第三部


七章 進撃再開



         一

 五月六日火曜日。曇。八時起床。二十二・六度。ソファにジャージが畳んである。巨人との土日の三連戦を目睫(もくしょう)にして、そういうことをしたい気分で眠りに就いたようだ。どことなく室内が片づいている。私がやったことだ。幸運なことに正気でいる。いまのところ危うくない人生だ。
 うがい、軟便、シャワー、歯磨き、洗髪。あごと鼻の下に慎重に電気シェーバを当てる。フロントに電話して弁当を頼む。
サツキの朝食を終え、三々五々ロビー階のガーデンラウンジでたむろしてコーヒーを飲んでいると、お客さまでございます、とボーイが告げにきた。見ると、彼の背後に山口と林が立っている。二人の後ろに詩織と御池、東大ファンクラブの連中もいた。私は思わず立ち上がった。
「や、みんな、どうしたの。示し合わせてきたの」
 克己が、
「山口くんと上野マネージャーから連絡もらってね。プロ野球選手というものも見てみたくて」
 江藤たちはドッと笑い、
「見世物でなかぞ。山口さん、ひさしぶり。がんばっとるようやな」
「はい、どうにか」
 私は、
「やったじゃないか! きのうカズちゃんから電話もらった」
「なんだ、やっぱり話しちゃったのか。うん、快適な第一歩を踏み出した。大きなギターコンクールだったからな。これで、八月に胸を張ってイタリアにいける」
「精いっぱいやれよ」
「おまえが俺の人生の師匠だ。どんながんばりもおまえにかなわない。死にもの狂いでやるよ。きょう観にいくからな。ネット裏だ」
「あ、そうか。林の招待だったね。ときどきネット裏に手を振るよ」
 林と握手する。林は私の肩を叩き、
「迫力のある美男子になったな。俺の誇りだ。よく東大なんかにきてくれたよ。利用の仕方も知らないで」
「ちゃんと利用させてもらってるよ。お馬鹿さんに箔がついた」
「馬鹿が箔つけて大馬鹿野郎になったか?」
「当たり」
「神無月さん、おひさしぶりです」 
 私は進み出た御池ともしっかり握手し、もじもじしている詩織を抱き寄せた。
「みなさん、ぼくの大事な友人たちです」
 ニコニコ笑っている選手たちに一同を順繰り紹介した。江藤はじめ何人かは山口とはすでに北村席で顔見知りになっていたので、親しげに会釈を交わしてすまし、山口以外の連中とあらためてまじめな顔で握手をした。みんな生まれて初めて目の前にするプロ野球選手たちの手を緊張した面持ちで握った。高木が、
「金太郎さんの大事な友人だと思うと、緊張するね。みんな東大かい」
「ワシは日大です。御池と言います。こちらこそ緊張します。どうか神無月さんのこと末永くよろしくお願いします」
 御池が頭を下げると、あたりの選手たちが全員立ち上がって礼をした。白川がパチパチ写真を撮りまくっている。中がみんなの顔を眺め回しながら、
「金太郎さんと友だちになれて、人生ラッキーだったね。私たちもそうだ。こちらこそ末永く金太郎さんのことをよろしくお願いしますよ。宝石のような男だから、手にしっかり握って取り落とさないようにね」
 と言うと、みんな頬を赤らめてうなずいた。私は江藤たちに断り、訪問客一同を別のテーブルへいざなった。腰を下ろして向き合うと、克己が、
「日本中を巻きこむすごい活躍をしてるね。東大グランドに一瞬でもいてくれたことにみんなあらためて感謝してるよ。鈴下監督がよろしくと言ってた」
「眼鏡ありがとうと伝えといてください。とても役に立ってますって」
「わかった、伝えとく。いま俺、横浜国大でしっかりガクモンしてる。将来は高校教師になって、野球部の監督をするつもりだ」
「克己さんは熱血漢ですから、いい監督になれますよ」
「ありがとう」
「優勝祝賀会で、無礼な新聞記者に殴りかかろうとした横顔を忘れられません」
「あれは口惜しかったな。金太郎さんを囲む世界が、あんなやつらばかりじゃないことをきょうあらためて知った。この先もそうありつづけることを祈ってるよ」
「だいじょうぶです、護りが手厚いですから」
 江藤たちを振り返って言った。横平、中介、大桐がなつかしさとあこがれの入り混じった顔で私を見つめる。横平が、
「東大野球部はたった一年で優勝にまで登り詰め、今年みごとに玉砕してしまったけど、神無月郷の足跡は東大グランドに永遠に残ってる。俺たちの胸にも」
 大桐がうなずき、
「いまでも夢に見るんだ。泣きたくなる」
 中介が、
「いや、夢だったんだよ。きょう観にいくプロ野球のスター選手が、東大グランドにいたなんて、夢以外の何ものでもないだろ」
「大桐さんと中介さんは、会社サボってきてくれたんですね。こんな朝っぱらから」
「ファンクラブの予定の一環だ。会社より重要だよ」
 詩織が、
「この春の東大野球部は、まだ一勝もできてませんけど、黒屋さんと二人でしっかりお世話してます。どこからかまた神無月郷が降りてくるなんてことは夢見てません。とにかく一勝を挙げるよう、みんなで努力してます」
