二百二十七         

 歯を磨いてから四階へ降り、『はなれ』へいく。
 コの字カウンターに江藤、菱川、太田、中、高木、星野秀孝、土屋の七人がいて、すでに食後のビールを飲んでいる。ほかのバス帰還組はめしを食ってすぐ部屋に戻ったのだろう。疲れて眠くなる時間だ。
「ここは夜中の二時までやっとうげな」
 カウンターの端の花瓶にトルコ桔梗が活けられている。
「後楽園のそばは早閉めが多いんですか?」
「いや、遅うまでやっとる。むかしは球場の近くで食ったこともあったばってん、壁のあちこちに野球選手のサインやら、グッズやら貼りつけてあってくさ、それがほとんどジャイアンツ選手のものやけん、胸糞悪うて。不愉快な思いばしてまずかめしば食うより、楽しゅううまかめしば食ったほうがよかろうもん」
「それはそうですよ。江藤さんが不愉快に思うのは、ジャイアンツ云々じゃないと思います。江藤さんみたいな良心的な著名人は、一般客のいる店はとにかく気を使うんです。いろいろな事情で、どんなすぐれた人間がいるかわからないと知ってるからです。すぐれた人というのは、有名無名関係なく存在します。そして有名人より有能である人はかならずいます。プロの将棋打ちより将棋がうまかったり、プロ野球選手より野球がうまかったり、プロの歌手よりも歌がうまかったりというふうです。だから、そういう人たちがいると常に考えて、気を使わなくちゃいけない。ぼくもそうあるべきだと思います。有名でいるあいだは、無名の人に気を使うのが義務です。芸能界や文学界や政界みたいに、威張り腐って、有名が無名をやみくもに排除するようなのはよくない。ぼくたちもこのあいだまで無名だったんです。……でも、そういう後楽園の店みたいな、有名人に負んぶに抱っこの店にはまず有能な客はいないでしょう。物見高い人たちしかいない。気の使い損です。そんな店、いきたくはないですが、いっても気を使う必要はないですね」
 拍手が湧いた。
「いつもの金太郎さんたい。春から驚かされっぱなしっちゃけど、ようこんな人間と巡り合うたもんばい」
 高木が、
「水原監督がいつも言ってることだね。金太郎さんは、六十年も生きてきた人間を感動させる男だってね。秀孝が抱きつきたくなった気持ちがよくわかる」
 星野は、
「ほんとは、毎日抱きつきたいんですけど、理由が見つからなくて。きょうも木俣さんと握手するより、神無月さんに抱いてほしかったです」
 菱川が、
「そりゃ、少し遠慮しろよ。俺たちだって抑えてるんだ。俺は神無月さんがホームラン打ってホームインしたとき、どさくさに紛れて頬っぺたにキスしたことがあったけどね」
「ワシもキスしたばい」
「星野さん、抱き合うのはホームランを打ったときの出迎えのような、自然な機会のときにしましょう。勝利投手をレフトが抱きにいったら奇妙でしょう」
 マスターが、
「やあ、おもしろい方たちですね。いつもこうなんですか」
「死ぬまでこうたい。しかし、金太郎さんに比べたら、ワシは何かにしがみついとるところがあるけん、人間としてまだまだ足りんとよ。ほやけん、いつも金太郎さんにやんわり叱られとる格好ばい。金太郎さんは、権威とか名誉とか、人間の飾りみたいなものは何もかも捨てとるけんな。もっと人間的に高うならんと、むだな飾り男と見なされて捨てられてしもうばい」
 中が、
「それはつらい。金太郎さんなしで暮らすのは、ひどくつらい。それは避けたい」
 太田が、
「川上監督も深く感じるところがあったんでしょうね。もう、ちょっかい出してこなくなった」
「森もな」
「ぼくを道徳の教師みたいに言わないでくださいよ。世間道徳ゼロの人間ですから。マスター、こんな不気味な話をしてたら、お客が呆れて寄りつかなくなってしまう」
 高木が、
「俺たちがくるまではいたんだけどね。気兼ねして帰っちゃった」
「いえ、サインなど求められても気兼ねでしょうから、バーテンつきの個室のほうに移ってもらいました。ご安心ください」
 上品そうな白髪のマスターが言う。土屋が立ち上がり、
