二百十二

 私はつづけた。
「青森高校は素人集団で一日二時間しか練習をしない学校でしたが、ある意味プロ的だったと思っています。野球の名門校はふつう、毎日がきびしい長時間の練習の連続で、練習が主体みたいなところがあります。本試合は練習ほど苦しいものではないので、苦しさという意味では本番と言えないものになります。つまり練習こそ本番というアマチュア精神の権化です。プロは報酬を求めて本試合をするのが大前提で、練習や練習試合はあくまでも本番前の準備です。準備のほうがきびしくなるのはおかしい。練習のきびしさは報酬のための評価とはなりません。いま水原監督が言ったように、練習でからだを壊すのは愚の骨頂です。千本ノックや、千本素振りや、過度のダッシュの繰り返しや、過度の投げこみは、全体主義の満足感と故障のほかには何の結果ももたらしません。キャンプはクセモノです。キャンプでからだを壊す選手が多いのは嘆かわしいことです。そのまま引退していく選手までいると聞いて胸が痛みました。長い道のりを経て、せっかくプロになったのに、全体主義的な伝統に殺されてしまったわけですから。何のためにプロ野球を目指したのかということになります。長嶋さんも王さんも、模範を示すためにからだを壊してはいけません。効率の模範を示すんです。ぼくは、こつこつ、毎日持続的に鍛錬します。試合のない日も、もちろんオフのときも数キロを走ります。腕立て、腹筋、背筋、右左の片手腕立て、一升瓶による手首の鍛錬、九つのコースに分けた素振り、片手素振り、筋トレ。すべて怠らずにやりますが、集中的な特訓はしません。遠投もたくさんやりません。試合前の守備練習も遠投は三本までです。からだを壊したら才能を人びとに示せません」
 私がしゃべっているあいだも長嶋は箸を動かしていた。王はじっと耳を傾けていた。千佳子が、
「実際、神無月くんはそれを持続的にやっています。努力の中でいちばん難しいのが持続だと思います。そしていちばん効率の高いのも持続です。集中的にやって終わりというのは、だれでもできます。そんなものの模範になっても仕方ありません。……いま神無月くんは、報酬のための本試合と言いましたが、プロの定義を口に出しただけだと思います。神無月くんがお金のことを口にしたり、ほしがったりしたことは一度もありません。報酬がともなわなくても、大勢の観客がいる本試合だけが好きなんです。これこそプロ野球選手の模範だと思います」
 水原監督が、
「どうでした? 長嶋くん、王くん、いい話し合いができましたか?」
 王が、
「申し分ありません。ふつふつとやる気が出てきました。これでグンと選手生命を延ばせるかもしれません。神無月くん、ありがとう。感謝します」
 長嶋は、
「グッドでした。ぼくは〈ええ格好しい〉なんで、特訓のときに一生懸命やっちゃうんだよね。立教の砂押時代から特訓には慣れてるからね。巨人軍から特訓をなくすことは、ぼくやワンちゃんの力ではどうにもならんでしょう。特訓に耐えたやつしか登録選手に入れない伝統なんだから」
「長嶋さんは才能のかたまりです。からだが柔らかいので、どんな特訓にもめげないんでしょう。前に突っこんで打球をさばく、そこからアンダースローで一塁に送球する、腕が鞭のようにしなる、格好いいです。バットも一握り余す。回転半径を小さくしたほうがバット振る力は少なくてすむし、コントロールしやすく、するどく振れる。やっぱり格好いいです。天才特有の格好よさです。そこまですごい天才には、じつは特訓は必要ありません。ベンチ入りできなくなることを覚悟で、堀内投手のように特訓はやめたらどうでしょう」
 私はにこやかに皮肉を言った。長嶋が到着一番、畳に頭を下げたのは形ばかりで、王に付和雷同的についてきただけだということがわかったからだった。水原監督と王が驚いて顔を見合わせた。北村席の人びとも、いつにない私の異様な雰囲気を察して顔を見合わせた。水原監督が、
「じゃ、長嶋くんにとってはちっともグッドでなかったわけじゃないの。そういうことなら、ドラゴンズの嵐が去るまでは、数年、巨人軍の優勝はないね。悪いけど、ホッとしましたよ」
「いや、グッドでした。でも、伝統は伝統ですからね。ぼくは巨人軍の一員だから」
 王が、
「私も巨人軍の一員です。しかし、伝統というのは価値があってナンボのものです。精神的な連帯のための集中訓練を完全に取り除くことはできないかもしれませんが、自分だけでも、過剰な練習を自粛するよう心がけます。持続的な鍛錬は自助努力にまかせ、本試合前には外野の芝を踏んでゆっくりランニングし、柔軟体操でからだをほぐす。そして入念なキャッチボール。それを観客が見ている。なんとプロらしいじゃないですか!」
 この男もどこまで本気かわからないが、長嶋よりは信用できる。水原監督が、険しくなりはじめた私の表情を窺っている。私は、
