十九

 廊下に出ると、水原監督はがっちりと私を抱き締めた。江藤がガハハハと笑った。
「監督、きょうは金太郎さんを譲るばい。ゲーム中は返してくれんね。のう、金太郎さんよ、ワシの女房は宝塚出身の芸能人ばい。しかしワシは浮かれとらんぞ。野球のことしか考えとらん」
 小川が、
「わかってるよ、野球バカ。きっちり結婚したんだ。スキャンダルじゃないだろ。金太郎さんの周りには女があふれてるんだよ。スキャンダルを起こす暇がないし、あのすばらしい女性たちと比べたら、吉永小百合も真っ青だろ。金太郎さんは必要に迫られて防御線を張ったんだ。苦手だと言っといたほうが、わかりやすいし、手間がかからないんだよ」
 水原監督が、
「私はあした、北村席の女性たちに会うんです」
 高木が、
「感激しますよ、百パーセント」
 控室に入ると、小山オーナーと村迫球団代表が待ち構えていて、深々と敬礼した。小山オーナーが、
「社長室のスピーカーで、伊藤社長たち重役連といっしょに聴いておりました。みなさん、とんでもなくすばらしい弁舌だった。伊藤さんは、このチームがつづくなら、優勝なんかする必要がないとまで言ったよ。私も自分の持ち球団だと思うと、うれしくて仕方なかったな。細胞が入れ替わったという水原監督の感懐はよくわかった。ありがとう、監督、ありがとう、みなさん」
 村迫が、
「いつもながら、感無量です。神無月さんが名古屋西高時代に、私は思い切って単身、八坂荘というアパートにお訪ねしましたが、そのとき私も、水原監督同様、聖水を浴びた感じになりました。思い出して、思わず目頭が潤みました。さ、みなさん、ユニフォームに着替えて、サイン会に臨んでください。ご苦労さまです!」
 みんな浮きうきとしていた。
 しっかりユニフォームのベルトを締め、帽子をかぶった。小川が、
「監督、俺たちはきょう栄町で飲んで帰ります。サイン会と撮影会が終わったら、さっさと引き揚げますから悪しからず」
「ああ、遠慮なく。私は小山さんやスポンサーたちと会食だ。寮の細かい設備の充実が懸案になってるからね」
 高木が、
「値段交渉ですか」
「そうなんだ。頭が痛いよ」
 中が、
「なかなか、野球だけをやらせてもらえませんね」
「総帥だからね」
 江藤が、
「その点、ワシら選手はラクやのう」
 廊下に出ると、さっきの三人の場内係員が、しずしずと会場に導いた。それぞれの長卓に名札が立てられ、ファンたちが行儀よく並んでいた。
 色紙やハンカチやユニフォームにサインし、がんばってくださいとか、いつも応援してます、などと言われて握手をする。思い煩っていたほど滞る作業ではなかった。笑い返すこともきちんとできた。引きも切らず報道陣のフラッシュが光る。サインの列に北村席の女たちの顔はなかった。後方に溜まっている人びとに交じって天童と丸の顔があった。二人の横に、木村しずかと近記れんがカメラを抱えて緊張顔をしていた。
 質問時間になった。監督、選手一人あて、ファン六人、質問は一つと決まっている。水原監督から私まで順繰りで、一人ずつ質問をこなしていく。私はめぐりの最後に回されたので、ほかの選手にされる質問に耳を傾けることができる。
「監督はサイン出してるふりをしてるって聞きましたけど」
「たまにはほんとうに出してることもあるんだよ。カクラン作戦だね」
「江藤選手は二軍の経験はあるんですか」
「なかよ。三十四年の一年目から百三十試合に出た。ここにおる連中は一人も二軍の経験はなか」
「小川さんは、お子さんが三人もいらっしゃるとか」
「申しわけない。三十歳まであちこちしてからドラゴンズにきましたからね、コブがたくさんできました」
「長嶋選手は中選手のセーフティバントは見抜けないと言ってましたが」
「見抜かれないように精いっぱいやってるんです。彼との駆け引きは楽しいですよ」
「バックトスが上手になるコツはありますか」
「練習あるのみ」
「王選手に勝てますか」
「大ケガをしないかぎり、可能性は大きいです」
 他愛もない質問ばかりだ。
 あっという間に六回の順めぐりが終わり、撮影会の時間がきた。盛んにシャッターが切られ、激励の声が投げられる。これはまちがいなく社会的な成功というものにちがいない。この成功はきっと母や岡本所長や浅野たちからすれば、目を瞠るようなものであり、予想外のものだろう。しかし私は見返してやった気にもならないし、大喜びもしない。それは私の心の隅に彼らと同じ疑いの気持ちがあるからではなく、生来、人間の成功に驚く性癖を持ち合わせていないからだ。こういう騒ぎもあり得べきことと受け取っている。私はたぶんむかしから、才能に恵まれた人間が成功するのは当然のことだと思ってきたのだ。だから、浮いた気が湧いてこない。驚くのは、才能があると私が記憶した人間の名前が聞こえてこないことだ。中野渡、田島鉄工、小田切、一戸……。
 ふと天井を見上げて、シャンデリアふうの蛍光灯が光っているのを眺めた。美しいと感じた。そのきらびやかさだけが、あたりまえの成功にふさわしいものに思えなかった。浮いていた。
 南口のドアでファンに揉みくちゃにされた。ガードマンたちが人混みを押し戻し、掻き分ける。江藤たちは彼らに守られながら振り返る。高木の声。
「金太郎さん、広島で! スピーチすばらしかったよ」
 江藤の声。
「あした、水原監督たちと飲みすぎんようにせんばいけんばい! ドラゴンズの今シーズン一号は、利ちゃんやモリミチみたいな伏兵にやられるかもしれんぞ」
「ぼくは本数でいきますから、遠慮なくどうぞ!」
 ファンはある程度の距離を追いかけると、あきらめて見送る。私たちを愛する者ではないからだ。手近にあるときだけ捕まえて離さないのは、愛ではない。手慰みだ。江藤たちの背中が遠ざかっていく。
「じゃ、広島で!」
 中の声だ。
「バイバイ!」
 小川の声。黒服がサッと二人やってきて、私の両腕を抱えると人混みから連れ出した。時田とその手下(てか)だった。舗道まであっという間に導き、菅野に受け渡した。私は早足で駐車場に向かった。道を渡ると、追ってこようとするファンはいなくなった。
「お疲れさま!」
「菅野さんこそ、ご苦労さん」
「初めてのイベントがつつがなく終わりましたね。よかった」
「時田さん、また東京へとんぼ返りなんだろうなあ」
「さすがに広島は東京から遠いです。ほかの人がつくでしょう。康男さんが戻る六月以降は、東京と名古屋はたぶん時田さん一本ですよ」
 フロントガラスに雨がきた。ワイパーの動きをしみじみと見つめる。
「にわか雨です。十五日くらいまでずっと晴れだそうです。ファンにびっしり囲まれてましたね。神無月さんを身近に感じるのがたとえファンたちの錯覚だとしても、神無月さんに大衆性があるというのはうれしい。神無月さんの考え方は、困ってしまうほど奇妙で新しいですから、心配なんですよ。今回はうまくやったようですね。遠慮してしゃべったんでしょう。大衆は新しいものを好みますけど、むかしからの考え方に似ている新しさじゃないと嫌うんです。ワクワクするできごとは喜んでも、心の底から驚かされたくない。あれだけ囲まれたというのは、きっとしゃべったことが常識にはまる程度に新しくて、びっくりしない程度にワクワクするものだったんでしょうね」
 夕刻に近いビル街が、心地よく雨に濡れている。文明が自然の雨に濡れている。
「ふだんの生活のことはひとこともしゃべらなかった」
「それでいいんです。ふつうの感覚では理解できないでしょうからね。私たちや、同僚の野球選手は、神無月さんの神がかりなところをしょっちゅう見てるから、その言動に驚きもしないし、かえって正しさとか、清潔ささえ感じますけど、ふつうの人には一ミリもわかりません。みんな神無月さんのお母さんと同じです」
「飛島のできごとは、菅野さんにとってよほどショックだったんだね」
「はい」
 母への愛憎に振り回された憐れな父が忘れられない。あの昆虫のようにつややかでさびしい男は、母に遇うまでは、鉈豆ギセルの爺さんや裁縫ヘラの婆さんとはちがった、清潔で孤独な臭気を放っていただろう。私には窺い知れない穏やかなテリトリーに棲んでいたにちがいない。たまたまその立ち入り禁止区域に闖入してきた、嗅いだことのない不潔なにおいを立てる女に惹かれ、その女を孕ませて、私という荷物といっしょに神聖な領域にはびこらせた。もとを正せば、その静かすぎる縄張りに人を引き入れたい衝動があったからだ。孤独だったのだ。
 私は自分が忌まわしい。なぜなら、写真を見るかぎり父に似ていない私は、いつも不思議なほどやさしく親しげな女たちの目が覗きこんでいる私の顔に、母の面影が遺(のこ)っていることを知っているからだ。私はそんなわが身から母との忌まわしい類似を抜き取って、一人の異端児をこしらえ上げた。〈正常な〉母を棄て、彼女とはまるでちがう異端の女に惹かれるような生理を作り上げた。母が知ったら叫び狂うような劣情の中でこうして暮らすのに反発を覚えない生理だ。しかし、どうしてもその異端を全面的に受け入れられない〈正常な〉生理のカケラが残っている。母を受け入れて進むべきだったのかもしれない。母を受け入れ、作り上げた異端の生理と混在させて生きるべきだったのかもしれない。どうすればそれが可能だっただろう?
