百五十八

 快音がした。木俣が尻を振って走っている。センターの柴田がジャンプして飛びつこうとした上を抜かれた。余裕のスタンディングダブル。つづく菱川痛烈なレフト前ヒット。木俣本塁を突けず、ノーアウト一、三塁。太田、センターへ犠牲フライ。木俣タッチアップしてホームイン。みんなきちんと仕事をする。六対二十。
「オーケー、オーケー、打ちかた止め!」
 田宮コーチの大声。一枝ライト前ヒット。ふたたび一塁、三塁。星野、振り遅れてサードゴロ。長嶋、安心した感じでセカンド送球、上田一塁へ転送。星野の足が不気味に速い。セーフ!
「速かあ!」
 江藤の叫び声に合わせたように、スタンドの歓声が爆発する。併殺崩れの間に菱川生還。二十一点。高木が、
「長谷川さん、一年間隠してたんですか。噂も流れてこなかった。太田、おまえも知らなかったのか」
「体力のない男で、のらりくらり投げてたから、軟投型だと思ってました。猫かぶってたんですかね」
 長谷川コーチは、
「正直、こんなにいいピッチャーだとは思わなかったよ。慎ちゃんと金太郎さんの目はするどいなァ。百三と同じように、上体を反らせる悪い投球フォームだったのが、金太郎さんとやったフリーバッティングで全力投球したせいで矯正されてしまった。体重のスムーズな移動ができるようになってる。とにかく大収穫だ」
 中がセカンドフライを打ち上げて、ようやく台風が静まった。
 九回表、槌田の代打にガタイのいい林千代作が出る。左バッター、四年目、二十二歳。堀内がドラ一だった第一回ドラフトのドラ二だ。王二世とか未完の大器とか呼ばれている。少々肥満気味。新人のとき、生涯に一本(そのたたずまいから私の目にはホームランを打てないバッターに見える)のホームランをあのスタンカから打っている。彼が南海から大洋に移籍してたった一年投げた昭和四十一年だ。林のことは名前の田舎くささに魅かれて学習ずみ。神奈川県の鎌倉学園出身。二年先輩におととし日通浦和から西鉄に入った竹之内雅史がいる。バットをへんなふうに背中に垂らして構えるあの男だ。さらにその同期が、ホテル竹園の料理長、梅ちゃん餃子で有名な梅田茂雄。鎌倉学園でサードを守っていたらしい。野球つながりというのは恐ろしいほど緻密だ。私とは無縁のもの。
 林はツーナッシングから二球ファールで粘り、カーブで空振り三振。無様なスイングだ。彼は今年で自由契約だろう。星野はこれで四者連続三振。カーブの切れのよさに驚く。宮田の代打に森が出て、初球のストレートを早打ちしてファーストゴロ。黒江、カーブ、パーム、剛速球で三球三振。木俣が跳ねながらマウンドに走り寄り、ウイニングボールを手渡す。下通の興奮したアナウンス。
「ただいまの勝利で、中日ドラゴンズ、引き分けを挟まずに十八連勝を達成いたしました。昭和二十九年の南海ホークスの記録に並ぶ、プロ野球タイ記録でございます」
 場内割れんばかりの拍手喝采。カメラマンや〈ぶら下がり〉の記者たち―会場を設けずに対象が移動中に取材する―が入り乱れる。巨人の選手たちがスタコラ引き揚げていく。背番号18が一度私を振り向いたが、そのまま去った。
 スコアボードの時計が九時十分を回っている。東海テレビが代表インタビューにやってきた。マイクがテレビやラジオの中継放送席とつながっているらしく、
「放送席、放送席」
 と呼びかける。
「本日のヒーロー、決勝満塁ホームランを打った神無月選手です!」
 マイクが顔の前に突き出る。
「四対ゼロからぼくの満塁ホームランで追加した得点が、結果的に決勝点になっていますが、いつものとおり景気づけの進軍ラッパを鳴らしただけで、決勝点になったのは偶然です。二十一点は投打の総力戦で入れたものなので、だれがヒーローとも言えません」
「バッターボックスで最も意識していることは?」
「打てるかな、という不安を捨てて、打てそうだ、という気持ちに切り替えることです」
 そう言ってサッサとベンチへ退がった。そこで水原監督と星野秀孝にマイクが向けられた。私たちはベンチ前に群がって、ぶら下がりの記者たちの質問に適当に答える。きょう一度も見なかったバックネットを見やる。菅野と、あでやかに着飾ったカズちゃんとメイ子がいる。手を振る。彼らも振り返す。インタビューの声が聞こえてくる。
「田中勉投手が去った直後、あたかもときを測ったように太い柱が誕生しました。星野秀孝投手です! 一イニング、三者連続三球三振は、これまで五人の選手が達成しています。昭和二十九年に……」
