二百三十三

 二軍からまたよじ登ってきた日野が、
「俺はもう少し踏ん張る。省三さんと同じく、代打で出て、せめて一本ホームランを打ちたい。そしたら先へ進める。最終的には、ポスト一枝が夢です」
 オヤジ顔の堀込が遠く端の席から、
「去年南海からきた堀込です。去年は七十五試合も出してもらって、二割五分打ったんですが、なんせホームランゼロなんで、今年は出場機会ゼロです。南海時代の六年間はセンター守ってました。ホームランも六年間で四十本打って、そうそう、三年前の日本シリーズでは城之内から一本打ちました。ベストナイン一回、オールスター出場二回、日本シリーズ二回と、かなり恵まれた道を歩いてきたんだけど―三十歳、年かなあ、そりゃないですね。長期欠場してた中さんの代役で、島野と交換トレードでここにきて二割五分打ったんですからね。中さんが戻ったら、お勤め終わり。来年はおそらく自由契約です。はかない」
 場をわきまえない浮いた意見だった。主力メンバーが苦い顔をした。しかし、この新幹線にはいったい何人乗っているのだ。金(こん)という男が堀込の陰から立ち上がり、
「金博昭です。入団二年目の三十歳。今年で正式にクビです。沢村賞小川、巨人のショート黒江、ここにいる若生と立正佼成会でいっしょにやっていました。そのころは五割二分打って首位打者になったり、四割四分打って優秀選手になったりしたこともあります。過去の栄光ですね。百六十六センチ。この小柄が決定打だったね」
 まちがっている。服部受弘、吉田義男、いま売り出し中の福本豊はそのくらいしかない。沢村栄治や中西太でさえ百七十四センチだ。中日にも百六十センチ台は、一枝、中がいるし、百七十ちょいは、小川、伊藤久敏、若生、高木、木俣、江島、葛城、新宅といくらでもいる。百七十五センチ以上がめずらしいくらいだ。金がつづける。
「これからも、小川と若生をよろしく。若生は同期入団なので気になります。いい直球投げるんですよ。以上」
 関係ない話だ。外山と松本といっしょに大場が立ち上がり、
「バッティングピッチャーでがんばります」
 代表してひとことだけ言った。初めて顔を見る佐々木孝次という小柄な男が頭を下げる。
「今季かぎりで解雇です。五年間お世話になりました。ありがとうございました」
 二軍へいってそれきりということだろう。佐々木を最後に話はすべて終わった。ほとんどの選手と別れが近いとわかった。立ち上がってしゃべらなかった選手は、レギュラーか、見こみのある選手ということなのだった。
 ゲームに参加するためにやってきて参加できなかったことが、人生の挫折になった人たち。いつもベンチにいたはずなのに目につかなかった人たち。だれもがヒーローの可能性を秘めた空地の野球では起こらないことだ。これが草野球とプロ野球のちがいだろう。水原監督が、
「こういう話の向きになると思わなかったが、それぞれの心中を考えると私としてもつらいものがある。しかし、私のほうから自由契約やトレードに関する意見を具申することはない。辞めてほしい選手などいないからです。ただ、首脳部の最終的な査定に口を出すことはできないんだ。……いま発言した人たちは、自分で感じたとおり崖っぷちだと思ってがんばるんだね。危機感のない人間は箸にも棒にもかからないからね。あしたの試合には元気に出てきてください」
 コーチ連はひとことも発しなかった。
 名古屋駅から監督・コーチたちと自宅組はタクシーで帰った。全員で礼をして彼らを見送った。江藤ら仲良しの三人は北村席に寄らなかった。暗い話に知ったような感想でさらにさびしい上塗りをしたくなかったのだ。私と握手を交わし終わると、彼らも寮組といっしょにタクシーに分乗して堀越の昇竜館へ帰っていった。私は歩いて帰った。午後の三時を少し回ったところだった。
「ただいまァ!」
 ダッフルを三和土に投げ出すと、ドタドタと式台にソテツとイネと幣原が直人といっしょに駆け出してきた。北村夫婦、菅野、トモヨさん、優子がやってくる。わが家だ。
「お帰りなさーい!」
「ただいま。ああ、帰ってきた」
 つい甘えた声が出る。主人が、
「三試合、ホームランを打たずに帰ってきてくれましたね」
「打てなかったんです」
 菅野が、
「冗談! 解説者もみんな気づいてましたよ。おかげで、中日球場の三日間の前売りがすべて売り切れたとニュースで言ってました」
 居間に落ち着く。直人が膝に飛び乗ってくる。
「おとうちゃん、満塁ホームラン!」
「見てたのか!」
 トモヨさんが、
「十日の巨人戦の翌朝のニュースです。九十九号」
 主人が、
「照明塔に吸いこまれた九十八号はすごかったですな。後楽園最長不倒距離」
「堀内から打ててよかった」
