百四十

 シャワーを浴び終わると、全裸で離れの寝室へいき、
「トモヨさん」
「はい?」
「いま性欲ある?」
「……はい……恥ずかしいですけど、すごく」
「からだの具合は? 吐き気とか」
「そういうのはぜんぜん。からだがカッと熱いだけで」
「する?」
「はい……いいですか」
「何回イッたら止めればいいかな」
「四回か、五回」
「わかった。パンティだけ脱いで。濡れてる?」
「はい、すぐ入ります」
 腹帯をしたままパンティを取り、寝巻をまくった。大きな腹の下にほとんど陰毛しか見えない。
「仰向けはきついだろう。いちばんラクな格好に寝て」
「はい」
 横臥した。片脚を持ち上げるといつもの美しく濡れた性器がある。私はすぐに可能になった。
「入れるよ」
「はい」
 そっと挿入し、動かさずに止める。
「ああ、とってもいい気持ち―郷くんを感じる。あ、一回イキます……イク!」
 うねりが始まる。
「トモヨのオマンコ気持ちいいよ、ぼくもすぐイケそうだ、動かすよ」
「うれしい、あああ、郷くん、イク!」
 うねり方が尋常でない。妊婦特有の収縮なのか、トモヨさんの強い性欲のせいなのか激しくうねる。
「郷くん、イク!」
「トモヨ、イク!」
「あああ、気持ちいいい! イク、イク、イク!」
 吐き出し、腰を止めて律動する。
「ああ、郷くん、もっとイク、もっとイク、イクイクイク、イク! イグ!」
 大きな腹が縮んでは緩む。
「だいじょうぶかな」
「だ、だいじょうぶです、ちゃんとお医者さんに尋いてます。あああ、もう一度、強くイクウウ!」
 抜いてキスをする。ティシューですぐ股間を拭ってやる。トモヨさんは五度ほど痙攣して治まった。
「ほんとにだいじょうぶかな」
「臨月だけはなるべくしないようにしなさいと言われました。そっとしてくれたのに何度もイッてしまいました。ありがとうございます、郷くん」
 脚を下ろして、尻をさすっていると、トモヨさんは横目に私の屹立したままのものを見下ろし、
「……すみません、郷くん、もう一度いいですか? もう少し強く……」
「いいよ。きちんと動いたほうがトモヨも満足するよね」
「はい」
 もう一度膝裏を抱え上げてやる。
「入れるよ」
「はい、ああ……入りました。うーん、気持ちいい! あ、すごくいい、走る走る、愛してます、イキます、イク、イクイク、イク!」
 リクエストどおり強く往復する。
「あ、イク、イクイクイクイク、イク! あああ、だめ、もう止まらない、痺れる、電気電気、イクイク、イク! 郷くん、早く、早く、もうだめ、あ、また」
 空いている右手で背中をさすってやる。膣口が猛烈に縛めつけてくる。大きく股が開いているので、入口が収縮する襞の動きを見つめられる。
「溶岩みたいに熱い。ぼくももう一回イケそうだ」
「あああ、好き好き好き、郷くん、愛してる、イクイクイ……うううーん、イックウウ!」
「トモヨ、イク!」
 突き入れずに静止して律動する。亀頭だけの律動なのにトモヨさんはカリが膨張するたびに、イクと言って強く反射する。唇を吸い合う。
「好き好き、死ぬほど好き」
 唇を離し、入口の感覚を味わいながら引き抜く。
「あ、郷くん、も、もう一度イキます、イククウウ!」
 脚を抱えられたまま、ウン、ウン、と痙攣する。抱えていた片脚をゆっくり蒲団の上に置いてやる。ティシューをつまみ出して股間に当て、そっと拭う。
「ああ、とても幸せでした。ありがとうございます」
 トモヨさんを仰向けにしてやり、屈みこんで、突き出た腹に隠れている性器に舌を当てる。クリトリスの周囲を舐めてから、立ち上がり笑いかける。
「ありがとうございました。今度するときは、そこから始めてくださいね」
 トモヨさんヨッショと起き上がり、時間をかけて私のものを舐めた。
「女のおツユはにおいますから、しっかりきれいにしておかないと。きょう抱いてもらえると思いませんでした。うれしい」
「トモヨはほんとにすてきな女だね」
「郷くんの周りの女性はみんなすてきです。おたがいがおたがいの模範になります」
「スッキリした?」
「はい、熱がなくなって、ドヨーンとしたものが取れました。女はオーガズムを感じると、何とかいうホルモンが出て、新陳代謝と血行がよくなるらしいです。ひと月に二回ぐらいはちゃんと感じないと、体調がすぐれなくなるそうです。イクことを知ってる女の人にかぎってということです。私も郷くんに女にしてもらうまでは、一度もドヨーンとしたことがありませんでしたから。……女の都合ばかりで、郷くんに迷惑かけてごめんなさいね」
「ときどきしてあげることは、女に歓びを教えてしまった男の責任だ。甲斐性のない男はその意味でラクができる。女をほったらかしておいても、求められることがないから」
「すみません……」
 たがいに下着をつけ、服を整え、静かな渡り廊下へ出る。トモヨさんの腋を抱えて廊下を歩く。
「起きることなんかないのに」
「すっかり具合がよくなって、動きたい気分なんです」
 居間の女将が見咎め、
「トモヨ、無理したらあかんがね」
「郷くんに抱いてもらったら、すっかり気分がよくなりました」
 睦子と千佳子はうれしそうに手を握り合わせる。主人が、
「神無月さんはグッタリやろ」
 トモヨさんはこだわりのない笑みを浮かべながら、
「申しわけないと思ってます。お義父さん、郷くんはいつも自分からやさしく誘ってくれて、ついこちらも調子に乗ってしまいます。ぜったい窮屈な思いをさせないんです。してもらうと、もっとという気持ちになるんですけど、幸い郷くんは一回出したあと、しばらく物足りない感じになるんです。そのおかげで私たち女は大満足してます」
「そりゃまた豪傑やな」
 トモヨさんは笑いを崩さず、
「最初のころは不思議に思いましたけど、最近はあたりまえに感じてます。郷くんて、しなければしないで何週間も何ともないんですよ」
「甲子園を乗り切れたのは、そういうわけやったんか」
「もともとスケべじゃないのに、女をつづけて喜ばせるようにできてるんです」
 女将が、
「うらやましい。耕三さんもあやかりたいやろ」
「何言っとる、それなりに満足させとるやろが」
「はいはい、じゅうぶん満足しとります。つづけて二回なんてことはあれせんけど」
「あたりまえや、そんなことむかしからできんわ」
「もう四、五年もすれば、さすがの郷くんも、そこまでの精力はなくなると思います」
 菅野が、
「神無月さんのそちら方面は天真爛漫なんですよ。女の側も遠慮した気持ちにならなくてすみます。たとえば、小さい子が外から戻ると、おやつって叫びますよね。神無月さんのセックスはそれと同じようなものですからね。微笑ましいと言うか、なんともはや、見てるだけで楽しくなります。でも、トモヨ奥さんはそろそろ気をつけなければいけない時期ですよ」
「はい、私はこれから二カ月のあいだは大事をとります」
 女将が、
「神無月さん、卵飲んどき」
 ソテツが生卵を小鉢に二つ落として持ってきた。一息に飲む。
「夜は栄養たっぷりなものを用意します」
「じゃ、直人を迎えにいってきます」
 菅野が出ていった。
「さ、卵で栄養がついた。千佳子、睦子、ひさしぶりに」
「はい!」
 主人が、
「呆れた人やな。ハブ酒も飲んどきなさい。あさってから阪神二連戦、つづけて金土日と巨人三連戦ですよ」
「はい」
 幣原の持ってきたハブ酒を思い切り流しこむ。胃がほのかに熱くなった。二つの尻を追って千佳子の部屋へ上がる。
         †
 睦子が屈みこんで千佳子の股間を舐める。そうしながら突き上げた睦子の尻を後ろからさする。陰毛に覆われた割れ目が濡れそぼっている。
「こうするって、二人で相談したの?」
「この部屋に入って決めました。疲れてる郷さんがすぐ興奮できるように」
「興奮した。すぐできるよ」
 私の愛撫よりも睦子の愛撫は有効になるのに時間がかかるけれども、千佳子の高潮はおのずと訪れようとする。
「ムッちゃん、もうすぐよ、もうすぐ」
 私はゆっくり睦子に挿入する。
「う、神無月さん、好き、愛してる!」
 尻が持ち上がり、腹が引き締まる。膣が鼓動し、アクメの緊縛をしたとたん、
「ムッちゃん、イク!」
 千佳子の下腹が持ち上がって痙攣する。合わせるように睦子の尻が引き締まり、
「神無月さん、私もイキます、あああ、イックウウ!」
 硬直した尻を抱え、心ゆくまで痙攣させる。アクメがアクメを呼び、睦子は強く膣をうごめかせる。愛液が何筋も千佳子の股間のシーツに飛ぶ。睦子を仰向け、千佳子に挿し入れる。往復にかかると、
「あ、だめ、すぐイク! 神無月くん、イク! 好き好き、だれよりも愛してる」
 往復しつづける。誘うようにうねり、締めつけてくるので私にも急に迫る。
「出さないで、出さないで、すぐ抜いてください、きょうは危ないの、ムッちゃんに、ムッちゃんに、あああ愛してる、イク! イク!」
 直前に迫ったので、抜いて、仰臥している睦子に挿し入れ、唇を求め、吐き出す。ひさしぶりにえも言われぬ快感だ。
「睦子、とても気持ちいいよ」
 律動を繰り返す。
「ああ神無月さん、気持ちいいのね、とても気持ちいいのね、うれしい! 私もすごく気持ちいい、またイキます、イキます、イクイクイク! 好き好き、死ぬほど好き!」
 自分の陰阜に両手を置き、下腹を激しく上下させながら喉を絞る。
         †
 夕食で少し入れたビールが効いて、疲れがいちどきに出、まだみんなが食事中に菅野に則武まで送ってもらった。イネに抱かれた直人が殊勝についてきた。
「おとうちゃん、あしたげんきになる?」
「なるなる。心配しなくていいよ。ちゃんとお風呂入って、歯を磨いて寝なさい。お休み」
「うん、おやすみなさい」
 イネが、
「すぐ寝るんだよ。からだが限界なんだすけ」
「うん、ありがとう。直人とお風呂に入ってあげて」
「わがった。歯も磨いてけら」
「菅野さん、あしたも走るよ。きょうと同じコース」
「わかりました。たっぷり寝てください。あしたの朝無理なら、そのときに言ってくださいよ」
「了解。松葉会、よろしくね」
「アイアイサー」
 二階の寝室に上がり、倒れこむように寝た。


