五十二

 一対十三のまま試合が終わってしまった。板東は肘の張りを訴えて六回で降板し、残りの三回を田中勉が二安打で締めくくった。この一勝は、引退前の板東の虎の子になるかもしれない。
 阪神は柿本が投げつづけ、四回以降を散発四安打に抑えた。高木の言ったとおり、私は残りの二打席を敬遠気味の四球で歩かされた。バットに当たるほどのボールは一球も投げてこなかった。二打数二安打三四球。江藤は四打数四安打一四球だった。
 試合終了と同時に一塁スタンドのカズちゃんたちに手を振り、バックネットに走っていって、帽子を取り、所長たちに最敬礼した。彼らはただただ拍手をして、うれしそうにうなずくだけだった。胸にきた。主人たちや睦子たちもしきりに拍手した。
 ベンチ前できょう二ホームランの太田と水原監督がインタビューを受けている。報道記者連中から逃れてロッカールームにいくと、監督と太田以外の全員がいて私を待ちかねた顔をしていた。宇野ヘッドコーチが、
「金太郎さん、ご苦労さん。五日間中日球場を満員にしてくれてありがとう」
「チーム一丸となって連勝しているせいです」
「そう言うと思ったよ。しかし、一丸にさせているのはきみなんだ」
「ウィース!」
 みんなの鬨(とき)の声を受けて江藤が、
「金太郎さん、何も言わんで、このまま着替えして帰って休んでくれ。ワシらもじっくり休むけん」
 長谷川コーチが、
「北陸シリーズはむかしから中日が主催しているから、ユニフォームはホーム用だよ。東京の大洋戦、巨人戦も合わせると、ビジター用も用意しなくちゃいけない。気をつけてね」
「はい。あさって、赤坂のホテルニューオータニに集合ですね」
「そう。そこからバスで川崎球場に移動して、三時半からフリーバッティングになる」
 江藤が、
「あさっての二時ごろニューオータニに着くようにせんといけん。昼ごろの新幹線やと思うばい」
「わかりました」
「あさっての十時半ごろ、太田と菱川といっしょに迎えにいくけん、仕度して待っとってな」
「はい」
 私は着替えにかかった。宇野ヘッドコーチが、
「いよいよ九連戦、十一日間の長期ロードの始まりだ。川崎で大洋三連戦、移動、北陸各球場で広島三連戦、即日移動、後楽園球場で巨人三連戦。死にもの狂いでいこう!」
「オッシャ!」
 着替えをすませ、インタビューから戻ってきた水原監督やコーチ連、太田をはじめとするレギュラーたちに挨拶をすますと、廊下で待機していた警備員について表へ出る。十時半になんなんとしているのに黒山の人だかりだ。ストロボが焚かれる。夜遅いにもかかわらず子供の姿もチラホラ見えるけれども、幼いなりに行ないを慎んでサインを求めないので、手を振るだけですまし、松葉会の組員に肩を守られて駐車場に急ぐ。監督やレギュラーたちも遅れて出てきて、それぞれの乗り物へ急いでいる。堀越へ帰る寮組は専用バスが停車している通路へ逸れてぞろぞろいく。
 カズちゃんの運転するハイエースの後部座席に、千佳子と睦子が、中列に木村しずか近記れんが座っている。クラウンのトランクにダッフルを納め、主人と並んで乗りこむ。組員が二台の車に向かって直角にからだを折る。彼らの頭頂部へ挨拶を返し、球場をあとにする。菅野が、
「いよいよあさって東京へ出発ですね。地獄の九連戦。痩せて帰ってくるんだろうなあ」
 主人が、
「毎日、ちゃんと食べてくださいよ」
 菅野が、
「品川までの切符を買っておきました。帰ったらお渡しします。十一時二十六分発、一時三分に品川に着きます」
「二時までにニューオータニに着くね」
「軽く着きます。北陸遠征、素ちゃんが喜んでました。初めて神無月さんと旅ができるって。五月五日は神無月さんが福井県から東京へ移動しなくちゃいけないから、福井の試合を観たら、特急と新幹線で名古屋に帰ってくるそうです。米原経由で二時間もかからないで帰れます」
 主人が、
「富山の旅館、決まってたっけ」
 菅野が即座に、
「名鉄トヤマホテルです。国鉄富山駅から歩いて三分。金沢の兼六園は、都ホテル。福井はホテルフジタです」
 十一時近くに北村席に帰り着くと、ソテツやイネら賄いはもちろん、トルコ嬢たちの姿もなく、女将とトモヨさん、メイ子、素子、百江、キッコの五人が出迎えた。百江が、
「お帰りなさい。お疲れでしょう。お風呂できてます」
 キッコが、
「神無月さん、二十四号おめでと」
「ありがとう」
 カズちゃんが、
「バックスクリーン一直線。きれいなホームランだったわね」
「飛島の所長と山崎さんと佐伯さんがネット裏に観にきてたよ。手を振った」
「ほんと? よかったわねえ。所長さんと飛島さんは今月異動しちゃうんでしょう? 中日球場の見納めだったのね。これからは東京で応援してくれるわ」
 女将が、
「さ、お茶漬けでも食べて、お風呂に入りたい人は入って」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんは、今夜はここに泊まりなさい。あしたは十時半に江藤さんたちがくるわ。朝、新しい背広とシャツを持ってくる」
 百江とトモヨさんがみんなに茶漬けを用意する。菅野はサッとすまし、
「神無月さん、これ新幹線の切符です。じゃ、私はこれで。あしたお見送りします。お休みなさい」
 全員で、お休みなさい、と声を合わせる。菅野が出ていくと、もうだれも会話をする元気はなく、お休みと言って北村夫婦が離れに去り、近記れんと木村しずかとキッコが名残惜しそうに自室に引き揚げ、トモヨさんも、お先に、と言って離れに引っこんだ。私は百江に、
「ビジター用のユニフォーム二式と、ワイシャツ一枚、下着三組、ケースに入れたバット三本をあしたニューオータニのほうへ、ホーム用ユニフォーム三式と、下着五組、ワイシャツ一枚を、五月の二日までに富山の名鉄トヤマホテルに送っといて。ビジター用ユニフォーム一式とスパイク一足、帽子一つとグローブ、それからジャージ一着はあしたダッフルに入れて持ってく。東京で着たビジター用のユニフォーム三式と、下着と、使えなくなったバットは、オータニを出る五月二日に送り返す。北陸から東京に帰る五月六日の午前までに、また新しく同じものをオータニに送っといて。ホーム用のユニフォームと汚れたワイシャツと下着は、北陸のそれぞれのホテルを出るときにいちいち送り返す。東京に戻って使ったビジターの用のユニフォームと、汚れ物と、使ったバットは八日にオータニを出るときに送り返す」
 睦子がせっせとメモをとっている。百江が、
「わかりました。だいたい頭に入れました。ジャージも富山に一着送ります。あした持っていく一着だけじゃ足りないでしょう。ゴチャゴチャしてますから、いく先々のホテルに忘れ物をなさらないようにしてくださいね」
「わかった。そっちのほうが心配だよね」
 カズちゃんが、
「キョウちゃん、今夜は千佳ちゃんとムッちゃんとお休みなさい。これから二週間逢えないんだから」
「わ、うれしい!」
 睦子と千佳子が手をとり合って喜ぶ。素子が、
「三人でお風呂入りゃあ。そのあいだにうちら帰るで」
 カズちゃんが、
「二人、危なくない?」
「私がちょっと……」
 睦子が手を挙げた。千佳子が、
「百江さん、お願いしていい? 私も少し心配なの」
「ええ、もちろん!」
 カズちゃんが、
「じゃ、いっしょにお風呂入って。百江さん、下着なかったらトモヨさんにもらってね」
「だいじょうぶです。替えたばかりですから。私、こんなにお情けいただいて、よろしいんでしょうか」
 カズちゃんが、
「いいのよ。四十代、五十代のがまんは、二十代の三倍よ。遠慮しないの」
「ありがとうございます」
「私じゃなくキョウちゃんにお礼を言いなさい。じゃ、あしたの朝、みんなでごはん食べにくるわ。きょうは少し長寝したい」
「カズちゃんの机の上に置いてある牢獄の花嫁という単行本と、文庫の浮雲、いのちの記録、それと、ぼくの抽斗から二十万円、あしたの朝持ってきて。遠征に持ってく」
「オッケイ」
 カズちゃん、素子、メイ子の三人が帰っていくと、四人で風呂に入った。私にはもう女のからだが風呂場の浮き玩具と同じで、弄ぶのが自然なことに感じられる。交互にキスをしたり、股ぐらをいじったり、乳首を含んだりする。私を疲れさせないというのが彼女たちの至上命令なので、若い二人は次々に私に抱きついて跨っては、嘘のように早く果てて離れる。百江は遠慮して、湯殿でからだを洗って待っている。
「百江、お尻向けて」
「はい」
 シャボンを肩湯で流し、湯殿に上がった千佳子と睦子に両腕を預けるようにして、湯船の縁へ尻を突き出す。挿入する。睦子と千佳子がたちまち固く引き攣る百江のからだを抱え、そっと湯殿に横たえる。それから二人は若い体力を温存したまま、並んで尻を突き出す。交互に抜き挿ししながら往復を繰り返す。二人は切ない声を上げて、三度、四度と競るように果て、百江と並んで湯殿に横たわり全身をふるわせる。
「百江、出すよ! お尻!」
「はい!」
 百江はよろよろ起き上がり、湯船の縁へ尻を突き出す。挿入したとたん、
「あああ、神無月さん、好き、好きです、イキます、あ、あ、イク!」
 私も吐き出した。律動を柔らかい尻に打ちつける。
