二百二十一

 居間へいく。山口や菅野と話をしていた女将が、
「スッキリした?」
 女将が下着とジャージを用意したとわかった。
「はい。当分だいじょうぶです」
「ルリ子も神無月さんのお役に立ててうれしいやろう」
 山口がニヤニヤしながら、
「相変わらず自然児だな。人に学習させる自然さだ。俺はおトキさんに応用してる」
 主人が、
「ワシも二十歳ぐらいのときは、のべつ幕なしやったですよ。市電の中でも、歩いとるときも自然と勃ってきて往生しましたわ。まだ結婚しとらんかったで、女房もおらんかったから、オヤジに断らんと、よう店の女に手ェ出しました」
「私と会っとらんころやから、勘弁したげる」
 山口がアハハと笑う。ソテツが、
「私に言ってくれれば飛んでいったのに」
 トモヨさんが、
「何言ってるの。まだ乙女でしょう。順序を踏みなさい。私は無理。もう、動きがスローモーになっちゃってるから、飛んでいけません」
 イネは、
「そういうふうになったとき、オラんどとなるべくやらねって気持ちが、うれしじゃ。店の女の人には気の毒だけんど」
「彼女たちもうれしいはずよ。郷くんとできるんだもの」
 トモヨさんがむかしの仕事仲間を思いやる目で言うと、菅野が、
「女のうれしさより、神無月さんの安全を図るのが先です。まじめな女でないとね。いいかげんな女は、店でゴム外してやってるかもしれないから、病気が怖い」
 主人が、
「検査、ちゃんとやっとるんやろ?」
「月に一度、名大病院の医者にきてもらってやってます。先月は、その場で注射などの治療をして内服薬をもらう軽度の出勤停止者が二名。淋病です。日赤などの病院を指定されて通院を強要された者一名でした。難しい病名でしたね。訊くと、やっぱりけしからんことをしたやつらでした。売れないと何でもしちゃうんですね」
「次の検査までは出勤させないようにな。医療費は全額自己負担、完治しなければクビにしてまえ」
「はい。そのくらいやってあたりまえですよ。人気上位の子はぜったいナマでやりませんから、安全そのものです。きょうのルリちゃんも、鯱のナンバーイレブンですし、検査結果も異常なしでしたから、安心して神無月さんの相手をしてもらいました」
「うちは最高級の評判の店や。これから長くやっていくには、トルコ嬢の健康がいちばん大事なことやでな」
「はい。重々承知してます」
 座敷のテレビが点き、めし櫃が抱えこまれる。民放のスポーツニュース。神無月、巨人戦で三本まとめ打ちをして百号かと流れてくる。
「オー、モーレツ!」
 というコマーシャルの声。みんなで座敷へ移動する。トモヨさんが、
「直人も、オー、モーレチュって、うるさいんですよ」
 山口が、
「丸善石油のハイオクガソリンの宣伝ですね。小川ローザか。千葉県出身のバリバリの日本人ですよ。本名小川静代」
 女将が、
「この程度の女、北村にきたら見劣りするがね」
 私は、
「モンローのまねだ。ミニスカートから覗くパンツが分厚すぎるからみっともない。尖った鼻もイモ。目のアイラッシュを取ったら見れたもんじゃない。ところで、モーレツって何だろうな。西沢先生は猛勉だったけど」
「あれは、猛烈勉強の意味だな」
 菅野が、
「企業の目覚ましい成長のことでしょう。いま、モーレツ時代と言われてますから」
「企業とまでは言わんが、ワシらも商売人の端くれや。繁盛するに越したことはない。しかしそこそこ儲けたら、それ以上成長したいとは思わんな。欲張ると、人さまに迷惑がかかる」
 山口が、
「そのとおりです。企業が欲張ると、物価は上昇するし、労働力は足りなくなるし、公共事業の資本は立ち遅れるし、公害問題まで出てきます。欠陥商品、広告の低俗化、いまのパンチラの宣伝もそうです。この風潮に乗ってハレンチ漫画が流行ってるでしょう」
 私が、
「反体制フォークソングは、企業の急成長の影響なの?」
「ああ、そういう企業と結託する政府と闘争するための手段だ。そんなものじゃ体制を変える力はない。身を捨てた怒りがないからな」
 主人が私に、
「東大の全共闘ニャロメ派ですな。やられても怒らない、めげない。でもそれだけ」
「何ですか、それは」
 山口が、
