百九十一 

 雨を見に縁側のガラス障子にいく。障子を開けて寝そべる。睦子と千佳子が横坐りに寄り添う。
「アヤメの工事がいよいよ始まったんだね」
 睦子が、
「骨組みができかかってます」
「材木は雨に濡れても平気なのかな。防水シートぐらいじゃ吹きこむ雨は防げないでしょう。霧雨くらいじゃシートを張らないし」
 主人が聞きつけて、
「年数かけて乾燥させた木ですから、雨水を吸ってもすぐ乾くんですよ。風の日もありますしね。家の完成までふた月近くあるので、そのあいだにじゅうぶん乾きます。あとで腐ったりすることもありません。棟梁にまかせておいてだいじょうぶです。平屋の大きなお店ですよ。八月の二十日ぐらいに開店だそうです」
 睦子が、
「あら、耳カスが……」
 千佳子が、
「天童さんが帰ってくるまで待たないと、私たちじゃ危ない」
 トモヨさんが、
「私もちょっと……」
 座敷にたまたまいた近記れんが、
「私がやりましょう」
 ソテツが耳かきを持ってきて、れんに手渡す。れんは膝枕をさせ、覗きこむ。女の顔になる。やさしく睫毛をしばたたきながら見下ろす目、わずかに上がった口角。女は究極の安堵感を与える。
「大きなのが一つありま……」
 ブルッとからだがふるえ、千佳子と睦子がフフッと笑った。用心深く耳かきを動かしはじめる。
「れんさんは、石川県の輪島だったね。来年か再来年の北陸遠征の時期は、里帰りついでに応援にきてね。兼六園球場」
「いけません。田舎は苦手です」
「そうか、気兼ねかもね。田舎の人間関係は案外狭い輪の中に収まるからね。無理しなくていいよ」
「はい、すみません」
 またブルッとふるえる。
「ちょっとすみません、トイレへ。冷えちゃったのかしら」
 あわてて立っていく。千佳子がニッコリ笑って、
「洗礼受けたのね」
 イネもトモヨさんも笑う。千佳子がトイレから戻ったれんに、
「れんさんは、八月からアヤメにお勤めするのよね」
「はい、トルコの仕事にやり甲斐を感じられなくなったもので」
「年季は明けてるし、小遣い稼ぎが目的だったわけだから、もともとやり甲斐なんかあるわけないよ。足を洗えてよかった。好きなお客さんでもいたら未練も残っただろうけど」「そんな人、一人もいませんでした。カタギの仕事は初めてなので、いまからわくわくしてます」
 睦子が、
「私と千佳ちゃんも、曜日を決めてアヤメでアルバイトすることにしました。大学ってコンパが多くて、けっこう出費が多いんです」
「カズちゃんからお小遣いもらってないの」
「いただいてます。申しわけなくて使えないんです」
「使わないとカズちゃん悲しむよ。青森時代もカズちゃんは何カ月かにいっぺん、五十万もくれたんだよ。ほとんど使わなかった。だから悲しんでた」
 千佳子が、
「……使うようにします。でも、そのくらい自分で稼ごうって」
「ぼくの金を使えと言っただろう。みんなぼくの扶養家族なんだから。必要なときはトモヨさんかカズちゃんに言ってね。ぼくの机の抽斗にたくさん入ってるから」
「車まで買ってもらって、そんな図々しいこと」
「ラーメンをおごってくれた康男の話を何度もしたね。いっしょに百年も生きられないんだよ。だれのものと区別しないで与え合おう」
「はい」
「お金に換えられないくらいのことを二人はぼくにしてくれてるよ。アルバイトは気分転換でやればいい。仕事でお金を稼ぐのは卒業してからだ」
「はい」
 ただいまァ! と直人の声がした。女たちと出迎える。直人が飛びついてくる。
「おとうちゃん、おかえりなちゃい」
「ただいま。保育所でいい子にしてた?」
「うん、みんなとあそんだ。おとうちゃんもいいこにしてた?」
「ああ、いい子にしてたよ。うんとホームランを打った。いつか直人にも、おとうちゃんのホームランを見てほしいな」
「ホームラン!」
「そうだ。ホームランだ。おとうちゃんの仕事だよ。ホームランを打つのに忙しくて、なかなか直人と遊べないな」
「なおともホームランうちゅ」
「うん、いつかきっと打って見せてね。きょうは何して遊びたい?」
「ホームラン!」
「うん、わかった。野球しようって約束してたね。待ってろ。いまホームランセット買ってきてやる」
 主人が、
「どちらへ?」
