二百二十四

「いってまいりまちゅ」
「いってらっしゃい」 
 菅野が直人を連れて保育所に出かけた。トモヨさんは大きな腹を突き出しながら、居間の座布団に横坐りになっている。なるべく動き回るように心がけてはいても、余儀なく腰の重い日はある。女将が、
「きょうは横になっとったほうがええよ」
「ええ、そうします」
 山口が帰り支度を始めた。ギターケースと大きなボストンバッグに、女将が土産物の紙袋を添える。私は、
「イタリアもその格好だね」
「ああ。おまえの遠征の心細さを、身をもって経験することになるよ」
 私も、ユニフォーム一式、クローブとスパイク、ジャージ、タオル数本、本二冊を納めたズックのダッフルバッグと、二本入りのバットケースを玄関に出した。イネが、
「ユニフォーム三着と、バット三本、スパイク一足。アンダーシャツ五組とストッキング五組、下着五組、バスタオル一本、タオル十本、帽子一つ、段ボールで竹園旅館さ送っておぎました」
「ありがとう。スパイクは使わないと思うけど、ひょっとしたら履き替えるかもしれないしね。後楽園の分はあしたの朝送り返すから」
 水屋の抽斗のお守りを取ってダッフルの底に入れた。主人が、
「肌身離しませんな」
「これだけはね。迷信かもしれないけど、精神、肉体、一体となって護られてる気がします。いままでの結果を考えると気休めとは思えないので、ユニフォームの尻ポケットにいつも入れてます」
 菅野が帰ってきた。カズちゃんがそのままさりげなく山口とおトキさんに別れの挨拶をする。
「すべて一路邁進よ。じゃ、また会う日まで」
「おお」
 髪を整えたおトキさんがアイリス連中に深く頭を下げ、
「みなさん、お元気で。しばらくお別れします」
 カズちゃんは二人にうなずき、笑いかけると、メイ子たちと大挙して出かけていった。
 女将がトモヨさんに肩を貸して立ち上がり、トイレに連れていく。そのまま離れに寝せにいくようだ。女将が戻ると、居間で主人夫婦と菅野と山口カップルと歓談が始まる。女将が、
「午後からトモヨを妊婦検診に連れてくわ。これまで二週間にいっぺんやったのが、きょうから一週間にいっぺんになったで。菅ちゃん、いっしょにお願いな」
「オッケーです。女将さんの肩一つでは、もう奥さんを支え切れませんよ」
「ほうや」
 主人が、
「神無月さん、竹園旅館から甲子園まではバス移動やろ?」
「はい」
「どのくらいかかるの」
「信号に引っかかりながら、二十五分以内です」
「近いがや」
「近いです。ホテルニューオータニから神宮球場と後楽園はもっと近いし、世羅別館から広島球場へいくのはたった七、八分です。川崎球場が一時間弱で、いちばん遠い」
 山口が、
「バスの座席はどういう順番で座るんだ?」
「適当。ただ、監督やコーチたちは前のほうに座るね。球団のおえらいさんなんだから、ゆったりと最後尾の列に座ればいいのにね」
「出入りが面倒でないし、フロントの景色を見たいんだろ。男は子供みたいなところがあるからな。監督たちはそれが特権だと思ってるんじゃないか」
 主人が、
「たしかにそうだ。男は景色を見るのが好きですわ」
 厨房連中の朝食になる。北村夫婦と菅野も食事に混じった。
 やがて門のチャイムが鳴り、ソテツに連れられてダッフル担いだ江藤たちがやってきた。菱川と太田が畏まったお辞儀をする。主人が、
「いらっしゃい、お三かた。おひさしぶり」
「こんにちは。おう、山口さん、何カ月ぶりかな。おトキさんも元気そうで。ギター、快進撃やと新聞で見とります。天才現る、と載っとりました。天下を取ってください」
「はあ、がんばります。きょうは品川まで同行します」
「おお、楽しくいきましょう。ふむ、相変わらず豪華な食卓たいね。寮食とは大ちがいだ」
 女将が、
「食べていきゃ」
「残念。まずい寮食を腹いっぱい食ってきましたけん。ソテツさんの弁当で口直ししますばい」
 コーヒーが出る。ソテツが、
「鶏肉そぼろ、焼肉、イナリと海苔巻きの三種類です。リクエストをどうぞ」
 ドラゴンズ三人が焼肉に手を挙げた。私と山口がそぼろ、おトキさんが助六だった。江藤が、
「きょうの先発は星野秀孝ばい。ばってん、こないだリリーフで投げたけん、五回終了か六回あたりで交代やな。巨人はたぶん高橋一三やろ」
 山口が、
「一チームと年間何試合戦うんですか」
 太田が、
「二十六回です」
「二十六掛ける五で、百三十か」
 私は江藤に、