「外野手はぜったい私的な鍛錬が必要ですが、内野手は本試合でもじゅうぶん鍛えられるということも知っておいてほしいんです。初回から九回まで守りつづけると、姿勢を低くしては伸ばすという動作を数百回繰り返すでしょう。軽い柔軟体操がつづくようなもので、そのうえ、ときには全力で動き回らなければならない。内野手だから当然と言えば当然ですが、相当疲れます。そして鍛えられます」
 長嶋が苛立ったふうに、
「天馬くん、長幼の序という言葉、ドゥ・ユー・ノウ?」
「はい。その枷を越えて人は付き合うべきだと思っています。礼儀は大事ですが、屈従は感心しません」
「子供は親を越えられないんですよ。後輩は先輩を越えられない」
「え?」
「親も先輩も尊重しなければね。きみがお母さんのことをどう思おうと、彼女はきみを生んでくれたんだし、先輩はきみよりも長くプロ野球界で生きてきたんだから」
「そうですね。否定しようのない事実です」
「じゃ、なぜ親を捨ててこんな場所で暮らし、せっかく訪ねてきた先輩に説教してるの」
 主人と菅野が色めき立った。主人が、
「話が逸れたんじゃないんですか。こういう話し合いをしにきたんじゃありませんよね」
 王が、
「もちろんです。すみません……申し訳ない、やあ、困ったな、どうもチョーさんは年下の人間に指導を仰ぐのは性には合わないようです。ほんとに申しわけありません」
 長嶋は箸を置き、
「ワンちゃん、謝ることはないよ。好き勝手なことを言ったのは、天馬くんのほうなんだから」
 私は反射的に頭を下げた。
「二十歳の小ワッパが、野球人生の大先輩に勝手なことをしゃべりすぎました。お許しください。ただ、野球の話が長幼の序の話に切り替わったことが解せませんでしたし、それに加えて、こんな場所、というのは長嶋さんの失言です。北村席ご一家に対して失礼だからです。しかも、ここはぼくの避難場所ではないんです。たどり着いた理想の場所なんです。ぼくをわかる人たちがいる場所なんです。ぼくも彼らのことを心の底からわかります。わかって〈やる〉んじゃなく、たがいに〈わかる〉人たちがいるとすれば、ぼくはここにいるしかありません。母が社会的に立派な人間だとすると、ぼくは反社会的な人間ということになります。北村席のかたがたは、反社会的な人間であるぼくを護るために、自己犠牲を強いられ、社会から反感を抱かれることになった、いわば気の毒な慈善家のようなものです。社会的な見返りを得ることを捨てているという意味で、無欲な人たちですが、精神的に貧しくありません。無欲で、心豊かで、しっかりと孤独を尊ぶ人たちです。その当然の結果として、彼らは愛情にあふれています。愛情に満ちた孤独が完成しているこの家が、自分の居場所になりました。愛にあふれた孤独を分かち合えるだれかがいれば、野球や読書や勉強をしながら生き延びられます」
 水原監督や主人や菅野がハンカチを出した。
「じつはぼくが母を捨てたんじゃなく、ぼくが母に捨てられたんです。それからは、孤独なぼくと一対の心を持って共生する人が、一人、また一人と増えていきました。孤独が愛情で埋まっていき、人生に彩りが生まれました。信じがたいことです。彩りのある孤独の共有。ぼくはこの彩りを失えば、また、〈向こう側の人間〉との彩のない烏合にあと戻りするしかありません。たぶん社会的な成功者たちからは、ぼくたちは敗北者と見なされるでしょう。社会的な勝利者である母たちは、この家の外で貧しいけれども頑強な徒党を組んでいます。そういうことを直観でわかって、長嶋さんと王さんが会いにきてくれたものと思っていました。だから心を開いてしゃべりました」
 水原監督がハンカチで目を拭い、
「長嶋くん、きみの単純な頭で、この無為自然の人間に道徳の講義をするつもりかね。きみには彼の言わんとしていることすらわからんだろう。金太郎さんを愛していないからだよ。ときとして、特殊な子供は、ごく平凡な親から生れるものだ。その平凡さを背負う必要はない。そもそも金太郎さんは好き勝手なことを言ったんじゃなく、王くんに意見を求められて、チームの結束を高めるための提案をしたんだろう? 金太郎さん、私はきみを愛しているのに、考えもなく傷つけるようなことをしてしまったね。勘弁してくれたまえ。いいかい長嶋くん、金太郎さんはね、玄関から私の手をとって式台に上げてくれたんだよ。それこそ長幼の序と言うものじゃないのかね。きみの長幼の序は、ただの親孝行、おえら方孝行という世間倫理だろう。目上の者にしか眼が向いていない利己主義だね。金太郎さんはあらゆる人間に慈愛の眼を向けている。もちろん親にもその眼を向けて、何度も和解を試みているんだ。きっちり親の平凡さを背負ってるんだよ。しかしどれほど和解を試みても、ことごとく拒絶される。それは金太郎さんの罪じゃない」