「名鉄百貨店の玩具屋。プラスチックの太いバットと、ふわふわのボールと、小さなグローブを買ってきます。部屋で打ってもどこも傷つけないし、顔に当たっても痛くないボール。晴れてるときは表でやればいいでしょう」
 傘を差して出ようとすると、菅野が、
「私が見つけてきます。直人と遊んでやっててください」
 主人が菅野にサッと一万円札を手渡した。
「菅野さんありがとう。それじゃついでに、布製のダッフルバッグもお願いします。革だと配送でけっこう傷ついて、もったいない気がするので、これまでのは中日球場用にします」
「了解。ところで、ダッフルってどういう意味なんですか?」
「さあ……」
 睦子が、
「装具一式って意味です」
「変哲もないね。やっぱり、袋というのが趣深い」
「じゃ、〈袋〉とホームランセットを買いにいってきます」 
 トモヨさんに玄関に見送られて菅野は出ていった。
「よーし、じゃ、直人、積木崩しやろう」
「しんゆうコウキとやったよ」
「親友? すごい言葉を知ってるな」
 主人が、
「山口さんが遊びにきたとき覚えたんやろ。頭のええ子や」
「たくさんいるよ、しんゆう」
「そうか、そんなにいるのか。すごいな。今度みんな連れてきなさい」
「うん!」
 睦子、千佳子、れんといっしょに積木を積み上げる。その端から、直人が指をチョンと出して崩してしまう。崩れると大喜びだ。
「もっと高く積んでから崩すと、もっと楽しいのよ」
 睦子に諭されても、少し積むとすぐ崩す。
「よし、今度は直人が積んでみろ。おとうちゃんたちが崩すから」
「うん!」
 慎重に積みはじめ、みるみる高く積んでいき、ついに自ずと崩れる。そのさまが楽しいらしく、私たちを手でさえぎって近づけない。
「下をしっかり造り、どうやったら崩れにくいかを考えながら積んでごらん」
 睦子たちも背中について、一ブロック、一ブロック、がんばれ、がんばれと応援する。主人夫婦も興味深そうに寄ってきた。
 三十分もして、菅野が大きな紙袋と黒い帆布地のダッフルバッグを抱えて戻ってきた。
「菅野さん、ありがとう。ピッタシの大きさだ。ソテツ、遠征先に荷物を送るときは、この袋のほうを送ってね。まあ、たいていこれに入れて自分で持っていくと思うけど」
「わかりました」
 菅野は紙袋から、一升瓶ほどもある太くて短いプラスチックのバット、プニョプニョの大きなゴムボール三個、幼児用の平べったいグローブを取り出した。直人が走ってきて、めずらしそうに飛びついた。
「よくありましたね、イメージどおりだ」
 バットは、大きさのわりに指でつまんでもてるほど軽い。座敷の縁を一家の人びとが取り巻いた。
「さ、直人、バットをこう持って……そうだ、その前に、このボールを好きなところへ投げてごらん」
 エイ! と放る。畳にすぐ打ち当たる。右利きだった。右利きの握り方と振り方を教える。私に正面向かって立つので、菅野に頼んで横向きに立たせる。ボールを下から放ってやる。前のめりに振る。当たった! 縁側のガラス戸へ飛んでいく。子供は引っ張れないのだ。盛大な拍手が上がった。
「ヨッシャ! 素質あり! さ、次いくぞ」
 放ってやる。当たる。真っすぐ私の頭上に飛ぶ。菅野が、
「こりゃすごい! 将来、プロ野球選手だ!」
 五球、十球とつづける。主人夫婦も混じってピッチャー役を買って出た。五十球ほど投げて、空振りが四、五回、チップが四、五回、あとはきっちりと前へ飛ばした。主人が、
「鷹が鷹を生みましたね! いやあ、たいへんだ」
 トモヨさんがうれしそうに、
「はい、直人、きょうはそこまでにして。ご褒美のおやつよ」
「うん!」
 居間へいった。菅野が、
「時間があるときは、庭でやってあげますよ。楽しみが増えました」
「よろしくね。付き合いすぎて調子に乗らせないように。きょうはここまでというふうに」
「わかってます。でも、なるべく直人が飽きるまでやってあげます」
「イネ、布のダッフルに新しいスパイクとグローブとタオル類を詰めてみて」
「わがった」
 イネがやってみると、うまい具合にスッポリ納まった。上部を太綱で絞るようになっているのもよい。筒の直径はバスケットボールくらいだ。主人が、
「そういや、何日か前に、ミズノからグローブが一つ送られてきましたよ」
 女将が、
「追っかけ、保田さんから電話がかかってきたんよ。保田さんが二度目にここを訪ねてりゃあしたとき、下駄箱の上のグローブを見て、何枚も写真を撮って、素材の革の質をしっかり調べ、はめ具合も確かめていったんやそうや」
