五十二

 節子、キクエ、文江さんが駆けつけた。
「あ、節ちゃん、キクエ、誕生日のお祝い品、ありがとう。無理したね。来年からは何もいらないよ」
「私の分はおかあさんと二人分。キクちゃんが奮発したから、ちょっとシャク」
 文江さんが、
「グローブに塗る油くらいで……。いままでいただいた幸せの利子を払わせていただいたようなものですよ」
 女将が、
「うまいこと言うがね、文江さん。毎年品を変えて、死ぬまでの利子だから払い甲斐があるで」
「はい」
「もう利子なんかいらないよ。これからはぼくが払わなくちゃいけない」
 主人が立ち上がり、
「まず神無月さんの二十歳、ソテツの十七歳、おめでとう」
「おめでとうございます!」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
「神無月さん、いつまでもワシらの太陽でいてください。神無月さんが長生きして明るく照らしてくれんと、ワシらは萎んでしまいますからな。それから、王を抜くシーズン五十六号日本新記録、および、六十号ベーブ・ルースタイ記録、おめでとうございます」
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「世界一の野球選手に、カンパイ!」
「カンパイ!」
 直人が驚いてキョロキョロした。菅野が、
「ソテツちゃん、未成年はジュースだよ」
「はい」
「少しぐらいいいじゃないの、お祝いなんだから。はい一杯。百江さんもコップ出して」
 カズちゃんがソテツと百江のコップにビールをつぐ。百江とソテツはうれしそうに飲み干す。店の女や賄いたちも食事を後回しにしてビールを飲む。菅野が、
「社長、じつは私も五月生まれなんですよ。十三日。この場を借りて誕生日を祝わせていただきます。あ、きたきた、すみません。女房子供を呼ばせていただきました」
 イネが女房と秀樹くんを連れて入ってきた。主人が、
「おお、いらっしゃい。どうぞ、適当に坐って」 
「よ、秀樹くん、こっちこっち」
 ケーキ屋ケンちゃんに似た秀樹くんは恥ずかしそうに頭を描きながら、母親といっしょにソテツの背中に控えた。どうぞとソテツは席を譲って厨房へ去った。母親が私に平伏して挨拶する。
「いつも主人がお世話になっております。このたびは、誕生日やら新記録やら、ほんとうにおめでとうございます。今後ともどうぞご昵懇にお願い申し上げます」
「ご丁寧にどうも。お世話になっているのはぼくのほうです。こちらこそよろしくお願いいたします」
 挙げた顔が、『雲がちぎれる時』の倍賞千恵子に似ていた。あらためて秀樹くんの顔を見ると、父親に似た眉の濃い顔をしていた。母親はもう一度平伏すると、女将の隣に坐った。さっそくビールをつがれた。
「中学校はどうだい。もう疑われないかい?」
「はい、いっしょに撮ってくれた写真がありますから」
「書道はがんばってる?」
「はい。ようやく基本終了ということで、お師匠さんの流派から初段をいただきました」
「へえ! すごいね」
「二年ほどの基本を終えると、みんないただけます。十級から初めて、級は毎月認定されますし、段は年に一、二回認定されます。母も二段をいただきました。二段からがたいへなんです。お師匠さんはもう七段で、師範の免状も持っています。滝澤先生は大きな目標です。……あのう」
「ん?」
「六十号、おめでとうございます」
「あ、ありがとう」
「書道は、正しい姿勢と集中力が大事なんです。神無月さんのバッターボックスの姿はまさにそれです。いつもあの姿を思い浮かべながら文字を書いています」
「そう。中学校はやっぱり書道クラブ?」
「いいえ、滝澤先生とちがう先生に習う必要はありません。クラブなんかやってると、練習時間も減りますし。再来月、毎日展の中学生の部に出品することになりました」
「ふうん、しっかりやるんだよ」
「はい!」
 菅野が、
「やあや、いい意味で親に似ない子になってよかった」
「顔は父親似ですよ」
「そうですか? アハハハハ」
 うれしそうだ。
「さ、ここは窮屈だ。お母さんのところへいって、好きなものを、好きなだけ食べなさい」
「はい!」
 菅野にビールをつがれる。つぎ返す。主人が立ち上がり、
「わが神無月郷にひとこといただきます。謙虚なことを言うに決まってますが、そういう話も素直に受け取ってください。では、お願いします」
 私は立ち上がり、
「いまぼくは、うまく因果が巡って成功者ということになっています。成功は挫折の種を宿してることが多いんです。野球選手の場合、それは肩、肘などの致命的な故障です。そうなると引退です。きょうのこの晴れやかさが嘘のように、ひっそりとした人生になります。しかし、ぼくはそれを挫折と思いたくありません。新しい人生の始まりと思いたいんです」
 ワーッと拍手。
「どういう新しい道をたどるかは、そのときになって決めます。そのときも、ぼくはしつこくみなさんのそばにくっついているつもりです。じゃまにしないでくださいね」
 さらに大きな拍手。
「ありがとうございます。故障せずにプロ野球人でいるかぎり、常に渾身のプレーをお見せします」
 私は一礼して腰を下ろした。カズちゃんが、
「おトキさんから電話があって、山口さん、あれから二つの大会で軒なみ優勝したそうよ」
「実力どおりだね。イタリアから帰るまでは、もう連絡はないだろう。三カ月音沙汰なしになるよ」
 素子がキッコとビールをつぎ合っている。ウマが合うのだ。彼女たちに天童と丸も加わった。私はカズちゃんに、
「アヤメ食堂のほうどうなってる?」
「先週の木曜に地鎮祭(じちん)を終えて、いま基礎工事。六月の半ばから七月いっぱいかけて、立派な上ものを作ってもらうわ。内装に八月を使って、九月一日開店かな。お盆明けぐらいに早まるかも。島さんと森さんが三人ばかりいい後輩を紹介してくれるって言うから、厨房のほうは彼らに甘えることにしたの。ホールのほうは募集をかけて、百江さんと天童さんと丸さんを早番中番遅番の差配頭にして、それぞれの番に従業員を五人ほど雇おうと思ってる」
 素子とキッコがやってきて、
「アイリスの隣の鮨屋さんが閉店したんよ。あそこを更地にして上もの建てて、アイリスとつなげて拡張しようって話。これは来年やね、お姉さん」
「うん、そう。拡張したほうを厨房にして、いまの厨房をお店として拡げる。品出しがスムーズにいくようになるし、お客さんもあきらめて帰る必要がなくなるわ。工事は来年の二月から三月ね」
 私は、
「商売って、やる気だね」
「そうよ。客足が悪くなったら努力して、それでもだめなら閉じればいいの。不満が出る前に、工夫に工夫を重ねること。甘えないで一生懸命」
 店の女たちがカラオケを始め、あくびをしはじめた直人が離れへ連れていかれた。遅番の女たちが出かけた。中番の女たちが戻ってきた。北村家の厨房が養うトルコ嬢の口は合わせて十人に足りない。それに主人夫婦、トモヨさん母子、アイリス組五、六人、千佳子と睦子、賄い婦たち十人ほど、菅野と私を入れても全員で三十五人ほどだ。三十五人がいっときに揃うことはないし、席は旅館のように大きいので狭苦しい感じはいっさいしない。めいめいの歓談がつづく。菅野が私に、
「ホームベースと、塁ベースの大きさを暗記しました。ラジオやテレビじゃ仕入れることのできない知識をつけておこうと思いまして。ほかにもいろいろ」
「へえ、野球選手もおおよそのことしか知らないのに。教えてください」
「まずホームベース。前の辺の長さ四十三・二センチ、横二十一・六センチ、とんがりの一辺三十・五センチ」
「四十、二十、三十って覚えてた」
「塁ベース一辺、三十八・一センチ」
「ふんふん。ほかにもいろいろって?」
「投球距離十八メートル四十四センチ、塁間二十七メートル四十三センチ。バッターボックス、縦一メートル二十二センチ、横一メートル八十三センチ。ボックスとボックスのあいだ、七十三・六センチ」
「それがクセモノでね。七十三からホームベース幅四十三センチを引くと、三十。それを二で割ると十五センチ。ホームベースとバッターボックスのラインのあいだね。その十五センチをぼくはしっかり見切るけど、そこを通るボールをストライクにする審判が多い。しめたとピッチャーがつけ上がる。審判の癖として利用しろと言う選手がほとんどだ。目の悪い審判と、つけ上がったピッチャーを懲らしめるために、ぼくはそのコースをボールと判断したうえで打ち返す。たいていホームランをね。そうすると、次からピッチャーは、ぼくに対してだけはストライクゾーンにしか投げてこなくなる。魅せられたように失投してしまうとよく言うでしょ? 失投でもなんでもなくて、正しいコースに投げただけなんだ。審判が気取りをやめて、ストライク、ボールを正しく判定してれば問題は起こらないんだけどね。大リーグの審判のスタンドプレイの真似だね。嘆かわしい」
「富沢なんてのは、名審判でしょ」
「すがすがしいですね。コースどりは一定です。一塁塁審をしてたとき、田淵がサードゴロ打ってドタドタ一塁に走ってくるのを見て、まだ送球が届かないうちにアウトのジェスチャーしてたもの。笑っちゃった」
「へえ、おもしろい人ですね。じゃ、つづいて、キャッチャーボックス、縦一メートル九センチ、横一メートル七十四センチ」
「ふんふん、バッターボックスは幅の広い畳、キャッチャーボックスはミニサイズの畳か」
「両翼ポールの高さ、グランドより十八メートル以上。本塁からバックネットまで十八メートル二十九センチ以上。ネクストバッターズサークルの直径、一メートル五十二センチ」
「だれも知らないことばかりだ。暗記は難しいから、ネクストバッターズサークルを一応頭に入れとくね」
 こんな話を、バカみたい、という目で女たちが聞いている。皿に盛られたごちそうをどんどんつまむせいで、いくらでもビールが入る。
「ションベ、いってきます」
 ワハハハと笑いが立つ。菅野が、
「そんなの断らなくていいですよ。ほんとに赤ん坊みたいに無邪気なんだから」
 トイレに立っていく。ドアの外で、直人を寝かしつけて戻ってきたトモヨさんの声がする。
「ほんとに大記録おめでとうございました。これからもおからだ気をつけてがんばってくださいね」
「ありがとう。ああ、気持ちよく酔った。ぼくはいつも天国に浮かんでる。みんなのおかげだ」
「私たちこそ郷くんのおかげでこの世でないところにいられます。きょうは無理をしないで則武でお休みになって」
「酔ってるぼくでもいいという女がいるなら」
「みんないいと言うに決まってます。でもきょうは休まないとだめ」
 ドアの外に出る。口づけをする。
「東京では疲れたでしょう」
「いや。今夜は離れで寝ようか?」
「きょうは遠慮します。私も疲れました。気を使わないでください。私はいつでも、郷くんが疲れてない都合のいいときに、チョンチョンとしてもらえればいいんですよ。お嬢さんと素ちゃんとメイ子さんも、そういうときにゆっくりしてもらうと言ってました。文江さんは最近セックスの根気がなくなってきたので、二、三カ月にいっぺん自分の口からキョウちゃんにお願いすると言ってました。節子さんとキクエさんは図々しくないですし、向うから声がかかるのを待ってればいいですよ」
「そうする。文江さんは、からだ具合はこれといって悪そうじゃないから、そんなことを言うのは、男女間の気持ちに色気を載せられなくなってきたのかもしれない。仕事が生活の大きな比重を占めるようになったんだよ。からだが若ければ色も欲も仕事と両立させられるけど、年をとると、きっといろいろ億劫になるんだと思う。節ちゃんやキクエも年とってカチカチの仕事人にならなきゃいいけど」
「まだ十年、二十年、若いままですよ」
「……睦子はまだいるんだね」
「今夜は帰って、日曜日の巨人戦を観にいく日に泊まるそうです。その夜に千佳子さんといっしょにしてもらうと言ってました。きょうは則武でお休みなさいね」
「そうする」


