江はそういう人にもやさしくしてやりたくなるんだね。節子にも……」
「もらいものの命やから」
 浄水場を通ってキンタマ兄弟の家のほうへ歩く。小さな神社がある。
「こんな神社あったかなあ」
「むかしからあったよ。千年八幡神社」
「ふうん、この浄水場建設の飯場に入ったのが昭和三十四年の秋だ。十歳。しっかりもの心ついてた。カズちゃんや、雅江や、リサちゃんや、軟式野球に会った年。あ、キンタマ兄弟の家がなくなってる」
 兄弟の話をする。
「つらすぎるね」
 引き返し、千年公園へ回る。ここまで知り合いに遇わない。人には何人か遇ったが、挨拶を交わしたわけではない。知り合うことの奇跡を感じる。
「これといった思い出もないのに、一生忘れない公園だ。このバカでかい三棟の倉庫はまったく同じ形で残ってる。これから何百年もこのままなんじゃないか」
「ダブダブ倉庫。そういうちゃんとした名前なんよ。おおむかしからある貸し倉庫。着いたよ、千年小学校。郷さんがいろいろなことに出会った場所」
 裏門の前に立つ。


         百四十四 

 校庭に何人かブルマー姿の子供たちがいる。気だるい静けさだ。手をつないでいる雅江のことを忘れて、何ごとか考えこむ。やがて幼女たちの楽しげな声が聞こえ、ハッとわれに返る。
「門がしっかり閉まってるね。転校の日、おふくろとこの門から入った。真っ白い校庭だった」
「消毒の粉……」
 かつて穏やかな時間があった。質素でも満たされている生活の好ましい退屈にあふれた時間だ。こういう子供たちを羨ましいと思う心は、その人生を失ってしまった者に特有のものにちがいない。こんなふうに私がどんな心持ちを発見しようと、あの子供たちの単純で強靭な命は、いまの私には得られないものだ。彼らとはむかしから別の人生の岸にいることを激しく感じる。彼らはこれからも穏やかに生きつづける。彼らとのあいだにむかしから深い川がながれていた。彼らと私は決して重なり合うことはできない。
「あれ? バックネットが前にせり出して、立派になってる。土俵は藤棚に変身か。職員室のあった校舎は姿を消しちゃった」
「ほんとやね。ガラッと変わってまった。ほら、あそこに白い標札が立っとるでしょ」
「うん、記念碑だね。そんなの見たっておろしろくもない。三階建て木造校舎が鉄筋コンクリートになってるよ。おまけにむかしの校舎より一階分低い感じだ。レフトの鉄筋は二階建てだったのが四階建てになってる。バックネットから六十メートルもない」
「校庭がめちゃんこ狭なったわ」
「これじゃ野球はできない」
「このバックネット、きっとソフトボールやね。伊勢湾台風は九月の末やった。あのころの校舎は、北西にL字になっとったんよ。南は遊具なんかのある空地で、六年生のときに鉄筋二階建てができたんやったね。私たちが卒業してから四階建てになった。それからどんどん木造校舎が取り壊されて、鉄筋に建て替えられてまった。だから郷さんが西校舎を三階建てと言うのは勘ちがいで、L字校舎ぜんぶ二階建てやったの。ただ建物がものすごく高くて、三階に見えたんやと思う。どっちにしても、あの校舎には大人でもボールが届かんわ。屋根越えるなんてのは、手品や」
「これじゃ、なつかしみようがない。木が石になっていくんだから」
「伊勢湾台風のとき校舎がだいぶ壊れて、この校庭も六十センチの水に浸かったんよ。十月になっても職員室の廊下の奥に、まだ百人くらいの人たちが避難しとったんやから」
「そんなときに転校してきたのか―」
 千年公園に別れを告げ、新幹線の高架のほうへ歩きだす。高架の下は相変わらず資材置き場だ。自家用車やトラック、バスなども停まっている。家々が瀟洒な住宅に変わっている。国鉄所有地の空地が半町も貫いている。
「市電通りへ出てみよう」
 空地に沿って国道に出る。さっそく市電に出会う。安らぐ。岩間医院は、ひときわ古い民家になっていた。
「病院を畳んだんだね」
「お父さんの代で終わったみたい」
 山田三樹夫を思い出した。あの才能豊かな男が、心配や未練のようなものをどっさり抱えたまま昇天したのだと考えると、耐えがたかった。そうでないと思いたかった。しかし彼のような立派な完結体の人間に、何の保証が必要だったろう。ただ静かにあの部屋に横たわっていれば、死の瞬間まで人が放っておかない人間だった。でもそういうことではない。彼の頭の中には、勉強とか、進学とか、出世とか、そんな人生の未来図がいっぱい詰まっていたにちがいないのだ。そんなものは何ほどのものでもない、心の埋め草にすぎないと思っていたなどと、高所に祀り上げることはしたくない。しかし、頭の中はいざ知らず、彼の行動は美そのものだった。
 彼は死にたがりには命の光は降り注がないと言った。そして、自分は死にたがりでないが、余儀なく死ななければならないと言った。私にとって、山田三樹夫以上の真摯な〈思想家〉はこれまで一人もいなかった。彼は苦悩と倦怠だけを語ったから。あの人格と頭脳がいまどこかで生きつづけているなら、飛んでいって白い手を握り締め、心ゆくまで話し合いたい。
「……岩間くんて、なんか好かん子やったね」
 岩間の比較的鮮明な面ざしを二つ、三つ呼び起こし、それほど不快ではない心地になった。
