百二十九

 菱川が、
「森って野郎は、いつも何かぶつぶつ言ってんだよな。聞き取れるか聞き取れないかくらいの声で。神無月さんが怒鳴ったくらいだから、とんでもなく陰湿だ」
 太田が、
「川上の代弁者だからね。憎たらしいやつだけど、バッティングはなかなかですよ。木俣さんが要警戒バッターと言ってました。二割五分、ホームランも年間十本ぐらい打つし」
「いろんな意味で巨人軍の要だな。きのうは内角攻めばかりだったから、きょうは外角でくる。一本いくぞ!」
 江藤たちのいるのテーブルからこぶしが突き上がり、
「俺も!」
 一枝だった。
「レギュラーで俺だけが十本以下なんだよ。あと三本で大台」
 菱川が、
「去年は何本ですか」
「十三本」 
「もう七本なら、あせらなくても二十本はいくでしょう。あと八十何試合もあるんですよ」
「きょうは渡辺秀武だ。被本塁打率の低いピッチャーだよ。勝負してこないやつからはなかなか打てない。みんな鈴木啓示ならいいけど」
 太田が、
「鈴木は去年、被本塁打率の記録作りましたよね」
「おお、四十一本打たれた。渡辺は九本。渡辺の決め球は外角じゃない。内角の速球だぜ。きょうはそれを狙って一本打ちこむ。デッドボールが多いから気をつけろ」
 江藤が、
「ワシは外角の変化球を狙う。いまのところ渡辺は三勝ゼロ敗。なかなか負けんしぶといピッチャーやけん、打ち崩すのは骨ばい」
 田中勉が孤独なテーブルからのっそり立ち上がって、出口に姿を消した。水原監督がするどい目で背中を見つめていた。太田が、
「田中さん、ほんとにヤバいすよ。シーズン中にクビってこともあるんじゃないですかね」
 私もそんな気がした。ヤクザと知り合いというだけでは馘首(かくしゅ)にまでは至らない。私がいい例だ。水原監督もそのことはわかっている。ヤクザとの関係が、球団の損害や不名誉にまで及んでくると危ない。借金の返済を球団本部に要求するとか、選手に八百長試合を強要するとかいったことが起こるからだ。田中勉に八百長の気配はない。わざと打たれるような投球は一度もなかった。問題は借金だ。中が、
「暴力団と芸能界の関係はよく取り沙汰されるけど、いわば必要悪でね。たとえば芸能人の地方興行は、地元暴力団が仕切らないとうまくいかないなんてことがある。でも、プロ野球は興行じゃない。暴力団にじゃまをされたら排除しなくちゃいけない。勉ちゃんがもし暴力団と手を組んで球団に不利益を与えるなんてことをしたら、もちろん彼の致命傷になるし、球団のパブリックイメージにとっても大打撃だ。そうならないことを祈ろう」
 私は、
「だいじょうぶですよ、田中さんはへんな投球をしてません」
 木俣が、
「そうだよ、俺もいっしょに組んでやらなくちゃ、そんな危ないことはできん。いいかげん暗い話はやめて、外のファンたちにサインしてやろうぜ」
 玄関にレギュラーたちといっしょに出ていって、たむろしているファンのサインに応じる。次々と五十人ほど書いた。あっという間に数百人がはけた。子供たちがベタベタまとわりつく。私は彼らに笑顔で言った。
「球場に出発するときは遠慮してくださいね」
 フラッシュが何十発となく光る。ツーショット、スリーショットは数組に留めた。立ち姿のいい菱川は人気があった。一段落すると、ラウンジの喫茶店にいき、庭を見下ろしながら歓談する。三十分も話せばみんな満足してめいめいの部屋に引き上げ、出発に備える。フロントから一人の男子従業員がやってきて、
「すでにご存知かとは思いますが、今月からプロ野球関係者のかたにかぎり、ルームサービスのご注文が深夜一時までになりました。洋食はほとんどご用意できます。ご利用くださいませ」
 オーと歓声が上がった。
 昼めしを抜いて、二時まで仮眠した。寝すぎのような気もしたが、目覚めて起きると、やはり微妙な疲れが取れていて体調が万全になった。
 四時。フロントで弁当を受け取り、バスに乗りこむ。快晴。まだ気温がかなり高い。腕時計は二十一・四度。水原監督が長谷川コーチに話しかけている。
「金田くんは四百勝まであといくつ?」
「いま一勝二敗ですから、あと四つです」
「前人未到の記録だ。達成させてやりたいね。足木くん、やっぱり金田くんが今年度最高年俸かね」
「いえ、最高は長嶋の四千百四十万です。来年は七千万になるだろうという噂があります」
「そう。チームへの貢献度ではなく、リアルタイムの観客動員数を指標にしてるわけだね。春の契約高が低かったせいで、金太郎さんの年俸は第二位ということか。じゃ、来年は一億にしてもらわないと、観客動員数重視のプロ野球の名がすたる」
「そのとおりだと思います。稲尾の年俸が七百万、池永が一千万だそうですから、そういう理屈から考えても当然の金額です」
「衰えの見える稲尾くんは七百万か! 月給五十万そこそこなんだね。きびしい世界だ。ところで田宮くん、うちが人間関係に破綻なく快進撃ができている理由は、きみたちコーチ陣のおかげなんだ」
「はあ……」
「組織の都合ではなく、正義を最優先する中間管理職がいなければ、最終的に組織の人間関係は破綻するんだよ。中日ドラゴンズには腰ぎんちゃくのコーチは一人もいない。頼もしいかぎりだ。じつにありがたい」
 球場入り。ポール間ダッシュと三種の神器のあと、フリーバッティングに参加した。背番号56の外山博からシュートをセンター返しで十本打ち、六本凡打、四本を正確にバックスクリーンに打ちこんだ。守備練習にも加わり、バックホームを二本やった。満員の観客に応えるためだった。
 なだ万の豪華なチラシ弁当をロッカールームで食う。じつに美味。めしも適量だ。
「野球選手になっとらんかったら、こんなうまか弁当食えんかったやろのう」
 江藤が言うと小野が、
「その因果関係は疑問だけど、単なる金持ちだったら仕出し弁当というものを食わないだろうから、このうまさとは無縁だったろうね」
「小野さん、理屈っぽかァ。きょうは上がりやなかね」
「ベンチで応援したいんだ」 
 巨人の先発は渡辺秀武、中日は田中勉。六時半、竹元のコールで試合開始。
 開始早々、右前打で出た中を高木が自発的に送り、江藤が左中間奥へ打って還したが、みずからは三塁寸前で憤死した。私はツーナッシングから、外角へ逃げるシュートをバットの先で捉え、レフト最前列へ七十五号ソロを打ちこんだ。二対ゼロ。そこから五回まで打線が沈黙した。木俣三振、太田三振、菱川三振、一枝ショートゴロ、田中勉セカンドゴロ、中センター前ヒット、江藤三振、私レフトフライ、木俣レフト前ヒット、太田サードゴロゲッツー、菱川三振、一枝センターフライ、田中ピッチャーゴロ、中フォアボール、高木ショートゴロフォースアウトと凡打の山を築き、ゼロ行進をつづけた。
 その間巨人は、三回にヒットの黒江を一塁に置いて高田がレフトへ四号ツーラン、王ライトへ十四号ソロの二者連続ホームランで逆転した。二対三。