「あああ、神無月さん、だめ、だめ、ク、苦しい―」
 逃げるように抜いて、湯殿でのたうつ。千佳子が亀頭にかぶりつき、精液を吸い取る。睦子は百江に覆いかぶさって、自分の余韻に重ねて百江の余韻を味わう。私は湯船に沈み彼女たちが落ち着くのを待つ。やがて百江が起き上がり、
「ごちそうさまでした」
 睦子が、
「愛してます、心から」
 千佳子が、
「ありがとう、神無月くん」
 めいめいに言いながら湯船に入ってくる。百江が言う。
「たっぷりいただきました」 
「長くできなかったけど、あんなものでいいの?」
「入れてすぐイッても、長くしてもらっても、イク強さと気持ちよさは同じなんです。千佳子さんや睦子さんのように繰り返しイケるのは、体力がある証拠。その気になれば私も何十回でもイケますけど、たった一回でも同じくらい満足するんです。神無月さんが十秒とか二十秒でイッてくれればいちばんいいんですけど、そうもいかないので何回も何十回もイクことになるんです」
 みんな強くうなずいている。
「入れてすぐイクのは、ぼくにはホームランを打つより難しいな」
 睦子が、
「いいんです、神無月さんが長くかかっても。私たちは、何十回もイッたあとで神無月さんのおつゆをもらうのがいちばん幸せですから」
 百江が、
「すみません。いただいてしまって。おつゆをもらうときって、ほんとに死ぬほど気持ちがよくて……」
 私が髪を洗いだすと、睦子が立て膝になり、自分の髪にシャボンを立てる。ほかの三人も手や足や陰部を洗う。


         五十三

 睦子が、
「和子さんが、シーズンオフに神無月さんにくっついて移動するのは無理だろうって言ってました。これほど有名になると、田舎でもマスコミが離れないからって」
 百江が、
「そうですね。遠慮したほうがいいですね」
 千佳子が、
「私もいつか、素子さんみたいに二人きりで旅をしたい」
 睦子が、
「私はほかの女の人がいくらいても、いつも神無月さんと二人きりだと思ってるわ」
 百江が、
「私も。たった一人の愛しい人に抱かれてると思えば、ほかの女の人のことなんか頭に浮かびません。ほかの女の人は、神無月さんの大事な手や足だと思ってます」
 千佳子が、
「そうね、わかるわ。世間の女の人たちに聞かせてあげたい」
 睦子が、
「二人きりも、大勢も、みんな神無月さんの都合の問題でしょう。都合がいいときはいいなりに、都合が悪いときは悪いなりにそばにいればいいんです。私が愛したのは神無月さんと、神無月さんの都合のぜんぶです」
 そう言って、頭のシャボンを丁寧に流した。千佳子が、
「ムッちゃん、私、ムッちゃんを尊敬する」
 百江が、
「ほんとに。あなたはまるで和子お嬢さんですね。私も尊敬します」
 風呂から上がり、私たちは千佳子の部屋の蒲団に横たわってあらためて見つめ合う。見つめながら私は、彼女たちを深く愛していることに思い至るけれども、思い至るだけで言葉を発することができない。愛情を表現する語彙が極端に少ないので、素朴で奥深い言葉を吐いたり、魅力的な比喩を思いついたりする知恵もない。詩人を衒って生きてきた野球小僧には、詩的な飛躍とか想像の翼を大きく羽ばたかせることなどとうていできない。そういうものが私でない人間にあった場合にはかなりするどく感応できる。ところがこの私には、言葉という行動の飾りは何一つ身につかない。愛と感謝を言葉で表現するために生きるなどと放言してきたのに、そんなことは私には永遠にできないだろう。
         †
 四月二十八日月曜日。睦子が私の胸に手を載せて寝ている。愛らしい顔だ。百江と千佳子の姿はない。七時。枕もとの腕時計は十一・六度。下の居間から直人の甲高い声が聞こえてくる。
 私の気配に睦子も起き出した。微笑み、チョンと口づけをし、服をつけると、蒲団を上げる。
「服は脱衣場に置いときますね」
 外したシーツを丸め、私の衣類といっしょに階下へ持っていく。睦子の声がソテツや千佳子や百江の声とまぎれる。千佳子たちは風呂の仕度をしていたようだ。
 パンツ一丁で下の便所に降りる。下痢。バナナのようなウンチという話をよく聞くけれども、私は小さいころから下痢気味で、硬さのある便をすることはめったになく、たとえまれに硬さと形のある便をしたとしても、親指か小指大の長さのものが二、三個出るだけだ。とりわけ汗で腹が冷える夏場は苦手で、苦しい下痢をすることが多い。冬場に腹巻をしても汗ばむと下痢になる。小便が一日二回、多くて三回しか出ないという状態も幼いころからつづいている。
 うがい。大風呂でシャワー。歯磨き。洗髪。下着を替える。掌でヒゲを確かめ、そっとブラウンを当てる。切ないほど小さい音。パンツを穿き、残りの衣類を脱衣場に置いたまま居間へいくと、主人夫婦やトモヨさんの挨拶の声と直人の奇声が上がる。
「おとうちゃん、おはよう」
「おはよう」
 バットを持ち、パンツ一枚で玄関から庭に出る。すばらしい快晴。池のそばにいき、素振り。ゆるく三十本、片手振り、ゆるく三十本。三種の神器。タオルなしで左腕のシャドー。直人を抱いたトモヨさんが玄関に立って見つめている。
「お腹が冷えないうちに早く服を着てください」
「ほーい」
 居間で服を着る。カズちゃんたちがやってきて、がやがや話しながらコーヒーを飲む。
「はい、これあした持ってく吉川英治の牢獄の花嫁。塙老人の息子に対する愛情がすごいわよね。私、学生のころこの本を読んで、親子の情というものを深く考えるようになったのよ」
「遠征の旅のお供にと思ってね。本を読む時間があればいいけど」
「そうね。気休めと思えばいいわ。浮雲、それから、いのちの記録と、二十万円。トモヨさん、十万円はブレザーの内ポケットに入れといて。残りはスポーツバッグの底に」
「はい」
 運動靴を忘れずダッフルに納め、本といのちの記録をてっぺんに載せる。千佳子が、
「いのちの記録って、詩稿ですか?」
「感想と詩の走り書きだね。持っていれば安心するというだけのものだよ。野辺地に送られたときから書きだした。何冊か書き上げたけど、ほとんどカズちゃんが持ってる。節子かキクエが一冊持っているかもしれない」
 カズちゃんが、
「読みたいなら、則武の私の勉強部屋で読んでね。いつも机に置いてあるから」
 睦子が、
「一冊ずつお借りしていいですか」
「いいわよ。五年分、四冊。一冊はキクエさんが持ってるのかしら。でも、キクエさん、たしか詩のノートって言ってたわね。いのちの記録はやっぱり、いまのところ四冊ね。キョウちゃんが書いてるのは五冊目」
 千佳子が、
「詩のノート、私も一冊持っていたいです」
「詩だけ書いたノートって、二冊ぐらいしかないのよ。私も一冊持ってるだけ。ま、いずれにしても、原稿から何からぜんぶ則武にあるわ」
 みんないっしょに食卓につく。一家が揃い、立ち働く賄いを入れると、ドラゴンズベンチほどの人数になる。菅野もきた。主人が畳に両手を突き、屈みこむようにして新聞を読んでいる。
「水原監督のインタビューが載ってます。神無月くんに申しわけなくて、負けるわけにはいかない。ドラゴンズは神無月くんが少年時代から愛し、長じるに及んで住みついてくれたチームであり、その意味で神無月くんの終の棲家です。彼はドラゴンズに住みついて私たちをここまで育ててくれた。言わばドラゴンズにとって太陽と同じで、沈めばドラゴンズに闇と氷河期が訪れます。たしかに、彼が他チームに攻略されないかぎり、長期にわたって中日ドラゴンズの快進撃はつづくでしょう。しかし、たとえ攻略されないとしても、彼自身のスランプも覚悟しておかなければならない。その期間に耐えられるよう、私たちは個々の力を鍛錬しておこうと思います―」
 菅野が、
「菱川さんのインタビューも載ってますね。―見ましたか、神無月さんのロケットホームラン。だれもあんなすごいホームランを打てないですよ。俺は、入団した年に一本打ってから、去年までショボショボ三本しか打ってません。一年に一本ですよ。それが今年はもう二本です。高木さんは三本、太田と島谷も三本、木俣さんは二本、中さん一本、江藤さんなんか八本も打ってます。俺が言いたいのは、十三試合で二十四本なんていう神無月さんのホームランの数じゃなく、神無月さんを見てると、ホームランというものがふつうに見えてくるということなんです。その気持ちが大きいですね。その気持ちで俺たちもホームランを打てる。ホームランを打つつもりでいろいろなコースの素振りをするようにと神無月さんに言われました。不思議なことにこれが実際の試合でも、打ち返そうと思って振るんじゃなくて、ホームランを打とうと思って振ると、無茶なスイングをしなくなるんですよ。ボールをしっかり見て理想のスイングをしようとしますからね。それでオープン戦以来、信じられないほどホームランを打てるようになりました」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんは教師でもあるのね。ほんとうに水を得たんだわ」
 そう言って、素子たちといっしょに箸を動かした。
「菅野さん、ちょっとファンレターを持ってきてくれませんか」
「ほい」