「飯場に一回しかきたことがなかったけど、ぼくのおふくろは気に入ってた。いまどうしてるんだろう」
「孫ちゃんと同じ立命館にいったみたい。理工学部って聞いた。孫ちゃんは法学部」
 石田孫一郎。切手野郎。だれかと目が合うと、視線を逸らすやつ。
「やっぱり合格大学だけでしか記憶されない人間になっちゃったか。一生学歴を背負って生きる正しき人たちだ。……この道をいくと守随くんの家だ。遠慮しとこう。あのお父さんお母さんに会うのはつらい」
「守随くん本人はどこかをさまよっとって、家におらんしね」
「世間人に分類され、記憶されるのを拒否した男だ。怠惰でなければ際立った人生を送ったろうに」
 彼の家からしばらく何曲がりか歩くと、鉄筋の三階建のマンションが見えた。
「あ、あれ、まちがいなく今朝文のアパート!」
 一辻向こうを指差し、早足でいく。
「わあ、派手やね、このマンション」
 木造の長屋ふうだった二階建てアパートがあまりにもモダンな建物に変わっていて、なつかしさも何も湧いてこない。日本人は変化を嫌う国民だと、高校の英語の授業で習ったけれども、いまではそんなことは嘘っぱちで、何もかも新しくしなければ気がすまない国民だと知っている。二人でぼんやりマンションを見上げ、見下ろしてから、歩き出す。
「今朝文って、脚が悪かった子? 黒人の……」
「そう。藤本今朝文。ぼくの左肘のカルシューム沈着のきっかけを作ったやつ。きっかけかどうかは推測にすぎないけどね。彼にやられて右投げに替えてなかったら、プロ野球選手になれなかった」
「ものは言いようやね。あの子の歩き方、私によう似とって、いややった。筋力訓練をしとるときも、しょっちゅう思い出したわ」
 道の家々を眺めながら、
「何もかも新しくなっていく。新しさに触れるとガッカリしてしまうのはなぜだろうね」
「懐古趣味ばかりやないと思うよ。実際、新しいもの美しくないから。効率とか耐久性とか考えとるんやろうけど、和風で古めかしい形にデザインすることもできるはずや」
 雅江は私の左手をとって肘のあたりをさすり、
「肘の話、小五か小六のころ寺田くんから聞いてびっくりした。バットも握れんくらいやって……。手術したのは中一の夏やったね。……見舞いかんかってごめんね。杉山さんもいつか謝りたいって言ってた」
「病院なんか辛気くさくて、だれだって覗きたいところじゃないよ」
「そういう理由でいかんかったんやないの。手術するくらいなら、もう野球ができんようになるかもしれん思って……。見舞いにいって、どういう言葉をかけたらええのかわからんかった。郷さんは野球に命懸けとったから、つまらん親切ごかしは言ったら、かえって傷つけてまうし。……右投げに替えたなんて、すごすぎるわ。つくづく、郷さんはつらい人生送ってきたんやなあって思う。いちばん才能のある野球でさえ、まともにやらせてもらえんかったわけやから」
 雅江に言われて、自分がだれかにじゃまされずに、何かをまともにやりおおせたことがあっただろうかとあらためて考えてみた。すると、じゃまされなかったことなど一度もないことに気づいた。ただ、じゃまされて不幸の奔流へ投げ出されたあとで、反動のような幸運の波に揺り戻された。流路が一定の人生などあるはずがない。一定でないことを私はいつも覚悟していた。覚悟の先にいつも幸運が待っていた。
 ―破傷風を生き延びたんだから、あとは付け足しの命じゃねえか。
 クマさんの言葉が蘇ってくる。付け足しの命があってよかった。まともにやらせてもらえないどころか、まともすぎるほどやらせてもらえた儲けものの人生だったと思える。
「堰き止められたり、流れを変えられたりの連続だったけれども、そのあとのバックアップが並じゃなかった。うまくいきすぎた人生だ。やっぱりマグレがぼくの運命だね」
「郷さん……」
 路の上で唇を差し出したので、チョンとキスをした。私は警告をする。
「気をつけてね。だれが見てるかわからない。ぼくの正体は知れなくても、雅江は知り合いが多い」
「うん。……さっきから青木くんの家を捜しとるんやけど、見つからん。みんな似た家やから、表札見て歩かんと無理やわ。何度かいった家なのに」
「ぼくも浅野の家を見つけられなかった。会いたくもない人の家をつい探してしまう気持ちって、何なんだろうね」
「なつかしさって、人の心を広くするんだと思う」
 欠配無給の新聞配達所は駐車場になり、桑原の家は庭のないモルタルの家に新築されていた。表札がないので、いまも彼の家なのかどうかわからなかった。
「それにしても、不思議なくらいだれにも遇わんね」
「うん、知り合いどころか、人そのものにもめったに遇わない。千年小学校の校庭で何人か生徒を見たきり、ここまで老人二、三人しか遇ってない。車は通るのに、人がいない。でも、繁華でない通りって、どこもそんなもんだよ」
「ラッキーやね。ファンに遇ったらたいへんやもの」
「だれかに誘われないかぎり、ファンは出てこない。もともと消極的な人たちだから」
 高橋弓子の家も見つからなかった。
「ひどい記憶力だ。浅野先生の家と同じだ」
「いつか言ったと思うけど、郷さんは地面ばっか見て歩いとったからやよ」