「延長戦の規定というのはあるんですか」
「年によってちがうんやが、今年は知らんのう」
 太田が、
「ダブルヘッダーの一試合目は六時半まで、二試合目は十五回まで。ふだんの一試合だけの公式戦も十五回までです」
 私は、
「ふうん、知らなかった」
 菱川が、
「延長規定はよく変わるから、知らなくてもいいんじゃないですかね」
 江藤はうまそうにコーヒーをすすりながら、
「延長なんか考えとったら、試合に没頭できんばい。うちは、一巡目でノックアウトするか、二巡目ノックアウトが基本中の基本」
 太田が、
「試合時間は二時間から二時間半」
「そうそう。で、山口さんはいつか名古屋へくると?」
「たぶんそうなります。三、四年後ですかね」
 主人が、
「おトキ、厨房なんか戻らんで、東京で山口さんのマネージャーの勉強したほうがええで」
「いいえ、そんなこと無理です。専門の人にやってもらいます」
 山口が、
「おトキさん、やってよ。電話を受けて、すぐに返事をしないで、俺に相談すればいいだけのことだから。俺が折り返し電話して、受けるか断るかする」
 菅野が、
「そうですよ。難しくありません。私も神無月さんのイベントマネージャーしてますよ」
「……でも」
 幣原が、
「名古屋にきたら私も手伝ってあげます。心配ありませんよ。一本電話を引いて、電話番をしながらゴロゴロしてればいいんですから」
「そう簡単にはいきません。厨房の仕事もありますから」
 主人が、
「たしかにいろいろ不都合が出てくるやろうから、その時期になったら、菅ちゃんの事務所の隣にくっつけてもう一棟建ててあげますよ。寝泊りできるようなちゃんとしたモルタルのやつをね。電話番はバイトをちゃんと雇えばええ」
 菅野が、
「私のところは完成間近です。二階にかかる電話は適当に二階の住人がとって、あとで私に伝えてくれます。二、三日に一度ぐらいしか電話は入らないんですけど、北村席を留守にすることが多いので助かってます」
「ファインホースが建ったら、すぐバイトを雇おう」
 聞きつけて木村しずかが飛んできた。
「バイトなんか雇わなくても、私、やらせていただきます。神無月さんのお役に立てればうれしいですから。私、九月から厨房に入りますけど、それまで手が空いてますから」
 菅野がうなずき、
「それじゃ、二カ月よろしく。ファインホースですと言って電話取って、用件を受けたらメモして、私に伝えてくれればオッケーです。日程と神無月さんの気持ちがぴったりきたら、私から電話を返します。しずかにも名刺を作ってあげる。社長、二階の部屋に大きな扇風機を入れてやってください」
「ほい、きょう入れるわ」
 おトキさんが、
「私もこちらにきたら、なるべく勲さんの事務所のお手伝いするようにします。しずかちゃんにいろいろ教えてもらって」
 女将が、
「ほうよ。三、四年後からの話やし」
 江藤たちは興味深げに聞いていた。
         †
 山口は新幹線の中でもギターを弾いてサービスした。すべてルネサンス期以降のヨーロッパの曲だということだったが、メロディもリズムも心地よく、古くさい感じがちっともしなかった。私たちは褒めたたえることも忘れて聴き入った。グリーン車には、ポツポツ数人の客しかいなかったので、ギター演奏に文句が出なかったのはもちろん、演奏の合間に小さな拍手が上がったさえした。
 三人の男たちは、ソテツの弁当を食い終えた静岡あたりから、レールやモーターの音を子守唄にストンと眠りこんだ。山口はギターをケースにしまった。おトキさんが山口の肩に凭れた。
「ファインホースか。俺は単純にイサオ・ウィンドウくらいでいくかな」
「勲の窓口か。シンプルだね」
 おトキさんが、
「考えたら、マネージャーって、ぜったい必要な仕事ですね。がんばります」
「しかし、なんだな、そういう現実が実際に近づいてくると、気が重いな。俺は世間に打って出るのを尻ごみするタイプの人間のようだ」
「ぼくもだ。でも、人並以上の力があって、引き上げられる幸運があれば、どうしても人に知られることになる。仕方のないことなんだろうね。世間が勝手に騒いで、少しだけ幸運な、内気な人間を知名人に仕立て上げる。周りがどう変化したって、当人は引っこみ思案のままだ。周囲に盛り立てられてることに違和感がある。それは生きてるかぎり消せない感覚だ。このあいだまで、みんな校庭で遊んでいたんだからね。打って出るとか、知名人らしくしようとか思わないで、自分の思いどおりのことをしてればいいんじゃないかな。流れにませようよ。どんな流れでも、流れに入っちゃったら進んでいくしかない。流されてる最中でも、あたりにキョロキョロ遠慮しないで、そのまま進もう。そのうえで、流されることにイヤ気が差したら、岸に上がっちゃおう。そうすれば、きちんと無名に戻して気を軽くしてくれるさ。世間てそういうもんだよ」
