百六十四

 暖かい陽が落ちてきた。公園に散歩にきた老人がやさしく笑いながら近づいてくる。握手を求める雰囲気だ。握手する。
「いつも応援してます。あなたの人となりのすばらしさは、見る人はちゃんと見てますからね。どんな困難にもめげずにがんばってください」
「ご近所の方ですか」
「いや、通りがかりの散歩者です。もうすぐ八十になります。お迎えが近い。あなたをこの目に収められたのは、神さまのお導きです」
 菅野と同じことを言う。だれもが直面する真理は、希望と関係なくすべてに終わりがあるということだ。何ごとにも結末があり、別れがある。季節の終わり、本の最終章、愛する者との別れ、この老人が実感している生命の終わり。
 終わりは避けられない。だからこそ、先走って、途中で別れる必要がない。おのずと訪れたきょうが、常に終わりの日だ。終わりの日には全精力を傾けなければならない。大切な別れの日だからだ。大切な別れの日の前に先走って別れてはいけない。
 その大切な日を賭して、この老人は私に語りかけた。愛する者は支えであり、道しるべであり、愛する者の言行にいつも自分の心は同伴していると告げるためだ。
「声をかけてくださって、ほんとうにありがとうございました。何ごとにも挫けずにがんばります。最後まで見守っていてください」
 老人は笑顔でうなずき、確かな足どりで公園を一周すると、もときた入口から出ていった。菅野がその背中を見つめながら、
「ありがたいですね」
「うん、子供も老人も、がんばれと言ってくれる人はありがたい。ぼくはがんばるという言葉が大好きなんだ。そんなことわかってると臍を曲げたり、だれだってがんばってるんだと居直ったり、これ以上がんばれないと憂鬱になったりする人はヒネクレ者で、何百万人に一人だと思うから」
「神無月さんの人生は、がんばるのひとことでしたものね」
「うん。―秀樹くん、書道がんばってるか」
「はい。神無月さんを見習って、怠けずやってます」
「人間はがんばるしかないし、がんばればかならず思いがけないことがあるからね。それはたいていいいことだ」
「はい!」
 陽射しがきつくなってきた。席の門を入る。
「オールスターの第二戦の甲子園は日曜日なので、一家で観戦にいくことになりましたよ。女将さんとトモヨ奥さんに留守をしてもらって、厨房以外の七人でいきます」
「宿は?」
「決まってませんけど、贅沢すると言ってました。秀樹もちょうど夏休みに入るので連れていきます。女房は留守番」
「ぼくは月曜に平和台へ移動だから、会えないね」
「もちろんご迷惑はおかけしません。私たちの勝手ですから。アイリスからはお嬢さんと素子さん、北村からは社長と私と秀樹、それから千佳ちゃんとムッちゃんです。もうネット裏の予約席を取りました」
 席に戻ると、その話になった。厨房連中が残念がるようなことを言う。トモヨさんがソテツたちに向かって、
「台所がストップしたらたいへんでしょう。台所は北村の顔ですよ。顔はなくせません。……私だって、こんなからだでなかったら、顔なんかどうでもいいからいきたかったのに」
 ワッとみんな笑った。私は、
「アイリスの顔を守るのは、メイ子と百江だね」
 女将が、
「森さんと島さんも、南山大学さんも、みんなやが」
 千佳子が、
「アイリスそのものが、北村席の別の顔ですものね」
 主人が、
「秀樹くん、どうやった、キャッチボールは」
「バレーボールみたいにそっと投げてくれるんですけど、それでも速かったです。ボールがグッと近づいてきて―。おとうさんには手首だけで一球投げたんです。バシンて、グローブがすごい音立てて、おとうさんが痛がって―怖かったです」
「いい経験したがや。最高のプロ野球選手とキャッチボールしたんやぞ」
「はい!」
 菅野が、
「もうやりません。ふつうにキャッチボールしたら、殺されます」
 秀樹くんと雨後の色鮮やかな庭を眺める。
「こういう自然を見ていると、人間の営みのことを一瞬忘れるよね。でも忘れるのは一瞬ですまさなくちゃいけない。自然こそすばらしいと言っちゃいけないんだ。ぼくたちはどんなに美しい自然に包まれても、いずれ退屈して生きていけなくなる。でも、どんなに世知辛い人間社会の中に放り出されても、胸躍らせて生きていける。人間というのは、人間を愛して生きていくようにできてるからなんだ。自然を愛しては生きられない。世知辛い環境の中で愛し合う人間同士を包んでくれるのが、自然の美や人工の美だ。人工の美には芸術も含まれる。きみのいそしんでる書道もそうだよ。いずれにせよ、人間を愛する心が主で、その心を包む美が従なんだ。つまり、人間〈こそ〉すばらしいものなんだよ。愛を知り、美を知ることで、何が本質で何が付属物かを見抜けるように、頭と心を鍛えなくちゃいけないよ」
