九十三

 うつ伏せになって、しっかり二皿平らげる。風邪薬を飲み、もう一度眠りに入る。むかしから私は、ちょっとした風邪にも過剰に反応する。全身がだるくなり、夢うつつの状態になる。
 ―なぜ過去を振り返るのか。もうこれ以上知りたいことはない。何一つ解決しない世界にいることだけがわかる。時間は円い一本の環だ。自分のしてきたことをすべて繰り返す。何度も何度も繰り返し、同じ場所に留まり、閉じこめられる。何度も、何度も、繰り返す、永遠に。
 戸山、女の子、三輪車、合船場、じっちゃ、ばっちゃ、善司、善夫、義一、ミースケ。城内幼稚園、黒揚羽、ようこちゃん、けいこちゃん、汽車……。国際ホテル、アメリカさん、チョコレートバー、金魚。サイドさん、岡三沢小学校、よしろう、天平童子……。崖の家、裁縫ベラ、鉈マメ煙管、空気入れ男。高島台、青木小学校、福田雅子、ひろゆきちゃん、四宮先生、成田くん、さぶちゃん、京子ちゃん、崖の自転車、破傷風。浅間下、貸本屋のお婆さん、テルちゃん、ターボー、サーちゃん、柴山くん、内田由紀子。川原小学校、英夫兄さん、ミッちゃん、郁子、法子、夏蜜柑。千年平畑、飯場、カズちゃん、クマさん、荒田さん、小山田さん、吉冨さん、西田さん、酒井飯場のリサちゃん、シロ。千年小学校、下椋先生、寺田康男、加藤雅江、服部先生。桜満開の宮中学校、スモールティーチャー、岡田先生、関、デブシ、知能試験、和田先生、杉山啓子、山本法子、畠中女史、労災病院、部長先生、ダッコちゃん。牛巻病院、節子、リューマチ先生、ワカ、マンボズボン。亀島の炭屋、浅野、お母さん、タケオさん。野辺地中学校、奥山先生、野月校長、山田三樹夫、中島秀子、杉山四郎、チビタンク、ボッケ、ガマ、熊谷、よしのり、浜の坂本、佐藤惣介。青森高校、縦貫タクシーの清川さん、葛西一家、ミヨちゃん、赤井、サングラス、数学塾、西沢先生、山口、木谷千佳子、鈴木睦子、相馬先生、阿部主将、古山、小笠原テルヨシ、ユリさん。名古屋西高、土橋校長、金原、素子、吉永先生、水野。東京大学、詩織、林、トシさん、雅子、アヤ……。この何もかもを、私の野球人生の書割としてからげることができるのか。
 私はまちがっていると自覚はしているけれども、どうまちがっているのかはわからない。わからないのでひたすら過去を告白し、心の静寂を求める。幸せなときに幸せだと思えるか、それともそれを失う事態になって初めて、幸せなときが過ぎ去ったと気づくか、どちらにも興味がない。どちらも無関心な指の篩(ふるい)からこぼれ落ちていく未来だ。振り返ると未来はいつも後ろにある。野球選手。生活は変わったが、私は変わらない。いずれこの生活も、変わらない私が振り返る未来になる。私の人生の失敗は、いつも未来を取り逃がして過去にしてしまうことだ。現在を貴重だと信じているからだ。私の人生の答えは足もとの環の一点にある。愛する人びとと、愛する仕事。未来の別の生き方への希望は持たない。未来を取り逃がすことに悔いはない。
 まちがっているという自覚がどこからきているか、ぼんやりわかる。未来の取り逃がしよりも重大なまちがいがあるからだ。私のほんとうのまちがいは、貴重であると信じている現瞬に怠慢であることだ。現瞬に生きるとほざきながら、現瞬に没頭しないことだ。足もとを見回し、慈しむべき対象を見定められないことだ。私にはいまとちがった未来があるという幻想を捨てるために、自分がほんとうにほしいものをわかるために、私は別の人生という希望を根こそぎ捨てなければならない。得体の知れない希望を捨てるとき、深く暖かい闇に包まれる。その闇は実体があり、待っている人びとが闇の中に大勢いる。女たち、男たち、そして分身……。彼らは私を真綿のようにくるむ闇だ。
 私はときどき勘ちがいする。自分が愛するものは自分の人生の答えだという勘ちがいだ。彼らが人生を変えてくれるという勘ちがいだ。彼らは人生の答えでもなければ、人生を変えるものでもない。ただ温かく包むありがたい闇なのだ。あふれる愛情の一部として私を受け入れるありがたい闇溜まりなのだ。私は彼らといっしょに闇の中へ融けていく。私はまちがった選択をし、まちがった判断をしてきた。感じる肉である私は、まちがった選択をし、まちがった判断を下すことで自分を作りあげてきた。その結果が幻の自分だとしても、私は常に何かを選択し、何かを判断を下してきた。深く暖かい闇に包まれることだけが、選択と判断を拒絶する。選択と判断はボールを打つ瞬間だけでじゅうぶんだ。その余のことは豊潤な闇にまかせよう。ただ身をまかせればいい。私は彼らの愛を感じる。まぎれもない愛を感じる。
 雨音が遠ざかっていき、思い浮かべていた顔の群れも意識の外へ遠ざかった。
          †
 数日分眠った感じで目覚めた。一日ぶりに勃起している。耳鳴りがうるさくない。夕方の六時を回って、カズちゃんとメイ子と素子が戻ってきて、私を風呂に入れてからだを洗い、勃起しているものを三人で慰めた。素子とメイ子が湯殿に横たわって悶えているあいだに、座位でカズちゃんに心ゆくまで吐き出した。カズちゃんは私を必死で抱き締め、口を深く吸いながらふるえた。
 それから女たちは私を食卓に座らせてコーヒーを出すと、夕食の支度にかかった。
「一日で風邪が抜けるなんてめずらしいわ。むかしからキョウちゃんは風邪に弱かったのよ。三日は寝こんでた。私たちも風邪をひいてるときはぜったい近寄っちゃだめよ」
「はい。でも私たちに移ったかもしれませんね」
「そうね、でも私たちは風邪に弱くないから」
 素子が、
「あと二週間ぐらいでファン投票締め切りやけど、キョウちゃん百四十二万票で、ダントツやて。長嶋が十万票で二位やゆうんやから、もう比べもんにならんわ。……オールスターのあいだ、キョウちゃんがまんできる?」
 カズちゃんが、
「東京は菊田さんや福田さんもいるし、法子さんも詩織さんもいるからいいけど、平和台と甲子園が困るわね」
 赤ん坊にミルクをやるみたいに言う。大信田奈緒を思い浮かべる。
「禁欲する。そのほうがメリハリがつく」
「そうね、遠征は疲れるからそのほうがいいわね。そうだ、おとうさんが言ってたわ。川上監督が戻って、巨人三連勝ですって」
「川上監督と選手たちの気質がピッタリ合ってるんだよ。ぼくとは関係のないことだ」
「関係あるわよ。キョウちゃんが川上監督を助けてあげたんだから、連勝はキョウちゃんのおかげよ」
 素子が、
「連勝を打ち砕くのもキョウちゃんやが」
 鱚のてんぷら、めずらしく鯨缶、新ゴボウのキンピラ、ナス味噌炒め、きゅうりの糠みそ新香、ジュンサイの味噌汁。美味。
「あしたはいつものとおり江藤さんたちがくるわね」