 アナウンサーはメモを見下ろす。
「阪急の梶本投手が近鉄戦で達成。彼は三十二年にも南海戦で達成しています。昭和三十年に国鉄の金田投手が中日戦で、三十一年に近鉄の佐藤投手が毎日戦で、三十四年に大毎の三平(みひら)投手が東映戦で、三十七年に阪神の石川緑投手が中日戦でそれぞれ達成しています。そのときの中日の三人は、法元、河野、江藤です」
 江藤が聞きつけてマイクに近寄っていき、
「俺がおったんか! うん、うん、思い出した。石川緑ゆうんは、中日から阪神へ金銭トレードされたやつや。その一年目に、たしかにやられた覚えがあるわ。しかし秀孝の前に五人もおったとはなあ。その五人の中で、新人のデビュー戦ゆうのはおるんか?」
「梶本は新人でしたが、二十何回目かの登板のときでした。デビュー戦で達成したピッチャーは、もちろん一人もおりません。星野投手が初めてです」
「おめでとう、よかったね」
 水原監督が星野と握手した。その星野にマイクが向けられる。
「浜野百三投手の電撃移籍、田中投手のとつぜんの引退のあと、土台が揺らぎかけた投手陣の救世主となられたわけですが」
「これまで一年間戦力としてお役に立てなかった分、これからどんどんチームに貢献して取り戻すつもりです(プロ野球選手の模範回答だ)。……一つお願いがあります。みんな神無月さんがホームランを打つと、思い切り抱きついてますが、ぼくもあれをやりたかったんです。神無月さん、いいですか」
「いいですよ!」
 私は彼に寄っていった。星野は連続して光るフラッシュの中でガッシリ私に抱きついた。「ありがとうございました! 最高に幸せです」
 スタンドからいっせいに拍手が立ち昇った。レギュラーたちがニヤニヤしながら彼に近づいてきて握手した。水原監督にマイクが向けられる。
「十八連勝タイ記録おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「それを祝福するかのごとく、星野秀孝投手が現れました」
「ほんとにラッキーです。おっしゃるとおり計ったようにですからね。バッターの寿命は長い。ピッチャーは短い。常に補給が必要です。思いがけなく、ドラフトを待たずに第一次補給ができました。星野くんの詳しい情報はこれまで入ってこなかったので、腰を抜かしました。謙虚な言い方をさせてもらえば、エース級ピッチャーの年齢が高いという意味で、ドラゴンズは他チームに比べて投低打高です。ピッチャーは断続的な補給が必要です。バッターは当分要りません。ドラフトにかけるとしても毎年一人ぐらいですかね」
「こういう派手な勝ち方ができるのも、その投と打がうまく噛み合ってのことだということですね。ファンとしては優勝までこの花火が上がりつづけてほしいと思います」
「派手ではなく、激しく戦ってるんです。点差の多い少ないではありません。激しさは燃えたぎる情熱ですが、派手さは冷静な気取りから生まれます。気取っていては、野球に打ちこむことはできません。情熱というのは、冷静さを欠いた激しい精神状態ですから、危険な事態に陥ることも多い。冷静な計画に基づいて行動しないので、大負けすることもあり得るということです。その意味で危険な情熱を嫌い、安全な気取りを好む人びとが世に多いことは知っています。しかし、再出発を期したドラゴンズの連中は、幸か不幸か、老いも若きも冒険者たちばかりなので、情熱的に戦わないわけにはいかない。思うに、どんな行為も冒険心がなければ、精神的な充実に結びつきません。私たちは最終的に、勝敗ではなく充実がほしい。派手さを求めて気取っていては、それは得られない。どれほど激しいものに映ろうと、私たちは自分の信じる情熱に殉じようと思っています」
 私は横合いからマイクに向かって、
「常に勝てるわけじゃないんです。これまでの三敗二分けを忘れないでください。どんなに情熱を注ごうと、勝つこともあれば、敗けることもあります。だから、勝ち敗けに情熱を注ぐことはできません。きょうで四十六勝ですが、これから負けつづければ最下位になります。勝敗に関心を注げば、そんなことばかり気にかけて野球をすることになります。好きな野球をすることができる幸運に感謝することを忘れ、打ちたい、投げたい、守りたいという原始的な情熱を忘れてしまうんです。好きな野球に打ちこもうという情熱を持って野球をやりつづけなければ、かならず冷静な心に冒されて、野球そのものへの愛を失うことになります。