百七十六 

 喫茶部から飲み物を出前でとって、ロビー階のラウンジのソファでしばし歓談する。小野や小川や葛城もテーブルを移ってきた。葛城が、
「日刊スポーツに、来期神無月年俸二億か、と書いてあったよ。戦力の面や記録樹立の面を考慮するのは当然のこととして、とりわけ主催試合の観客動員数に多大な貢献を果たしたとね」
 中が、
「そんな給料でも足りないと思うなあ。ファンサービスという本質的なところを全球団首脳と選手たちが見直したし、神無月関連商品もものすごい売れ行きでドラゴンズ出資者に利益を与えてるし、いちばん大きいのは、プロ野球選手の精神的な手本となったということでしょう。おかげで私たちの技術も精神力も大幅に増強されて記録が伸びた。来期はまちがいなく私たちの給料もアップです。金太郎さん本人は、二億が五億でも足りない」
 葛城はうなずき、
「同感だ。大リーグじゃ、三億、五億がポンポン出てるそうだからな。あの〈百人〉のまま大リーグにいってたら、神無月くんはそうなってたはずだものな。儲かってるのはうちの球団ばかりじゃない。神無月効果で他球団も大幅な収入増だ。神無月くんがどれほどの給料をもらっても、世間的な嫉妬はないだろう」
 徳武が、
「記録といえば、今年は消化試合が多くなるから、ドラゴンズは記録ラッシュだぞ」
 小川が、
「少なくとも二十は消化試合で残る。相手チームはもちろん、優勝チームもやる気がなくなるというのがこれまでのパターンだけど、個人記録がかかってるとなると、パターンが崩れる。消化試合になってもドラゴンズは勝ちつづけるだろうな。五勝は稼がせてもらう」
 太田が、
「俺もできるだけ記録を伸ばしておこうっと。ね、菱川さん」
「使ってもらえる範囲でな。三十本は打ちたいな。来年もっと使ってもらうためにも目立っておかないと」
 私は、
「マジックランプて、いつ点くんですか」
 中が、
「もうこのあいだの巨人戦で点いてる。どういう計算なのか、じつは私もよく理解できていないんだけどね。たしかマジック五十いくつだったかな。それだけ勝たなくちゃいけないということじゃなくて、相手の星取りしだいで点いたり消えたりするから、あんまり意味がないんだよ。それより、いまの時点で貯金が四十六というのが驚異的なことだ。水原さんは最終的に貯金三十を目指してる。百勝だね。あと五十二勝。それをマジックだと思えばいい。八月に入って、マジック十くらいになったら新聞が勝手に騒ぎ出すよ」
 五時だ。腹も会話も満ち足りた私たちはめいめいの部屋に戻った。ムッとする。エアコンをかけずに、わずかしか開かないようになっている窓を押し開けたが、風はこない。蒸し暑い。瀬戸のベタ凪ぎに似ている。窓を閉め、冷房をかける。勃起してきたが、そのままにして服を脱ぎ、ソファに座って、ジャン・バル・ジャン。活字に没入しはじめると少し性器が縮む。これだと思った。
 七時。夏服を着て夜食の籠を抱えたネネを迎えたころには、怒張していたものはすっかり萎んでいた。ネネは裸の私を見て抱きついてきた。キスをしたとたんに盛り返す。ネネが握る。主導権は彼女が執り、勝手に私の上で果て、結合したまま弾んだ。
 エアコンを弱にして、二人でベッドに横たわり、金曜ロードショーを観る。007危機一発・ロシアより愛をこめて。
「一発は一髪のまちがいだと思うけど、ま、いいか」
 マット・モンローの主題歌は西松の勉強小屋のラジオでよく聴いた。
「この曲はなつかしいなあ。オペラふうの歌い方が嫌いで、テープレコーダーには録らなかった。青森へ送られた年だ。あれから五年しか経っていないのが不思議で仕方がない」
 徹底した無思想の娯楽映画。スパイの最新式小道具、格闘、ヘリコプター、モーターボート。精力絶倫のジェームズ・ボンドにあてがわれるボンドガール、ダニエラ・ビアンキとやら二十七歳。かわいらしさのない細面。ボンド役のショーン・コネリー、百九十センチ、三十四歳、好色そうでない男の好色そうな振舞いがいい。ダニエラ・ビアンキの無色透明な肉体を見飽きて、テレビを点けたままネネの温かい胸を握る。ネネは陰茎の背中を指の腹でなぜる。やがて跨り、深く腰を落とす。
「ふううう―」
 ネネは少し腰を引き戻して、カリを入口に残し、胴の部分を曝すようにする。
「ビラビラに包まれてヌルヌルしてます。だめ、見たら興奮してイッてしまいます」
 私はネネのクリトリスをいじる。ネネは手を尻に回して陰茎の腹を指先で触る。
「私のヌルヌルお汁いやらしい。あ、オマメちゃんがふくらんできました。もうすぐイキます。ああ、あ、神無月さん、好き、愛してます、イクわ、イク、イクイク、イク!」
 グイと膣口を押し下ろして達した。
「オマメちゃん、ピクピクしてるでしょう、ああ気持ちいい、入口が神無月さんを締めつけてるのがわかるわ。入れてじっとしていれば、イキたくならないかぎり中はイカないからだいじょうぶです」