「うん、昼過ぎに出発して、三時ぐらいにニューオータニ。いつもどおり」
「きのうのうちに百江さんが荷物送ってたわ。もう板についたものよ」
「五日の午前に、東大のクラブ室に展示してあるぼくの写真を見にいってくる。ファンクラブと約束してたから。鈴下監督にも会って、部員たちを激励してくる」
「ほとんど慈善家ね。キョウちゃんらしいわ。東京に発ったあとで鈴下監督に電話しとくわね」
 素子が帰り、カズちゃんとメイ子と居間でテレビを観る。NHKあひるの学校。厳格な父と自立した三人娘。構図がつまらない。小津の映画を観ているようだ。野球でもと思いチャンネルを回す。東京は雨なので関東地区の試合はやっていない。東海テレビで広島球場の大洋―広島戦をやっていた。ゼロ対一のチンタラした試合。六回に松原の六号ツーランが出たところで切り替える。カズちゃんとメイ子は素直に従う。犬と麻ちゃん。和泉雅子が主演だ。観る気になる。
「日活の俳優がどんどんテレビにくるわね。さっきのあひるの学校にも、川地民夫や金子信雄が出てた」
 ようやく会話になった。和泉の友だち役に、虹の国からの中山千夏(低音でロングヘアー、十年のあいだに気色の悪い女になっている)。迷いこんできた犬。女中っ子の焼き直し。野村家とやらのお手伝い役和泉の台詞回しが日活時代と同様ハキハキしすぎだ。千秋実も八千草薫も型どおりの演技であくびが出る。
 三人で音楽部屋にいき、サラ・ボーンを聴く。煙が目にしみる、ミスティ、ヴァーモントの月光、チーク・トゥ・チーク、スターダスト、ミッシング・ユー。すばらしいのひとこと。みんな満足する。メイ子はお休みを言い、離れの部屋に引っこんだ。私は一階のカズちゃんの寝室にいき、裸の温かいからだに抱かれる。微熱のせいもあってか熟睡する。
         †
 六月四日水曜日。六時起床。カズちゃんの胸で目覚める。メイ子が起きてきて、襖を開けた。裸の二人を微笑して眺めながら、
「すごくいい天気ですよ。お風呂沸いてるので二人で入ってください」
「ありがとう」
「そのあとで食事にしましょう。キャベツとミョウガの糠漬け、出しましょうか?」
「そうね、食べごろね。ナスとシロウリとビーツはもう少しね」
 カズちゃんと風呂に浸かる。私のからだを丁寧に洗う。
「あと二十年は生きていてね」
「五十年でも。カズちゃんが死ぬまでね」
 ビワマスの焼魚、卵焼き、板海苔、生キュウリのぶつ切り、キャベツとミョウガの糠漬け、豆腐とわかめの味噌汁。
「あたりまえに料理をおいしく作るなあ」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんがいちばん好きなのは、生キュウリね」
「味の素に醤油で最高だ。それだけでめしを一膳食える。味噌汁でも一膳食える。飯場で鍛えたわけじゃない。もともと単品で食うのが好きなんだ」
 キャベツとミョウガの糠漬けがうまい。味噌汁をお替りして、もう一膳食った。
 八時。朝食を終え、三人で玄関を出る。門脇のモクレンの幼木に白い花が咲いた。カクレミノもいい具合に葉が繁った。
「いいわねえ、モクレンて」
「背が高くなる木だから、もっともっと美しくなるよ」
「カクレミノは夏に白い花が咲くわね。花のあとの実が赤く色づくわ」
「生垣のキンモクセイも秋にオレンジのすばらしい花をつける。キンモクセイも背が高くなる木なんだ」
「高円寺のシンちゃんが鉢植えで店先に置いてた。花とにおいで初めて気づくような、ふだんは目立たない木なのよね」
「うん」
 快晴。十九・二度。日中は二十五度にはなる。昨夜のうちに帰った素子がアイリスの前に立っている。カズちゃんが、
「朝ごはんは?」
「席ですませた。遠征は何日間?」
「九日の午後に甲子園から帰る。六日間だね」
「さびしいわ。フアンに気をつけてや」
「だいじょうぶ。心配しないで」
 素子はメイ子に顔を向け、
「床のモップがけと窓拭きは終わっとる。レジに釣り銭納れといたでな。男の従業員は乱暴であかん。棒金をテーブルの角に叩きつけて折るから傷がついとる。きょうのレジ締めと金庫預けはうちがやるわ。ホールのテーブル拭き手伝ったげて」
「はい。きょうの分の豆挽きは?」
「半分挽いた。ええ香りするんで、半分はわざと営業中にやるようにお姉さんに言われた」
「わかりました」
 大ガラスを覗きこむと、オシボリ屋が厨房に入っていき、ケーキ屋が配達したケーキをウインドウに並べていた。私はカズちゃんに、
「この天気なら、きょうは走ったほうがいいかな」
「出発まであと何時間?」
「十一時過ぎの新幹線だから、三時間」
「やめたほうがいいわ。風邪の病み上がりだし、川崎球場で少し走ればいいでしょ」
 素子とメイ子にキスをして、北村席へ向かう。カズちゃんは店に入らずに私の身支度についてくる。しばらくすると、素子もトコトコ走ってきた。別れがたいのだ。
 門前に中日スポーツの腕章をした一人のビデオカメラマンと、腕章をしていないふつうのカメラマンが一人いる。ミズノだろう。カメラマンのファインダーに笑顔を向ける。放送車が道端に二台停まっている。インタビューやスナップショットではなくパフォーマンスを期待しているようなので、女二人が門内に入ってから、
「いきますよ!」
 と声をかけて走り出す。車が追ってくる。太閤通へ出て、笹島から名古屋駅前まで三百メートルほど車に追わせてビデオを回させる。すぐにもときた道を戻って、車から降りてきた二人のカメラマンを庭へ導く。
「ミズノさんは宣伝用でしょう」
「はい」
「中日スポーツさんは?」
「夕方の中日ニュースです」


         九十四

 玄関からバットを持ち出し、二十本、最高のスィングで振ってみせる。三種の神器も十回やった。彼らは膝をついたり、中腰になったり、芝に寝そべったりしながら、シャッターを連続で切り、ビデオを中断なく回した。事情を心得て、庭にはだれも出てこなかった。
「先ほどの、デビー・レイノルズに似たおかたは?」
「ああ、雨に唄えばの。兵藤素子さん、アイリスという喫茶店の店員さんです」
「もう一人、日本人離れした、すばらしくおきれいなかたがいらっしゃいましたが」
「北村和子さん。ここの家の娘さんで、アイリスの経営者です。じゃ、ぼくは家に入るので、このへんでお引きとりください。これから東京へ移動ですから」
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
 カメラマンたちの姿が消えたのを確かめてから、菅野とトモヨさんが直人の手を引いて門のほうへ向かう。
「おとうちゃん、いってきます!」
