百五十三

 三人の女たちが鍋の具を平らげると、雑炊用のめしが落とされる。肌ツヤのいい料理人がやってきて、
「女性陣、すごい食欲ですね。釜飯もお出ししますけど、だいじょうぶですか?」
 小夜子が、
「いけるわよ。一人前でしょ。もう出して」
「承知しました」
 法子が、
「私、もうだめかも。この雑炊で終わり」
「おかあさんも、そろそろ」
「ぼくは釜飯一膳いただきます」
 ヤスコと法子は雑炊を一膳ずつ食った。私は釜飯一膳を香の物といっしょに味わって食った。これも信じがたいほどの美味だった。小夜子の食いっぷりがいい。
「どういう胃袋してるの?」
 法子が、
「ヤセの大食いなのよ。おねえさんは何を食べてもおいしいと言わないの。肉でも魚でもうどんでもよくて、食事はお腹がいっぱいになればいいって主義みたい」
「野生的ということよ。しぶとく生まれついてるの。あんたの店、かならず成功させてあげる」
 店員たちがにこにこ聞いている。
「野性的なのはありがたいけど、からだ張っちゃいやよ。お店の雰囲気が下品になるから」
「私は男に用心するタチよ。心配無用。危険なものには手を出さない。人生安らかに生きたいから。おほ、銀杏二つ目」
 もりもり食べる。
 小夜子は雑炊二膳、釜飯二膳を難なく平らげた。バニラアイスクリームと茶が出てきた。
「お母さんはいつもこんな高級店にきてるんですか」
「いつもじゃないの。月に二回くらい。小夜子と二人でお昼を食べにくるんです。こんなに贅沢なものじゃなく、たいてい『宮』っていうカニ会席をいただくのよ。きょうは店長さんのご好意で大盤振舞いしてもらいました」
 店長と料理人が挨拶にきた。
「いかがでしたか」
 ヤスコが肌ツヤのいい中老の料理人に、
「いつもながら、いいお味でした」
「それはよかった。神無月さんも箸を休めなかったようですし」
「堪能しました」
「ありがとうございます」
 女子店員二人も深い辞儀をする。ヤスコが店長に、
「時間外にこんなもてなしをしていただいて、ほんとにありがとうございました」
「とんでもない。いまをときめく神無月選手に引き合わせてもらって、こちらこそお礼の申し上げようがございません。サインまでいただき、一同感謝しております。一生の思い出になりました。これからも機会がありましたらぜひご来店ください。時間外でも店をお開けします」
 タクシーを呼んでもらった。車でほんの五分の道のり。法子とヤスコが黙りこくっているのは期待と興奮のせいだろう。白鳥橋を左折して、船方の交差点を右折する。
「近くてすみません。これ」
 ヤスコは運転手に千円札を渡した。運転手は、ども、と言ってあたりまえのように受け取った。
 門に新緑のハナカイドウの木が茂り、枝を埋めるように咲いているピンクの花が夜目に鮮やかだ。玄関前には箒木立ちしたハナモモの木にあでやかな紅白の花が咲いている。荻窪のトシさんの家と同様、花のある家だ。
 ヤスコと小夜子は土間から上がると、すぐにシャワーを浴びにいった。私と法子はヤスコの寝室へいき、ベッドに腰を下ろす。法子が私のスーツを衣桁に掛ける。口づけをしながら抱き合ってから、しばらく世間話をする。法子は母親を連れて伏見の御園座へ五代目坂東玉三郎を観にいった話をした。
「千三百人もお客さんがいて、入り待ち出待ち禁止のぎっしり満員だった。三島由紀夫の新作歌舞伎、椿説弓張月(ちんぜいゆみはりづき)。デビューしたばかりの玉三郎の(白縫しらぬい)姫がきれいだった。私たちと同い年よ」
「どういう話?」
