二

 いつ入園したかもわからない、大きなクロスの尖塔をいただくカトリック系の幼稚園に通っていた。城(じょ)内(ね)幼稚園といった。しばしの記憶の眠りからふたたび目覚めると、私はじっちゃの膝から一足飛びに、にぎやかなワラシたちの集団の中に紛れこんでいた。
 幼稚園へは合船場から子供の足で十分ほどで着いた。雪のない季節はズックの短靴をはき、雪の季節はゴム長をはいてかよった。新道を出ると新町の大通りと落ち合う十字路があって、そのまま道なりに渡った先が城内につづく細道になっていた。
 十字路の角に、三島平五郎ちゃんの床屋があった。平五郎ちゃんはたった一人の通園仲間だった。これといって目立ったところのない男の子だったけれども、北国にはめずらしい太い眉の下にドングリ目を填めこんだ鳶色の顔をしていた。平五郎ちゃん一家は何年もしないうちに、もと憲兵だった父親の首吊り自殺を境に零落し、いずこともなく立ち去った。そういえばときどき、幼稚園の帰り道、彼にさよならをしたあとで、店のガラス窓越しに、鬱々として客の髪を刈っている父親の顔を眺めたことや、夏の一日、店先の縁台に片あぐらをかいて頭を抱えこんでいる男の姿を、何か周りの人とちがった色合いで見つめたことがあった。彼はまるで自分の存在を忘れたみたいにじっと地面を見つめ、四六時中その縁台に貼りついていた。
 幼稚園の玄関に大きな下駄箱があり、式台を抜けると、埋め木細工のだだっ広い遊戯場が展(ひら)ける。遊戯場の奥まったところには、学芸会や音楽会用の一段高い舞台があった。
 毎日私はあの幼稚園で何をしていたろう。小動物のように仲間とじゃれ合って遊んだ覚えはない。仲間の顔もほとんど思い出せない。無口な、いつもまっ黒い修道衣を着ていた中年のみちこ先生、もう一人、平服の、たえず愉快そうにしゃべりまくる女先生―彼女の形のいい反った鼻と、匂い立つように美しい微笑が浮かんでくる。
 お昼寝は私の秘密の時間だった。おやつの熱いミルクを飲み終わり、大広間の板敷きにみんなで並んで横たわると、みちこ先生は園児たちの顔や腹の上を跨ぎながら寝顔を検分して廻った。
 薄地のロングスカートが立てる風の気配が近づくにつれて、小刻みに拍つ心臓の鼓動! 私はスカートが顔の上を跨ぐときに薄目を開けてそこに見たものを、ハッキリと思い出すことができる。それは、生暖かい薄明かりの中で静かに舞う、彼女の謹厳な顔と似ても似つかないなまめかしい大揚羽―むっちりした白い腿に貼りついている黒い下着だった。
 生来、ものごとを強く心に刻みつけようとする気質の私にとって、たしかに黒い蝶は幼い性意識を目覚めさせたけれども、彼女の股間に潜む何か生臭い、暖かい闇にどうしても馴染めなかった。痛切な探究心を拒絶する不潔な感じがあった。そこで、私はもっと親しみのある清潔な性の対象を求めはじめた。
 同じ幼稚園にけいこちゃんという、頬のふくらんだ猫目の小柄な女の子がいた。いつも笑顔を絶やさず、どこに瞳の焦点を合わすというのでもなく、ぽかんと開けた口からのぞく下歯が唾液で濡れて光っていた。少し頭が弱そうに見えた。彼女は私以外の園内の男の子たちに人気がなかった。天使のような作為のない笑顔を信じられずに、バカと呼んで片づけようとするのだった。
 お遊戯のとき、私は彼女の耳もとに囁いた。
「おチンチン、見せ合うべ」
 けいこちゃんはうれしそうにうなずいた。じつはきのう、うさぎやのようこちゃんに同じ提案をして、手痛い裏切りに合っていたのだった。からだの大きいようこちゃんは、私の手を引いて便所へ連れていき、
「おめから見せろじゃ」
 と言った。私がパンツを下ろして腰を突き出すと、ようこちゃんはフンと言ってしばらく見つめてから、自分のパンツを目にもとまらぬスピードで上下させた。そうして慌しく大広間へ駆け出すと、
「キョウちゃん、スケベなんだよう!」
 と大声で訴えた。私は死ぬほど腹を立て、ぶん殴ってやると決意して、遊戯場へ走り出た。何人かの仲間が寄ってきて、
「スケベ、スケベ」
 と罵った。私はこぶしを振り上げ、彼らを追い回した。ようこちゃんは遠くのほうからこちらを窺いながら、平気な顔で仲間たちと積み木遊びをしていた。
「先生さようなら、みなさまさようなら」
 挨拶がすむと、けいこちゃんと手をつないで帰り道を急いだ。ときどき顔を見合わせて笑い合う。本町から警察署のほうへ折れ、金(かね)沢(ざわ)海岸づたいに進んでいく。彼女は浮き浮きと弾むように歩き、ときどき、濡れた歯を私に向けた。