「この世にはおまえのように才能だけで生きて、流れに流されながら、不運も幸運も素直に吸収できる人間がいる。俺はそういう人間についていくことで創造的な仕事に携われればいいなと、あるとき思った。そのときから、本格的にギターをやりだした。そういう意志の強い野郎が少し世間に知られるようになっただけのことで、おまえの自然体とは根本的にちがう。おまえの名声は必然だ。名声に尻ごみする必要はない。それなのに病的な気質のせいで違和感を覚えてる。俺はおまえを模範的人物(ロール・モデル)にしながら追いかけた結果、意想外の出世をしたわけだから、尻ごみして当然だ。たしかに内気な性格もあるけどな」
「しかし、ギターの天才だ。それはぼくを追いかけた結果じゃない。そのうえ、ぼくの人間的ロール・モデルだ」
「おまえに天才と言われてから、猛然と努力した。思いがけずそれが実を結んだ。なあ神無月、人間的といったような総合的なことを云々するのはよそう。おまえも俺も、少数者の模範にしかなり得ない存在だ。人間の総合的な模範にはなり得ない。だから俺たちだけの愛情でしか結び合えない。知名人という肩書は不自然だ」


         二百二十五

 江藤がギョロリと目を開けて、
「山口くん、あんたは天才だし、金太郎さんと同じように大勢の人の模範となる人物ですばい。金太郎さんは褒めたんやなか。本当のことを言っただけですばい。飛ぶ鳥落とす勢いの人間同士が、有名になりたくないと話し合うとる図は壮観たい」
 菱川も目を大きく開け、
「巨人の連中に聞かせてやりたいですね。大して才能もないのに有名になりたがってるやつらに。たしかにやつらにも努力する素質だけはある。それを川上が見抜いて採る。あとは親方日の丸だけで有名になっていく。有名になっていく自分を疑わない。浜野百三もその口です。ホンモノの天才は所属場所と関係なく引き立てられます」
「引き立てられた結果、場ちがいな気分に苦しめられるっちゃん。ホンモノちゅうのは自分を疑う心が一生消えん人間たい」
 太田が半身を起こし、
「そうです! 俺たちだってホンモノでありたくて、いつも自分を疑ってます。努力は基本中の基本で、とやかく言うほどのものじゃありません。常に自分を疑えるかどうかです」
「みんな起きてたの?」
 私の間抜け顔に菱川が頬をゆがめながら微笑し、
「不気味な会話に、泣きたくなって目を覚ましました。俺は今年のキャンプまで自分を疑うことを知りませんでした。基本中の基本を忘れてた。明石で自分を取り戻しました。謙虚すぎる天才を見てしまったからですよ」
 江藤が、
「ばってん、金太郎さんの誤解が一つあるっちゃん。謙虚ば内気と勘ちがいしとる点たい。金太郎さんも山口くんも内気やなかよ。積極的すぎるくらいばい。ふだんの行動ば見てみんしゃい。ね、おトキさん」
 おトキさんはハッとして、
「はい、内気だったら、私を選んでくれなかったと思います」
「おおよ、内気な男は自由に行動もできんし、自由な自分を疑うこともできんけん、謙虚にもなれんたい」
 菱川が、
「神無月さんはずっとこんな会話をしながら、野球もやってきたんですね」
 江藤が、
「こういう話の楽しさば知ったとは、この齢になってからばい。自分も多少頭の回る人間とわかってうれしか」
 太田が、
「頭を使ってしゃべるのは自分に似合わないことだと思ってましたけど、この半年ドラゴンズのみんなと話してきて、ごく自然な会話だってわかりました」
 菱川が、
「こういう会話があるから、野球にバックボーンがスッと通る」
 江藤が、
「野球に自由な感じが通るとたい」
 私は、
「―山口、流れにまかせよう」
「そうだな。イタリアでも薙ぎ倒してくるか」
「その意気!」
 三人で拍手した。おトキさんがうれしそうに山口の手を握った。
 品川から山口たちは山手線で渋谷方面へ、私たちは同じく山手線で東京方面に乗り換えて彼らと別れた。ダッフル担いだ大男の徒党に車中が騒々しくなる。
「おお、神無月!」