「いってらっしゃい。楽しく遊んでおいで。一週間会えないけど、さびしがるんじゃないよ」
「うん!」
 バットを玄関に置き、居間に入る。主人が、
「風邪にひどく弱いんだって和子がまじめな顔で言うんでびっくりしましたよ。鬼の霍乱ですな。心臓の脈が速いというのは新聞で読みましたが、風邪に弱いというのは初めて知りました。毎日瀬戸際で生きとるんですなあ」
「スタミナがないんですよ。どちらかと言えば、虚弱なほうです。小さいころから風邪をひきやすかったし、いまも三度に二度は下痢だし、肺活量はあるくせに長距離を走らせればビリ、握力はあるのに懸垂は平均以下。いまはたぶん、ゆっくり五十回ぐらいできると思います。長距離は頼りないんじゃないかな。山口は高一のときにラクに四十回もやったんですよ。この十年で筋肉はかなりつきました。少しはマシな体力になっているかもしれないけど、基本は変えられないですね。とにかく弱い。腰も、肩も、肘も、人並以下。日々鍛えつづけないと長保ちしません。鍛えすぎると壊れます。難しいからだだと思ってます」
 カズちゃんが、
「壊れないように努力してる姿が自然だから、痛々しくないのね。スーパーマンに思われてるけど、それ以上だと思う。軽い鍛錬で、スーパーマン以上の働きをするんだもの。微妙に特別な仕組みにできてる肉体にちがいないわね。でも心臓が弱いことと、風邪に弱いことだけは、泣きどころのようね」
 女将が、
「江藤さんたちみたいに頑丈でないんやろね。大事にしてあげんと」
 女たちがうなずいた。電話が鳴った。女将が出ると、山口だった。電話を替わった。
「よう、山口! 順調みたいだな。コンクール軒並制覇らしいじゃないか」
「八月までは毎日、練習、練習だよ。よしのりさんが夜中に、お祝いだって言って花束持ってきた」
「へえ、またわけのわからないことを。何のお祝いだ?」
「さあ、おトキさんと同棲しはじめたことかな。このごろ、彼、大学生たちの教祖みたいになってるんだよ。そいつらの一人にオートバイの後ろに乗せられてきた」
「何だい、教祖って」
「ラビエンに飲みにきた学生を折伏(しゃくぶく)するっていうのかな、宗教とは関係のない政治的なものなんだろうけど、あの口で煙に巻いて虜にしてしまうんだな。先月ラビエンを辞めたらしい。そいつらと全国の旅に出ると言ってた。金貸してくれと言うから、五万円、餞別でくれてやった」
「……もう戻ってこないつもりだな。連絡もしてこないだろう。一抹のさびしさはあるけど、ショックじゃない。おトキさんは元気?」
「じっとしていられないと言って、近所の食堂で昼のパートやってるよ」
「働き者の血だね。生活の手を抜かない」
「ああ、伴侶に恵まれたよ。おまえのことなつかしがってた。雲の上にいってしまったから、こちらからはなかなか会いにいけないと言ってな」
「名古屋に戻ってくれば、会いたくなくても会えるよ。ホームランを打つのが得意なだけの男が、いまのところ別の人生を歩まされてる感じだ」
「それはおたがいさまだ。いくつかレコード会社が専属になってくれとモーションかけてきてる。秋に正式にスカウトしてくれるようにと言って帰した。秋からは忙しくなると思う。おまえは道草だけど、俺は一本道だ」
「ぼくも一本道に徹する。道は一本しか歩けない」
「神が許さないだろ。まあしばらく寄り道して遊べ。百本打てよ。じゃ、きょうはこのへんでな。北村夫婦や和子さんたちによろしく」
「ああ、元気でな。また八月あたりに連絡頼む。おトキさんによろしく」
「わかった、じゃな」
 主人やカズちゃんたちに話の内容を伝える。女将が、
「おトキもマメやな。横山さん、いきつくところまでいっちゃったわね。それ、詐欺師になったということやないの」
 千佳子が、
「あの人にはそういう自覚はないと思います。愛されたいんですよ、愛することもできないのに」
 睦子が、
「泣いて月を求めると、そういうことになりますね。さ、千佳ちゃん、出かけようか。神無月さん、一週間がんばってくださいね」
「うん、がんばる。じゃね」
 泣いて月を求めるか(クライ・フォ・ザ・ムーン)―今度こそ横山よしのりは、みんなから穏やかに切られたかもしれない。いや、みんな早くに切り捨てていたので、とどめを刺した格好かもしれない。人を愛するふりのじょうずな男だった。野球にもギターにも関心がなかった。そもそも何に関心があったのかわからない。しつこく口にする学歴にも関心があったと思えない。受験に挑戦したことなど一度もなかったから。何でもしつこく記憶し、瞬間記憶が達者で、それを自惚れ、勉強もせず、本も読みこむというふうではなかった。本の名前はよく知っていたけれども。
 彼なりに愛されるための努力はいろいろとしていたようだ。しかし、愛されて生きることではなく、愛して生きることが自分本来の仕事だと自覚していなければ、彼の目指す〈偉大な人間〉にはなれない。私のような偉大でない人間が生き延びるには、マグレという幸運の連続が必要だ。私と同様偉大でない彼には、二十年間、器以上に認められるというマグレが起こらなかった。ついに起きた―教祖。愛他という無私の自覚がないので、いびつな形で起きた。それでも彼はこれで生き延びられる。尊敬されることしか彼には生き延びる術はない。彼はこれから遠くの土地で誇り高く生き延び、じゅうぶん満足し、私たちのもとには戻ってこないだろう。
 カズちゃんと素子、二人がかりで服を着せられる。紺のブレザーを着る。ダッフルを担ぎ、スポーツバッグと二本納めたバットケースを持つ。
 女将が真剣な顔で、肩口で切り火を打った。一家の人たちに門から先の見送りを断った。
         †
 午後一時五十分。江藤、太田、菱川とニューオータニ到着。ユニフォームに着替え、ダッフルとバットケースを携えて、二時二十分、ホテルの送迎バスに乗る。川崎球場へ。
 三時半バッティング練習開始。三種の神器と走りこみを含めて四時半終了。超満員になる。大洋ホエールズのバッティング練習開始。五時半から両チーム守備練習。ホエールズの守備練習の隙間を縫って給湯室へ。柴田のオバチャンが十四インチのカラーテレビを観ていた。私を振り返って、ポッと顔を上気させた。
「川崎ガールズは? このごろとんと見かけなくなりましたね」
「神無月さんや太田さんにすっかり脈がないってわかったからでしょう。ネット裏座席の案内役に徹してるんですよ」
「―水原監督の記事、読みました。神無月さんは深く愛されてるんですね。いつもこんなところへ訪ねてくださって、ほんとにありがとうございます。感謝しています」