「はい……」
「肩書とか資格というのも、温かい毛布のような付属物だ。もしぼくが付属物を大事にする人間なら、その温かさの具合を自慢する。たとえば自分は暖かい毛布を持ってる有名な野球選手で、秀樹くんたちはペラペラの寒い毛布しかもっていない一介の市民にすぎないと言い出すだろうね。生きる世界がちがうなんてことまで言いだす。どちらも愛という同じ本質を持った人間で、肩書は暖を採るためだけの毛布だということに気づかないからだ。毛布〈こそ〉すばらしいと言い出すんだよ。そういう人たちが集まっているのが、世知辛い人間社会だ。でも人間〈こそ〉すばらしいとわかっていれば、そんな社会でもワクワクしながら生きていける。そういう人たちも分け隔てなく愛してあげれば気持ちいいし、そういう人たちもいずれ愛の大切さに気づくだろうと信じるのも気持ちいいからね。気づく人が少ないとしても、いつも周りにかならず、愛に満ちた人たちがわずかでもいると考えるのも楽しいだろう?」
「はい、そう考えると、生まれてきたことがうれしくなります」
「ほんとだね」
 主人が涙目でうなずき、菅野が掌でつるりと顔の涙を拭った。いつのまにか私たちの背中にきていた睦子が、私と秀樹くんの肩をそっと抱いた。
「秀樹くんや私たちじゃなく、神無月さんがいつも自分に言い聞かせている言葉を聴かせてください」
 私は振り向いて睦子にニッコリ笑いかけ、
「人間が一人ひとりちがうのは魅力だけれども、人生の不安要素でもある。でも不安も充実した気分だと考え直せばいい。不安でない人生なんてあるはずがない。不安に思おうと、充実しようと、人生はあっけないほど短い。人間のちがいに気を差しながら短い人生を案じて過ごすより、一瞬一瞬を充実して生きるほうが時間の楽しい使い方だ。それがぼくの独り言かな」
 睦子はきつくきつく私だけを抱き締めた。
「秀樹くんが見てるよ」
「いいんです、すばらしい人は抱き締められるものだって学べます」
 秀樹は父親とにっこり顔を見合わせた。
 やがてアイリス組が帰ってきて、座が賑やかになった。主人は徒歩で寄り合いに出かけていった。
         †
 中日対巨人十一回戦。両チームの練習をたっぷり見てもらおうということで、球団が配慮して、開門が四時半ではなく、三時半に早められた。そのせいで、中日のバッティング練習終了時の四時半には、スタンドが立錐の余地がないほどの満員になった。私が打っても守っても、スタンドがワーワー言う。外野をうろうろしていた宇野ヘッドコーチがスタンドを見上げながら、
「おそるべし神無月人気、だな」
 柔軟をやっている仲間たちが和んだ表情で私を見つめる。
 試合開始を待つあいだ、ネット裏を見上げると、きょうは主人夫婦と菅野が観戦にきていた。女将がきたのは初めてだった。感激した。手は振らなかった。ひきしめていこうと思った。
 巨人の先発は八年目の城之内。ドラゴンズは中四日の小野。城之内には初対面で手こずったけれども、いまは苦手意識がない。仲間の話によると、彼は去年あたりから下り坂の雰囲気だそうだ。彼の以前の姿を知らない私にはわからない。慢性の腰痛持ちということだが、右肩を真後ろへ回して上体をひねり戻すあの投げ方では無理もないと思う。私の気づいたところでは、左足の上げが高いときは好調だ。
 その城之内は二回で降板した。中日の布陣は、一枝、高木、中、江藤、私、木俣、島谷、伊藤竜彦、小野。一回裏に畳みかけた。一枝センター前ヒット、高木フォアボール、江藤レフトスタンド中段へ三十五号スリーラン、私右中間スタンド中段へ八十五号ソロ、木俣左中間前列へ十九号ソロ。城之内は打者五人自責点五で降板。渡辺秀武にピッチャー交代。島谷、伊藤竜彦、小野凡退。二回以降は、私、菱川、太田、一枝の散発四単打、零点に抑えられた。私は、ホームラン以外の四打席は、センター前ヒット、ライトライナー、フォアボール、ファーストゴロだった。八回裏に田中章が出て敗戦処理。
 巨人は散発三安打。高田が一本、土井が二本。巨人の挙げた一点は四回表の高田のソロホームランだけ。私の頭上をラインドライブしながら低く越えていった。
 一対五でドラゴンズのα勝ち。隅五。これといった山も谷もない平凡な試合だった。九回を完投した小野は、巨人クリーンアップをノーヒットに抑え、打者三十三人に対して被安打三、フォアボール三、自責点一、ほぼ満点のピッチングでハーラートップに立つ十勝目を挙げた。巨人は六連敗。中日は引き分けを挟まず十九連勝。プロ野球新記録を樹立した。「本日の勝利で、中日ドラゴンズは、引き分けを挟むことなく十九連勝を達成いたしました。昭和二十九年の南海ホークスの十八連勝を凌ぐ日本プロ野球新記録でございます」