 さびしい海岸の外れに、そこだけ軒のかたまっているところがあり、中に見上げるように大きな白い土蔵が建っていた。けいこちゃんは慣れた足どりで、その建物の壁に沿った隘路を入っていった。草の生い茂る庭に突き当たった。一面イラクサやタチアオイで青ばみ、きらきらと光る葉の波立つ反射のせいで、浅い水の中にいるようだった。庭の向こうに立派な二階家がそびえている。
「おしっこ―」
 けいこちゃんは何のためらいもなくパンツを引き下ろすと、私に向かってしゃがみこんだ。真っ白い小便(ゆばり)が飛んできた。しぶきが短靴にかかる。私は首をかしげて覗きこんだ。柔らかそうな、白いのっぺらぼうが見え、けいこちゃんのお尻からしずくがポタポタ垂れていた。思わず触れようとすると、
「キョウちゃんも、ね」
 けいこちゃんは一途な目で見上げた。あわてて半ズボンを下ろした。ようこちゃんのときには酸漿(ほおずき)のようにしぼんでいたものが、けいこちゃんの目の前で恥ずかしく腫れ上がり、苦しそうに空を向いていた。おしっこは出そうもなかった。けいこちゃんは大きく目を見開き、みるみる頬に赤い色を染め出しながら、手を伸ばした。指が宙をただよって近づき、それから遠ざかった。そしておもむろにパンツをおなかまでしっかり引き上げると、庭の草を一つかみちぎって束ね、
「こうして、ね、こうして、ね」
 と言いながら、いきり立った私の分身を、こまかく草の先を震わせるように愛撫した。心臓が激しく打ち、耳の栓がとれでもしたように、あらゆる物音がはっきりと聞こえた。
「ケイコー」
 不意にガラス戸が涼しく滑る音がして、彼女の名前がのびやかに呼ばれた。
「ハーイ」
 けいこちゃんはゆっくり草の束を投げ捨てると、あごを上げ、声のほうに向かってやさしい返事をした。けいこちゃんに似た美しい顔が、二階から見下ろしていた。笑っているようだった。

         †

 私だけが入園するのでは義一がかわいそうだということで、彼も一年間だけ最年長組で通園することになった。私が四歳で、彼は六歳だった。彼は、幼稚園でも、やっぱり洟を垂らしながらおとなしかった。わざと馬鹿に見せているのかと思うくらい、いつもぼんやりしていた。お陽さま組のくせに、図体の小さい彼は、なるべく私のそばに寄ることを避け、いつも遊戯場の端にひっそりと退避していた。
 じっちゃの特訓のおかげで、お星さま組、お月さま組、お陽さま組全員の中で、平仮名をすらすら読めるのは私だけだった。私は入園早々、自他ともに許す城内幼稚園の紙芝居屋になった。みちこ先生の命令で、月に一度、みんなの前で大太鼓を叩きながら、平仮名ばかりの紙芝居を読んだ。義一が上目で見ていた。年に一度の器楽合奏大会でも、私は園児たちの真ん中に立ち、バチを下から上、上から下へとこすりつけるようにして大太鼓を叩いた。義一はいつもカスタネットだった。
 神童(シンド)と持ち上げて私の活躍を喜んでいるのは先生たちばかりで、幼稚園での私はいつも反感の目に囲まれて満たされない思いだった。最年少のくせに、常に行事の中心に抜擢され、それに増長して好悪の感情をあまりにも露骨にさらけ出すせいか、羊のようにおとなしい主知派から遠ざけられて、主情派の孤独に甘んじていたからだ。三島平五郎ちゃんでさえ、通園をともにするだけで、おはようとさよならの挨拶以外はひとことも語りかけなかった。
 じっちゃはそんな私の気持ちを知ってか知らずか、三日に一度は大きなビスケットを買ってきて、覗きこむように笑いながら私の目の前に差し出した。そしてかならず軍隊話をしてくれた。それはいつも晴ればれとした教訓で締めくくられた。
「能のあるなしははっきりわがる。だども、用いる用いねは、わがままでバカな人間が勝手に決めるもんだ。おめが用いられるのもバカが決めたことだ。それに嫉妬するのもバカだけんど、それにうぬぼれるのもバカだ。あがいたらマイネど。人間シャカイのチツジョだけ守って、人目など気にしねで、好ぎに暮らせばいいんだ。なんも、ちゃっこくまとまることはねんで。この世の中、桜狩りするみてに、のんびりした気持ちで生きていけばいいんだ」
 雨の降った午後、幼稚園から空を見上げながら帰ってくる私を、傘をさしたじっちゃが迎えにきたことがあった。彼はいとおしそうに孫の濡れた頭を撫でた。