「漫画のキャラクターだ。殴られても蹴られても不屈の闘志で立ち上がる反骨猫。東大生はよく漫画を読むからな。ニャロメの根性に共鳴したんだろう。と言っても、やっぱり何の攻撃力もない」
「猫は非従順系の生き物だから、そう名乗ったのかな」
「茶化したかったんだな。そのくせ趨勢には参加したい」
 菅野が、
「まじめな政治運動とギャグの世界が通じ合うというのは、なんだか……」
 山口は、
「漫画みたいに打ち据えられてばかりいたんじゃ政治運動になりませんよ。言葉ではなく立ち上がって何をするか―ゲリラ精神。で、ゲバルト? 暴力的闘争? 権力に対する実力闘争? 建前は立派でも、唄って騒いで、デモするだけで、権力そのものに対する根本的な怒りを表現できない。怒りのない自分たちの行動の理屈を作り上げるのに汲々としてる。結局腹の底から怒ってないからですよ」
 私は、
「たしかに、フォークソングやニャロメ派やギャグ漫画が権力に怒ってるとは思えないなあ。特にニャロメ派なんて、政治運動にふざけた含みを持たせて、周囲の怒れる連中をからかってるだけじゃないの?」
 山口は、
「人生、理屈の単純な受験勉強しかしてこなかった大学生たちのやることだ。何か重たい理屈づけがほしいんだろう」
 昼をすぎたあたりから強い雨がきた。アイリスの第一陣が戻ってきた。素子、百江、キッコ、優子。心が浮き立つ。素子が、
「蒸し暑ゥ。ヒヤムギしか食べたないわ」
 おトキさんが、
「だめよ、ちゃんと栄養つけないと。きょうは鯵のムニエルのトマトソースかけ、ゴーヤのサラダ、豆腐の冷やし汁、それと麦ごはん。ごはんに合うように、ゴーヤにはとろろ昆布と鰹節をかけてますからね」
 百江が、
「ごちそうね! 一人じゃ作れない献立ですよ」
 キッコが、
「神無月さん、あした東京いっちゃうんやね。山口さんとおトキさんも」
 優子が、
「神無月さんは東京から甲子園。山口さんはコンテストに向けての練習。たいへんですね」
 私は、
「人間たいへんなのがいちばん。阪神タイガースもたいへんだ。来月の中旬は高校野球で甲子園が使えないから、遠征ばかりになる」
 主人が、
「スケジュール表では、八月九日の阪神―中日戦は、西京極球場になっとりますよ」
「どこですか、その球場」
 山口が、
「名前からして京都だな」
「はい、左京区西京極にあります。阪神がホームチームになります。両翼が百メートルもあるのに、センター百十七メートルで、めずらしい規格の球場です。フィールドはけっこう広いんやが、観客席は二万人で満員です。東宮、のちの昭和天皇のご成婚を記念して昭和七年に開場された歴史ある球場です。外野は芝生席で、前列五列だけ長椅子になっとります。メンテナンスが利いとって、小ぎれいな球場です」
 冷やし汁が出揃い、みんなで箸を動かしはじめる。麦めしを掻きこむ。うまいものではない。菅野が、
「西京極球場は、近鉄、阪急の準フランチャイズですよ。ライト場外は森なのでだいじょうぶですが、レフト場外には阪急電車が通っているので危ないです。ライトのホームランを狙ってください。手書き式のスコアボードが右中間にあります。神無月さんはぶち当てるでしょうね」
 食事のあと、山口にしっかりきのうの歌を教えられる。唄いながら、どうしても泣いてしまう。
「曲名、考えた?」
「いや、何かあるか」
「白い虹。幻のような虹を渡って、男が戻ってくる。それか、街灯。女が一人きりの部屋に戻る道を照らす、希望の仄かな灯り」
「……街灯にしよう」
 ステージにいき、もう一度二人で唄った。女たちが聴き入っている。泣いている。
「しっかり暗記した。今度会うときの楽しみにしよう」
「十一月あたりに東奥日報が名古屋にきたときだな。日程が決まったら教えてくれ」
 二陣でカズちゃんたちが帰ってきた。カズちゃんが、
「私が山口くんに知らせるわよ。キョウちゃんはいろいろな行事でビッシリになっちゃうし、山口さんもイタリアのあとの大忙しでこっちに問い合わせられないでしょうしね。東奥日報さんには、取材を東京のほうに切り替えてもらうかもしれないわ」
「そうか、表彰表彰でたいへんな時期だな。ま、会えるチャンスがあれば、極力都合をつけてくる」
         † 
 カズちゃんたちが出かけると、耐えがたいほど眠くなり、主人夫婦や山口たちの会話を子守唄に、座敷の隅で座布団を枕にして寝た。トモヨさんがタオルケットを掛けた。