 菅野が目を潤ませながら、
「そうですよ! あんな鬼のような親に神無月さんは孝を尽くしてるんです。一人でいっても追い返される、社長や私といっても、江藤さんといっても、山口さんといっても、愚にもつかない嫌味を言われて追い返される。あなたのように、やさしい百点満点の親を持ってる子供に、神無月さんの苦しみは理解できないだろうなあ!」
 女将が、
「長嶋さん、子供の出世を喜ばん親ゆうものを見たことがありますか」
「ありませんね。そんな親はこの世に一人もいないでしょう」
「いるんですよ。出世する子が憎いゆう親がね。ノーベル賞かへーベル賞か知らんが、親孝行やない人間がもらった賞なんかウンコや、て言う自分勝手な親がね。まんいち長嶋さんが、親友の病気見舞いにいくことや、恋愛することや、いえ、野球の話にしましょうわい、プロ野球に入ることや、ホームラン王になることをウンコや言われたら、どう思います? それどころか、幼いときに野球を奪われたらどうします? そういう運命を切り抜ける自信がありますか。インタビューで神無月さんがマグレ言うとき、どれほどつらい気持ちでしゃべっとるかわかりますか。神無月さんは好き勝手なことをしゃべったことなんか一度もありゃせんのよ」
 王が涙を流しはじめた。
「神無月くん、許してください。ほんとに申しわけないことをした。ぼくはチョーさんのことを、一般から外れたきみに似た天真爛漫な人だと思っていた。話が合うと思っていたんです。少なくとも特殊なきみに好意を持っているものと思っていた。実際に何度も異常な姿を目のあたりに見たり、人から噂を聞いたり、新聞や雑誌で読んだりして、興味を持ち、共感さえしてきた人間に、この期に及んで一般常識を諭すとは思わなかった。―帰ります。またあらためて一人で伺います。チョーさん、きょうは失礼すべきです。帰りましょう」
 長嶋は気抜けしたようにぼんやり私の顔を眺めていた。ポツリと言う。
「なんだか、ぼく、とんでもないことしちゃったのかな」
「水原監督、お二人を先に帰して、めしでも食っていってください」
 主人が皮肉らしく言うと、監督はハハハと笑いながら、
「そうしましょう。北村席のめしはうまいですからね」
 そう言ってスーツの上着も脱いだ。またトモヨさんが受け取り、コートと並べて鴨居に吊るした。私も上着を脱いで渡した。トモヨさんはそれも並べて掛けた。長嶋は王に促されて立ち上がった。
 私は長嶋と王を門まで送っていった。王に傘を差しかけ、話しかける。長嶋は二人の付き人に傘を差されてかなり前を歩いている。私は、
「せっかくの訪問を台なしにしてしまって、すみませんでした」
「きみはちっとも悪くありません。チョーさんの嫉妬です。私はホームランだけの男ですが、チョーさんは、実力人気ともにナンバーワンのミスタープロ野球ですから、どんなすばらしい提案をされても素直にはうなずきません。それどころか滔々としゃべるきみのことを小癪に感じたんでしょう。……ここの場所もわかりましたし、次回はオフにでも一人できます。門に入れてくれますか」
「もちろん」
「精いっぱいホームランを打ちますよ。きみの三分の一は打ちたい。ベーブ・ルースの記録を破るまではがんばります」
「ぼくも、野球をつづけられるかぎりがんばります。じゃ、十日、後楽園で」
「うん、後楽園で。肌を接するという案、ありがとうございました」
 門の十メートルほど手前で王を見送った。王は小走りに長嶋に追いついた。あんな幻滅したようなことを王は言ったが、野球人生の哀楽をともにしてきた親しい友だ。彼らなりの交友の修復方法はある。


         二百十三

 夕暮れの門前でフラッシュが花火のように光っている。私は庭石の途中から引き返した。菅野が傘も差さずに走ってきた。目が真赤だった。
「いつもぼくのために泣いてくれてありがとう。しゃべりすぎて失敗しちゃったね」
「何をおっしゃるんですか。聞く耳持たない人に、的外れなことを言われただけですよ」
「長嶋さんにとっては的外れじゃないんだ。的はそれしかないんだから、真剣にしゃべったんだよ。彼こそ天真爛漫の極致だ。川上監督が大好きなんだね」
 水原監督が木村しずかや近記れんや睦子たちに囲まれていた。寝起きの直人がキョトンとした顔で彼の膝に乗っている。監督は相好を崩しながら、
「金太郎さんはえらいね。どんなに手ひどく失敗した人にも回復の余地を与える。長嶋くんも心の隅では助かった気分で帰っただろう。王くんが気丈な人なら、巨人軍は立ち直ると思うよ。奇しくも、きょう、ジャイアンツの選手たちの意識がばらばらの方向を向いていることがわかってしまった。中日ドラゴンズの意識は一つだ。金太郎さん、きっちり優勝して、来年はもっと高い給料をもらおうね」
「はい」
 水原監督は天井を向いて息を一つ吐き、
