十

 ようやく名前を呼ばれて診察室に入った。とつぜん私は、風邪でもひいたような悪寒を感じた。女史がそっと私の後ろに従った。
「神無月郷さん?」
「はい」
 看護婦がスツールに腰かけるよう手のひらで示した。目の前に白衣の医者の背中がある。禿げ上がった頭が、椅子を回して振り向いた。口ヒゲが白い。
「どうしたのかな?」
 ここまでくれば何の心配もいらないといった顔で、私に向かってどっしりと構える。眼鏡の奥の目がやさしそうだ。
「肘がゴリゴリ鳴って、突き刺すみたいに痛むんです。ボールが投げられません」
 医者は霜降りのヒゲを指先でこすりながら、じっと私を見た。
「ふうん、きみは野球選手なのか。じゃ、ボールが投げられないのはつらいね。ちょっと腕を見せてごらん。ここかな? ここが痛むの?」
 肘の窪みを柔らかく押さえる。私は首を振った。
「もっと奥のほう」
「その、ゴリゴリっていうのを、聞かせてくれるかな」
 医者は吉冨さんと同じように私の関節に耳をつけた。すぐに眉間に皺を寄せ、不安そうに頭を振った。
「骨じゃないな……」
 低い声で言うと、私の顔をじっと見つめ、
「腱の断裂だと、厄介だよ。すぐ、開けてみないと―」
 彼は机に向かって何か書きはじめた。私は医者がもう一度振り返る前に、自分のほうから問いかけた。
「開けるって、手術をするってことですか?」
「そう。あす、あさってにもね。腱の接合を急いでやらなくちゃ。このまま固まると一生使いものにならなくなってしまう」
 残酷な言葉が耳を刺した。不吉な予感が当たった。
「身内の方ですか?」
 医者は私の後ろに離れて立っていた女史に話しかけた。
「いいえ、知り合いの者です」
「じゃ、身内の方にすぐ連絡してください。同意書が必要ですから。それをいただいたうえで、あすあさってのうちに手術ということになります。身のまわり品の支度をしてくるようにと言ってください」
「わかりました」
 畠中女史は青白い顔ですぐに廊下へ出ていった。
「空いている部屋はもうありませんが―」
 看護婦が医者に向かって首をかしげた。
「二人部屋が空いていただろ。ほら、不随者病棟の」
「あ、はい。篠崎さんのお部屋ですね」
「うん」
 私はおそるおそる尋いた。
「これ、ネズミじゃないんですか」
「ネズミ? ああ、遊離軟骨のことね。それとはちょっとちがうなあ。骨の遊離じゃなくて、腱の異常発達か断裂だと思う。開けて見ないとわからないけど……。この音は以前聞いたことがある。国鉄スワローズの金田投手を知っているでしょう」
「はい」
「東京の病院にいたころ、あの人の肘の音を聞かせてもらったことがあってね。あれと同じ音みたいだな」
「金田投手は、治ったんですか」
 医者が躊躇なく手術を決断してしまったことがひたひたと恐ろしくなってきて、私は未練たらしく訊いた。医者は首をかしげ、苦笑いした。
「まだ金田投手は手術をしてないんだよ。入団して五年目ぐらいから痛かったらしいけど、結局、本人の希望で手術は見合わせたんだ。いまでも痛むそうだから、いつかは切らなくちゃいけないだろうな。私が診た中では、あれに似た症例は、きみで二人目になる。金田投手には驚くよ。あんな肘を抱えて、速球やカーブをビュンビュン投げてるんだから」
 私は深いため息をついた。こんなひどい痛みに耐えながら、十年以上も二十勝以上をあげている金田投手は、やっぱりふつうの人間じゃない。母の言ったとおり、だれもが金田や長嶋になれるわけではないのだ。
「痛みが自然になくなることってないんですか」
 一年前の出来事を思い出しながら私は尋ねた。
「腱だとすると、万に一つだね」
「去年、同じふうになって、治ったんだけど」
「こんな音、してなかっただろう?」
「はい」