「理解の範囲を超えたものごとを異常だと感じるのが大衆なんですよ。びっくりしたくないってやつです。二重生活だと思って苦しまないでくださいよ」
「二重生活は苦でないので、だいじょうぶです。いや、二重と思ってないのかな。そう思ってたら、ギクシャクしちゃうものね。好意さえ持ってくれれば、母のような人たちに対応することが、何の努力もなく自然にできるんです。ふだんの生活の清涼剤と感じられるほどです。彼らはぼくの母ほど意地悪でないですから」
「どうですかね……ま、何と言われても、私たちは神無月さんを守ります。清涼剤はほどほどにしましょう。あしたは喜びすぎて、くれぐれも飲みすぎないように。あしたくる人たちは、神無月さんをプロ野球へ引きこんでくれた人たちですし、神無月さんの変人ぶりをとことん知ってる人たちですから、受け入れるのに何の努力も要りません」
「そうなんだ、菅野さん。ぼくの言動は、ぼくの頭の中身の現れだからね。人を受け入れるかどうかは、相手の頭の中身に左右されるんだよ。つまり、彼らを進んで受け入れるぼくだけが理解できる、とても私的なものだ。頭の良し悪しとも関係のない、すごく個人的なものだ」
「百パーセントわかります。……私の理解するところでは、その中身というのは秘密のことだと思うんです」
「秘密……」
「はい。そこらへんの人間が持ってる自分だけの人生歴の秘密みたいなものじゃありません。われも彼もいっしょくたに貯めこんだ秘密です。神無月さんはその深さを人に語らない。人に明かさないということは、秘密ということになりますからね。秘密の正体は、神無月さんを車に乗せて大瀬子橋を渡ってるときにわかったんです。人にされたことが原因だとか、できごとが原因だとか、そんなものとは関係のない〈大量の悲しみ〉です。生まれつきの体質が吸収した悲しみです。人の悲しみも吸い取って、泉のように溜まりに溜まった悲しみです。みんなが神無月さんのことを神さまと言うのは、それができるのは常人じゃないという意味であって、必要以上に持ち上げたり、からかったりしてるわけじゃないんです」
「…………」
「神無月さんの言動は、ぜんぶその悲しみから出てきてるうえに、振舞いの様子も常人のものではないですから、だれもわかりっこない。大瀬子橋を渡ってるとき、私だけはわかったと思って、叫び出したいほどうれしかったです」
 菅野の言葉が胸にくる。私が生息している暗がりを言葉が飛び回る、形にならない無数の言葉。湧いては消えるその一つも捉えることができないうちに、飛び交う熱にほだされて頬がゆがんでくる。
 松坂屋へ向かう道。テレビ塔を見上げるフロントガラス。私の母への憎しみを隠したクマさんの情熱的な言葉。憎しみから生まれる情熱的な言葉はいつも薄暗い悲哀を帯びている。それこそ、もの心ついたある日からいつも私が親しんできたものの正体だ。
「大量の悲しみ……そうかもしれないですね。悲しい人としか、共鳴し合えないということですから」
「はい、みんなとっくに理解してました。秘密の泉の水を少しでもすすって生き延びようとする人たち全員です。和子さんたちばかりじゃありません。寺田さん兄弟も、若頭さんも、あのすばらしい山口さんも。社長夫婦と私も加えてください。これからは理解者がもっともっと増えますよ。神無月さんといっしょに悲しむ人たちがね」
 私は涙を流しながらうなずいた。


         二十

 すでに帰り着いていた優子たちと、一家の人びとに短い挨拶をすると、菅野を報告役に残して離れの机へいった。原稿用紙に向かう。庭の葉に音を立てて雨脚が強くなった。鉛筆が止まった。
 金を放りこんでいない別の抽斗を開けると、写真が五枚出てきた。シャトー西の丸の部屋で直人がガラガラを見上げながら手を差し伸ばしているところ、大きな長靴を履いてぼんやりマンションの廊下に立っているところ、座布団に坐って絵本か何かを真剣に見下ろしているところ、北村席の女たちに向かって歩き出そうとするところ。最後の写真は、トモヨさんに抱かれ直人がカメラに向かって神秘的な笑みを浮かべているものだった。その顔は、国際ホテルのロビーで、母のかたわらに寄り添い、無表情にカメラを見つめていた私に仄(ほの)かに似ていた。ただ、私とちがってどの写真にも幸福そうな顔が写っていた。便箋が二枚。 

 お元気ですか。こちらは母子とも大過ありません。東大が秋季リーグ優勝の勢いで勝ち進んでいる様子、新聞で拝見して一家じゅうで喜んでいます。二期連続の三冠王も確実のようですね。
 仕事を何もしないのもつらいので、やっぱり北村席の台所で賄いをさせてもらっています。養子とは言え、実の娘にこれまで以上のお給料までくださるんですよ。心苦しいです。
 北村席のご夫婦は、塙席のご夫婦と共同経営のお店の様子を見に、月に一度は出かけていきます。菅野さんが送り迎えです。
 午後の暇なときなど、直人をかわいがったあとはかならず郷くんと和子さんの噂になります。静かな男だが底知れないものを持ってる、とか、じゃじゃ馬の和子ならなんとか添い遂げられるだろう、などと言っています。添い遂げられるどころか、和子さんは郷くんをこれから大出世させる人です。郷くんは、出世がきらいでしたね。ごめんなさい。これからもずっと好きな野球をつづけていかれるように、うまくことが運べばいいですね。たとえ思いどおりにことが成らず、ほかの仕事で活躍することになっても、後世に残る人であることはまちがいありません。和子さんはそのことを見抜いていらっしゃいます。
 またおりに触れて直人の写真を送ります。眺めて楽しんでください。ではこれで。おからだくれぐれも大切に。
   愛する郷さま       智代


 去年の秋の上京前に書いたもののようだ。どうしてこの手紙を投函しなかったのだろう。北村と塙共同経営の店が実現しなかったからか。たとえ思いどおりにことが成らず、ほかの仕事で活躍することになっても―不吉なことを言ってしまったと感じて、反省したからだろうか。
「文章が下手で、恥ずかしくて。何度か書いたんですけど」
 そういえばいつかそんなことを言ったことがあった。しかしそれが理由ではない。リーグ戦の直前にも、短信と直人の写真を送ってよこした。おそらく、何通も手紙を書き送ることで私の〈貴重な〉時間を奪うことを危惧したのだ。
 母親に抱かれて微笑する直人を見つめる。なんと美しい子だろう。それにも増してトモヨさんの美しさは尋常でない。じっと見ると、どこもカズちゃんに似ていない。母子の顔を指でなぞってから、抽斗にしまった。
 きょうシャンデリアの下で成功というものを考えたことを思い出した。世間的成功によって私は新しい世界に入った。もてはやされ、注目を浴びる。しかし私は平静でいる。だれに囲まれても無表情だとしたら、私はふつうの人間ではない。ふつうでない対応をするのは、いまの私が自分にとってふつうの環境にいないからだ。西松建設以来、私に没入してくれた人びとのおかげで、このふつうでない環境に放りこまれたことに私は感謝する。この奇妙な環境で私のするべきことは、新しい華々しさを外部から眺めることだけで、奥深く入りこみその一員になることではない。生来の性質とカズちゃんたちの存在のおかげでそれができる。苦闘、挫折、悪意への適合の努力、それはこれからも経験しなければならないだろう。成功という甘い香りを嗅ぎながら浮薄な影響を受けないためには、よほど頑迷でなければならない。無知蒙昧に生れてほんとうによかった。
 母屋のほうが騒がしい。カズちゃんたちが帰ってきた。トモヨさんが渡り廊下から声をかける。
「CBCニュースの三十分特番に郷くんが映ってますよ」
 座敷のテレビの前に全員揃っている。千佳子が直人を抱いている。カズちゃんが、
「天童さん、丸さん、週休はリクエストどおりなったわよ。天童さん月曜日、丸さん金曜日。あしたから出勤お願いね」
「はーい」
 私は食い入るように画面を見つめる菅野の後ろについた。ファンたちの質問に私が答えているところだった。
「恋人はいますか。それと、好きなタイプの女性は?」
「ふくよかな女性が好きです。片想いの人が十人ほど」
 座敷がどよめいた。
「うまい! 十人が冗談に聞こえるがや」
 と主人がうなった。
「給料は何に使ってるんですか」
「本、レコード、野球用品、外食。近々、十人くらい乗れるバンを買う予定です」
 女将が、
「来週、トヨタハイエースが届きますよ」
「嫌いな選手はいますか」
「特定の個人ではなく、プライドばかり高くて、自己鍛錬しない人」
「神無月選手が小学生のころ中日ドラゴンズの選手に感動したからこそ、是が非でも中日に入りたかったんですよね」
「そうです」
「それはだれですか」
「偶然ここにいらっしゃる中さんと高木さんと江藤さん、それから森徹さんと一枝さんと木俣さん、そしてブルペンで見た板東さんと小川さんです」
「どんな感動だったんですか」
「長くなります」
 司会者のほうを見て時間を気にする私の顔が大写しになる。司会が快くうなずく。