 茶を振舞われる。わずかな受け口に慎ましやかな官能の気配がただよっている。とは言え、しっとりとした和風の美人というわけでもない。
「こんどいつか、外でデートしましょう」
「え! ほんとですか。うれしい!」
「都合のいい日があったら声をかけます。待っててください。食事をして、それから……」
「……はい」
 思わず手を引き寄せ、スカートの上から陰阜をギュッとつかんだ。オバチャンは一瞬ポカンとし、すぐわれに返って色っぽく身をよじった。
「神無月さん……」
「今夜、十一時半、ホテルニューオータニ、五階八号室。ここからは遠いですけど、これますか?」
 ぼうっと私の顔を見つめながら、
「……はい……三十分くらいで」
「すぐしたいから、下着はつけないできてくださいね」
「はい……わかりました」
「じゃ、試合にいきます。応援しててください」
「はい! いってらっしゃい」
 ベンチに戻ると、江藤にロッカールームに呼ばれて、メロンパンを与えられる。
「うちはきょう勉ちゃん、アトムズは松岡。もう三勝挙げとる。調子乗らんうちに、はよう切り崩すばい」
「はい」
 ベンチに入る。オバチャンの心の底からうれしそうに微笑んだ顔を思い浮かべる。掌に柔らかな陰阜の感触が残っている。
 ―私は正しいことをしている。そう思おう。
 不気味なライトスタンドの形を正面に眺めながら、スターティングメンバー発表のアナウンスを聞く。
 先攻中日ドラゴンズ。一番からショート一枝、セカンド高木、センター中、レフト神無月、ファースト江藤、キャッチャー木俣、ライト菱川、サード太田、ピッチャー田中勉。
 後攻大洋ホエールズ。一番センター福富、二番ショート中野(小柄な男。初顔だ)、三番セカンド武上、四番ファーストロバーツ、五番レフト高山(七年目。国鉄時代からの生え抜き。徳武レベルで期待されていた長距離打者。桑田に似たタイプ。記憶がある)、六番ライト久代、七番サード城戸(長身、痩せた顔。西鉄に十年いて、おととしサンケイにきた。中西のあとの三塁手だったはず)、八番キャッチャー加藤、九番ピッチャー松岡。
 主審、アウトサイドプロテクターに拘る柏木、塁審一塁有津(今年で引退の記事が新聞にあった)、二塁丸山、三塁平光、ライト佐藤、レフト千葉。
「さ、いこう!」
 水原監督が上品な外股でコーチャーズボックスへ歩いていく。大洋のレギュラーが守備に散る。薄ニヤけた松岡が美しいフォームで投球練習をする。田宮コーチが、
「こいつを打ち崩せば、また大差勝ちになる。あしたは石岡だな」
 六時四十五分試合開始。遅い開始だ。長引けば深夜だ。眼鏡をベンチに備えつけのティシュで拭う。江藤が、
「浜野はまだ一試合も登板しとらんみたいやな」
 高木が、
「俺たちにぶつけてくるんだろう。初回ノックアウトだな」
 プレイボール。一枝がバッターボックスに入る。
「はい、修ちゃん、いこ!」
「ヨ!」
「ホ!」
「ヨーオ!」
 中日ベンチ以外の声が聞こえてこない。なぜかわからないが、アトムズベンチもスタンドも静まり返っている。きょう負けると、アトムズは四連敗になる。その不安だろうか。
 松岡のすばらしい速球が内角低目に決まる。目を瞠る。つづけて切れのいいカーブが外角低目に落ちる。たちまちツーナッシング。ど真ん中には投げてこなさそうだ。一枝はケンに回る男ではない。三球目の内角低目のストレートを強振して、いい当たりのショートゴロ。私たちの参考にするために振ってみたという感じだ。打球音を確認する。松岡の球は軽い。
 二番高木。彼の得意コースは私と同じ内角低目だ。入団初打席の初ホームランも同じコースだったと聞いた。松岡はそこには投げてこない。二球つづけて外角カーブ。やはり外角の変化球でツーナッシングに追いこんだ。三球目、一枝と同じように内角低目のストレートがきた。振り遅れて、セカンドゴロ。
「松岡、調子いいなあ!」
 宇野ヘッドがうなる。田宮コーチが、
「芯を食えばブッ飛んでくな」
 三番中。彼が三番を打つのは初めてのことだ。初球セーフティの構え。外角ストレートを見逃し、ストライク。二球目内角高目、わざとらしい空振り。球が伸びていることを私たちに知らせるためだ。三球目真ん中にするどく落ちるカーブ。見逃し三振。水原監督がコーチャーズボックスから小走りに戻ってくる。
「二、三回で、ノックアウトだね」
 三塁から見た球筋が〈打てる〉ものだったのだろう。全員、ウス! と声を合わせる。
 一回裏、アトムズの攻撃。田中勉のダイナミックな投球フォームが頼もしい。ストレートのスピードは百四十五キロ前後。手もとでクッと伸びる。五キロぐらい速く感じる。一番福富、ワンナッシングから二球目の内角ストレートを打って詰まったファーストゴロ。二番中野、初球真ん中力のあるカーブに詰まってサードフライ。いつもの淡白な攻撃だ。田中勉の背中が少しホッとする。危ない。三番武上、ワンワンから内角高目のストレートを強振。あっという間に打球が左中間スタンドに飛びこんだ。
「武上選手、第九号のホームランでございます」
 ―意外なホームランバッターだな。
 大洋の重松とイメージが重なる。百七十センチ、七十キロそこそこのからだが雀躍とベースを回る。武上四郎。おととしのサンケイアトムズのドラ八。島谷のようなものだ。ドラ一がほとんど活躍しないのは、世間の評判でゴロタ石を採るからだとわかっている。去年の江夏は十二勝十三敗、防御率二・七四、奪三振王。武上はホームラン三本、打率二割九分九厘、守備率一位。江夏を抑えて新人王。新人王の基準がわからない。奪三振王のほうがはるかに上だと思うが。


         九十五

 ゼロ対一。田中勉が首を回して天を仰いだ。ギアを入れる仕草だ。四番ロバーツ。ストレート二球でセカンドゴロに仕留める。
 二回表、私はベンチ前で、二度、三度と素振りをする。球場が沸き返る。きょう初めて耳にくる歓声だ。柏木にヘルメットの鍔を上げて挨拶。視線を真っすぐ据えて応えない。笑いの貼りついている松岡の顔を見やる。尾崎と同じ他意のない先天的な笑顔だとわかってきた。
「プレイ!」
 振りかぶり、投げ下ろす。外角低目ストレート。百四十七、八キロ。見逃す。ストライク。いい伸びだ。二球目、キャッチャーの加藤が中腰になる。百五十二、三キロの真ん中高目の速球が浮いてくる。ボール。二球ともカーブを落としてくる伏線だ。落とすなら十中八九外角に落とす。三球目、振りかぶり、投げ下ろす。じつに美しいフォームだ。手首の振りがほんの少し遅れて見えた。ボックスのいちばん前にいざり出る。目の高さからホームベース外寄りギリギリに落ちてくる。両手首を絞って曲がり鼻へバットを打ちこむ。
 ―しまった、真芯だ!