 承知していたと言わんばかりの大歓声、拍手、喝采。六月十日の拍手喝采の音量とはまったくちがう。下通嬢が透き通った声で何やらつづけて長々とアナウンスする。昭和三十五年に引き分けを挟んで十八連勝した大毎オリオンズのことを言っているようだ。もちろん大毎はその年優勝。当時のピッチャーの柱は三十三勝を挙げた小野正一、ミサイル打線には田宮、榎本、山内、葛城がいた。十八連勝中に小野が十五試合に登板して十勝を挙げた、という驚くべき事実を下通のアナウンスで初めて知った。
 水原監督へのインタビューもそれに終始した。話を切り上げたかったのか、インタビューの途中で監督は、
「大リーグには二十六連勝がございますでしょう?」
 話の腰を折った。
「はい、大正時代にニューヨーク・ジャイアンツが引分け一つ挟んで記録しております。昭和十年にはシカゴ・カブスが純粋二十一連勝、二十二年のニューヨーク・ヤンキーズの純粋十九連勝とつづきます」
「それとタイ記録になったわけですね。それではもう少し夢を見ましょう」
「はい! いっしょに見させていただきます! カブスの二十一連勝まであと二つ、ニューヨーク・ジャイアンツの引分け挟んで二十六連勝まではあと一つです。三つ連勝すればどちらも、純粋連勝世界新記録になります」
「じゃ、大騒ぎはこのへんで。そろそろ引き揚げさせていただきます」
「ありがとうございました!」
「はいはい」
 ロッカールームで、紙コップのビールを掲げて日本新記録達成のカンパイ。音頭とりは足木マネージャー。
「さっき監督にインタビューしていた記者が口にした、シカゴ・カブスの二十一連勝というのが次の関所になるんでしょうが、勝手にマスコミが仄めかした関所にすぎないわけですからドラゴンズの目標とはなり得ません。いままでどおり、楽しんできびしい野球をやってください」
「オース!」
 監督が、
「きょうのようなドラマのない単調な試合には血が沸かないね。気分が滞ったような疲労が残る。江藤くんもつまらなそうな顔をしていた。スミ五も仕方ない。とにかく巨人の選手たちから気持ちが見えてこなかった。有力投手が出れば打たれる。王、長嶋も無安打。あそこまで気持ちが入ってないんじゃ、投手の起用法も何もあったもんじゃない。ところで、うちの連勝記録なんかどうでもいい。いずれ負けるんです。どうやったって三十敗はするんです。そのときにスカッとした気持ちで負けられるように、もっともっと情け容赦なく打ってください。相手が点を取ってくれないならそうするしかないでしょう。あしたは、一日のんびりして、せいぜい疲労回復に努めるように。あさっては名古屋からいちばん遠い広島だよ。ベンチ入り遅れないようにしてね。広島は巨人よりは戦い甲斐があるでしょう。血沸き肉踊る試合を期待してます」
「オイース!」


         百六十五

 北村夫婦と菅野と四人で北村席に帰る。女将が、
「ええもの見させていただきました。野球って退屈せんもんやなあ。打つ人の姿はきれいやし、守っとる人の姿もきれいやし、もちろんホームランはきれいやし、ピッチャーの投げる球もきれいやし、審判がピチピチしとるのもきれいやし、野球場がとにかくきれいやわ。耕三さんや菅ちゃんが入れこむのもわかるわ。私も病みつきになりそうや」
「病みつきになってくれればありがたいです。同病でわかり合えますから」
 主人が、
「ええ仕事に就いたなあ。みんな一匹狼に見えるんがますますきれいな感じがして、たまらんわ。神無月さんの世界や。やっとおトクも、神無月さんがどんな世界に出かけていくかわかったようやな」
 北村席に戻ると、トモヨさん母子を除いて、寝ずに待っていてくれた一家の人たちの手でささやかな〈おめでとう〉会が行なわれた。カズちゃんはじめ女たちはみんな化粧していた。主人が、
「なんや、もうみんな寝る時間やろ。少しアルコールを入れて、夜食をいただいたらとっとと引き揚げなさいや」
 私はユニフォームのまま座についた。主人夫婦もにこやかに坐った。ソテツやイネや幣原たちの手で全員にビールがつがれる。臨機応変の菅野がコップを手に、
「十九連勝、日本新記録、おめでとうございます!」
「おめでとうごさいまーす!」
 千佳子が、
「八十五号ホームラン、おめでとうございます!」
「おめでとうございまーす!」
 明日が休みだという安心感で、私はグイとビールを流しこんだ。睦子が、
「中日が独走態勢に入ってしまって、ほかのチームはやる気をなくしてしまったようですね」
「特に巨人がね」