 菅野はとりかけた箸を置くと、二階の賞品部屋へ上がり、小包を持って降りてきた。
「六十五通です。一応ぜんぶ開封して目を通しました。剣呑なものはありません」
 菅野はふたたび箸をとる。
 ほとんど封書なのに驚く。差出人名なし、住所なしの封筒があったので開ける。こういうのが、押しつけがましくない理想的なファンレターだ。
『二十五歳の一サラリーマンです。あらゆることにいっさい興味がなく、生きていることを困難に思っていたとき、要するに、生きることをあきらめかけていたとき、あなたの野球をする姿をたまたまテレビで見かけました。その日からあなたの存在が心の支えになりました。あなたがいるこの時代に生まれてきたことに感謝しています。あなたのホームランを観られる、それだけで生きてきてよかったと思えるほど、ほんとうにあなたの打つホームランはすばらしい。あなたにあこがれ、最近バッティングセンターにかよいはじめました。これからも応援しています。あなたがしたいように野球をしていってください。おからだお気をつけてがんばってください。どうかお元気で』
 次の名無し封筒。
『老婆心ながらひとこと。圧倒的な威圧感。ふつうに歩いているだけで、ファンたちがササーッ! サインなんてもってのほか。怖い。ほんとうに怖い。近寄れません。もう少し改良の余地ありませんか』
 住所氏名あり、開封。
『はじめまして。私は神奈川県に住んでいる中学生の××と申します。いつも神無月選手の勇姿を見て励まされています。初めて神無月選手のプレーを見たとき、豪快なバッティングに驚きました。それから興味を持つようになり、いまでは野球選手の中でいちばん応援しています。神無月選手を見ていると、自分をもう一度信じてみようと思うことができるのです。感謝しています。手紙を読んでくださり、ありがとうございました。これからもずっと応援しています。ケガや体調にお気をつけて』
 その一通で最後にした。返事の書きようがない。返事を望んでいる様子もない。
「わかりました。もういいです。これは、というものがあったら知らせてください」
「了解。じゃ、直人、ごはん食べたら保育所いくぞ」
「うん」
「いただきまーす」
 トルコ嬢たちが集まってきて食卓に加わる。主人が味噌汁をすすりながら、
「あしたの先発は小川さんだな」
「たぶんそうだと思います」
 めしを噛み、味噌汁をすする。
「先発投手候補は月曜日にも練習があるんですよ」
「そうなんですか。小川さんは練習を軽くこなしちゃう人だから、きょうみたいな移動日でも、屋内練習場でスイスイ投げこんでから新幹線に乗るんだろうなあ」
 直人とトモヨさんが私の頬にキスをし、食事を終えた菅野といっしょに出かけた。千佳子と睦子も大学に出る。カズちゃんたちが出かけたのを潮に、私はごちそうさまを言い、主人夫婦に、
「ジムトレにいってきます」
「いってらっしゃい。遠征から帰ったら藤棚の四阿が完成してますからね」
「はい、ありがとうございます。ティバッティングの設備がじゃまだったら、取っ払ってください。トスバッティングやティバッティングは大して役立たないものだとわかりましたから」
「とっておいたほうがいいですよ。いつなんどき役立つかもしれませんから。防御ネットはちゃんと張ってあるし、硬球も二十個ばかり仕入れましたし」
「はあ―」
「藤棚は庭の隅ですからじゃまになりません」
「わかりました」
 ジムトレと、両手翼の十キロダンベルの練習を終え、自転車で笈瀬川筋から中村郡道に出て、ガードから西へ走り出す。看板のまったくない旧家が連なる道。まず山田曲物(まげもの)株式会社というのが目についた。弁当容器・曲げわっぱ、と書いてある。自転車を停めて眺めていると、店主のような中年の男が出てきて、
「……もしかして、神無月選手?」
「はい」
「うわあ、すごいなあ! 美男子やなあ! で、うちに何かご用でも?」
「この近所に住んでますんで、ちょっと散歩に出てみたんです。周囲の様子を少しでも知っておきたくて」
 男女の事務員がちらほら出てくる。口を押さえて驚いている。
「そうですか。竹橋町の北村席さんにいらっしゃることは聞こえてます。そうですか、こりゃたいへんや。うちは大正十三年創業でして、私、二代目の山田××です。どうぞ工房のほうへ。見ていってください」
 店舗の戸口から内部へ案内される。意外な展開だが、少しうれしい。
「創業当初は提灯の口輪を作っておりましてね、戦火にやられてからは、しばらくは機械なしの人海戦術でしたわ。集団就職で名古屋にきた若い人たちを住みこみで雇ってます」
 狭苦しい工房に入る。お仕着せを着て帽子をかぶった初々しい男の子や女の子が、ゴロリとした二、三台の機械の前に腰を下し、でき上がった〈ワッパ〉を一つひとつ手ではめて仕上げている。真剣な眼差しと手さばき。四戸末子がいるような気がした。
「この機械は私が自分でメンテナンスします。おい、きみたち、中日ドラゴンズの神無月選手だよ」
 全員顔を挙げ、
「ワア!」
 と素朴な歓声を上げる。三、四人、立ち上がって握手を求める。恥ずかしがってしきりにお辞儀をする彼らとしっかり握手する。誠実そうな青年が、
「一時間に、一人五百個ぐらい作ります」
「こういう製品は何に使われるものなんですか」
 店主が、
「弁当容器や、贈答用土産物の容器です。いずれは熱に強い材質を研究し、底に穴を開けて蒸し器として使えるようなワッパを作ろうと思ってます。継ぎ目に関しては、いい接着ボンドがないので伝統的なステッチャー留めをしていますが、工夫してミシンで糸縫いできるようにしたいと思ってます。ミシン縫いは相当研究してます。ユニークな業種なので、同業者同士で助け合ってこの業界を盛り上げていきたいです」
 聞いていて、業界紙のレポーターになったような気持ちがした。どんな仕事もより高い達成を目指すためには、並ではない工夫が必要なのだ。
「貴重なものを見せていただいて、ありがとうございました」
「どういたしまして。お訪ねくださってこちらこそありがとうございました。ご活躍をお祈りしています」
「がんばります」
 名残惜しそうな社員たちに見送られて自転車に跨る。手を振って走り出す。


         五十四

 古民家の低い軒並のあいだに、食い物屋、ガソリンスタンド、仏壇仏具店、蕎麦屋、建具店、理髪店。やがて先日の則武小学校の交差点に出た。渡って直進する。ひどく小さな郵便局。浅野の家のような二階家の並びが数百メートルもつづく。淡緑の塀の西福寺。入口らしきものがない。人を拒んでいるのだろう。見覚えのある通りに出た。鳥居通。ここにつながっていたのか。いつものランニングコースに自転車を走らせる。中村日赤へ曲がりこむ。見慣れた銭湯の煙突。新樹ハイツには寄らずに椿神社へ向かう。
 名古屋の街がなつかしい。この街で生きて死ぬ。市電が見たくなり、インペリアルフクオカとブラジルの二軒のトルコに挟まれた十字路を右折して、太閤通に向かう。三つ下がりの角ランタンの街灯が連なる通り。羽衣町。トルコふぁーすと。

 
はりきって営業中平日十時から二十四時まで ℡×××―××××

 賑町。ベビー&子供服、岩田屋、35%~80%オフ。廃屋のような飲み屋、食事処。たばこ。鮮魚魚安。自転車に乗った主婦、傘杖を突いた初老の男。かにや食品店。レディスブティックふくや。辻から右手に葵荘を眺めやる。
 名楽町。肉のカネ重。中華福順。呉服美濃幸。横地接骨院。ヤマハ音楽教室。
(祭)大門のアーチゲートの下に立つ。太閤通。二年前素子が立っていた場所だ。大門の電停に市電がやってくる。淡黄と緑のツートンカラー。すばらしい。モルタルから鉄筋に変わっていく道路を見通す。市電路に沿って稲葉地に向かう。大鳥居を右に見て自転車を漕ぐ。まだモルタル家が残る町並。柳の街路が目に涼しい。
 稲葉地電停の引込み線の先は車庫になっていて、トラスの骨組みが見える大きな天蓋の下に車輌が集まっていた。左胸の2は系統番号だ。市バスの姿も見える。遠く庄内川の方向を見ると、道がわずか右へ曲がって昇る。あの先がいつか菅野と山口とおトキさんときた新大正橋だ。庄内川は名古屋市の西の境の一部をなしている。
 栄行の電車を追いながら鳥居西通へ戻っていく。レールを埋めるように角石が整然と敷き詰められている。電車と並んでセダンや小型トラックやミゼットが走る。すれちがう市電の運転手の白ワイシャツと黒帽子が目に涼しい。このあたりは木造二階建ての旧家が多い。ポツポツ高層マンションが雑じる。
 中村公園前。高さ二十四メートルの大鳥居。パチンコリリー。交差点のビルの屋上に、JUSCOオカダヤの文字が見える。
 大門通。低い家並の中に頭を突き出したパチンコマツイ会館。
 太閤通三丁目。車が電停内に侵入してレールの上を走る。
 笈瀬通。またパチンコ屋。電停ごとにある感じだ。自転車を停め、電停の歩道橋に登ってガード全体を眺める。団子鼻の新幹線がガードの上を風のように過ぎた。
