二十二 

「集合!」
 すぐにベンチに引き揚げ、岡田先生を中心に円陣を組む。
「本城中の校庭は狭いんでな、練習も試合も、ぜんぶこの球場でやるそうだ。贅沢なもんだ。ということは、だれも使ってないときしか利用できないわけだから、たぶん練習不足だろう。そこがつけ目だぞ」
 いつもとちがってあまり説得力のない檄(げき)に、みんなニヤニヤしていた。それというのもブルペンで投げている本城中のピッチャーのボールが、六年生の決勝戦の旗屋のノッポと同じくらい速かったからだ。
「イグゼー!」
 与野と本間が気合を入れる。
「オー!」
 初めて試合に出られる三年生の補欠たちが、張り切った声を上げる。今年のチーム力は手薄だ。その証拠に、ここまで全敗している。そのうえこのメンバーでは、きょうはぜったい勝てないだろう。
 トレパンを穿いた審判のプレイボールの声とともに試合が始まった。本間はジャンケンに負けて先行をとらされたが、私は喜んだ。千年小学校では、これまでジャンケンに勝つとかならず先攻を取ってきた。もし後攻を取って、敵の一回表の攻撃が長引いたら出鼻を挫かれる、それに先攻は勝っていても負けていても、確実に最終回まで野球を楽しめる、という考えがチーム全員に浸透していたからだ。敵がジャンケンに勝てばまちがいなく後攻を取ってくる。だから、千年小学校はいつも労せずして先攻ということになっていた。 しかし、喜びもつかの間、一回の表、あっという間に三人で終了。つけ目も何も、つけ入る暇さえない。
 一回裏、さんざん与野が打ちこまれ、三回で交代した轟も、あとにつづいた崎山も滅多打ちに合い、六回までに被安打十五、九対一で見事に負けた。味方は二安打しか打てず、二本のヒットのうち、一本は三回の本間のレフト前、もう一本は最終回の私のソロホームランだった。ホームランを打ったとき、私は奇妙な感覚を経験した。それまで私は、二打席連続で空振りの三振をしていた。ただその二打席で、強振しても左肘が痛まないことを確かめた。舞い上がるほどうれしかった。三打席目、顔のあたりにきた速球を上から叩きつけた。瞬間、バットの表面でボールがグニャッとつぶれ、ゆっくり離れていくのがはっきり見えた。川上哲治のようにボールが止まって見えることはなかった。スローモーションでボールが潰れ、バットから離れていくのが見えたのだ。低いライナーでライトへ伸びていったボールは、ネットの前で急上昇し、ぎりぎりにネットを越えて民家の屋根に落ちた。屋根の上に二人の見物人が腰を下ろしていて、一人が伸び上がってそのボールに片手を差し出した。ボールは彼の手に当たって屋根に転がった。
 試合のあとで、本城中の監督がベンチにやってきて、
「いいものを見せてもらいました。軟式であのネットを越えたのは、成人を含めて初めてのことです」
 岡田先生は、ほう、と得意げにうなずいて、
「こいつが小学生のホームラン記録保持者の神無月ですわ。いずれ、中学生記録も塗り替えるでしょう」
 帰りの道すがら、岡田先生は上機嫌で唄った。
「春がきたかよ、宮中のお庭には。どんぶり鉢ァ浮いた浮いた、ステテコ、シャンシャン」
 つづけて、夏、秋、冬と、同じ歌詞を繰り返した。意味はわからなかったけれど、最後はみんなで声を合わせて唄った。
 その後、練習試合は秋の初めに二つあったきりだった。その二試合は、本間や私はもちろん、下級生はだれ一人出してもらえなかった。そして宮中は、一勝もできずに一年を終えた。
         †
 プロ野球のペナントレースは、セリーグが阪神タイガース、パリーグはやっぱり尾崎の東映フライヤーズが優勝した。尾崎は二十勝をあげて新人王に輝いた。一本足の王は、ホームラン・打点の二冠を獲った。首位打者は広島の森永だった。長嶋は一年じゅうなんとなくスランプで、ホームランと打点こそ王に次ぐ成績だったけれど、持ち前の打率は二割八分にとどまった。
 今年も食堂のテレビで、みんなこぞって日本シリーズを観た。四度も延長戦になる緊迫したシリーズだったけれど、大毎の山内に「ボールが消えた」と肝をつぶさせた肝心の尾崎の速球は、初戦でしか見られなかった。それもチラリと出ただけだった。残念なことに尾崎はその試合、延長十回裏5対5の同点からリリーフに出て、牛若丸吉田にさよなら二塁打を打たれてしまった。それっきり第七戦まで二度と投げさせてもらえなかった。
