十九 

 下通の声が流れる。
「ドラゴンズ、田中に代わりまして、バッター浜野」
「ハア?」
 継投待ちご苦労さんでしたの起用だろう。田宮コーチが、
「モモ、早くいけ」
「オス!」
 浜野はブルペンからグランドに駆け上がると田中勉からバットを借り受け、バッターボックスへ早足でいった。ブン、ブン、と二度バットを振る。
「はい、浜野、一発!」
「そりゃ、モモちゃん、いこ!」
 かけ声空しく、あっという間に三振して戻ってくる。
「あんなクニャクニャした球は打てん。さすがプロのバッターはちがうなあ。よう十五点も取れるもんだ」
 ドラゴンズの攻撃がすべて終わった。
 水原監督は球審から新しいボールを受け取り、マウンドに向かった。浜野の肩を叩き何やら檄を与えている。全員三振を取れ、と言っているように見えた。浜野は中塚の代打の松岡功祐という小柄の男を三振に、松原をサードゴロに、最後のバッター伊藤勲を三振に切って取ると、夜空に向かって高らかに吠えた。
 一対十五。終わってみればいつもの大差勝ちだ。投球回数、田中勉八回、浜野一回。二人で打者三十五人、被安打五、三振十、四球五、自責点一。田中勉は早くも六勝目。チームの勝ち頭になった。
 田中勉がかしこまって立っているホームベースの後方に、白布を張った長テーブルが用意され、頭の薄いスーツ姿の男が一人、着物を着た若い女が二人控えた。何のお祝いかと思っているところへ、下通のアナウンスが流れた。
「田中勉投手、本日の勝利により通算百勝を達成いたしました。史上四十七人目の快挙でございます。どうか盛大な拍手をお送りくださいませ」
 ベンチから拍手が上がった。私もびっくりして拍手した。スーツの男はテーブルの上の小楯のようなものを手に、かしこまる田中勉の前に歩み出て、何かぶつぶつと常套文句をしゃべったあと、表彰状といっしょに手渡した。女の一人が花束を手に進み出て贈呈した。楯も花束も傍らに控えた球団職員が田中から受け取った。田中がスタンドに帽子を振る。
「気づかんかったばい。勉ちゃんはおとなしか男やけん、何も言わん」
 江藤の言葉に長谷川コーチがうなずき、
「私も二軍とは言え、ピッチングコーチのくせに知らなかった。失礼なことをした」
「勉ちゃんはめでたしめでたしばってんが、島田源太郎は自責点の最高記録作ったんやなかね?」
 森下コーチが、
「ほやな、いやたしか戦前、南海の深尾ゆうピッチャーが、十七ゆう自責点を記録しとるんやなかったかな。しかし、よう見殺しにしてサンドバッグにしたな。何の見せしめかいな? 冷酷な男や。島田の引退を早めおったぞ」
 無口な田中勉のインタビューが遅々として進まないうちに、アナウンサーは痺れを切らしたように質問を切り上げた。楯と賞状を着物の女から受け取って戻ってきた田中勉は、ベンチ前の水原監督と握手し、帽子を脱いで辞儀をした。水原監督は肩を叩いてねぎらった。なぜか心がこもっていなかった。待ってましたとばかり、数十人の報道陣が私と水原監督を取り囲んだ。さっそく脅迫事件のインタビューだ。水原監督は、
「このような不祥事は、巻きこまれた当事者の寛容な心がなければ、予想外に大きな問題に発展するのが常だけれども、それはどうにか神無月くんの有徳の対応で解決できました。今回の脅迫事件は、神無月くんの個人的な問題に留まらず、球界に長く禍根を残す社会的な問題にまで発展するところでした。しかしそれも神無月くんの、人の罪過を目くじら立てて咎めない寛大な処置のおかげで未然に防ぐことができました。また、三原さん、金田くん、王くんの勇気ある発言も与(くみ)して大きかった。心から感謝します」
 とだけ発言してベンチに去った。私は、少年に関係する質問には一切答えないことを明言してからインタビューを受けた。
「四十五号。とてつもないハイペースの量産ですね」
「入団時にお約束した八十本が見えてきました。シーズン終了までには達成しようと思います」
「シーズン終了時には、単純計算だと、二百三十本です」
「打てないときはかならずあります。皮算用はできません」
「ただいまダントツの三冠王ですね」
「ホームラン以外の二冠は狙っていません。獲れたら獲りたいとも思いません。三冠王という単語をよく自分でも口に出しますが、話の流れでそうなるだけです。打率や打点にホームラン以上の魅力を感じません。選手もファンも、シンプルに数えられるのはホームランだけで、打率を計算したり、打点を数えたりする人はマレでしょう。ぼくが獲りたいのは、ホームラン王だけです」
「きのう、きょうと、阪神が巨人に二連勝しました。田淵が四号を打ってます。彼をはじめ、江夏、吉田、村山等の選手たちから、神無月くんが無事でよかったとのコメントがありました」
 カマをかけて巨人批判をさせようとしていることがわかったので、
「ご心配かけて申しわけありません。この場を借りて、心配してくださったみなさんにお礼を申し上げます。恐れているほど最悪のことはなかなか起こらないものです。どうかご安心ください」
 と応えた。大歓声を上げる四方のスタンドに手を振った。睦子と千佳子が跳びはねていたので、ボックス席の位置があらためてわかった。詰めかけていたカメラが、ベンチへ引き揚げる私の背中をいっせいに追った。すでに白布のテーブルは取り片づけられ、田中勉の姿もなかった。
 ほとんどのチームメイトが引き揚げたあと、ロッカーに使用ずみのバットを置いて出ると、通路で江藤と太田が高木に話しかけていた。太田が、
「派手なアメ車ですね。高かったでしょう。びっくりしましたよ」
「俺、車が趣味でね」
 江藤が、
「乗せていかんかい」
「スポーツタイプなんで、オープンカーと言っても助手席に一人しか乗れないんだ。後部座席は飾り。窮屈だからやめといたほうがいい」
「後部座席で立っていくけん、寮まで乗せんね」
「わかったよ。それでいいならどうぞ。堀越までなら二十分で着くしね」
「冗談たい。球団バスで帰るばい。あさってから、また十日間のアウェイやのう。今回は金太郎さんについてくる女はおらんね?」
「はい。東京にちらほらいますから」
 太田が、
「せめて広島では骨休めしてください」
「うん。ジャクソンみたいなことはごめんだからね。みんなはどうしてるんですか」
「そっちは枯れた、というとウソになるばい。溜まってきたら、シーズンに二度か三度、あと腐れのないトルコにいく。太田はいまが盛りやけん、明石のころからよういっとった。ほかの連中は港に女ありだ。ま、みんなうまくやっとる。人のことは心配せんでよか」
 高木が、
「事件が解決してよかったね。みんな心配したんだよ。こういうふうに決着がついたことをみんな心から喜んでる。金太郎さんのプレイを観るのだけが楽しみで生きてるようなもんだから」
「ありがとうございます。この遠征で五十本の大台に載せます」
「九試合で五本か。いけるだろう」
「名古屋に帰ってきて三試合で、王の記録に挑戦やな。また大洋戦たいね。平松から打ちたかろ」
「だれからでもいいです。とにかく五十五本の枷から解放されたいです」
 高木が、
「もうすぐだよ。五十五本打ったら、のんびりやればいい。一本一本が新記録なんだから」
 太田が、
「そろそろ、オールスターのファン投票が始まりますよ」
「どういう仕組みなの」
「五月の中旬から六月の中旬までのファン投票を集計して決まります。セ・パとも、外野手を除いて各部門一位だけが無条件出場になります。外野手は三位まで無条件です。だから無条件は両チームとも九人しかいないことになります。あとはぜんぶ監督推薦という形をとります。両チームとも三十五人から四十人出ます」
「そんなに―」
 江藤が、
「監督推薦も入れれば中日のレギュラーはほとんど選ばれる理屈やが、川上が推薦することになっとるけん、そうもいかんやろう。セリーグの無条件は金太郎さんと、中と、高木くらいかのう」
 高木が、
「俺は一位で選ばれなければ、監督推薦もされないよ。来年を待つ」
「監督って決まってるんですか」
「前年度優勝チームの監督ばい。投手一位は江夏、キャッチャーは田淵、一塁は王、モリミチの言うとおりなら二塁は土井、ショートは修ちゃんでなく藤田平、三塁は長嶋、外野は金太郎さんと中。あとはわからん。これからのお楽しみや。タコは菱といっしょに監督推薦で出てもおかしゅうなかばってん、無理やろのう」
 太田が、
「無理ですね。俺たちは不定期な控え選手ですから、川上が選ぶはずがないです。それじゃ神無月さん、あさっての昼、北村席に迎えにいきます」
「うん、よろしく」
「通用口から車まで松葉会の人といっしょにいったほうがよか。あの人たちはワシらにもついてきてくれよる。ありがたか」
「そうします」
 高木といっしょに江藤と太田が通用口を開けて出た。フアンの群れがドッと迫ってきた。すぐに二人の組員と警備員が彼らを押し分け、私たちを導いた。私は二人の組員と二人の警備員に護られ、フアンに揉まれながらクラウンまで歩いた。十時を回っている。
「長く待たせちゃって、すみません」
 菅野が、
「自分が王様なのか召使なのかわからなくなっちゃうんで、二度とそういうことは言わないでください」
「はい、すみません」
「ほらまた、神無月さん!」
 主人が、
「ハハハ、ミズノから二十八センチの運動靴五足、アンダーシャツ十枚と、アンダーソックス十足届きました」
「そうですか。助かるなあ」
 菅野の運転で夜の都会を帰る。東京ほど密ではないネオンが美しい。