         百四十一

 六月十七日火曜日。五時起床。八時間熟睡した。口がねばついている。丁寧にうがいをする。猛烈な下痢便。毒素をすべて吐き出した感じ。すこぶる体調がいい。シャワー、歯磨き、洗髪。からだじゅうに石鹸を塗りたくる。爽やか!
 霧雨。十九・○度。替えたばかりの下着を濡らしたくないので、ジム部屋で汗をかかない程度に鍛練。ようやく六時。カズちゃんとメイ子が起きてきた。
「おはよう!」
「おはよう。だいじょうぶ?」
「健康そのもの!」
「ほんとにアルコールに弱いんだから。コップ三杯くらいでしょう?」
「疲れていらっしゃったんですよ」
「そうね、巨人三連戦のあとだものね。きょうも松葉会では控えないと」
「直人が送ってきたのには驚いたよ。泣きそうになった」
「三沢の国際ホテルね」
「うん……」
 カズちゃんがメイ子に説明する。
「神無月さんにもそういうころがあったんですね」
「恥ずかしながら―」
「きのうは夕飯食べてないのと同じだから、栄養満点の朝食を作るわよ」
 もう一度ジム部屋へいき、素振り百八十本、三種の神器五十回ずつ、倒立腕立て五回。
 音楽部屋にいき、睦子のジャズレコードを聴く。ヘレン・ヒュームズ。大正末期から昭和十年代にかけてのアメリカの女性ボーカリスト。ビリー・ホリデイを少し高調子にした声。ゼイ・レイディッド・ザ・ジョイント、マウンド・バイウー、ナッピー・ヘッディッド・ブルース、プリーズ・ドント・トーク・アバウト・ミー・ウェン・アイム・ゴーン。抒情は感じられないが、何とも言えずしみじみとする。好みの耳に直すために、ニール・セダカではなく、ポール・アンカのオー・キャロルを聴いてエンド。
 朝食ができ上がっている。おにぎり三種(オカカ昆布、大葉、味噌焼き)、ツナマヨチーズの卵焼き、切り干し大根、里芋と厚揚げの豚汁、これでじゅうぶん。
「メイ子ちゃん、きょうはお店よろしくね」
「はい、まかせてください。素ちゃんと協力してちゃんとやります」
 八時。菅野がやってくる。カズちゃんとメイ子は出かけていく。
 ランニングのあと、五百野の手入れ、恣意的に。十一時まで。
         †
 ビシッと着物を着こんだ主人がそわそわしている。
 女将も地味ながら高級そうな着物で決めている。菅野は濃紺の背広、カズちゃんも濃紺のセミロングのワンピースだった。私だけがラフなブレザー姿だ。
「郷くんも、ちゃんと背広を着てください」
 トモヨさんが濃紺のスーツを用意した。真っ白なワイシャツを着せられる。ワンタッチネクタイはしない。ソテツがコーヒーを持ってくる。千佳子たちは大学にでている。主人が菅野に、
「お土産は積んだ?」
「はい、女将さんの選んだ観葉植物二本、パキラとモンステラ、それから康男さんに贈る近江縮の甚平です」
 幣原が、
「月桂冠一斗樽と、キリンビール百本は先日送っておきました」
「よし。じゃ、コーヒー飲んだら出かけるか。トモヨ、留守頼んだぞ」
「はい、みなさんお酒を過ごさないように」
 菅野が、
「私は飲めません」
 私はソテツに、
「マジックペンと新品のバット一本お願い」
「はい」
 ソテツが持ってきたバットを膝に置き、主人に手もとを見つめられながら金釘流のサインをする。