 主人が、
「グローブ職人にまったく同じものを作らせるのに、五日かかったと言っとりました」
 直人がショートケーキを持ってチョコチョコ座敷のテーブルにやってきた。私たちにはウイロウが振舞われる。主人がミズノのグローブを持ってきた。はめてみると、少し硬いがシックリきた。使っているうちにほぐれてくるとわかる硬さだ。
「よさそうですね。こつこつ使って馴らします。あ、れんさん、耳クソ忘れてるよ」
「そうでした」
 縁のそばへいって寝そべる。ソテツがまた、耳掻きと綿棒を持ってきた。
「用心、用心」
 呟きながら、れんが耳穴を覗きこんだ。ソテツがいっしょに覗いた。大きな耳カスが一つ取り出される。
「神無月さん、ごめんなさい。あそこがジンジンしてきたので、もうやめます」
 片方の耳に綿棒を使っただけでやめて私の頭を膝から外すと、テーブルへ戻った。ソテツが私の傍らを離れない。ソテツは耳クソを手に載せて、しみじみ見ている。いつのまにかやってきて庭を見ていた木村しずかが頬を染めて頭を下げた。私も頭を下げた。ポツリと言った。
「ソテツちゃんに賄いのお給料を訊いたんです」
 豊橋の農家の娘、三十五歳、年季明けまであと四年。平たい角面。私とは心なしかいつも距離を置いている。
「で?」
「鯱のナンバーテンあたりをうろうろしてる私よりも、ずっと高いんです」
「ふうん。それは考えどころだね」
「で、鯱を辞めて、九月から賄いに入ることにしました」
「そう! よかったね」
「はい。……それで、あの」
「もう、ぼくはそういうことは引き受けないことにしたんだ。ごめんね」
「……はい、つまらないこと言ってすみませんでした。……ただ、女の喜びというのを知らないままでいるのはつらくて」
「気持ちはわかるけど、新しい生活の中を歩き回っているうちに、すばらしい巡り合いがあると思うよ。希望を持ってね」
 近いうちにいずれ、と私と約束を取りつけていたソテツが優越感をみなぎらせた顔で、
「そうですよ。女の人生が始まるのは、そこからだもの。何もなかった毎日が、いっぺんにぜんぶになるんです」
 十七歳が三十五歳に親身に女の人生を教え諭す。大人びた口説に聞こえないのが不思議だ。


         百九十二

 ソテツが私に笑いかけ、
「ユニフォームは、きのうクリーニングに出しましたから、いまから帽子を出してきます」
 予備の帽子は、一つは北村席に、一つは中日球場に置いてある。ふと、自分のロッカーの様子を思い浮かべる。【8神無月】とネーム板の貼られた天板の上に、新品の運動靴を何足か入れたダンボール箱、最上部の棚にフジのマスターの二足のスパイクと、ドラゴンズ支給の二つの帽子、棚から細い鉄棒で吊られた四段の物納れに、上から順に、めったに使わない電気髭剃りとケースに容れた予備の眼鏡一つ、まんいち下痢を起こしたときのために正露丸、ふつうのお守り(睦子のお守りはユニフォーム尻ポケットに入れっぱなしで、ユニフォームをクリーニングに出すだびに居間の水屋にしまう)、シャープペンシルと新品の手帳一冊、ノート三冊(きれいなままだが、何かの折に役立つことがあるかもしれない)、畳んだ小タオル十枚ほど、というふうにしまってある。物納れから横に伸びた鉄棒には、背番号8のユニフォーム一着、紺のブレザー上下一着、バスタオルが吊るしてある。ブレザーは近いうちに持ち帰ろうと思っている。物納れの下のキャスター付き水屋の天板に空っぽのボストンバッグを置き、水屋の抽斗にはアンダーシャツ、ストッキング、アンダーソックスが何組かずつ入っている。水屋と仕切り板のあいだに、セロファンに包まれた新品の五本のバットと、折り畳みの椅子が立てかけてある。中日球場で使うものばかりで、そこからほかの球場へ持ち出すことはない。
「梅雨って、ふつう、六月の中旬から七月の中旬までだよね」
 ソテツに尋く。
「沖縄は梅雨入りがいちばん早いんです。五月の初旬、早いときは四月の下旬から始まって、六月下旬までつづきます。本州は六月中旬から七月の下旬にかけて。七月の中旬からはあまり雨は降らずに、ほとんど曇りばかりですけど、それでも梅雨です」
「ただの雨が何日かつづいてるとしか感じないよね。なんで梅の雨と言うんだろう」