 菅野が、
「大洋と阪神はがんばってます。巨人独裁のころより、野球そのものはおもしろくなりました」
 女将がめずらしくビールをすすりながら、
「野球も野球選手も野球場も、ええねえ。ほんとにきれいや。私、ときどき観にいくことにしたわ」
 住みこみの賄いたちがつくった鶏ガラスープの五目ソバは絶品だった。豚バラ、ムキエビ、イカ、ニンジン、白菜、しいたけ、鶉の玉子。ひとしきり一家は贅沢なソバの美味に舌鼓を打った。カズちゃんが、
「あさってから二十九日まで遠征ね。いつも私のそばでじっとしてたキョウちゃんが、全国をピョンピョン飛び歩くようになるなんて」
「ほんとだね。小学中学のころは、ドラゴンズは中日球場に居ついて野球をしてるものと思ってたから。日本一出張の多い職業がプロ野球選手だったとはね」
 睦子が、
「周囲の人との共同作業が必要な変わった職業なので、神無月さんは私たちみんなの充実感と幸福のために、すばらしい環境を用意してくれたことになりますね」
 素子が、
「ほんとにそうやねえ。一家のお父さんが毎日同じ場所の往き帰りに時間を使うようなサラリーマンやったら、家の中以外の身の周りのことはほとんど一人でできるし、だれの協力も要らんもんね。お父さんはただの勤め人になってまって、周りの近しい人との関係も薄っぺらいもんになるやろな」
 カズちゃんが、
「やっぱりキョウちゃんはみんなを幸せにしてくれたってことね」
 菅野が、
「そうですよ。幸せどころじゃない。人生を意味のあるものに変えてくれたんです」
 女将が、
「この何年か、家の者同士こうやって集まって、話をしたり、ものを食べたりするなんてこと、北村席始まって以来のことやが」
 キッコが、
「神無月さん、ありがと」
 百江も、
「ほんとにありがとうございます」
 と頭を下げた。私は首をさすりながらビールを飲むばかりだった。
 アルコールが回り、腹もくちて、カズちゃんに言われて北村席で寝ることになった。カズちゃんたちが則武に帰ると、ユニフォームを脱いでシャワーを浴び湯船に浸かった。風呂から上がると座敷に人けはなかった。音楽部屋に敷いてあった蒲団に入り、翌日の七時までこんこんと眠った。
         †
 六月二十三日月曜日。七時起床。曇。二十二・二度。廊下側の襖から出て、うがい、下痢、シャワー、歯磨き。居間にいく。
「あ、おはようございます。ごはんどうぞ。ワシはすませました」
 北村夫婦とコーヒー。主人が読んでいる新聞に十九連勝新記録の活字が躍っている。読む気なし。
 座敷にいき、名大生二人、早起きのトルコ嬢たちも交えてオーソドックスな朝食。ポークソテー、目玉焼き、板海苔、白菜の浅漬け、小少女(こうなご)の佃煮、豆腐と油揚げの味噌汁。
「ソテツ、佃煮ありがとう」
「どういたしまして。神無月さんのリクエストなら何でもご用意します」
 カズちゃんたちがやってくる。
「おはよう」
「おはよう」
 トモヨさん母子もやってきて、食卓に加わる。直人は幣原の助けを借りずに、スプーンとフォークを使って一人で食べようとする。小さなおにぎりとプレートの副食なのでどうにかこなしている。味噌汁も、スープ、と言いながらうまそうに飲む。
 迎えにきた菅野とランニングに出る。四十分ほどで西高までを往復。北村席の庭で三種の神器、素振り百八十本、翼の五キロダンベル五十回、一升瓶を左右三十回ずつ。それを横目に千佳子と睦子が大学へ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 追うように菅野と直人。
「おとうちゃん、いってきます」
「お、いってらっしゃい。お土産は何がいい?」
「いらない。かえったら、やちゅうやって」
「よし、わかった。ジャングルジムに上らないようにね」
「うん」
 居間へ戻り、広島へスポーツバッグといくつかの荷物が配送されていることをイネに確認し、月曜休みの天童に耳掃除をしてもらう。そのあいだにカズちゃんたちが出ていく。
「ケガに気をつけてね」
「うん、つつがなく帰ってくる」
 九時四十分に江藤、太田、菱川が明るい顔で北村席にやってくる。主人夫婦と優子と厨房の女たち以外は出払っている。きょうのトルコ嬢は全員早番で出勤した。三人はソテツとイネにコーヒーを振舞われる。トモヨさんの勧めで軽くソーメンをすすった。江藤が菅野に、
「川上監督、借金十までいったら退任らしかです」
 菅野は笑い、
「新聞記者がそんな記事を書くのは、世間の退任反対の票を煽りたいからですよ。退任はぜったいないでしょう」
 菱川が、