「江藤もいるぜ」
「菱川だろ」
「あれ、太田?」
 目引き袖引きになった。江藤が、
「辛抱、辛抱」
 新橋から銀座線で赤坂見附へ。
「辛抱、辛抱」
 改札口から小走りに出る。二百メートルほどゆっくり歩いて、一時五十分ニューオータニ到着。スロープを上り、毎度のものすごい人群れとフラッシュを縫って二階の受付ロビーに入る。小川や一枝、高木、中がいる。先着組としばらく歓談してから、二時にフロントでチェックインをし、なだ万のチラシ弁当を頼む。江藤たち三人も頼んだ。一枝が、
「バッティング練習時間は、四時半から五時半。六時半試合開始。ここは四時出発」
 小川たち四人は手を振って去った。くつろいだジャージ姿で選手たちがラウンジに降りてくる。挨拶しながら五階八号室に上がる。ブレザーを脱いで下着だけになり、椅子とベッドを利用して三種の神器をたっぷり十五分。シャワー。三時半まで仮眠。
         †
 四時二十五分ベンチ入り。巨人のバッティング練習が終わったところだった。曇り空。ベンチの寒暖計は二十五・四度。名古屋よりずっと涼しい。観客が埋まりはじめ、あっという間に内野スタンドは二階席までビッシリ満員になった。外野席は半分の入り。スコアボードの両側の広告がライオンからパイオニアに替わっている。ボードの下部も英語でPIONEER。取材陣があふれている。星野秀孝と土屋紘がフェンス沿いに走りだす。眼鏡をかけ、お守りを確認する。
「巨人の連中がこっちを睨みつけとるばい」
「三月から四カ月、こてんぱんにやられつづけたショックが、ついに反感に変わったということだろう」
 高木が言うと、徳武が、
「怖いだろうなあ。うちが先攻だから」
 マウンドと内外野の芝の切れ目に一度目のトンボが入り、バッティング練習開始。ピッチャー大男の右腕外山。名電工出身。上手投げ本格派。昭和四十一年に近鉄のドラ三指名を蹴ってドラゴンズにドラフト外入団。ストレートとナチュラルシュートしか投げられないので、四年間一軍登板一度もなし。イの一番にケージに入り、軽く右翼ヘラの上部に一本打ちこみ、力をこめてロッテチョコレートの看板へ一本、照明灯二基のあいだの場外へ一本。終了。
 グローブを持って外野へ。鏑木とポール間ランニング一回、別れてポール間ダッシュを繰り返しながら二往復。大場相手に江藤が打っている。飛んできたフライをキャッチして、ピッチャーの防御ネットのそばに立っている足木マネージャーにゆるく投げ返す。センターフェンス前からライトポールまで全力ダッシュ。往復二本。鏑木が、
「神無月さん、足が速くなってますよ。キャンプのときよりはるかに速い」
「盗塁はぼくの仕事じゃありません」
「適時やるべきです。成功率は高いでしょう」
 球拾いに回る。外野スタンドがほぼ埋まった。照明球がぽつぽつ灯りはじめる。芝が緑に映える。ジャイアンツの守備練習がすべて終わる前に、江藤たちとロッカールームに入ってチラシ弁当。太田が、
「うまい。やっぱり、めしは贅沢するべきだなあ。きっちり身になる気がする」
 ベンチに戻る。守備練習に走り出る。塀際で屈伸をしながら、しばらく内野間キャッチボールと外野間キャッチボールを観察する。一人残らず肩と手首がいい。ボールの描く白線が目に涼しい。青高生と東大生のキャッチボールの送球スピードは何だったのか。
 ホームプレートあたりでいっせいにかけ声が上がり、外野ノックが始まる。きょうはライン際の打球の二塁返球、五本から。捕球した二塁手は三塁へ、三塁手はホームへ順次送球。各外野、浅いゴロをノーバウンドバックホーム。私は強い送球を二本でやめ、ほかの選手は三本。内野ノック、時計回りで三本ずつ。キャッチャーゴロをファーストへ送球三本、サードへ送球三本。ダブルプレイ、各守備位置から三本ずつ。各内野、バックホーム一本。最後にキャッチャーフライ一本。他球団のようなチャカチャカ刻みの多い、華麗さに欠けた雰囲気は出さない。肩の強さを示すような、悠然とした、軽快で流れるような雰囲気を出す。それは選手のみんなが心がけている。プレイをじっくり観てもらうためだ。ベンチに駆け戻る。
 メンバー表交換。スタメン発表。上機嫌な水原監督に尋く。
「監督やコーチたちはいつホテルにきてるんですか」 
「昼ごろきて、めしを食いながら一時間ほど小会議室でミーティングをしてるんだ。球団関係者のチェックインやチェックアウトの時間は限定されてないし、ミーティングが主な仕事だからね」
