四十六

 快晴。大鳥居まで往復。牧野公園で三種の神器。北村席でシャワー。朝めし。主人が、
「プロにきて、江夏のほかに印象的なピッチャーはおりますか」
「全力で投げる村山実さんです。オーバースロー、スリークォーター、サイドスロー、どこからでもものすごいスピードボールやフォークを投げます。三十三歳ならまだまだやれると思います」
「関大時代からあのザトペック投法なんですよ。三年のときさすがに肩を壊して、水が引くようにスカウトが離れていきました。中でもいちばん熱心だった巨人に打診すると、けんもほろろに門前払いで知らんぷり。たった一人親身になってくれたのが関大の先輩で阪神の球団代表だった田中義一で、肩の手術を勧めたんです」
「村山さんは肩の手術をしてたんですか!」
「はい。幸運にも成功して、百五十キロ以上のスピードに戻りました。当時の球界では尾崎と並んでナンバーワンだったと思いますよ。そうなるとまたスカウトが戻ってくる。二千万円を提示した巨人を蹴って、五百万の阪神へいきました。オトコです」
 長嶋を欠いてからの巨人は大洋戦にも勝てず、二十日までに五連敗。きょうの後楽園の阪神戦から長嶋が復帰することを頼みの綱にして巻き返しを図る、と新聞に書いてある。長嶋の長期欠場の理由は、キャンプ、オープン戦の疲れを取るためということだった。そんなことは各球団のどの選手も同じ条件なので、シックリしないものを感じた。三十三歳という年齢にしても、その程度の齢の選手は球界にいくらでもいる。中日ドラゴンズを考えてみても、小野はすでに三十六歳だし、小川は三十五歳、中は三十三歳、葛城も三十三歳、江藤は三十二歳、徳武は三十一歳だ。長嶋とどう疲労の度合いがちがうというのだろう。オープン戦から出ずっぱりの彼らだって相当疲れているはずだ。彼らはけっして弱音を吐かない。
 午後六時から対アトムズ戦第二戦。アトムズの先発は松岡弘(ひろむ)、中日は浜野百三。
「松岡って速球ピッチャーなんですか」
 ブルペンの投球を見つめながら、きょうからベンチに戻ってきた中に訊くと、
「二年目なんだけど、去年ほとんど登板してないから知らないんだ」
 オープン戦で中継ぎとして出てきたときとは別人のようにフォームが整い、スピンの効いたかなりの速球を投げている。シノブさんの踊りのように、手先、足先がピッピッと決まっている。三月二十六日の初対決のときには、彼からライトへ犠牲フライを打った。
 その松岡から、一枝六の二、江藤五の二、私五の二、木俣四の一、島谷五の二、江島四の一、と都合九安打を放った。しかしサヨナラの回を除いては連打にはならず、結局今回もホームランで決まる試合になった。内わけは、六回、レフト前ヒットで出た一枝をバントで送った高木を松岡がフィルダースチョイスで生かし、ツーアウト一、二塁になり、そこへ江藤がレフト上段に七号スリーランを放りこんだ。それに対してアトムズは、七回表に武上を二塁に置いて福富のライト前適時打で一点、九回表、フォアボールと送りバントで二塁に進んだ丸山を奥柿が二塁打で還して一点、八回裏から松岡の中継ぎをした老け面のルーキー投手安木が一二塁間を抜き、奥柿を還して一点、と反撃し、ついに三対三の同点にした。ここで浜野から田中勉にピッチャー交代、後続を抑えた。
 この日の私の打撃は、松岡のほんの少し浮いてくる高目の速球を捉え切れずにボールの下を叩きすぎ、ファーストフライ、セカンドフライ、センター横のテキサスヒット、サウスポーの長身安木に代わって、外角低目のカーブを強引に引っかけてセカンドゴロ、という低調ぶりだった。テキサスヒットのとき、バットを折った。
 延長十一回の裏、一枝、高木と内野ゴロに倒れてツーアウト。江藤が高目のクソボールを叩きつけた打球が高く弾んでサードの頭上を越える二塁打になった。私の打席だ。キャッチャーの久代が敬遠をほのめかして立ち上がった。八回から好投をつづけてきた安木は久代を呼び寄せ、相談し合って強気の策を選んだ。ピッチャー出身の別所監督が走ってきて事情を聞き、わかったというふうに安木の肩を叩いて励ました。一日当たっていない私を見くびったわけではなく、意気に燃える好調の安木を信じて私の凡打を期待したというふうだった。クリーンアップから始まる次の回に早く入りたいということもあったにちがいない。
 内野ゴロで打ち取ろうとする安木が、もう一度外角低目にカーブを落としてくるだろうと私は踏み、極端にクローズドに構えた。それなのに安木は、初球から正直にそこへ放ってきた。屁っぴり腰で狙い打ってレフトのポールぎわにライナーで打ちこんだ。平光の白手袋がクルクル回った。二十一号サヨナラツーラン。これまでの十試合でいちばんラクなホームランだった。水原監督と強く両手を打ち合わせて、仲間たちの手荒い祝福の中へ飛びこんだ。二勝目が転がりこんできた田中勉にヘルメットをバンバン叩かれた。三対五のサヨナラ勝ち。プロ入り初のサヨナラホームランだった。
 帰りのクラウンの車中で菅野が、
「巨人が阪神に五対ゼロで負け、六連敗です。戻ってきた長嶋は四のゼロ、二三振、王も仲良く四のゼロ、二三振でした。そろそろ泥沼ですね」
「ホームランは?」
「カークランドの二号スリーラン、ダメ押しです。二点取られて降板した金田が負け投手になりました」
 主人が、
「きょうはポテンヒット一本で終わりかなと思ってたところへ、あの弾丸ライナーですからな。十一回まで帰らないで観ていたお客さんも、涙がチョチョ切れたでしょう」
 初めて観戦にきた優子に、
「どうだった? 野球場は」
「きのう観た丸さんの言ったとおり、人間の作ったいちばんきれいで、いちばん大きなお庭ですね。生まれて初めてあんなきれいなものを見ました。神無月さんの職場はあの場所しか考えられません。球場の中で見る野球選手はみんなきれいでしたけど、その中でも神無月さんは一人だけ星みたいに輝いてました」
 菅野が、
「浜野というピッチャーは根性がないですね。ピッチャーの安木に打たれたのはいただけません。あれがなければ、九回αですんでたんですからね。分が悪い三回を投げ切って、きちんと勝利投手になった田中は立派です」
         †
 四月二十四日木曜日。九時起床。曇。気温十六・一度。うがいをし、歯を磨く。ふとよぎる思いがある。―愛はおのずと死ぬことはない。人為的な背信によって疲れ果て、衰え、息絶える。何の思いだろう。
 一人で大鳥居往復。いつもの鍛練。
         †
 人が訪ねてくる所用で留守を預かった主人の代わりに、菅野とソテツと睦子が年間予約席で観戦した。
 中がベンチに戻ってきて(出場はしなかった)全員の気持ちが引き締まった。第三戦の先発は、きのう延長戦を締めくくった田中勉。アトムズはドラ一の新人藤原真(まこと)。開幕の巨人戦で彼が勝利したのを新聞で見たとき、世羅別館のロビーで木俣たちが、こんなのにやられるか、と言っていた。一枝が、
「大学時代は田淵と相性悪くて、二十二本のうち五本打たれてるんだよな」
 高木が、
「田中は金太郎さんが東大に入る一年前に卒業してんだろう。対戦してたら五本じゃすまなかったぜ」
 江藤が、
「田淵の二十二本ちゅうのは、四年間の数字やろうもん。金太郎さんは一年間で五十二本たいね。金太郎さんを人間と比べたらいけん」
 小川が、
「藤原って慶應ボーイじゃなかった? きっと素直なお坊ちゃん球を投げるんだろう」
 たしかに、バケット打法でゆったりとしたスイングの田淵に打たれるということは、球筋が素直なのだろうと思った。
 しかし、いざ試合に臨んでみると、素朴なストレートをあまり使わずに、多彩な変化球を投げ分けるピッチャーだとわかった。江藤が、
「大して変化せんな。大振りせんならチョロかろ。ほんとに巨人に勝ったとや?」
 小川が、
「河村保彦の中継ぎで投げたらしいんだけど、逆転してもらって勝利投手になっちゃった。幸運児だよ。運を生かせれば、十勝ぐらいするんじゃない」
 私たちはそういう目でしか彼のことを見ていなかったので、やすやすと打ち崩してしまった。
 ただ、田中勉の調子はいまひとつで、初回、一番の武上から、福富、ロバーツまでの三人を、ヒット、フォアボール、ヒットで満塁にすると、高倉にライトへ犠牲フライを打たれて一点先取された。奥柿に三遊間の深いところへ内野安打を打たれて二点目。丸山三振のあと西園寺をショートゴロに打ち取り、なんとか後続を断ったが、二回表には久代ヒット、藤原ヒット、武上フォアボールで満塁にしてから、福富三振、ロバーツ一塁ファールフライ、高倉センター前ヒットで二点を献上した。四対ゼロ。
 その後四回に、三塁打の久代をピッチャーの藤原がレフト前のヒットで還し一点、六回に二塁打で出た久代をまた同じ藤原がライト前のヒットで還した。六点。八回には武上のソロホームランが出て都合七点。それがアトムズの全得点だった。田中勉は調子の悪いまま投げ切って、チーム勝ち頭の三勝目を挙げた。彼の粘投に報いて私たちがアトムズを袋叩きにしたからだった。試合中田宮コーチから、
