二十五

 小夜子は法子の要領を得ない顔を、微笑を崩さないまま見つめた。彼女は自分の言葉を信頼して生きているようだった。私には彼女の言いたいことがよくわかった。彼女の話は遠まわしにゆっくりと周りから円を描いて、だんだんと中心に近づいていくしゃべり方で、わざとそうしようとしてやっているのではなく、自然とそうなってしまうようだった。私も最初は戸惑い、単刀直入のわかりやすい言葉を待っていたけれど、だんだんこういう理屈っぽいしゃべり方が気に入りはじめた。それどころか、文字を書くようにしゃべる小夜子の誠実さが胸に沁みてきた。
「あんたにはまだ無理ね。おっしゃるとおり、私は勉強家のなれの果てよ。勉強というのは、感受性麻痺の抗生物質にはならないし、勉強家つまりエリートは、社会の醜悪さに対してけしからん免疫を持っているしね。ほとんどの大学が養成してるエリートなんてのは、国家のふところに庇護されているうちに感受性がからだからどんどん抜けていくのよ。もともと感受性なんかなかったのかもしれないけど。ま、高校ぐらいはいっときなさい。けっこうそのくらいの学歴でも、役に立つわよ」
 法子が私に気兼ねして、フフッと鼻をしかめた。私は満足の微笑を返した。法子の母親がしみじみと私を見つめて言った。
「神無月くんは、雅江さんに親切なんですってね」
「べつに親切にした覚えはありません。ただ、きれいな子なのに、脚のことを気にしていて、それが気の毒だなって思います」
「そこね、あなたのえらいところは。親切にしてやろうなんてわざとらしい気持ちでやってるんじゃなく、自然に接してあげてるってこと。雅江さんにきつい運動はしないようにって言ってあげたんですって?」
「はい、でもだれから聞いたんですか」
「雅江さんからよ。彼女、千年小のころから法子のお友だちでね、たまに船方の家に遊びにくるのよ。私、その話を聞いて、胸が熱くなったわ」
 声の抑揚から、彼女が心からそう思って話していることがよくわかった。小夜子が口を挟んだ。
「お母さんも甘いわ。この子は自分の言葉の責任なんか取ろうと思ってないのよ。神無月くん、そこまで言った以上、いっそ、大きくなったらお嫁さんにもらってあげたらどう。あの子、喜ぶわよ」
 責任、というのは大げさな気がした。でも、なぜかそのとき、自分の中で新しい考えがふいにまとまったような、目覚ましい感じを抱いた。それは生きがいとか、誇りなどというまっすぐなイメージとはちがって、もっと複雑で、全人類的で、自分には手の届かないところにあるような、そのためにちくちく痛みを感じるようなものだった。
 ―気の毒だと思った気持ちの責任を取る。
 私は厄介なものが自分のぼんやりした世界にとつぜん侵入してきた気がして、胸苦しくなった。
「やめてよ、おねえさん、ひどいこと言うわね。神無月くんは親切で言ったのよ。雅江さんだって、そんなに深く気に留めてないわよ」
 法子は頬を真っ赤にして言った。
「だいたい、あんた、雅江さんがこの子を好きだと知ってて抜け駆けしたんでしょ。心が咎めないの」
 女同士の話が勝手に潜行している。私の言葉に責任があるからだった。母親が姉妹のあいだを取り持つように言った。
「法子にそんな大それたつもりなんかないのよ。私が連れていらっしゃいって言ったの。法子はいい眼力をしてるわ。好きになるのも当たり前ね。思ったとおり、心の真っすぐな子だった。見てごらんなさい、このきれいな目を。心の真っすぐな人のすることは、どういうなりゆきになっても、ただ見ていなくちゃいけないのよ。責任は周りにあるわ。神無月くんは、雅江さんにも法子にも、へんな関心がないの。自然児なのよ」
「自然児、か。少々単細胞で、おもしろみがないけどね。あなた、雅江さんのこと気の毒だって、さっき言ってたけど、たしかにそれは大切な気持ちなんだけど、あまりそういうこと口にしないほうがいいわよ。だれかが同情しようとしまいと、そんなことに関係なくあの子を輝かせてるのは、人間として強くあろうとする心の持ちようなのよ。法子もそこを見習わなくちゃ」
 私はだんだん、法子が小夜子のことを変人と言った意味がわかってきた。変人でなければこうまでゴリゴリ他人に意見はできないものだ。小夜子は加藤雅江のことをだれよりもよく理解しているようだった。法子が横から私の腕をぎゅっと握ってきた。彼女も変人家族の一員だった。
「よしなさい、法子」
 小夜子がたしなめた。
「私、神無月くんに同情されてるわけじゃないもの」
 母親が、