 また亀頭を残して腰を上げ、今度は陰茎の背中をなぜた。私はまたクリトリスをいじる。
「ああ、もうそこはだめなんです、でも、ああ、イキます、あああ、イク!」
 自分の腰の動きが激しいので、ネネは思わず両手を私の胸に突き、
「ごめんなさい、イク! あん、あん、あん、イク! ごめんなさい、ああああ、神無月さん、愛してるうう! イック!」
 愛液が陰毛を濡らす。
「あ、あ、気が遠くなる、まだだいじょうぶよ、まだよ、まだよ、ああ、だめ、神無月さんがふくらんじゃった、イクわ、大好きな神無月さん、イクわ、あああイクイク、イクウウ!」
 グウッと腹を引いたので、亀頭が外れた。射精間近で放り出された。ネネはひっくり返って仰向けになり、天井を向いて痙攣しながら、細く飛び出す愛液を自分の掌で押さえた。腹をさすってやる。
「だいじょうぶです、すぐ治まるから平気です、神無月さんがまだイッてないわ、入れてください、入れてちゃんとイッて」
 私は正常位で挿入する。
「ああ、だめ、イッちゃう! ああ、神無月さん、好き、気持ちいい、イキます、イクイクイク、イク!」
 ビュッと液体が私の陰毛に飛んだ。
「ああ、申しわけないぐらい気持ちいいです、あああ、気持ちいい! イッちゃう、イッちゃう、イク!」
 腰を突き出し、私のものをグイグイ奥に押し入れようとする。
「好き好き、もう一度、もう一度、あああ、イク!」
「ネネ、ぼくもイキそうだ!」
 膣が激しくうねりだし、
「ああ、神無月さん、私もうだめ、あん、イク! うう! イク! あ、もうだめえ、イク! ううう、イック!」
 陰阜を高く突き上げ、脇腹をよじる。私も強く吐き出し、しっかり抱き締める。舌を絡めたキスをする。膣が間断なく感激を伝えてくる。律動を繰り返し、陰嚢がすっかり空になった感じにする。いつものように上下逆になり、つながったままネネの鎮まるのを待つ。痙攣がしばらくつづき、やがて安らぎがやってくる。
「……ごちそうさまでした。さ、今度はほんとにお腹をいっぱいにしましょう。おにぎりと、卵焼きと、ウインナー」
 黄金の三点セットだ。おにぎりを食いながら、ザ・ガードマン。宇津井健、藤巻潤、川津祐介、神山繁、倉石功、稲葉義雄、中条静夫。宇津井健を見るたびに、スーパージャイアンツの金玉モッコリを思い出す。子供心にもあれはいやだった。
 第二百十八話のテロップ。『サラリーマンは夜に勝負する』。素人が集まって金庫破りをするという無理のある話。中尾彬や露口茂のまじめで重厚な演技のせいか、けっこうおもしろくて最後まで観る。
 コーヒーを飲み、蝶々・雄二の夫婦善哉。二人で笑う。
「この番組、おふくろがよく観てたよ。他人の苦労話を聴きたがるのは、自分の苦労話を聴いてほしい気持ちの裏返しだね」
「そうなんでしょうね。私は、苦労話は聴くのも聴かれるのも、あまり好きじゃありません。唄子・啓助のおもろい夫婦は、唄子さんがよく泣くから好き」
 乳房を吸う。
「神無月さん、大好きです、愛してます」
「もう一度できる?」
「私は何度でも」
 乾きかけた襞のいただきに覗いているクリトリスを舐めて気をやらせ、しっかり湿らせて、深く交わる。アクメの発声は何度も聴いても飽きない。
         †
 六月二十八日土曜日。快晴。朝方から二十二・五度。強い陽射しだ。
 八時。寝起きにジャージを着て、江藤、菱川、太田、土屋、星野とともに清水谷公園へ。黙々と周回する。
「きょうはだれでくるやろのう。石岡、松岡、安木」
 気にしたこともないので答えられない。太田が、
「ローテからすると、浅野、簾内あたりですかね」
「イメージ作っとかんとな」
 名前を言われると思い出す。どちらも速くない。
 浅野啓司、二十歳、広島福山電波工業出身。百七十五センチ、七十五キロ。三年前サンケイにドラ九で入団した。速球、変化球すべてを投げる。抜群にコントロールがいい。しかしそれほど速くもないストレートに拘っている。去年吉祥寺で、雅子が買ってきた新聞でチラリと彼のインタビューを読んだことがある。
「ストレートを打たれたら、その次の対戦で、変化球で打ち取っても気持ちが〈上がれない〉んです。もう一度ストレートで勝負して勝ったとき〈上がれる〉んです。挑戦ですね」
 簾内政雄、二十四歳、秋田能代高校出身、百七十六センチ、七十五キロ。スリークォーター、大きなカーブ、フォーク、スライダー。それより、新人左ピッチャーのデカ男安木のカーブが打ちづらい。変則二段モーションがいやだし、太眉オッサン面もいやだ。彼からは四月二十三日の中日球場で、セカンドゴロ、レフトポールに当てるホームラン、そして六月十日には、ライト看板に当てるホームランを打っている。対戦成績はよくても、思い出すと苦手な感じなのだ。
 園内の空地で、太田が持ってきたバットを三人交代で振る。