「尾崎が見たいのに、これじゃ蛇の生殺しだわ」
 テレビの前に坐るたびに、小山田さんが嘆息した。みんな同じ気持ちだった。結局、東映が土橋と安藤の二本槍で優勝したのだけれど、なんだか見たいものが見られなくてひどい欲求不満が残った。せいぜい、藤本と張本のホームランや、村山のザトペック投法を見て溜飲を下げるしかなかった。村山は第二戦、吉田勝のポテンヒットのせいで、日本シリーズ史上初の完全試合を逃した。結局東映の四勝二敗一引分。阪神の勝ち星は二つとも、針の穴を通すコントロールの小山ではなく、村山があげたものだった。
         †
 野球部の帰り、校門のところで、小太りの女生徒が声をかけてきた。
「すみません、ちょっといいですか」
 離れた民家の生垣のところから尻を突き出すようなお辞儀をした。太り具合といい、ポニーテールといい、一瞬、清水明子かと胸がときめいた。大声でしゃべりながら後ろからやってきたデブシや太田たちは、急に口数が少なくなると、彼女の前を静かに通って帰っていった。関だけが残った。
「神無月くんですよね」
「うん―」
 私は相手の顔をはっきり見定めようとして目をすがめた。最近では、日が暮れてからはそうやって焦点を合わせるようにしている。明るい日中なら、教室でもグラウンドでも見るものの正体があらかじめわかっているので、目に力をこめなくても見える。もちろん野球をやるのに何の不便もない。フライもゴロもちゃんと捕れるし、バッティングのときのピッチャーの球筋なんかは、指を離れた瞬間からハッキリ見える。あたりが暗くなってくると、ちょっと怪しくなる。眼鏡をかければ多少はマシになるとわかっていても、母に買ってくれと言えないし、野球選手に眼鏡はぜんぜん似合わないから、当分このままでいようと決めている。
「ある人から、伝言があるんです」
 近づいてきた女生徒の顔は、ニキビだらけだった。額に噴き出したニキビの一つに黄色い膿が小さくこびりついている。私はその膿をいますぐ搾り出したい気がした。どちらかといえば目も鼻も大づくりな外人ふうで(杉山啓子ほど尖った感じはしなかった)、厚く肉の盛り上がった唇をしている。ふさふさしたポニーテールにリボンを結び、前髪はきちんと揃えていた。関が私の肩口に囁いた。
「やっぱり俺も帰るわ」
「ちょっと待てよ」
「長くなりそうだでよ、じゃな」
 関は手を振りながら、ちらりと女生徒を見た。知っているような視線だった。彼女は関にきちんとお辞儀をした。
「ぼくもいろいろやらなくちゃいけないことがあるから、さっさとすませてね」
 彼女はニキビの頬を赤く染め、落ち着いた声で言った。
「ユニフォーム、格好いいですね。私、F組の山本のりこといいます。たぶん、私のこと知らないと思うけど、私のほうは神無月くんのことよく知ってます」
 たしかに彼女の顔は一度も見た覚えがなかった。
「伝言て?」
「うちのおかあさんが、遊びにきませんかって」
「それが伝言?」
「はい」
「でも、きみのお母さんが、どうして」
「好きな男の子がいるって私が言ったら、連れてきなさいって」
 私はこういう事柄にうれしくなるタチではなかった。そういえば、スエゼンのありがみちこはどうしているだろう。来年、宮中にやってくるのだろうか。
「あ、気にしないでください、私の一方的な気持ちですから」
 目立った顔立ちのわりには表情が落ち着いているせいで、加藤雅江と似たような、静かな雰囲気があった。
「なんだか面倒だなあ」
「そんなに冷たくしないでください」
「冷たくしてるつもりはないけど。ぼくのこと、よく知ってるって言ったよね」
「はい。神無月くんのことは、雅江ちゃんからいつも聞いてたし、有名だから」
「加藤雅江と友達なのか。やっぱりね」
「やっぱりって?」
「雰囲気がよく似てる」
 私は歩きだした。
「……そうかもしれません。五年生のころからの仲良しだから、似ちゃったのかも」
「じゃ、きみは千年なの?」
「はい。でも、私、雅江ちゃんみたいにきれいじゃないです」
 山本のりこは短く笑うと、私に寄り添って歩調を合わせてきた。そういう態度をとるのに慣れているらしく、自然で、図々しい感じがしなかった。