 菅野が、
「甲子園三連戦、二試合目まで八打数二安打一打点、三試合目四打数四安打六打点、キッチリ帳尻を合わせる。あそこまで凡打とヒットをうまく混ぜて打てるのは、もう神業と言うしかないですね」
「ほんとに、わざとじゃないんだ」
 菅野は、へへ、と笑って、
「じゃ、マグレですか?」
 主人が、
「何よりもすばらしいのは、百号を中日球場に持って帰ったということですよ。あしたからの三連戦、百号が出るまでかよいます」
「平松でなければ、初戦で出てしまうと思います。江藤さんとアベックホームランで。百号が出た次の試合の前に、県知事と市長がくるそうです。祝辞は短めにと水原監督が釘を刺したと聞きました」
「そうですか、祝辞は退屈ですからね。芸能人の始球式のことが今朝の新聞に出てました」
「そんなのはどうでもいいです。お父さん、九月の二十三日の火曜日から二十六日の金曜日まで、日程がそっくり空くんですよ。名古屋競馬やってますか」
「やってますよ。土古(どんこ)競馬場は今年で開設二十年目なんですわ。神無月さんと同じ二十歳」
「それはゲンがよさそうだ。ぜひ連れてってください。何時からですか」
「十一時からです。二カ月後か。その日の見回りは、競馬場から帰ってからにして、菅ちゃんもいこうや」
「はい、いきます。二年ぶり、いや三年ぶりかな」
「トモヨ、体調は?」
「赤ちゃんが骨盤に降りはじめたので、胃がラクになって食事がとりやすくなりました。トイレが近くなったくらいなので、どんどん動くようにしてます。保育所は遠すぎるってお医者さんに止められたので、厨房仕事、庭の散歩、それから、早寝早起きを心がけてます。何の心配もいりません」
「スイミングはもうやってないの」
「からだが冷えるのでいけないそうで、早いうちにやめました。文江さんはまだかよってますよ」
 女将が、
「ほうや、和子から神無月さんに伝えるように言われてたんよ。今夜、加藤雅江さんが則武のほうにくるんやと。食事もあっちでするから、六時までには帰ってくるようにって」
「そうですか、雅江が。年に何回も逢えないですからね」
 なぜか気まずい。カズちゃんたちの尽力で理想の女にまで引き上げられてしまったけれども、私にとって理想から最も遠い女に感じられる。彼女の母親の初期の態度に違和感を覚えたままになっていることは、もちろん雅江の罪ではない。しかし、雅江からまずにおうものは、団結した〈家庭〉の堅固さだ。その堅固な集団が私の非常識をまねる必死さが痛々しい。
 ―今回を最後にしよう。別れを告げずに、ひたすら疎遠になっていこう。
 直人が私の膝を離れて、おやつの始まった座敷でたむろしている女たちのほうへ走っていった。三上ルリ子に抱き取られた。一度からだを合わせると、その存在が目につくようになるのが不思議だ。
「じゃ、菅ちゃん、回ってくるか」
「ほい」
 直人がプラスチックのバットと大きなボールを持ってきて、
「おとうちゃん、やちゅう」
「よし、やるか」
 小池の周りに、ちょうど直人の背の高さの転落よけの煉瓦が設えられていた。その上に三十センチほどの金網も巡らされている。池への出入り口も小さく切ってあった。
 ボールを転がしてやって投げ返させることをしばらくやった。直人は興味を持って懸命にフニャフニャのボールをつかまえるが、投げ返すのが両手だった。片手で投げることを無理強いせずに、そのまま楽しませることにした。バッティングは面倒がって片手で打とうとするので、何度も両手打ちに直した。これはすぐに呑みこみ、前のめりだがいちおうの格好がついた。ほのかな希望が芽生えた。
 遊び場所を座敷に移して相撲をとる。足に組みつかせて持ち上げさせる。かなりの力持ちだ。千佳子が大学から帰ってきた。
「よし、直人、きょうはここまで。よくやった。力持ちだぞ。いい野球選手になる。千佳姉ちゃんと遊んでもらいなさい。ご本でも読んでもらえばいい」
「はーい」
 千佳子はうれしそうに居間から昆虫の本と花の本を持ってきた。私はシャワーを浴びにいった。
         †
 六時。男一人、女二人、キッチンで雅江を待った。やがておとないの声とともに玄関に現れた雅江は、中学三年生以来五年ぶりにカズちゃんと再会したことに感激し、しっかりと握手し合った。私とは気恥ずかしそうに抱き合い、口づけをした。それから、涙を浮かべているメイ子と自己紹介し合った。カズちゃんが、
「あなた、きれいになったわねえ! もともときれいな子だったけど」
「ありがとう、コケの一念で、脚も治しました」
 白いプリーツのスカートをまくって見せる。
「ほんとだ! 純愛の成果ね」
「少し短いのは治らないんです。でもほとんどふつうに歩けます」