つまり勝敗だけが関心事になります。心の充実という本質的な追求物に興味がなくなるんです。ドラゴンズが強すぎて好きになれないと言う人は、弱すぎてもかならず嫌って見捨てます。情熱が見抜けないからです。彼らは熱い情熱より、冷静な計算を好みます。ぼくたちはそんな醒めた打算に付き合っていられない。強くありたいとも弱くありたいとも適度でありたいとも思いません。夢中で野球をしながら、勝てるときにしっかり勝ち、負けるときはしっかり負ける。そのいずれのときも、野球に対する自分の情熱を十全に使い果たしたかどうかを問題にしながらです。こういう真剣な戦い方を派手と見るのは、情熱に対する嫌悪以外の何ものでもありません。水原監督が言いたかったのはそういうことです」
「よくわかりました! 真剣なプレーこそ、ファンの求めるものです。安心してください。情熱を嫌うファンはいません。私たちファンはあしたもあさっても、ドラゴンズの情熱的な野球を期待しています」
 中が大きく笑いながら、
「そのとおりですよ。すばらしいプレイをしようとみんな一生懸命です。好きな野球を長くつづけるには、日々、肉体の鍛錬が欠かせません。金太郎さんの言葉じゃないが、冷静さは愛を失わせる。愛を失った姿はみっともいいものじゃない」
 フラッシュの瞬きが止まない。
「監督はシーズン開始どき、一度だけ優勝したいとおっしゃいましたが、このチーム状態では、二度、三度となっていくのじゃないでしょうか」
「他チームの巻き返しを考えれば、二度三度は容易ではありません。しかし、選手個々にケガや、急な衰えが出来(しゅったい)しないかぎり、連覇の可能性は濃厚です。それは長年Aクラスに留まりながら努力してきた中日ドラゴンズに与えられるべくして与えられる〈ボーナス〉と考えています。中くん、江藤くん、伊藤竜彦くん、高木くんといった生え抜きのベテラン勢に、やはり生え抜きの一枝くん、小川くん、千原くん、菱川くんら中堅組が加わり、そこへ江島くん、神無月くん、太田くん等の新戦力、さらに小野くん、葛城くん、徳武くんら超ベテラン助っ人陣が加わって、いまやドラゴンズは絶大な攻撃力と守備力を誇るチームになりました。ポロポロと有力な人材が欠けはしましたが、きょうの星野秀孝くんのように、それを補って余りあるような新人が出現する。わがチームは神に加護されているのではないかと思われるほどです。負けるほうが不思議な状態です。現状が維持できるあいだは、たとえ勝敗に頓着しなくても、ドラゴンズは勝ちつづけるでしょう」
「ありがとうございました!」
 小川が呼ばれてマイクの前に立った。
「九勝目、おめでとうございます。同僚小野投手とジャイアンツ高橋一三投手の九勝に並ぶ勝ち星を挙げ、ハーラー戦線に躍り出てきました」
「個人的には最多勝を狙ってますが、まだ六月ですよ。それよりチームの十八連勝が驚きです。異常事態だな。うまくいきすぎてて怖い。俺たちマトモな神経のやつらはみんなそういう気持ちです。怖がっていないのは、ほら、そこでキョロキョロあたりを眺めてる金太郎さんだけだな。こういうマトモでない人間を見るとなんだかホッとするね。とにかく星野秀孝を誉めてやって。こいつのスピードボールとパームは球界ナンバーワンだと思うなあ。この男は、きのう川原で草野球してたような少年ですよ。きょう一軍に上がったばかり。やっぱり怖いね、天才というのは。もう一人、二人出てこないかな」
 星野秀孝は長い睫毛をしばたたかせて、新聞記者の群れを見つめていた。
         †
 カズちゃんは、則武のキッチンテーブルに向かってアヤメの設計図を余念のない目で見つめながら、
「あしたの朝、まだ元気が余ってたら、ひさしぶりにね……。ちゃんと化粧しておきますから。あしたの午前、建築士とアヤメの最終案を詰めなくちゃいけないの。今夜は暇なし」
 しっかり化粧をした、いいにおいのするメイ子と離れに去る私に、カズちゃんはにっこり笑って手を振った。昨夜の決意―体調を万全に? こういうことに面倒を感じないことこそ、体調万全の証だと信じるしかない。


         百五十九

 六月二十一日土曜日。朝六時五十分に雨音で目覚めた。メイ子の姿はない。カーテンを開ける。強い雨。きょうの試合は中止だろう。小便、ふつうの軟便。浴室にいき、シャワー。頭をしっかり洗う。全裸で渡り廊下に出ると、俎板の音がやってきた。味噌汁のいいにおいがただよう。キッチンの玉すだれの向こうで二人が動き回っている。