 笹島ガードの西側までくる。自転車を預けたサイクルショップ。家並がゴミゴミしはじめ、がぜん車や自転車の数が多くなってきた。ガードをくぐり、笹島電停。ビアホールミュンヘン。則武に戻るか、このまま栄までいくか迷う。栄までいくことにする。蜂の巣のように数え切れないほど四角い凹みを穿った奇抜なデザインの日本相互銀行。
 広小路通。ビルというよりも看板が高い。第一證券、富士洗濯機、東芝。ワンマンカーの標示を出した市電が時おり通る。
 柳橋。交差点の西側には高級キャバレーがひしめいている。南側には三井物産ビル。アーチの並ぶ古風な外観だ。疲れてきた。栄までいかずに引き返す。
 則武に自転車を置き、北村席に出かけていく。アイリス、百江の家、椿神社、あかひげ薬局。後藤商店を右折。乾物小崎商店。左折。牧野小学校。塀沿いにぐるりと回って牧野公園。午後の陽射しが明るい。腕時計は二時五十分。二十三・九度。汗をかいた頬に涼しい風が吹いている。
 千佳子と睦子は出かけている。座敷にいき、主人と二人で煙草を吸っていた菅野に、
「稲葉地から市電を追いかけながら自転車で走ってきました。市バスって、名古屋の街には似合わないですね」
「市電よりずっと歴史が浅いですからね。市電は明治三十一年、市バスは名古屋が百万人都市になった昭和五年、三十年近い差があります。笹島から栄までの路線が名古屋でいちばん古いんです。笹島から久屋町まで、ほぼ一直線にレールが通ってます。稲葉地からの2系統は、名古屋市内の目抜き通りを走り抜け、栄、今池、覚王山から東山公園までのロングランでしたが、おととし栄から先が廃止されました。十月には名古屋でいちばん大きい祭、名古屋まつりがあるんですが、そのときに、ものすごい電飾の花電車が何台も走ります。昼の英傑行列がメインなんだけど、私は夜の花電車のほうが好きだなあ。神無月さんはどのあたりの市電を憶えてるんですか?」
「どれも昭和三十四年からだけど、まず千年の交差点を通る市電」
「熱田駅前から名古屋港までいく築港線ですね」
「神宮前の市電」
「内田橋から栄町までいく熱田線」
「高須くんという千年小学校の友人のところへ、船方を越えていった」
「船方から柳橋までいく下江川(しもえがわ)線と水主町(かこまち)延長線です」
 主人が、
「菅ちゃん、あんた何者」
「もとタクシー運転手。トモヨ奥さん、直人を迎えにいきますよ」
「はーい」
 女将が出てきて、
「私もいくわ。お絵描きボードを買ってあげる約束をしとったで」
 三人が出かけると、ソテツとイネがやってきて、
「昼ごはん、食べてないでしょ」
「うん」
「天丼作ってけら」
 五分もしないうちに、海老、ナス、ピーマン、シイタケを載せた天丼が出てくる。
「おやつだから、小盛りです」
 掻きこむ。うまい。あっという間に食い終える。
「青森には市電がないけど、沖縄にはあるの?」
「昭和の初めまで首里あたりにあったそうですけど、いまはありません。どうしてそんなに市電が好きなんですか」
「横浜で一回か二回乗って気に入った。薄い黄色の車体。チンチンと鳴る鈴。把手の丸い検札鋏をカチカチ鳴らして車掌が車内を回る。格好よかった。運転台の機械類も不思議な感じでね。グルグル回す制御ハンドル、絞るように動かすブレーキハンドル、足踏み式の警笛弁。何より外観が美しい。街並にピッタリ溶けこんでるんだ。少し悲しげに揺れながらね」
 主人が、
「市電ねえ。ここしばらく乗ってないなあ。ひとつ童心に戻って乗ってみるか」
「いまいきましょう。距離が長いのがいいな」
「菅ちゃんを連れてったほうがいいな」
         † 
 お絵描き、お絵描きと叫びながら、直人はただいまも言わず座敷へ走っていった。
「お、菅ちゃんが帰ってきた」
「菅野さん、ちょっとお父さんといっしょに市電に乗ってきますが、いっしょにいきませんか」
「いきましょう!」
「できるだけ長距離を走る市電に乗りたいんですが」
「今年、81系統のワンマンカーが運転開始しましたよ。名古屋駅前から菊井町の菊井薬局のところを右へカーブして上飯田までいきます。晩めしまで帰ればいいでしょう」
 トモヨさんが、
「ほんとに道草食わないでくださいよ」
 女将が、
「好きにさせときゃァ」
 ブレザーに着替え、眼鏡をかけ、下駄を履いて出る。主人は着物、菅野はスーツだ。
「ほんとに、市電、なくなるんですね」
 菅野が、
「すでに何系統かなくなってます。昭和三十六年に、覚王山から星ヶ丘までの東山公園線がなくなりました。四十年には今池から覚王山までの覚王山線の一部と、大曽根東大曽根間の大曽根線が、四十二年には栄町今池間の栄町線の一部と覚王山線の残りぜんぶ、黒川から城北学校前の清水口延長線の一部、清水口赤塚間の高岳線の一部が、去年は、大津橋金山橋間の大津町線のぜんぶと熱田線の一部が―」
「そんなに……」
「はい、大津橋はきょう通ります。今年の二月には、尾頭橋から稲永町の下之一色線のぜんぶと築地線の一部が、日比野から名古屋港までの野立築地口線のぜんぶと築港線の一部が廃止されました」
「千年を通るやつかな。加藤雅江の家にいったときはまだ走ってたけど」
「それは熱田駅前から名古屋港までいく築港線ですが、その一部の築地口から名古屋港までが廃止されたんです。日比野からの野立築地口線は、六番町や東海通を通る線で、ほら神無月さんがシロを迎えにいった港区役所のあるあたりを走る市電ですよ。来年早々、鶴舞公園から平田町までの公園線の一部と葵町線のぜんぶが廃止されることになってます。昭和四十九年の春までには全線廃止が決まっています。あと五年です」
 猛烈な博覧強記ぶりを発揮する。主人はポカンとして、
「菅ちゃんが北村席を経営したらマチガイないやろなあ」
「商才は別物ですよ、社長」
「菅ちゃんと和子を足せば、鬼に金棒やが」
「お嬢さんは北村席のオブザーバーです。トルコに手は出してきません。社長と女将さんが引退したら、トルコはそれきりです。老後は、マンションやアパートの経営でもするのがいいと思いますよ。とにかく、きょうは名残を惜しみにいきましょう」
 私はうなずき、
「あと二、三年、長くて五年か。せいぜい乗っておかないと」
 名古屋駅の正面玄関に出る。名鉄百貨店前の長い電停に立つ。目の前に映画館の詰まった毎日ビル。名古屋大映の大看板。左に青年像、噴水、森永キャラメルを帯にした地球儀のような球形回転ネオンを載せた大名古屋ビルヂング。
 81番の市電を待って乗る。真ん中の自動ドアを昇る。空いている。客は五、六人。運転台の真後ろの長い藍色のベンチに座る。ワンマン開始と言っても、まだ車掌つきの電車が大半だ。カチカチ鋏を鳴らしてやってきた車掌に主人が三人分七十五円を払う。
「わくわくしますな」
 うれしそうな主人に私もうれしそうにうなずき返す。菅野は小さな切符をめずらしそうに弄びながら、
「用事もなく電車に乗るなんてのは初めてですよ」
 チンチンの音が耳に心地よい。日本交通公社、名古屋中央郵便局と過ぎ、東洋ビルを右に見ながら、右へ大きくカーブしていく。菅野とのランニングコース。振り返ると、駅の正面玄関、駅前広場の広大な空間、名鉄百貨店まで見通せた。
 那古野、菊井町とやってくる。こんなゴミゴミした町並だったのかとあらためて驚く。菊井薬局を右折。明道町。商店がみっしり連なっている風景。
「菓子や玩具の問屋街です。日本一です。六百も店があります。製造もしてますから、菓子袋の裏に名古屋市西区とあったら、このあたりで製造出荷されたものです。直人のオモチャはここでほとんど揃います」
 六句町。短い電停に放課後のセーラー服の女学生が溜まっている。菅野が、
「愛知女子高校の学生ですね」
「セーラー服の女はだれでも美しく見える。魔法服だなあ」
 乗りこんでくる。主人が、
「トクは高等小学校の着物やった。あの当時は制服なんてものはなかったな。でも、きれいやったで。和子の制服姿はとびきりきれいやった」
 平たい家並の中にビルがポツポツ。泥色をした堀川を渡る。小さな橋。
「ほい、菅ちゃん、解説よろしく」 
「景雲橋です」
 短い橋を渡ってゆるい勾配を昇る。坂の途中が電停になっている。しばらくいくと左手に石垣が見えてきた。
「左手が名古屋城の外堀で、石垣遺構が見えます。その向こうが名古屋城です。この上り坂は熱田台地に向かってます。名古屋城は熱田台地の北端に築かれたんです。大正時代にこの左の堀に瀬戸電の堀川駅が作られて、いまも機能してます。外堀の中を走ってるんですよ。お濠電車と呼ばれてます。昭和十四年に名鉄と合併して、瀬戸電は名鉄の一路線となりました。あ、この十字路が、いま私たちが走ってる外堀通りと伏見通りとの交差点です。あのクリーム色のビルが名古屋市役所西庁舎です。ああ、中日新聞のビルが建設中ですね」
 立て板に水でしゃべる。
「あれは?」
 右方を指差すと、
「名古屋東照宮です。こっちは裏手ですね。あの向こうに那古野神社があります」
 女学生たちが突っつき合って、私たちを見る。気づいたようだ。
「まちがいないって」
「どうする?」
「失礼やよ」
「気難しいって話やが」
 名古屋城電停。大津橋電停。私に近づけないうちに、一人、二人と降りていく。