「二、三人のバッターに絞ってお話します。中さんが二塁を蹴って三塁へ向かうとき、大股で地面を摺るように、しかも地面から浮き上がってホーバークラフトのように飛んでいくんです。ああいう走法はプロ野球界に一人しかいません。中さんの三塁打は芸術品です。いまでも中さんが打席に入るたびに三塁打を期待します。高木さんは昭和三十六年に、たった二本のホームランしか打ってません。そのうちの一本をぼくは見ています。第一号は八月十何日かの大洋戦でした。ぼくはたまたまネット裏で見ていたんです。七番バッターで出て、五回の裏、峰というピッチャーから内角低目の速球を左中間へライナーでぶちこみました。そのときのガシュッという音がプロの音として記憶されました。高木さんは四打数三安打でしたが試合は四対二で負けました。江藤さん―右肩の少し上にバットを掲げる静かな美しい構えにあこがれます。あの構えから豪快な打球が空高く飛んでいく。しかも繊細なバットコントロール。球場で観戦するたびに、惚れぼれと見つめました。同じ三十六年の八月下旬、満員の巨人戦でした。ぼくは一塁側内野指定席で観ていました。四番森、五番江藤。ピッチャーはあの権藤さん。巨人の山崎というピッチャーから、二回裏に江藤さんは高々とレフトに先制の一発を放りこみました。内角のカーブだったと思います。ヒットはその一本きりで、あとは二打席とも三振でした。その対照をすばらしいと思った。これぞホームランバッターの真骨頂だと確信しました。試合は十回裏に河野さんのサヨナラヒットが出て四対三で勝ちました。その年、入団一年目の権藤さんは三十五勝を挙げて沢村賞と新人王を獲りましたが、その試合が二十五勝目でした」
 テロップに、天才的な記憶力、と流れた。女将が、
「ほんま、天才やわ。うちらの前にこうしておるのが信じられんわ」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんは、ちゃんと別の記憶も持ってるのね」
「何回も小山田さんや吉冨さんたちが中日球場に連れてってくれたからね。球場の外に吐き出されてからの帰り道がさびしかった。横浜の映画館でも同じ思いをした。球場の外に大ホテルを建てたら、きっと繁盛するだろうね」
 みんなでひそやかに笑った。丸が、
「仕事からの帰り道はさびしくないですけど、野球場や映画館からの帰り道はたまらないでしょうね。質問はたしかこの人で終わりだったかしら」
「うん。六人受けたんだけど、五番目の人に一番長く答えた。そのまま放送してるみたいだね」
 天童が、
「とにかくずっと一人だけ輝いてるんです。会場のファンだけじゃなく、ほかの選手たちも神無月さんのことばかり見るんですよ。最初の自己紹介のとき、監督さんも選手も、みんなボーッとした顔で涙を浮かべてました」
 質問風景の撮影は私を柱に編集して、ほかの選手は短く切り上げられていた。自己紹介のビデオは、水原監督がチラと流れただけだった。いろいろとさし障りが予想されたのだろう。主人が、
「千佳ちゃん、サインは?」
「整理券をもらえませんでした。二千人もきたから、私や天童さんや丸さんはその他大勢」
「千佳子もきてたの?」
「ずっと後ろのほうに、最後までいました。トモヨさんに預けられたバカチョンで、だいぶ写真を撮りました」
 テレビのアナウンサーが、
「開幕まであと三日、異例の時期に行なわれたサイン会は、ドラゴンズの幸先を占う意味で、またとない成功を収めました。水原監督のおっしゃった約束の十字架、優勝の二文字を背負って、いまや竜たちは天馬に牽かれて天に昇ろうとしています」
 と締めくくった。主人が、
「松葉さんはきてたんですか?」
「はい人混みからぼくを引き出して、菅野さんに渡してくれました」
 あわただしく動き回りはじめた賄いたちを眺めながら、直人がごはん、ごはん、と言って千佳子の膝の上に立ち上がった。瞬く間に食卓が整った。テレビを点けっぱなしにしながら、みんなで食卓を囲んだ。百江が、
「お赤飯もありますよ」
「もらう、もらう、大好物。大盛り」
「うちもちょうだい。ごま塩たっぷりかけて」
「私も」
 素子とメイ子が手を上げる。
 カステライチバン、デンワハニバン……。黒い背景に浮き立つように、五匹の白い子熊のマペットがダンスする。テレビを観はじめたころから知っているコマーシャルだ。直人がテレビの前で跳びはねる。不意に牛巻病院のロビーの白黒テレビを思い出した。あのロビーをもう一度訪ねてみたい。……いや、たとえあの場所が人生のもっとも輝かしい瞬間といっしょに思い出されるとしても、ふたたび訪ねていくだけで過去の日が蘇ると思うのはまちがいだ。私に喜びと安らぎをもたらしたものは、目にした光景ばかりではなかったからだ。私が克明に憶えているのは、あのロビーそのものではなく、節子や康男や大部屋の人びととすごしたひとときと、彼らを囲んでいたいろいろな情景と、そこで経験した気分だ。どれほどその場所が美しく、どれほど空気が透明でも、節子の肌の輝きや、康男の包帯のにおいや、人びとの声や、あのときの私の燃え立つ感情がないなら、そんな風景にたどり着いても甲斐がないだろう。あの場所は、もうどこにもない。私以外のだれにとっても、一度も存在したことがない場所だ。
 庭が小雨に変わっている。トモヨさんが、
「私からも、質問一つ。郷くんに関してじゃなく、野球のこと。いまのパリーグって球場がガラガラだって聞きますけど、むかしの西鉄や南海みたいに、いくらマスコミの報道が少なくても、強ければお客さんはたくさん集まったわけでしょう? いまだって強い優勝チームがいるのに、なぜかしら」
「むかしからパリーグの球場はガラガラだったんだ。一時期の西鉄と南海が例外だっただけ。連続して優勝する強さがあって、スター選手が常時出場してたからだよ。パリーグのほとんどの球団が貧乏だったから、スポンサーになってテレビ放映を増やせなかったせいもある。いまガラガラなのは、ひたすらスター不在のせいだね。スターと言っても、ピッチャーもバッターも能力一本じゃなく、たたずまいにオーラがなくちゃいけない。中西、豊田、稲尾、野村、杉浦、尾崎、張本。いまのパリーグにはそういうスターがいない」
 最近は私を巻きこんで酔わせることを恐れて、めっきり晩酌をしなくなった主人が、春雨の炒め物をおかずにめしを口に放りこみながら、
「そのとおり!」
 メイ子が、
「神無月さんがセリーグにきちゃったから、パリーグはますますさびれますね」
「パリーグのスターは、阪急の長池、南海の野村、東映の大杉、張本……。近鉄、ロッテ、西鉄にはだれもいない」
 餃子を赤飯に載せてめしを掻きこむ。
 カズちゃんが、
「水原監督と握手したあの監督のチームは?」
 店の者たちは入りこめない話題になったので、せっせとめしを食いだした。女将とソテツが直人に食事をさせている。主人が、
「三原近鉄やな。今年はかならず優勝すると言っとる。水原さんと握手する前、三原退団騒動が持ち上がっとった。三原は金にまつわるトラブルの多い男でな、近鉄入団契約の条件が、チーム成績を上げてくれたら給料アップするゆうものやった。で、最下位から四位になった。三原は当然年俸アップを要求する、そしたら次の機会にと言われた。それでぶち切れたんやな。結局、一千万くらいボーナスもらって、たった一年間の契約をし直したんやが、球団との関係はかなり緊迫しとるらしいわ。優勝はないやろ。三原はもう監督業に見切りをつけたがっとるからな」
 私は、
「なんでそこまでして 金がほしいんですかね」
「キョウちゃんとは人間がちがうんよ。ふつうの人やが」
 素子がもりもりと赤飯を食う。菅野が肉野菜炒めをうまそうに頬ばる。肉じゃがの大皿が空になりかけている。


         二十一

 ソテツが、
「大辛スープ、上がりました」
 希望者がバラバラと手を上げる。菅野が、
「ふつうもふつう、神無月さんとはぜんぜんちがいます。巨人に追い出されて西鉄にいって以来、野球でめしを食うという考えが根にありますからね。きょうのサイン会で、司会者が水原監督のことを優勝請負人と言ってましたが、見当ちがいでしょう。球団の方針と同様、水原イズムは、選手もファンも野球を楽しめればそれでいいというものです。だから三原とちがって、勝つために有力選手を引き抜いてきたり、大規模なトレードをしたりして混乱を招くようなチーム作りはしません。もちろん勝負ごとですから、負けたいとは思わないでしょうが、しゃにむに優勝を狙うのじゃなく、優勝争いに加わってAクラスに残れば満足といった程度でしょう。スター選手は球団のマスコットであってくれればいいというわけですよ。その意味で、協力し合うべき五者、オーナー、球団フロント、監督、コーチ陣、選手の信頼関係ががっちり築かれてるんです。ドラゴンズは家族主義ですよ」
 イネが、
「無欲の勝利だべ」
 と素朴なことを言った。主人がうなずき、
「そう。三原は個人重視の遠心力野球なんて体のいいことを言っとるが、個人なんてのはチームが勝つためには屁の突っ張りにもならないという考えの持ち主でな。勝つため、優勝するためには、あらゆる手段を講じ、どんな手間ひまも惜しまない優勝請負人や。水原監督やフロントの神無月さんに対する考え方はちがう。チームの大黒柱としての神無月さんを応援しとるのはもちろんやけど、その前に、神無月さんの人柄に魅かれてファンになっとる。たまたま神無月さんがものすごい才能の持ち主やったということや。たしかに無欲の勝利や」
 カズちゃんが自分の箸と食器を片づけながら、
「スポーツの世界も実際の人生と同じくらいややこしいのね。水原監督だって、東映にいく前に巨人軍からいろいろ残酷な仕打ちを受けてるけど、見返してやるなんて力んでなかったので、おかしな勝利主義者にならなかったのよ。格好だけじゃなく、心もダンディだからよ。でも読売新聞て、だれかれかまわず裏切って、ろくな会社じゃないわね」
 菅野が、
「社長、球団オーナーともに東大ですからね。たかがボンクラな野球選手のくせにって見くだしてるのはまちがいないです。それだけに東大出身の神無月さんを、喉から手が出るほどほしかったでしょうが、ふられました」
 トモヨさんが直人の唇を濡れたタオルで拭い、
「プロ野球という才能オンリーの世界も、学歴で見る人たちがたくさんいるのね」
 私は、