「弓の名人の源為朝の話。まだ源氏と平氏が喧嘩してないころのお話。天皇家同士、摂関家同士の争いがあったの。保元(ほうげん)の乱て言うんだけど、戦争のあと源為朝が沖縄に流れていって、彼と白縫姫の子供が琉球王になるというストーリー。白縫姫というのは為朝の奥さん。〈鎮西〉八郎為朝と〈椿説〉でシャレてるわけ。この芝居は海の場面が多くて、二階席から観たからとてもきれいだった。裏切り者がいたり、嵐を鎮めるために入水した白縫姫が蝶々になって甦ったり、人食い猪を為朝が素手で退治したり、わくわくするんだけど、言葉も内容も難しくてよくわからなかった」
 法子が何を言っているのか、私もよくわからなかった。
「三島って、歌舞伎も書いてたのか」
「初めてですって。まだ完成してない作品らしくて、冬に東京の歌舞伎座で本格公演するみたい。しばらくは練習みたいなものね」
 口づけをする。
「東京のお客さんに知ったようなことを言う人がいたの。セックスは痒い背中を自分で掻くこと、愛は痒い背中を掻いてもらうこと―。それって、もともと痒いところを一人で掻いてもいいし、だれに掻いてもらってもいいってことじゃない? 相手がいてもいなくても、一人だけの快楽ってことでしょう? まちがってると思うわ。愛があると、初めて痒くなるのよ。それを二人で掻き合うのがセックス。ぜんぜん愛とセックスがわかってない人間の言葉ね」
「すばらしい!」
 やがてヤスコだけが髪を頭上に束ね、胸にバスタオルを巻いて入ってきた。
「小夜子は寝に上がったわ。お風呂埋めてきた。法子、入りなさい」
「はい。おかあさん、ゆっくり、たっぷりとかわいがってもらってね。私はお風呂に入って少ししたらあとでくるから」
「……法子」
「なに?」
「ありがとう」
「何言ってるの、やっと巡ってきた春でしょう。じゃ、神無月くん、よろしくね」
「うん」
 一人廊下へ出ていく。ヤスコと向き合い、微笑み合う。恥ずかしそうに手を握り、
「ああ、やっと逢えました」
 目に薄っすらと涙が浮かぶ。タオルを外し、胸を吸う。抱き寄せ、指を襞に這わせる。
「神無月さんがお店に入ってきたときから。……そこがジーンとして、一度お店のトイレで拭いたんですよ。ふた月半……長かったけど、こうして逢ってみるとアッという間ですね」
 私はズボンのチャックを開けて、そそり立ったものを突き出す。
「ああ、逢いたかった―」
 そっと握り、懸命に含む。私もクリトリスに指を使う。ヤスコは快感をこらえながら舌を動かす。バッと口を離し、
「ああああ、ごめんなさい!」
 私を抱き締め、片脚を伸ばして全力で痙攣する。私は全裸になり、ヤスコの腰の下に枕を敷いて、思い切り挿入する。すぐに達する。抜いて、四つん這いにし、後ろから挿入する。
「あああ、気持ちいいー! イキます、イクウ!」
 腰を止めて痙攣と緊縛の感触を確かめながら、そろりそろりと動かす。襞がまとわりつき、締めつける。後ろ手を差し伸ばすので握ってやる。
「ああ、愛してます! 愛してます、ううううん! イク!」
 亀頭をこそぐように膣が蠕動している。私にも迫ってくる。素早く往復して射精することにした。
「あああ、イキます、イキます、イクイクイク、イイックウ! あ、また、好き好き、愛してます! ああああ、イクイク、グ! もうだめ、死ぬ、ああ、イグウウウ!」
「ヤスコ、イク!」
「あん! 好きいいい!」
 グンと突き入れ、存分に吐き出す。
「グ、イグ! 好き……」
 首がガクリと落ちたので、しっかり律動して引き抜き、肩を抱えて仰向けに横たえる。顔を寄せると、ほんとうに気を失っている。からだだけが痙攣をつづける。いつ止むともなくふるえつづける。痙攣のたびに膣口から出てくる精液をティシューで拭う。頭にきちんと枕を当ててやる。
 全裸のまま風呂にいく。湯船に浸かっていた法子が驚いて、私の股間を注視する。手を伸ばして私のものを握り、
「わあ、おかあさんのお汁でヌルヌル」
「おかあさん、すごい名器になったよ。法子に負けないくらい」