「どいつもこいつも、金太郎さんとは器がちがう。ミスタープロ野球か。いつごろから言われだしたか知らないが、残酷な表現だ。お茶でも一杯やりながら、ふかふかした座布団に腰を下ろしている感じだね。天覧試合のころはあんな人間じゃなかったんだが。プロ野球界の人間は、安住のままならない流動的な人たちばかりなんだよ。思うように活躍できなかったり、年をとったりすると、ツルベ落としってやつでね、あっという間に暗い穴の中に追い落とされる。彼は川上監督とファンのおかげでその宿命を免れてる。スランプになったり風邪をひいたりすれば少し休ませてもらえるし、素っ頓狂なことを言っても語録にされちゃうし、そんなこんなで、大名座布団に落ち着いちゃったんだね。……人は余裕が出ると、わがままな独善家になる」
 厨房がかしましくなった。しずかが、
「水原監督って、いい男ですね」
「顔が? 心が?」
 水原監督の言葉に一座が腹の底から笑った。主人夫婦やトモヨさんも、まじめな笑みを浮かべた。
「どちらもです」
 れんが、
「身だしなみも粋だし。革のズボンなんて初めて見ました」
 直人は監督になついて、ひんやりしたズボンの上で機嫌よくモゾついている。
「家では和服、外は洋服。メリハリをつけてるんですよ。チンチクリンの男だからね」
 私はびっくりして首を振り、
「監督は美男子です。グラビア雑誌で慶應時代の写真を見ました。絶世のという形容詞にはまる美男子でした。ホームランを打って三塁に向かうとき、いつも迎えてくれる監督の姿に打たれます。どうしても抱きつきたくなるんです」
「私が抱きつくんですよ」
 水原監督の端正な容貌は、若いころの派手な女性関係を偲ばせる。彫りの深い顔立ちにはいまも落ち着いた色気がある。しずかが、
「監督、ごはんまでのあいだ、麻雀やりましょうよ」
「お、やるか、私は強いよ。慶應時代は賭け麻雀で警察に拘留されたこともある。それで野球部の退部を申し渡された」
「怖い! じゃ、賭け金なし」
 店の女たちが何人かうれしそうに立ち上がる。水原監督は直人を女将に渡し、まだ明るい縁側に据えてある雀卓についた。主人と菅野と私は監督の後ろについて、その華麗な牌さばきを見つめた。この二年のあいだにすっかり麻雀というゲームを忘れてしまっている。二度、監督はつづけて上がった。私は安心して語りかけた。
「シーズン最終試合が終わったら、何かの行事があるんですか」
「今年はあるだろうね。例年どのチームも軽い打ち上げをして、素っ気なく解散するのがふつうなんだよ。選手たちはロッカーの荷物をまとめて、めいめい帰るべき場所へ帰っていく。シーズンオフに入ると、ふところがさびしい選手は、ラジオやテレビのアルバイトに精を出す。ふところに余裕があれば、自主トレのために温泉宿などに泊まりこんでトレーニングに集中する。秋季キャンプに出て新人と交流したがる奇特なベテランもいる。だれもが、来季は一度でも多くレギュラーでプレイをしたいと願いながら、秋から冬をすごすんだ。しかし、春にはまったく別の顔ぶれがフランチャイズに揃うこともある。……ほら出た、チャンタ、サンショク、マンガン。慶應のころは天才と言われた腕だよ。いまだ衰えず」
 ガラガラ牌を掻き混ぜる。
「あのころの神宮球場はきれいだったなァ。球場は適当な広さがいい。三万人が入れるくらいがちょうどいいんだ」
 私は彼の背中でうなずいた。年をとって若い時代の話をしない人間は信用できない。主人と菅野も楽しそうに聞き耳を立てている。
「ランニングホームランは間抜けな感じがしないかい?」
「します」
「三塁打は美しい。でもランニングホームランは間抜けだ」
 菅野が水原監督の背中に、同感ですと声を投げる。主人が、
「東映フライヤーズのユニフォームをお洒落にしたのも監督だったでしょう」
「はい。帽子、ストッキング、胸のネーム、背番号、ぜんぶ新しくしました。海老茶って新聞に書かれたけど、焦げ茶だったんだ。ホーム用の胸ネームはローマ字でFLYERS、ビジター用はそれまでのTOEIじゃなく、TOKYOにした。巨人といっしょになっちゃったけどね。焦げ茶は遠目で見ると黒に見える。おまけに文字の縁取りがオレンジ色だったから、もろにジャイアンツのユニフォームみたいなっちゃった。三塁のコーチボックスに立ってブロックサイン出してる姿が、巨人の水原と重なるとよく言われた」
 主人が、
「Fのローマ字が、鳥が空を飛ぶ形になってましたよね」
「ちょっと見には気づかないんでね、少々得意だったな」
「優勝の年の昭和三十六年のオープン戦からそのユニフォームでしたね」
「よく憶えてますね。二月末の阪神戦からね。……あの年はすごかった。尾崎、土橋、安藤元博、張本、大下。奇しくもその阪神を日本シリーズで破って日本一になった。金太郎さんが尾崎の背番号を掌でさすったとき、私は泣いた」