「それにしても、きのうのきょうが嘘みたいだ」
 睦子が、
「ほんと。でも、運のいい高校生ですね。こんなに世間を騒がせてお咎めなしなんて。学校も名前も出されないままですよ」
「山口二矢(おとや)や永山則夫とちがって、人は殺してないからね」
 千佳子が、
「私、きのうの夜中、脅迫罪を調べたの。脅迫罪は親告罪でないので、被害者の告訴がなくても起訴されるのがふつうなんですけど、被害者から被害届が提出されなければ警察は捜査を開始しないので、不起訴の可能性が高まるんです。でも完全に不起訴にしてもらうためには、被害者と示談交渉をして、被害届を出さない約束をしてもらう必要があります。そのとき初めて前科を阻止できます。神無月くんはとてもいいことをしたわ。その気持ちを汲んだ中日フロントが、代理人として示談書を作成したんでしょうね」
 主人が、
「なるほど、そういうことやったんですか。きょうの試合も、声援といい、拍手といい、神無月さんを讃える雰囲気がありましたからな。静かに熱く応援していた。うれしかった」
 菅野が、
「その雰囲気の中でホームランボールが夜空へ消えていきましたね。嘘のようなほんとの光景でした」
 睦子が、
「インタビューで、ホームラン王しかほしくないって言ったとき、感動しました。小さいときから、首位打者になりたいとか、打点王になりたいなんて言う人はたしかにいないですよね。神無月さんの打撃のタイトルをぜんぶ足したら、何十冠王にもなっちゃいます。ほんとに王と呼べるものは一つしかないと思います。神無月さんはいつも本質をついたことを言うので、びっくりして、それから感動します」
 宮谷小学校の固い土の校庭を思い出した。それから千年小学校の小石の多い校庭を思い出した。初めて打ったソフトボールと、初めて打ったDSボール。ボールが遠くへ飛んだことがうれしかった。ピッチャーでない私にとって、野球はホームランだけだった。


         二十 

「ホームランと速球、その二つが野球選手の永遠の夢なんだ。アメリカでは、百七十五メートルのベーブ・ルース、百八十キロの火の玉投手ボブ・フェラー。日本では、百六十五メートルの中西太、百六十キロの尾崎行雄。ボブ・フェラーと尾崎行雄の背番号は、奇しくも19だ」
 主人が、
「中西の百六十五メートルどころか、ベーブ・ルースの記録ももう神無月さんは達成してます。掛け値なしの世界一です。あとはロジャー・マリスの六十一本。最後の仕事は甲子園の場外ですね」
 菅野が、
「マリスは右投げ左打ちで神無月さんと同じです」
 窓を開けると、昼の湿気が抜けた乾いた風が吹きこんできた。爽やかな希望の風。甲子園の右翼場外へ飛ばすには百八十メートルは必要だろう。ヤンキーズのミッキー・マントルが左打席で推定百九十メートルのホームランを打ったと先日資料で見たばかりだ。マリスもマントルも右投げだ。二人とも百八十二センチ、私と同じだ。からだではない。インパクトの成果だ。私は主人に、
「マリスとマントルのころのヤンキーズは、殺人打線と呼ばれたんですよね」
「MM砲ですな。ヤンキーズは昭和初期のルースのころから、ずっと殺人打線と呼ばれてきたんですよ。昭和三十年代初めからつい三年くらい前まで、百七十センチのキャッチャー、ヨギ・ベラが加わった殺人打線はすごかった。昭和三十六年には、MM二人でルースの六十本を目標にホームラン王争いをして、マリスが六十一本を打ちました。マントルは五十四本。去年、マリス、マントル二人揃って引退してます」
 私はふと気づいて、
「足の早くない森が左打ちなのはベラのまねだな。ベラは足が速くなかったんでしょう」
「はい。ほとんど走りません」
「ぼくのような事情で右投げ左打ちになった選手は、世界に一人もいないんですね。尾崎も健康な左手を捨てて右投げに替えてるし、江夏も使える右を捨てて左投げにしてる。ぼくは世界に一人だという意識を持たなくちゃいけないな」
 菅野が、
「ですね! みんな逆境を乗り越えて利き腕を替えたわけじゃないんですよ。神無月さんは残された片腕からの出発―それだけでもすごいことだな!」
 十時半、席に帰りつく。ダッフルを担ぎ、居間に入る。だれも起きていない空間が目に心地よい。ステージ部屋の蛍光灯一つの灯りの下で一組の女たちが花札をしている。それも心地よい。いつもこうだと、とても気がラクだ。都合が悪くてだれも球場に観にこられないときは、菅野と二人きりのときもあるかもしれない。そしたらお茶でも飲んで、菅野の帰りがけに則武に降ろしてもらえばいい。きょうみたいな日なら、千佳子や睦子と風呂に入って寝ればいい。主人が、
「ユニフォーム早く脱がないと風邪をひきますよ。ワシは寝ます。菅ちゃんも帰るんやろ」
「はい。あしたのランニングがありますから。じゃ、みなさん、お休みなさい」
「お休みなさい」
 主人は離れの寝間へ去り、私たち三人は風呂へいった。脱衣場にユニフォームと帽子を脱ぎ捨て、前も洗わずに湯船に入る。少しぬるかったのでガスを点けた。朝の五時ぐらいになると、賄いが何人か起きてきて風呂を洗う。上がるときに湯を抜いて出れば彼女たちも手間が省ける。深く息を吐き出しながらからだを伸ばす。両脇に睦子と千佳子が寄り添う。
「運転免許持ってない人はあまりいないようだ。高木さんなんか、北陸に車でいってるらしい」
 千佳子が、
「私が免許を取ったら、来年から二人いっしょに北陸にいきます。暇なのは私たちぐらいだから」
「ホテルでしか逢えないから、退屈だよ」
「見聞、見聞。二人で歩き回ってたら退屈しません」
 睦子が、
「駐車場に派手な車が多かったけど、ぜんぶ野球選手のかしら」
「真っ赤なやつは高木さん。あとは知らない」
 千佳子が、
「長嶋選手も派手らしいけど、お金の使い途がそこなのね」
「いっとき、ぼくがステレオをほしがったようなものだね。いまは音楽を聴くことが少なくなった。たまにスカイライナーズの『シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー』なんか聴くと、すぐに胸が塞がって、なんて音楽はすばらしいんだろうと思うけど、余白を積極的に求めなくなった。時間を削る勇気がない。バットを振ってしまう」
 睦子が、
「余白に時間を使うのは勇気なんですね。わかります。時間を使わなければいけないことについ時間を使ってしまいます。時間を使わなくてもいいことにはなかなか使えません」
「時間をお金に置き換えるのは簡単だけど、金に換算できない余白に時間を使わなくてもいいかどうかは、なかなか判断がつかない。使おうと心を決めるのはたしかに勇気かもしれないね」
 二人とキスをし、胸を揉む。睦子が、
「たいていの人は、生活のためにできるだけ便利なものにお金を使います。たとえば車とか、電気製品とか。衣食住にはもちろん、贅沢を避けながらお金を使いますけど、趣味のような、生活に関わらないことにはなかなかお金を使いません」
「もちろんお金は趣味にも使うべきだけど、ほとんどの人は、まったく精神を潤さない役立たずな趣味に使うほうが多いね。使って役に立ち、喜びを感じる趣味こそ大いなる精神の贅沢だ。住むこと、着ることは、お金をかけすぎないかぎり贅沢とは言わない。住んで着ることは必須の生活条件だし、心の安らぎだ。本能の充足というのがその対極にある」
「本能の充足の対極は、心の安らぎということですか?」
「うん。本能の充足には二通りある。からだを低レベルに潤す贅沢と、高レベルに潤す贅沢。低レベルは眠ることと排泄。満たされれば最低限の贅沢になる。高レベルは食うこととセックス。満たされれば最高限の贅沢だ。セックスは、愛情が精神を潤す。快感は深い愛情へのご褒美だ。快感があるということを知らなくても、愛情があればセックスはできる。幼いころのお医者さんごっこを思い出せばわかる。好きな子のオマンコやオチンチンを見たり触ったりして、心が潤う。オチンチンをオマンコに入れるものだと知る時期になって、本能的に腰を動かしているうちに快感があることに驚く。快感を得ることが目的じゃなかったのに、快感がやってきたからだね。そこで初めて、愛情と快感が同義になる。快感を感じない女性は世の中にたくさんいるけど、彼女たちはセックスをするときは、深い愛情を受け取って、お返しの愛を与える気持ちでしている。幼いころのお医者さんごっこと同じ気持ちでね」
 私は湯船から立ち上がった。睦子が含んだ。すぐに千佳子に代わった。お医者さんごっこをし終えると、浴槽の縁に手を突いて二つの尻を並べて向けた。
         †
 千佳子の部屋に寝ていた。二人の背中のあいだで目覚めた。時計を確かめる。あと数分で六時だ。硬く小便勃ちをしている。このまま挿入すれば彼女たちの悦びが激しいことはわかっているが、睦子も千佳子もいますぐは無理だろう。深夜まで歓びを味わい尽くしたからだが疲れ切っている。
 とにかく小便を出さなくてはいけない。全裸のまま二階の人けのない廊下に出て便所にいく。店の女たちは起きていない。便器に前傾姿勢で屈んで小便をする。到達点がうまく定まらないので便器の周囲を汚してしまう。小便をし終え、巻紙をちぎり取って便器台と周囲の床を拭く。天を突いていた性器が少し角度を鈍くしたので、安心して廊下へ出て部屋へ戻ろうとした。たまたま便所の斜向かいの部屋から戸を開けて出てきた女が忍び声を上げた。住みこみの幣原だった。直人のお気に入りの女だ。
「幣原さん……すみません、こんな格好で」