 ショートの頭を越え、左中間へ一直線に伸びていく。ワーッという片仮名のような歓声が上がる。高山と福富がクッションボールを譲り合ってもたもたしている。二塁ベースを蹴り、三塁ベースへ滑りこむ。強肩福富の返球が私のヘルメットをかすり、ファールグランドへ転がっていく。水原監督が腕を回す。起き上がり、ホームベースを目指す。レフトの高山がクッションボールを拾い上げてバックホーム。クロスプレーにはならないと踏み、駆け抜ける。次打者の江藤が抱き止め、勢い余っていっしょに転がる。五、六人が駆け寄り、束になって押しかぶさる。嵐のような歓声。田宮コーチも走ってきて、
「記録、三塁打だ、金太郎さん。エラーが絡んじゃったから、ランニングホームランにならなかったよ」
「そうですか。でも二塁打が三塁打になったのは儲けものです」
「だな」
 ベンチへ徒党を組んで雪崩れて戻る。フラッシュが瞬く。一対一の同点。
「プレゼントは次ね」
 半田コーチのバヤリースは出ない。中が異様に興奮している。
「みごとな走塁だ。盗塁王も獲れる」
「それは中さんと高木さんにおまかせします」
 松岡のニヤケ顔が微妙にゆがみ、動揺しはじめたとわかる。江藤、ワンスリーからフォアボール。木俣、初球、内角高目のシュートを叩きつけて三遊間ヒット。菱川、ワンツーから三球目の外角ストレートを流し打って、ライトへ深いフライ。江藤三進。ワンアウト一塁、三塁。太田、真ん中高目のカーブを打って、ボテボテのショートゴロ。二塁フォースアウト、太田全力疾走で一塁セーフ。江藤還って、二対一。ツーアウトランナー一塁。田中勉、振り遅れてファーストゴロ。藤猛のような二回ノックアウトはならなかった。
 二回裏、五番の高山が豪快なスイングで私の頭上へライナーを飛ばしてきた。塀ぎわまで走りながらジャンプして捕球。レフトスタンドの最前列で、手にバトンを持ちミニスカートを穿いた何人かの女が奇声を上げて跳びはねる。
「神無月さーん!」
 連呼する。中にスーツ姿の黒屋がいた。東大のバトンガールたちだとわかった。彼女たちの周囲の顔に見覚えがあった。今年の東大野球部の連中だ。風馬、岩田、野添、那智、村入。春のリーグ戦の日程が終わったのだろうか。私は手を振った。女たちがバトンを回して跳びはねた。守備位置に戻る。六番久代、三振。七番城戸、三振。田中勉のピッチングが高目のストレート主体になった。
 三回表。一枝、カーブを見逃したあと、外角のストレートをジャストミートして右中間のライナー。ロバーツに好捕される。
「もったいなァ!」
 太田がベンチでため息をつく。
「さ、いこ、モリ!」
 二番高木、内角低目のシュートをレフト前へしっかりライナーで打ち返す。本領発揮の一打だ。きょう初めて三番に入った中。初球、内角低目、アコーディオンで見逃し。ストライク。その間に高木盗塁成功。二球目、外角へ外したカーブを強く流し打つ。サード城戸ジャンプ。グローブに引っかけて落とす。どこにも投げられない。ワンアウト一塁、二塁。轟く声援の中、私はバッターボックスに立った。敬遠。聞き慣れた失望のどよめき。満塁。江藤、初球外角高目のカーブをセンターへ犠牲フライ。高木還って三対一。ツーアウト一、二塁。いよいよここからだ。
「ヨ!」
「ホーッ!」
「達ちゃん、ゴー!」
 五番木俣、ツーツーから、内角高目のストレートをドンピシャでつかまえ、レフト場外へ叩き出す。ひさしぶりの豪快な一発。追い越しのないようにみんなあわてて走る。
「木俣選手、十四号ホームランでございます」
 六対一。つづく菱川も初球の外角ストレートを軽々と流し打って右中間場外へ十五号ソロ。七対一。太田センター前ヒット。田中勉、三振。
 三回裏から五回裏にかけて、田中勉のピッチングが冴えわたった。加藤の代打奥宮、城戸の代打新人の溜池、松岡の代打ずんぐり大塚、三者連続三振。木俣のミットの音が心地よく球場にこだまする。四回裏、福富、中野の代打赤井、武上、三者連続内野ゴロ。五回裏、ロバーツ、高山、連続三振、久代の代打奥柿、ライトフライ。九者連続凡退に切って取った。これで田中勉はお役御免。リリーフピッチャーが六点取られなければ勝ち投手になる。
 四回表、松岡に代わった河村保彦から、一枝が一塁線二塁打で出る。高木三振、中三塁線二塁打、一枝生還、型どおりの得点。八対一。私、ツースリーからマリオネット河村のスライダーを叩いて、スコアボード越えの六十七号ツーラン。川崎球場は百三十メートル飛べばスコアボードを越える。十対一。
「もう止まらんな」
 田宮コーチが満足げに腕組みをする。江藤、左翼鉄塔に打ち当たる二十七号ソロホームラン。十一対一。木俣、三振。菱川、右中間二塁打。二塁ベース上に立つ菱川の下半身のラインがじつに美しい。日本人のものではない。河村からアンダースローの簾内(すのうち)にピッチャー交代。太田、初球をレフトへライナーの十号ツーラン。十三対一。田中勉見逃し三振。
 五回表、一枝フォアボール。簾内、スリークォーターの佐藤進に交代。高木、シュートを叩いて左中間の二塁打。一枝生還。十四対一。中、めずらしくセンター返しをして右中間浅いところへ二塁打。高木生還。十五対一。私、右中間場外へ六十八号ツーランホームラン。十七対一。江藤、スコアボード直撃の二十八号ソロ。今シーズン三度目のダブルアベックホームラン。十八対一。サンドバッグ状態になった。佐藤からサウスポーの巽一に交代。木俣レフト前ヒット。菱川セカンドライナー。太田ショートゴロ。田中勉サードゴロ。
 六回表。水原監督が、
「取れるだけ取って、もう一度日本記録に挑戦しましょう!」
 と高らかに言って、コーチャーズボックスへ歩いていった。中が、
「この回だけ理想的な攻撃を捨ててみるか」
 菱川が、
「理想的って?」
