二十八

 警備員たちが数人廊下に並んでいた。ユニフォーム姿のままの太田と菱川が出口まで送ってきた。ワッとファンが押し寄せる。ガードマンと松葉会の組員たちが立ちはだかって駐車場へ導く。太田が背中から、
「俺たちもいまからバットを振ります。じゃ、あした!」
「二十本打ちます!」
 菱川の声。彼は三十本打つだろうと思った。隙を見てファンたちがジャージの袖をつかんでくる。男の子だけを選んで画帳や色紙にサインをする。
「三冠王獲ってください!」
「約束するよ」
「あしたもホームラン打てよ!」
 大人のダミ声。
「約束はできませんが、がんばります」
「巨人戦十三勝十三敗は許さんぞ。十敗まで許す」
「もっと勝ちます」
 時田に肩を抱かれて駐車場へ進む。
「ホームランボール。ヤッさんに手渡ししました」
「ほんと! ありがとう」
「泣いとりました。あしたもがんばってください」
「うん、がんばる」
 ハイエースに乗りこむ。フアンたちの歓声、拍手。文江さんの脇に押しこめられる。主人は相変わらず助手席に乗っている。
「テレビの実況放送が聞こえてきましてね。推定百七十メートルと言っとりました。時計塔は一軒の建物になっとって、てっぺんは平べったいコンクリートの屋根らしいですわ」
 菅野が、
「その後ろのほうの端で弾んだということで、そこが百六十メートルあるんだそうです」
 睦子が、
「放物線がもう少し延びるということですね」
 キクエが、
「野球のボールって、あんなに飛んでいくものなのね」
 千佳子が、
「神無月くんだからですよ。ふつうのホームランはスタンドまでです」
 節子と文江さんがクスクス笑い合う。主人が、
「腹へったでしょう。赤飯とすき焼きが待っとりますよ」
「着いたら六時ですね。みんな腹へらしてるだろうな」
「店の女たちは食い終わっとるから、かえってスッキリしてますよ」
 節子が、
「あの……ちょっとおかあさんに時間をいただけません?」
「ああ、そうだった」
 文江さんが、
「十分くらいですぐすませます。申しわけありません」
 睦子が、
「みんなで待ってます。焦らないで」
 菅野が、
「社長、私たちは一杯やってましょう」
「だな。文江さんもあとでいらっしゃい」
「いえ、あしたの準備がありますから。すみません」
「そうだね、きょう休んでまったからね」
 菅野が、
「神無月さんと文江さんをまず降ろして、節子さんとキクエさんも遅番で帰らなくちゃいけないですから、北村に寄って社長たちを降ろしたあと、アパートまで送り届けます」
「じゃ、節ちゃん、キクエ、あさってね。最終日の夜」
「はい、待ってます!」
 二人で声を合わせた。
         †
「キョウちゃん、もうだめ、グチュグチュ」
 文江さんは灯りのない玄関の式台に坐りこんでしまった。スカートをまくってパンティを引き下ろし、脚を大きく開かせて、濡れそぼっている繁みに唇を寄せた。襞より先に陰核に舌を当てる。文江さんは私の頭を両手でつかみ、
「あ、イク、すぐイク、あああ、キョウちゃん、イク!」
 口にクリトリスを含んでやる。舌先でふくらみ、何度も包皮から突き出る動きをする。
「落ち着いた?」
「はい、あ、もう一回……イク!」
 口の中に数回スキーン液が飛びこむ。両胸をやさしく揉んでやる。クリトリスの動きが静まり、尻の痙攣も止んだ。私はズボンを脱ぎ、式台に腰を降ろした。文江さんは突き立ったものを含んでくる。
「ああ、キョウちゃん、愛しとるよ、死ぬほど愛しとるよ」
 スカートを脱ぎ捨て、私に跨る。深く腰を落とす。
「うう、気持ちええ、まだイカんよ、お口ちょうだい」
 抱きつきながら唇を吸ってくる。ゆっくり自分で腰を上下させる。
「あかん、すぐイッてまう、ああ、気持ちええ、一回イク、一回イク、あああ、イク!」
 動きを止め、存分に痙攣する。尻が上下しないように掌で支えてやる。激しい痙攣が伝わってくる。太い輪ゴムが往復するような蠕動が始まる。
「あああ、またイクウウ! キョウちゃん、一度突いて!」
 下から突き上げる。
「グッ! あかーん、イグ! あ、イク、イクイクイクイク、イグ!」
 輪ゴムがきつく何段にも締める。
「あ、大きなった! 出して、出して、キョウちゃん、出してえ!」
 強く抱き締めて吐き出す。
「ああああ、好きイイ! イイイッグ!」
 私は射精の律動をする。
「死ぬ死ぬ死ぬ、グッグッグッ、イッグウウ!」
 抜いて式台に横たえ抱いてやる。数分のあいだ痙攣が止むまで腹をさすりながら抱き締めている。落ち着いたころにキスをする。
「愛してるよ、文江。いつまでもこのままでいてね」
 文江さんは甘えるように唇を吸い、
「キョウちゃんにだけはこのままでおる。ほかの人には、先生顔でおらんといかんの。そろそろ、書道展でも名前を知られてきたし、格好つけるところは格好つけんと」
「その落差がいいんだ。いい先生してね」
「はい。……生れてきてよかった。別の世界を一つ持つことができました。……野球のことはようわからんけど、キョウちゃんが野球という世界でも美しく生きとることだけはわかっとる。私も、ちゃんと別世界で、そんなふうに生きんと」
「別でない世界は?」
「こういう世界。ぜんぶ曝け出して、キョウちゃんを愛する世界。和子さんも、節子も、キクちゃんも、みんな別世界を持っとる。そうしてこの世界にときどき戻ってくる」
「世の中の人はみんなそうしてるんじゃないかな」
「しとらん。愛がないから曝け出すのも中途半端。別世界にも仕方なく住んどるから、美しくなれん」
 ハンドバッグからティシューを取り出し、自分の性器を拭う。それから私のものを丁寧に舐める。パンティをつけ、スカートを穿く。もう一度亀頭に頬ずりをしてから、パンツを穿かせる。私は式台に立ってズボンを穿いた。
「きょうはこれから生徒の宿題に朱を入れんとあかんから、送っていけん。ごめんね」
「いいんだよ。愛し合う合間に、おたがいの別世界を充実させないと。あわただしいセックスで気の毒だったね」
「ええの、どんな形でも、キョウちゃんとするオマンコは気持ちええから。道端でも、玄関でも、ちゃんとしたお蒲団の上でも」
 キスを交わし合うと、二人で玄関を出た。文江さんがいつものとおり、節子によく似た膝を少し曲げた格好で手を振る。人けのない路に街灯が点っている。文江さんは最後まで玄関の軒灯は点けなかったが、路灯の反映のせいで克明に彼女の表情が見えた。
         †
 すき焼きのいいにおいが座敷じゅうにただよっている。女将とトモヨさん母子の姿がない。離れで二人して直人を寝かしつけているようだ。主人と菅野は、小鉢に盛ったすき焼きの具をつつきながら、ビールをつぎ合っている。カズちゃんが寄ってきておさんどんをする。
「文江さん、喜んでた?」
「うん。とっても」
「キョウちゃんとするのって、考えただけでドキドキするから」
 睦子がにこにこして、
「神無月さんのからだって、赤ちゃんみたいですものね。どんな人だって、赤ちゃんのからだを見たらうれしくなります」
「そうなの。だからオチンチンもきれいで、ぜんぜんいやらしくないの。小さいころ、お風呂でおとうさんのオチンチン見たとき、いやらしかった」
 主人が聞きつけて、
「おいおい、そりゃひどいな。神無月さん以外のキンタマはゲテモノかい」
「そうよ。自覚しなさい。だからほかの男のセックスはいやらしいのよ。あたし、まんいち無理やりそんなことされたら、その場で舌を噛み切っちゃう」
 私も、私も、と言いながら、台所から百江やソテツやイネたちもやってくる。キッコが遠くのテーブルでさびしそうに微笑んでいた。あと半月で彼女も北村席の厨房に入ることができる―。カズちゃんが、
「それにしてもすごいホームランだったわね。テレビのアナウンサーも解説者も大騒ぎしてた。でもあのくらいのホームランは、青森以来何度か見てる気がするの」
 千佳子が、
「そうですね、何本かありました」
「マスコミがこれだけ大騒ぎするのは、それを見てなかったってことになるわね。球場のお客さんや、おとうさんや菅野さんたちは、キョウちゃんのむかしを知らないから仕方ないとしても、マスコミの人たちが知らなかったのは、高校生は全国区じゃないと軽く考えてた証拠ね。調査を怠ってたってこと」
 睦子が、
「いろんな球場で、信じられないくらい大きなホームランを打ってます。プロ野球選手になって、あらためて見直したって感じなんでしょうか」
「千佳ちゃんやムッちゃんがそのころからあまり意識しなかったのは、たぶん、ベンチからだと距離がよくわからなかったからだと思うわ。高木さんがホームインしてから、手をかざしてスコアボードをじっと眺めてる姿がテレビに映ってたけど、あれはホームからの飛距離を知りたかったからじゃないかしら。私は青森のころからいつもネット裏の高いところで見てたせいで、キョウちゃんの打球の距離がよくわかってるの。とにかく、いままでで最大級のホームランだったことにはまちがいないわね。おめでとう!」
 みんなで拍手する。菅野が、
「巨人に勝ったこともお祝いしなくちゃ。おめでとうございます!」
 これもみんなで拍手する。トモヨさんと女将がやってきた。
「郷くん、十号ホームラン、おめでとう!」
「ありがとう」
 女将が離れから戻ってきて、
「びっくりしたわァ。時計塔の屋根に落ちたんやて?」
 主人が、
「王がようやく一本や。水あけたな」
「そのうち、ダダダダッときます。貯めておかないと」
 ソテツが、
「あしたも長嶋選手はお休みでしょうか」
 菅野が、
「川上監督はもうそんな余裕はなくなったと思うよ。あしたの朝刊は非難囂々だろう」
「テレビに川上監督の貧乏ゆすり映ってました?」
 キッコが明るい声で、
「映っとったよ。平家蟹がふるえとるみたいでみっともなかったわ」
 平家蟹! と叫んで女たちが大笑いする。
「さあ、食います」
 どんぶりに盛られた白米に、オタマで掬ったすき焼きを載せて掻きこむ。たちまち平らげ、
「赤飯もどんぶりでください。ごま塩たっぷりかけて」
「はい!」
 ソテツが台所へ飛んでいってどんぶりに盛った赤飯を盆に載せてきた。イネがナスとキュウリの浅漬けを持ってくる。赤飯と合わせて食うとじつにうまい。私が咀嚼する顔を女たちがうっとり眺めている。女将が、
「東大の鈴下監督から電話ありましたよ。まず一つ目、眼鏡を二つ特注した、今月中に球団本部の太田コーチ宛てに送付する、製作費用は部費で賄うので心配しないように」
 女将はメモ用紙を見下ろしながら、
「二つ目、東大野球部はもとの素人集団に戻ったが……耕三さん読みなさいや」
 主人はメモを受け取り、
「熱心に練習する心意気を神無月さんが残していってくれたおかげで、毎日みんな溌溂と野球をしとる、そのことを伝えてほしい、三つ目、東大ファンクラブは広島戦からスタンドにつめて、白川が写真を撮りまくっている、本郷の生協食堂の壁に大写真で貼り出している、部室にも記念のユニフォームに並べて貼ってある、シーズンオフになったら見にきてほしい。ああ、しんど、これでぜんぶや」
 菅野が拍手した。
「オフにならないうちに、遠征のときにいってみます。先輩後輩たちにも会いたいし」