「梅の実が熟するころの雨だからです」
 そう言うと、ソテツは帽子をクリーニングに出しにいった。
「直人、こっちこい。お馬やってやる」
 うれしそうに居間から走ってきた。上着とシャツを脱ぎ、裸の背中に乗せて腕立てを始める。直人はキャッキャッと喜んで、私の尻を叩いたりする。仰向けになり、直人の腋を抱えながらギッタンバッタン腹筋。尋常でなく喜ぶ。
「こりゃ、いい運動になる。十キロ以上あるな」
 ビッショリ汗をかいた。
「終わり! おとうちゃんはシャワー浴びてくるから、おねえちゃんたちと遊んでなさい」
「直人もシャワー」
「そうか。耳にシャワーが飛びこんだらいけないから、おかあちゃんといっしょにね」
 トモヨさんが立ち上がってスカートの裾をパンティに挟みこみ、
「お湯は抜いてしまいました。シャワーだけでいいですか」
「もちろん」
「直人も、髪を洗いましょ」
 イネもお仕着せの尻をはしょり、
「あだし、浴槽洗って流します」
「お願いね」
 トモヨさんが洗髪リングをかぶせて直人の髪を洗っているあいだに、イネは手際よく浴槽を洗った。私は彼らにしぶきがかからないように、いちばん端のシャワーで全身の汗を流した。
「直人は大きくなったなあ。どのくらいある?」
「八十五センチ、十一キロです。少し小さいですね」
「ぼくも小さかった。運動すれば大きくなるよ」
 風呂を出て、四人で居間に戻ると、主人が、
「内緒にしとったんやがね、横山さんが窃盗で捕まりました」
「え!」
「おととい、山口さんから電話がかかってきましてね。旅先で食い詰めて、東京に戻ってもう一度ラビエンに勤めたんですが、深夜に店に忍びこんで、売上金を盗んだんやと」
「なんで売上金を置いてたんだろう。あの眼鏡の部長が朝早く取りにくるつもりだったのかな。いくら?」
「二十万くらいの金だという話やが、その部長さんが怒って訴えたそうで。じつは、これが二度目らしくて、堪忍袋の緒が切れたんやろう。拘留期間が二十三日間で切れると起訴されるので、示談金ですましたそうや。被害金額プラス二十万円で、四十万円弱。先回分を合わせると六十万円。おトキの貯金から出したと言っとりました」
「それはいけない! すぐ、百万送ってあげなくちゃ。来月はイタリアだ。たいへんなことになる」
「もう和子が百万送りました。おトキにはそんなの痛くも痒くもないそうなんやが、無理やり受け取ってもらった。山口さんが言うには、こっちへ横山さんが流れていったら、金を貸したり、くれてやったりしてはいけないとのことでした。留置所を出てから、またどこかへいってしまったそうで」
「山口、その百万、送り返してくるだろうな。返してよこさないようにとぼくが言ってたと、お母さん、山口に電話しといてください。いや、いまからぼくが電話しよう」
 女将は直人の頭の水気をタオルでこすり取りながら、
「耕三さんがもう電話しましたよ。安心してや」
 千佳子が、
「すごい連係プレイ! 横山さんのことだから、きっと山口さんやおトキさんにお礼も言ってないわね」
「ほうやろな。どこで狂ってまったんやろな。うちにきてトルコで働けばええのに。プライドなんか捨てて」
 睦子が、
「プライドがあれば、そんなことしなかったと思います。山口さんはまだラビエンに勤めてるんですか」
「何カ月か前に辞めとる。それで安心して、横山さんも悪さしたんやろ」
 菅野が煙草に火を点け、深く吸いこんだ。
「……気の毒な人ですね。友だちが立派すぎるんで、自分もという気持ちになるんでしょう。最後はかならず自分のことに話を持ってくる人でしたから。盗んだ金にしても、気を引きたくて、人におごりまくったんでしょうね。もっとひどいことをしでかさなければいいですけど」
「野辺地以来のよしのりの言動を考えると、いい中身の話もあったし、相当親切にもされてきたから、こんなふうに根無し草で生きてるのを見ると胸が痛い……」
 心底からの思いが欠けているだけに、何を言っても棒読みの科白になり、わざとらしさが透ける。私は菅野のように大きく深呼吸した。友人を庇う義俠に長けた男―板についていない態度だ。私には庇うよりも心中するのが合っている。しかし心中はできない。よしのりに寄せる深い思いがないからだ。千佳子が、
「ぱさついたケーキみたいな人だから、胸が痛いと言うより、呑みこむと胸につかえるんですよね」