 ふと目覚めると、山口の姿はなく、直人が女将の膝に座って、大学から戻った睦子たちといっしょに『ママとあそぼうピンポンパン』を観ていた。五時だ。中番のトルコ嬢たちが戻ってきている。
「あああ、寝たァ! すっきりした」
 女将が、
「大きな嚊かいとったよ。初めて聞いたわ」
 千佳子が、
「くたくたに疲れてたのね」
「寝貯めだね。遠征先でもせいぜい七時間ぐらいしか寝ないから。山口は?」
「おトキさんといっしょに神宮参拝。菅ちゃんが乗せていきました」
「お父さんもいっしょ?」
「宿六はドンコにいったわ」
「競馬か。ぼくもいきたかったな」
「しょうもないがね、あんなもの」
「おとうちゃん!」
 直人が走ってきて、しなだれかかった。頭を撫ぜる。
「保育所、楽しかったか」
「ゆび、パキッていったよ」
 トモヨさんが、
「乱暴な子に、手を押さえつけられたようで、日赤に連れてったら、中指の第二関節が脱臼してました。すぐにはめてもらったので、もうだいじょうぶです。その子は先生によく叱ってもらいました」
 左手の中指の第二関節が腫れていた。痛そうだった。
「二、三日で腫れは退くそうです。今週は休ませることにしました」
 両脇を持ち上げて掲げながら、
「黙って押さえられてたのか?」
「うん、こわいこだから」
「怖いからぶん殴れないか」
「うん……」
「喧嘩できないなら、これからは近寄らないようにしなさい」
「でも、あそんでくれるよ」
 おとなしい直人と離れないのは孤独だからだろう。
「……近寄らないようにしなさい」
「うん、にげるね」
「喧嘩したくないなら、逃げなさい。直人は小さいほうか?」
「うん、ちいさい」
「おとうちゃんも小さかった。似たんだな。そのうち大きくなるからね」
「おとうちゃんくらい?」
「もっと大きくなる。そうなったら、悪さされたときには戦うんだよ」
「うん、やっつけてやる」
 抱き締める。


         二百二十二 

 鉄腕アトムが始まり、直人は女将の膝に戻った。睦子が、
「郷さんの小さいころにそっくりですね。いじめられても手出ししなかったんでしょう」
「名古屋に転校するまではね。転校してから喧嘩づいちゃった。やり返すのは大儀なことだけど、降りかかる火の粉は払わなくちゃね。臆病者は救われない。火の粉で髪を焦がされても、無意味に笑って辛抱するようになる。火の粉をうまく避けられるなら、払う必要はないんだけど。……浅間下では待ち伏せされてたから、逃げようがなかった」
 アイリスの全員が引き揚げてきて、どやどや風呂へいく。山口たちも帰ってきた。
「曇ってたけど、いい陽射しだった。神宮の砂利が真っ白く輝いてたよ」
 女将が、
「おトキ、きちんとお祈りしてきた?」
「はい。無事にコンテストが終わりますようにって」
 すぐ台所に入る。菅野が私に向かって言う。
「二人がお参りしてるあいだ、大瀬子橋から向こうをドライブしてきました。いい景色でした。何も変わってませんでしたよ」
「加藤雅江の家の楠木も?」
「はい、千年小学校も、東海橋も」
 直人のプレートめしになる。きょうは千佳子の膝だ。私は直人の左手の指を確かめる。まだツチノコのように腫れている。
「痛いか」
「いたくない」
 千佳子が包みこむ。トモヨさんが菅野に事情を聞かせる。
「逃げることも大事だけど、あまりしつこいようなら振り払い方も勉強しないとね。小学校から空手を習わせるのがいいかな。枇杷島にいい道場がありますよ。それまでは保護者がしゃしゃり出ておかないと。私が一度ドスを利かせておきますよ。柔らかくね」
「負けた、負けた! カタくてやっとれんわい」
 主人が大声を上げながら帰ってきた。みんなでいっせいに食卓に向かう。ビールが出る。私も山口もあぐらをかいてビールを飲む。特盛りの枝豆が出る。
「シーズンオフにドンコへ連れてってください」
「いいですとも。しかし、オフの神無月さんは急がしいんやないかな」
「かならず空きはありますよ」
「日本一カタい競馬場ですよ。ほとんど一、二、三番人気で決まる。何も考えずにオッズどおりに買えば中(あた)るんやが、おもしろ味があれせん」
「全レース、人気の低い馬から流します」