「遅ればせですが、神無月さん、先回と今回の好投のご褒美に抱いていただけませんか」
 私は立ち上がり、歩いていって土屋を抱いた。
「ありがとうございます! 儀式を終えた感じです」
 菱川が、
「いま言ったばかりだろう、遠慮しろって。キスはだめだぞ」
「はい、次回までがまんします。神無月さんのからだ、柔らかかった!」
「バカたれ!」
 爆笑になった。
「江藤さん、夕食は何を食べたんですか」
「みんなこの階のふみぜんでとんかつを食った」
 高木が、
「俺と菱は、刺身定食も追加した。金太郎さんは?」
「にいづの鰻ともりそばです。いっしょにとんかつかカツ丼にすればよかったなあ」
「金太郎さんは食うことが似合わんけん、カツ丼ゆう発音が不思議に聞こえるばい」
 太田が、
「俺もいつもそう思ってました」
 私は、
「ところで、きょう長谷川コーチから後楽園第一号ホームランは水原監督が打ったと聞きました。後楽園の初ものにはほかにどんなものがありますか」
 みんな頭をひねって考えこんだ。中が、
「戦後の野球再開は後楽園が初だったんじゃないかな。第一戦は早慶戦だったはずだよ」
「そら、中さんがきた!」
 太田がうれしそうに叫んだ。江藤が、
「初のウグイス嬢も後楽園やったろう」
 中が、
「そうそう、昭和二十二年の青木福子さんね。美声で仲間を呼び寄せるウグイスにちなんでウグイス嬢と呼ばれるようになったのは彼女からだったはずだ。昭和二十四年に南海の笠原和夫と結婚して引退した。最後の早慶戦の四番打者ね。二十三年の南海の新人時代にシーズン百六十安打という歴代二位の記録を作ってる。シーズン最多安打は……」
 太田がブレザーからパンフレットを取り出し、
「日本歴代一位は昭和二十五年の阪神藤村富美男の百九十一安打です。きょうまで神無月さん百六十八本打ってますから、あと二十四本で日本新記録です。大リーグでは、大正九年にジョージ・シスラーが二百五十七本打ってます。あと九十本で世界新記録です」
「お、金太郎さんの目が光ったぞ。もうすぐ破るね。三百本以上打つだろうから」
 江藤が、
「あとにも先にも独りきりの記録になるやろう。すばらしか。……で、青木福子さんの跡を継いだのが務台鶴さんやな」
「そう。読売新聞初代社長、務台光雄の姪。彼女は二十四年の公式戦から始めて、今年で二十年目になる」
 菱川が、
「八時半の男の名付け親ですね。よんばんじゃなく、よばんと読み上げたのは務台さんが最初だそうですね」
 高木が、
「たしか、二十五年の初ナイターも後楽園だよね」
 中が、
「そう。二十六年の初のオールスターも後楽園、二十八年の初のテレビ中継も後楽園」
 太田が、
「巨人―阪神戦ですか」
「うん。なんせ天下の巨人軍のホームグランドだから、初もの尽くしになるよ」
 星野と土屋が感嘆して腕をこまねいた。マスターが私に、
「お飲み物は?」
「バーボンの水割り、ください」
「お、金太郎さん、そんなもの飲めるんか」
「いえ、初めてです。映画か何かで、バーボンの水割りという科白を聞いたことがあったので」
 マスターが、
「バーボンはアメリカのトウモロコシ酒です。風と共に去りぬで、スカーレット・オハラがぐいぐい飲んでますね。映画のワンシーンでも、ストレートを一気飲みする男優が多いです。飲みやすい酒なんです。ジョージアムーン、フォアローゼズ、ジムビーム、アーリータイムズ、ジャックダニエル、IWハーパー、ワイルドターキーなどです。水割りがおいしいのは、フォアローゼズとIWハーパーとジャックダニエルの三つですね」
「それじゃ、ジャックダニエル」
「フランク・シナトラが大好きだったウィスキーです」
「ワシらもそれにして」
「承知しました」
 私はメニューを見下ろしながら、
「酒はほんとに弱いので、一杯だけにして、何か食います。ん……と、コロッケ、漬物盛り合わせ、焼鳥」
 星野と土屋は、
「俺たちもそれを」
 江藤が、
「ワシはチーズ盛り合わせ」
 高木は、
「生ハム」
 中は、
「刺身盛り合わせと、ホウレンソウのお浸し」
 菱川は、
「コロッケ」