「監督や選手たちが、社長やオーナーにペコペコしてるからナメられるんです。ペコペコもしない、ふんぞり返りもしない、野球のことだけ考えて超然としてなくちゃ。将来ちゃんとした家庭生活を営みたい、そのためにはたくさんゲームに出たい、タイトルを獲って安定したい、あわよくぱ監督にもなりたい―そんなことを考えてるから、思わずペコペコしてしまうんです。何らかの理由で野球ができなくなったら、さっさと引退しようと考えていたら、怖いものなんかないじゃないですか。所詮、威張り散らす人間は、仲間になれない〈あちら〉の人です。学歴や財力のような、内面と関係のない勲章を持っていない人たちを脅して悦に入ってるウンコ野郎たちですよ。せっかく才能を天から授かって生れてきたのに、そんなやつらにへいこらして、野球をする喜びに浸る時間を奪われてはいけない」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんその気持ちは、ドラゴンズのみんなに伝わってるわよ。もちろん私たちは一人残らずわかってるから、安心してね。久しぶりに熱くなったキョウちゃんを見て、涙が出そうよ」
 実際に泣いていた。主人が、
「ほんとに神無月さんは、肩書や金や権力が嫌いなんですなあ!」
「目を閉じ、耳を塞ぐのは簡単です。ぼくは簡単に生きたいだけです。注目されず、何も見ず、何も聞こえない人生を送りたいですが、しばらくそれもできなくなりました。こうなるのがむかしのぼくの希望だったなんて、信じられません」
 菅野が、
「見てほしがるのがふつうの人生です。でもそうしないで生きられるのを才能と呼ぶんです。無欲のせいで脆いものですけどね。才能はそういう連中の企みですぐ潰されます。大事に護ってあげないといけないんです」
 女将が、
「もう日本じゅうの人が護ってくれとらい」
「女将さん、それは甘い。こうして神無月さんを知ってる人間だけが護ってるんです。ファンはただ騒ぐだけで護ってくれません。さ、社長、見回りにいってきましょう。遅番の女たちを乗せていきます」
「お、いこう。直人、もうおねむしなさい。トロンとしとるぞ」
 トモヨさんが直人の手を引いて風呂に去り、ソテツとイネが厨房の後片づけに戻っていくと、主人と菅野がキッコを含む遅番の女を連れて出かけた。コーヒーを含みながら、座敷の長テーブルでみんなと話をつづける。女将、カズちゃん、素子、千佳子、百江、メイ子、天童、丸、れん、しずか。
「きょうのサイン会、威厳というんですか、みんなそんな感じがしました。わざとらしく威張ってるんじゃなくて、自然なきびしさみたいな。だれも壁を立ててない……。それがさっき話してたフロントや監督の姿勢ということですね」
 近記れんが言う。カズちゃんが、
「そのきびしい感じはね、野球人としての鍛錬をサボってないという自信からくるの。肩書や権威を求めたり、お金や物を求めて表面を飾ろうとする努力とは雲泥の差があるのよ。そういう人たちはガッシリした団結をするわ。読売新聞は巨人軍を事業の宣伝や販路拡大の〈道具〉としてしか捉えてない。才能のある人間のガッシリした集団を作ろうとしないの。使いにくい道具はかえって営業のじゃま。だから選手がどんなにすばらしいプレイをしても、感動することはあり得ない。道具になんか感動したくないもの。そういう姿勢が野球界全体の健やかな発展のじゃまをしてるということね。じゃまされてるのにヘーコラする人たちにキョウちゃんは腹を立てたの」
 千佳子がうなずき、
「それで、チームの人事に口を出したり、選手の待遇に口を出したりするんですね。選手を球団の道具として扱って、会社の営業にどうにかして役立てることだけを考える。独立した才能集団とは見ない。巨人の体質って、会社の体質だったんですね。とすると、川上監督は営業の代表者ってことに―」
「なるわね。彼の意見は、読売新聞首脳の意見よ。権威のもとに取りこもうとする独裁体質はそこからきてるの。拘束して屈服させたがる。巨人軍を屈服させるだけじゃなく、あの手この手でプロ野球界全体を取りこもうとするわけ。そういう体質は魅力的だから、ほとんどの球団の経営者に伝染する。水原さんも三原さんも、その体質に翻弄されながら野球界で生きるをことを強いられてるの。キョウちゃんもそうよ。スポンサーがいるかぎり取りこまれるしかない。どうしようもないことね。だからこそ、ヘーコラしないで、そんなことをすべて忘れて野球だけに没頭しろとキョウちゃんは言ってるの。そんなくだらないものと戦う時間が惜しいのよ。やれるうちに楽しい野球をして、追い出されたらやめちゃう。……たとえそう覚悟している野球選手がいるとしても、その人たちとキョウちゃんがちがうところは、お金のことを一切考えないところ。才能の報酬はファンの喚声と拍手だと思ってるから。水原監督もドラゴンズの選手たちも首脳陣も、いまはそういう奇跡の集団になってきたようね。いままでお金でゴタゴタしてきたドラゴンズの選手も、すっかり生まれ変わったでしょう。それでも、まんいちゴネることが起きてはいけないので、水原監督は強大な財界を味方につけたのよ」
 素子が、
「お姉さん、ようそんなことが考えられるわ。どういう頭の構造しとるん」
「あなたももっとしっかり考えなくちゃだめよ。キョウちゃんとは一蓮托生なんだからね。何でも知っておかないと」
 女将が、
「和子みたいにはうまく言えんけど、おんなじような感じで思っとったよ。そやから菅野さんの護るゆう言葉の意味もようわかった」
「きょう控室で待ってるとき、中さんや高木さんがチラッとプロ野球規約のことを話してた。主力となることを嘱望されて入団した選手は、いったんその球団に所属したら、契約期間が切れる前に自分勝手にほかの球団へ移ったり、また戻ってきたりできないというルールなんだ。重大な理由があって本人の意思で辞めるとか、クビになるとかなら別だけどね。一年の契約期間が切れたら勝手に辞めるということもできないらしいんだ。球団には選手保有権というのがあってね、その期間が十四年。そのせいで有力選手の契約金が高いんだそうだ。十四年間拘束分の契約金なんだよ。いつでも辞める覚悟があるなんてことをぼくは口に出したことがあるし、みんなも辞めないでくれってぼくに合わせてくれてたけど、辞めたらもう野球が十四年できない、復帰もできないという深刻な話だったんだ。知らなかった。保有権を買い取るような大盤振る舞いをする球団が出てくれば別だろうけど、その場合、保有権を買ってもらって金銭トレードという手段があるらしい。とにかく辞めても辞めなくても、十四年間は自由を拘束されるんだ。みんな真剣に心配するはずだ。いずれにしても、ほかの球団で野球をやるつもりのないぼくには関係のない規約だけどね。いつ辞めてもいいし、辞めたくなければ十四年いられる」
 百江が、
「まるでヤクザですね」
「うん、足抜け禁止。ヤクザっぽくてすてきなルールだ。それを知って、なんだか気持ちが落ち着いた。よほど球団に迷惑をかけるようなことをしないかぎり、好成績を残していれば十四年間はクビにならないから、のんびり野球をやりつづけられるって」
 食後の卓に居残っている連中にソテツがコーヒーを出す。風呂から上がったトモヨさんが離れで直人を寝かしつけ、ようやく座敷に戻ってきた。賄いたちも座敷に落ち着く。主人と菅野も九時上がりの女を三人連れて帰ってきた。菅野が、
「十四年とか何とか聞こえてましたよ。『十年選手の権利』のことですか? ソテツちゃん、俺たちにもコーヒーちょうだい」
 主人が、
「その制度は、ドラフト導入でなくなったやろ」
 菅野が、
「そうなんです。ドラフト以前は、球界の発展のためには選手に対してある程度の負担を強いるのは止むを得ないということで、十年という年限が決まってたんです」
「十四年じゃなかったんですね」
 私が言うと、
「はい。それはドラフト制度導入以降なんですよ。それまでは、入団から十年経てば選手は希望する球団に移籍できる権利があったんです。移籍が決まったら、球団は『十年目のボーナス』も支払って、十年間よく働いてくれたという感謝の気持ちを移籍とお金で表わさなくちゃいけなかったんです。ドラフト以降、待遇改善を求めて新天地へ移る自由がめちゃくちゃ束縛されるようになった。十年でも酷な制度だったのに、十四年になった。西鉄の豊田がドラフト以前に国鉄に移籍したのは、この十年権利を行使しようとしたら球団がボーナスを出し渋ったので、結局金銭トレードになったものですよ。金田はぐずぐず国鉄に十五年も留め置かれて、ドラフト導入初年度の昭和四十年に、遅ればせながらこの権利を行使して巨人に移った。すでに三十二歳。それから四年間やって四十三勝、トータル三百九十六勝まで漕ぎつけました。今年四勝し、四百勝という金字塔を引っ提げて引退するでしょう。金田だからできたことです。ふつうの選手なら、働き盛りの時期に飼い殺しにされ、ロートルになって移籍してチョンです。弱小国鉄から早い時期に巨人に移籍していたら、金田は確実に五百勝を挙げたでしょうね」
 私は苦笑いし、
「知ってたんですね、クビにならないかぎり簡単に辞められないことを」
「……がっかりすると思いましてね。何も知らないということに深く感動もしましたしね。結局のところ、神無月さんはどんな制度があろうと、飽きるまで野球をやればいいだけのことなんですよ。辞めたいと思ったら、クビになってやれって不祥事を起こしてまでも辞める人ですから。黙って見てることにしたんです」
 カズちゃんが、
「私たちも知らなかった。でもショックじゃないわ。よかったなって感じ」
 素子が、
「三十三歳までは記録を伸ばしつづけられるがね。前向きの希望が出てきたゆうことやろ。才能を出しきれるちゅう」