         五十三

 食卓に戻ると、菅野にもう一杯ビールをつがれる。
「あさってから走りましょう。あしたは野球教室に送っていきます」
「ありがとう。サボらず走ってた?」
「もちろん。目指すは豊橋マラソンですから。花屋の壁がすごいことになってますよ。みんなが勝手に新聞の写真や記事を持ち寄って貼るんですよ。もう重なり合ってます。客全員でファンクラブを作ってるようなもんですね。川上の悪口で盛り上がってました。何の恨みか知らないが、これ以上神無月さんが割りを食わされるのを黙って見ていられないってね」
 私は秀樹くんに、
「何か、カラオケ唄って」
「はい。おとうさんおかあさんも唄う?」
「私たちはいいの。あなた唄ってらっしゃい」
「うん」
 秀樹くんは控え部屋を通ってステージにいくと、
「神無月さんの誕生日の歌、鯉のぼりを唄います」
 千佳子が機械の調整をした。前奏が流れ出す。秀樹くんは恥ずかしそうにマイクを両手で握って、素朴な声で唄いはじめた。

  いらかの波と 雲の波
  重なる波の なか空を
  たちばなかおる 朝風に
  高く泳ぐや 鯉のぼり  

 私は目をつぶった。幼い私がまぶたの中にいた。浅間下の三畳の板の間。独り。造り付けのベッドに横たわり、母の帰りを待ちながら、借りてきた漫画を読んでいた。寺田ヒロオ、背番号0。野球選手になるなどというあてもなく、バットも、グローブも、ボールさえも持たないころだった。あれから十二年経ったいま、世界が変わった。すてきところになった。私はいま、あてを持ち、広い座敷で大勢の人たちに祝福され、中学生の歌声を聴きながらビールを飲んでいる。もう母の帰りを待っていない。

  ひらける広き その口に
  舟をも呑まん さま見えて
  ゆたかにふるう 尾ひれには
  ものに動ぜぬ 姿あり

 拍手が激しく上がる。いいぞ秀樹、それが神無月さんの姿だ、と菅野が声を上げる。

  もも瀬の滝を 登りなば
  たちまち龍になりぬべき
  わが身に似よや おのこ子(ご)と
  空に踊るや 鯉のぼり

 拍手の中で目を開けると、涙で人の顔が見えなかった。
 ―なんというしつこい思い出だろう。
「うれし涙ですね。気に入ってもらえてよかった」
 菅野がうなずく。
「そう。いまの状況が信じられなくてね」
「天から降ってきた人には、見るもの聞くもの、すべて信じられないでしょう。これがこの世です。楽しんでください」
 秀樹くんが笑顔で戻ってくる。
「ありがとう。感激して泣けてしまった」
「繊細なかた……」
 菅野の女房もハンカチを使った。睦子が、
「秀樹くんの歌が引き金になって、遠いむかしの一コマを思い出したんですね。いま神無月さんが考えていることを文章で読みたい。これから何年にもわたって目が回るほど忙しいでしょうけど、寸暇を惜しんで書いてくださいね。きらめくような才能があるんですから。よく世間では、だれでも生涯に一冊の本なら書くタネがあると言いますけど、まちがった説だと思います。タネはよくても、みごとな文章表現で花を咲かせることはなかなかできません。人が言うタネって、きっと、だれが書いてもおもしろい経験をしたなどというようなものでしょう。神無月さんの文章はそれとはまったくちがう、タネなんか必要としない芸術作品です。秀樹くん、ありがとう。神無月さんは涙を流すとエネルギーが湧いてくるのよ」
「ほんとに秀樹くんありがとう。幼いころの記憶はぼくの宝物なんだ。母を待ちわびていたころのことを思い出した。そしたら、わけもなく涙が流れちゃった」
「ぼく……うれしいです。神無月さんのユニフォーム姿を思い浮かべながら唄いました」
 菅野が耳を立てていた。そして一粒涙を落とすと、息子の肩を抱いた。私は秀樹くんの手を握り、菅野の手もしっかり握った。頭に一人の特定の人がいることで、初めて人びとの心を動かす文章が書ける。ストーリーになるようなおもしろおかしい経験はないが、書かなければいけない人がいる。キッコが、
「神無月さん、いっしょに歌って。銀座の恋の物語」
「よしきた」
 ステージにカラオケのバックグラウンドが流れる。よ! と主人のかけ声。キッコが私の涙を見上げる。理由を訊かず、自分も涙ぐむ。

 キッコ   心の底まで痺れるような
 私     吐息が切ない囁きだから
 キッコ   涙が思わず湧いてきて
 私     泣きたくなるのさこの俺も
 キッコと私 東京で一つ 銀座で一つ
        若い二人が初めて遇った
        ほんとの恋の物語

 ふつうはやんやの喝采が起こるところだが、部屋じゅう水を打ったように静まり返っている。キッコのしゃがれた声に、私の澄んだ声が調和して、哀切な雰囲気を醸し出しているからだ。秀樹くんがあこがれの目で私を見つめている。秀樹くんの母親が口を開けている。菅野がその顔を見て得意そうにうなずく。店の女たちがわれ知らずパチパチやる。

 キッコ   だれにも内緒でしまっておいた
 私     大事な女の真心だけど
 キッコ   あなたのためなら何もかも
 私     くれると言う娘のいじらしさ
 キッコと私 東京で一つ 銀座で一つ
       若い二人の命を懸けた
       ほんとの恋の物語  

 歌詞の軽薄さに涙が退いていき、しっかり歌う気になった。キッコが気分のままに私に腕を組み合わせる。麗しいものを見るようにみんな微笑んでいる。カズちゃんは別の次元のやさしい顔をしていた。私の倦怠を慰撫する顔だ。楽しみなさい、あなたは愛されているのよ、ここは横浜の三畳じゃないの、だれも待たなくていいのよ。
  