「雅江ちゃんと同じ放送部にいました」
「知らなかった。関とも知り合いみたいだね」
「関くんとは同じクラスでした。だから神無月くんが転校生で、野球がすごくうまいことも知ってます。寺田くんと喧嘩したときなんか、最初から最後まで見てました。私も転校生なんですよ。二年生のとき、東京からきました。神無月くんは横浜からよね」
「うん。加藤雅江って、いいやつだよね。きれいになったし」
「ほんと……。雅江ちゃん、杉山啓子さんと競るくらいきれいなのに。……脚があんなふうでなかったら、ミス宮中になれるわ」
 私は一瞬聞き耳を立てたけれども、何も言わなかった。この女はほんとうに雅江と仲良しなんだろうか。もし仲良しなら、友達の欠点をあんなふうなどとは言わないはずだ。
「伏見通りの坂下まで送ってくれる?」
「いいよ。……脚なんか関係なく、きれいな人はきれいだよ」
 加藤雅江は片足が細くて短いということが嫌でたまらないにちがいない。もし彼女の足が人並みだったら、身の周りの世界はこれまでとちがったものに見えるだろうし、人からもいままでとはちがった扱いを受けるだろう。雅江だってきっとそんなふうに考えて、悪い脚を引きずりながら、ソフトボールやテニスに励もうとしたのだ。どんなに励んでも脚は人並みにならないし、世界はこれまでと同じなのに。でも、脚なんか彼女の美しさとは関係がない。そんなこともわかってやれないなんて、この女は友達失格だ。
「雅江ちゃんて、自分のきれいなこと、ちゃんと知ってるんです。でも、自分でそう思うのは許せても、まわりからきれいだと思われるのはうれしくないみたいで、きれいだって言われると、とても不機嫌になるの」
「ふうん、複雑なんだね。褒められるのが嫌いだなんて」 
「単純じゃないんです、雅江ちゃんの気持ちは」
「きみは人の気持ちがよくわかるんだね。聞いたわけでもないのに」
「聞かなくたってわかるわ。同じ女だから。私だってからだのどこかが悪かったら、ほかのところを褒められるのはいやです」
「加藤雅江は、顔〈だけ〉がきれいだって言われたくないんだよ。ほんとうのことだから。一つほんとうのことを言われたら、ほかのほんとうのことを黙っていられると、気持ち悪いんだよ。脚は格好悪いけど、顔はきれいだね、なんて言われてうれしいわけがない。ぜんぶいいって言われないと、つらい気がするもんだ。そういう気持ちは、ちっとも複雑だとは思わないな。ただのわがままだと思う。きっと自分がわがままだと知ってるから、加藤雅江は運動に励んで自分をいじめてるんだと思う」
「ふうん、神無月くんて、頭もキレキレなのね」
「そのくらいのこと考えてあげられないようじゃ、友達と言えないよ」
「わかりました。反省します。でも、どうやって考えてあげればいいのかなあ」
「加藤さんのぜんぶがきれいだって、思いこめばいいじゃないか。脚も顔も心もひっくるめて、ぜんぶ。一つ一つじゃなく、加藤さんぜんぶに注目すればいいんだよ。それが友達っていうものだろ」
「私には難しいな。でも、そうするように心がける」


         二十三

「……中村くんや関くんたち、あわてて帰っちゃったね。私、評判悪いから」
 彼女は思わせぶりな笑い方をした。
「どうして評判が悪いの」
「お母さんが神宮前でバーをやってるの。お酒を飲ませるお店。神宮日活のすぐ前。あのあたり、知ってるでしょ」
「ああ、熱田にきたばかりのころ、一度映画を観にいったことがある」
 私は、細い路地に民家と飲み屋が雑居しているたたずまいをぼんやり思い出した。
「そんなことか。くだらない」
 彼女は何か拗ねたような表情をした。負けん気な気性が感じられた。
「そう言えるのって、格好いいわね」
「ぼくも飯場で暮らしてるけど、べつに評判なんか気にしないよ。近所の人によく、飯場のキョウちゃんて呼ばれるけど、好意さえ感じるな」
「神無月くんは男の子で、ヒーローだから気にならないのよ。私みたいに何もない女の子はそうはいかないわ」
「それじゃ訊くけど、きみは陰口を言うような人間かい?」
「言わない、と思う」
「だろ。陰口を言うやつなんて、ろくなやつじゃない。ろくでなしの言うことは無視すればいい。だいたい、陰口なんて陰で言うんだから、聞こえてくるはずがない。それでも聞こえるって言うなら、ひょっとして被害妄想っていうやつじゃないの」