「そう。キョウちゃんがのんびりするまで十四年。自分の年齢に十四足せるという感覚もうれしい。まだ四十八、九よ。トモヨさんが五十そこそこ、百江さんが六十そこそこ、文江さんだって六十を少し過ぎたくらいよ。まだまだ元気なうちにキョウちゃんを迎えられる」
 百江がにっこり笑った。
「ほんとだ。私もまだ四十二だがね。ピンピンしとるがや」
 千佳子が、
「足し算できる喜びという言い方がおもしろいわ。新しい希望の感じ」
 父親が、
「ほうやな、和子はおもしろいことを言う。ワシら夫婦も、そこまではとにかく一生懸命やらんとあかん。そこから、喜寿、米寿と、神無月さんや直人とのんびり生きていくんやな。うれしいなあ」
 菅野は、
「私はトモヨ奥さんと同い年だから、十四足して五十三か。息子に子供ができるころかな。想像がつきませんね」
「想像しないで楽しく待ってればいいじゃない。キョウちゃんが野球してる姿を見るのも楽しいし、やめたあともいっしょにいられて楽しいし。そのときそのときよ」
「そうですね」
 トモヨさんが、
「十四年……。直人が高校に上がる年だわ。十六になる年。なんだかうれしい」
「引退の年は、みんなで旅をしたいね」


         二十二

 素子が、
「キョウちゃん、今年の冬は、青森いくんやろ」
「その予定でいる」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんだけでね。もう女がついてったら危険。秋に東奥日報さんが取材にきたあとになるわね」
 主人が、
「東奥の神無月さん特集も、今度の日曜で六回目や。先回は、野辺地中学校をインタビュー形式で取材しとったな。校長先生、担任の先生、同級生。校長先生は、学問で成功すると思っとった人間が野球のヒーローになってまって、狐につままれた感じやと答えとった。担任の先生は、ただただ神無月さんの人生に感動すると答えとった。甲子園に二度も出たちゅう同級生が、自分はプロにいく実力はなかったけれども、偶然のことで神無月さんといっしょに海に向かって雪玉を投げたのが一生の思いになったと答えとった。神無月さんの詩がまるまる載っとった。野辺地ゆう題やった。グッときたわ」
 千佳子が、
「ノートに写しました。神無月さんの思索の世界。ふるえるほど感動するんですけど、神無月くんが私たちには縁のない遠い人だとも実感します。こうしてそばにいられるのはとんでもない奇跡だと思ってます」
 百江が、
「ほんとですね、噛みしめて生きないと」
 女将が、
「次回は青森高校の取材らしいですよ。そうや、忘れとった。いつやったか、あの浜中さんゆう人から電話がきてな、些少ですがこれまでの詩の原稿料を口座のほうに振りこませてもらうって。和子の口座を教えといた」
「入ってたわよ。どういう計算か知らないけど、何万円という大きな金額だった。ハイエースの支払いの一部に充てました」
「何人乗り?」
「バンは六人までだったから、九人乗りのワゴンにしたわ」
 菅野が頭を下げ、
「助かります」
「月曜日に届くでな。ここで免許持っとるのは菅ちゃんと和子だけやで、二人で使ったらええ」
 カズちゃんはうなずき、
「二人じゃ心細いから、素ちゃんと千佳ちゃん、免許取ってちょうだい。教習費は出すから。岐阜の中津川で二週間の合宿教習やってるところがあるの。二人以上だと少し割引になるんだって。中央本線で一時間半。中津川駅から送迎バスが出てる。千佳ちゃんが夏休みに入ったら二人でいってらっしゃい」
 素子ははしゃいで手を挙げ、
「はーい。中津川ってどんなとこやの」
 菅野が、
「中山道の宿場町です。周りは丘や山や川だらけ。いいところですよ。教習所も広々とした自然に囲まれてます。新婚時代に女房とドライブしたことがありましてね。中津川自動車教習所はそのころからの老舗です。合宿といったら百人も集まりますから、賑やかで楽しいですよ」
 千佳子が、
「ムッちゃんは?」
「あの子はおっとりしてるから、運転は合わないわ」
 女将が、
「芯の強いお人形さんやね」
 千佳子が、
「ムッちゃんを見てると、抱き締めたくなる」
 みんなうなずく。カズちゃんがトモヨさんに、
「あしたは三時に店を閉めて、みんなでここを手伝うわ。食材はだいじょうぶ?」
「ぜんぶ十二時に届きます。煮物、焼き物、蒸し物、炒め物、生野菜、デザート。ぜんぶ丹精こめてお作りします」
「お店の子も、ドラゴンズの人も、分け隔てなく大皿で出してちょうだいね」
「もちろんそうします」
「お客さんの小皿への取り分けは、賄いの人におまかせするわ」
「水原監督、小山オーナー、村迫球団代表、榊スカウト部長の四人でしたね。お酌をつけたほうがいいですか」
「食事の前とあとね。北村のみんなの顔を知ってもらうために、入れ替わり立ち代わりでいいと思うわ。服装だけはちゃんとしてね。キョウちゃんも、ジャージはだめよ」
「うん」
「塙さんから三味と踊りを呼ぶか」
「いらないわ。もっと派手なものを見慣れてる人たちだから。やるならカラオケだけにしましょう。ところで素ちゃん、広野さんとは仲良くやってる?」
「仲いいどころか、夜一時間だけ英語教えてもらっとる。いま中学校一年の問題集」
「月謝払ってるの?」
「おいしい紅茶いれてくれればええって」
「すてきな人ね。仕事ぶりもいいし。……応募者が引きも切らないのよ。お客さんの数が毎日百人を超えることが確実になったし、キョウちゃんの人気もこの先急上昇していくから、そろそろ処理しきれなくなってくるはず。七月から営業時間を四時で打ち切ることにするわ。給料はそのままよ。おとうさん、もう二号店を出すしかないと思うのよね」
「ほやな。ワシもそう思っとった」
「都心はいやなの。牧野公園の向こうに、売りに出てる空き地があるでしょ。太閤通からすぐ入ったところ。あそこを買ってちょうだい。二号店と言っても喫茶店じゃなく、がっしりした構えの大きな平屋の食堂を建てたいの。営業は、大体の目安として朝八時から夜八時。お店の名前はアヤメ。アイリスでも食事だけをしたくてくるお客さんは多いの。コーヒーや軽食でなくちゃんとした食事をとりたいお客さんはたくさんいるってこと」
 女将が、
「料理人が三人要るわな」
「どうしてもね。今度は厨房もホールも、交代で休んでもらえるようにして二十人くらい募集をかけます。嗜好品の飲み物は出しません。七月にスタッフをそろえて、八月には開店をしたいわ。また面接の手伝いをしてくれる?」
「よっしゃ。菅ちゃんも頼んだで」
「承知しました」
「できれば、年をとってトルコを辞めなくちゃいけなくなった人の更生施設にしたいの。北村や寮の厨房で引き取るのはたいへんでしょう。だから面接では、清潔そうな人なら五十代までは合格させてちょうだい。かよいの人にかぎってね」
「がんばります」
「すばらしいわ……」
 千佳子が歎息した。女将が柔らかい表情で、
「あした棟梁に電話して、不動産屋さんにもきてもらおうわい」
「どうしても統率役が必要だと思うのよ。ソテツちゃんはおトキさんが帰ってくるまでの台所の要でもあるし、年配の人の中だと若すぎてナメられちゃうから、八月から天童さんと丸さんに入ってもらいます」
「はい!」
 台所の洗い物の山は、賄い八人で片づけるのに一時間以上かかる。物音が激しく、活気のある時間だ。かよいの賄いたちはようやく一仕事すますと、まとまって挨拶して土間に立った。あの老婆が目についたので、式台にいって声をかけた。
「ここは長いんですか?」
 老女はかしこまって微笑み、
「昭和五年に、おトキさんより少し前に二十歳で塙さんにきて、四十まで芸妓の仕事に出とりました。それから北村さんのお台所に入りましたから、合わせて三十四年になります」
「ここは十四年ですね。五十四歳ですか、そんなに若かったんですね」
「はい。北村のお館さまと奥さまのご結婚のときと、和子お嬢さまがお生まれになったときには、精いっぱい舞わせていただきました」
「そうですか……あまり前屈みで歩かないほうがいいですよ。舞踊にもよくないでしょう。背を伸ばすだけで世の中が変わります。ぼくも四年前、うつむいて歩いていました。あるとき眼を上げて、空の高さに驚きました。……あした踊っていただけますか」
 老女はびっくりして、主人を見た。
「シノブ、踊りなさい。ワシが沖のかもめを唄うから」
「いえ、唄も鳴り物もなしで、雪娘を舞わせていただきます」
「そうか。着物はあるかな」
「着物も鬘(かつら)も傘もございます。……それでは失礼いたします。神無月さん、声をかけてくだすってありがとうございました」
 目頭を拭った。お辞儀をしてみんなと去っていった。トモヨさんがカズちゃんと目を見交わして、目もとを指で押さえた。
「郷くん、とてもいいことをしてあげましたね。シノブさん、三十の年に一度塙から引かれたんです。引いてくれた旦那さんに十年添い遂げて、四十のときに病気で亡くして、それからここに移ってきたんですけど、ずっとあんなふうに腑抜けみたいになってたの。よほどその人のことが好きだったのね。三十一歳で産んだ一人娘が結婚して豊明(とよあけ)のほうにいるんですって。二歳のお孫さんもいるのに、なかなか会いにこないみたいで」
 イネが、
「わだし、シノブさんがウスラッて笑ったの、初めで見だ」
「お父さん、雪娘って何ですか」
「赤と桃色の襦袢の上に白い振袖を着て、透けた和傘を持って舞う踊りです。ほんとうは長唄をバックに舞うんですけどね」
 女将が、
「赤い雪が降ると、雪の精が人間の娘になれるという話やよ」
 トモヨさんが、