「グイと空見上げて、のしのし歩ってくんのよ。惚れぼれしたじゃ。ひとり、変わった子だすけなあ」
 以来彼は、雨空にあごを上向けながら悠々と歩いて帰ってきた孫の様子を、だれかれかまわず得々と語り聞かせた。彼はそのできごとをとても気に入っていたから、話しながらいつもからだを揺すって笑うのだった。
 そんな私に、それまで反感を抱いていたはずの義一だけが近づきはじめた。帰り道、私が平五郎ちゃんとさよならしたとたんどこからともなく現れて、弱々しく腕を引くようになった。
 義一との付き合いにはほっとするような慰めがあった。手先の器用な彼は、ことあるごとに、昆虫網とか、鉄メンコとか、ゴム銃などを作ってくれた。彼は絵を描くのが抜群にうまく、彼なりに胸に秘めている親愛の印に、クレヨンで描いた戦艦大和や、ダルマの絵をそっと差し出したりした。ダルマの脇に書き添えられたへたくそな象形文字みたいなものの意味がわからず、じっと見つめていると、
「おまじないだじゃ」
 と教えた。
 野辺地のような小さな町にも映画館が二軒あった。一軒は新町の郵便局に隣接する銀映で、たいていは現代ものを、もう一軒は平五郎ちゃんの床屋の斜向かいにある野辺地東映で、時代劇ばかりをかけていた。一度も入ったことがなかった。たまたま善司に銀映に連れていかれ、ひめゆりの塔という戦争物を観たことがあった。さっぱり意味がわからなかった。
 義一の得意技の一つに、その銀映の裏の換気窓から薄暗い通路へ忍びこむというのがあった。磨りガラスの窓はかなり高いところに切られていて、引き戸になっていた。彼はノコギリとナイフで竹の太筒に足がかりを刻み、一本バシゴにしてよじ登った。いつのまに義一がその太い竹を手に入れてハシゴを作っていたのか不思議だった。
 義一が窓に到達して引き戸の内へ這いこむと、私も彼に倣ってハシゴを少しずつ登っていった。バランスをとって登るのがとても難しかった。よほどうまくやらないと、クルリと竹が回って滑り落ちてしまう。窓までたどり着いて、通路に飛び降りた。
 その日の映画の題名は忘れたけれど、銀映にはめずらしく股旅ものの時代劇がかかっていた。私たちはいちばん前の列の暗い座席に座って、スクリーンを見上げた。銀幕の向こうの人びとの話す言葉は、もの思わしげで難しかったけれど、彼らの歓びや苦しみや、障害を乗り越えていく心意気や、彼らの記憶の中に住んでいる涙の核のようなものはしっかり伝わってきた。どういう成り行きからか、主人公に斬りかかった悪漢が斬られた勢いで、断崖から足を踏み外し、絶叫もろとも谷底へ吸われていった。みるみるゴマ粒のように縮んでいく姿が哀れで、私は思わず涙を流した。義一はそれを恐怖の涙と勘ちがいして、
「なんもおっかなくねじゃ。バッタやるべ」
 とやさしい声をかけた。スクリーンの前でバッタをやりだしたとたん、何人かの客が立ち上がって怒鳴った。義一は館員に見つかったものと誤解して、必要以上にあわてふためき、座席のあいだの通路を駆け上がると、半纏(はんてん)を着たモギリのいる正面玄関から韋駄天走りに逃げ出した。私も驚いてあとを追った。新道に走りこんでようやく足をゆるめたとき、義一が睨みつけて言った。
「人にしゃべるんでねど」 
「なしてしゃべるのよ!」
 私は、隙あらば注進におよぶような人間だと義一に見られていたことが、いまこそはっきりわかって、地面にしゃがみこみたいほど落胆した。ここしばらくの彼の接近は何だったのだろう。
「叱られるのは、ワだすてな」

         †

 じっちゃの膝でうとうと除夜の鐘を聴いていた。善夫と義一はとっくに降参して子供部屋に引っこんでしまった。そろそろ、ばっちゃが若水を取りに浜へ下っていく時刻だ。今年は善司がついていくことになった。若水取りのあと、浜坂をのぼって新町の八幡さまへ回り、ミタマに年越しの報告をしてから、家に帰ってきてクドに火を焚きつける。善司はそこでお役御免になる。それからばっちゃは火を絶やさないよう、夜っぴて囲炉裏のかたわらでごろごろするという段取りだ。それでも私たちが起きるころには、ばっちゃはきちんと立ち働いている。いったい、いつ彼女は眠るのだろう。
 ばっちゃと善司がお水取りに出かけて三十分もしたころ、遠く汽笛が立てつづけに鳴った。
ポッ、ポッ、ポーッ! ポーッ! 