「なるほどなあ。きょうも二回ほど五、六番人気がきたわ。そういうときは三、四番人気が絡んで、高い配当になる」
 賄いたちが皿を並べはじめる。ソテツがいちいち料理の名を告げていく。
「イサキの梅醤油焼き、キュウリと長芋の唐辛子酢かけ、胡椒を効かした焼きソバ、大根のキムチ、卵と韮のスープ」
「めしが進みそうだ。どんぶりで」
「はい」
 山口が、
「俺もどんぶりで」
「ねえ、千佳子」
「はい」
「青高時代、よく窓辺で本を読んでたけど、意外な読書家なんだね」
「童話が好きで、よく読んでました。人間くさくなくて、読まなくなりました。高校二年生からは、イギリスの小説をよく読みました。チョーサーとかシェイクスピアとかミルトンじゃなくて、デフォー、スウィフト、オースティン、サッカレー、ディケンズ、ブロンテ姉妹などです」
「それぞれ、読むべき一冊を教えて」
「はい。デフォーはロビンソン・クルーソー、スウィフトはガリバー旅行記、オースティンは高慢と偏見、サッカレーは虚栄の市、ディケンズはオリバー・ツイストとクリスマス・キャロル、シャーロット・ブロンテはジェーン・エア、エミリー・ブロンテは嵐が丘」
「いまノーマン・メイラーの裸者と死者を読んでるから、それを読み終わったら、こつこつ読んでいく。来シーズンからになるかもしれない」
「ぜんぶ持ってますから、さしあげます」
「そのつど一冊ずつ借りる。じつは、千佳子の挙げた本は青高時代にことごとく挫折したものばかりだ」
 山口が、
「ロビンソン・クルーソーはおもしろいぞ。児童文学扱いされてるが、がんらい大人向けに書かれた本なんだよ。無人島生活本の元祖、イギリス最初の小説と言われてる」
 別のテーブルから三上ルリ子が愛しそうな目でこちらを見ていた。カズちゃんたちが風呂からまたどやどや戻ってきて、
「きょうは椙山出身のおばさんたちが、真っ昼間に同窓会。十五人、コーヒーとケーキだけで、わいわい騒いで帰ったわ。ほかのお客さんもどんどんくるし、目の回る忙しさだった」
「同級生?」
「三年ぐらい上だから、まったく知らない人たち。噂を聞いてきたんでしょうね」
 メイ子が、
「中年女はゲラゲラ笑うからうるさいんです」
 素子が、
「お姉さんより十も年上に見えたがや。あれで三十七、八なら、お姉さんは二十七、八」
「あなたは十七、八よ。どこかで細胞分裂が止まっちゃったんじゃないの」
「キッコちゃんが十五、六に見えましたものね」
 百江が言うと、キッコが百江の肩を叩いた。
「オーバー、オーバー」
 キッコはさっさとめしをすませると、質素な服装に着替え、学生カバンを持って登校していった。私は睦子に、
「旅行して、花に触れるといいよ。ときどき岐阜の千佳子たちに会いにいって、その近所を歩いてみたら?」
「その予定です。花を観察するかどうかわかりませんけど、素子さんと千佳ちゃんに会いにいきます。有料の客用の部屋もあるそうですから」
 山口が、
「きのうは萩だったけど、二番目に多く詠われる花は何?」
「わかりません。一番多い萩しかまだ文献で見てません。名もない花が多いかもしれませんね」
「名無しの花を詠った歌、何かある?」
「巻八の千四百二十。沫雪(あわゆき)か、はだれに降ると見るまでに、流らえ散るは何の花ぞも」
「淡雪だろうか、まだらに降るように見えるほど、流れるごとく散りつづけるのはいったい何の花だろう」
 私が解釈すると、睦子がパチパチと手を叩き、
「すばらしい訳、一点の狂いもありません」
「大したもんだ、俺の畏友は。たぶんその花、梅だと思うぞ。白梅」
「私もそう思います。ソテツさん、お替わりお願いします。とてもおいしい!」
 私も、私も、とみんな飯碗を差し出す。
「すこし辛いものばかり作りましたけど、夏だからおいしく感じるでしょう?」
 ソテツが得意そうに笑う。主人が、
「このイサキの焼き魚は絶品やな」
 菅野が、
「焼きソバがうまい! いくらでも食えます」
 かよいの賄いたちも食卓につき、おさんどんをしていたおトキさんが、
「出藍の誉れ。もう何も言うことがないわ。みんなの息がピッタリ合って、どこかの高級店の厨房みたい。アイデアは、ソテツちゃんと幣原さん、料理はほかのみなさん。腕は全員一流ね」