 菅野が、
「うまいこと言う。神無月さんも、考えたくないことは無理に考えなくていいですよ。社長、そろそろいきますか」
「おいきた」
 きょうは雨なので、蛯名ではなく菅野が早番の女を連れ戻る。
「菅野さん、あしたのランニング、八時から」
「ラジャー!」
 厨房の音がいっときに高まる。イネの詰めた遠征用の布袋をもう一度空にして、いままでの牛革のダッフルに詰め直す。留め口がズボンのベルトのようなバックルになっている。こちらも捨てがたい。
「トモヨさん、黒の半袖のアンダーシャツ、ストッキング、アンダーストッキングそれぞれ一組、バスタオル二枚、革のダッフルに入れといて」
「あら、ノースリーブじゃないんですか」
「やっぱりノースリーブを着るのはやめにした。男にノースリーブは似合わない。アンダーシャツ類は、三回か六回に取り替えるのが選手たち一般の習慣だけど、ぼくはダブルヘッダーのとき以外は替えない。汗ビッショリでやるのが好きなんだ。一試合だから、別に詰めなくてもいいんだけどね。着替えはぼくにとって実用的でない一種のアクセサリーだね。ロッカーのシャツも飾りのつもりなのでめったに使わない。ロッカーの備え置きであした使うのは、帽子だけ。じゃ、ちょっとアヤメを見てきます。雨が強いので一人でいってきます。五、六分で戻ります」
 下駄を履き、傘を差してアヤメの建築現場を見に出かけた。棟上げのかなり進んだ建物はシートで覆われずに、縦横の材木の骨組みが雨ざらしになっていた。周りを囲む太いパイプの格子の諸所にはしごが架け渡してある。勝手に想像した。
 ―雨で職人が作業できない日は、溜まった木屑を雨で洗い流すためにシートをかけない。雨天の作業日はシートで覆い、木屑が濡れてホゾ穴を塞いだり材木の表面にこびりつかないようにしながら落ち着いて仕事をする。
 たぶんこの想像は当たっている。三角屋根のほとんどができ上がっていて、近隣の平屋より二メートルほど背が高かった。大工用の簡易トイレの傍らに鎮座している大きなクレーン車は、頑丈な鉄骨の打ちこみ用だろう。店内の柱を少なくするためだ。
 屋根の下の乾いたコンクリートに踏みこむ。下駄の泥跡はいずれ磨き掃除をするだろうから気にせず歩き回る。高い天井だ。頭上の空間をたっぷり取って、圧迫感がないようにしているのだとわかる。丸い大カウンターの土台らしき木組みの枠溝ができ上がっている。その内部に打たれたコンクリートの面が一段低い。周囲に別の溝が通してある。流し水用か。小上がりの土台もそれとわかる。奥のほうにいくつか部屋割りの柱が立っていた。休憩部屋や従業員部屋だろう。とにかくとんでもなく広い。窓も大きく、明るい豪壮な店になるのは確実だ。繁盛するにちがいない。
 北村席に戻ると、カズちゃんたちが帰ってきていた。主人と菅野も帰っている。
「山口のこと、ありがとう」
「おトキさんもムチャなことするんだから。裁判にかければ、お金で困っている人の初犯だから、懲役何カ月かを宣告されて、執行猶予つきの判決だったでしょう。放っておけばよかったのよ」
 主人が、
「しかし、裁判は半年以上かかるで」
「自業自得。でも、やっぱり放っておけないわよね。キョウちゃんを幼稚園のころから慕ってきた人だから。少なくとも十五歳のころからでしょう? とにかく、ここには出入り禁止。まじめに働きはじめるまではだめ」
 素子が、
「好かん男やったから、やっぱりゆう感じやわ。さすがおトキさんと言いたいところやけど、少し甘いと思うわ。そこがおトキさんのええところやけど。山口さんを気の毒に思ったんやろな。山口さんはキョウちゃんを気遣ったんやろうし」
 女将が、
「留置所を出て、どこにいってまったんやろね」
 カズちゃんが、
「いままで北海道だったんでしょう。今度は四国か九州ね。あの人は何かで一般の人たちに認められるまでは放浪しつづけるわ。出入り禁止にしなくたってキョウちゃんのところには戻ってこない。自分を殺すことになるから。でもいままで彼をいちばん認めたのはキョウちゃんだったのよ。こんな幸せ、二度と手に入らないわ。さ、お風呂、お風呂」
 素子以外だれも立ち上がらないので、カズちゃんは素子と二人で廊下へ出た。その背中を木村しずかがついていった。直人を奪い合いながら座敷が賑わう。直人は逃げ回り、台所へいった。睦子が私に、