 水原監督は、二度目のトンボが引っこむのを待って、
「さあいこう!」
 と力強く言うと、三塁コーチャーズボックスへ歩いていく。
 ドラゴンズのスターティングメンバーは六日の阪神戦とまったく同じオーダー。中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝、星野秀孝。
 巨人は、高田、土井、王、長嶋、柴田、国松、森、高橋一三、黒江。
         †
 中日は六回まで、高木の二十二号ソロホームランで一点取っただけで沈黙。高橋一三からフォアボールも奪えずに完璧に抑えられた。ランナーを一人も出せず、高木の一発を除けば完全試合だった。私も二打席とも微妙な高さに沈んでくる内角スクリューに詰まらされてセカンドゴロに打ち取られた。
 巨人は五回まで星野秀孝にキリキリ舞いさせられていたが、六回に先頭打者王の十七号ソロから猛攻撃を開始した。長嶋センター前ヒット、柴田三振のあと、国松の代打の末次がライト前ヒット、森が右中間に二塁打を放って二者を還し、高橋一三サードゴロ、黒江の代打滝がライト前へ打って森を還した。一挙四点。水原監督はそれまで好投してきた星野を代えなかった。私たちはホッとした。勝ち負けよりも、一度完投を経験することのほうが重要だからだ。星野はつづく高田をパームできっちりとスカ当たりのピッチャーゴロに打ち取った。
 七回表、二番高木から。きょうの高橋一三はことごとく外へ(私の場合は内へ)落ちるスクリューで、中日打線を打ち取っていた。高木の初打席のホームランだけは内角のスライダーだった。
「あのスクリュー、するどいですね」
 中に言うと、
「左バッターだと、いい気になって内角に連投してくる。セーフティもうまくいかない。きょうは絶好調だな」
 キン! といい音がした。高木の打球がライト末次の頭上に伸びていく。中が、
「これもいったね。スクリューだ。あんまり落ちなかったぞ」
 末次がジャンプして差し出したグローブの先をかすめて、右中間最前列に飛びこんだ。右手を突き上げて高木が一塁ベースを回る。二十三号。二対四。長谷川コーチが、
「スクリュー投げすぎて、握力落ちたな。仕掛けるぞ!」
「オース!」
 江藤、ファールで粘った挙げ句、いつもの効果的なフォアボール。彼は点がほしいときにかならずこれをやる。ここで、堀内と田中章がブルペンに向かった。私は初球の内角のスクリューに詰まって、三遊間の深いところへボテボテのゴロを打った。江藤と二人あきらめずに全力で走った。おかげで江藤はフォースアウトを免れ、私は内野安打になった。なぜかうれしくて、森下コーチとしっかり握手した。これで次の打席の方針が立った。グリップを腹に引き寄せ、振り子のようにして腰の回転だけで打ってみよう。
 高橋一三は一転、ストレート中心に切り替えてきた。彼はストレートも速い。ところが木俣はストレートにめっぽう強い。ワンストライクのあとの二球目、胸元のストレートをガツンと打ち返した。ピンポン玉のように飛んでいく。どこまでも飛んでいき、左中間の照明塔の足もとに突き刺さった。噴水。私と江藤は次々と水原監督とタッチしてホームに向かう。木俣は立ち止まって監督と握手し、
「何号だ」
 と訊かれ、
「二十二号です!」
 二人のやり取りが背中に聞こえてきた。木俣は手荒い歓迎で揉みくちゃになりながらベンチへ急ぎ、星野と固い握手。五対四。逆転。
「あとは抑えろよ。勝ってやるから」
「はい!」
 菱川、スクリューに喰らいつき、ライト前へポトリと落とす。太田、真ん中低目のストレートをレフト前へライナーのヒット。一枝、スクリューを引っかけてバットを折りながら、一塁の頭を越えるポテンヒット。止まらなくなった。ノーアウト満塁。
「打たんでよかよ!」
 江藤の一声に、星野潔く三振。中、高目のストレートを振らされてセカンドフライ。ツーアウト。またまた高木の打席だ。ブルペンの田中章が不安げに見ている。高木は初球の内角ストレートをみごとに左中間へ弾き返した。二者生還して七対四。一枝二塁ストップ。
 川上監督が独特のガニ股で球審に近づき、ピッチャー交代を告げた。堀内がマウンドに小走りで上がった。私の高橋一三対策は、次回の対戦に持ち越しになった。長谷川コーチに、
「堀内は何勝ですか」
「八勝、かな」
「ほとんど高橋一三と二人で勝ち星を挙げてるんですね」