「…………」
「とにかく、まんいち噂が聞こえてきても、無視していればいいさ」
「そうね。ああ、なんだか、せいせいした感じ」
 山本のりこはおとなびた笑い方をした。神宮の森が見えてきて、坂が下りにかかった。私は話題を映画に戻した。
「石原裕次郎と小林旭、どっちが好き?」
「私、映画はあんまり観たことないんだ」
「ぼくは裕次郎だな。横浜のころは、裕次郎の映画なら手当たりしだいに観てた。入口のスチール写真を見てると、どうしても入りたくなっちゃうんだ。『嵐を呼ぶ男』『錆びたナイフ』『赤い波止場』『鷲と鷹』『男が爆発する』。みんな主題歌がすばらしい。さびしい感じがして」
「裕次郎の歌がさびしいの?」
「不思議だけど、そうなんだ」
「ちょっと唄ってみて」
 私は『口笛が聞こえる港町』の唄い出しを口ずさんだ。

 きみもおぼえているだろ
 別れ口笛 別れ船
 二人の幸せを 祈って旅に出た……

「ほんとだ、さびしい感じがする」
「一週間に一度、映画館にかよった」
「叱られなかった?」
「たいてい土曜日の昼だったから。かあちゃんは日曜が休みなんで、土曜はかならず残業して帰ってくる。映画館には一時ごろに着いて、たいていラストまで、二本立てを三回は観た。終わるのは十時過ぎ」
「すごい!」
 名古屋にきてからは、その情熱もしだいに薄れていき、裕次郎や浅丘ルリ子や芦川いづみの看板の前を、心も動かさずに通り過ぎるようになった。裕次郎がスキーで脚を骨折したというニュースを聞いても、ふうんという程度にしか感じなかった。
「三回も観ると、主題歌もほとんど覚えちゃうから、唄いながら帰った。半ズボンのくせに、裕次郎の真似して、ビッコひいて」
「ビッコ?」
「裕次郎は高校時代にバスケットで膝に大ケガをして、その後遺症で片脚を引きずって歩くようになったんだよ」
 帰り道の寝静まった町並を思い出した。ほんの数年前のことなのに、無性になつかしくなった。
「映画きちがいだったんだ」
「うん。でも最近はほとんど観なくなった。女とおかしなデュエットなんか唄ってる裕次郎は、もう裕次郎じゃないよ」
「銀座の恋の物語でしょ? 私も、あの歌きらい。もともと石原裕次郎も、小林旭も、赤木圭一郎や高橋英樹も、みんなが言うほど素敵だと思わないし」
「それにしちゃ、名前をよく知ってるじゃないか」
「名前だけはね。目の前にいつも看板が出てるから。宍戸錠、小高雄二、葉山良二、浜田光夫、和田浩二……」
「女もいるよ。筑波久子、芦川いずみ、浅丘ルリ子、吉永小百合」
 神宮の森を右手に見ながら、暗い町並を下っていった。山本のりこの歩調が名残惜しげにゆっくりになった。
「……肘の手術、大変だったでしょう。もう左手が使えないって雅江ちゃんに聞いたわ」
「平気だよ。右利きに変えることができたから。右のほうが左より強く投げられる。いままで使ってなかったから、筋肉も腱も疲れてないんだ。でも、なぜ加藤雅江がそんなことまで知ってたのかな」
「岡田先生に尋きにいったらしいの。そのとき、廊下で寺田くんにも遇ったんだって。寺田くんてとってもいい人で、見舞いにいってやれって、病院の場所を教えてくれたらしいわ。結局、恥ずかしくていかなかったらしいけど。ああいう友だちを持ってる神無月くんはさすがだって、感心してた。ね、神無月くん、困ってることない? たとえば、欲しいものが買えないとか」
「飯場の人たちが何でも買ってくれる。ちっとも不自由してないよ。どうして?」
「足りないものがあったら、買ってあげようかなって思って」
「要らないよ!」
「神無月くんて、ほんとに格好よくできてるのね。男らしいし、頭はいいし、野球はうまいし、女の子にもてて仕方ないでしょう」
「もてないよ。女にもてる男なんて、みっともない」
 山本のりこは恥ずかしそうに横を向いて言った。
「のりこって、どう書くかわかる?」
 私はそっけない返事をした。
「法律の法だろ」
「わあ、すごい! 一回で当てられたの、初めて」
 彼女は立ち止まって、胸もとで手を組んだ。
「おんなじ名前のやつがいたから」
 山本法子はふと眼差しを翳らせた。
「恋人?」