         二十九 

 菅野が立ち上がり、
「さ、社長、酔い覚ましに歩きますよ」
「おお、いこか。キッコ、きょうも休むか」
「出とくわ。四月いっぱいまで、目つぶってがんばる」
 カズちゃんが、
「だめ。からだより、心が痛むでしょう」
 キッコがまぶたを拭った。
「しょうがない子ね。もういくのやめなさい。そんなにキョウちゃんを好きな子に、お店に出ろなんて言えないわよ。来週からアイリスにきなさい」
「ほんまですか!」
 トモヨさんも離れから戻ってきて、
「お義父さん、あとは私がどうにかします。お店の利益がキッコちゃんの売り上げの四割り増しとして、三十万もいきませんよね。それで完済ですね」
 カズちゃんが、
「トモヨさん、心配しないで。残りは私にまかせて」
 女将が、
「どうでもええんよ、そんなもの。ほかの子の気持ちが挫けんかと思って」
 木村しずかが、
「挫けません!」
 近記れんが、
「私たちもそのほうがうれしいわ。せっかくカンパしたんですから。キッコちゃん、もうほかの男に触られんでもいいのよ」
 キッコはしきりにまぶたを拭う。
「じゃ、それでええな。キッコ、なるべく早よアイリスに慣れるんやで」
「はい……ありがとうございます」
「じゃ、菅ちゃん、見回りにいこう」
「ほーい」
 二人が出かけると、女将も帳場に引っこんだ。百江が、
「ユニフォームと帽子は、朝一番でクリーニングに出しときます。あしたの分はもうダッフルに詰めておきました」
「ありがとう」
 ソテツが、
「神無月さん、私、眉、細く剃ったんです」
「気づいてた。少し美人になったよ」
「ほんと? うれしいです」
 木村しずかが、
「よかったねえ、キッコちゃん、ほんとによかった。若いうちに足洗えたねえ」
 キッコはすすり泣きながらうなずく。ソテツがじっとその顔を見ている。
「ああ、幸せすぎてたまらん。アイリスでがんばって働こ。五月までには高校に編入させてもらえると思うし、勉強もがんばらんとあかん」
 千佳子が、
「キッコさん、あした、中日球場にいってきたら? テレビじゃなく、じっさいに神無月くんのプレイする姿を観るのよ。感動して、胸がジーンとして、ますますやる気が出てくるわ」
「うん、せやけど、旦那さんやお嬢さんにしてもらっただけのことを、ちゃんとお返ししてからにする。いまは感謝の気持ちを見せなあかんときやと思う」
 睦子が、
「えらいわ、キッコさん」
「何もかも甘えてまったら、あたし、人間として崩れてまう」
「仕事に慣れたら、今度みんなでいきましょう」
「うん、ありがと」
「さ、部屋でテレビ観て寝ようっと」
 木村しずかと近記れんが立ち上がると、優子とキッコも立ち上がり、お休みなさいを言って二階へ上がっていった。私はソテツに、
「ソテツやイネなんかは、おトキさんやトモヨさんとちがって、もともとからだを売ってたわけじゃないし、女中奉公をするなら、こういう職種の家でなくてもいろいろあっただろうに、どうしてここに?」
 ソテツは私の手に指を絡め、
「お金持ちの家は、映画なんかで見て、なんだか堅苦しい気がしたんです。恵まれた奉公人の職場なんかあるはずないと思ってましたけど、どうせ恵まれないなら、少しでも堅苦しくないところに勤めたいと思って。置屋というのは口減らしのために売られた女の人が集まるところだと知ってました。でも、私たちみたいに女中奉公をする女にしたって身売りしてるようなものですから、なんだか親しみを感じて、ここに決めました。北村席さんは太閤大門の置屋さんの中でもいちばん人間関係のゆるやかな、よく〈できた〉家だとあとで知りました。ここにきてよかったと思いました。お給料は、きちんきちんと家に仕送りできるほどたっぷりもらえるし、旦那さんも女将さんもいい人で、賄いの人たちもトルコの人たちも、怖い人はだれもいない。女将さんや先輩がたに裁縫や家事作法もちゃんと教えてもらえる。ここが自分の家だと思って、うんと働こうって……」
 涙を浮かべた。百江が、
「女将さんや、トモヨ奥さん、旦那さん、和子お嬢さん、トルコの人たちにしても、ほんとうに気心がやさしくて、自信に満ちてます。最初は、ここは人付き合いのない閉ざされた場所か、ここにいる人たちが狂っているかだと思いました。でもそのうち、閉ざされた場所でもなければ、狂った人たちがいる場所でもなくて、ただ自信に満ちてやさしい気持ちでみんなが生きている場所だということがわかってきました。こわごわ明石にいって神無月さんの奔放さに驚き、厨房に入って料理方の腕のよさに驚き、アイリスに勤めて団結力の固さに驚きました。いまも毎日驚きの連続です。その驚きの中で、人を愛する歓びを教えてもらいました」
 素子もしゃべる。
「なんでガラッと変ったのか、自分でもようわからんけど、それまでおかあさんや妹とまともな話なんかしたこともあれせんかったのに、家族贔屓ってゆうか、身内への執念みたいなものがあって、身内のすることは正しいとか、おかあさんや妹のために生きるのが正しい道だとかな。でも、そういうイワシの頭の信心みたいなものが、キョウちゃんに遇ったとたんに消えてまった。うちが驚いたんは、座敷にお膳を並べて、ご主人たちと、トルコの女の人たちと、賄いの人たちが同じおかずのごはんを食べるゆうことやった。格好つけて分け隔てを取っ払っとるんやなく、あたりまえの顔してそうしとる。塙さんも豪気な家で有名やけど、人の話やと、家の人たちが茶の間でごはんを食べとるとき、賄いさんや女中さんたちは交代で台所の板の間に坐って、一家と別のおかずの食事をするんやそうや。北村席には身分がないんよ。それでも一人ひとりがやるべき仕事をちゃんとやっとる」
 人生と、愛と、よき人びとを、言葉を極めて祝っている。真の家族をつなぐ絆は、血ではない。たがいの人生を敬い、喜ぶ心だ。女将が、
「耕三さんが仏のヨタロウでよかったわ。ソテツ、お茶いれてや」
 イネが、
「ついでに後片づけもしてしまるべ」
 ソテツやイネといっしょにトモヨさんとカズちゃんも台所に立っていった。ほかの女たちも仲良くつづいた。
 私は風呂へいき、湯船にゆっくり浸かった。首にタオルを使いながら、女たちの会話を反芻した。彼女たちがことさら感動していたものは、いわば北村家の庭訓(ていきん)だった。血縁者同士寄り合って、他者を締め出す枠の中で生きる家庭では永遠に経験できないような、土間や廊下や壁に根を張った風変わりな家訓だった。それは、もともと世間常識に適合しない北村家の家主と、世間常識から弾き出された使用人とのあいだででき上がった生活習慣で、市井の慣習の圧力やそれへの適応の仕方がいつの間にか、たがいの人格の尊重と慈愛に転化されたものだった。この家には、表情や声の硬い人間も、一筋縄でいかない人間も一人としていない。無能な者や粗忽者を見下したり、意地悪く見抜いたりする邪(よこし)まな欲望をだれも持っていない。無骨や不器用という価値観など、最初から存在しないのだ。私がこの家で生きていける所以だ。
 風呂を出ると、居間で明るい声がした。女将とカズちゃんとトモヨさんの笑いに混じって、睦子と千佳子のはしゃいだ声が聞こえた。素子とキッコと百江の声も混じる。主人と菅野の声がしないのは、まだ見回りから戻っていないからだろう。私は居間へ入った。睦子と千佳子とキッコが笑って振り向いた。カズちゃんが、
「あ、キョウちゃんがきた。ほんとにきれい! 見て、素ちゃんと百江さんの満足そうな顔」
 女将が、
「ええ見ものやね。うれしなるわ」
 トモヨさんが、
「もっとゆっくり入ってくればよかったのに」
 素子が菓子盆の煎餅を齧り、
「一人のお風呂は退屈やし、長風呂は疲れるやろ」
「ソテツとイネは?」
「台所の始末をしてから、幣原さんとシノブさんとお風呂に入って寝るゆうとった」
「直人は?」
 トモヨさんが、
「すやすや寝てました。寝相が悪いんですよ。ひと晩で頭と足が何度も入れ替わります。三回転ぐらいします」
「神無月大吉がそういう人だったと母から聞いたことがある」
「隔世遺伝ですね。……でも、お蒲団を別にしてたってことですね」
 素子が、
「そんなふうやと、風邪ひくの心配やね」
「ええ、気をつけてます。男の子はすぐ熱を出すし、風邪をひきやすいので」
 カズちゃんが、
「タチの悪い病気以外はいろいろ罹っておいたほうがいいのよ。免疫をたくさん作るためにね。ノンビリ育てればいいわ。あら十時ね。じゃ、私たちそろそろ帰る。素ちゃん、メイ子ちゃん、百江さん、いこ」
 百江が、
「私はちょっと台所の床拭きをしてから帰ります」
「キョウちゃんは?」
「ぼくはお父さんと菅野さんと少し話をしてから帰る」
「あしたの対策ね。ゆっくりしてくればいいわ。一応、則武の寝室にお蒲団敷いとくわね」
 カズちゃんたちが玄関から出ていく音がするのと入れ替わりに、主人と菅野が帰ってきた。ドスドス二人やってくる。
「お、神無月さん、すぐ帰りますか」
「まだ帰りません。二人とあしたの話がしたくて待ってました。コーヒー一杯飲んだら帰ります」
 彼らはさっそく一服つけた。百江が、
「あしたじゅうに芦屋の竹園旅館というお宿に、いつものお荷物送っておきます」
「ありがとう。肩から提げる大きなスポーツバッグみたいなもの、名鉄で買ってきといてくれない。ダッフルのほかに、やっぱり必要なんだ。ここに一万円置いとくから」
「わかりました。アイリスの閉店後に買っておきます」
 主人が、
「百江、ワシといってこよう。カラオケに入れるサブちゃんのテープ、何本か買いたいで」 
「はい」
 菅野が、
「神無月さんと野球の話をするのは極楽です」
 女将が、
「私は寝るでね。あまり夜更かしせんようにな。お休み」
 とっとといってしまった。睦子が主人に、
「私たちも話を聞いていていいですか?」
「もちろん。神無月さん、ずっと菅ちゃんと話してきたんやけど、バットを内側から出すってどういう具合やろね」
「後ろ腕の肘を臍のあたりに入れて打つ方法です。ぼくは内角を打つ場合、意識しなくてもそうなってます。寝た手首にひねりを利かせて、腕を前方に投げ出すことができます」
 立ってやって見せる。
「なるほど」
「内角が得意な選手は自然とやってることですよ。ただ、たいていの選手は真ん中から外が得意ですね。バットをからだに巻きつける感覚を会得できないからだと思う。打率三割止まりの原因ですね。ピッチャーは内角を攻めるのが快感なんです。逃げずに勝負してる気がするからでしょう。だから、内角はかならず得意にしなくちゃいけません」
「ふうむ。トモヨ、お茶漬け二人分頼む。梅茶漬け」
「はい。みなさんは?」
「いいです」
 みんな断った。トモヨさんはお茶漬けを作りに立った。


