二百十五

 七月八日火曜日。七時。則武の自分の寝室で独り目覚める。雨。
 うがい、歯磨き、洗面。メイ子が居間に用意したここ一週間分の日刊スポーツを書斎に持っていき、あちらこちら眺める。試合後のインタビューに目が留まる。各選手のあまりにも紋切りすぎるコメントを読んで、仲間意識が薄れていく。
・とにかく腕を振って気持ちを前面に出そうと思いました。
・がんばってきたことがまちがっていなかった。
・苦しい試合をして最後に勝った。チームにとって大きな収穫。
・悔いなくやりきった。
・すごく楽しかった。
・いかに次へいい形でつなぐかを考えました。
・みんなのおかげでここまでやれました。
・いい感じに疲れが溜まって、力が抜けていい球がいった。
・みんなつないでくれてたんで、なんとか還したいなと思って、還せてよかったです。
・ぼくらはもう負けられないんで、ぜったい勝つという気持ちであしたからも戦っていきます。
・チームのためになんとかしようと踏ん張って、自分なりに精いっぱい投げた。
・悔いなく、失敗を恐れずに、楽しみたい。
・ヘッドスライディングをしたのは、気持ちの問題です。
・勝ててよかったです。
・あきらめない気持ちがあれば、いい方向にいくことが多いと思う。
・あれだけミスが出たらだめでしょう。
・きょうは一勝以上のものがある。
・なんとかランナーを還したいと思っていました。ぼくにとってもチームにとってもラッキーでした。
・暑いし、疲れます。
・一点がほしい場面だった。振り遅れないようにという意識がボールをセンターまで飛ばしてくれた。
・二週間ぶりだったので、なるべく長い回をと思った。久々に勝ちがついてやっぱりうれしい。
・あそこで抑えないとチームを勝ちに導けない。すみません。いろいろ反省点もあるので、次の登板までに修正したい。
・九十パーセントくらいの力で振れました。
・投球内容はよかったので、最後まで投げ切りたかったです。
・ウィニングボールにこだわりはありません。特別な一勝になった。
・肩を痛めてここまで一進一退だったけど、リハビリのトレーナーがぼくの愚痴を笑って聞いてくれて気持ちが楽になった。
・いちばん上を目指してみんなで戦っている。もっともっと前を見てやっていきたい。
・いいリズムで野球を楽しみました。