 太田は、
「コロッケと焼鳥」
 中が、
「私、当たってないからさ、甲子園の三連戦、貢献できそうもないよ」
「ワシもばい。齢とると、オールスター前の七月が鬼門やのう。特に遠征がしんどか。からだが悲鳴ば上げそうになる。毎朝起きるのがつろうなって、打率は二割台に低迷する。若いやつらのまねして必死に食っても、体重が減る」
「それで、きょうは不調だったんですね」
 中が、
「ロートル組はしばらく不調になるよ。水原さんも心配だろう」
「長嶋が春先に休むのは、キャンプの疲れを取るためですか?」
「そのつど風邪と発表されるけど、疲れがいちばん大きい原因だろうね。長嶋も三十三だから」
「たぶん星野が最終戦に投げるやろう。そのときはがんばろうと思うばってん。……迷惑かけそうやのう」
 高木が、
「阪神三連戦は、健太郎さん、小野さん、秀孝でいくんだろう?」
「いや、監督の話やと、水谷寿伸、水谷則博、土屋やなかったかな。健太郎、小野さん、秀孝は中継ぎか〆でいくんやろう」
 飲み食いの関心が阪神戦に移って、たちまち盛り上がった。高木は、
「ほかにもドンドン投げさせればいいさ。主戦二人が三十五歳を超えちゃってるチームって、ドラゴンズだけだ。それ一つとっても、奇跡の快進撃と言うしかないな。秀孝の登場は大きい。秀、おまえを雨雨権藤にしないために、水原さんは来年一人いいピッチャーを採ると言ってるからな。今年は辛抱して投げろ。そのあいだに土屋と水谷則博が一線級に仕上がるかもしれないからな」
「はい!」


         二百二十八

 水割りがズラリと出てくる。みんなで含む。
「シロップが入ってます?」
「いいえ、メープルシロップのような甘みがあるんですよ。シンプルで飲みやすいんですが、度数が少し高い酒なので飲みすぎはダメです。食べながら飲んでください」
 厨房からいいにおいをさせたツマミが続々と出てくる。どれもうまいが、特にコロッケが絶品だ。
「うまい!」
「揚げ立てのときだけです。テイクアウトしないほうがいいですよ」
 菱川が、
「俺、三つテイクアウトします。冷えたコロッケも好きなんで。……中さん、江藤さん、甲子園は適当に流しといてください。タコとホームラン競争してるので、俺たちがバンバン打っていきますよ。……江夏以外はね」
 太田は、
「江夏より、デンスケのほうが打ちにくい」
 中が、
「打ちやすいピッチャーなんかプロにいないよ。阪神も二位がかかってるので、三連勝する心意気でくるだろうな。六日に投げた村山はきょうも投げたらしい。しばらく休みだろうから、若生、江夏、権藤、鈴木、柿本、伊藤。この六人をフルに使ってくる」
 私は、
「いままでにぜんぶ当たりましたっけ? 権藤、鈴木、柿本、伊藤。……伊藤ってどんなやつだったかなあ」
 みんなで顔を見合わせる。中がプッと噴き出し、
「金太郎さん、全員からホームラン打ってるじゃない」
 太田が、
「そうなんですよ、四月の三回戦で伊藤幸男と当たってます。江夏から四本、伊藤から二本、村山から二本、権藤から二本、柿本から一本、若生から一本、鈴木から一本、合計十三本打ってます」
「甲子園の場外は?」
「デンスケです。神無月さんも疲れてるんですよ。疲れると、どんどん記憶が薄れる」
「ぼくはもともとアタマが……」
「異常な記憶力ですよ。みんなわかってます」
 江藤が、
「疲れとるんだ。金太郎さんだけやなく、みんな疲れとる。しかし、二十代の選手が疲れたらチームはポシャる」
 中が、
「修ちゃんも疲れてる。私と慎ちゃんと修ちゃんは、この三連戦は江島と千原と伊藤竜彦に代わってもらいたいんだが……。私らはドラゴンズの看板だからな、水原さんが許さないだろう。一応申告はしたけどね」
 私は、
「たぶん、その申告、通ってますよ。ぼくとしては、なんか張り切り甲斐がないけど、江藤さんたちの体力回復のためには仕方ないです」
「すまんな。しっかりベンチで応援するけんな」
 高木が、
「俺は休めないのか」