 私は前を手で隠して千佳子の部屋に戻ろうとした。瞬間、手をつかんで戸の内へ引き入れられた。
「どうかお願いします。ほんとにお願いします。思いつきじゃありません。いつかお願いしようと思ってたんです」
「幣原さん、オシッコしに出てきたんじゃないんですか?」
「しにいったら、神無月さんが逃げてしまいます」
 起き出したばかりの生暖かい蒲団の上に私を横たえ、横に並びかけ陰茎を指でさすり上げる。しっかりと勃起し直した。
「ご立派! こんなの入れたことありません。入れてください……」
 仰向いて大きく脚を開く。繁みの濃さだけが目立ち、中身は判別できなかった。私はあわただしく挿入し、すぐに射精しようと激しく往復する。潤った広い膣が包みこんだ。ふつうに往復していたのでは長くかかりそうなので、幣原の尻を持ち上げ、自分の腰を最大限に速く動かした。とつぜん締めつけが始まった。心の内でアッと叫び声を上げたいほど不思議な快美感があった。射精が迫った。亀頭の急激なふくらみを自覚できた。幣原はあわてて枕を引き寄せ、カバーの端を噛みしめた。声を出すまいとしたのだ。
「クー、クククク、ク、ク! アクー!」
 腹が収縮し、尻が浮き上がった。明らかにアクメに達したのだ。私は安心して射精した。
「アクク、アク! ククウウウ!」
 尻を跳ね上げる女の額から脂汗が出ている。律動しながら、顔を記憶しようとした。四十代とわかるほかは特徴がない。私は濃い繁みから性器を引き抜いた。ふたたび腹が収縮し、尻が跳ねた。幣原の股からこらえていた小便が噴き出した。私はあわててシーツを丸めると股間に押しつけた。幣原はシーツを両脚で挟みこみながら、枕を噛みしめ、横向きに丸くなり痙攣する。置き捨て、シャワーを浴びにいった。いま経験したばかりの快美感のせいで勃起が治まらない。歯を磨いて気を紛らす。シャワーの音を聞きつけ、ガラス戸の外にトモヨさんがやってきた。
「郷くん?」
「うん」
「いま下着持ってきます。出かけるのは?」
「一時か二時。江藤さんたちがきてから。ねえトモヨさん」
「はい?」
「いまだいじょうぶ?」
「はい! 三十分ほどしたら直人を起こします」
 うれしそうな声だ。戸を開けて覗きこむ。
「ほら」
「わ、すごい!」
「二週間ぐらい逢えないから、しておこう」
「はい!」
 トモヨさんの緊張した膣の潤いを思い出す。彼女は下着だけ脱ぎ、スカートをたぐって腹前に結んだ格好でやってきて、すぐ浴槽に手を突き、大きな尻を向けた。ひどく浅いところでゆっくりと往復し、すべらかな尻を撫ぜる。
「ああ、いつも、いつも、気持ちいいです、すぐにイキます」
「愛してるよ、トモヨ」
「私も死ぬほど愛してます、もうイキます、あああ、走る、気持ちいい、イク!」
 あっという間に、うねり動く狭い膣に射精した。トモヨはさん強く痙攣し、イキますを連呼し、
「ああ、郷くん、愛してます、死ぬほど好き、うれしい、とってもうれしい、で、電気走る、走る、イク、強くイク、イクウウ!」
 引き抜くと、浴槽の縁をしっかりつかみしゃがみこんで痙攣する。私もいっしょにしゃがみこみ、口を吸う。ようやく私の性器はくつろぎ、下を向きはじめた。トモヨさんが痙攣するあいだ尻を撫でつづける。
「あ、イク、うーん! イク! ううう、気持ちいい」
 しりの先から精液が滴っている。痙攣が止んだ。
「もうイキ尽くした?」
「はい、落ち着きました」
 シャワーでトモヨさんの陰部を洗ってやり、自分のものも洗う。
「髪を洗って出る」
「はい。下着を用意しておきます。ごはんは八時くらいに?」
「うん」
 トモヨさんの用意したパンツとランニングにミズノのジャージを着て居間にいくと、主人夫婦が頭を並べて一般紙の社会面を覗きこんでいる。
「お、神無月さん、早起きですな」
 時計を見ると、六時五十分だ。
「ほらここに、四十五号より大きな扱いで不起訴のことが載ってます。ちょっと見てごらんなさい」
 主人の隣にあぐらをかき覗きこむ。ソテツがコーヒーを持ってきた。

  朝日・読売・毎日三紙に脅迫状を送って、プロ野球選手神無月郷さん(20)の殺害をほのめかしたとされる都内某高校生A(16)は、十日午後九時四十五分脅迫容疑で逮捕されたのち、十一日午後四時に釈放され、両親のもとに引き渡された。東京地検は同日、Aを不起訴処分とすると公式発表した。被害者である神無月さんとのあいだに示談が成立したことを受けての起訴猶予とみられる。地検の話では、神無月さん側から不起訴の申し出があったとしている。A本人の自白したところでは、脅迫の動機は「きれいごとばかり言っている神無月選手に世間が踊らされて、巨人軍の選手がかわいそうだったから」というものである。

 新聞らしい、委細を尽くさない記事だ。
「何もわかっとらん子を許してまったね」
 女将が言う。
「許したというほど寛容な気持ちはないです。ぼくの場合、寛容じゃなく、面倒くさいだけですから。でも、何もわかってない人を許すのが本来の寛容というものじゃないでしょうか。わかってる人は許しちゃいけません」
「川上監督は?」
「何もわかっていない気の毒な人です」


         二十一

 七時半。千佳子や睦子といっしょに店の女たちが降りてきた。トモヨさんと直人もやってきて、朝食になる。直人はだれの手も借りず、一人前にスプーンを握っている。
「直人、どこかいきたいとこないか?」
「メイチカ」
 主人が笑い、
「そんなのワシがいつでも連れてったるわ」
「おとうちゃんと」
「そうかそうか。東京から帰ったら連れてってもらいなさい」
「うん」
「生命体かどうか疑うほどかわいいなあ。直人、おまえはおとうちゃんのオチンチンから出てきたんだぞ。こんなちっちゃな人形で」
 親指と人さし指で大きさを示す。思わずトモヨさんが噴き出すと、居間も座敷もケラケラ笑った。女将も身を屈めて笑っている。
「お口じゃなく、オチンチンから?」
「そう、いちばん大事なところから出てこないと、きれいな子に育たないんだ。直人は日本一きれいな子になった」
 あぐらに乗せ、腋を持って抱き上げて高い高いをする。直人は声をあげて喜ぶ。
「あ、そうだ、二十四日の土曜日に、少年野球教室にいってきます。中日球場。六十人もくるらしいです。ぼくがいくって言ったら、水原監督もレギュラー全員もくることになりました。トレーナーやランニングコーチまで」
 トモヨさんが、
「いつも郷くんといっしょにいたいんですね」
 主人が、
「あれは市の教育委員会主催で、ほんの少ししか謝礼が出ないんですよ。毎年、小遣い稼ぎに二軍選手が二人くらいいくのが恒例です」
「今回は全員無料奉仕です」
「でしょうな。また新聞が集まりますよ」
 幣原がとぼけておさんどんに加わっている。起きがけに廊下でぶつかったときは、髪がほつれていて四十半ばぐらいに見えたが、肌つやを見ると四十そこそこのようだ。一重まぶたの印象の薄い顔だ。あらためて上半身を眺める。胸は盛り上がっていない。こちらから性欲が湧くタイプではない。肩の荷が下りた。椿町から早く出勤してきた百江が、
「遠征のときの身の回りのことは、ぜんぶソテツちゃんとイネちゃんにも引き継ぎましたから、これからは行き先のホテルが新しくなったら私に教えてもらえれば、三人で万事滞りなくいたします」
「ありがとう。東京はホテルニューオータニ、広島は世羅別館。いつものとおり、使ったユニフォームや用具はそのホテルを出る都度送り返すね」
「はい」
 じゃ、いってきます、とトモヨさんが立ち上がった。私は、
「まだ八時だよ。早いんじゃない?」
「はい、いつも九時十時に連れてってますけど、直人がきょうは早くいきたいって言うんですよ。保育所は朝七時から夜七時まで保育時間になってますから、そのあいだ自由に登下校していいんです。きょういって、様子を見てきます」
「私たちもいきます。ついでに大学に出ますから」
 千佳子と睦子も立ち上がった。トモヨさんは直人に園児帽をかぶせ、玄関へいく。全員で、いってらっしゃい、と明るく言った。母子と大学生が出かけるのと入れ替わりにジャージを着た菅野が入ってきた。
「あ、いま出かけたばかり」
「はい、きょうは歩いていくと断られました。途中でムッちゃんと千佳ちゃんが交代でダッコするでしょう」
 主人が、
「二十分はかかるやろう」
「そうですね。トモヨ奥さんの足でゆっくり歩いて二十五分。出産前のいい運動にはなるでしょうけど、往復ですからね。あしたからやっぱり送っていきますよ」
 完全休日の一日、菅野と走る。
「金田は巨人に移籍した昭和四十年、四月十日に開幕投手をやりました。プロ入り十六年目、十五年連続二十勝以上、三十二歳。前々年三十勝、前年二十七勝を挙げての移籍でした。始球式は読売新聞社社主、プロ野球の父、正力松太郎」
「よく聞く名前だけど、知らないなあ」
「読売新聞を買い取って叩き上げた怪物です。新聞を買い取るまでは警察官僚でした。大正十二年に、いまの天皇の裕仁親王が難波大助に狙撃された虎の門事件というのがあったんですが、当時警視庁のおえらいさんだった彼が懲戒免職になりました。そのせいで彼は大役人にも政治家にもなり損ねて、巷で生きることになったんです。四十歳ぐらいのときですよ。でもおかげでA級戦犯も不起訴になったし、公職追放後も読売を徹底的に利用して、昭和三十年には衆議院議員に当選できました。その後、科学技術庁長官や原子力委員長を歴任して、日本原子力の父、日本プロ野球の父、日本のテレビの父なんて言われて、ものすごいタイトルホルダーになったんです。とにかく怪物ですよ。読売を反省させ、謝らせたなんて、私、いまでも信じられませんよ」