「まともに絶望してた時期だったからね」
「絶望で頭が重くなって、下ばっか向いとったん?」
「そうかもしれない」
「……冗談やよ。郷さんが顔を上げて歩いとると、めずらしいものを見る感じがしてうれしなるわ。結局、新築の家が建てこみすぎて、だれの家も見つからんようになったんやね」
 もう一度市電通りに出て、揺れる市電の姿を見つめながら千年の交差点のほうへ歩く。
「この広い交差点は変わらないなあ。真っすぐいけば労災病院か。右へいけば東海橋。康男のアパートだ。もうあのアパートは駐車場に変わってしまった。あ、むかし歯医者だった建物が、自転車屋とほねつぎになってる。この前の道で康男がラーメンをおごってくれた。小四から中三まで百回もかよった道だ」
 雅江も淡く潤んだ目を一直線の道路に投げる。
「郷さんのいちばんすごいところ。野球でも、勉強でも、文章でもない、ぜったい追いつけんすばらしいところ。……忘れんこと」
 熱田高校に向かって引き返す。
「人は好きになったり、嫌いになったりして、どうしたいんだろうね。このごろではもうさっぱりわからなくなった。でも、ぼくたちはそうやって生きつづけてるんだね」
「ほうやね。そう考えながら、郷さんみたいに颯爽としていられる人が最高やね」
 高校の生垣に沿って曲がる。道の右手、かつてのっぺり畑だった土地に住宅が密集していた。あの電信柱は健在だった。雅江にも話しておきたくなった。
「中一かな、中二かな、どうしても女のあそこが見たくなって、夜、この電信柱に隠れて女が通りかかるのを待った」
 雅江はキョトンとして立ち止まり、
「見たくなったって、これを?」
 スカートの窪みを押さえる。
「そう、そこがどうなっているのか、しっかり見たくてね。ぼくのヰ(ウィ)タ・セクスアリスはそうやって始まったから」
 けいこちゃんとようこちゃんの話をする。
「出発がそれだったから、あそこをよく見れなかったという欲求不満が十年間も蓄積していたんだ」
 桑原の写真の話もする。
「結局、写真を見てもよくわからなかった。で、実行」
 雅江は小首をかしげて歩き出す。
「私が颯爽と言ったもんやから、なんとかひっくり返そうとしとるでしょ。ええよ、乗ったげる。それで、どうやるつもりだったの」
「タオルで口を縛って、熱田高校の生垣の中へ引きずりこんで……」
「でも、暗闇でしょ?」
「懐中電灯を持って出た」
「わあ! 手回しがええんやなあ。で、どうなったん」
「一人やり過ごしたあと、あまり若くない女が通りかかったから、思い切って後ろから飛びついた。静かにしろ、騒ぐと殺すぞ、て脅したら、キャーって叫んで両手をバタバタさせて、その拍子にハンドバッグが後頭部を直撃したんだ。ぼくは飛び上がるほど驚いて、タオルも懐中電灯も放り捨てて飯場に逃げ帰った」
 私はその女が両手を振り回す仕草をし、ハンドバッグが後頭部を打った場面を再現して見せた。よほど笑いのツボにはまったのか、雅江はけたたましく笑った。私も両手を腰に当てて笑った。
「それ、おかしい、逃げ帰った背中が浮かんで、おかしい」
 苦しそうに笑う。私は波打つ丸いふくよかな背中をさすった。
「こういう図もおもしろいね。恋人同士が痴漢話に笑い転げる」
「ほんと、ほんと、騒ぐと殺すぞ、アハハハハ」
 雅江はひとしきり笑うと、ようやく発作的な笑いを収めた。
「……郷さんにもそんなウブな時期があったんやね。野球でバリバリ活躍して、勉強もめちゃくちゃできて、だれもかなわんほどええ男で、そんなころに、オベンチョ見たいなんてかわいらしいこと考えとったんやね。そんなもの、私がいつでも、いくらでも見せてあげたのに。きょう、うんと私の見ればえわ。郷さんに見せてと言われて断る女なんておれせんよ。その人、惜しいことしたなあ。郷さんの顔を見たら、それこそうれしい悲鳴をあげて、簡単に見せてくれたと思うよ。ああ、おかしい」
 雅江はもう笑わず、私に寄り添って歩いた。
「何でも話してくれて、ありがとう。こんなにみっともない人間だぞって言いたくて、わざわざしゃべったんでしょう? ぜんぜんみっともないことないよ。人間的にちっとも恥ずかしない。私だって、高校のころ、郷さんのオチンチンを想像したことあったもん。心だけやなく、からだにも好奇心があってあたりまえや。そういうことがいくつも重なって愛情になっていくんやから」


         百四十五

 クマさんの社宅の裏畑に新興住宅が肩を並べていた。雅江は私の視線をなぞるように同じ方向を見やり、
「あそこ、熊沢さんの家があったところやね。……西松の事務所には五、六回いったかなあ。ダルマみたいな小山田さん、ノッポの吉冨さん、痩せっぽっちの西田さん。思い出すわ。みんなまじめにおしゃべりしてくれて、いい人たちやった。熊沢さんは私を郷さんの勉強小屋に連れていって、三畳の部屋を見せてくれた。郷さんが風邪を引いたとき、一度だけ杉山さんといったあの部屋。スチール机だけしかなくて、さびしかった。それから熊沢さんは私を社宅に誘って、房子さんと一歳の郷太郎くんに会わせてくれた。郷さんの名前をもらった郷太郎くん。パッチリお目々をしとった」