「モリはいかん。チームのカナメは全試合出場せんとな。おまえはまだ二十代だし、二代目ミスタードラゴンズやろ。冠かぶっとる王様が弱音吐いたらいかん」
 マスターが、
「初代はどなたですか」
「西沢道夫」
「はあ! 昭和三十年代初期のスーパースターですね」
「永久欠番、背番号15」
 菱川が、
「俺は服部受弘さんの永久欠番10を譲り受けたので、毎日すごいプレッシャーです。九月から返上して、帰国したフォックスの4をもらうことになってます」
 私は、
「4は似合いますよ。ぼくも8を江藤さんに返上して、0にしようかな」
「いかんいかん! 0は似合わん。ぜったいいかん。8でよか。菱の4はバッチリだ。葛城が、来年、自分の5を太田の40と交換すると言うとる。来年以降の背番号は足木マネからとっくに聞いとるんだ。高木1、一枝2、中3、菱川は九月でのうて八月から4、太田は来年から5、金太郎さん8、ワシが9、木俣23、小川13、小野18。秀孝も八月から56をやめて、浜野がつけとった20になる」
「ほんとですか!」
「確かな情報ばい。土屋の26は立派な番号やけん変わらん。則博は来年から、板ちゃんの14を受け継ぐことになっとる」
 マスターが、
「私、昭和二十四年、二十五年、服部受弘さんが杉下さんと並ぶ大エースだったころ、戦災の改修を終えた後楽園で観戦しました。西沢さんが四十何本もホームランを打ってたころです。私、現在四十七歳ですから、二十七、八歳の青春時代ですね。銀座でバーテンの修業をしておりました。西沢さんの二十五試合連続安打というのを憶えています。そう言えば、西沢選手がデビューして正式登録されるまで、背番号0をつけていたのは有名な話ですね」
「ええ話や。しかし、金太郎さんに0はいかん」
「はい、私もそう思います。1から9には格があります」
 菱川がマスターに、
「服部さんは、どういう感じの人だったんですか」
「小柄でした。いまで言う、真っスラを編み出した人です。ストレートと同じ速さのカーブです。それで二年連続二十勝以上を挙げました。二十六年からバッターに転向したはずですが、投打に活躍したという印象があります」
「やっぱり10番をお返ししてよかった」
 私は中に、
「つかぬことを伺いますけど、足木マネージャーについてなんですが、彼はもと野球選手だったんですか?」
「私の二年先輩の中日の選手だった。昭和二十八年、一試合だけ出場して退団した。ライトの守備に一回ついただけでね。それからトレーナー、球団広報とやって、三十七年からマネージャーになった。森徹が大洋、井上登が南海にトレードされた年だね」
「七年前ですね。……二十八年から数えると、ドラゴンズに十六年か。一試合だけの出場というのは壮絶だ。一度プロに入団しただけに、相当苦しんだでしょう。その苦しさが足木さんをあのやさしい人柄に変えたんですね。あしたの移動の切符購入などは、マネージャーの仕事ですよね。品川駅までいって、三十何人分の切符を買うわけでしょ」
「うん、たいへんな仕事だ。むかしは夜の移動もあったから、切符だけじゃなく、寝台車の手配もした。ほかにも、ホテルから球場までのバスの手配、ホテルの部屋割り。今年から給料は銀行振込みになったけど、去年までは手渡しだった。マネージャーが毎月二十五日に給料の現金袋を直接球場の事務室に持っていくんだ。風呂敷に包んで、50CCのバイクに乗ってね。警備員はいないし、保険もついてない。強盗なんかにやられたら、足木さん一人で弁償しなくちゃいけない。大雑把な時代だよね。死にもの狂いだったって本人から聞いたことがあるよ」
 菱川が、
「足木さんて、顔が藤田平にそっくりですよね。本人気づいてないみたいだけど」
 太田が、
「ガタイが一回り小さいですから、雰囲気は似てこないですよね。藤田はデブで、足木さんは痩せだし。静かな雰囲気と、内気そうな目がたしかに似てますけど、藤田には人間的なスケールの小ささを感じます」
 江藤が、
「足木さんにはよくいたずらしたばい。テーブルにズラッと並べてある袋の中でいちばん分厚いやつを持っていこうとすると、情けない顔で、ちがいますゆうんや。マーシャルのですって。ワシの三倍くらい厚かったな。わかっとってやったいたずらや」