「……成長期の腱の故障はすぐに治しておいたほうがいい。大人とちがって子供の腱の故障は、骨や筋肉の正常な発達のじゃまになるんだよ。成長の止まった大人なら、故障を起こしても子供ほど痛みも激しくないし、だまし、だまし、痛みをこらえて投げつづけたとしても、そのうち正常な部分が故障した部分に適応していって、からだ全体の機能に致命傷を与えないんだけれど、子供は不安定な成長過程だから適応できないし、鋭い痛みもだまし切れない。彼らは子供のころに肘を痛めたというわけじゃない。ピッチャーとして何年も投げつづけたあとの大人になってからでしょう。……そういえば中日の大矢根投手も長いこと肘が痛んだらしいけど、がまんして投げているうちに痛みが治まり、こんなふうにクの字形に曲がって固まったそうだよ」
 と、肘を曲げて見せた。いくら大人でもふつうの人間なら、こんなとんでもない痛みをこらえて投げられないはずだ。医者の言うように、金田も大矢根も、きっとぼくほど痛まない状態で投げていたんだと思い直した。
「でも、きみの肘の痛みの原因は、彼らとはぜんぜんちがうものかもしれないよ。ピッチャーでないかぎり、この歳で酷使というのは考えられないからね。もっと単純なものかもしれない」
 単純なものでなかったら? 手術して痛みの正体を暴露されることが、かえってこわくなってきた。
「机の角で肘を打ったことがあったんだけど」
「うん? 外部的な打撃か。でもそれは、一回治ったんだよね」
「はい」
「じゃ、打撃が原因じゃなさそうだな」
 私はそうにちがいないと確信していた。まったく同じ痛みだったからだ。しかし、もうそんなことは医者にしゃべりたくなかった。
「手術したら、また投げられるようになる?」
「腱と骨の不具合なら、なんとかなる……。糸を抜いて、それから二週間ほどリハビリして、半年もすれば完璧かな」
 半年! それは絶望的な空白だった。おまけに、医者が半年と言った表情にはどこか当てのなさみたいなものが感じられて、口から出まかせのような気がした。
 ―もし、腱とか骨と関係ない原因だったら……。
 廊下に畠中女史が待っていた。
「どうだった?」
「手術すれば、たぶんよくなるって」
 私は元気よく背筋を伸ばして見せた。
「そう、よかったわねえ。ほら、だいじょうぶだったでしょ。キョウちゃんは考えすぎるところがあるのよ。お母さんには連絡しておいたから。あした、手術の承諾書を書きにくるって。心配しないで、よくなることだけを考えるの」
「うん」
 女史が帰ったあと、私はひどく小柄な看護婦に二階の病棟へ連れていかれた。リノリウムの階段を上り、薄暗い廊下を進むあいだも、私はわけもなく、きょうという日を自分の人生が終わった日として記憶に刻みつけようという、忌まわしい考えにひたっていた。そのとき、とつぜん、それこそ天啓のように、すばらしい考えが閃いた。
 ―まだ右腕がある! 右利きに変えればいいんだ! しっかり鍛えれば、投げられないはずがない。右投げ、左打ちか。プロ野球にも何人かそういう選手がいる。ぼくだってやれないはずがない。
 絶望の厚い雲がたちまち希望の烈風に吹き飛ばされ、心の中に明るい陽射しが差しこんできた。私は歩きながら、健康な右腕をグルグル回してみたり、右肘を屈伸してみたりした。真新しい、どこにも疲労のない、力強い感覚があった。
 手術をしても、きっと左ではもう投げられないだろう。この痛みはそんな生やさしいものとは思えない。とにかく、手術は受けよう。それで治るかもしれないから。手術がうまくいかなかったとしても、バットは右腕一本でも振れる。もともと左手はバットの振り出しをコントロールするために添えるだけの役割なのだ。右打ちにはぜったい変えない。右で振ると、ボールをミートする微妙な感覚が狂って、ホームランを打てなくなるような気がする。
「看護婦さん、小さいね」
 人に語りかけるほどの心の余裕が出てきた。私はすっかり落ち着きを取り戻した気分で彼女の全身を見下ろした。
「そう、百四十センチしかないの」
 濃い眉を上げて笑った。男みたいに頑丈そうな顔をしていた。
 彼女に連れていかれた病室は、市電通りに面した棟の中ほどにあった。入口のすぐそばと窓際に二つベッドを離して置いてあり、入口のほうのベッドに、眼鏡をかけた青年が静かに横たわっていた。