 メイ子が、
「お噂はいつも伺っておりました。女の鑑です」
「あした、十一時出社の認めをもらってきました。いろいろなかたにお会いしたくて」
 カズちゃんがうなずく。
「明日の朝、北村の人たちに会いましょう」
「はい、楽しみです」
「暑かったでしょう。きょうも三十二度」
「汗かきなので、ここにくる道でだいぶ汗をかきました。でも、会社は内勤なのでありがたいです。冷房が効いてますから」
「ごはんを食べながらいろいろお話しましょう。ご両親はお元気なの?」
「元気です、二人とも愛知時計で一生懸命働いてます」
 私は、
「お母さんに、相撲の約束は当分果たせそうもないって言っといてね。プロ野球選手というのは予想以上に忙しくて」
「はい、わかってます。おとうさん、毎晩テレビに釘づけ。朝はスポーツ新聞」
 女二人が丹精こめて作ったうまい夕食を居間に運びこむ。雅江が目を瞠る。豚肉のトマト炒め、サーモン・数の子・卵焼き三種類を載せた丼めし、カキタマ汁。雅江はもりもり食べながら、昔話に花を咲かせる。千年小学校での衝撃的な出会い、交換日記、康男の入院、鶴田荘まで私を追いかけていってカズちゃんを初めて見たときの驚き。
「お人形のように美しい人で、とても敵わんと思いました。競争心ばかり旺盛で、郷さん一人を見ておれんかった不純なころです。人の目ばかり気にしとって」
「いっしょに生きて、いっしょに死のうと思う心に、人の目なんか関係ないものね」
「はい。あのときから和子さんはそういう目をしてました」
 浅野の下宿に会いにいって、写真を撮ってもらったこと。私が島流しになって、自殺しようと思ったこと。
「そのころ、西松の事務所にお母さんに会いにいきました。お母さんがほとんど口も利いてくれんときに、社員のかたや和子さんがやさしくしてくれました。あれから和子さんはすぐ青森へいったんですよね」
「そう、会社を辞めて、みんなに内緒でね。身軽だったから」
 私とメイ子は微笑みながら聴いていた。
「できんことやわ。郷さんの人生をぜんぶ引き受けたんやもの。親でもできんことです」
「死ぬほど好きなら、何でもできるわ」
「……よくわかります。いちばん苦しかったのは、脚を治して郷さんに振り返ってもらおうとする濁った心に気づいたことでした。ちっちゃな独占欲やったんですね。それをを治そうとがんばるのがいちばんつらかった。あることに気づいて、なくせました」
「あることって?」
「自分の醜いところを治そうとするのは人に振り返ってもらうためやなく、自分を高めるためにすることやゆうことです。一瞬のうちに、郷さんが生まれながらにそういうふうに生きてきた人やとわかりました。これからは郷さんの目でものごとを見つめよう、自分の欲に満ちた目を断ち切って、一生懸命生きとる郷さんの目だけで見つめようと思いました。郷さんという人は、愛してくれる人には応えますし、人の愛情に匹敵するよう自分を高めるための最大限の努力をします。私もそうしようと思いました。苦しかったですけど、そういう気持ちになると、視界がカラリと開けました。心もからだも素直になれたんです。郷さんを囲む大勢の女の人の大きさがわかりました。何の摩擦もなく、仲たがいもしないで、女同士協力してやっていける理由がわかったんです。郷さんがすべてで、郷さんを見習って自分を高めとるということやったんですね。私もようやく、そういう気持ちで生きられるようになりました」
「すばらしい子ね。きょうはうんとキョウちゃんにかわいがってもらいなさい。また当分逢えなくなるから」
「はい、そうします。ごちそうさまでした。とってもおいしかった」


         二百三十四

「雅江の誕生日って、七月じゃなかった? 交換日記に書いたことがあったろう?」
「うん、七月十九日」
「五日後か。ちょうどオールスター三連戦が始まる日だな。何もお祝いしてあげられないから、いまおめでとうを言っておくね」
「どうもありがとう。二十歳になりました」
「じゃ、キョウちゃんとお風呂に入って、ゆっくりお休みなさい」
「はい。あの……きょうは……そういうことやなくて、お話したくてきたんです。郷さんが愛する人たちと……。あしたも北村席の人たちとお話したら、そのまま出勤します。たくさん見て、感じておきたいんです」
「見ておくって……キョウちゃんはどこでも自由に振舞ってるだけよ。周りの人たちも自由。それだけ。そういうことじゃないって、どういうこと? めったに逢えない好きな人にやっと逢って、そういうことじゃないって―」
「その自由な郷さんを見て、郷さんの世界を感じたいんです」