「そんなものいるわけないだろ。従妹だよ」
「……遊びにきてくれますか?」
 バーというものにいってみたい気がした。 
「いってもいい。きょうじゃないけど」
「ほんと! うれしい」
 そう言って山本法子は腕を組んできた。皮膚が触れ合っている部分が湿っぽく感じたので、私は振り払った。 
「じゃ、あした、部活の帰りに」
「あした? まあ、いいや。きみもテニス部?」
「何も入ってませーん」
 坂の麓へ出ると、山本法子は手を振って、熱田駅のほうへ走っていった。
 私は伏見通りを戻り、本遠寺前の信号を渡って、ぶらぶら木之免町のほうへ歩いた。何十メートルか先に見覚えのある猫背が見えた。守隋くんだ! 図書館に残って勉強でもしてきたのだろう。私は追いすがって声をかけた。
「守随くん!」
 背中がギクリと振り向いた。眼鏡の奥に生気のない目があった。持ち前の柔らかい表情がすっかり消え失せている。私は胸を締めつけられるような気がした。守随くんは真剣な眼つきでまじまじと私のユニフォーム姿を見た。
「……久しぶりやね、神無月くん。活躍してるようやない」
「活躍だなんて」
 二人並んで歩きはじめた。
「たいしたもんだわ。ぼくなんかもう、だめや」
 彼は舌を丸めて道端に唾を飛ばした。私はなぜかドキドキして、しばらく何も言えなかった。
「能力ある人は羨ましいよ。寺田くんから聞いたわ」 
「……左腕が使えなくなったから、なんとか右腕を使えるようにがんばったんだ。野球選手が腕を使えなかったら、ただの人だからね。勉強だって、守随くんのおかげで人並みにできるようになったし」
「あれは、満腹の人に、いらんお裾分けをしただけだが」
「満腹?」
「神無月くんはもともとズバ抜けてたがや。天から与えられた才能がいくつもあるというやつやね。利き腕を変えたって? そんなこと、並大抵の能力じゃできっこないが。人並みなんて言うと、嫌味に聞こえるで。何をやってもうまくやってしまう人間と、いくらがんばってもうまくやれない人間というのがあってさ―。ま、ぼくはそんなの何とも思っとらんけど。……ただの人になって、せいせいしたが」
 私は声をかけたことを後悔した。なぜ守随くんは、成績がふるわないくらいのことで、こんなに自分を馬鹿にするようなことを言うのだろう。千年小の連中はみんな、彼のことを英雄だと思っているのに。
「お父さん、お母さん、元気?」
 守随くんは渋い顔を見せた。
「関心もないこと尋いたらあかんが。三度のごはんで一日を三つに分けてるような生活をしとる人間なんか、どうでもいいでしょ」
 守随くんはすっかり変わってしまっていた。いっしょに勉強していたときとは別人だ。
「どうしたの、守随くん、何かあったの?」
「何もあれせんわ。……人間はみんな、一人ぼっちのウズラみたいなもんだが」
「ウズラって?」
「巣を決めんと、うろうろ動き回る鳥や。それでも動き回れるだけましや。じっとしとって死ぬよりは。……青木くん、死んだで」
「青木くんが! いつ」
 守随くんは皮肉らしく笑い、また舌を丸めて唾を飛ばした。
「先月やが。背骨から腹のほうに膿が溜まるようになってまったんやと。かあさんと葬式にいってきた。生まれて初めて、線香あげたわ」
 ぽかんとしている私の顔に、彼は視線をじっと据えた。
「他人のことなんか、なんとも思わんやろ」
「びっくりしちゃったんだ」
「何言っとる。死ぬのが目に見えとったやないか」
「…………」
「このごろ、よく、小さいころに近所の女の子とゴザ遊びをしたことを思い出すんや。巣を決めるままごと。桜かカエデなんかの下でさ、地面にでこぼこがあって、その上にゴザを敷いて」
 気の毒な青木くんの死の報告のあとで、守随くんが脈絡もなくしゃべる思い出話は、私を暗い気分にした。
「このごろ、周りの人たちが、ぼくの対等の相手じゃないってわかってきた」
 私はもうわけがわからなくなって、大きくうなずいた。
「もちろんそうさ。守随くんにはだれもかなわないよ」