         三十

「お父さん、昭和二十年ころから、長嶋が登場するまでの十三年間のあいだに活躍した野球選手が、いつ、どこからやってきたかわかりますか」
 私が問いかけると、
「どうだろ。菅ちゃんわかるか」
「たぶん。川上と大下の全盛時代は、昭和二十二年から十年間ですよね」
「三十三年に長嶋が現れるからな」
「はい。長嶋が現れたときには、もう金田も中西も稲尾もいた。中日には中もいた。つまりそういう選手は川上や大下の全盛時代に現れたということですよね」
「いつ、どこから、か。芸能人やスポーツ選手というのは、最終的な名前は知られとるけど、いつどこからきたのかというのはなかなかわからんな」
 千佳子がまだ座敷で起きている天童や丸たちの顔を廊下越しに見やりながら、
「私たちには無理ですね。考えもつかない」
 キッコはうなずきながら、天童たちとテーブルを囲みにいった。ソテツとイネは百江について台所へ拭き掃除にいく。菅野が、
「いつというのは簡単に調べられても、どこからというのは難しいかもしれませんね。昭和九年にベーブ・ルースの全米選抜チームが日本にきて、こてんぱんにやられたのがきっかけで、巨人軍の前身の大日本東京野球倶楽部ができたのはよく知られた話です。そのメンバーで有名どころは、沢村栄治、女房役の久慈次郎。ほかにスタルヒン、水原茂、三原脩、中島治康、二出川延明」
「水原監督も!」
 睦子がうれしそうな声を上げた。
「はい。三原監督もいます。慶應と早稲田。久慈も早稲田。二出川は明治。二出川は、俺がルールブックだで有名になった名物審判です。昭和九年あたりは大学野球が全盛のころで、予備軍の中等野球も盛んでした。甲子園で二十三個も三振を取った京都商業の沢村もその時代の申し子です。高校生と大学生がプロ野球を作ったんです」
「久慈はキャッチャーの牽制球を頭に受けて死んだよな」
「はい。昭和十四年に、札幌丸山球場で。バッターボックスでキャッチャーの二塁牽制球をこめかみに当てて」
「悲惨な話ですね―」
「はい、不世出の天才でしてね。強肩、強打、守備万能。戦前最高の捕手です。話を戻しましょう。たった一チームのプロ球団巨人軍は、昭和十年に相手を求めて西日本へ遠征して、二十四勝一敗。その一敗した試合を、当時熊本工業の二年生だった川上哲治が観てます。プロは大したことないと思ったそうです。その後、ポツポツ、プロ野球チームが増えていきました」
 トモヨさんがお茶漬けを運んできた。二人はうまそうに掻きこむ。
「トモヨ、ありがとう。もう寝なさい。お腹に響く」
「はい、じゃ、お先に失礼します。みなさん、お休みなさい」
「お休みなさい」
 去ってゆくトモヨさんの背中を眺めながら主人が、
「あと二人ぐらいほしいな。トモヨはもう無理だし」
 と言って、千佳子と睦子の顔を見つめた。二人は恥ずかしそうにうつむいた。主人が箸を置き、
「むかしの野球は大らかでな、ツーアウトからフライが上がると、守備側はいっせいにベンチへ戻ったもんや。フライを受ける選手がうっかり落球でもしようものなら、みんな大あわてで守備に戻らんといかんかった」
「昭和十九年の九月まで、プロ野球はなんとかつづいてたんですよ。それから終戦までは完全中断。沢村たち以降に、戦前十年間に出てきた選手は、熊本工業の川上と吉原、日系二世のタイガースの若林、広商から法政にいった南海の山本一人(かずと)。沢村と吉原は戦争で死にました。戦後の十年か。うーん、台湾からきた大下弘、愛媛の松商から巨人へきた千葉茂、同じ松商からタイガースにきた景浦という選手もいたな。下関商業からきた巨人の藤本英雄」
 睦子が、
「完全試合!」
「そうです。青森でね。うーん、昭和二十年から長嶋までの野球選手ねえ。広島の呉港(ごこう)中からきたタイガースの藤村富美男、物干し竿と言われる長バットを振り回して、四十六本のホームランを打った男です。兵庫県瀧川中から巨人にきた青田昇、中商から法政を経てセネタースにきた四十勝ピッチャーの野口二郎、日大から名古屋軍にきた西沢道夫、中日ドラゴンズの大先輩です。遅咲きで、入団十二年間に二十何本かしかホームランを打ってなかったのに、十三年目からとつぜん三十七本、四十六本と打ち出したんです。打率三割五分も記録してます。もう一人中日の大先輩、福岡飯塚商業から日大を経て名古屋軍にきた俊足強肩強打の小鶴誠、知る人ぞ知る初代五十本越えの男です。打点百六十一はいまも破られていません。それくらいですか」
「すごい……」
 みんな呆れるほど感嘆した。私はくどく訊いた。
「金田とか稲尾とか野村は?」
「そうでした。金田は愛知の享栄商業を中退して、昭和二十五年に国鉄入り。長嶋の八年前ですね。毎日オリオンズは多いです。田宮コーチは二十四年に茨城の下館商業から、山内は二十七年に愛知の起(おこし)工業から、榎本は二十九年に早実から、葛城さんも二十九年に大分の上野丘高校から。西鉄は三人。中西は二十七年に香川の高松一高から、豊田は二十八年に茨城の水戸商業から、稲尾は三十一年に大分の別府緑丘高校からです。野村は二十九年に京都の峰山高校から南海に入団してます。浪商からきた東映の張本は、長嶋の一年あとの三十四年です」
「江藤さんと同じか」
 睦子が、
「神無月さんは、いまの大選手が、プロ野球界がどういう状況のときに登場したのかって知りたかったんですね」
「うん。長嶋が球界を変えたというのは少し大げさじゃないかと思ったものでね。頭がまとまってスッキリしました。ありがとうございました」
 千佳子が、
「歩く野球事典―」
「いやいや、それほどでも。じゃ、私は帰ります。あしたは走りますか」
「八時から、軽く走りましょう」
「了解。西高ですね」
「うん。百江と則武まで乗せてってください」
「オッケー」
「じゃ、ワシも寝よう。みなさんまたあした」
「はーい、お休みなさい」
 主人はヨイショと腰を伸ばして立ち上がった。彼が廊下に出ていくと、北村席に夜のしじまが訪れた。睦子が、
「あしたの午後は雨だそうです。中止にならなきゃいいですけど」
 千佳子が、
「ムッちゃん、あしたの予定は」
「金太郎とムッちゃんのフン取りして、授業に出てみる。今月はまじめに出ようかな」
「私も、そうしようっと」
「じゃ、お休みなさい」
「お休み」
 厨房と座敷にもお休みを言って、百江といっしょに菅野と玄関から出る。
         †
 則武の家に入る辻で菅野と別れ、百江と二人でたたずむ。
「寄ってく?」
「いえ、きょうは遠慮します」
「どのくらい経った?」
「今月の三日にしていただきましたから、まだ二週間になりません。もう少しがまんできます。神無月さんがきちんと時間が空いたときに思い出してください。待ってます」
 手を握り、キスをして椿神社へ引き返していった。 
 玄関を入り、居間に人けがないので、メイ子の離れの寝室へいく。
「やっぱり!」
 女二人が掛蒲団を剥いでニッコリ笑いかける。パンティを穿いたなまめかしい陰阜が二つ並んでいる。下着で覆われた陰阜のふくらみは、幼いころから女の秘密の象徴だ。どんな幼女にも欲望がそそられる。愛らしい外見が未熟のように見えて、奥に濡れそぼっている複雑なものがしっとりと隠されているからだ。乾燥したクレバスがふくらみのない皮膚に切れこんでいるだけのものなら、秘密めきもしなければ優雅なものにもならない。私も服を脱ぐ。
「待ってた?」
「少し。いまお風呂入り終わったとこ」
「百江さんのところに寄らなければたぶん帰ってくるって、お嬢さんと話してました」
「いつものキョウちゃんなら、文江さんで勢いがついちゃうはずだから、きっと……」
 下着を脱がせ、陰毛を順にさすっていく。カズちゃんとメイ子は素直にうれしそうな表情を浮かべて私を見つめる。メイ子が、
「神無月さんの手、とてもやさしい。そうしてるだけで、もう……」
 メイ子の脚を広げ、舌を触れる。尻がふるえながら高く低く動く。すぐに訪れる。カズちゃんに移る。訪れる。そのうめきを聴きながらメイ子が目を開け、興奮して思わず自分の下腹をもう一度収縮させる。メイ子に挿入する。カズちゃんは安心したように目を閉じた。メイ子が達する。引き抜いて、蒲団へそっと転がしてやり、カズちゃんを四つん這いにさせる。メイ子はその横に仰臥して備えた。カズちゃんに深く挿入し、往復を激しくして強い快楽を与えようとする。予想以上に素早い緊縛に射精が迫る。
「ああ、キョウちゃん、大きくなった! イク! メイ子ちゃんに、メイ子ちゃんに、あああ、イク!」
 抜いて、仰臥しているメイ子に挿し入れ、口を吸い、舌を絡ませながら素早く往復して射精する。
「あああ、気持ちいい! つかんでる、神無月さんをつかんでる、愛してます、好き好き好き!」
 律動が残っている。引き抜いて、仰向けになってふるえているカズちゃんに挿入する。夢中で口を吸ってくる。
「好きよ、好きよ、うん、イク! うううん、イク! あ、壊れる、壊れる、イク! だめだめ、イク! 助けて、イク!」
 抜いて、ふたたびメイ子に覆いかぶさり、胸をぴったり合わせて挿入する。
「感じます、ちゃんと感じます、ああ、私がつかんでる、うううん、イクウ! 好き好き好き、好きい!」
 カズちゃんが腹をひくつかせながら顔を横向け、まだ私と結び合っているメイ子の顔を見つめる。メイ子が、
「ありがとう、神無月さん、愛してます。死ぬほど好きです。どれほど言っても足りません。一生離れません。神無月さん一人です」
 カズちゃんが余韻のふるえを繰り返しているメイ子に、
「よかった、メイ子ちゃん、キョウちゃんから離れないことがどんなに幸せ……」
 呟きながらもう一度腹を強く収縮させた。
「どんなに幸せなことか、よくわかるのね。……私もあなたも、生まれてからの恋なの。どれほどキョウちゃんのことが好きか……あ、イク……」
 私はメイ子からそっと抜いた。すぐにカズちゃんが含んだ。
「おいしい。この次は私に出してね」
 メイ子は薄っすらと涙を浮かべながら、
「……みんなで助けてくれて……私、自分がこんなに幸せになれるなんて思いませんでした。ほんとに神無月さんのこと、心の底から好きなんです」
「わかってるわ。胸が痛いくらいわかってる。みんなそうなのよ」