「よかった!」
 私は向かい合って湯船に浸かる。二人でぎりぎりになる狭さだ。抱き寄せ指で襞をなぞり、クリトリスを撫ぜる。ピクリとふるえ、唇に飛びついて噛む。親指で押し上げるようにさする。
「あ……」
 抱き締めて気をやらせる。ふるえる尻を撫ぜながらいとしさを募らせる。法子は素子のようにすぐ回復する。
「さ、おかあさんのところに戻りましょう」
 からだを拭い、風呂を出る。裸でヤスコの寝室に戻ると、行為を終えたときと同じ格好で熟睡していた。股にティシューを挟んだままだ。
「お母さん、気を失っちゃったのね。気持ちよさそうに寝てるわ。このまま寝かせてあげましょう」
「下着ない?」
「私の部屋にあるわ。きょうのために買っておいたの」
 法子の部屋にいってベッドに転がり、肩を抱き寄せ、低い天井を見る。
「沈んだ顔してる」
「……ぼくは十五歳から、出会うすべての女と関係を持ってきたみたいだ」
「そう? 何千人?」
「…………」
「ね、そんなにいないでしょ? 高々何十人程度のことで、すべてなんて言わないで。何十人かの女が神無月くんに本気になっちゃったから、本気で受け入れる覚悟しなくちゃいけないって考えて、気が滅入っちゃったのよ。放っておけばいいって、私、口が酸っぱくなるほど言ってきたわ。きっと和子さんたちもそう言ってたはずよ。お願いだから、罪の意識なんか感じて滅入らないで。これからどんどん忙しくなるのよ。ふつうに生活してても、ほとんどの女のところを回れなくなる。罪の意識なんか感じてる暇はないわ。それでもだれも神無月くんを恨まないし、見離されたなんて絶望しない。いつか振り向いてもらえるって信じてるから―それが神無月くんと私たちの〈正常な〉関係なのよ。ちっとも神無月くんは悪いことをしていない。ちゃんと振り向いてあげて、だれも傷つけていないわ。それどころか、神無月くんにとんでもない迷惑をかけちゃうんじゃないかってヒヤヒヤしてるのは私たちのほうなのよ。周りを見てごらんなさい。神無月くんを愛してる人たちは、ふつうの感覚の持ち主じゃない。神無月くんと同じおかしな人たちよ。同じ細胞と血を持った人たちよ。そういう人たちを放っておくのが罪だって言うの? 都合のいいやつのすることだって感じるの? 無責任なやつだって思うわけ?」
「自分の都合で利用してるように思うんだ。罪と言うより、みっともない生き方をしてるって。いつも思うわけじゃないけど。そう思いはじめると憂鬱になる」
「これまでどれほどたくさんの人が、神無月くんを利用して都合よく生きてきたと思ってるの? それこそ、ほとんどすべての人よ。神さまに祀り上げて、ポンポン拍手(かしわで)打てば何でも許してもらえると思ってる。手も打たないでただ許してもらいたがる人だってたくさんいたでしょう。神無月くんは神さまじゃない。神さまなんかこの世にいない。命があるだけ。神無月くんは、へんな、めずらしい、とっておきの生きものよ。神さまみたいなカッチリしたものより、ボヨーンと大きいの。ふっくらした、風船のような人。私は人間の奇跡だと思ってるわ。……とにかく、勝手に寄ってくる人は放っとけばいいの。寄ってくれば自然に包みこんでしまうんだから、何もする必要はないの。逢いたければ逢いにいって、お話したり、遊んだり、セックスしたりすればいいし、その気がなければ近づかなければいいし、忘れちゃったら忘れちゃったでいいの。神無月くんがどういう気持ちで何をしようと、私たちは神無月郷の一部なのよ。神無月くんのいるところにいつもいて、同じことを考えて、同じことをしてるの。わかった?」
「うん。一人ひとりに、その人なりの人生があると思ってしまうのは、ぼくの知恵が足りないからだ。独りで生きることを人生と言うんじゃないんだからね。人と関わったら、その人と似た人生しか生きられない。そんな簡単なことに気づかなかった」