「あらキョウちゃん、おはよう」
「おはよう」
 カズちゃんが薄く化粧している。メイ子も化粧し直し、二人とも赤い唇をしている。
「おはようございます。きのうの夜はごちそうさまでした。キャ! すごい」
「あ、勃ってるわね。ここでちょうだい。メイ子ちゃん、お料理つづけてて」
「はい」
 カズちゃんはスカートを脱ぎ、パンティを下ろし、食卓に肘を突いて裸の尻を向けた。よく濡れた柔らかい襞の中へ挿入する。
「ああ、キョウちゃん、愛してる、いつものとおり立派よ、いい気持ち、あ、イク!」
 こすりつづける。
「キョウちゃん、もう一回イッたら、止まらなくなる、ああ、イクイク、イク! ううーん、イク!」
「ぼくもイク!」
 射精し、二度、三度と律動する。
「あ、イキッぱなしになっちゃった、イクイクイクイク! もうだめ、キョウちゃん、最後までお付き合いできない、残りをメイ子ちゃんにあげて」
 メイ子が火を止め、あわてて飛んできてカズちゃんに並んでパンティを下ろす。カズちゃんから引き抜き、メイ子に挿入する。ぐっしょり濡れている。三度、四度と律動する。
「あああ、神無月さん、気持ちいい、イク!」
 カズちゃんはテーブルの端をつかみ、しゃがみこんで痙攣している。メイ子は深く咥えこんだ私を揉みしだき、腹を収縮させながら存分な快楽に浸っている。
「抜くよ、メイ子」
「は、はい、ごちそうさまでした、あ、イク!」
 カズちゃんは椅子に落ち着くと、ティシュで股間を拭った。メイ子は痙攣を終えて落ち着くと、雑巾で床を清めた。
「きのうあんなにいただいたのに、ありがとうございます」
「キョウちゃんがすぐイッてくれるようになったから、むかしよりはラク。でもまだつらいわ」
「オマンコが締まらないと、永遠にピストンだ。ラクなのはぼくのほうだよ。五秒でイッてくれるから、すぐ出したくなる。ありがとう」
 二人にキスをする。もう一度廊下の奥の浴室へいく。シャワーで局部を洗う。湯殿を出て、脱衣場の棚の花瓶に花が活けられているのに気づく。カーラー。ラッパ状の白い清楚な花。歯を磨いていなかったことを思い出し、洗面台のコップに挿してある歯ブラシで歯を磨く。ブラウンの髭剃りを用心深くあごや頬にあてる。少ししっかりした音になってきたように感じる。耳垢を取っておく。爪切りはきょうじゅうに。
 質素で美味な朝食ができている。玉子焼きと、板海苔。白菜の浅漬け。生臭くない丸干しも熱く焼き上がった姿を皿の上に曝している。
「疲れた?」
「爽快」
「きのう、新車届いたのよ。古いクラウンは引き取ってもらって、菅野さんの白のクラウン、それから私のマークⅡ。私はクラウンじゃなくマークⅡにしたわ。クラウンより馬力は弱いけど、庶民的な感じが好き。車体は紺じゃなく、ボルボと同じ赤いまま。思い出の色。菅野さんのクラウンと同じトヨタだから、アフターサービスや車検をやってもらうにも都合いいし」
 食事を終え、コーヒーを飲みながら新聞を開く。

   
神無月百号間近
      
プロ入り五十一試合目で八十四号

   
中日島谷阪急移籍か
      
水原英断この三十日にも

 どちらの記事も内容は読まなかった。
「きのうの水原監督のインタビューのとおり、ポロポロといなくなるのね」
「出番の少なさに耐えて自己研鑽を積む人間と、耐えられずに自信のある能力をほかの市場で買ってもらいたがる短気な人間がいる。浜野百三がそうだったし、この島谷さんもそうだ。自己研鑽型の人間しか大きく花開かない」
「キョウちゃんはどっち?」
「出番の多い自己研鑽型。最初から花開いてるから、ノビシロはあまりない。そこを自己研鑽で少しでも伸ばす」
「未熟な人はいざ知らず、いますぐ才能が人のお役に立つ人間は、研鑽なんか必要ないんじゃない? 才能のお手入れぐらいでいいと思う。研鑽して開花し切ったら散るだけになるわ。長保ちさせるために、あまり余分な研鑽はしないでね」
 私は心から同意してうなずいた。メイ子が、
「直人ちゃんて、花のようにかわいらしい子ですね。生まれて何カ月目だったかしら、一歳に近いころかな、私、羽衣にでかけようとして、トモヨ奥さまが居間で直人ちゃんに乳を含ませる姿をしばらく見てたんです。そしたら奥さま、アラお出かけ、って言って、おんぶ紐で直人ちゃんを背負い、玄関のサンダルを突っかけてわざわざ私を見送ってくれたんです。直人ちゃんが私に笑いかけました。下歯だけ生えているのがかわいらしくて、思わずキスしてしまいました。そのとき、からだがジンと痺れたんです」