「一枝がヒット、モリミチが進塁打か犠打、私がセーフティで出る、金太郎さんがホームラン、慎ちゃんがホームラン、達ちゃん、菱、太田が短打か長打でつづく。そういう攻撃を捨てて、意外なことをやってみる」
 私は、
「ぼく、セーフティでいってみます。中さんホームラン狙いでお願いします」
 江藤が、
「じゃ、ワシはバントするばい」
 一枝が、
「ホームラン狙いでいく」
 高木が、
「俺は自然体。ただ、バントだけはしない」
 木俣が、
「俺も菱もタコも、小振りで芯を食う研究」
「ウィース!」
 太田が、
「やつら驚くぞ」
 一枝がツースリーまで粘って左中間に大きな当たりを飛ばした。残念ながら十センチばかり足りずにネットで撥ねた。スタンディングダブル。ベンチに向かってゴリラのように胸を叩いた。みんなで胸を叩き返した。高木ライト前へ痛打。当たりがよすぎて、一枝三塁ストップ。三番中、セーフティスクイズをやめ、思い切り掬い上げて深いセンターフライ。一枝生還。十九対一。
 私がバッターボックスに入ると加藤が外角に大きく寄った。初球、二球目と遠く高く外す。ネット裏がどよめく。三球目、ジャンプしてからだをグイと伸ばし、三遊間へセーフティバント。両足の着地をバッターボックスの白線上に確かめる。サード、ショート、見合って譲り合い、そのままコロコロ抜けそうになるのをショートの赤井があわてて止めた。高木三塁へ。一塁、三塁。江藤、初球をスクイズ、城戸あわてて素手で捕球し、倒れこみながら高木の背中目がけて本塁へ送球。クロスプレイになったが間一髪セーフ。私は三塁へ滑りこんだ。二十対一。なぜか水原監督の眼が塁上の私や江藤を交互にきびしく見つめている。ツーアウト一塁、三塁。木俣ツーナッシングから、センターオーバーの二塁打。これもネット直撃だった。私が生還して二十一対一。ツーアウト二塁、三塁。アトムズベンチはピッチャーを代える気配はまったくない。別所監督の大きなからだが、ベンチの奥で黒い影絵になっている。ぼんやりしている。あしたのことを考えているようだ。
 菱川、巽の初球を叩いて大得意の一、二塁間ヒット、二者生還して二十三対一。太田、中学時代を髣髴とさせるシュアなレベルスイングで、バックスクリーンへ一直線の十二号ツーランホームラン。きょう二本目。二十五対一……。
 大洋ホエールズベンチは、試合終了まで茫然自失の状態だった。七回と九回に、きょう二本目の武上のソロと、ロバーツのソロで二点を返しただけで、三十一対三で屈辱的な大敗を喫した。私は都合七打席バッターボックスに立ち、残りの二打席は、ライト犠牲フライと、二者を返す右中間二塁打だった。江藤と中と木俣が、こつこつと適時打で一打点ずつあげた。
 最後の奥宮のピンチヒッター倉島のレフトフライをしっかり捕球し、レフトスタンドへ投げ入れた。バトンガールたちの喜びの踊りをしばらく眺めてから、手を振り、ベンチへ走り戻った。田中勉完投、七勝目。
 時計を見ると、十時を回るところだった。オバチャン……掌に感じた柔らかい陰丘の感触と、うれしそうな笑顔を思い出し、ドクッと心臓が打った。後ろめたさが一瞬よぎった。こと肉体に関してはカズちゃん以外に対して胸が高鳴ることはないはずだ。その胸が打った。約束した十一時半が近づいている。
 インタビューは中止。すぐロッカールームへ。水原監督がきびしい顔つきで、
「容赦したね。完膚なきまで打ち伏せなくちゃ。三十点ぐらいで満足しちゃいけない。ゼロ封されることもある。取れるときは、徹底して取り尽くす。ほんの少しでも遠慮する気持ちがあっちゃだめだ。遠慮は美徳じゃない。相手を見下す傲慢だ。徹底して打ちのめされれば、相手も全力を尽くしてくれたと感謝する。金太郎さん、どんなにときも、セーフティはやっちゃいけない。似合わないんだ。きょうも振ってほしかった。それから江藤くん、スクイズもいけない。似合わない。事情は中くんに聞いた。意外性を狙ったアイデアそのものはいいと思う。油断してるとは思わない。しかし、本領を全うしないアイデアはただのコケ脅しになる。アイデアは本分を全うする方向で使いなさい」
 私は、
「すみません、気持ちのゆとりから、打ち勝つという本分を忘れていました。墓穴を掘らなくてよかった」
「申しわけありませんでした! みなさん、すみませんでした!」
 中が一同に頭を下げた。とんでもない、とんでもない、という言葉が重なり合った。
「俺たちにも遊び心がありました。すみません!」
 菱川が太田といっしょに頭を下げた。一枝が、
「目標、日本新記録三十三点! 余裕こかんかったら、きょう達成できてたのにな」
 江藤が、
「もういっさい遠慮なんかせんぞ!」
 田宮コーチが、
「なんだ、やっぱり遠慮してたのか」
 ワハハハと江藤は豪快に笑い、
「そりゃそうたい。ワシら凡人は、金太郎さんみたいに遠慮なしに神の杖ば振り回せんけん。金太郎さんは野球だけ楽しんどる。敵と野球やっとうと思っとらんし、それで給料もらっとうとも思っとらんけんな。敵に遠慮も同情もせん。究極の勝負師の心持ちたい。今度こそまねするけんな。全力を尽くさんば敵に失礼たい」
 中が、
「金太郎さん、きょうは引きずりこんでしまって悪かったね」
「いえ、ぼくも怠けてました」
 水原監督が、
「みんな、わかってくれたようだね。ふだんの金太郎さんの心持ちになる必要はない。私たちは私たちの能力の範囲でケッパっていこう、だったかな、金太郎さん」
「はい、正しい青森弁です」
「よかった。金太郎さんはいつも私たち以上にケッパってるからね。あしたはゼロ封されるかもしれないと、金太郎さんはいつも考えてる。少しも焦らずに、あたりまえみたいにね。金太郎さんはいつまでも私たちの模範ですよ」


         九十六