 菅野は呼吸も乱さずしゃべりつづける。
「ぼくも信用してません」
「フハハ、金田の開幕戦に話を戻しますが、主審は岡田。ものすごい拍手、野次も飛ばない。相手はわが中日です。始球式のときだけ金田は穏やかに微笑してましたが、試合の最中は目が吊り上がって青白い顔をしてました。カーブは切れず、速球も冴えませんでした。一回の裏、巨人は国松がソロホームラン、同じ移籍組吉田勝豊のレフト適時打で二点先取。五回には金田みずからホームランも打ちました。それが決勝点になって、四対二で勝ちました。完投、三百五十四勝目でした。報道陣をかいくぐって川上監督と固い握手。二回の裏に、柿本にビーンボールまがいの球を頭に投げられてから、金田のピッチングが変わったんです」
「怒ったんですね。でも卑怯なことはしない人ですから」
「はい。怒って本調子が戻ったんです。大きく落ちるドロップカーブと、するどく曲がるカーブが決まりだしました。金田本人も、神無月さんに投げたあの一球だけが生涯に一度のビーンボールで、それまで一度も投げたことがなかったんです。逃げたら負けが口癖の男ですから、あれを投げるのは苦しかったと思います。……彼は川上監督を敬愛してるんです」
「それが言いたかったんですね。だからビーンボールは川上監督へ敬愛を証明するためにやったことで、このあいだのコメントはそれを捨てた命懸けのものだったと。金田の才能と潔さをしゃべったのは、それを言うためですね」
「はい。王の言葉より金田の言葉のほうが、ずっと価値があるんです。今度の巨人戦でたとえ登板することがあっても、もちろんビーンボールは放ってこないでしょうし、何かあったら神無月さんを弁護すると思います。彼はひどく貧しい家庭に育った男で、肉親を何人も亡くして悲しい目に遭っています。ハッフ、フッハ、ハッハ、フッハ……彼は投げることのほかに、柔軟体操とランニングという基本練習以外したことがありません。高校時代から正規の練習はしょっちゅうサボってきたようです。サボって売春宿や雀荘にかよったりしてたと本人が書いてます」
「読んだことがあるなあ、その話」
「五年前報知新聞社から出した『やったるで!』という新書本です」
「ああ、その本、青高時代に本屋で立ち読みしたことがある。二時間かけて」
「金田は運の強い男です。中学校を中退していたのに、享栄商業の履歴書審査ミスのせいでまちがって入学しちゃいました。それ以来、選考という選考に洩れたことがありません。入団以後のオールスター戦にすべて出場しています。常に選ばれるのは実力のなせる業ですが、神無月さんと自分は人格的に同類だと感じているようです」
「ぼくとは気質がだいぶちがいます。彼は負けず嫌いですが、ぼくはちがいます。またぼくには人間の格がないので、同類になれない。ただ一つ、人生歴のうえで似ている点があるんですよ。岐路に立つと救済者が現れたということです。でもぼくには、野球をするうえでの直接的な救済者はいなかった。すべて自分で切り開いてきた。そこも彼とちがう点でしょう」
「わかります。神無月さんぐらいつらい思いをして野球選手になった人間なんて、この世にいませんよ。そのつらさを金田はよくわかっていると思うんです」
「ぼくの周りの人たちほどはわからないでしょう。身近にいなければ、そんなに簡単にわかることじゃない。問題は、一度でもビーンボールを投げたということです。堀内もやりました。そこに目をつぶっちゃいけない。また、川上という清廉潔白でない人間をたたずまいで見抜く眼力がなく、敬愛してしまったということです。長嶋も王も川上監督を敬愛しています。彼らの根に権威主義があるからです。これにも目をつぶっちゃいけない。水原監督はインタビューで、王にも金田にも感謝していましたが、なんだか監督らしくないなと思って、じっくり考えました。そして、悪さ封じの巧妙な社交辞令だったと確信しました。褒められて悪さする人はいませんからね。二人が巨人球団に言わされていると見抜いたからでしょう。巨人は〈正しい〉球団だというイメージを植えつけるためにね。あの球団はフロント独裁です。これからも川上監督のような手下を使って二度、三度、いろいろちょっかいを出してくるでしょう。そんな手下をなぜぼくが許したかというと、許さないと権威集団の親玉の機嫌を損じて、野球をやっていくのがじゃまだらけになって面倒だからです。脅迫少年にしても同じです。許さなければ、煩雑な手続に忙殺されることになるからです。ぼくはすぐそばにいる身の周りの人しか信じていない。彼らを信じて野球をやりたいだけなんです」
「……すみません。そこまでは見抜けませんでした。そうであるからには、くれぐれも気をつけてくださいと言うしかありません」
「人はどんなにすばらしい経歴を積んでいても、一度進んで権威に靡くことで、すべてが水泡に帰すんです。権力の奴隷になる。ひれ伏さずに正しいことをしようと思うキンタマを失う。正しいと思うことを貫き通すのがキンタマだ。ぼくも愛する人間の奴隷だと自覚してる。その自覚は正しいと思ってます。彼らは権威者じゃない。純粋な人間です。奴隷は利益に貢献するんじゃなく、人間に貢献するとき、最も美しい。子供は生れたときから親という権威者の奴隷だった。もの心つくまでは権威に靡くしかなかった。ぼくは、権威ではなく愛に満ちた人間へと進んで所属先を替えた。そこからがぼくの人生歴だ。十五歳の秋から五年間、まだぼくの経歴は水泡に帰していない」
 菅野は腕で汗を拭うような格好をして涙を拭った。
「神無月さん、私の経歴も水泡に帰していません。人間、知ったようなことを言っちゃいけませんね。覆水盆に帰らず。おっしゃるとおり、一度した悪さは取り返しがつきません」
 席に帰り着くと、ソテツが出迎えた。
「だれもいないね」
「千佳ちゃんとムッちゃんは、奥さんをここまで送り届けてから大学へいきました。旦那さんご夫婦は銀行に出かけました」
 菅野が、
「そうか、ミズノから送られてきた小切手を振込みにいったんですね。利子を求めて貯金すると、銀行が焦げついたとき保証できないというやつですよ。良心的な銀行は、いろいろな人の名義で分割して預金する口座開設を勧めます。上限一千万までは全額保証する口座です。預金者も安全ですし、銀行としても利子が圧倒的に少なくてすみますからね。社長の預金もそうなってます」
「銀行というのは他人の金を好きなように使うくせに、利子は払いたくないわけだね」
「われわれは一千万につく利子を足し算するしかないわけです」
 トモヨさんがそうめんを私と菅野に持ってきた。座敷を見ると、月曜日が休みの優子が賄いといっしょになって畳に掃除機をかけていた。ジャージを着た格好でアイリスへ出かけていく。裏口から厨房へ入り、百江に、
「仕事中ごめん。キッコと二人で、素子の部屋にきて。すぐすむから」
「はい、いますぐ」
 エプロンを外し、カズちゃんに断りにいった。ホールのキッコに耳打ちする。厨房の森と島が私にペコペコ挨拶する。森が、
「輝きに圧倒されますな」
「しばらく大胡さんと新庄さんをお借りします。すみません」
 島が微笑しながら、
「それも輝きです」
 私は黙って笑いを返した。素子がカウンターから厨房の大硝子に向かって微笑しながらうなずいた。
 百江に連れられて二階に上がり、素子の部屋の蒲団で二人全裸になってキッコを待つ。整った部屋だ。机も書棚もテレビもある。書棚は栄養士に関する本と、文学書で埋まっている。
「キッチン、お風呂、トイレもけっこう広いんですよ」
 百江が言う。キッコがやってきた。
「百ちゃん、オシッコした?」
 うなずく。仰向けになった私の姿と局部を見て、キッコも衣服を脱ぎ捨て、率先して跨る。百江はキッコがつらくなって離れるのを待ち、狂ったように跨ってあわただしくアクメを重ねる。百江に吐き出し、キッコで律動する。彼女たちは三分ほど休み、ふるえが完全に鎮まると、二人で私のものを清めた。そのまま三人で三十分ほど寝入った。目覚めたころ、カズちゃんがオムライスを持ってやってきた。
「朝から二回も出した。トモヨさんにもしてあげたから。これで三回目」
「みんな生き返るわ。……心もからだもキョウちゃんだけだから」
「今夜は、節子とキクエのところへいってくる」
「泊まってゆっくりしてらっしゃい」
「したらすぐ帰ってくる。彼女たちものんびりできない仕事だし、いつ緊急の呼び出しがあるかわからない」
「そうね。あしたはお昼出発でしょ」
「うん」


         二十二

 トモヨさん母子が風呂に去るころ、一家の夕食がたけなわになる。夕食が終わると、緑茶とコーヒーの団欒になる。私に団欒はない。と言うより、私にとって、さまざまな言葉の飛び交う団欒は心の充実ではない。眺めて楽しむ幸福の図だ。私自身を充実させる幸福は、一対一の言葉が交わされる場にある。
 八時。菅野の車で送られ、新樹ハイツへいく。
「今夜九時半くらいに迎えにきてくれますか」
「泊まらないんですか」
「はい」
「一時間程度なら、ラジオでも聴いて待ってます。それから見回りにいっても遅くありませんし」
 くどく愛を語らう必要はなく、性欲を満たせばいいだけの日は女にもある。男女に関わらず、それが人間として自然だ。しつこく泊まることは避けたい。
「腰が重い男は、いずれ歓迎されなくなるよ。男を相手にする飲み屋の女なんかもそうだと思う」