 六回表、中日は、江藤が内角シュートを叩いてレフトオーバーの二塁打、私の一塁線二塁打で江藤還って三対三の同点。木俣サードゴロ、太田レフトフライ、菱川ファーストライナー。
 六回の裏、巨人は、田中勉に代わった水谷寿伸から、末次センター前ヒット、森フォアボール、渡辺の代打滝フォアボール、ノーアウト満塁から土井一、二塁間ヒットとつないで二点を追加し三対五。長嶋三振、国松ライト前へ痛烈なヒット、末次の代打森永三振、ツーアウト一、二塁。森ライト前ヒットで一点、ツーアウト一、三塁、土井三遊間を抜いて一点、三対七。黒江センター前へ転がしてさらに一点、三対八。高田レフトフライ。五点差になった。
 ベンチに駆け戻るとき、遠くで稲妻が光った。雨がくるのかと思ったが、生暖かい風が吹くだけで、やがて遠雷も静まった。田宮コーチが、
「おい、川上がえらそうにふんぞり返ってるぞ。笑ってやがる。そろそろメリーちゃんをかわいがってやれよ」
 いつもびくびく、弱い心臓の持ち主ということで、渡辺はメリーちゃんと呼ばれている。羊という意味ではなく、バヤリースオレンジのCMに出演しているチンパンジーの名前だそうだ。私には、渡辺はおとなしいだけで、びくびくしているようには見えない。一枝は日本軽金属のころの渡辺の同僚だ。アトムズのキャッチャー加藤俊夫も日本軽金属だった。社会人にも名門というのがあるのだろう。一枝が言うには、三年前まではオーバースローだったらしい。
「入団三年で三勝しか挙げられなくてさ。杉浦忠のまねをしてアンダースローで投げたら、球がギューンと伸びた。それからはとんとん拍子だ。去年は調子を落として、ほとんど一軍の登板はなかったけど、二軍でノーヒットノーランをやってる」
 七回表。その一枝が打席に入った。初球外角のスライダーを見逃し、二球目、試合前の公約どおり内角の速球をレフトスタンド中段に叩きこんだ。八号ソロ。ようやく歓声の波が重なりはじめた。中日の小柄なバッターはほかのチームとちがって、ゴチンという感じでミートしない。ガシッとしばくようにミートする。中も高木も一枝もそうだ。うつむいてロジンバッグをいじっている渡辺の背中に向かって、一枝は空手の突きの格好をしながら走る。水原監督にお辞儀と握手をしたあと、遠く巨人ベンチに向かっても突きの格好をした。四対八。
「一枝選手、第八号のホームランでございます」
 射程圏内に入った。ブルペンに門岡と伊藤久敏が走る。五点覚悟の継投だ。私たちはそれ以上取らなければいけない。水谷寿伸の代打に江島が出る。ファール、ファールで粘った五球目、ライトの頭上を越える二塁打で出塁。走塁の張り切りようから考えて、朝食のテーブルで水原監督から慰留の説得を受けたにちがいないとわかる。のしのしと川上監督が出てきてピッチャー交代を告げた。なんと連夜の高橋一三!
「なめんなよ!」
 中がめずらしく荒々しい語気で呟き、バットを持ってベンチ前に立った。江藤が、
「連続でやらるうと思うとうんか!」
 今夜も高橋一三のボールが走っている。しかし球筋が素直に見え、打てそうな気がする。中がバッターボックスでしっかり腰を据えた。一球目フルスイングでバックネットを越えるファール、二球目内角低目シュートのストライクを見逃し、ツーナッシング。三球目外角高目のストレートを左中間へガシッと流し打って、伝家の宝刀三塁打。江島還って五対八。高木、初球を一塁線へセーフティバント、中生還、高木セーフ。六対八。一枝から始まって十一球で三点を返した。きょうの高木は二打席ともバントだ。王が高木の尻をファーストミットでポンと叩いて賞賛している。江藤はいつもの大きい空振りをしたあと、これまた長嶋の前にセーフティバント。長嶋無理やり二塁へアンダースローの送球、ボールが逸れて右中間に転々とする。グローブを腰に当てて茫然としている長嶋の足もとへ高木が滑りこむ。江藤が森下コーチと握手している。声援が最高潮に達した。
「金太郎さーん!」
「打てェ! ホームラン打てェ!」
「千両役者!」
 狙いは中と同じ外角ストレート、それ一本。少々ボールでも打つ。ノーアウト一、三塁で、理想は左方向への長打。小刻みにジャイアンツを絶望させること。初球、内角ストレート、ぎりぎりストライク。二球目、真ん中高目ストレート、ボール。三球目、内角胸もとシュート、ボール。次は外角へ落ちるカーブだ。ストレートはこない。四球目、外角遠く外れるカーブ。ワンスリー。これは体のいい敬遠か? 森を見下ろす。
「俺を見てもむだだよ。お地蔵さん」
 ぶつぶつと言う。黙って突っ立ってないで、バットを振れという意味だろう。敬遠ではなく、勝負したのに外れたと観客に思わせたいはずだ。コースは?
 ―ボールになる内角低目のストレートかシュート。
 ホームラン狙いに変えた。五球目。膝もと低目のストレート。切れるのを覚悟で思い切り掬い上げる。ポール目がけて舞い上がる。地鳴りのようなどよめきの中へ走り出す。きょうはライト線審に回っている平光が両手を腰に、ポールの真下から見上げている。
 ―切れるな!
 白手袋の右手が回った瞬間、白球が看板の外の闇へ消えていった。ライトスタンドが総立ちになり、振り返って打球の行方を捜す。王が腕組みをして眺めている。七十六号スリーラン。森下コーチとタッチして一塁を回る。大して飛んでいない。百四十メートル。水原監督とタッチ。
「豹が引っ掻くような身のこなしだった。おみごと!」
 江藤が固く握手し、
「準備完了、どんどんいくばい!」
「ビッグイニング!」
 半田コーチがバヤリースを差し出しながら叫ぶ。九対八。逆転。小刻みでなくなったが、これはこれで巨人には大きなショックだろう。ダメ押しが必要だ。
「つづくぞ!」
 木俣がみごとな叩き下ろしで左中間突破の二塁打を放つ。止まらない。森がマウンドに走り、内野を呼んで学級委員会。川上監督が激しく貧乏揺すりをしている。ピッチャー交代の気配はない。
 菱川、初球の内角低目のカーブをレフト線へ。高田走る。菱川走る。木俣生還。菱川二塁へ美しい滑りこみ。十対八。まだノーアウト。太田、内角高目のストレートをつづけて空振り。三球目同じコースをファールチップ。四球目、五球目、外角低目のシュートをつんのめって見逃す。ツーツー。六球目、外角高目から落ちてきたカーブをどんぴしゃのタイミングでヘッドだけで強打。王の頭上へライナーが飛ぶ。王ジャンプ、届かない。菱川ホームベースを駆け抜ける。太田どたどた二塁へ。スタンディングダブル。十一対八。一枝の二球目外角カーブ、太田スルスルとリードして、どたどたと三盗。森がびっくりしてボールを持ったまま立ち尽くす。投げていればアウトだったかもしれない。一枝センター定位置へ犠牲フライ。十二対八。一挙九点。文字どおりラッキーセブン。江島の代打島谷三振。江島に打たせるべきだった。中、ガシッとサードライナー。ドラゴンズの一仕事が終わった。二仕事目は次のイニングだ。