 山口が、
「おトキさんは、ホテルニューオータニなんて自分には場ちがいだから、後楽園に直接いくってさ。菊田さんと福田さんは、たっぷりスケジュールが空いたときでいいから、吉祥寺に逢いにきてくれって。二人とも元気だよ。きょうもおトキさんと合流して、観戦することになってる」
 私は林に、
「後楽園のあとは、一年間渡米だろ?」
「やめた。外人なんてわがままで無計画だからさ。うまくプロモートされてないドサ周りは地獄だ。グリーンハウスにやってくる欧米の外人たちとセッションしてるだけで、じゅうぶん勉強になる」
 事情もわからないままに克己たちはニコニコ笑っている。写真を撮りまくっていた白川が腰を下ろし、
「村迫さんから三月に、ファンクラブ支援金が百万円届いた。百万だぜ! 金太郎さんの力を思い知ったよ」
「ぼくは何もしてません。村迫さんの胸先でしょう」
 林が、
「俺、新しいバンド立ち上げたよ。歌を聴きにくるファンたちの中から腕のいいのが集まった。グリーンハウスで週三やらしてもらってる。評判よくてさ、三つもレコード会社がきた。中退しなくちゃいけなくなるからって断ってる。博報堂にいってからでもいい、サラリーマンバンドは受けるはずだってしつこくてね」
「デビューすべきだよ。時代を作るつもりでやるべきだ。作曲できるんだろ」
「できる。編曲は山ちゃんの手を借りなくちゃいけないけど」
 山口が、
「東京にいるあいだは手伝うよ」
「いずれ名古屋にも出かけていく。神無月のユートピアも見てみたいしな」
 白川が、
「鈴下さんからも連絡いったと思うけど、生協食堂に取り外し不可という条件で、おまえの引き伸ばし写真を壁に展示してある。部室にも壁に埋めこみ式で貼ってある。写真は適宜付け足す。東大に遊びにきたときは見てくれ」
「わかりました。チャンスがありしだい見にいきます」
 大桐がパッと右手を挙げたので、私は、
「わかってます。サイン会ですね。十一月下旬から一月中旬のあいだで、連絡をくだされば日程を考えます。中介さんのマツダ自動車のコマーシャルの件もそのあいだに」
 中介が顔をほころばせて、
「サンキュー! その企画、社内のだれも信じてくれないんだよ。いくらもと同僚だからといって、あの神無月郷がきてくれるわけないって。ああ、これで俺も面目が立った」
 山口が、
「五千万は出さなくちゃいけないでしょう」
「いや、最低、その倍だな」
「ヒェー!」
 江藤たちが笑いながらこちらのテーブルを見た。御池が、
「松尾さんたちは外野で応援するそうです」
「レフトかな」
「ホームランボールを狙うち言うとりましたけん、ライトやと思います。場外やったらあきらめるしかなかて」
 林が、
「グリーンハウスにもきてくれよ」
「ああ、かならず。どんなに忙しくても暇は見つかる」
 山口が、
「さ、いったん家に帰って、それからナイター観戦に出かけよう」
 みんな明るい顔で立ち上がった。江藤たちに礼をする。私は彼らを玄関まで送っていき、一人ひとりと握手をし、最後に詩織をもう一度抱き締めた。
         †
 三時四十五分後楽園球場着。ニューオータニから五キロ程度の距離なので、信号待ちを入れても十五分もかからない。三塁側内野スタンドの外、関係者専用駐車場で降りる。気温二十五・一度。後楽園球場の外にはほとんど緑がない。ポツリポツリ庭木のように植えられている低木の葉が風に揺れている。
 地下室のようなロッカールームから傾斜のきつい階段を昇ってベンチへ。巨人のバッティング練習を少し見ることができた。横幅のある四車輪のバッティングケージが一つ。ケージのそばに川上監督がボーッと立っている。
 幼いころの印象とちがって、華麗に見えていた長嶋は無意味に派手に、謹直に見えていた王は度を増して謹直に、無頓着に見えていた国松は芯のある誠実なスラッガーに感じられた。高田と柴田はダイナミックさに欠け、末次は平凡、黒江や土井はサラリーマンふうで小ぢんまり、森は冷静を気取っている策謀家。バッティング練習の立ち居から、それだけのことを感じ取った。三脚のテレビカメラを向けられたり、マイクを突き出されたりしている選手もチラホラいる。
 内外野ともミッシリ満員になった。ケージの後ろに報道陣やら巨人軍の選手やらが集まってきたので、バッティング練習は三本ですます。門岡のストレートを右、左、バックスクリーンとライナーで打ちこむ。
「ヒェー、すごいねェ!」
 という長嶋の甲高い声が耳に残った。
 グローブを持って外野へいく。打球に注意しながら、三種の神器とダッシュに精を出す。ときどき飛んでくる打球を拾ってファールグランドへ返す。
 ラバーフェンスに沿って歩きながら、もう一度、後楽園に関する知識の復習をする。両翼実測八十七メートル八十センチ、中堅百二十メートル八十センチ、左右中間百十メートル十センチ、フェンスの高さ二メートル十センチ、両翼のヘラの高さ四メートル七十センチ。内外野ともに天然芝。走路、ダイヤモンドの外の内野守備ゾーン、マウンド、ホームベースの周囲、それからファールグランドの一部が土になっている。ベンチの屋根の高さはふつうの選手の背丈ほど。