「そうかな? 神無月くんはとっても頭のいい子よ。おまけに素直だから、余計な荷物を背負っちゃうの。心が澄んでいて、知恵もあるというのは、大人でもなかなか叶わないことなんだけど、それだけ苦労が多くなるの。だから、これ以上神無月くんに迷惑をかけるのはやめましょう。きょうきてくれただけでも感謝しなくちゃ」
 母親と小夜子の顔を淡い照明の光が照らしている。なんという大仰な会話だろう。私はもう、何か世間離れした気分になり、ほとんど夢見心地で女たちの言うことに耳を傾けていた。彼女たちのかもし出す雰囲気は、大時代な飯場の男たちのそれとだいぶちがっていた。奇態な女三人の一家を取り囲む狭い店内の様子も、飯場とまったくちがった濃密な静けさをただよわせていた。
「おはようございまーす」
 鈴を鳴らして背の高い中年の女が入ってきた。厚化粧をしていた。
「おはよう」
 母親と小夜子が応えた。法子が私に耳打ちした。
「夜のお仕事はね、〈おはよう〉と、〈お疲れさま〉が挨拶なの」
 女は私の背中をすり抜けると、あたふたと階段の脇のトイレに飛びこんだ。そうして長いあいだ小便の音を立てていた。私はときどき忍びこむ飯場の便所を思い出して、ドキドキした。彼女は便所から出てくるなり、
「わ、かわいいお客さん」
 と言って、背中から私の首を抱きしめた。ざらざらした鮫肌が首をこすった。息に煙草の匂いが混じっている。母親が笑いながら、
「やめなさいよ、おしっこ拭いた手で。この子は法子のお友達なのよ。手を洗って、おしぼり巻いてちょうだい」
「はーい」
 女はカウンターに入り、おしぼりをせっせと洗いはじめた。ピンクのドレスの胸をさらした上半身が、薄いショールで覆われている。波のかかった髪をスプレーで固め、活発な身のこなしのわりには、どことなくさびしそうな表情をしている。
「完了!」
 女は巻き終えたおしぼりをカウンターの上に段々に重ねた。ショールを外して壁にかけると、胸の鎖骨が黄色っぽくぬめぬめと光った。開きかけた真っ赤な唇。その奥に見える歯が意外と白く光っている。ときどき長すぎる付け睫毛を通してあたりを見る大胆な目つきに、私はいままで感じたこともない肉体的なものを感じた。私の熱心な視線に気づいて法子が言った。
「この人、よしえさん。おねえさんの大学の先輩で、わざわざ東京から手伝いにきてもらってるの」
「そう言われると照れるわァ。私は暮らし向きが悪くなったんで、職探しにこっちにきただけ。先輩風は吹かせられないなあ。移住よ、移住。小夜ちゃんとちがって、あんまり勉強のできないユウトウセイだったから、わかるか、少年、ユウトウセイの意味が」
「優秀な生徒」
「あははは。優秀のほうじゃなくて、身持ちの悪い遊び人のほう。〈遊蕩生〉。と言ってもやっぱりわからないか」
 酒を飲ませる場所や人間というのは、みなこういうものなんだろうか。私はひどく愉快な気分になってきた。
「あなた、ノリちゃんのイイ人ね。きれいな顔してる。ノリちゃんは面食いだから。でもこの手の顔は案外、むっつりスケベかも」
 彼女は肩にシナを作って私と法子を見比べた。私はどう反応すればいいのかわからなかった。
「いやだ、よしえさんたら。いつもへんなこと言うんだから。モテないのはそのせいよ」
「あらら、言ってくれるじゃない。いまでこそ店(たな)ざらしのおばさんだけど、これでも男三昧の暮らしをしてきたのよ。モテモテだったんだから。ま、私の場合、面食いよりも、男食いだったけど」
「よっちゃん、やめなさい。神無月くんがガッカリしてしまうでしょ」
 母親が笑いを納めた。
「ガッカリ? しない、しない。この年頃は好奇心旺盛だから。みんな味のある女ばかりだし」
 小夜子が吹き出しそうな微妙な表情で、
「この子はまだ中学生よ。女の味なんかわかるはずないでしょ」
 まじめな顔で小夜子が応じた。
「わかる、わかる。ここは、〈おふくろの味〉みたいなもっともらしい看板上げて、女中さんを置いとくような食べ物屋じゃないもの。〈女の味〉だけでやっているバーだから、どんな青んぼだって、わかるわよ。ね、少年。法ちゃんはまだ味がないけど、そのうち熟すからね」
 薄く紅を引いた唇で笑いかける。法子もうれしそうに笑った。よしえは爪にヤスリをかけはじめた。
「……あーあ、もう秋になっちゃった。今年も海へいかなかったなあ」
「よっちゃん、削りかすをそこらへんに散らかさないでね」
 母親に睨まれて、
「散らかす、散らかす、お客さんに煎じて飲ませてあげる」
 思わず小夜子は笑い、よしえはシンクに落とした爪かすを丁寧に洗い流した。