 法子に触れると、まだ潮が退いていない。隆々と勃ってきた。
「入れるだけにする。ホッとするから」


         百五十四 

 法子の中に入り、見下ろしながらしゃべる。たちまちうねりはじめる。
「簡単なことに気づかないと、からだの中を、相手の気持ちを考えない冷たい血が流れるようになるんだね。せっかく進化した道を逆戻りして、爬虫類になってしまうんだ。馬鹿しか憂鬱にならないってこれまでも直観はしてたけど、法子のおかげで確信になった。馬鹿でなくなれば、憂鬱は消える。山口も、カズちゃんも、法子も、法子のお母さんも、みんなみんな憂鬱な顔をしてないのは、アタマがよくて、血が温かいからだ。山口はよく憂鬱は芸術家の条件だと言うけど、馬鹿なぼくをよほど励ましたかったんだろうな」
「ああ、お話が聴けなくなる……あ、もう、だめ、一度イカせてね、ちゃんと聴いてるから、考えながら聴いてる、あああ、愛してる、すごく愛してる、イク、イクイク、イク!」
 下腹を強い力で押し上げられ、いっしょに跳ねる。そうしながら同じ高みにくるよう促す。私は耐える。
「格好いい言い方をしちゃった。馬鹿って表現は案外格好いい。浅くも深くも、いろいろな意味合いを含んでるからね。臆病ってハッキリ言えないときに使う表現だ。馬鹿の意味は、ほんとは一つしかない。ものごとに徹しきれない臆病な人間が使う隠れ蓑だということ……徹しきれない自分を恥じて、憂鬱になるし、気が滅入るという寸法だね」
「臆病じゃない! イク!」
 屹立したものを抜く。法子はぶるぶる痙攣し、懸命に下腹を押さえながら、
「臆病じゃない。生まれつきやさしいの。……だれかが、何かを主張するでしょ。神無月くんはそれをじゃましない。思いどおりにしてあげる。……あ、イク! ……愛するものを奪われても抵抗しない。でも恵まれすぎた才能があるから、奪われたものを意識しないで取り戻せちゃうの。うーん、勝手にイッちゃう、こら!」
 法子は手でペチペチ陰阜を叩いた。
「……奪った人が罰を受けてないという不満だけが、やっぱり神無月くんの中に少しずつ積み重なってくわ。復讐したい気持ちを押しこめるのは、とてもつらいことよ。はあ、神無月くん、やっぱり出して、いっしょにイキたい」
 ふたたび法子の中に入る。往復するたびに揉みしだかれ、しだいに昇りつめ、極限まで亀頭を膨張させ、法子のアクメと同時にほとばしらせる。唇を寄せながら律動する。法子は私の唇を捉えて離すまいとする。
「ああ、愛してる、死ぬほど幸せ!」
 ―復讐……? そんな気持ちで生きた時期があった。いまもそうなのだろうか。
「ぼくは復讐したいのかな?」
「神無月くんを苦しめてるものはたくさんあるわ。あ、抜いて、止まらなくなる。あ、速く抜いたらだめ! ゆっくり、ゆっくりね、はあ、抜けた、うう、これで最後よ、イクイク、イク! はあ、はあ、もうだいじょうぶ、もうイカない、だめ! 気持ちいい!」
 法子はしばらく横を向いて丸くなり、存分に痙攣する。そしてすぐに回復する。私の手を握り、
「……復讐の話だったわね。常識、偏見、権威、階級。神無月くんはそんなものだらけの人たちに苦しめられながら、その人たちの望むとおりにしてあげてきたの。そういう人の数はそれほど多くなかったかもしれない。そうでない人の数のほうがずっと多かったかもしれない。でも、影響力の強い数少ない人たちのせいで、ストレスを感じながら疲れ切って死んでいこうとしてきたことはまちがいないわ。超自然的なやさしさよね。臆病と思うのはまちがってる。ちっとも臆病じゃない。そうやって死んでいくことを怖がってないんだから。怖がってないのに引き下がったふりをするんだから。