「塙のころ、私もよく雪娘を踊ってました。シノブさんは名人なんです。雪の精が、人間になってからのいろいろな楽しみを想像しながら待ちこがれているのに、赤い雪が降らないので融けて消えてしまう。しみじみと悲しい話です。ほとんど動きのない、指先爪先まで神経を凝らさないといけないとても難しい舞です。この界隈で雪娘をちゃんと踊れるのはシノブさんぐらいじゃないでしょうか。これがきっかけで、元気を取り戻してくれるといいんですけど」
 私は思い当たって胸を揺すぶられた。
「よく踊ったのは、引かれてからでしょう?」
 トモヨさんに訊くと、
「そう。どうして?」
「雪娘というのは雪女伝説の焼き直しなんだ。雪女は山姥の月のものを馬鹿にして怒りを買った。山姥は、赤い雪が降るまでは男と交われないという呪いをかけた。長い年月待って、とうとう赤い雪が降り、封印を解かれた雪女は人間の男と交わって悦びを知る。人間の娘になれたというわけ。雪女はいるけど雪男というのはいないので、人間の男に働きかけて交わるしかないわけです。シノブさんはそういう日舞を踊っているうちに、ご主人に出会った。そして女になった。ご主人が亡くなってから踊ろうとしなかったのは、亡きご主人への貞操の証です。死んだようにうつむいて生きてたのもそうです。あした踊るのは、あらためて貞操を通す覚悟をするためだと思います。覚悟をして生き直そうとすれば、人は悲しみを吹っ切れます。元気になりますよ」
 その場にいた全員が涙を浮かべた。素子が、
「赤い雪って、ほんとにあるん?」
「降ってこない赤い雪ならあるよ。高山地帯にね。積もっている雪にクラミドモナスという、赤い色素を持った藻類が繁殖するんだ。ただ……カズちゃん、この踊りはもともと日本のものじゃないよね?」
「さあ。よくわからないけど」
 女将が、
「中国のものやって聞いたことがあるが」
「やっぱり。この踊りは、赤い雪が〈降る〉という内容になってるでしょう? 降るとするなら、黄砂の混じった雪が降る土地じゃないとだめなんだ。ヨーロッパか中国。そんな土地に雪女伝説があるのかなあ。ま、そんなことはどうでもいいか。シノブさんの覚悟にケチがつくわけでもないし」
 話が一段落し、女たちは深い息をついた。ソテツとイネが、百江と天童と丸を誘って、
「じゃ、お先にお風呂もらって、休ませていただきます」
 と言って去った。十時に近い。自分のコップに最後のビールをつぎ切った菅野に、
「雨の日は一日仕事ですね。ご苦労さん」
「楽しい話が聞けて、退屈しません。ちっとも苦労じゃないですよ」
「じゃ、最後に、ちょっと尋きたいんだけど、いま王選手はノベ何本ぐらいホームランを打ってますか」 
「三百五十本ぐらいじゃなかったですかね。長嶋がもう少しで三百本」
 主人が、
「総本数の日本記録を作るには、ひどいハンデを食らってしまいましたな」
「はい。王さんが四十五本平均で打っていって、十年後に八百本前後。ぼくが七十本から八十本ずつ打っていけば十年で七、八百本。ぎりぎり追いつくかもしれないな。毎年八十本打たないとデッドヒートにはならない」
「しかし、そんなこと考えてたら、楽しく野球ができなくなりますよ」
 カズちゃんが、
「そうよ。そんなハンデをひっくり返そうとするのなんて、意味のない努力よ。のんびりやりなさい。年間記録を少しずつ更新していけばいいじゃない」
「そうだね。デッドヒートなんかしたくないし」
 素子が、
「人と争うのって、キョウちゃんに似合わん」


         二十三

 私は千佳子に、
「スコアブック、つけられるよね」
「はい、つけられます」
「ぼくは恥ずかしながら、つけられないんだ。もし今年の秋、日本シリーズに出られることになったら、全試合つけてほしい。どのピッチャーも一年間の研究の成果をぼくにぶつけるわけで、それをセリーグのピッチャーも参考にするから、来シーズンのぼくに対する攻め方の最高の資料になる」
「わかりました。この十二日から、いよいよ六大学野球も始まりますね」
「あ、そうか。すっかり忘れてた。早稲田の荒川、谷沢、小笠原、法政の山中、東大はピッチャー那智、ショート野添、センター岩田か。弱い。善戦は無理だろうな」
「小笠原って、あの小笠原くん?」
「うん、たぶん今年からは早稲田のエースピッチャーだ。あいつには注目していてね。肘か肩をやられて、登板機会がなかったような話を聞いたけど、プロを目指せる器だから」
「はい、ムッちゃんにも言っとく。東大は那智、野添、ええと……」
「東大はいいよ」
 主人が、
「ワシも全体に気をつけて見ときます。六大学野球には、よう目を通すで」
 座敷で菅野を交えて麻雀が始まった。遅番の女を迎えにいくまでの時間潰しだ。雨が降っていなかったら、ふだんの菅野はもう引き揚げている。カズちゃんがトモヨさんに、
「あしたは忙しくなるわね。シノブさんの着付け手伝うの?」
「はい。振袖衣装は手伝わないと無理です。下着、長襦袢、下帯までは自分でできるでしょうけど、袷(あわせ)、見せ襟、腰紐、振袖着物、おはしょり、袋帯の結びは、ひとりじゃたいへんです」
 まったくわからない話になった。カズちゃんも私と同じらしく、要領を得ない顔で笑いながら、
「とにかくよろしくね」
「あしたは少しオシャレをするかな。ダンディ水原監督の目を汚しちゃあかん」
「二人で着物を着よまい。さ、寝ますよ」
 主人夫婦が離れに引っこんだ。
「キョウちゃん、私たちも帰りましょ。百江さん、素ちゃん、メイ子ちゃん、いこ」
 私は千佳子に、
「店が二つとなると、将来会計士をやるのはどうしても千佳子の務めになりそうだね」
「ええ、さっきそう思いました。トルコのほうも頼まれてるし。三年生ぐらいから司法試験と同時並行でがんばります」
「三百代言よりも、まず大切な人の資産管理だ。菅野さん、あしたも走るよ。この雨だと夜のうちに上がると思うから」
「ほいきた。八時までに則武に伺います」
「じゃ、トモヨさん、千佳子、お休み」
「お休みなさい」
 トモヨさんと千佳子が玄関で私たちに傘を手渡した。イネとソテツと、天童や丸たちが式台でお辞儀をした。キッコは遅番のようだ。
 私はカズちゃんと、素子はメイ子と相合傘で、百江は一人傘差して歩いた。カズちゃんが、
「キョウちゃんは、不幸そうな人を見ると、放っておけない気持ちになるのね」
「下心があって声をかけたわけじゃないよ」
「わかってるわよ。不幸や不満を抱えた人って周りと調和しないから、キョウちゃんはある意味、叱りたくなるの。叱られれば人は目覚めるものよ。とてもすばらしいことをしたわ。さあ、あしたはキョウちゃんに何を着せようかしら」
 素子が、
「白いワイシャツに紺のセーターがええよ。パーッと輝くで」
「それと灰色のズボンね。広島にも灰色のブレザーを着ていけばいいわね」
 メイ子が私に、
「下着は十組ですね」
「しょっちゅう汗をかいて着替えるからね。でも、百江があしたユニフォームや用具とまとめて送るからだいじょうぶ」
 百江は、
「私、アイリスの厨房が早いので、ちょっと手が空かないんですよ」
 カズちゃんが、
「だいじょうぶ、あしたは朝のうちは私が厨房手伝うから。十時に出勤してちょうだい」
「そうですか、すみません。じゃ、お願いします」
「お休みなさい」
「お休みなさいませ」
 みんなで百江に手を振った。メイ子が玄関に向かう百江の背中をじっと見ていた。アイリスまでくると、
「お休みなさい!」
 今度は素子が手を振って、裏口へ回る隘路に入っていった。
 その夜は、女二人風呂から上がると、それぞれの部屋で寝た。私は一階の居間に布団を敷き、圓生の落語を子守唄にしながら寝た。
         †
 四月十日木曜日。七時起床。快晴。九・一度。蒲団を上げ、ジム部屋で二十分の筋トレをして汗を流す。うがい、排便、シャワーを浴びたあと、菅野と天神山公園まで名無しの道を一気に走る。いつもよりスピードを乗せた。路は濡れているけれども、空は明るく乾いている。公園で柔軟、三種の神器。
「あしたのランニングはどうします?」
「午前中に出発だから控えましょう」
「新幹線の切符買っときました。十時十九分発、新大阪まで一時間七分。十一時半ぐらいに着くでしょう」
「おさらいをすると、新大阪に十一時半に着いて大阪までタクシーか。そうして在来線の姫路行の特急に乗る。そこからだいたい一時間半。姫路で広島行の各駅に乗り換える。さらに四時間半。広島駅からタクシーで世羅別館。合計八時間弱。うまくいって六時から七時のあいだ。たまげたな!」
「名古屋から広島だけはあきらめるしかないですね。さあ、帰ってめしにしましょう」
 帰りもスピードを乗せて走った。からだが軽い。帰り着くと、玄関の上がり框に主人が出迎えた。青い絣(かすり)の着流し姿で、目が覚めるほど素足が白い。
「いいなあ、お父さん」
「でしょ。女房も同じような格好にしました」
 そう言って、女将の待つ帳場部屋に戻った。宗近棟梁の顔が覗いた。三人で打ち合わせをしていたようだ。棟梁が笑顔で会釈するので私も返した。廊下にいいにおいがただよっている。千佳子とソテツが出てきて、
「豚の角煮を作ってるの。シノブさんが仕こみ煮のとき、一時間もアク取りして、たいへんだったのよ」
「夜のごちそうだろ? 気が早いね」
 ソテツが目をクリクリさせて、
「時間をかけなくちゃいけないものもありますから。朝ごはんどうぞ。かますの干物、目玉焼き、白菜の浅漬け、海苔、シジミの味噌汁です。面倒でしょうけれど、シジミはなるべく身を食べるようにしてください。身にたっぷり栄養が詰まってますから」
 帳場部屋から棟梁の声が聞こえてくる。
「四国に亀屋という有名なうどんの店があるんですが、調理場がでんと真ん中にあって、それを囲むように幅の広い三和土の土間、その周りはぜんぶ広い小上がりというこしらえですわ」
