四十八

 牛肉と山菜をいっぱい入れた鍋を囲んで、楽しい夕餉になった。肉は苦手だと私が言うと、房ちゃんはシラタキや豆腐やキノコを、玉子を割った小鉢に何度も盛ってくれた。窓の網戸の向こうはまだうっすらと明るかった。夕映えの中に、ぼかしをかけたような紫の稜線が浮かんでいる。
「仲間の運転手が、八十の爺さんをひき殺しちゃってな。人身保険に入ってなかったから悲惨なことになった。会社側は知らんぷりの半兵衛よ。冷たいもんだ」
「宮本さん、帰ってきたの?」
 とぼけた顔で尋いた。
「それが帰ってこないんだ。裁判所から呼び出し掛けられてるんだがな。逃げ切れればそれに越したことはないけど、家族持ちだから、一生逃げつづけられんだろう」
 わざわざ宮本さんの消息を知らせることはない。消息といっても、ただ京都駅で見かけただけなのだ。
「やっぱりトラックは危ない。いつまでもやる仕事じゃないな」
 クマさんは鍋に箸を突き立てながら、会社の人事に対する不満めいたことをしばらくしゃべっていた。房ちゃんはやさしい顔で、うん、うん、と相槌を打った。
「おえらいさんの送迎運転手がもうすぐ辞めていくんだけど、その後釜が俺に回ってきそうなんだ」
「よかったじゃないの。あなたはもともと運転の腕があるんだし、小型なら右も左もよく見えるから、事故の心配はないしね」
 クマさんはたちまち相好を崩して私の頭を撫ぜた。
「給料も上がるぞ。なんだかんだ言っても、とにかく稼がなくちゃいかんからな」
 私をじっと見る。私は、うん、とうなずいて笑った。
「なあ房ちゃん、手紙に書いたとおり、この坊主は野球の天才なんだ。名古屋市のホームラン記録を何度も塗り替えた。そうは見えないだろ。一見、おとなしい秀才型に見えるよな。馬鹿はミテクレに引きずられちまう。やっかいなことに、キョウはもともと頭のいい子だから、その分の期待は裏切らないときてる。困ったもんだ。このあいだ、中京中学のスカウトがきてさ、あの中京だぜ、キョウのこと褒めちぎって、大学まで学費はいらないからぜひきてくれって頭下げたんだ。けど、こいつのおふくろさんが断っちまった。もと教師か何か知らないが、勉強させるなんて言いやがってさ」
「ほんとに断ったの! もったいない。スカウトに誘われるなんて、勉強で満点とるより何百倍も難しいことよ」
「驚いたよ。世の中にそんな親がいるかな。野球の名門校からわざわざスカウトがきたのに、それを追い返す親がさ」
「何か事情があったのかしら。郷くんのからだが弱いとか」
「へ! ぴんぴんしてら。事情もクソもあるもんか。わが子の才能を信じてないんだよ。新聞にバンバン載ってるのに。東大出の所長も同じだ。横から口を出しやがって。若いうちに才能があるように見えるのは、幻だなんてわけのわからないことを言いやがった。才能というめったにないものが憎いんだな。努力、努力、馬鹿の一つ覚えみたいに唱えやがって。努力すりゃは入れる東大と、才能がなきゃ入れないプロ野球と比べものになるかってんだ。その東大出の所長を、キョウのおふくろさんが尊敬しててさ」
「どうにかならなかったの? 周りの人だって聞いてたんでしょ」
「みんな聞いてたさ。俺と同じ気持ちのやつも何人かいたけど、みんな頭にきながら、おふくろさんの言うことを黙って聞いてたよ。あの女の考え方ってのは、何でも角張ったところは丸くして、アラはなるべく目立たないようにするってやつだ。才能も言ってみりゃアラだからな。とにかく世間はきびしいんだとよ。ちぇ、そのスカウトだって世間だろが」
 クマさんの目が潤んでいる。房ちゃんもつられてまぶたをいじりはじめる。