  キッコ   やさしく抱かれてまぶたを閉じて
  私     サックスの嘆きを聴こうじゃないか
  キッコ   灯りが消えてもこのままで
  私     嵐がきたって離さない
  キッコと私 東京で一つ 銀座で一つ
        若い二人が誓った夜の
        ほんとの恋の物語

 主人が、
「すばらしい! キッコ、ええ声や。神無月さんの声に溶けこんどったぞ」
 大拍手になった。キッコがみんなに手をとられている。私は素子に、
「素子よりハスキーボイスだね」
「ほんとに、負けたわ」
 菅野がキッコと握手をすると、女房と秀樹に声をかけて立ち上がった。
「じゃ、遅くなりましたので、そろそろ引き揚げます。神無月さん、こいつらにいいものを聴かせていただいてありがとうございました。これからはテレビで神無月さんを見る目が変わるでしょう。しばらくは声が耳についてはなれなくなりますから。キッコ、意外な美声だったよ。驚いた」
「おだてんといて。本気にするがね」
 カズちゃんが、
「ほんとよ、キッコちゃん、すてきだったわ」
「じゃ社長、女将さん、ごちそうさまでした。滝澤師匠、失礼します。今後ともこいつらをよろしくお願いします」
「はいはい。あなた、二、三回きたきりでサボッとるやないの」
「やあ、私は帳簿のほうを覚えるので忙しくて、店回りや送り迎えなどもあるし、なかなか時間をとれません。とにかく二人の面倒を見てやってください。神無月さん、きょうはほんとにありがとうございました。神無月さんが感情の人だったおかげで、秀樹が大人の深い感情というものにシッカリ触れることができました。今後の生き方が大きく変わると思います。じゃ、あしたのちびっ子野球教室、十二時出発です」
「待ってます」
「八時までにはきますが、ランニングは?」
「走らない方向で。気分しだい」
「わかりました」
 母子揃って畳に手を突いた。
「すばらしいおかただとは日ごろ思っておりましたが、こうして目の前で率直な言葉と妙なる歌声を聴かせていただいて、ますますその感を深くいたしました。どうか主人を含めて、今後とも末永くお付き合いくださいませ。おかげさまで主人もこの数年で生まれ変わったようになりました。息子にもいい父親に、私にもいい夫になりました。旦那さん、女将さん、どうもごちそうさまでした。それではみなさま失礼いたします」
「秀樹くん、将来は滝澤塾を継ぐくらいの気持ちでいるんだよ。自分の好きな道を突き進むだけで、いろんな人を幸せにできるんだからね」
「はい!」
 女将とトモヨさんが菅野一家を門まで送っていった。店の女たちの雀牌の音や、花札のかけ声が聞こえはじめた。私はカズちゃんに、
「菅野さんの奥さんが生まれ変わったって、あのこと?」
「それももちろんあるけど、家族和合のことね。息子にもいい父親になったって言ったでしょ。キョウちゃんに遇わなかったら、タクシー会社を辞めなかったでしょうし、ギクシャクした家庭になってんじゃないかしら」
 素子が、
「和合は人生の基本やよ。お父さんたちも早く人生の基本にいきなさい」
「ほいほい、まず風呂入るかな」
 女将と恥ずかしそうに立ち上がって、
「千佳ちゃん、カラオケの後始末よろしくな」
「はい、ご心配なく」 
 千佳子は睦子と顔を見合わせくすくす笑いながら夫婦の背中を見送り、
「じゃ、ムッちゃん、自転車置き場まで送っていくわ」
「ありがとう。それじゃ神無月さん、あした、野球教室で。日曜日は巨人戦を観たあと泊まります。よろしくお願いします」
「うん、こちらこそ。自転車、気をつけて帰ってね」
「はい、じゃさようなら」
「さよなら」
 カズちゃんが睦子の背中を見つめる目をやさしくうつむけた。トモヨさんが、
「節子さんとキクエさんはきょう泊まってらっしゃるんでしょう?」
 キクエが、
「二人ともあした早番なので帰ります」
 百江が、
「歩いて帰るのたいへんでしょう」
 節子が、
「私たち、自転車買ったんです。ここまで七、八分。これからは菅野さんに迷惑かけなくてすみます」
 キクエが、
「もう菅野さんには話しました」
「お仕事何時から?」
 節子が、
「二人とも朝八時半からです。五時まで。準夜勤は四時半から深夜の一時まで、深夜勤は零時半から九時までです。赤十字病院には残業がないんです。その分、遅刻はできなくて」
 キクエが、
「トモヨさんの出産が近づいたら、二人バラバラの勤務時間にして待機します」
「ありがとうございます。とっても心強いです。最後の子ですから、大切に産まないと」
 節子が、
「生理は、最低あと七、八年ありますよ。まだまだ産めます」
「もうじゅうぶん。いつも大きなお腹してたら、気兼ねなく郷くんに抱いてもらえなくなっちゃう」
 キクエが、
「そうですよね。苦しいほど感じたいのが女ですものね。あと、三カ月の辛抱ですよ」
「はい、楽しみです」