「この電停から名古屋城正門まではかなりの距離なんですよ。名古屋駅から乗り換えなしで愛知県庁や名古屋市役所までいくには、この系統の市電に乗って大津橋で降りるのがいちばん便利です。この左側の堀の中には瀬戸電の大津町駅があります。左の塔が市役所で、右の城のような建物が県庁です」


         五十五 

 とつぜん右の窓に視界が展けた。久屋大通公園の向こうにテレビ塔が突き立っている。左に瀬戸電と名鉄が走っている外堀が見える。左右ともすばらしい景色だ。主人が、
「やあ、まるで観光路線やな!」
「ちょうどこの外堀から、ほぼ九十度で曲がる名物急カーブがあります。九十度と言っても、半径六十メートルの円を描いて回るんですけどね」
「四分の一円ですね」
 高いビルの散在する東外堀町と、わずかにつづく旧家の町並からほぼ都会の風景へ変身する東片端(かたは)で、残っていた女学生もすべて降りた。電停のそばに二十メートルに余る大楠が繁っている。こういう天然記念物は戦火を生き延びたというのが謳い文句になる。
「東片端の名物の楠です。樹齢三百年。道路拡張計画で切り倒すことが決まったとき、杉戸市長が、切り倒すには惜しい、とひとこと言ったことで助かりました」
 家並が古びてくる。乗客が少なく、窓は開閉自由、ゆっくり過ぎていく空が広い。時間を贅沢に消費するすばらしい乗り物だ。飯田町、布池町。平田町から青森市街ほどの賑やかさになる。花園町から浜町あたりに延びる景色にそっくりだ。
 赤塚、山口町、徳川町。急坂をくだる。坂のふもとで瀬戸電と平面交差する。緑色の二両電車。飽きない。大曽根(聞き覚えあり)。こんなにさびしい町だったのか。
「母と名古屋に初めてきたとき、ここを経由して川原通へいきました」
「大曽根から東大曽根、矢田町、今池、大久手。そこで八事線に乗り換えていったんですね。たいへんだったでしょう」
「子供って、たいへんさを記憶しないんですよ」
 特色のない彩紅橋通、平安通一丁目、御成通三丁目の閑静な町並を過ぎて、少し繁華な上飯田に到着。終点。電停の前に十階建ての名鉄ビルがそびえている。反対側には、アーケードの中にパチンコ屋。
「このビルの二階が名鉄上飯田駅になってます。さ、降りましょう」
 名古屋駅からここまで一時間十分ほど。夕方の気配がやってきている。
「菅ちゃん、上飯田はいい店ある?」
「はい、昭和の初めからやってるハルギクという老舗があります。入ったことはありませんが」
「ああ、〈志〉に〈玉〉やな。知っとる」 
 道を反対側へ渡り、アーケード商店街を歩き出す。主人が、
「短いけどええ旅やった。神無月さんの目がキラキラ輝いとった。素朴なものに感動するんやなあ。それを見てワシも感動した。小腹を満たしたら、タクシーで帰ろう」
「そうですね。腹にたまらないものを食べましょう」
 一筋目を曲がって百メートルほどいくと、旅籠ふうの黒っぽい二階家の引き戸口に、短冊四枚の白暖簾が垂れている。横幅二十メートルもあろうかという大屋敷だ。暖簾の隅に春ぎく玉と染め出してある。障子一枚の出入口の左に子供ぐらいの背丈の石仏、右に打ち水用の柄杓と用水甕が置いてある。
「北区に料亭はこの一軒しかありません」
「やめましょう」
「やっぱり。私もそう思いました」
「気取りすぎとる。石仏はまずいやろ。家に帰ってめし食お」
 市電道に戻り、タクシーを拾う。若い運転手だ。菅野が慣れたふうに、
「新堀町に出て、黒川から浄心を通って名駅へ」
「はい」
 菅野は私に、
「帰り道は、市電や電停はあまり見られませんけど、並木に射してくる夕日がきれいですよ」
 主人が腕をこまねき、
「石仏で思い出したわ。十年ほど前に寄り合いの例会であそこにいったことがある。二十人くらいでいって、十万取られた。神無月さん、中に入らんでもどんな店かわかるでしょう」
「だいたい。あれは古民家を改造したものでしょうから、外観のイメージとちがって中庭もあり、渡り廊下もあり、複数の建物がつながっている造りだと思います」
「アタリ。ただ、古民家の改造やなくて、京都や奥三河から移築したものらしいですわ。もとの店は戦争で焼けてまったと言っとった」
「中の造りはふつうでしょう。宴会用の大広間はもちろん、個室もある。床の間には掛軸が垂れ、季節の花が活けてある。味はどうだったんですか」
「鮎の塩焼きはうまかったな。いろいろ拘っとるようだったが、あとは憶えとらん」
「よくあるパターンの演出された懐石だったんでしょう。北村席がいちばんですね」
 菅野が、
「そうです!」
 美しい夕陽がアスファルトに反射しながら射してきた。
「おう!」
「ね」
 商店の看板で賑わう浄心に出た。西高が近い。ここから名古屋駅までタクシーは市電といっしょに走る。天神山、押切町、菊井通四丁目、菊井町、那古野町、名古屋駅前。
「車社会……か」
 市電に注ぐ私の視線を察して、若い運転手が、
「車が増えすぎちゃいましたものね。まだまだ増えます。市電は車に運行をじゃまされてノロノロ運転になったせいで、乗客が減っちゃって採算がとれなくなったんですよ。採算のとれなくなった路線から徐々に廃業に追いこまれていくわけです」
 菅野が、
「いずれ車があふれて、道路がパンク状態になるでしょう。そうなれば路面電車が見直されて、バス以上にスピード豊かな輸送力の高い交通機関として復活しますよ。百年もしないうちにね。私たちが生きているうちは復活劇は見られないだろうな」
 たとえ市電が復活しても、情緒と風情は復活しないだろうと思った。
 六時前に帰宅。夕食に間に合った。アイリス組も帰ってきている。主人が女将にさっそくハルギクの話をした。
「あそこはむかし一度、うちの芸妓がおえらいさんの誕生日に呼ばれていったことがあったがね。私もついてったわ。百五十年前の商家を移して造ったかなんか知らんけど、お香焚いた薄暗い部屋の金屏風の前で、謡ったり踊ったりさせられた。大女将とか女将とかおって、客も格式張っとって、ちょっと肩が凝る雰囲気やったわね。帰りぎわに、大女将が集めとる雛人形なんか見せられてな。あれから二度と呼ばれんかったからホッとした」
 菅野が、
「タクシーのお客さんの話だと、置屋からでなく、名妓連から芸妓さんを呼ぶことが多いらしいです。料理を食ってる途中でね。大女将が話好きで客に貼りついてるようで、たしかに肩が懲りますね」
 何の興味も湧かない別世界の話だった。入らなくてよかった。
 カズちゃんたちも食卓につき、千佳子も降りてきて、賑やかな食事になった。直人は食べることも忘れて、お絵描きの板をみんなに見せて回っていた。トモヨさんが捕まえ、いっしょにお絵描きしながら、うまくスプーンをくわえさせた。主人が、
「大洋初戦は平松でしょう。オープン戦でものすごく切れるシュートをマスターしたらしくて、今年は開幕試合の中継ぎで一勝を挙げてます。ストレートと同じ速さで、同じ球筋できて、右バッターの手もとにするどく切れこんでくるそうや」
 菅野が、
「初戦は神無月さんと対戦させないでしょう。自信をなくしちゃう。外へするどく曲がっていくなら、神無月さんは見逃しますよ。見逃せばボールでしょう。右打者にしたって、高木、木俣、一枝とシュート打ちが揃ってます。簡単には打ち取れません」
「ぼくはボールになるシュート以外は見逃しません。ホームベースの前で叩きます。わざわざボールにするようには投げないでしょうから、ぼくへのシュートはかならず内角に投げてきます。最終的に外角をえぐってストライクにするためです。とすると、曲がりはじめるのはホームベースの真ん中前方ですから、絶好球になります。右バッターも食いこまれる前にそれをやるはずです。初対面からはうまくいかないでしょうが、三打席以内にはかならずホームランにします」
 トモヨさんが直人を連れてカズちゃんたちといっしょに風呂へいく。
 主人に日刊スポーツ発行のプロ野球選手名鑑を借りる。大洋の項を開ける。
 監督別当薫、兵庫県出身、四十九歳、百八十センチ、七十五キロ。セパ両リーグ制開始の初年度に、パリーグ初の本塁打王(毎日オリオンズ・四十三本・昭和二十五年)、打点王(百五点・同年)、MVP(同年)、ベストナイン(同年)、日本シリーズ初のMVP(同年)、盗塁王(三十四個・同年)、プロ野球史上初の三割・三十本・三十盗塁(同年)。生涯本塁打数百五十五本、生涯打点五百四十九、生涯打率三割二厘。すごいやつだ。
 ピッチャー―島田源太郎、宮城県出身、二十九歳、百七十九センチ、八十三キロ、十年目。昭和三十五年、史上最年少の二十歳で完全試合。昨年度十四勝六敗、防御率二・八九。昨年最高勝率。
 高橋重行、千葉県出身、二十四歳、百八十三センチ、八十七キロ、八年目。十二勝十五敗、防御率三・七○。タイトルなし。
 森中千香良(ちから)、奈良県出身、二十九歳、百七十五センチ、七十四キロ、南海で九年、大洋で三年、合わせて十二年目。八勝十一敗、防御率三・四一。南海時代の昭和三十八年に最高勝率。
 池田重喜、大分県出身、二十二歳、百七十八センチ、七十四キロ、二年目。五勝五敗、防御率四・四八。ドラ四。タイトルなし。
 平松政次、岡山県出身、二十一歳、百七十六センチ、七十四キロ、三年目。五勝十二敗、防御率四・二八。ドラ二。タイトルなし。