「ぼくが中二の秋に生まれたから、もうそろそろ六歳か。木田ッサーがオートバイ事故で死んだころだったな。そうだ、クワキンタンが学校を辞めさせられたり、守随くんが日比野中学へ転校していったりしたのもそのころだ」
「歩く記憶装置やね」
「思い出せる時期限定のね。ますます鮮やかになる。……房ちゃんはクマさんにお似合いの明るい人だった。信州まで連れてって会わせてくれたんだ。夜のすき焼き。人の家であんなにおいしいごはんを食べたのは初めてだった」
 雅江はうなずき、
「こっそり幸せだったって感じやね。房子さんは段ボール箱出してきて、郷さんのいろいろな形見を見せてくれた」
「形見?」
「うん、みんなもう郷さんと逢えないって思っとったから。直井くんや桑原くんもいっしょに写っとる遠足の写真、事務所の朝顔の前で大きく笑っとる写真、バットかついで中村くんや関くんと並んどるユニフォーム姿の写真、牛巻病院の玄関前で撮った白衣の節子さんの写真、バーゲンかなんかで買い物しとる節子さんの写真、寺田くんが寝巻姿で病院の屋上に立っとる写真」
「その中の何枚かの写真は、きっとクマさんがカズちゃんからもらったものだ」
「もっともっとたくさんあって、房子さんはきちんとアルバムに作ってた。野球部の写真がどうしてもほしくて、無理を言って譲ってもらった。写真屋さんで拡大写真を二枚作ってもらい、もとの写真は節子さんに送ってあげた。拡大した二枚はしばらく抽斗にしまっとったんやけど、このあいだその一枚を飛島のお母さんに送ってあげた」
「返事はこないだろ」
「こない。でもええの。郷さんの形見はまだまだあって、ボール、グローブ、バット、スパイク、ユニフォーム、ビニールに包んだエロ本五冊、いろいろな文房具。熊沢さんは、キョウの触ったものだと思うとエロ本まできれいに感じる、一生大切にするって言っとった」
 住所がわかればクマさんに会いにいける―私はふと気づいて、
「クマさんの長野の住所知ってる?」
「ううん、まだそのときは熊沢さんが会社を辞める前だったから。でも、きっといつか野球場に郷さんを訪ねてくると思うわ」
 計ったように六時に戻った。居間に母親と、仮眠から目覚めたばかりの父親がいた。着物を着ていた。
「お帰りなさい。気持ちのいい散歩ができましたか」
「はい、思い出の場所をいろいろ回ってきました。西松の事務所のあたりはすっかり変わってしまったので、近づきませんでした。人も物も消えてる……。消えてないのはいっしょに歩いてる雅江だけでした」
 母親がコーヒーをいれた。
「平畑もペタンという町になりました。ガッカリしますけど、時の流れでは仕方ないですね。うれしい流れもあります。この三月一日に日本各地にテレビ局が十二も開局したんですよ。名古屋も一局増えます。神無月さんの名前がいまよりももっと全国に知れ渡ります」
 父親が、
「きょうみたいにおちおち表も歩けなくなりますよ。名が知れるのもフランシーヌみたいなのは悲惨ですがね」
「先日、新聞で読みました」
 雅江が、
「フランシーヌ・ルコント。三十歳のフランス人。先週、シンナーで焼身自殺したんよね。ベトナム戦争やビアフラの飢餓に心を痛めてのことやって」
 新聞記事以上のことは言わない。カズちゃんのような感想も言わない。
「人にはいろいろな死に方があるからね。でも、どうせ死ぬなら、愛する者のために死ねばいいのに、くだらない博愛のせいで死ぬなんてもったいない。失恋や悲恋から自殺するならうなずけるけど、大義のためというのは、ぼくにはシックリこないんだ。攻撃側に回ってたらテロに結びつきかねない」
「神無月さんは、学生運動は詳しいんですか?」
「同年齢の人間のあいだでは、いちばん詳しくありません。概略は周りの政治スズメのさえずりが耳に入るので、教科書的な知識として知ってます。概略彼らの言葉を反復してみると、ぼくが青森に送られたころから、高度経済成長と同時進行的に第二次反安保闘争が激しくなって、それにかぶさるみたいに、全国の大学で授業料値上げ反対やら、全共闘系学生と新左翼系学生が石や棒で戦う学園民主化闘争が起きたらしいんです。安保も全共闘も新左翼も、単語の定義はよく知りません。出入り自由の柔軟な集合体と呼ばれていた全共闘は、セクト嫌いのノンポリをひきつける魅力があったようで、その柔軟性に新左翼がつけ入ったことで、学生運動が複雑になったそうです。どうつけ入ったのか、どう複雑になったのか、サッパリわかりません。すべて聞いた話です」
「なるほど。しかし、教科書的知識とおっしゃるにしては、きめ細かく憶えてますね。東大の学生運動はむかしからありましてね、私の小学生のころですが、昭和十年前後、集会に参加した学生たちと警官隊が衝突したことがありました。学生集会を初めて許可したのは美濃部達吉だったはずです」
「あの天皇機関説の?」
「はい」
 雅江が、
「なに、天皇機関説って。高校で習ってもよくわからんかった」
「国家統治権は天皇にない、統治権は国家にあり、天皇はその国家の最高機関、つまり実行力のないシンボルであるとした説だよ」
 父親はうなずき、