「あなた、キョウちゃんのこと、心底好きだったのね」
「はい―。だから、いま毎日夢の中で暮らしてます」
 よごれた食器をシンクに入れて洗いはじめる。カズちゃんも並びかける。
 二人を玄関から雨の中へ送り出しながら、
「きょうはランニングなし。菅野さんに言っといて」
「はーい」
 机部屋にいき、ジャージを着て、書棚にあったゴールズワージーの『林檎の樹』の文庫本を手に取る。青高以来何度も読んだ本だ。印象深い最終章を開く。
 幸福な家族旅行の道すがら、たまたま目についた路ばたの墓石に関心を抱いたアシャーストは、いきずりの農夫に墓のいわれを聞く。農夫の話では、それはある娘の墓石だという。娘は自殺したということだった。自殺した者は正式な教会の墓地に葬られない。
 学生時代、アシャーストは鬱屈した心を抱えてこの地に旅をし、鬱屈した心のままにミーガンという田舎娘と恋に落ちた。アシャーストは彼女を都会へ連れ帰るつもりで駆け落ちの約束をした。林檎の樹の下で―。しかし、思い悩んだ挙句、彼は約束の場所にいかなかった。身分の〈不釣り合い〉が自分の将来を危うくすると考えたからだった。
 アシャーストは農夫を問い詰め、墓の主がミーガンであることを確かめる。ミーガンは林檎の樹の下で何日も待ちつづけ、絶望して入水自殺したのだった。アシャーストは身をよじるほどの悔恨の情に苦しむ。何度読んでも、私はこの場面で落涙する。
 ポツンと林檎の樹の下に立って男を待つ田舎娘の姿が、私の永遠の女性像だ。永遠の女を死んでも捨てるわけにはいかない。すべての元凶は打算に基づく別れだ。別れは種々の向上欲という打算に起因している。
 ゴールズワージーを書棚に戻し、漱石を取り出す。門を読みはじめ、没入する。きょうの雨の日のような小説だ。山奥ではなく、文明の巷に隠棲する夫婦。読み切る。心が完全にシケっている。書棚に戻す。入団以来、遠征の車中やホテルで読み終えた本も多い。芥川と梶井はほとんど車中で読了した。
 漱石を書棚に戻すと、午後二時を回っていた。アイリスで何か食べようかと思っているところへ玄関チャイムが鳴ったので、降りていく。
「こんにちは!」
「節ちゃん! キクエ!」
 二人揃って傘を畳む。二人とも明るい色のフレアスカートを穿いて、ドキリとするほどセクシーだ。節子は黄色、キクエはピンク。キクエは手にケーキの小箱を持っている。節子が、
「和子さんに電話もらったの。たぶんきょうは試合中止だから、キョウちゃんが一日のんびりできる日だって。三人楽しくすごして、夕飯も北村で食べなさいって。私たち二人とも今週は夜十一時出勤の深夜番なので、駆けつけてきました」
「じゃ、寝てないね」
 節子が、
「八時から五時間は寝ました。ぜんぜん平気」
 キクエが、
「コーヒーいれます」
 キッチンに入り、湯を沸かしたり、ケーキを小皿に盛ったりしながら、二人は楽しげに話す。キクエがフィルターコーヒーを落としてカップに分け、節子がモンブランに添えて出す。
「ここにくるまえに、西高の顕彰碑、節子さんといっしょに見てきました。うれしくて泣きました」
「私も涙が止まらなくなっちゃった。牛巻病院のロビーで私を待っていたキョウちゃんを思い出して……」
「キョウちゃんに遇ってからの私たち、成長したかしらって話し合ったんです。……何も変わってないって気づきました。資格をとって、働き場所が変わっただけ」
 節子がうなずきながら、コーヒーをすすり、ケーキをつつく。
「ぼくも成長してないよ。だいたい、成長って何かな。からだ? 頭? 肩書? どうも頭のことみたいだけど、成長って、要するに、自分を取り囲む環境をやさしい目で見るようになることだよね。悪意で見るより好意で見るようになると、成長と言うみたいだ。馬鹿らしい。人間は替り玉みたいにころころ変われないよ。人を深く愛する心を失わないことこそ人間の最高のあり方で、そこから先へ成長する必要なんかない。人間の心は技術的な進歩とはぜんぜん別のものだ」
 節子は、
「きてよかった。きょうもキョウちゃんらしい言葉を聞けた」
 モンブランがうまい。キクエが、
「あ、大事なこと忘れてました。タイ記録、十八連勝おめでとうございます」
「ありがとう。あしたもう一勝すればプロ野球新記録の十九連勝だ。たぶんいける」
「いろいろな事件もキョウちゃんの寛い心のおかげで、どうにか無事に治まったようですね。それもおめでとうございます」
