七十

 主人、菅野、ソテツ、千佳子と睦子の五人を玄関に見送ったあと、私も、と立ち上がろうとする天童に声をかける。
「そんなにたくさん買わなくていいよ。みんな張り切って出かけたけど、一人二、三シートしか売ってくれないと思う。耳のつづきやって」
「はい!」
 膝枕をする。すぐに細かくふるえはじめる。耳掻き棒が止まり、みょうなため息をついたりする。ようやく一つ欠けらを取って私の掌に載せる。
「あまり溜まってません」
 顔を反対側に返す。ふるえが大きくなって、すっかり手が止まった。私はめずらしく好色な興味が湧き、愛らしい三十五歳の女の顔を見上げながら、そろっと膝頭のあいだから手を入れて股ぐりに指を遊ばせた。優子はそのままにしている。襞を探る。
「あ、だめです、ピラピラまでにしてください。指を入れたらイッちゃいます」
 入れてみる。クンと前のめりになって果てた。痙攣を一度したきり、荒い呼吸をしている。指を抜くと、優子はその指を恥ずかしそうにしゃぶった。トモヨさんは厨房に、女将は帳場にいるので、だれも気づいていない。厨房にいき、
「トモヨさん、離れの蒲団敷きっぱなしだね」
「はい、シーツは替えてあります。あら、優子ちゃん、願いが叶ったわね」
 縁側で庭を向いていた優子が頭をコックリさせた。
「お昼は天麩羅きしめん、できる」
 イネもニッコリ笑って、
「でぎます。ごはんも?」
「うん、ごはんも」
「優子さん、ほんとに神無月さんのことばりしゃべってたがら。いがった、いがった」
 幣原もこっそり微笑する。みんな何の違和感もない様子だ。彼女たちは私の存在そのものを認めている。私の考えや行動は、その存在の付属物と考えている。一朝一夕でこうなったのではないことはわかるけれど、その理由はわからない。私にしても、自分の行動や考えがこの世界でしか許容されないことを知っている。
「……トイレにいってきます」
「安全日?」
「三日ぐらいで生理がきますから、だいじょうぶです」
         †
 離れの蒲団に裸で正座した天童が頭を下げた。私は豆燭を蛍光灯に切り替えた。天童が顔を赤くして、
「どうぞよろしくお願いいたします」
 もじもじしている。
「すみません、ほんとに抱いていただけるんでしょうか」
「抱きたくなったんだ。最初から中でイケる女はめずらしい。トルコでもそうだった?」
「一度もありませんでした。気配さえ……。とうとう神無月さんに抱いてもらえる。夢のよう」
 私は服を脱ぎ、横たわって下半身を曝した。優子は慎ましく顔を横向けた。オッと思うほど麗しい横顔だ。極端に睫毛が長い。
「お客さんとやってて、中はどういう感じになるの?」
「むずむず、というか、もどかしいというか」
「ぼくの頭を膝に載せるくらいでイキそうになるほど敏感なのに、オマンコはその程度なんだね?」
「はい。丸ちゃんも、棒が動いてるくらいにしか感じないと言ってました」
 真上から私を見る形になっていることにふと気づいた天童が、
「神無月さんのからだ、真っ白!」
「ムスコがへんだろう?」
 真っ赤になってうなずき、
「アタマしかないんですね。腕立てしてるとき、チラッと見ました。とうとう神無月さんのオチンチンをしっかり見ることができてうれしい」
「触ってごらん」
 亀頭やら睾丸やらをおそるおそる触る。
「わ、伸びてきました。大きい! こんなの入りません」
「入るよ。女のオマンコはよく伸びるから。〈こんなの〉を舐めてくれる?」
「はい!」
 積極的に亀頭を含もうとする。
「大きい! とても無理です」
「そのうち要領がわかるよ。さ、よくオマンコ見せて、イクまで舐めるから」
「……どうぞ、見てください」
 横たわり、脚を広げる。胸に目がいく。豊かだ。もともとの商売柄、肌の手入れが行き届き、ピカピカしている。股間を見る。クリトリスが大きく小陰唇が長い。淡い陰毛につづく割れ目が濡れそぼっている。
「ああ、神無月さんが見てるんですね。恥ずかしい」
 屈みこむとからだを緊張させる。舌先で小陰唇を左右にこじ分け、膣口を舐める。太腿がブルッとふるえる。小陰唇を交互に含む。
「あ、そんな……もったいない」
 思ったより早く高潮がやってくる。
「オマメちゃんが硬くなった」
 尻がアクメの態勢に入った。
「ああ、恥ずかしい、見ないでください、あ、イク、イッちゃう、だめ、イッちゃう、見ないで! あああ、イクウ!」
 ガクン、ガクンと尻が上下する。
「いやあ、恥ずかしい!」
「だいじょうぶだよ、恥ずかしいことじゃないよ、女はみんなこうなる」
 グッショリ濡れた天童のものを舌全体で愛撫する。クリトリスを吸い上げたとたん、
「神無月さーん、またイク、ううん、イク!」
 自分の胸をつかんで弓反りになった。ストンと尻を落とし、腹をふるわせる。やがて
 上半身を起こして、
「自分でするより、ずっと気持ちがよかったです。からだがフワッと浮いて……自分でするとだいぶ時間がかかるんです」
「よかったね。でも、自分でするのにちょっとオマケがついたくらいだよ。ぼくにしてもらってるって気持ちの分のおまけ。中でイクとこんなものじゃすまないよ。いままでナマで入れたことはあるの?」
「お店にくる前、付き合ってた人と」
「お客さんとするのと、何かちがいがあった?」
「うれしい感じがしました。うれしがってるうちに、いつもその人が終わってました。でも、それも暖かくてうれしい感じがしました」
「そのほうがいいかもしれない……」
 睦子の言葉を思い出した。
「じゃ、入れるよ。うれしく感じてね」
 そっと挿入し、柔らかくこする。ひたひたと吸いついてくる膣だ。天童の顔が赤らみ、
「う、気持ちいい! うそ、うそ、あああ、気持ちいい!」
 表情を見ようと思っていったん抜こうとすると、優子は猛烈な力で抱き締めてきて、
「お願い、抜かないでください、お願い、あ、あ、あ」
 私はピストンの速度をさらに緩め、膣の緊縛の具合を確かめた。洞の中間あたりが脈動している。いちばん最初の素子がこうだった。 
「怖い―」
 速く引き、ゆっくり突き入れる。急激に硬く締まってきた。
「気持ちいい! うそ、イキそ、イキそ、イクイク、イッちゃう、イッちゃう、だめ、イクイクイクイク、イク!」
 一度引いた尻がグンと跳ねた。二度、三度と跳ねているうちに、自然に抜けたので、もう一度挿入する。
「ああ、うれしい、神無月さん、うれしい!」
 あわただしくこする。一度達しているのでふつうなら数秒で高潮がきそうだが、初めての感覚に恐怖を催したのか、キョロキョロ視線を左右に動かしながら懸命に感覚を確かめている。
「がまんしなくていいのに」
「オシッコが……」
「さっきしてきたばかりだから出ないよ」
 天童は耐えている。顔が真っ赤になり、
「だめです、だめです、だめええ! オシッコ出る!」
 腹が引っこみ、グーッと上半身がせり上がってきたので、抱き締めた。膣がきつく緊縛し、微妙に前後にうねる。
「ああああ、イクイクイク、イクッ、イクッ、イック!」
 ついに愛液を噴き出した。上半身がグイと伸び、トシさんのように陰阜があわただしく前後する。
「あ、あ、イクイクイクイクゥ!」
 急に迫ってきた。ビュッ、ビュッとスキーン液が飛ぶ。私は強く吐き出し、二、三度と律動して最後まで搾り出す。引き抜いて、蒲団にゴロリと仰向けになった。
 しばらく性器を屹立させたまま、激しく痙攣するからだを見つめていた。このような極めつけの快楽を男である私は経験することができない。感激の閾値がちがうということは、女たちは身も心も別の世界に生きているということだ。貴い存在として大切にしなければならない。天童が深く呼吸し、
「お嬢さんや素子さんも、私のようになるんですね。なんだかホッとしました」
 遠慮がちにこちらに寝返りを打ち、
「生まれて初めてです、こんなふうになったの。中でイクって、こんなに気持ちいいって知りませんでした」
「敏感な女だけの宝物だ」
 すり寄ってきて、つくづくと私のそそり立ったものを見つめた。親指と人差し指を輪にして、亀頭に回してみる。
「幸せ?」
「はい! ……中がジンジンしたままです。またすぐ入れてほしい感じです。恥ずかしい―」
「跨ってごらん」
「はい。お店ではたいていその形でした」
 天童は慣れたふうに跨り、躊躇せずに挿し入れる。
「ああ、気持ちいい、中がいっぱい!」
 突き上げる。
「あ、イキそ! 恥ずかしい、神無月さん、顔を見ないで、イクイク、イクウ!」
 強く痙攣しながら陰阜を前後させる。
「ああ、だめ、またイッちゃう、イッちゃう、恥ずかしい、ひどい顔、見ちゃいや、ああああ、イック!」
 腋を抱えて引き離す。優子は蒲団の上でのたうった。三十五年間不本意に逼塞して開花した器だ。陰阜が沈んでいき、蒲団の上にからだが伸びる。ふくよかで滑らかなからだが名残の発作を間歇的に繰り返す。硬直した全身が緩むまでにかなり時間がかかった。優子は快楽の余韻を引きずりながら目を閉じている。気をやったばかりの襞に指を挟んで快楽を宥(なだ)める。
 私は扁平な自分の青白いからだと見比べた。自分のからだに美を感じなかった。女という生きものとのあいだに一枚の薄い壁がある感じだった。天童の輝かしいからだが鎮まっていき、大きな目が開いた。私は掛布を胸までたくし上げて、自分の薄っぺらい胸と腹を隠した。いますぐ服が着たくてたまらなくなった。天童は掛布を取り払い、私にのしかかり、豊かな胸を私の薄い胸に押しつけた。このときこそ、彼女にとって何より一体感が高まる歓喜のひとときなのにちがいなかった。
「どうして隠したんですか?」
「優子に比べると、みっともない感じがして」
「こんなにきれいなからだは二つとありません。最初見たとき寒気がしたくらいです。うれしくてうれしくて、何かにお祈りしたくなります」
 私のものを両手で握り締め、無理やり口に押しこむ。舌がチロチロ動く。苦しくなって吐き出した。仕方なく付け根を舐める。
「……抱いてもらったあとは、神無月さんのオチンチンを舐めてきれいにしてあげるのが礼儀だって、素子さんが言ってました。「神無月さんがわざと露骨なことを言ったりしたりするのは、セックスは最低限の愛情だって教えるためだって。最初だけしか露骨にはしない、最初から露骨にしとけば、セックスの壁がなくなる、最低限のことに壁があったら男と女は生きていけない、セックスに壁をなくしておけば、いつどこで神無月さんに求められても受け入れられるって」
 私は感心してうなずいた。
「ほかにも何か言った?」
「トルコにしても、立ちん坊にしても、オマンコをオーバーに考えすぎてる、だから男もオーバーに考えて金を払う、セックスを恥ずかしがるのもそのせいだ、女の最高の仕事はセックスじゃなくて、男を死ぬほど好きになることだ、つまらないものを大げさに売って金を取ることじゃない、最低限のことにオーバーな壁を作ってるものだから、最高の仕事ができないんだって」
「いつ素子がそんなことを言ったの?」
「ぜんぶ私が、神無月さんを好きで好きでたまらないと素子さんに打ち明けたときです。
 ……最高の仕事をすると、からだも心もご褒美をもらえるんですね」