 心地よい嘘と曖昧さ、心地よい常套と怠惰。いい大人の言葉とは思えないが、才ある立派な大人の言葉だ。私の感情過剰なインタビューの受け答えとはあまりにもちがう。いくら脳味噌を搾っても、私にはこんな無機質なことは言えない。無機質を愛する人びとが私の存在を希望と見なさない理由が痛いほどわかる。
 味噌汁のいいにおいがしてきた。
「シャワー」
「はーい。メイ子ちゃん、下着お願い」
「下着はいいよ。走ったあとでもう一度シャワー浴びるから。ごはんだけ落下傘に用意しといて。あとで食べる」
「はーい」
「昼に優子さんにカツサンドを届けさせるわね。安全日に入ったらしいから。節子さんたちもよ。どうする? してあげたいなら午後に呼ぶけど。二人とも遅番だから」
「節子たちの遅番は何時から」
「夜の十一時」
「二人のところには、夕食のあとでゆっくり、自転車でいくよ。とにかくシャワー」
「はい」
「その前に―」
「はい」
 カズちゃんとメイ子はすぐ下着を脱ぐ。
「私は危ない日に入ったから、イクときはメイ子ちゃんに出してね」
「私はあと二、三日だいじょうぶです」
 カズちゃんはとメイ子は椅子に手を突いて、尻を並べる。五、六度ずつ往復して、二人を連続のアクメの状態にする。カズちゃんの膣で亀頭を極限までふくらませ、抜いてメイ子に挿し入れる。
「出してください、だいじょうぶですから」
 挿入してすぐ発射する。カズちゃんがしゃがみこんで、苦しげに痙攣している。連続して強く絶頂に達したので腰が抜けてしまっている。メイ子がわなわなとふるえて、私から離れると床に横たわった。片膝を立て、腹を痙攣させながら股間から精液を押し出す。
 私は二人を放ってシャワーにいった。これで昼に天童がきても、射精の感覚をすぐ甦らせることができる。その感覚を思い出すとたちまち勃起する。女体が目の前にあるだけでは勃起しない。膣の感覚と射精の感覚を甦らせないと可能にならない。いつか菅野とあわただしく訪れた羽衣の千鶴としたときにそうだったように、近接した記憶のせいで勃起が止まないこともある。ただ、そのとき記憶に残っている膣の感覚が心地よいものでないとだめだ。
 シャワーから戻ると、二人はすでに回復し、にこやかに皿を並べていた。
「ひさしぶりに腰が抜けちゃった。ごめんね、出してもらえなくて」
「メイ子が受けてくれた。メイ子、ほんとに妊娠しない?」
「だいじょうぶです。危険日に近くても、そうそう妊娠するものじゃないんです。私はいつも妊娠の覚悟をしてますから、妊娠したらしたでうれしいんですよ。神無月さんの子供を産めるわけですから。でも、お嬢さんはだめ。神無月さんが死んだら、あと腐れなく死ななくちゃいけないので。……運命で、神無月さんにたった一人だけ選ばれた人ですから」
「メイ子も、カズちゃんといっしょに死ぬんだろう?」
「はい、だれが止めても」
 二人が食卓についたので、ジャージに合羽をはおって玄関に出る。どしゃ降りだ。楽しそうだ。
「いってきまーす!」
「いってらっしゃい!」
 あてもなく通りへ出る。二度も見失った浅野の家を発見するつもりで、椿神社を越えていく。則武地区を過ぎ、亀島に入る。めくら探しになる。保土ヶ谷の自転車屋を探し回ったときと同じだ。見つからない。三十分ほど辻々を巡って、あきらめる。あきらめたとたん見つかった。
「あった!」
 標札に『浅野』とある。炭の吊り看板がない。看板のせいではなかった。隣の民家が撤去され、駐車場になっている。見つからなかったはずだ。二階のベランダを見上げる。周囲の風景を眺める。細い道、雅江と写真を撮った工場の塀、楼閣ふうの二階家の連なり。涙があふれ出した。もうここには近づかない。あのころかよった道のりをたどって駅西へ走り出す。鮮やかに思い出しはじめる。涙が流れつづける。合羽のフードを上げ、雨を顔に受けながら走る。
 帰り着いて、二度目のシャワー。芯からスッキリする。下着を替え、新しいジャージを着る。落下傘の中は、固めの目玉焼きと、胡椒を利かせたキャベツ炒め、白菜の浅漬け、板海苔、豆腐とワカメの味噌汁。一人きりで二杯食う。
 また新聞を見る。柏戸引退の見出し。硬い筋肉、濃い体毛、腎臓や肝臓の病に煩わされつづけた怪力横綱、転び人形のように脆く前に倒れる横綱、一直線の男。
 五百野の推敲の書き溜め。昼過ぎまで。
 優子がカツサンドを持ってやってくる。大きな胸、大きな尻。熱い膣。屹立する。丁寧に愛撫し、丁寧に絶頂に導く。優子は深く満足する。射精しなかった。
 ほかの女と交わるとき、カズちゃんのからだは考えない。考えなくてもたった一人のからだと知っているから。
 音楽部屋で三種の神器。五キロのアレイ。二十分。汗をかく前にやめる。庭に出て、雨に打たれながら素振り百八十本。三度目のシャワー。
 机の裾に置いてある紙袋からノーマン・メイラーの『裸者と死者』(山西英一訳)を抜いて机上に置く。分厚い。カズちゃんの書棚の世界人名事典で人物の概要を調べる。ユダヤ系、ニューヨーク市のブルックリン育ち。十六歳でハーバード大学に入学。小説を書き出す。昭和十九年、二十一歳のときに騎兵連隊に入隊、レイテ島とルソン島で戦う。終戦後一年間在日進駐軍の一員として千葉県銚子に滞在。昭和二十三年、二十五歳のとき『裸者と死者』執筆。直後ソルボンヌ大学に入学。六度結婚、九人の子供がいる。執筆のためには必要のない六度の社会復帰に驚く。……必要だったのかもしれない。
 とりかかる。表現と内容の重量感に圧倒されながら、ぐんぐん読み進める。南洋の島のジャングルに立てこもる日本軍と、その島に上陸したアメリカ軍との息詰まる戦闘の様子を描いた小説だ。主だった登場人物は三人、最高司令官カミングス将軍、将軍の部下ロバート・ハーン少尉、叩き上げの軍人クロフト軍曹。
 カミングス最高司令官は、この戦争の目的を正義のためではなく、国家や企業や富裕者のためだと冷徹に認識している。勝利して名声を得るために、綿密な作戦を立て、配下の兵士をフル稼働させる。もちろんそのことに快感を覚えている。彼の考えていることを私なりに概括すると、
「国家という軍隊は、人的資源と物的資源の量に比例して強くなる。個々の兵士はそれまでの生活水準が低ければ低いほど有能な兵士となる。立派な軍隊を作る要素は二つしかない。すぐれた軍事力と貧困だ。軍隊を動かすには、すべての兵士を恐怖に浸しておかなくてはいけない。目上の者にビクビクし、目下の者をないがしろにするようになると、軍隊は最もよく機能する。憎悪を内部に鬱積させて猪突するからだ。上官に向けられない憎悪は敵に向けられる」
 となる。川上巨人軍を彷彿とさせる。
 ロバート・ハーン少尉は、戦争や軍隊の非人間的要素を否定する理想主義者で、カミングスに対してしばしば反抗的態度をとる。カミングスは彼の一途さに好意を持つが、同時に完膚なきまでに屈服させようとする。ハーンは反駁する。
「あなたが何とおっしゃろうと、これは帝国主義戦争ですよ。アジアをくすねようとしてるわけです。勝者は常に敗者の飾り物を身につけるものです」
 クロフト軍曹は、カミングスに忠実に従い、部下を締め上げ完璧に統率することに狂気のような熱意を持つ。自己の掲げた目的を達成するためには、手段を選ばず邁進する。彼に対するメイラーの描写。