「ボールゾーンも打っていいぞ!」
 という檄がしきりに飛んだ。私はホームランこそ出なかったが、五打数五安打、フォアボール一、二塁打三、三塁打一、シングルヒット一、盗塁一個。江藤六打数四安打、三シングルヒット、八号ソロ。高木四打数二安打、一シングルヒット、三号ツーラン、二フォアボール、二盗塁。島谷四打数一安打、二号スリーラン、三三振。木俣五打数三安打、二シングルヒット、二号ツーラン。六回までにすでに十点取られていた藤原に代わって出てきた巽、村田、渋谷ら三人のピッチャーもことごとく打ち砕き、二十二対七で勝った。六時に始まった試合が終わったのは九時四十二分だった。
 くたくたになったチーム一行を代表して報道陣のインタビューを水原監督と、大当たりの江藤が引き受けた。江藤は、
「一塁守備についたとき、アトムズの山根一塁コーチが、もういいでしょう、と言うたけん、よかばってん止まらんたい、と応えたばい」
 と笑った(今日とちがって、一九七四年までの試合後インタビューは、球場内に聞こえるようには放送されなかった。マイクに取られた映像や音はいったん報道関係者のテープに収められ、各局で編集したあとテレビやラジオに流された。ベンチの前や横でインタビューが行なわれるせいで、まれに近くのスタンドにいる観客に聞こえることはあるが、そのほかの人たちは何も知らずに球場をあとにした。勝利ベンチの選手たちの耳にはすべて聞こえてきた)。水原監督が、
「田中くんにかぎらず、うちのピッチャーの反省点は、相手チームのピッチャーに適時打をよく打たれることです。ピッチャーと言えども、往年の強打者だった選手が多い。一種の油断からくるこのたるみ癖はかならず治さねばなりません」
 ときびしい口調で言ったのが印象に残った。
「ところで、中くんが戻ってきました。進撃に加速がつきますよ」
 十時五分、全員疲労の色を濃くして引き揚げた。私もグッタリしてクラウンに引き揚げた。菅野が、
「大勝利おめでとうございます。またピッチャーに打たれましたね」
「水原監督も言ってましたけど、うちのピッチャーの悪いクセです。もっと気を引き締めないと。中さんがもう戻ってきました。彼がいるとやっぱりチームが引き締まる」
「あさってからは出られるんですか」
「たぶん。少なくとも代打では出るでしょう」
 睦子が、
「私、なんだか、きょうわかりました。お客さんは神無月さんのホームランを見たいというよりは、神無月さんそのものを見たくて球場にきてるんだって。シングルでも、フォアボールでも、すごい歓声でしたから」
 菅野が、
「スターというのはそういうものなんだなァ」
 ソテツが、
「……こんなすばらしい試合に連れてきてもらって、何てお礼を言ったらいいか」
 睦子が、
「みんな同じ気持ちよ。ドラゴンズの人たちもそうなんじゃないかしら。とにかく神無月さん、あしたはゆっくりしてね。一日雨ですって」
「都合のいい雨だな。走りはこの三日間のグランドで足りてるし、菅野さん、ここんとこ暇になっちゃったね」
「神無月さんが遅寝の日は一人で走ってますからご心配なく。私、あれ以来、花屋でもててもてて。神無月さんのメッセンジャーになっちゃったんですよ」
 うれしそうにハンドルを動かす。


         四十七

 十時半を回って、寝静まった北村席に帰り着く。睦子はすぐに就寝の挨拶をして千佳子の部屋に退がり、ソテツも自室に退がった。起きて待っていたトモヨさんとメイ子が、男二人にてんぷらうどんを用意した。美味。黙々とすする。トモヨさんが、
「四時ごろでしたか、千年小学校の服部タモツという校長先生が、講演をお願いしたいって電話してきました」
「服部先生! あのころの校長先生は木全(もくぜん)圭一という人だった。そうか、服部先生が校長先生になったんだな。野球部の顧問だった人だよ。今度電話あったら、シーズンオフなら考えてみるって返事しといてください。千年小学校はぼくにとって忘れられない母校ですから」
「わかりました」
 菅野が、
「何度もいきましたねえ、千年小学校。神無月さんの原点。あそこで講演ですか。私も聴きにいきます」
「さ、食べ終わったらお風呂入って、すぐお休みなさい」
 メイ子が、
「私は失礼します。お嬢さんが心配してるでしょうから」
「メイ子ちゃん、車で送ってくよ」
「はい、ありがとうございます」
「ぼくもいっしょに帰る。風呂はむこうでゆっくり入る」
 トモヨさんが、
「そのほうがいいわ。そのダッフルはユニフォームですね」
「うん、あしたクリーニングに出しといて」
「はい。あさっての朝、新しいユニフォームを用意しておきます。めずらしくホームラン出ませんでしたけど、がっかり?」
「大満足。連打も気持ちいいもんだよ」
 菅野が、
「二十一本も打ってますからねえ。少し休まないと、ファンも食傷気味になるでしょう」
 私はトモヨさんに、
「きょうの巨人は?」
「きょうは、巨人戦はありませんでした。今朝お父さんが、外木場が六点取られたのかって、言ってました」
 菅野が、
「それ、きのうの試合ですね。きょうは広島が大洋に勝ちました。広島の二勝一敗」
 私は、
「巨人が最下位ということか」
 菅野が、
「まあ、いずれ、五連勝六連勝して盛り返すんでしょうけど、ちょっとドラゴンズには追いつかないですね」
「油断は禁物。水原監督じゃないけど、勝てるうちに勝てるだけ勝っておく」
「そうですね。かならず連敗が何度かありますから」
 トモヨさんにキスをして玄関を出る。
「なんだかうれしいな。勝ったことじゃなく、みんなと生きてることが」
 菅野が、
「私はいつもうれしいです」
「私も!」
 メイ子が私の腕を抱き締めた。菅野が、
「あしたは一日雨の予報です。ランニングは」
「なし」
「はい」
         †
 カズちゃんとメイ子と三人でゆっくり深夜の湯に浸かる。至福のときだ。
「あしたはゆっくりね。雨だし、一日のんびりしてればいいわ。あさっての阪神戦はナイター?」
「うん。午後から出かける。一日半のお休み」
「なんだか私たちもくつろぐわ。二十九日から五月の八日までは、十日間の死のロードね」
「うん。二十九日から五月の一日まで川崎でナイター、三日からは裏日本回りのデーゲーム、六日から後楽園でナイター三連戦だ」
「気が遠くなるわ。菊田さんや福田さんたちに会えるかしら」
「今回は無理だね。最終日の翌日は、北陸まで集団で移動だから。そのこと、御殿山に伝えといて。翌日、集団行動のないときに泊まるって」
「わかった。まる十日間、女気なしね。だいじょうぶかしら」
「平気、平気。帰ってきたときの感動を考えると、充実した気分で禁欲できるよ」
 笑い合う。二人とキスをする。湯殿に出て頭を洗う。
「五月六日の巨人戦は、山口や林や御池たちが観にくることになってる」
「おトキさんによろしくね」
「うん。グランドとスタンドで手を振ってお別れだな。山口もコンクールの準備で忙しいだろうし」
「そうね。これからだってゆっくり会えるチャンスはあるわよ」
 カズちゃんの寝室のふかふかした蒲団に入る。柔らかくて熟いからだのあいだで眠りについた。
         †
 九時に一人目覚めた。枕もとにジャージが置いてあった。うがいをしてからシャワーを浴びた。昨夜洗った頭をもう一度丁寧に洗う。ジャージを着て机につく。しとしと雨。
 二十九日からの〈死のロード〉に興味が湧く。限界までやってやろう。戦場からも、シベリア抑留からも、まれには原子爆弾からも、人は生き延びて帰還する。それを思えば、死という冠が大げさに感じられる。
 カズちゃんの書棚から、吉川英治の『牢獄の花嫁』という適度に厚い単行本を取り出して机に向かう。
 鶉(うずら)坂の老人と呼ばれる鶴のように痩せた男が、部屋数が二十七もある豪邸を新築して独居しているところから話が始まる。姓は塙(はなわ)と言うようだ。塙席の塙だ。親しみが湧く。下男が四、五人いる。離れも含めた北村席をイメージする。息子郁次郎の許婚である花世と五百之進(いおのしん)父子が客として訪れると大喜びする。五百に〈いお〉とルビが振ってあるのにも親しみが湧く。その平和の図が、郁次郎の投獄によって崩れようとする。冤罪を晴らすための父の奔走が始まる。父はかつて十手者だった。
 武士と百姓風情の怪しい二人連れが、櫃に女の死体を入れて運び去ろうとするところを十手者に捕まる。武士のほうは逃げた。捕縛して番所に連れ帰り、訊問するが埒が明かない。死体は絶世の美女で、胸の下に短刀を刺しこまれたままだ……。
 読み挿してシオリを挟む。句読点と専門用語が多く、少し読みづらいし、処々に見受けられる隠喩も陳腐だ。けれども、渾身の描写であることはまちがいない。上質のサスペンス。今年は吉川英治の小説も読書予定に入れよう。
 一時間ほど五百野の断章を書く。近所の悪童たちとソフトボールというものを初めてするところ。才能の萌芽の部分なので慎重に書く。これまでになく首が凝る。腹が冷え、便所に急いでいき、下痢をする。シャワーで尻を洗う。