「そう。だから、親亀コケたらこんなふうになっちゃうんだよ。ところで、昭和十二年の九月に後楽園球場の竣工式が行なわれたんだが、その日にオールスターの紅白戦が開催された。なんと第一号ホームランは水原さんだ」
「へえ!」
 その水原監督は三塁ランナーの一枝に何やらおどけたふうに話しかけていた。一枝の差しこまれた格好をしきりにまねながら、どうもポテンヒットを褒めているようだった。
 堀内は江藤をツーワンから内角高目速球で、ピシャリ、三振に打ち取った。
 七回裏、土井三振。王フォアボール。末次三振。三振はすべてツーツーからだ。星野は自分の投球リズムを守って丁寧に投げている。ストレートは堀内よりもはるかに速い。見ていて絶大な信頼感がある。ピッチングの基本は速球だ。森、二回空振りしたあと、顔のあたりのクソボールを片手でダウンスイング。
 ―あれ? 交通事故だ。
 まともに芯を食って、ライト中段へツーランホームラン! この馬鹿当たりはどうしたことだ? きょうの彼はひとこともキャッチャーボックスから語りかけない。何か心境の変化でもあったのだろうか。七対六。思わぬシーソーゲームにスタンドが沸く。水原監督がベンチ前に出て、両手でメガホンを作り、マウンド上の星野にドンマイの声を二度投げた。六点取られたくらいでは水原監督は星野を代えない。森のホームランは出会い頭だとわかっているし、私たちと同じように心から星野を信頼しているからだ。堀内三球三振。チェンジ。長谷川コーチが星野に、
「外す球も、力を抜いちゃダメだぞ」
「すみません。今後気をつけます」


         二百二十六

 八回表。田宮コーチが、
「金太郎さん、景気づけにそろそろ一本頼むわ」
「はい、がんばって狙っていきます」
 私は頭の中で復唱する。指先からボールが離れる瞬間を見定めること。つまり、ドロップに手を出さないこと。そう思っているところへ、内角の膝もとへ猛速球がきた。速球には手を出すことと決めてあるので、自動的に、バットを腰に巻きつけるようにからだを回転させた。高橋一三対策を復習する感じだ。まともに芯を食った。瞬間、
「ウオォォ!」
 大歓声が沸き上がり、打球が一直線に上空へ舞い上がった。まぎれもなくこの打球を人びとが待望していたという事実が胸にきた。ボールはとてつもなく飛んでいき、蛇の目ミシンの看板の背後にそびえる照明塔にぶち当たった。千代田生命のネオンの生か命のどちらかに当たったように見えたが、ライトが消えなかったところを見ると、うまく逸れて基盤の鉄骨に当たったのかもしれなかった。大歓声の中を大きなストライドで走る。軽薄な噴水。早く通り過ぎて木俣につなぎたかった。九十八号ソロ。八対六。景気づけにはなったが二点差では足りない。水原監督とひしと抱き合う。
「生と命のあいだへ飛びこんだよ。ひさしぶりの特大だ」
「はい! 進軍ラッパです」
 次打者の木俣とタッチし、チームメイトの歓迎の中へ頭から突入する。ヘルメットが叩かれる。尻が叩かれる。江藤が肩を抱く。振り向いて、
「木俣さん、連続!」
 木俣はバットを慎ましく掲げた。自信があるときの仕草だ。森がマスク越しに川上を見ている。川上はただの不機嫌な老人のように貧乏揺すりをしていた。半田コーチはバヤリースなど進呈している場合ではないと思ったのか、
「よ!」
「ほ!」
「いよォ!」
 コーチ陣のかけ声に加わって、ひさしぶりにビッグイニングを叫んでいる。
 初球、堀内はいきなり木俣の脇腹へぶつけた。ベンチが一瞬、スワ、と戦闘態勢を整えた。しかし意図的にぶつけたわけではないとすぐに察して腰を下ろした。内角へ食いこむシュートが切れすぎたせいで、木俣が腰を引き遅れて咬みつかれたのだ。木俣は苦笑いしながら一塁へ走った。太田コーチが、
「いくら悪太郎でも、むざむざ敵にチャンスをくれてやるようなビンボールを投げるはずがないわな。ここが攻めどころだぞ」
「追加点、ほしいなあ!」
 宇野ヘッドコーチがうなるように言う。菱川がゆっくりとボックスに入った。
「クロンボ! ゴーホーム!」
 心ない野次が耳に入った。
「なんやと!」
 森下が一塁コーチャーズボックスから巨人ベンチの上のスタンドを睨みつけた。菱川はニヤリと笑って声の飛んできた一塁ベンチの方向へ手を挙げた。ジャイアンツの選手から投げつけられた野次ではないことは明らかだったけれども、なぜか彼らはうつむいた。
「菱、食らわしたれ!」