「そうなんですか? 神無月さんはいわゆる一般の〈男〉には分類されないと思いますけどね。神無月さんの女も同じです。一般の女心は私の不得意分野なので考えたこともありません。とにかく、待ってます」
「よろしく」
 きょうもキクエの部屋。戸を引いて覗くと、二人で東野英治郎の水戸黄門を観ていた。晴れやかな笑顔が二つ振り返る。
「キョウちゃん、いらっしゃい!」
「したら帰るね」
「はい、和子さんから電話がありました。私たちもこれから勉強があるし、あした早番なのでちょうどよかったです」
「この次は泊まりにくるからね」
 二人とも来年一階級昇進することが決まったと言った。節子が、
「このあいだ二人で牛巻病院にいってきたの。むかしのお友だちに会って、少しお話しました。病院が経営難で、もうすぐ取り壊されるらしいの。神宮までの道を歩いたわ。泣いちゃった。キクちゃんも泣くのよ。ここをキョウちゃんが歩いたのね、って」
 すぐに寝室に蒲団を敷いて営みが始まる。二人とも清潔な石鹸のにおいがした。安全日だったキクエに吐き出した。節子もキクエも疲れていたのか、激しく達したあと、そのまま寝入ってしまった。毎日懸命に働いているのだ。……しみじみと寝顔を見つめた。
 私は非情な人間だ。勘のするどい女は非常さを警戒する。私の母はその最たるものだったかもしれない。よく私に、冷酷な男だと言った。彼女は最初父の温かなにおいに魅かれたけれども、やがて非常さに気づき、その非情さを完全には折伏できないと本能的に感じた。支配したいと願ったが、手に入れられないと知った。温情家は単細胞だから、簡単に入手できる。父のような酷薄な男は、希少でもないのに手に入らない。
 九時をすこし回って、菅野の車で北村席に帰った。菅野は運転席から私の横顔を見て、
「つらくないですか?」
「別に。風が吹くままだから。いい風だから意に介さないし、耐えようとも思わない」
「神無月さんは逆境が好きなんですね。苦しいことがほんとに好きなんですよ。自分が蒔いた種か他人が蒔いた種かわかりませんけど、いちいちぜんぶ刈り取る人間なんかいませんよ」
「菅野さんは映画なんか観ないの」
「何ですか、やぶからぼうに」
「暇なく働いて、映画なんか観る楽しみも持てないんじゃないかと思って。嫌いなわけじゃないんでしょう?」
「はい。でもかぎられたものしか観ませんでしたね。私は舞台女優の水谷八重子のファンで、御園座で彼女が出演するときはかならず観にいきました。花の生涯、皇女和の宮、十三夜、鹿鳴館、明治の雪。去年巡ってきた寺田屋お登勢も観にいきました。もちろん彼女が出演する映画は熱心に観ました。三本しか出てないんですが、ぜんぶトーキーです。七歳のときに観た大尉の娘、終戦直後の昭和二十一年でしたか、十七、八歳のころに観た大映の瀧の白糸、二十五、六のころに観た明日の幸福。瀧の白糸の四十一歳の水谷八重子がものすごく美しかった」
「好事家的な鑑賞の仕方ですね。水谷八重子……知らない人だ。瀧の白糸なら、入江たか子という人のサイレント映画を深夜テレビで観たことがある」
「それはずっと前の無声映画です。大正十二年前後じゃないかと思います。何かの映画雑誌に載っていたグラビア写真をかすかに憶えてます。瀧の白糸は、私が生まれる前の大正四年あたりから昭和三十一年の若尾文子まで、六回も映画化されてます。私は四回目と、若尾文子の六回目のも観ました」
 ほとほと感心する記憶力だ。
「私は昭和四年年の生まれですから、サイレントからトーキーの時代を跨いで生きてきたわけだけど、あくせく生活してたせいでほとんど映画なんか観たことがなかったですね。これからは、神無月さんが出かけるときはついていくことにします」
          †
 座敷でみんながテレビを観ている。スパイ大作戦。睦子の姿はなく、千佳子は二階に上がったようだ。居間にくつろぐ。主人夫婦と世間話をする。
「四年前に開通した名神高速道路につづいて、いよいよこの二十六日に東名高速道路が全線開通ですよ。これで名古屋から阪神地区へ二時間、五時間でいけることになりました」
「これまではどれくらいかかってたんですか」
「五時間と九時間半です」
「半分くらいになったんですね。どちらにも〈名〉がつくのがうれしいな」
「東京、名古屋、大阪ですから、どうしても中心になります」
 主人と菅野が最後の見回りに出かけた。テレビが夜のヒットスタジオになった。女将も座敷へいった。私も則武へ帰ろうと立ち上がると、トモヨさんがコーヒーを持ってやってきて、
「試合から帰った夜だと郷くんが疲れているだろうから、このところ遠慮してましたってイネちゃんが言うの。いまちょっとしてあげてくれませんか? 離れの郷くんの書斎です。終わったらそのまま寝てしまえばいいですから。ごめんなさい、さっきのいまでお疲れでしょうけど」
「わかった」
 離れの寝室にいき、裸で横たわってイネを待つ。小走りの足音が廊下にして、書斎にイネが飛びこんできた。もどかしげに全裸になると、大きな胸を私の胸に押しかぶせ、ベロベロと口を吸う。
「ああ、好ぎだ、好ぎでたまんね」
 イネは抱いてやるのがいちばん少ない女だ。ひどく敏感なからだを何週間も放っておくことが多い。挿入しただけで跳ね上がるほどのアクメに達するので、時間が少しでもあったら手早くすましてやればいいのだが、なかなかそのチャンスがない。
 仰向けにし、下から尻を抱えるように脚を開き、亀頭をグッショリ濡れた膣口に当てる。それだけで襞が亀頭をくすぐる。
「入れるよ」
「はい……入れ……ううーん、イグ!」
 腹が跳ねる。猛烈な緊縛が始まる。イネとするとありがたいことに私にもすぐに迫る。
「イネ、もうイクよ」
「はい! イッてけんだ、ワもイグ、ああ融げる! あ、イグイグイグ!」
 発射する。連続の律動を伝える。
「グッ、イグ! はああ、イグ! あ、イグイグ、イグウ!」
 愛液で陰毛がグッショリになる。イネは私の尻を抱え、陰毛をこすり合わせるようにグイと引き寄せる。
「死ぬ! 死んでまる! アツツッ、はああ、イグ! だ、だめだ、だめだ、イグ! イグ! イッグ! あああイグじゃァ!」
 腰を止め、強く抱き締める。腹が跳ねる。留めなく愛液をほとばしらせる。アクメの発声が、愛してる、の連呼に替わり、涙を流しながら口を吸ってくる。痙攣が落ち着き、二十五歳の成熟した胸が狂おしく私の胸を圧(お)す。びっしょり脂汗をかいている。
「死ぬほど好ぎだ、いっとぎも忘れられね、ああ、好ぎだ」
 イネはゆっくり、ゆっくり離れて、一度ウッと腹を絞ると、そろりと並んで横たわる。
「ああ、うだでぐイッてまった。おなごのからだって、仕方ねな」
「イネのからだがだよ」
 イネはヒャッと叫んで尻の下を手で探り、
「わあ、墨たっぷり吐いてまった。トモヨ奥さんに謝らねと」
 そう言って、丁寧に舌を使って私の性器の清掃にかかった。一日四、五回ぐらいの射精は何ということもないとわかった。ただ、陰茎の裏の先端部が少しヒリヒリし、見ると薄っすら血が滲んでいたので、さまざまな形状をした膣と時間を置かずに性交するのは控えめにしなければならないと思った。
         †
 五月十三日火曜日。六時、一人で目覚める。カーテンを開けると霧雨。十七・二度。
 うがい、歯磨き。だれもいない居間にいき、主人のスクラップブックを眺める。厨房は朝の仕度の真っ最中。ソテツがコーヒーを持ってくる。主人夫婦、トモヨさん母子、千佳子、キッコと天童と丸が起きてくる。
「睦子はきのう帰ったの?」
「はい、一限から授業なので」
 遠征当日であることを見計らって、朝七時に菅野がランニングの伺いにきた。
「霧雨なのでやめておきましょう」
「わかりました。私もやめます」
 一家が朝食にかかる。私は食卓に加わらず、芝庭に出る。霧雨の中、パンツ一枚で素振りと一升瓶のみ。玄関からトモヨさん母子と千佳子が見物する。
「直人は休み?」
「雨で室内のお遊びになりますから、いきたがらないんです。外遊びとお散歩はお昼前なんです。直人はそれが大好きで。でも、八時半にちゃんと連れていきます」
 カズちゃんと素子とメイ子が百江といっしょに数寄屋門を入ってくる。朝めしを食べにきたのだ。カズちゃんは食事代を驚くほどたっぷり北村席に入れている。それを自分と私と私の取り巻きの分だと言っている。則武で朝と夜の食事の仕度をすることもあるけれども、私がいるときにかぎられ、せいぜい五日に一度ぐらいだ。だからほとんど北村席で食事をとる。排便、シャワー。主人が、
「富沢さんから、またスパイクが三足届きましたよ。ミズノさんに頼む必要なんかないですな」
 満面の笑顔で言う。カズちゃんが、
「お礼の電話しといたわ。ウイロウと鬼マンジュウも送っといた。フジのみんなもシンちゃんも元気だったわよ。シンちゃんは、三年ぐらいしたら、南三丁目のほうにお好み焼屋ふうの居酒屋を出すことを計画してるんだって。ジャズ喫茶棗(なつめ)の通りをまっすぐ百メートルくらいいったあたり」
「風呂屋を通る道だね。フジは何丁目?」
「三丁目。あのあたり一帯はぜんぶ三丁目」
 八時から一家で十五分間の特集番組『魔神・神無月』を観る。直人が私の膝に座る。
「おとうちゃんだ」
 と手を叩きながら指差す。デビューから先日の騒ぎまで、時おり私や水原監督のインタビューを挟みながら、じつにじょうずに編集してあった。
 ―野球小僧が魔神と呼ばれている。