 吉川英治を手に、傘を差してアイリスへいく。目顔でメイ子に頭を下げ、カウンターのカズちゃんと素子に手を挙げる。格式の高い店になったことが、店員と客の雰囲気でわかる。さりげなく隅のテーブルについて本を開く。
「格好いいわねえ」
「すごい美男子」
 何人かの客にシャッターを押される。ウェイトレスがきびきびと水を持ってくる。
「ナポリタンと、ブラジル」
「かしこまりました」
 小説のつづきを開く。該博な知識、精妙なストーリー展開。ふつうの大衆作家ではこうはいかない。花世と美女殺人の脈がつながっているとにおわせる。塙老人の名が江漢であるとようやくわかる。美女殺人事件の解決に知恵を貸すペリー・メースンもどきの塙老人。彼の智謀を恐れる黒幕の手で、老人の息子が冤罪に陥れられる。黒幕探しが物語の柱となる。プロットは読めたが、博覧強記と言えるほどの教養と細かな描写力に驚嘆して、読み挿せなくなる。
 スパゲティを食い終え、コーヒーのお替わりをする。
 午後一時。ふたたび読み挿してシオリを挟む。立ち上がると、ホー、とテーブル席から嘆声が上がる。カウンターへいき、カズちゃんに小声で、
「吉川英治全集を買っといてくれる? 遠征のときに持っていきたいから」
「わかった。ナポリタンおいしかった?」
「うまかった。コーヒーもね」
「もう一杯、カウンターで飲んでいきなさい。紹介したいから」
 制服を着た二人の女を掌で指す。
「素ちゃん、サントスお願い」
「はい」
 素子が黙々とコーヒーをいれる。
「広野あかりです。ここの二階にお部屋をいただいてます」
 甲斐和子に似ている。好みではない。素子が、
「ほら、ときどき英語を教えてもらっとる人」
「どうも……」
「茂木蝶子、蝶々の蝶です。中村公園から通ってきてます」
 河村千賀子に似ている。好みではない。
「信じられない。神無月選手が目の前にいるなんて」
「ほんと!」
 広野もうなずく。カウンターの並びからシャッターの音がする。素子が、
「いままで何度もお店にきとるがね」
「はい、でもこんな目の前で……」
「ドキドキするやろ、きれいすぎて」
「はい!」
「こっちが惚れても、惚れてもらえるとはかぎらんで」
 茂木が、
「そんなこと望んでません。こうしてお会いできただけでじゅうぶんです」
 私は胸を撫で下ろす。広野が、
「いつも、インタビューをすてきだなって思って聞いてますけど、ああいう話術って、どうすれば身につくんですか」
「話術というほどのものは持っていません。自分を表現しようとしないで、だれかに呼びかけるようにしているだけです」
 カズちゃんが、
「こういう受け答えもすてきでしょ? その場で心にあることを、ただそのまま言ってるだけなの。とつぜんエッチなことを言い出すこともあるわ。それがぜんぜん不潔に聞こえないの。まねしようとしても、まねできないわね。キョウちゃん、ちょっと裏に回ってくれる? 江藤さんの伝言があるから」
 店の隅の脇戸から、表に出て待つ。やがて、素子と出てきた。どんな伝言だろうと訝しんでいると、
「江藤さんに電話して確かめたら、北陸遠征は地方の古い宿なので、毎年個室になるってわかったの」
「へえ、ゆったりできるね」
 素子が、
「で、仰せつかったんよ。富山、石川、福井の三日間だけ、キョウちゃんと同じ宿に泊またらって」
「素ちゃんは欲ばりでないから、キョウちゃんのからだに負担がかからないと思うの。十日間の禁欲はぜったいからだによくないわ。プレイにも響くと思う。デーゲームだから、チームみんなと食事にした後、素ちゃんとゆっくり、ね」
「わかった。うれしいよ」
「私もうれしい。旅なんて初めてやし、キョウちゃんと三日間も夜をすごせるなんて夢みたい。五月五日が福井なんよ。お部屋で誕生日のお祝いしましょ。五月の初旬は、うち安全日やから、安心してね」


         四十八

 もう一度カウンターに戻り、コーヒーを飲み干す。カズちゃんはサラリと女たちに話す。
「用意するものやら、宿の地図やら、細かい伝言だったから、ここで話すわけにいかなくて」
 広野が、
「江藤さんたちの伝言は北村チーフが受けるんですか」
「そう、私か素ちゃん。北村席に電話してくるの。キョウちゃんはそういうことは上の空で聞いてしまうから、おとうさんたちも気を使ってるのよ」
 茂木が、
「神無月選手は着せ替え人形みたいなものですか?」
「そういう表現がいちばん近いわね」
「やっぱりすてき! そういう人が、あんなホームラン打つんですから、とっても不思議です」
 ウェイトレスが吉川英治を持ってきた。
「お忘れです」
「ありがとう。じゃ、帰るね。ごちそうさま」
「ありがとうございました!」
 シャッター音の中に、フラッシュが混じった。レジで金を払い、メイ子に目礼して表の道に出る。
「神無月くん!」
 歩きだしてしばらくして声をかけられた。
「あ、金原! どうしたの」
「どうもせん。午前の授業から帰ってきたとこ。神無月くんのこと無性に恋しくなったんよ。いま北村席の門を見にいって、なんかホッとして引き返してきたとこ。神無月くんが前を歩いとるんでびっくりしたワ」
「ぼくたち、だいたいひと月ごとに遇うね。ということは、小夜子もだいたい安全日ってことだね」
「いましてくれるの?」
「もちろん。すぐそこがぼくの家なんだ。すぐしよう」
「うん!」
「ますます色っぽくなっていくね。名大じゃ男に言い寄られてたいへんだろ」
「ぜんぶハネつけとる。私、神無月郷の女やよ。ほかの男になんか股広げられん」
 玄関に入り、二階の寝室にいく。服を脱ぐのももどかしく、スカートをまくり上げ、下着を引き下ろして無毛の陰部にしゃぶりつく。大きなクリトリスを吸う。
「あ、神無月くん、すぐイク、好きよ、大好き、あああ、イク!」
 伸ばした脚に硬い芯が入る。柔らかい深部に向かって突き入れる。奥の壁が下がってきて亀頭をしっかり包みこむ。金原独特の反応だ。たちまち射精が迫る。唇を吸いながらすみやかに達し合う。金原は存分に痙攣し終えると、手を私の短髪に伸ばしてやさしく撫ぜる。
「愛しとる……どうにもならん、死にたいほど好きや」
 金原は全力で抱き締める。
「追いかけせんよ。ぜったい迷惑かけん。みんなの大切な人やもの。ずっとそばにおるだけでええんよ。西高の顕彰碑、ときどき見にいくんよ。何でこんなすごい人が西高なんかにきたんかなあって、いつも思う」
「花屋によくいくんだって? マスターが言ってたよ」
「壁に神無月くんのサイン貼ってあるから、ときどき眺めにいくの。このあいだ、花屋がテレビに映っとってびっくりしたわ。神無月くんの顔、人間やないみたいやった。ほんとに光っとるんよ。目の輝きがこの世のものやないの。……この目」
「小夜子の目は、利発そうな学者の目だ」
「……私、学者、向いとらん。なんか、世界がちがう。高校の先生になる」
「死んだ加藤信也みたいに?」
「うん。そうやって、ずっと神無月くんのそばにおる」
「この家は、カズちゃんのお父さんが建ててくれた家なんだけど、ふだんは、ぼくと、カズちゃんと、メイ子っていう女が住んでる。ときどき遊びにくればいいよ。歓迎してくれるよ。みんな忙しいけど、たまにはきょうみたいにのんびりしてる日もある」
「やめとくわ。逢いたいのは神無月くんだけやから。またひょっと遇えることを祈っとる」
「三回も偶然があったんだから、これからも何度だってあるさ。家にいることはめったにないの?」
「けっこう大学にまじめに出とるから、たいてい夕方からしかおらん。昼間おるのは金土日やな。無理なこと考えんでええよ。かあさんやねえさんがおるで。神無月くんはもうプロ野球選手なんやから。私が高校の先生なって、アパートでも借りたら、都合のええときに遊びにきて」
「うん。いまや人生八十年だからね」
「ほうよ、そのくらい長い目で考えんと。さ、帰るわ」
 泣いている。
「悲しいの?」
「ううん、遇えたことがうれしいんよ」
 ティシュを挟んでトイレに立つ。私は風呂場に性器を洗いにいった。
 則武一丁目のガードまで金原を送っていく。
「私、こんなことばっかしとって、おかしな女? 異常かな」
「男と女が抱き合うことが正常なのか異常なのか、白黒つけるのは難しいな。たぶん異常だと思う。たいていの人間は異常な過程を見ないで、正常な結果だけを見ようとする。愛し合う心も、奇跡的にかわいらしい子供も、男と女が交わることによって生まれる。人びとは交わりの過程を無視して、交わった結果の相手の満足げな笑顔や、交わった結果生まれてくる愛らしい赤ん坊を見たいと願う。そこだけはこの世で正常なものだからね。それを生み出すための過程の異常さを隠しとぼけるのは、そうしないと社会の〈健全さ〉を守れないからだよ。金原もぼくも異常だけど、正しい人間だ」