「金太郎さんの風切り音、恐ろしか」
 星野秀孝が、
「振り出した瞬間にバットが見えなくなりますね」
 土屋が、
「透明バット―」
 私は太田に、
「もっと一点を狙って。まだ少し波打ってるよ。手じゃなく、腰のひねりで振るんだ。一塁線や三塁線を抜くには荒っぽく撫でてもいいけど、遠くへ飛ばすには一点に力を集中させて精密に叩かないと」
 菱川が、
「鏑木さんのダッシュのおかげで、みんな下半身に力がついてきましたね」
「彼はこっそりバッティングピッチャーの練習もしとる。オールスターのホームラン競争で投げたい言うとったが、申請通ったかな」
「各チームのトレーナーが投げるんですか」
「ほうよ。自分のチームの選手に投げる。不公平にならんようにな。ファンに選ばれたピッチャーに投げさすわけにはいかんけん」
「きょうは六時開始ですね」
「おう、あしたは二時からダブルヘッダー。雨はこんやろう」
 ロビーに戻って、フロントになだ万の弁当を頼む。おかずが多いので、食い切るのに十五分はかかる。早めしの江藤たちはそれに懲りて注文しなかった。
「五時に球場控室にお届けします」
「金太郎さんは早めしばせんからな。豪華弁当でもよかろ。監督・コーチもたいていここの弁当ばい」
 神宮球場までは車で七、八分だ。弁当を届けるには近い。後楽園球場へは十五分。後楽園もだいじょうぶだろう。東京球場へは三十分、川崎球場へは五十分。この二球場は遠いので頼むのは気が引ける。選手食堂で適当に食うしかない。ほとんどの選手は、食堂の品目が揃っている神宮と後楽園と東京では、かならずしっかり試合前の晩めしを食うし、川崎でも肉うどんやラーメンをすすって腹を保たせている。試合前の食事は重要なのだ。試合時間は二時間半から三時間半。昼めし後に空腹状態のまま十時近くまで放っておくと、どことなく疲労した感じが残る。体調を崩すもとになる。
「ホテルニューオータニはドラゴンズの関東の根城になってますね。巨人のほとんどの選手は自宅からかようとして、他の球団の選手たちはどこに泊まっているんですか」
 物知りの太田が、
「たいていロイヤルホテル系列です。どこにあるかは知りません。遠征先のホテルは、熱心なファンしか知らないのが実情です」


         百七十七

 だだっ広いラウンジの窓際に落ち着き、スポーツ新聞を広げる。こちらも同じ記事だ。

   
中日ドラゴンズ引分け挟まず二十一連勝
    一九三五年シカゴ・カブスに並ぶ世界プロ野球史上一位の記録

 偉大な記録が達成された。引き分けを挟まず二十一連勝である。六月二十六日の対広島十四回戦で成し遂げられた。残るは一九一四年に記録されたニューヨーク・ジャイアンツの引分け一つを挟んで二十六連勝であるが、これも同日、二十七連勝の世界新記録として達成されることになった。純粋二十二連勝の世界新記録は、あす対アトムズ十一回戦で達成される公算が大となった。


 ほんとに人間は記録好きだ。ほかの記事は? 巨人が大洋に二連勝している。勝利投手は高橋一三と堀内。王が十六号を打っていた。星取表が載っている。巨人が借金を一に回復している。ドラゴンズ四十九勝三敗二分け、ジャイアンツ二十四勝二十五敗三分け、タイガース二十三勝二十四敗一分け、ホエールズ十九勝二十六敗二分け、アトムズ十九勝三十六敗一分け、カープ十七勝三十六敗一分け。中日は大洋と広島を除くすべてのチームに一つずつ負け、引き分けは巨人と大洋が相手だった。
 結局、巨人が追いかけてくる。巨人が残り試合を全勝すれば、七十八勝を加えて計百二勝。中日は五十四勝しなければならない。マジックというのはそのことなのだろうか。巨人が二十敗すれば、中日は三十四勝ですむ。巨人がいまの調子なら三十敗はするだろう。すると二十四勝ですむ。いずれにせよ、水原監督を胴上げできることは確実だ。一試合ごとに真剣に、監督の笑顔を思い浮かべながら力のかぎりを尽くそう。
 部屋に戻り、ジャージを着て手ぶらで三階の大浴場へいく。プールのような横長の平たい浴槽。五十人は入れそうだ。浴槽側は全面ガラスの大窓。下界の緑を見渡しながらのんびり浸かる。
 カランからホースを引いた握り式シャワーで頭を洗う。全身にシャボン。男たちが目の前を歩く。みんな巨大な性器をぶらさげている。私のように繁みに埋まりこんで頭だけになってしまった性器は一つもない。不思議だ。しかもぶらぶらの先の頭が私の半分もない。よしのりに毛が生えた程度だ。どうして私はこんな性器になってしまったのだろう。五年生のとき、無理に剥いて四苦八苦したときにこうなってしまったのだろうか。どうでもいい。こんなものが女たちの悦びの素になっているのだから、自分が抱えている不思議として詮索しないことにしよう。
 爪が伸びている。部屋に戻って切ろう。風呂を出て四階の昇り階段へ向かう。たまたま通りかかった主任格のフロント係からサインを求められた。色紙にさらさらと書く。