 水原監督は、ドッと引き揚げてきたカズちゃんたちを雀卓から振り向いて認めると、
「失礼。女神たちが全員揃ったようなので、私は抜けます」
 と言って雀卓を離れ、食事のテーブルについた。代わりに見物のトルコ嬢が入った。
 たしかに身なりや容色からしても、水原監督が女神と呼んだ女たちは、粒売りする正価の果物だ。トモヨさんも睦子も千佳子も粒売りの果物。それに比べて、賄いやトルコ嬢たちは、一、二を除けば見るべき貌(かお)もなく、カズちゃんたちとはにおいも色合いもちがっている。いわばジュース用の盛り売りの果物だ―。しかし、私は彼女たちを無視することができない。そのイメージからやってくる孤独な感覚は、胃袋に冷えた水が降りてくるそれに似ている。孤独に包まれた不安や、侘びしさや、そしてきっと抱えているにちがいない肉体の欲望、それをぼんやり想像してわが身に引き寄せようとする。……引き寄せようとするだけで、実際には、腕を広げて受け入れることはせず、名前も知ろうとせず、結局見捨てている。
 アイリスの女たちが膝を折り、水原監督に丁寧な挨拶をした。カズちゃんはすぐに緊張をほぐし、抱きついてきた直人の頭を撫でながら、
「びっくりするじゃないの、監督さん。きょうは何かあったんですか」
 女将が、長嶋と王が私に会いにきたことを説明する。
「朝から門の前がワサワサしてたのはそういうことだったのね」
「まだおりますか」
「そろそろライトを消しかけてたから、引き揚げるところじゃないかしら。菅野さん、顔が暗いわね。喧嘩しちゃったんでしょ」
「そんなことしませんよ。長嶋が神無月さんをいじめただけですよ。野球の話をしてたらとつぜん、長幼の序とか言い出して、母親を大事にしろときた」
 カズちゃんが細かくうなずき、
「きっとキョウちゃんがすばらしい話をしてたときね。嫉妬して、その話に茶々を入れたくなったんでしょう。そのとき、キョウちゃんはすぐ長嶋さんに謝ったでしょう」
「反射的にね。怖かったです」
「怖くないわよ。キョウちゃんは馬鹿にはすぐ愛想を尽かして、笑って切り捨てるの。王さんは誠実な能天気、長嶋さんはお馬鹿さん。きっとそのとき、水原監督が長嶋さんを叱って、王さんが平謝りして、キョウちゃんがやんわり長嶋さんのお馬鹿さんかげんを説明して、長嶋さんにはチンプンカンプンで、水原監督がもう一度ダメ押しに叱った―」
 主人が、
「そのとおりや!」
「結局あの二人は仲良しだから、深い反省もなく帰ったはず。王さんは口先で反省したようなことを言ったでしょうけど、自分は正しい態度を通したと思ってるから身につまされてはいないわね。これからは、この家に出入りしてもらう野球関係者は、水原さんと水原さんを敬愛してる人だけにしましょう。争いの時間がむだよ。マスコミを入れなかったのは正解だったわ。あしたの新聞はだいじょうぶ。長嶋さん本人はもちろん、王さんも長嶋さんに不利になるようなことはぜったいしゃべらないから。とにかく水原さんが引退するまでは結束を固くしないと。監督さんは、今夜ホテルですか?」
「うん、中日球場のときはかならず名古屋観光ホテル。名古屋に持ち家がないんでね。あしたの午前、東京に帰ります」
「ごはん食べて、ゆっくりしてってください。菅野さん、あとで送ってあげてね」
「ガッテン承知之助」
 菅野が快く返事をする。
「じゃ、お風呂、お風呂」
 素子、メイ子らのアイリス組が風呂へいくと、水原監督は、
「まさに女神だね。ボーイ・ミーツ・ア・ガール、男は女が目当てという通念から外れた人だ。神棚から下りてこられると困る。お祈りできなくなってしまう」
 千佳子が、
「もう下りてきて戻っていかないんです。神無月くんと同じ。気がつくたびに心の中で手を合わせます」
 睦子が、
「長嶋さん、隙あらば説教するつもりできたんでしょうか」
 菅野が、
「間近で神無月さんを見たかったんだと思いますよ。人とちがった特殊なところをね。たしかに三割打者や、五十本打つホームランバッターはすごいけど、神無月さんと比べちゃったら、その程度か、ですもんね。ところが実際目の前で見ると、ちっとも特殊に見えない。素朴なかわいらしい坊ちゃんだ。言うことがこましゃくれている。こりゃ、川上監督にいじめられるのも無理はない。じゃ俺もひとくさり、といったところでしょう」
 主人が、
「ほんとにそうやな。人はちゃんとした眼力を持たんと、驚くゆうことができん疑り深いだけの杓子定規な人間になってまう。自分の物差しを思い切って外すことができんからや。監督なんか、巨人十一年間で八回優勝させて、四回日本一、東映も一回優勝させて、一回日本一にしとるかたなのに、ここまで謙虚や。神無月さんもすぐそれを見抜いて、下にも置かん扱いをしとる」
 水原監督が、