         百三十

 門岡が弾む足どりで登板する。大分高田高校から入団した昭和三十六年に十勝十敗、おととし九勝九敗。八年目の現在まで、二十八勝四十一敗。伊藤久敏や水谷寿伸と同様、長く貢献するタイプのピッチャーのようだ。スライダーとフォークが決まりだすと手がつけられないという評判があるけれども、私は目にしたことがない。スケールのちがいこそあれ、プロ野球選手はみな並外れた天才なのだ。
「門岡さん、両目を開けましょう」
「オス!」
 声をかけて守備位置へ走った。四点差をひっくり返されずに投げ切れば二勝目になる。しかし、四点などあっという間にもぎ取られる。がんばってほしい。
 百八十センチの門岡は背番号24を躍らせながら、小川を髣髴とさせる溌溂としたピッチングを披露する。王をセカンドゴロ、長嶋を三振に切って取る。国松にセンター右へ二塁打を打たれ、森永の代打滝をフォアボールで出したが、森をキャッチャーフライに打ち取って、どうにか七回裏を凌いだ。
 八回表。八時二十九分。高橋一三に代わって宮田が出てきた。八時半の男と初顔合わせだ。小さいモーションから右手だけを振り上げて投げる筋肉の固そうなピッチャーだ。門岡と同じ背番号24。中が、
「彼も前橋高校出身だ。先天的に心臓が悪くてね、長いイニングを投げられないから川上がリリーフ投手に作り上げた。務台ウグイス嬢が八時半の男というニックネームをつけた話は有名だよ」
 太田がパンフレットを見ながら、
「七年間で四十五勝二十七敗。連続して投げられないので、一球一球の投球間隔が長いんです。コントロールがよくて、直球に伸びがあります。決め球は、妙な変化をして落ちるミヤ・ドロップと呼ばれるシンカー」
 妙な変化と言っても、変化の起点はホームベースの前にあるので、落ちぎわを打てばいいだけの話だ。
 高木セカンドゴロ、江藤初球をセンターオーバーの二塁打、私初球をライトオーバーの二塁打、十三対八。木俣初球をセンター前ヒット、私生還して十四対八。菱川初球をバックスクリーンへの十六号ツーラン。十六対八。八時半の男は五球投げただけですごすご退き下がり、代わって大男の倉田が出てきた。五年目、二十三歳、百八十五センチ、八十三キロ。これも初対決。三年間二軍にいて、去年から出てきたピッチャーだ。鼻筋の通ったカクカクした顔。投球フォームもカクカクしている。宮田と同様、手投げだ。
 太田初球を左中間へ深々と十四号ソロ。十七対八。倉田一球で交代。これで門岡の勝利は確実になった。敗戦処理に堀内が出てきた。スタンドがざわめく。マウンドの投球練習を見ると、相変わらず別レベルの剛球だ。田宮コーチが、
「気持ちよくやられてこい。見逃し三振だけはするな!」
 そう言われて、やられようと思う選手はいない。一枝は鷹のような目で初球のストレートをするどく振り抜き、みごとに三遊間を破った。ワンアウト一塁。堀内はレフトの高田を振り返って不機嫌に眉をしかめた。高田に対してではなく、自分の腑甲斐なさに気分を害したのだ。門岡、なんとかバットに当ててピッチャーフライ。中、ガシッとピッチャーライナー。さすが堀内だ。簡単に後続を断つ。五点取って二仕事目完了。
 黒い空を灰色の雲が動いていく。霧雨のように降るカクテル光線に芝が映える。からだの細胞がすべて野球になる。スタンドを振り向くと歓声が上がった。手を振る。
「いいオトコォ!」
「ケツが格好ええなあ!」
「もう一本打てよ!」
 無理、無理というふうに手を振るといっせいに笑いが返ってきた。視線を感じたので、レフトポールを見やると、きょうはレフト線審に回った松橋が私を見つめていた。帽子を取り挨拶する。彼も帽子の庇に手をやった。
 定位置で構えて腰を落とす。バッティングのいい堀内が打席に入る。平松と同様、バットを長く持って手首で振る。高目に弱いが低目にめっぽう強い振り方だ。低目で抑えこもうとするから打たれるのだ。初球、門岡はやはり真ん中低目へスライダーを投げた。バットの先端を振り子のようにして引っ張る。ラインドライブの打球がサード太田の頭を越えて、フェアグランドを削る。クッションボールのイメージを描きながら塀ぎわにスライディングし、顔のあたりのワンバウンドで捕球する。立ち上がって振り向きざま、セカンドへ強い送球。白線を引いて伸びていくボールに躊躇した堀内は、あわてて一塁へ戻った。ドッと喚声が上がる。私のすぐ後ろまできていたマッちゃんが、
「ナイスプレイ―」
 と小声で言った。私は彼を振り向かずに帽子を上げた。黒江三振、高田三振、王ライトフライ。マッちゃんに駆け寄り、
「松橋さん、引退でも近いんですか。へんですよ」
「いや、あなたを見てるだけで、うれしくて仕方なくなるんです」
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
 審判と進んで握手などの接触をしてはいけないことになっている。簡略な口を利くことは許されている。私がフェンスに近づいたので、レフトスタンドがまた拍手喝采した。帽子を振りながら駆け戻る。一塁上でコーチからグローブを受け取って、ゆっくりマウンドに上がろうとしていた堀内と目が合った。たった一歳年上、長い首に大きなホクロ。
 九回表。森が槌田に交代している。因縁の高木から。堀内、真っすぐ両腕を差し上げるワインドアップから剛球を二球つづけてど真ん中へ。高木、連続して空振り。たぶんボールが浮き上がってくるのだ。ツーナッシングから内角高目のシュートに詰まってショートゴロ。当たってもここまでか。九点差に安心した余裕の歓声を受けて、江藤がバッターボックスに入る。田宮コーチが、
「ヨ、慎ちゃん、何かやって!」
 初球、真ん中猛速球、空振り。二球目、切れのいい大きなカーブ、空振り。何かどころか、手も足も出ない。ベンチの声も止んだ。三球目、内角低目のシュート。ドン詰まりのショートライナー。バッターボックスに向かう。穏やかな歓声。シュプレヒコールはない。槌田が声をかける。めずらしい。槌田は森とちがって寡黙だ。
「敬遠するよ」
「冗談でしょ」
「うん、冗談。きょうのホリさんはだれも打てないから」
 速球に強い私にはストレートを放ってこない。決め球はまちがいなく懸河のカーブだ。速いストレートでカウントを稼いでからだろう。その百五十キロ以上の初球を叩こう。初球にカーブがきたら、それも叩く。彼のカーブは落ちぎわが高いので曲がり鼻を狙えない。目の前にきたところを目測で打つ。とにかく初球を振る。とつぜん三塁スタンドから金太郎のシュプレヒコール。レフトスタンドの歓声と旗。三塁ベンチ上の鉦、太鼓、拍手。バッターボックスの土を均し、右隅二十センチ手前に足を置く。