         三十一

 四月十六日水曜日。七時二十分、離れの蒲団で起床。カーテンの外は小雨、腕時計の温度は十二・三度。枇杷酒。軟便、シャワー、歯磨き。二人はキッチンで朝食中。七時五十分、ジョギング姿で菅野が迎えにくる。
「朝めしは北村で食べる」
「うん、わかってる。いってらっしゃい!」
「神無月さん、合羽は?」
「いらない」
 ランニング開始。曇り空。走っているうちに強い雨にやられそうだ。
「芦屋にいく交通手段を調べてくれます?」
「新大阪から梅田に出て、阪神鉄道で芦屋です。乗換えがスムーズなら、名古屋から一時間半。広島にいくことを考えたら天国ですよ。どうせ江藤さんたちがくるから心配ないです。竹園旅館を使ってるのは、巨人と中日だけです。世羅別館と同じですね。竹園はのべつ但馬牛を出すことで有名なすごく高い旅館で、もともと但馬牛専門の肉屋だったみたいですね。十五年くらい前に旅館を開業したんじゃなかったかな。巨人と中日で待遇に差をつけてるって話です。今年から逆転するでしょうけどね」
「それはないでしょう。同等ぐらいにはなるだろうけど」
 私たちの横をゆっくりと放送局のバンが走る。窓からビデオカメラが突き出ている。私は手を振って見せた。那古野から菊井町、押切北の交差点から左折して美濃路に入る。榎小学校の交差点に出る。花屋到着。寄っていくことにする。
「よう、神無月さん、いらっしゃい! ひさしぶり」
 ウィークデイの朝の八時過ぎなので、通勤客は退けていて、テーブルには二組ほどの地元の老人しかいなかった。私を写した新聞の切り抜き写真が壁一面にきちんと並べて貼られている。
「すみませーん、撮影させてもらっていいですか!」
 テレビカメラを肩に担いだ男と、マイクを握った女、ディレクターらしい中年の男が飛びこんできた。マスターが、どうぞ! と叫んだ。私は、
「くどいインタビューはナシにしてくださいね」
「もちろん! 撮影だけです」
「放送はいつなの」
 マスターが尋くと、
「夕方五時のCBCニュースです」
 メニューが増えていた。私の金釘のサインを囲んで、ホームラン大盛り定食、金太郎足柄山セット、天馬コンビーフスパゲティ、怪物海鮮丼。マスターが、
「おかげで繁盛させてもらってます。何でも食べてって」
 私と菅野はふつうのオムライスを注文した。女将が、
「もう、輝きがこの世のものじゃないわね。そこにいるだけで圧倒されるわ」
 お婆さんが、
「相変わらず白いわァ。日に焼けないんやね」
 マスターがうなずき、
「野球選手というより、歌舞伎役者だな。そこがおっかないところだよ。そうだ、おととしの文化祭のときにきた金原って女の子ね、テレビで神無月さんの試合がある日は、かならず食べにくるよ。名大で数学やっとるらしいわ。もう一度神無月さんの歌声を聴きたいって言っとった。そちらさん、二度目やね。ジョギングのお仲間さん」
「はい。個人タクシーの運転手をしとります。たまたま道で知り合っていっしょに走らせてもらうようになりました。もう四カ月になります。これほど有名な人とは知らなかったもので。いまではもう、図々しくごいっしょさせてもらってます。神無月さんは、隠れ蓑になるのでありがたいと言ってくれます。来年、市の十キロマラソンに出ようと思ってます。せめて十位にでも入らないと、神無月さんに申しわけがない」
 微に入り細を穿って警戒を怠らない。口から出まかせにしても、こういう心構えのおかげで私はつつがなく生きられる。
「きのうのホームラン、中日球場の最長記録だそうですよ。貼っときました」
 マスターが壁の写真を指差す。客の老人たちも視線を移動させる。左の手のひらが力強く前方へ押し出される瞬間の写真だった。無意識に理想のフォームになっている。からだに力がみなぎっているうちはこの形を維持できるだろう。窓に大粒の雨がきた。女将が、
「早いうちから強く降るみたいだけど、試合だいじょうぶかしら」
 マスターが、
「きょうは危ないな。あしたはやれる。中日球場の水ハケは甲子園よりいいんだ」
 マイクの女性が、
「がんらい野球場は、水はけをよくする工夫がされてるんですよ。表面に透水性のいい土を敷き、水溜まりができないように地面の下に排水用パイプを通して、軽石などの砕石を下の層に敷き詰めてあるんです。芝についた水滴や、強いにわか雨には対処できませんけど」
「そうなんですか。知りませんでした」
 女性レポーターはニッコリ私に笑いかけた。
「一つだけ、いいですか?」
「どうぞ」
「人間嫌いと聞いていますが、ほんとうでしょうか」
「ほんとうでした。正確には、特定の人間に対する恐怖です。いまのぼくはまったくちがいます。むやみな恐怖は自分を欺き、変化や前進をためらわせます。いろいろな目覚ましいできごとに遭遇しているうちにそのことに気づき、恐怖を捨てて、びくびくした人生をやり直そうと決意したんです。おかげでぼくは、すばらしい人びとと出会ったり、すばらしい栄光に浴したり、すばらしい愛に目覚めるチャンスに巡り合いました。チャンスはめったに訪れません。たぶん、人生をやり直そうと決意したときしか訪れない」
 菅野が指で目を押さえた。カメラスタッフから拍手が上がった。マイクの女性はハンカチを出して目を拭った。
「すてきなお言葉、ありがとうございました」
 花屋一家が拍手し、老人客たちが拍手した。その一人が、
「たしかに人は往々にして、恐怖心や引っこみ思案から目の前の可能性を見ようとしないときがありますね。目を見開いて新しい可能性を探るべきなんです。あなたはほんとにすてきな人です」
「ありがとうございます。ものごとは恐怖の目に映るとおりじゃありませんからね」
 スプーンでオムライスを最後のめし一粒まで食い尽くし、
「ごちそうさま、またきます。きょう中止だったら、あした応援してください」
 女将が、
「午後の一時前からテレビを点けっぱなしですよ。客が身動き取れないくらいここがギッシリになります」
 三人店の外まで送って出た。カメラマンたちが店を飛び出し、空地に駐車してあるバンへ走った。北村まで戻る私たちを撮影するためだ。雨の中を走り出す。
「ありがとう、菅野さん。助かりました。耳従う人たちの中で、ぼくは生き延びられる」
「耳従うって何ですか?」
「論語の為政篇の中にある言葉です。人の言うことを障害なく理解する人のことです」
         †
 北村席に帰り着いたあたりから激しい雨になり、出発直前の十時過ぎに球団本部から中止の電話が入った。快進撃の出鼻を挫かれた感じがした。
 強い雨の中を直人は菅野とトモヨさんに送られて保育所へ、睦子と千佳子は大学へ出かけていった。
 ステージ部屋で三種の神器と素振り。畳を傷めないように六コース十本ずつ六十本。畳みに仰臥し、田中章に打ち取られたファーストフライの反省。内角高目のスライダー。まず、内野フライになる第一の原因―振り遅れ。それはない。第二に手首のこね。それもない。早く左手首を寝かせたせいでバットの〈立ち〉時間が少なくなり、ヘッドが下から出すぎたということだ。どんな高目もレベルスイングでボールの芯を削り取るように振らなければいけない。とくに自分に近づいてくるような変化球は、近づき切らないうちに肘を畳んで叩き切る必要がある。立ち上がり、そのイメージで二、三本振ってみる。手首にかなりの負荷がかかる。やりすぎると腱鞘炎を起こす。五十本振ってやめる。難しいボールは負担を多くしなければホームランを打てない。
 座敷の縁側から雨の庭を眺める。主人が新聞を持ってくる。

    
神無月子供のよう
      
対巨人初戦二本 打って走って終始笑顔
 いよいよ神無月のホームラン量産のピッチに加速がついた。まずは第一打席、高橋一三からスコアボード時計塔屋上に落とすスリーランホームラン。高橋の最も得意とするスクリューボールを打った。驚くべし、推定飛距離百六十八メートル(中日球場最長不倒かつ日本最長不倒)。度肝を抜く今季第九号。自軍の森下ベースコーチと敵軍のファースト王に天真爛漫に笑いかけながら一塁ベースを回る。
 始球式をした大矢根博臣氏の言。
 「ピッチャーにとって残酷な飛び方ですね」
 第二打席、リリーフした渡辺秀武から左中間照明塔脚部に打ち当てる十号ソロホームラン。またまたじつに愛らしい笑顔でダイヤモンドを回る。この一打を見て、
 「彼との対戦がない時代に投げられたのはラッキーです」
 大矢根氏はそうひとこと言い残して帰路についた。震撼する思いに襲われたのはひとり大矢根氏やスタンドの観客に留まらない。打球が大きな弧を描いて飛んでいくたびに、固唾を飲んで見守る中日ベンチから感嘆の声が上がり、巨人ベンチからも深いため息が洩れる。その瞬間だけは、敵も味方も純朴な〈野球少年〉と化す。
 天馬神無月は常々自分のことを野球小僧と呼ぶ。みずから称するとおり、彼は束縛されずに校庭を駆け回る腕白小僧のごとく奔放不羈だ。十九歳の青年のそういう天衣無縫な行動自体がまさに神秘そのものであり、お伽話のような無類のファンタジーの世界に私たちを誘いこむ。
 彼の朗らかさに感化されて今シーズンの中日ベンチが底抜けに明るくなった。それとともに、ベテラン勢を含む打撃陣の長打率も急激に高まっている。若手では菱川、太田らの成長が目覚ましい。すべて快進撃のもとである。クリーンアップの団結力もすばらしく、江藤―神無月のアベックホームランは開幕四試合にして四本になった。
 しかし開幕からまだ四連勝したにすぎない。水原監督の言うとおり、ペナントレースのゆく手には、楽な平地ばかりでなく、高い山も深い谷も待ち構えている。連勝して大連敗という昨シーズンの轍を踏まぬよう、連勝しているいまだからこそ、慢心せず、油断せず快進撃をつづけなければならない。
 何はともあれ、明るくて神秘的な野球小僧神無月選手に、チーム、ファン、国民の気持ち代表して深甚の感謝を申し上げる。


 トモヨさんと菅野が帰ってきた。トモヨさんはすぐに厨房に入り、賄いたちと和やかに話を始める。菅野が、
「鬱陶しい日ですね。きょうはどうします?」
「雨を聴いて暮らします。直人が帰ってきたらいっしょに遊んでやります。吉沢さんを訪ねてみようかとも思いましたけど」
「吉沢捕手をですか……。気持ちはわかりますが、向こうは気詰まりだと思いますよ。何よりも、話すことがないでしょう。あしたの日赤は予定に入れてますか?」
「うん。……女の愛情で生き延びていると信じてますからね。脳の移植でもしないかぎり、この固定観念は変わらない。幻想かもしれない」
「私には神無月さんが幻覚剤です。いつも服用していないと夢から醒めてしまう」
「……野球も美しい幻想ですね。うん、幻覚剤とも言える。しかし、野球はまだしも、女の愛情を幻覚剤に利用するのはよくないことでしょうね」
 主人が、
「神無月さん、それはちがうよ。人間、幻想で生き延びるのは仕方のないことや。利用すると神無月さんが言うのは、現実の男女関係を夢だと言ってとぼけ通すゆうことやね。それが卑怯やとゆうことやね。……人間社会ゆうのはそうすることでしか維持されんのですよ。でも、とぼけるのはわれわれのような一般の人間です。社会が気になってしょうがないですからね。神無月さんはとぼけてません。きっちり現実として認識してます。神無月さんを大好きな女たちもね」
「社長―」
 菅野が深くうなずいた。主人もうなずき返し、
「神無月さんは何も引け目を感じる必要はないですよ。神無月さんの場合、とぼけたいことイコールみっともないことやないからね。だれが何と思おうと、神無月さんはみっともない人間やない。純真で真剣な子供です」
 菅野が、
「ものごとにはいろいろな見方があります。みんなに言い分があると思っていればいいですよ。いつも〈本番〉の人間にだれも敵いっこありません」