 私はゴロリと横たわり、直人を腰に乗せて目をつぶった。
「このあいだまで校庭で野球をしてたコワッパが、魔神になっちゃったか。どうも恥ずかしい。単なる成り上がり者を魔神にしたら、過去のほんものの魔神たちが怒るだろうなあ。五十四本でやめておけば、こんなに馬鹿騒ぎはされないだろうし、五十五本も守られる」
 千佳子が目を剥き、
「本気ですか! 神無月くん!」
 カズちゃんが微笑みながら、
「五十四本でわざとやめたとしても、だれもわざとだとは思わないでしょう。驚いたり疑ったりする人がいるかもしれないけど、やっぱりそんなものだろうと日本中が納得するわ。王さんの業績が大きすぎるからよ。でもね、キョウちゃん、その三倍だって打てるホームランを途中で放棄したら、キョウちゃん自身が納得するかしら? 水原監督や江藤さんや中さんや高木さん、そのほかのチームメイトたちをガッカリさせる勇気がある? 成り上がり者かコワッパか知らないけど、大きな才能を持って生れてきた人が騒がれるのはあたりまえでしょう。コワッパのときも周囲の人たちに大騒ぎされてたじゃないの。プロ野球という規模になると、もう空騒ぎじゃないの。根拠のある崇拝なのよ。崇拝は拒否できないでしょう。天才が世間の雑音なんか気にしちゃだめ。そんなものうれしい声援だと思って、同じような天才たちといっしょに飽きるまで遊んでいなくちゃ。私は魔神の相棒の女神でしょ? 女神はそんな気まぐれ許さないわよ」
 菅野が、
「つらいもんですね。だれでも見上げられたくて天上を目指すのに、天上からこっそり降りてきて、目立たないように下界で好きな遊びをしているつもりが、おまえはだれだって言われるんですからね。たしかに降りてこなきゃよかったという気持ちになりますよ。でも、下界にしか野球はないし。―神無月さん、お嬢さんの言うように拝まれてると思って、騒いでる人は無視。悪気はないんです。びっくりしてるだけなんですよ。五十四本? 冗談もほどほどにしてください。百本、百五十本なんてホームラン、だれが打てます? 気が進まないでしょうけど、遊びついでに神さまの力を見せてあげてくださいよ」
 千佳子が、
「そうよ、五十五本に遠慮なんかしないで、百本でも二百本でも打ってください。そしてもっともっと拝まれてください。私は高校時代から拝んできたんです。どこから見ても人間じゃないから」
 女将が、
「野球、やめんといてね」
 と哀願するように言った。私は直人を抱き上げ、
「水原監督や江藤さんたちが野球をやっているあいだはやめません」
 キッコが抱きついてきた。直人がキッコを両手でどけようとした。座敷じゅうに笑いが上がった。


         二十三

 素子が千佳子の顔を見ながら、
「名鉄が、六十二号記念切符を発売するんよね。こないだ千佳ちゃん言っとらんかった?」
「そう、神無月くんがマリスの記録を破る六十二号を打った翌日に売り出します。乗車用じゃないんです。切手みたいなもの。攻走守三種類ですって」
 主人が、
「百枚ずつ買わんとあかんな」
「一人五枚までです。ムッちゃんと買いにいくことになってるんです。コンコースに長蛇の列ができるだろうって」
 菅野が、
「社長、私が徹夜で並びますよ」
「ワシも並ぶ。床几を持っていこう」
 睦子が、
「名鉄の特急の停まる駅ぜんぶで発売するそうです」
 カズちゃんが、
「アイリス組も並ぶわ。北村席で買い占めないと」
 ソテツとイネが、
「私も」
「ワも」
「私と直人の分も買っといてくださいね」
 トモヨさんの明るい声に座が和んだ。
「おとうちゃん、えんしぇ、かえったら、メイチカ、おさんぽ」
「うん、約束したぞ。楽しみに待っててね」
「うん」
 八時半になって、トモヨさん母子が菅野と傘を差して保育所に出かけた。アイリス組も立ち上がる。カズちゃんが、
「きょうから九連戦の遠征になるわ。当分逢えないわね」
 丸が、
「……五十五本も守られると言ったときの顔が、怖いくらいさびしそうで……ゾッとしました」
「最初、冗談を言ってると思ったでしょ? 冗談じゃないのよ。本気なの。人に慰めてもらおうとか、思い留まらせてもらおうとか考えてものをしゃべる人じゃないから。千佳ちゃんがびっくりしたのはそのせいよ。覚えておいてね。私たちがいなければ、日本じゅうのテレビに映ってるこのホームラン王が、すっぱり野球をやめてしまうかもしれないの。あんな太鼓持ち番組のせいでね。キョウちゃんは自分の才能は自分にとってはうれしいものだと思ってるけど、他人にもうれしいものだとは信じてないの。ほんとにうれしいんだろうかって、ふっとさびしくなっちゃうの。だから、心からうれしいと思ってる私たちが信じさせてあげなくちゃいけないの。心からうれしがってくれる水原さんや江藤さんたちを思い出させてあげなくちゃいけないの。ぜんぶ私たちの務め。キョウちゃんの才能はもちろん好きだけど、キョウちゃんと、キョウちゃんが愛されることがいちばん好きな私たちだから、キョウちゃんを納得させられるの。それが私たちの役目。キョウちゃんにとつぜん襲ってくるさびしさを吹き飛ばしてあげること」
 イネが、
「さびしぐなると、やる気がなくなってまるんだべが」
 千佳子が、
「神無月くんのさびしさって、人恋しい孤独感とはちがうんです。ふっと吹いてくる、ヒンヤリした風。何もかも冷たく感じて、暖かいところへいきたいと感じさせるような。理由はないんです。血、細胞、体温、そんな感じ。ムッちゃんがいつも言ってるけど、それが神無月くんの魅力のすべてだって。さびしさに打ち克とうとして生きてる神無月くんがたまらなく愛しいって」
 カズちゃんが、
「そう、そのさびしさが最高の魅力だけど、根が素朴で明るい人だから、陰と陽が絶妙のバランスを保ってるの。赤ちゃんがフッとさびしい横顔をするみたいなもの。でも、キョウちゃんは大人だから本気で思いつめちゃうことがあるのね。私たちが寄ってたかって叱ってあげないと、たいへんなことになるわ」
 主人が、
「その苦労も、私の生甲斐ですよ」
 女将が、
「うちら夫婦も初めてする苦労やが。でも、ズシンとくる苦労やから、楽しいわ」
 ソテツが、
「知らなかった……血とか細胞だなんて。私、神無月さんを守ります」
 カズちゃんが、
「お願いね。ふだんは放っといていいのよ。何かへんなこと言いだしたときだけ」
 私は、
「まるでぼくはキチガイだな」
「そ、キョウちゃんはかわいいキチガイ。守り甲斐あるわよ。じゃ、私たち、いってくるわ」
「いってらっしゃい」
 みんなで応える。私は彼らと一生結ばれている。しかしそう感じるより、常にそばにいて、言葉で表わせない記憶をともにするほうがすばらしい。
「じゃ、ぼくは朝めしにする。ソテツ、天ぷらきしめん作って」
「はい。海老二本とナスで」
「弁当は要らない。向こうに着いたらすぐ昼めしだから」
「はい。お弁当は午後の出発のときだけにします」
 菅野とトモヨさんが保育所から帰ってきた。近記れんと木村しずかが降りてきて、私と同じものをリクエストした。
         †
 十時四十五分。スーツ姿の江藤が一人で迎えにきた。
「ゾロッと駅で待っとるけん」
 トモヨさんにブレザーを着させてもらい、ソテツの用意したダッフルとスポーツバッグとバットケースを持つ。スポーツバッグには初めてウィンドブレーカーを入れた。本は持たなかった。ホテルでは、活字をやめてテレビというものを徹底して観てやろうと決意している。トモヨさんと千佳子にキスをする。主人と菅野以外の見送りを断り、霧雨の中、江藤と駅へ。菅野が、
「五月十日から、一等車はグリーン車と名称変更になったんです」
「なんか高級感が増したね」
「はあ、料金は同じです」
 改札に高木、太田、菱川が待っていた。主人と菅野と握手する。主人が、
「そろそろローテーションの谷間でしょう」
「ほうです。うちは三本柱ですけん、しょっちゅう谷間みたいなもんですが、それでも主力を使いすぎとるきらいがあるけん、四番手以下のピッチャーにがんばってもらわんと息切れするやろうもん」
 高木が、
「郷の先発は浜野だろうから、へたすると大敗がありますね」
 菱川が、
「アトムズは松岡一本。うちは若生を中継ぎにして、板東さん、門岡さんまでいくんじゃないですかね。松岡から何点取れるかな」
 松岡からはオープン戦で一回対戦して、犠牲フライ、公式戦では三打数一安打だ(センター横のポテンヒット)。つまり当たり損ねのヒットを一本しか打っていない。菅野が、
「気楽にやってください。ラジオで応援してます」
 十一時七分のひかりの〈グリーン車〉に乗る。高木の同乗がうれしかった。雨の貼りついた窓の景色に関心なし。さっそく高木の話が始まる。
「俺の実家は岐阜のお百姓さんだ。生まれたのは名古屋市だけど、家が火事になって焼け出され、三歳のとき岐阜県の岐阜県の鏡島(かがしま)村というところに移った。そこで一家が農業をすることになった。おかげで小さいころから裸足で野原を駆け回ってたよ。足腰のいいトレーニングになった。アメリカの爆撃機が頭の上を飛んでたな。四歳のときに終戦だ。小学時代も勉強、遊び、野球と伸びのび育った。刈り入れの終わったたんぼや石ころだらけの空地がグランドだった。中学校から野球部に入ったけど、弱いチームだった。そういうチームにいても、頭角を現すと褒められるし、認められるから、どんどん野球にのめりこんだ。野球ばかりに明け暮れていたわけじゃない。勉強、家の手伝い、子守。どれもこれも集中して励んだ。名門県岐阜商の野球部に入ってから守備の楽しさを覚えた。と言っても、一年生は球拾いしかさせてもらえないから、守備につくなんてことは望めない。そこで一計を案じた」