 ―ストライクのカーブは目の前、ストライクのストレートは浮きぎわ。
 頭に唱える。ワインドアップ、初球、懸河のカーブ。顔の前で振り抜く。ファールチップ。竹元のマスクを直撃する。
「だいじょうぶですか!」
「なんの。心配無用」
 マウンドの堀内がニヤニヤしている。槌田はホームベースをさすっている。
 ―もう一球くるな。
 二球目、同じコースに同じ懸河のカーブ。バックネットオーバーのファール。スカッという手応え。二階席に飛びこむ。ダン! というかすかな音がする。私にしてはめずらしくファールを二球打った。もうカーブは投げてこない。タイミングが合ってきたと考えるからだ。ここからが勝負になる。堀内が投げ返されたばかりのボールの交換を要求する。竹元からの送球を受け取り、よくこねる。槌田のサインを覗きこみ、うなずく。
 三球目、外角へスピードの乗った直球。ボール。帽子が真横にずれる。ツーワン。ボールをこね、キャッチャーを覗きこみ、うなずく。四球目、真ん中高目のスライダー。ボール。ツーツー。
 ―次は外角のストレート。ストライクを取りにくる。スリーボールにはしたくないはずだ。
 五球目、外角の速いシュート。届く。思わず強振した。バットが折れた。レフトの前にフラフラと上がり、ポトンと落ちた。テキサスヒットにすごい歓声。一塁上に立った私に王が、
「スイングが見えなかったよ。球界ナンバーワンのバットスピードだね。長嶋さんより速い。腰やられないかい?」
「最近はだいじょうぶです。……中学生のころ立てなくなったことがあります。三百回以上はバットを振らないことにしています」
「手首は?」
「やられたことはないです。左の肘は手術しました」
「知ってる。で、右投げにしたんだよね。……並のがんばりじゃない」
 木俣、顔の高さの速球を三塁前にセーフティバント。高目好きの彼でなければできない芸当だ。木俣一塁セーフ、私は当然二塁へ。まるで巨人軍の戦法だが、ツーアウトからなので、だれもが困惑する作戦にちがいない。私も驚いた。遊び心からだろうが、新鮮な感じがして楽しい。しかし、遊びには見えない。常に一点でももぎ取る可能性を追求する真剣さを感じる。この試合を境にドラゴンズはますます負けなくなるだろう。
 堀内がボールを指先でお手玉しながら腐っている。腐れば変化球はない。菱川、すかさず初球の内角ストレートを叩く。ひさしぶりに引っ張って左中間を抜いた。彼の華麗な滑りこみを見やりながら悠々生還する。十八対八。太田三振。きりきり舞い。
 九回裏、最終イニング。門岡は、得意のスライダーで、長嶋をショートゴロ、国松をファーストゴロと打ち取り、初勝利まであと一人と迫った。ここから巨人に粘られた。滝の代打の柴田が左打席に入り、スライダーを引っ張ってライト前ヒット、槌田にカーブとスライダーを投げつづけたが、ストレートのフォアボール。まったくストライクが入らなくなった。カーブとスライダーはすべて高くすっぽ抜け、直球も上ずっている。一、二点差だったらすぐさま交代させられるところだ。堀内三遊間を破ってツーアウト満塁。九番土井。満塁ホームランでも打ってランナーを掃除し、門岡の目を覚ましてほしいと思った。
 願い(?)が叶った。バットを短く持った土井が、門岡の真ん中高目に曲がってきたカーブをゴチンと打つと、ふらふらと上がったボールが私の頭の上をふらふらと通り過ぎ、ヘラの付け根を少し越えたところにポトリと落ちた。十八対十二。六点差を忘れた大歓声が上がる。ツーアウトランナーなしから六点は返せない。私は白い手を回すマッちゃんと顔を見合わせて笑った。彼も同じ気持ちのようだった。時計は九時四十五分。十時にはロッカールームだ。一番黒江の代打千田。腰を下ろして守備姿勢をとったとたん、サードフライで終わった。
「松橋さん、あしたは?」
「控え審判です。ネット裏から見てますよ」
 マッちゃんに帽子を振って走り戻っていくと、太田が文字通りタコ踊りのように足踏みしながら、私に抱きついた。ナインに揉みくちゃにされる。わけがわからなかった。選手全員カメラマンに囲まれてのインタビューでも、何を聞かれているのかわからない。十五連勝とか、チーム二百十号とか言っている。
「きょうのヒーローはみんなでしょう」
 どのマイクとも選ばずに応える私の声が一オクターブ高くなる。
「江藤選手の先制適時打につづく七十五号ソロ、六回同点打、ふたたび逆転され、二点差に迫ってからの七回、七十六号逆転場外スリーラン。すべて効果的な一打ばかりでした」
「きょうはみんな適時打まみれでしたよ」
「ヒーローは門岡だろ」
 一枝が言う。マイクがそちらに伸び、
「門岡選手、今季二勝目おめでとうございます」
 しっちゃかめっちゃかだ。
「ありがとうございます。最後の四点がなければ褒めてもらってもいいんですが」
 フラッシュが瞬く。ベンチを去らずにこちらを見ている巨人ナインの顔はみんな蒼白だ。川上監督の光る眼鏡が動かず、王、長嶋のまじめな表情、あした投げるとおぼしき金田の白い顔もある。私は中に、
「どうしたんですかね、巨人ベンチ」
「反省会でもやるんだろう」
 高木が、
「深夜までね」
 小川が、
「何を反省するんだろうな。宿舎に帰ってバットでも振ったほうがマシだぜ。水原さんなんか、もうとっくにいないよ。早くバスに乗ろうぜ」
 報道陣を振り切って全員バスへ急ぐ。ファンの群れに揉みしだかれながら、通用口から駐車場へ抜ける。松葉会の連中や警備員たちが選手一人ひとりの腰を押していく。バスの中で監督コーチたちが歓談していた。水原監督が、
「よう、みなさんお帰り。門岡くん。両目が開いておめでとさん」
「ありがとうございます」
「こうやって一つずつ勝ってくれることが大きいんだ。また一歩優勝に近づいたよ」
 小川が、
「あれ、勉ちゃんは?」
「〈お友だち〉とタクシーで帰ったようだ」
 水原監督の目が笑っていない。バスが動き出す。監督が、
「金太郎さん、何か唄ってくれないか。少し泣きたい気持ちなんだ。涙を流したあとで胸が晴れ上がって明るい気持ちになるような、そんな歌を唄ってほしい」
 田中の脱落の予感に胸を痛めているのだ。
「わかりました」
「イヨー!」
 と拍手が湧く。森下コーチが、
「強すぎる者の憂鬱でんな。このごろ私も感じてました。ひどく満足しとるんやが、なぜかさびしい」
 水原監督は微笑したが、ちがうと思った。浜野のほかにこの先も何人か戦列を離脱しそうな者が出ることを危ぶんでいるのだ。総帥としてどれほど団結に腐心しても、かならず叛徒が出る。人の世の常だ。