         五十四

 睦子を送った千佳子が戻ってくると、文江さんが節子たちより一足早く、お先に、と言って立ち上がった。彼女は家まで歩いて十分もかからない。私はカズちゃんと百江と門まで文江さんを送った。しばらく立ち話をする。
「文江さん、疲れが取れたら遠慮なくキョウちゃんにお願いするのよ」
「和子さんたら、心配してくれなくてもだいじょうぶですよ。百ちゃんもほうやろ」
「はい。いざとなると夢中になるんですけど、でも、気持ちよさに耐えるからだの〈根気〉みたいなものが弱くなって、文江さんと同じで何カ月かにいっぺんというのが、お酒で言うと適量になりました。まだ神無月さんと知り合って三カ月しか経っていないのに……」
「私はそういう根気はあるんやけど、ほんとにこのところ忙しくてねェ。そっちのほうで疲れてまって。あしたも九時から土曜子供教室。二時から河合塾で、お弟子さんたちといっしょに四時まで有段者クラスの指導。五時から七時まで自宅で初心者指導。これは一人でやる授業。きょうも寝るまで採点」
「深いことは考えずに、したくなったらキョウちゃんにお願いしなさいね。みっともないことなんかちっともないんだから。ほんとに文江さん立派になったわ。芸は身を助けると言うけど、心もとない時期をじょうずに乗り越えたわね」
 文江さんはしみじみと、
「芸なんか関係あれせん。何もかも、キョウちゃんと和子さんのおかげやわ。じゃ、お休みなさい」
「お休みなさい」
 辻に文江さんの姿が消えるまで三人で手を振った。居間に戻ると、トモヨさんがカズちゃんに、
「お嬢さんと素子さんは、あしたの予定は?」
「午前中だけアイリスに出て、午後から少年野球の見学。菅野さんの車で千佳ちゃんたちといっしょに連れてってもらうの。キョウちゃんのすることは、何でも一度は見ておかないと」
「選手のみなさんに、食べ物や飲み物を持ってってあげたらどうでしょう。イナリ寿司と海苔巻それぞれ五十個ぐらいと、大きなポットにアイスコーヒーでも」
「そうね、お願いするわ。きょうはキョウちゃんには則武でゆっくり寝てもらいます」
「はい。よろしくお願いします」
 節子が、
「じゃ、私たちもおいとまします」
「夜道に気をつけてね」
「自転車ですからだいじょうぶです」
 キクエは廊下越しに厨房を見やって、
「ソテツちゃん、イネちゃん、きょうはごちそうさまでした」
 二人は居間にやってきて、
「またきてね」
「気をつけて帰ってけんだ。ぷらから自転車漕いでっと危ね野郎にぶつかるすけ、ちゃっちゃっと帰るんで」
「うん、だいじょうぶよ。じゃキョウちゃん、さよなら」
「さよなら。適当に声をかけてね」
「はい、節子さんと相談して」
 二人は私にキスをすると、玄関へ出ていった。今度は素子とキッコが門まで送った。トモヨさんが、
「じゃ、お先に休ませていただきます。百江さん、あなたアイリスで疲れてるんだから、あんなに一生懸命お台所を手伝ってくれなくていいのよ」
「はい、お料理が好きなもので、つい」
「お嬢さん、冷蔵庫にいろいろ残り物がありますから、よければ持ってってくださいね」
「うん、ちょくちょくもらってる。玉子、豆腐、納豆」
 素子とキッコが戻ってくる。キッコは私にキスをするとすぐ二階へ上がった。イネとソテツがお休みなさいを言って部屋に引っこみ、素子が千佳子といっしょにコーヒーをいれる。十時を回った。トモヨさんが重い尻を上げて離れに向かおうとすると、カズちゃんが付き添って腰を支えた。
「だいじょうぶですよ、お嬢さん、どうぞゆっくりしてらして」
 それでもカズちゃんは微笑しながら送っていった。
 渡り廊下を思い浮かべる。角天井に材木を架け渡した広い廊下の両側に、障子が十組ほども立ててある。ぜんぶ一枚が開いている。両側が庭だ。暗い庭に草木が繁っている。低い窓敷居に手を置いて闇の中の濃い緑を眺める。廊下には長いベンチと行灯も三つほど据えてあり、まるで温泉宿の連絡路のようだ。突き当りがやはり縦長の障子を立てた便所になっていて、左へ数メートル渡り廊下をいくと、トモヨさん母子の立派な別宅の入口になる。桜を植えた庭も整っている瓦屋根の重厚な一戸建だ。竹をたくさん組み並べた生垣塀には門が切られていて、玄関には郵便受けもチャイムもある。記者の目を避けるための裏出口の役割も果たす。
 私は麻雀牌の音を耳に心地よく聞きながらコーヒーをすする。
「八坂荘で暮らしたのが十年も前のことみたいだ」
 千佳子が、
「八坂荘ってどこにあるんですか?」
「西高のすぐそば」
「いつのことですか?」
「たった一年半前、高三の秋から卒業まで。キクエも隣の部屋に暮らしてた」
 千佳子は自分の時間を思い巡らすような表情をした。
「この一年は、いろいろありました……」
 離れの造りも思い浮かべる。渡り廊下のスロープを下りると離れの横口に通じ、入ってすぐ右手が五人も入れる日光杉の浴室。プロパンガスで給湯するのだが、そのボンベが妙に大きい。風呂場の隣に台所の広い空間があり、硬材の大テーブルが据えられている。キッチンの壁は何段もの食器棚になっていて、棚はすべて厚板で造られている。十帖の風呂場と十帖の台所に廊下を隔てて向き合った部屋が四つ連なっている。十畳の客室、十畳のトモヨさんの書斎、十二帖の音楽部屋、その隣の八畳の端部屋には裁縫道具やらアイロンやらミシンやらが置いてあり、作りつけの衣装戸棚には私やトモヨさんの服が何着も掛かっている。その四室のどの引き戸からも物干しのある庭へ出られるようになっている。廊下の突き当たりは大きな洋式水洗トイレだ。音楽部屋と廊下で向き合った部屋の障子を開けると十二畳の私の書斎、それに隣り合って直人の遊び部屋の六畳があり、トモヨさんと直人の寝室を兼ねている。庭は生垣まで五メートルも幅のある植樹で遮られていて、どの部屋にも表通りの物音は届かない。
 天童と丸が座敷からやってきた。百江が、
「お腹すいた? おうどんでも作りましょうか」
 丸が、
「いいわね。きつねかたぬき、いただけます?」
 百江が立ち上がると千佳子もうれしそうに立ち上がった。離れから戻ってきたカズちゃんも遅れて加わる。座敷から相変わらず麻雀の音と花札の声が聞こえてくる。すでにどの声にも酔いのカケラもない。ふと死の影が走った。死は単純な生き方をしている者にだけ影を落とす。やがて雀卓組や花札組の物音が止み、疲れた顔が居間にやってきて、私たちにお休みなさいを言った。木村しずかや近記れんの顔もあった。百江たち三人の作ったきつねうどんをみんなですする。素子が、
「ファンて、何やろな。あんなあくどい男が監督しとるチームの名誉を守るために、キョウちゃんを殺すて脅迫したんやろ。ぜんぜん悪さしとらんキョウちゃんの味方をしてくれんがね」
 カズちゃんが、
「気持ちに引っかかったままなのね」
「ほうよ、どうしても頭から消えん」
 千佳子が、
「神無月さんを愛する人たちだけが味方するんです。言葉も交わしたことのないファンは味方してくれません」
 天童優子が、
「なぜですか?」
 カズちゃんが、
「ファンというのはとても奇妙な生きものよ。暗示にかかりやすいの。自分が好きなものでも、周りが悪いと言えば心が揺れる。周りを気遣いながら、好きなものへの理解を計っているからよ。自分がいいと思うものをだれかがもっともらしく説明してくれないと、心から納得できない。納得できないと、気持ちが揺さぶられることを怖がって、自分がほんとうはいいと思ってるものからこっそり逃げていくのね」
 丸が、
「一般の意見が後押ししてくれないと、信じられないんですね。どうしてなんでしょう」
「自分で決められないから、大勢の裏づけが……」
 カズちゃんが説明に詰まったようになったので、私は、
「強くて安全なものに、だいじょうぶだよ、って言ってもらわないと、心を決めかねるんだ。自分の確信の度合いを世間の評判で決める人びとの感情は移ろいやすいからだね。大勢の人たちに反論されるとショックを受ける。自分の信念で神経をふるわせるんじゃなく、大勢の信念で神経でふるわせるから。異常なものを好むけれども、一般の神経に合致する異常さでなくちゃいけない。ほんとうに異常なものはどこか不穏なので、大勢の神経をふるわせられない。で、自分で決めかねてる人の最終的な好みの対象から外される。その人は大勢の一人として姿を消す。千佳子の言うとおり、そういう大勢の人たちはぼくに味方してくれない。でもぼくに味方する一握りの人たちがいるあいだは、ぼくは生きるのをやめない。プロ野球フアンに焦点を絞って言えば、水原監督やチームメイトのような少数のファンが野球をやってほしいと願ってくれるあいだは、野球をやめない。ぼくは彼らの好みに合ったわけだし、好まれ味方をされてるかぎりぼくは生きる義務があるからね。そう考えると、この世の中はとても単純で、政治体制も、経済体制も、学問も芸術もいらなくなる。つまり大勢の人間に支えられる必要がなくなる。たとえ野球をやめてもぼくはその少数の人のために人生をやめないけど、その人たちがいなくなったらぼくは人生をやめる。……よく、野球は自分の命であり人生だと言う人がいるけど、そんな馬鹿な話はない。味方してくれる人、それが命であり人生であるに決まってる。野球はその人たちのおかげでやっていられる最高級の放蕩だね」
         †
 五月二十四日土曜日。メイ子に声をかけられ、二階の自分の寝室で七時起床。枇杷酒でうがい、下痢便、シャワー、歯磨き。
 曇。庭で三種の神器、素振り百八十本、左腕シャドー五十本、ジムトレ二十分。もう一度シャワー。
 カズちゃんとメイ子と北村席へいき、居間で主人たちと香の物で茶漬けを一杯。睦子と千佳子がコーヒーを持ってくる。幣原の姿がチラと見えた。主人が、
「一日風が強いらしいですよ」
 柱の寒暖計を見る。
「いま二十一度ですか。昼間は二十三度くらい。グランドコンディションのいい中日球場だし、砂埃は立たないでしょう。涼しい風の中で野球ができます」
 八時過ぎに菅野がやってきた。
「王がおととい八、九号を打ちました。長嶋が六、七号。長嶋入団十一年目、王入団十年目で、ON初のダブルアベックホームランです。EK砲は?」
「二回ぐらいかな」
「オープン戦で二回、公式戦で三回です。開幕の広島戦、五月十四日のアトムズ戦、ついこのあいだの五月二十二日の大洋戦。アベックホームラン自体は二十回です」
 長嶋三十三歳、王二十九歳。神無月さんと江藤さんはですでに一回打ってます」
「五月十四日って、三十二点取った試合だね」
「はい。神無月さんの入団一年目で二十歳、江藤さんは入団十年目で三十二歳。王と長嶋の最初のアベックホームランは天覧試合で、王十九歳、長嶋二十四歳。なんか似てるような気がするんですけど、ぜんぜん似てませんよね」
「うん、似てない。最初のダブルアベックホームランの達成まで十一年というのは年数がかかりすぎてるし、王と長嶋の年齢の開きも小さすぎる。王のデビュー以来の苦節もまったくぼくと似ていない」
「たしかにね。昭和三十四年の王の第一号ホームランは、国鉄の村田元一から後楽園球場の最前列に打ちこんだものです。開幕二十六打席無安打のあとの初ヒットがホームランでした。初ヒットがホームランというのは神無月さんと同じですが、まったくふるわないルーキーイヤーで、ホームラン七本、打率一割六分一厘、三振七十二、こっぴどく三振王と野次られた年でした。まったく似てませんね」
「似てない。その七本にプロ野球の権威を高からしめた天覧試合の一本も入ってるんですよね」
「はい、王第四号、長嶋は十三号。ON初のアベックホームラン。王は六番バッターでした」