 生動不退 神無月郷 牧原様へ S・44・6・17

 幣原が、
「ちょっと一周して見てきます」
 門へ出ていった。主人が、
「もうだいじょうぶやろ。川上監督がおとなしなったら、マスコミもうろつかんようになった。ありがたいわ」
 カズちゃんが、
「それだけ巨人中心に日本が動いてるということよ」
 幣原が戻ってきて、
「だいじょうぶです。人も車もいません」
 北村席の大半が門まで見送った。ハイエースの後部に観葉植物を積み、主人が助手席に座った。私二列目の二人掛けに座り、バットを膝の間に立てた。女将とカズちゃんは三列目に乗った。三十分も走れば松葉会に着く。康男やワカや光夫さんが出迎えるだろう。時田も一文字眉も出迎えるだろう。宇賀神もいるかもしれない。いずれにせよ内密の会合だ。派手な出迎えはしないはずだ。
「耕三さん、封筒は持った?」
 主人は胸を叩いた。上納を兼ねた謝礼金だろう。
「これはどうしても受け取ってもらう。世話になりっぱなしやと、かえってギクシャクした関係になる」
「民社党の政治家さんはこないわよね」
「こんな。秘書の宇賀神さんはくるやろ。秋月代議士と松葉会が神無月さんを永遠に後援することを約束するお披露目の式みたいなものやからな」
 出発する。太閤一丁目の信号を渡って、運河町へ。左折して六反に出、日置橋を渡り、中日球場前に出る。左折して山王通を進む。山王橋を渡り古渡町に出ると、右折して、あとは伏見通をひたすら南下する。
「松葉会の松葉というのは、どういう意味ですか」
 主人が、
「松葉会の前身は、関根賢ゆう人が作った関根組という戦前の土建屋です。これに藤田卯一郎とゆう人が作った藤田組が加わって、大きな組織になったんですよ。戦後GHQの命令で二組とも解散したあと、昭和二十八年に藤田さんがそれを統合して松葉会を結成しました。関根賢のむかしの親分やった河合徳三郎さんゆう人の家紋が松葉だったんで、松葉会と名付けたんです。松葉会ができてまだ十六年しか経っとりません」
「そうだったんですか」
 金山のガードをくぐる。菅野が、
「むかしふうの義俠色が濃い理由は、その藤田さんが右翼の大物児玉譽志夫との関係が深かったせいで政治結社として届け出て、それからずっと右寄りの政治家との結びつきの強い団体だったからですよ。昭和三十五年にその関係を批判した毎日新聞社を松葉会幹部と子分が大挙して襲撃したことで、行動派右翼として全国にその名を轟かせました」
「政治家と関係が濃いと言われただけのことで、プツンと切れるのは解せないなあ」
 菅野はごもっともというふうにうなずき、
「伏線があったんです。三十五年に藤田さんの奥さんが癌で亡くなって盛大な葬式をやったんですが、ズラーッと政治家からの花束が並んだ。それを批判されたので、葬式にケチをつけられたと思った藤田さんが頭にきたわけです。新聞社襲撃は二・二六事件以来二十何年ぶりかのことで、戦後では唯一の事件だったんです。それで松葉会の名が轟いたわけです。三年前に藤田さんが亡くなって、形式上は解散、いまは一時的に松友会という名前でやってますが、一般には相変わらず松葉会で通っています。近いうちにまた正式に松葉会と名乗ることになるんじゃないかな」
 西高蔵を通って旗屋町へ。目の前に熱田神宮の森。主人が、
「神無月さんは、松葉会名古屋支部、会顧問、牧原組組長の牧原さんに気に入られたということです。牧原さんは北関東大久保一家、浅丘組の組長でもあります」
「聞いたことがある。どこでだったかな。大阪の散歩のときだったかな。松葉会の人がガードしてくれて……」
「牧原さんはおそらく将来松葉会の大幹部になる人です。康男さんのお兄さんは現在牧原さんの相談役、康男さんはいずれ常任委員になるでしょう。いまの松葉会会長は、佐藤栄助、最高幹部の顧問は六人、相談役は六人、常任委員は十二人、構成員は三千三百人。山口組とは濃い親戚関係を結んでいます」
 詳しい説明が、主人と松葉会との親しい付き合いを髣髴とさせた。
 みささぎの坂道をくだると白鳥橋が見えてきた。左は本遠寺、右に曲がれば宮中だ。船方方面へ市電が渡っていく。その揺れる姿を眺めながら左折する。すぐ松葉会の建物が右手に見える。背広を着た五、六人の男たちが平屋の建物に沿って整列している。やはり慎ましい出迎えだ。門を通り過ぎるときに、ふと中を見ると、庭石の両脇にずらりと男たちが佇立していた。派手な出迎えだった! 通りにいた男の一人が走ってきて、ハイエースを会の駐車場に導いた。
「お疲れさんッス!」
 車のドアを開けてからだを直角に折る。ほかの男たちも走り寄ってからだをくの字に折る。菅野が観葉植物を取り出すのを手伝いながら、
「玄関に置いておきます!」
 二人の男が大事そうに持っていった。残りの男たちが私たち五人を挟みこむようにして門へいざなう。いっさい口は利かない。庭石へ踏みこむと、
「お疲れさんッス!」
 二十人ほどの組員たちが両側からいっせいに頭を下げた。玄関に、白い着物を着たワカと、黒背広に白ネクタイを締めた光夫さんと、康男と時田が立っている。そのすぐ後ろに宇賀神が立っていた。光夫さんの眼鏡がモダンな縁なしに替わっている。康男の煙るような目つきにするどさが増し、ますます魅力的なものになっていた。ガタイのいい時田は緊張してあごを引き、直立不動の姿勢をとっている。
「ようこそいらっしゃいまし!」
ワカに合わせてみんなでからだを折る。
「ようこそいらっしゃいまし!」
 ワカは私の手を握り、
「神無月くん、待ってたよ。二年ぶりだね。早く生身のきみに会いたかった。さ、みなさん、どうぞ、上がってください」
 康男と握手し、抱き合う。康男は私の背中をパンパンと音立てて叩く。ワカは男三人を、光男さんは女二人を土間に導く。
「宇賀神さん、キャンプ以来、いろいろとお世話をかけました」
「とんでもない。上から命じられた仕事です。当然のことをしたまでですよ。私個人としては楽しい仕事です。鬼神の奮迅ぶり、いつも胸躍らせて拝見しております。秋月先生がよろしくとのことでした。気の早い話ですが、名古屋市民栄誉賞を勘案しているとおっしゃっておりました。シーズンオフでしょうが、本決まりになりましたらお知らせいたします。私、きょうは宴席を中座させていただきますが、お気に留めませんように」
「忙しい身ですからね。こちらの四人は、北村席のご夫婦と長女の和子さん、それから副社長の菅野さんです」
「秋月一光の公設第一秘書、宇賀神道明と申します。向後ご昵懇のほどよろしくお願いいたします」
 丁寧に頭を下げ、私を除いた四人に名刺を配る。式台で十人ほどの男が横列して膝を折り平伏する。
「ご苦労さんッス!」
 右端に三人ほど中年の洋装の女がいる。二年前、あるいはトモヨさんときたときに会っている顔ではない。あれは組員の女房たちだった。
「ようこそいらっしゃいました」
 頭を下げながら、あらためて牧原の親族であることを名乗った。私はその場でワカに、
「これ、いつも使っているバットです。新品です。サインをしておきました」
「おお、ありがとう。生動不退、常に動く気配を保って退かずか、きびしさのある気高い言葉だ。ありがたくいただいておきます。七十九本。百号が近いね。オールスター前に達成の勢いだと聞いている。野球の概念が変わってしまったように思われるけれども、じつは変わっていない。数だけの変化だ。数を変える偉業はきみだけのものだ。このバットはガラスケースを誂(あつら)えて会式の間に飾ります。おい、きょうはこのバットを式部屋の床の間に立てておきなさい」
 平伏していた傍らの一人に命じる。
「へい!」
 男は立ち上がり、捧げ持って廊下を小走りに去った。
 女将が康男に、
「これ、ご帰還のお祝いです。麻縮みの甚平。暑いときに着てください。雪駄も入ってます」
 大きな紙袋を渡す。
「ありがとうス」
「これは何と言う木ですかね」
 ワカが菅野に尋く。
「こっちがパキラで、そっちがモンステラです」
 親族たちが土間に降りて眺める。ワカは、
「パキラを土間に、モンステラを廊下に、どちらも見映えがするように置いときなさい」
 と命じた。