「金太郎さんは、見抜いたなどというおこがましい判断を持たない人ですよ。私も見抜いたんじゃない。まさに青天の霹靂でした。金太郎さんに遇ってから自分の分際を知ったんじゃないんです。私は、選手時代は守備だけの目立たない男でしたから、むかしから自分の分際を知っておりました」
「その守備を見て、六代目尾上菊五郎が、あの人を鍛えれば日本を代表する舞踊の名人になると言ったんですよね」
「そんなこともありましたかね。まあそういうわけですから、自分を雷で打った人間を敬愛しているというだけのことです。金太郎さんに出会ったとき、ああつらいなと感じたのは、自分が人間として凡人であることを思い知ったことです。しかし、人に何かを思い知らせる存在は神だと考えて納得がいきました。わが子のようにかわいがることのできる神。崇めて、愛しいというのは、人間の感情としてあり得ないことですが、金太郎さんは人びとをそういう気持ちにさせるようです。川上くんや長嶋くんが、なぜ金太郎さんを自分のレベルにまで引き摺り下ろそうとするのか不思議で仕方ないが、それが、金太郎さんの言う〈向こう側の人間〉というやつなんだろうな。言い得て妙だ」
「とにかくワシらで神無月さんを護らんとあかんですわ。神さまだって叩かれればケガしますからな」
「同感です」

         二百十四

 女将が、
「監督さんは、あした東京にお帰りになって、ご実家でゆっくりですね」
「はあ、二日ばかりですが」
「お宅は東京のどちら?」
「目黒区の緑ヶ丘です。椅子と机と、その隙間に楯やらトロフィーやらごちゃごちゃ詰めこんで、家の中に作ったダッグアウトみたいなものです。いつか折があれば、わが家にも遊びにきてもらいたいですね。豪邸じゃないですよ。洋風の小ぢんまりした家です。それに合わせて、帽子、背広、ワイシャツ、靴も西洋のブランド品で贅沢するようにしてます」
 主人が、
「あの帽子はボルサリーノ、腕時計はロレックスですな」
「そうです」
 カズちゃんが、
「田中絹代さんとの恋が彷彿とするわ」
 千佳子が、
「田中絹代!」
「そうよ、『俺が惚れたんじゃない、向こうが俺のファンだったんだ、電話で会いたいと言うんでね、俺も若かったしなあ』っていう水原さんの言葉は有名よ」
 素子が、
「すご! 大女優やないの」
 水原監督は赤くなり、
「やめてくださいよみなさん、金太郎さんに腹の底で笑われちゃうから。スポーツ選手のご多分に漏れず、私の女房も女優なんです。江藤くんも高木くんも小野くんも、みんなその伝でしょ」
 五十歳の百江が、
「監督さんは、昭和十年に、松竹の松井潤子さんとご結婚なさいましたね。私、二十歳のころ、渋谷実監督の『母と子』という映画を観ました。裕福な家の娘さん役に田中絹代さん、恋人役が佐分利信さん。松井潤子さんはそこに出ていたような気がします」
「オトヨというチョイ役で出ていました」
「松井さんの代表作は、小津監督のサイレント『学生ロマンス・若き日』だと思いますけど、十歳のころなので観ておりません」
「スキー場を舞台にしたコミカルな映画です。二人の男から惚れられるという役でね。あれは主役でした」
「自分の好みに合えば、女優も素人もないですよ」
 私は笑いながら言った。水原監督も少年のように頭を掻いて笑う。千佳子が、
「でもすごいですね。そういう人とどうやってお近づきになるんですか」
「戦前の六大学のスターというのは、天下人のようなものでね。とにかく向こうから近づいてくるんです」
 女将が、
「お子さんは?」
「娘が一人。直人くんと同い年の孫がおります。ゆみ子という女の子です。つい先日、来年発売するダークダックスのレコードの冒頭に、子供らしい笑い声と簡単な科白を入れてくれと頼まれました」
 丸が、
「何という曲ですか」
「花のメルヘン、という曲です。年明けあたりに発売されるそうで、よければ買ってやってください」
「買います!」
 硬骨、潔さ、華やかさ、彼を表現する一般の言葉はそれだ。絵になる男としての魅力を表す言葉だ。しかし、その表情やたたずまいから私に訴えてくる彼のオーラは、深い〈さびしさ〉だ。それが私の愛のもとになる。愛する男が、柔らかく相好を崩している。うれしい。この人がいなくなったら、ホームランを打っても意味がないとまで思える。主人が、
「あす、あさってとゆっくりしたら後楽園で巨人戦、翌日甲子園へ飛んで阪神三連戦。十三日まで忙しくなりますね」
「どんなに忙しくても、金太郎さんといると楽しいですよ。きみたちもそうだろ」
 周囲に笑いかける。はい、といっせいに返事する。直人もハイと言う。
「さ、直人、タナバタサマのお空を見よう」
 監督もいっしょに雨の縁側に出てきてあぐらをかく。イネが笹竹の柱を縁側に持ってくる。雲に覆われた夜空が不自然に明るい。街の明かりが一面の雲に反射しているのだろう。直人を膝に乗せて仰向かせる。水原監督が、
「人工の光が空を照らしてるね」