「いい海が見たいわねえ。ユゴーが涯てなき悲惨と言った海。さしずめ、荒波寄せる日本海かな。ね、小夜ちゃん」
「夏がくれば夏の気分、盆正月がくれば盆正月の気分、四季の気分はだれの上にもひとしなみに訪れる、か。……私、海はきらい。山が好き」
「一人で山登りでもしたほうがサッパリするもんね。もう彼とは付き合ってないの?」
「とっくに」
「あんなに夢中だったのに」
「さあ、夢中だったかどうか忘れちゃった。私、あんまり夢中になれないタチみたい」
 乱暴に鈴を鳴らして、したたかに酔った客が入ってきた。
「寝さしてもらうぞ!」
「あら、××さん!」
 小夜子が明るい声で言った。男は入り口に近い椅子にだらしなく崩れ落ちると、頭ごと投げ出すように両腕をカウンターに載せた。外は雨らしく、男の髪に雨のしずくがついている。
「雨降ってるみたいね」
 母親が言った。男がうつ伏せのままうなる。よしえが、
「そんなに眠かったら、家に帰ればよかったのに」
「いっときの寒さしのぎだ」
「あんなこと言っちゃって。まだ寒い季節じゃないわよ。心が寒いんでしょ」
「話しかけるなよ。話しかけると殴るぞ。俺は眠いんだ」
 小さな白髪まじりの頭がむき出しの腕に乗っかり、赤く酒焼けした鼻といっしょに横を向いている。つぶった目の縁に白く乾いた目ヤニがこびりついていた。
「こんな早い時間から酔っ払っちゃって。強くもないのにガブ飲みしたんでしょ。どうしたの。会社でつまんないことがあったの」
 よしえが男の耳もとで言った。男はグイと頭を上げ、半眼のまま、
「話しかけるなと言っただろ。屁理屈野郎どもが。おまえらのへらへらした理屈は聞き飽きた。どんなやつの揚げ足でも取ってやる構えで生きてんだろ。いつまでもそんなシノギをしてると、そのうちほんとうに、人間同士が睦み合うってのがどういうことか、忘れっちまうぞ。俺なんざ、ガキのころから和合、団結たくましくして生きてきたんだ。でなけりゃ、一国一城を守れやしない」
 またバタンと伏せる。
「そんなに大切な一国一城があるなら、こんなとこにこなけりやいいじゃないの。そのお城にお帰りなさい」


         二十六

 法子がふと男のほうへ立っていった。男の隣に座り、背中をさすりはじめる。その様子には、母親や姉たちを見て学習した媚とは異なったものがあった。
「ああ、法ちゃんか、ありがとう。法ちゃんはほんとにいい子だね。ほかの女どもとは大ちがいだ。よしえや小夜子みたいに理屈っぽくないし、親切だし、天使みたいだ」
 男は手のひらで法子の膝をたたき、愛想のいいしゃべり方をした。でも目を開いているのが辛いらしく、すぐに瞼を下ろして小さな寝息を立てはじめた。法子が私の隣に戻ってきた。
「ロリータ趣味なんだから、××さんは。法子の親切はいつだって格好だけなのに。神無月くん、よく見ておきなさい。当てのない人生を送っていると、男という生きものはこんなふうになっちゃうのよ。家に帰る途中で女のにおいを吸いに道草食う男なんて、自分だけじゃなくて、家族も破滅させちゃうの」
「おねえさんは、二度目のお父さんのこと言ってるのよ。酒癖が悪くて、よくみんなを殴ったわ。でも、私は嫌いじゃなかった。だって、酔っ払いってかわいそうでしょ。酔わなくちゃいられないのは、きっと苦しいことがあるからよ」
 私は、山本法子は気持ちの濃(こま)やかな女で、加藤雅江のことをあんなふうと言ったのも悪気があったからではないとわかった。だからこそ何年も友達でやってきたのだし、雅江も彼女の家に喜んで遊びにいくのだ。
「法子、そろそろお友達を帰してあげなさい。神無月くん、ごめんなさいね。きょうはなんだか女ばかりではしゃいじゃって、つまらなかったでしょう。あなたが聞き上手だからよ。これにめげずにまた遊びにきてね」
 追いかけるように小夜子が、
「きみはほんとにいいアトモスフィアを持ってるよ。女難の人生かもね」
 私は彼女の話をもっと聞いてみたい気がした。
「船方のおうちにくる? タクシーでいけば、すぐよ。泊まっていってもいいわ」
「法子!」
 母親がやさしく睨んだ。
「冗談よ。タクシー呼んであげようか」
「だいじょうぶ。ここから神宮の境内を通って帰る。あの砂利道を歩くの、好きなんだ」
 壁の時計を見ると、もうすぐ八時になるところだった。こんなに遅く飯場に帰るのは初めてのことだった。店の戸口まで四人の女が送って出た。雨が露地の一面にしぶいている。冬が近づくのを知らせるような冷たい雨だ。法子は店の中へ引き返し、真新しいこうもり傘を持ってきた。私の頭上に開く。私は傘を受け取り、女たちに深くお辞儀をして、神宮の東門のほうへ歩きだした。