「世界をかんじる……。キョウちゃんのすることは世間の決まりごとから外れてるから、恐怖感や嫌悪感を持ったら、もう感じたくなくなるわよ」
「郷さんの存在自体が世間から外れとると思います。世間の決まりごとを守るなら、そばにいる資格はあれせん」
「だいじょうぶかしら、そんな気持ちでいて。私たちはキョウちゃんのことを世間から外れてると思ってないから。……私たちからは何を聞きたいの? たぶん、セックスのことでしょう?」
「それもあります。郷さんが好きなことは、とても自然で、美しいことだと思います。私も自然で美しいことは大好きです」
 どうにも白々しく聞こえる。
「好きなことというより、好きになろうと決心したことよ。……じつは、キョウちゃんはね、セックスを好きじゃないの。どう見ても、どう考えても、自然で美しいことじゃないから。あなたもそう思うでしょう? でもキョウちゃんは、それを自然で美しいことだと信じたいから、あえて好きになろうとするの。キョウちゃんの自然さって、そういうふうに自分の感覚が疑ってることに価値を見つけてあげようとする気迫なの。すごく真剣な意欲。どんなこともけっして疑ったままにしない。一生懸命疑問の解明に励んで、そしてとうとう美しい価値を発見するのね。そして、それを生きていくエネルギーにする……。とんでもない人なのよ。キョウちゃんが発見すると、平凡な私たちも、あ、ほんとだって発見させられる。キョウちゃんのことを心から愛してるから、キョウちゃんの判断力を完全に信じるからよ。世間的な目でセックスを自然で美しいことって信じてなかった自分が恥ずかしくなるわ。そこまで心が落ち着くと、もうセックスの意味なんか考えなくなる。美しくて自然なことなんだから、性欲からでもいいし、愛情からでもいいし、好奇心からでもいいから、したければその気持ちのままにすればいいって思うの。……自然というのはね、男は何人の女としても罪悪感はない、女は心身ともに強いと認めた男としかしたがらないということ。種の保存のために男と女に組みこまれた本能よ。美しいというのは、そういう本能的な行動をしたとき、どれほど人間が精妙にできているかに驚く気持ち。そう感じられる人間にしか感じられない真実。だからセックスしておたがいのからだが悦び合うことって、とても自然で美しいことだって気づくわけね。そこには法律社会の道徳が入りこむ余地はないの。美しいものはだれが見ても感動することだし、本能よりあとでくっついてきた道徳で否定できないことよ。キョウちゃんは懸命に考えて、その境地に達したの。確実な価値だとわかった以上、キョウちゃんにとってセックスは普遍的な価値として存在するものだから、してもしなくても安心なものになるし、したらしたで、自然さと美しさを感じられる価値ある行為として安心できるわけ。これはセックスにかぎらない、人間として生きる意欲に関わる話よ。私は出会ったときからきれいで純粋なキョウちゃんのことが大好きだったけど、そういうキョウちゃんをあらためて知ったとき、のほほんと世間の枷に縛られて生きてきた自分と重ねて見て、ふるえるほど感動したわ。大好きが深い愛情に変わったの」
「……何もかもうなずけるんですけど、こんなに女の人が多くなる必要は……」
 カズちゃんは深いため息をついた。
「もちろん必要なんかないわ。女は一人いればじゅうぶんよ。でもね、最初に言ったとおり、キョウちゃんはセックスが好きじゃないの。たとえ私たち相手でもね。私たちのことが好きなの。私たちの人間としての価値を認めようとする信念の行動なの。だから気に入った相手から求められれば、自分を奮い立てるし、自分に自然な欲望が湧いて奮い立ってきたら、素直に気に入った相手と交わる。キョウちゃんはたくさんの女から強い男と認められて深く愛されるし、その愛にキョウちゃんはかならず応えるし、応えるからだは一つしかないから、当然女の数は多くなるわ。そういう種の本能を認めずに婚姻制度を振り回している道徳社会からすれば、不届き者ということになるわね。これから長くキョウちゃんと暮らしていれば、たくさんの女の人に会うことは避けられない。何もかもうなずけると雅江さんは言ったけど、心の底でうなずいてないわ。どこかに無理がある。女の人たちがキョウちゃんと同じ境地にならなければ、わかり合えることはできないのよ」
 メイ子は深くうなずいた。雅江は何かを思い決めた顔で、
「私、郷さんとお風呂に入ります。……いっしょに入ってもらえますか」
「え、いっしょに入ったら、キョウちゃんはぜったいセックスしちゃうわよ。そうなってもいいの?」
 メイ子が、
「私たちのあえぎ声を聞いたり、ふるえるのを見たり、自分がそうなるのを見られたりするんですよ」
「郷さんの世界です。みんな見ておきたい」