「そういうがらんとしたのでなく、ふつうに、造りの頑丈な〈食堂〉というやつやな。品出し用以外のカウンターはいらん。惣菜をしゃべくる客の前にずらりと並べるゆうのも不潔やからね。一回、図面引いてみてくださいや」
「わかりました。私が引いていいんですね」
「アイリスみたいな洋風のシャレた店は建築士にやってもらわんとあかんけど、食堂はだめ。棟梁にまかせるわ」
 私は菅野と帳場へいき、
「宗近さん、素晴しい家をありがとうございました。怖いので値段は訊きません。自分に見合った使い勝手のいい家にしていこうと思います」
「いつでもお手入れいたしますよ。二十年、三十年はあっという間に経ちますから」
「そんなものですか。そのときはよろしくお願いします」
「ベランダ側の庭に藤棚の四阿を作りましょうわい」
「お手すきのときでもぜひ。あ、すみません、腹が―。菅野さん、先に風呂にいってて」
「ほい」
「じゃ、棟梁。アイリス同様、アヤメもよろしくお願いします」
「はいよ。開幕戦、がんばって。みんなで応援しとりますよ」
「はい、がんばります」
 汗で腹が冷え、いつもの下痢になった。菅野とシャワーを浴びてから座敷の食卓につく。キッコたちがいた。
「遅番?」
「中番。十二時から五時。水原監督に間に会うわ。楽しみや」
「早番、中番、遅番か」
「早番は二時ごろからぽつぽつ帰ってくる。遅番は七時ぐらいに出て、十一時か十二時まで。適当なんよ。時間給やなく、売り上げ給やさかい。きょうは、遅番で出ていく人はほとんどおらんのやない? 水原監督が見れるんやもん」
 女将が、
「荷物、和子が宅送便で送っといたで。あしたじゅうに届くそうや。じゃ、私アイリスへいってきます」
「ありがとう。八月からアヤメのほうへ移るといいんじゃない? 働きやすいだろう」
「はい、喫茶店の厨房よりはやりやすいと思います」
「思ったことは、すぐカズちゃんに言うんだよ」
「はい」
 おさんどんにきたトモヨさんが、
「ごはん食べたら、離れでゆっくりしてください。直人が帰ってくるのは二時過ぎですから」
「わかった」
 菅野がキッコに、
「キッコちゃん、いくつだっけ」
「二十一」
「若くしてベテランの風格だなあ。新しく入った子たちの評判いいよ。よく面倒見てくれるって」
「新米はみんなどもならんグズやさかい、ちゃんと教えたってるだけや」
 めしに千佳子も混じる。キッコが、
「ムッちゃんもそうやけど、あんた、めちゃくちゃきれいやなあ。ここの家は、婆さんまできれいで、まいってまうわ」
 千佳子が、
「婆さんて、だれですか?」
「うちより年上は、みんな婆さんや」
「じゃ、婆さんじゃないのは、私とムッちゃんとソテツちゃんだけ?」
「ほうや。婆さんなのに、みんなあたしよりきれいや。トモヨ奥さんや和子お嬢さんを見てみい。不気味やろ」
「不気味なんて。思わずうっとりします。キッコさんもきれいです。店にはきれいな人がたくさんいるんでしょうね」
「千鶴ちゃんが一番やな。ほかのきれいどころは、みんな神無月さんにツバつけられて台所に入ってまった。メイ子ちゃんもそうや。もとはと言えば、トモヨ奥さんもそうやろ」
 トモヨさんはうれしそうに、
「そうなんですよ。ツバをつけられて」
「あたしは借金返し終わるまでは、台所には入らんよ。ううん、年季が終わっても入らんわ。借金返し終わったら、二、三年この仕事で稼いで、貯金して学費貯めて、あんたやムッちゃんみたいに大学にいく。うち高校中退やから、検定試験に通らんとあかんけど」
「がんばって。わからないところは教えてあげる」
「頼むわ。まだ先のことやけど」
 菅野はめしをすますと、一人で一回目の見回りに出た。私は二膳のめしを終えると、トモヨさんの離れにいって、広島へ持っていく本の物色をした。芥川賞の帯がついた『されどわれらが日々・柴田翔』という単行本があったので、書棚から引っぱり出して机に持っていく。奥付を見るとオリンピックの年に出版されている。昭和三十九年。頭にこびりついている年だ。
 六、七十ページ読み進んですぐに、社会主義とか共産主義というものが自分には理解不能だと気づく。党、というのもわからない。党の指導方針、メーデー事件、資本主義国家としての日本の将来を見通したスターリン論文、徳田書記長の死、朝鮮戦線の膠着、ソ同盟の平和共存への前進、社会主義圏の優位、党の軍事方針の再検討、軍事組織の解体、六全協(?)によるその確認、と十数行の中にたたみかけるように専門的な言い回しを並べてくる。日本共産党の六全協での戦術転換がもたらした学生運動の挫折となると、もう忍耐心がパンクする。輪郭は、脆く淡い恋愛小説だ。山口に電話をして訊きたくなるが、彼にはそんなくだらない疑問に答える暇などないだろうと考え直し、数学でも解くように自力でゆっくり考えようとする。


         二十四

 まずは言葉の定義だ。辞書を引くと、共産主義とは、私有財産制を否定し、共有財産制を実現することで貧富の差をなくそうとする思想とある。よくわかる。金持ちと貧乏人を混ぜこぜにしている資本主義の否定ということだろう。そんなものは何主義の下でも宿命のように存在する方針だ。社会主義は共産主義体制の第一段階とある。どういう段階づけなのか? 社会主義が高度化された段階が共産主義とある。それなら、社会主義と共産主義などと並べて呼ばずに、共産主義の初期段階と共産主義の洗練段階と呼べばいいのではないか? それぞれの定義を書きつけると、
 社会主義―生産力が未熟なので(産業が未発達のせいで社会全体が貧乏だという意味だな)、社会の成員が能力に応じて(専門技術に応じてということか?)労働し、労働に応じた分配を受ける(労働時間に応じた賃金という意味か?)。
 共産主義―生産力が高度化しているので(産業が発達して社会全体が金持ちになっているという意味だな)、社会の成員が能力に応じて労働し(右に同じ)、必要に応じた分配を受ける(能力と技術が必要とされる度合いに応じて賃金格差が出るという意味だな)。
 この二つはどう別物なのか? どちらの主義でも能力に応じて労働している。労働に応じてと必要に応じてのちがいは? 労働に応じてというのは、社会主義の貧乏社会からの分配がその労働時間に応じてなされると解釈できるし、必要に応じてというのは、共産主義の金持ち社会の技術必要度に応じてということにちがいない。つまり、時間給か技能給かということになる。給料はその社会の発展段階と保有資本水準が決まるから、何主義であろうと給与格差は出る。給与の高がどうであれ、貧富の差がなくなるわけがない。
 社会主義とは何か、共産主義とは何かを理解することをあきらめ、まとめて共産くんと呼ぶことにする。共産くんの革命思想は武力を使ってでも世直しをする(資本主義を打ち倒す)であり、これを社会主義革命という(どうして共産主義革命と呼ばないのかわからない)。それに共鳴しているのが共産党だ。共産党員や、彼らに賛同する学生たち(党員とは呼ばないようだ)は、共産くん武力革命のためのいろいろな理屈を学び、その喧伝のために熱心な活動をしてきた。ところが貧富の差を認める資本主義をよしとする世界情勢の変化に影響を受けて、共産党第六回協議会(六全協と言うらしい)で、武力革命は棄てて、平和革命を目指そうよ、と決議〈されてしまった〉。平和革命の何が不都合なのだろう。同じ革命ならそちらのほうが剣呑でなく感じるが、学生たちは大あわてになる。この大あわてがいちばんわからない。共産くんは武力革命をやめようと言っただけで、革命をやめようと言ったわけではないだろう。学生たちには革命方針が重要で、革命そのものは二の次だったのか? 挫折? 自殺するやつまで出てくるのだから、相当深い衝撃を与えたのだろう。私には衝撃そのものが猿芝居か、当時の流行だったとしか思われない。
 ついに理解放棄。そんな〈革命騒動〉に絡む理屈一辺倒の恋愛模様など、アホらしくて読んでいられない。心と肉体を〈クラブ活動〉に絡めて四の五の悩むことが青春だとはとても思えないからだ。私はたぶん、この作家の〈知性〉から訴えかけられない愚鈍な人間なのだ。彼の知性が作った世界に苛立ちを覚え、嫌悪感さえ覚える。彼の作品は私という読者には無用であり、私の感性で彼の才能は否定される。
 そもそも芸術家は特殊であり独自であり、ふつうの人間とは異なり、彼の作る世界は共通の(流行)世界ではない。彼が描く特異な世界が、めずらしさや、興味深さや、私の先入観との一致なりで私の心に訴えかければ、彼の才能は私に認められたことになる。私が本来必要としているものを与えることができるからだ。そのおかげで私は、ふだんの境遇の中で送っている生活とはちがった精神生活を彼とともに送るようになる。
 林芙美子の浮雲を手に取り、抒情豊かな文体が気に入ったので、これを広島に持っていくことにする。もう一冊物色する。薄田泣菫(すすきだきゅうきん)の『艸木虫魚(そうもくちゅうぎょ)』。小景集なので読みやすそうだ。感想を書くために、いのちの記録はかならず持っていこう。
 午後の四時まで蒲団で仮眠をとった。目覚めると母屋のほうからカズちゃんたちの声が聞こえてきた。アイリスを早めに切り上げてきたのだ。浮雲と艸木虫魚を手に居間にいくと、直人を中心に主人夫婦と菅野とカズちゃんたちがわいわいやっていた。睦子と千佳子も混じっている。みんなおしゃれな服装をし、薄化粧をしていた。厨房は臨戦態勢に入っている。メイ子やイネやソテツの声が聞こえてくる。私は睦子に、
「金魚、どう?」
「とってもかわいらしいんです。二匹。金太郎とムッちゃん。餌をやりすぎないようにって言われました。砂利を敷かないほうがいいんですって。大きな水槽に、酸素ポンプやら温熱棒やら、いろいろ装置をつけていってくれました。二日に一度、網でフン掃除をするのがたいへんですけど、それも慣れてしまえば何ということもありません」