 野手―松原誠、埼玉県出身、二十四歳、百八十四センチ、八十一キロ、八年目。タイトルなし。
 近藤昭仁、香川県出身、三十歳、百六十八センチ、六十五キロ、十年目。タイトルなし。
 伊藤勲、宮城県出身、二十六歳、百八十一センチ、八十キロ、九年目。タイトルなし。
 中塚政幸、香川県出身、二十三歳、百七十二センチ、八十キロ、二年目。タイトルなし。
 近藤和彦、大阪府出身、三十二歳、百七十九センチ、七十九キロ、十二年目。日本シリーズMVP(昭和三十五年)、盗塁王(昭和三十六年)、ベストナイン(三十五年から四十二年にかけて四十一年を除く七回)。
 重松省三、愛媛県出身、二十九歳、百六十六センチ、七十二キロ、八年目。ベストナイン(三十九年)。
 江尻亮、茨城県出身、二十五歳、百七十七センチ、八十キロ、五年目。タイトルなし。
 長期遠征前のひと夜、則武の自分の寝室で四肢を伸ばしてゆっくり眠った。
         †
 四月二十九日火曜日。朝から暖かく、風もない。うがい、軟便、シャワー、歯磨き。筋トレなし。
「北村のほうで朝ごはんにしましょ」
「うん」
 七時半、菅野と日赤までランニング。北村へ戻って二人でシャワー、洗髪。睦子がきている。
「おはようございます」
「おはよう。見送りにきてくれたんだね」
「はい」
 朝めしに栄養満点の料理が並ぶ。エノキダケの入ったふわふわスクランブル、ホウレンソウとベーコンの炒め物、ブリのアラの醤油煮、ホタテと白菜の煮物、キュウリとキャベツのポン酢漬け、じゃこ納豆、豚汁、めし。カズちゃんが、
「球場入りは?」
「三時から。三時半からバッティング練習」
「五月五日の誕生日は、名古屋に帰ってきてから、あらためてやりましょう。九日の夜」
 女将がうなずき、
「五月の九日には、塙さんも芸者を連れてお祝いにくると言っとったわ。カラオケ部屋までテーブルを通しますよ」
 ソテツが、
「二十歳になるんですね。私も十五日で十七になります。十七歳のこの胸に、ウフ」
 イネが、
「ワは成人式さいがねかったけんど、あれはどういうものなんだべ。いがねくてもいいのがな」
 トモヨさんが、
「市や町が毎年一月十五日に、それまでに二十歳になってる人を文化会館か何かに招待して、激励したり祝福したりする行事なのよ。いきたい人がいくだけでいいの。郷くんは来年まで待たなきゃいけないし、考えたこともなかったんじゃない?」
「うん。考えただけで面倒くさいね」
 キッコが、
「うちは、なんかうれしいな。もう二十歳なんかとっくに過ぎて、あした二十二歳になってまうけど」
「法的な大人になることに重いものを感じるからだよ。公の機関に祝ってもらうことにもね。キッコはあした誕生日か。四月三十日。覚えにくいな。カズちゃんにどっか連れてってもらえばいい」
「ええわ。いい大人が」
 ソテツが聞かぬふりで、
「あたし、振袖着ていきたい」
「振袖? おまえが?」
 主人が噴き出す。トモヨさんが、
「お義父さん、そんなこと言ったらかわいそうよ。ソテツちゃん、かわいらしいわ」
 カズちゃんが、
「このごろ少しマシになってきたわね。キッコちゃん、眉の剃り方教えてあげて。毛鋏の使い方もね。それじゃヤマアラシよ」
 女将が、
「振袖買ってあげるから、成人式にいっといで。まだ四年も先のことやけど」
 千佳子が私に、
「プロ野球選手の成人式って、球団がやってくれるんですか」
「さあ、聞いたことないなあ」
 主人が、
「週刊ベースボールでむかし読んだことがあるわ。高卒のなんていう選手やったかな、成人式にいきてゃあて監督に言ったら、プロになったくせに何が大人になる式だ、と一喝されたって。だれやったか忘れた」


         五十六

 女将が、
「あんた、ほれ、成人式の話」
「ん? ああ、神無月さんのな。杉戸名古屋市長が、来年の成人式に出てもらえないかって、球団に電話したってやつな。市の宣伝になる言って。本人が嫌がることはさせないのひとことで断ったらしい。このあいだ小山オーナーがここにいりゃあしたとき、チラッと聞いたな。マスコミ嫌いゆう話が出とったときやが。杉戸さんは東大出で、名古屋弁で通すローカル色の強い人でな、ええ人なんだがや。成人式というより神無月さんに会いたかったんやないか。何かの折に会うこともあるやろ」
 私は、
「成人式にはいきません。そうだ、五月九日の三時は、ミズノが契約にくるんですよね」
 睦子が、
「ミズノって、スポーツ用品のですか?」
 カズちゃんが、
「そう、アドバイザリー契約って言うらしいの。名前書いて判子捺すだけ。そういうのキョウちゃん苦手でしょうから、お父さんたちがそばについててあげてね」
「おう」
 千佳子が、
「なんですか、アドバイザリー契約って」
「私もよくわからないんだけど、キョウちゃんに会社の製品を使ってもらって、広告塔にしたいってことでしょ」
 私は、
「何を使ってもタダ。ミズノのジャージを着て、そのへんをランニングをするだけで五千万円。濡れ手で粟のぶったくりだ。われながらいやになる」
「宣伝効果抜群なんだから、ギブアンドテイクよ。キョウちゃんの口座に振り込まれることになってるから、好きなときに出して使ってちょうだい」
「振り込まれたら、お父さんかお母さんの口座に移しといて。ぼくのせいでいろいろ物入りだから。とんでもなくお金使わせてる」
 主人が、
「何をおっしゃるんですか、神無月さん。それはあかん。ワシはタニマチですよ。本末転倒だがね。飛島にいったとき、みんなの前で、これからはワシらを親と思ってくれと言ったでしょうが。一生甘えてくださいや。それがワシらの生甲斐なんですから」
 女将が、
「ほんとにそうやよ、神無月さん。あんたを息子のように思っとるんよ。私らに何かしてやろうとしたらあかんわ。それはぜったいあかん」
「わかりました。じゃ、カズちゃん、来月の九日までに義捐口座を一つ作って。そこにミズノの分を振り込ませることにしよう。この種の収入はぜんぶその口座に入れて。北村関係の商売の運転資金やら、子供の教育費やら、店の女の人の頼母子(たものし)やら、高校大学で勉強したい人の学費やら、細かいところを見つけて役立ててね。かならず」
「はいはい。デンソーの賞金三百万円に足して口座を作っておくわ。ポケットに十万円入っていればいいだけの人だから、余分なお金が煩わしいんでしょう。でもよかった、北村にもドラゴンズにも、お金を権力だと思うような人が周りにいなくて。そういう環境にいると、キョウちゃん逃げ出したくなっちゃうから」
 菅野が、
「カネカネカネの人間というのは、そういう環境から作られるんでしょうね」
 直人がスプーンを使いながら、不思議そうに一家の言葉に耳を傾けている。
「キョウちゃんだってそういう環境で作られたのよ。キョウちゃんはどんな環境でもこのままでしょうけど、できるだけ煩わしい環境にはいさせたくないわね。直人も、こういう環境に生まれてよかったわ」
 頭をなぜる。ソテツとイネのおさんどんで、みんなもりもり朝めしを食う。
「キッコはもうアイリスで働いてるの?」
「うん、見習いでね。もうカップ二つも割ってまった。美男美女揃いの喫茶店てゆうテーマで、女性セブンがきて写真撮ってったわ。うち写らんようにしとった。大阪の知り合いに見つかったら」
 私は、
「連れ戻されてしまうの?」
「見かぎられとるからそれはないんやけど、親に居どころが知れるのがいやなんよ」
 主人が、
「知れてもええがや。ちょっかい出してきたら、ちゃんと事情を説明して、ワシが親代わりをしとるということにするで」
「旦那さん、ありがと。うち、煩わしいこと大嫌いやし、もうどこにもいきたくないんよ」
 カズちゃんが、
「ビクビクしないでドッシリしてなさい。あなたらしくないわね。食べ物があって、好きな男がいたら、この世に怖いものなんかないでしょう?」
「うん、ほうやね」
 トモヨさんが直人に食事をさせ終わり、腰を上げる。
「保育所いってきます」
 菅野も立ち上がる。主人が、
「風邪、はやっとるらしいやないか。休ましたらどうや」
 園児服を着せながら、
「予防接種を受けたのでだいじょうぶです。お友だちと遊ぶのが大好きみたいで」
 カズちゃんが、
「そうよ、小さいうちはなるべく人の中に放りこんだほうがいいわ。人を好きになる子にならないと」
「基本ですものね」
「そ、人を避けてると、ひねくれた根性になっちゃう」
 菅野が直人の手を牽いていく。直人はもう一方の手で母親の手を求める。美しい生き物だ。睦子がやさしい目で見送る。カズちゃんが、
「ムッちゃん、ほしい?」
「いいえ。でも妊娠したら、産みます」
「私の分もお願いね」
「はい」
「頼むで!」
 主人が大きく声を上げた。
「じゃ、私たちも出かけるわよ。キョウちゃん、がんばっていってらっしゃい」
「うん」
 メイ子、百江、天童、丸、キッコ、素子と順に私の頬にキスをしていく。
 特殊眼鏡を忘れていないかダッフルの中身を確認する。江藤たちがやってきたので、ダッフルを担ぎ、スポーツバッグを提げた。スポーツバッグには、ワイシャツ三着、ブレザーのズボンが二着、運動靴が一足、それとお守りが入っている。主人と千佳子と睦子が駅まで見送りに出る。