         百四十二

 下足棚の上方に、二年前の記念写真が額に入れて飾ってあるのが目を引いた。ワカと光夫さんを前列の中心に据え、その背後に私と康男とカズちゃんが膝を立てている。さらにその後ろに屈強の男たちが立ち、角刈りの険相を崩して微笑んでいる。
 私たちが履き物を脱いで式台に上がったとたんに、一人の組員が手際よく揃える。式台の若衆全員が、廊下をいくワカの後ろを時田といっしょに追う。光夫さんが私たちを先導しながら、
「きょうは飲んで食べて、ゆっくりしていってください」 
 玄関の男たちの何人かが、康男を先頭に私たちのあとに随ってくる。玄関に残る組員もいる。微妙に階級があるのだろう。交替で徹夜の守衛もする彼らは宴席に加われない。康男がかすかに足を引きずっている。十四歳の師走。あれから五年半も経つ。二年前にここで会ったときも、わずかに跛行していた。深い傷だったのだ。思い出して胸が痛んだ。菅野が光夫さんに、
「私は運転手ですから、飲むのは遠慮しておきます」
「そうですか、運転ですか」
「はい、一杯が二杯になってしまうとまずいですから」
 主人が光夫さんに、
「寺田さん、これは菅野といって北村席の副社長です。神無月さんのスケジュールを管理するマネージャーもやっとります。それから、ホームランの景品等の管理。便利屋みたいなことばかりさせておるので、日ごろ心苦しく思っとります」
「しっかり序列は作らなくちゃいけません。ちゃんと運転手を雇うべきです。うちのを回しましょうか?」
 菅野は『北村席取締役副社長・神無月郷マネージャー』と印刷された名刺を差し出しながら、
「それには及びません。副社長もマネージャーも取ってつけた臨時の肩書ですよ。風俗業務のベテランになるには、もう四、五年かかります。マネージャーと言っても、神無月さん関係のちょっとしたイベント係です。いずれにしても、車の仕事は手離せません。私はもとタクシー運転手だったので、市内の地理に詳しいんです。それに、神無月さんを球場に送り迎えするのが生甲斐ですから」
 光夫さんは声立てて笑い、
「神無月くんの周りは奇人ばかりだなあ」
「いや、神無月さんに比べたらみんなふつうの人ですよ」
「ふつうでは神無月くんを面倒見切れないでしょう。ところで、和子お嬢さんが相変わらずきれいなのはさておいて、私がミカジメをいただきに上がっていたころから見ると、ご主人、奥さんともども若返りましたね。お嬢さんの原型が見えますよ」
「原型も何も、似ても似つきません。この子は鳶が鷹です」
 廊下のソファで五人暫時待たされた。鳳凰の刺繍を施した布貼りのソファは、すぐには次の行動が起こせないほど腰が沈んだ。それが松葉会の持つ権威の深度に感じられた。若衆の一人が私たちに腰を折り、
「どうぞお入りください」
 会食部屋に通される。すでに床の間に、サインを表に向けてバットが立ててある。十八畳の部屋が三つ開け放たれ、幅広のテーブルが二列、あいだを空けて貫いている。廊下で私たちの前と後ろを進んだ男たちが瞬く間にテーブルの前に整列し、
「ようこそ、いらっしゃいまし!」
 と声を揃えた。北村席の座敷と同じ広さの三間に、ドラゴンズベンチの三倍ほどの人数がいる。白髪頭や薄いサングラスもけっこう混じっている。黒スーツに白ワイシャツ、白いネクタイ、胸に代紋の小さなバッジ。紫の大布に染め抜いた一家紋を背に、牧原が上座の別テーブルにつき、両脇に光夫さんと康男、光夫さんの隣に宇賀神が坐った。それに合わせて全員が腰を下ろした。時田と一文字眉は、下座の私たち五人と向かい合うように坐った。二年前とちがって、肩にビデオカメラを担いだプロらしき男が、列の後尾から上座までを目立たないように動き回っている。がやがや和んでいるようだが、不思議な緊張感がある。この種の宴席を生れて初めて経験する菅野は、こぶしを膝に置き正座している。
 光夫さんが立ち上がり、眼鏡を押し上げ、
「ご一同さま、きょうは真っ昼間からお出向きいただきありがとうさんでした。ただいまよりささやかではございますが、牧原組と中村区竹橋町の北村席さまとの親睦の宴を催させていただきます。みなさんに集まってもらったのはほかでもありません。愚弟、寺田康男が東京浅草の任務を終えて戻ったことを名目に、名誉の客人を迎えることができたからであります。ご一同のほとんどが、きょうの客人には中学生のころから何度も会っております。いまや時代にときめき、その名を歴史に刻もうとしている中日ドラゴンズの外野手、神無月郷くんです。北村席さまは、その神無月くんの後援者であります」
 盛大な拍手。私は頭を下げた。
「神無月くんの神がかりの活躍は、みなさんもすでにご存知のところであります。きょう神無月くんにご来駕いただけたのは、彼が愚弟康男の小学校以来の親しい朋友であるという幸運、いや、まさに僥倖と呼んでも差し支えない交友関係によってもたらされたものであります。神無月くんが任俠道に長けた男の中の男であることに対して、今回はあえて説明を弄しません」
「知らんかったら、会のもぐりやで」
 康男の合いの手に、バーンといっせいに拍手と笑いが爆発する。光夫さんが康男をキッと睨みつけた。
「神無月くんを長年にわたり真心こめて支援している北村ご夫婦、長女の和子さん、神無月くんの日ごろの足を買って出ている北村席副社長の菅野さんもお迎えしました。大門から椿町にかけての牧原組の差配権は、北村席さまがその経営力によってライバルを駆逐してくれたおかげで確立したと言っていい。われわれが男の範と仰ぐ神無月くんを支援しているという意味でも、わが組に資する経済的な意味でも、牧原組は北村席さまにひとかたならぬお世話になっていることになります」
 またもや爆発的な拍手。私たち四人は深々と辞儀をした。
「したがってこの親睦は、組にとって重要な意味を持ちますが、二年前にも申し上げたとおり、神無月くんの社会的な立場も考慮して、この関係を公に知られることは厳禁であります。これからはこの種の会合は、極力控えようと思っております。恒例にすれば、かならずマスコミに嗅ぎつけられる。牧原組はがんらいテキヤすなわち露店場所代、カスリすなわちシマ内のミカジメ料の二つが主たる収入源で、ダフ屋すなわち入場券転売、プーヤすなわち野球賭博、盆すなわち開帳賭博、クスリなどを稼業としていないので、神無月くんに危害を与える恐れはないのですが、庶民は疑ってかかってアヤをつけてくるので厄介です。三十五年の毎日新聞カチコミの件がいまなお取り沙汰されるくらいだからね」
「あれはまちがっとらんかった!」
 奥のほうから声がかかった。
「そのとおりだ。義に基づいた行動も、暴力で一喝されるからね。そんなわけで、球場などのガードも隠密裏に行なっておりますが、その程度もさらに効率的に減じなければならないと考えます。たとえ神無月くんが個人的に危害を加えられることがあっても、みなさんは勝手に行動を起こしてはいかん。先月の暴漢騒ぎの際は、凶器を蹴り飛ばし、加減して撫でるだけでよく辛抱してくれた。神無月くんが意外な立ち回りの器用さを示して、暴漢を取り押さえたからよかったが、そうでなければわれわれが修羅場を演じていたと思われる。正当防衛として罪に問われないことはわかっておりますが、組の警備の事実が知れてしまう。それは神無月くんにとって致命傷になります」
 康男が、
「神無月は喧嘩が強いで、まんいちのときは、しばらく様子を見とってもだいじょうぶや」
 光夫さんは今度は康男を睨まなかった。時田が、
「神無月さんが危なくなったら、ひとまずそいつを加減して撫でて、その場から姿を消せばいいでしょう」
 ため息と笑いを誘う。光夫さんが、
「そうするしかないな。神無月くんも中日ドラゴンズも球界全体から見れば、ある意味一本独鈷の正義漢だ。正義漢は気が短いからね。短気を起こさないうちに時田の言うようにする必要があるかもしれん。ま、その後の様子を窺い見ると、これからはああいった事態は起こらないと思うが、くれぐれも自重してほしい」
「ウス!」
「それから、北村席さまの周囲の警戒もおさおさ怠りなくお願いしたい。特に、しつこい報道関係者の処理を穏便に行なうこと、また、あのあたりのシマを狙う矢場健組や卓美組といった大阪系の連中が、北村席さま経営の花屋(トルコのことらしい)に嫌がらせをしないように重々注意していただきたい。親戚どのである山口、住吉、稲川三組が、やつらを名古屋圏にはタッチさせないように睨んでおるので、安心して追っ払ってくれてけっこうです。さて、愚弟康男は今回、東京本部における一年間の任務を終えて牧原組に戻ってきました。内偵の結果、極東へ牧原組の内情をチンコロ(内通のことだな)していた人物を二人見つけた。その二人はケツを割る(逃げるということか)前につかまえて隠密裏に処分した。処分と言っても、殺(と)ったわけではない。少し痛めつけるだけで落とし前をつけた。極東へは処分の旨を伝えていない。向こうも捨て駒と思っているだろうから、うちに喧嘩を売ってきたり、大物をたれて(大口を叩くということにちがいない)くることはない。ところで、今回の内偵の手柄を考慮して、寺田康男は名古屋支部では若頭第五補佐の位に、時田要は舎弟頭第二補佐の位に上げることになった。どちらもまだまだ下っ端だが、よろしくお願いする」
「オース!」
「では、わが郷土出身、民社党国対委員長秋月先生の第一秘書である宇賀神氏より、ひとこといただきます。北村席のかたがた、端座の膝をあぐらに崩してください」
 宇賀神が立ち上がって礼をし、
「民社党秋月一光秘書、宇賀神道明でございます。かく麗しき友愛の会合にお招きいただき、心より感謝いたします。浅丘組ワカガシラ、正式には牧原組の親分の健勝と、松葉会牧原組浅丘組北関東大久保一家のますますの発展を祈念するとお伝えしたあと、神無月くんの元気な顔を見たら長居しないで帰ってこいと、先生から仰せつかっております。ビールの二、三杯も飲んだら、とっとと引き揚げます。―さて、秋月先生と松葉会との交誼は古きに遡りますが、私と神無月くんとの交誼は明石キャンプ以来の新しいものでございます。大の神無月ファンである先生は、神無月くんがプロとなると同時に、牧原組長と諮って同くんの身辺を警護することに決め、私とほかに数名のガードマンを明石に送りました。昼夜を問わず散歩癖のある神無月くんを警護するのには、かなり気疲れいたしましたが、追いかけ、車に乗せて警告するたびに、頭脳、人格ともにすぐれた神無月くんと充実した会話をするチャンスに恵まれ、それはそれは、まことに楽しいひとときをすごさせていただきました。正直、一発で神無月くんに惚れこんでしまったしだいです。その後、秋月先生も遊説等でお忙しくなり、全国の松葉会支部からのガードマン応援派遣などもあって、私どもは任を解かれましたが、少しさびしい思いをしたのは事実です。その神無月くんと牧原組若頭が、神無月くんおよび、彼のスポンサーであり牧原組と経済的親交の深い北村席さまと友愛の契りを結ぶとあって、さっそく駆けつけてまいりました。先生もこの縁(えにし)深く結び合っているお三方には、与うかぎりの援助をするにやぶさかではないとおっしゃっております。どうか末永きご親交をお願いいたします。着席させていただきます」
 またまた盛大な拍手。光夫さんが、
「じゃ、みんな、好きなように飲み食いして楽しんでくれ」
 康男が両手でワカにビールをついだ。あらためて康男の左手の小指がないことに気づいた。一文字眉が立ち上がり、
「それでは、乾杯のお声をお願いします。本日の佳(よ)き日に、乾杯!」
「カンパーイ!」
 全員座ったままコップを掲げた。主人がワカの前に静かに進み出て、膝を折り、
「これは上納金でもなければ貢物でもないですからね。羽衣、シャトー鯱も含め、無償で働いてくれているかたがたへの謝礼です。どうあっても受け取っていただきます」
 ワカは切れ長の目をくっきり見開き、
「わかりました。若衆どもにはかならず応分の手当てを配ります。ありがたく受け取らせていただきます」
 拝して受け取り、光夫さんに手渡した。光夫さんは若衆頭の一文字眉を呼びつけて手渡した。一文字眉は肩を揺すって廊下へ出ていった。
 ビール瓶と徳利と皿鉢が次々に運ばれてきた。赤飯の大きな重も配られる。時田が向かいの席からこちらの席にやってきて、私と主人にビールをついだ。コップを押さえた菅野と女二人にはつがなかった。着物を着た女たちがテーブルに混じった。十人と言わずいる。笑いが人工的だ。雇われた女たちにちがいない。