         五十五

「……ぼくが王を初めて見たのは昭和三十五年の中日球場です」
 主人が、
「小学校五年生ですね」
「はい。四月二十四日日曜日。王がまだ二本足のころで、バッティング練習をしている選手の中で、いちばん美しいフォームで打っていたのが彼でした。いっしょに見ていた小山田さんに、彼はすばらしいバッターだ、将来ぜったい伸びると言ったことを憶えてます。小学五年生の小ワッパがね」
 菅野が、
「天才特有の先見の明でしょう」
「練習では冴えてるのに試合では打てず、三打数ノーヒット、三振一つ。三振王という野次がひどかった。巨人軍という大きくて暖かい大気に護られている星だと感じました。権威という大気のベールを通して見た美しい星。長嶋という星に付き添われて成長する星」
 千佳子が、
「大きなものに護られている二つの星ですね」
「うん。二つ合わせて引き立つ星。二人の持ってる光はぼくと江藤さんの光とはちがうんだ。彼らは権威に護られてる星の発する光。二つ揃えて護られる連星が発する光。ぼくと江藤さんはそれとはまったくちがう輝きを個別に持ってる。ぼくたちは強大な権威に保護されていないけれども、彼らより何倍も大きい質量の星なんだよ。個々の質量が大きいので、ひとからげに並び称される連星になり得ない」
 睦子が、
「王さんと長嶋さんが、自分たちとちがうレベルの光を神無月さんたちに感じることはないでしょうね。神無月さんたちは強大な権威に保護されていないので、花火みたいにはかなく見えるから」
「そのとおりだと思う。長嶋は去年三十二歳で自己最多の三十九本のホームランを打った。同い年の江藤さんは今年六十本打つだろうね。長嶋とは持ってる質量がちがうから。ぼくは百本打つ。王とは持ってる質量がちがうから。それはぼくたちの才能の質量が大きいだけじゃなく、権威に保護されていない者同士の信頼のレベルが圧倒的にちがうということなんだ。ほくたち二つの星の質量が彼らの何倍もあるのはそれが大きな理由だ。それだけじゃない。チームメイト全員がぼくたち二人を中心に固い信頼関係を築いているので、中日ドラゴンズは権威よりも大きい力に護られてるようなものだ」
 主人が、
「ビッグ長嶋とビッグ王だけがいるだけやなくて、その二つの星を囲むぜんぶの星が何の拘束もなく自由に動ける許可を雇い主から得とる。上も下もだれも干渉せん。おたがいのやり方に従って動きさえすればええし、そのことで後悔する必要はないと保証されとる」
「そうです。ドラゴンズの仲間は、家族愛の激しいギャングのファミリーも同然です。掟は〈楽しく野球をすること〉だけ。ぼくにとって信頼し合える家族以上に尊いものはありません。俺についてきてくれとみんなで声をかけ合う家族ほどすばらしいものはない」
 菅野は深く息を吸い、
「神無月さんの権威の話、ストンと胸に落ちました。……王の話に戻りますね。デビューの翌年、ホームラン十七本、打率二割七分、四月の末から三、五、六番のどれかを打ちました。神無月さん観戦した年です。三振を百一個もしてます。それから一年間二割五分で停滞して、三十七年にとつぜん大飛躍を遂げる。四打席四三振の長嶋、三振王の王、そういう彼らが飛躍する物語は神話になります。連星としてますます権威に護られるようになりました」
「そうでしょうね。……一本足になってからの王には感激しなくなっちゃった。いくらホームランを打っても美しくないから」
「長嶋は?」
「自然と忘れました。石原裕次郎といっしょに」
「……わかります。やっぱり走りますか?」
「走りましょう」
 菅野と太閤通のランニングから帰ったあと、池のほとりで、片手振り百本ずつ、一升瓶二十回ずつ、五キロダンベル翼形に上下動二十回。シャワー。
 十一時にアイリスから上がってきたカズちゃんと素子とメイ子が、トモヨさん、ソテツ、イネ、幣原、睦子、千佳子たちといっしょになって、イナリ寿司、海苔巻き、サンドイッチ、ウィンナー、卵焼きを五十人分ずつ作り、それを菅野がハイエースに積みこむ。
 ユニフォーム一式とスパイク、グローブ、タオルを入れたダッフルを肩に提げる。ブレザーを着た。主人が、
「野球教室というとふつうOBか二軍選手が教えるもんですよ。現役選手が押しかけるってのは、どんな球団にもないことです。ドラゴンズは大したことをやりますな」
 菅野が、
「神無月さんがいくと言い出したんで、われもわれもになっちゃったんでしょう」
 トモヨさんが、
「子供たちは、一生に一度の贅沢な体験をすることになりますよ」
 菅野が、
「今朝の新聞に載ってました。主催は名古屋市教育委員会、公益財団法人名古屋市教育スポーツ協会、名古屋市小中学校体育連盟。参加者は小学三年生が三十名、小学四年生が三十名、合わせて六十名。指導協力、中日ドラゴンズ現役選手十五名、監督水原茂、コーチ一名カールトン半田、中日ドラゴンズOB一名、総計十八名。ジュニアベースボールリーグ愛知関係者数名、守山ボーイズ関係者数名。これがただの少年野球指導ですか!」
「大がかりですね。現役選手十五名ってすごいなあ。最後の二つの団体は、助手をしてくれるということですね」
「でしょう。それと準備とか。何百人も報道陣が詰めかけますよ」
「内容は書いてありましたか」
「準備体操、基本練習、守備練習、ティーバッティング、集合写真」
「シンプルだな。OBって、だれですかね」
「杉山悟です。去年までドラゴンズの一軍打撃コーチをやってました」
「へえ! あの伝説のデカちゃんか。吉沢さんが全盛時代のころのスラッガーだ」
「戦後ドラゴンズ初のホームラン王です。神無月さんを見たいんでしょう」
「ふうん、何か教授してもらおう」
「冗談を」
 主人夫婦と賄い全員に見送られて、十二時出発。薄曇。気温低めなのがちょっと残念。
「初のボランティアですね。これから各球団、まねをしはじめますよ」
 睦子が、
「小学校三、四年というと、神無月さんが野球をしはじめたころですね」
「うん、ソフトボールを小二から遊び程度に始めて、小四の秋から軟式野球。そこからどっぷり野球漬け。中三の春まで五年間、野球以外のことを考えたことがなかった。……そういうやつらに会うのか。すごい影響を与えちゃうだろうなあ。あだやオロソカな指導はできないぞ」
 千佳子が、
「始まった。神無月くんのウンコまじめ。大好き」
 カズちゃんが、
「ほんとすてきね。大好き」
         † 
 ハイエースが中日球場正面ゲート前の駐車場に着いたとたんに、報道陣の波が押し寄せる。五、六人のトレパン姿の青年たちが走ってきて、
「守山ボーイズの者です。こちらです、どうぞ」
 会社組織によくいそうなタイプの愛想のいい男たちだった。道を作って正面ゲートへ導く。さすがに松葉会の男たちはきていなかった。ゲートを覗いて驚いた。カメラやデンスケを担いだ報道関係者が群れる中に、一般の人たちも回廊をビッシリ埋めている。ただの野球教室の様子ではない。江藤や菱川たちも混じっていた。きちんとユニフォームを着ている。私に気づいて手を挙げた。
「江藤さん、菱川さん、こんにちは!」
「大ごとになっとる! とにかくロッカールームでユニフォームに着替えんば。おお、菅野さんと北村のお嬢さんがた! ダッグアウトへどうぞ。野球教室なのに、スタンドに客が一万五千人もきとるんですわ」
 カズちゃんたち四人は教導員にベンチへ案内されていった。指導開始予定の一時まであと三十分ほど。先導する案内人が続々と増えてくるなか、私たちはロッカールームへ入った。大きなガタイの無番のユニフォーム姿の男が、窓辺の椅子に坐って外を眺めながら煙草を吹かしていた。オッと振り向いて手もとの灰皿で煙草を揉み消し、ヌウと立ち上がると江藤と菱川と私に丁寧な辞儀をした。私たちと背丈が変わらない。杉山悟だとすぐわかった。江藤が、
「杉山コーチおひさしぶり、ご苦労さまです」
「もうコーチじゃないよ。ラジオ解説者」
 私に手を差し出してきた。
「杉山です。昭和二十三年から三十三年まで中日ドラゴンズに在籍しておりました」
「存じています。杉山悟さん、通称デカちゃん」
「やあ、ありがたい。天下の神無月選手に名前を覚えてもらえて光栄です」
「去年まで打撃コーチを勤めておられたとのこと、きょうは少年たちばかりでなく、ぼくにもご指導ください」
「めっそうもない。神無月さんに教えることなど何もございません」
 ユニフォームを着た水原監督が半田コーチを連れて入ってきた。六十歳の男の前に、四十男の杉山は直立不動になった。深く礼をする。
「はじめまして、水原です。きょうはよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「去年までドラゴンズでコーチをなさっていたらしいですね。なんで今年はいなくなっちゃったの」
「ラジオ関東に呼ばれて、解説者をしております。視野を広げようと思いまして」
「来年新しい編成があったらかならずお呼びしますから、心にかけておいてください」
「はい! 野球教室に監督じきじきのお出ましというのは、球界始まって以来のことじゃないですか」
「そうね。神無月くんがきてくれると言うんで、参加してみました」
 半田コーチが、
「スギヤマさーん、元気そうね。きょうはちびっ子たちをよろしくね」
「はい、がんばります」
 ユニフォームに着替えていると、戸の外でフラッシュが光り、残りの十三人が入ってきた。小川が、
「すごいぜ、スタンド。都市対抗より入ってる。やあ、杉山さん、元気そうじゃない。戦後ドラゴンズ初のホームラン王も、この金太郎さんにあってはカタナシでしょ」
「はい。神無月選手は小さいと聞いてましたが、私より大きいじゃないですか」
 水原監督がカラカラ笑いながら、
「大学野球で伸びて、春のキャンプからも伸びたんですよ。ホームランを打ちやすいように脱皮したんでしょう」
 江藤、私、小川、伊藤久敏、中、高木、一枝、木俣、新宅、吉沢、菱川、太田、島谷、江島、千原、監督たち三人を合わせるとたしかに十八人いる。全員ユニフォームに着替えた。トレパンの男たちが十名ほど入ってきて、団体名を名乗り、
「きょうはご指導のほど、よろしくお願いします!」
 と頭を下げた。彼らについて、ベンチのカズちゃんたちの脇を通ってぞろぞろグランドに出る。水原監督が立ち止まって挨拶した。
「これはこれは、北村ご一家と菅野さん。見学ありがとうございます」
 半田コーチや杉山も頭を下げる。
「おいなりと太巻きを持ってきたんですよ。ウインナー、卵焼き、コーヒーとサンドイッチもあります」
「それはありがとうございます。みんな喜びます。一段落したらいただきます。じゃ、ごゆっくり」
 ベンチ前に整列すると、いっせいに拍手が上がった。数百人の報道陣が曇り空の下でストロボを焚き、フラッシュをきらめかせる。内野スタンドに一万人余り、外野スタンドに数千人の観客が詰めかけている。父兄たちは百人もいないだろうから、ほとんど一般客だ。ネット裏にも千人ほど散らばっていた。こういうイベントのときはネット越しの席は人気がないとわかった。
 ユニフォームをきちんと着こんだり、トレパンを穿いたり、半ズボンにシャツだけをはおったりした子供たちが、グランドじゅうに散っている。彼らは教導員相手にバスケットボールのようなものを投げ合ったり、小さなゴムボールでキャッチボールをしたり、縄跳びをしたり、数人でかたまってランニングをしたりしている。きちんとグローブを手に軟式ボールのキャッチボールをしている子供たちもいる。一人残らず野球帽をかぶっているのが微笑ましい。ティバッティングのバーが外野に三本立ててある。そこにはまだ子供たちはいなかった。いい風が吹いている。
「顔見世に走るばい」
 私たちは塀に沿ってジョギングを始めた。池藤トレーナーや鏑木ランニングコーチも混じる。スタンドと子供たちと教導員たちから盛大な拍手が湧き上がった。選手を追って走るカメラマンもいれば、芝に寝転んでレンズを構えるカメラマンもいる。数人の選手は一周で走りやめて、グランド中央に適当に散った。私を含めた数名は走りつづける。やがて子供たち全員がマウンドの周囲に集まった。監督らがバックネット前にたつ。ホームベースにマイクが立ててある。