「ありがとう。寛いというより、面倒くさいことがいやなだけなんだ」
 節子が、
「私たちはプリプリしてたの。お医者さんたちも、患者さんたちも、みんなプリプリしてました。どこまでがまんするんだ、神無月は人格異常じゃないかって、キョウちゃんに腹を立てる人もいたのよ」
「怒っちゃうと、好きな野球をやめさせられる羽目になるかもしれないからね。面倒くさい人生に逆戻りしちゃう」
「野球をしながら単純な人生を送りたい?」
「うん、いま、いちばん単純な人生を送れてる。感情の交流も、愛情の交歓も、単純な人生あってこそだ。さっきキクエが言ってた何も変わってないってこと、それがいちばん単純な人生だ。だからぼくたちは愛し合っていられる。ノンビリしながらね。さ、テレビでも観ようか。その前に、ジムのトレーニングを見てもらうかな」
 二人をジム部屋に連れていき、トレーニングの様子を見せる。ゆっくり、丹念に、機器を扱う。二人は肩を寄せ合いベンチに腰を下ろして見惚れる。
「いいだろ? 単純な生活」
「はい!」
「二人の毎日の勉強と同じで、基礎鍛錬を欠かすと、いいプレイができない。この単純さはぼくの理想だけど、二人の勉強とちがって、博愛に基づいていない。社会性はゼロ。ぼくはこれまで言ったりしたりしたことの中で、社会的に褒められるのにふさわしいようなものを何一つ自分に見出せないんだ。ぼくがこれまで博愛に似た愛情らしきものを注いだ相手は、見知らぬ人たちじゃなくて、気に入った人たちだけだ。ぼくを保護してくれないような社会、ぼくを苦しめようというときでなければぼくのことを考えてくれようともしない人びとをけっして愛そうとは思わないんだ。社会という名のもとで人の集まりがどんな複雑性を増すのか、その仕組みがどんなふうになっているのか、知ろうと思わない。つまり、社会性ゼロ。……でもこのごろ、見知らぬ人たちに対しても博愛的なことができるようになった気がする」
 二人がにっこり笑った。
「人が思うほどぼくは寛大な人間じゃないんだよ。じつは、面倒くさいからというのとも少しちがう。たとえば、ぼくは愛してくれる人間しか愛せないんだ。……母や浅野をまだ許していない。ぼくの基準で許してはいけないものを許してしまうと、ぼくがぼくではなくなってしまうからね。ぼくでないものは、ぼくとして生きていく意味がない。だから許さないまま生きていくしかない。……でも、母や浅野や西松の所長のやったことは、世間的に見ればそんなに特殊なことじゃないし、許せないというほどのものでもない。それでも許せない。……了見の狭い人間なんだよ」
 しゃべりながら一連のトレーニングを終える。聞き慣れている私の物言いなので、二人はこの上なくやさしく微笑しながら聴いている。彼女たちは私の葛藤から生まれた大事な闇だ。私はいつもそれに抱かれている。私でない者は闇に引きずりこまれまいとして戦うだろう。私は戦ったことはない。闇は空気と同様自然なものだ。闇に抱かれながら、自分自身という真実と向き合う。


         百六十

 薄っすらと汗をかいたので、二人の前で全裸になり、脱いだものを抱えて客間へいく。二人はついてきて、二組の蒲団を敷く。
「さ、夕めしまで、話をしたり、テレビを観たり、セックスしたりするよ」
「はい!」
 節子が、
「しばらくテレビ観てないわ。テレビ観ながらおしゃべりするなんてすてき」
 居間、客間、キッチン、離れ、この家にはテレビが四台ある。
「ぼくはテレビっ子だったんだ。二人はちがうだろ?」
「家にテレビがなかったから。貧乏だったの」
「魚屋さんにもなかったわ」
「飯場にはあった。毎日観てたから、贅沢品と思わなかった」
 二人も全裸になる。横たわり、キクエの小さな美しいからだを撫ぜる。それを少し相似形に大きくした節子のからだも撫ぜる。幸福感に満たされる。交互に長い口づけをしてから、テレビを点ける。画面も観ないでキクエが言う。
「三年前、西高の廊下でキョウちゃんに遇ったときに、すぐ思いました。この人の謎は解けないって。……いまでもそう。あれからキョウちゃんと長い時間をすごしたけど……驚きます。強さや、やさしさ、色気も」
「キクエもすごい色気があるよ」
 うれしそうにキクエは節子の腕をつかむ。画面を見る。チャンネルを回す。NHK。CBCテレビ。東海テレビ。いまやテレビはほとんどカラー放送だ。漫才、昼メロ、家族ドラマ、アフタヌーンショー、クイズ。下品な顔たち―日本じゅうがこういう顔になっていく。それに比べて、私の女たち、ドラゴンズのメンバー。なんと美しい。節子が、