         †
 ノラでの一夜は、深く鮮やかな印象を残した。遅い帰宅を母にねちねち難詰されたつらさなど、その印象に比べれば大した問題ではなかった。言葉で人を感動させる人たちがこの世にはたしかにいる。言葉がそのまま人格になっている人たちがたしかにいる。彼らにとって言葉は宇宙なのだ。
 あれからときどき、廊下や校庭に山本法子の姿を探したけれど、見当たらなかった。べつに会いたいとは思わなかったけれども、またあの店にいってみたいと思った。
 印象的な出来事が、それからも立てつづけに起きた。木田ッサーが交通事故で死んだこと、桑キンタンが生徒に暴力をふるって学校を辞めさせられたこと、守随くんが日比野中学へ転校したこと……。
 木田ッサーが死んだことは、校長先生が朝礼で話す前に、早耳の桑原から聞いた。二人乗りしていた兄のオートバイがトラックと接触して路肩へ吹っ飛ばされたのだという。空中を飛んだ木田ッサーは歩道の縁石に頭をぶっつけた。即死だった。中学に入学以来、何の消息も聞こえてこなかった剽軽者の悲しい死だった。朝礼のときの校長先生の口調は、伊藤正義の死を報せたときよりも熱がなかった。くれぐれも交通安全に気をつけてください、とありきたりな言葉で話を閉めくくった。
 放課後、桑原が教室でみんなに吹聴していた。
「首のすぐ上のところを打ったらしいで」
「ヘルメットかぶっとらんかったのか」
「かぶっとったけど、ちょうど延髄のあたりを打ったんやと。ついとらんやつやで」
「兄貴のほうは?」
「車の下に巻きこまれて、やっぱり即死」
 イエッサー、と言いながら敬礼した木田の陽気な顔や、私に冷たくあしらわれて、さびしそうに帰っていった後ろ姿を思い出した。そして、一度も試合のバッターボックスに立たずに、たった十三歳でこの世に別れを告げた少年の運命を哀れに思った。
 ―もっとやさしくしてやればよかった。根気よく教えてやっていたら、ピンチヒッターで一回くらいは出られたかもしれない。
 桑キンタンのことは母から聞いた。
「桑子って、おまえの担任だった人じゃないの」
「うん。桑子敏道」
「そうそう。懲戒免職になったって、新聞に載ってるよ」
 私は息を呑んだ。
「どうして!」
「生徒を殴ったらしいよ。鼓膜が破れるほど」
 たちまち、木下の往復ビンタが浮かんできた。
 ―またあれをやったんだ。人のいい桑子が手を上げるくらいだから、その生徒は木下と同じくらいひねくれたやつだったにちがいない。鼓膜が破れたのは、よっぽど当たりどころが悪かったんだろう。
 母からその話を聞いた晩、康男が勉強小屋にやってきた。
「小林旭が美空ひばりと結婚したで」
「らしいね。がっかりした?」
「ああ、どう見ても、あんなぶさいくな女、マイトガイに似合わんやろ」
「うん。ぼくも裕次郎が北原三枝と結婚したとき、がっかりしたもの。あんな眉毛の濃い男っぽい女、ぜんぜん裕次郎と釣り合わないよ。―桑子先生の話、聞いた?」
「おお、新聞に載っとった。またPTAが騒いだんやろ。桑キンタンは肚の太い男やったなあ。あんなええ先公を、寄ってたかって追い出してまって。俺やったら、鼓膜破れたぐらいで言いがかりつけたりせんけどな」
 私は、桑子のことを、木田以上に哀れに思った。
 守随くんの噂も静かに流れてきた。かつての大秀才の孤独な姿は、千年出身のやつらにけっこう目立っていたからだ。加藤雅江から道で聞いた話だと、日比野中学は千年の通学区ではないけれど、守随くんの反抗的な態度に困りきった両親が無理やり転校を願い出たのだという。環境を変えてやれば、守随くんの気分も成績も回復するだろうと、あのやさしそうなお父さんやお母さんは考えたのかもしれない。私は、いつかの夜の守随くんの様子を振り返って、彼は子供らしい無気力に犯されたのではなくて、もう大人の虚しい心が固まってしまっていたのだと思った。
 もう一つ、ささやかな事件があった。クマさんと、少し頬のやつれた房ちゃんが、男の赤ん坊を抱えて飯場に挨拶にきたのだ。小山田さんが、
「いつのまに生まれてたんだ。報告ぐらいしろよ。二、三日中に出産祝いを西田に届けさせる」
「そんなものいらねえよ。男の子だ。郷の字をもらって、郷太郎ってつけた。キョウみたいな子に育ってくれればいいと思ってな」
「鼻曲がってねえか」
「奥さん似ですね」
「わあ、柔らかァい。マシュマロちゃん」