         百三十一

「上を向いて歩こう、いきます。みんなも合わせてください」
 一枝が、
「よっしゃ!」
 と応えた。

  上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
  思い出す春の日 ひとりぽっちの夜

「ヒャー!」
「いい声だ!」
「降ってきたぞ!」
 などと叫んだあと、たちまち大合唱になった。

  上を向いて歩こう にじんだ星を数えて
  思い出す夏の日 ひとりぽっちの夜
  幸せは雲の上に 幸せは空の上に 
  上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
  泣きながら歩く ひとりぽっちの夜

 口笛の間奏が合奏になった。肌が泡立ち、涙が流れ出してきた。中と高木と太田が、小川と一枝と木俣が、正真正銘の涙を流していた。半田コーチも泣いていた。

  思い出す秋の日 ひとりぽっちの夜
  悲しみは星のかげに 悲しみは月のかげに
  上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
  泣きながら歩く ひとりぽっちの夜 ひとりぽっちの夜

 口笛の合奏。ウオォー! 拍手。みんなで握手し合う。泣いている私に江藤や菱川が泣きながら抱きついた。水原監督も涙を拭わないで泣いていた。半田コーチが立ち上がり、
「すばらしネ!」
 あらためてコーチ陣が立ち上がり、涙をタオルで拭いながら、
「歌いながら泣いたのは初めてだよ。きみたちとすごす毎日は奇跡だ」
 田宮コーチが言うと、長谷川コーチが、
「これ以上ない晩年を与えてくれた。心から涙を流せる晩年なんて最高だ」
 森下コーチが、
「晩年ゆうても、長谷川さんも俺もまだ三十代後半やけどな。実際、野球はもうでけへんのやさかい、たしかに晩年は晩年や。とにかくいままで涙ゆうたら、勝ち負けの涙しか流したことあらへん。ええ涙をありがとう」
 江島が寄ってきて私の手をとり、
「ぼくはあなたと同い年です。ドラゴンズでは一年先輩だけどね。同い年なのにここまで持って生まれたものがちがう。……クソと思う気持ちがあったんだ。身のほども知らずにね。しかし、すべて消えちまった。いまの歌を聴いたあとでは、何にイライラしていたのかわからなくなった。神無月くんの心には、何もない。ぼくたちに対しても、ほかのだれに対しても、ただ微笑んで立っているだけだ。相手に才能があろうとなかろうと、嫉妬心があろうとなかろうと関係ない。たぶんあなたは、どこにいても、そこにいる人たちの奇跡になるんでしょうね。……監督が泣きたいと言った気持ちは、ぼくのような造反人間がチームの団結にヒビを入れていることも原因していると思う。ドラゴンズでがんばることにします。有能は無能を追放します。でも、あなたがそれを気にする必要はありません。いっしょに野球をやってくれるだけでいいんです」
 とった手を強く握った。水原監督がその二つの手を包みこんだ。島谷は何か言いたそうだったが、黙っていた。門岡が、
「俺はもう肩がボロボロです。あと一、二年の命だと思う。それでも最後までみなさんといっしょにいたい。浜野がその気持ちになれなかったのは残念です。あいつの出ていき方を見て、つくづく人間は小さく生きたらいかんと思いました。江島も小さくなるところだった」
 小川が、
「きのうの浜野は憐れだったな」
 門岡が、
「はあ。いずれ人間的に大きくなって、百勝ぐらいできる息の長いピッチャーにはなると思いますけど、才能に嫉妬するような小さい人間のうちは芽が出ない。出る芽を持ってると仮定しての話ですがね。俺は才能のない人間です。出る芽がない。それでも、才能豊かな人を尊敬はできる。その人のそばですごしたいと思う。神無月くんは言うまでもなく、ドラゴンズのみなさんは才能のかたまりです。だから、ここにいたい。そしてときどきみんなでこうやって声を合わせて歌いたい」
 伊藤久敏が、
「俺もドラゴンズにおられるだけおって、優勝のご相伴に預からせてもらいますよ。小川さんや小野さんのような活躍は到底できませんけど、いい中継ぎの仕事をしたいと思ってます」
 水原監督が、
「そうだよ、きみと、水谷寿伸くん、門岡くん、土屋くん、水谷則博くんには、中継ぎとしてばかりでなく、先発としても成長してもらわないと困るんだ。来年いい補強をしないと、投手陣が手薄になることは目に見えてる。と言うのも、じつは、山中くんは内臓に持病を抱えていてね、いますぐにでも休養が必要だ。きょうも先発予定だったが、田中くんに代わってもらった。その田中くんも、もろもろの事情から、今年かぎりの可能性が高い」
 さりげなく言ったが、一瞬バスの中が水を打ったように静まり返った。長谷川コーチが、
「つまり、小川くんと小野くんの二本柱しかいなくなるということだ。いずれ二人が衰えていけば、それこそ投手陣壊滅で、金太郎さんの百人力をもってしても、にっちもさっちもいかなくなる」
 水原監督が、
「柱がしっかりしている今年は、是が非でも優勝するつもりだが、来年以降の連覇にはかなりの幸運が必要になる。ま、来年以降のことはあらためて考えるとして、今年は大切に一勝一勝を積み重ねながら優勝に向かっていこう」
「オー!」
 江藤が、
「監督の泣きたか気持ちは、ようわかります。ばってん、先の不安を考えとったんでは、勝っても勝ってもさびしくなりますばい。金太郎さんといっしょに楽しい気分で野球ばやりまっしょ。先は先でどうにかなります。こうしとるいまが奇跡なんですけん。だいじょうぶたい、この先どうなろうと、ワシらは監督についていきますけん。死ぬも生きるも水原ドラゴンズと心中ですばい」
「オース!」
「ありがとう。もとより私もきみたちと心中するつもりだよ。ああ、人生で最高に明るい気分だ。森下くんの言うような、勝者の孤独のようなものは私たちのものではない。おこがましい。それは金太郎さんにまかせておこう」
 高木が、
「勝ちすぎると風に吹かれるようにさびしくなるというのは、たしかに俺たちの気持ちじゃないな。うれしいだけだからね。常勝が使命の戦(いくさ)の神さまも、勝てばうれしいだろうけど、フッとさびしくなる。ラクな平坦路ばかりでなく、きついデコボコ道も作ってあげないと戦い甲斐がなくなる。でも、そんな悪路を意識して作れるわけがない。結局、ラクなときに手を抜かないということじゃないの。手を抜かないことはきついからね」
 木俣がめずらしく口を開き、
「そうそう、大金太郎がいつも心がけてることだよ。きついことが大好きだからな。屁っぴり腰の素振り、三十回できる? 自分に関しては悪路を意識して作ってる」
 中が手を挙げ、
「ラクな戦いなんてないって知ってるからだね。年間の優勝戦線ばかりでなく、選手にはスランプもあれば、予期しないケガもある。自然と一試合ごとの戦況がきつくなる。―私、夏場は十試合ぐらい休みます。局部的に戦況はきつくなりますが、優勝戦線には影響を与えないでしょう」
 江藤が、
「ワシも休ませてもらうことになると思うばい。夏の終わりあたりに、いつも腿の調子がおかしくなるけんな」
 田宮コーチが、
「なんじゃそりゃ。しかし、そうやって一人ひとり、骨休めしないと戦い抜くことは難しいかもな」
 と大声で笑う。水原監督が、
「そういうことも含めて、とにかく力を合わせて戦っていかないとね。要所々々で心配したほうがいい。ますます手を抜かなくなる」
 一枝が、
「結局、強いまま優勝しろってことですね」
「―そう聞こえたかな」
「そうしか聞こえませんでした」
 みんな手を叩いて大笑いになった。島谷は相変わらず黙っていた。
         † 
 シャワーを浴び、あしたのユニフォームを用意していると、ドアがノックされた。返事をして出ると、水原監督が立ち、江藤、中、高木、木俣の四人が控えていた。
「銀座の鮨屋にいこう。たまにはいいだろう。下で待ってるよ」
「はい」
 私はブレザーに着替えてロビーに降りた。玄関に大型のタクシーが待っていた。前の席に小柄な中と水原監督が座った。初老の運転手がうやうやしく頭を下げる。
「この運転手さんは、私が巨人時代から面倒見てもらってる山県さんだ。銀座のタクシー会社のベテランだ。口は固いから、何を話してもだいじょうぶだよ」
 中が、
「私たちだけに話しておきたい大事な話があるんですね」
「そう。二つあります。銀座の店では話さない。この車中で話してしまいます。きみたちの〈信頼できる〉友人たちに伝わることも考慮してます。そうしてくれてまったくかまわない」
 みんなで固唾を呑んだ。
「一つは、島谷くんのことです。彼の移籍の意志は固い。了承することにしました」
 中が、
「やっぱり……。様子がおかしかったからね」
「金太郎さんの存在云々じゃなく、ましてや浜野のようにチームの雰囲気云々でもなく、主力としてほぼ全試合出場できるチームにいきたいという希望なんだ」
 高木が、
「どこですか」
「阪急さん。阪急は有力な内野手を求めてるし、二年連続優勝チーでもあるし、島谷くんも思い切ってやれるだろう。ピッチャーの戸田善紀(よしのり)くんとの交換トレードを申し出てきたが断った。島谷くんの価値を踏まえた金銭で買ってもらうことにした。戸田くんとは同じ二十四歳、入団七年生と一年生で、島谷くんは新人にしてすでにホームラン七本、戸田くんはまだ一勝も挙げてないから、釣り合わない。たしかに、速球のいい戸田くんには将来性がある。PL時代から騒がれていたピッチャーだ。三十八年の甲子園で、首里高校から奪った二十一奪三振の記録は、いまも破られていない。しかし、要らない。彼よりも、いや、小川くんや小野くんよりも素質のあるピッチャーが二軍にいる」
 江藤がうれしそうに、
「星野秀孝ですね」
「そう、しっかり見てきた。そろそろ金太郎さんのバッティングピッチャーをやらせてみる。お墨付きがほしいんでね。で、島谷くんだが、この三十日に正式に移籍する。いまのところ無名選手なので、それほどマスコミにも騒がれないと思う。きみたちもそれまでは秘密にしておいてほしい」
 みんなでうなずく。水原監督は、内堀通りの桜田門でしばらく車を停めさせ、
「二つ目は、田中勉くんの即時退団の件だ。私の要請で村迫代表に調べてもらったところ、代表は探偵社の力を借りて、最初に敗退行為の疑惑を抱いた西鉄の大津二軍コーチにたどり着いた。そこで、大津氏を接待して、田中くんの現状を訊き出した。すると、どうも西鉄時代に田中くんは、自分の借金を返済するために不正試合をいろいろな選手に持ちかけたらしいということがわかった。本人が不正なプレイをしたかどうかは定かでないが、仲間を勧誘したのは確からしい。先日田中くんは小山オーナーに詰問され、大筋そのとおりだと認めた。その場で自主退団ということで話がついた。退団の理由は、肩の限界として公式発表する。ことは暴力団がらみなので、実情が知れたら由々しき問題になるのでね」
 中が、
「ははあ、それで、金太郎さんの件が出てくるわけですね」
「そういうことだ。それとはまったく似て非なるものなんだが、じつは金太郎さんも、小学校以来の親友が広域暴力団松葉会の組員だという事情を抱えている。会の若頭補佐である寺田光夫氏の実弟で、寺田康男くんという。きみたちも知っていると思うが、彼が中学時代に金太郎さんから筆舌に尽くしがたい恩義を受けたことを、若頭はじめ全組員が生涯懸けて報恩すべきことと決めたようで、現在もその労を惜しまない。……金太郎さん、きみが寺田くんから受けた恩恵もあるはずだね」
「もちろん。いまでこそハッキリとわかりますが、けっして逃げない、ひたすら待つ、という精神のありようを叩きこまれました。おかげで、こうして生きていられます」
「うん、断ち切れないつながりのはずだ。で、松葉会の報恩の件だが、たとえば全国におよぶ球場内外での護衛、これは金太郎さんの同胞であるわれわれも恩恵をこうむっているね。それから、北村席周辺の警固、北村席の家業に対する無償奉仕等、枚挙にいとまがない。しかし、会の構成員は金太郎さんとの関係性をにおわすような挙動はいっさいせず、金太郎さんにも自分たちに近づかぬようにと警告している。金太郎さんの身辺や関係者を警固するのみで、暴力行為はいっさいしない。今回、金太郎さんに悪さをした川上監督や暴漢にまったく報復しなかったのがその証拠だ。松葉会は麻薬やバクチに関与しない地回り系ヤクザなので、野球賭博とも無縁だ。しかも地元の有力国会議員や経済界上層部の後ろ盾もしっかり整えている。つまり、山口組傘下の巨大な組織なので、チンケな商売はしないということだ。しかし、たとえどれほど義俠の精神に基づいた特殊な関係だとしても、暴力団と名がつく以上、金太郎さんが彼らとつながりのあることが知れれば、金太郎さんは球界から追放される。むろん永久に野球はできなくなる。そこでだ……田中くんの問題が運悪く社会的に大きく取り沙汰されるようになったとしても、金太郎さんのことは絶対口外しないでほしいということなんだ」
「わかりました!」
 四人の男が声を揃えた。