「そうね、キョウちゃんのお母さんの世間という表現は、その場合、うまく当たってないわね。野球がとても上手なのに、スカウトにきてもらえるところまではいってないというなら、野球の世界はきびしいって言うのもわかるけど。ぜひにと引き立ててもらってるのに、世間はきびしいと言っても説得力がないわね」
「スカウトされた先がきびしいという意味なんだろうよ。どんな世界だって、先にいくほどきびしいんだよ。才能があってもな。やらせてみなけりゃ、わかりゃしないだろう。精いっぱいの女の知恵なんだろうけど、何のための知恵なのか俺には理解できん。とにかく俺たちは、こいつをかばってやれなかった。キョウ、勘弁しろよ」
「ぼく、うれしかったよ。クマさんや荒田さんが一生懸命しゃべってくれて」
 とうとう房ちゃんのほうが先に涙をこぼした。
「私なら、身上つぶしたって野球選手にするんだけどなァ」
 房ちゃんが目を手のひらでこそぎ、私に向かってぱっと笑った。クマさんも大きく笑い、
「キョウ、願いごとはかならず叶うもんだ。おまえの野球は人間ワザじゃないんだからな。目の前に食い物があって、後ろにクソしかないなんてやつとは、根っからデキがちがうんだ。自分を信じろ。あきらめるんじゃない」
「うん。吉冨さんもあきらめるなって言ってた」
「そうか、吉富がな。とっぽい顔してるけど、いいやつなんだ、あれは。ふだんは胸三寸にいろいろ納めてるが、いざとなると、ちゃんとつきつめたことを言う男だ」 
「さあ、ぜんぶ忘れて、もっと食べて」
 私はご飯のおかわりをし、箸を動かしながら、長嶋茂雄や山内一広のバッティングのすばらしさを話した。ときどき立ち上がって、バットを振る真似さえして見せた。クマさんと房ちゃんは明るく笑いながらも、ときどきふっとさびしそうに顔を見合わせた。
「これだ、キョウの頭には野球のことしかないんだ。わが道をいくってやつだ。俺たちにもこういう子が生まれるといいな。俺は好きな道をいかせるぞ」
 房ちゃんはコクンとうなずいて、私に握手を求めた。私は握り返した。柔らかくて大きな手だった。
 夕食のあと、三人いっしょにトランプの七並べをやった。それからクマさんと内風呂に入った。小さな湯船だったので、交代で浸かった。クマさんが開け放った窓の外に紺色の夜が広がっていた。
「あの光、きれいだね」
 私はチラチラ明滅する青白い小さな灯りを指差した。それは田の上を不規則に舞いながら美しく光っていた。
「蛍だ。せっかく川から昇ってきても、除虫灯で焼かれてしまう」
 田んぼの向こうに、山ぎわのシルエットが黒々と見えた。なんだか歌いたくなり、私は思いつくまま『錆びたナイフ』を口ずさんだ。クマさんはじっと耳を傾けていた。
「いい声だ。キョウは何をやらせてもすごいなあ」
 風呂から上がると、房ちゃんとスポンジケーキを食べながら、テレビのバラエティ番組を観た。カックンの由利徹と南利明が出ていた。クマさんはほろ酔いの顔をして、窓辺の柱にもたれていた。二人ともほんとうに幸せそうに見えた。窓から常山木(くさぎ)の花のにおいが流れてきた。汽笛の音がして、田んぼの向こうを明かりが一列になって走っていくのが見えた。明かりは左から右へ平らに流れていき、先頭の煙突から火の粉が上がっていた。蝙蝠が音もなく軒下へ飛びこんできて、ぱたぱたと網戸のそばをかすめた。
 私があくびをこらえきれなくなったころ、ようやく房ちゃんは隣の部屋に一つだけ、私のための蒲団を敷いた。私は強がって渋々のふりをしたけれども、蒲団に潜りこんだとたんに、長旅の疲れと満腹のせいですぐに眠りこんでしまった。