 十一時十五分少し過ぎに部屋に戻った。ユニフォームをビニール袋にしまう。シャワーを浴び、歯を磨き、洗髪する。頃合にドアがノックされた。ランニングシャツにズボンを穿いただけの姿でドアに出る。紺のミディスカートを穿き、手に竹編みのバスケットを提げた柴田のオバチャンがうつむいて立っている。薄化粧をしていた。後ろめたさが蘇ってくる。
「きてくれたんですね。柴田さんの都合も考えずに無理に約束なんかして、軽率でした」
 ほとんど聞き取れない声で、
「神無月さんに声をかけられて、よろめかない女なんていません」
 古い言い回しをする。
「どうぞ」
 遠慮がちに入りこみ、私に抱きつく。唇を差し出すので口を吸う。煙草くささがない。歯を磨いてきたのだ。
「神無月さん―」
 かすれ声で囁く。
「やっと逢えました……うれしい。きょうは三塁側内野席の、レフトの守備位置に近いところで観戦したんです。神無月さんがきれいすぎて、怖いくらいでした。バトンの女の子たちをじっと見てる姿が神々しくて―」
「東大時代の仲間たちです。春のリーグ戦が終わって駆けつけてくれたんでしょう。あしたの午前は、東大球場のクラブ室に写真を見にいきます。カメラの得意なやつがぼくを撮り貯めたものを飾ってあるらしい」
「春の東大は一勝もできませんでしたね。……もしかして、神無月さんがいなければ中日は今年も―」
「プロは人材がちがう。ぼくがいなくても半分は勝てる。ぼくが加わって、いろんな意味で三割増というところですね。ぼくがこの調子で三年活躍すれば、たぶん三連覇するでしょう。そうなるとプロ野球界は停滞します。たとえ停滞しても、水原監督といまのレギュラーがいるかぎりぼくは辞めない」
 ベッドにそっと押し倒し、口を吸いながらスカートを引き下ろす。約束どおり、スカートの下に陰毛だけがある。肉づきのいい腹をしばらく眺め、濃い陰毛を注視する。掌に記憶している柔らかい丘を陰毛ごと握る。オバチャンはか細い息を吐いた。造作のいい顔を見つめる。薄化粧で隠し切れないシミが目もとや頬にある。上半身を裸にし、大きな胸をしばらく揉みしだき、屈みこんで指で陰毛を割る。オバチャンは顔を両手で覆った。
「そこ、きれいです、いったん家に戻って、サッとお風呂に入ってきましたから」
 屈んで覗きこむ。色の薄い均整のとれた性器を注視する。膣口が少し乱れているのはきっと出産のせいだろう。顔を覆っている両手を無理に広げて、目や唇や全体の造作に見入る。アップに引き詰めた鬢に少し白いものがある。目尻が皺で浅く切れこみ、目は大きな二重だった。豊頬。川崎ガールズよりはるかに美しい。
「きれいだ」
 私がズボンと下着を脱ぐと、オバチャンもぎこちなく脱ぎ残した上着を取って胸をはだける。美しい顔の前に萎れた陰茎を持っていく。
「……」
 へんな形だと思っている表情だ。こわごわ、亀頭にそっとキスをする。私の顔を見上げ、
「きれいな顔。恥ずかしくて見ていられません」
 オープン戦の給湯室と同じことを言う。
「大きくして」
 オバチャンは慣れないふうに思い切り含む。そしてやはり慣れないふうに舌を使う。唇で亀頭をしごくようにする。あっという間に勃起した。あわてて吐き出す。私はオバチャンの目を見ながら予告なく挿入した。かなり狭い。オバチャン大きく見開いていた目をすぐに閉じ、
「……神無月さん、いっぱい……」
 包まれる感覚からして、長いこと男と交わっていないとわかる。張形(ばりがた)も使っていない。
「ずっとしてなかったんですね」
「はい……二十九のとき主人と別れてから、ほかの男の人とはしてません」
 言葉を選んでいる。
「十八年も……。痛くない?」
「少しヒリッとします。でも、いい気持ち、いっぱい……」
 わずかにオバチャンの腰が動きはじめた。合わせて腰を動かす。
「ああ、いい気持ち……」
 抜いて彼女の股間に屈みこむ。前庭を舌で押し、舐め上げる。
「あ、そんなこと……気持ちいい」
 小陰唇を含み、包皮を含み、クリトリスがふくらんで突き出してきたところを舌で押し回す。
「ウン、ウン、あ、恥ずかしい、ウン、ウン」
 うん、うん、とうなりながら尻を強くすぼませる。アクメの一般的な発声をしようとしない。ふるえる腿を押さえ、もう一度挿入する。
「あああ、気持ちいい、あ、あ、ごめんなさい、声を上げて、ごめんなさい」
 陰茎の付け根が一瞬のうちに潤った。腹がふるえはじめる。
「神無月さん……私……イキます」
 膣が収縮する。射精が迫る。
「あああ、信じられないくらい気持ちいいです、イキます、イク!」
 膣壁が波打ち、亀頭をつかむ。射精した。胸をつかみながら律動を与える。豊かな腹が硬直して陰阜が何度も私の恥骨を突き上げる。
「ご、ごめんなさい、もう一度、ウン! あ、あ、あ、イク! ―イク!」
 引き抜いて、屈みこみ、尻をさすりながらうごめく局部を見つめる。形のいい臍の周囲をさする。やがて腹の硬直がゆるみ、呼吸も落ち着いてきた。添い寝して口を吸う。強く抱き締めてくる。
「ああ、好き! 神無月さん、好き好き!」
 頬ずりをする。愛しそうに唇を求める。
「もう止まらないのかと思いました。生れて初めての……」
「オバチャンはぼくのことが好きだったんですね」
「はい……オープン戦で初めて遇ったときから」
「オバチャンの名前を教えて。イクときに名前を呼びたいから」
「名前を呼んでくれるんですね。うれしい。……ネネです。丁寧の寧を二つつづけるんです。古くさい名前でしょう?」
「豊臣秀吉の奥方の名前。でも顔に合ってる。これからは給湯室以外では、オバチャンと言わないね」
 ネネは頬を寄せて、
「ほんとに……神無月さんに抱いてもらえるなんて思いませんでした」
 私はネネの鬢を撫ぜた。
「白髪がひどいでしょ?」
「目立たない」
 私を見つめ、
「……このこと、だれにも言いません。ほんとに信じられない……」
「……後ろからするよ」
「はい」
 尻を抱えて深く突き入れる。
「はああ、気持ちいい!」