         百三十二

 木俣が、
「俺は北村席にいったことはないですが、金太郎さんが不思議な生活圏にいるというのは太田から聞いたことがあります。ヤクザの子弟との信じがたい美談も聞かされて、心から感動しました。何があっても口外はしません。金太郎さんを失うことは、俺たちばかりでなく、野球界の、いや……国家の損失にもなりますから」
「ありがとう。じゃ、山県さん、吉野鮨へやってください」
「はい」
 日比谷通りの馬場先門を右折し、東京駅のガードをくぐって鍛冶橋の大交差点に出る。左折。八重洲中央口を右折。新宿や池袋とちがって、猥雑な文明から遠そうな瀟洒なビル街。私には無縁の地、一度かぎりの銀座。日本橋三丁目の交差点を左折する。日本橋二丁目の信号を右折。一筋目を右折して、駐車場に入ったタクシーを降りる。ニューオータニを出て、十五分も車に乗っていない。水原監督が、
「じゃ、山県さん、帰るときにまた電話を入れます」
「わかりました。遠出をしないように適当に流してます」
 細く暗い石畳の裏通りに入って何度か路地を曲がり、到着。ビルの一階の〈にほんばし吉野鮨本店〉という質素な看板を見上げる。
「創業九十年の店だ。このあたり一帯を銀座というんだよ。住所は日本橋。ビルの背は高いけど、横丁は狭ッ苦しいでしょ? こういう横丁やビルの中に老舗がひしめいてるんです」
 紺暖簾をくぐる。清潔な石の床。薄っすらとカルキに似た酢のにおい。みごとな白木のカウンターがしつらえられ、四人がけのテーブルが五卓。三人の白帽かぶった職人が威勢のいい声で、
「いらっしゃいませ! 水原さま」
 と挨拶する。寿司孝のような女将はいない。遅い時間なのに混んでいる。カウンターの客たちが振り向き、ヒャッと声を上げて驚く。柔和そうな色白の大将が配下の職人に命じて座敷へ案内させる。ゆったりと六人坐れる長卓を置いた八畳部屋。
「適当におまかせでお願いするよ」
 水原監督が職人に言う。
「承知しました。おまかせのほかに、特別にお好みのご注文はございませんか」
 私は、
「トリガイ、それからアナゴをタレで」
 高木が、
「冷酒を」
「新潟の百寿、一種類しかございませんが」
「それで」
 江藤が、
「ワシはシャコをつまみでお願いします」
 中が、
「冷酒と、赤身のブツをつまみで」
 水原監督が、
「エビスビールを全員にグラスでください」
「承知しました。ただいまお持ちします」
 江藤が、
「ワシは借金で首が回らなくなっているとき、水原さんに救われた。勉ちゃんもそうできんかったんと?」
「江藤くんの場合は、地元の小規模な金貸しヤクザだったし、野球に関して何の不正も働いたわけじゃなかったしね。金だけの問題だったので処理しやすかった。田中くんはちがう。大阪でかなり手を広げて商売している中規模の暴力団で、しかも本人が不正を働いたという事実がある。救済はできない。七勝ゼロ敗のまま退団してもらえば、いずれ公に知れたとき、少なくとも中日ドラゴンズでは不正を働いていなかったとわかる」
 木俣が、
「どうやって勉ちゃんのことが具体的にわかったんですか」
「おととし、大阪の試合にかぎって二、三の投手がおかしな投球をすることに気づいた大津投手コーチが、そのピッチャーたちを内偵したんだね。その結果、八百長を確信して中西監督やコーチ陣に報告したんだが、逆に選手を疑ったことを叱責されてチョン。それどころか彼は二軍に降格された。握りつぶされたんだね。村迫さんの橋渡しで大津コーチが探偵社と接触したのは、渡りに船、胸の内を吐き出すピッタリのタイミングだったんだよ。今年に入って、何か田中くんの動きがおかしかったので、例の探偵社に調べてもらったところ、福岡へしょっちゅういって、ライオンズの選手と会っていることがわかった。ホームシックにしては頻繁すぎる。もう調査はこれでじゅうぶんです」
 江藤が、
「借金はそのままですか……」
「具体的に債権者と交渉してまで田中くんの返済の面倒を見る義務は球団にありません。しかし、たぶん借金の額を上回る程度の慰労金を出しました。それでどうにかするでしょう。球団もやるだけのことはやったというところです」
 何人かの仲居たちが、百寿の四合瓶とグラスビールと、華やかな鮨を重厚な皿に載せて運んできた。高木が、
「勉ちゃんが切羽詰まっておかしなことをしなければいいですがね」
「これからのことは田中くんの責任です。さあ、食べよう」
 ビールグラスで乾杯。さっそく指と箸が動きだす。中が、
「金に目がくらむと、金に窮する。完全試合までやった男が……惜しいね」
 水原監督が、
「ことが明るみに出れば、田中くんと彼に関わった選手は球界から追放されるだろう。よほど悪質なら逮捕もある。しばらくドラゴンズもとやかく言われるかもしれない。挫けないようにね」
 江藤が、
「金太郎さんの存在が防波堤になるったい。八百長でホームランは打てんけん」
「そのとおり」
 私は、
「きょうの球場の稲妻、きれいでしたね。でも、カクテル光線にはかなわない。芝生と土に降り注ぐ光は、この世でいちばん美しいです」
 みんなキョトンとした。水原監督がアハハハと笑って私の肩を抱き、
「なんてすてきな男だろうね。金太郎さんを苦しませるようなことはぜったいしないからね。あしたもカンカン照りかな。そろそろ梅雨に入るから、雨の試合が多くなるぞ」
 みんなうまい鮨をモリモリ食べ、間断なくしゃべる。冷酒が追加される。木俣が、
「きょうの川上、おとなしかったな」
 水原監督が、
「廊下で遇った記者の一人が言ってたよ。川上監督にベンチ取材をしたとき、神無月はどんな速球も変化球も打ち返す、ホームランもどれもこれもすばらしい、こうまで打たれたら後悔するものではない、称賛するしかない、と言ってたそうだ。ただ嫌味もちゃんと付け加えるんだ。どんなにすばらしい力を持った者でも、受け入れる人びとがいなければ歴史を変えることはできない、時代の中で傑出しているだけではだめで、後継者を生み出すという意味で歴史の分岐点となる人物であったかが重要だ、神無月郷のバッティングは後進に継承できない、したがって彼は歴史を変えられない、彗星のように輝き、去っていくだけだ、とね。たわごとだ」
 木俣はうなずき、
「歴史は変えられなくても、彗星として歴史に残ることはできる。ベーブ・ルースも、ルー・ゲーリックも、ミッキー・マントルも、ロジャー・マリスも、長嶋も王も、みんなそのバッティングは後進に継承できないでしょう。おっしゃるとおり、そんな理屈は、彗星のように輝くことができなかった者のたわごとだし、結局は嫉妬ですね。監督、金太郎さんのお墨付きがついたら、星野秀孝はすぐ使うんですか?」
「はい、即戦力と見てます。二軍で様子を見ることはしません。そんなことより木俣くん、五番が打てないと、金太郎さんの敬遠が増える。あなたの責任は重大です。大スラッガーになってください」
「はい」
 江藤が、
「ワシもですばい。ヒットでもホームランでも、なるべくランナーを還しておかんと、やっぱり金太郎さんと勝負してくれんようになる。ランナーが溜まっとると、金太郎さんが敬遠される危険性が高か」
 中が、
「一、二番は自由に打って走る。脅かす、掻き回す」
 高木が、
「問題は、六、七、八番だね。長打力のある連中をずらりと置いておけば、ピッチャーは息を抜けなくなる。菱川、太田、修ちゃん、みんな一発がある」
 水原監督が、
「江島くん、千原くん、伊藤竜くん、葛城くん、徳武くんの使いようだね。みんなを使いたいが、そうもいかない。彼らの弱点は打率の低いことだ。レギュラーで使えない。何よりも華がない。華は実力に比例する。実力があるとプロらしい気組みが出てきて、それが華になる。チームの勝敗を無視して、ファンのために個人プレーができるほどの気構えだ」
 木俣が、
「江夏の奪三振ですね」
 江藤が、
「おお、あれか」
「はい、稲尾の三百五十三個を破ったやつです」
 水原監督が、
「去年の九月だったね。チームの勝敗を度外視していながら、勝利に結びつく華々しいプレーだった」
 木俣は、
「初回、高田サードゴロ、土井が三振。ツーアウトで王と最初の対決。外、外、インコースというのが、江夏の王に対する攻めパターンです。ツーワンからインハイのストレートで空振り三振。三百四十七個目。二回に長嶋から三振を取って三百四十八個。三回に、末次、森、高橋一三と三振、四百五十一個。ここで金田のセリーグ記録を更新。四回、ワンアウトから土井三振で、四百五十二個。王の二度目の打席です。インサイド低目のカーブで空振り三振。プロ野球タイ記録。江夏はこれを新記録と思いこんじゃった」
 江藤が、
「おお、新聞で読んだっちゃん。辻からタイ記録やて言われてたまがって、そっから八人ば三振に取らんようにしたちゅう話やろう」
 水原監督が、
「同じ新聞に川上も怒って書いてたね。試合に勝つためには、なるべく三振を取って打線を抑えなければならない、三振を取らないように投げて打たれでもしたら元も子もない、もし江夏がほんとうにそんなことを考えて投げたのなら、とんでもないことだ、てね。プロ野球の本質を知らない人の言葉だ」
 高木が、
「とんでもないなら、どうしろって言うんですかね。ファンはそういう江夏に拍手喝采した。それもとんでもないのかな。このあいだの金太郎さんと平松みたいに、真剣勝負のこだわりと、プライドのぶつかり合いにファンは痺れるんですよ。金を払ってよかったと思うんです」
 中が、
「同感だ。江夏はほんとうに三振も取らず、ヒットも打たれず、王まで回した」
 木俣が、
「初球アウトコース真っすぐ。ストライク。あそこは金太郎さんの屁っぴり腰打法じゃなきゃ手が出ない。二球目内角カーブ、フルスイング、ファール。三球目真ん中高目ストレート、ボール。四球目、インハイ渾身のストレート、フルスイング、空振り三振。ちょっと真ん中寄りだったのがスイングを誘った」
 水原監督が、
「すがすがしい力と力の勝負だったね。名乗り合っての一騎打ちみたいなものだ。二人とも悔いが残らなかったろうし、観客も大いに満足した。それを叱るなぞ、嫉妬以外の何ものでもない。……金太郎さんは天上の人だから、そういう地上の美談を飄々と破壊する。いま全盛の江夏も、金太郎さんだけは抑えられない。私たちも選手も、ファンも、毎日別世界に酔い痴れてる」
 高木が、
「金太郎さんの対江夏戦の成績は?」
 私は、
「七打席立って、六打数四安打、ホームラン三本、二塁打一、四球一、凡打二。ライト看板、バックスクリーン、バックスクリーンの三本です」
 菱川が、
「たしかに別世界です。ドラマなんて生れようがない。観客は勝負を観るんじゃなくて、安心して金太郎さんの勝利を確認するだけですね」
 中が、
「だからこそ、金太郎さんの三振や、凡打がドラマになるんだよ。ただ、起きてはいけないドラマがある。金太郎さんがガッカリして球界を去らなければいけない障害が生じることだ。きょう水原監督の言いたかったのはそれだと思う。デッドボールやいちゃもんや暴行など、外敵が引き起こすことは、傷に絆創膏でどうにか対処できるだろうけど、内部から膿んで崩れると対処できない。金太郎さんが野球そのものにイヤ気を差してしまう。浜野や勉ちゃんのようなことは二度と起きちゃいけないんだ」
 水原監督が、
「その意味で、私は島谷くんのことも危惧している。王、長嶋がいると出番がないので巨人をやめたいという選手はいないのに、神無月と江藤がいると出番がないのでドラゴンズをやめたいという選手がいるのは、内部崩壊に近い。それだけドラゴンズという球団に魅力がないからだとも言える。優勝したくらいでは魅力は得られない。その証拠に、ほぼ優勝が確実なわがチームから浜野くんも島谷くんも去った。魅力とは〈自分が好む〉チームの一員として常時出場の有無に関わらず野球ができることだ。優勝を重ねて権威をつけるか、有力選手が衰えて後輩の活躍の余地を残してやるかしないとなると、ドラゴンズはわがまま者の集団になって内部崩壊しかねない。無理に衰えるなどということはできない相談だ。となると、魅力あるチームカラーを築いていくしかないということになる」
 江藤が、
「権威的なチームになると、楽しか野球ができんごたる」
「そうなんです。そこで、私は決めました。むちゃくちゃ強いチーム、その魅力を維持したままこのメンバーで滅んでいこうと。私が倒れるまでです。私以外の監督はドラゴンズを魅力のないものに改悪してしまう。そうなったらきみたちは、昇竜ドラゴンズの申し子として他球団に散ってこの魅力を伝道してください。その間、私もフロントも、きみたちに何があろうと庇いつづけます。どうか私といっしょにもうしばらく野球をやってください。その間に庶民がこの魅力に権威づけをしてくれるかもしれない」
「ウォォース!」
 五人の声が百人の声に聞こえた。
 山県の運転する車で、深夜、ホテルに戻った。