 一塁内野スタンド奥に大丸の大ネオン、三塁内野スタンド奥に日立の大ネオン。二人用のブルペンは各々大ネオンの下方にある。コーチャーズボックスあたりまでの内野スタンドは二層、そこから外野スタンドを含むすべてのスタンドが一層だ。
 バックスクリーンの手前にホームラン噴水がある。先回ホームランを打ったときは下を向いて走っていたので、噴水が上がったのに気づかなかった。百四十メートルも飛ばせば両翼の場外に飛び出し、百六十メートル飛ばせばスコアボードの得点板に当たる。スコアボードを越えるには二百メートル近く飛ばさなければならない。外野フェンスの少し奥に一メートルほどの金網が張られているので、実質フェンスの高さは三メートル以上になるが、金網に当たるとホームランということになっている。内野席はすべて彩り豊かなプラスチック椅子だ。これが好きではない。
 ネット裏最上段の記者席はひどく長い。特等席らしく屋根がついている。すでにワイシャツ姿の記者たちが十人と言わず陣取っている。山口たちを探すが、すし詰めに人が埋まっているのでどこにいるのかわからない。
 巨人の守備練習が始まった。レフトポール脇のファールグランドに退避してベンチへ戻る。
「三万九千?」
「日本シリーズ並の入りだね」
 審判三人が柔軟体操をしながら三塁ブルペンのあたりで談笑している。山本、筒井、福井の三人。筒井はベテランだ。ライトの三塁送球が逸れて飛んできたボールを跳ね上がってよける。
 ロッカールームで仲間たちとニューオータニの弁当を食う。一枝が、
「長嶋と王以外は、なんだかツンケンしてやがるな」
 江藤が、
「森と黒江やろう。川上のご機嫌取りっちゃ。気にしなしゃんな」
 菱川が、
「何かあったら、俺いきますよ」
「いかんでよか。ワシがいくけん」
 葛城と徳武が、
「俺たちもいくよ」
 十分で食い終えてベンチへ。


         二

 場内アナウンス。
「中日ドラゴンズの守備練習でございます」
 守備位置に走ってつく。二本セカンドへまじめに返して、左中間へ球拾いに退避。曇り空。中としゃべる。
「後楽園のウグイス嬢、下通さんと比べて味のないしゃべり方をしますね」
「もう二十年以上やってるベテランだ。務台鶴(むたいつる)さんといってね、昭和二十三年からやってるらしい。三塁側のネクストバッターズサークルから見たことがある。眼鏡をかけた、スッとした美人だった。下通嬢よりきれいだぜ。人間的な魅力は下通嬢に軍配が上がるな」
 肉体より心の近くで見守る、と言った女の心を思いやる。彼女はそんな俚諺じみた思いを伝えたかったのではないはずだ。恋の空想は肉体を超えて羽ばたくということにちがいない。彼女は、恋したことがないより、恋して失うほうが幸福だなど安直な訣別を告げたのではない。未来の恋に希望を託す空想のほうが、自分にとって意味があると告げたのだ。彼女の空想の仲間入りをしなければならない。
 メンバー表が交換される。両軍のピッチャーがブルペンに出て投球練習を始める。巨人ブルペンはサイドスローの若生忠男と、オーバースローの田中章、中日のブルペンは小野と伊藤久敏。
 スタメン発表。務台ウグイス嬢の声を聞く。
「ただいまより巨人対中日三回戦を開始いたします。先攻の中日ドラゴンズ、一番センター中、センター中、背番号3、二番セカンド高木、セカンド高木、背番号1、三番ファースト江藤、ファースト江藤、背番号9、四番レフト神無月、レフト神無月、背番号8」
 あまりにも喚声が大きいので、務台嬢はアナウンスの間を置いた。
「……五番キャッチャー木俣、キャッチャー木俣、背番号23、六番ライト菱川、ライト菱川、背番号10、七番サード太田、サード太田、背番号40、八番ショート一枝、ショート一枝、背番号2、九番ピッチャー小野、ピッチャー小野、背番号18。つづきまして後攻の読売りジャイアンツは、一番レフト高田、レフト高田、背番号8、二番ショート黒江、ショート黒江、背番号5、三番ファースト王、ファースト王、背番号1……」
 大歓声。大拍手。
「四番サード長嶋、サード長嶋、背番号3」
 王に輪をかけた大歓声と拍手。日本人全体の大歓声と拍手。
「五番センター柴田、センター柴田、背番号12」
 昭和三十六年、この男が甲子園で尾崎と投げ合った試合を鮮明に覚えている。尾崎の猛速球に比べて柴田のボールは止まって見えた。その尾崎は来年にも引退と囁かれ、柴田は中堅打者として最盛期を迎えている。柴田がオープン戦で初めて登板したとき、惨めなほど打ちこまれたのを偶然飯場のテレビで観た。彼はその場で王や太田のように投手の能力を見かぎられ、バッターに転身した。尾崎は剛速球ピッチャーとして燃え尽き、転身した柴田は中堅バッターとして成功するという顛末を、よくあるパターンとして人は何の疑いもなく受け入れる。私は……散華した尾崎が哀れで、どうしても心の整理がつかない。