偏見や権威を頼りに生きてる弱い人たちを傷つけずに救ってあげたいのよ。その人たちこそ罪人だわ。罪人なのに神無月くんに救われるだけで罰せられないなんてね。趣味でもないかぎり、そんな人たちを救ってばかりもいられないわ。懲らしめたくなるのがふつうよ。……神無月くんはストレスなんか感じてないってこと、私はわかってる。でも、そういうつらい気分は意識しないうちに積み重なっていくと思うの。大切なのは、愛してもいない罪人を救わないようにすることね。私たちを救ってくれるだけで、神無月くんの仕事はいっぱい」
 さ、寝ましょう、と言って、法子は私をそっと抱き締めて口づけをした。
         †
 朝早く、全裸のヤスコが法子の部屋に入ってきて、眠っている私と法子のあいだに割りこみ、目覚めた私にキスをした。歯磨き粉のさわやかなにおいがした。法子も目覚め、
「あらおかあさん、おはよう。何時?」
「まだ六時半。いいのよ、寝てて。七時か八時くらいから動きだしましょ」
「きのうは疲れたみたいね」
「怖いくらい感じちゃって」
「もうすっかり満足?」
「はい、すっかり」
「ほんと?……ほら、神無月くん、ギンギンよ。オシッコ勃ちだけど」
 握り締めながら蒲団をまくって見せる。
「ま、どうしましょう……」
「だいじょうぶよね、神無月くん」
「だいじょうぶ」
「私はもうじゅうぶん。おかあさん、どうぞ」
「いいですか、神無月さん」
「もちろん」
「ごめんね、法子。じゃ、後ろからお願いします」
 ヤスコはシーツに手を突いて尻を向けた。突き入れる。挿入すれば一瞬尿意は止まる。不思議な生理だ。
「あ、すぐイッてしまう、どうしよ、すごく気持ちいい、イキますね、イキます、イク!」
 ヤスコの尻が跳ね、あっという間に私にも迫る。尿意と区別がつかなかったので、射精せずに引き抜くとまた跳ねた。陰唇がうごめきながら余韻のアクメを繰り返す。
「うるる、気持ちいい!」
 法子は起き上がり母親の陰部を見つめ、
「ものすごく気持ちよさそう……」
「小便してくる」
「あ、神無月くん、大きくふくらんでるわ。そのまま私に出して」 
 仰臥する法子に挿入し、数往復してアクメを待って射精する。キスし合いながらしばらくからだを休めた。やがて尿意が限界に達したので、余韻に浸っている法子から引き抜き、縁側の戸を開け小庭に向かって高い放物線の放尿をした。喜劇じみている三人の振舞いに深い安堵を覚える。ふと、おしなべて子供が明るいのは、この喜劇性からきているのではないかと思った。何か人生の一つの正しい結論が見えたような気がした。
 三人でキッチンテーブルに向き合って、微笑み合う。大瀬子橋とちがって解放感が激しい。テーブルの花瓶にハナカイドウのハナが活けてある。
「カイドウのピンクは淡くて消えそうです。ドウダンツツジも咲いてましたね。あの白い花と合わせて活けると引き立ちますよ」
「木や花に詳しいと法子から聞いてましたけど、ほんとなんですね」
 法子が、
「……神無月くん、わざわざきてくれてありがとう」
 母親も頭を下げ、
「ほんとにありがとうございました。お礼の申し上げようがございません」
 ようやく起きてきた小夜子が朝食の支度にかかる。
「少年、卵焼きか、目玉焼きか、スクランブルか」
「目玉焼き、黄身は硬め」
 小夜子は浮きうきと動き回る。ヤスコが納豆を掻き混ぜる。
「どうしたの、小夜ちゃん、機嫌いいわね」
 キャベツの味噌汁が出る。うまい。
「おかさんも法子も機嫌がいいからよ。きょうから私も機嫌よく生きるの。おかあさんと法子を見習ってね。ブスッとしてたって何もいいことないもの」
「おねえさん、いい人できたんでしょう」