 翌日は朝から目が痛いほどの青空だった。尖った細かいガラスがキラキラ降ってくるようだ。房ちゃんに頼まれて、蒲団を干す手伝いをした。房ちゃんは鼻歌を歌っていたけれども、少しさびしそうだった。
「あれからもあの人、郷くんのことを話して泣いたの。私も。……今度スカウトがきてそんなことになったら、泣いても叫んでも、自分を通さなくちゃだめよ」
「うん」
 トーストを食べ、コーヒーを飲んだあと、野球帽をかぶり、房ちゃんに送られてクマさんとバス停まで歩いた。
「よっぽど疲れたんだな、キョウ。笛みたいないびきかいてたぞ」
「ほんと?」
「おお、可愛らしいやつをな」
 むせるような草いきれが鼻を打った。道沿いの木群れの緑が、強い陽射しの中で揺れている。
「あれ? いま茶色いものがぴょんて跳んだよ」
「野兎だ。二匹いたな。食うとけっこういけるんだ」
 千曲川がきのうよりもいっそう青くきらめいて流れている。
「ぼくたちが帰ると、房ちゃん、かわいそうだね」
「だいじょうぶだよ。とんぼ返りだってわかってるから。どうせ、もうすぐ名古屋に出てくるんだ」
 房ちゃんの横顔に言う。
「そうね。でも、ここを出ていくのは、ちょっと名残惜しいな」
「自然がいいからなあ。小春、風花、山眠る、か。ほんとはこっちで暮らしてもいいんだけど、安月給じゃ、所帯がな」
「それでもいいのに」
「好きな女に、いい思いをさせてやりてえじゃねえか」
 照れたふうに言い、私に向き直ると、ターッと大声をあげた。空手の真似をしてふざけかかる。私も応じる構えをして、こぶしを繰り出した。何かのはずみで私のげんこつがクマさんの股間を打った。
「ててて、こら! 使いものにならなくなっちまうだろ」
 房ちゃんはおかしさに耐え切れないように、からだを折り曲げて笑った。
「使いものって?」
 クマさんは唇の端をむずつかせながら、
「液が出るようになったら、わかる。キョウは、まだ野球のことばっか考えてればいい」
 二、三年前ならクマさんの言っていることが何のことやらわからなかったかもしれないが、いまではハッキリわかった。そして、もうとっくに液が出るようになっていることをなぜだかクマさんに知らせたくなかった。


         四十九

 食堂で、みんなと秋季六大学野球を観ていた。早稲田大学の四番バッター徳武が打席に立った。ぎこちない振り。打ちそこないの三塁ゴロ。小山田さんが言った。
「あまり活躍しそうもないな。国鉄に入団するらしいぞ。大学野球も、長島以来不作だ」
 荒田さんが鑑定士の試験に合格して、会社を辞めることになったと話し出した。
「よかったな、荒田。ケツ判定人に受かって」
 小山田さんが肩を叩く。
「初生ひな鑑別士だよ。別名、ひよこ鑑定士。今年が二十五歳の年齢制限ギリギリだったんで、冷や冷やしたわ」
 荒田さんがそんな若いなんて知らなかった。カズちゃんがびっくりして流しから振り向き、
「あら、私より二つも年下だったの。老けてるわねえ」
 たしかにカズちゃんは、異様に若い。ふと横顔のきれいさを目にして、ドキドキすることがある。
「あんたは特別だよ。年上の亭主とやらがうらやましいや」
 この夜も、荒田さん手製の鶏の丸焼きが出た。おいしかったけれど、私は彼と別れるのがつらかったので、食欲が湧かなかった。
「荒田、ひよこのケツ見るのに飽きたら、戻ってこい。いつでもクラウンは返してやる」
 クマさんが言うと、