「相変わらず、ええこと言うわ。胸に沁みる。……この通りは中村郡道と言ってな、天神山までいっとる。名古屋市でいちばん古い家がようけ残っとる道や。これからも開発されん道やと言われとる。頑固な神無月くんみたいにな」
「根性のある道なんだね。そこに西高があるのがうれしいな。この道沿いに何もかも残ってくれる気がする」
 浅野の炭屋を浮かべた。中村郡道沿いにないあの家は残らないだろう。
「あした、名大の女友だちと神無月くんを観にいく。一塁側内野指定の切符とった。ホームラン打ってな」
「打つよ。盗塁も見せる」
 ガードをくぐり抜けたところで手を振った。
 家に戻り、ジム部屋で筋トレ。素振り。三種の神器。午睡。
         † 
 四月二十六日土曜日。五時半起床。晴。気温十二度。肌に快適な温度だ。庭木の葉を揺らす風がある。ふつうの排便、シャワー、ジム。
 カズちゃんたちを送り出し、数日ぶりに誘いにきた菅野と、きのう教えられたばかりの中村郡道を環状線まで北上する。則武小学校前の信号を渡り、回りこんで校舎と校庭を見物。地域の人びとの歴史を閉じこめた場所。数十年、きっとどこも変わっていない。心地よいさびしさが押し寄せる。開発? すべてが変わっても、進化したとはかぎらない。
「ボルボを下取りに出しました。エンジンがどうしてもいまひとつ不具合で、完全には直らないとわかったものでね。お嬢さんは次の車は国産にすると言ってます。ところで、ファンレターが何十通か球団広報から送られてきましたが」
「気が向いたら読みます」
 則武の家の前で別れ、音楽部屋へいく。サラ・ボーン。
         †
 二時ごろ、株式会社ミズノから電話があり、正式にアドバイザリー契約を結びたいと言ってきた。用具提供という契約らしい。野球用品の購入は、久保田さんのバットを含めてすべて無料になると言う。久保田さんにはその分きちんとペイをするので気兼ねはいらないとのこと。加えて、ふだんのランニングをするときはミズノのトレーニングウェアを着ること、というのが契約項目に入っていて、それをするだけでコマーシャル契約金五千万円が払いこまれることになった。
「テレビ宣伝はありませんか」
「出演宣伝はございません。グランドあるいは路上を走っている写真は、適宜各紙紙上に掲載させていただきます。お手を煩わせませんのでご安心ください。契約は一年ごとの更新でございます」
 ミズノの社員が五月九日の三時に北村席にきて、その場で私が署名捺印をした書式を受け取ると言う。まったくわけのわからないことなので、主人夫婦に頼んで同席してもらうことにした。ジャージが年間十着も送られてくるのがうれしい。
 三時、トモヨさんと直人にキスをし、主人、キッコとクラウンに同乗して、北村席を出発。一日がすべて時間どおり滞りなく進む。取り立ててアクセントもない。仕事をする生活というのはこういうものなのだろう。
 対阪神四回戦。いつ見ても球場は美しい。鏑木の調整を十五分、三種の神器を十分。バッティング練習をしているうちに曇ってきて、気温がグンと下がった。センターに打ち返すバッティングを十本やってやめる。
 週日休日関係なくスタンドが満員になる。守備練習を終え、眼鏡をかける。きょうの年間予約席は主人と菅野とキッコ。曇り空にカクテル光線が点りはじめる。中に、
「きょうからですか?」
「うん、きょうから。アトムズ戦はベンチの後ろで自重してた。水原さんは出ちゃいけないと言うものでね。思い切って半月板にメス入れちゃおうかとも思ったんだけど、手術するとリハビリが長いからね。十五年も付き合ってきた膝だから騙し方はわかってる。引退まで年に何回かの水抜きで乗り切ることにした」
「水を抜けば、しばらくもつんですか?」
「三カ月はだいじょうぶ」
「あの走塁は美の極致ですから―」
「うん、ありがとう。十二球団のホームランとか打率とか、どうなってるか知りたいんじゃない? 金太郎さんのことだから自分のホームランの本数しか把握してないだろう」
「はい」
「慎ちゃんの八本が金太郎さんの次。三本モリミチ。中日がトップスリーだ。二本が五、六人いる。王も入ってるよ。長嶋はまだゼロ。金太郎さんの二十一本というのは異次元だね。いろんな新聞が、百号を期待するようなコラムを書いてる。もちろん私たちも期待してる。打率は金太郎さんの七割六分台がダントツ。あとは慎ちゃんの四割台。打点はどうだったかな。金太郎さんが四十六、七で、慎ちゃんが二十三、四だったと思う。これからはもう計算が面倒だから、新聞で見るしかなくなるよ。百本、五割、打点二百という世界的金字塔を樹ち立ててほしいな」
 半田コーチにバヤリースを所望する。
「中さんにもお願いします」
「マエガーリ? かならず返してね」
「はい」
 池藤が頼みもしないのに肩甲骨を揉んでくる。しばらくからだを預ける。
「よし、完璧。いじるところなし」
 マネージャーの足木がひょっこり顔を出し、
「みなさん、来月、北陸の各球場で試合が終わりしだい、そのままグランドで三十分、地元の子供たちにサインをしてもらいたいんですが」
「引き受けた!」
 メンバー表交換、グランド整備、ライン引き。二十三日に巨人戦で投げて勝利投手になった江夏はアガリなので、ベンチに入っていない。眼鏡をしっかりかけ直す。お守りを確認。スパイクの紐を固く締める。
 下通嬢によるスターティングメンバーの発表。阪神の先発は村山! 満員のスタンドが喚声で揺れる。キャッチャー田淵。ドラゴンズの先発は小野、キャッチャー木俣。
「中日ドラゴンズ対阪神タイガース四回戦でございます。スターティングメンバーを発表いたします。阪神タイガース、一番ショート藤田、ショート藤田、背番号6、二番サード小玉、サード小玉、背番号2……」
 藤田、ディケンズ、カークランド、吉田、その四人以外はコロコロ代えてくる。春先はどのチームもこうなのだろうか。
「中日ドラゴンズ、一番センター中、センター中、背番号3」
 轟く声援。ベンチも拍手をする。二番セカンド高木、三番ファースト江藤、四番レフト神無月とつづく。ものすごい歓声が上がり、五番以下のアナウンスが掻き消される。
「……番キャッチャー……俣、背……、六番……ド島谷、背番号30、七……ライ……千原、背番号43、八番ショート一枝、背番号2、……小野、背番号18。審判は、球審山本、一塁松橋、二塁原田、三塁柏木、線審は、ライト大谷、レフト太田、以上でございます」
 六時半。守備に散る。プレイボールのコール。


         四十九

 予想したとおり、ベテランピッチャー二人の好投のせいで投手戦になった。小野は四回まで打者十五人、被安打二、村山は四回二死まで打者十一人、被安打ゼロ。第一打席江藤はピッチャーゴロ、私は高目のスライダーめいたフォークを打ってファーストゴロに倒れた。四回裏、二死。ここで二打席目の江藤が外角フォークを叩いて、チーム初安打の右中間二塁打で出た。私は低目のフォークを叩いて右翼ポールへ一直線の打球を飛ばした。低い弾道で伸びていき、ポールにかすかに触れて進行方向を外へ変えたように見えた。ホームランだと思って私は走り出した。と、線審の大谷がファールのジェスチャーをした。三塁コーチャーズボックスの水原監督が猛烈な勢いで大谷目がけて走っていき、胸で突き当たると、ボールがかすって方向が逸れたという仕草を繰り返した。ライトスタンドも大騒ぎになっている。コーチ陣も走っていった。森下コーチが、
「こすったやないか!」
 田宮コーチが、
「撥ねたろ!」
 おととし、阪神対大洋戦で没収試合まで宣告したことがあるという気の強い大谷は、眼鏡を光らせながら頑としてはねつけ、首をいやいやの格好で振っている。一瞬、水原監督は大谷の眼鏡を毟り取った。初めて見せた荒々しい行動だった。退場かと思ったとき、森下コーチが水原監督の手からその眼鏡をサッと奪い取り、大谷に返すと、危険物から避難させるように監督のからだをポール脇へ押していった。
「バカヤロー!」
「ド近眼!」
「めっかち!」
 スタンドから大谷に罵声が浴びせられる。中や高木やコーチ陣が監督のからだを包んで、内野グランドまで連れ戻った。水原監督は村山の前をよぎってコーチャーズボックスに向かうとき、私に向かって、
「一本ぐらいくれてやりなさい!」
 と叫んだ。私はバットを掲げた。監督が審判の判定に難癖をつけた場合、退場を宣告される規則だが、大谷は茫然として宣告を忘れてしまったようだ。眼鏡まで毟り取られながら忍耐強い沈黙を通したのは、ファールの判定に不安があったからにちがいない。二塁ベース上の江藤が、右翼ポールに向かって空手の突きのような格好を二度、三度とした。村山はボールを手で弄びながら、うつむいて考えこんでいた。田淵が小走りに近づく。村山が首を振っている。もう一球同じところへ同じ球種を投げるのだと主張しているように見えた。