「そんなころも、地方はのんきなもので、このあたりでも盆踊りなんかで東京音頭を踊ってました。そうそう、よくバリケードって言いますが、あれは何なんですか」
「いま言ったような学生たちが、大学との団体交渉で自分たちの主張を強気で訴えたわけです。それが認められないと、大学構内に戦争ごっこの陣地みたいなものを作って封鎖したんです。それをバリケードと呼ぶようです。とうとう今年の一月、安田講堂事件が起こりました。東大医学部の無期限ストライキがきっかけだそうです。ひとことで言うと、警視庁が、全学共闘会議の占拠していた東大本郷キャンパスの封鎖を解除した事件です」
「なるほど。あれはすごかったですね。テレビで実況をずっと観てましたよ」
「ぼくは観てませんでした。わけのわからないものには関心を持てませんし、毎日の自主トレで忙しかった。ただ、人から聞いた話の要所は記憶しました。学生四百人、機動隊八千五百人、放水車三百台、投光車あり、投石車あり、ヘリコプターあり。講堂の屋上から何百本もの火炎瓶が投げ落とされ、ヘリからは催涙弾、地上からは猛烈な放水とガス弾。まるで本格的な戦争みたいですが、大量殺戮を目指してないので、やっぱり戦争ごっこです。攻防戦は三十五時間。落城と言うのもおかしなものですが 逮捕者千十人、うち東大生二十人。二パーセント弱です。東大生の戦いじゃなく、東大を戦場にしたその他の大学の運動家たちの戦いだったんですね。負傷者多数でしたが、死者はありませんでした。学生運動はその攻防を境に関西に飛び火しましたが、だんだん鎮静化しているようです。とまあ、人から聞いた概略を言っただけで、何も考えるところはありません。政治家でも労働運動家でもないぼくのような人間は、社会を動かす力も抵抗する力も持っていない。その代わりに、政治や運動の真っただ中にいる当事者たちには聞こえない不幸な時代の足音がぼんやり聞こえます。たしかに運動家たちは精力的だと思います。政治的な課題を持って行動するだけでなく、自分自身の課題でもある、教育制度のゆがみ、学歴中心社会の弊害、旧態依然たる学問人の状況に厳しい批判を投げつけたわけですから。しかし、ぼくにはあれもこれも無縁な問題です。まったく興味がありません」
 雅江と母親が顔を赤らめて私を見つめていた。
「やあ、まいった。すばらしい知見と想像力だ。感服しました」
「ただの痴漢野郎です」
 雅江がその話をする。卑猥な単語を避け、露骨にならないように話す。母親は恥ずかしそうにもじもじし、主人は気持ちよさそうに笑いながら、
「正直な人だ。ふつうはそういう自分の恥部みたいなものは隠しておきますよ。神無月さんのような美男子でも、そういう気持ちになると知るとホッとしますな」
「雅江のような美女でもそういう気持ちになるそうで、本人から聞いてホッとしました」
「たしかにな。そういう気持ちのない女は扱いにくいですな」
 また母親が顔を赤らめた。父親が六時半からのニュースを観はじめると、母娘が台所に立った。渋谷の東急百貨店の火災はボヤですんだと報じている。
「東急百貨店は、もと白木屋と言いましてね、昭和七年の師走の大火災で有名です。四階の玩具売場のクリスマスツリーから出火したんです。男六人、女八人、合わせて十四人が亡くなりました」
「例の下着問題の白木屋ですか?」
「そう、着物の下に何も穿いてなかったせいで恥ずかしがって飛び降りたというあれです。でもそれはデマで、飛び下りたご婦人の中に恥ずかしがってという人は一人もいなかったそうです」
「火や煙で苦しむよりは、ひとおもいにということですね」
「はあ、そういう人が何人か、ほかにロープを持つ手が力尽きたり、ロープが燃え切れたりで転落死したようです。百貨店やホテルの火災は悲惨ですよ」
 海外旅行の外貨持ち出し制限が緩和されたというニュースにつづいて、子供ニュースに切り替わった。ビールが出た。つぎ合う。イカの塩辛と、キュウリ、ナスの糠漬け。
「青森はいったことがないんです。と言うより、北の出張は東京までしかいったことがありません。北帰行……津軽海峡……連絡船にロマンを感じるなあ。ボーッてね。どんな感じのものなんでしょうね」
「ぼくも青森高校時代、よくボーという汽笛を聞きました。連絡船の姿全体は、合浦公園の桟橋からしか見たことがありません。輝いて連なる丸窓が印象的でした。船着場につづく青森駅のホームの様子ならよく知っています。駅を出たところの風景とかも」
「聞かせてください」
 天ぷらを揚げる音がする。大根をおろす音。女二人の楽しげな話し声。
「青森駅のホームは、日本一長いと言われてます。年中薄暗いです。そのホームに列車から吐き出された乗客が、連絡船に乗るために列をなして跨線橋のほうへ進んでいく。跨線橋は連絡船乗り場に通じてるんです。ホームを進む乗客たちの様子は印象的です。子供ぐらい入りそうなトランク、破れんばかりにふくらんだ信玄袋、背中に荒縄で括りつけたりんご箱、そんなものがゴトンゴトンぶつかり合いながら進んでいきます。中には、荷物が歩いているのかと思うくらい大きな風呂敷包みを背負った老婆の行商人や、観光とすぐわかる若い旅人なども混じっています。はぐれないように子供を叱る女の声、急がないと坐るところがなくなると怒鳴る男の声、笑う声、話し声、重なり合う靴音、こんなにいっときに人間が騒音を発することができるのか思うほどです。それに比べたら、野球場はずっと静かに感じられます」