「戻らないね。これから養成所に入って、卒業したら郷里(くに)へ直行だ。蛙の子は蛙だよ。実家は、田んぼのほかに養鶏所をやってるんだ。いずれにせよ、山出しの俺には都会は性に合わなかったな。田舎が肌に合ってる。田起こし、草取り、土くどの釜で炊くメシ。とくに好きなのは、田んぼに映ってるお月さん」
「お、女っけのない都々逸か。さしずめ俺なら、雪かきする手の痛さ、藁づと納豆、軽トラでくる魚、とくらあ。似たようなもんか」
 クマさんが笑う。吉冨さんがうなずいて、
「田舎の人間には、地元以外はみんな都会に見えるんじゃないんすか。俺も田舎っぺですけど、都会は性に合わないなあ。適当なところで切り上げてクニに帰るつもり。造り酒屋でしてね、帰ったらオヤジ喜ぶぞ」
「こら、吉冨、親の七光りでのんびり暮らすつもりか。許さん。おまえには、肩抜けるまで西松のエースでいてもらう」
 小山田さんが吉冨さんの首に腕を巻きつけた。
「なんで所長はこないんだ。原田もくるって言ってたんだが」
 クマさんが不満声で言うと、荒田さんは、
「いいんだ。こうして集まってもらったのだって、ちょっと考えられないことでね。感謝してる」
 目を潤ませている。
「おまえは感激屋だからな。どんぶりでいけ、どんぶりで」
 小山田さんがどんぶりを差し出した。
「じゃ、一杯だけ」
 なみなみとつがれた酒を、荒田さんは一息に飲み干した。オーッと歓声が上がる。すぐにまたつがれる。私はたまらなくなり、
「手紙くれる? 荒田さん」
 荒田さんは私の顔に向き直り、
「俺、手紙苦手なんだよ、キョウちゃん。ハガキ一枚書くのに徹夜するくらいだからさ。年賀状もやばい。それで義理欠いて、いままで何人友達なくしたかわからん」
 内気な男が、頭を掻いた。
「うん、いいよ。ぼくも手紙は苦手だから」
「握手しよう」
 荒田さんのがっちりした手が、私の手をしっかり握り、
「キョウちゃんのことが心残りだよ。これからどうなるのかなあ。またあのスカウトがきてくれればいいけど。……いつも高校野球見てるからね。それからプロ野球も、ずっと見てるから」
「うん」
 母は気詰まりなふうに、ビールの栓を開けて荒田さんについだ。カズちゃんが母の目もかまわず彼にコップを突き出し、
「荒田さん、私にもついで! 荒田さんみたいないい男、なかなかいないわよ。その気になったら、どんな女だってついてくるから。自信持ってね」
「カズちゃんが、荒田を男にしてやればよかったのにな。こいつ、一生、女ひでりじゃないの」
 小山田さんが荒田さんの後頭部を強くさすった。カズちゃんは調子に乗り、
「そうねえ、立派なものを持ってるって噂だし、いただいちゃえばよかったかもね」
 荒田さんは八重歯を見せて、声を出さずに笑った。カズちゃんは母にきつい目で睨まれると、舌を出して、クイッとコップをあおった。荒田さんは静かに立ち上がり、みんなの皿に鶏肉を切り分けた。
「俺もいよいよ結婚だ、荒田。おまえのおかげで結婚できる。ありがとう」
 クマさんが荒田さんに頭を下げた。
「所長と喧嘩しないでよ。一に辛抱、二に辛抱、三、四がなくて五に辛抱。結婚するならなおのこと、気を長く持たなくちゃ」
「わかってる。これでもむかしは観光バスの運転手だったんだぞ。ズの高い連中のお相手はお手のもんだ」
「おばさん、長いあいだありがとうございました。ほんとうにお世話になりました。ワイシャツとかズボンとか、そのほか小もの類は置いていきますから、処分するなり、みなさんで分けるなりしてください。……キョウちゃんのことだけど、じっくり時間かけて考えてやってください。才能の評価ってのは、身近な人間がいちばんまちがうものですから。いや、まちがうというか、気づかないというか―」