 試合再開。セットポジションから力感のある素早いザトペック。まったく同じ低目のフォークだった! 〈勝負〉というものの本質を感じた。それは節を曲げない〈意地〉に置き換えられるものなのだ。ボールになるフォークを見送らず、私も意地でバットを打ち当てた。先っぽだ。ヒビ割れる音がした。さっきと同じ低い弾道で伸びていく。観客がリプレイの画面を見ているかのような感嘆の喚声を上げた。ポールの手前で失速する勢いだ。ライトのカークランドが後退する。私は彼の走るスピードを見て、打球がフェンスに当たると踏んで全力で走り出した。夜目に糸を引く白球がポールのすぐ左脇のフェンスの金網のてっぺんをこすって撥ね上がった。大谷がこちらに向かって大きなジェスチャーで右腕を回した。遠くから水原監督に報告しているようだった。水原監督はバンザイをしていた。江藤がボールの弾んだ金網目がけて突きを入れてから、ゆっくり三塁へ向かった。
「神無月選手、二十二号のホームランでございます」
 三塁ベースを回りながら水原監督とハイタッチ。水原監督は大谷線審にしたように私に胸をぶつけて抱きついた。スタンドが沸きに沸いた。木俣、島谷、千原も監督と同じようにする。手荒い祝福はなく、ベンチ前に居並ぶチームメイトが申し合わせたように帽子を取って最敬礼した。最短距離のホームランに球場じゅうが沸き返っている。高木が、
「場所はちがっても、もう一度こすらせるとはなあ。手品か!」
「偶然です。自分でも怖くなりました」
 村山は七回裏まで投げ切り、被安打五、四球ゼロ、自責点二でマウンドを降りた。七回最後のバッターは島谷で、ショートゴロだった。ストレートの速さが目に残った。確実に百四十五キロは出ていた。村山は自軍のベンチに退がるとき、守備につこうとしてすれちがった私に笑いかけながら帽子を上げた。私も笑いながら、
「すばらしいストレートとフォークでした!」
「サンキュー、引退する日まで懲りずにフォークを投げるわ!」
 関西弁のアクセントで応えた。実際彼のフォークを打てたのは、四回のぎりぎりホームラン一本きりで、最後の七回の一打席は真ん中から外へ流れるフォークを引っかけたセカンドゴロだった。
 八回裏一イニングだけ鈴木皖武(きよたけ)が出てきて、千原の代打の菱川、一枝、小野、中まで四人に内野安打を含むシングルヒットを連ねられ、一点を失った。満塁から高木、江藤と内野フライで凡退し、つづく私はようやくライト前のヒットを打って二打点を挙げた。ツーアウト一、三塁。ついでにチャンスメイクとは関わりのない盗塁をした。その瞬間ファーストの和田が、
「逃げた!」
 キャッチャーに向かって叫んだ。関西弁で盗塁することを逃げるというのだろう。結局意味のない盗塁は意味のないまま、最後の二走者とも残塁になった。監督に叱られるかもしれないと思った。しかし、一ホームラン、一盗塁は、一塁スタンドのどこかで見ているにちがいない金原との約束だったのだ。不謹慎だけれども、ホッとした。すでに三塁ベンチに村山の姿はなかった。
 一対五で勝った。小野は八回と三分の二を投げ、打者三十六人、被安打七、三振五、フォアボール三という力投だった。八回ツーアウト、カークランドに三号ソロを浴びたところで、きょう二安打で当たっている藤井を嫌って水谷寿伸に代わった。藤井を嫌ったのは水原監督だ。あと四人を残してピッチャー交代という非情の現場を初めて見た。三点差もあるのに交代を水原監督が強いたのは、長年の監督生活で鍛えられた危険を察知する直観が囁いたからだろう。水谷は残り一回と三分の一をキッチリ抑えた。小野三勝目。田中勉と並んだ。
「村山さんは、あのまま投げれば勝ち投手になれるかもしれなかったのに」
 と江藤に言うと、
「腕が限界になったとやろ」
 しがみつくより手離すほうが強い力が必要だ。立派な男だ。
 私のヒビの入ったバットを見て鏑木が、記念にもらっていいですか、と尋く。
「どうぞ」
「実家の床の間に飾らせてもらいます」
 ロッカールームで監督に、
「意味のない盗塁をしてすみませんでした」
「盗めるときに盗む盗塁は、意味があるよ。次にヒットが出てたら追加点が多くなってたろう。無理な盗塁だけはしないように」
「はい」
 九時十分。水原監督やコーチ連はいち早くミーティングルームに引き揚げた。代表インタビューは決勝ホームランを打った私と、つつがなく復帰を果たした中だった。
「十一勝一敗、向かうところ敵なしのチーム状態ですね」
「はい、すばらしい調子です。紙一重の幸運という試合もいくつかありますけど、そのいくつかの幸運を引き寄せるのがチーム力だとすると、いまのドラゴンズには敵がありません。もうしばらく敵なしで調子に乗ってみようと思います」
 帰るのを忘れた観客がじっと動かないで、内容の知れないインタビューの様子を見つめている。
「二十二号ホームラン、おめでとうございます。私どもはまるで奇術を見る思いで……あごが外れると言いますか、感動することしきりです。ご本人としてはきょうのホームランの印象はいかがですか」
「水原監督の怒りの抗議と、村山さんのフォークへのこだわりに感銘を受けました。勝負の美学は勝つことよりも、勝っても負けても勝負師の意地を通すことにあるとわかったからです。監督は退場をかけてまで一人のバッターの打撃の成果を守ろうとしましたし、村山さんはまったく同じコースに同じ種類のボールを投げてきました。ぼくも意地で打ち返しました。だから、あとの打席をひねられても、すがすがしい思いがしています」
「ドラゴンズのピッチャー陣とバッター陣がうまく噛み合っている現況については、いかがですか?」
「すごいなあと思います。―プロ野球は、平均的な能力の選手で構成される小中高の野球とちがって、高度な技能の持ち主たちの集まりです。観客がお金を払ってまで野球場にやってくるのはその技能を見たいからです。勝敗の結果よりも、特異な才能を持った個人のプレーをナマで観たいんです。そのプレーがどう勝敗に関係したかは、大して彼らの関心事じゃありませんし、翌日の新聞に書いてあることです。チーム力が劣っている結果として敗北が積み重なると、たしかにファンの感興を削ぎますが、チームがすぐれた技能の宝庫ならば、負けても感興は削がれないし、見捨てる気にもならないでしょう。ましてやいまのドラゴンズはなかなか負けない。おっしゃるとおり、投打の技能がバランスよく噛み合っているからです。ドラゴンズファンのみなさまに多くの勝利を見せられる。その意味では、わがチームは観客ともうまく〈噛み合っている〉と思います」
「ありがとうございました!」
 中にインタビューが移った。彼はきょう四打数二安打だった。
 私はロッカールームへ駆けこむと、レギュラーたちに労いの挨拶をした。お返しにいっせいに拍手が上がる。小野が、
「勝利をありがとう」
「いえ、ぼくは、一本打っただけで……。突破口を開いたのは江藤さんです。ダメ押ししたのもぼくじゃ……」
 江藤が、
「金太郎さんはいつもヒーローばい。強いて言うと、今回は水原さんかな。ワシャ、彼が抗議しとるとき、二塁で身動きできんと泣いとったばい。水原さんは男ぞ」
 一枝が、
「リンゴ事件はダテじゃないね。今回は明らかな誤審だ。水原監督にお咎めはないんじゃないかな」
 島谷が話の流れに頓着しないで、
「神無月くん、あのフォークよく打てたね」
「頑固に投げてくるとわかってましたから。意気に感じて打ちました」
 着替えながら応える。高木が、
「金太郎さんに打たれると、どんなピッチャーもいい顔するよね。胸のつかえがおりましたみたいな」
 菱川が、
「太田が言うには、あしたは例のデンスケらしいですよ」
 島谷が、
「デンスケは研究しました。俺と太田で、一本ずついきます。あいつが厄介なのは、変化球じゃなくて、年食ってスピードが出てきたストレートなんですよ。それを打ちます」
 私は汗を吸ったユニフォームをダッフルに入れた。葛城が、
「あしたの試合が終わったら、いよいよ地獄のロードだ。勝って出発したいな」
 木俣が、
「あしたは俺と一枝さんが休養。代打で出るかも。ベンチのメンバーぜんぶ使うって田宮さん言ってたわ。キャッチャーは新宅か高木さんだな」
 高木時夫が、
「俺はブルペンキャッチャー。いいとこ代打だ。帯同のベテランも、チームのいい調味料になる。ね、吉沢さん」
「俺はまだ花を咲かせるつもりだよ」
 吉沢が高木時を睨むと、江藤が、
「そぎゃんたい。時さん、花咲かせた人間同士スクラムば組んで優勝せんと意味なかろうもん。飾り物になったらいけん。あんたも利さんも、東大か中日かで中日を選んだ大秀才やろ。金太郎さんも東大を捨てた。捨てたら中日に骨埋めんば」
 ちょうどインタビューから戻ってきた中が話を聞きつけて、
「私は捨てたんじゃなくて、受からないと踏んだんだよ。高木くんは、ばりばり受験校の県立浦和高校だ。ほんとにエリート街道を振り捨てて、よほどの覚悟で中日にきたんだ。初志貫徹しないといけないよ」
「ウス!」
 私はみんなの顔を見回し、
「みんなで水原監督にぜったいリーグ優勝をプレゼントしましょう。日本一になって、栄をオープンカーで走ってもらいましょう」
「オーシャ!」