         百四十三

 私は時田に、
「康男はどのくらいの地位になるんですか?」
「親分の二十階級、兄貴の十階級ぐらい下ですね。これくらい大きな組織になりますと、一般組員の上に四十ぐらいの階級があります。規律と統率がすべてですから」
「芸能人を会合に呼ぶことはあるんですか?」
「ふつうの組は、組長の誕生会に有名どころを呼ぶのがふつうですが、親分はまったくやりません。きょうの女どもも近所の検番からきてもらいました。芸能人の名古屋公演のほとんどは、うちが仕切ってますが、やつらと飲み食いはしません。会いたい芸能人がいたら、連れてきますよ」
「御免こうむります」
「ですわな。この女神さんがいれば、ほかの女は目に入りませんわ」
 カズちゃんはしきりに箸を動かして、いつもの食欲を男たちの目に曝している。
「時田さんにはあちこちで世話になってますね。ほんとにありがとう」
「俺は親分やヤッさんと同様、神無月さんにぞっこん惚れてますから、何の苦労もありませんわ。親分も相当悩んどりましたよ。こういう会合は危険だとわかっていても、どうしても会いたくなると言っとりました。新聞は手ごわいし、素人さんが絡むと警察も強気に出てくるので心配なわけです。中日新聞なら、この種の報道は身贔屓で自粛するでしょうが、全国紙になると秋月先生も手を焼きます」
 上座から康男がやってきた。主人夫婦と菅野とカズちゃんに頭を下げる。
「神無月の面倒をみてもらって、ありがとさんです。会の者みんなが感謝しとります。こいつは強い人間やが、後ろ盾がないとさびしがって生きていけん男やで、北村さんのご支援のありがたさは身に沁みて感じとると思います。俺にしても神無月がおらんと生きていけんから、どれほどありがたいかわからん」
 カズちゃんが、
「私もよ、康男さん。キョウちゃんがいないと生きていけない人はたくさんいるわ。安心してね。面倒を見てるどころか、面倒を見られてると思ってる人たちばかりだから」
「ありがとさんです。何か困ったことがあったら、かならず親分に相談してください。ヤクザは世間のゴミみたいな存在やが、その世間でできることはけっこう多いで」
 主人に、それから私にビールをつぐ。
「むかしから見映えも中身もええ男やったが、危なっかしいところがあった。いまは周りも脇もしっかり固まって、何もかもキンピカになったな。まぶしいわ」
「ハハハ、おまえこそ格好いいよ。渋い美男子だ。足はまだ不便みたいだね」
「走る商売やないから、ふつうに歩けりゃ問題ない。ケロイドもそれほどグロくなくなったで、風呂に入るのも鬱陶しくない。……憶えとるか、尾鷲の婆さん」
「うん、もちろん。牛巻病院で最初に遇った人だ」
「あの婆さんがな、俺が危篤のとき、おまえが泣きながら俺の名前を呼んどったゆう話をようしてな、いまでもそれを思い出すたびに、泣けて仕方ないんや」
 目頭を押さえる。私も涙をこらえ、
「……お母さんは元気か」
「兄貴に家を建ててもらって、男と住んどるわ。あのときとは別の男や。チビデブの禿げやが、ええやつでな、弟もかわいがってくれよる。おふくろもすっかり落ち着いた。弟はその家から熱田高校にかよっとる」
「優秀だね、兄たちに似て」
「冗談言うなや。兄貴はピンやが、俺はキリや。熱田高校で真ん中へんの成績らしいわ。大学いきたい言っとる。愛大でも名城大でも、どこでもいかしたる」
 男たちがビールを捧げ持ってきて、康男につぐ。二人、三人、色紙を持ってきたので文江サインをした。松坂屋で買ったという神無月シャツにサインを求める者もいる。
「弟はおまえのことをよう話す。正月に俺のアパートに遊びにきて、お年玉でおごろう思ってきたと言った、俺がヤケドをして死にかかってとると聞いて、だれにやられたて怒鳴っておとろしい顔した、金井って教えたったら目ん玉飛び出しそうな顔して走り出していった、弟の口癖や」
 カズちゃんが、
「そのまま病院まで走ったのよ。牛巻病院がどこにあるかも知らないで」
「知っとる。ようたどり着いたわ。犬みたいなやっちゃ。金井がわざとやったんやない。金井が焚き火にシンナーぶっかけたら、バーン爆発して、俺のズボンに引火したんや。弟も知っとるくせに、いまだに金井を怨んどる」
 私は北村席の四人に、
「金井には、二年生のときにヤキを入れたんだよ。それで金井は康男の子分になったんだ」
「おまえバットむちゃくちゃ振り回して、おそがかったわ」
「夜の神宮公園だったね。金井の子分たちを何人もバットで殴った。結局康男が金井を殴り倒して、ぼくが腹に蹴りを入れた。あんなやつと仲良く焚き火なんかしてなければ―」
「そう言うな、舎弟はかわいがらんとあかんのや。……勉強ができて、野球ができて、人情に篤くて、ああいう人になりたいて、弟はがんばりだしたんや。あの人がいまバンバンホームラン打っとるて、弟は大喜びや」
 主人が、
「兄弟孝行の話を聴くのはいいものですなあ。ワシも妻(さい)も学はないですが、和子を椙山にやりました。親の目から見ても優秀でしたから。優秀な子はまず大学にやるにかぎる。中退でも卒業でも、最高学府というのを経験したほうがええ。世界が広がる」
 カズちゃんが、
「弟さんはヤクザになる気はないんでしょう?」
「そうやな。野良をつく器やないし」
 私は、
「野良をつくって?」
「ヤクザになるゆうことや」
 カズちゃんが、 
「器があるということは、最初から広い世界を持ってるということなのよ。ここにいる人たちみたいにね。そういう人はつまらない学歴なんか必要ないけど、勉強ができるぐらいの器しかないなら、学校の階段を昇るのがいちばんね」
 時田が、
「おもしろい意見ですな。神無月さんは中学生のとき、親分に同じような説教をされとりました。お母さんに反抗しなかったというのは、ほんとは野球が好きじゃないんじゃないか、きみには勉強してこつこつ人生を歩むのが向いてるとね。去年、親分は、自分の眼鏡ちがいやったと神無月さんに謝っとったが、ヤッさんの弟さんも勉強以外の能があるのとちがうか?」
「ないな。気持ちのやさしい男やが、人間として目立ったところはない。無事に結婚するまで見守ったらんとな」
 時田のまくったワイシャツの前腕部にチラリと刺青が覗いた。
「組員は刺青をすることになってるんですか」
「神無月さんはヤクザ相手に訊きにくいことを簡単に訊きますね。ふつうは、そんな質問をしたら、なんやとバカ素人が、殺すぞ、って睨まれてチョンですよ。根っから怖いものがないんですねェ。オトコだ。―刺青をするには理由があるんです。強制じゃないですが、三下以外のほとんど全員が背中や腕や胸に彫ってます。裏街道をいく覚悟や、裏社会に対する忠誠を表わしとるんです」
 康男が、
「たいていのやつは鯉か竜か観音様やが、俺は背中と二の腕に金太郎や。おまえが金太郎と呼ばれとるのを知ってから彫った。浅草の彫り師にやってもらった。週に二日、一日三時間、七カ月かかった」
「ヤッさんは根性ありますからね。ワシは両腕に桜です。親分と寺田執行は背中と二の腕に昇り竜です。デザインはちがいますがね」
「神無月には死ぬときまで見せんぞ。むかし話をしながら死ぬときまでな。裏街道に忠誠を誓うのといっしょに、おまえへの忠誠も彫りこんだんや。そのモンモンを一生背負っとったゆう証拠は俺が死ぬときに見てくれ。てめえの信念は隠し通して最後に見せるゆうところに、刺青の美学があるんや」
 時田が大きくうなずいた。北村一家はキョトンとした顔で聞いていた。
 宇賀神が上座で頭を下げたあと、私たちの席にやってきて、
「それじゃ、きょうはこれで失礼します。何かの折があるときに、またお会いできるでしょう。市民栄誉賞のことを心に懸けておいてください。たぶん、年末です」
 と辞儀をして廊下へ出ていった。私は康男に、
「むかし話……むかしというのは、なつかしい愛すべき時間だね。康男と歩いた東海橋までの夜の道はもちろん、半年前の明石のキャンプもなつかしい。ぼくはむかしを忘れないようにして生きてる。よく、むかしのことは忘れろという人がいるよね。何のために日付が変わると思ってる、忘れるためだってね。きのうのことはきのうのこと、きょうのことはきょうのこと、そんなふうにぼくは生きられないし、実際そんなふうに生きてる人間もいないと思う。いたら、こんな会合だって催されないはずだ。きのうもきょうも区別はない。愛する者に対するきょうまでの忠誠を忘れない証拠をからだに彫りつけるのは、重たい信念だね。ゆるぎなく美しい。ぼくの愛する者への忠誠の証拠は……全力でしゃべる言葉だ。それが美しい信念の証拠になるかどうかわからない。言葉は中空に消えてしまうから。美しい響きを聴く人の耳に残したいと念じてるけどね。むかし話はいちばん美しい愛情の響きを持ってる。その響きをだれにもじゃまされずに聴いている至福のときに、康男の刺青を見せてもらうよ」
 菅野が膝を叩き、
「これが神無月さんの言葉です」
 康男がうなずき、
「言葉のレベルが俺たちよりも何段も高いんや。小学校のときからそうやった。神無月と話しとると、自分の人間のレベルが上がったような気になる。たしかに、むかし話をすると馬鹿にするやつが多いからな。頭にくるで」
 時田が、
「神無月さんの話を聞いてると、むかしを大事にする気持ちが固まりますね」
「任俠道というのは、むかしの義理人情を忘れん気持ちを、いまに活かすことや。むかしを忘れんキンピカの神無月を彫りこんだのも、そういう覚悟からや。前ばっか向いとると、いまふうの金金金のサラリーマンヤクザになってまう。神無月、親分のところにいってこい。話したくてウズウズしとるみたいやぞ。こっちばっか見とる」
「ぼくも話をしたい」
「いってらっしゃいな」
「いってらっしゃい」
 女将とカズちゃんが言う。私は立ち上がって、上座にいった。
「おお、神無月くん、キラキラしているね。きみに会いたくて、きのう二度も北村席さんに電話してしまった。何時にくるか、何時にくるかってね。ま、一杯」
 自分の膳の盃を取って差し出す。私は受け取り、酒をつがれた。
「ちょうだいします」
 含んだ。盃を返す。
「ありがとうございました」
 両手で返すのか片手で返すのか、返盃の作法を知らないので、片手で返してワカが受け取った盃に酒をつぎ返した。光夫さんを見ると、それでいいというふうに微笑んでいる。
「あこがれの人なので、緊張します」
「何を言いますか。あこがれとるのは私ですよ。私だけではない。神無月郷は日本国民のあこがれの人です」
「照れくさいです」
「事実だから受け入れなさい。立場上、忙しくてなかなか家に落ち着いていられないんだが、夜ここにいるときはかならず野球中継を観る。きみの晴れがましい姿を見て、舎弟たちと大喜びするんですよ。しかしね、画面に大写しになるきみの顔を見るたびに、私は心配で仕方なくなる。きみの目の底にあるさびしさです。醒めているというのじゃない。どんなに持ち上げられても、有頂天にならない、いや、なれない。……いつもさびしい気持ちでいるという目をしている。きみをさびしい気持ちにさせるのは、たぶん万能とも言える恵まれすぎている才能です。その明らかな才能を疑われ、認められるまでの苦しかった道のりを忘れられないんですね。私も一役買ったことがあるのをすまなく思っている」
 私は笑い、
「ちがいます。あのころはたしかに、女に夢中になっていて、真剣に野球に入れこんでいませんでした。……ぼくはさびしくありません。人のすばらしさに感動して盛り上がるのに、それを人にうまく伝えられないんです。うれしくて仕方ないときも、笑っているだけです。きょうお訪ねしたのも、長いあいだ心待ちにしていたことです。念願かなってこの場にいるのに、はしゃげない」
「……うん、私も同じだ。はしゃげない気質でね。まあ、私には親分らしいてらいがある分、人から見たらよほどさびしい雰囲気は薄れるが、きみにはまったくてらいがない。それでさびしい感じが引き立つのかもしれないね。握手」
 私は笑って手を差し出した。ワカも笑ってギチッと握手した。光夫さんが、
「親分、神無月くんはヤクザが合っていたかもしれませんよ」
「うん、私もあの暴漢事件があってからそう思うようになった。静かで、判断力があって、実行力もある」
「とは言っても、ヤクザと野球選手は両立せんでしょう。どういうものですかね」
「ヤクザだったらハナから野球をさせてもらえないよ。それに、ヤクザは世間に遠そうでいて、じつは近すぎる。基本は寄生虫だからね。人間としての哲学が貧弱だ。神無月くんは、持ち前の豊かな哲学で、いずれ、ものを書きだす。それが将来の適所だ」
「身に余る言葉です。……ぶしつけなお願いで心苦しいんですが、来年明けてしばらくして、女性の友人が内田橋を渡ってすぐのところにバーを開業する予定なんです」
「ふん、ふん、みなまで言わなくていいよ。面倒のないようにしてあげよう。安心しなさい」
「ありがとうございます。年明けに本人からあらためてお頼みの連絡があると思います」
「はいはい。神無月くんはいつも人のために骨を折ってるね。バット職人の件もそうだった。命懸けで怒ってた」
「彼らにはその何倍も骨を折ってもらってます。そのことへのいくばくかの感謝の気持ちです。こうしてお頼みしただけで、何の得もないのにそれに報いてくださる牧原さんにお礼の申し上げようもございません」
「……俠(おとこ)だね。きょうも別れがたいな。ほら、ヤスが待ってるよ。いってあげなさい」
 まるでキャッチボールだ。私は辞儀をして、もとの席に戻った。