「そうですね、意外な明るさです」
「直人くん、真っ暗でなくてよかったね」
「うん!」
「願いごとは」
「おとうちゃんとたくさんあそぶこと!」
「なんだ、おじちゃんといっしょじゃないか」
 座敷で明るい笑い声が上がる。食卓が整っていく。いち早く直人に配膳される。幣原が、
「直ちゃん、ごはんよ」
 走っていく。梅ちりめんごはん、鶏肉の煮物、オクラめかぶ、ポテトサラダ、豆腐の味噌汁。やがて大人の食卓も整う。ナスと挽肉のカレー、鰻とキュウリ和え、冷麺。
「私はカレーは遠慮して、鰻と冷麺をいただきます」
 睦子が訊く。
「水原監督は三塁コーチャーズボックスにいつも立ってらっしゃいますけど、どういう役割なんですか」
「ランナー三塁進塁の判断。バッターが長打を打ったときとか、一塁ランナーがライト前ヒットで三塁を狙うときなんかね。右中間より右方向へ打球が飛ぶと、打球の処理をしている野手の姿や連係プレーは、走っている本人の背中になって見えないから、三塁コーチがゴーかストップの指示をするんです。それから、ランナーの本塁突入の判断をくだすこと。最後に、隠し球を指差して教えることだね。でも私はほとんど何もしない。金太郎さんやホームランを打った選手と握手したり、抱き合ったりするだけです」
 冷麺をうまそうにすする。
 カズちゃんたちが風呂から戻ってきて同じ食卓についた。座が藹(あい)々とする。キッコが小さなスプーンで直人にポテトサラダを含ませる。頬についたジャコをつまんで食べる。味噌汁の椀を唇に寄せて飲ませる。
「お人形さんみたいや。ものを食べるのが信じられん」
 やがてトモヨさんに小さな唇を湿ったタオルで拭いてもらい、彼女の手をとって立ち上がる。
「じいじ、ばあば、おとうちゃん、みなしゃん、おやすみなちゃい」
 トモヨさんといっしょにお辞儀をする。ルーティーン。カズちゃんたちと交替で風呂へいくのだ。そのあと、寝床で二歳児用の本を読み聞かせながら眠りに就かせる。
「お休みなさい」
 水原監督がにこやかに手を振る。トモヨさんが、
「きょうは郷くんを訪ねてくださってありがとうございました」
「よかれと思ってしたことがアダになってしまって、申しわけありませんでした」
「いいえ、すばらしい人生ドラマを見させていただきました。郷くんもみんなも、そう思ってるにちがいありません。暑い夏がつづきます。くれぐれもおからだに気をつけてお仕事お励みください。この次は、直人と二人目の子供といっしょにお目にかかります」
「丈夫なお子さんを産んでくださいよ。くれぐれもご自愛のほど」
「ありがとうございます。じゃ失礼いたします」
 頭を下げて廊下へ出ていった。水原監督はトモヨさん親子の立ち去る後ろ姿を眺めながら、
「直人くんはほんとにかわいいね。将来どうなるかな」
「鋳型にはめようと思ったこともありました」
「と言うと?」
「一度ゴムボールを玩具のバットで打たせたことがあって、ボールをバットで捉える才能があるので、野球選手にしようと思いました。……ぼくが三十六のとき、彼は高校を出ます。そのとき、プロに入団するように育てたいなと思ったんです。……嫌いな言葉があります。子供の人生なんだから子供が決めればいい、という言葉です。ぼくの母も常々そう言っていましたが、手を抜かずに子供の人生を蹂躙しました。その言葉自体が嘘だったわけです。ほんとにそう思っているなら手抜きの精神が見えますが、嘘つきになりたくないので、本気で手を抜くことに決めました」
「希望としては、プロ野球選手になってほしいんだね」
「そうです。なりたいなら、小学校から鍛えます。それ以外なら、放任です。何になろうとなるまいと、構うところではありません」
 主人と菅野が拍手した。カズちゃんが、
「ちびっ子選手になったら、みんなでしょっちゅう応援にいくわよ」
「いこ、いこ!」
 素子が大声を出す。水原監督が、
「小学校五、六年生か。生きているかな。生きていたら、私も応援にいこう」
 六十歳。若々しい笑顔に、思わず死の影を垣間見てしまう。愛する者がさっきまでそこにいたのに、あるとき暗い穴に吸いこまれて目の前から消えていく。永遠の不在。
 ―別れのあとに残された者は、いろいろな種類の不在を悲しみながら、きょうも、あしたも、手足の動くままに身支度をし、玄関や廊下をいききし、ものを食い、眠る。
 そんな紋切りの嘆きを唱えたところで何になるだろう。目の前から水原茂という男が消えることに私は耐えられない。そう言えばいい。
「監督!」
「オ、驚いた。どうした、金太郎さん?」
「監督でいるあいだ、ぜんぶ優勝しましょう。監督の采配のもとにみんなで団結して、しつこいぐらい連覇してがんばりましょう。監督に長生きしてほしいんです。監督と別れたくありません」