「ありがとうございます」
 彼は賞状のように押しいただいて、黒革の書類カバンにしまった。フロントへ歩いていく。部屋に戻るのが面倒なので、彼を追ってフロントで爪切りを借り、玄関前のスロープへ出る。ドアボーイの立っている傍らに据えてある灰皿の上で爪を切る。円柱帽のボーイが穏やかな顔で私を見ている。たがいにいろいろな事情があって、私はここに立ち、彼はそこに立っている。
 切り終わり、下の広大な駐車場を眺め下ろしながらヤスリで爪の角を取っていると、
「神無月選手もお母さんとうまくいってないようですが、私も父母と調和できないんです。断絶の時代ですね」
 私は彼に爪切りを渡して、フロントに返してくれるように言い、短いベンチに座った。ボーイは爪切りをお仕着せのポケットにしまった。
「断絶ですか。どこかで聞いたことのある表現ですね。流行の統計的な言葉で自分の感情を判断するのは、さまざまな種類の共感の中で最も退屈な共感ですよ」
「ドラッカーのジ・エイジ・オブ・デイスコンティニュイティです」
「それなら、断絶というより、非連続の時代と訳すべきですね。プツンと切れて黙殺し合うんじゃなく、連綿とつながっていないことに違和感を覚える―」
「なるほど、断絶と非連続とでは印象がだいぶちがってきますね」
 ボーイは灰皿のそばに立ったままだ。私に対して彼なりの同意を示そうとしているのだろう。
「ぼくの場合は完全な断絶で、つながっていないことに違和感も覚えない。ギャップとかズレとか壁などという流行感覚じゃなく、気質体質そのものの断絶ですね。現代でなくてもぼくたち親子関係は同じだったでしょう」
「ドラッカーもそこを言ってます。科学技術の進歩という、ある種の量的で連続的な増大に楽観して、あっちこっちで一貫性のない、つまり非連続な進歩が勃発する。それで人びとの体質が変化する」
「それじゃぼくの言いたいことを言ってない。その人が言ってるのは、あくまでも社会の気まぐれな変化に影響を受ける人たちの違和感で、個人の気質に基づく生理的な人間関係の不調和じゃない。ぼくの言う不調和は、科学技術の進歩と関係なく大むかしから普遍的にあったんです。きみやぼくの親子関係もそれですよ。現代に始まったことじゃない」
「……噂どおり、神無月さんは、めちゃくちゃ頭いいですね」
 私に気づいた報道陣やファンたちがやってきて、ピカピカやりはじめる。
「本から学んじゃだめですよ。自分の頭でじっくり考えなくちゃ。じゃ、昼めしなので」
「はい! いってらっしゃいませ」
 十六階の中宴会場へいって、仲間たちと昼めしのバイキングを食った。鏑木が足木といっしょにやってきて、
「オールスターで、ホームラン競争のバッティングピッチャーを務めることになりました。よろしくお願いします!」
 中が、
「申請が通ったんですね。自軍だけでしょう?」
「もちろん。神無月さんと江藤さんだけです。あとはスタンド観戦ですけど、三日間、旅ができるのがうれしいです」
 足木が、
「スタッフも全員、スタンド観戦です。監督、すごく喜んでますよ」
 鏑木が、
「せいぜい百キロから百十キロまでの球しか投げられませんけど、いいでしょうか」
「じゅうぶんです。どのチームのマネージャーやトレーナーもそうですよ。そうだ、足木さん、ピンポン玉を百個ぐらい買っといてください。外野のフェンスぎわでトスバッティングをしたいので」
「わかりました。きょうからですか?」
「はい。それとキャッチャーマスク一つ。軟式用の安いやつでいいです」
 彼はボーイを呼んで、スポーツ用品店の場所を訊くとすぐに出かけていった。太田が、
「何ですか、ピンポン玉って」
「おまえのためだよ。きょう一日の練習で終わる」
 部屋に戻り、ふつうの軟便、シャワー、歯磨き。
 二時半。ダッフルとバットケースを持ち、スロープ下の玄関からホテルの送迎バスに乗りこむ。ものすごい人混み。ホテル従業員や警備員のほかに、張り渡した縄の前に松葉会の組員たちが四、五人立っている。紀尾井坂下から出発。緑の立木に囲まれた美しい道。緑の向こうに、背の高いビルが間隔を保って整然と林立している。東宮御所の塀の前を右折。どこまでも高い塀沿いに走る。
「きょうのスターティングメンバー!」
 田宮コーチの大声。右手にビル群、左手に立木と塀に挟まれた歩道。のんびり人が歩いている。
「一番から五番まで変わらず。六番サード葛城、七番ライト伊藤竜、二人とも二打席不発なら、太田と菱川に交代。ピッチャー小野、リリーフ星野秀孝。代打の予定は、江島、千原、徳武。しっかりバットを振っておくように。三戦とも勝つつもり!」
「ウオース!」
 足木が、
「巨人が借金一に戻した。この地力で、たぶん七十勝までいくだろう。うちは九十勝から百勝。優勝は確実としても、いまのうちに呆れるほど引き離しておきたい」
「ウオース!」