 全員に一礼し、駐車場に急いだ。
 帰りの車中でキッコが、
「千原さんから菱川さんに代わったとき、ホッとしたわ。背番号10。菱川さん、格好よかった。外野にヒット打って一塁を回るとき、カモシカのようやった」
 うっとりとした目で言った。からだじゅうの血が温かくなった。
         †
 対阪神第二戦。四月二十七日日曜日。霧雨。降ったり止んだり。
 昭和三十九年四月二十七日月曜日―甦る。節子の背中を眺めた牛巻病院のロビーの暗がりは覚えているが、飯場の食堂でカズちゃんに出遇った日付も四囲の明るさも憶えていない。しかし、カズちゃんに遇った日も節子に遇った日も不朽だ。計画した未来の人生は冷たい。過去だけが私を歓待する。
「……いかがすかァ、……ビール、いかがすかァ」
 売り子の声がベンチの上から聞こえる。その方向を見ると、中年女性たちからいっせいにカメラを向けられる。わいわいしゃべったり、髪をいじったり、何やら選手個々に対する感想を言い合ったり、じっとグランドの一点を見つめていたりする。彼女たちの興味の中心に野球はない。野球選手の技能云々に関心はなく、噂の人がそこにいれば満足する。そういうファンばかりではない。目を皿のようにして野球そのものを見ている人もいることを忘れてはいけない。


         五十

 きょうはネット裏に主人と菅野と近記れんがきている。カズちゃんは木村しずかといっしょに一塁ベンチ上にいる。近記れんと木村しずかという女は、いつだったか雀卓で自己紹介を求めたころから私たちの近くにいて目につくようになった。二人とも三十代のトルコ嬢だが、じゃまな感じはしない。れんの年季はすでに明け、しずかも三、四年で明けるはずだ。れんたち三人と、カズちゃんたち二人に手を振り、振り返される。
 阪神チームがサワサワと声を上げながらバッティング練習をしている。一塁側のブルペンで一枝や高木たちがキャッチボールをしている。彼らの傍らを阪神のジョギング連中が過ぎる。両軍入り乱れているけれども、和気藹々としているわけではない。中日の守備練習前の単なる混雑だ。ロッカールームに戻って、ソテツの焼肉弁当。仲間たちは選手食堂へいった。
 ゆっくり食い終え、ベンチに戻る。ベンチ気温十六・一度。いまにも本格的に降りだしそうな空模様だ。球場内が薄暗くなったので、防水スプレーをかけた眼鏡を早めにかける。グローブを持って外野へ駆けていく。フィールドと霧雨の空を眺める。眼鏡に水滴は貼りついてこない。スパイクが濡れる。田宮コーチのノック。まずレフトゴロ。予想したほど水はボールを巻き上げない。フライ。山なりでセカンドへ返す。バックホームは自粛する。
 中日の守備練習が終わり、阪神の守備練習に交代。練習中に先発バッテリーが発表される。中日ドラゴンズ、板東英二―新宅洋志。阪神タイガース、若生智男―田淵幸一。
 若生智男―三十九年にソロムコと交換で大毎オリオンズから阪神にきた。山内と小山の世紀のトレードが行われた年だ。ソロムコはかすかに憶えていたが、大毎の若生は目にも耳にも記憶がなく、先回牛耳られてその存在を初めて知ったくらいだ。背中を丸めてすいすい投げる整ったフォーム。村山とちがって、まったく威圧感がない。江夏、古沢と並んで阪神の三本柱と言われている。村山が三本から欠けているのは解せないが、とにかくそういうことになっている。
 小川が言うには、デンスケは阪神にきて以来、毎年二月の節分には、村山といっしょに京都の九頭竜大社という神社にいって、桟敷から豆まきをするらしい。乞われて仕方なくやるというのではなく、篤い信仰心からという話だ。別に深く考えることでもないのだろうが、私には信仰心というのがよくわからない。生きた人間を讃えずに、宗教の神秘に帰依する心理にぼんやりとした不快を感じる。具体的な死者を崇めるならまだいい。愛がある。しかし、死を司る他者が設けた人生教義に帰依することで、現実の死の恐怖を神秘の毛布にくるんで安堵したがる心はやるせないほどみすぼらしい。         
 阪神の守備練習が終わり、監督同士が主審を仲立ちにメンバー表を交換する。両軍のスタメンが発表される。阪神は先発メンバーをがらりと変えてきた。一番ショート藤田、二番レフトゲインズ、三番センター藤井、四番ライトカークランド、五番ファースト遠井、六番キャッチャー田淵、七番サード大倉、八番セカンド安藤、九番ピッチャー若生。隣に座っている江藤に訊く。
「大倉というのは?」
「東都リーグの首位打者。おととしのドラ二。守備のカラッぺたな三塁手。ただの七番バッター。コーチの三宅さん、ほら、ブルペンのところに立っとる背番号52、あの人も事故さえなければいまも現役の三塁手やったろうに。モリミチと並び称された名人やった」
「打球を目に当てた人ですね」
 木俣が、
「打球じゃない。小山正明の遠投ボールだ。むかしは外野の芝生で何組か混ざって遠投し合ってたからな。残念な話だ」
 高木が、
「鎌田、吉田、三宅の鉄壁の二遊間、三遊間。シートノックだけでカネが取れるともてはやされた。彼らに比べたら巨人は素人内野陣と言われたもんだ。三宅のあとは、安藤がやろうと、大倉がやろうと、遠くおよばない」
 中が高木に、
「牛若丸吉田は二塁へ回されちゃうし、さびしいよね」
「肩が衰えたんでは仕方ないですよ」
 プロ野球選手になってキャンプに入って以来、さびしい話ばかり耳にする。今朝カズちゃんが言っていた。
「どうして江夏が出ないの?」
「最近の傾向らしいけど、アガリといってね、前の三試合で投げた先発ピッチャーは、ベンチ入りの登録はするけど、実際には登板しないことが多いんだ。むかしは、そんなしきたりには関係なく連投してたんだけどね」
 むかし、むかし……。
 ドラゴンズのスタメンは予想どおりだった。一番センター中、二番セカンド高木、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番ライト菱川、六番サード太田、七番ショート島谷、八番キャッチャー新宅、九番ピッチャー板東。内野にちらほら空席。あの空席も試合が始まればすべて埋まる。球審はきのう三塁塁審をやった柏木。水原監督に眼鏡を毟られた大谷はレフト線審に回っている。
 一回表。板東のストレートが心もとない。藤田平が初球を打ってライト前ヒットで出る。ゲインズ内角高目のカーブで三振。藤井ゆるいダウンスイングでファーストゴロ。カークランド三振。カーブ主体の新宅のリードが冴えている。板東はいつものように胸を張ってベンチへ戻った。ブルペンでは伊藤久敏と田中勉がかなり力をこめて投げている。
 一回裏。こちらの一番バッター中もさっそくセンター前ヒット。高木の二球目にすかさず盗塁。膝の具合はよさそうだ。高木ツーナッシング。若生は三球目に伸びのあるストレートを真ん中低目に投げてきた。しかし、島谷が言っていたとおり、変化球の中に雑ぜるから速く見えるだけのことで、百三十五キロ前後しか出てない。高木は難なく左中間へ打ち返した。スタンダップダブル。中生還して一点先取。
「ヨ! ホ!」
「さあ、いこ!」
 バッター江藤。田淵が初球、二球目と外角遠くへ外す。そのままフォアボール。私も初球からバットの届かない外角高目へ外す。
「うへー、そうくる? やっぱりおっかねんだ!」
 ベンチから一枝の声。阪神ベンチは、江藤、私、と連続フォアボールで歩かせて満塁策をとる。ノーアウト満塁は点が入りにくいと言われるけれども、いまのドラゴンズ打線には当てはまらない。私は一塁からホームベースへ声を投げた。
「菱川さん、ホームラン!」
 広島戦で秋本から一号ホームランを打ったきりの菱川は、チラと私を見て微笑した。初球外角低目のドロップ。見逃し、ストライク。見逃し方がいい。二球目、内角胸もとをつくシュート、ボール。ひたすら変化球だ。バッティング練習中に、きょうは一本いくと菱川は言っていた。いくだろう。彼の外角打ちは伸びる。次は外角高目から落とすドロップか、外角低目のストレートだと予想した。私と同じ考えらしく、菱川がボックスの前に出た。外角の変化球狙いだ。三球目、外角にするどくドロップが曲がり落ちてきた。それよりもするどく菱川のバットが振り抜いた。質感のあるいい音だ。一塁ベンチの首がいっせいに伸びる。菱川の打球はあっという間にライトスタンド中段に突き刺さった。ベンチの首が引っこみ、手をしばいて喜ぶ。私は走り出しながらバンザイをした。跳びはねて走る菱川に、私は二塁を回りながら大声を投げた。
「菱川さんベースに気をつけて! 追い越しちゃだめですよ!」
 幻のホームランを危惧しながら菱川はしっかりと一塁ベースを踏み、前走者の私と距離を保つ。私は江藤の背中を追う。高木ホームイン。三塁を回ったあたりで、江藤、私、菱川、三人が接するように並んだ。スタンドが大爆笑になる。菱川とハイタッチした水原監督が、
「急げ、江藤くん!」