「キョウちゃんの小さいころは、どんな番組をやってたの?」
「スーパーマン、月光仮面、名犬ラッシー、やりくりアパート、ジェスチャー、お笑い三人組、私の秘密、事件記者、ポパイ、てなもんや三度笠、プロ野球中継」
 キクエが、
「なあに、三度笠って」
「顔を覆うほど深い笠だよ。江戸時代の飛脚がかぶった。月に三度、江戸と上方を往復した三度飛脚がかぶったからそう呼ぶんだ」
 節子が、
「てなもんや三度笠って、お昼にやってたでしょう。牛巻病院のテレビで観たことある」
「日曜日の昼だったね。節ちゃんと遇った昭和三十九年四月二十三日月曜日は、夜八時から姿三四郎をやってた。八時からの一時間番組。それを節ちゃんがロビーのテレビで食い入るように観てたんだ。一人っきりでね。白い靴がチョコンと外股に開いてて……」
 キクエが、
「その姿をキョウちゃんが見てたのね」
「うん、後ろのベンチに座って。……首筋の後れ毛がキラキラ光ってた」
「好きになったのね」
「人生を賭けるほどね」
 節子が、
「……ごめんなさい。つらい思いをさせちゃって。もう、私は命をキョウちゃんにあげたの。許してくれる?」
「がっかりしたことはあったけど、怨んだことはない。だから、許すとか許さないといった気持ちになったことはないよ。こうしてぼくを愛してくれた。母や浅野とはちがう」
「怨んでほしいの。キョウちゃんは罰する相手をまちがってるわ。キョウちゃんは人を怨む自分を罰しつづけてる。でもキョウちゃんは罪人じゃない。罪を犯した人を罰しないとだめ。私や、お母さんや、所長さんを怨んで罰してほしい。……少なくともその気持ちを持って私を抱いてほしいの。許してほしいけど、怨みを捨ててほしくないの。私はそうしてもらわないと安心して生きていけないし、セックスもできない」
「節ちゃんはそうやって自分を罰してるんだね」
「罰することが安心のもとだからよ。ひどいことをされたら、怒って怨むのが正しい心の動きよ。正しい心の動き方をするキョウちゃんを愛してるっていう安心感がないと生きていけない。この上なくすばらしい人を裏切ってしまったんだから、そうしないと私は卑怯者になってしまう」
「その気持ちにはとっくに決着がついて、ぼくはいまでは純粋に滝澤節子という女を愛してるんだ。何度も言ったことだよ。節ちゃんは口先の人間じゃない。行動の人だ。節ちゃんを愛することをぼくは誇らしく思ってる」
 キクエが、
「節子さんがキョウちゃんのすべての出発点なのね」
 私は節子の頬や胸にキスをした。
「そう。でもからだの出発点はちがう。……カズちゃんなんだ」
 キクエは、
「からだなんかどうでもいいわ。私は自分が何人目なんて考えたことないもの。キョウちゃんが心の拠りどころだということ。それがすばらしいことなの」
 節子が、
「……キョウちゃんに許してもらえてうれしいわ。とにかく、私はキョウちゃんといっしょに生きて、いっしょに死ぬの」
「私も。あしたでもいいわ。ゼロだった人生にオマケをくれた人。余計なプラスはいつなくなってもいい」
 愛する二人の女が親しくしゃべり合いながら横たわっている姿を見るのは楽しい。勃起してきた。
「きのうの夜はメイ子、今朝はカズちゃんとメイ子。つづけてセックスした。いつもの調子だと、あと二、三回はできる。あいだを空けると性欲が減退していくタチなんだ。たとえば遠征などで間隔が空いたあとのセックスがいちばんつらい。溜まったフリはするけどね。いったんすればラクになる。そしてつづけてできる。カズちゃんはそのことをよく知ってる。いまも、ほら」
 二人は視線を私の腹部に移す。キクエが、
「わあ、すてき! 私たちを向いてます」
「ちょうだい!」
 節子は起き上がり、あわただしく私に跨る。心地よく入った。
「ア! すごい、気持ちいい! キョウちゃん好き、死ぬほど愛してる、ああ、イッちゃう、イッちゃう、イクウ!」
 倒れこみ抱きついて痙攣する。尻が大きく上下に揺れる。キクエが私の肩にキスをする。「イク、またイク、キョウちゃん、イク! 下ろして、下ろして、あああ、またイク!」
 腰を下から抱え上げて、抜き去り、寝床に横たえる。キクエは、
「ください!」
 と言うと、節子と同じように跨り、私のものをしっかり股間に挿し入れた。とたんに、
「あーん!」
 とうめいて、五度、六度と無言でアクメに達する。胸に倒れこみ唇をしゃぶりながら、