         三十二

 主人と菅野が午前の見回りに出かけた。主人が置いていった中日スポーツのコラムに、私に関する野村のコメントが載っていた。

 ワシはチームが勝つことに貪欲な選手が好きなんや。俺が打てばいいんやろ、という考えの選手は好きやない。チームのために犠牲になれるゆう気持ちを持っとることが大切や。犠打やライト方向のバッティングだけやない。たとえばカバーリング、エラーが起きたときにカバーできるように、ボールが転がってくるかもしれんところへ先回りしておくということやが、プロの世界なのでエラーでボールが転がってくることは百回に一回もない。それでも全力でカバーリングに走っている選手は存在感があり、チームに欠かせんと思われる。
 二月、三月と、中日ドラゴンズとは二度戦った。神無月をじっくり観察した。彼はチームの勝利には無頓着で、自分の野球を楽しんでいるだけの選手やと世間で誤解されとった。まったくちがった。別次元なのや。努力家で、明るく前向きで、失敗を口惜しがらん。しかもチームの統率者の立場を担っとる―たしかにそれはそうやった。しかしそれは、彼が一生懸命、瞬間瞬間を精いっぱいやっとる結果なのや。彼は何も考えとらん。自分の責任を果たすために、きちんと準備し、自分のできることを懸命に、精いっぱい実行する。それだけや。
 ファンの期待に応えたい、何とか勝ちたい、もし彼がそんなふうに考えることがあるとするなら、それは彼がプロ野球界の趨勢に刺激されて、心の中にあえてこしらえた義務感のせいやろう。まじめな男やからな。しかし神無月郷は何も考えとらん。考えとらんのにだれよりも広く走り回ってカバーリングし、走者の利になるようなヒッティングをし、適切な走塁をし、しっかり犠牲を打つ。犠打と思えんような犠打をな。彼がホームランを打たんと決めたときの二塁打、三塁打は犠打やで。つまり、だれよりも勝つことに貪欲になっとる。そこが異常であり、別次元なのや。彼の貢献はホームランに隠れとる。とんでもないやっちゃ。


 昼めし。お好み焼と焼きそばができるかと厨房に訊くと快く了承してくれたので、私だけそのメニューでいく。一家の人たちやアイリス組や店の女たちはふつうの昼食。豚丼とチャンポン麺。うん、ふつうではないな。楽しい。いつのころからか『受け入れがたくとも生きてこその人生』でなくなった。いつからだったか、探りたくもない。
 強い雨。本来なら試合開始の時刻だ。いまごろ昇竜館組は雨天練習場で打ちこんでいるだろう。私もでかけていくべきだという気もするが、私はシャカリキにやってしまうので彼らのペースが崩れる。真剣な調整に水を差したくない。
「ちょっと則武で筋肉鍛えてきます」
「いってらっしゃい!」
 みんなで応える。傘を差して則武の新居へいく。ジム部屋に入り、じっくり三十分胸筋の鍛練。シャワー。やっぱり机に向かう。義一と家出をする項の手入れ。書いていて心が動かない。義一に思い入れできないからだ。こんなことでは小説など書けない。思い入れの多寡に関わらず、あらゆる人間を描写できなければならない。
 音楽部屋へいき、ダスティ・スプリングフィールドのLPを両面聴く。気持ちが落ち着き、北村席へ戻る。
 三時。保育所から帰ってきた直人と風呂に入る。やわらかいスポンジで全身を洗ってやる。狂ったように喜ぶ。いっしょに湯に浸かる。鼻柱に水鉄砲をかけられる。二人で思い切り笑う。こんなふうに笑ったことがない。これは私の笑いではない。そう思いながら笑いが止まらない。風呂から上がると幣原が直人の全身を拭く。トモヨさんが、
「楽しそうに笑ってましたね」
「顔に水鉄砲やられて、笑えて仕方がなかった。頭にシャワーをかけるの怖かったから洗ってないよ」
「はい、耳に水が入ったらたいへんですものね。きのう洗ったからだいじょうぶ。髪は三日に一度でいいんですよ」
 幣原に襁褓(むつき)を穿かされた直人は、座敷を走り回っているところをトモヨさんに捕まり、昼寝に連れていかれた。女将は茶を飲み、主人は新聞の丁寧な切抜きをしている。菅野は帳場でなにやら勉強していたが、中番の女たちをバンで送っていった。
 大量の水仙を抱えた華道の師匠らしき女が二階へ上がっていく。空色の着物に花柄の帯を締めていた。女将が、
「採光のいい丸ちゃんの部屋で五人ぐらい指導受けるんよ。私とシノブさんも出とる」
「おもしろいんですか」
「まず勉強するゆうことが楽しいわね」
「たしかにそうでしょうね」
「それから、ようけ花の名前を覚えられるし、花屋なんかにいって季節の花がわかるのもうれしいわ。部屋に花を飾るゆうのを考えるようになった。掃除もせんといかんようになるしな」
「女らしい考え方ですね」
 シノブさんが、
「伝統文化に触れとると感じられるのがええわね」
「お茶もやってるんですか」
「日曜日の昼にな。マナーが身につくし、着物なんかにも詳しくなります。さ、女将さん、いきましょ」
 彼女たちも二階へ上がっていった。千佳子と睦子が帰ってきた。睦子が、
「やっぱり中止でしたか」
「うん。予備日がいつになるかわからないけど」
 主人がはさみを握ったまま目を挙げ、
「ペナントレースの前半の順延の埋めは、たいていオールスター前やな。後半は日本シリーズ前に適当に埋めてくみたいやが」
 私は二人に、
「お花やお茶には参加してないの。さっきお師匠さんがきたよ」
 千佳子が、
「習ってません。ムッちゃんはやるべきだと思う。古典専攻だから」
「折を見て参加させていただくつもりです。歴史や文化の知識が枝分かれしていきそうで楽しみ。ちょっと見学しない? 千佳ちゃん」
「うん、見てこようか」
 これまた二人で二階に上がっていった。私は主人に、
「そもそも置屋というのは、芸者さんを置くところですよね」
 送りから帰ってきた菅野も私たちのそばに腰を下ろし、興味ありげに耳を傾ける。
「そうです。いまみたいにからだ一本の女を置く場所やありませんでした。トモヨもおトキもシノブも、もとはちゃんと芸名を持った芸者やったんです。小鶴とか白梅とかな。芸者ゆうんは宴会を盛り上げるのが仕事です。一人ひとり得意分野があってな、舞踊や唄のほかに、三味線、太鼓(たいこ)、小鼓(こづつみ)、大鼓(おおかわ)、笛なんかの鳴り物やね。もちろん、酒をついで話をしたり、宴席を手順どおりに進行させたりという役目も果たします。ごくまれに身を売るなんてこともありますが、それは個人の裁量にまかせとりました。北村席にはむかしそういう芸者が二十人はおったな」