 中背で、痩せた男だが……憔悴の跡は微塵もない。凍ったような冷たい目は、非常に青く……ふだん心は空である。主な気分は、ほとんどすべてに対する傲然とした軽蔑である。彼は弱さを軽蔑し、何一つ愛さない。

 日本軍の奇襲に怯えながら、澱んだ日常が過ぎていく。カミングスの発案で、日本軍の背後を斥候する作戦が決行される。任務を命じられたのはクロフトの部隊。ハーンが司令官として同行するよう命じられる。急流、密林、湿気、疲労、過酷な行軍、気配の感じられない日本軍。人間味を見せながら部隊を掌握しようとするハーンと、彼を憎むクロフト。呵責のない心理描写、軍隊という特殊な状況下にある人間の目に映る自然の描写、戦闘の結果をあばく残酷で緻密な描写。これほど圧倒的な文章に出会ったのは初めてだ。物語が最初のクライマックスに入った。日本兵士の腐乱死体を観察するレッドという兵士の感懐がすばらしい。

『この死体も、かつてはいろんな欲望を持っていた人間で、自分が死ぬなんて考えられなかったにちがいない。この男にも、幼年時代、少年時代、青年時代があったのだ。夢もあり、思い出もあったのだ。人間て、まったくはかないものだな。こんなにひどくにおうのなら、人間だからって、何一つ特別のことなんかありゃしない』

 さらにすばらしいのは、日本を訪れたことある一兵士の感懐だった。

『日本はいつも美しかった。まるで展覧会場か、豆絵のパノラマ風景みたいに、非現実的で、きちんとまとまっていた。千年、いやおそらくはそれ以上のあいだ、日本人は貴重な宝石を見張りながら、みすぼらしい番人のように生きてきたのだ。彼らは土地を耕し、土地のために命を消耗し尽くして、自分のためには何一つ残さなかった。女たちの顔も、アメリカの女たちとちがっていることがわかった。彼女たちには、一度も味わったことのない歓喜について考えてみたいというみ望すら捨ててしまっているような、奇妙な、超脱した者の悩ましさがあった。美しい外見の裏のいっさいが不毛だった。彼女たちの生活はただ労苦とあきらめの生活だった。日本人は、抽象的な技巧を丹念に作り上げ、抽象によって考え、抽象によって語り、結局何一つ言わないための複雑きわまる儀礼を考え出し、目上の者に対して、かつて人間が感じたことのないほどの激しい畏怖を抱きながら生きている抽象的な国民だった』