「……ロマンというより、生存競争の一光景のようですね」
「はい、ロマンというのは夢や冒険のことでしょう。そういうものを見せてくれる場所や事件にはなかなか行き当たりません」
「野球場は毎日それですね」
「たしかにそうですね。夢や冒険にあふれてます。―何の折だったか、夕暮れに跨線橋の通路までいって、通路の窓から下の景色を眺めたことがあるんですが、船倉に貨車を入れる引込み線がデッキの明りを受けて鈍く光っていて、線路脇を数人の保線夫が歩いていきました。その人たちのゆくてに、駅前に折り重なるように建っている商店の屋根と、少しのネオンが見えました。露地市場です。興味が湧いたので、駅舎を出て市場を見にいきました。連絡船の桟橋へつづく露地に、市場の店々が幟や看板を曝して所狭しと並んでいます。その屋根越しに、連絡船の鉄の腹が巨大な壁のようにそそり立ってるんです。ビックリしました。忙しげに行き交う荷車や買出しの人たちの賑わいに、船のドラの音や列車の汽笛の音が入り混じる。あたりには漁港にはない雑然とした臭気のようなものがただよっています。その露地を歩いたあとで、トタン屋根を張り出した簡易食堂でうどんを食いました」
 てんぷらを盛った皿を両手に持って、母娘がやってきた。母親が私と夫のコップにビールをつぎ切り、
「なんて美しい表現でしょうね。目に浮かぶよう」 
「すばらしいですなあ! 野球選手にしておくのはもったいない。ものを書きたいとおっしゃるのももっともです。すぐれた表現力です。青森駅だけでなく、青森がぜんぶわかった気になりました」
 雅江が私の腕にすがりついた。
「私が見つけた人やよ」
 母親が、
「みんな見つけてるわよ。雅江は見つけてもらったの。そっちのほうがありがたいことよ」
「わかっとる。一生離れん」
 父親が、
「どんなに離れとっても、おたがいに生涯変わらず愛し合うことがいちばん肝心なことだよ」


         百四十六

 父親は私のコップに新しいビールをつぐ。つぎ返す。人間の営みはどんなことも、不確定な偶然から確定した必然になる。雅江が、
「私、子供ができたらできたでかまわない。そのときは、しばらく子育てしてから、おかあさんに預けて、また働きに出るつもり。なかなか子供ができんかったら、それはそれでまた幸せな人生やわ」
 母親が私をチラリと見て、
「とにかく、気兼ねなく愛してやってください。私どもはどんなことも神無月さんに押しつけようとは思っていませんから」
 父親もニッコリ笑った。雅江が私の唇を求めた。母親が、
「大胆な子」
 父親が反り返って笑い、また私にビールをついだ。
 茶碗蒸し、麩の味噌汁が出て、おいしい食事が始まった。テンツユの味が山口の母親に勝るとも劣らない絶妙の味だ。シイタケとナスとキスをもりもり食った。私だけ三膳のめしを食った。
「さすがプロ野球選手、食欲がちがう。オープン戦の一号ホームランからスクラップを作ってるんですよ」
 雅江が、
「そのために、中日スポーツと週刊ベースボールまでとったんよ。私も会社から帰ってくるといつも手伝っとる」
 母親が、
「新聞も雑誌も神無月さんの記事ばかり。駅西の実力者のかたのところに寄宿なさってるんですよね。このあいだのアメリカの百人のときもたいへんな報道陣でしたけど、毎日ああなんですか」
「いえ、あれほどではありません。球団関係者のハイヤー、新聞社の車、テレビ局のワゴン車などのうち、どれかはほぼ毎日貼りついてますが、勢揃いするのはイベントめいたことがあったときだけです。そういうときも、松葉会の人たちが門にぜったい入れないようさばいてくれます」
 父と母が顔を見合わせ、
「その人たちが松葉会の人たちだって球団に知れたらたいへんでしょう」
「球団はだいじょうぶです。総力を挙げて秘密保持に努めてくれています。康男の件が知れていましたので、たぶん、想定内のことだったと思います。ただ、雅江が会いにいった松葉会の頭目は地元の有力政治家と昵懇にしてるので、ボディガードの件の情報はその政治家の筋から球団に穏便な形で入ってると思います。全国の球場でも彼らがガードしています。明石でも、大阪でも、九州でも、夜の散歩にまで目を光らせていてくれました。彼らはぼくに対する報恩を大義名分にしているので、そういう行動に見返りを求めません。ぼくの人生の最大の幸運の一つです。彼らはぼくの周囲の人びとの安全にも心を配っています」
「狂気じみた善行には、狂気じみた恩返しをするんですね。球団はよしとしても、マスコミに彼らが暴力団の組員だと知れないものですかね」