 たちまち蠕動が始まる。
「神無月さん、気持ちいい、ああ、すごく気持ちいいです、いや、神無月さん、熱い、あああ、イクウ! ああ、またイク、イクイク、イク! あああ、だめだめだめ、神無月さん、またイク、イクウウ!」
 重ねて何度も強く気をやらせ、二度目の射精を引き寄せて、深々と吐き出す。
「あああ、神無月さーん! うれしい! もうだめ、神無月さん、苦しい、イク、イック! あああ、私、イキますウウ!」
 私にも迫り、大きな乳房を握り締めながらたちまち二度目の射精をする。
「ああ、神無月さん、好きィィ!」
 腹を抱き締め、何度も律動する。
「あ、また、ウンウン、ウン! あ、だめだめ、だめ、ウウーン!」
 突き上げた尻を激しくふるわせ、逃げるように離れてうつ伏せになった。抱き上げて腹の上に向かい合わせに乗せ、下から突き入れて静止する。うねりの中で私のものが萎むのを待つ。その感覚がオバチャンを安心させると思ったからだ。案の定うねりが穏やかになり、萎みはじめた陰茎にやさしく絡みついた。
「ああ……やっと……」
「狭い風呂だけど、いっしょに入ろう」
「はい」
 裸で手をつないで風呂場にいき、湯を埋めながら向き合う。ほつれ毛に縁どられた顔が愛らしい。
「美人だって言われてきたんだろうね」
「いいえ、ネコスケって呼ばれてました。きつい顔だったから」
「ネネって名前だから、そう呼びやすかったんだよ。ぼくの女はほとんどネネのような目をしてるよ。頬がふくらんで、目が張って。……ネネという名前はぴったりだ」
 湯が胸まで溜まってきて、ネネの乳房の表面が水をはじいた。抱き寄せ、口を吸った。
「ご主人を愛してた?」
「別れてから時間が経ちすぎてしまって、よくわからないんです。子をなしたほどの仲ですから、好きだったことはまちがいないんでしょうけど、ギャンブルに狂って家のものを持ち出すようになって……。それで愛想が尽きてしまって。金づるみたいな女を連れてきて、別れてくれと言われたときには正直ホッとしました。息子が小学校に入ったばかりのころで、離婚の手続をしてからいっしょに家を出ました。思い切って札幌の祖父母に頼みこんで預かってもらって、それから、ちょうど募集が出てたこの球場に応募して、清掃係として勤めるようになったんです。仕送りのために。息子とそのまま暮らしてもよかったんですけど、鍵っ子にしたくなかったし、田舎のほうが環境もいいと思って」
「息子さんはそのまますくすく育って、大学へいったんだね」
「はい、北大にいってくれました」
「そして、お嫁さんをもらって小樽に根を下ろした。すばらしいね。離れて暮らしてさびしく感じない?」
「少し。でも、生活の苦労に巻きこんで惨めな思いをさせるよりは、別れて暮らしたほうがよかったと思います。よかれと思ってそうしたことですから、いまさら同居してくれとは言えません。祖父母の気持ちも考えてあきらめないと。いい息子で、よく手紙もくれます」
「ぼくも似たような経験をしてきたけど、息子さんの健やかな人生とまったく似ていない。ネネがいいお母さんだった証拠だ」
 性器を洗い合い、上がり湯をかけ合って出る。ネネはからだを拭き、洗面台で化粧を整え、バッグに入れていたパンティを穿くと、ブラジャーをつけ、服を着こむ。私も下着とズボンをつけた。小テーブルに向かい合って座る。
「三十号からスクラップ作ってるんです。六十六号まで。作ろうと思ったときには、もう三十号になってました。あしたは六十七号と六十八号を作ります」
「きょうは二本打ったんだったね」
 ネネはベッドの上にバスケットを広げた。カツサンド、卵焼き、胡椒で炒めたウインナー、鮭おにぎり。すべて二人分あった。ホテルの緑茶パックを淹れ、微笑み合って食べる。満腹になる。
「人間にとって大切なことって何だろうね。いくつでもいい、考えつくかぎり言ってみて」
 ネネはしばらく考え、
「心の若さ。行動。……神無月さんは?」
「すべての瞬間を慈しむこと、命ははかないと信じること、生れてきたことに感謝してこの世を見ること、感謝の気持ちを自分にできる形で表現すること。……信念て、口にするのが恥ずかしいくらい素朴で純粋なものだ」
 抱き合い、口づけをし合った。
「秋から半年ぐらい逢えなくなる」
「そんなの何でもありません。私のいままでの生活を考えてみてください。球場のただの掃除婦……天上人の神無月さんとこんな関係になるチャンスなんか、ぜったいありっこない。息子がいると言っても、遠すぎるのでしょっちゅう会えるわけじゃありませんし、さびしくて、いえ、さびしさを通り越して、惨めでした。そこへ、日本一、世界一の野球選手が声をかけてくれた。―独り身でよかった! 結婚なんかしてたら、神無月さんをひどく苦しめるところでした。どんなふうに粗末に扱ってくれてもいいです。神無月さんのことを思っているだけで幸せなんです。……今度の川崎球場は、オールスター明けの七月二十五日ですね」
「二カ月近いね。もっと早く逢おう。今月の末にアトムズ戦がある。そのときに」
「ほんとうですか! でも無理をしないでください。忙しく暮らしていれば何てことありませんから。来週から川崎球場の売店のほうも手伝うことになりました。せいぜいからだを動かしたほうがいいと思って」
「肉うどん?」
「はい。選手控え室にもお届けします。給湯室にも。……じゃ、そろやそろ私、帰りますね。もう電車がないのでタクシーで帰ります。遊びでないまじめなデートをしてくださって、ほんとにありがとうございました。あそこまで洗ってくれて……。神無月さんはほんものの男です。外でのお食事、楽しみにしてます。じゃ、さようなら」
「さよなら」
 ネネはそっとドアを閉めて出ていった。二人の体液で湿ったシーツにバスタオルを敷いて寝た。



7章 進撃再開 その10へ進む


(目次へ戻る)