 ちょうど本の半ばあたりで読み挿して、床に寝転んだ。四時。雨の中に夕暮れがきている。


         二百十六

 玄関におとないの声がしたので、上半身を起こして返事をした。降りていくと、美しい節子とキクエが傘とケーキの箱を持って立っていた。飛び上がりたいほどうれしかった。
「夜いくつもりだったのに」
「雨の中、たいへんよ。キョウちゃんにそんなことさせられないわ」
 思わず彼女たちの生きているからだを両手で抱き締めた。口づけをした。メイラーの言う〈不毛〉ではないからだだった。死体ではない、生きた肉体だった。
「早くしよう。生きてる証拠を見せて!」
「はい!」
 全裸で寝室に横たわった二人に、優子以上に丁寧に愛撫を加える。声やからだの反応がいちいちうれしい。豊かな胸を吸い、艶かしいクリトリスをむしゃぶり、膣に指を入れ、忍び出る二つの声を聴く。キクエから、ゆっくり、大切に挿入し、緊縛とうねりの感覚を確かめながら腰を往復させる。いつもの、愛してます、が始まり、連続的なアクメが開始される。キクエに腰を使いながら節子の胸を揉み、キクエの快楽に区切りがつくと節子に挿入しながらキクエの胸を揉む。そうするあわただしい自分の動きがうれしい。小さなキクエを抱き締めながら、思い切り射精する。激しく痙攣するさなかに抜き取り、節子に挿入して律動を完了させる。節子の暴れるからだを抱き締め、膣の脈動を堪能する。
「生きてるって、すばらしいね」
「はい。きのうの朝、病院のトイレの洗面所で節子さんと隣同士でお話してるとき、もうすぐキョウちゃんに逢えると思うと、愛してる、愛してるって感じて、生きてることがうれしくなりました」
「きのう和子さんから安全日かどうか確かめる電話があって、今朝もう一度、キョウちゃんのからだが午後に空くから、二人でゆっくりいらっしゃいって電話があったの」
「仕事は順調?」
 節子が、
「新人は仕事ができるところを見せつけちゃいけないから。人間関係の先ゆき感は、あまりよろしくないわね」
「いじめられることはないんですけど、重たい仕事を回してもらえません。二年ほどの辛抱でしょうけど。トモヨさんの出産は、知り合いということで、二人で担当させてもらえることになりました」
「キョウちゃんも、二人の子のパパね。こんなかわいい顔して、何だかおかしい」
「立派に父親の役目も果たしてるわ。あんなに自然に子供を相手にできるなんて驚いちゃった。きちんと親子だとわからせようとしてるし。……直人くんはあの齢でぜんぶわかってるわけじゃないと思うけど、初めて北村席にくる人の前で、ぜったいおとうちゃんて言わないでしょう」
 私は、
「うん、言わないね。でも偶然だと思うよ。長嶋や王には、昼寝をしていたせいで会わなかっただけで、水原監督や江藤さんたちの前では、しょっちゅうおとうちゃんて言うからね。二歳にもならないのに何か感じてるとしたら、さびしいことだよ。それはない」
 節子が、
「結婚て、自分はだれだれの子だって子供に名乗らせるための制度でしょう? 男を捕まえて逃がさないためのしきたりね」
「男親に枷をはめるのは、経済的なことが理由だと思うけど、子供の魂はそれ以上のものを求めるからね。血のつながった強い父親に保護されて暮らしたいという気持ち。母親はその血のつながりに安心して微笑んで見守る存在。ぼくは血のつながっていない飯場の男たちをぜんぶ父親だと思って成長した。そのぼくを微笑んで見守る存在は、血のつながっていないカズちゃん一人だった。だから、愛のある女たちはみんな、カズちゃんと同じ母親だと思ってる。つまり、血を感じない他人が父と母だね。ぼくは直人を強くやさしく護ってやるだけでいいと思ってる。血を云々するのは究極的な甘えだ。―人は他人しか愛せない。他人を愛するには覚悟が要る。父だ、母だ、親戚だと言い合っている人たちにはその覚悟がない。長嶋にはぼくの甘えのなさが気に食わなかったみたいだね。プロ野球人はほとんど血筋孝行だから」
 節子が、
「きょうの新聞に、謎の会談、て出てたわ。王さんが目を泣き腫らして戻ってきたって。長嶋さんはぷりぷりしてたみたい」
「話すのが面倒くさいぐらいくだらない内容でね。あとでみんなに聞いて」
 キクエが、
「庶民とスターはそこだけでつながってるから、キョウちゃんは根本的に孤独なスターになるでしょうね」