 小山田さんや、吉冨さんや、畠中女史や、洗いものをしていたカズちゃんも、驚いたことに母までが、それぞれの持ち場を離れて、ヨダレだらけの小さい物体をつついたり、摘(つま)んだりした。私はそばに寄って、覗きこんだだけだった。
「子供のことを考えると、心がきれいになるな」
 クマさんのしみじみとした言葉に、みんな感慨深げにうなずいた。クマさんがなんだか遠くへいってしまったような気がした。
         †
 年の暮れに近づいて野球部が暇になった。自主練習の土曜日は、キャッチボールとベーランと、外回りのランニングだけ。レギュラーくらいしか出てこない。ピッチャー三人、野手八人。もう三年生はすっかりいなくなり、一、二年生の天下になった。フェアライン脇でかけ声をかけたり、外野で球拾いをしていた補欠たちは、ひっそり姿を消した。私と本間はすでにレギュラーメンバーだったけれど、守備要員の準レギュラーのデブシ、御手洗、大島、関、高田がレギュラー昇格し、新たに五、六人の二年生が準レギュラーに抜擢された。
「集合!」
 ベーランの途中で、岡田先生が全員を呼び集めた。
「来年の構想を言う。与野と轟の抜けた投手陣は、崎山と今の二人でいく。崎山と今を先発に据え、左の本格派の一年生をリリーフとして鍛えれば、かなりローテがうまくいくだろう。来年こそ優勝するぞ。優勝の二文字をいつも念頭に置いて、めいめい鍛錬に励んでくれ。いまのおまえたちなら優勝できる。ようし、きょうはランニングのあと、神宮商店街のお好み屋で道草!」
 岡田先生が言った。
「イエーイ!」
 岡田先生は土曜練習を早めに切り上げ、外回りのランニングをみんなといっしょに、ふうふう言いながら走った。熱田神宮まで遠出して、境内を走り抜け、東門から神宮前に出る。ノラのそばのお好み焼き屋に入った。総勢十二人。小座敷がいっぱいになった。
「ブタ玉!」
「焼きソバ!」
「イカ玉!」
「ミックス!」
 岡田先生が立ち上がり、
「神無月と本間を主軸に、一致団結、来年は何が何でも優勝だ!」
「オウ! 優勝だ!」
 みんなジュースを掲げて、あらためて優勝を誓い合った。
「ようし、好きなだけ食え!」
 ジュウジュウお好み焼きを焼きはじめた。大島が、
「俺、何番を打つんやろ」
「おう、打順と守備位置を言っておかなくちゃな。二番と六、七、八番は適宜入れ替えるとして、一番は関、ファースト、三番本間、センター、四番神無月、レフト、五番中村、キャッチャー、これは固定だ。大島サード、御手洗セカンド、高田ライト、高須ショートの四人は、当面は、二、六、七、八番でいく。この中でいちばん足の遅いやつはだれだ」
「俺やが」
 大島が頭を掻く。
「おまえは長打力があるから、六番だ。残りはおたがい話し合って決めろ」
「ぼく、八番がええな。気が楽や」
 御手洗が言う。彼は第二回の実力テストに二十番あたりで顔を出していた秀才だ。チビで色白の男だが、筋肉隆々だ。足もチーム内でいちばん速く、短く持ったバットでときどきするどい当たりを飛ばす。内気な高須が、
「先生、二番と七番とでは、どっちが責任重いですか」
「どっちも重い。たとえば七番だが、クリーンアップがお掃除したあとに打席に立つと考えれば、新たにチャンス作りをしなくちゃならないことになるし、クリーンアップが凡打に倒れてしまったあとで打席に立つと考えても、同じだ。二番は一番が出たときに確実に犠打を決められるやつでないと務まらない。三、四番が控えているので長打はいらないけど、一番が倒れたときにチャンスメーカーになるようなシュアなバッティングはできなくちゃいけない。ただ、俺は、犠打は嫌いだ。楽しい野球をやってて、なんでバントなんかしなくちゃいけないんだ? たとえ一番が出塁しても、二番にも打たせる。結局、長打力のあるやつを七番に置きたいんだ。下位打線にロングを打てるバッターがいると、敵も怖いだろ」
 デブシが二枚目のお好み焼きの注文の声を上げている。私と関は焼ソバを頼んだ。
「じゃ、俺は二番です。チームでいちばんボールが飛ばないから」
「わかった。高田、おまえ七番だ、いいか」
「はい!」
 本間が、
「俺、三番でよかったわ。神無月のあとを打つのはつらいで。たいていランナーおれせんも」
 ドッと笑いが立ち昇った。関が、
「金太郎さんは、六割ぐらいの確率でランナー返すから、頼れるわ。来年は頼らんで。俺も一本ぐらいホームラン打ちたいわ」
 デブシが、
「ランニングホームランなら二、三本はいけそうや。よっぽどええ当たりやないと、八十メートルは飛ばんで。神無月は百メートルを楽に越してまうもんな。どうなっとるんや」