 幣原はかしこまって頭を下げた。いつものとおりつかみどころのない、印象の淡い顔だった。最初のときに失禁したことを思い出した。こういう女をいたわらなければならないといつも考える。というより、こういう女にいたわりの行為をするように、私は運命づけられている。それなのに私は、幾度となく取りこぼした。酒井リサちゃん、錦律子、鬼頭倫子、杉山啓子、鷲津何子だったか、斜視の女―。
 直人が千佳子の膝でこっくりを始めた。トモヨさんが、
「お風呂いただいて、直人を寝かせます。おトキさん、台所なんか放っておいて、私たちのあとでお風呂使って、早くお休みなさい」
「はい、ありがとうございます」
 山口が、
「お言葉に甘えて、もう少し話をしたら、風呂をもらって寝るかな。神無月、あしたは何時出発だ」
「いつも十一時台の新幹線に乗る。江藤さん、菱川さん、太田の三人が十時ごろ迎えにくる。四時半のバッティング練習に間に合うように、三時前に赤坂のホテルニューオータニに着けばいいんだ。ドラゴンズはミーティングをほとんどしないチームだから、前日にいく必要はない」
「品川で泣き別れだな」
「そうなる。さびしいね。ほんとに来年からしょっちゅう会えるんだろうね」
「仕事が東京に集中しないかぎりな。しばらくして、全国ツアーとかスタジオ録音が主な仕事になれば、本拠地は名古屋に置いてもぜんぜん差支えない。何年かしたら、アイリスで週一回ギター教室を開くことも考えてる」
 カズちゃんが、
「すてきね。この八月からは、アイリスもアヤメも週一で丸一日休みの日を取ろうと思ってるから。そのときがきたら大いに利用してちょうだい」
「じっくり計画を立てます。なんやかやで二年ほどはあっちで忙しいと思うけど、そのあとは名古屋に落ち着けると思う」
 主人が、
「考えたら、神無月さんも山口さんも、千佳ちゃんムッちゃんも、みんなまだ二十歳なんやな。洋々たる前途やが。空恐ろしいわ」
 一家のほとんどが食事を終え、後片づけにかかった。その合間に、千佳子と睦子がコーヒーをいれる。おトキさんとソテツとイネはいち早く後片づけの厨房に入った。素子とメイ子と百江も明るく笑い合いながら洗い物を手伝う。女将が、
「たまには早う寝ましょうわい」
「いつも早う寝とるやないか。まだ九時やぞ。菅ちゃん、最後の見回り、いこうか」
「はい」
 山口が主人に、
「毎日の売り上げは、どうやって受け取ってるんですか」
「十二時までの営業なんですが、各店長と副店長の決算が、十二時半に別室で行なわれます。伝票の照らし合わせですな。その場に松葉会の人が、おのおの二人立ち会います。送迎の蛯名さんとは別です。その人たちが売上金をバッグに入れ、いったん松葉会に持ち帰ります。翌日の午前に私が店で受け取り、菅ちゃんの車で四つの銀行に分割して預けにいきます」
「給料の支払いが面倒でしょう」
「日給制ではなく、企業と同様、月給制です。女の子にはその子についた客が払った金の六割をペイバックする本給のほかに、歩合給も払います。手柄給ですね。ナンバーテンまで序列をつけて払います。年季明けまでのバンス分は、給料から月割りで天引きします。男の給料は、昇給以外は一定です。給料日になると、四つの銀行からだいたい同額引き下ろして、午後の三時から四時に各人に支給します。給与の振り分けは、伝票を見ながら女房と菅ちゃんがやります。給料以外の支払い計算もすべて、二人の務めです。会計士と税理士に見せる帳簿つけがたいへんな仕事です」
 菅野が頭を掻いた。女将が、お休みなさいと言って離れに去った。主人と菅野が出ていった。山口がコーヒーをすすりながら、
「見回りって、何をするのかな」
 カズちゃんが、
「男女の従業員からその日店で起きた目立ったできごとを聞いたり、松葉会さんから気づいた点の報告を受けたり、搬入品や店内備品の点検、従業員同士の人間関係の聞き取り調査、それをぜんぶメモに取るの。午前の見回りのときには、税務署などの公機関や地元代議士との面談や交渉、女の子の面接、不良社員の退職勧告、寄り合い、そんなところね」
「夜警の見回り程度のこととはまったくちがうじゃないか。ハードだよ」