「スターって希望の星だよね。私生活も含めて希望を与えなかったら、ファンを幸せにできない。観客に対して、ぼくの哲学を尊重して、自己満足で作り上げたものを見せることで彼らが不幸になったら、もうスターと言えない。ファンが喜んで初めて、ぼくのやってきたことが希望を与えたことになる。長嶋や王や、その他大勢のプロ野球人はそれができる。人気の出るゆえんだ。つまり、ぼくはスターじゃないってことなんだ。孤独であっても、それを喜んでもらえないから孤独なスターでさえない。でも、ぼくはこれを通す。人気のない変人でけっこう。彼らはぼくのホームランを観て感心するだけでいい。ホームランを人生の指針や希望の星なんかにする必要はない」
 節子が、
「押しも押されもしない世界的な野球人なんだから、人気なんかどうでもいいわ。でもどうしてキョウちゃんは、自分は人気がないなんて思うの? オールスターはナンバーワンの得票数だったし、新聞には毎日載るし、ファンレターも何箱もくるんでしょう」
「ファンレターはひどく少ない。そんなことはどうでもいい。とにかく自分に似合わないことを信じたくないんだ。人気というのは、いわば人望だね。ぼくは小さいころからそんなものなかった。個人には好かれても、大勢には好かれなかった。大勢のために使命を果たそうとする気質じゃなかったからね。いまさら大勢に好かれようと思わないし、自分がそういう存在だとも信じたくない。人気者だと言われて、ヤニ下がって戸惑ってるんじゃなくて、そういう状態を嫌ってるんだ。見も知らない大勢のために使命なんか果たしたくない。人気者は冷酷だ。見たこともない〈大勢〉をぼんやりと愛して、個人に眼を向けない。ぼくはそういう甘えた人間が嫌いだ。だから人気者に分類されたくない」
 キクエが、
「だから公の場に、頑固に出ようとしないのね。でも、どれほど嫌がっても、キョウちゃんはまちがいなく人気者なのよ。自分なりの振舞い方で、遠くから見守る大勢の人にも応えるようにしてください。小さいころにキョウちゃんを引き立てようとしなかった人たちは、嫉妬で眼鏡が曇っていたんです。もういまは、嫉妬しても何の効果もないくらいの大スターになりました。だれに遠慮も気兼ねもいりません」
 やがて、三人でシャボンを泡立て合って安らぐ時間がやってくる。二人との歴史を思い出す。心が洗われる思い出だ。
「お腹すいた。ケーキ食べよう」
「シュークリームよ。コーヒーいれるわ」
「そのあとで北村だ」
「ソテツちゃんの料理、楽しみ」
         †  
 北村席にいくと、居間から、
「イヨ!」
 という声が上がった。何ごとかと見ると、山口とおトキさんが式台にやってきた! おトキさんは深く頭を下げた。一家の者も彼らの背後に集まる。
「どうしたの! 連絡しなかったね!」
「驚かせようと思ってな。とつぜんきた。あさっての午前にいっしょに東京へ帰るよ」
「ギター持ってきた?」
「もちろん。おまえの声を聴かなきゃ、わざわざきた意味がないだろ。節子さん、キクエさん、こんばんは」
「こんばんは!」
 ザーッと波が寄せるように一家が座敷に集まる。すでにカズちゃんたちがいる。直人がトモヨさんの周りを走り回っている。
「直人はもう風呂に入れたの」
「はい。丸さんに入れてもらいました。なんだかはしゃいじゃって。ごはん食べて眠くなるまでこの調子じゃないかしら」
 山口に、
「だいぶ荒らしたらしいな」
「四つの大会で優勝した。あとはイタリアを残すのみ。こっちの新聞じゃ載らなかったようだけど、東京の読売では長嶋がおまえのことを、天才とはああいうものでしょう、想像できない人間性ですって、微妙な発言をしてたぞ。さっき話は聞いた」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんの文脈は、慣れてないと意味を取れないから」
 山口は大きくうなずき、
「だいたい助言を求めにきて、その言葉に嫉妬するのは情けない。王は、すばらしい助言だったって言ってた。長嶋の醜態はどこにも載ってない」
「水原監督のことは?」
「大スター対面の仲介役となってた。どんどん意見を聞きにいきなさいと、川上が二人に勧めたことになってたぞ。ほんとうだとすると、失地回復のための足掻きだな」
 主人が、
「何がほんとうだかわかりませんよ」
「そうだ、おまえは何も考えずに超然としてればいい」
 節子が、
「おトキさん、元気そうですね」
 キクエが、
「きれい! 白髪染めてます?」
「あたりまえよ。私、数えで五十四ですよ」
 キッコが、
「肌ツヤがふつうやないわ。山口さん、毎晩ホルモン出させとるんやね」
「毎晩とはいかないけど、かなり」
 素子が、
「おトキさん、よかったなあ、この世の春だがや」