「篠崎さーん、お仲間連れてきましたよう。よろしくね」
 看護婦の声にこちらを振り向いた色黒の顔立ちが、オヤッと思うほど整っていた。看護婦が去ると、青年は読みさした本を枕もとに下ろし、私が部屋をきょろきょろ見回したり、薄いシーツだけのベッドを触ったりする様子をじっと眺めていた。薄いカーテンを透かして柔らかい光が射しこんでいる。
「神無月郷です」
「きみは、健常者だね」
「ケンジョウシャ?」
「不随者じゃないってこと」
「フズイシャって?」
 青年は困ったように苦笑いをした。
「きみはどこが悪いの?」
 眼鏡を指で押し上げながら訊く。
「肘―。あした、手術なんです」
「そうか。ベッドが足りなかったんだね。ぼく、篠崎俊夫。ダッコちゃんて呼ばれてるんだよ」
 言われてみると、たしかに色は黒いけれども、クリクリ目に真っ赤な唇のダッコちゃん人形には似ていなかった。
「ダッコちゃんより顔が長いよ」
「でも、ダッコちゃんて呼んでくれるほうがうれしいな」
「じゃ、ダッコちゃん、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく、郷くん」
 青年の唇は薄くて、歯が白く、まじめそうな目が眼鏡のせいで小さく見えた。静脈の浮き出た白い手をしていた。
「空気が悪いから、ちょっと窓を開けてくれないか」 
「うん」
 たしかに、病室に入ってきたときからへんな臭いがしていた。窓を開けると、さっと風が入ってきて、雨のような音を立てながらカーテンが鳴った。電車道の向こうを眺めると、背の低い森を背景に大きな煙突を突き立てた工場のスレート塀が、陽の光を浴びてまぶしく輝いている。
「工場ばっかりだ」
「住友金属だよ」
 コガネムシが弾丸のように飛んできて、窓ガラスに当たった。狭いベランダにぽとんと落ちると、堅い殻をかぶった背を丸めて、弱々しい薄い膜のような翅を畳もうとあがいた。
 私は気にかかっていたことを訊いた。
「……フズイシャってなに?」
 ダッコちゃんは笑いながら、
「事故とかでね、首とか背骨を折っちゃって、下半身が動かなくなってしまった人たちのこと。……ほら」
 ダッコちゃんがまくり上げた掛布団の下に、剥き出しの下半身があり、輪ゴムで留めた大きなビニール袋でチンボが包んであった。半分ほど黄色い液体が溜まっている袋の端から細い紐が伸びて、裸の腰に巻きついている。
「何? その袋」
「ドレンバッグ。寝たきりのときは、ベッドにこの袋をくくりつけてオシッコを溜めてたんだけど、いまは起きられるから腰に直接つけてる。チンチンの先から膀胱までチューブが通ってるんだよ」
 私は近づいて、その袋に触った。ダッコちゃんは格別驚いたふうもなく、微笑しながら静かに言った。
「そんなことしたら汚いよ。たえずぽたぽた出てくるから。オシッコをする神経がやられてるんだ」
「……かわいそうに」
「垂れ流しだからね。ウンコも自然に出ちゃうから、夜オムツをあてて寝る。クサいかもしれないけど、がまんしてね」
 私はダッコちゃんがよくしゃべるのに物静かに見えるのは、あまりにも深い悲しみのせいだと思った。その笑顔と快活さとは、私へのサービスだけでなく、自分を少しでも明るく偽装するためのようだった。だから、同情めいた表情はぜったいしてはいけないと思った。


         十一

「治らないの?」
「治らない。神経は再生しないんだよ」
「ふうん。……どうして、そうなっちゃったの」
「運が悪かったんだね。ぼくは不完全型の脊髄損傷だから、全身麻痺じゃないんだけど」
 ダッコちゃんは、自分が名古屋大学の理学部の学生であること、一年前の夏、建設現場のアルバイトをしていたとき、貧血を起こして仰向けに倒れ、運悪く下に置いてあった鉄材に背骨が当たって折れてしまったこと、この一年間で片足を何センチか動かせるようになったことなどを、こだわりのない明るい口調で語った。さすがに私は平気な表情をできなかった。そしてもう一度、
「かわいそうだね」
 と言った。