「川上続投なら、この弱さは二、三年つづくんじゃないですか? バット事件がケチのつき初めでしたね。情けなくて、俺が巨人の選手でもやる気をなくしますよ。長嶋の低打率と、王のホームランの少なさが物語ってます」
「大人格者で通っとった人やからな。反動もデカか。これで巨人の今年の目標は、金田の四百勝だけになったくさ」
 主人が、
「あと四カ月、小川、小野、星野秀孝を中四日か五日で回しても、ちょっと手薄ですね」
 江藤は、
「そぎゃんたい。水谷寿伸(ひさのぶ)、山中、伊藤久敏、門岡あたりば混ぜこんで乗り切るしかなかと思います。主軸の三人が疲れてきたら、敗けがつづくこともあり得るばい。やっぱり三十敗ぐらいするかもしれん」
 太田が、
「あしたは水谷寿さんですね」
「おお、点ば取らるうやろうもん。逆転する心構えばしとけよ」
「はい!」
 女将が、
「名古屋に帰るのは三十日やね」
 菱川が、
「はい、そこから七月九日まで名古屋です。調整試合の広島戦と阪神戦が、七月三日と六日です。十日から東京、大阪と回って、十四日に帰ってきます。十五、十六、十七日と大洋戦をやったら、いよいよオールスターです」
 十時を回り、ソテツの弁当を持たされ、名古屋駅へ。見送りは主人と菅野と優子。
「カープは罰金の制裁を受けたとはいえ、ここぞというときには四球を多用してくると思います。少ないチャンスをものにしてください」
 菅野が言うと、江藤が、
「金太郎さんの四球はシーズン百ば超えるやろうと、水原さんが言っとったばってん、広島の制裁以来全チームが自粛するようになったけん、このひと月はそれほどでもなかっちゃん。シーズン通しても百はいかんのとちゃうかな。ほやけん、ホームランが増えるやろう。この六連戦でホームラン四、五本はいくんやなかね。どうね、金太郎さん」
「そう願ってます」
 ダッフルとバッケースを担いで十時十七分の新大阪行ひかりに乗りこみ、グリーン車の窓から二人の男と一人の女に手を振る。
「優子さん、きれいやな。睦子さんやイネさんに肩並べるんやなかね」
「耳クソ取りの名人です。きょうも取ってもらいました」
 太田が耳の穴をほじりながら、
「ソテツちゃん以外は、みんな肩並べてるでしょう」
 菱川が、
「和子さんとトモヨさんと睦子さん、それから素子さんは別格でしょう。みんな睫毛がバッと長くて、頬っぺたプーとふくらんで、皮膚が真っ白。人混みに入ったらキラキラ星ですよ」
「妖怪やな。金太郎さんの恋人はあのくらいきれいやないと釣り合わん。子供にしてもそうたい。直人くんなぞ、金太郎さんのチンポからダイヤモンドがボロッと飛び出たようなもんたい」
 菱川と太田は膝を叩いて笑う。菱川が、
「あのチンポからなら、ダイヤモンドが飛び出してもおかしくないですね」
「そうたい、ふつうのものは出てこんごたる。―しかし、広島へいくのがいちばん厄介ばい。何年かして山陽新幹線が走るようになれば二時間半もかからんでいけるそうやが」
 十一時二十六分新大阪着。初の広島遠征時と同様、大阪駅までタクシーでいき、在来線の姫路行の特急に乗る。開幕戦のような興奮はない。ここでようやくソテツ弁当。
「こりゃすごか!」
 大きな竹包みに半分白米、半分にメンチ丸ごとトンカツソースかけ、太いウインナー二本、茹で卵半身ゴマかけ、茹でサヤエンドウ半切り三本、ナスの煮浸し二本、梅干。ぎっしり詰まっている。うまいことこの上ない。
 太田が、
「煮浸しのツユも切ってありますよ。神経細かいなあ」
「くどかようやが、ソテツちゃんにはええ婿さんがほしかのう」
 途中の姫路で広島行の各駅に乗り換えてから、おおよそ四時間半、四人仲良く満腹を抱えて仮眠をとっているうちに広島駅に着く。みんな背中も尻もへとへと。降りてすぐ公衆便所で連れション。
 市電の走る美しい夕暮の街並をタクシーで世羅別館へ。あと八分。ホッとして江藤に語りかける。
「世羅は、会食以外は部屋届けの食事で、弁当なしでしたね」
「ほうや」
「また夜は、ラーメンを食いに出るんですか」
「おお。ばってん三日ある。焦らんといくばい」
「ぼくのラーメンの理想は、細くて縮れた麺、混じりけのない醤油味、上に載ってるのはチャーシュー一枚、シナチク少々、ほうれん草のおひたし一つまみ、薄っぺらいナルト一枚、板海苔一枚、ねぎ少々、そこへ胡椒をたっぷり振りかける。そういうラーメンがあったら、百パーセント食いにいきます」
「……なかろうのう。いわゆるむかしふうの支那そばやな」
「はい。七歳から十歳にかけて、横浜で食いました」
「十年ほど前からやっとる『すずめ』ゆう店は、ほんなこつうまいばってん、中太麺にチャーシュー五枚と刻みネギが載っとる。豚骨、鳥の骨、野菜で取った醤油味のスープは応えられんたい。メニューが中華そばしかなか。徹底しとる」