「六番ライト末次、ライト末次、背番号38、七番キャッチャー森、キャッチャー森、背番号27」
 森昌彦。この男も、中と同様、名門受験校から東大へいく予定だったという話をよく聞く。実家の傾いた商売を助けるためにプロ野球のテストを受けたのだと。そんなデタラメな話をいったいだれが信じるだろう。傾いた商家が彼の微々たる契約金ぐらいで盛り返せるはずがないし、東大で学ぶことには金がかからないから傾いた家計でもじゅうぶん支援できる。進学をあきらめる理由にはならない。いずれにせよ、東大受験生がふらりとプロテストを受けにいって合格するはずがない。まんいちそれが事実としても、何より森という男が自分の人生をどうしたかったが問題だ。学びたかったのか、家を助けたかったのか、野球をしたかったのか。人生歴を糊塗してまで彼はその問題を曖昧にする。
 中は東大など受かる力はなかったと率直に頭を掻いた。森はまちがいなく受かっただろうと吹聴している。そのビッグマウスのせいで彼は切れ者として球界を跋扈している。東大の力は恐ろしい。私は切れ者だと一度も言われたことはない。切れ者でないからだ。新治も井手も切れ者と言われたことはない。切れ者でないからだ。実際に東大を経験したことがない者が誇大な自己宣伝をすると、切れ者と言われる。よくわからない仕組みだ。この世に切れ者などめったにいない。切れ者とは策略家のことではなく、根本的に頭のいい人間のことだ。そういう人間はたぶん、この世の脇道をひっそり役立たずな者として歩いている。表に立たないので、そんなやつはめったに見かけないということになる。
「八番ピッチャー若生、ピッチャー若生、背番号28、九番セカンド土井、セカンド土井、背番号6」
 ピッチャーが八番。こういうところにもてらいが垣間見えて苛立つ。なるほど九番を一番につなげるためかと野球を生齧りした者はうなずいてしまう。何が一番につなげるだろう。ピッチャーはだれよりも体力を使う。打席数を減らしてやるのがあたりまえだ。そのうえ、五、六、七番はランナーで出る確率が高い。八番はその連続性を絶やさない重要な役割を担う。八番にピッチャーを置き九番に中堅打者を置いて、たとえばツーアウトランナーありのチャンスで八番のピッチャーが凡退し、そのせいで九番にチャンスの打席が回らなかったら、九番の打席は次回に持ち越され、一から出直しということになる。出直しがうまくいって、一、二番につなげることができたからといって、一、二番がチャンスを広げてくれるとはかぎらない。つまりつなぎよりも、連続性を断ち切らない見こみの高さが大切なのだ。九番で断ち切れることはがんらい計算に入っている。ピッチャー交代に合わせて、一番につなげる代打も使いやすい。八番ピッチャーではあまりにも責任が重いし、その責任だけで余分な疲労をしてしまう。
「アンパイアは、球審筒井、塁審一塁鈴木、二塁山本、三塁竹元、線審レフト中田、ライト福井、以上でございます」
 若生がマウンドに登った。長谷川コーチが、
「十四年勤めた西鉄から今年巨人にやってきた。あたりまえだが、中日の若生和也とは縁もゆかりもない。阪神の若生とも関係ない。若生だらけで頭がこんぐらかるだろ」
「はい。阪神のデンスケは忘れません。やられてますから」
 若生忠男、三十二歳。昭和三十年に西鉄に入団、十四年間で百二勝を挙げ、ノーヒットノーラン一回、防御率二・八一。グルッと真後ろを向いてから投げる奇妙なフォームが特徴だ。球種はストンと落ちるカーブと、あまり曲がらないシュート。コントロールはいいのか悪いのかわからない。真ん中ばかりにくるからだ。
「あれ、ロカビリー投法って呼ばれてるんだよ」
 私は眼鏡を装着して見つめた。
「なるほど、プレスリーの振り付けに似てますね。ボールだけ見ていれば問題ないです。城之内にはやられましたけど」
 長谷川コーチはうなずき、
「しっかり征服したもんな」
「はい、どうにか」
 水原監督がコーチャーズボックスへ歩いていく。小野が一人でブルペンにゆっくり出る。中がバッターボックスに入る。筒井のプレイボールの声が上がる。球場内の人声に圧力が増す。宇野ヘッドコーチが、
「筒井さんの左手は親指しかないんだ。兵隊さん時代に手榴弾でやられてな。川上大下の前に巨人の四番を打った人だ。ホームランも打たず、打率も低い中距離打者が四番というのもへんなもんだが、松商時代からチャンスに強くて打点が多かった」
 古風な武士顔を思い浮かべる。白手袋をしているので、これまで何度か対面しているのに、指のないことには気づかなかった。
「死を思うほどの絶望から立ち直ったんですね。審判員として……」
 肝心なのは絶望や後悔よりも、生き延びるためにすがる藁だ。
 ―右投げに替えようとしなかったら、私は! 