 高木が、
「足木さんは慎ちゃんのことをベタ褒めですよ。だれよりも礼儀正しい、まず電話が丁寧だって。もしもし、足木さんのお宅でしょうか、江藤でございます、いつもお世話になっております」
「あ、それ、北村席の女将さんも言ってました」
「常識やろうが、金太郎さん。そんなに驚かれると、ワシ、恥ずかしいわ」
 高木が、
「一般社会の常識でも、プロ野球選手はなかなかできないんですよ。電話の相手がマネージャーですからね。出たらすぐ用件を話すのがふつうですよ。しかも、江藤慎一という大選手がそれをやる。驚きますね。あるとき奥さんが電話をとって、それをやられたらしいんだけど、あとで足木さんがいくら江藤さんだと言っても、笑って信じなかったそうですよ。江藤さんに頼まれて中日球場の入場券を手に入れてあげたときも、かならず、先日はお手数をおかけしました、ありがとうございました、という礼状が届くって。毛筆でとんでもない達筆。江藤さんは、誠実さと繊細さのかたまりだとね。この人に率いられてる中日軍団が誠実で繊細なのもよくわかるし、こぞって神無月郷という男に惚れこんだのもよくわかると言ってました」
「金太郎さんの誠実さは、有無を言わさんけんね」
 私は、
「江藤さんの座右の銘は何ですか」
「一球百錬。錬はカネ偏」
「わかります。糸偏はただの練習、金偏は精神修養ですからね」
「金太郎さんは?」
「ないんです。サインに格好がつきません。死してのちやむ、と書きたいんですが、重すぎるので恥ずかしくて」
 中が、
「死ぬまで努力しろという意味だね。天下の神無月くんがねえ……苦しくなるな」
 星野が立ってきて、背中から抱き締めた。菱川が手を握った。太田が、
「神無月さんが死ぬほど努力するなら、俺も死ぬほど努力して、あの世でも努力して、神無月さんに褒められて、また生まれ変われるほど努力します」
「いかん、目が痛うなってきたばい。顔洗って寝る。マスター、ごちそうさん」
「お粗末さまでした。なんとすばらしいかたたちでしょうね。おたがいに慈しみ合うことしかしない、人間の中の人間ですね。ありがとうございました」
 ラウンジでたがいに手を振って解散し、部屋に戻った。十一時半だった。ボーッとしている。思いのほかうまい酒だったので、グラス三杯飲んだ。つまみもうまかった。ダンボールを持ってフロントに下りる。カウンターで宛名と着払いの書類を書く。
「承りました。いつもどおり送っておきます。お休みなさいませ」
 ベッドに寝転がり、夜更かしするつもりで、裸者と死者のつづきにとりかかる。足木マネージャーの人生が浮かぶ。私なら耐えられるだろうか。前提がプロ入団だ。どんなに自他の錯誤のもとで入団が果たされたとしても、まず当人は有頂天になるだろう。それが一試合、一守備機会! 目をページに戻す。気持ちを強く立て直して読み進める。
 アメリカ兵は重機関銃を抱えながら居眠りしている日本兵に出くわす。その極限状況の中で、奇妙な親近感を覚える。

 自分が彼に触ったり、呼びかけたりするのを妨げているのはいったい何か? 一瞬、戦争の全機構が彼の頭脳の中で揺らめき、危うく崩れそうになった。ついで、また恐怖心がドッと甦った。

 腐敗し、蛆の餌となる死も、一つのさびしい人生だ。足木の人生は……? たしかにどちらの死も、社会機構の中での死にすぎない。しかし、足木は日本兵のように思い切り機構に蹂躙されて死んでいない。才能という要素が加わっただけに、さびしすぎる。彼にやさしく、礼儀正しく接しなければならない。二時。読了して、目をつぶった。


         二百二十九

 七月十一日金曜日。九時起床。曇。下痢。うるさい耳鳴り。昨夜のアルコールのせいだろう。うがい、歯磨きとシャワー。最近頭皮が痒く、フケも多くなってきたので、洗髪は控える。三日に一度でいいだろう。
 サツキへ朝めしに出かける。夜遊び組の小川たちが快活にしゃべり合っている。絶景のテーブルに同席する。シリアルオムレツ、骨付きハム、ヨーグルト。小川が、