         七十一

 離れから二人で座敷に戻ると、切手を買って戻ったみんなが歓談していた。打撃と、守備と、走塁。打撃と走塁はふつうの構図だったが、守備が変わっていて、左中間の打球に頭から飛びつこうとしているところだった。切手をめずらしそうに見ていた女将が、上気した顔の天童に視線を移し、
「トモヨに聞いたで、優子。よかったなあ。せいぜい迷惑をかけんようにするんよ」
「はい、夢みたいです。ほんとに自分の身に起きたことかしらって思います。神無月さんに抱いてもらえるなんて。……願いを叶えてもらえると思いませんでした。汚い仕事をしてきた女でしたから」
 トモヨさんが、
「おめでとう。長い夢が実現したわね。これからはもっと長い付き合いになるわよ」
 主人が、
「一週間にいっぺんか、三カ月にいっぺんか、半年にいっぺんか、気まぐれに抱いてもらえるやろ。一年にいっぺんということもあるかもしれんぞ」
「はい、これっきりでもいいくらいです」
 睦子が、
「それはありません。そんなこと神無月さんはけっしてしません」
 千佳子が、
「からだの悦びより、そばにいるのがほんとに幸せなことだって、すぐわかるようになります。からだは、そのきっかけにすぎないんです。神無月くんはあんまりしつこいのは嫌いです。トモヨさんはもちろん、百江さんも、メイ子さんも、イネさんも、しっとり落ち着いてるでしょう? ああなるんです。優子さんもそうなってくださいね」
「はい」
 ソテツがポツリと、
「……うらやましい」
 トモヨさんが、
「もうすぐですよ。すごく深く郷くんのことを思ってるから」
「ほんとですか!」
 主人が、
「神無月さんのスケベ心が湧くように、もっと色気をつけんとな」
 女将が、
「ソテツでおしまいにしといてな、神無月さん」
 天童は浮きうきと膝に私の頭を載せ、耳掃除のつづきにかかった。
「右の耳に溜まってます。悪い耳でした?」
「そう、聞こえない耳。便利だよ」
 主人が、
「なんでですか」
「よく、速球がうなりを上げて向かってくると言うでしょう。ぼくにはそれがほとんど聞こえないから、ボールに対する恐怖心がない。そのおかげで、よくボールを見切れる」
「そんな欠点まで、ぜんぶ野球に役立てとるんですね」
「はい、よくできてますよ」
「あ、だめだめ、神無月さん、膝触っちゃだめ」
 睦子と千佳子がクスクス笑う。女将が、
「やんちゃやねえ、神無月さんは」
 ソテツが、
「私は触ってほしいですけど」
 主人が、
「優子は、おまえと敏感さがちがうよ」
 そう言ってヘヘヘと笑う。
「そんなこと、してみないとわからないでしょう」
 天ぷらを揚げる音がしてきた。主人が、
「ソテツ、ワシは天丼にしてくれ」
「はい。きしめんのあとなので、三十分ほどかかります」
「じゃ菅ちゃん、一回りしてくるか」
「いきましょう。神無月さん、もう家の周りビッシリですから、ちょっと厄介ですよ。ここしばらくは一人で出歩くのは危ない」
「わかりました。散歩を控えます」
 主人たちといっしょに二人のトルコ嬢が出ていった。私は女将に、
「店の子は増えてるんですか」
「百五十人くらいから増やさんようにしとる。もう面接は半年にいっぺんにしたわ。応募が多すぎて往生しとるんよ。ほんとは羽衣五十人、シャチ五十人でやっていけるんやけどな。二つの寮にいま百人くらいおって、かよいが五十人。これ以上の大所帯にしたらあかん。店長たちがスケジュール組むのたいへんや。ああやって見回るいっても、サボっとる子がおらんか確かめとるだけよ。見つけたら辞めてもらわんとあかんで」
「相変わらず千鶴ちゃんがナンバーワン?」
「これだけおると、どっちの店も、ナンバーエイトぐらいまでは大して売り上げ変わらん。千鶴ちゃんも女同士の競争に疲れたみたいで、来年から、キッコみたいに高校にかよいながら、北村席か、寮のほうの賄いをやりたいて言っとるわ。アイリスもあるし、アヤメ食堂も新しくできるから、千鶴ちゃんだけやなく、百五十人のメンバーからそっちのほうへ少しずつ流れてくれたほうがええな」
 睦子が、
「キッコさんも千鶴さんも頭いいから、二人で高校いくようになったら、北村席が和子さんや素子さんみたいな、目から鼻へ抜けるオキャンな雰囲気になって、おうち全体が引き締まるでしょうね」
「二人、ちゃんと大学いってる?」
 大学の受講の経験もほとんどない私が学生風を吹かせて訊くと、千佳子が専門的な答えを返してよこす。
「もちろん。ソフトボール、法学、法哲学、民法親族法、そのほか一般教養。公認会計士の勉強も始めました」
 よくわからないが、ワクワクする。
「私は、ソフトボールと、万葉集講義の授業だけはきちんと出てます。神無月さんが花に詳しいのに感動して、万葉歌に詠みこまれた花を図鑑で調べることもやり始めました。卒論のテーマになるかもしれません。花の生態系や、詠われた花の意味なんか調べて」
「おもしろそうだね」
 やはりワクワクする。
「夏に免許取ったら、小回りの利く自動車をプレゼントするよ」
 千佳子が、
「わあ、うれしい!」
「免許を取るのは千佳ちゃんと素子さんです。私は免許をとらないことにしました。向いてません。自転車でじゅうぶん。必要なときはだれかに乗せてもらえばすむことだし」
 千佳子が、
「私がいろいろ乗せてってあげる。……でも、そんなに簡単に車を買ってもらっていいのかしら」
 アイリスから昼めし第一陣のカズちゃんと素子が帰ってきた。カズちゃんが、
「なになに、車の話?」
「はい、夏に免許取ったら、神無月くんが小回りの利く車を買ってくれるんですって」
「ふうん、じゃミニクーパーがいいわね。九百CCから千三百CC。千CCを超えても百五十万くらい。プレゼントにはぴったり。素ちゃんも色ちがいで買ってもらいなさい」
「ええの?」
「お金使えて、キョウちゃんもうれしいでしょう。おとうさんが銀行をうまく利用してるから、キョウちゃんのお金がハイエナにやられずにすんでるけど、そうじゃなかったら金の亡者どもに食いものにされてたわ。芸能人は、灯台もとの身内やマネージャーが食い散らすけど、キョウちゃんにはそういう身内もマネージャーもいない。怖いのは株屋、保険屋ね。その二つはぜったい近づけないようにおとうさんに言ってあるの。そいつらがしつこいことをしてきたら、松葉さんにお願いすることになってる。キョウちゃんは大金持ちじゃないけど、周りの人たちに一生プレゼントできるくらいのお金を持ってるのよ。車の一台、二台、遠慮しないの。気兼ねなら、私がディーラーを値切ってあげるわよ」
 続々と天ぷらきしめんとめしが出てくる。うまそうに麺をすする音が座敷に満ちる。
 三、四十分もしないで主人と菅野が帰ってきた。イネが、
「いま天丼作るすけ、ちょっと待ってけんだ」
 菅野が、
「ゆっくりやってください。神無月さん、ダイシンボルガードが勝ったきのうのダービーね、珍事が起きたんですよ。一番人気のタカツバキがスタート直後に落馬したのはそれほどめずらしいことじゃありませんが、ハクエイホウとダイシンボルガードとミノルと三頭で直線の叩き合いになったとき、ダイシンボルガードの厩務員の石田さんという人が、俺の馬だァ! 俺の馬が勝ったァ! って叫んで、長靴ドタドタ、旗振りながらコースに入りこんで外ラチ沿いに走ったんです。観客は大拍手。石田さんはレース後ちょっと戒告を受けただけですみました。マスコミは好意的な書き方をしてます。騎手の大崎は二十四歳の年男で史上最年少のダービージョッキーになり、レース後ファンの手で胴上げされましたが、これも史上初でした」
 と言って、日刊スポーツを見せる。写真を見る。野球帽を後ろ前にかぶり長靴で走る男の打ち振っているものは旗ではなく、何か皮紐状のものだ。菅野が、
「ん? 旗じゃないな、メンコだ。馬の覆面です」
「しかしいい名前だな。石田さんにどれほど愛されてたんだろう。グッときますね」
 千佳子が、
「神無月くんが買ってくれるって言うんです。素子さんと私に」
 カズちゃんが、
「ミニクーパーよ。二台」
「神無月さんには金を使わせたくないな。ワシが買ってやろう」
「それじゃ、ぼくからのプレゼントの意味がなくなりますよ。ぼくはポケットにいつも十万円入ってればいいんです。こういう買い物もたまにはさせてください」
「それもありですか」
「ありです。車は人の車に乗せてもらうだけ。自分は自転車一台あればOK。いろいろ便利です。名古屋城にも日赤にもいけます」
 カズちゃんが、
「菅野さん、自転車あるの? 一台買って、則武に置いとこうか。プレゼント」
 菅野が、
「よろしく。運動量をきちんと考えて、ランニングの替わりに二人で遠出することもできますからね」
 女将が、
「不思議な人やな、神無月さんて。お金に無頓着なくせに、なぜかお金に恵まれないにおいがするんよ。なんとかしてあげたくなってまう。人からもらってもへんに遠慮せんし、してあげやすい」
 カズちゃんが、
「金目のことを一つも計算してないからよ。そういう性格ってとてもめずらしいわ。でもキョウちゃん、なかなかお金使わせてもらえなかったけど、これでやっと使えるわね」
「うん、ホッとした」
 千佳子が、
「神無月くんはこれまでも、だいぶ人のために使ってます。和子さんたちからもらったお金も、自分で稼いだお金も―。初めてのお給料だれかに送ってあげましたよね。私が青森から東京へ出てくるときも、だいぶお世話になりました。私みたいにしてもらった人は多いと思います。青森の健児荘の管理人さんにも、節子さんにもキクエさんにも、お金を出してあげてます。そのころのお金は人から集まってきたものでしょうけど、神無月くんはお金というものをすっかり吐き出してしまうんです」
 女将が、
「神無月さん、困った顔しとるが」
 主人が、
「いつもそうして困っとればええ。神無月さんは困るのが仕事みたいな人やから」
 カズちゃんが、
「そうねえ、いくら貢いでも、自分の買いものにはめったに使わないのよねえ。いままで自分のために買ったのは、ステレオとレコードと本ぐらいじゃないかしら。とにかくそういうわけだから、千佳ちゃん、素ちゃん、遠慮なくプレゼントいただきなさい」
「はい」
 素子が、
「ありがと。うち、ヒルかなんぞのように吸い付いとるみたいで気が退けるけど、かならず恩返しするでな」
「いらない。雨の日も風の日も、客も取らずにぼくを一年間街角で待ちつづけた女だ。それでじゅうぶんだよ。どの女もそうだ。人間としていちばん難しいことをしてくれる人たちだ。恩返しするのはぼくのほうだし、どれだけ返しても足りない。ものをプレゼントするくらいでガタガタ言わないで」