 江藤が叫んだ。初球、外角遠目のカーブ、フルスイング、一塁ベンチ上の観客席へ痛烈なライナーが飛びこんだ。大した右打ちの技術だ。これを見て萎縮するのは、ベンチではなく堀内だ。外角が投げられなくなる。二球目、バットにかすらせまいとドロップを投げてきた。内角低目に落ちてくるところを掬い上げた。先っぽだったのか、鈍い音がして左中間へフラフラ上がった。見た目よりも球足が速く、俊足柴田のグローブをぎりぎりかすめてフェンスまで転がっていく。木俣は三塁で自重し、菱川は二塁へ滑りこんだ。中日ベンチが激しく拍手する。水原監督はポパイのような格好で力瘤を作った。菱川も同じ格好で応えた。
「太田、男になれェ! 菱川みたいによォ!」
 三塁ベンチの観客席から暖かい声援が飛んできた。太田はうなずき、顔の前でバットを捧げるように高く掲げた。初球、外角低目のストレート、ストライク。二球目、外角低目のパワーカーブ、ストライク。堀内の首筋の大きなホクロが踊る。下位打線。太田、一枝と連続で三振に切って取るつもりなのだ。しかも、狙いは三球三振か四球三振だろう。とすると次のボールは木俣にぶつけたシュートだ。手早く片づけようとするなら、決め球はそれしかない。ストライクコースをかすめるように曲げてくる。典型的なオーバースローの堀内の左足が蹴り上げられ、右腕が力強く振り下ろされる。
 ―シュート!
 心の中で叫んだ。それに呼応するように太田が一瞬左足をアウトステップした。腰の入った理想的なレベルスイングになる。まともに芯を食った。
「オッケー!」
 田宮コーチのだみ声。高田が一、二歩動いたが、打球を振り仰いで見送った。レフトスタンド中段へものの数秒で飛びこんだ。大きな図体が跳びはねながらダイヤモンドを回る。鉦、太鼓、旗、喚声。私はピョンピョン跳び上がって走る太田の姿を見つめながら、一塁に王、三塁に長嶋がいることにあらためて気づいた。王は目をギョロつかせながらこぶしに息を吹きこみ、長嶋は足もとの土をスパイクで均していた。宮中の太田は短打狙いのシュアなバッターだった。バットを一握り短く持って素早く振り抜く男だった。いまはグリップエンドが隠れるくらい長く握り、長大な弧を描いて振る。五年かけて長距離ヒッターに変身したのだ。宮中の硬い校庭で軟式ボールを追いかけていた仲間たちの姿が浮かび、とつぜん郷愁に襲われた。太田は水原監督とハイタッチしてホームへ駆けこんでくる。全員太田のからだを叩きにベンチを飛び出した。
「太田選手、第十七号のホームランでございます」
 スリーラン。十一対六。江藤がベンチからブルペンに向かって、
「星野ォ、これでよかや?」
「はーい! ありがとうございまーす!」
 星野はグローブを挙げた。長谷川コーチが星野に上がれの合図をしている。代わりにブルペンへ土屋が走った。
 八回ノーアウトランナーなし。堀内に代わって小さい田中章がマウンドに登った。ピッチング練習のストレートが速い。スリークォーターの速球派。打ちやすい。一枝、初球内角に流れ落ちるカーブを打って、レフト線を破る二塁打。容赦なし。星野に代わって代打に出た江藤省三が、ツーナッシングからチョコンと出したバットにボールのほうが当たって、センター前ヒット。一枝生還。十二点。中、ショートゴロ、省三の二封のみ。ワンアウト一塁。ダブルスコアになったので中は走らない。高木ライト前ヒット。一、三塁。江藤またフォアボール。きょうはクロコに徹している。打者一巡して塁が埋まった。
 ワーンとうなるような喚声。肩に氷を載せた星野がベンチから身を乗り出している。ダメ押し満塁ホームランを彼のボーナスにしてやろう。観客の興味もそれだけに絞られている。初球、外角へ癖のないシュート。まったく考えのない投球だ。思い切り体重を乗せてインステップし、腕の振りを遅らせて巻きこむようにひっぱたいた。左中間へまっしぐらにスッ飛んでいく。瞬く間に中段に吸いこまれた。九十九号グランドスラム。なぜか森下コーチの顔が緊張している。タッチがぎこちない。一塁を回る私の背中へ王が、
「あと一本ですね!」
 と礼儀正しい声をかけた。森下コーチのぎこちない仕草の意味がわかった。心なしかスタンドの喚声も緊張している。水原監督は、
「金太郎さん、軽くタッチ。九十九号はさりげなくいこう。百号は手をつないで走るからね」
 軽くタッチする。みんなでベンチ前に居並び、最敬礼。
「神無月選手、九十九号のホームランでございます」