「でも、松葉杖を使って、腕だけで踏ん張って歩けるんだよ」
 そう言うと彼は、寝巻きの裾を整えてベッドから降り、松葉杖を脇に挟みこむと、両足を引きずって見せた。揃えた両足が、ズズ、ズズ、とぎこちなく進んだ。
「不便だね」
「そうでもないよ。これでも、一年前とは雲泥の差がある」
 廊下が騒がしくなり、ガチャガチャうるさい音を立てて配膳車が戸口に停まった。盆に載せたアルマイトの食器が床頭の水屋に置かれる。
「残さないで食べようね。看護婦さんに叱られるから」
 箸をつけてみると、ぱさぱさしたご飯で、二、三種類かのおかずの味も薄かった。味噌汁は澄まし汁のように淡い色をしていた。ダッコちゃんはにこにこ笑いながら、
「おいしいな。きょうはメロンまでついてる。どうだ、郷くん、けっこういけるだろ」
「ぜんぜんいけない。なんか薬くさい」
「そのうち、おいしく感じるようになるよ。栄養士さんがちゃんとバランスを考えて作ってくれるご飯だから、残しちゃダメだ」
 私はうなずくと、無理やり詰めこんだ。夕食がすむと、すぐにダッコちゃんは仮眠に入った。いつもの習慣のようだ。私も腹がくちて、どうにもがまんできないほど瞼が重くなってきた。夕方に眠くなるのは初めての経験だった。
         †
 後片づけの配膳車が去っていく音で目が開いた。寝入ってからまだ一時間も経っていない。
「こんばんは」
 女史が入ってきた。クマさんがいっしょだった。肩に蒲団を担いでいた。
「クマさんもきたの!」
 彼は寝ているダッコちゃんに気を差して、窓辺までそっとやってくると、私に小声で話しかけた。
「房ちゃんからの差し入れだ。しっかり天日干ししてあるから気持ちいいぞ。髭剃りも必要だったかな」
「いらないよ」
「そうか? 鼻の下に、ポヤポヤしたのが生えてるがな」
 畠中女史が持ってきた身のまわりの品には、なぜかユニフォームも混じっていた。
「これを眺めながら、元気を出してね。はい、それからこれ、買ってきたわ」
 女史に言われて私はパジャマに着替えた。
「パジャマなんて初めだ」
「いままでシャツとパンツだけで寝てたの?」
「うん。ずっと」
 クマさんは、女史が枕もとで小物を整えている姿を見やりながら、
「俺もそうだぜ。房ちゃんが買ってきたから、このごろは仕方なく着てるけど」
「パジャマはおしゃれじゃなくて、実用品なのよ。汗取りがなければ、蒲団がいたんじゃうでしょう」
「なるほど」
「お母さん、あした手術が終わったら見舞いにくるって。きょうは忙しいらしくてね」
「ふうん」
 ダッコちゃんが目を覚まし、寝巻の衿もとを合わせると二人に挨拶をした。
「ごめんなさい、起こしちゃいましたね」
「こちらこそ失礼しました。ぼく、篠崎といいます」
 ダッコちゃんはわざわざベッドに起き直り、床に両足を垂らした姿勢で二人に応対しようとした。腰に袋をつけた異様な格好に驚いた女史が、
「何ですか、それは?」
 何の気兼ねもなく訊かれて、ダッコちゃんはかえってくつろいだようだった。彼は私に話したのと同じようなことをかいつまんで言った。たちまち病室の中に深刻な空気が充満した。
「まだ二十二歳か。……辛いだろうな」
 とクマさん。
「たしかに、事故の直後は滅入りました。自分の将来を考えると、何か生き埋めになったような気がしまして」
 畠中女史は何か言いかけて、つかえた言葉を押しこめるように、ハンカチでまんべんなく口の周りを撫でた。
「それはそうでしょうね。でも、あなたもおつらいでしょうけど、ご家族の方も心を痛めているはずですよ」
 だから何だと言うのだろう。家族がどんなに心を痛めたにしたって、本人ほどつらくはない。深刻な運命に打ちのめされたダッコちゃんが、他人の気持ちなど考えてやる必要はないのだ。ダッコちゃんは小さくうなずいて、
「おっしゃるとおりです。いずれにせよ起こってしまったことですから、どんなにつらくても受け入れなければなりませんし、家族にも受け入れてもらわなくちゃなりません。そのうえで、いろいろと生き方を工夫していかないと、私としてもせっかく生まれてきた意味がありません。人間というやつは生きているかぎり、頑張らなくちゃいけないようにできているんですからね」