「はい、ありがたいです。神無月さんが会わせてくれたおかげです」
「キッコちゃん、高校の大秀才だって? 来年大検受けちゃうらしいじゃないか」
「四年もかよってられん。再来年ちゃっちゃっと名大いくわ」
「学部は?」
「理学部。数学得意やから」
「がんばれよ」
「まかしといて。きょうは休むわ。特別の日やし」
 私は、
「ピッタルーガはいつ出発?」
「ことしは九月の最終週一週間に変更されたから、九月の二十日に飛行機に乗る。三位までに入賞したら、帰国して即プロだ。お、そうだ」
 ボストンバッグから、箱に収めた二つのリールテープを取り出し、
「これ、レスター・ヤングのメモリアル・アルバム、こっちはコールマン・ホーキンスのボディ・アンド・ソウル。どちらもテナーサックスの大御所。あとで聴いてくれ」
「サンキュー」
 二人ともよく聞く名前だが、実際に聴いたことはなかった。カズちゃんが千佳子に、
「ムッちゃんも呼んだ?」
「もうすぐきます。菅野さんが迎えにいってます」
 厨房からトモヨさんとソテツがやってきて、
「そろそろ晩ごはんですよ。ビール出ます」
 どんぶりに盛った漬物とビールが出てくる。賄いたちが栓を開けると、さっそくおたがいにつぎ合う。メイ子が、
「ソテツちゃん、きょうのお料理は?」
「和風ステーキ、ナスの醤油煮、とうがんと枝豆の冷やし汁、豚の薄切りと夏野菜たっぷりのサラダ、きゅうりと海老の酢の物、ごはん」
 おトキさんが、
「相変わらずアイデアウーマンね。安心。とうがんの味つけは?」
「カツオだしと薄口醤油とみりんです。とうがんは角切りして柔らかくなるまで茹でました。だし汁で十五分煮て、汁につけたまま冷やして味を含ませました」
「完璧よ」
「そろそろごはんにします。みなさん集まってください」
 直人の別メニューが運ばれてくる。とうがん汁だけは同じものだ。キッコが膝に抱き、いとしげにスプーンを含ませる。菅野と睦子がやってきた。山口と睦子が手を挙げ合う。睦子が卓につくと山口はさっそくビールをついでやりながら、
「花と歌の関係を調べてるんだって?」
「はい。文化的な背景まではまだ手が回りませんけど、どういう花だったかくらいは絵や写真で確かめてます。万葉集にかぎってですけど」
 カズちゃんが、
「草花を詠んだ歌ってどのくらいあるの?」
「千五百首くらいです。いまよりもずっと自然との関わりが深かったんでしょうね」
 百江が、
「いちばんたくさん出てくる花は何ですか?」
「萩です。百四十首以上あります」
 山口が、
「何か艶(つや)っぽいのある」
「草深み、蟋蟀(こおろぎ)さわに鳴く宿の、萩見にきみは、いつかきまさん。草が深いので蟋蟀がたくさん鳴いてるこの家の庭に、あなたはいつきてくださるのでしょうか」
「鈴木の気持ちじゃないよな」
「ちがいます。私は満たされてますから。ここの庭にも早咲きの萩が咲いてます。ほら、あそこの赤紫の花房のあいだに咲いてる白い大きな花」
 みんないっせいに見る。女将が室内の明かりに照らされた雨の庭を感慨深げな顔で見つめた。私は、
「万葉時代の蟋蟀は秋鳴く虫の総称だけど、現代のコオロギは、チリリリリ、連続して鳴くね」
 山口が、
「キリギリスは、シリリリリ」
「マツムシとスズムシは区別がつかなくて、ツツー、ツツーのモールス信号」
「クツワムシは、ジャジャジャジャ」
 主人がクイとビールを飲み、
「よう知っとりますなあ。ワシにはぜんぶ同じに聞こえますわ」
 私の耳鳴り虫の声に同調するので、あの森以来、虫の声を聞いたことがない。睦子が、
「じつは、カタカナでは表せません」
 山口が、
「そうそう。虫の声、と言っておしまい。一匹で鳴くことはまずないから、うるさい。健児荘で合唱をさんざん聞いた。蛙の声もな。ところで、東大の応援に一度いったけど、弱いのなんのって。試合後にベンチを訪ねて文句言ったら、女子マネージャーが、去年のようなことは千年経っても起こりません、千年経っても神無月くんは現れないからって」
「それ、黒屋って女だよ。詩織はマネージャーやめちゃったから。コンバットマーチ使ってた?」
「ああ。勇壮すぎて恥ずかしかった。ブラバンのレベルは去年より上がったね。外国人までいてさ。そんなもののレベルが上がってもなあ」
「そのうちマグレが起こることもあるさ」
「得意のマグレだな。インタビュー観たよ。おまえの言うマグレの積み重ねの意味は伝わってないと思うぞ」
 千佳子が、
「伝わらなくていいんです。へんなこと言ってる、でけっこう。私たちにはへんじゃないから」
「そうだな。よーし、食うぞ!」