 私は勃起するか不安になった。ごちそうさまをして、雅江がトイレに立った。そのあいだにカズちゃんに言った。
「勃つかどうか心配だから、お風呂で勃ててくれる?」
 カズちゃんは私をじっと見て、
「キョウちゃんは、私たちに感じるのとはちがう気持ちを雅江さんに感じるのね」
「うん、いやというんじゃないんだけど……」
「……まちがっても子供を作りたくないという気持ちね。私たちに対しては、いつまちがってもいいと思ってくれてるものね。……ぜんぶわかったわ。私たちに見える以上の何かがキョウちゃんには見えるのね。人に見えないものが見えても、いいことばかりとはかぎらないものね。でも、見えるのも才能よ。……私たちに出して」
 胸の大きい三人は脱衣場で裸になるのに躊躇はなかった。私のものは陰毛の陰で萎れていた。四人で湯殿に入る。
「雅江さん、見て」
 カズちゃんはさっそく湯船の縁に坐り、股間を開いて雅江に示した。
「たぶん雅江さんがいちばん気にしているものよ。好きな男と、その男と寝る女を思い浮かべたときの嫉妬のもと。ごらんなさい。ただの手の指や足の指と同じもの。目や唇ほど美しくないわ」
 雅江はコクリとうなずき、顔を近づけた。
「きれい! お人形さんに彫ったみたい」
 メイ子もカズちゃんに並んで恥ずかしそうに示す。
「やっぱりきれい。和子さんより小陰唇が厚くて、黒い」
「はい、子供を三人産んでます。それに、もともと私、ここを使う仕事をしてきましたから、十年以上も使いこんできたので……。こんなに使いこんでも女になれなかった私を、神無月さんがきちんと女にしてくれました」
 雅江は自分の番だと悟って、必要以上に大きく股を開いた。カズちゃんが、
「きれいなビラビラ!」
 メイ子は、
「オマメちゃんが少し皮から出てます。お嬢さんと同じくらいの大きさ」
 私は、
「気をつけて、そういうことをしゃべるだけで雅江はイッちゃうことがあるから。カズちゃん、お乳を舐めてあげて。すぐイクから」
 私は湯船に入り、萎れた自分のものから雅江の注意を逸らすことに神経を使った。ここまで萎れているのを見るのは、彼女がこれまで経験したことのなかったことだからだ。見れば雅江の心も萎れるだろう。そうなればさらに私も萎れる。カズちゃんは、
「ほんと?」
 と言いながら、乳首に舌先をつける。
「あっ!」
 三角形の陰毛を突き出して、痙攣する。
「わ、かわいらしい! めったにないからだね」
 カズちゃんはうなずき、雅江のクリトリスに指を触れた。
「あ、和子さん、だめ、イクウ!」
 湯船に背中から倒れこみそうになるからだを私は湯船から支えた。カズちゃんは雅江を湯殿に横たえた。そして、立ち上がった私の股間に顔を寄せ、深く含んだ。カズちゃんにされれば私はいついかなるときでも屹立する。湯殿に出て、雅江をあぐらに抱え上げ、十全に勃起したものを挿入する。
「あああ、イク! 郷さん、気持ちいい、イク、イク、イク!」
 いつものように結合部をぴったり密着させ、入口から奥まで私の性器をしごくように蠕動する。そして決まって唇を求めてくる。応えてディープキスをする。
「愛しとる、郷さん、愛しとる! イク!」
 きつく抱きつき痙攣を繰り返す。ゴクンとあごが私の肩に落ちた。私は離れて、雅江のからだを横たえ、
「お尻、カズちゃん!」
「はい!」
 四つん這いになって向けた尻に挿入する。
「あああ、キョウちゃん、すぐイク、イクイク、イク!」
 カズちゃんの胸をしっかり握り締めながら、体内の鼓動を聴く。強烈に緊縛してくる。
「あ、またイク、愛してる、死ぬほど好き、イク、イクイクイク、イク!」
 湯殿の板にかすかな音を立てて愛液が飛んだ。引き抜き、
「メイ子!」
「はい!」
 カズちゃんと同じ格好で尻を向ける。亀頭が入りこんだ瞬間、
「神無月さん、イク! あっあ、イク! あ、イクウ! だ、だめ、気持ちいい! イク!」
 熱い樹液を滲み出しながら、うねり締めつける。愛液が飛ぶ。迫った。私の呼気の乱れを察して、カズちゃんは浴槽の縁をつかみながら中腰になり、
「ちょうだい!」
 私はメイ子から離れると、カズちゃんの腹を抱え上げ、挿入して吐き出す。カズちゃんは愛らしくうめきながら、エビのように背中を反らして応える。後頭部が何度も跳ね上がる。自動的に自分の陰阜をピストンする。激烈なアクメがしばらくつづく。挿入したまま律動を止めて、膣のうごめきと子宮の吸いこみに酔う。いつまでも吸いこみ蠕動する。そのうちカズちゃんはとつぜん私から離れて丸くなり、ドタッと横倒しになった。メイ子があわてていざっていき、カズちゃんの背中や胸をさすった。
「あ、そうするとイキつづけちゃう、放っといて、メイ子ちゃん」