         百四十四

 ビールが清酒に切り替わり、飲み、食い、会話の声が高くなる。手伝い役の女たちが料理皿や燗酒やオシボリを運びこみ、きれいに片づいた皿を運び去る。ダミ声や甲高い声の中でタバコの煙が上がる。主人や菅野もうまそうにくゆらしている。ごつい指輪を光らせた指をひねって大きな灰皿の真ん中で煙草を揉み消し、その指に箸を持って赤飯をつまみ、皿のものをつまみながら酒を含む。私と視線が合うと、即座に頭を下げる。見かけの慇懃さとは裏腹に、幾人もの敵をいたぶってきた無軌道さがにおう。人をふるえ上がらせずにはおかないにおいだ。
 ワカの身内の洋装の三人の女が、明るい縁側の引き戸の前にカラオケセットを準備する。列に混じって酌をするのは着物姿のコンパニオンだ。その女たちが一人ひとりカラオケの前に立ち、順繰り歌を唄いはじめた。下手くそな女もいれば、うまい女もいる。
 男たちも飛び入りをする。だれもかれも抑えた遠慮がちな唄い方だが、耳を傾けると例外なくうまいとわかる。歌の上手な人間しか唄わないようだ。しっとり抒情的な歌ばかり唄う。耳に心地よい。しきりに飲み食いしている一文字眉が、
「神無月さん、きょうも一曲お願いしますよ」
 オーと同調の歓声が上がる。上座の面々も拍手している。女将が、
「神無月さん、唄ってあげてや」
 カズちゃんもうなずく。菅野がすでに眼を潤ませている。時田がそれを見て、
「わかります。あの声を思い出しただけで泣けますよ」
 主人が、
「神無月さんの歌は絶品です」
 康男が、
「東海橋までおまえと歩いたとき、よう唄ったのは俺のほうやったがな」
「うん、二年前は康男のオハコの十字路を唄ったね。小林旭の」
「ほうやったな」
「きょうは裕次郎を唄う。これで括弧閉じだ。しばらく会えなくなるからね。菅野さん、裕次郎の『世界を賭ける恋』をお願いします」
「ほいきた」
 菅野は機械をいじりにいった。探し当て、ボタンを押す。私はマイクを持って、礼をし、拍手を浴びる。
「歌い終わるまで、拍手はいっさいなしでお願いします」
「オース!」
 前奏が流れはじめる。