 塀がシャレた白ペンキの鉄柵に変わる。迎賓館正門。警備員が三名、ワイシャツ姿の役人ふうの男が一人立っている。警備員の一人が、鉄柵の中を覗きこむ女子高校生三人組に何やら説明している。大木に挟まれた立派なレンガ門の建物の前を左折。門の右の塀は白壁に石垣、左方は石垣に立木だ。水原監督が、
「学習院初等科の校舎だよ。華族という階級があったころに栄えた学校だ。皇室や徳川家関係者ばかりがかよってるわけじゃないが、皇室関係者がかよってる期間は、護衛官が何人か学内に配置される」
 江藤が、
「皇室や徳川の関係者以外でワシらが知っとる人には、だれだれがおりますか」
「タレント議員の藤原あき」
「ほう、私の秘密ですか」
「作家では、有島、三島、志賀、武者小路。政治家や役人は鳩山以下ずらり。学者実業家は数知れない」
 菱川が、
「スポーツ選手はいないですか」
「一人もね。庶民的なスポーツとは関係のない世界だ。この世界の人たちが日本を牛耳っている。私たちは権力とは疎遠だから、へたな枷がない。何ごとにも拘束されずに楽しく野球をやろう」
「オーシ!」
 ふたたび御所の白壁の塀と立木が現れて延々とつづく。ところどころに門があり、警備員が立っている。権力者を守る人たちだ。大通りを渡り、大きく左へカーブ。
「あと二、三分だ。右手の緑は、明治神宮外苑。紅葉の季節の観光名所だね。この一部に神宮球場がある。さあ着いた」
 林に囲まれた外周路からドンと巨大なスコアボードが突き立っている。その真下の壁に明治神宮野球場と書いてある。バスが三塁側の十三番ゲートへ向かう。人混み! 喚声! フラッシュ! 木立の下の涼しげな駐車場に入り、そこで降ろされる。警備員と松葉会組員が、押し寄せる人混みを懸命に押し戻す。目の前のクラブハウスには寄らず、すぐにゲートに入る。追いかけてきた足木にピンポン玉入りの紙箱と、シンプルな軟式用キャッチャーマスクを渡される。
「あ、どうもありがとうございます。助かります」
 回廊を通って三塁側ロッカールームへ向かう。歩きながら江藤に、
「クラブハウスって、どの球場でも一度も寄ったことありませんけど、何か重要な設備があるんですか」
「弁当食ったり、マッサージ受けたり、ちょっとしたトレーニングをする部屋がある小屋ばい。シャワー室も会見室もあるばってん、ワシらはすぐホテルに帰るだけやけん必要はなか。自家用車できとるやつが使うんやろう。中日球場もここと同じような場所にクラブハウスがあるばってん、使っとるのは寮生以外の自家用車組たい」
 監督コーチは控室へ、私たちはロッカールームに入る。ズック靴をスパイクに履き替え、ベルトを締め直し、お守りを確かめる。バットケースからバットを二本出して提げ、ベンチに入る。
 アトムズがバッティング練習をしている。ロバーツが客のほとんどいないスタンドに何本も小気味よく打ちこむ。スタンドにボールがぶつかる乾いた音が涼しげに響く。外野の芝生では打撃練習を終えた選手たちが、走りながら捕球をしてランニング代わりにしたり、トスバッティングをしたりしている。暇そうに談笑している徒党もいる。四、五人で競争するようにダッシュを繰り返している選手たちもいる。池藤トレーナーが、
「過度の走りこみは、それほど効果的じゃないんです。ポール間ダッシュ一本ですましている神無月さんのやり方が正しい。あの三種の神器と、素振りと、朝のランニング、それで満点です。ウェイトトレーニングにはしっかりと取り組むべきです」
 四時。ドラゴンズのバッティング練習開始。いつの間にか内外野の観客席が満員になっている。初日にドラゴンズが勝てば、広島球場と同じように客足が鈍るだろう。ケージに入り、満員のライトスタンドへ三本打ちこむ。観客が沸いたところで終了。太田を呼び寄せてレフトのファールグランドへいく。塀を背に両膝を突いてマスクをかぶり、
「きょう一日練習するだけで、バットは波打たなくなるよ。六つのコースに放るから、潰れよとばかりに打ってね」
「はい!」
 球拾いの江島や千原が見ている。カメラマンたちが寄ってきてシャッターを押す。スタンドでもフラッシュが光る。外角低目から始める。思ったとおり、五、六回スイングしただけで、バットの軌道が安定してきた。
「いいぞいいぞ!」
 内角高目、外角高目、真ん中低目、内角低目、真ん中高目、アットランダムに投げてやる。
「バットを早く後ろへ持っていく! ようし、いいぞ!」
 何発かマスクにパチンと当たる。六コース終え、さらにアットランダムに放ってやる。
「構え、待ち、バットを素早く小さな一点に持っていく!」
 バットを奪い、ダウンではなくアッパーにバットを繰り出してレベルに振るスイングをして見せる。交代し、六コースアットランダムに投げてやる。百本ほど振らせる。
「オッケー、終わり!」
「アンダーシャツ替えてきます!」