「コッテリそうなので遠慮します」
「そぎゃんやろな。金太郎さんの言う純然たるむかしながらのラーメンは、もうどこにもなか」


         百六十六

 眼鏡をかけた中年のタクシーの運転手が、とつぜん、
「私、宮城県でも仕事をしとったことがあるんじゃが、仙台にはそういう支那そば屋が多いィよ。とくに太白(たいはく)の長町ラーメン。あっちで試合があるときはいってみてください。しかし、ほんとにラッキーじゃった。首位を突っ走るチームの選手さんを乗せることができて、びっくりじゃ」
「ワシら仙台にいくことはまずなかやろ? 宮城県営球場はパリーグぎりやなかね」
「そうじゃった」
 太田が、
「神無月さんの願いは当分叶いそうもないですね」
「いや、ワシが食い歩いて見つけちゃる。ほうれん草がミソやな」
「私、二年置きぐらいにほぼ全国を流して回りましたが、醤油味でほうれん草が載ったラーメンは、秋田県の大館、栃木県の那須塩原、生姜風味ですが新潟県の長岡、あとはやっぱり横浜ですね」
「あんた、独身ね?」
「はあ、流して歩いているうちに婚期を逃してしもうた。もう四十の坂を越えました」
「ラーメン食いとうて、流しとるんやろが」
「そういうことでもないんじゃが、タクシー運転手にラーメンはつきものというわけでしてね。ほう、雲が少し寝そべってきたね。あしたの夜あたりから雨じゃな」
 菱川が、
「だいたい雲は寝そべってるんじゃないの?」
「浮かんでるんじゃ。べったり地面に寝そべると、寝汗をかく兆候じゃが。雲が立っとると晴れる」
「おもしろか人たいね。あしたの試合は中止ということやろか」
「一日快晴ゆう予報じゃ。夜あたりからおかしくなるじゃろ」
「今夜、十一時ごろ、世羅別館の前につけてくれんね。いいラーメン屋に連れてってや」
「わかりました。大手町の『陽気』にお連れしますけ」
「おお、聞いたことがある。トンコツ醤油ラーメンやな。チャーシュー、モヤシ、ネギ、それぎり。モヤシがうまく味つけしてあることで有名たい」
「はい。日曜以外は開いとります。今夜いっておいたほうがいいです。あしたの夜からぜったい雨になりますけえ」
 六時十五分、世羅別館着。たちまちフラッシュの嵐。ファンのボディタッチ攻勢に戸惑いながら館内に入る。子連れの一般客が多いのは、野球観戦のためだろう。グローブとスパイクと、『赤と黒』を入れたダッフルをボーイに渡す。赤と黒はひと月前にこの広島で読了したばかりの本だが、なぜかまた持ってきてしまった。
「お荷物はいつものとおりお部屋のほうに届けてございます。二階の一号室です」
 バットを振れる十二畳の和室。ゲームから戻るとかならず蒲団が敷いてある。ロビーの奥のソファに落ち着く。展覧会用のようないつもの派手な壁絵。大花瓶の花がすがすがしい。気持ちがふわふわしている。きょうときのうの区別がつかない。
 島谷の姿が消えている。キャンプから五カ月しか経っていないのに、フォックスも浜野百三も田中勉もいない。びっくりするほどの変化だ。また日野がいる。今回は近寄ってこない。げっそり頬がこけて寝不足の様子だ。何度目かの一軍引き上げで、昨夜は眠れなかったのかもしれない。一軍に戻ってこれたということは、たぶん二軍では常に目立った男なのだ。しかしあのバッティングではスタメンは無理だ。せいぜい代打か代走だろう。
 日野茂、百七十一センチ、六十八キロ。昭和三十九年から中央大学クリーンアップ、東都大学リーグで二度優勝。……プロにくるバッターは、ほとんどアマチュア時代にクリーンアップを打っていたやつばかりだ。しかし、その多くは、プロ野球の強打者にはあたらない。東都時代二割六分三厘、ホームラン五本。バッターだれしも欲がある。ホームランの快感。一度経験した人間には忘れがたいものだ。いつまでもそれに酔い痴れる。ピッチャーの速球も同じだ。永遠に速球を投げたいと願う。遠くへ飛ばす、速い球を投げるという才能は天性のものだ。いくら努力しても手に入るものではない。未練を持たずにあきらめたほうがいい。
 伊藤竜、江島、千原の控え組が、小川や小野と話をしている。いつものとおり、監督の姿はない。水原監督はどの宿でも前日から詰めて、コーチ陣とミーティングをしているという噂がある。私は信じていない。ミーティングは水原監督の肌に合っていないし、チーム絶好調のいまはその必要もない。彼がミーティングをする場合は抜き打ちになる。その証拠に、コーチは全員ロビーのソファに落ち着いている。関西遠征に帯同する本多二軍監督が、長谷川コーチや森下コーチと笑い合いながら奥のテーブルで話をしている。松本という名前が聞こえた。まさか二軍の松本忍のことではないだろう。おそらく今年のドラフトに同姓の選手がいるのだろう。たぶん注目株なのだ。