「北村の家もトルコの店も、たいへんな仕事量よ。でも、信頼できる者同士協力してそのたいへんなことをしないと、みんなが安心して暮らせなくなるわ。みんながいる場所はすべて大切な場所。北村席もその一つ。一つが傷つくのはとても簡単よ。大した傷でなくても、生活のペースがしばらく狂うわ。たとえば、芸能人がよく泣きを見るお金の持ち逃げ事件とかね。避けられることは避けたほうがいいでしょう?」
「松葉会の役割は大きいということだな」
「いちばん大きいわね。牧原組長が大学出のインテリなので、幹部にも経営に明るい人が何人かいて、そういう人たちを送りこんでくれる。もともと怖い人たちだから、お金の計算やおえらいさんとの面談交渉の現場に緊張感と迫力が出るの。キョウちゃんと康男さんの関係がなかったら、北村席はこの前の区画整理で追い出されて、おとうさんおかあさんは引退してたでしょうね」
「……神無月の言うとおり、人生マグレの積み重ねだな。ところで神無月、来月から中日新聞に小説を連載するらしいな」
「野球選手の作文を載せてもらう」
「はいはい。……とにかく、ようやく一歩踏み出した。おまえの書くものはすべてすばらしい。だからだれも受けつけないなって、ある意味残念に思いながら喜んでた。ひょんなことから人目に触れることになっちまった。これまた、ある意味残念に思いながら喜んでる」
「流れるままだよ。書きたいものがあるうちは、流されようと思ってる。求めることはしないけど、差し伸べてくれる手は握ろうと思う」


         二百二十三

 おトキさんとソテツたちが片づけを終えて座敷のテーブルにやってきた。幣原もついてきて膝を折る。おトキさんのおかげで市民権を得たという表情だ。めずらしそうに私と山口の話に耳を傾ける。
「ギターで金を集めて、おまえの文章を世に知らせるのが念願だったけど、金なんかおまえには必要なくなっちゃたし、逆に向こうが金を払って世間に知らせてくれると言うんだから、ありがたく甘えることにするか。俺は手段としてじゃなく、目的としてギターに打ちこむことにするよ」
「もともとそうだったろう。あたりまえのこと言うな。言わせてきたぼくの罪だけど」
「いや、言わせたんじゃない。俺の本心だ。いずれ作曲にもっと力をつけたら、おまえの詩をギターのメロディに乗せて世に出す。ギターそのものに打ちこみながら、今度はそれが目標になる」
「山口、そろそろ寝ろ」
「そうだな。じゃ、おトキさん、まだ宵の口だけど、風呂に入って寝ようか」
「はい。じゃ、みなさんお休みなさい」
「お休みなさい」
 二人が去ると、カズちゃんが、
「あしたから六日間の遠征ね。帰ってきたらすぐ大洋戦。あら……幣原さん、腰上げないでどうしたの?」
「あ……はい」
「あなた、いつもキョウちゃんをやさしい目で見てるわね」
「いえ……」
「直人もとてもかわいがってくれるし。……キョウちゃんが好きなのね」
「え……はい」
「何歳?」
「四十二です」
「名古屋の在でしょう?」
「中村区の亀島の生まれです」
「すぐそばね。子供は?」
「いません。結婚したこともありません」
「年増になってキョウちゃんに恋をしちゃったのね。もうお手はついたの?」
「いえ、そんな、もったいないこと」
 幣原は嘘をついた。ソテツが、チラと横目で見た。
「そうなの? いつもしっとり落ち着いてキョウちゃんを眺めてるから、てっきりお手つきかと思ってたのよ。お手がついてほしい?」
「もちろんです……」
 またチラリとソテツが見た。悪意のない目だった。
「もしキョウちゃんのことがほんとに好きなら、辛抱強く待ってなさい」
「はい……すみません、年甲斐もなく」
 睦子が、
「そんなことないですよ。百江さんだって五十歳です。明石までいったんですよ。私も神無月さんのためなら地の果てまでいきます」
 千佳子が、
「そうよ、ちっとも恥ずかしいことじゃないわ。私たち、神無月くんが思い出してその気になってくれたときだけ抱いてもらおうって決めてるの。神無月くんが疲れないように」
 イネが、
「ワも、何日でも何週間でも何カ月でも待つじゃ」
「とにかくチャンスを待ちなさいね。じゃ、みんな帰りましょ」
 カズちゃんがミコシを上げた。
「途中まで送っていきます」
 そう言う幣原といっしょに睦子と千佳子もミコシを上げた。イネとソテツが門まで見送った。