 鋭さを増して鳴り止まないので、私はじっちゃの脛を蹴って表に飛び出した。大粒の雪がひっきりなしに落ちてきて、睫毛にへばりついた。
「事故のよんだな!」
 障子を引いて土間に降りたじっちゃが、家じゅうに響く声で言った。私はなぜか浮き浮きして、新道の踏切に向かって駆けだした。雪に埋めこまれた銀色のレールが海沿いに野辺地駅のほうから新道を横切り、千曳(ちびき)へ向かって曲がりこむあたり、貨物列車が闇にそそり立って、真っ白い息をシューシュー吐いている。
「ワラシだ、ワラシ!」
 制帽かぶって黒合羽着た男たちがカンテラを提げ、遮断機のない踏切のあたりを右往左往している。
「こったら夜中に、轢死体(まぐろ)あづめるの、コトだでば」
 まぐろという言葉がじかに胸にきて、浮き立っていた気持ちが吹き飛んだ。ばらばらと何人か警官がかけつけてきた。真冬なのに額に玉の汗を浮かべている。
「なしてグランドのほうから渡ったのな!」
「踏切の鐘、聞こえたべや!」
 矢継ぎばやに譴責の声が上がる。蒸気の立ちこめる中、髪の乱れた女の人が大きく目を瞠って佇んでいた。足もとの雪に赤い血が妖しく散っている。だれの声にも応えず、肩をすぼめてうつむいたまま動こうとしない。地面に永遠に凍りついてしまったようだ。
 いつの間に起きてきたのか、ダンボ帽かぶった義一が、私の背中に貼りついて洟をすすりながら、ぼんやり女の人を見ている。じっちゃも善夫も立っている。駆けつけたばかりの野次馬たちが、亡霊のようにぼうっと線路の土手を埋めていた。
「味噌屋のかっちゃでねが? ……轢かれたのは娘だおんたな」
 頭の上でじっちゃが言った。私は睫毛の雪をこすった。そして、いつか庭から見上げた女の人に焦点を合わせた。すると、あのときのおぼろな笑顔と、ケイコーというやさしい声が甦ってきた。
「お水取りの帰りだこった。―中学校のグランドから登ってくれば近道だたて、ちょんどカーブになってるすけ、危ねんだ」
 じっちゃの言葉の切迫した調子が幼い心を恐怖で揺すぶった。きっと取り返しのつかないことが起きたのだ。
「けいこちゃん、死んでしまったの?」
「そんだべおん……痛わしいことだじゃ。たしか、一人娘だったんでねが」
「マグロって、なに?」
「すたらこと、大っきな声で言わねんだ」
 私はすがりつくように、乏しい薄明かりに浮かぶじっちゃの顔を見上げた。彼の息が凍って、白く、湯気のように見えた。私は彼の顔から、線路の向こう、野辺地中学校のグランドを包む闇の中に静まっている不吉な雑木林へ視線を移した。けいこちゃんの濡れた歯と、薄白いのっぺらぼうが浮かんだ。しきりに落ちてくる新しい雪が眼の中に溶けこみ、絶望の涙で押し出された。
「あった、あった、首だ! だいぶ損傷してらい!」
 土手の下から太い声が上がった。するどい叫び声を上げて雪の中に倒れるけいこちゃんのかっちゃの姿を、私ははっきり見た。田島鉄工のオンジが、長靴鳴らして駆け寄った。
「キョウ、あっちゃ、あっちゃ」
 義一が目を輝かせて何かを指差した。雪をかぶった笹の陰に、おっかない雪下駄(ぽっくり)が片一方、転がっていた。義一はおそるおそる近づき、瀬踏みするようにチョンと蹴った。コロコロ、と澄んだはかない音がした。


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