「そういう意味でにゃあわ。……ぼくは、周りの人たちより、できの悪い人間だってことだがや。いままでぼくは、自分のことをえらい人間のように思って、周りの人たちはみんな凡人だと決めつけてきたけど、そんな人たちにコロリと負けたりすると、その一人一人が怖くなって、近寄れんようになってきたんや。なんのこともあれせん、ぼくのほうが凡人だったというだけのことや。もうぼくは何一ついいことは期待しとらんよ。とにかく勉強なんて道楽は、ぼくみたいなバカにはぜんぜん合っとらん。ただの猿まねや。人間、二人いれば、どちらかは馬鹿や。でも、自分のことを馬鹿とは言えんもんな。ぼくは言えるようになった」
 守随くんの心の声は、初めのうちは、こっそりと彼の本心の隅から滲み出てきたように聞こえたけれども、だんだん激しい調子になって、はっきりと大きな声で私の耳に響きはじめた。尊敬してきた友がわが身をあざける姿に、胸が痛んだ。私はすっかり守随くんの心から切り離された感じがして、できるだけ明るい声をあげて別れを告げた。
「じゃ、またね! 素振りをしなくちゃいけないから」
 守随くんは、オ、と小さい声で応え、かすかに手を振った。


         二十四

 山本法子はきのうと同じ場所に立って待っていた。部員たちは気を利かせるふうに黙って彼女の前を通り過ぎた。関は呆れ顔できょうも手を振って帰っていった。
「学生服に着替えてきたんですね。ユニフォームのほうが格好よかったのに」
「ユニフォームじゃ、お母さんに失礼だよ」
「そこまで考えてくれたんだ。うれしい」
 御陵(みささぎ)古墳を背中に伏見通りの坂道を下っていく。冷たい風に吹かれて神宮の森が揺れている。夕空に稲妻が光った。
「雨がきそう。急ぎましょ」
 熱田駅前の十字路に出た。きのう渡らなかった信号を渡り、商店街の通りから狭苦しい路地裏に踏みこんだ。古びた平屋の民家や、古い門構えの二階家に雑じって、色とりどりの看板を出した店が建ち並び、たいていの店の脇にトタン屋根のついた細い階段がくっついている。ぽつりぽつり、店と店のあいだに、表札をつけた家がまぎれこむ。家並のすぐ向こうから電車の音が聞こえてくる。銭湯の暖簾が下がっている。落とし湯が側溝(どぶ)に流れこんでいる。湯気に混じって垢のにおいがした。
「おなかすいた?」
「この時間はすいてくるんだ」
「私、ほとんど外食なの。いきつけのお蕎麦屋さんがあるんだけど、おごってあげる。カツ丼、おいしいわよ」
「いいよ。すぐに帰るから」
 山本法子は『ノラ』という名の古ぼけた小さな店の前で足を止めた。打ち水をした店前に、置看板の青い光が滲んでいる。店の壁に切った丸い色ガラスを透かして、ぼんやり中の明かりが洩れている。丸窓の脇壁に『暴力団関係者お断り』と貼紙してあった。道を挟んで向かい合わせに神宮日活の赤いネオンが灯り、石原裕次郎と小林旭のぎとぎとした二枚看板が見下ろしていた。
「ノラって、どういう意味」
「外国の小説のヒロインの名前らしいわ。お姉さんがつけたんだけど、ノラは自立した女なんだって」
「自立?」
「女が一人で生きていくこと」
「無理しないで、みんなと生きていけばいいのに」
 母の顔を思い出しながら言った。
「男だけに頼らないで生きていくって意味よ。うちのおねえさんは教養があるの。立教大学の文学部を出てるんだから」
「立教! 長嶋と同じ大学だ。お姉さん、長嶋のこと知ってるかな」
「長嶋っていま二十五、六でしょ。お姉さんは三十歳だから、ずっと年上よ。知ってるはずないじゃない」
「いやに年上のお姉さんだね」
「おかあさんが二度結婚してるから。最初のおとうさんの子がおねえさんで、私は二度目のおとうさんの子。私とは十七歳もちがうの。大学を出てるせいかもしれないけど、おねえさんはしゃべることが難しくて回りくどいの。それに比べておかあさんは、おっとりしてて、やさしい人。でも、おかあさんもやっぱり変人かなあ」
 山本法子の話を聞いていて、ときどき何とも言えない辛気くさい感じに襲われた。彼女はいまにも型破りのことを言い出しそうに見えて、いざ口に出てくるのはありきたりな家族話だけだ。
 彼女がドアを開けると鈴がカランカランと鳴った。映画のサウンドトラックのような軽音楽の中で女二人が話をしていた。すぐ目の前から鉤の手に一枚板のカウンターが奥へ回り、それに沿って五、六脚の丸椅子が据えられている。椅子の後ろは、横になって通れるくらいの隙間しかなかった。ドアにいちばん近い椅子に中年の男が坐って、ビールを飲んでいた。