「幣原さん、玄関開けときますから、あとで戸締りお願いします」
「はい、すみません」
 女六人と夜道を歩いた。素子が、
「幣原さん、あんた相当、男知っとるんやろう?」
「それは……相当じゃありません」
「お鉢が回ってきたら、気ィつけや。感じすぎるとオシッコ漏らしそうになるで」
 幣原はうろたえて真っ赤になった。一瞬、あの現場を戸の隙から目撃されていたのかと誤解したようだった。メイ子が幣原の横顔を見つめながら、
「幸せになる人を次々増やしてたら、とても早く枯れてまうんじゃないでしょうか。それ、神無月さんにとっては不幸ということでしょ?」
 カズちゃんが、
「いいえ、キョウちゃんは人が幸せになれば自分も幸せなの。自分の能力で人を幸せにできるなら、それを使って最大限の努力をする人よ。たとえ枯れてしまっても、ほかの方法で幸せにしてくれるわ。心という大きなものでね。枯れる前に女に飽きちゃったり、興味がなくなったりするほうが不幸よ。そうなったら、キョウちゃんのことだから、人を幸せにできないって悩みはじめるわ。もともと性欲の淡い人なので、そのことだけが心配……。そうなったとき、私たちも求めない気持ちになることが大切ね。私たちにしても、あまり性欲は強くないほうなのよ。だって、キョウちゃんにしか抱かれたくないでしょう? いくらでもキョウちゃんを待っていられるでしょう? というより、キョウちゃんがそばにいさえすれば、それだけで満足でしょう? だからみんな清潔な感じがするのよ」
 千佳子が、
「早く、ほんとうにそばにいたい人だけになってほしいです。人生の途中で気まぐれに下車して、お弁当でも食べるつもりで神無月くんをいただく人には、神無月くんのそばにいてほしくないんです」
 幣原が、
「私、そんな気持ちじゃありません」
 カズちゃんが、
「私たちの中にそういう人はいないわ。幣原さんもそうよ。半年も見てればわかるわ。それに、いつか離れようとしている人の見分けなんてつかないでしょう。たとえいたとしても、キョウちゃんはそういう人にも進んで自分を与える人。いっときでもその人が幸せになればいいと思うから」
 百江が、
「私は神無月さんをいただいているつもりはありません。心から愛しています。一度一度が数少ないチャンスですから、一度してもらうたびに、なんという幸運だろうと心底思います。あと何年もしないうちに私の性欲も萎んでいって、そういう負担をおかけすることも少なくなるでしょう。そのときはお心をちょうだいいたします」
 カズちゃんが、
「だから私たちの中にからだ目当ての人はいないと言ったでしょう。だめよ、いちいち言葉に敏感に反応しちゃ。性欲の話だけど、節子さんやキクエさんが教えてくれたところだと、女は七十歳くらいまで性欲は強まる一方なんですって。キョウちゃんにヤル気があるうちは、何も気にせずお受けして幸せになればいいのよ。愛があるからだいじょうぶ。ただ、キョウちゃんのからだは一つだということをみんなで考えてあげましょう。自分から持ちかけないことと、ものほしそうにしないこと。女は性欲がないように見せることがいちばん肝心。してもらったら、びっくりするくらい悶えるというのがキョウちゃんはうれしいのよ」
「はい!」
 全員が声を合わせた。
 私たちは椿神社の百江の家の前で手を振り合った。素子はアイリスの裏手に通じる隘路へ、私たちはコメダ珈琲のほうへ向かい、幣原と睦子と千佳子は北村席のほうへ引き返して別れ別れになった。
         †
 七月十日木曜日。七時起床。一人寝の朝は爽快だ。淡い耳鳴り。小中学生のころの一日一日の朝が思い出せない。どうやって床に就いたのかも思い出せない。寝床は生活の一部ではなかった。
 薄曇。二十一・五度。暑くなる気配。下痢、シャワー。カズちゃんとメイ子と朝食をしっかり摂り、ブレザーを着て、北村席へ。手に『裸者と死者』と『一日一言』。
「きのう、東京の菊田さんから電話があって、上板橋の河野さんて人が立教大学の大学院に合格したって言ってたわ。河野さんて、話は聞いてたけど、私がまだ会ってない人でしょう?」
「うん」
 馴れ初めの話はしたことがあったので、大学院の話と卒業後の就職の予定の話をした。