「組員たちはガードマンのような雰囲気を保っています。だれも暴力団とは思わないでしょう。松葉会は、バクチ場を仕切ったり麻薬を扱ったりするようなヤクザでないので、球界に付きものの野球賭博とも関係していません。山口組とは友好関係を維持してますから、抗争の種もありません。国貞忠治や清水次郎長のような、純粋な地回り系の暴力団なので一般人に悪さすることはないんです。岸信介が首相だったころ、学生運動弾圧に力を貸したことがあって、それをほじくった新聞社に殴りこんだ事件があったんですが、それは雇い主の政治家に対する義侠心から出たことです。寺田康男は、政治家はバカで腹黒いけれども、頼られたら義理を果たさんといかんというようなことを言ってました。先回もお話しましたが、牧原さんも光夫さんもぼくの風聞を気遣ってくれて、ぜったい会に近づくなと言ってくれてます。ぼくもそれを守っています。安心してください」
 父親が、
「それは、雅江が松葉会に一人で会いにいったときから安心してます。神無月さんに対するマスコミの邪推を心配してましたが、それもなさそうですね。有力な政治家というのはおよそ見当がつきます。野党の大物で、清廉なことで有名な秋月さんですね」
「はい。ぼくの大ファンだそうです。この先、何かの機会に顔を合わせることがあるかもしれません」
 グラスを打ち合わせた。
 食後の茶が出たあと、夫婦ともににこやかだが、少し顔が緊張しはじめた。母親が、
「お風呂を立てておきます。いつでも適当にどうぞ。私どもは五時ごろに入りましたから気兼ねなく」
「はい、ありがとうございます」
「よろしくお願いいたします」
 父親が深く頭を下げた。雅江について廊下に出る。居間の並びの片側に三室あり、玄関に近い一室が雅江の持ち部屋で、居間を挟んでいちばん奥の一室が夫婦の寝室のようだった。雅江の部屋は壁の厚い八帖の洋間だ。楠木のある庭に面した窓の前に、整頓された机が鎮座している。奥の壁に長辺を接してセミダブルのベッドが、ベッドの裾に鏡台が置かれていた。机に、私と並んだ雅江の写真が飾ってある。難しい顔をした私は平服を着、かすかに微笑む雅江はセーラー服を着ている。迫害者の一人だった浅野が撮ったものだ。
「浅野先生が私にくれたたった一つのすばらしいプレゼント」
「どんな人間も一つぐらい善行をしてる。それだけを採り上げれば、万人が許される」
「考えると、浅野先生もかわいそうやね、郷さんに怨まれるようなことしてまって」
 浅野に同情することはない。彼が作った内部世界がもたらした結果だ。怨まれるようなこと? 自分の外向きがどんな具合かを知られても彼には屁でもないし、怨まれたって屁でもない。外面を罵られるより怖いのは、自分の内部世界を知られることだ。だれしも知られてかまわない外向きの世界と、知られたくない内部世界がある。それこそ秘密の自分であり、真の姿だ。彼の秘密は常識人であることだろう。その世界の調和を失いたくないために私を追放しただけの話だ。彼にとってその行為は、だれに知られても恥ずかしいことではない。常識を守るためにやったことだし、まさか自分の内部世界を崩さないためにやったこととはだれにもバレないからだ。知られたくないのは、熱血教師を演じたのは彼の常識を外れた行為だったということだ。
 机の脇には横幅のあるスチール製の書架が立ち、広めの部屋とほどよい調和をなしていた。ガラスのサイドテーブルの上に、文庫本や愛知時計の社報が無雑作に載っている。
「表から想像できないくらい大きな家だね」
「おとうさんのおとうさんが、結婚祝いに造ってくれた家なんやて。曲屋(まがりや)のない分、奥へ長く造ってあるのね。ぜんぶ八帖なんよ。台所の隣も洋間、奥はおとうさんたちの寝室、この部屋の隣の居間も八畳の和室、板の間の台所は十二帖もある。ここで生まれ育ったおかげで郷さんに遇えた。私、ここに一生おるわ。ここから動かん」
 雅江はベッドの傍らでスルスルと全裸になった。二度目の逢瀬とは言え、その潔さに驚いた。半ば義務的な気分で私も服を脱ぎ捨てる。雅江は私のものを凝視し、
「かわいくて、きれい! 相変わらずからだが真っ白!」
 と歎息した。みずからベッドに仰向けになり、目をつぶった。かすかに微笑んでいる。雅江の全身を見つめる。脚がかなり真っすぐになっている。ももの太さも左右ほとんど見分けがつかないほどだ。胸の大きさが目についた。乳首を吸う。からだが妙な跳ね方をする。淡い陰毛。押し広げ、ごくふつうの小陰唇と小ぶりな陰核を確認する。周囲に淫水が溜まっている。雅江は目をつぶりじっとしている。唇をつけると、うーん、と一声うめき、激しくふるえて達してしまった。義務的な感情が吹き飛んだ。
「入れるよ」
「はい!」
 何の黙約も、見つめ合いもなく、挿入する。雅江も何の違和感もないように受け入れる。接触の感覚を確認する間もなく、
「あ! うーん!」
 数秒で達した。万力のような襞にするどくつかまれる。たちまち迫ってくるのをこらえながら腰をゆっくり動かす。新しい反応だが、感動がない。
「ううう、郷さん、好き好き好き、愛してる、ああ、熱―い!」
 愛を吐露する切迫した声を聞いても、やはり感動はなく、頭のどこかが白んでいる。しかし私の感覚だけは限界にきた。
「あ、も、もう一回、ウウウン!」