「ありがとう。杖突いてでも、三塁のコーチャーズボックスに立つよ。ホームランのたびに抱いてくださいよ―。金太郎さんに抱かれると、とても気持ちがいいからね。女の人たちの気持ちがわかる」
 店の女たちがワッと笑う。カズちゃんは目を拭っていた。
「でもね、金太郎さん、私に殉じるためにきみは生まれてきたんじゃない。きみが人に殉じようとする性質の持ち主だということはわかっている。貴い性質だ。しかしきみが生まれたのは殉じるためじゃなく、強く生きて貢献するため、広く救済するためなんだよ。私の監督期間などと決めず、叶うかぎり全力で大勢の人に貢献し、大勢の人を救済してほしい。その手段は野球だけにかぎらない。きみの命が求める手段だ」
 水原監督は立ち上がり、カズちゃんと素子にスーツの上着を着せかけられながら、彼を見上げる者たちに向かって言った。
「ごちそうさまでした。おいしかった。ソテツさんが率いる北村席の台所は最高ですね。いつも江藤くんがべた褒めしてますよ。賄いのかたがた、ありがとうございました。懲りずにまたごちそうをいただきにきますよ」
 ソテツがかしこまって、
「いつでもお待ちしてます」
 イネと幣原も、
「お待ぢしてます」
「腕によりをかけます」
「きょうは余計なことをして、神無月くんを苦しめてしまいましたが、これからもいろいろな場所や、いろいろな局面で、相手が野球選手にかぎらず、この天才にはこういう不本意なことが起こるでしょう。しかし、私は安心しました。神無月くんには悪いプライドがないので、相手の理非に拘らず、即座に身を退く技術がある。本能と言っていいかもしれない。そこを越えるとおそらく危険な状況になるんでしょうが……」
 素子が、
「爆発しそうになっても、フッと引くんよね」
「はい、これまでもグランドでそういう場面に何度か遭遇してきました。神無月くんが爆発しそうな危険な状態になったら、私たちが割って入るのでどうか安心してください。ほんとのところは、金太郎さんの恐ろしさをそういうやつらに知らしめたいのですが、そうなると球界追放まである。毎年ホームランを見られなくなります」
 カズちゃんが、
「だいじょうぶです。キョウちゃんは忍耐の人ですから」
 菅野が、
「外出(そとで)にも気を配ってます。マネージャー事務所のほうに、個人的なラジオ・テレビ出演の話や、有名人との食事会の話などがポツポツきますが、ぜんぶ断ってます。それでだいぶ神無月さんの気苦労を減らせると思います」
 水原監督は、
「マネージャー事務所なんか設けてるの?」
「ただの部屋ですが、机と電話を置いてます」
「あのバラックだね」
「あれは景品小屋です。事務所はいずれガレージの裏に建つ予定ですが、いまのところここの二階の一部屋に電話を引いてます」
 主人が、
「小屋以外の一棟を敷地内に建てると法律違反になりますので、近々垣の外に一戸建ての事務所を建てようと思ってます」
「ポツポツくる話はどういう経路で?」
「適当に配った名刺が回り回って、イベントでもやりたい人の手に渡るんでしょうね。いまのところ、市の教育委員回にしか配ってないんですけどね」
「有名人との食事会というのは?」
「ザ・ピーナッツでした。ディナーショー。いくわけありません」
「ウホホホ、そりゃ愉快だ。名刺ください。私から野球関係者に折々配っておきます。今後私は、金太郎さんと、金太郎さんの友人や恋人たち、ドラゴンズのフロントとチームメンバー、スポーツ用品関係者以外、だれにも信頼を預けません。もう煩わしい思いはさせませんからね。ただテレビのチーム出演と、オフの受賞式の出席だけは顔を出してね。そして愛嬌を振りまいてやってください」
「はい、かならずそうします」
 水原監督はスックとした立ち姿で、背広の上着を着、コートをはおり、帽子をかぶった。
「じゃ、菅野さん、送ってもらおうかな」
「ほーい。ムッちゃんも?」
「お願いします。万葉集の歌と草花の照らし合わせの勉強がとても楽しくて、いまノッてるんです。手描きの牧野植物図鑑まで買ってしまいました」
「牧野富太郎博士ですね。小学校中退の大学者だ。その本は世界レベルの本です。がんばって勉強してください。千佳子さんもね。法律は実務だから、ロマンチックにいかないかもしれないが、情を解さない法律家は結局成功しない」
「はい、がんばります。監督もがんばってください」
「もちろん手抜きなしでいきます。長年の経験からすると、そろそろ負けはじめるころです。ガッカリしないようにしてね。すぐに盛り返すから」
 菅野は水原監督に十枚ほど名刺を渡した。みんなで門まで見送りに出た。千佳子が、
「西の丸まで送ってきます」
 ボルボの助手席に水原監督が、後部座席に睦子と千佳子が乗った。みんなでいっせいに頭を下げた。




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