 ダッコちゃんは、できるだけ思いのたけを吐露しないように気を配っているようだった。ただ、彼には真情があった。
「……がんばってくださいね。歩いたり走ったりできなくても、やれることはたくさんあるんだもの」
 その〈たくさん〉のことは、私の頭に思い浮かばなかった。
「いずれクニに帰ることになったら、地元の高校生でも教えながら、いまの勉強をつづけてみようかなと思ってます」
「お国はどちら?」
「岐阜です」
「何のお勉強なさってるの?」
「数学です。学問はからだが利かなくてもできますからね」
 それからもクマさんと女史は、思い思いの表現で励ましたり、同情めいた感想を洩らしたりした。ダッコちゃんはいちいち二人の言葉に応えながら、相変わらず頓着しないような明るい表情で、
「両親は山間の僻地で百姓をしてるんです。貧乏でしてね。国立大学に入学できて奨学金をいただいたとはいっても、下宿代やら、食費やら、本代やら、それ以上に人付き合いにいろいろとかかりますし、なんとか家計に負担をかけないようにアルバイトをしなければならなかったんです」
 とか、
「これまで神経は再生しないと言われてきましたが、最近では、多少は再生するだろうと言われています。たしかに去年よりは、脚を前へ出しやすくなりましたからね。これからも希望を持って、一メートルでもたくさん歩けるよう努力するつもりです」
 などと語った。私はどういうわけか、すぐにも涙がこぼれそうな気持ちで、彼の人のよさそうな色黒の顔を眺めていた。看護婦が、
「あと十分で消灯です」
 と知らせに回ってきた。
「篠崎さん、キョウのこと、よろしくお願いします。……こいつも大事な肘をこわしちゃってね」
 話が私のことに移ると、ダッコちゃんはたちまち聞き役に回り、思慮深げにじっと耳を傾けた。五十年、百年に一人の天才だと、クマさんが私のことを褒めちぎる段になると、ダッコちゃんは顔を紅潮させ、
「どの世界でも、逸材というのは、めったに出るものじゃありません。ぜひ手術が成功してほしいですね」
 と言った。
「内臓や頭に比べりゃ、簡単な手術だと思うけどな。何か削るなり取るなりするんだろう。痛みさえ消えれば、もとの英雄だ。な、キョウ」
「―うん」
 私はダッコちゃんをじっと見た。見つめないではいられなかった。彼は微笑み返した。クマさんと女史が腰を上げた。
「じゃ、キョウちゃん、また顔出すからね。篠崎さん、どうぞよろしくお願いします」
「ご心配なく。手術の晩は痛くて辛いでしょうけど、あとはぐんぐんラクになりますよ」
「じゃ、キョウ、がんばれよ。悪いところを取っちまえばスッキリするさ。少しぐらい痛くたって、弱音を吐くんじゃないぞ」
「うん」
 たとえ切り取られるのが悪いところだとしても、これまで付き合ってきた自分の一部と別れるのは、あまりいい気持ちではなかった。でも、〈あの計画〉さえあれば、怖いことなんか何もないのだ。
 クマさんと畠中女史は、ドアのところでダッコちゃんに丁寧にお辞儀をすると、もう一度私の顔をやさしく見つめ直して帰っていった。
 九時を回って室内の明かりが落とされた。夜が訪れた。私はベッドの天井を見つめながら、あしたの手術のこと考えた。何も思いつかなかった。痛みの実感も、恐怖も湧いてこない。ダッコちゃんはベッドに仰向けになって、小さなスタンドの灯りで難しそうな本を読んでいる。消灯といっても、枕もとのスタンドは点けていいことになっている。
 ふと、何かが足りないと思った。すぐにわかった。ラジオがないのだ。それは音楽がないということだった。
「ダッコちゃんは、音楽好き?」
「嫌いじゃないけど、あまり聴かないね」
「そう―」
「うるさい感じがしてね」
 集中して勉強をする人は、きっとそうなのかもしれない。
「お家の人は見舞いにこないの?」
「このごろはね。農業というのは、一年中こまかい予定の立った仕事だから、なかなか出てこられないんだ」