         百三十三

 六月十五日日曜日。朝九時に起きて、うがい、歯磨き、下痢便、シャワー。十時から江藤と二人で清水谷公園を走る。曇り空。
「朝めしは食いました?」
「まだばい。きのうたっぷり飲んで食ったけんの」
「うまかったですね。昼めしも兼ねて、庭園の清泉(せいせん)亭でステーキ食いましょうか」
「おお、精ばつけとこう。きょうは胸騒ぎがするけん」
「江藤さんもですか……ぼくもです。金田さんに対する遠慮が怖いです」
「先発ではこんやろうと思うばってん。遠慮したら八百長みたいなもんぞ」
「はい、わかってます。……まだノートはつけてますか」
「ときどきな。何年も、バットよりノートが商売道具みたいなもんやったけん」
「何を書いてたんですか」
「相手投手のマウンド上の癖、ゼロスリーやワンスリーから投げてくるボールのコースや球種、試合中に感じたこと」
「すばらしい……どういう球種でしたか」
「何でもありという結論やったな。ただピッチャーがそのカウントやと苦労するちゅうだけのこったい。とにかくいままでは、何でん思いついたことやら発見したことやら、克明にメモしてきたっちゃん。金太郎さんに遇ってからちゅうもん、肝心な商売道具はそういう知識や統計やなくて、バッターは打力、ピッチャーはスピードとコントロールやとわかった。ばってん、ときどき思いついたことば書いてしまう。長年の習慣はやめられん」
「なにもやめる必要はないでしょう。書いたという安心感が生活のリズムになってるんですよ。ところで、ぼくが背番号8をつけたせいで、江藤さんは9、菱川さんは10をつけることになりましたが、ドラゴンズの永久欠番だった10を服部受(つぐ)弘さんというかたが快く譲って下さったと聞きました。服部さんというのはどういう人だったんですか」
 江藤は道端のベンチに腰を下ろしてタオルを使った。       
「およそのことしか知らんのやが、ワシが入団する前の年までドラゴンズのコーチ兼任の現役やった。面識はなか。昭和十四年にドラゴンズの前身の名古屋軍に入って、豪打と快投で鳴らした人や。戦争から復員して、キャッチャーから投手に転向したちゅうからすごか。偶然スライダーば発明したおかげで、三年間で六十勝したっちゃん」
「スライダーの発明者ですか。覚えておこう」
「めずらしい曲がり方ばするけん、バッターはいっこう打てんかったと。引退まで百十二勝ば挙げた。キャッチャーのような素早い投げ方やったげな。実働十五年、バッターとしての生涯打率は二割五分、ホームラン三十三本。キャッチャー時代には一度ホームラン王にもなっとる。有名な話は、昭和二十七年の巨人戦に代打で出て、別所から逆転満塁ホームランば打つと、そのままリリーフで登板して巨人打線を完封したちゅうやつばい。もっと有名な話は、セカンド以外の守備をぜんぶこなしたちゅうことかな。そんなプロ野球選手はこれまで球界に一人もおらん」
「たぶん、小さくて、ピキピキしてる人ですね」
「百七十もなくて、六十キロそこそこや。ようわかるなァ」
「肩が強い、俊敏、ホームラン数はまあまあ。戦争前後は、そういう天才が多かったような気がします。肩が弱かったのは、川上監督ぐらいじゃないですか。ぼくはほとんど過去の野球選手の記録フィルムを記憶してますが、服部さんは憶えてないなあ」
「フィルムに撮られたことがないんやろ。だれだれを憶えとる?」
「苅田久則という人の守備は抜群にうまいです。木塚忠助も飯田徳治も素人。坪内のバッティングはだめ、大下もだめ、川上もスイングがそっくり返りすぎてぶざまだし、走り方もドタドタのガニ股で素人以下。鶴岡と千葉のスイングはすばらしい。別当も藤村もひどい振り方で、野球と言えない。ダイヤモンドを回る姿も爺さんが走ってるようで、野球ファンが感動していたのは、少なくとも立ち居振る舞いではないとわかります。ピッチャー野口はフォームが美しく、肩もよさそう。景浦のスイングは前のめりすぎ。若林のアンダースローは変則的に見えるけど、手首のひねりだけで投げるピッチャー。よく曲がりそう。スタルヒンのフォームは美しい。球は百四十キロ前後。沢村は現代の本格派ピッチャーとまったく変わらない華麗なフォームで、肩の回転と腕の振り下ろしが速くて力強い。百六十近く出ている感じがします。噂とちがって左足はまったく高く上げていない。やっぱりそうかと思いました。あれはキャッチボールのときのフォームでしょう。水原さんの守備はまあまあ、バッティングは見るべきものなし、ダウンスイングの三原さんもだめ。松木謙治郎は変わった打ち方だけど、プロらしい手首の返しがいい。青田はスイングが大きい。片手打ちなのが残念。別当は両手打ちだけど不格好すぎる。むかしの人はほとんど片手打ちで、しかも不格好ですね。小鶴誠のスイングは、初動からフォロースルーまで非の打ちどころがありません。典型的なホームランバッターの振り方で、長池そっくりです。別所の投げ方はひどい。投球動作をサボってるとしか思えない。ぼくがフィルムで見た戦前の人たちはそのくらいです」
「服部さんが写っとらんのは不思議やのう。小柄な強打者は人気者になる。ピッチャーもやるとなったらなおさらばい」
「キャッチャーみたいな投げ方というので予想はつきます。とにかく、ピッチングが完成していたのは沢村だけでしたけど、プロ野球選手のバッティングフォームが完成したのも遅くて、小鶴誠からポンと飛んで、中西太でとつぜん完成した感じです。張本や藤本や田淵のようなふんぞり返りのバッターもまだたまにいますが、軸が反り返らない打法は中西であらかた完成しました。山内、榎本、桑田、長嶋、長池、江藤さん、ぜんぶ完成品です。王は別路線で、基本が片手打ちなので美しさはありません。金田のバッティングと同じです」
「恐ろしかァ。金太郎さんの思い切りのいい豪快なフォームの中に、それだけの記憶が詰まっとるとね」
「参考にはしてませんけどね。ぼくは自己流ですから。それでも他人のチェックはできます。ドラゴンズでフォームが完成してないのは、太田一人です。あの不格好なスイングは矯正できません。軌道が暴れすぎるんです。ただ、バットコントロールさえつけば、あのままで長距離ヒッターになる可能性はあるでしょう」
「ほかのチームのチェックはどうや?」
「巨人のバッターは、長嶋、王以外は全員並です。広島は、山本浩司のあごが上がりすぎてますし、山本一義は一定コースしか打てない直立回転型、山内は完成品、あとは並。阪神は、藤田平はよく褒められますが、首位打者以上は獲れない〈撫で〉バッティング。あとは並。アトムズは、ロバーツと西園寺以外ぜんぶ小物。大洋は、松原のミート力は認めますが、からだが硬すぎ。あとは平均的な選手ばかり。どのチームもぼくたちに負けて当然です。ドラゴンズは、いまの構成メンバーが崩れたら、並のチームにやられつづけます。ぼくと江藤さんのどちらかが欠けたら、もう優勝はありません」