「おかあさん、神無月くんを連れてきたわよ!」
 山本法子は元気のいい声を上げた。
「あら、いらっしゃい。お待ちしてました」
 カウンターの中で煙草を吸いながらしゃべっていた肥えた年輩の女が、頭を下げながら落ち着いた声で迎えた。私もお辞儀を返した。彼女のいる空間は客の側よりよほどゆったりしていた。
「どうぞ、こっちへ。落ち着きますよ」
 私は一番奥の椅子を勧められた。法子が私の隣に坐った。カウンターが清潔そうに光っている。
「法子が言っていたとおりの美男子ね。いつも法子があなたの話をするもので、ぜひ会いたいなって思って。ごめんなさいね、呼びつけたりして。楽しみにしてたんですよ。ゆっくりしていってくださいね」
 山本法子と同じような厚い唇をしていた。緑の派手なロングスカートを穿いているけれども、頬のたるみ具合から、私の母よりは年上に見えた。でも、目に静かな光があるせいで、母より若々しい感じがしたし、からだ全体に、ものごとにこだわらない温かみのようなものを感じた。彼女の後ろに皿小鉢やコップを入れる戸納(とだな)があり、中ほどの段にまねき猫や小さな熊手などの縁起物が飾ってあった。棚の上には名札を垂らしたウィスキーのボトルや四合酒の壜が並んでいた。
「いろんなお酒があって、びっくりした?」
 じっと見ている私を眺めながら、彼女は笑った。むかしからの馴染みに投げるような親しみのある笑いだった。私はなぜかどぎまぎした。
「お酒のおいしさがわかるのは、まだまだ先の話ね。弱いカクテルでもつくってあげましょうか」
「神無月くんはゆっくりしてられないのよ。一時間ぐらいで帰らなくちゃいけないの。早くジュース出してあげて」
「あら、そう。お母さんに叱られちゃうの?」
「毎日バットを振らなくちゃいけないんです」
「大選手はやっぱり努力家なのね」
「じゃ、ママ、ごちそうさん」
 ビールの男が千円札をカウンターに置いて腰を上げた。
「××ちゃん、どうもね」
 話し声を聞きつけて、細い顔をした女がガウンの裾をひらひらさせながら、奥の階段を降りてきた。これまた派手な赤い色だった。首に白いスカーフを巻いていた。母親の脇に立つと、しゃきしゃきした口調で私に言った。
「聞こえたわよ。きょうのバット振りはお休みにしなさい。女の子の誘いに乗ってわざわざきたんでしょう。だったら、自分の都合を口に出しちゃだめよ」
 飾りのない眼差しだった。
「余計なこと言わないでよ、でしゃばりなんだから。神無月くん、この人がおねえさん」
「さよ子でーす」
「小夜(さよ)曲の〈さよ〉ですか」
「そう、セレナーデの小夜子」
 彼女は妹と同じように髪が長くて、透き通るように色が白かった。ニキビもなかった。ただ顔もからだもひどく痩せていて、暗がりの木立のようにひっそりしていた。彼女はグレープジュースに氷を落として私に差し出し、少し取り澄ましたふうな横顔を見せた。
「私、似てないでしょ、法子に」
 おしぼりでカウンターの水気を拭う。身のこなしがゼンマイで動く人形のようだ。静かなのに、不思議な活気がある。
「はい、目が大きくて……」
 私は口ごもり、なるべく彼女の視線を避けるようにしながらジュースをすすった。
「気を使わなくていいの。美人なのは法子のほう。そのうちニキビが取れたら、輝くようになるわ。私はおかあさんの十八のときの子なの。高校三年で生んだんだって。やるわよねえ。法子は三十五歳のときの子。父親がちがうから、法子は顔も性質もぜんぜん私とは別。この子は大恋愛とか言っておかあさんを尊敬してるみたいだけど、そういうのって恋愛というより、武勇伝だと思わない?」
 私は何を言ったらいいかわからず、笑いながら黙っていた。母親は人のよさそうな顔つきで私のほうを見て、ひょいと肩をすくめた。法子が私の腕に手を置いて言った。
「ね、神無月くん、こういうところで働くのって、いいなって思わない? 人にお酒を飲ませて、自分の頭に浮かんできたことだけ話して、それで商売できるなんて」 
「それじゃだめなのよ、法子。相手の話も聞いてあげなくちゃ。ほかの店にはない何かがあって、会話するのが楽しいって、お客さんが思ってくれないと」