 私も一気に吐き出した。名は呼ばない。嫌悪感のない女なのに、しかも歴史を積んで理解してきた女なのに、深い愛情を感じない。雅江は腰を突き上げ、性器を密着させて渾身の力で痙攣する。そして何度も腹を収縮させながら、片脚をじりじり胸に引き寄せた。私は律動を繰り返している瞬間、ヒデさんのアクメを思い出した。彼女もこういう形で快楽を表現した。愛しく、美しかった。カズちゃん、睦子、素子、トモヨさん、そして節子もキクエも法子も千佳子も、これまでの女はすべて愛しく美しかった。
 男のオーガズムは美しくない。目撃したくもない醜いものだ。男は〈する〉だけの存在で、女は妖しく〈表現する〉愛しく美しい観賞物だ。これまでの女はみんなそう感じさせた。雅江にはその醜さが適合していると感じた。
 雅江の片脚がゆっくり降り、眉間の皺が平らになり、微笑が戻った。結び合ったまま私に話しかける。
「ありがとう、郷さん。……きょうも不思議なことやったね……郷さんも?」
「うん、不思議だ。風呂に入って、からだをきれいにしよう」
「はい」
 夫婦の寝室の隣の浴室にいき、雅江といっしょに狭い内風呂に入った。私がからだを洗っているあいだ、雅江は湯にちょこんと浸かって微笑んでいる。静かな目をしていた。私と湯船を交代する。雅江は全身に石鹸を塗り、シャワーで流す。ふと妊娠の不安がよぎった。
「妊娠したかもしれないね」
「危ない日やないから、妊娠はせんよ。たとえ妊娠しても、産んで育てればええだけの話だがね。生きて死ぬだけの人生、怖いことなんか、一つもあれせん。」
 彼女にとってかけがえのない一日に、やさしい言葉をかけられない。自分の限界を知り、自分が何者かを思い出す。
「さ、湯に浸かって。北島三郎の『函館の女』という曲、歌ってあげる」
「北島三郎?」
「愛する女を追っていく歌。追っていけば、かならずふるさとを捨てることになる。そして望郷。人間はその繰り返しだ。演歌にも名曲が紛れこんでるんだよ。少し明るい調子の曲だから、いつか山口にアレンジしてもらって、もっとさびしいものにしようと思ってる」
 ふるさと―私にそんな概念があるだろうか。私は何にも属さず通り過ぎるだけだ。暗く唄おう。自分のためにそう決める。私はもう一度湯船を交代し、湯殿の床几に座る。
「山口さんて?」
「あ、そうか、会ったことなかったね。青森高校以来の親友。彼がいてくれたおかげで、いちばん苦しい時代を乗り切れた。ギターの名人だ。夏か秋にイタリアのコンテストに出場する。三人まで入賞者を出すコンテストらしいけど、一人だけの優勝のときもあるようだ。彼は優勝すると思う。いずれプロになるだろうな。きょうの昼まで北村席にいたんだけど、東京に帰っちゃった。いずれ会えるよ。雅江には、カズちゃんと節子と法子以外の女の人たちにも会ってもらわなくちゃ。彼女たちはみんな雅江のこと知ってるよ」
「どうして?」
「ぼくが宣伝したからさ。みんな雅江に感動した」
「誇大宣伝やね」
「あるがままに言った」
 雅江と私がここにいることの、何とも表現できない悲しい思いに襲われる。息をしている二人を悲しい生きものだと思う。かすかに開いた窓の向こうの何もない夜空を見上げる。
「そういえば、何カ月か前ランニングをしてたときに、同朋大学のあたりで鬼頭という女に会った」
「また鬼頭さん?」
「鬼頭倫子じゃない。おかっぱの、キョロッとした美人」
「ああ、悦ちゃん。あの人、熱田高校の友だちやよ。千年小学校でソフトボールをやっとったわ」
「え、あの中にいたの?」
「そう。ピッチャーしとった。宮中でもいっしょにテニスやっとったんよ。高校二年ぐらいから口利かくなってまった。誘われんかった?」
「ランニングの途中だったからすぐに別れた」
「あの人、手当たりしだいなんよ。しょっちゅういろんな男子とデートしとった。バイオリンがうまいことを鼻にかけて、芸大受けるなんて自慢してたけど」
 こういうしゃべり口は好きではない。雅江から新鮮さが消え失せる。
「地元で妥協したんだね。―じゃ、一番だけ歌うよ」
 
  はるばるきたぜ 函館へ
  さかまく波を乗り越えて
  あとは追うなと言いながら
  後ろ姿で泣いてたきみを
  思い出すたび 逢いたくて
  とてもがまんができなかったよ

「すごい……すばらしい声。神無月くん、すばらしい声やよ」
 雅江は両手で湯を掬って、男のようにパシャパシャと顔を洗った。
「せつなくて、どうもならん。郷さんが唄っとるとき、喉と胸を見とった。大きくふくらんだり、ふるえたりするの。一生懸命唄っとることがわかった。だから信じられんほどきれいな声が出るんやね」
 おたがいにからだを拭き合って、下着と寝巻きをつけ、廊下に出た。母親が頬を濡らして立っていた。
「いい声が聞こえてきたので、ここで聴かせてもらいました。みんな根無し草ですものね。人生そのものの歌。とても悲しいのに、勇気の出る歌でした。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 母親は夫婦の寝室に去っていった。私は雅江にとって記念すべき日に、彼女の寝室で深く眠ろうという気持ちにしかならなかった。そして実際、そうなった。手を握り合って寝るだけで、雅江は心底満足そうだった。カズちゃんに抱かれる夢を見た。



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