 中が打席に入る。中にロカビリーは効かない。
「さ、利ちゃん!」
「シュートからくるよ!」
 初球をグシュッと打つ。バットの先っぽ。たぶん曲がりの悪いシュートだ。レフト線へ一直線に飛んでいく。ふつうの走法で悠々セカンドへ。喚声の中からかすかにラジオアナウンサーの滑らかな早口声が聞こえてくる。記者席のさらに上に、ずらりと局名を書いたブースが連なっている。文化放送、日本短波放送、ニッポン放送、TBS……。それぞれに三人ぐらいの顔が見える。
 二番打者高木の構えが決まる。初球、内角ものすごく低いシュート。コンパスを回すようにハシッと掬い上げる。三塁ベースの真上を速いライナーが抜けていく。長嶋が一歩も動けなかった。
「……若生低目を打たせて……サード……これがフェアです! 中、勇躍ホームイン、ドラゴンズ先制!……そして打った高木もセカンドに達しました!」
 せせらぎのようにアナウンサーの声が流れてくる。見上げてもどのブースかわからない。中は次打者の江藤とタッチしてベンチに駆け戻ってきた。
「中さん、ナイス、バティング!」
 半田コーチの祝福。
「サンキュー!」
 一対ゼロ。江藤の背中を見つめながらバッターズサークルへ向かう。江藤、初球、するどく外角へ落ちるカーブをつんのめって空振り。ずれたヘルメットを直す。江藤と目が合う。たがいにニヤリとする。少しボックスの前に出た。もう一球こいという意味だ。一枝の太い声。
「慎ちゃん、いったれ!」
 若生クルリ、ロカビリー、カーブ。ガツンとバットをぶっつける。ギュンとセカンドのはるか頭上を越えていく。江藤や菱川の打球が伸びる右中間だ。
「いった!」
 あっという間に中段に突き刺さった。バンザイの形で手を叩きながら一塁を回る。バックスクリーンを背に噴水が上がる。水原監督とタッチ、尻をパーン。江藤は手荒い出迎えを手振りで拒み、仲間たちと順々にタッチ。何号ホームランかをアナウンスしないのを訝しむ。私とタッチ。三対ゼロ。
「十四号ですよ!」
「わかっとりまーす。アベックいこう!」
「はい! 出れば今シーズン十二回目です」
「そんなにか。打ったれ!」
「はい!」
 三塁側内外野スタンドに怒号が湧き起こる。サードの長嶋が守備位置で、幼いころ目に焼きつけた動きをしている。唾を吐き、足もとをスパイクで均す。王は盛んに左こぶしにつばを吹きこむ。深い守備の内野全員低く腰を下ろす。ロカビリー初球、ストレート、いや、カーブ。外角へストンと落とす。見逃す。ストライク。たしかにベースをかすっている。ロカビリー二球目、ストレート、いや、外角へシュートを落とす。曲がらない。ボール。森が何かぶつくさ言っているが聞き取れない。キャッチャーマスクを見下ろすと、
「三日天下」
 とハッキリ言った。私は、
「三日もくれますか、ありがとう。まだ一日も天下を取ったことがないんですよ。天下に興味がないもので」
 と返した。三球目、森が要求したのだろう、ストレートが顔に向かってきた。しゃがみこんでよける。頭上を通過した。江藤がベンチから、
「ぶつけるなら、しっかりぶつけんかい! へろへろ球で何やっとんじゃい!」
 と怒鳴った。田宮コーチが、
「金太郎さん、ガツンといったれ!」
 四球目、高目のカーブがあごに向かって曲がってきた。からだを回転させてよける。水原監督がコーチャーズボックスを走り出ようとした。筒井が両手を挙げてタイムをかけ、マウンドに駆け寄り、ピッチャーに何か警告を与えた。一塁ベンチの川上監督を手招きしてマウンドに呼びつける。ガニ股でのしのし面倒くさそうにやってきた男に、筒井はひとことふたこと言った。次に危険球を投げた場合は、ピッチャーを退場させるという警告だ。川上はからだを斜にしたまま不貞腐れたふうにうなずき、すぐ引き返した。反省したような新聞記事は嘘っぱちだったとわかる。
「プレイ!」
「お仲間たち、くだらないことで大騒ぎしてるな。おまえ国宝かい」
 森が小声で言った。私はバットをポトリと落とし、森を睨み下ろすと、眼鏡をしっかりかけ直した。
「喧嘩を売ってるのなら、この打席が終わったら買ってやる。いまは気が散るから黙ってろ!」
 森も筒井球審も凍りついたように身動きを止めた。私はバットを拾い上げ、ゆっくり構えに入った。五球目、外角低目へおとなしいストレートの軌道でシュートがきた。内角のビーンボールまがいは、やっぱり外へ逃げる伏線だった。あの程度の脅し球で腰が引けると思ったら大まちがいだ。中にも高木にも狙われた変化球で勝負しようなどとは甘すぎる。踏みこみ、思い切り叩き上げる。喚声が噴水のように上がった。江藤の打球よりも低いライナーでライト上空へ急激に上昇していき、右中間の照明塔のブリヂストンの看板に打ち当たった。