「……横山さんが実際ここにきたら、置いてあげますよね」
「もちろんみんなそうだと思うよ。もろ手を挙げないにしてもね。でも、よしのりはこないよ。立つ瀬がないところでは泳がない」
 風呂へいかなかった百江が、
「もし北村席にやってきたら、私の家でお世話してもいいですよ。あの人は女に手を出す勇気なんかない人だし、ましてや五十婆さんには絶対手を出さないでしょうから」
 キッコが、
「私はいやや。そばにいるだけで虫唾が走るわ」
 千佳子が、
「私も、ぜったい、いや」
 天童と丸とメイ子が、
「私も」
 と声を合わせる。菅野が、
「あそこまで手はずを整えずにものごとをやる男はなかなかいないんで、私としては憎めないタイプなんですけど、能天気でそういう塩梅だったら文句ないんですよ。あの人、抜け上がってないですよね。世間を気にしながら手はずがうまくないというのは、どう言えばいいんですかね、男として情けないです。抜け上がるための素質がないんでしょう。私どもみたいに抜け上がる素質のない人間は、しっかり手はずを整えて生きる。彼も素質がないんだから、きちんと計画的に生きるべきなんです。いくら言ってもだめでしょうね。根拠のないプライドを持ってますから。ま、私が受け入れるかどうかは、神無月さんしだいです」
 菅野は私の目を見つめ、
「あー、何も考えてませんね……」
「ごはんよー」
 トモヨさんが直人といっしょに厨房から出てきた。直人は女たちの手を逃れて私の膝に収まった。カズちゃんと素子としずかが風呂から上がってくると、一度カズちゃんに甘えて膝に乗ってから、私の膝に戻った。
 仕切りのあるプレートに載った直人の夕食が出てくる。ごま油で焼いて塩を振った薄くて小さい豚肉三枚、チクワの一口サイズのぶつ切り四つ(これがごはん代わりだとトモヨさんが言う)、カニカマのぶつ切り六つ、メカブのチャーハン少々。フォークとスプーンを使ってかなり器用に食べる。愛らしい。
 大人のおかずは、いさきの梅醤油焼き、とうがんの生姜汁、きゅうりと長芋の唐辛子酢かけ、オクラ叩きの冷奴。


         百九十三

「五色ソーメンのほしい人は?」
 トモヨさんがみんなを見回して言う。
「五色って、小豆島の?」
 私が問うと、素子はトモヨさんが答えようとするのをさえぎって、
「そういう製品名のことやないんよね。具が五色あるんやろう」
「そう。よく知ってるわねえ」
「うちらに当てさせて」
 トモヨさんは微笑み、
「どうぞ」
「シイタケ、きゅうり、トマト、うーん……」
「そこまで合ってます」
 カズちゃんが、
「直人が食べてる豚肉?」
「惜しい!」
 しずかが、
「鶏のささ身」
「当たり。あと一つは何でしょう」
 主人が、
「卵焼きの千切り」
「ノー」
「納豆」
 キッコの飛び入り。適当に言っている。
「ノー」
 菅野が、
「ナス」
「ノー」
 私は自信を持って、
「もやし」
「ノー」
 千佳子が、
「ししとう」
「ノー。みんな残念でした。梅干しです。酸味が肝心よ。はい、ほしい人」
 男三人を除いて全員手を挙げた。直人は食事を終え、母親の膝に移った。
「こうなると、もうすぐ寝ますので、お風呂に入れて、歯を磨きます。そろそろソテツちゃんたちも食べてて」
「はーい」
「じゃ、直人、お休みなさいして」
「おやすみなちゃい」
「お休み」
「お休み」
 母子が去り、本格的な食事になった。
「おいしい!」
 千佳子が感激の声を上げる。睦子が、
「こんな五色ソーメン、初めて! 名人」
 ソテツが、
「奥さまのアイデアです。タレは私。とうがん汁はイネちゃん」
 主人が、
「うちの厨房は、みんな名人や」
 直人を寝かしつけて戻ってきたトモヨさんが賄いの卓に交じる。
 一時間ほどで食事も終わり、食後のテレビを流しながら歓談する。TBS歌のグランプリ。私は歌に耳を傾ける。
 今週のヒットファイブ―鶴岡雅義と東京ロマンチカ。ロマンティック? ロマンティシズム? ロマンティシスト? 意味不明。『君は心の妻だから』、ひどい。小川知子『初恋のひと』、聞き覚えあり。江藤や太田たちと聞いた。駄曲。ピンキーとキラーズ。『七色のしあわせ』、ピンキーなので許す。伊東ゆかり『知らなかったの』、駄曲。内山田洋とクールファイブ『長崎は今日も雨だった』。これはいい曲だ。聞き惚れる。