「部屋に監督から電話があった。きょうは小野さんと水谷寿伸。どうも小野さん、肩が張ってるらしい。点取られそうだって。水谷は中継ぎだし、やばいよ。あしたは俺が何とかする。とにかく打ってやってくれ」
「はい。シャカリキにやります。でも、居直って十連敗ぐらいする気持ちでやればいいんじゃないでしょうか。谷間に入ったんですよ。のんびり疲れを取りましょう」
 テーブルのみんながポカンとした。そして笑いだした。水谷が、
「それもそうだ。疲れてるときに、シャカリキになっても逆効果だ。俺ものんびりリリーフしよう」
「小野さんも小川さんも十一勝、十勝して、ゼロ敗でしょう。打たれてくださいよ、人間らしく。この三連戦は打って打たれて、ソフトボール大会の大量点を、お客さんに楽しんでもらいましょう」
 隣のテーブルにいた小野が、
「そう言われると、シャットアウトしちゃったりして」
 と言って、めずらしく大声で笑った。中日スポーツを渡してよこす。

 
神無月照明塔直撃九十八号ソロ
 
九十九号ダメ押し満塁弾
 
高橋一三悪夢七回三点差守れず六失点
     
堀内・田中も八回仲良く炎上合わせて九失点
 いよいよ神無月の百号が秒読みに入った。チームも引き分けを挟んで三十三連勝。挟まなければ二十七連勝となり、世界記録を着々と更新しつつある。なお、チーム連勝の世界記録は、一九一四年(大正三年)のニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)の、引き分けを挟んだ二十六連勝である。
 すでに甲子園で百八十メートル越えを記録している神無月だが、今回のホームランも推定百六十二メートル、照明塔の下部、ネオン広告の間を通過して、右翼場外の舗道並木に落ちた。王と神無月本人がすでに記録している百五十四メートルの記録を破り、後楽園球場での最長不倒距離となった。
 巨人藤田投手コーチ談。先発もリリーフも、いまいる投手陣の中で力があると思って出している選手ばかりだ。ローテどおりのピッチャーが打ちこまれるというのは、われわれコーチ陣の責任でもあるが、ドラゴンズ打線に圧倒的な破壊力があるということでもある。いまのところ、神無月選手に対してはもちろんのこと、ドラゴンズ打線に対しても万策尽きている。星野秀孝くんはナンバーワンクラスのピッチャーだ。ときどき気の抜けた球を投げるが、すぐに引き締める。精神的指導が行き届いているからにちがいない。
 十七号を放った王選手談。六戦ぶりの一発だった。内角直球を逆らわずに打った。試合に負けたので効果のないホームランだったが、この調子をつづけていければと思う。神無月くんの神技を目撃できるだけでも、ドラゴンズ戦は楽しい。ぼくの場合、後楽園球場のホームランは、中段の通路を目標にするが、神無月くんは看板を目標にしてるようだ。打ったあとの視線が高い。まねできない。永遠のライバルではなく、永遠の模範だと思っている。
 四号を放った森選手談。追撃の一発を打てて喜んだが、負けてはね。貯金を作ろうと意気ごんで挑んだ試合に負けて、借金一になってしまった。一番から八番まで超一流選手を揃えているドラゴンズは、神無月選手のワンマンチームでないので、抑え切るのは至難の業だ。頭を切り替えて新たな戦いに臨みたい。神無月くん? 彼は人間じゃない。私はこのごろ心の底から崇拝している。キャッチャーボックスから気安く声をかけられない。彼が打席に立つと、信じられないことだが、ひんやり冷気ようなものが私のからだを包むんだ。あれは人間の気じゃない。だからホームランを打たれても何のショックもない。それではならじと思うので、たゆまず研究はつづけるつもりだ。
 堀内投手談。神無月くんは鬼だよ。彼が暴れだすと、ほかのみんなも鬼になって暴れだす。とにかく神無月くんを抑えること。いまのところ、敬遠以外の抑え方はわからないけどね。ビンボールはぜったいやんないよ。彼は〈国宝〉だから、そんなことしたら国賊になっちゃう。