「学校の友だちは?」
 ダッコちゃんは少し沈黙した。
「みんなにはそれぞれの生活があるわけだから……。郷くんとちがって、ぼくは目立たない男だったしね。思い出してもらえる回数は少ないかもしれない」
 そう言って、ひどく悲しそうな顔をした。ぐずぐず鼻水が出はじめ、いくらかんでも止まらない。私は大きな音を立てて鼻をかんだ。
「風邪、ひいちゃったのかな」
「ぼく、もともと、よく鼻をかむんだ」
「片方ずつかまないと、耳を傷めるよ」
「もともと、右の耳はほとんど聞こえないんだ。ステレオを聴くとき、少し顔を斜めにして聴くんだよ」
「……そう。じゃ、不便だね」
「ダッコちゃんほどじゃないよ。手も脚も動くから」
 つまらないことを言ってしまった。
「手は危機に瀕してるね。ぼくとちがって、有為の人材の手だ。ぜったい治してもらおうね。……じゃ、おやすみ」
 ダッコちゃんが眼鏡を外した。スタンドの明かりが消えた。
「おやすみなさい」


         十二  

 しじまが訪れ、ダッコちゃんの鼻息が一定になった。私は眠れずに何度か寝返りを打った。どうしても眠気が襲ってこないので、こっそり廊下へ出た。水洟をすすりながら、暗い廊下に明かりが洩れている病室を覗きこんでいく。ダッコちゃんと同じように下半身を露わにした患者たちがベッドに胡坐をかき、弱い明かりの下で楽しそうに花札をしたり将棋を指したりしている。ほとんどの人が猫背で極端に胴が短いので、頭が大きすぎるような気がした。中の一人の患者が、松葉杖もつかずに立っている私に気づいて、訝しそうにこちらを見た。私はそっとドアから離れた。
 廊下の突き当たりの仕切りは硝子の引き戸になっていて、向こう側にもっと薄暗い病室がつづいていた。その戸を引こうとしたとたん、夜回りをしていた看護婦が暗い廊下の向こうから声をかけた。
「こっちは女性病棟ですよ。お見舞いのかたですか」
 私を病室まで連れてきた小柄の看護婦だった。
「あら、神無月くんじゃないの。だめよ、こんな時間にうろうろしちゃ」
「はい」
「あしたは手術でしょ。ゆっくり休養とらなくちゃ。すぐ、ベッドに戻りなさい」
 私は素直にお辞儀をして、病室へ引き返した。
         †
 目覚めると、窓の外に雨の気配がしている。私はカーテンを透いてくるにぶい陽射しを眺めながら、蒲団の襟を首まで引き上げた。ダッコちゃんのにおいが相変わらず病室の中にこもっている。廊下に足音が聞こえはじめ、はっきり目覚めた。病院で迎える初めての朝だ。
「顔を洗いにいくよ」
 ダッコちゃんが松葉杖にすがってゆっくり立ち上がった。畠中女史が水屋にしまっておいたタオルと歯ブラシを手に、ダッコちゃんについていく。トイレのそばに大きな洗面所があった。ダッコちゃんは片方の杖でからだを支えながら、もう一方の手で慣れたふうに歯を磨いた。顔も片手で器用に洗った。私が、ふーん、と感嘆すると、ダッコちゃんは笑いながら、
「何だって必要に迫られれば、できるようになるものさ」
 配膳のおばさんが朝食の盆を持って入ってきた。小鯵のひらき、片目焼き、焼海苔、豆腐にワカメの味噌汁。夕飯よりも品目は少ないけれど、好きなものばかりだった。おいしく感じた。ダッコちゃんの言ったとおりだ。
「おいしいだろ」
「うん! ここに白菜の浅漬けがあれば最高だな」
「ああ、いいね。ぼくも好きだな」
「醤油と味の素でね。ホタテの貝焼きも、そのままストーブにのっけて、味の素と醤油をかけて食べるんだよ」
「へえ、うまそうだな」
 食後にスピーカーで呼び出されて、パジャマ姿のまま一階の事務室へいった。背広を着た事務員ふうの男が、母に何か形式張った説明をした。母は私を自分の隣に坐らせて承諾書にサインした。
「じゃね、かあちゃん忙しいから」
 廊下に出た母はぶっきらぼうに言うと、思ったとおり病室にすら寄らずに大急ぎで帰っていった。私はらせん階段を昇って二階の病室へ戻った。松葉杖ついたダッコちゃんが窓辺に立って空を眺めていた。七月の薄い陽が彼の頭部を縁どっていた。私はダッコちゃんに声をかけ、ユニフォームを取り出してベッドに拡げた。