  さびしさの谷 涙の谷を
  越えてゆくのさ 男じゃないか
  胸に焼きつく 面影の
  いとしさゆえに 燃える空
  アンカレッジよ アラスカよ

  セーヌの流れ モンマルトルも
  いつか二人で くる日の誓い
  せめてオスロの 火祭りに
  踊り明かして きみに書く
  便り切ない 旅の宿
  
  世界を賭ける恋 なぜ哀し
  泣いて待ってた 羽田の海よ
  愛のカレンダー 消しかねて
  きみは遥かな 空の果て
  呼べど応えぬ 星明り

 ふたたび礼をする。マイクを戻す。まったくの静寂だ。ワカが白い着物の袖からハンカチを出して目を拭うと、おもむろに立ち上がり、私のそばへゆっくり寄ってきて、きつく肩を抱いた。
「あの病院の夜の路に立っていたきみと、寸分もたがわないきみが唄っていた。きみという人間に打たれます。ひたすら同じ姿で立ちつづける人だ。その人が人間の本質を語り、ボールを遠くへ打ち、澄みわたった声で唄う。奇跡そのものだ。きみに会えたことに感謝します」
 座敷を揺るがす拍手がやってきた。ワシにも抱かせてください、俺にも、と言いながら何人もの男たちがやってきて私を抱き締めた。抱擁のタイミングを失った男たちは固い握手をした。カズちゃんがハンカチで目を覆っていた。康男が座に戻ったワカの前に進み出て、畳に手をつき何も言わずに頭を下げた。それから私に向かって、
「俺の命、おまえにやるでな。好きに使え。使いたいときは、親分に言え。親分に預けた命だでな」
 と笑った。私は男たちと抱擁や握手を繰り返しながら、ようやくもとのテーブルにつき、女将にビールをつがれた。
「よかったよ、神無月さん。部屋中にこだまするようやった。耕三さん、泣いとったわ」
 菅野が、
「もう、涙も鼻も出っぱなしですよ」
 カズちゃんが、
「声が光みたいに燦々と降り注いだのよ。ふるえが止まらなかった。いつまでも生きていてね。愛してるわ」
 時田が横合いから私の手を握り、
「よければ俺の命も使ってください。あすをも知れん命ですが」
 光夫さんが直立して、私に深く辞儀をした。廊下から洋装の女が二人やってきて、私たちの背中に座った。さっきの三人とは別の女だった。
「おう、姐(あね)さん」
 時田が言うと、周りの男たちがざわめき、
「おアネエさん」
「姐さん」
 と声をかけながら、直角の辞儀をして席を空けようとした。
「気を使わないの」
 主人たちが気づき、振り向いて挨拶した。ワカが上座から、
「母と妻です」
 と声を投げた。
「牧原の妻でございます。一度お会いしてお礼を申し上げようと思っておりました。駅裏の差配をまかせていただいてからは、苦しかった一家の台所が助かっております」
 女房は、ピンクの袖なしワンピースを着、ポニーテールをタボにまとめて真珠の首飾りを垂らし、眉と口紅を濃く引いている。小肥りの母親は、ラメの入った黒いゆったりしたスカートを穿き、薄化粧、やはり真珠の首飾りをしていた。主人が、
「いや、心添えをちょうだいしているのはこちらのほうでして、ミカジメも相場以下のものしか受け取っていただけません」
 女房が、
「大店二軒、お仲間のお店、大門一帯の差配権をいただいたとなると、相当な実入りになるんです。ほんとにありがとうございます」
 ふつうの主婦とちがった雰囲気の二人の女が、もう一度主人夫婦に平伏した。
「もったいない、お手を上げてください。頭を下げる相手がちがいます。ワシらは神無月さんについてきただけの金魚の糞ですよ」
「神無月さんのお声を聴いておりました。神さまの声。野球界に冠たる選手のうえに、あのお声。神無月さんに、表立って頭を下げる程度の世間の作法は通じないでしょう。そんな意味で頭を下げたのじゃありません。下げる意味のちがう頭は下げようがありませんよ。心の中でしっかり下げさせていただいたとおりに下げさせていただきました。できれば夫のように抱き締めたい気もしますが、生身のからだですので、女がそれをすればはしたないことになります。お見受けしたところ、神無月さんは天衣無縫、ここにいる若衆たちも横目に見ながらその人間性におのずと頭が下がるということで、神無月さんをお抱きできなかった内気な者たちの気持ちをじゅうぶん納得いただければと思います」
 牧原の母親が、
「北村さん、金魚の糞などと、ご謙遜はいけません。いつもつかず離れずに、神無月さんを柔らかく支えてらっしゃるというならわかりますけどね。私どもは神無月さんとつかず離れずというわけにはまいりませんので、遠くからしかお守りできませんが、お宅さまたちを見習って、怠りなくしっかりとお守りしますよ。それではきょうはごゆっくり」
 二人深く辞儀をして去っていった。
 大皿に盛られた中華風の料理が新たに運ばれてきた。酒とビールも追加される。カラオケがふたたび始まり、主人も、カズちゃんも、菅野も、女将までも駆り出された。主人は兄弟仁義、女将は涙の連絡船、カズちゃんは白いブランコ、菅野は節回しの難しい長崎は今日も雨だったを歌った。その間に私はきょうの栄養をつけた。ビールは一本ほど飲んだ。ビールをつぎにきた五、六人の男たちと話をした。
「才能がたくさんあるというのは、どういう気持ちのものですか」
「それで忙しい目に遭わなければ、楽しいものです」
「あのおふくろさんとは連絡をとってるんですか」
「いえ、とんと。……五年前、パトカーがきた夜、あの場にいらっしゃったんですね」
「おりました。忘れられません」
 オールバックの男が、
「わが子の出世を喜ばん親と連絡とるわけないやろ」
「近づく努力はしました」
「プロ野球選手としてホームラン街道を突っ走っとることは、ご存知なんやろう」
「たぶん。飯場には野球好きの社員がたくさんいますから」
「それでまた、なんでおふくろさんは―」
「理解できません」
 白髪の男が、
「海よりも深い母の恩と言いますが、あのかたは……あれは驚きました。恩のカケラも感じさせなかったので」
 中年の男が、
「海より深い恩をくれとるのは神無月さんだよ」
 白髪が中年にうなずく。オールバックの男が、
「あのセン公、いてまいたかったな」
 母と浅野が警官を引き連れてきたあの夜のことは、彼らによほど印象深かったのだ。
「母の話をすると、砂漠に放り出されたような気になります。大上段がなく一定の感情しかない人なので、平坦な砂漠を思い出させるんです。愛情や友情というのはわざとらしさや大上段の積み重ねです。それができない人は、少しずつ愛情から遠ざかり、友情を忘れます。ヤクザ組織も同じです。義理人情というのは、大上段の最たるものです。常に口に出していたり、考えていたりしなければいけませんし、相手が女なら、愛をいつも口に出していなければなりません。そうしているうちにそれが自然なものになります。あなたたちのコワモテも、大上段の一種です。最初は〈ふり〉から始まって、いまではそれが身についてしまったはずです」
 何人か激しく拍手した。
「俺たちのドスは単なる気質のもので、大上段というほど上等なものじゃねえんですよ。しかし日本人は大上段を嫌いますな」
「大上段のない人間は動物です。非人間的で、人としての暖かい血が流れていると思えない。そんな人が死んだとしても、現実味がありません。砂漠に生命を感じないのといっしょです」
 三十代の若い組員が、
「小川の背面投げは、これからもやるんですか」
「下品だからやめるように、大らかな性質と才能に似合わない、と水原監督に言われました。あの二回だけで封印されると思います。あんなことをしなくても、彼には威力のあるスピードボールと変化球があるんです。王にいきすぎた苦手意識を持ってるので、どんなことでも試してみたかったんでしょう。結局三振とセンターフライに打ち取ってますから、背面投球は成功だったんですけどね」
 カラオケが一とおり終わると、堀川の筏職人の木遣歌の合唱、伝馬町の検番から呼んだ芸者連の踊りにたっぷり時間がかけられ、光夫さんのギター、それから、閉会の手短な言葉へと進み、いよいよ宴の終わりがやってきた。最後に記念写真を三十分ほどもかけて撮るころには、縁側の外がとっぷりと暮れかかっていた。コーヒーとアイスクリームがすむと、ワカが立ち上がり、組員全員も立ち上がった。
「人の世界は、つまり人の言動はだいたい予想できる。この世には予想もできない世界を運んでくる人がいる。みんな、その世界に浸って楽しんでくれたか」
「オーィ!」
「この世界と別れるのはまことにつらい。しかし、人に未練を持つのはいいが、世界に未練を持ってはいかん。世界はそのたびに作られるが、人は変わらない。変わらない神無月くんにまた会える機会を楽しみに待とう。待てばかならず会える。それまで神無月くんが無事に暮らせるよう尽力してくれ。北村の娘さんは、神無月くんのことを心臓とおっしゃっている。神無月くんが無事に暮らせないと自分が死んでしまうということだ。ヤスにとっても、われわれにとっても同じだ。まず、神無月くんと知り合いだということを決して口外しないこと。彼に対する迫害者を、それは野球賭博に関係する輩も含むが、表立たずに処理すること。彼の身辺を護る人たちをきっちり護ること。ガサ入れを除いては、この建物の玄関から神無月くんに関係する以外の素人さんを入れないこと。わかったな」
「へいィ!」


         百四十五

 光夫さんが、
「牧原組北村席親睦会、〆の音頭を若衆頭中野タカシにとっていただきます」
 一文字眉の名前が五年目にしてやっとわかった。中野はワカのほうを向き、
「ご指名をいただき、僭越ながら、一本締めで〆させていただきます。親分、本日はよき懇親会を催していただき、まことにありがとうございました」
 組員いっせいに礼。最後までビデオカメラが回りつづける。
「ふだんの親睦会で経験できない、さまざまな文句や、会話や、歌謡、民謡、日舞、執行のギター等に感激し、さらには親分の人を思う衷情にいまさらながら驚き、言葉が適切でないかもしれませんが、自分がヤクザ者であることをしばし忘れる数時間をすごさせていただきました。北村席、ならびに、常勝ドラゴンズの象徴である大天才神無月郷選手との交誼の催しごとが、かように和気藹々とした歓談と食事のうちに執り行われたことを心から慶び祝うものであります。それでは、初代牧原組のますますのいやさかを祈念いたしまして、一本〆、お手を拝借いたします。ヨオオ!」
 パパパン、パパパン、パパパン、パン!
「ありがとうございました!」
「ヨース!」
「オーシ!」
 全員でワカに最敬礼をした。ワカも頭を下げた。彼らは天才なのか。カズちゃんの言うように、なんと器の大きい人たちだろう。
 玄関でもう一度、康男と抱き合い、ワカや光夫さんや幹部組員たちと握手をした。時田も力強く手を握りながら、
「あさってから中日球場に詰めます。安心して野球をしてください」
 牧原の女房と母親の手から、箱詰めの土産が手渡される。女房が、
「有田焼の料理皿とコーヒーカップです。使ってください。きょうは目が覚めるような広い世界を拝見させていただきました。ありがとうございました」
 母親が、
「神無月さん、いつも一家で応援しております。たくさんホームランを打ってください」
 ワカが、
「きみは口舌には尽くせないすばらしい人だ。いつも見守っていますよ。人間として、もちろん野球選手としてもね。また会えるチャンスを心から待ち望んでいます」
 駐車場まで男たち総出で見送られた。康男が、
「よほど困ったとき以外は連絡するんじゃねえぞ。俺はずっとここにおるで。自分でどうにかできんときは、親分に相談しろ。揉めごとは俺と手下(てか)が出張っていって片づける。政治屋さんの力が必要なときは、それなりの方法をとる。元気で野球をやれよ。北村のみなさん、和子さん、神無月のことを末永くよろしくお願いします」
 深々と頭を下げた。四人も頭を下げた。光夫さんが、
「あなたのおかげで、うちの組に太い芯が入りました。ユーモアというやつかもしれません。あなたはどこへいっても革命児です。これからも康男をよろしくお願いします」
 ハイエースに乗りこみ、彼らに辞儀をした。ワカの白い着物が折り目正しく辞儀をした。それに倣って、全員がからだを折った。
 会の建物の前、道の両側に、組員が並んで頭を下げていた。隠れようもなく派手な見送りになった。時田が一人だけ顔を上げ、さびしそうに胸の前で手を振った。
 神宮の小暗い杜が目に涼しい。この杜を目指すときと、通り過ぎるときと―。
「どこにいても、神無月さんは同じだなあ。まったく溶けこんでる。一瞬、組長にも見えましたよ」
 菅野が言った。主人が、
「下にも置かない扱いをヤクザから受ける人や。彼らにも組長に見えたやろ」
 カズちゃんが、
「溶けこむために生れてきた人だから。みんなキョウちゃんがいることに気づいて、あらためてびっくりするの」
 女将が、
「神さまやもの、あたりまえやわ。姿は見えん。……あの親分さんは、えらい人や。ミカジメだけで一家を養っとる。賭博も、売春も、クスリもやらん」
「月光仮面みたいな人やから、タチの悪い組へ相当カチコミを入れとるようやけどな。あの人に潰された組は三つ、四つやないで。大門からも二つ消えた」
 菅野が、
「上に山口組がついてるのが大きいです。でもそれを悪用しようとしない。立派です。組員たちも幸せでしょう」
「光夫さんのギターをひさしぶりに聴けた。うれしかった」
 主人が、
「木遣あり、踊りあり、盛りだくさんで楽しかったな」
「すごいギターだったわね。山口さんよりも荒々しくて、ちがう魅力があった。二人を足し算したら、世界ナンバーワンじゃないかしら。そうそう、おかあさん、あの女傑二人に比べてホンワカしてて、すてきだったわよ」
「へんな褒め方せんといて。私はああいう貫禄ほしいわ」
「社長、クラウンが路面から少し突き上げがくるようになりましたよ。スプリングが弱ってますね。修理に出しましょう」
「思い切って買い換えたらどうや」
 カズちゃんが、
「私もクラウンに買い換えようかな。紺のクラウン」
 主人が、
「あしたディーラーに連絡しとくわ」
 街がすっかり夜の顔だ。それを見つめるカズちゃんの横顔。カズちゃんがいるのがうれしい。私が涙を流すためには彼女の胸が必要だ。ほかの女の胸では泣けない。彼女の胸に頭を預ける自分を想像する。