「いないわよ。毎日見てればわかるでしょう? でも、あきらめずに恋人を作ろうという気にはなったわ。私の部屋は法子の上よ。きのうの夜は楽しませてもらったわ。すごかったんだから。どうしても恋人がほしくなっちゃった。今年じゅうにはぜったい作るわ。法子、新幹線は何時?」
「十時半。ここを八時半に出れば間に合うわ。神無月くんは?」
「法子を新幹線ホームまで見送ったあと、名古屋大学をぶらついて帰る。睦子と千佳子の入学式なんだ。式場の館内は新入生以外入場禁止なんだけど、構内をぶらつくぐらいはいいだろう」
 ヤスコが、
「私たちも名古屋駅までいきます。いっしょにいきましょう」
 清楚な洋装をした三人の女と、薄曇りの道を歩く。小夜子の色の白さが際立っている。太陽の下でよくわかる。
 船方から名古屋駅行きの市電に乗る。黒く油っぽい床のにおいを久々に嗅ぐ。なつかしい横揺れ。白鳥橋からピンクに染まった白鳥庭園が見える。甲羅。本遠寺。白井文具店の小路をチラと覗く。宮中は見えない。
「小夜子、あなた、神無月さんを好きになっちゃったんでしょう」
「…………」
「女は目つきにすぐ出るんだから。甲羅でも、とってもやさしい目で神無月さんを見てた。法子の恋人なんだから、手を出しちゃだめよ」
「そんな欲張ったことは考えてないわよ。おかあさんこそ、危ない雰囲気よ」
「私は五十五歳のおばあちゃん。危ないも何も、神無月さんの眼中にないわよ」
 三人で明るく笑う。車内がすいているので無害な会話になっている。母親が、
「私たちまるで小津映画の世界にいるみたい」
 私は、
「明るい図ですからね。小津の世界は、またとない浮世離れした無欲の御仁の集まりに見えますが、作為的な上品さが鼻につきます。人間はがんらい多少下品にできているものです。自然な下品さのない人間は、振舞いが作り物めきます。山本一家は気取りのない、ほんとに無欲な御仁です」
 小夜子が、
「言動に気取りがなさすぎて、よそ目にはコミカルにすら映るかもしれないわよ。気取りがあって作り物めいていたほうがノーマルな感じね」
 卓見かどうかわからないけれども感心する。ひろゆきちゃん一家が浮かぶ。コミカルには感じなかった。小夜子の言うとおりかもしれない。
 神宮の杜を過ぎる。神宮前商店街を右に見て、熱田の交差点から左折して大津通を直進する。私は街並を眺めながら、
「この道から知らないテリトリーになる。まるで猫ですね」
 法子が、
「私も知らない。ノラの周りは買い物に出かける神宮前商店街止まり。あ、ビルが高くなったわ。荻窪より背の高いビルばかり。歩いてみたくなる道じゃないわね」
 ところどころ、朽ちかけた民家が挟まっている。小ぶりな熱田警察署。ビルの群れを抜ける。桜が満開の公園がある。かなり広い。
「あれは?」
「高蔵公園」
 ヤスコが応える。高蔵と聞いて高橋弓子を思い出す。角面の怒り肩。クワキンタン。公園の桜をまぶしそうに見つめるヤスコの横顔が美しい。法子も小夜子も自足した顔をしている。女がここまで美しく輝くことを奇異に感じる。
 またビル街に入る。晴れた空が翳る。小夜子が、
「大津通は東海道本線に並行して走ってるのよ。このまま、金山、尾頭橋、山王と走って名古屋駅。船方から市電で四十分くらい。やっぱり名古屋駅へ出ていくときは、おのぼりさんの気分になるわね」
「でも、東京で暮らした経験があるから、名古屋は田舎に感じるんじゃないですか? 立教にかよってたのはいつごろ?」
「もうすぐ三十七になるから、十九年前ね。昭和二十五年から二十八年。二十四年から新制大学になって、日本の大学全体が盛り上がってたころよ。まだ東京は戦後の混乱期で街が整備されてなかったから、ほとんど田舎の景色だったわね」
 イメージがふくらむ。