         七十二

 主人が、
「神無月さんの景品の缶ビール、毎日女の子たちの食事につけてやっても、ぜんぜん減らんわ。ダイキンエアコンから電話あった。あそこに当てた選手は初めてやそうで、賞金五百万、エアコン十台進呈する言うんで、うちの一階の客部屋と座敷と、トモヨの離れ、賄いの休憩部屋、二階の娯楽部屋にエアコンを取り付けてもらうことにしたわ。則武に二台、アイリスとアヤメ、滝澤師匠の家にも取り付けてもらうことにした。それで十台や。貢がれとるのがどっちかわからんようになってまった。座敷のでっかい扇風機、ほしいやつは持ってけや」
 三台の扇風機を目で示す。キャーと女たちがうれしそうな声を上げた。
「エアコン取り付けてからやぞ」
 トモヨさんが、
「私は、これ以上ないプレゼントをいただいてます。離れの分は菅野さんに」
「や、それはちょっと」
 菅野が手を振る。主人が、
「そうやな、八月にも子宝をもらうしな」
「はい、もう何もいらないのに、お金までいただいてます」
「それは養育費よ。男の義務。則武はとっくに四台も取り付けてるわ。アイリスはちゃんと入ってるし、アヤメは大きいのを取り付けるから、トモヨさんの分も菅野さんの分もちゃんといただきなさい。あとの二台は、節子さんとキクエさんにあげればいいわ」
 そう言ってカズちゃんは素子と立ち上がり、式台へ出ていった。入れ替わりに、第二陣の百江、メイ子、丸、キッコがやってきた。菅野が彼女たちに、
「神無月さんのホームランのおかげで、エアコンを天神山にもいただけることになったんですよ」
 百江が私に、
「きのうのスコアボードですね」
「うん。もともとタダのものだから、ピンとこないな」
 キッコは食卓につくと開口一番、
「あんなくだらん嫉妬で、川上ゆう人の築き上げた人生が終わるんかいな。憎いやつやけど、ちょっと気の毒やな」
 彼女を代表とする日本じゅうの人びとの、川上という男を惜しむ気持ちが微妙に伝わってきた。有能と目される人間が積み重ねてきた人生の挫折を何の下心もなく心配しているのだ。これがふつうの心の動きだろう。私はにっこり笑い、
「終わらないよ。一時代を築き上げた人だ。築き上げたものを記憶されている人は、大勢の人びとに大切にされる。だいじょうぶ。ワンクールも消化しないうちに川上監督の謹慎は解けて、築き上げたものを持たない青二才への穏やかな反感でこの騒動は終わるよ。そのことは川上監督本人がいちばんよく知っているはずだ。ぼくもよく知っている。騒動がつづけば、世間はぼくに背を向ける。しかしそんなこと、ぼくには関係のないことだ。世間が背を向けても、野球をやらせてもらえるのはありがたい。やらせてもらえるかぎり野球をやり、ホームランを打ちつづけようと思う。ぼくに対する世間の反感のもとは、もう一つある。ホームランはたまに出るからこそ喜びのもとなのであって、いつもいつもホームランを見ていたら、飽きがくるということだ。でも、それもぼくに影響を与えるものじゃない。ホームランは美しい、だから、当たり損ねの内野安打よりも、ポテンヒットよりも、詰まったセカンドゴロよりも、バントよりも、ぼくの目に美しく映る。ぼくは信じてるんだ。ぼくの目に美しく映るんだから、ホームランに飽きない人の目にも美しく見えるだろうってね。そんなわけで、世間から背を向けられても屁でもない」
 キッコは私の口調の含みにハタと気づき、
「神無月さん、誤解せんでね。うちは川上監督を本気で気の毒がっとるんやないんよ。気の毒ゆうのは言葉の綾や。つまらん嫉妬で、せっかく築き上げた地位を危のうしてもうた軽率さに呆れたんよ。アホな人の心配なんかしてへん。気に障ったんやったら勘弁してね。神無月さんにあんなひどいことをした人の味方するわけあれへん」
 食事を途中にして心配そうに百江とメイ子と丸が私を見つめた。三人はキッコのために焦っていた。気配を察したトモヨさんが、
「キッコちゃん、何も心配しなくていいのよ。郷くんは無色透明。この騒ぎは川上監督に何の責めもなく終わると素直に言っただけのことなのよ。そして、まちがいなくそうなるわ。郷くんはすばらしい人です。秀れた野球人で、徳のある人間です。でも、どんな人間でも権力に逆らえばすべて終わります。権力に終わりはありません。郷くんはそういう面倒な権力に逆らいたいわけじゃなくて、一般の人たちが崇める権力から遠い静かな生活をしたいだけなんです」
 主人が菅野と顔を見合わせて笑い、
「ほうや、この騒ぎは長くつづかん。だから、世間も神無月さんに背を向けんし、神無月さんもいままでどおりつつがなく野球をやらせてもらえる。神無月さんは最強の人間です。どんなに権力のあるやつらも敵わない。やつらは、自分の平凡な暮らしが神無月さんに守られとるものだと知ったら、感謝しますよ。永久に知ることはないやろうけどな。―神無月さんは一般の人たちの動向など気にする必要のない立場にいる人なんです」
 キッコは目をしばたたき、
「よかった。うち、川上監督のことを神無月さんのお母さんに重ねて考えたんよ。身の程も知らんと神無月さんをいじめた人の行く末をな。いい気味やと単刀直入に言ったら大人気ない思って、持って回ったいい方になってまった。ごめんなさい」
「こちらこそごめん。気を回させた。さ、二、三時間座敷で横になるかな」
 主人が、
「ティアックゆう会社の日本初のカセットデッキ、その改良型を買いましたよ。圓生の落語と、有名どころの浪曲をセットで揃えましたから、寝物語にどうぞ」
「いま聴いてみます」
 幣原にステージ部屋に一枚床をとってもらって横たわった。枕もとでカセットレコーダーを回した。リールテープでないので多少違和感があったが、音質はよかった。佐々木米若の『佐渡情話』を聴いて涙を流した。よしのりとは次元のちがうでき映えだった。吾作とオミツ。人は別れてはならないとつくづく痛感した。
 ウトッとなり、しばらく寝こんだ。
         †
「浜野、電撃トレードですよ!」
 主人と菅野が興奮しながら起こしにきた。直人のはしゃぎ声が居間から聞こえてくるので、四時に近い時刻だろう。浜野か。私には既知のことがいままで彼らの話題にのぼらなかったことから考えると、トピックとしては全国規模のものではないのだろう。
「島野プラス金銭を中日が蹴って、金銭だけのトレードになりました。島野が入団時から肩を壊していて使い物にならなかったことが理由のようです。まあ、読んでください」
 座敷に落ち着き、女将やトモヨさんもいっしょに夕刊フジを覗きこむ。