         五十六

 マイクの前に一人の青年が立ち、
「みなさん、こんにちは!」
「こんにちは!」
「選手のみなさま、こんにちは!」
「こんにちは!」
 私たちもジョギングをやめて立ち止まり、笑顔で応える。
「私はジュニアベースボールリーグ愛知の××と申します。守山ボーイズとともに、きょうの『ふれあい野球教室』のご助力をさせていただくべく馳せ参じました。現役プロ野球選手たちによる協力指導と聞き、期待に胸躍らせております。少年たち! きょうはすごい日だぞ! 中日ドラゴンズの水原監督、半田コーチ、テレビできみたちもよく知っている有名な現役選手十五名、OBの杉山悟選手まで駆けつけてくれたんだ。まず三塁ベンチ前にいらっしゃる人は、だれかな?」
「水原監督!」
 監督は子供たちとスタンドに帽子を振る。
「そのお隣は?」
「半田春男!」
 帽子を脱いでお辞儀をする。
「春男なんて名前よく知ってたね。そのお隣の大きな人は?」
 大人の声で、杉山! という声が飛んでくる。
「そうです。きみたちが生まれる前のドラゴンズの四番バッター、昭和二十七年のホームラン王、杉山悟選手だ。バットにボールが当たればヒットかホームランと言われた人です」
 スタンドから大きな拍手。彼を知る世代だ。選手たちが監督ら三人の両脇に控える。
「中選手、手を振ってください!」
 列の中から手を振る。拍手、歓声。
「高木選手お願いします!」
 これが末尾の小川までつづいた。だれのときも割れんばかりの拍手と歓声になった。
「それでは、全員集合!」
 三十人ずつ、ホームベース前に、左右に分かれて集合する。監督以下選手一同、整列して彼らに対面する。挨拶を交わす。
「お願いしまーす!」
「お願いしまーす!」
 三年生側に、半田コーチ、伊藤久敏、江島、新宅、吉沢がついた。四年生側に残りのメンバーがついた。ラジオ体操第一と第二が流れ、全員準備体操をする。私は指先までまじめにピチッと伸ばしてからだを動かした。思ったとおり、ほとんどの子がそのきびきびした動きをまねした。きょうは一瞬たりともダラッとしてはいけないと感じている。
「それでは選手のみなさん、教導員のかたがた、ご自由にご指導にお入りください!」
 選手たちは何をしてよいかわからず、ボーッとたたずみ、駆けっこしようか、腕相撲しようかといったような面持ちで周囲を見回している。三年生組の教導員が、
「では伊藤選手に、ボールの投げ方の正しい形を見せてもらいましょう」
 と助け舟を出した。伊藤久敏が、ピッチングフォームを作って三度ほど腕を振ってみせる。吉沢が、
「タオル、タオルを使って」
 と声をかけた。伊藤は半田コーチからタオルを一本借り受け、また三度ほどシャドーをして見せた。
「じゃ、十回やってみよう。ぼくのまねして腕振って」
 三年生組が順調に滑り出した。四年生組はほとんどグローブを持参していたので、高木の案で、五人ずつ縦六列に並ばせ、一人ひとりに素手でゆるいゴロを転がしてやることにした。一枝をはじめとする私たち五人が、模範を示すために列の先頭に立ち、五人の選手が転がしてやる軟式ボールのゴロをしっかり腰を落として捕球して見せる。そのあと列の先頭の脇に立って、一人ひとりの捕球を指導する。下手投げでゴロを転がすのは、高木、小川、中、江藤、木俣、列の先頭に立つのは一枝、私、菱川、太田、島谷。杉山と千原が列の後方に離れてついた。
 五人は真剣に模範の捕球をし、前方へボールを転がして返す。子供たちにも同じようにまねをさせる。五逡繰り返す。それから返球を含めて、本格的な指導に入った。十メートルほどの距離をとり、五人の選手が上手投げでボールを転がし、五人の選手がきちんとグローブで受けて投げ返す。
「ほう、いいね」
「いいね、いいね」
 ボールを逸らさずに捕球してほぼ正確に投げ返せた子はすべて褒めてやる。フラッシュが光り、シャッター音がしきりに響くので子供たちは緊張気味だ。島谷が、
「投げるときは、しっかり手首と腕のしなりを使いましょう。肩を使いすぎると肩関節を痛めちゃうからね。ボールをリリースするときは、手首を意識して、肘は振るだけにする」
 腕を振って見せる。この教えは正しいけれども難しい。私はボールの捕り方だけを実践して教えた。
「なるべく前に出てショーバウンドで捕る。上がり切ってからでは遅い。これを〈上がりぎわ〉と言うんだ」
 捕球と送球を終えた子は列の後方へいき、杉山に素振りのコーチを受け、三度ほど振っては列に戻る。これを二十分つづけた。こちらも順調な滑り出しだ。
「フォームがよければ、いい打球が飛ぶ。構えはこうだ」
 杉山の熱心な声が耳に残った。振り向くと杉山がごく自然体で構えていた。すばらしい教え方だと思った。
 三年生が外野に集まり、基本的な柔軟体操と、ゴムボールを使ったキャッチボールをやりはじめた。四年生は、内野グランドにファーストからサードまで四組たむろさせて、ノック形式で守備練習。そこにも一人ずつドラゴンズの選手がついて、
「腰を落として!」
 とか、
「からだの正面で」
 とか、
「前で、前で」
 などと声をかけながら指導した。球拾いのために、江藤が一、二塁間後方に、セカンドベース後方に中が、三遊間後方に私が立った。ちびっ子が正しく捕球してワンステップで送球すると、
「正解!」
 と選手たちが叫ぶ。ツーステップで投げる子が多い。その形を矯正することができるのかどうか私は首をひねった。肩に自信がないので、一歩でも多いステップで勢いをつけようとしているからだ。捕球そのものは、案外後逸する子が少ないのに驚いた。これを三十分。そろそろ汗が滲みはじめた。風が心地よい。
 外野に集まった三年生の子供たちが、江島や太田の指導で、DSボールでティバッティングを始めた。四年生は私たち十三人に見守られながら素振りに入る。模範に私が駆り出された。江藤や菱川たちが、子供らの後方に立って目の色を変える。水原監督や杉山もやってきた。大人用の軟式バットを一度強く振って見せる。おもちゃでも振るようだ。その猛烈な風切り音に全員どよめく。