 日野が、静かに新聞を読んでいる田宮コーチのテーブルにへこへこ近づいていった。田宮コーチは一瞬眉根に皺を寄せて、
「コンドームが自動販売機で売られるんだとさ。大阪だけらしいがな。開けっぴろげな時代になったもんだ」
「そもそもサックを最初に作った人間は、まず自分で試してみたんですかね」
 日野は愛想よく応えて気を引く下心だ。
「試したに決まってるだろ。何百回もな」
「協力者がたくさん必要ですね。一人の相手だと、飽きちゃいます」
「その前に、何百回も勃てること自体たいへんだ」
 くだらない会話を持ちかけて日野を追い払おうとしている。私たちのテーブルに星野秀孝がやってきた。江藤が、
「また抱き締めてほしかとや?」
「いえ、神無月さんに訊きたいことがあって」
「金太郎さんの答えは参考にならんぞ」
 私はまじめな顔で、
「何ですか?」
「神無月さんの嫌いなコースってありますか」
「バットが届くコースは嫌わないことにしてますけど、打つのに苦労するコースはあります。外角の遠いストライク。ぼくの場合、バットコントロールしにくいのは高目」
「外角高目ですか」
「かなり高目のストライクですね。少しからだを伸び上げて打つから、腰が据わりが悪くてコントロールしにくい。たいていのホームランバッターは得意みたいですけどね。外角低目は曲がって遠くへいかないかぎり、ホームランにする自信があります」
「サウスポーの久敏さんも、右バッターの外角高目に速いシュート、左バッターの外角高目に速いカーブを投げれば、まず打たれないと言ってました。練習します」
 菱川が秀孝に、
「むかしの金田も、いまの江夏も、三振はほとんどそのコースで取ってる。おまえの直球は伸びるから、あえて曲げなくてもいいんじゃないの」
「それでも練習します。あしたかあさって、たぶん先発ですから」
 私は、
「言い忘れました。内角低目の変化球は一般の打者は打ちづらそうだけど、ぼくは得意です。ぼくのような打者もいるかもしれないので、内角はよほど注意して投げたほうがいいと思います」
「覚えときます」
 今回はフロントがきていないので会食はなし。みんながめいめいの部屋に去ったあと、何をするともなく、目を閉じたり開けたりして、三十分ほどロビーで休んでから部屋に入った。荷物を解き、ユニフォームをソファに延べ、グローブとスパイクに気持ちだけグリースを塗って手入れする。届いている五本の久保田バットのうち三本をバットケースに収め、眼鏡とタオルと、替えのアンダーシャツ二組をダッフルに詰める。試合中はアンダーシャツを着替えたことが一度もないことに思い当たる。三回と六回に着替えると頭の中で言っているだけで、実際、小学校以来着替えたことなど一度もない。ピッチャーや汗っかきの選手は着替えているようだ。私はアンダーシャツが汗で濡れているとやる気が出る。からだが重くなる感じを撥ね返そうというファイトが湧いてくるのだ。
 ルームサービスで彩御膳をとり、中年の仲居のおさんどんで夕食をしたためる。事務的な最低限の口しか利かなかったが、どこか安らぐ雰囲気の女だった。
 九時からスパイ大作戦をぼんやり観る。
 十時、歯を磨き、枇杷酒でうがいをして、早めに就寝。
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 六月二十四日火曜日。七時起床。晴。十八・八度。うがい、洗面。ミズノのジャージを着て玄関前からランニングに出る。別館の裏手の中央通りから、円隆寺を左に見て平和大通りへ。鶴見橋まで直進。九分で到着。市電に巡り会う。このまま比治山トンネルをくぐっていけば、東映の張本が被爆したという段原に出る。橋の歩道から京橋川を見やる。空にくっきりと雲がある。川面と両岸の樹木が綾なす色彩のコントラストがすばらしい。
 田中町の交差点まで引き返し、東広島橋の南詰まで走る。美しい川岸を目に収め、別館目指して戻っていく。お好み焼屋、歯医者、ホルモン焼屋、税理事務所や煙草屋のある古い町並がうれしい。カープ不動産などというのもある。緑の多い小路を選んで走る。
 とつぜん世羅別館の横手に出た。振り返り、この道をまっすぐいくと東広島橋だと知った。一つのコースを覚えた。往復四十分ほど。あしたはバットを持って出よう。ダンベル代わりの適度な負荷になる。京橋川の岸辺にはバットを振る空間も豊富にある。