 
中日ドラゴンズ浜野を放出
   
巨人へ金銭トレード
 中日ドラゴンズ浜野百三投手(23)の巨人への電撃移籍が決まった。三十一日に正式決定する。68年度ドラフト一位の有望株を放出することにドラゴンズが踏み切ったのは、二十五日、球団側へ浜野本人が申し入れたことによるものとされている。今季投手陣の調整に苦しみ、低迷がつづいている読売ジャイアンツにとっては、願ってもない朗報となった。昨日は島野プラス金銭一千五百万円で交換の話し合いがもたれたが、折り合わずに金銭二千万円で決着。
 すでに四勝を挙げて新人らしからぬ活躍をしている浜野が、なぜ急遽巨人への移籍を求めたかは、入団の経緯を振り返れば想像に難くないが、ドラゴンズ側が快く了承したについては、浜野が水原監督(60)に面と向かって「長いものに巻かれないことを正義とする甘ちゃん集団」と罵ったのが理由とされている。長いものとは川上巨人軍のことである。今回の一連の騒動を、権威に楯突いた青二才の反逆と罵られた水原監督が隠忍したわけではない。即刻謹慎を命じたが、それならば巨人へ出してくれということになり、速やかにトレードが本決まりとなった。浜野が言うには、
「一人の天才に振り回されて、愛だ、人情だとやっている監督や選手たちを見ているのが耐えられなくなった。読売ジャイアンツというあれだけ経験と実績があるチームに属せば、どういう場面でも強い気持ちで投げられる。また私の加入によって巨人チームによい意味で化学反応を起こすことができると思う」
 一方水原監督は、
「巨人はもともと彼が入団を切望していた球団です。そのことだけを主張してトレードを申し入れれば、ことなきを得て、来季のトレードもスムーズにいったろうが、彼は急(せ)いて私たちを侮辱し、権力志向をあからさまにぶちまけた。もうドラゴンズのどの選手も彼とはうまくやっていけない。放出するしかない。彼は巨人軍とウマが合う。うまくやっていってほしい」
 と語った。巨人は九十五試合を残して現在五位。逆転のAクラス入りは生半可なことでは達成できない。中日の準エースの獲得が大きな刺激となって、少しでもチーム力が向上することを願う。浜野が中日に対してひと暴れすれば、ひょっとして優勝争いも可能かもしれない。


 主人が、
「浜野は何をやらかしたんですか」
「監督やチームメイトを徹底的に侮辱しました。川上監督のぼくに対する行為も肯定しましたし、権威のない天才など、川上監督に比べれば何ほどの存在でもないとも言いました」
 菅野が、
「そんな気持ちで五カ月も中日で野球やってたのか。水原監督が即断したのもあたりまえだな。中日はもともと義理人情を大事にする球団ですからね」
「神無月さんに対する嫉妬を抑え切れんかったんやろ。巨人では使ってもらっても、勝てんと思いますよ。巨人には神無月さんがいませんからね。一勝もできんまま再トレードでしょう。しばらくは中日にぶつけてくるやろうけど、ぜったい勝てません」
 菅野が、
「浜野の年俸は二百万ですから、巨人は相当上乗せして採ったということになりますね。損したと思うなあ。使い物にならない島野を二軍に置いたままだし。島野の年俸もそのくらいじゃなかったですか」
 主人が、
「島野はクビやろ、置いとけん。置いといたら浜野がへそを曲げる」
「二軍ならいいんじゃないですか?」
 私は、
「ところで、審判団の処分はあったんですか」
「基本的に審判員には制裁金というものは科されないことになっとるんです。出場試合数を減らすという罰が科されます。平光さんは五試合、その他の審判員は一試合ということになりました。これも大問題になって、いろいろな方面から川上監督に対して非難囂々です。いまもって川上監督の謝罪はありません」
「浜野のような巨人マニアの反撃があるんでしょうね」
「そうそう、きのう牧原さんから電話があって、警固態勢を万全にするから神無月さんに安心するように伝えてほしいということでした。何ごとも起こらないよう祈っているが、逆恨みするやつはかならずいるからと」
「やっぱり同じ考えだったんですね。もうすぐ康男が帰ってくる。楽しみだなあ」
 主人が、
「挨拶にいらっしゃるなら、ワシもいっしょにいきますよ。これまでのご配慮のお礼をきちんと言わなくちゃいかんから」
「いっしょにいきましょう。ぼくにとってもお父さんにとっても、生涯の付き合いになる人間ですから」
「私もいきます」
 菅野が言った。
「ほうや、菅ちゃんも顔を出しといたほうがええ。康男さんが帰ってきたら連絡をくれるよう牧原さんに電話しときます。そのときはトクも和子も同行させます。伺う前に樽酒を届けといたほうがええな」
         † 
 五月二十七日火曜日。朝から霧雨。冷える。昨夜は夕食のあとステージ部屋で早めに寝た。左偏頭痛がひどく、耳鳴りが止まなかったからだ。きょうも寝床に入ったまま、カセットを聴いている。広沢虎造。石松三十石船道中、石松金比羅代参、忠臣蔵。言葉がよく聴き取れないこともあって、そろそろ飽きてきた。圓生の御神酒徳利に替える。単語の選択の妙、言いぶりの妙に感じ入る。
「おとうちゃん、だいじょうぶ?」
 襖を開けて直人が覗いた。
「だいじょうぶ、心配しなくていいんだよ」
 やがて、直人がトモヨさんと出かける物音がした。頭痛が薄らいできたので、座敷に出ていく。女将が、
「だめだめ、寝とりゃあ。顔色悪いがね」
 睦子と千佳子は大学に出かけていて姿が見えなかった。菅野が心配顔で、
「少し風邪をひきましたかね、季節の変わり目だから」
「前半戦の疲労が溜まったんですね。寝れば治ります」
 偏頭痛と耳鳴りのことは言わない。耳鳴りのことはカズちゃんにすら言ったことがない。言っても何の薬効もない。菅野は襖の戸を閉めた。歯を磨きにだけ洗面所へいく。風呂に入らずに寝床に戻る。
 うとうとしているうちに厨房の音が高くなり、アイリスの第一陣が戻ってきた。カズちゃんたちではなく、メイ子と百江とキッコの声だった。百江が襖を開けて覗き、
「疲れてる顔ですよ。お昼食べたら、もう一休みなさったら」
「そうする」