「えずかねえ。故障も引退もできん。アトムズの西園寺昭夫はワシと同い年でな、同じ熊本県人たい。ワシは熊商のキャッチャー、西園寺は熊工のセンター。よう練習試合ばしたっちゃ。三年生のとき、甲子園県予選決勝でぶつかって負けた。尾崎行雄といっしょに水原フライヤーズ優勝の牽引車だった男たい。水前寺清子の従兄やが」
「人生応援歌の歌手ですね。芯の強そうな」
「火の国の女やけんな。熊本の女は強か。ワシは苦手ばい」
 園内をもう一周走ってホテルに戻る。
「じゃ、三十分後に清泉亭で」
 二日間の汚れ物をダンボールに詰めていると、山口から電話が入った。声が明るい。
「元気か。きょう、おトキさんといっしょに後楽園に観にいくよ」
「そうか、なんとかいいところを見せるよ。ひさしぶりに負けるかもしれないぞ。それより、野球見物してる暇あるのか」
「日本ギタリスト協会主催の第一回新人演奏会で受賞した。順位を定めず二名または三名の入賞を決めるという大会だった。大きな受賞だ。心底自信がついた。これで堂々とミケーレ・ピッタルーガに乗りこめる。そこで入賞すれば、国内でも注目されるだろう。レコードも出せる。レコードが売れなきゃ、ギター講師でもしながら食いつなげばいい」
「おめでとう! 健児荘のギター名人が、いまや世界に羽ばたくんだね。東大を出て大企業に就職しなくてよかった」
「あたりまえだ。少なくとも企業は俺の適所じゃないし、宮仕えなんかしたらおまえに凡夫と思われて、身と心がよじれる。ところで、オールスターファン投票ナンバーワン、おめでとう」
「ありがとう。おトキさんは元気か」
「よくやってくれてる。俺が言うのもなんだけど、きれいになった。三十代半ばにしか見えない」
「おまえの精を吸って若返ったんだよ。女が若いのは男の手柄だ。サボると老けるぞ」
「心する。ネット裏の特等席をとったからな。一度だけ振り返ってくれ」
「わかった。水原監督にも伝えとく」
「余計なことをしなくていい。おまえの顔を見たいだけだから」
「了解。じゃな」
「じゃ」
 グローブを乾拭きしたあと、フロント階から庭へ出る。鬱蒼とした緑の中、正六角形の四阿(あずまや)ふうの清泉亭に入る。六人掛けのテーブルが三卓。コック帽をかぶった三人のシェフが目の前で焼いてくれるようだ。江藤がすでに座って水を飲んでいる。二人揃ったところで、おまかせランチを頼む。
「さっき金太郎さんが話ばした中に、もう一人出てこんかった人がおる。もう一人の永久欠番、西沢道夫さんたい。初代ミスタードラゴンズ、背番号15。投げてよし、打ってよし、天才中の天才ばい。なんで記録フィルムに残っとらんのかな」
「いつごろの人ですか」
 サラダが出てくる。江藤はフォークで突き刺して食いながら、
「三十年以上も前の人ばい。昭和十一年に、十五歳で名古屋にテスト入団した。硬球も握ったことのなか少年やったけんが、たった二十球投げただけで合格した。史上最年少のプロ入りたい。その後、兵役ば挟んで十一年間は、速球を武器に主戦投手として五十九勝を挙げる活躍ばした。西沢さんを有名にしたんは、応召前の昭和十七年、延長二十八回完投や。ワシャまだ五歳やったから、実際には見とらん。西沢さんが監督ばしとったころに聞いた話やが」
「二十八回! 板東さんみたいだな。県予選で、十六回と二十五回、甲子園で九回、十八回、九回、九回、合わせて八十六回というやつです」
「さすがにだれも板ちゃんの鬼の連投には敵わんたい。おかげで板ちゃんの腕はボロボロや。しかし、二十八回、小分けでなく投げるのも並大抵やなかぞ」
「相手はどこですか」
「大洋。後楽園。大洋は、金太郎さんが美しいと言った名投手野口。九回終わって四対四」
 海老とホタテの焼き物。二人ともすぐに平らげる。シェフが、
「和牛サーロイン百五十グラム、和牛フィレ百グラムどちらになさいますか」
 二人で、
「サーロイン百五十」
 さっそく焼きはじめるが、クネクネうねる鮑も焼いている。
「それから二十八回まで、両チーム得点なし。試合は日没引き分けになったっちゃん」
「照明設備があったらたいへんでしたね」
「おお。二十八回はいまだに世界記録ばい。西沢さんはその二カ月後の阪急戦でノーヒットノーランばやってしもうた。そして、戦地から帰って、ついに肩ば痛めて打者転向とあいなった」
「それまでもけっこう打ってたということですか」
「いや、ホームラン二本。打率も二割。打者転向のピッチャーなんて、だいたいそんなもんたい」
 肉を切り分け、鮑を切り分ける。一切れ、箸で口に運ぶ。塩コショウのまろやかな辛味がついている。うまい。
「それからは看板打者になったっちゃん。三十本、四十本と打つ、三割は打つ。昭和二十五年の、シーズン五本の満塁ホームランはいまなお破られとらん」
「……西沢……西沢……思い出した! 真田というピッチャーから、ライトへホームランを打ったフィルムです。大きなバッターでした」
「それや! 西沢さんのオハコのむかし話や。昭和二十五年、甲子園の松竹戦で真田重蔵投手の外角速球ば低いライナーでライトスタンドに叩きこんだ一撃ば忘れられんて。その年、四十六本もホームランを打ったばってん、小鶴の五十一本にやられとる」
 ガシュガシュ肉を噛みながらしゃべる。
「二年後の二十七年には三割五分打って、首位打者と打点王ば獲った。そのころ中日は全盛時代で、杉下、杉山、西沢の三羽烏で、二十九年に優勝した。引退後もドラゴンズの大貢献者たい。三十八年から、コーチ一年、監督四年やって、中日ドラゴンズを万年二位チームに引き戻した。中・高木コンビをガッチリ作り上げたのも西沢さんやし、健ちゃんを見つけてエースにしたのも西沢さんたい」
「今年は確実に優勝しますから、水原大監督のもと、小川、江藤、神無月の三羽烏ということになりますね」
「金太郎さんは群れガラスでなか。一天馬、その他大勢カラスやな」
 鮑を特性のタレで食う。美味。
「じつはな、金太郎さんは西沢さんの三つの球団記録を抜いてしもうたんぞ。四十六ホームラン、百三十五打点、三割五分三厘。ワシらは金太郎さんを気安うカラスにして肩を組めん」
 焼き野菜が出る。これもタレにつけて食う。
「うまいですねえ!」
 シェフに語りかける。隣のテーブルの一般客が視線をよこす。
「ありがとうございます。神無月選手が水も滴る美男子なのは存じておりましたが、江藤選手がこれほど渋い好男子とは驚きました」
 江藤が短髪を掻いた。有閑らしい中年女たちがこちらを見る。
「ほんとねえ。野球選手ってすてき」 
「白ごはん、ガーリックライス、どちらになさいますか? 香の物と味噌汁がつきます」二人とも白米を大盛りで頼んだ。




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