         二百十七
 
 四カ月ぶりに食後のステージが盛り上がった。何が壮観と言って、主人夫婦をはじめ居並ぶ男女が美男美女であることだ。
「ときどき道を歩いてると、内気そうな美男子や美女を見かけることがあるけど、あのままその美に酬いがなく、年とって死んでいくのかと思ってさびしくなる。美男美女は引き上げられるべきじゃないのかな」
 菅野が、
「さっそくおもしろい話が始まりましたね」
 カズちゃんが、
「引き上げられるって、どこへ」
「ほかの世界へ―たとえば芸能界へ。道端でさびしそうにしてるよりはいい。美しくてさびしそうな人は、ほかの世界へいくべきだ。ここにいる人たちはみんな美男美女だけど、さびしそうでないから、ほかの世界へいく必要はない」
 素子が、
「ということは、うちら、引き上げられたん?」
「そう、すぐれた人間の集団へ。美しくてさびしそうな人はすぐれた集団でなく、浮薄で華やかな集団へ引き上げられるのがいい。美しさだけで勝負できるから」
「おもろ!」
 直人を膝に乗せているキッコが言った。
「メッチャおもろいわ。直ちゃんもこんな人になるんかいな。もしそうなったら、最初の女になりたいわ」
 頭頂にキスをする。私は、
「なってやって。ぼくと同じ十五歳でお願い。十三年後。キッコはいくつ?」
「三十五」
「いまのカズちゃんや優子と同い年だ。痩せないようにしてね。直人がぼくに似たなら、肉づきのいい女が好きなはずだから」
 キッコは少し考え、
「やっぱりやめとく。トモヨ奥さんもガッカリやろ。もっとちゃんとした女がええわ」
「ちゃんとした凡人か。名大数学科じゃ失格か」
「冗談で言っただけやから。あたし、神無月さんの女やもん、たとえ直ちゃんでも、ほかの男は考えられんわ」
 素子が、
「うちもやよ。キョウちゃんには冗談が通じんから、気ィつけや」
「はーい」
 キッコは直人の頭に頬ずりする。カズちゃんとトモヨさんが愉快そうに笑った。信子が膝を代わった。主人が、
「直人の好きなようにすればええがや。痩せた女が好きかもしれんで。十五年も二十年も先の話や」
 直人がコックリを始めた。トモヨさんが丸の膝から抱き上げ、
「歯を磨いて寝かせます」
 女将が、
「あんたも寝なさい。来月は産み月やよ」
「はい、そうします」
 トモヨさんが主人夫婦に頭を下げて離れへ去ると、あらためてみんな食事に戻る。かよいの賄いたちも奥のテーブルにつく。かよいはおさんどんの途中で早めに食事をすまし、乾燥棟の干し物の取り入れや、厨房の食器洗いに精を出す。住みこみは、食事は遅くなるが、厨房の後片づけは皿鉢を拭いたり食器棚の整理をしたりするだけになる。山口はビールを飲み干し、
「ごちそうさん」
 と言ってステージへいった。すでにツヤのいいギターがスツールに立てかけてある。千佳子と睦子が追いかけて、照明とマイクを整えた。
「いよ!」
 とかけ声が上がり、山口の美しい演奏が始まる。座敷に向かって彼は、
「鉄道員」
 と言う。まずポピュラーな曲できた。独特なスローのアレンジがしてある。みんな箸を止めて聴いている。カズちゃんが、
「有無を言わせない美しさね」
 数分で演奏が終わり、山口が促すようにこちらを見たので、私もビールを飲み干し、拍手の中をステージへいく。
「みなさんめしを食っててください。神無月と演目を話し合いますので」
 山口と頭を突き合わせて相談する。
「コンウェイ・トゥイッティの、イッツ・オンリー・メイク・ビリーブ」
「思わせぶり、か。唄ったことなかったっけ?」
「あっても唄う。ドラマチックな唄い上げだから」
「俺も好きな曲だ。喉を張りつづける曲だから、ドッと疲れるだろう。唄ったら三十分ぐらい休め。つないどく」
 マイクの前に立つ。両足を踏ん張る。
「神無月が全力でいきます。その後三十分くらいみなさんの歌に伴奏をつけますから、遠慮しないで申し出てください。昭和三十三年、コンウェイ・トゥイッティが唄った、アメリカとイギリスでナンバーワンヒットになった曲、イッツ・オンリー・メイク・ビリーブ、思わせぶり!」
 拍手が上がる前に演奏に入る。ジャーンと力強く打ち下し、みずからひっそり唄い出す。

 People see us everywhere
 They think you really care
 But myself I can’t deceive
 I know it’s only make believe

 ジャッジャッジャッジャッ。鉦に見立てた絃の連打とともにパッパッパッパッパッと発声しながら目で私を促す。階段を一段一段上るように唄い上げていく。

 My one and only prayer
 Is that someday you’ll care
 My hopes my dreams come true
 My one and only you
 No one will ever know
 How much I love you so
 My only prayer will be
 Someday you’ll care for me
 But it’s only make believe