「トップで力を抜き、するどく振り出します。きみたちがよいと教えられてきたダウンスイングは、最後に片手振りになってしまうことが多いので(ほら、こんなふうに)、なるべく禁止。かならずレベルスイングの両手振り。両手で振るのは、利き手で押し、もう一方の手で引いて、力のモーメントを作るためです。一見アッパーのドアスイングに見えますが、インパクトのところでモーメントの利いたレベルスイングなっているので安心してください」
 ゆっくりダウンスイングをして見せながら、
「ダウンスイングだと、こんなふうに利き手だけで押していることになります。そうすると最後は苦しくなって、自然に片手を離してしまう。回転のモーメント、つまり梃子(てこ)が利きません。以上が真ん中のコースの打ち方でした。次に内角。きみたちは内角高目が苦手じゃないのかな。胸もとをえぐるというやつ。ぼくの振り方だと内角高目が打てないのではないかと思うでしょう? 内角高目を打つときは、逆手の肘を斜めに引き上げ、利き手でレベルに押してやる。こんなふうです」
 五回ぐらい手本を示す。選手たちから拍手が上がった。
「選手のかたたちが拍手した理由は、さっきと風切り音が変わらないからです。さて、外角にいきましょう。外角の高目はたいていの人が得意です。問題は低目。外角低目を打つためには、思い切り踏みこまねばなりません。それでバットが届く範囲ならいまのスイングができますが、届かない範囲だと少し屈まなくちゃいけない。こんなふうに屁っぴり腰になります。この屁っぴり腰のスイングを何百回、何千回と練習するんです。とてもとても疲れます。でも、このコースをストライクにとりたがる気取った審判が多いので、仕方ありません。このスイングでヒットではなくホームランを打つ練習をしてるのは、世界でぼく一人だと思います。きみたちに教えたので、一人でなくなりました」
 子供たちからうれしそうな笑い声が上がった。杉山が強く拍手した。
「すばらしい! やはり常人じゃない」
「杉山先輩、ありがとうございます。じゃ、一人ひとりじゅうぶんおたがいの間隔をとって、トップゆっくり、振り出しのするどいスイングの練習をしてください」
 これを二十分。レギュラーたちもバラバラに離れて、同じ練習をする。とりわけ彼らは屁っぴり腰のスイングを練習していた。
「おお、腿と腰が疲れる!」
 江藤が叫んだ。
 二時半。三十分の休憩になった。監督はじめレギュラー全員三塁ベンチに戻る。女三人の手で、紙コップの冷コーと日本茶が配られる。いなり寿司と巻き寿司とサンドイッチと、卵焼き、ウィンナーの入った紙ボックスが回される。割箸も回される。江藤が、
「ありがとう、みなさん。よかオヤツたい。そういえば、あの屁っぴり腰で金太郎さんがレフトへでかいホームランを打ったのを、四、五回見とる。やっと打ったんやなくて、練習の成果やったんやな」
 水原監督がにこにこいなりを食っている。高木が、
「ショックだったな。ダウンスイングの欠点がよくわかった。中学、高校の監督や巨人の伝統的な理想は、金太郎さんに一蹴されたわけだ。しかし、中さん、よく右肘上げて打ってるし、屁っぴり腰でも打ってる。さすがだ」
 中が、
「金太郎さんのようにホームランは打てない。さすがとは言えないよ。芯を食わせることと、ドアスイングに見えるレベルスイング。この何カ月かで二つのことを教わった。あとは自分のスイングスピードをあの風切り音に近づけることだ」
 鏑木が、
「梃子の原理で振ってるので、ゆっくり振っているように見えて、ダウンスイングよりバットスピードが速いんです。振り出してからは目にも止まらぬ速さです」
 水原監督が、
「金太郎さんのスイングは異常ではなくて、最も正常だったということだね。私たちは幼いころからダウンスイングを教えられている。そっちほうが異常だったわけだ。ただ単に打ち下ろしたり、掬い上げたりするのは、金太郎さんのバッティングとは関係なかったんだね」
 杉山が、
「いやあ、とにかくすごい。これなら百本打ってもおかしくないわけだ。なんせ、百三十試合もあるんですからね。それでもふつうの人間は、一シーズン二十本、三十本打てばスラッガーと呼ばれる。私は恥ずかしい。開幕二カ月でホームラン王を決めてしまう人間の前で、スラッガーなんてとても言えたものじゃない。北村席さんのみなさん、神無月郷という人は、ふだんどうやって生きてるんですか」
 菅野が、
「朝、私と四、五キロ走り、三十分ほど定期的な筋トレをやり、ウンコをし、シャワーを浴び、食べて、野球があるときは野球をし、余った時間があるときは、本を読んだり、ものを書いたり、音楽を聴いたり、ちょっと〈あちら〉のほうで活躍したりして、深夜に寝る、そういうまじめなリズムで生きてますね」
 杉山が首をひねり、
「あちらというのは?」
 水原監督が、
「あちらですよ。私たちと同じ、あちら」
「ははあ、あちらですか。この美しい人が……それも信じられないですな」
 小川が、
「神さまにも、あちらはありますよ。じゃなければ神さまは増えません」
 みんな膝を叩いて笑った。女三人も明るく笑った。
「さて後半は、どういうことを教えますか。トスバッティングですかね」
 監督が言うと、私は、
「三年生の初心者にはそれでいいと思います。スイング重視で、ファールグランドでやればいいでしょう。でも、四年生は、小川さんか伊藤さんが軽く投げてあげて、打ったら守備につくシートバッティングにしたらどうでしょうか。守備練習も兼ねますし、実戦の喜びもあります」
「いいね」
 鏑木が、
「その前に、三、四年生全員をフィールド一周させます」
 池藤が、
「さらにその前に、突き指、捻挫、肉離れ等の処置方法を説明させてください」
 水原監督が、
「よし、四年生はそれでいきましょう。三年生のほうはどうなってるの」
 新宅が、
「円座を組んで、野球ルールの説明ということになってます。あとは軟式ボールを扱う基本練習と、トスバッティングです。守備練習はありません」
 水原監督は手をタオルで拭き、
「和子さん、余ったおいなりとサンドイッチ、教導員の人たちにもおすそ分けしてあげてください。一塁ベンチにいる人たちです」
「はい。コーヒーとお茶もお分けしてきます。さ、みんな、いこ」