「はい、三十六チョウあがり!」
 十二回目のアベックホームラン。長谷川コーチとタッチ。バックスクリーンの噴水を爽やかな気持ちで見つめながら二塁を回る。王も土井も黒江も長嶋も目に入れず、足早に回る。長嶋の声がかかった。
「グッ、ジョッブ」
 応えず水原監督と笑顔でタッチ。
「よくがまんした! 立派だったよ」
「みんながいたからです。監督もよくがまんしてくれました」
 ホームを踏むと、江藤が両手を拡げて抱き取り、
「ベンチに聞こえたばい。金太郎さんには何もさせん。いざというときはワシらにまかしとけばよか」
 ベンチのみんなと順にタッチしていく。葛城が、
「さすがの迫力だった。張本以上だ。血が騒いだ」
 森下コーチが、
「ホームランより感動したで」
 半田コーチが、
「バット、ポトッて落としたとき、怖かったヨー」
 菱川が、
「やるときは、選手生命懸けて俺がやります」
 高木が、
「森も川上もシュンとしてるぜ」
 徳武が半田コーチからバヤリースを受け取って私に差し出し、
「あの怒りがぼくにもほしい。気の長さがプロとして命取りになった」
 太田が、
「神無月さんはとんでもない怒りん坊ですよ。みんな知らないからナメてるんだ。冗談じゃないっすよ。暴れたらどうなるか。球界追放ぐらいやっちゃいますよ」
 太田コーチが、
「それより、最悪、ビーンボールで金太郎さんが死んだら国が揺らぐよ。巨人とか読売とか言ってられなくなる」


         三

 一回ノーアウト、四対ゼロ。すでに交代のピッチャーがオープンカーに乗ってマウンドに近づいてきている。小柄な童顔の痩せ男がマウンドで投球練習を始める。本格派の田中章だ。二度目の対戦になる。スリークォーター気味のオーバースローで全力投球する。からだの沈め方が西鉄の池永に似ている。百三十キロチョイ。宇野ヘッドコーチが、
「高校と社会人でノーヒットノーランをやってる。百七十そこそこの上背だが、いい手首してるんだ。球種は少ないけど、コントロールは抜群だ。回転の利いたストレートが伸びてくる。手こずるぞ」
「はい、ぼくも先回はファーストフライに打ち取られてます」
 試合再開。
 手こずるなどという生やさしいものではなかった。七回表まで打者二十一人、走者なくノーヒットに抑えられた。微妙に変化してくるストレート、曲がりの小さいカーブ、スライダー、シュート。ボール四分の一の変化できりきり舞い。三振を喫したのは江藤と一枝の二人だけだったが、あとは全員凡打に打ち取られた。私は三打席立って、セカンドゴロ、ライトフライ、センターフライだった。その間に巨人は着々と得点を挙げ、一回の裏に小野から王が四号ツーラン、三回裏に小野に代わった水谷寿から森が二号ソロ、七回裏に水谷に代わった板東から長嶋が二号スリーランを打って四対六と逆転した。板東に代わった伊藤久がどうにか後続を抑えた。
 八回表、五番木俣から反撃開始。三振を取れるスピードボールのないことが田中の弱みだ。私の凡打はすべて、ほんの少しふところへ食いこんでくるスライダーを打ち損なったものだったが、最後のセンターフライでタイミングと振り出しの感触はつかめていた。カーブとシュートはいい当たりのファールを飛ばしていたので、投げてこないはずだ。ほかの者たちも自分なりの感触をつかんだろう。木俣初球。外角低目スライダー。
「ボール、ロー!」
 木俣は三打席ともシュートを打ちにいってやられている。私のスライダー狙いと同じ気持ちなら、今度もしつこくシュートを狙いにいくはずだ。二球目、外角カーブ、ストライク。三球目、外角ストレート、ストライク。ツーワン。木俣は右手を挙げてバッターボックスを外し、一度ブンと素振りをした。ふたたびボックスに入り、バットを立てて上下動させる。四球目、内角高目のストレート、ボール。ツーツー。次はまちがいなく、内角低目のシュート一本。打ち取るならそこしかない。
 田中章は形よく振りかぶり、小柄なからだをしならせて腕を横ざまに振り下ろした。「ん?」
 低目にこない。内角高目のシュート。田中の鉄壁の配球が崩れた。投げ損ないは餌食になる。木俣はからだを開き、大根切りでひっぱたいた。
「アー!」
 と声を上げて田中はレフトを振り返った。弾丸ライナーがボール下のヘラにぶち当たって撥ね返る。高田がみごとにクッションボールを処理して二塁へ素早い送球をした。肩がかなりいいと初めてわかった。木俣、一塁ストップ。こうなると、気の弱そうな田中はほぼ終了だ。それがわかっていないのか、わかって見捨てているのか、森は田中に声をかけにもいかずに知らんぷりをしている。