「はいはい、よく考えておきますよ」
 母は形ばかりに応えた。彼女の圧力のある目配せで勉強小屋に追いやられたあとも、送別会の賑わいは夜遅くまで聞こえていた。
         †
 クマさんが所長つきの黒い自家用車に乗るようになった。登校のとき、事務所の前で几帳面に毛箒木をパタパタさせながらクラウンの埃を払っている姿をよく見かけた。着ている服も、灰色の作業着から紺の背広に変わっていた。
「どうだ、格好いいか?」
「うん、格好いい。でも、クマさんじゃないみたい」
「そう言うな。馬子にも衣装だ。……あんな男の運転手なんかやりたくねえけどよ、生活のためだ」
「結婚式はいつ?」
 クマさんは困ったように苦笑いした。
「式は挙げないんだ。ウェディングケーキに花束か。そんな大げさなもの、俺たちには似合わん。男と女がいっしょになれば、男は子を産ませ、女は子を産んで、ふつうの父親と母親になる。大事なのは、そっからだ。いっしょになりましたと人に報せたり、神仏に誓ったりすることじゃない」
 私はひどく納得のいったような気持ちになった。
 ある日、クマさんはリヤカーを牽いて、ポータブルプレーヤーと小ものを詰めたダンボールを飯場から少し離れた社宅へ運んだ。私は後ろを押していっしょにいった。
「一週間もすれば、房ちゃん到着だからな。蒲団と着るものは残して、細かいものだけは運んでおかないと」
 平畑の三棟つづきの社宅は、杉山薬局のすぐそばだった。店先を覗きこんだけれど、あの外人のような爺さんがぽつんと店番をしているきりだった。飯場から十分も歩かなかった。クマさんは、がらんとした部屋にプレーヤーとダンボールを置くと、ふんふん、と鼻を鳴らしながら、台所の水まわりや間取りを確かめていた。
 それから二、三日して、房ちゃんが社宅に引っ越してきた。私は喜び勇んでクマさんの残りの荷物をリヤカーに積みこみ、彼といっしょに押していった。すでに家具類やダンボールでぎっしりの部屋に上がりこみ、浮き浮きと動き回った。テレビを置く場所を決めたり、流しの水屋にきちんと食器を並べたり、窓ガラスを拭いたり、敷居の目詰まりを釘でほじくったりした。社宅の部屋は、長野のアパートと同じような天井の低い六畳と四畳半で、玄関から上がってすぐの二坪の板の間がキッチンになっていた。同じ造りといっても、窓ガラスも壁紙も畳も新調されて、山奥の古びたアパートよりはずっと立派だった。 
「キョウ、見ろよ、あの天井。あれだけは直してくれなかった」
 クマさんが指差した六畳間の天井に、雨漏りの痕がぼやけた雲形を描いている。房ちゃんが元気な声で言った。
「いいじゃないの、天井のシミくらい。屋根は直してくれたんだから。家賃の要らないわが家が手に入ったんだもの、贅沢は言えないわ」 
「そうだな。これもみんな荒田のおかげだよ。あのカタブツ、童貞のままUターンしちまいやがった」
 四畳半に新品の西洋ベッドが置いてあった。長野のアパートでは見かけなかったものだった。房ちゃんが引っ越し前に注文したものらしく、クマさんも初めて見たようだった。私はベッドに尻を思い切り落としてみた。固く弾み返してきた。クマさんもうれしそうに並びかけてきて、
「このベッドでがんばって、一年後にはかわいい赤ん坊の顔を見せてやる」
 彼は横たわったまま晴れやかな顔で窓を開けた。裏の空地は広々としたネギ畑になっていて、その向こうに熱田高校の正門が見えた。運動部のかけ声が聞こえてきた。ふと私は、もしあのスカウトがもうやってこなかったら、将来熱田高校へいって、ひっそりクラブ活動の野球をやるのかな、とさびしい気持ちになった。