 千佳子が、
「ムッちゃん、かわいい」
 カズちゃんが、
「ほんとにかわいい子ね」
「トモヨさんは?」
「シノブさんの着付けを手伝ってるみたい。一時間はかかるわよ。セーターとブレザーを持ってきたわ。さ、着替えて」
 彼らの目の前で、白いワイシャツに紺のセーター、灰色のブレザーの上下に着替える。主人夫婦が目を細め、女たちが拍手する。
 上着の両ポケットに浮雲と艸木虫魚をしまう。あぐらをかくと、直人が膝に嵌まりこんだ。おとないの声がして、節子母子とキクエがやってきた。
 女将が、
「いらっしゃい! のんびりしとってや」
 聞かずに文江さんは台所へいく。カズちゃんが、
「よ、白衣の天使たち、忙しくしてた?」
 キクエが、
「目が回るほどです」
「ランニングしながら菅野さんとアパートの確認したよ」
 節子が、
「とてもきれいな部屋ですよ」
 キッコを先頭に中番の女たちが戻ってきた。早番の帰宅組に混じり合って、賑やかさが増した。主人に言われて、それぞれ衣装替えにいく。
         †
 五時前に門のブザーが鳴ったので、一家総出で広い庭を歩いていく。トモヨさんもシノブさんの着付けを途中に出てきた。女将もトモヨさんも主人とちがって落ち着いた柄の着物で正装していた。トモヨさんは直人を抱いていた。ソテツが門を開けると、
「おじゃましますよ、金太郎さん」
 水原監督がハンチングを掲げて挨拶した。縹(はなだ)色の背広に紺のワイシャツ姿。半白の髪によく似合っている。やはり正装をした小山オーナー、村迫球団代表、榊スカウト部長も深々とお辞儀をする。全員が生地のちがうトレンチコートを着ているのがめずらしかった。榊は腋に長方形の薄い風呂敷包みを抱えていた。運転手が、
「九時ごろお迎えに上がります」
 と言って、大きな外車を転がして去った。水原監督が直人とトモヨさんの腹を見て、
「かわいい子だなあ! お腹は六カ月ぐらいですかな」
「はい、ちょうど」
「お大事になさってください」
「ありがとうございます。私、賄い頭の北村智代と申します。この家の養女でございます。この子は直人。なにとぞお見知り置きくださいませ」
「初めまして。落ち着いてから自己紹介させていただきます」
 みんなで門から中へ入り、長い飛び石を踏んで玄関へ歩いていく。一足早くトモヨさんが玄関に入った。廊下の奥に姿を消す。シノブさんの着付けにいったのだろう。小山オーナーが、大きく開け放たれた三間幅の玄関を見て、
「豪壮なお屋敷ですなあ」
「所帯が大きいですから」
 主人が緊張して応える。洗い張りしたばかりの皺一つない正絹の御召(おめし)を着た女将が、
「もともと置屋やったから、建て替えても構えが大きくなるんです。座敷も広いので落ち着きますよ。のんびりなさってくださいや」
 スッと立った女将の姿が、一目でこの家の女帝だとわかる風情だった。水原監督が、
「いやあ、庭も広くていい。金太郎さんがバットを振る姿が浮かぶ」
 村迫が、
「区画整理にやられて、このあたりもだいぶ様変わりをしたでしょう」
「はあ、遺築物としていくつか遊郭が残されただけで、すっかり変わりました。ほとんどが廃業して、私どものようにトルコ風呂に転業できた者は一握りです。どうぞお上がりください」
 玄関先の十畳間と廊下に家じゅうの女たちがずらりと並んで掌を突く。
「いらっしゃいませ!」
 四人が式台に上がる。賄いたちにトレンチコートを奪い取られ、十二畳の居間に案内される。台所のほうでは、ほぼ全員が襷掛けして、いっせいに膳や酒の準備になった。二つの竈(かまど)とすべての大レンジから煮炊きの湯気が上がり、焼き物の煙が上がる。換気扇が回る。台所には北村の賄いたちや、寮から呼んだ賄いたちが合わせて十五、六人もおり、炊事用具や盆を手に奥へ引っこんだり、廊下へ出たりしている。水原監督が榊に指示して風呂敷包みを差し出させた。
「心ばかりのものです。私がものした筆です」
 主人は受け取り、居間のテーブルに置いて、風呂敷を解いた。大書した墨字が、ガラスで覆った額縁に納められていた。
赤誠と書いてあった。素人目にも力のある闊達な文字だとわかった。
「ほう、すごい! 書の達人とは聞いておりましたが、すばらしい。ほんとにいただいてもよろしいんでしょうか」
「どうぞ、偽りのない気持ちですから」
「後日、式台の鴨居の扁額として飾らせていただきます」
 女将がおしいただき、奥の離れへ持っていった。彼女が戻ってくると、四人はステージの控え部屋に近い十六畳に導かれた。紫檀の大テーブルが置かれている。村迫と榊を端にして、座椅子付きで四人が向かい合わせに座らされ、水原監督の脇に私とカズちゃんと素子、小山オーナーの脇に主人夫婦が座った。その隣にトモヨさん母子の席が空けられていて、厨房で忙しくしている母の代わりに直人が女将の肩に手を置いて立っていた。ほんの少し離れて置かれた隣のテーブルには、千佳子、節子母子、キクエ、睦子、向かい合って菅野、百江、メイ子、天童、丸が座り、さらに奥の二脚のテーブルの一脚にはキッコはじめトルコ嬢たちが入り混じって座り、もう一脚にはソテツやイネら賄いたちのための席も空けられている。
 水原監督が立ち上がり、
「じつに壮観ですな。―今晩はみなさん、初めまして。中日ドラゴンズの監督、水原茂です。こうして北村席さんをお訪ねするのを心待ちにしておりました。なんせ天下の金太郎さんを匿(かくま)っているお大尽と聞いて、またそこには金太郎さんを慈しむ女性たちがたくさんいると聞いて、好奇心が湧かないはずがないでしょう。ここにいる女性たちみなさんがそうですか?」
 ドヤッと黄色い笑い声が上がった。
「みんなじゃありませーん!」
 監督も笑いを返しながら、
「私も庇護者の一人であるという自負もございますので、好奇心ばかりでなく、お礼もかねてやってまいりました。みなさん、この奇人神無月郷の面倒見を、かくも手厚くしてくださってありがとうございます。見てのとおり私は老人でございます。永遠に彼の面倒を見るというわけにはまいりません。みなさんにおまかせするしかないんですよ。この家から放り出したら、彼は路頭に迷います。私、この一月で六十歳になりました。そろそろ棺桶に片足です。金太郎さんといっしょに野球をやっていけなくなることだけが、今生の名残です。わが子以上の愛情を感じます。どうかほんとうに、この神無月郷を末永くよろしくお願いいたします」
 礼をして座った。ワーッと拍手が上がった。小山オーナーが立ち上がった。
「水原さん、われわれの気持ちをぜんぶ言ってしまったら、あとからしゃべる者は手持ち無沙汰になってしまうでしょうが。かないませんな。こんばんは。私、中日ドラゴンズのオーナー兼社長、小山武夫と申します。チームの総帥というより、球団のお守という役どころと思ってくださればけっこうです。今年は手がかからないのでお守のしようがありませんけどね。アメリカとの交渉に多少神経を費やしたくらいですか」
 盛んな拍手。
「しかしここは不思議な雰囲気の場所ですな。じつに落ち着く。まるで全員が神無月さんなんだな。大勢の人前でこんなにホッとしたのは生れて初めての経験ですよ。快適この上ない。折に触れて寄せてもらうことに決めました」
 さらに盛んな拍手。
「ところで水原さん、棺桶とは言わせませんぞ。何をおっしゃる。使命のある人間は、年齢と関係なく、大事な現場を去りゃせんのです。いや、私どもが打って一丸となって去らせませんよ。私も七月で水原さんと同じ還暦とあいなりますが、現場を去るつもりなどこれっぽっちもありません。みなさん、今年からわが中日ドラゴンズは黄金時代を築き上げていきます。神無月くんがチームに吹きこんだ野球魂のおかげです。だれもかれも別人になったように野球に没頭しております。彼のおかげで、自分なりに技に磨きをかけて、職人の道をひた走ったり、スターの階段を駆け登ったり、最後の花道を飾ろうとする選手が続々と出てくることでしょう。まことにめでたい。その出陣の場を提供してくださった北村席さまに深甚の感謝を捧げます」
 座った。またドッと拍手が上がった。きょとんとした目で、直人が周囲を眺め渡している。満を持して料理が運びこまれる。配膳台に並ぶ菊の和え物や煮物や酢の物、醤油で薄茶色に煮しめた煮魚の彩りが美しい。直人の食事もイネの手で運ばれてきた。その場でスカートの窪に抱いて食べさせはじめる。村迫が立ち上がった。
「中日ドラゴンズ球団代表、村迫晋(すすむ)です。四十七歳の働き盛りです。球団の広報も含めて統括のような仕事をしています。出会ったときから神無月くんに徹底的に惚れこんだ人間の一人です。急務がないかぎり、神無月くんの試合はすべて現場で観ております。幼いころから野球を四十年近く観てまいりましたが、外国の記録でみるばかりでまだ日本で実際目にしていないのが、六十一本のホームラン、二百五十七安打、打率四割四分です。神無月くんは今年これらの記録を確実に破って、世界ナンバーワンになると断言してよいでしょう。それが三冠となると、その数字は千年も二千年も破られない記録となるにちがいありません。神無月くんがこの時代に生きていたことに、また自分がこの時代に生きていたことに深く感謝します。それに加えて、神無月くんの人間性……あなたがたには説明は不要でしょう。彼の翼を折るような人間がいたら、あらゆる手を尽くしてかならずや地上から抹殺します。終わり」
 歓声が上がり、拍手がいつまでもつづいた。



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