 母親がたしなめた。彼女の言うとおり、こういう場所ですごす時間には何かがありそうな気がした。抵抗できずに引き寄せられたり、もしかしたらひどくイヤになったりするふつうではない魅力のようなものが。
 姉がカウンターの隅のプレーヤーで回していたレコードを替えた。天井の小型スピーカーから聞き慣れない音楽が流れ出した。
「これ、何ですか」
「ジャズよ。マイルス・デイビスの枯葉」
 ―これがクマさんの言っていたジャズなのか。
 その音楽は私の耳に滲みてこなかった。
「ビリー・ホリデイも、こういうのですか」
「ビリー・ホリデイはボーカルよ。声も楽器といえばいえるけど、楽器オンリーのほうが私は好き」
 サイドさんも似たようなことを言っていた。ただ、いまかかっているのがクマさんの好きなビリー・ホリデイではなくてよかったと思った。へんに抑えた音がプープー鳴るばかりで、はっきりしたメロディがなく、リズムもほとんどない。
「ぼくはポップスのほうがいいな」
「ビーチボーイズ、ポール・アンカ、エルビス・プレスリー、でしょ? 私も中学生のころはそうだったな。でも、浅いところね」
 ひやひやした目で法子が私を盗み見た。母親が、
「口が悪くて、すみません。ポップスはいいわよね。ほら、あれ何といったかしら、二人でヘイヘイって唄う―」
「ヘイ・ポーラですね」
 小夜子はつまらなそうに、
「あなた、勉強ができるそうね。法子がいつも言ってるわ」
「勉強は得意じゃありません」
「あら、そう? でも顔つきが、サイキ、カンパツ、キウ、ソウダイ、という感じよ。ゆくゆくは政治家か、それとも実業家かな。ちょっと神経質で、感覚の鋭い学者肌って感じもするけど。将来は何になりたいの?」
「プロ野球の選手です」
「へえ、野球選手になりたいんだ。夢が大きくていいわねえ」
「夢じゃないわ。馬鹿にしないでよ。小学生のホームラン記録を持ってるのよ。そこらへんの野球少年じゃないんだから」
 とつぜん法子が怒ったように言った。
「花ざかりの身の上ね。でも、群れてお金を儲けたがる仕事なんか、俗中の俗で、ぜんぜん珍しくもない。スポーツの世界も非人間的に規格化されていて、恐いものよ。知らない人間に会って苦しむより、ウコサベンなんかしないで、自分なりに工夫して、納得しながら苦しむほうがずっとマシよね。芸術家がいちばん」
「ウコサベンて、何ですか」
「帰ったら辞書引きなさい」
 彼女はすまして煙草をふかしている。法子は私に気がねして、姉の顔を渋い顔でじっと睨んだ。
「おねえさんの話って、いつもそうなるのよね。芸術みたいに一人でやっていける仕事は最高でしょうよ。でも私は、みんなに注目されながら、ああ、生きてるんだ、って感じられる仕事が好き。だから、ちょっとスケールは小さいけど、こういうバーの仕事も好きなの。おねえさんは嫌いなんでしょ。私、ぜったいこのお店を継ぐわよ」
 小夜子はフンと鼻を鳴らし、
「ナマ言って。あんたはこういう客商売には向いてないわ。大学へいって、みんなに混じってちゃんと資格を取って、まじめな仕事につきなさい」
「私、おねえさんみたいになりたくない。勉強なんかきらい。教科書を見てるだけで頭痛がしちゃう。おねえさんは、結局、まじめなコツコツ屋さんのなれの果てでしょ。勉強したことが生かせなくて、さぞ、つらい気持ちでいるんじゃない」
 小夜子はちょっと微笑んだようだった。
「痛いところ突くじゃない、この幸福者。でも、ものごとはこつこつやらなくちゃだめなのよ。若いころはみんな、どぎつい着色をしたお菓子なんか食べて、なかなかオツなもんだ、これが毎日ならどんなにいいだろうって思うけど、いずれ時がくれば、ほんとうに身になるごはんがほしくなるものよ。なれの果て、けっこうじゃない。勉強だって競争せずに一人っきりでするのなら、先に発見や自己達成の楽しみもあるかもしれないけど、教育体制の中でがやがややってるうちは、やっぱり、烏合のクラブ活動にすぎないのよね。人が集団で生きてくためには、共通の時間の目盛りが必要だから、どうしても自由が拘束されちゃう。こんな話聞いてるより、まず自由を拘束されてみないと、自由のよさはわからないわね」
「何言ってるか、わかんない」     



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