「すてきだね」
「小学校のとき、飯場の人に買ってもらった。大きめのを買ったから、いまちょうどいい大きさなんだ」
「背番号はつけないの」
「小学校の決勝戦では7をつけてた。小学校も中学校も、背番号は準決勝からつけることになってるんだけど、もし中学校でも準決勝までいけたら、8にしようと思ってる」
「どうして」
「ベーブルースと長嶋の3を両側からくっつけると、8になるでしょ。というより、大好きな山内一広の背番号なんだ」
「ふうん」
 私はいつまでも目の前のユニフォームを飽かず眺めた。
「呼び出しは何だったの?」
「かあちゃんが手術の承諾書にサインしにきたんだ。ダッコちゃんに挨拶もしないで帰っちゃったけど、ごめんね」
「いいんだよ。人には都合があるって言ったよね。忙しくない人の都合を、忙しい人に押しつけないようにしなくちゃ」
「うん」
「ほら、きた。いよいよ手術だ」
 いつもの看護婦がやってきて、体温を測り、それから丁寧に肘に剃刀をあてた。ダッコちゃんがじっと見ていた。
 手術室まで看護婦と二人で歩いていき、パジャマの上半身を脱いだ格好で手術台に横たえられた。頭まですっぽり白いシーツがかぶせられる。蛍光灯が透けて見える。ものの形はわからない。腕に注射を何本か打たれたけれども、意識ははっきりしている。足音が近づき、何人かが手術台の周りに立った。声からすると、男が三人、女が二人だ。
「傷跡が外から見えないように、肘の内側を切りますからね」
 きのう診察した医者の声だった。私はシーツの下でうなずいた。
 ―腕の傷跡なんか気にしないのに。
 足もとの看護婦が、
「この子、足が大きいわねェ」
 と小声で言った。いつも気にしていることを言われて、思わず私は足の指を丸めた。こんなときに、足の大きさを話題にするのが不思議だった。いや、彼らにとって、腕一本の手術なんか何ほどのこともないのだろう。
「バカの大足、タワケの小足、ちょうどいいのはオレの足、か」
 執刀医が軽口を叩くと、助手や看護婦が笑った。彼の上機嫌は手術室のみんなの基調になった。私は医者が余裕たっぷりの様子を演じていることを、かえって不安に思った。豊かな経験を持った人たちが、手術台で怯えている少年をくつろがせるために和やかな雰囲気を作り出している―きっと難しい手術なのかもしれない。
「一日に二、三回しか排尿がないというのは、おかしくありませんか」
 女の声が言った。いつも体温計を持ってくる看護婦の声だ。
「そういう体質の子もまれにいるんだ。心配ない。いずれ大人になれば、酒を飲んだり煙草を吸ったりで、適当な回数になる」
 そういえばきのう、彼女が熱を計りにきたとき、いろいろ質問した中に、
「おしっこは一日に何回ぐらいするの?」
 というのがあった。二回か三回、と正直に答えると、
「オーバーね」
 と言って頬っぺたをつついた。畠中女史といい、カズちゃんといい、私はよく女から頬をつつかれる。
「それに、心拍は平均九十五で、百十回以上拍つこともあります」
「めずらしいけど、それでこの子は生きてきたんだから、きちんと適応しているということだろう。波形は?」
「ときどき乱れることはありますけど、正常の範囲です」
「長生きするさ。疲労は強いだろうけど」
 ぜんぶ聞こえる。毎年春の健康診断でかならず捺されてくる《頻脈》という青いハンコを思い出した。いつかそのことを母に指摘されて、からだが弱いと決めつけられたことがあった。なんだか心細くなってきた。
「……××時××分。始めます」
 医師の声に全員が息をつめる気配がする。メスがギリギリと音を立てて、肘の皮膚を切り裂いていく。痛みはまったくない。
「ああ、きれいだね。惚れぼれする。ぼくの見立てじゃ、遊離軟骨じゃないことは確かなんだ。ね、見当たらないでしょ」
「見当たりませんね。擦過音がする部位はどこでしょう」
 助手の声。
「もう一度レントゲンを撮って確認しよう。おーい、写真」