「替えるのはフリーバッティングのあとのほうがいいよ。汗をかいたまま、実球を同じ要領で打ってみなくちゃ」
「はい! ありがとうございました、神無月さん」
「どういたしまして。バットが揺れないし、ヘッドアップもしなくなった」
 太田はケージへ駆け戻る。私はピンポン玉を拾い終え、大きな紙箱にしまう。完全につぶれているボールもいくつかある。太田がケージに入って打ちはじめた。おもしろいようにボールが伸びる。理解の早い男だ。二十本ほど打って、六割がたスタンドに入った。水原監督と田宮コーチが目を細めて見ている。大洋の連中が集まってくる。
 菱川がケージに入る。右方向へするどい打球を飛ばす。素質の打撃だ。この二人がきょうの控えというのはもったいない。打撃陣の層が厚すぎる。葛城、徳武、千原、伊藤竜彦と順に打っていく。彼らの当たりは湿っている。江藤、高木、一枝、中は最後に回って五本ずつ打った。さすが勢いのいい打球だ。江藤は三本スタンドへ入れた。
 アトムズが守備練習に入った。内野連繋プレー十本ほど。外野は三本ぐらいの二塁送球ですまし、みんなでのろのろ一塁ベンチへ戻っていく。
 ドラゴンズの守備練習、内外野入念に二十分。外野は二塁送球五本、バックホーム三本。健康な腕を強く振れる幸福。その幸福に観客が祝福の拍手をする。


         百七十八

 五時半。ベンチ裏の控え室に届けられている弁当を独り食う。ほかのメンバーは選手食堂へいった。天井のスピーカーから流れるスタメン発表のアナウンスを聞く。グランドのアナウンスと重なって聞こえてくる。
「アトムズ対中日ドラゴンズ第十一回戦、間もなく試合開始でございます。先攻、中日ドラゴンズ、一番センター中……」
 高木がサンドイッチを買ってきて付き合う。
「きょうは大里さんが主審だな。あの人は一度漫才みたいなジャッジをしたことがあってね、ストライーク、じゃなーい! とコールしたんだよ。俺がバッターで、ピッチャーは城之内。大里さんは、上げようとした右手を左手で押さえて下げた。俺もキャッチャーの森も思わず苦笑いしちゃった。それで苦情も出ずことなきを得たけど、さすがに本人は恥ずかしそうだった。頭じゃボールと思っていたのに右手が上がりそうになって、ストライクじゃなーい、とやったんだね」
「いい話ですね、人間らしくて」
「俺もそう思う。せってる試合でそれやっちゃったら、シャレにならないけど」
「一番セカンド武上、背番号2……」
 アナウンスがつづく。
「アトムズというチームは特徴がないので、何度戦っても選手の名前が覚えられません」
「俺もだ。ロバーツでさえフッと忘れる。お、きょうのピッチャーは藤原か。金太郎さんのカモだね」
 高木は細くするどい目を親しげに光らせる。
「はい、七打数七安打ホームラン二本です」
「たしかに打ちやすい。それなのにもう六勝もして、アトムズの勝ち頭だ。うちだけみたいだな、打ちやすく感じるのは」
「負かしてやりましょう。五回までに決めて星野につなぎましょう」
「オッシャ」
 六時十分前。眼鏡をかける。一時間もすれば空は真っ黒くなる。意外に長身の藤原のブルペンピッチングを見る。スライダー、シュート、フォークと万遍なく投げるが、ストレートに伸びがない。直球に威力がないと変化球の効果は半減する。
 スターティングメンバー発表。先発は藤原真と小野正一。六勝と十勝の好調同士。ただ藤原は五敗しているが、小野は一敗もしていない。審判は、球審大里、塁審一塁井筒、二塁大谷、三塁丸山、ライト中田、レフト鈴木。
 プレイボール。審判の立ち位置を見る。一塁と三塁塁審は各ベースから四メートルほど後方の土と芝の境を跨ぎ、二塁塁審は二塁ベースからやはり四メートルほど右後方、外審はポールの真下だ。総じてどの審判もあまり動かない。あまり動かない障害物は記憶すれば意識から消えるので、活発に動き回る選手という障害物に神経を凝らすことができる。
 一回表。中のバッターボックス。彼は最近アコーディオンをしなくなった。少し屈んだ姿勢で自然に立っている。初球の内角スライダーを見逃し、二球目のカーブを打って、いい当たりのライト前ヒット。胸がパッと明るくなる。高木の初球、盗塁を仕掛けて牽制に遭い、危うく帰塁する。高木真ん中高目のシュートを巻きこんで打って、左中間前列へ十八号ツーランホームラン。水原監督と飛び上がってハイタッチ。
「高木選手十八号ホームランでございます」 
 きょうも始まった。初回に取れるだけ取る。江藤、外角の変化球を一度も振らずにフォアボール。私、初球外角低目のスライダーをライト照明塔下の防球ネットへ八十九号ツーラン。水原監督とロータッチ。ひさしぶりに思い切り尻ポーン。木俣、内角高目シュートをサードベース直撃の二塁打。葛城、初球内角のストレートをライト前へ流し打つテキサスヒット。木俣豪快なスライディングで生還。ブルペンの小野がグローブを叩いて喜んでいる。伊藤竜彦ツースリーから見逃し三振。一枝ツーツーから真ん中のカーブを三遊間を抜くヒット。ワンアウト、一、二塁。小野三球三振。中、初球のシンカーをショートゴロ。一枝フォースアウト。五対ゼロ。