「……きっと心を許したたった一人の男にしかこうならないんですね。すばらしい人」
 語りかけているメイ子の尻に挿入し、最後の律動をする。
「う、うれしい! 神無月さん、熱いい、イク!」
 引き抜き、仰向けになると、カズちゃんはやっとの思いでかぶさってきて結合し、口を吸いながら、
「愛してる、愛してる、キョウちゃん、あああ、イク!」
 ギュッと首を抱く。
「イク、イク、イク―」
 快感に浸りつづける。メイ子がカズちゃんの尻にかぶさり反射を受け止める。三回、四回と腹にぶつけられているうちに、メイ子も背中を丸めて痙攣した。
         †
 四人で湯に浸かった。雅江が、
「何もかも自由で、奔放。世界と呼ぶにふさわしい世界やわ」
「キョウちゃんしか持っていない世界よ。簡単に手に入る世界じゃないわ」
「はい」
 メイ子が、
「またしばらく逢えませんね。つらいでしょうけど……」
「はい、仕事をがんばって忘れます」
 私は何も言わない。からだを流し合い、水気を拭き合って、全裸でカズちゃんの寝室へいく。寝床に横たわり、四人和気藹々と見つめ合う。まだ八時を回ったばかりだ。女三人の陰毛が淡いので、この上ない清潔感がある。カズちゃんが、
「雅江さん、とても感じる体質なのね」
「はい、もう感じられないくらい感じてしまったところへ、もう一度入れられると、飛びあがるほど強くイッてしまいます」
「敏感すぎて、たいへんでしょう?」
「いいえ……自分でいじったりしても、少しも感じないんです。それで高校二年のときに一度したきり、オナニーはやめました」
「心でイッてるのね。私たちと同じ。お乳を舐められてイッちゃったのは、キョウちゃんに見られてたからだと思う。どれほど雅江さんがキョウちゃんのことを深く愛してるかよくわかったわ。メイ子ちゃんもそう。私がキョウちゃんのおかげでそうなったと感じたから、私の背中でイッちゃったのね。キョウちゃんがすべてだからよ」


         二百三十五

 雅江はカズちゃんの手を握り、
「とてもうれしいです。こんなに、晴れ上がったようにうれしいってことってあるんですね」
「恥ずかしいことが一つもなくなったからよ」
「はい、思い切り声を出せました。何もかも郷さんと二人でするときと同じようにできたのも、和子さんたちに温かく見守られとったからやと思います」
 明るく笑う。メイ子が、
「どうして神無月さんは、心底好きというわけでもない女のからだに飽きないんですか? いつか飽きられるんじゃないかと、私はいつも不安です」
 私は本質的な質問に狼狽した。実際、頭の中で飽きかけていたからだ。私は自分を鼓舞する理由を考えた。
「肉体的なめずらしさだけにかまけてるなら、何度かセックスをしているうちに飽きるだろうね。ただ、そのめずらしい肉体を支えてる奥の深い心にはいつまでも飽きない。その奥深さを教えられるきっかけが自分の肉体と心にあると思うと、そしてその肉体と心をどれだけ女の肉体と心に役立てられるかと思うと、なかなか飽きない」
「だとすると……きりなく女の人を増やしていくことになりますね。女の数だけ肉体と心はありますから。……いつも新しい女に巡り合いたい気分になりませんか」
「ならない。ぼくは肉欲がふつうの男に比べてかなり少ないほうだと感じてる。通りすがりの見も知らない女にまったく関心がない。自然と勃ってしまって処理に困るという場合を除けば、からだは愛する女だけに捧げる。だから、愛する女の範囲で性欲を掻き立てる条件が重要になってくるんだ。気に入った顔、気に入ったからだつき、気に入った反応。それならいつでも勃起するし、ぜんぜん飽きないので性欲を維持できる。ぼくにとってそんな三拍子揃った女はめったにいない。気に入った顔はほぼ一定で、それほどバリエーションがないから、まず顔で決める。それで、惹かれる女の数はひどく限定される。身の周りにそういう女だけが残ればいいと願ってきた。願いどおりになった。惹き合う者同士でも、愛があるだけでは、セックスという行為は違和感を覚える。女のほうが世間常識を何とも思わずに心を解放して、しかも世間とうまく合わせていける変人でないとだめだ。そういう女はぼくのダイヤモンドになる。彼女たちに飽きるはずがないし、裏切って浮気するはずがない」
 カズちゃんが、
「ぜんぶわかってることだから驚かないわ。自然と勃ってしまって処理に困る、と言ったでしょう? そういうときは、そばに私たちがいなくても出さないとだめなのよ。それは本能的なもので、浮気じゃないから。健康上の処理。ただし気に入った女と合意のうえでよ」
 メイ子は私の顔をじっと見つめ、