 引っ込み思案の二年生の高須が、
「どうもなっとらん。そのままや。なあ、神無月」
「はあ……」
「まねしようとしたり、比べたりはできん男や。羨ましがってもあかん。神無月には、いてもらうだけでええ」
 岡田先生がうなずいていた。
「一年生の本格派って、だれですか」
 私が訊くと、岡田先生は、
「白鳥から来年、野津という速球ピッチャーが入ることになってる」
 と答えた。


         二十七

 夜、康男が勉強小屋に遊びにきて、カバンから青インクと水色の色鉛筆と、それからマッチ棒を平べったく削ったものを取り出して並べた。
「ニセ定期、簡単にできるで。捕まったら留置場やけどな」
 いつもの真剣な顔だ。私は強くうなずいた。
「康男といっしょに入るからいいよ」
「冗談や。そんなものに入れせん。ばれたら、ちょこっと警察に叱られて終わりや」
 康男はインク壜のフタに少しだけインクを注ぎ、つばを垂らして薄めた。それをマッチ軸につけ、名刺よりも少し大きめに切った四角い画用紙に、ゆっくり手書きで、

 
神宮前 ━ 東海橋

 と描いた。その上に重ねるように、少し字体が傾いたブルーの数字を書いていく。おそろしく上手い。まるで印刷したように輪郭がくっきりしていて、わざとかすれる部分もこしらえる。
「うまいなあ! かすれてるとこなんか、名人技だね」
「バックに水色を薄く塗って終わりや」
 インクが乾いたころを見計らって、康男は水色の色鉛筆で紙の全体を淡く丁寧に塗りつぶした。ポケットから本物の定期を出して並べる。
「そっくりだ!」
「ほやろ? よく見ると、水色のバックは細かい丸八模様でできとるで、ところどころまだらなんやが、パッと見ただけではわからせん」
 私はそのニセ定期を目に近づけたり、離したりしてみた。たしかに一メートルも離れると本物と見分けがつかない。
「やっぱり名人だ―」
「あした、試してみよまい」
「うん」
 康男がもう一枚の定期券を作り終えるころ、私はおもむろに机の抽斗から『フランダースの犬』を取り出した。雑誌の付録では飽き足らず、学校の帰りに内田橋の本屋に寄って買ってきた翻訳物の文庫本だった。
「なんや、それ」
「とてもいい本だから、康男に読んでやろうと思って」
「めんどくさいのは、いらんぞ」
「二、三分で終わるから。ネロとパトラシェがいっしょに死ぬ場面だよ」
 私はその文庫本のしまいに近いページを開いた。そして、読みまちがいをしないようにゆっくりと読んでいった。そこはこれまで何度も胸をふさがれた場面だったので、涙を流さないように慎重に読まなければいけなかった。少しでも気持ちが入りこむと、すぐに涙が襲ってくるのだ。

 ……パトラシェの求める足の跡は暗い石の床の上に、雪を白々と残しながら建物の中へと入っていた。跡をしるしたと同時に凍りついたそのひと筋の白い糸に導かれてパトラシェは水のような静けさの中を広大な円天井の下を通り、まっすぐ内陣の門へと行った。そして石畳の上に倒れているネロの姿を発見したのであった。
 パトラシェはそっとそばにより、少年の顔にさわった。
 「私があなたを見捨てるなんて、そんな実意のない者だと、夢にも思ったのですか? この私が―犬の私が?」
 と、その無言の愛撫は語っていた。
 少年は低い叫びとともに身をおこし、パトラシェをひしと抱きしめてささやいた。
 「ふたりでよこになっていっしょに死のう。人はぼくたちには用がないんだ。ふたりっきりなんだ」
 返事のかわりにパトラシェはさらに近くすりより頭を少年の胸にのせた。茶色の悲しげなその目には大粒の涙がうかんだ。自分を憐れんでの涙ではない―パトラシェ自身は幸福だったのである。
 ふたりは身を刺す寒さのなかにぴったり寄り添って横たわった……


 どれほどこらえても、やっぱり目が潤んできて、それ以上読み進むことができなくなった。康男は唇を咬みながら、何度もフン、フン、と鼻で笑うふりをして感動の発露を押し殺していたが、思わずパトラシェのような大粒の涙を落とした。私は驚き、本を閉じて、もらい泣きをした。康男は畳に腰を下ろしたまま、あらぬほうを向いてさかんに洟(はな)をすすっていたが、ようやくくつろいだ微笑を浮かべて言った。
「おまえは、ええやつや。俺のダチにはもったいねえわ」
 それから彼は、薄いカバンからアンパンを取り出し、私に差し出した。二人はそのパンを分け合って齧った。
         †
 きょうもランニングだけの練習が退け、更衣室で学生服に着替えた。用があるからと関を先に帰し、校門で待っていた康男といっしょに神宮前のバスロータリーへ向かった。