 三人は身を乗り出した。
「バッティングキャッチャーを買って出たんだ。マスクだけのプロテクターなし」
 太田が、
「それヤバイすね」
「だから、レギュラーはもちろん、補欠もやりたがらない。補欠の補欠みたいなやつらが順繰りやらされてた。それを買って出たんだ。恐ろしかったけど、とにかく練習に参加させてもらえるからね。ほんの少しだけどフリーバッティングもさせてもらえる。これがなかなか目立った。部員百人、有無を言わさぬ打撃力ならいざ知らず、並以上ぐらいじゃレギュラーに遠い。悶々とバッティングキャッチャーをやってたよ。ある日、ついに一年生の守備テストが行なわれた。これは断トツで目立った。もともと平均以上だったバッティングと合わせて、監督が俺をレギュラーに登用しようと考えた。でも、守備がいいというだけで一年生を使ったら上級生にいじめられると思って、立教の知り合いに頼んで、何人か選手を連れて見学にくるように取り計らったんだ。俺の守備力を無理に褒めてもらうためにね。選手たちは十日間の合宿でやってきた。な、なんとそこに長嶋がいたんだよ。彼に初会で目をつけられ、十日間猛ノックされた。長嶋は俺をセカンドのレギュラーにするよう監督に言ってくれた」
 高木の低いトーンの饒舌な語り口は私たちを飽きさせなかった。私は、
「こと野球に関する長嶋の鑑識眼はすごいんですね」
「野球しか頭にない人でね。金太郎さん……今回のことも、野球以外のことが面倒で、インタビューに応じないんだと思うよ。ほんとに川上を尊敬してるかどうかは疑問だな」
 菱川が、
「ですね、川上と関係なく、チームの顔としての信念があるんじゃないですかね。なんとなくでしょうけど、神無月さんに頭を下げて王者の風格を失いたくないというか……。入団の年の八月から十一年間、常勝巨人軍の四番に座ってきた男ですから。で、長嶋は何か高木さんにアドバイスしてくれましたか」
「守備は前に出ることだ、と言った。あの言葉がいまだに支えになってる。バッティングもそうなんだ。バットを長く持って前で叩くことを心がけた。金太郎さんのよく言う遠心力の最高ポイントを前に置くというやつだね。甲子園の決勝で中商と当たったとき、その打ち方で初打席に三塁打を打った。その日は皇太子ご成婚の日で、テレビ放送のない決勝戦になった。甲子園では試合前に二千五百羽の鳩が放たれた。負けたけど、いい思い出だ」
「それから中日に引っぱられたんですね」
「うん。ドラフトのない時代だったからね。県岐商は早稲田進学のレールが敷かれてたからそのつもりでいたけど、杉下監督と天知ヘッドコーチがやってきて、プロにこいと言うんだ。学校側は早稲田に進学しろと言う。親や監督までプロではまだきびしいって突っつく。とうとう最後に平岩球団代表の特命で、当時ドラゴンズの内野手だった県岐商出身の国枝利通さんがやってきて、両親を説得した。で、契約金三百万円でドラゴンズに入った」
 やはり中日ドラゴンズは、ほんとうにほしい選手がいるときは、球団代表を送りこんで獲得しようとするのだ。太田が、
「三百万て、十年後の俺と大差ないですよ。すごいな」
「大したことないさ。長嶋の千八百万を考えてみろよ。もちろん器がちがうけど。俺は中日ドラゴンズに入団したおかげで、早稲田ルートの県岐商OB会からしばらく除名されてた。入団一年目のことは、明石で金太郎さんに話した。大洋戦で代走で出て二盗を決め、初打席でホームランを打った。昭和三十八年、四年目のレギュラー定着の年に背番号1が回ってきてね。濃人監督がつけていた背番号だ。それまでは41番だった」
「覚えてます。小五から中一までがいちばん野球を観た時代ですから。バットを立てて右肩から首筋のほうへ傾け、左下の地面を見つめてるような構え。格好よかったなあ。いまもまったく変わりませんね」
「新人入団式で、七番セカンド高木、背番号41とやったそうだね。1番をもらえるということは、それだけ期待されてる、それだけの力があると見なされてる証拠なんだ」
 江藤が、
「モリミチの守備はまさに名人芸やけんな。バックトス、グラブトス。ベストナインをもう五回も獲っとる」
 菱川が、
「神無月さんのベストナインは決まりでしょう」
 太田が、
「入団のときから決まってますよ」
 高木が、
「野球をつづけるかぎり、ずっとベストナインだろう。そんな一般の賞なんか、金太郎さんにはどうでもいいんだ。俺もそうだ。守備が楽しいだけだ。セーフになるはずの走者をコンマ何秒かの差でアウトにできたら、そのワンプレーで試合の流れが変わる。そう信じて半田コーチにつきっきりで、三年がかりでバックトスを習得した。一枝にトス、一塁に転送、アウト。明石でその練習をしていたとき、これぞプロ野球、と水原監督に褒められた」
 遠慮がちに笑った。


         二十四

「中さんと連携でよく走ってますけど、何かサインを出し合ってるんですか」
「コンビという感覚はなく、どちらかと言えば以心伝心だね。中さんは何も考えてない。どうやったら塁に出られるか、塁に出たら、どうやったら次の打者のヒットで、二塁じゃなく三塁、三塁じゃなく本塁へいけるか、といつも〈感じて〉る人なんだ。だから俺はヒットを打つことだけを〈考えて〉る。たいていヒットエンドランになる。ノーサインでやる。もともとドラゴンズというチームはサインを出さないチームで、西沢監督なんか、おまえたちにまかせると言ってたんだ。ブロックサインの水原監督がきて、すわっとあわてたけど、結局ノーサインが基本になってホッとした。中さんが凡退して俺が塁に出たときは極力走るようにする。おかげで、背番号1をもらった昭和三十八年に、その四年前に中さんがタイトルを獲ったのと同じ五十個で盗塁王を獲った」
 高木は、衒いもなければ卑下することもなく、ときには笑い声を上げたり、顔を赤らめたりしながら、淡々とした調子で私たちに語った。彼がそのように淡々と語るということ自体、これまでさまざまな辛苦を経験し、そこを突き抜けてきたのでなければできないことだと思った。
「あのう……」
「きたきたきた、金太郎さんの質問」
 高木が喜んだ。菱川が、
「また笑わすんじゃないでしょうね」
「笑うと思います。ヒットエンドランとランエンドヒットは、どうちがうんですか」
 だれも笑わなかった。高木が、
「投球と同時にランナーが走るのはまったく変わらない。盗塁とも見分けがつかない。そのあとでぜったい打たなくちゃいけないのがヒットエンドラン。コースと球種を見て打つか見逃すか決めるのがランエンドヒット。ランエンドヒットは盗塁失敗に終わることも多い。もちろん成功もあるけど」
 みんなうなった。高木が江藤に話しかける。
「杉浦監督になった年から、ユニフォームもドラゴンズブルーに変わったっけね」 
「ワシャ、何も憶えとらん。球団から支給されたユニフォームを着るだけや。去年のノースリーブは好かんかったな」
「慎ちゃんの筋肉隆々がみっともないって、さんざん新聞に叩かれたね」
「おお、心外やった。この美しか筋肉をコケにされて」
 太田が、
「美しい筋肉というのは、神無月さんのような筋肉のことを言うんじゃないすか」
「それを言っちゃオシメエよ」
「中日のユニフォームは、青森高校カラー、東大カラーといっしょなので驚きました。小学生のころの記憶にあるのは、帽子とシャツとストッキングが濃い紫。菖蒲色というのかな。ユニフォームは白、赤い縁取りのロゴ。あれもすばらしかった」
 高木が、
「俺はね、盗塁王しか獲ったことがないし、打撃のタイトルに関してはこれからも獲れないだろうと思う。永遠のバイプレーヤーを自覚してるんだ。とんでもないバッターを生まれて初めて見てしまったし、これまでの野球生活でいろいろな選手に感動したことは何だったんだろうって思うほどだからね」
 高木より入団が一年先輩の江藤が、
「ワシも同じたい。王、長嶋どころか、伝説のベーブ・ルースが霞んでしもうたばい。何が驚きかって、金太郎さんのこのガタイや。ルースは百九十センチ、百キロもある大男やけん、打つやろな、飛ぶやろなと思う。ところがこのからだば見んね。なんでこんなに打つんか、なんであそこまで飛ぶんかと思うやろう」
 太田が、
「思いました。小学中学のときも、どの学校も神無月さんのために校舎に金網を張ったんです。とにかく果てしなく飛んでく。俺よりも小さい男だったんですけどね。中一のとき百六十二、三しかなかったんじゃないかな。俺は百七十もある大男だったけど、一塁線とか三塁線を抜いて喜んでるやつでした。それが格好いい野球だと思ってたんですよ。もし神無月さんが将来野球選手になれないとしたら、プロ野球界って何だろうって、子供心に思いました。高木さんや江藤さんの気持ちがよくわかります」
 巨漢の菱川が、
「そんなに小さかったんですか!」
「はい。小六の春百四十九センチ、中一の春百六十そこそこ、高一の春百七十四センチ、大学一年の春百七十八センチ、いま百八十二センチです。この三、四年で七、八センチ伸びました。特にこの一年で四センチ伸びたのは不思議です。むかしから背丈の低いホームランバッターは多いし、小さいままでもじゅうぶん飛ばせてたから何も気にしてなかったんですけど、神さまが背を伸ばしてくれたので、プロ野球界でどうにか格好がつくようになりました。ヨギ・ベラって知ってます?」