「こんなに美しい人が、どうしてこの世に生まれてきたんでしょう。……だれよりも愛してます」
 メイ子は私の胸に頬を寄せた。その頭を抱きかかえる。髪を分けて額にキスをすると、メイ子はひどくやさしい視線で見上げた。
「女という分別くさい生きものは、十歳の男の子をかわいいと思うことはあっても、からだを懸けて惚れることはしません。お嬢さんは何の分別もなくそれをした人です。女じゃない。人間です。奇跡の人間です」
 愛する者を褒める言葉はだれの言葉でも気持ちいい。
 三人パジャマを着て居間へいく。会話のバックグラウンドにテレビ。NHKお楽しみグランドホール。カズちゃんが、
「あら、キクエさん」
「え?」
 司会者を指差している。メイ子が、
「岡崎友紀ですよ。でも似てますね。キクちゃんのほうがもっときれいですけど」
「そうよね、この子、落ち着きがないわ」
 メイ子が立っていって菓子盆を持ってきた。南部煎餅、草加煎餅、ドラヤキ、前田のクラッカー。雅江は、
「メイ子さん、キクエさん……これからはたくさんの人に会えるんですね。もっともっと郷さんの世界を知りたい」
「キョウちゃんの世界は広いから、たいへんよ。暗記するのがたいへん。あしたは北村席の人に会って、アイリスにいきましょう。私たちのやってる喫茶店よ」
「はい。あしたは十一時に会社に出たら、四時半にあがって、おとうさんおかあさんと中日球場です。レフトスタンドの席を三枚買ったんです。初日が買えてよかった」
 何をするにも父母と行動を共にする。カズちゃんは少し眉を暗くして、
「そうね、初日に百号が出るかもしれないものね」
「和子さんもいくんですか」
「ええ、あしたは私と素ちゃんがおとうさんと年間席、菅野さん一家がバックネット席、ムッちゃんと千佳ちゃんが一塁内野席ね。第二戦の年間席はメイ子ちゃんと、ええと、キッコちゃんだった?」
 知らない名前をつづけざまに耳にして、雅江は頬を紅潮させている。
「ソテツちゃんです。第三戦がイネちゃんとキッコちゃん。天童さんと丸さんはたしか第二戦の内野指定席をとったはずです。第三戦の内野指定席はだれだったかしら……そうだ、第三戦は女将さんと百江さんが年間席で、イネちゃんと私が指定席でした」
「よくぜんぶ手に入ったね」
「菅野さんがやってくれました」
 カズちゃんと二人でドラヤキをぱくりとやる。雅江は南部煎餅をパリパリ。
「あ、そうだ、雅江、天ぷらきしめんがちゃんと一般の店のメニューにあったよ。このあいだランニングの帰りに、エスカのきしめん亭というところに寄ったらあった。菅野さんと食べてきた。とてもうまかった。お父さんに教えといて」
「はい。やっぱりあったんですね。今度おとうさんと食べにいってきます」
 カズちゃんが、
「そこ、私もいきたい」
「エスカの回廊のいちばん奥にあるよ」
「今度素ちゃんやメイ子ちゃんを連れていってくる」
 チャンネルを回すと、南田洋子と長門裕之のミュージックフェアに切り替わった。相良直美『いいじゃないの幸せならば』、青江三奈『池袋の夜』、弘田三枝子『人形の家』。
「あらら、どうしちゃったの、弘田三枝子。プクンとかわいらしかった顔が台無し」
 カズちゃんが気の毒そうに眉をしかめた。
「中学校二年くらいだったかなあ、魚河岸の旋風娘という映画の看板を観たことがある。いや、何かの拍子で映画館に入って観たんだったかな。『そっと一人に』という主題歌を覚えてるから」
「吉冨さんに連れてってもらったのよ。たしか東京の木場を舞台にした松竹映画よね。勝呂誉や伴淳が出てた。中曽根美樹も」
「よく憶えてるなあ」
「吉冨さんが、弘田三枝子の映画を観てくるって言って、キョウちゃんと出かけた覚えがあるのよ。それで新聞広告を見たんじゃなかったかしら」
「たしかにそうだった、駅前の松竹に連れてってもらったんだった」
「その歌、思い出せる?」
「歌えるよ。その場で記憶したから」
「出た、キョウちゃんのお化け記憶」
 雅江が、
「ぜひ歌ってください!」
 メイ子がテレビを消した。三人が拍手する。すぐに歌い出す。

  そっと一人にしておいて
  泣き虫なんて言わないで
  沈む夕陽を見てるだけ
  波が光ってまぶしいの
  海の向こうにはあるかしら
  あたしの夢見た幸せが
  
  そっと一人にしておいて
  泣き虫なんて言わないで
  空の向こうにはあるかしら
  あなたと描いた幸せが
  そっと一人にしておいて
  泣き虫なんて言わないで


「すてき……」
 カズちゃんがパジャマの袖で両目を覆った。雅江が、
「いつも神さまの声やね。涙が止まらんが。うちのおかあさんにも喫茶店の片隅でって曲歌ってくれたけど、何度聴いても天から降ってくるような声やわ」