 ウオーと歓声が上がる。
「すごーい!」
 睦子、千佳子、節子、キクエがステージの前に走ってきて、膝を立て、思い切り拍手した。ジャッジャッジャッジャッ。

 My hopes my dreams come true
 My life I give for you
 My heart, a wedding ring, my all, my everything
 My heart I can’t control
 You move my very soul
 My only prayer will be
 Someday you’ll care for me
 But it’s only make believe

「キャアア! すてきいい!」
「神無月さん! ブラボー!」
 菅野の声。指笛。叫び。ジャッジャッジャッジャッの連打。カズちゃんや素子やキッコまでやってきて節子や睦子と手を握り合った。唄いつづける。

 My one and only prayer
 Is that someday you’ll care
 My hopes my dreams come true
 My one and only you
 No one will ever know
 How much I love you so
 My only prayer will be
 Someday you’ll care for me
 But it’s only make believe


「メイク、ビーリーブ……」
 私の歌声が消えていくのに合わせて、山口が小さく和声を作った。拍手と歓声の爆発がきた。主人夫婦も菅野も女たちも賄いたちも、みんな泣いていた。泣きながら拍手し、歓声を上げていた。おトキさんも泣きながら、山口にハンカチを持ってきた。山口はそれで目を拭った。
「ああ、生きてきてよかった! これからもこの声を何百回も聴くぞ」
 カズちゃんたちが私に抱きつき、唇に頬に頭にキスをする。女将が、
「なんちゅう声なんやろ。胸が苦しいわ」
 しきりにハンカチを使う。主人も顔をゴシゴシやりながら、
「この声を聴いたら、だれも、なんも言わんようになるやろなあ」
 いつのまにかトモヨさんも主人夫婦の背後に坐って泣いていた。私は山口と握手し、テーブルに戻って、菅野にビールをつがれた。
「千両万両払っても聴ける声じゃありません。幸せです」
「ありがとう。歌った甲斐があります」
 グラスを半分ほど干す。山口がおトキさんをスツールに坐らせて演奏に入る。禁じられた遊び。万人のオハコ。しかし絃の響きがちがう。センチメンタルでない。力強い。主旋律のあいだから、トレモロの一粒ひとつぶがくっきりと聞こえる。定番の曲に聞こえない。アルハンブラ宮殿の思い出。ギタリストの教習曲。でもちがう。やはり光夫さんのはるか上をいく技量だ。プロなのだ。そうとしか表現のしようがない。一曲終わるたびに、おトキさんと顔を見合わせ、微笑し、うなずき合う。ラ・マラゲーニャ、アストゥリア、カリプソ・アラブ、どれもこれもすばらしい。聞き覚えがあるのに、寸分も狂わない超絶な技巧のせいで、初めて聴く曲のようだ。
「そろそろみなさん、唄いにきてくださいよ」
 食事はほとんど終わっているのに、恐れをなしてだれもステージにいかない。仕方なく山口は、静かな和音をポロポロ弾きながら、シブい喉で歌いはじめた。初めて聞いた。からだが冷えびえとするほど透き通ったバラードだ。

 季節の花を抱えて帰る あなたのいないこの部屋
 一年で いとしさを消すことはできないわ
 わたしと別れてからあなたは
 幸せじゃないと噂に聞いた 残酷ね
 見つめてほしいの なくした日々を
 あんなに私を愛せた日々を

 涙が噴き出した。眼球が痛み、嗚咽が洩れた。間奏のあいだじゅう三つの座敷が静かな拍手に満たされ、間奏が終わるまで止まなかった。
 
 ほかのだれより あなたのことをわかっているわ
 逢えなくなってから それだけがさみしさを支えてた
 夜更けにかかる 無言の電話
 つかの間の空白は あなたの迷いね
 見つめてほしいの 二人で生きたころを
 いつでも愛は 取り戻せる
 見つめてほしいの 愛し合ったあのころを
 私はいまでもここにいるわ
 季節の花を飾る あなたのいない部屋
 一年では 愛しさを消すには足りないわ
 ララララ ラララ ララララ ラララ
 ララララララ ララーララ……

 
「山口、何だそれは!」
 涙声で訊いた。山口も涙顔を挙げた。
「三鷹の路上でヒッピーふうの女が唄ってた。―花を買って、あなたのいない空っぽの部屋に帰る、忘れられないあなた、元気でいるなら、いつでも戻ってきてね、私はもとのとおりここにいるから―歌詞もメロディも華がなかったんで、典型的なラブソングに作り変えた。いい仕上がりだ。弾くたびに泣ける」
「天才だ、まぎれもない天才だ! イタリアから帰ってプロになったら、それをレコードにしてね」
「そうしようと思ってる。レコード会社に了承してもらえたらな」
「帰るまでに教えて。ぼくも唄いたい」
「あしたゆっくり、いっしょに唄いながら教える」



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