 一回裏。武上三振のあと、東条レフト前ヒット、ロバーツライト前ヒット、高山センター前ヒット、三連打で一点。それきりアトムズ打線はピタリと沈黙した。
 二回表から登板した浅野、安木、簾内にドラゴンズは十安打を浴びせ、さらに八点をもぎ取った。私と浅野との初対決はショートライナー、安木との対決はセカンドゴロだった。八点の内わけは、四回、二塁打の小野を置いて中凡退のあと、高木が浅野からきょう二本目の十九号ツーラン。
「高木選手、十九号ホームランでございます。このホームランをもちまして、百号メモリアルアーチとなります」
 ヒューヒューという大歓声。バトンガールふうのミニスカートを穿いた女が、ベンチ脇の通路から花束を抱えて飛び出てきて高木に手渡す。それをボールボーイが受け取りにくる。アトムズベンチからも控えの選手が花束を抱えて走ってきて手渡す。それを田宮コーチが受け取りにくる。藤原真はうなだれてマウンドを均している。高木はしばらく周囲のスタンドに手を振り、哀愁のある独特な目で眺め回してからベンチに退がった。
 つづいて三塁打で出た江藤を置いて私がレフトへ犠牲フライを打って一点。六回、葛城に代わった太田が左中間へ二塁打を放ち、伊藤竜凡退のあと、一枝が一、二塁間を抜いて一点。九回、フォアボールの中を置いて、大当たりの高木が情けないおじさん顔の簾内から右中間の三塁打。一点。つづく江藤がバックスクリーンへ三十七号ツーラン。つづく私が左中間前段へ高く舞い上がる九十号ソロ。
 アトムズは、五回裏まで八番の丸山が二本、ロバーツがもう一本ヒットを打ったきり、スミ一で九回裏までいった。六回から星野秀孝にスイッチ。打者十三人被安打一、三振五、凡打七に抑え切った。十三対一で勝利。小野、土つかずの十一勝目。
 試合が終わったとたん怒号と拍手がスタンドから立ち昇った。マイクを握った何十人ものレポーターがし寄せてきて水原監督を取り囲んだ。
「世界新記録おめでとうございます!」
「引分け挟まず二十二連勝達成おめでとうございます!」
「はいはい、それについての感想はございません。二百五十八連勝した東洋の魔女を思い出してください。連勝が偉大なのでなく、連勝をもたらした個々の選手が偉大なんです。強いドラゴンズを作っている選手にインタビューしてください」
「わかりました」
 強い中日ドラゴンズのインタビューは、きょうの主役高木守道に集中した。
「相変わらず、チャンスにめっぽう強いですね」
 高木は饒舌だった。
「四十九勝目ですか。巨人が息を吹き返してきていますので、このアトムズ三連戦は前半戦のヤマ場と思って臨みました。とにかく好球必打。ストライクがきたら初球から打って出るつもりで打席に立ちました。藤原も真っ向勝負、自信のシュートで強気で向かってきたので、思い切って引っ張りました」
「鈍い音がしましたが」
「私独特のひしゃげる当たりですが、あれでいい手応えなんですよ。少し芯を食いすぎてる音です。一塁ベースを回りかけたとき、スタンドからワーッというどよめきが起こって観客が総立ちになったのが見えました。同時にベンチからみんなが飛び出してきて……何とも言えませんね。水原監督とタッチするといつも舞い上がるような気持ちになります」
「昨年の顔面デッドボール以来、かなり低迷していましたが、ついに復活ですね」
「単なる物理的な復活じゃないんです。精神的な復活です。金太郎さんのおかげです。あの大天才が、入団以来、けっして力を抜かず夢中で野球に打ちこんでいる姿を見て、私にかぎらず、チームのみんなが心底考えさせられました。いままで甘えすぎていたんじゃないかってね。いつまでも〈いぶし銀〉という評価に甘えていられない。もう一ランク上へ脱皮しなくちゃってね。何ごとも夢中になってやるときは、凡夫でさえ自分の力以上のものを発揮するものです。金太郎さんが私たちをそういう状態に導いてくれた。星野秀孝や水谷則博が出てきたのも、土屋の好投にしても、彼の導きの一環です。あの三人は金太郎さんのバッティングピッチャーをやって、しっかり打ちのめされ、長所を彼に見出されて覚醒したんです。練習、緊張感、すべて怠らず、きょうの一発一発を積み重ねることによって、金太郎さんのホームランは九十本にまでなった。私たちも、プロ野球選手となった日の覚悟を胸に蘇らせ、その心意気で進もうと決意しています」
「そうたい!」
 ベンチから江藤が怒鳴った。さらに高木は、
「江藤さんは王さんの記録を確実に抜くでしょう。今年の中日ドラゴンズは、個人の努力という意味でチームが結束しました。当分強いままですよ」
 水原監督にマイクが向けられ、