「降りるときに見せるんやで」
「ほんとに、ばれないかな」
「松葉会の若頭(わかがしら)の部屋に、『敢為(かんい)』という額が飾ってあると兄ちゃんが言っとった」
「カンイ?」
「敢闘賞のカン、人の為のタメ」
 康男は埃で汚れた停留所の標識に、指でその字を書いて見せた。
「敢、為、か」
「押し切ってことをする、という意味やと」
 バスがやってきた。私はどきどきしながら康男に背中について『名古屋競馬場』行に乗りこんだ。
「ドンコ行は、平畑を通るで」
「うん。東海橋も通るから、康男はそこまでいけばいいね」
「俺も平畑で降りるわ」
「うちに寄ってく?」
「おまえの部屋にカバンだけ置いて、またバスで神宮まで戻る。神宮公園でアベックをからかったる。くるか?」
「いく」
 無賃乗車の冒険だけで終わりかと思っていたら、まだその先があるのだった。イヤだとは言えなかった。不道徳を糺(ただ)したり嫌ったりするまっとうな心の動きを恥ずかしく思うほど、私はあまりにも康男を畏敬しすぎていた。私は努めて無関心らしい顔を作り、小心さをさらすような不平はひとことも言わなかった。バスの窓から見える木の葉が十二月の風にふるえていた。
 平畑のバス停で必要以上に長く定期券を見せて降りた。気もそぞろだった。何の咎めもなかった。車掌がドアを閉めると、二人は早足で勉強小屋をめざした。シロがいっしょに走ってきた。康男は小屋の玄関から畳へカバンを投げだし、大声で笑った。私もユニフォームを入れた袋を放り投げ、敷居に両手をついて笑った。
「こんなにうまくいくと思わなかった」
「おう。またすぐいくぞ」
 二人は部屋に上がらないで外へ飛び出し、意気揚々と平畑のバス停に向かった。シロがついてこようとするので、両手を拡げて追い払った。シロは事務所の玄関まで駆け戻って腰を下ろし、私たちがバスに乗りこむのを見ていた。
「敢為、敢為。思い切ってやれば怖(おそが)いものはあれせん」
 今度も二人は何の問題もなく、神宮前のバス停で降りることができた。私はなんだか拍子抜けした気分で、康男のあとについて神宮の東門へ入っていった。人影のまったくない参道に常夜燈がぼんやり灯っている。康男はどんどん歩いていって、まばらな林の中に入りこんだ。
「ここは、ようアベックがくるんや。ベンチでいちゃついとるところを、ちょこっと脅したるとな、たいていカネ出しよる」
 からかうだけでなく、金を盗ろうと提案しているのだった。引き返したほうがいいかもしれないとチラッと思った。でも、心服して運命を預けている人間に、意見を言ったり逆らったりするのはそれこそ不道徳だと考え直した。実際、これまでほんのいっときでも、康男の影響力を重苦しく感じたり、疑ったり、やりきれないものに思ったりしたことはなかった。私は彼の言うことも、することも、すべて肯定し、愛してさえいた。
「おまえに迷惑はかけんわ。黙って見とればええ。金といっても風呂銭ぐらいのはした金や。痛くも痒くもあれせん」
 暗い林が途切れたあたりに、もっと暗い空間が広がっていた。かすかに聞こえる物音は木の葉の呼吸かもしれない。康男は木立の向こうの潅木の茂みへ忍び足で進んだ。私も腰を屈めて従った。
 茂みの隙間から、公園の周囲を縁どるように置かれたベンチの一つに一組の男女が坐っているのが見えた。康男は慎重に背後から近づき、ベンチのすぐ後ろにしゃがみこんだ。私も同じようにした。アベックの声が聞こえてくる。
「子供は、二人欲しいわ」
「ぼくは一ダースでもいいよ」
 女の細い首が応える。特徴のない髪型で、猫背のコロッとしたからだつきをしていた。
「でも、楽じゃないのよ、子供を産んで育てるのって。……貯金しなくちゃ」
「がんばって働くよ」
 二人が唇を合わせる。やがて女のおかしなあえぎ声が聞こえてきた。ベンチの背でさえぎられているので、彼らが何をしているかわからないけれど、男が女の肩を抱いて耳のあたりに唇をつけ、下のほうに伸ばした片手をもぞもぞ動かしている。その行為の意味は、あの机の下に貼りつけた本で知っていた。でも、実際にどういう具合にやっているのかわからなかった。康男が口を捻じ曲げて薄笑いを浮かべている。
「てめえら!」
 突然立ち上がって叫んだ。アベックがあわてて離れた。康男は彼らの前に回りこみ、ゆく手をふさぐ形をとった。私は自然と康男に並びかけた。
「いちゃいちゃしやがって」
「なんだ、きみたちは。まだ子供じゃないか」