         五十七

 風が強くなってきたが、球場内に砂埃は立たない。青空の雲が層になって斜めにたなびいている。三々五々親子たちが芝の上に腰を下ろして、ものを食ったり飲んだりしながら仲良く話をしている。父と子、母と子、父母と子。記憶を探っても、私の頭の中に存在しない図だ。
 やがて、カズちゃんたちの差し入れで一服し終わった教導員たちが、笛を吹き、小学生六十人全員を整列させる。池藤の突き指や捻挫などに対する短い講義。引っ張ってはいけない、患部を冷やせ、湿布をせよ……。
「いま言った治療はあくまでも応急処置ですからね。重症だと思ったら、かならずお医者さんにいくこと。骨折や亜脱臼の疑いがあります。放っておくと患部が変形したり、痛みが慢性化したりしますからね。さあジョギングにかかってください」
「はーい!」
 子供たちに混じって、現役選手、コーチ、教導員も含めたほぼ全員が、中と高木について塀沿いに周回する。子供たちが選手たちに慕い寄ってくる。鏑木は子供たちの脇について走りながら、定期的なランニングがいかに重要か、また、距離、スピード、緩急の組み合わせ等の注意点などを話しつづけた。
 ファールグランドに打撃ネットを持ち出し、三年生のトスバッティングが始まった。四年生からも選手たちが指名した初心者とおぼしき十四人の少年たちが、ファールグランドの打撃ネットに向かわされる。思ったよりも素直に従う。菱川がトス役についていく。
 残りの十六人の半数が守備に散り、半数が順繰りバッターボックスに立つ。小川がそよ風のようなボールを投げてシートバッティング開始。小川以外の選手たちは外野手の後ろに控えた。報道陣が走り回る。
 まだ四年生なのでバッティングフォームは未完成だが、何人かは外野の頭を越えるなかなかいい打球を飛ばしてくる。そのつど私は、ナイスバッティング! とホームベースに向かって叫んだ。彼らは千年小学校の校庭で走り回っていた私だ。遠い時間が立ち返ってくる。涙が湧いてきた。
 ―ナイスバッティング!
 指先で涙を拭きながら声をかけていると、中や江藤や千原までが、
「ナイスバッティング!」
 と叫びはじめた。江藤や中がタオルを出して目を拭いている。異様な感応力だ。この男たちといつまでも野球をしたい。あと何年できるだろう。
 打順が二廻りしたあとで、守備と攻撃を交代する。たっぷり三十分かかった。三時間になろうとしている。教導員が数名、子供たちのそれぞれの集団に走り寄っていく。私たちのもとにも駆けてくる。
「きょうはほんとにありがとうございました。予定を一時間もオーバーしています」
「子供たち、整列!」
 ワーッと集まってくる。カメラマンも集まってくる。向かい合い、礼をし合う。スタンドの暖かい拍手。開会の言葉を述べた男がマイクの前にたち、
「いかがでしたか、諸君。プロ野球選手とすごした、楽しくて、そしてきびしいひとときは。きょう学んだことをいつまでも忘れずに、これからの練習に役立ててください。水原監督、半田コーチ、杉山OB、ドラゴンズ現役選手のみなさまがた、ほんとうにありがとうございました。心よりお礼を申し上げます。最後に一つお願いごとがございます。子供たち、スタンドのみなさまがた、私たちすべての願いです。軟式ボールは飛びにくいことはわかっておりますが、小川投手のボールを神無月選手がスタンドに放りこむというのをぜひ拝見したいのです。よろしいでしょうか」
 私は大声で、
「いいですよ!」
 小川も大声で、
「いいぞ!」
 ウオーという歓声と拍手。カメラマンたちがマウンドとホームベースの周囲に陣取る。新宅がキャッチャーに回る。
「小川さん、軟式は肩を痛めますから、キャッチボール程度の球を」
「いかん! 客がおもしろくないだろ。一球だけ速いやついくから仕留めてくれ」
「わかりました」
 そう言いながら、極端に遅い山なりのボールを投げてよこした。スタンドが大爆笑になる。富山球場の始球式を思い出し、ゆっくり空振りする。爆笑に爆笑が重なる。
「金太郎さん、いくぞ!」
 二球目、シューという音を立てながら、ど真ん中にスピードボールがきた。肩を使わないで手首だけを利かせた小川らしい速球だ。子供たちに教えたとおりのスイングできちんと打ち返す。いい角度で上昇していく。睦子や千佳子の、キャー! という声が上がったとたんフィールドが大歓声に包みこまれた。最上段の観客席に突き刺さった。小川が、神さま! と叫びグローブを叩いて称賛する。レギュラーたちが走ってきて抱きつく。みんな泣いている。
「どうしたんですか」
 菱川が、
「泣かずにいられないでしょう! 軟式はよく飛んで九十から百メートルです。ましてやきょうのように風の強い日は飛びません。みんな心配したんですよ。よかったあ!」
 ベンチ前の水原監督も、タオルを出して目を拭っていた。フラッシュが何発も光る中で私は揉みくちゃにされながらベンチへ押されていった。菅野と女三人が泣いていた。水原監督と握手、半田コーチと握手、杉山と握手、鏑木、池藤と握手。池藤が、
「力のある選手は硬式軟式ともに同程度の飛距離を出せるんですが、力がないと軟式は芯を食っても飛びません。みんな信じてはいても、ドキドキしました。杞憂でした。すみません、六十本の天馬を心配したりして」
 水原監督が、
「さあ、みんなサインボールを頼む。一人一個だ。それをこのクジ箱に入れる。子供たちは三年生と四年生で向かい合った者同士ジャンケンをする。合計三十人残る。これが十五人ずつ、学年に関係なく二列に並んでジャンケンする。勝った十五人がこのクジ箱に手を突っこんで一個取る」
 伊藤久敏と、吉沢と、江島と、千原がサインを辞退した。子供たちがスカを引き当てた気分になるだろうからということだった。水原監督が、
「そんなことはだめだ! プロ野球選手は十万人に一人のスターなんだよ。きみたちのだれのサインもうれしいに決まってる。サインしなさい」
 十五人全員が硬球にサインして箱に放りこんだ。
「ジャンケンポン、最初はグー、ジャンケンポン!」
 かけ声が聞こえる。予選を切り抜けた十五人が、籤引き箱の前に勝ち誇った顔で走ってきた。休憩どきにつづいて同伴入場を許され父兄たちも、まぶしそうな顔でやってくる。三度目のジャンケンで順番が決まり一列に並ぶ。一人目、
「やったー! 太田だ!」
 照れくさそうな太田と握手。フラッシュ。大小腕を組んで父兄のカメラの前に立つ。二人目、
「読めなーい!」
 江島が、
「それ、俺、俺」
「あ、江島さん、ぼく去年のサンケイ戦の第四号ホームランのボール持ってます。握手してください!」
 フラッシュ。父兄のポラロイドカメラ。水原監督の言は正しかった。小川、中腰になって肩を組んだ写真。
「ぜったい、王をやっつけてください」
「まかしとけ!」
 伊藤久敏、頬を寄せ合って笑う写真。
「おとうさんが、あいつは将来ドラゴンズを背負って立つピッチャーだと言ってました」
「そうか、ありがとう。期待を裏切らないようにがんばるよ」
 和気藹々と進む。千原は愛想笑いしてこわごわ握手する。
「弾丸ライナーのホームラン、神無月選手よりもすごいと思います」
「おいおい、そりゃ目の錯覚だよ」
「ぼくはそう思うんです」
「きみが思うなら仕方ないな。ありがとう」
 母親がかわいらしくてしょうがないという目で写真を撮る。新宅、利発そうな子供の顔も見ずに握手。
「ぼく、キャッチャーやってるんです。ホームに突入する選手を撥ね飛ばす新宅選手のラフプレー、大好きです。がんばってください」
 びっくりして新宅の顔がクシャクシャになる。父親がシャッターを押す。吉沢、遠慮がちな握手をすると、少年は無慈悲に、
「いつのころの選手ですか」
 と訊いた。カメラを持った父親が進み出て、
「ドラゴンズの基礎を築いた名キャッチャーだよ。吉沢さん、サインボールをいただけて光栄です。カムバックを祈っています」
 吉沢は深く礼をして父親と握手した。子供もうれしそうにあらためて握手した。
「エイト!」
 と叫んで八人目の少年が私を引き当てた。バクテンをして喜ぶ。
「お尻に抱きついていいですか」
「いいよ」
 後ろからピッタリと尻に抱きついた。尾崎の背中をさすった私の写真を見たのにちがいない。スタンドが沸く。まぶしいほどのフラッシュ。
 それを機に要求はエスカレートしていき、木俣、バットのヘッドを少年と二人で突き合わせる写真、中、並んで駆け出そうとする写真、高木を引き当てた子は、二人並んだ守備の姿勢で父兄に八ミリを撮ってもらい、江藤は寝そべって腕相撲をする写真を何枚も撮られ、菱川は肩車を要求され、一枝は両手を握って飛行機のように振り回してくれと頼まれ、島谷は女の子のようにダッコしてくれと甘えられた。
 水原監督ら三人も籤に外れた子供たちに無理やり引きずり出され、監督は何人かの少年といっしょにブロックサインを出している様子を八ミリで撮られ、半田コーチはジュースの空瓶をビールかけのように子供たちの頭に注いでいるところを写真に撮られ、杉山デカちゃんは二の腕に子供がぶら下がる写真を何枚も撮られた。三人文句も言わず、笑顔で応じた。
 三年生、四年生に分かれて集合写真が撮られたあと、少年たち六十人とドラゴンズチーム全員の集合写真が撮られた。最後に六十人が十八人のドラゴンズメンバーと一人ひとりハイタッチしてお開きになった。
 団体役員たちが水原監督を取り囲み、
「ほんとに何とお礼を申してよいか、どれほど感謝してもし足りません。ありがとうございました」
「選手たちに感謝してください。私はついてきただけです。これから彼らを会食に連れていくので、このへんで失礼させてもらいます」
「ありがとうございました! 破竹の進撃が途切れないよう祈っております」
 スタンドとグランドの拍手に送られ、手を振りながらベンチに戻った。五時を回っていた。
「北村さんがた、いっしょに食事にいきますか」
 カズちゃんが、
「いえ、いろいろと家の用事もありますし、私たちはこれでおいとまします。盛り上がった野球教室になってよかったですね。口で表せないくらいすばらしいものでした。感動して、私たちみんな何も言えない状態です。どうかお気が向いたときに、また北村のほうにお寄りください。お待ちしています」
「はい、折おり、寄らせていただきますよ。差し入れごちそうさまでした」
「いいえ、とんでもございません。またこういう機会がありましたら、お手伝いさせていただきます」
 睦子と千佳子が、
「ベンチはお掃除しておきました。きょうはご苦労さまでした」
 菅野が、
「監督、一回と言わず、二連覇、三連覇をお願いします」
「引き受けました」
 それじゃ、とお辞儀をして、カズちゃんたち四人が帰っていった。一枝が、
「和子さんはほんとに女神だ。あの二人は天使」
 水原監督がにこやかにうなずき、
「きょうはマネージャーの足木くんが休みだね。カールトンさん、大型を五台呼ぶよう球場の守衛さんに頼んでください」
「イエス、サー!」
 全員タクシーに乗りこむまで、カメラの大軍が取り巻いた。やはり松葉会の組員たちの姿はなかった。




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