 菱川がバッターボックスに入る。彼の場合、凡打とは言いながら、前の打席でライトへ強いライナーを打ち返している。今度は少しオープンに構えた。長嶋が悟ってベースぎわに寄った。菱川が狙っているのはそこではない。オープンからクローズドに踏みこんで、もう一度ライト方向へ打ち返すことだ。菱川のスタンスを見て、田中はやはり初球を外角へ放ってきた。カウントを取りにいくストレートだ。菱川スムーズな摺り足で踏みこみ、強振。ファーストベースの前で低くバウンドし、王が逆シングルで差し出したミットの下を目にも留まらぬスピードで通り抜けた。ファールゾーンへ打球が滑っていく。末次がスライディングして抑えようとしたけれども間に合わない。センターの柴田があわててカバーに走る。木俣ホームイン。菱川は一挙に三塁へ。激しい足からのスライディングに長嶋が跳び上がった。ようやく返ってきたボールを空しく捕球する。五対六。
 森がマウンドへ走った。ひとこと言い、すぐにホームベースに駆け戻ってくる。ノーアウト三塁。森が立ち上がった。太田を敬遠! 臆病な作戦だが、理屈には合っている。一塁、三塁にして、次の一枝をゲッツーに打ち取って一点だけに抑えるつもりだ。それで同点、ツーアウトランナーなしになる。ピッチャーの小野が八番に入っていたら太田を敬遠しなかった。黙って見逃し三振でもされたら、ワンアウトしか取れずにランナーが残る。かくも八番バーターは重要なのだ。田宮コーチが、
「キンタマあんのか! 修ちゃん、一発いったれ。ゲッツー食らったらシバクぞ!」
「オス!」
 ほんとうに一発いってしまった。カーブ、カーブのツーボールから、三球目の低目のシュートを掬い上げて、レフト中段へ高々と第三号スリーランを打ちこんだのだ。たちまち八対六と逆転。一枝への〈もてなし〉は手荒かった。のしかかられ、ひっぱたかれ、蹴飛ばされる。一枝はへろへろになってベンチに逃げ戻ってきた。
「カールトンコーチ、バヤリース!」
「はーい! 特別サービスで甘いのあげるね」
 ベンチが笑いに満たされる。伊藤久、バットを振らずに三振して、八、九回のスタミナを温存した。初勝利がかかっているから当然だ。田中章は四点取られて、ガックリうなだれながら降板した。高橋一三に交代。真上から投げ下ろす好きなピッチャーだ。フォロースルーのとき、顔が地面にくっつくほど上体が折れ曲がる。ストレートとカーブしか投げない。カーブのコントロールが悪いので、ストレートが八割。百五十キロは出ている。すがすがしい力投型だ。球質はひどく軽い。チョンと合わせて芯を食わせれば不思議なくらい飛んでいくイメージがある。
 ワンアウト、ランナーなし。中、外角カーブをしっかり流し打って、レフト前ヒット。高木、外角高目のストレートを振って三振。江藤ワンスリーから内角低目のカーブをよく見て、フォアボール。ツーアウト一、二塁。三塁側の喚声が大音量になる。
「神無月ィ!」
「大明神!」
「金太郎さん!」
「ホームラン!」
 ひさしぶりに半田コーチの、
「ビッグイニング!」
 の声がベンチの空気をふるわせた。高橋一三が肩を怒らせてボールをしごく。王が寄っていって声をかける。実際のところあと三点取っても危ない。きょうは王と長嶋が当たっている。だから何が何でも三点を取っておかなくてはならない。たとえツースリーまで粘ってもフォアボールでは出ない。ホームランを打つ。
 初球、山なりのカーブ。外角に外れてボール。彼のコンビネーションは直球とカーブしかない。だから次は直球。バットが届く範囲の高目なら軽く合わせる。低めなら腰を入れて掬い上げる。二球目、あごの高さの直球。ボール。三球目、打たないと決めている外角へ逃げていくカーブ、いっぱいにストライク。
「ストー、ライ!」
 筒井の裂帛(れっぱく)のコールだ。森はもう何も言わない。次は直球。あごの高さでも打つ。球場が期待に静まり返った。ベンチも静まった。四球目、内角低目の猛速球。負けないスピードでバットを繰り出す。しっかり食った。
 ―よし、場外。
 ドッと歓声が爆発する。小さな長谷川コーチがライトスタンドを見やって何度もジャンプした。王も見ている。白い直線がすばらしい角度でカクテル光線の反映を突き抜け、看板の上空の闇へ消えていった。三十七号スリーラン。長谷川コーチは振り向いて手を差し出し、一瞬固く握手すると、一塁ベースを回る私の背中をパーンと叩いた。土井は芝と土の仕切りに遠く離れて私を眺めていた。彼の背後に噴水が見えた。Home Runという英語とフコク生命という日本語が並んだネオンが美しかった。黒江の前を駆け抜けるとき、
「あんた、人間の皮かぶった何かだろ」