         †
 新幹線の旅は退屈この上ないものだけれども、くっきり富士山が見えたときには息を呑んだ。名古屋駅を出てしばらく雑談をしたり、文庫本に目を落としたりしていた。静岡を過ぎてトンネルを何本か抜け、大きな川に架かる鉄橋を渡りかけたとたん、江藤が叫んだ。「金太郎さん、富士山!」
 雪の冠を戴いたコニーデ型の大きな山が目に飛びこんできた。太田と菱川も身を乗り出した。真っ青な空を背景に富士山が長大な裾野を広げていた。霊峰と言うにふさわしかった。一等席のほかの客たちは、何がめずらしいのかという面持ちで静かにしていた。富士が見えたのはきわめて短い時間だった。鉄橋を通過し終わると、防音壁や住宅街が間断なく視界に入ってきた。
「ひさしぶりに、あんなきれいな富士山を見たばい。よかことがあるぞ」
「何でしょうね」
 江藤は首をひねり、
「……思いつかんな。毎日よかことばっかりやけん」
 みんなで大声を上げて笑った。ソテツ弁当を開けて、箸を使いはじめる。
「うまかなあ。北村席の味は」
「ソテツの味です。料理名人なんですよ」
「あのチンチクリンの沖縄娘か。ええ嫁さんになるやろう。金太郎さんに気があるのは目に見えとるばってん、だれかに惚れてもらって家庭に収まるのがよか」
「ほんとにそう思います。あの子はグズグズ男にかまけるタイプじゃありません。成人式にも出たいというような平凡な子です」
「金太郎さんが結婚してしまえば、あきらめるやろうが」
 太田が、
「俺が女ならあきらめませんよ」
 うなずいている江藤に私は、
「北陸シリーズは疲れますか」
「それほどでもなかよ。死のロードゆうんは、夏場の阪神のことや」
 菱川が、
「高校野球のせいです。一カ月近くロードに出るんですよ。甲子園はもともと高校野球のために作られた球場ですからね」
「それなら二週間ですむんじゃありませんか?」
「高校野球用にグランドを作り直す準備が必要なんですよ。ファールゾーンにブルペンを作ったり、マウンドの土を入れ替えたり。大会が終わったら、それをもとどおりに戻さなくちゃいけません」
「なるほど、準備と復旧工事に日数がかかるわけですね」
「そのほかにも、長距離バスや在来線を使って移動するのが阪神球団の方針です。旅館も二、三人のスター選手以外は相部屋です。くたくたになりますよ。ああ、阪神でなくてよかった」
「阪神の八月失速は有名やけんな。しかし相部屋は仕方なかろうもん。ワシらもぼちぼち一人部屋をもらえるようになったんは今年からぞ。首位打者獲っても、相部屋やったけんな」
「スター選手五人は、この川崎から一人部屋になりましたよ。神無月さん、江藤さん、中さん、高木さん、小川さん」
「ずっとね?」
「はい、ずっとです。長谷川コーチが言ってました。コーチ待遇だそうです」
「北陸では女が別部屋で泊まります」
 私が言うとみんなの顔が明るくなり、
「和子さんか」
「素子です」
「ああ、素子さんか。ありゃお人形さんたい。目立つけんのう。水原さんが声かけるんやなかね」
「遇えばかけるでしょうね。でも水原監督は驚かないと思います」
 菱川が、
「北陸シリーズは、みんな夜の街へ出かけるんですよ。試合は二時半からなので、のんびりするんです」
「ワシャいかんぞ」
「わかってます。主力はみんな出かけませんよ。大騒ぎになりますから。主力じゃないですけど、俺も太田もいきません。いまは女より野球です。しかし、神無月さんは豪傑だな」
「自分でも驚いてます」
 明るい笑い声が上がった。太田が、
「江藤さん、ラーメンと焼肉は食いに出るでしょう?」
「出る。北陸のラーメンは、ほんなこつうまか」
 車中のだれも寄ってこない。彼らが寄ってくるのは、群衆にまぎれているときか、図々しい仲間がいるときだけだ。
 品川駅からタクシーに乗る。ニューオータニの従業員が列をなして迎える。玄関にたむろする報道陣がオープン戦のときより数倍に増えている。取り囲む雰囲気もオープン戦のころとまったくちがう。仕切り縄に足止めされたファンがカメラを手に何十人も群がり立っている。
 黒づくめの円柱帽がカートを牽きながら品よく歩き回る。先着している仲間たちがロビーのあちこちのテーブルについている。多少馴染んだホテルなので、目新しい見ものもなく、チェックインのサインをしたあと、三人と別れて五階の八号室に入った。江藤は八階の一号室、太田と菱川は相部屋で八階の七号室だった。
 二時五分前。ダッフルから取り出したユニフォームをベッドに延べ、ジャージ、グローブ、スパイク、タオル、帽子を取り出す。スポーツバッグの運動靴を確認する。届く予定のユニフォームは、二着のはずなのに一着しかきていない。あしたもう一着届くのにちがいない。スポーツバッグからワイシャツ一着を取り出す。新しいバット三本を確認。着てきたワイシャツとブレザーをハンガーに吊るし、ジャージを着る。持参した歯ブラシと歯磨き粉で歯を磨く。さっぱりする。枇杷酒でうがい。
 ダッフルに用具を詰め戻すと、ユニフォームをピチッと着こみ、スポーツバッグからお守りを取り出してユニフォームの尻ポケットに納め、運動靴を履く。帽子をかぶり、ダッフルを担ぎ、バットを二本提げてロビーに降りる。私が履いている運動靴は仲間たちのような黒っぽい洒落たものではない。白すぎるのは中学生のおニューみたいで恥ずかしいけれども、いずれ黒ずむ。
 トレーナーの池藤とランニングコーチの鏑木が、ロビーで水原監督と親しげに立ち話をしている。江藤たちがユニフォームを着て降りてきた。バスが大窓の外に見える。窓際に立つ。ガラスの向こうに人びとのざわめき。同じ光景。
 ―繰り返しは充実のもとだ。通勤も、畑仕事も、高架下の運搬作業も、机の書きものも同じだ。
「金太郎さん」
 田宮コーチが背中から声をかける。
「後ろ姿がほんとに少年だな。あんなすごいホームラン打つなんて信じられないよ。スポーツシューズって、つい履くの忘れてしまうよね。キャンプ以来、みんなで金太郎さんの様子を興味深く見てたんだよ。ときどき運動靴履くのを忘れて、ホテルのスリッパでフロントにきて、スリッパを預ける。ソックスのまま玄関まで歩いて、尻を落としてスパイク履いて―なんだか絵になってるから、だれも声をかけられなかったんだ。そのうち運動靴履くようになって、きょうはついに新品だね」
「はい、みなさんが履いてるような格好いい靴はどこで買うんですか」
「契約メーカーの提供品だよ。お、そろそろ出発だ。いこうか」


         五十七

 二十一・九度、かなり風がある。スポーツバッグやダッフルを担ぎ、一人ひとり玄関を出ていく。仕切り縄の向こうの人垣が狂ったように声を上げる。
「一枝さんよ、一枝」
「あれ広島のもとエースだろ、長谷川良平」
「もとエースで、もと監督だよ」
「だれ、あれ」
「太田」
 次々とバスに乗りこんでいく。選手たちはチラリとも人垣のほうを見ない。私は玄関を出たとたんに手を振った。
「キャー! 金太郎さーん!」
「天馬ァ!」
「神無月大明神!」
 江藤も手を振る。
「闘将エトウ!」
「今年は五十本いけ!」
 菱川、高木、中、島谷も手を振る。
「木俣ァ!」
「マサカリィ!」
 童顔に笑いを浮かべて手を振る。
「新宅だろ?」
「小川健太郎じゃん。ちっせえ」
「あれ、小野?」
「でっけえ!」
 足木マネージャー、葛城、池藤トレーナー、鏑木ランニングコーチ、伊藤竜、千原、徳武、ほかにも続々と出てきて、最後に、
「オオオ、水原ァ!」
 水原監督は帽子を取って応えた。二時半、バスが出発する。田宮コーチが、
「三時二十分過ぎに球場に着く。大洋のバッティング練習の最中だ。うちは四時から。あとはいつもどおり。六時試合開始。あしたは三時出発でいいな」
 川崎球場までは五十分から一時間かかる。ニューオータニからはいちばん遠い球場だ。きょうはカールトン半田コーチがメンバーを発表する。
「おめでと、きょうのメンバーさん。いちばん、センター中さん、にばん、セカンド高木さん、さんばん、ファーストえとさん、よばん、れふとかなづきさん、ごばん、キャチャー木俣さん、ろくばん、サード島谷さん、ななばん、ショート一枝さん、はちばん、ライト太田さん」
「えええ! ライト!」
 水原監督が、
「あしたは菱川くんがライトだ。二人には内外野のできるユーティリティプレイヤーになってもらわないと困る。ぎこちない守備をしたら、千原くん、江島くん、葛城くんに代える。サードも、まずい守備をしたら徳武くんに代える」
「きゅうばん、ピッチャー小川さん」
 長谷川コーチが、
「健ちゃん、きょうの大洋は森中か平松でくる。三点勝負だ。一点抑えの完投のつもりで」
「ほい!」
 私はさっそく江藤に話しかける。
「森中、十二年目。ベテランですね」
「おお。南海からおととしきたやつ。テスト生から這い上がった苦労人。大谷さんの放棄試合の張本人だ」
「大谷さんは没収試合をやったと聞いてますが、どういうことだったんですか?」
「おととしの甲子園の阪神戦でな、一回表、三点取って二死満塁、森中が空振り三振食らって、ベンチに帰りかけた」
「……はい」