         七十三

 食事のあと、本格的な眠気に襲われたので、トモヨさんの離れへいってきちんと睡眠をとることにした。たぶん今回の騒動に気疲れしたのだ。川上監督と巨人軍メンバー、権威者と庶民、私と女たち、どんな人びとも思い合っている。思い合う人びとがいると知るだけで気持ちが疲れる。思い合う者が抱えている〈倫理〉を気遣う。それを眺めることが気疲れのもとになる。何にせよ倫理的な人びとと対面するとき、男と女ではなく、対等な一人間に立ち返って、遠い、心にもない話をしなければならないし、彼らが大事にしている倫理とも対話しなければならない。
 二時を回って、トモヨさんが濡れタオルを持って私の様子を見にきた。すっかり具合がよくなっている。屹立していた。
「直人は」
「三時に迎えにいきます」
 顔の汗を拭い、枕カバーを替える。フーフーつらそうだ。
「苦しそうだね」
「郷くんこそお疲れですよ。郷くんのような人には気疲れする世の中ですから。あら……」
 トモヨさんはふくらんでいる私の股間を握って確かめ、ニッコリ笑うと腹帯を上げ、下着を脱いでスカートをまくり、肘を突いて尻を向ける。
「はい、どうぞ」
 起き上がり、大きな尻を抱えて挿入し、心から安堵の息をつく。
「ああ、何の気兼ねもない」
「女がイクのも気兼ねだったんでしょう? 苦しいんじゃないかって。こんなふうにオチンチンを入れて、じっとしていたいんですね」
「うん」
 うごめき、締めつけてくる。
「ああ、郷くん、でも無理なの、イカないのは無理なの、そうしてじっとしていても、郷くんの形を感じてるだけでイッちゃうんです、あ、だめ、イッちゃう、イッちゃう、イキますね、イキますね」
「イッて」
「あああ、イキます、好き好き好き、郷くん愛してる、ううーん、イクウウウ! 抜いてください、すぐ抜いてください、キリがなくなります、郷くん、好きイイ!」
 うねり蠕動する膣が亀頭をしごく。心地よい射精の感覚が腹の奥から湧いてきた。
「トモヨ、とっても気持ちいいから出すよ」
「はい、あああ、うれしい、私もイキます」
 腰を動かさずに、亀頭だけで律動した。トモヨさんも律動のたびに気をやる。
「ああ、郷くん、不思議よ、何度もイクのにつらくないの、ああああ、気持ちいい!」
 私は引き抜き、ティシューを当ててやりながら、いつもより激しく痙攣する大きな尻にキスをした。トモヨさんはゴロリと横になって痙攣しつづけた。腹で荒々しく呼吸しながら、
「女に同情しすぎちゃだめ。幸せにしてあげようとがんばりすぎちゃだめよ」
 しだいにふるえが治まってくる大きな腹や陰阜をさすってやる。トモヨさんはどうしても言わなければならないというふうに呼吸を整え、
「世間を背負ってる人には、自分なりのリズムで話しかけられないですものね。好きなときにパンツ一枚になることもできない。いつもかしこまって、まじめなお話をして、相槌を打って、当り障りのないことを言わなくちゃいけない。それはたいへんなことよ」
 トモヨさんはティシューを足して精液を拭い取り、
「でも、そんなことは郷くんの疲れの大もとじゃないの。何が疲れのもとなのか私にはわかります」
 トモヨさんは腹帯を下げ、パンティを穿いた。私は彼女の胸に頭を預けた。
「大もとって、何?」
「道徳を捨てられない人に心を寄せてあげること」
「…………」
「お嬢さんや私たちは、命だけじゃなく道徳も捨てられます。郷くんがずっとむかしから命も道徳も捨ててると気づいてるからです。その郷くんに少しでも長くこの世にいてもらうためには、嘘をつくことも、盗むことも、人を殺すことだってできます。それをじゃまする道徳のことなど、最初から頭にないんです。そのことがわかっているから、郷くんは私たちに癒され、疲れを感じないの」
「そうだったんだね。草原で遊ばされているようだって感じてたけど」
「郷くんはほんとに美しく生まれたわ。私たちも美しく生きなければ……道徳に縛られて世間の言いなりになるなんて、美しくない。新聞とテレビだけの人生といっしょ」
「視野だけ広いジャーナリズム人間の人生ということだね。伝わりやすい簡単な考え方に従って生きてるような」
「そう。しばらくすると、きのうの新聞みたいにだれもまじめに読まなくなります。郷くんはまじめに読んであげてる。それが疲れのもと。異常な人間が正常に見せかけてる。道徳的な人たちの正常さが郷くんにショックを与えるからです」
「親を大事にし、しきたりや権威を大事にし……」
「そういう正常さはきっと郷くんにとってめずらしく、ショックでしょう。新しいものに触れると、どんなつまらないものでも最初はみんなめずらしいものです。学校の新しい勉強みたいに。でも、郷くんのように真剣に生きるように生まれついた人間は、新しかろうと古かろうと、ほんとうに真剣な考え方と行動をする人だけが注目に値するんです。そのほかの人たちは疲労のもとになります。郷くんにとって完璧な人たちを思い出してください―飯場の人たち、康男さん、松葉会の人たち、お嬢さん、いつか話してくれた山田三樹夫さん、山口さん、そして私たち。真剣さというのは異常さと紙一重です。私たちは郷くんの目で、真剣にものを見つめ、ものを考えてるんです。人は、たった一人の人間の視点でものを見たり考えたりするというのを奇妙なことと思うでしょう? でも、そうすることで真実の生き方を手に入れることができるんです。視野の広さを気取ってる人に真実は見えません」
「疲れが吹き飛んだ。ありがとう」
「ああ、顔色がよくなった。言葉の異常さだけでなく、行動の異常さも隠さないようにすれば、疲れることはないはずですよ。じゃ、私、お台所に入ります。そろそろ直人を迎えにいく時間ですから」
「ぼくはこのまま少し眠る」
「はい。オチンチンきれいにしますね」
 新しいタオルで隅々までぬめりを舐め取ると、掛蒲団をかけて出ていった。
         †
 強い雨音で目覚め、居間へいった。だれもいない。厨房は夕食の下準備に入っている。座敷には直人がいて、女たちと塗り絵をしていた。主人の書棚から厚いプロ野球人名事典と名鑑を取り出す。ふつうのパンフレット状のものとちがい、ちょっとしたエピソードも載っている。
 それぞれ平松の項を開けて読み比べる。岡山東商。四十年センバツ優勝。三十九イニング連続無失点大会記録。四十一年ドラフトで中日四位指名、蹴って日本石油へ(プライドが許さなかったのだろう)。その年、小野賞を受ける。小野賞? 都市対抗の優秀賞みたいなものか。四十二年のドラフトで、巨人の一位指名の確約を裏切られ、大洋から二位指名。保留(野球が嫌いなのか。この平松という男、浜野と同様、巨人しかプロ球団ではないと思っている。巨人でないなら考えさせてくれということだろう。しかしここでも巨人は約束を破っている。巨人の確約ほどあてにならないものはない。なんと一位指名が槌田だというのだから、巨人はよほど二流選手が好みなのだ。川上の意向にちがいない。彼の好きな言葉は〈将来性〉だ。そのくせ確固とでき上がった選手も確実に採る)。
 同年、日石のエースとして優勝し、都市対抗野球のMVPである橋戸賞(もう何賞でもいい。とにかく人は賞好きだ)を受ける。何を思ったかその直後、大洋に途中入団(高校の先輩である秋山と土井に説得されたということになっているけれども、巨人に対して根強い不信感を持ったからにちがいない。巨人など待ってはいられない。とはいえ、入団一年目は、長嶋にあやかって背番号3をつけていた)。一年目三勝。二年目の昨年五勝。シュートを会得したのは、今年の春のキャンプのことだという。瞬く間にカミソリシュートの噂が広まった。
 囲いのコラムに、気質、短気と書いてある。ピッチャーはふつう短気だ。めずらしいことではない。あのシュートはたしかにすごい。右バッターでなくてよかった。左バッターの外角へぎりぎり外れるシュートなので、手を出さなくてすむし、ストライクだと踏んだらチョコンとファールにもできる。右バッターは、目のそばへ曲がってくるので、どうしても手を出してしまう。長嶋が苦手にしているというのはよくわかる。王がカモにしているというのもよくわかる。私が狙うのは少しホップする速球と、パワーカーブだ。
 ドラゴンズの同僚、とりわけ江藤のことを知っておきたいと思ってページを繰った。昭和十二年十月六日、干支(えと)一巡りむかしに私と同じ熊本に生まれている。戦後、父が戦地から戻らぬまま、母と二人の弟とともに疎開地に移った。鹿本(かもと)郡田底(たそこ)村。まったく知らない地名だ。生活経験のないふるさとを私が知らないのはあたりまえの話で、私自身、田浦(たのうら)町という自分の生れた土地の名前しか知らない。
 幼いころから喘息持ちの虚弱体質だった。夜寝るときによく咳をした。下痢症で、頻脈で、風邪をひきやすい自分の体質と重ね合わせる。
 ある日とつぜん父親が戻ってきた。慎一は家計を助け、かつ体力をつけるために新聞配達をした。こういう話は胸に迫る。ノンプロ八幡製鉄の外野手だった父は、慎一の体力強化のために野球を教えこんだ。それは表向きで、たぶんエリート教育だったろう。親が子をエリートにしたがるとき、まぎれもなく愛がある。江藤が男の愛を知っていることに安堵する。
 必然的に小学校で頭角を現した。昭和二十五年山鹿中学校入学と同時に野球部に入った。新聞配達はつづけた。人のやりたがらないいちばんいきついポジションを選ぶと決めていたので、キャッチャーをやった。体裁を構わない男だとわかる。献身と愛他の人柄が偲ばれる。渾名はチビで、からだも細かった。モノマネでよく部員を笑わせた。才能に恵まれた木田ッサー。山鹿中学校で県大会出場を果たしたのち、西部(さいぶ)中学校へ転校。転校の経緯はわからない。私のような事情ではないだろう。宇土(うと)(熊本県中部)大会で優勝。四番キャッチャー江藤慎一の名が県下に知れわたる。県下の名門校から続々とスカウトがくる。私の人生はそこで中断した。いたく同情するはずだ。
 昭和二十八年熊本商業入学。県下の強豪は熊本工業、九州学院だったが、弱いチームを強くしたいという決意のもとにあえて熊本商業を選んだ。浜野とちがってこれまでの彼の素行から考えてこの経緯に誇張はない。ここにも彼の不羈(ふき)の気組みが偲ばれる。江藤という男がますます好きになった。一年の秋にレギュラーになり、三年のころには、熊商に鉄砲肩の江藤ありと言われるようになった。昭和三十年夏、甲子園予選。熊商は八代高校、阿蘇高校と勝ち進み、準々決勝で熊本工業と当たった。一対三と敗退、甲子園は夢と消えた。一点は江藤の打点だった。
 翌年、ノンプロ新日鉄二瀬野球部のテストを受け、〈限界まで鍛える〉ことをモットーとする濃人渉に三年間の臨時雇いで採用される。最初の一年はブルペンキャッチャー。翌年正捕手になる。プロ五球団から誘われたが、濃人の意味のないストップがかかった。江藤の前に濃人というの男の意地悪な性格が初めて露呈された瞬間だ。ようやく〈毒親〉の登場だ。しかし野球を奪われたわけではない。そのまま日鉄二瀬に留まり、翌昭和三十三年、都市対抗決勝戦まで駒を進めたが、ゼロ対四で日本石油に敗れた。
 昭和三十四年、中日ドラゴンズに入団。西沢引退を機に、自己推薦でキャッチャーからファーストへコンバートを申し出る。オープン戦で南海の杉浦からレフトへライナーのホームランを打つ。オープン戦三冠王! 開幕戦で大洋の鈴木隆から初安打、巨人との二回戦で伊藤芳明から初ホームラン。入団一年目でオールスター戦出場。
 昭和三十六年、濃人が中日の監督に就任。暗雲。濃人の気に入らない選手の粛清が始まる。井上登、吉沢さん、森徹、大矢根博臣ら。そして新人権藤の酷使。江藤レフトコンバート。チームは二位、三位と連年健闘するも、粛清の反感を買い、三十七年濃人馘首。杉浦清に監督交代。二位へと上昇、翌年最下位へと下降。
 圧巻は昭和三十八年(私は中学二年)、八月二十五日、中日球場、対巨人十四回戦。この日、江藤は二ホームランと当たっていた。六対六の同点。七回表、降雨激しくなり、試合は成立したが雨天中止となる。江藤は雨の中ただ一人、三十分間、西沢コーチが迎えにいくまでレフトの守備位置に立ちつづけた。抗議しても詮無いことだが、引き分けが感覚にはまらなかったのだ。悲壮感をただよわせた雨中の彼の姿は人びとに万感の思いを与えた。私も飯場の白黒テレビで観ていた記憶がかすかにある。
 三十九年、東京オリンピックの年、江藤は両脚の肉離れを抱えながら首位打者を獲得。四十年、西沢道夫に監督交代。この年江藤は、オープン戦で一試合一試合テーマを決めてバッティングをした。きょうはグリップの位置だけ、きょうはカーブ狙いのみというふうに。私に似ている。いや、似すぎている。チームは二位に上昇。江藤は宿痾のふくらはぎ肉離れで、連続試合出場八百九で途切れるも、オールスターMVP、二年連続首位打者獲得、王の三冠王を二年連続で阻止。
 私が居間にいることに気づいたソテツがコーヒーを出した。主人が座敷からやってきた。
「それほどの雨やないな」
「あしたはだいじょうぶでしょう」
 早番の女たちを連れて主人と菅野が帰ってきた。ハイエースで迎えにいったようだ。彼らにもコーヒーが出る。
「お、神無月さん、また研究してますな」
「はい、平松と江藤さんを見てました。平松が今年から注目されだしたってあらためて知りました。江藤さんのことも知ってるようで知りませんでした」