「東京で就職するかもしれないけど、きっと名古屋にくるわね。そのときは仲良くお付き合いしましょう」
「そのときはよろしくね」
「はいはい。きょうは暑くなるらしいわ。来週からはほとんど三十度超えですって。寝るとき、掛けシーツを剥がないように気をつけてね」
「だいじょうぶ、お腹には気をつける」
「飲み物は温かいものを」
「うん。甲子園のダブルヘッダーは、暑さでへこたれるかもしれないけど、こっちに戻っての大洋三連戦はオッケーだな。そのあとのオールスターは、三戦とも七時開始だからしのぎやすい」
 カズちゃんは私の横顔をじっと見つめ、
「……小学四年生の秋から十年。キョウちゃんの顔変わったわ」
「十年も経てばね」
「いまもすごい美男子だけど、十年前の顔しか知らない人は、いまのキョウちゃんに遇ってもわからないと思う。でも、何年経っても目つきだけは変わらない」
 メイ子が、
「小学校四年生からこの目をしてたんですか?」
「そうよ、惚れた理由がわかるでしょう」
「わかります。男の目です」
「甲子園のオールスター第二戦はみんなで出かけることになってるの。留守番はおかあさんとトモヨさん親子と、厨房」
「菅野さんから聞いた。宿は決まったの」
 メイ子が、
「甲子園のすぐそばの、やっこ旅館です。歩いて五分。十人部屋を一つと、三人部屋を一つ予約しました」
「アイリスは十九日と二十日の土日はお休みにしたわ」
「すごいな。大移動だね」
「八畳の三人部屋は菅野さん夫婦と秀樹くん、二十畳の十人部屋は、おとうさん、私、百江さん、素ちゃん、メイ子ちゃん、千佳ちゃん、ムッちゃん、天童さん、丸さん、それから……」
「キッコちゃんです」
 菅野がガレージの外で車を洗っていた。睦子と千佳子とキッコが、いってきますと言って門を出るところだった。睦子と千佳子は名大へ、キッコはアイリスへ。早い出勤だ。素子と下準備でもするのだろう。みんなでいってらっしゃいを言う。後ろ姿を見ながらメイ子が、
「三人ともスタイルのいいこと! お嬢さんに生き写し」
 菅野もつくづくと見つめながら、
「モデルのマネージャーをやってもいいな。千佳ちゃん、ムッちゃん、素ちゃん、キッコ、イネ、五人は派遣できる」
「お馬鹿なこと言って」
「へへ。神無月さん、十一時二十六分のひかりですよ。十時半に江藤さんたちがきます」
「きょうのランニングは後楽園でやる」
「そうですね。球場なら柔軟もできますしね。よくいろんなチームの選手たちが外野に集まってやってますよね」
「あの柔軟体操というのが危ないんだ。みんなに歩調を合わせて見よう見まねでやろうとすると、タイミングが微妙にずれるので、思いどおりに筋肉を伸ばしてやれない。体の柔らかい人のまねをしたりもしちゃうしね。自分のペースで慎重にやらないと首や腰のスジを痛めちゃう。だから柔軟には参加しないんだ。ドラゴンズには、巨人の金田みたいにからだの柔らかさを自慢する人はいないんだけどね。もともと柔軟自体やらないチームだ。オールスターでは気をつけようと思ってる。とにかく外野をランニング、それからキャッチボール、これに尽きるね」
 座敷で山口と主人がビールを飲んでいた。直人を膝に抱いて、朝食中のみんなと歓談。
「やっこ旅館と聞きました」
 主人に言うと、
「はい、昭和二十三年にできた老舗旅館なんです。じつはワシ、四月の下旬に、神無月さんの試合を観に甲子園へ一人で出かけたことがありましてね、しっかり〈やっこ〉を選んで泊まりました。風呂、めし、部屋、申し分なしでした。オールスターのこともチラッと頭にありましたから」
 ソテツが、
「イネちゃんと私は、優勝の決まりそうな八月末の大洋戦に連れてってもらうことになったんです。中日球場」
 トモヨさんが、
「私たちは、直人が小学校に入るまではオアズケですね」
「五、六歳になったら、ネット裏の特別席に連れてけばいい」
「走り回ったら周りの人に迷惑ですし、ボールが飛んできたら危険です」
「それもそうだね。でも前列を買えばだいじょうぶだよ。ファールが逆巻きで落ちてきても中段ぐらいにしか落ちない」
「よくわかりませんけど……とにかく小学生ぐらいまで待つことにします」



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