「キャッチャーの和田がショートバウンドで捕球したばってんが、森中にタッチせんでボールをマウンドに転がして、そのままベンチに帰ってしもうた」
「タッチ?……」
「大谷さんはストラックアウトを宣告をせんかった。それで岩本コーチがランナーに回れ回れゆうて、走者一掃になった。阪神の藤本監督が怒って大谷さんを突き飛ばした。即退場。阪神側はどうしても納得せんゆうてグランドに出てこん。四十六分間。大谷さんは阪神の試合放棄と見なして試合没収。放棄試合は放棄したほうが零点、勝ったほうが九点と決まっとるけん、九対ゼロで大洋の勝ち。勝利投手、敗戦投手なし」
「ショートバウンドの三振はアウトじゃないんですか」
 木俣が、
「始まったな、天然金太郎さん。楽しいぜ。ショーバウンドの空振り三振は振り逃げができる条件になるから、打者にタッチするか、一塁に送球しないとアウトは成立しないんだ」
「へェ! いままでキャチャーがそんなことをするの見たことありませんでした」
 バスの中に笑いが拡がる。振り向いた水原監督もにやにやしている。
「じゃ、森中というピッチャーもファーストへ走ったんですか」
 長谷川コーチが、
「うん、ベンチに怒鳴られてな。森中も和田も、金太郎さんみたいにルールを知らなかったんだろうな。金太郎さんみたいな大物は能天気でもいいけど、小物は細かいことを知ってないといかん。スリーストライク目をキャッチャーが落球しても同じだぞ」
 私は木俣に、
「森中はピッチングのほうはどうなんですか」
「からだを目いっぱい使うオーバースロー。速球と落ちるカーブのコンビネーションしかない。ピッチャーのくせにスイッチヒッターだ。不細工な構えで、ぜんぜん打てない。まあ、安定した十勝弱のピッチャーというとこだな。ぶちかましちゃろ」
 森下コーチが、
「金太郎さんは、平松を打っとるやろ」
「はい、四打数三安打、二ホームラン、ショートゴロ一つ。江藤さんと木俣さんも一本ずつ打ってます」
 水原監督が、
「ライト照明灯の鉄桟に当てたのと、スコアボードに当てた二本だったね。平松がまったく口惜しそうでなかった。あれは完全な敗北宣言だ。先発はないんじゃないかな」
 三時二十五分をわずかに回って川崎球場到着。三月二十七日のオープン戦以来だ。黒山のような人だかり。平べったい二階建ての球場。外壁にシンプルに、川・崎・球・場。それだけ。宇野ヘッドコーチがバスの窓を見下ろしながら、
「金太郎さんのおかげで、今年のホエールズは十年ぶりに潤うな」
 バスを降りて関係者専用口に向かうまでのあいだに、オープン戦に倍するファンたちがまとわりついてくる。遠慮がちに手を振りほどこうとすると、やはり時田はじめ二人の組員が現れて道を開け、警備員たちと協力して入り口へ導く。
「北陸へもこの三人でまいりますのでご安心ください。きょうもご活躍を!」
「はい、いつもありがとうございます」
 組員バッジを外し、髪型も服装もまじめに整えているので、傍目にはまったく暴力団員に見えない。球場職員か何かに見える。警備員たちもそう思っているようだ。事情を知っている水原監督がそっと帽子を上げ、江藤や高木たちが頭を下げる。ひとりの孤独より静かに絡み合う友情がある。それこそが完璧な孤独だ。遠く近く私たちが築き上げてきた友情の記憶。世界は孤独な私たちを必要としている。それは仕方がない。しかし、孤独な者同志もおたがいが必要だ。私は彼らが必要だし、彼らも私が必要だ。彼らと歩く道や、遊ぶ場所や、暮らす家は、おたがい同士だけになれるささやかな砦なのだ。
 じめじめした回廊を通り、ロッカールームからベンチへ。廊下の奥の便所からほのかにアンモニアのにおいがただよってくる。ダッグアウトからグランドに昇る。箱庭。芝生のきらめきが目に刺さる。
 大洋チームがバッティング練習をしている。ひと月前に覚え切れなかった面々ばかりだ。オープン戦と同じメンバーはたぶん松原と江尻と近藤和彦と長田しかいない。太田の解説が必要だ。
「太田、頼む。予備知識」
「はい」
 きょうは尻ポケットから二つ折りの選手名鑑を取り出す。新聞を切り抜いたものだ。ホッチキスで留めてある。
「背番号35」
「林健造。右投げ右打ち。百七十六センチ、七十五キロ。八年目。二割あとさき。江夏殺し」
「背番号2の左バッター。コンパクトなスイングで中さんに似てるけど、からだが重そう。たぶん中塚だね」
「そうです、中塚政幸。左投げ左打ち。去年のドラ二。百七十二センチ、八十キロ。二割後半。強肩、俊足」
「背番号10、外人の左バッター」
「今年からきたスタン・ジョンソン。三十二歳。左投げ左打ち。百七十八センチ、八十二キロ。大リーグで八試合しか出てない落ちこぼれですね。一割打者。マイナーから日本にきました。これまで十四年間でホームラン一本しか打ってません」
「助っ人になってないな。背番号6の小さい人」
「重松省三。右投げ右打ち。百六十六センチ、七十二キロ。八年目。二割五分前後。小さな強打者と呼ばれてて、小柄だけどけっこうホームラン打ちます」
「北村で名鑑を見た。どうにか憶えてる。じゃ、大柄の背番号5」
「キャッチャー伊藤勲。右投げ右打ち。百八十一センチ、八十キロ。九年目。二割前後。長打力あり」
「彼も憶えてる」
「伊藤は遠征で活躍するので、ドサキングと呼ばれてます」
「大洋が優勝したのは昭和三十五年か。横浜から名古屋にきた次の年だな。桑田武を中心とするメガトン打線―なつかしいな。天秤打法の近藤和彦、王の二番手の本塁打王クレス、ポパイ長田幸雄」
「近藤和彦も長田もいますが、クレスはもういません。近鉄、阪神と渡り歩いて、去年引退しました。近藤和彦と長田には、もうすぐお目にかかれますよ」
「背番号58」
「日下(くさか)正勝。右投げ右打ち。百七十四センチ、八十キロ。八年目。一割後半。イースタンで二度ホームラン王を獲ってるんですが、一軍では一本です。左投手用の代打屋」
「背番号14」
「関根知雄(ともお)。右投げ右打ち。百七十二センチ、七十キロ。七年目。一割打者。見るべきものなし」
「なんだかきょうもKОしちゃいそうだなあ。平松以外にこれといったピッチャーもいないんだよね」
「そうなんです。三年目の山下律夫というのがいるだけです。ナックルピッチャー」
「無回転ボールか。ノーコンを運命づけられてるということだね。ナックルは左右に揺れすぎて、なかなかストライクが入らない。いずれにしても変化球は、初速がすべてだ。初速でストレートに見せかけられるほど、腕を強く振って最初の九メートルか十メートルまで真っすぐの軌道を保てるかどうかがポイントなんだ。ナックルにかぎらず、そういう条件を満たしてる変化球は打ちづらい」
 太田はうつむいてしばらく考え、
「神無月さんは、プロのピッチャーに対戦する前は、ただ速いだけのピッチャーか、カーブ、シュートを放るぐらいのピッチャーとしか対戦してこなかったんですよね」
「うん」
「そういうピッチャーを打てても、プロのピッチャーの変化球は打てないと踏んで、専門家のあいだでは前評判がそれほど高くなかった」
「そうだったの?」
「はい。大学野球で長かった長嶋ほどは騒がれませんでした。ところがプロのピッチャーと対戦するようになってもバンバン打つ。流れる変化球も、落ちる変化球も、浮き上がる速球も打つ。そして三振ゼロ。どうしてですか。もうだれも何も言わなくなりましたよ」
「どんなボールもホームベースに近づけたり、ホームベースから遠ざけたりしようとして投げてくる。そうしなければ、だれも振ってくれないからね。それなら、くる球は二種類しかない。ホームベースを通過するか、通過しないかだ」
「はい」
「変化しない球は、目の先四、五メートルで見切ることができる。見切ったら、素早くバットを振り出せばいい。問題は変化球だ。変化しはじめる点が遠ければ、そこからのスピードの落ち具合で終着点の見当がつく。打つのはそれほど難しくない。近ければ、変化した直後を狙うようにいつも工夫しなくちゃいけない。それがぼくの場合は足の位置なんだ。この数カ月を見てると、そういう工夫をするプロ野球人はほとんどいない。足場を掘って固定しようとする。あんなことされると、あとからバッターボックスに入るぼくの足もとが不安定になる。迷惑この上ない。ぼくはいつも平らに均してるんだ」
「……足の位置を瞬間的に工夫できるのは、プロ野球界で神無月さんだけです。だれもそんな能力は持ってません」
「だとすると、ぼくは恵まれたんだね。野球の神に選ばれたんだ。そう思うしかないよ」
「そのとおりです」
 江藤はじめレギュラーたちが、じっと聴き入っていた。江藤が、
「それは球が届くまでの話で、金太郎さんはその先にまだまだあるっちゃん。バットの振り出しの位置、手首の使い方、返し、押し、投げ出し、掬い上げ、レベルスイング、叩きつけ、キリがなか。本人も無意識やけん、とうてい学べん。太田もむかし言っとったやろう、神無月さんを学ぶことはできんて。ワシらは金太郎さんの野球に対する情熱と、鍛錬の魂を学べるだけや」


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