         七十四

 主人と菅野にもコーヒーが出る。
「だれもが知ってるようで知らないのは、長嶋ですよ。昭和十一年千葉県印旛沼生れ、江藤より一歳年上の三十三歳」
「社長、そんなのはだれでも知ってますよ」
「あわてなさんな。話はこれからだよ。小学校のころのあだ名は、小さくてすばしこいのでチョロ。川上の大ファンだったのはそのころからです。天然の好人物だったホームランバッターの大下ではなく、むっつり安打製造機の川上のファンだったというのが引っかかるでしょう? しかし、勘弁してやってください。いつの時代も、ホームランはヒットの延長のマグレとしか見られてないんですよ」
 私は、
「ホームランにあこがれるのは、ホームランバッターだけです」
「でしょうな。長嶋は中距離ヒッターですからね。佐倉一高では二年生で四番に座り、ショートでエラー王、サードへコンバートで花開いた。その夏の甲子園予選で、千葉高校、市原一高校、東葛飾高校と打ち破って、開校以来の快進撃をつづけ、千葉県優勝。南関東大会に進んで熊谷高校と対戦した。埼玉県営大宮球場。熊谷のピッチャーは福島という速球派。スカウトたちは福島だけを見にきていた。長嶋はそいつからバックスクリーンにぶちこむホームランを打った。百二十メートル。試合には負けたが、それまで無名だった長嶋のもとに、巨人を初めとするプロ野球、社会人野球、大学野球のスカウトが押し寄せた。プロ、社会人を両親が勝手に断り、立教大学に決めた。プロにいきたかった長嶋は怒り狂った」
「初耳のことばかりです」
「でしょう? 神無月さんに似てませんか?」
「似てません。知ってるようで知らないのは小中学校時代のことかと思ってたら……」
「そこいらへんは謎です。すみません」
 菅野が、
「似てませんよ。神無月さんは小学校のころから有名人だったし、母親がスカウトを追い返したときも静かにあきらめてます。長嶋は立教で野球をやれと言われたんであって、順風満帆でないにしても野球生活はずっと継続してます。神無月さんは野球そのものをやらせてもらえなかったんですよ。村迫球団代表は、神無月さんが野球をやっていない西高時代に、ひっそり八坂荘にきたんです。大学そのものにしても、長嶋は推薦入学、神無月さんは自力で東大に入ってます。そういうことを考えただけで、私は泣けてくるんですよ」
 菅野はまぶたをこすった。
「……ほうやな、神無月さんに似とる人なんか一人もおらんわな」
「もっと長嶋の話を聞かせてください。川上のファンだったとか、親に立教へいかされたとか、知らない話でした」
「でしょ? 砂押監督の月下の猛ノック。グローブで捕るな、心で捕れ。それだけが有名です」
「心で捕れは知らなかった。素手で捕れだったらわかります。でも、心で捕れなら、その教えはまちがってます。ボールを捕るのは素手でもグローブでもいいんですよ。ボールを怖がるな、からだのどこかにぶつけて止めろということならわかります。グローブで捕れる範囲はグローブで捕れ、グローブをはめてないほうへきたら、素手でも腕でも足でもいいから、なんとか止めろ、なら納得しますけどね。とにかく、できるだけグローブで捕らないとだめです。守備の妙諦はグローブさばきですから。砂押という人は野球を知らない人だったんでしょう。長嶋はその人の言うことを聴いてなかったと思いますよ。練習の好きな男なので、ただ特訓が楽しかっただけでしょう。あ、すみません、話の腰を折っちゃって」
「なるほどなあ、いちいちもっともだ。砂押は都市対抗野球の小口工作所で一年間ピッチャーをやって、すぐ監督になりました。そしてまたすぐ立教の監督に就任。つまり監督しかやったことのない男と言っていいですな。おっしゃるとおり、野球そのものの素質はなかったんでしょう。で、また長嶋に話を戻しますが、立教時代に父親が死ぬ。母親が野菜の行商で生計を支える。それを気の毒に思って、大学をやめてプロにいくと母親に言ったら止められた」
「初耳です。生計と言っても、母親の口だけでしょう?」
「姉、兄、姉の四人兄弟です」
「じゃ、彼らが母親を助けることができたはずですね。長嶋への仕送りが必要だったんですか? 奨学金もあるし、学費免除だったんじゃないですか? それに母親はプロへいくことを止めてませんよ。いくなら在京球団にしてくれと言ってます。それなのに長嶋は在学しつづけて卒業してます。結局兄弟たちが一家の生計を支えたんでしょう」
「なるほど、たしかにね。事実は事実でも、美談風に作り変えてあるわけですな。で、もう一度話を戻しますが、猛特訓が反感を生んで、上級生野球部員の訴えで砂押退任。上訴の中心人物は、五年前まで南海にいたあの荒くれ者大沢です。長嶋は二年生で三番バッター、三年春には四番に座り、四割五分八厘で首位打者、四年秋には最終戦で八号ホームランとなっていくわけです。この八本目がなかなか出なくて、対慶應戦、五回裏についに達成しました。何もかも瀬戸際でやってのけるという、生来スタンドプレイが身についた男なんでしょう」
 四割五分には正直驚いた。菅野が、
「瀬戸際プレイが人気のもとですよ。天覧試合のホームランにしても、前日の長嶋は四のゼロでまったく当たっていなかったんですからね。天覧試合になると四の三、二ホーマー、変身です。イベントに強いんですね。それだけ強い印象が刻まれる。イベントも何も関係なく、余裕で前人未到の記録を樹ち立ててしまう神無月さんのほうが、国民的な人気という点で弱い感じがするのは少しシャクですね」
「神さまは騒がれんよ。一年生の春・秋でホームラン五十数本、打率八割の神無月さんにはだれも遠く及びませんが、四年間で二十二本打った田淵が現れても、そして天馬神無月さんが現れても、いまなお長嶋は、六大学伝説のスーパースターなんです」
「神無月さんの近づきがたい雰囲気は、人気という点では損してますね」
「ぼくはそれがうれしい。気楽に生きられます」
 主人は首を振り、
「人気がないって言ったって、どの球場も超満員になる。応援とか期待を超えた怖いもの見たさってやつだね。じつはロボットだったっなんて結末が、いちばん喜ばれるんじゃないの。三試合ノーヒットとか、十試合ノーホームランとか、人間らしいスランプに陥ったら、怒涛のような人気が出るやろな。悲しいね」
 菅野は、
「開幕戦、金田から四打席四三振。シーズンも終わりに近づいて二十八号ホームランを打ちながら、ベースの踏み忘れでシーズン三十本のホームランを逃がす。どこまでもドラマチックです。時代の寵児。正直、ヨダレものですね」
「そうですか? しゃべる言葉に、人間的なドラマのなさが滲み出てますよ。ぼくは彼のことを羨ましいと思いません。江藤さんや小川さんのような人間的魅力がないので、知り合いたいとも思いません。知り合っても、会話する言葉がない。彼の人気のもとは、絵になるプレイスタイルです。空振りをしても、トンネルをしても、ベースを踏み忘れても美しい。ショートバウンドでも打つ、敬遠のボールでも打つ。美しい。彼には野球しかありません。野球の申し子です。それが野球ファンを熱狂させるんです。ぼくに人気が出ないのは、詫びしげな人生を背負ってるからです。人びとはそういうものを娯楽に持ちこんでほしくない。ぼくはまったく持ちこんでるつもりはありませんが、ぼくの持ってる雰囲気がそれを感じさせてしまう」