 江藤がびっくりしてホームへ駆けこんだ。私と菱川が雪崩れこむ。柏木と田淵が額を突き合わせて足もとを確認する。ベンチ要員の一枝や木俣が菱川にのしかかり、さらにその上から徳武や葛城が押し潰す。うれしい悲鳴を上げながら菱川はようやくベンチに逃げこんだ。
「菱川選手、二号ホームランでございます」
「半田コーチ、バヤリース!」
「ハーイ!」
 大歓声に振り返ると、次打者の太田の打球がレフトスタンドに吸いこまれるところだった。毎度のつるべ打ちになった。
「太田選手、今シーズン第二号のホームランでございます」
 ゼロ対六。ふたたびベンチの連中が飛び出していく。菱川が、
「チェ、タコとホームランが並んでしまった」
 江藤が、
「五番、六番が確定たい。喜ばんか」
「あ、はい!」
 菱川は走り出ていって、太田にヘッドロックをかけた。
 次の島谷の打席で珍事が起きた。テレビ中継では一度見たことがあったが、打球が外野手のグローブに当たって撥ね上がり、そのままスタンドインしたのだ。島谷が内角高目のストレートを打ち下ろした打球は、猛烈なラインドライブがかかってゲインズの左へ飛んでいった。ポールぎわの金網に当たると見えたが、ゲインズが走りながらジャンプして左グローブを突き出した。打球は彼のグローブの土手で撥ね上がり、そのままスタンドに入った。線審の大谷がしっかりとした動作で右腕を回した。三号ソロ。三者連続ホームランはこれで何度目だろう。水原監督が拍手しながら大きくうなずいている。ドンチャン騒ぎになる。阪神ベンチは、ホームベースの乱痴気騒ぎを眺めながら茫然と長椅子にふんぞり返っている。ゼロ対七。ピッチャー交代。デンスケをノーアウトで引きずり下ろした。
「阪神タイガース、ピッチャーの交替を申し上げます。若生に代わりまして、権藤、ピッチャー権藤、背番号15」
 痩せた左ピッチャーが出てきた。
「島谷よ」
 木俣がベンチに落ち着いた島谷に語りかける。
「はい」
「おまえ目立たないけど、けっこう打ってやがんな。きょうの試合終了は十時か。お疲れさん」
 そう言って島谷の肩を揉んだ。田宮コーチが、
「長引きそうだ。先発陣はお疲れになるから、代打陣にはぜんぶ出てもらうぞ。バット振っとけ」
 私は、
「このピッチャー、大洋にいませんでした? すごいドロップを投げる人」
 ベンチの防御板に手をついて立っていた長谷川コーチが、
「そう。直角に落ちるドロップ。その分コントロールが悪くてね、四球王、暴投王。去年王の頭にデッドボールを食らわしたやつだよ。長嶋にプロ入り第一号を打たれたことでも有名だな」
 細身の男がさらに細い腕を振る。シュシュシュと音が聞こえる感じで、キャッチャーミットの付近に落ちてくる。人間が打てる変化球とは思えなかった。ほぼ全球ドロップを投げる。新宅、板東、中、ことごとく見逃しの三振を喫した。ベンチから見ていると、直角とは言わないまでも、四十五度ぐらいでは落ちていた。ほんの少し右打者に向かって曲がる。魔球の正体は、落差の著しいカーブのようだ。目いっぱいボックスの前に進んだとしても、顔のあたりで曲がりはじめるボールを捉えることになる。難しい。少し後ろに下がれば、曲がりはじめてスピードの乗った外角のボールを腰の高さでミートすることになる。それはもっと難しい。ファールになるのを覚悟で、顔の前で捕まえるしかない。顔から叩き上げることにした。
 二回表。板東の球が走りはじめた。眼鏡の巨漢遠井。選球眼悪し。初球から何でも振ってくる。三球目、真ん中低目のカーブをヨイショという感じで掬い上げると、あっという間に右中間のスタンドまでブッ飛んでいった。ゴロちゃん、ゴロちゃん、と声援が降り注ぐ。愛されている男なのだ。しかし仲間の出迎えが質素だった。ベンチから突き出される片手にペンペンとタッチしていき、最後に後藤監督と握手して終わりだった。一対七。有効なホームラン以外喜べないチーム気質なのだろう。強者をまねたプラグマティズムのにおいがした。田淵、高目のストレートを三球つづけて空振り、三振。大倉、二球ボールを見逃したあと、三球目、ボールになる真ん中低目のカーブを打ちにいってサードゴロ。安藤三振。
 二回裏。高木、ドロップをどうにかバットに当ててショートゴロ。江藤、ボックスのいちばん前ににじり寄って大根切りを試すが、尻餅をつく空振り。権藤の出っ歯が光る。笑っているのではなく、もともと歯が出ているのだ。江藤はスパイクの底をバットで叩き、ヘルメットをかぶり直す。ボックスの中ほどで美しい構えに戻す。二球目もドロップ。江藤のからだがピクリと動く。ワンバウンドでキャッチャーのミットをくぐり抜けていく。江藤が天を仰いだ。彼の考えていることがわかった。ドロップを待っていると見せかけている。外角のストレートを投げてくると読んだ!
「権藤のストレートの速さは?」
 徳武が、
「速さはわからないが、キレがある。ドロップと混ぜると効果的だ。十五年前のノーコン時代に二十八連敗なんて世界記録を作ってるけど、それからは長保ちして、おととしには最優秀投手賞獲ってるからね」
 ショートゴロを打った高木が、
「ストレートは速いよ。特に低目が。きょうは投げてないけど」
 とボソッと言った。
「江藤さんはそれを待ってます。次ですよ。外角低目」
 三球目。権藤がピッと腕を振る。
「ほんとだ!」
 太田が大声を上げた。会心の当たりが一、二塁間を抜いていった。私はヘルメットをかぶってベンチから走り出た。いま見たばかりのストレートの球威がすばらしかったからだ。百四十二、三キロ。あれでまず外角にくる。二球くらい。それからドロップだ。顔のあたりのそのドロップを打つと決める。


         五十一

「金太郎さん!」
「ホームラン!」
 歓呼の声に送られてバッターボックスに入る。キレのいいストレートが外角の低目と高目に一球ずつきた。ツーストライク。たしかに速い。これを見せられてからあのドロップに対処するのは至難だ。最初から狙っていないと―。
 三球目、内角へフラフラ落ちる球。ナックルだ。見逃す。ボール。ふと、田淵がいることに気づく。目が合う。敬意がこもっている。バッターボックスを外して素振りを二度する。四球目、スリークォーター! 内角から外角へよぎるような速球。ストライクだ。かろうじて三塁線へファール。柏木がニューボールを権藤に投げる。田淵がうつむいて考えている。今度こそまちがいなくドロップカーブがくる。これからの対戦で二度と投げさせないようにするには、ホームランしかない。ギリギリまでバッターボックスの前に出る。打ったとき、片足が完全にラインの外に出るとアウトにされるので、踏みこみを小さくするように足幅を大きくする。ほぼノーステップで打つ格好だ。
 五球目。きた! ヘルメットに向かって背中のほうから曲がってくる。じつはそう見えるのは錯覚で、王のときのようにすっぽ抜けないかぎり、顔まではけっして届かない距離のところで曲がる。逃げる必要はない。曲がりはじめる点までバットの長さくらいはあった。顔からの首に向かって曲がりこんだ瞬間、右肘を畳んで左掌を押し出した。バトミントンのように左手一本で打つ要領だ。片手振りを何日かつづけてきた成果が出る。少し詰まったが、いい手応えだ。打球が高く舞い上がる。
 ―悠々入るだろう。
 森下一塁コーチがライトスタンドを見やり江藤といっしょに片手を突き上げた。江藤は走り出す直前に権藤に向かってこぶしを突き出した。ボールがかなり前段に落ちた。爆発する歓声。内外野の観客が立ち上がっている。森下コーチと強いタッチ。怒り肩の江藤を追いかける。
「打点、ありがとうございます!」
「なんの! ワシはあれをホームランにしきらん!」
 水原監督が早くこいという手振りをする。江藤とハイタッチ、私とハイタッチ。ホームベースを踏むとき田淵が、
「神業だね―」
 と呟いた。
「ありがとう!」
 揉みくちゃにされる。
「神無月選手、第二十三号のホームランでございます」
 明るい声でアナウンスが流れる。江藤が私の腰を抱いて持ち上げ、
「右腕畳んだのう!」
「はい! 右手首は返さないで、左の手のひらを押しつけました。やっぱり飛びませんでしたね」
「芸術たい。真ん中から外角へ落ちてきたら、スコアボードやったろう」
 江藤が離しそうもなかったので、抱かれたまま頬にキスをした。江藤はあわてて腕をほどき、
「こら、いたずらしたらいけん」
 太田が私の背中をゴシゴシこすり、
「あやかり、あやかり」
 と言ってネクストバッターズサークルに走っていった。半田コーチのバヤリース。一対九。次打者の菱川が痛烈な打球を放った。セカンド安藤、ジャンプ。グローブの網に引っかかった。
「クソ!」
 という菱川の大声がはっきり聞こえた。太田が大根切りのようなおかしなスイングをしながらバッターボックスに入る。ドロップを打つというデモンストレーションだ。それで権藤は意地になったのか、初球にドロップを放ってきた。大根切り! 当たった瞬間にホームランとわかった。太田は権藤を指差すと、江藤のように肩を怒らせながら走りはじめた。二塁を回りかけたところで安藤が太田の尻をグローブでポーンと叩く。水原監督とハイタッチ。私たちに揉みしだかれる。