「唄というのは?」
「長唄、義太夫、端唄、小唄、なんかね。みんな三味線に合わせて唄うものやが、義太夫は物語やセリフを唄うんです。浄瑠璃の一種やな。どの芸事も好きやないと長つづきせん」
「稽古がたいへんそうだ」
「はい。置屋の部屋数が多いんは、稽古事をする部屋がようけ必要やったからです。一日が忙しかったわ。朝めしのあとは昼めしまで稽古、昼めし食ったら髪結い、二時から五時まで稽古、そのあいだに置屋を取り仕切る検番ゆうところから派遣先の連絡が入って、五時からそのお座敷の控室に向かう。六時ぐらいからお座敷、だいたい三時間でお開き、そのあとは客と個人的な付き合いをするやつもおるが、ほとんどは置屋に帰ってきて芸事のおさらいやな。……毎日の生活がじつにビシッとしとったが、枕芸者をさせるほうが店も儲かるもんやから、いつのころからか、芸がない枕専門の女も置くようになって、仕事ぶりが柔らかくなってまった。和子とよう衝突したんはそのころや。あいつの言うとおりやったですわ」
「芸者さんにはお金がかかるので仕方のないことだったんでしょう。カズちゃんもそのことがわかったんですね」
「ほうかもしれん。日本髪の髷、季節ごとの着物、履物、小物類、先行投資がたいへんやった。芸者たちはバンスと合わせてそれを働いて返していかんとならんし、置屋の実入りと言っても、お座敷の花代は検番と折半やったしね。置屋も芸者も苦しかった。いまのトルコ嬢はバンスを返すだけですむ。おかげでうちも利益が上がるようになった。その分女たちに還元できます」
「芸妓さんたちの自立にも援助したんですね」
「はい。もともと搾取なんかしとらんかったのに、昭和三十年代ぐらいから文化人どもたちから悪者にされはじめましてね。搾取だ搾取だってね。で、芸者が自立してみると、置屋の後ろ盾がないので大して仕事も回ってこん、いざ呼ばれれば値切られたり、拘束がないので簡単にお座敷を休んだりと、あまりいい結果は出んかった。花柳界が衰退していったのはそういう事情もあったんです。―ラクな商売なんかありませんよ」
「北村席で花や茶や習字の習い事をしているのは、むかしの名残を大切にしてるからですね」
「そうやね。所作、心遣いは大事です。せいぜいつづけていかんと」
 ソテツやイネや幣原やトルコ嬢たちが洗濯場から籠を忙しそうに運んできては、厨房の休憩部屋や納戸部屋に入る。自分たちの下着類を干すためだ。雨の日は大物の洗濯はしない。いくつかの部屋が紐を張った物干し部屋に変わり、扇風機が回される。トモヨさんも籠を提げて離れへいった。
 お花の師匠が女将に見送られて帰っていった。みんな座敷に降りてくる。名大生二人の顔が充実している。睦子が、
「感動しました。活け花の源流は蓮の花に始まる仏前供花にあるらしくて、それから花を観賞する感性が磨かれていき、万葉集や古今和歌集にも花を詠んだ歌がたくさん登場するようになります。花卉市場までいって花材を買うという授業もときどきやるそうです。そういうときは参加しようかな」
「どんな花材があるの」
「桜、梅、菖蒲、ヒメユリ、萩、すすき、ほかにいろいろ」
 千佳子が、
「古くは門松なんかもそうですって」
「千佳子も参加するの」
「私はしばらく法律の勉強一本」
 雨が客足に響き、五時で早上がりしたアイリス組が戻ってきて、風呂へいく。素子が、
「野球中継もないから、お客さん四割減。ゆっくり仕事できたわァ」
「四割減て?」
「それでも八十人はきたよ」
 五時半、目が覚めるなり離れから走り出てきた直人の甲高い声が上がり、座敷がいっぺんに賑やかになる。食卓が手際よく整っていく。西松や飛島の飯場とは一味ちがうニンニクバターで焼いたポークソテー、野菜サラダ、ポテトサラダ、冷奴、ワカメと豆腐の味噌汁、めし。直人はシラスとシソ梅のまぜごはん、炒り豆腐、小指の先の大きさに切ったポークソテー五切れ、味噌汁。カズちゃんが、
「きょうは、北海道以外は全国的な雨で、セ・パぜんぶお休みよ」
「そんなこともあるんだなあ」
 女将が、
「物干し小屋を作らんとあかんね。部屋に紐引っ張るのはあかんわ」
「三十ヘーベーぐらいのを最初から作っときゃよかったな。水周りは必要ないから、電気だけ引いて、洗濯機棟にくっつけるように建てりゃええやろう。でっかい換気扇一つつけてな。今月中に棟梁に頼んどこう」
 菅野が、
「社長、部屋はいくつぐらい空いてますか」
「二階に十畳、十二畳が五つ、六つ空いとるやろう。なんで?」
「神無月さんの賞状やトロフィーを置く部屋と、賞品を置く部屋がほしいんですよ」
「そういうものはとんでもなく貯まるやろうから、庭に大きめの小屋を作るわ。それも棟梁に言っとく。それまで空き部屋を好きなように使えばええ」
「助かります。トロフィー部屋には棚を何段か作ってください」
「よしゃ」
 めしのすんだ遅番のトルコ嬢たちを菅野が送って出る。
 直人の積木と塗り絵に付き合い、眠くなったのを見届け、抱き上げてトモヨさんと離れへ寝かしつけにいく。寝顔を覗きこみ、すやすや寝ているのを確かめてトモヨさんと笑いながら見交わす。二人交代で直人の額にキスをする。座敷に戻るとカズちゃんが、
「あしたの試合の帰りは新樹ハイツね」
「うん。十一時過ぎに帰る」
「何時でもいいから、則武に帰ってきてゆっくり寝なさい。あさっての午後は甲子園に出発よ。きょうはここでこのまま休めばいいわ」
「うん。八時にこっちへくるように菅野さんに電話しといて。十九日はいよいよ江夏だ」
 トモヨさんが、
「客部屋にお床をとります。きのうテレビが入りましたから、それを観ながら寝てください。あしたは七時に起こしますね」
「七時半にして。シャワーを浴びて、八時に菅野さんとランニングに出る」
「わかりました」
 カズちゃんたちが帰っていった。二階に上がっていく千佳子と睦子が、微笑みながら胸のところで小さく手を振った。
「お休みなさい」
「お休み」
 客部屋のテレビの前に敷いてある布団にもぐりこみ、たまたまやっていた日本任侠伝国定忠治第三回を観る。三国連太郎と山本学のアクの強い演技を眺めているうちに眠りこみ、ふと目覚めるとサンドストームになっていた。スイッチを切って熟睡。