 青島の歌謡百科、愚にもつかないおしゃべり。去年参議院議員選挙に出馬して、石原慎太郎とともに当選したタレント議員青島幸男は、ナンデモデキル数股膏薬男で、歌謡曲の作詞までする。スーダラ節、明日があるさ、など。しゃべりはつまらない。この男の明るさは好きだけれども、計算がありそうな能天気が怖い。
 今週のビッグ3、森進一『港町ブルース』、くだらない。奥村チヨ『恋の奴隷』、口惜しいけれど、という言い回しに愛を感じない。高田恭子『みんな夢の中』。これはすばらしい。文句なし。
 睦子が腰を上げた。
「ああ、楽しかったです。ごちそうさまでした。六日の阪神戦は応援にいきます」
 カズちゃんが、
「よしのりさんのこと、胸痛めちゃだめよ。ここを頼ってきたら、追い出すことはしないから」
「はい。でも、神無月さんや和子さんの言うように、横山さんは名古屋にはこないと思います。お金を盗んだことより、盗んで人に振る舞うことでしか周りの歓心を買えない自分に、きっとガッカリしたでしょうし、私たちはガッカリした横山さんを救えないから。なぜって、横山さんがこうなった発端は、私たちと神無月さんを結びつけている愛情なんです。彼がまねしようとしてまねできなかったものです。横山さんは、愛情の根っこに努力があることをどうしても理解できない人です。努力なしに一足飛びに愛情を得ようとする。できればお金も手っ取り早く得ようとする。自分のその虫のよさにぜったい気づかない性格です。私は胸を痛めてるんじゃなくて、呆れてるんです。ただ……呆れる自分を傲慢じゃないかって考えてました」
 カズちゃんは笑いながら、
「呆れっぱなしでいいのよ。人間なんてみんな、多少虫のいい生きものよ。そういう自分をときどき呆れなくちゃいけないわ。自分を呆れられることこそ努力の源よ。自分を呆れて初めて、人のことも呆れられる。自分を呆れられない人は、努力なんかしない。人から呆れられる一方よ。とにかく頼ってきたら、呆れながらも世話してあげる。奇跡が起きて努力家になるかもしれないから」
 睦子はニッコリ笑って、
「じゃ、帰ります。郷さん、あしたがんばって。お休みなさい」
 千佳子が睦子に、
「バイバイ、あした大学で」
「うん、大学で。バイバイ」
 菅野が、
「自転車?」
「はい」
「今夜はビール飲んだ?」
「はい。食後にみなさんと少し」
「じゃ、飲酒運転だ。送ってく。自転車はあした大学の帰りに取りにくればいい。大学は何時から?」
「十一時です」
 千佳子が、
「やっぱり私もムッちゃんを送って、そのまま泊まる」
「了解。二人を十時に迎えにいって、駅に送ってあげます。じゃ帰ろう」
「あしたの教科書をとってきます」
 カズちゃんが二階に上がろうとする千佳子に、
「あ、そうだ、千佳ちゃん、前期試験と夏休みの日程は?」
「法学部の春学期試験は七月二十五日から八月三日まで。夏休みは八月八日から九月三十日まで」
「じゃ、八月九日の……ええと、土曜日に中津川に移動して、十日の日曜日から二十四日の日曜日までの十五日間講習を受ける、と。その夏期合宿に、素ちゃんと二人分申し込むわよ。ムッちゃんはどうする?」
「私は、運転はちょっと……」
「そう、あなたは運転に向いてないわね。おっとりしてるから。せいぜい千佳ちゃんに乗せてもらいなさい」
「はい。私は、夏休み中はせっせと中日球場にかよいます。教習所から千佳ちゃんが戻ってきたら、足になってもらいます」
「千佳ちゃんも練習になるしね。素ちゃんにも乗せてもらいなさい」
「はい」
 千佳子が二階に上がってカバンを持って降りてきた。
「さ、いこう」
 菅野は睦子と千佳子を従えて出ていった。主人がだれにともなく、
「やるなあ、菅ちゃんもムッちゃんも和子も。横山さんの分析感心したわ。説得力、どえりゃあある。抜け上がれない人間はしっかり手はずを整えて生きる、愛情の根っこに努力がある、自分を呆れて初めて人のことも呆れられる、か」
 素子がカズちゃんに、
「お姉さん、横山さんの根拠のないプライドって、何? 誇りを持てそうなこと、何もしとらんでしょう」
「キョウちゃんに訊けばいいわ。プライドのまったくない人だから」
 キッコが、
「あたしも知りたい」
 私は、