 川上監督談。今年の中日ドラゴンズは強いということのほかに、何も申し上げることはございません。失礼なことを言うようだが、ジャイアンツはせいぜい他のチームで星を稼がせていただきます。
 水原監督談。神無月くんを中心にほんとうに思い切りよく打ってくれた。打てそうにないときも、フォアボールで出るなど、全体の駒の一つになってチャンス作りに励んでくれた。一人として不要な駒となる選手がいないんです。これが現在のわがチームのアドバンティジです。星野くんはまちがいなく球界を代表するピッチャーになる。連打で四点取られたときも、森くんにツーランを打たれたときも、星野くんを代えるつもりはまったくなかった。完投するうえでのプラスもマイナスもぜんぶ経験させたかったからね。ドラゴンズチームはいま前半戦の疲労のピークにある。あさってからの阪神三連戦は、よほど気を引き締めてかからないと、取りこぼしがあるかもしれない。神無月くんの常套文句じゃないが、〈がんばります〉。彼はね、その言葉を社交辞令でなく本気で言えるんですよ。私も本気です。
 

 長嶋のコメントはなかった。たぶん拒否したのだろう。水原監督の言ったとおり、ホームランの打球は、鉄骨のあいだを通過していた。ネオン管の基底盤に当たらずにすり抜けたというのは驚きだ。
 出発まで、部屋で岩波新書の一日一言を読む。碩(せき)学桑原武夫。はしがきに、言語に支えられぬ人間行為はありえない、とある。読むに値する本だとわかった。
 日付にこだわらず、ペラペラとやっていく。十一月の項目に、東映の尾崎行雄と同姓同名の政治家の言葉がある。……議事堂は名ばかりでじつは表決堂である……。適当に戻ったり、進んだりしながら、簡明直截な箴言を読んでいく。世界中の頭脳明晰な情熱家が発した、国家や富裕者の横暴と奸策を糾弾する言葉が多い。あきらめないすばらしさ。胸にくる。
 紺のブレザーを着る。ワイシャツは純白。忘れ物がないか、ベッド回り、机の上、ローテーブルの下までじっくり確かめ、ダッフルとバットケースを手にラウンジに降りる。みんな集まっている。足木マネージャーもいる。池藤トレーナーも鏑木ランニングコーチもいる。
 エレベーターで駐車階へ降りることもできるが、ファンとマスコミのために玄関へ出る。拍手とフラッシュに向かって手を振り、ホテル従業員に頭を下げられながらバスに乗りこむ。ふつうの背広を着た組員らしき男三人、張られた縄の内側に目を光らせている。彼らはバスが出発したあと、品川駅の新幹線ホームまで車で追尾してくる。ホームからは別の構成員にバトンタッチする。その男たちはグリーン車の隣の車輌に乗りこむ。新大阪のホームでまた別の構成員に交替する。そしてその男たちが、ホテルに泊まりこむ。後楽園球場の駐車場の人混みにも彼らはいた。心底ありがたいと感じる。彼らが護ってくれているのは私だけではないのだ。
 ひかりの車内では、二時間ほど野球談義を交わし、配給の焼肉弁当を食い、一時間ほど仮眠をとった。弁当を使っているとき、水原監督と話をした。問わず語りに監督は、この三連戦の厳しさを語った。
「向こうはうちとの一戦一戦をAクラス取りの天王山だと思っている。うちの独走は少しばかり足踏みしたって揺らがないからね。全チームが二位取り三位取りに励む。うちに一つでも多く勝ったチームが有利なのはまちがいない。小野くんから聞いた。金太郎さんの檄をね。気がラクになったと言ってたよ。きみの闊達な考え方が彼を救った。三連敗どころか、十連敗の覚悟をしていればたしかに怖いものはないものね」
「そういう気持ちのときしかマグレは起こりませんから。でも、マグレが起こるのはあたりまえのことではないので、起こらなくてものんびりしていられます。何連敗しても」
 長谷川コーチが、
「すばらしい考え方だなあ。広島の監督のころそういう考え方ができれば、戦局が変わっていたかも知れない」
 帯同の本多コーチが、
「去年、急遽杉下さんの代理監督をしたとき、笑顔で通すだけで精いっぱいでした。いくら愛想よくしても、十連敗でもしてみるかなんてことは言えなかった。笑いつづけて、連敗につぐ連敗」