         三十三

 翌十七日木曜日の対巨人二回戦は、長嶋が全面欠場した。試合前の練習にも顔を現さなかったし、ベンチにも姿がなかった。巨人は八番まで、高田、土井、柴田、王、末次、黒江、滝、森の布陣。ピッチャーは堀内。つまり、長嶋以外はいっさい変化のない布陣だった。どういう事情かわからないが、新聞にも長嶋故障という記事が載っていないので、〈宝〉の温存は明らかだった。
 さすがの水原監督も腹に据えかねたのか、五回裏までレギュラーをベンチに控えさせ、一枝、吉沢、葛城、伊藤竜、島谷、太田、江島、徳武の打順でスターティングメンバーとし、六回から八回にかけてベンチの一人ひとりを、代打に使っていった。
 六回裏水原監督が、ベンチを出てコーチャーズボックスに向かうときに言った。
「私たち野球少年は、大人の話からではなく、人となりから学びます。巨人は長嶋一人のチームです。彼だけが大人です。王も長嶋あってこその王です。こういう大人の姿勢はよくない。長嶋がいなければただの少年野球チーム。引導を渡してやってください」
 ドラゴンズのピッチャーは山中巽。完投した。王に二本ホームランを打たれたが、絶好調と言っていいできだった。
 落胆した巨人ファンたちは、三回あたりからぞろぞろ引き揚げはじめたが、一塁側とライト側の中日スタンドは満員のままだった。そのうち私や江藤がかならず代打で出てくると信じているからだった。
 堀内に抑えこまれた中日は五回裏までノーヒット。巨人は王一人が気を吐いて、ツーランとソロ。六回表を終わって三対ゼロ。
 六回裏、葛城がレフト前ヒットで出ると、私は伊藤竜の代打を命じられた。初球のドロップカーブを引っぱってライト前ヒット。つづく島谷、ライト前へクリーンヒット、葛城生還。堀内の顔色が急に変わった。スタンドが沸き返る。ほら見やがれという感じだ。太田センターオーバーの三塁打。島谷と私が還って同点。堀内がしきりに川上監督を見る。
 江島に代打江藤が出て、三塁線の二塁打。太田生還、三対四。逆転。
「いけいけ、いけー!」
 森下コーチの怒鳴り声。徳武に代打高木。二球目を右中間へ打ち返す二塁打、江藤還って三対五。堀内続投。川上監督に動く気配はない。堀内は帽子をひん曲げてストレートばかり投げてくる。山中三振。一枝左中間へポテンヒット。ワンアウト一塁、三塁。吉沢に代打中。ライト犠牲フライ。高木還って三対六。打者一巡。一枝を一塁に置いて、葛城バックスクリーンへツーラン。三対八。私もホームラン狙いで打席に入ったが、ユニフォームの胸もとをかすめる痛くないデッドボール。今季初四死球。島谷センターフライ。
 代打陣がそのままの打順で守備についた。七、八、九回と、巨人は王のライト前ヒットと黒江のセンター前ヒットの二本きり。もちろん無得点。一方中日は七回、江藤左中間上段へ五号ソロ、三対九。高木がまたもや左中間二塁打をはなったところで、ついに堀内から田中章に交代。おとといにつづく連投だ。彼は、山中、一枝、中と必死で抑えた。
 八回裏、サード強襲ヒットの葛城を一塁に置いて、私はおとといしてやられた内角スライダーを捉えてライト場外へ叩き出した。十一号。三対十一。水原監督と見つめ合いながら固い握手。島谷右中間へ今季一号のソロ。三対十二。太田レフト前クリーンヒット。江藤ピッチャーの足もとを抜くセンター前ヒット。高木サード強襲の内野安打。ノーアウト満塁。王がマウンドまでいって何やら田中を励ます。山中セカンドゴロゲッツー。太田生還。三対十三。中ピッチャーライナー。
 三対十三で勝利した。みんな静かに怒ったのだった。水原監督が取材を拒否して、応接ルームで十分間の緊急ミーティングが開かれた。
「よくみんな怒ってくれた。ナメられてたまるものか」
「オー!」
 と江藤がこぶしを突き上げた。
「大駒を欠いた戦力をぶつけて、わがチーム力の偵察をしているつもりなのだろうが、勝利を犠牲にしてまで敢行する偵察に価値はない。こうして彼らは無駄な敗北を一つずつ喫していくことになる。シーズンがどんなに長丁場であっても、怪我でもしていないかぎりミスタープロ野球を引っこめる策などあり得ない。彼はちゃんとベンチ裏に顔を出していたんだよ。チラッと見えた。温存の意味がわからない。お客さんに喜んでもらうという基本理念が巨人軍にあれば、きょうの堀内の立ち上がりのできからして、おそらく三対ゼロでうちが失うゲームだった。しかし、そうはさせるものかだよ。私たちは、どんな状況でも、野球に対する赤誠を持って戦う」
「そうだ!」
「そのとおり!」
「よく堀内を打ち崩してくれた。私たちは強い。私はわがチームの強さをあらためて痛感した。義憤を感じる人間らしい集団だと痛感した。私と同様、きみたちも静かに怒っていた。そして手を抜かなかった。それが勝利につながった。さあこれで五連勝だ。勝てるだけ勝ちつづけよう」
「オーシャア!」
 半田コーチが、
「きょうはゆっくり休んでくーださい。甲子園にいって土曜日二時から、試合一つね、日曜日三時からダブルヘッダーね。広島にはネクターしかなかったけど、甲子園はヤリースだいじょうぶ。球団さん、私のケットマニー使わなくてもいいって言ってくれたよ。じゃ、あしたの午後、芦屋の竹園旅館で会いましょう。ご苦労さまーす
 長谷川コーチが、
「開幕戦に使ったローテーションから考えて、土曜日の初戦はまちがいなく江夏だ。三振は十までで止めとけよ」
 私は叫んだ。
「オッシャー!」
 みんな驚いた。私は頭を掻いた。
「じゃ、解散」
 とうとう江夏に会える。太田に尋く。
「開幕戦で江夏は勝ったの?」
「大洋に一対ゼロで負けました。被安打四、三振十二、フォアボール三。勝ち投手は平松」
 報道陣の退いた関係者通路を出て、ファンに声をかけられながら駐車場に向かう。サイン帳を何の希望もなくぼんやり差し出す子供が多い。立ち止まってサインすることがファンのための行為だと思えない。立ち止まる気がしない。日々冷酷な人間になっていく実感がある。それでもなぜか立ち止まり、十人ほどの子供にサインした。時田が私の肩を庇いながら歩く。