「駅前にがたぴしトラックが走って、闇市も立ってた。映画館は池袋映画劇場一軒だけ。高峰秀子の二十四の瞳を観にいった。三階建てのビルが駅前のガランとした広場の周りに二、三軒建ってて、広場にバスが何台か溜まって、人がズラッと並んでた。ちっちゃなパチンコ屋、靴屋、婦人・子供服店、喫茶店、うなぎ屋、パン屋、いろいろな総菜屋、ズボン屋、カバン屋、花の種や毛糸まで売ってる雑貨店、薬屋、産婦人科の病院。考えたらあの混乱の中に何でもあった。看板はほとんど旧漢字。カタカナの看板はめずらしくて、ブラザーミシンと森永キャラメルの大看板を憶えてる。女の髪はみんなサザエさん。広場からちょっとそれると、入り組んだ小路にバラックが立ち並んでて、私はその一角の二階家に下宿してたの。いろんな家の軒と電信柱の釘に架け渡した紐に、すごい数の洗濯物が干してあって、道端には乞食もいたわ」
「ぼくが二歳から五歳。野辺地から国際ホテル。いま小夜子さんが話した景色は田舎じゃなく、都会の景色だね。野辺地や三沢はもっとサッパリした景色だった。最大の特徴は乞食。田舎に乞食はいない」
「そう言えばそうね」
「立教ってどんな大学ですか?」
「中身はキリスト教。いまはどうか知らないけど、当時は古びた民家に囲まれた立派な建物だった。レンガ造りの正門、両側に三角形に剪定された背の高い糸杉の木、正面玄関はヨーロッパのお城みたい。ツタの絡まるレンガの二階建て校舎は瓦屋根で、モダンじゃなかったけど、威厳があった。応援歌、行け立教健児。女子高生みたいなセーラー服のブラバンの演奏で、紋付袴や学生服の応援団がいつも練習してた。芝生に陣取って合唱団も練習してたわ」
 イメージがふくらむ。
「立教の栄光という校歌はとてもきれいなのよ。公会堂の演壇正面には大きな十字架。学費を納めに何度かいった古ぼけた事務所の窓口を思い出すわ。授業の思い出は無意味に大きい黒板以外あんまりなくて、きれいに整った図書館の机から眺めた館内の光景と、クリスマスの礼拝堂のパイプオルガンの響きを憶えてる。夏の八ヶ岳のキャンプはいちばんの思い出ね。そこで知り合った学生としばらく付き合ったけど、冬に別れたわ。いまは顔もぼんやりしか思い出せない。ヨシエともそのキャンプで知り合ったの。彼女は発展家だったから、いろいろな男と付き合ってた」
 市電を降り、名古屋駅のコンコースに入る。いちばん端まで歩き、入場券を買ってホームに上がる。ベンチに腰を下ろし、新幹線の到着を待つ。
「法子が去ったら、酔族館はだれがまとめるの?」
「古沢チーフとミドリさんだと思う。サブママは人望で適当に決まるでしょう。ホステスさんの質は上等だし、古沢チーフのボーイ教育も行き届いてるから、私がいなくなってもだいじょうぶ。経営は元オーナーに戻るけど、私の育てた母体をうまく引き継いでくれるはず。あと十カ月足らずよ。跡を濁さず戻ってくるわ」
 新幹線が入ってきた。ドアに入る前に短いキスをした。耳打ちする。
「おかあさんをときどきよろしくね」
「うん。からだに気をつけてがんばって」
「神無月くんこそ。いつもテレビ観てるわ。和子さんたちによろしく。たまにはノラにも飲みにいってあげて。じゃ、さよなら。おかあさん、おねえさん、元気でね」
「あなたもね。からだ壊すほど働きすぎちゃだめよ」
 手を振り合う。法子の立っているドアがすぐに視界から消えた。コンコースに出、東山線の誘導口まで歩く。ヤスコが、
「私たちは名鉄で買い物していきますから、ここで。またお逢いできる日を一日千秋の思いで待ってます」
 小夜子が、
「……野球、がんばってね」
「はい。じゃ、また」
「さようなら」
「さよなら」
 姿が見えなくなるまで手を振った。



三章 オープン戦 終了


四章 開幕まで へ進む


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