 田宮コーチが、
「いまでは、俺たちが言わなくても、こうやって金太郎さんの言葉が車内に響いたり、ベンチに響いたりして、ほんとうの余裕がみんなの心に根づいた。努力さえしてれば、負けてもいいんだ、マグレで勝つことだってあるってね」
 徳武が、
「つまり、勝ちたい、勝たなくちゃいけない、じゃなくて、マグレが起こるのを待とうってわけだね。努力してるからマグレが起こるはずだって。じゃ、基本となるのは努力のみということか」
 水原監督がうなずき、
「そのとおりです。金太郎さんはあたりまえのことを言ってるだけなんだよ」
 森下コーチが、
「野村に聞かせてやりたいわ。何がデータ野球や」
 私は、
「勝ちたい、と、勝てればいい、のちがいです。勝てればいいの根本は無欲なので、勝ちたい人たちと勝利欲のレベルでは議論できません。ただ、選手一人ひとりは、腕に覚えのあるプロ野球選手なので、勝敗に関係なく〈打ちたい〉、〈打ち取りたい〉という欲はあるはずです。バッターは〈打てればいい〉と思ってバッターボックスに立つことはないし、ピッチャーにしても〈打ち取れればいい〉と思っては投げないでしょう。そういうプロ野球選手個人の自尊心が発揮される場面でしか、マグレは起こりません。チームを勝たせたいとあえて思わなくても、個人のマグレの積み重ねがチームの勝利というマグレにつながります。〈勝ちたい〉だけの体制の下では個人の意志は封殺されるので、なかなか個人のマグレは起こらず、チームにしても、予期せぬ勝利がもたらされないだけに、限界があります」
「おみごと!」
 車中が拍手で沸いた。自分で作り、練り上げた考え方だから、それは自分の手の内にある。しかしそれを信じる人びとの感情や行動はけっして自分の手の内にはない。人の心は得体が知れないし、制御もできない。だからしゃべるのが怖いけれども、どうしてもしゃべってしまう。江島が手を挙げ、
「監督、いまの話よくわかるんですが、個人がマグレを起こすには、絶対的な才能が必要だと思いませんか」
「思いますよ。その条件はプロ野球選手であれば全員が満たしてる。だから、残るのは考え方だけということになる。才能を発揮するマグレの回数を多くするのは、個人を拘束しない考え方だ。そうだ、江島くん、この三連戦、きみは中くんの代わりにセンターだ。それから千原くん、きみはファースト、伊藤竜彦くん、きみはショート。二試合までは無安打でも出しつづけるから、伸びのびやりなさい。おじさん三人組にはしばらく休んでもらうことにした。あの年になるとね、お休みが必要になるんだよ」
 中が、
「おじさんたちは、ちょっと休ませてもらうよ」
 江藤が、
「アベックホームランの花火はしばらく休みっちゃん。陽三郎、天馬とアベックの思い出を作っとけ」
「はい!」 
 四時に新大阪に着き、阪神バスに乗り、五時を少し回って竹園旅館に着いた。東京のニューオータニを発って五時間余りで、兵庫県の竹園旅館の玄関に立っている。このスピードに震撼するのは、徒歩で全国を歩き回っていたころの人びとだけだろう。現代人は驚かない。私は驚く。かつて交通機関の恩恵を受けて、上野から二十三時間かけて野辺地に帰ったときも少なからず驚いたからだ。
 なだれるように押し寄せるフラッシュと嬌声。竹園旅館は、プロ球団が宿泊するときは全館貸切りになる。従業員総動員でプロ野球選手の面倒を見る。詰めかけた報道陣もファンも館内に入れない。
 いつものとおり、フロントの従業員から七階の部屋へ荷物が搬入ずみである報告を受ける。きょうから月曜日の午前までの三日間、このホテルには従業員と中日ドラゴンズの選手しかいない。一般の出入りを許されている館内の食堂や喫茶室はそのかぎりではない。バットは部屋では振れないし、旅館の周囲でも駐車場を除いては振る空間がないので、伸びのび振りたければ芦屋川近辺の公園か空地へ出かけるしかない。




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