 ゴトゴトとレントゲン車の近づく音がする。
「写真、急いで」
 手術開始からまだ十分も経っていない。
「うーん、やっぱり、ここに影があるな。腫瘍かな」
「腫瘍じゃないでしょう。影が細すぎます」
「……もう少し、奥へいってみるよ」
 ふたたび室内に沈黙が訪れる。数分して医者がため息をついている。やっぱり手術は無駄だったようだ。私はこうなるのがはっきりわかっていた気がした。
「……わからんな。どういうことだ?」
 もうやめればいいのに、と私は思う。
「おや? 四指と五指の神経に沈積があります。ここです」
「なるほど、カルシュームか! ふつう、骨に沈積するんだがなあ。神経に付着して刺激してたわけだ。この子は肘を机の角で打ったと言ってたが、どうもそれが原因だな。てっきり腱の断裂だと思ってたよ。これじゃ、さぞ痛かったろう。少し削(そ)いでおいたほうがいいか」
 その瞬間、私は藤本今朝文を許した。運が悪かったのだ。こうなったのは私が持って生まれた運命で、今朝文が悪いのではない。
「神経をいじるのは危険じゃないでしょうか」
「そうだな、指が利かなくなるおそれがあるよね」
「ええ、このまま閉じたほうがいいと思いますよ」 
「うん。カルシュームを多少削ったところで、特に治癒が早まるというものでもないだろうしな。……ま、年齢がくれば、組織へ融解するかもしれない。しかし、このまま酷使したら沈積の度合いは増すぞ」
「一年ほどは腕を使わないよう、アドバイスしたらどうでしょう」
「そうだな……。仕方ない、閉じよう」
 手術の経過を私はすべて理解した。ヒゲの執刀医はまちがいなく、私の腕にしか麻酔をかけなかったことを忘れていたのだ。私は心の中で胸を撫で下ろした。無駄なことをしてくれなくてよかったと思った。何も切り取られなかったし、痛みのもとも確かめた。運命が決まるとき、そこには憐憫も不公平もない。決定があるだけだ。傷口が閉じられる。あわただしく金属が触れ合う音が聞こえる。私は晴ればれとした心で考えた。
 ―早いうちに右投げに変えよう。右手さえあればなんとかなる。
「先生―」
 私はシーツの下から声をかけた。看護婦が顔のシーツを取りのけた。マスクを外した医者の口もとが、ヒゲといっしょに固く引き締められている。びっくりしたようだ。
「お、目が覚めたか。無事、すんだよ。神経にね、ちょっとカルシュームがくっついてたんだ。それは削っておいたからね。あとはきみの地道な訓練しだいだ。一年ぐらいは腕を使わないほうがいいな」
「はい。ありがとうございました」
 看護婦たちが助手と顔を見合わせ、もじもじしている。
「……麻酔が切れたら、かなり痛みだすよ。今夜はガマンの一晩になるぞ」
「何日ぐらい入院するんですか」
「長くて二週間かな。それからは通院して、糸を抜くだけだ。リハビリも三、四回ですむからね」
 私はにっこり笑った。たしかリハビリは二週間と言っていたはずだ。
「早く投げたいなあ。投げられるようになったら、報告にきます」
 医者と助手はきまり悪そうな顔で見つめ合った。腕にぐるぐると包帯が巻かれた。帰りは看護婦に肩を借りて歩いて戻った。病室の入口でダッコちゃんが待っていた。
「ひどく痛んだら呼び鈴を押してね。痛み止めを打ってあげるから」
 そう言って看護婦は引き返していった。
「だいじょうぶだった?」
 ダッコちゃんにはほんとうのことを告げなければいけない。
「神経にカルシュームがくっついて溜まってたんだって。神経をいじるのはあぶないからって、そのまま閉じちゃった。腕だけの麻酔だから、そういう話がぜんぶ聞こえてくるのに、お医者さんはつい忘れてしまったみたい。あとで、ちゃんと悪いところは削り取っておいたよ、なんて言うんだ」
「そう……」
 ダッコちゃんは心から同情するように微笑んだ。そして何も言わずに私のベッドのスツールに腰を下ろし、私が横になるのを見つめていた。



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