「ああ、キョウちゃん、大きくなりました、あああ、気持ちいい! いっしょに、いっしょに、ああああ、イクウ!」
 しっかり抱きついて、私の射精と同時に烈しく痙攣した。セックスのときだけは、女はまったく別種の言葉をしゃべる。その懸隔がいつまでも目覚ましく新鮮だ。
「あああ、気持ちいい! ああイク、イク、あああイック! イック!」
 危険を感じたので無理やり離れようとすると、
「キョウちゃん、最後の、最後のグングン―」
 陰阜を強く押しつけ股間の奥へ呑みこむ。
「もっとグングンして、ぜんぶ出してください!」
 最奥部へ突き入れて最後の律動をする。
「ううう、気持ちいい! あ、愛してます、ああー、イク、イクイクイク、イイイックウウ!」
 陰阜を前後させながら上半身をガクンガクンと痙攣させる。私は彼女の腰を抱えて引き抜き、節子に並べて横たえた。キクエは痙攣を繰り返しながら、尻を何度も蒲団に打ちつけた。二つの美しい造形物がうごめくのを眺める。二人のあいだに入り、しゃにむに口づけを交わし合う。節子とキクエは無理やり微笑みを取り戻すと、口々にありがとうと言った。節子が、
「こんな気持ちのいいことがあったのをしばらく忘れてたわ。ああうれしい」
 キクエが、
「ほんとね。自分がそういうからだをしてるのも、ウソみたいに感じます」
「キョウちゃん、ありがとう」
「ありがとう」
 ようやくテレビの画面に意識を戻す。キンカン素人民謡名人戦。三人手を握り合って観る。キクエが、
「あら、よしのりさんよ!」
「うそ!」
 たしかによしのりが紋付着た三味線男を脇に控えさせ、マイクの前で弥三郎節をうなっている。私は上半身を起こした。

  …………
  二つァエー 二人と三人と人頼んで
  大関の万九郎から嫁もらった
  三つァエー 三つ揃えてもらった嫁
  もらってみたどこァ 気に合わね……

「やるなあ!」
 四人の審査員全員が合格の評価を下した。六人唄って、よしのりともう一人に絞られたが、最後の勝利は果たせなかった。キクエが、
「有名になりたかったのね」
 節子が、
「この番組、病院でもときどき観るわ。よしのりさん、最後の一押しが足りなかったみたいね。ちょっと焦ってる感じがよくなかったのかしら。勝ち抜いていれば、半年に一度の全国大会だったのに」
 キクエは私の肩にキスしながら、
「その一押しできるかどうかが才能なのね」
 私はうなずき、
「やっぱり巷に戻っていくしかないんだな」
 節子は私の腹を舐め、臍を舐める。キクエが私のものを含む。
「水泳、踊り、民謡。やりたいことがないんだ。何かで認められたらそれをやる、という気持ちだろう。それはいいけど、節ちゃんの言うような一押しがね……」
「勃ちました。今度は私が先」
 キクエがゆっくり跨った。
         †
 節子に手足の爪を切ってもらった。夕方、三人傘を差して北村席へいく。門脇のガレージに白いクラウンと赤いマークⅡが並んでいる。蛯名のハイエースの分が抜けていた。
 玄関を開けると、色とりどりの靴やサンダルが散らかっている。みんな戻っている。戸の開く音を聞きつけて、直人が式台へ走り出てくる。
「きゃ、かわいい!」
 キクエが抱き上げる。節子はすぐ厨房の手伝いに入った。トモヨさんの声が聞こえてくる。
「きょう耳鼻科にいって、こんな大きな耳クソを取ってもらったのよ。腕のいい女医さんで、こちょこちょ、ビッと取っちゃった」
「どうして耳クソを?」
「耳の中がゴロゴロするって言うもんだから」
 私は厨房を覗きこみ、
「その耳クソ見せてくれない?」
「女医さんがその場で捨ててしまいました。小指の先ぐらいの大きさで、少し薄黒かったわ」
 こんなにおおきかった、と直人が頭の上で腕いっぱいの丸を作る。じつにかわいらしい。キクエも厨房へ手伝いにいった。皿鉢の運びこみが始まる。ケーキしか食べていないので腹がへっている。
 ステージ部屋に大テーブルを入れて、睦子と千佳子がキッコに勉強を教えていた。数学のようだ。近寄って覗きこむ。方程式の下に、円に接線を引いた図が描いてある。千佳子が、
「キッコさん、見どころあるのよ。飲みこみが早いの。四年後には確実に名大に受かるわ」
 キッコが、
「二十六歳の大学一年生」
「ぜんぜんおかしくないよ。きれいだから、千佳子や睦子と同じように、十八、九にしか見えない」
「まさか!」
 キッコが私の肩を打つ。



(次へ)