「太田選手、第三号のホームランでございます」
 きょう二本目。菱川を一歩リードした。一対十。この中日ドラゴンズがいつかスランプに陥ることがあるのだろうか。あるだろう。その日まで、打って、打って、打ちつづけるのだ。島谷、レフトライナー、ゲインズ拝み取り。新宅三振。
 まだ二回裏を終わったばかりだ。カクテル光線がまぶしい。北陸の球場はどんなたたずまいだろう。すべてデーゲームということは、ナイター設備はないにちがいない。球場の外は森だろうか。観客の数は? たぶん両翼は遠いだろう。期待に胸をふくらませながら思いを馳せる。
 三回表。安藤の代打に吉田義男が出る。バットを極端に短く持ち、屈んで構える。私の幼いころの記憶では、彼は両手をしっかり握ってレベルに振るプルヒッターで、左方向の浅いライナーが多かった。その打球が伸びて、甲子園のラッキーゾーンに飛びこむ場面も何度か見た記憶があるけれども、確率を考え、ショートの二十メートルほど後ろまで前進守備をとる。中も左中間に寄って前進する。吉田と板東は長年戦った仲だ。たがいの長短を知り尽くしているだろう。
 初球、足もとへファール。吉田はじつに独特のレベルスイングをする。バットが円盤上を真っ平らに回転するようだ。二球目、内角の高目にストレート、素振りのように自然に振る。レフトライナーだ。芯を食っているので伸びる。レフトスタンドから、
「地獄!」
 というかけ声が聞こえた。背走する。振り向きざまシングルキャッチ。危なかった。
 権藤セカンドゴロ。一番打者の藤田平が右中間二塁打で出る。よくヒットを打つ男だ。四年目。たぶん四年間二割七分以上を打ってきた打者だろう。二番ゲインズ。さっきの守備で気落ちしているのか、外角の低目のシュートに腰を屈めてつんのめり、だらしない格好で三振した。チェンジ。ダッシュで芝から土へ。途中で中のスピードに合わせてベンチへ駆け戻る。プロはゆっくり行動することが肝心だ。中に、
「吉田の球を捕球するとき、スタンドから地獄という声が上がったんですが、どういう意味かわかりますか」
「守備のうまいやつに打球が飛ぶと、よくベンチでも地獄って叫ぶよ」
「叫んだのは阪神ファンだったんですね」
「中日ファンかもしれないよ」
 下通のアナウンス。
「阪神タイガース、権藤に代わりまして、柿本、ピッチャー柿本、背番号41」
 ピッチング練習を見つめる。サイドスロー。コロリとした体形。
「中日にいたと、小川さんかだれかに教えてもらった人だ。背番号45じゃなかったかなあ」
 だれにともなく呟くと、中が、
「そう、45。すごい記憶力だね。いつも驚くよ。柿本は最初南海に入って、芽が出なくてね、一年で追い出されて中日にきた。中日にきても一年目はやっぱりパッとせずに、一軍と二軍をいったりきたりしてたんだけど、慎ちゃんが濃人監督に、サイドからいい球投げるから使ってくれと進言してね、それで芽が出た。三十七年、三十八年と二年連続二十勝。権藤、板東、山中、柿本の四人ローテで活躍した。四十年から健ちゃんが入ってきてエースになった。柿本はその四十年までいて、翌年阪急に移った。阪急でだめで、その翌年阪神にきた。今年三年目だ」
 そう言って、ネクストバッターズサークルに向かった。江藤が、
「気の強かところが取り柄やった。野次将軍て言われとった。コントロールがちかっぱようてな、内角ばグイグイ攻めよる。入団からいままで十年、暴投ゼロ、死球一ちゅう恐ろしか記録ば持っとる。ストレート、シュート、スライダー、シンカー、一とおり投げるばってん、もうさすがに球威がなか。……三十四歳か。今年か来年で終わりやろな。まじめに打っちゃろ」
「江藤さんが見こんだ人ですからね。ちゃんとはなむけの打球を贈ります」
 三回裏。打順は板東から。初球胸もとのシュート、反り返って倒れる。
「ピッチャーにそんな球投げんなや!」
 板東が柿本に怒鳴りつける。柿本が帽子を取る。ワーという喚声。バックネットを見やると、予約席の下のほうに睦子と千佳子が並んで座っていた。
「あ!」
「どしたと?」
 江藤が驚いて私を見る。彼らの左方、中段あたりに大沼所長と山崎さんと佐伯さんが座っていた。一瞬、目の奥が痛んだ。
「飛島建設の人たちを憶えてますか」
「ああ、もちろん憶えとる。つい先月のことばい。金太郎さんにはつらかことやったな」
「江藤さんたちにも心労をおかけしました。ほら、あそこ」
 指をさす。江藤は身を乗り出し、
「おお、見覚えのある顔ばい。いつも観にきてくれとるんやなかね?」
「そう思います。東京でファンクラブの会合があるときは、江藤さんもいってくれますね」
「何を措いてもいくばい」
 板東三振。
「中さんはきっと、左中間の深いところへ三塁打いきますよ。打つのはシュート」
「金太郎さんの言うことは当たるけんなァ」
「お、いった!」
 一枝が叫ぶ。光に映える白球が左中間のセンター寄りを割った。私も叫んだ。
「中さん全開だ!」
 一塁ベースを蹴る。ウオオオー! 速い、速い。風のように二塁を蹴って数歩で三塁に滑りこむ。ようやく大倉にボールが戻った。中がベース上に颯爽と立ち上がると、水原監督が尻をはたいてやった。中はヘルメットを取って監督に辞儀をした。ヘルメットを帽子にかぶり替えるとボールボーイが飛んでいって受け取った。江藤がネクストバッターズサークルに入った。徳武が、
「水原さん、変わったな。選手がみんなわが子に思えるんだろう」
 木俣が、
「孫かもしれませんよ」
「まだまだ彼は〈現役〉だぞ。失礼なこと言っちゃいかん」
 高木サードライナー。内角のシュートにバットが折れて、三遊間まで飛んでいった。江藤が飛島の社員たちに手を振りながらバッターボックスに入った。バックネットがドッと沸いた。田宮コーチが長谷川コーチに、
「柿本、リキ入ってるなあ」 
「いまのシュート切れてたぞ。慎ちゃんだいじょうぶかな。球威がないなんて言ってたから」
 そのシュートに江藤も詰まって、サードの後方にふらふらとフライを打ち上げた。意外に球足が速く、大倉がジャンプしても届かず、ポトリとフェアグランドに落ちた。中ホームイン。
「さすがあ!」
 田宮コーチがうなる。一対十一。私は所長たちと睦子たちに手を振った。全員立ち上がって両手を振った。何ごとかと観客が何十人も両手を振る。水原監督が相撲取りのように両手を広げてパンパンと拍ち合わせた。
「金太郎さん!」
「金太郎!」
 初球、ものすごいシュートが外角に曲がり落ちた。ボール。これまでの十三試合で見た中でいちばん激しく変化するボールだった。二球目、膝もとのスライダー。ボール。これまたとんでもない変化。ノーツー。ストレートは投げてこない。同じコース、同じ高さへシュートかスライダーだろう。決め球はスピードを乗せたシュートにちがいない。三球目、胸もとへスピードボールがきた。高目ぎりぎりストライク。予想が外れた。四球目、真ん中低目、横に割れるカーブ。ストライク。これも外れた。こうなるとヤマかけをあきらめて、やってくるボールをひたすら虚心に待つしかない。
 ツーツーからの五球目、外角低目のストライクコースにかなりスピードのあるシンカーが落ちてきた。シュートほどは切れない。バットはどうにか届く。腰を入れて踏みこみ、押しこむように叩く。まともにミートした。低い弾道で中と同じコースへ飛んでいく。
 ―三塁打だ! やった!
 短距離走者のように走り出す。
「ヒー!」
「キャー!」
 という叫びがスタンドから上がる。センターとレフトが追走をやめた。森下コーチが、
「いっちゃったよう!」
 とタッチを求める格好をする。バックスクリーンの左下に一直線に突き刺さったようだ。森下コーチとパチンとタッチ。ホーバークラフトのまねをしようと思った気持ちが肩すかしを食らった。ひさしぶりに高速で走ってみる。スタンドが沸く。水原監督とタッチ。
「また見たよ! ロケット! おみごと!」
 江藤が後ろ向きでおどけながらホームインする。おどけついでに田淵の尻をポン。私の足を柏木が凝視して確認。揉みくちゃになる。バックネットに手を振りたいのにできない。
「神無月選手、今シーズン第二十四号のホームランでございます」
 御輿のようにベンチに運ばれていく。バヤリース。
「ミスター・ライフル、おめでと!」
「ありがとうございます。あー、三塁打を打ちたかった!」
 中が、
「私の専売特許を奪っちゃだめだよ。金太郎さんにはちゃんとした特許があるだろ」
 高木が、
「シンカーだった?」
「はい。でも、スピードが乗ってるので、タイミングを合わせやすかったです」
 菱川が自打球を脛に当てて痛がっている。私は高木に、
「柿本のシュート切れてます。打とうとしたら手こずりますよ」
「金太郎さんには、ストライクコースに入れてこないだろう。この先ぜんぶ敬遠かもね」
 菱川、結局サードゴロ。


(次へ)