 男も女も眼鏡をかけていて、二十代半ばくらいの顔つきだった。
「なんだきみたちは、ってか? 少し恵んだれや」
 悪ぶった巻き舌が耳に心地よく聞こえた。
「こんなことをして、ただじゃすまんぞ」
「早く出せや!」
「出せ!」
 私は自分が康男と一体の生きものであるかのように声を合わせた。自分の声ではないようだった。女がぶるぶる震えて、ハンドバックを探りはじめた。痩せた男はあらぬほうを向いて黙っている。さびしい荒寥とした感情が胸を圧した。正直なところ、警察に見つかって捕まるかもしれないという恐ろしさもあったけれど、なぜだろう、それよりも、彼らがいま大声で助けを呼ぶことで、何か騒がしい悲劇的な結果が持ち上がればいいという期待のほうが強かった。そうしたら康男との冒険がもっと彩り鮮やかなものになる。
「これで勘弁して」
 女は小さな巾着(きんちゃく)みたいなものを地面に投げ出すと、男の腕を引いて早足に去っていった。康男はまじめな顔でそれを拾い上げ、公園のわずかな灯りに照らして見た。色とりどりのビーズ玉で飾った赤い布でできている古ぼけたガマ口だった。
「チェッ、しけとる。三百十一円だとよ」
 康男は舌打ちをし、ガマ口と硬貨をバラバラと林の茂みへ放った。不意に胸が痛み、目頭が熱くなった。
「気分わりィわ。なんや、あの男、案山子(かかし)になりやがって」
 そう言って、地面に唾を吐いた。
「ちょっとさびしかったね」
「さびしかった、か。ええ言葉やなあ。ほや、さびしい気がしたな。スケベったらしくいちゃついてよ、ガキの一人もでかすと、親づらしてふんぞり返りやがる。やるしか能もねえくせに、いい気なもんやで」
 へんに目が光っている。今朝文を蹴ったときの目だ。康男は頭がよくて、残酷だ。彼の目がこんなふうに冷たく燃えているときは、だれも容赦しない感じになる。そんな目を見るのはつらい。彼の目には、やさしい感情や、明るい笑いが似合うのだ。
「クマさんにも子供が生まれたよ」
「飯場の男は別や。人間のデキがちがう。やるのはついでや。さっきみてえに女が危ねえときに、ボーッと突っ立っとらんやろ」
 高潔な単純さ、無限の人間信頼―私たち二人を結ぶ絆だ。
 帰りもバスに乗った。私は座席で揺られながら、きょうのすべてのことを思い返してみた。財布を差し出した女の恐怖に引きつった顔や、子供じゃないか、と言った男の軽蔑した目つきを思い出して心が騒いだ。けれど、康男のドスを聞かせた声を耳に甦らせたとき、なぜか胸がときめいた。これまで経験したことのなかった悦びが頭の中を通り過ぎた。康男の横顔を見ると、思いにふけるように唇を噛んでいた。車掌が近づいてきた。康男が耳打ちした。
「その定期は使わんと、記念にとっとけ。試したかっただけだで。ほれ十五円。これでちゃんと切符買え。俺はホンモノの定期で降りるわ」
 私は康男の顔を見た。康男は目を合わすのを避けていた。
 平畑で降りたとたんに、またシロが道を渡って走ってきた。康男は口笛で呼び寄せ、しゃがみこんでシロの全身を激しく撫ぜた。
「おお、大将か。久しぶりだな。めし食ってけ」
 事務所の玄関で吉富さんといっしょに煙草をふかしていた小山田さんが、道の向こうから声をかけた。母が出てきた。いまにも小言が飛び出す気配だ。
「腹へっとらん!」
 康男は小山田さんに大きく声を返すと、勉強小屋へのろのろ歩いていった。母は安心したように食堂に引っ込んだ。私は康男を追いかけながら、
「食べていきなよ」
 とすがるように言った。康男は放り出してあったカバンをつかみ、
「送らんでええ。千年まで歩いて、そっからバスでいくわ」
 私を見向きもせずに手を振った。
「さよなら!」
 遠くの闇で康男の手がひらひら動いた。
 小山田さんがやってきた。
「キョウちゃん、俺たちきょうはめしが遅かったんだ。いっしょに食おうや。大将どうしたんだろな、遠慮しちゃって」
「康男はかあちゃんが苦手なんだよ」
「わかる。俺もだめだ」
 吉富さんが足で煙草をもみ消しながら言った。
 何週間か経ったある日曜日の夜、私はもう一度だけ偽造定期を試してみた。事務所の前を避けて、大瀬子橋の停留所からバスに乗った。終点の神宮前で降りた。車掌は私の差し出した定期を見もしなかった。すぐに折り返しの名古屋競馬場行に乗りこみ、大瀬子橋で降りた。やっぱり何ごとも起こらなかった。私は橋を渡りながら、定期券をブーメランのように空へ放った。    



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