 というかなり通る声が聞こえた。森のしゃべり口とちがって陰湿ではなかった。二塁ベースを回り三塁スタンドを見やると、照明塔の柱に貼りついた日立のネオンが大きく輝いていた。ネオンの下に蝟集した観衆が平皿に並べたパチンコ玉のように静かだった。知り合うことのない人びとがなつかしかった。長嶋がサードベースを通過する私の足をぼうっと見ている。永遠のあこがれの人。この人とも親交を深めることはないだろう。水原監督とタッチし、そのまま手を握り合う。
「ジェット機のような打球だった。ありがとう」
 ベンチに並ぶ掌とタッチしていく。十一対六。江藤が、
「達ちゃん! おまえも一発いかんば!」
 木俣は、オー! と叫んでバッターボックスに入り、ストレートとカーブを空振りし、たちまちツーストライクに追いこまれた。高木が、
「速いなあ。百五十は軽く出てるな」
 一枝が、
「二、三年前だったよな、速度表示をするバッティングセンターができたの」
「百二十とか百三十とか書いてあったな。あれ、三年前に新人の堀内が連勝中に、後楽園のブルペンで光電管を使って精密測定したのが最初だったらしいよ。プレート上で百五十五・五キロだったって。初速は百七十キロ近かっただろうというハナシだ。去年江夏を計ったらまったく同じだったらしい」
 一枝は、
「バッティングマシン製作会社は光電管じゃなく、改造カメラで測定して、百二十、百三十、百四十の三種類を作ったと聞いたな」
「ま、何にしたって、俺たちの目の感覚では、実際何キロ出てるかわからないよ」
「百四十だ百五十だと目で感じた感覚で適当に言ってるけど、実際バッターボックスで見る速さはそれとはちがうんじゃないかな。ピッチングフォームというのも関係してくるし。それにしても高橋は速い」
 木俣がファールで粘りだした。太田が、
「俺の場合、高校のころバッティングセンターでピッチングマシンのスピード表示を見てだいたいの速さを覚えたんですけど、それがなかったら、いつまでも体感でスピードを計ってたと思います。こいつは速い、こいつは遅い、くらいにね。何年かしたら、正確なスピード計測器ができるそうですよ」
 木俣がドロンと落ちてくる高めのカーブをとうとう捕まえた。江藤が、
「よっしゃ、いった!」
 と声を上げて立ち上がる。今回もヘラに向かってまっしぐらに飛んでいく。芯を食って浮力のある分、ボールがお辞儀をしないで、ヘラの先、ポールの最下端の観客席に突き刺さった。十二対六。太田が、
「木俣さん、第五号。これで勝ったでしょう!」
 菱川サードゴロでチェンジ。
 八回裏の巨人の攻撃になった。菱川は葛城に、太田は島谷に、木俣は新宅に守備交代した。六点差。まず安全圏に思える。でもわからない。先頭打者の森が見慣れた片手打ちのダウンスイングでライト前にヒットを打った。しぶとい男だ。高橋一三ファーストフライ、土井セカンドフライ。伊藤久敏の初勝利が刻々と近づく。左の本格派の彼は速球が伸びるけれども、目を瞠るほどではない。ただしカーブがとりわけ切れる。高橋一三とは比べものにならないくらいするどく落ちる。駒大では新宅とバッテリーを組んでいたらしい。本人のコントロールのよさももちろんあるだろうが、長谷川コーチの話では、二人はよほどウマが合うのか、駒大時代に無四球試合を七つも記録しているという。だから彼が投げるときはたいてい新宅があてがわれる。
 ツーアウトランナー一塁から高田が、これまたポイと片手を離すようなダウンスイングでセンター前ヒット。それで終わらず、黒江が右中間を深々と抜く二塁打を放って、二者が生還してしまった。十二対八。しかし伊藤久はどうにか踏ん張り、内角高目の速球で王を三振に切って取った。伊藤は九回裏に備えてブルペンへ走った。
 九回表。高橋一三に代わって、縁無し眼鏡の中村稔。私が小学校六年生のときに大活躍したピッチャーだ。しっかり記憶にある。眼鏡顔が広島の白石に似ているが、下品さがない。沈むシュートと曲がるカーブ。あたりまえの変化球。ストレートは遅い。いや、わざと遅くしている。森下コーチが、
「不思議そうな目で見とるな。金太郎さん、あれ、チェンジアップ言うてな、ストレートと同じ腕の振りでノロい球を投げてきよるんや。こう握る」
 指三本を落葉を掻く竹箒木のように開いてボールを包んで見せる。
「どう変化するんですか」
「少し沈むだけやな。速球とまちがったときに、えろう効果的や」
「この人の速球は?」
「遅い。百三十くらいかな。それが百十くらいになる」
「ボールが重いと厄介ですね」
「ちと重い」
 太田に代わった島谷から攻撃開始。初球を打ってレフト前のポテンヒット。一枝はチェンジアップにあごが上がって、セカンドフライを打ち上げた。インフィールドフライ。初めて見た。伊藤久敏は今回もバットを振らずに見逃し三振。中も伊藤の肩の冷えを案じて、空振りを混ぜた三球三振。




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