 主人が、
「自由に生きてる明るい変人だと知ったら、みんな驚くやろな」
「野球も自由、セックスも自由、勉強も、言葉も、何もかも自由でアッケラカン」
「みんながそうさせてくれてるんです。野球一筋の長嶋も、ほかのプロ野球選手もそうはいかないと思います。記者会見に出る、合同練習に出る、各界とのパーティに出る、ゴルフコンペに出る、テレビに出る、ラジオに出る……長いものに巻かれてるからです。浜野が言ったように、庶民は長いものに巻かれる人が大好きです。自分の生活を投影するからです。長嶋でさえそれを遮断したら人気は出ません。ぼくの自由は、ぼくを愛してくれる人たちの防御の賜物です。防御がきつい分、人気は出ません。もともとほしくないものはいりません」
 菅野が、
「いろいろ絡み合って、人気って出るんですねえ」
「当然です。くどいようですが、ぼくのようなシンプルなエゴイストは、人気など出ません。それがぼくの生活をのんびりしたものにさせてくれてるんです。みなさんに感謝しています」 
 主人が、
「長嶋の話がおかしな方向に逸れてしまった。江藤さんと同年輩の稲尾の話でもしましょうかね」
「お願いします」
 アイリス組が全員帰ってきた。雨が強くなってきたわよ、と厨房に声をかけている。追うように千佳子も戻ってきた。髪を濡らしている。カズちゃんが、
「昼のテレビで、巨人と中日のフロントが記者会見してた。観てなかったでしょう。小山オーナーが、神無月をトラブルメーカー扱いしないでほしい。彼は何もしていない。それなのに命まで狙われるのはなんたる理不尽だ。トラブルを起こした張本人がこういう公の場に出ようとしないので、神無月一人が悪者にされているからだ」
 千佳子が、
「私もムッちゃんと生協食堂で観ました。小山オーナーが涙を流しながら言ってました。―神無月は平和な子供だから、何をされても耐えますし、しかも訴えることはけっしてしませんので、好きなようにいじめてやってください。彼は淡々とホームランを打ちつづけますよ。このままだと、いじめられることに飽きて、もう野球をやめたいと言い出すのも時間の問題だと思いますが、私どもは全力を尽くして慰留します。野球界の至宝をこんなくだらないことで手離してなるものですか。国民のみなさんも神無月を野球界に留め置きたいなら、もういいかげんに無視してやってください。せいぜいいじめるやつの味方をして、神無月のことをせせら笑ってればいいですよ。神無月は平和な子供ですから、嘲笑の意味がわかりませんので。しかし、笑うだけにして、手は出さないでください。彼の周囲にもマスコミの圧力で押しかけないでいただきたい。もうやめましょうよ、みなさん。とにかく放っておいてやってください。いまはドラゴンズの命運よりも、わが子神無月個人の命運が大事です」
 百江が、
「平和な子供という意味がよくわかるんです。平和な心というのは、何ものにも冒されていないあるがままの気持ちのことですよね。人が人を嫌わない気持ちのことですよね。大人になっていろいろな生活の方便に冒されると、人が人を嫌うようになってしまうんです。戦争のときみたいに。子供は罪のない嘘をついたり、セックスしたり、愛したり、自由なんです。ぜんぶ争いのない平和な行動なんです。小山オーナーさんが言った平和な子供というのはそういう意味だと思います」
 素子が、
「そういう子供だから、好きなようにいじめて笑ってやってくれ、笑いの意味のわからない平和なキョウちゃんは何も気にしないから。ただし近づくなということやね。そのとおりやわ。小山さんてえらく頭のええ人やね」
 カズちゃんが、
「頭のいい人でホッとしたわ。キョウちゃんをしっかり守ってくれてる。読売ジャイアンツのフロントは、もう平身低頭だったわね。―川上監督を無期限謹慎に処すことによって、神無月選手の身に危険が及ぶ事態が出来(しゅったい)した場合、すぐ川上監督を現場復帰させることを考えている、川上監督の責任もいっさい問わない、その代わり慰謝料として神無月選手に二億円をお支払いする、私どもとしては、陳謝すべき行動をとったのは巨人側であるにも拘らず、何ゆえ神無月選手が危険な目に遭わされるのか理解に苦しむ、それでは小山氏がおっしゃるとおり、いじめ得ということになる、そういう理不尽はけっしてあってはならない」
「二億円? 冗談じゃない。そんないわれのない金、ぜったい受け取らない。たとえ一円でも受け取らない。身に危険なが及ぶ事態なんて起こるわけがないよ」
 キッコが、
「―ほんとに神無月さんの身が危ないん?」
 主人が、
「そう思っとけばまちがいないということや。松葉会さんが警戒を強めとる。天下の巨人に逆らったゆうことで、このあいだの殺人予告少年みたいに逆恨みするファンもいるかもしれんゆうことや。代理監督でしばらくいって何ごともなければ、川上はたぶんそのままクビやな」
「ぼくは球界を去りませんし、二億円もいりません。川上監督のクビもいやだな。それより、稲尾の話がまだですよ」
 カズちゃんが呆れたように、
「キョウちゃんは意地悪なんかされたと思ってないみたいよ。心強いわね。さ、お風呂入ろ。千佳ちゃんもいこ」
 みんなでどやどや廊下へ出ていった。主人が、それじゃ、と語りはじめる。
「稲尾和久、三十二歳、漁師の息子として昭和十二年大分県別府で生まれました。兄五人姉一人の七人兄弟の末っ子。兄たちは戦死したり、ほかの仕事に就いたりしていたので、親孝行の稲尾は小学校低学年のときから、父親の跡を継いで漁師になるつもりで毎日舟を漕いでおりました」
「お伽話みたいですね。有名な話ですけど」
「ハハハ、父が釣っているあいだに彼は小伝馬船の櫓を漕いだんです。釣った魚は母が刺身にして近くの旅館に卸し、頭や中骨のまわりを煮たものを家族で食べた。骨は乾燥させてフリカケにした。そういったことが強靭な足腰を作り、鉄腕の礎を作った」
 私は、
「船の中に大量の石を持ちこんで、沖で時間が空くとその石で遠投した。軸足の踵を上げる独特なフォームの生まれたのも、きっとそのときですね。揺れる船で踵を上げると安定しないので、体幹の耐久力がつく。雨雨権藤の権藤は、そのフォームをそっくりコピーしたと聞いたことがあります。しかし、なんで石なんか投げたのかな」
「小学校五年のとき、都市対抗野球の優勝チームのパレードを見ちゃったんですな。別府星野組というチームです。監督は二十九歳の西本幸雄。いまの阪急の監督ですね。選手兼任で、三番を打ち、ファーストを守っていました。エースは火の玉投手と言われた丸眼鏡のサウスポー荒巻淳(あつし)。星野組は人気抜群のスター選手の集団だったんですよ。その華やかなパレードを見て、稲尾は俺も野球選手になりたいと思った。そういう転機が神無月さんにもあったでしょう」