 食傷した
 金言に
 女体に
 毀誉褒貶に
 哲学に
 喜怒哀楽に
 この世のすべての営みに
 悟られてはならない
 愛しているから

 カズちゃんが彼女と同じ窓を見つめる私の視線に気づいて、肩を抱き寄せる。女将が、
「赤ちゃんみたいやな。かわいらしいこと」
 菅野が、
「別の意味でヤクザをふるえ上がらす男も、お嬢さんにかかったら形無しですね」
「グニャグニャは私よ。愛してるわ。さ、きょうは五日間の精進落としをしてもらわないと。うんと私を食べてね」
「うん!」
 元気よく返事をした。
 食傷した―それが何になる。金言にうなずき、女体に触れ、毀誉褒貶に一喜一憂し、哲学に感嘆し、喜怒哀楽に生きている実感を覚え、この世のすべての営みに視線を注ぐ。忘れないように。
 主人が、
「あの家に、子ォの姿が見えんかったな」
 女将が、
「危ない仕事やから、子は作れんのとちがうやろか。出入りでいつ命を落とすともかぎらんからな」
 主人が、
「子ォはおるやろ。あれだけ配下もおるんやから、けっこうおるはずや。ああいう場所に顔を出させんようにしとるんやな。特にあの家にな」
 私は、
「出入りも危険だけど、商売も危険なんでしょう? やっぱり、ミカジメだけじゃ、あれだけの配下を養っていけないと思います。菅野さん、ヤクザってどういう商売をしてるんですか」
 菅野はしばらく思案して、
「社長の言うとおり、牧原組はミカジメと上納金が主だと思います。それでも数千万単位の実入りでしょう。山口組・住吉会・稲川会系は武闘派ですから、屋台(テキヤ)はやりません。ふつうの組は、三下ヤクザに多少は汚いこともさせてるでしょうね。たとえば、美人局(つつもたせ)、地上げ屋、立ち退かせ屋、ブルーフィルム。牧原さんの性格からして、そういったカタギ相手のあくどいことはしてないでしょう。やるとするなら、企業相手の器機のリース、産廃処理、用心棒、総会屋、盆の形をとらない遊び人相手の賭場経営、麻雀屋とかビリヤードとかね。それから競馬競輪のノミ屋ぐらいですかね。風俗店の経営や土建業はやってないようです。クスリをやらなければ、どれもこれも莫大な資金源にはなりません。まっとうな商売をやってると言えるんじゃないですか。あのかたは大人物です」
 主人が、
「ほんとによろず博士やな、菅ちゃんは」
「神無月さん、あしたは朝方雨だそうですよ。走らないでしょう?」
「ひさしぶりに、合羽着て走りましょう」
「あ、わかりました。どのあたりにしますか」
「いつもの椿神社から日赤。あそこがいちばん遠出でないので安心します。菅野さんの午前の送りが終わったあとにしましょう」
「アイアイサー」
         †
 六月十八日水曜日。カズちゃんの寝室で八時までゆっくり眠った。抱き合って寝たカズちゃんの姿はなかった。シャワーを浴びる。
 台所のテーブルにキッチンパラソルがかぶせてある。めしを食う前に二階の机部屋にいく。椅子に座り、完成寸前の五百野の原稿用紙を見つめる。カーテンを開ける。かなり強い雨が窓に降りつけている。薄い光が紙の表面を照らす。
 自転車屋の項から手入れにとりかかる。登場人物の描写に精緻さのないことが目につき捗(はかど)らない。
 ―父はいまごろ、どこでどうしているだろう。あの太ったサトコは?
 父もサトコも悖(はい)徳の人間ではない。一対のほかの多情を嫌い、二人きりで励まし合い助け合い、慎ましく仲良く暮らしているにちがいない。新聞を読んで私のことを知ったとしても、連絡はしてこないだろう。母への遠慮からではなく、私を捨てたという罪の意識から。そう言えば、父やサトコは無論のこと、あの数年で親しくなっただれもハガキすらよこさない。ひろゆきちゃんも、さぶちゃんも、成田くんも、柴山くんも……。
 私はハガキなどでお茶を濁さず、居どころを知らない成田くんを除けば、ことごとく訪ねていった。彼らは私の居どころを知っている。中日ドラゴンズという私の居どころを。だから、連絡したり会いにきたりしないのは、とりたてて関心もなくなつかしくもない人間がたまたま有名になったからといって、物欲しげに近づこうとする自分を腑甲斐なく思うからにちがいない。あるいは、利を求めて近づこうとしているのではないかというへたな詮索をされたくないからだろう。あまりにもさびしい心持ちだ。ただひたすら、かつての友がなつかしいということはないのだろうか。
 考えてみると、彼らと私の幼年時代に、たがいになつかしく思い返すほどの際立った交際があったとは思えない。彼らは郷愁を覚えない私に興味はない。遠く、長く離れていてそう感じたはずだ。興味もなく、なつかしくもない人間に連絡して、不毛な関係を取り戻したいなどと考えるわけがない。しかし、それでも私はなつかしい。なつかしいものは彼らとの具体的なドラマではない。彼らとの生活の中で胸の内に留まり、いまも去らずに輝いているものだ。私は彼らに会いたい。
 味噌汁を温め、ひっそりとめしを食う。鯵の開き、目玉焼き、納豆、海苔。
 ジャージを着る。合羽を手に、傘を差し、北村席へいく。
 お父さん、お母さん、トモヨさん、直人、ソテツ、イネ、菅野、千佳子、睦子、中番や遅番のトルコ嬢たち。いまの瞬間にも、人びとの顔がなつかしく見える。直人を膝に抱き上げる。
「おとうちゃん、ちゅうし」
「ん?」
 主人が、
「あしたの阪神戦はほぼ中止の連絡が入りました。一日強い雨のようです。代替日は七月六日。きょうの試合はあるようです」
 梅雨どきの雨天中止の代替のために、七月上旬が空けてある。今月下旬はけっこう代替日が出るかもしれない。代替試合が遠征になるとつらい。
 サイドボードに有田焼の皿とコーヒーカップが飾ってある。女将が、
「使うのもったいなくて」
「それはそうですよ」
 ソテツとイネがうなずき合う。いつものカップでコーヒーが出る。ソテツが、
「松葉会の料理はいかがでしたか」
「ステーキがうまかった」
 菅野が、
「肉が柔らかかったですね。サーロインなので脂もしっかりあった」
「今夜は、いえ下ごしらえをして、あしたの夜はステーキにします」
「フィレにして。ポテトサラダをたくさん。脂は苦手なんだ。結局、脂身のところは残しちゃった」
「もったいない!」
 主人と菅野の声が重なり合う。直人が、
「ステーチ、ステーチ!」
 とはしゃぐ。はいはい、とトモヨさんが笑いながら、
「ステーキはまだ早いので、ハンバーグにするんですよ。生鮨もだめ。焼いたり煮たりしないと蕁麻疹が出ます。じゃ、直人、保育園いきましょう。長靴履いて、傘差してね」
「ピチピチ、チャプチャプ、ランランラン」
「奥さん、送りましょう」
「運動できるうちにしておきます。七月からはお手数かけることになると思います」
 二人で浮きうきと出かけていった。




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