「プライドって言うと高尚なものに聞こえちゃう。下等な人間の生命のもとになる下等な栄養物って言えばよくわかるよ。評判とか、身分とか、財産とかクソみたいなもの。努力せずに外側を飾って生き延びようとする人間の卑しい飾り。フンコロガシのフン。転がしてると大した仕事をしてるように見えるけど、あの昆虫は、動物の毛や骨のような上等なものも努力して栄養にできるのに、努力するのがいやだから、いつも即効性の栄養になるクソ玉を持ち歩いてる。クソを食い、クソに話しかけ、クソといっしょに寝て、クソの中で子育てをする。クソ中毒。そうなっちゃいけないんだ。クソを持ち歩いて生きてちゃいけない。クソではぜったい人間は輝かない。生きていればツキがないときだってある。裏切られる、事故に遭う、競争に負ける。でも、身になる栄養を摂るようたゆまず努力していたら、そうなっても力強く立ち直れる。即効性の栄養は効果の切れるのも早いから、痩せ細って惨めな思いをする時間が長くなる。努力せずにツキのなさを嘆きながら、クソを食っちゃいけない。クソはクソにふさわしいクソ中毒患者のいる場所に置いておけばいい。努力を重ねながら、中毒にかからない強いからだを作っていかなくちゃね」
 愚か者め、黙っていればいいのに。
「よくわかったでしょう? これ以上の説明はないわ」
 素子とメイ子が感嘆のため息をつくと、座敷にもフーとため息が流れた。女将がハンカチで目を押さえながら、
「努力すれば、しっかり進むことも、仕方なく止まることもできるけど、努力しなければ弱々しくうろつくことしかできんゆうことだわさ」
「はい、進むにも止まるにも地道な努力がくっついてくるんです。惨めな状況のときは心底惨めさに浸り、恵まれた状況のときは手放しで喜ぶ。失意のときも喜びのときも、全力で受けとめる。それが努力です。体力が要ります。ほんとの栄養を地道に摂る努力をすれば、ほんとの体力がつきます。体力がつけば、クソみたいなプライドなんか必要ありません」
 愚か者、黙っていろ。主人が、
「ぴったり自分にも当てはめられますよ。そのとおりや」
 カズちゃんが私の手を握った。泣いていた。素子とキッコも腕を握った。
「さ、帰りましょう。トモヨさん、ソテツちゃん、ごちそうさま」
 カズちゃんと素子とメイ子と百江と私の五人が、傘を持って玄関に出た。一家の人びとが見送った。椿神社の端から曲がりこむ小路の角で百江とキスをして別れ、アイリスの前で素子とキスをして別れた。
 玄関の戸を開けて、傘を畳み、傘立てに差す。三人居間でテレビのつづき。火曜劇場『わが母は聖母なりき』。長編ドラマのようだ。
 農家に嫁ぎ、出産がもとで腺病質になり、離縁を強いられて、息子を抱えながら懸命に生きる母。薄幸の母と一人息子の人生行路を女二人は息を詰めて見る。四十五分の放送が終わった。
「これ、私が生まれたころに出版された八木隆一郎という人の小説が原作でね、母親の息子に対するこだわりがすごいの。泣き落としの進路妨害。そして自分は若い男と恋愛して妊娠し、それを息子に打ち明けられずに自殺するというユクタテ。聖母というのがよくわからない小説だった。どんなに苦労しても、人はわがままになっちゃいけないわ」
 私に重ねて観ていたようだ。彼女の物言いは私に似ているようだが、しゃべる過ぎることがいっさいない。カズちゃんにかぎらず、北村席にもドラゴンズにもしゃべり過ぎる人間は一人もいない。徳の垣根をしっかり巡らせている。頭の中でさえ饒舌な私とちがって、彼らは口の滑らかな愚か者ではない。
「小腹がへった」
 と言うと、カズちゃんが、
「サッポロ一番があるわ」
 メイ子が、
「玉子とお野菜で作りましょう」
「そうね。キャベツ、レタス、モヤシ」
 カズちゃんはメイ子といっしょにシンクに立つ。野菜を刻むほかは、ほとんどカズちゃん一人で調理する。
「うまそう! インスタントじゃないみたいだ」
「ほんとにおいしそう。お嬢さん、遠慮なくいただきます」
「二人の合作よ。いただきます!」
 一日の終わりのささやかな宴だ。女の作るインスタントラーメンはうまい。三種類の野菜の歯触りが絶妙だ。
 腹がふくれ、一時を過ぎて解散し、二階の寝室で独り眠った。



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