 務台嬢らしい淡々としたアナウンスが流れる。
「よーし、店仕舞い!」
 田宮コーチの〈命令〉に従って、木俣センターフライ、菱川ライトフライでチェンジ。十六対六。
 八回裏、星野に代わって土屋登板。〈打たれてしまえ〉投法で、びしびし低目に速球とカーブを決める。九番黒江の代打森永外角カーブを見逃し三振、高田外角ストレートを引っ張って私へのゆるいライナー、土井ストレート、ストレート、カーブでセカンドゴロ。
 九回表、太田レフトフライ、一枝空振り三振、土屋ショートフライ。しっかり留めの店仕舞い。
 九回裏。王、フォアボール、長嶋ショートゴロゲッツー、左打席の柴田流し打ってサードライナー。太田拝み捕り。木俣が土屋にゆっくり駆け寄り、ガッチリ握手。九時三十八分試合終了。星野秀孝三勝目。私はベンチへダッシュして、ロッカールームへ避難。スパイクを運動靴に履き替えた。
 レギュラーを引き連れて足木マネージャーが入ってきて、
「バスで戻る人は?」
 と尋いた。私と江藤と中と高木、それから菱川、太田、小野、星野秀孝と土屋、さらに水谷則博、千原、江島、江藤省三ら若手の控え選手が手を挙げた。手を挙げなかった小川や伊藤久敏はじめベテラン投手一党や、木俣、一枝、葛城、伊藤竜彦、徳武といった古参メンバーは、思惑があるらしい浮かれた顔をしていた。
「監督、コーチらは後楽園の監督室でミーティングのあと、適当にホテルに帰ります。バスに乗る人は、ロッカーに忘れ物のないようにしてください。あしたは十二時チェックアウト、十二時半、ホテルバスで品川に出て、監督以下全員、新幹線ひかり一時九分発に乗ります。新大阪四時着。阪神バスが迎えに出てます」
「ウイス!」
「じゃ、失礼します」
 小川たちは、おそらく申し合わせて、水道橋か飯田橋あたりの店でめしを食ったあとその近所に飲みにいくか、タクシーで赤坂近辺の色町にでも繰り出すつもりだろう。何カ月か前、国会議事堂あたりをランニングしていたとき、小路の街並にそのにおいが充満していた。赤坂見附駅周辺にも飲食店がひしめき合い、夜の街の妖しさが芬々(ふんぷん)とただよっていた。露地に入りこむと、建て替え工事が困難なほど小規模の飲食店が密集していた。露地に面した外囲いほとんど黒板塀だった。色町と言うよりはもう少し上品で由緒ある花柳街の老舗とでもいったような小ざっぱりとした風趣の料亭が、清潔な暖簾を垂らし、昼から薄っすらとネオン看板を灯して肩寄せ合っていた。
 バスの窓を開け、涼しい風に吹かれる。高木が、
「達ちゃんの腹にぶつけた堀内のシュート、おそろしく切れてた。タコ、おまえあれをピンポン玉にしたな」
「外、外ときたんで、ヤマ張りました」
 江藤が、
「ヤマ張っても、なかなかドンピシャでは打てんちゃ。ワシ、きょうは高橋一三のスクリューもだめやった、みんな気合入れてよう打っとった」
 ユニフォームのままロビーで少し落ち着く。なだ万という気分ではないと江藤が主張したので、まずめいめい部屋に戻ってシャワーを浴びようということになった。
「二十分後に連絡するけん」
 灰色の絨毯の上に幅広のシングルベッドが据えられている。サイドテーブルに載っている置き菓子のチョコレートを口に放りこみ、ユニフォームを脱ぐ。無意識にパンツまで脱いでいる。いつもの癖だ。
 シャワーを浴びてさっぱりしたところへ、江藤からの電話が入った。まずルームサービスをとりますと答えた。
「みんなで集まる予定があるなら、三十分後にそこへいきます」
 江藤は四階の『はなれ』という店を教えた。電話を切り、同じ四階の『にいづ』から鰻をとった。ボーイが届けにくるまでのあいだ、きょう使ったユニフォームとシャツとスパイク、タオル、帽子、下着類をダンボールに詰め、ガムテープを貼った。その上に、痛んではいないが一日使ったバットを一本載せた。お守りはブレザーのポケットに移し、机の上に二冊の本を置く。あした出発するまでのあいだ、少しでも読むつもりだ。机から首をめぐらすと、レースのカーテン越しに樹林のシルエットが見え、その向こうに赤坂の夜景が滲んでいた。
 ルームサービスで鰻の竹重ともりそばを食う。一人でとる食事には侘びしさがある。もの心ついてから一人でめしを食ったことはほとんどない。浅間下でさえそうだった。





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