 雅江はすっかり名古屋弁に戻って、手のひらで目を拭った。
「特別な人間に生まれてきたんですね……」
 メイ子もティシューを目に当てる。
「恥ずかしいから、テレビ点けて。そのほうが話をしやすい」
 メイ子がもう一度スイッチを入れた。スター千一夜になっている。モノクロ放送。土居まさるという男の司会。だれも画面を見ようとしない。カズちゃんが、
「東京の木場って、材木がたくさん浮かんでて、白鳥公園のあたりの堀川に似てるわ。宮中のそばの」
「そうだね、木場の近くの門前仲町に何週間か家庭教師にいったことがあって、そのときの大横川の風景がそっくりだった。ぼくは伊勢湾台風の直後に名古屋にきた。十歳。そのくせ、伊勢湾台風のことをぜんぜん知らないんだ。知ってるのは、昭和三十四年の九月二十六日に東海地方に大きな台風が上陸して、六千人以上死んだということくらいかな。雅江もカズちゃんも名古屋の人だよね。どういう台風だったのか教えてくれない?」
 カズちゃんが、
「直撃した三重県より愛知県のほうが、たくさん人が死んだのよ。三千四百人。生まれて初めての大きな台風だったから、思わず数字を記憶しちゃった。三重県は千二百人。名古屋市は港のほうから六メートル近い高潮がきたから、市の南はほとんど全滅。死者は千九百人。南区と港区だけで千五百人。お棺が並んでるテレビニュースを覚えてるわ」
 雅江が、
「市の南は干拓が盛んやって、地下水汲み上げで地盤沈下起こしとったもんで、高潮にやられたんだわ。南区や港区で人がようけ死んだんは、白鳥公園の貯木場の丸太のせいや。あそこの材木が南のほうへダーッと流れてって、人や家にぶつかったんよ。熱田区にはこんかった。堀川や民家の汲み取り便所の水が流れてきただけ。それでも三人死んだわ。宮の渡し公園に、背の高い浸水標識が立っとる。三メートル近いんやないかな。熱田区の家屋の被害のほとんどは暴風と浸水のせい。ウンコまみれになったでね。何万人もの人が駆り出されて、庄内川の決壊箇所に土嚢で堰を作って、ポンプで水を吸み出して川へ戻したんよ。戻し切るまで三週間もドロドロの状態やった。学校はもちろん休校。水が引いたあとは、自衛隊や清掃局や水道局の人たちでヘドロとウンコの掻き出し。私たちも手伝った。自衛隊のお別れ演奏は感動的やったわ」
「それで、千年小学校の校庭に真っ白い消毒薬が撒いてあったんだね」
「ほうよ、疫病防止のために、校庭だけやなく、市街地にも空から撒いたんよ。そのときは窓を閉めて屋内退避。復興に二カ月もかかった」
 カズちゃんがメイ子に、
「静岡も伊勢湾台風の被害はあったんでしょう?」
「浜松のあたりは直撃しなかったんですけど、海岸沿いはすごい暴風雨でけっこう大きな被害が出ました。高潮で家が壊れたり、浸水したり、農作物がやられたり。伊勢湾台風の十日ほど前にも台風がきて、富士市で二百人ほど死んだと聞いてます」
「いまでも日本最大の台風と言われてるわ。三重県は風速七十五メートル、名古屋は四十五メートル。関東のほうも二十メートルあったのよ」
「台風の日は横浜にいた。転校直前でね、出発が先延ばしになった。ミゼットがひっくり返っているニュースを近所の家で見た。大家の庭のヒノキが暴風にたわんで倒れそうになってたのをハッキリ憶えてる。わくわくした。あれで風速二十メートルか。被害を受けた人たちの事情がわかると、わくわくしたことが申しわけなくなるね」
 メイ子が、
「伊勢湾台風のとき防災放送がうまくできなかったせいで、避難できなかった人たちがたくさん死んだと言われてます。トランジスタラジオが全国に広まったのは伊勢湾台風がきっかけだそうです」
「鯱って、水を呼ぶって言われとるんよ。名古屋城の金のシャチホコが伊勢湾台風直前に作られてたから、鯱のせいだと言う人もおった」
「名古屋にきたばかりのころ、伊勝の家でそんな話を聞いたなあ」
「迷信というより、一種の冗談なのよ。生き延びた人間は笑い飛ばしでもしないと、元気よく生きていけないわ。キョウちゃんが転校してきたころ、みんな明るかったでしょう」
「うん。台風にやられたなんてカケラも見えなかった。名古屋駅近辺はだいじょうぶだったの?」
「海から遠いからそれほどでもなかったのよ。中村区のアパートが倒れて、何人か死んだとは聞いたわ。このあたりは屋根瓦が飛んだくらい。何本か私鉄の線路が冠水して、名鉄なんかは復旧に二カ月もかかったみたい。それが大きなところかしら」
「千年の西松に勤めだしたころだね」
「そう、二十五歳で、二年目だった」



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