「サボってないで、荷物を開けてちょうだい」
 房ちゃんがクマさんを叱った。二人で飛び起きて、段ボール箱の山に挑んだ。
「お、ブレンダ・リーのLP。房ちゃんのか?」
「そう、プレゼントしてくれたじゃない」
「そうだったかな。キョウにやっていいか」
「いいわよ、もう飽きるほど聴いたから」
「ほれ、キョウ、持ってけ」
「ありがとう。『アイム・ソーリー』とか、『淋しくって』なんか大好きだ」
「いつのまに聴いてるんだ」
「高崎一郎の、ベスト・ヒットパレード。ブレンダ・リーはめったにかからないけど」


「好みが子供の耳じゃないな。泣けてくるよ。おう、これこれ」
 クマさんは箱から出てきた例の額縁を拝んだ。寝室の鴨居に小釘を打ちつけ、大切そうにそれを掛けた。房ちゃんもやってきて眺めた。三人でしばらく見ていた。
「お腹へったでしょ。さっき、そこの蕎麦屋に頼んどいたから」
 引越し蕎麦が届き、新しい蛍光灯のキッチンで食べた。海老が二匹も載った天ぷらそばだった。おいしかった。
「仲人をしてくれたお礼に、日米親善野球に連れてってやる。前売り券を買っとくからな」
「ほんと! 今年はサンフランシスコ・ジャイアンツがきてるんだ。強打者マッコビーとメイズ、それにセペダ。マリシャルが投げたら最高だね」
「そうか。相変わらずキョウは、何でもよく知ってるなあ」
「ぜんぶ、スポーツ新聞に書いてあることだよ」
「書いてあったって、なかなか頭には入らん」
 このごろクマさんは私を褒めるときはかならず、悲しげな顔になる。
「すごい試合になるだろうなあ。日本のオールスター合同軍とやるんだから。ぜったい三塁側の切符にしてね。長嶋を目の前で見たいんだ」
「よし、三塁側だな」
 後楽園の巨人戦を皮切りに、すでにサンフランシスコ・ジャイアンツ(新聞にはジ軍と書いてあった)は各地を転戦しながら圧倒的な強さを見せつけている。ジ軍が羽田に降り立ったとき、ストンハム会長もシーハン監督も、
「日本軍は強いので、苦戦を覚悟している」
 と言った。このあいだテレビのニュースでその場面を見ていた小山田さんが、
「アメリカ人はお世辞がうまいなあ。日本人は信用してうぬぼれちゃうぞ」
 と笑った。
「ほんとは、どれくらいちがうの」
 と私が尋くと、
「そうだな、大リーグが大学生なら、日本のプロ野球は中学生、いや小学生かな」
「そんなに!」
 吉冨さんがうなずき、
「なんせ、あちらさんは日本に観光しにくるんだ。ついでに小中学生と試合をしてあげようって気分だろ。本気でやるわけじゃないから、たとえ勝っても威張れないさ」
「でも、メイズがインタビューで、一生懸命プレーしますって言ってるよ。スポーツは勝ち負けよりも、一生懸命プレーすることが大切ですって」
「うーん、一流は言うことがやっぱりちがうなあ」
 小山田さんと吉冨さんは顔を見合わせてニッコリ笑った。メイズは、注目する日本人選手はと尋かれたとき、
「ナガシマ、オウ、スギウラ、ヤマウチ、カネダ」
 と答えた、とやっぱり新聞に書いてあった。私は待ちきれない気持ちになってきた。
 雨が落ちてきたので、わざわざクマさんと房ちゃんは傘をさして私を飯場まで送ってきた。そのついでに、母やカズちゃんや社員たちに結婚を伝える挨拶をして帰った。房ちゃんは母の顔をチラと見て、あとはずっと視線を逸らしっぱなしだった。
         

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