「監督、早くも八月初旬に優勝が秒読みに入るものと思われますが、そのことと、いま高木選手がおっしゃったこととを合わせてのご感想を」
「神無月くんのチームへの貢献度は、私の口からあなたがたに何度もお聞かせしてきましたので、いまさらつけ加える言葉はありません。高木くんばかりでなく、どの選手も、シーズンが終わり、日本シリーズのVを手にして初めて、自分の投じた一球や自分の放った一打が、あらためて高価なものだったと思い返すでしょう。最高の思い出になると思います。いま彼らはその道を一歩一歩進んでいます」
「日本シリーズの優勝宣言ですね」
「ずっと先の話ですが、当然、このチーム状態なら狙えます」
         †
 シャワーを浴びて汗を流し、汗まみれのユニフォーム一式と下着を一つ目のダンボール箱に詰めた。使用ずみバット一本を箱に載せる。あしたの試合が終わればもう一箱できる。高木を除いたほかの選手たちは、遠征のときは、たとえ三連戦でもまるで一張羅のように一着のユニフォームですます。高木は常に新品のユニフォームを身につけ、私と同様最終日にフロントにダンボール箱を出す。
 大広間でバイキングを終えた十時には、あしたのダブルヘッダーに備えて、だれもロビーに残っていなかった。私は部屋に戻り、ダッフルにグローブ、スパイク、帽子、タオルを詰める。新しいバット一本をバットケースに収める。ふと心配になって使用ずみのものも収め直しておく。あしたのユニフォームをソファに延べておく。
         †
 六月二十九日日曜日。朝の九時まで丸太のように眠った。
 起きてすぐ、うがい。歯を磨くのが億劫なほど腕の筋肉が張っている。ジャージに着替え、清水谷公園を走る。何人かカメラマンたちが追ってくる。五周。しっかり汗をかき、彼らに追われるままホテルの玄関へ戻る。すでに人混みができて、縄が張られている。部屋に戻り、歯を磨きながらシャワーで汗を流す。洗髪する腕もだるい。
 二日分のジャージを新しいダンボールへ。帽子の縁を洗って、風呂のドアの把手に干し、換気扇をかける。ふつうの排便。形がしっかりある。うれしい。体調はよさそうだ。
 一階のナカジマで一人きりの朝食兼昼食。親子丼とそうめん。フロントになだ万の弁当を注文する。早い昼食をすました監督、コーチ、選手たちがみんなロビーにいる。江藤たちと窓際に陣取り、ラウンジ喫茶部から出前のコーヒーを頼む。高木が、
「巨人が広島にやられて、また借金二に逆戻りだ。八対四のダブルスコア。負けは渡辺秀武か。山内と山本一義の十五号はわかるけど、山本浩司の六号はすごいなあ。金太郎さんがいなけりゃ、新人賞は田淵か山本浩司だったろうな」
「打たれたのは渡辺だけじゃないでしょう?」
「うん。山内が渡辺からスリーラン、山本一義と山本浩司が金田からツーランとソロ。ほとんどホームランの得点だね。うちみたいなもんだ」
 私は高木が広げている新聞を覗きこみ、
「対する巨人はホームランゼロですね。野球は、打てば勝てます」
 一枝が高木から新聞を受け取り、じっくり目を落とす。長谷川コーチの声が聞こえる。
「最近の都会の駅は、駅なのか商店街なのかわからんありさまだね。落ち着かない」
 水原監督が、
「面倒くさがりの現代人を助けるためのものだろう。電車を使って移動する勤め人が、駅から離れないで買い物したり食事をしたりできる」
「食事と言っても、せいぜい目玉焼きつきのハンバーグぐらいのものでしょう」
 私は江藤に、
「あとひと月で平和台ですね。散歩が楽しみだ」
「ワシャ、ラーメンたい。博多ラーメンは日本一やけん」
 太田が、
「居残り組は、スタンド観戦は自腹ですよ。交通費も」
 菱川が、
「昇竜館で練習練習。いつでも神無月さんといっしょにいられると思ったら大まちがいだぞ」
 中が江藤に、
「平和台には温泉があるかな」
「博多は温泉の宝庫ばい。筑後川沿いには原鶴温泉、星野川沿いに星野温泉、犬鳴川沿いに脇田温泉、福岡空港から近い久山(ひさやま)温泉。久山は山里の一軒宿で、博多の奥座敷と呼ばれとる」
「いいね。帰りは少しのんびりしてから帰ろう。膝を休めたい」
 太田が、
「久山ならいったことがありますよ。温泉街にしては、旅館やホテルがゴミゴミ建てこんでなくて、一戸建ての家やアパートが町の半分くらいです。いいところですよ」
 菱川が、
「岡山でもそうだけど、いまどきの温泉街なんてのは国道沿いに多くて、都会のベッドタウンて感じになっちゃってる。その久山温泉みたいな、ホッと一息つける温泉なんてめずらしいんじゃないの?」
 一枝が、
「ああ、俺も平和台にいけたら温泉に浸かれたのになあ。来年はいくぞ」
「平和台はしばらくなかろうもん」
「温泉があればどこでもいいさ」



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