「甲子園には別の手下(てか)がいきますんで。私は東京に帰ります」
「広島、名古屋とありがとう。ご苦労さまでした」
「甲子園での活躍を祈っとります」
 私は去っていく時田の背中に辞儀をした。きょうは主人が球場にきていなかった。応募者の面接に大わらわということだった。雑な試合だったからかえってホッとした。菅野がクラウンのそばにポツンと一人で立っていた。
「お帰りなさい。ひどい試合でしたね。四本のホームランが救いでした」
「王さんの二本も入れて六本」
「長嶋は、これからも三、四試合欠場して、調整するらしいですよ」
「何の調整だろうね」
「謎ですね。ここ二、三年、この時期かならず休むということは、ボーナス休暇でももらえるようになったんじゃないですかね」
「水原監督が言うには、ベンチの陰にチラッと顔を見せたそうだよ」
「―何なんですかね」
 球場を出て二十五、六分で新樹ハイツに到着。
「じゃ、十一時に迎えにきます」
 菅野は駐車場から引き返していった。裏手へ回り、健児荘に似た玄関を入る。玄関脇の部屋。かつての山口の部屋と同じ位置だ。中から楽しげに語り合う声が聞こえる。ドアをノックする。
「ハーイ!」
 二人の声。ドアが開き、いいにおいが流れ出てくる。
「いらっしゃーい!」
 二人で両側から抱きつく。節子が、
「中華飯の具を作ってたの。カタ焼きソバも作ります」
 二人の唇にキスをする。二人とも目を閉じる。キクエが
「幸せ……」
 節子が、
「私も幸せ……」
 唇を離すと二人微笑んで目を開いた。八畳の和室の角テーブルにつく。大型のカラーテレビが置いてある。キクエが、
「広島の開幕戦、こっそり待合室のテレビで観たんです」
「私も。お医者さんたちも観てたわ」
 キクエは胸にこぶしを作り、
「アナウンサーが、神、神って叫んでました。泣いちゃった。私の神さまがちゃんと神さまって呼ばれてたから」
「私もボロボロ泣いた。打つ姿も、守る姿も、走る姿も、何もかも、なぜって言うくらい美しいの。そんな人を愛してる自分が信じられないほど幸せで、ありがたくて、涙が止まらなかった」
 私は節子の手を握った。温かくて小さい手だ。あのとき熱田駅の旅館へさまよっていった道々握った節子の手は、冷たくて小さかった。キクエが、
「中選手と二人で回転したとき、起き上がってタッチし合ったでしょう。大写しになった二人が男と女みたいに微笑み合ってたの。キョウちゃんが愛されてるってしみじみわかって、また泣きました」
「あのあと眼鏡をかけたってアナウンサーが大騒ぎして、何度も大写しになったわ。目が悪かったって思い出した」
「西高では、よく眼鏡かけてたのよ。試験のときだけ。それが格好いいの!」
 二人でフフフと笑い合う。
「ここは節ちゃんの部屋?」
「キクちゃんの部屋。私の部屋は廊下の向かい側。そっくり同じ造りよ。正方形を四つに区切って、二部屋と、キッチン、お風呂、納戸。トイレはお風呂の隣よ。洋式便器で、水洗。あ、お風呂は夕食のあとで入れますね」
 節子がフィルターコーヒーをいれる。
「おいしい」
「アイリスで挽いてもらったキリマンジャロよ」
 キクエがテーブルに用意しておいたスクラップブックを見る。広島戦のタブロイド版の記事が切り抜いてあった。数カ月前に創刊したばかりの夕刊フジという新聞のものだった。初めて見た。

 中日の今回の三連勝を見ると、たしかに爆発的な攻撃力に恵まれていることはわかるが、相手に点を取られすぎるきらいがある。信頼できる先発完投型のピッチャーのローテーションを緻密に整えるか、その一人ひとりを軸にして完封リレーの方程式を作らないかぎり、いずれ大きく躓くだろう。

 と書いてあった。まったく水原監督と同じ考えだ。ほかのスポーツ新聞とちがってきびしく公正な書き方だった。
「待合室に患者さんが置いていったのをいただいてきたの。マスコミの言うことなんか気にしないで」
 私は明るくうなずき、
「この記事は当たってる。水原監督と同じ意見だ。初めて見る正直な意見だね。点を取られすぎたのは、水原監督が主戦ピッチャーのプライドを傷つけないために、打たれても投げつづけさせたり、逆に主戦ピッチャーを疲れさせないように打たれないうちにチェンジしたせいもあると思う。そのうえで、この先のローテーションを考えてるんだろうね。主戦四人、三十登板完投なんて、夢物語だからね」
 キクエが、
「難しい理屈はよくわかりませんけど、強すぎるから早く躓いてほしいという気持ちもあると思います。敗北の味を早く知って、プロらしく戦ってほしいっていう」
「みんな並のプロ以上にプロらしく戦ってる。並以上に努力もしてるしね。無謀な戦い方はしてない。でもいつかかならず負ける。それでも努力するのはこれまでと同じだし、心構えも同じだ。ピッチャーの継投策が固まれば、大味な試合はしなくなる」
「きのうの巨人戦もやっぱり勝ちましたね。いつか負けるんでしょうけど、でも、勝っても負けても関係ないの。私たちはキョウちゃんを観にいくんですから」
 節子が、
「さ、ごはんにしなくちゃ。菅野さんは何時のお迎え?」
「十一時」
「五時間以上あるわ。ゆっくりしましょう。キョウちゃん、焼きソバ、やっぱり柔らかいほうがいい?」
「いや、餡をかけるなら、硬いほうがいい」
 彼女たちが台所に立つと、私はシャワーを使って、試合の汗を流した。髪も洗う。用意してもらった下着をつけてサッパリし、ジャージを着て角テーブルの座布団に坐る。テレビを点ける。どのチャンネルを回してもニュースか子供番組。消して、スクラップブックに戻る。

    
引きつけてドッカーン!
      
重心低く土を蹴る回転
        
左中間へ百三十七メートル右中間へ百六十八メートル
 飛距離と角度を出すために欠かせない下半身の動きが完璧である。インパクト後に軸足の左足が伸び上がって力が抜けるということが一切ない。重心を低く保ったまま、土を蹴るように腰が回転、全身の筋肉の連動で最大限の力をボールに伝える。





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