「おお、ヤンキーズのキャッチャー。引退したやろ」
 私は主人の知識をそのまま口にした。
「はい、三年前に引退しました。三百六十本もホームランを打ってます。彼は百七十センチしかありません。ただ体重が九十キロです。肥満体型じゃありませんが、中西太と身長体重は似てます。そして、実働年数が同じなのに、中西よりも百二十本も多くホームランを打ってます。ホームランと上背は関係ないというのがぼくの考えです」
 菱川が、
「じゃ、神無月さん、ホームランといちばん関係あるのはどういうことだと思ってますか」
「インパクトの瞬間のタイミングと、ボールの捉え方です。肘は伸びていても縮んでいてもかまいません。片手でも両手でもかまいません。バットのスピードが最大になるタイミングで、バットの重心をボールの中心よりほんの少し下に当てるんです。呼びこんで打てとよく言いますが、それはアベレージヒッターが短打を打つための方法です。バットにスピードがのらないうちに打つわけですから、短打になるのが当然です。ホームランを打つためには、ボールを引きつけてはだめですし、真芯に当ててもだめです。真芯で捉えたボールは回転を与えられていないので遠くへ飛びません。たいていラインドライブしてお辞儀します。ダウンスイングは、高目を打つときには芯を食う可能性が多少ありますが、低目を打つとほとんどゴロになります。高目は確実に芯を食うためにレベルスイング、低目はゴルフスイングをしなくちゃいけない。ひどい高目やひどい低目は手を出さないにかぎります」
 高木が菱川に、
「いまので学べたか?」
「いえ……理屈はわかるんですけど。神無月さんの振り出しスピードなんかモロに見ちゃってるから……」
 江藤が刈り上げた髪を掻きながら、
「いちばん知りたいところは学べんっちゃ。ワシも、ゴルフスイングをするときの手首の使い方を知りたかったけんが、見えん。明石のころから何べんも見てきたばってん、見えん。たぶん金太郎さんは意識しとらんから、人に説明できん」
 高木が、
「ね、このレベルの人間に食いこまないと打撃のタイトルは獲れないんだよ。バイプレイヤーに徹するしかないということさ」
 富士を見るのを忘れた。考えると、雨の窓の外は見えないのであたりまえだ。江藤が、
「モリミチは長嶋に恩義ば感じとるし、金太郎さんは、長嶋は何も考えとらん純粋野球人間やと言う。あの四打席四三振の前の日、背広ば着た長嶋とユニフォーム着た金田が、わざわざ後楽園のバックスクリーンば背にして握手する写真ば撮らされたっちゃん。スター長嶋にあこがれる国民感情ば煽り立てるために、報知新聞がやったことばい。金田はその企画ばすぐ見抜いて、無礼な写真だ、これがどういう意味の写真かわかるだろう、長嶋はバックスクリーンへ打ちますよ、ワシはバックスクリーンへ打たれますよ、という意味だ、と言うた」
「長嶋は入団以来、センターにホームランは一本も打ってません。高校時代にたった一本ホームランを打っていて、それがセンターバックスクリーン前の芝生です。大宮球場でした」
「ほうね、気づかんかった。でな、そんバックスクリーン前の写真を撮った当日の朝、長嶋はしゃーしゃーと金田の家でめしばごちそうになっとったっちゃん。それも報知新聞のセッティングやった。金田はそういう、理屈が通らんマスコミの要求にも、はい、いいですよ、何でもやりましょう、と応じたっちゃん。めしのあとで長嶋は、きょうは胸を借ります、と頭下げんばいけんかったとに、天下の金田に向かって、おたがいがんばりましょうて鉄面皮なことば言うたげな。あの二人が巨人で噛み合うわけがなかろうもん。金田は人間ができとる。できとる人間ができとる金太郎さんば庇うのはあたりまえたい。長嶋は野球バカで罪のなか男かもしれんが、こすからかもんば疑わんとついていくだけの骨なし人間ばい。川上に逆らうはずがなか。王の父親は、人間として恥ずかしいことをするなといつも言うそうや。今回も王は人間としてきっちりケジメばつけた」
 この二、三日、江藤はずっと一つのことを考えてきたようだ。ありがたかった。私は長嶋や王に何のわだかまりもなかった。とりわけ長嶋に関しては、幼いころから耳にしてきた〈真っすぐのストレート〉とか、〈外角のアウトコース〉とか、〈シャープにするどく曲がる〉とか、〈始まりのスタート〉とか、〈夢のドリーム〉、〈疲労からくる疲れ〉、〈一年目のルーキー〉といったような素っ頓狂な言葉に笑いもせず、しみじみ救われてきた。長嶋茂雄はたぶん本来的な馬鹿ではないだろう。南海を裏切って巨人へいったのだから。たぶん浜野と同じように権威的な希望に燃えて。どれほど比較されても、彼は私とはちがう人種だ。私は笑いながら高木に話しかけた。
「高木さんのいまの家はどこなんですか」
「昇竜館。いや、冗談じゃなく、シーズン中は寮に泊まることが多い。女房が待ってる家は東山。ときどきあのアメ車で帰るんだ。実家は岐阜市。一年に一回は帰る」
 江藤が、
「モリは去年の春、小山オーナー媒酌で結婚したばかりやけんな。西川流名取の中川奈津子さん。ベッピンさんや。毎日でも帰りたかろう」
「それはないな」
 菱川が、
「結婚式は名古屋観光ホテルでしたね」
 江藤が、
「おう。媒酌人のもう一人は、大洋紡績の浅野専務やった。三月八日か、もう一年以上になるばい」
「うん、少し飽きがきた」
「嘘つけ。ナッちゃんがお腹大きゅうしとるけん、手持ち無沙汰なんやろう。ワシもいずれ女房子供を呼び寄せて、東山のほうに家を建てんばいけん」
「それ、慎ちゃんの主義じゃないだろ。寮暮らしの闘将。そのイメージが壊れるよ」
「ウハハハ。モリミチの外車もイメージとちごうとるぞ」
「今年の北陸遠征は団体行動をとったけど、去年まではカローラでいってたんだ。CBCのアナウンサー連中を乗せたりしてね。今年からはだめだな。人を乗せられない車になっちゃったから。そういえば、金太郎さん、プロ入り初打席初ホームラン、二打席連続ホームラン、四打数四安打だった?」
「いえ、六打数四安打です。白石を打ちあぐねて、三打席目はファーストゴロ、四打席目はファーストライナーです。五打席目は大場からチョコンと当てた二塁打、六打席目は宮本からホームランを打ちました。この日二本目のアベックホームランでした」
「鬼の記憶力たい。ワシャ、白石に苦労したことしか憶えとらんぞ」
「俺もだ」
 太田が、
「俺はなんにも憶えてませんよ」
「太田は三振とセカンドフライで、一枝さんに代えられた」
「そうだった! ほんとに鬼ですね」
「生れて初めての公式戦第一戦だったから」
 高木が、
「コンピューターが打席に立ってることをだれも知らないだろうな」
「高木さん、どうして四打数四安打かって尋いたんですか」
「金太郎さんの尊敬するマッコビーが、デビュー戦四打数四安打だったから、ひょっとしてと思ってね。六打数四安打三ホームラン、か。マッコビーの最長不倒は百五十二メートルだから、それもとっくにクリアーしてしまった」
 雨が上がっていた。名古屋駅のホームと同様、品川駅のホームにも報道陣がひしめいていた。この新幹線に乗っていることをどうやって聞きつけたのだろう。彼らはひたすら忍び寄り、知らぬ間に遠ざかり、潜み、ふたたび現れ、猫背になってフラッシュを光らせる。
 ダッフルを肩に、バットケースとスポーツバッグを手に提げ、山手線で渋谷に出る。地下鉄銀座線で赤坂見附へ。いき当たりばったりのファンにどんなに親しげに声をかけられても、球場や球場周辺以外では知らぬふりの半兵衛を決めこむ。愛想を振舞わない。サイン帳を手に懇願するファンは別だ。心に希望があふれている。どういう心向きからか、ふと、前野アヤ、という名が悲しい色調で頭に浮かんだ。私のために脱毛までした女。ずっと心にあったのだろう。
 一時半、ニューオータニにチェックインし、荷物が到着していることを確認する。部屋は五回階八号室に固定。二時に十六階の『にいづ』で鰻を食うことを四人と約束する。彼らは持参した荷物を部屋に運ぶことを命じ、そのままマッサージルームへ。私は部屋に入り、到着荷物の整理。ユニフォームをソファに延べる。グローブとバットを乾(から)拭きする。それからベッドに寝転がり、テレビを点ける。その瞬間消した。
 前野アヤ。手帳を繰り、セドラの番号を見つける。四カ月逢っていない。しかし、彼女を呼んで交われば、カズちゃんに戒められている過淫になる。きのうきょうと、射精しすぎている。いま勃起の気配もない。しかし、アヤは四カ月もしていない。成熟した女が耐えられるインターバルではない。彼女の名前がふと頭に昇ってきたのはそのこともあったからだろう。さびしい思いをしているにちがいない。せめて電話だけでもしておこうか。サッちゃんのことも心に浮かんだけれども、吉祥寺に呼んでトシさんや雅子や法子といっしょに抱いてやればいいという気持ちが強かったので、いっとき閑却した。私の声を聞けばサッちゃんはホテルの部屋番号を聞き出し、半日と待たずにかならずやってくる。そうして少なからず、家庭の話を聞かされることになる。疲れているからだに世間話は応える。結局、たとえやってきたとしても行為がすめばすぐに帰っていくにちがいないアヤに電話をした。セックスにさえ効率を考えるようになっている自分にイヤ気が差した。


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