 袋町公園にいって三種の神器。八時半、世羅別館に帰る。従業員たちの愛想がいい。十二畳の部屋に戻り、軟便、シャワー。新しいジャージに着替えてロビーに降りる。選手たちがチラホラいる。新聞を読んでいる。選手宴会場にいき、おまかせの膳をとる。ほとんどのレギュラーと顔を合わせる。江藤たちが、昨夜食いにいったラーメンの話をしている。中や高木といっしょに、ごちゃごちゃと皿に盛られている魚介や揚げ物や野菜を平らげる。牡蠣が苦手なので人気の世羅鍋は食わない。
 江藤たち三人と館内の土産店にいき、広島名物と銘打たれたやまだ屋の〈もみじ饅頭〉と〈桐葉菓(とうようか)〉を買い、北村席宛てに送る。菱川が、
「今朝六時に三人で、原爆ドームまで走ってきました。袋町公園から、市電道の本通にでて、紙屋町をレールに沿って左折して二キロほどです」
「広島球場の三塁側から見えるよね」
「はい。道を隔てて広島球場の向かいです。往復三十分、ノンビリ走りました。早朝の広島はいいですよ」
「あした雨でなかったら、いっしょに走りましょう」
 江藤が、
「今夜は疲れとるけん、十時からな」
 解散し、部屋に戻って仮眠をとる。
         †
 三時半。ユニフォームをまとい、運動靴を履き、ロビーに降りる。キャー! ヒー! という嬌声、金太郎! 闘将! マサカリ! かけ声の中、広交観光バスで出発。きょうは六時試合開始。ビジターの練習時間は四時からなので軽く間に合う。市電と併走しながら平和大通りを進む。右折して、広い五十四号線を直進する。紙屋町の交差点を左折し、三百メートルばかり進むと原爆ドームだ。過ぎる。
 民家や倉庫がまばらに建ち並ぶ街路を挟んだ向かい側に広島球場がそびえている。別館を出て十分も経っていない。田宮コーチが、
「葛城くん、きょうは七番サードで先発よろしく。控えは太田と徳武くん」
 徳武が手を挙げ、
「田宮さん、私、今年はコーチ業の訓練期間中ですから、後進の指導に専念します。出るとしても代打だけでいいですよ。おい、太田、がんばれよ。老兵といえども葛城は強敵だぞ」
 太田に檄を飛ばす。
「葛城さんに追いつくには、あと二、三年はかかります」
 葛城が、
「俺はあと一、二年で引退だと決めてる。おまえは来年から不動のサードだ。そんな悠長なこと言ってたらだめだぞ。ちゃんとバット振ってるか」
「毎日五百本以上振ってます。神無月さんにバットが波打つ原因を教えてもらって、ほとんど治りました」
 水原監督が、
「ほう、金太郎さんが? どういう原因だったの?」
 水原監督は私を振り返る。
「太田の場合、手打ちではないので、スイングの力のなさのせいで波打ってたわけじゃないんです。トップからインパクトへ持っていくのに一気にいかずに、むだにヘッドを上げたり下げたりしてたからです。修正をかけてミートしようとするので、手首をこねちゃう。それで波打ってるように見えるわけです。バットを長く持ってるせいで、余計波が目立ちます。田淵は手打ちで波打ついい例です。そのうえ膂力(りょりょく)が強くないから遠心力をつけようとしてふんぞり返って打つんです。あれが素振りだとしたら滑稽でしょう?」
 高木が、
「たしかに、あんな素振り見たことないな。彼は素振りをやらないんじゃないか。いまのところホームラン八本、二割五分。先天的にミートがうまいんだね」
「ぼくも小学五年生のころ田淵のスイングでした。飛んでくるハエを迎えにいって、うまく叩くんです。止まったところをひっぱたくんじゃなくてね。やがて、迎えにいく動作が余分だとわかりました。黙って、待ち構えて、ひっぱたくにかぎる。止まって見えるのは一瞬ですから、効率のいい素早いスイングをしなくちゃいけません。山内のシュート打ちがその典型です。じっと待って、シュートが入りこんできたとたんに、ボールを止めて見て、全力でひっぱたく。六年生からそういう素振りができるようになりました」
 水原監督が、
「なるほどね、止まったところを打つ……。バットを波打たせるのは、迎えの準備をするせいだということか」
 江藤が、
「ふつうのバッターは、球を止めて見られんたい。動くものをバットを調整しながら迎えにいく。やっぱり参考にならん」
 長谷川コーチが、
「いつもの結論が出たね。きょうの先発は水谷寿伸。打たれた場合のリリーフは、土屋か星野秀孝」
「はい」
「はい!」
 星野の元気な声。ひさしぶりに土屋の名前を聞いた。
「あしたは健太郎」
「ヨシャ!」
「打たれたら、山中か伊藤久敏」
「オッケー」
「オシ」
「あさっては小野さん。打たれたら水谷則博か若生」
 則博はビクッと肩をすくめて、
「はい!」
 ひっくり返った声を上げた。




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