         七十五

「野球という遊びをやりたい、から、プロ野球選手になりたい、という現実の希望へとつぜん変わっていったのは十歳のときです。……野球で遊びたいという時期は、漫画を読んだり映画を観たりしながら、ほとんど野球のことを忘れてすごしました。つまり野球選手にあこがれる時期がほとんどなかったんです。小二のとき近所の子供たちとソフトボールをやったとき、九番に決められ、生れて初めて左打席で打ったボールが校庭の生垣に飛びこみました。うれしくて、爽快でした。同じころベーブ・ルース物語という子供向けの本を母に買ってもらって読んだとき、彼も同じ経験をしていることを知ったんです。うれしかったですけど、まだ野球選手になろうという具体的な思いは浮かびませんでした」
「野球選手になろうと思ったのはいつからですか」
「さぶちゃんという仲のいい子に、キョウちゃんはプロ野球選手になれると言われたんですが、そのときはまだ半信半疑で、そんな気持ちは固まっていませんでした。千年小学校に転向して軟式野球を始め、名古屋市のホームラン王になったとき、その思いが芽生え、森徹のホームランボールをキャッチしたときにその思いが固まりました。小学五年生でした」
「十一歳。それから九年ですか。とんとん拍子に見えますが、その間の紆余曲折はとんでもないものでしたね」
「はい」
「稲尾も同じ十一歳の目覚めでしたが、とんとん拍子と言えるでしょうなあ。漁のない日は大人に混じって草野球をやるようになりました。キャッチャーでね。中学校に入ってもキャッチャー。ひょろひょろ痩せとったので、あだ名は骸骨のコツ。野球部の練習を終えると父親と海に出る。相変わらず船に積んでおいた石で遠投をする。高校で野球をやりたいという思いが募ってきた」
「野辺地でも、漁師の子は高校へやらせてもらえません」
「そうなんです。高校にいかせてくれと父に頼んでも、ノーの繰り返し。兄たちが父親を説得してくれて、やっと進学できた」
「かならず救済者が現れる。そして別府緑丘高校」
「はい、三百人中七番で合格しました」
 菅野が、
「勉強もできたんですね!」
「育英会奨学金の試験にパス。三年間で総額一万八千円。西鉄に入団した年に、みずから育英会本部に出向いてそっくり返した。大金なので係員に怪しまれ、野球の会社に入ったと答えたという逸話が残ってます。サラリーマンの初任給が六千円の時代ですから、学生服姿の少年がそんな大金を持ってきたら怪しみますわな。高校一年生の夏、甲子園予選のときはライト九番で出場しました。緑丘は投手力が弱く、一回戦でボロ負け。その秋、一人ひとりのピッチングテストで監督に注目され、ピッチャーに転向」
「鉄人の謎が解けてきました。櫓漕ぎと遠投とキャッチャー。足腰と肩が強くなったあと、ピッチャーに転向。しかも、それまで肩を本式に消費してなかったことが最大の原因です」
「なるほどね。手が小さいわけでもないのに、彼なりに指の短さを悩んで、三年間、右手の人さし指と中指を引っ張りつづけて、一センチ長くしました。これ、実話です。二年生のとき、コントロールのいい速球と打撃力に目をつけた西鉄のスカウトが様子伺いにやってきた」
「入団してくれということじゃないんですね」
「注目してます、がんばってください、またきます、とでも言って帰ったんでしょう。当時九州には、畑隆幸、阿南準郎(じゅんろう)という注目選手がいて、稲尾はまったくの無名でした。高校三年生になると、堂々エースで四番。甲子園にはいけませんでしたが、ライオンズと五十万円で契約しました。小倉高校の畑隆幸は六百万。西鉄は稲尾を、コントロールのよさを買って、バッティングピッチャーのつもりで採ったという話です」
 私は、
「鳴り物入りはほとんど外れますから、いまで言えば、ドラフト下位選手の飛躍というところですね」
 主人はコクコクうなずき、
「同感です。三位太田、九位島谷ね」
「一位で入った浜野は監督に悪態をついて巨人へトレード、二位の水谷則博はしばらく二軍籠りでしょう。ぼさぼさしてると、一勝もできないまま、トレードか引退ということになるかもしれません。五位の三好真一は二軍のまま音沙汰なし。たぶん、このまま終わりです」
 菅野が、
「六位竹田和史も右に同じ。ドラフト上位でモノになったのは太田一人」
 太田の名前が出たので、店の女たちが寄ってきた。直人もついてくる。主人が抱き寄せて頬に唇をつけた。直人はいやがり、台所のトモヨさんを求めて走っていった。主人はにこにこ背中を見送りながら、
「稲尾は寮ではもりもりめしを食って、ひょろひょろのからだに肉をつけました。入団した三十一年の五月、近鉄戦で試運転。それからはとんとん拍子。六百万の畑など蹴散らしてしまった」
 菅野が、
「畑はたしか、昭和四十年に中日に移籍してきたでしょう。背番号11。一回も登板しないでやめていきましたよ。いまは大分でとんかつ屋をやってるそうですよ」
「ふうん。野球は努力よりも生まれつきが左右するスポーツやからね。入団の年、稲尾はエース島原の二十五勝に次ぐ二十一勝を挙げて新人王、防御率一・○六も一位。一方、畑は七勝。水をあけられたもんだ。その年西鉄はリーグ優勝、巨人との日本シリーズで稲尾は全試合投げて、四勝のうち三勝を挙げました」
「天才だったということでしょう。見抜けなかったスカウトの目を疑います。よほど突出した評判なら別ですが、並の評判に頼ったり、甲子園の出場選手から選んだら、まず外れです。甲子園上位校出身の名選手は、尾崎くらいしか知りません。いたとしても有力選手止まりで、名選手ではないでしょう。日本各地に客寄せパンダを見つけにいくことぐらいムダなことはない。大リーグのように、スカウトが自分の足で、少年院にでも鉱山にでも出かけていかなくちゃいけない。逆に出かけてきてくれたテスト生に目を凝らさなくちゃいけない」
「おっしゃるとおりです。広き門にして、あとで絞るということをしなくてはいけませんね。稲尾は翌三十二年、天才的な活躍を見せました。二十連勝の日本新記録、三十五勝六敗、最多勝、最高勝率、最優秀防御率―」
 主人は事典を繰り、
「一・三七で投手三冠王を獲得しました」
「ホームラン百本の価値がありますね」
「あります。日本シリーズ、第一、二戦、完投勝ち、二年連続優勝とくるわけやから」
 私もいっしょに事典を覗きこみ、
「もう何をか言わんやです。降臨というのはまさに彼のことでしょう」
 菅野が、
「天孫降臨ですか。あれは宮崎県だ。近いですね」
 主人は、
「昭和三十三年、長嶋入団の年」
「老いも若きも、プロ野球に注目しはじめた年ですね」
「この年三十三勝十敗、日本シリーズ、例の三連敗のあとの四連勝」
 私は、
「神さま、仏さま、稲尾さま。中西や稲尾に注目していた人びとにとっては、プロ野球元年でも何でもない。とっくに全盛期だった」
「はい。そのころの巨人のレギュラーは、川上、与那嶺、藤尾、エンディ宮本、広岡、南村、土屋、平井。ピッチャーは別所、藤田、安原、堀内庄、大友、義原、中尾、木戸」
「なんかパンチがなくて、広岡以外はドンくさそうだ。ここへ長嶋が入ってきたとなると事件ですね。でも、それは巨人軍あるいはセリーグの事件であって、他球団の、いや、プロ野球界の事件ではなかったということですよ。それにしても巨人軍は、十勝級のピッチャーをたっぷり抱えて連覇をつづけてたんですね。バッターは派手じゃないし、水原監督も長嶋がくるまでは退屈だったろうな」
 菅野が、
「いまのドラゴンズは当時のジャイアンツの十倍を凌ぐ戦力ですね。弱点は十勝級のピッチャーの手薄さですか」
 主人が、
「小川、小野級がもう一人いれば磐石や。稲尾級はぜったい無理やからね」
 彼は事典に目を凝らしながら、
「……そして翌三十四年、ふつうはもう肩がボロボロだろうと思うのがふつうです」
「権藤さんを考えるとそうですね」
「ところが三十勝十五敗。鬼神ですね。中西、大下、関口の長期欠場のせいで、チームは四位でした。西鉄の日が傾いてきた時期です。昭和三十五年、三原脩から川崎徳次へ監督交代。稲尾二十勝七敗。チーム三位。稲尾もここまでと思うでしょう。ところがこれで終わらないんですよ。翌三十六年、四十二勝を挙げたんですわ!」
「四十二勝! 入団六年で何勝挙げたんですか」
「百八十一勝です。しかしチームは二年連続三位。川崎徳次辞任。監督中西太、助監督豊田泰光、投手コーチ稲尾和久の青年内閣誕生。全員選手兼任でした」
 賄いの動きがあわただしくなってきた。直人がいっしょにチョコチョコ動き回る。私は彼の胴を捕まえ、膝に埋めようとしたがスルリと逃げられた。
「二十一、三十五、三十三、三十、二十、四十二という勝利数が頭に入ってくるだけで、ほかの情報は何も記憶できませんね。鉄腕とは知っていましたが、これほどとは……」
 主人が事典を閉じた。カズちゃんたちが、風呂から戻ってきて配膳の手伝いをする。
「三十七年、三年連続三位。中西と豊田が不仲になって、豊田国鉄へ金銭トレード。そんな年でも、稲尾は二十五勝十八敗です」
 菅野が、
「うわあ! 七年で二百勝突破。もうまぎれもない天孫ですね」
「三十八年、ようやくチーム優勝。稲尾は肩を痛めながらも二十八勝十六敗の成績を挙げました」
 私は、
「人間じゃない! 八年目で肩が壊れて、しかも二十八勝」
「日本シリーズは、稲尾の肩の不調がたたって三勝四敗で負けました。そして、三十九年は零勝二敗」
「ついに終わったんですね。……八年、二百三十四勝、平均三十勝ペース」
「いえ、四十年から、十三勝、十一勝、八勝、九勝と昨年まで四十勝を挙げてます。現在二百七十五勝」
「その四十勝は灰になる前の燠(おき)火のほてりですね。金田は八年で何勝ですか」
 皿鉢を運んできたメイ子が主人の詳細な記憶に目を丸くしている。女将が帳場からやってきて、
「好きこそもののというけど、わが亭主ながら大したもんやわ。神無月さん、あしたはナイター?」
「はい、六時半から」
「朝のうちに雨は上がるらしいわ」
 主人はページを探り当て、成績表を暗算し、
「金田は入団八年目で百八十二勝、二十三勝ペースです」
「稲尾もそのペースでいけば、肩も順調で、四百勝したでしょうね」
「まちがいなくね。以上、稲尾和久物語でした。そう言えば、春のキャンプ地は明石でしたね。明石で生まれた名投手がいますよ」
「へえ、だれですか」
「小山正明です。三十五歳」
「背番号47、針の穴を通す人か。三月五日の東京球場のオープン戦で、成田が江藤省三にホームランを打たれたあとに出てきましたね。ぼくは敬遠気味の外角のボールにバットを投げ出しました。レフト線に転がった二塁打でした。実質、まだ対戦していないのと同じです。太田と島谷さんはパームにやられてたな。……でも、稲尾さんも小山さんも、みんな晩年にさしかかってます。最盛期の力は発揮できません」
「小山とは来年のオープン戦まで対戦はないでしょう。息の長いピッチャーですよ。昭和二十八年にタイガースでデビューしてから、もう十七年です。三百勝近く挙げてます。最盛期でないからといって、見くびるのは禁物です。小山は入団テストを受けて、打撃投手として採用されました。契約金ゼロ、月給五千円。当時のサラリーマンの月給より安かった。神無月さんのおっしゃった、出かけてきてくれたテスト生というやつです。彼はバッティング練習のピッチャーをやるために、毎日明石から片道一時間半かけてまじめに甲子園にかよった。やがて、柔らかいフォームから繰り出される速球は天性のものだと認められて、入団三カ月で正式契約、月給も一万円になった。八月、二軍リーグ近鉄戦でデビュー。五回一失点で、翌日から一軍に昇格。勝ち試合の広島戦で七回から継投し、小鶴誠から初三振を奪いました。プロ入り一年目は十六試合に登板して、五勝一敗。チーム二位。翌二十九年、開幕投手になりました。あの天知中日優勝の年です。チームは三位。その後チームのAクラス維持に貢献し、六年目の昭和三十三年、二十四勝十二敗、防御率……」
 事典をめくって、
「一・六九。このシーズンオフにパームボールを覚えて、全日本対カージナルスの日米親善野球に出場します。スタン・ミュージアルをパームで三振に切って取りました」



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