三十七

 更衣小屋へ歩き出したとき、加藤雅江があわててネット裏から舟を漕ぐような歩き方で飛び出してきた。
「神無月くん―」
 背中に追いつき、振り向いた私にお辞儀をして、カバンから一冊の真新しいノートを取り出した。
「あの、これ、受け取ってください」
「…………」
 私はノートを見下ろし、黙っていた。
「日記です。交換日記」
「ぼくと加藤さんが?」
「そう。もしいやなら、無理には……」
 一瞬、面倒くさいな、という気持ちがよぎったが、表情には出さなかった。
「読んで、笑い飛ばしてくれてもいいんです」
「いいよ、やろう」
 雅江の目が輝き、満面に生気があふれた。私はそれを見て、思わず笑った。
「ありがとう! 毎日じゃなくてもええんよ」
「もちろん毎日は書けないよ」
 ノートを渡すとき、雅江の指が私の指に触れた。彼女はからだに電流が走ったようにピクリとなった。
「日記の受け渡しは、一週間に一回、土曜日にお願いします」
「どこで?」
「あの教室にせん?」
 雅江は三塁側の二年C組の教室を指差した。
「ぼくの教室だ」
「都合がいいでしょ。私、二Hで、ライト側の校舎だから」
「わかった。カバンを取ってくる」
 私はノートを手に、雅江に見える背番号8を意識しながら更衣小屋へ駆けていった。
 学生服に着替えて戻っていくと、
「ちょっと教室まできてくれん?」
 雅江は言い、二Cの教室に向かって歩き出した。
「教室に何かあるの……」
「見せたいものがあるの」
 私は仕方なくついていった。渡り廊下を通って、ムッとする廊下から薄暗い教室に入る。雅江は窓際の机の上に腰を下ろし、ぼんやり立っている私を見つめた。黙っている。思いつめたように肩を落としている。
「どうしたの?」
「うん……。時間が経つと、気持ちがしぼんでまう。早めにすませよ」
 明るい声で言って、坐った姿勢のまま、何の躊躇もなくスカートをするするとまくり上げた。
「見て―」
 一本の健康な太腿(もも)と並んで、もう一本、細い棒が寄り添っている。骨に皮がついているだけの、すべっとした竹ひごだった。私は、リサちゃんや今朝文の脚に感じたよりも、いっそう痛々しいものを感じた。
「びっくりした?」
 と雅江は尋いた。
「べつに。ただ、そんなに細いなんて、知らなかった……」
 それ以上何を言えばいいのかわからなかったので、何も言わなかった。雅江がその竹ひごを私に見せているとき、私よりも驚いて見入っていたのは雅江自身だった。彼女はいつまでも自分の腿を見下ろしていた。
「気持ち悪いとは言えんわね」
 雅江は顔を上げて私のほうを見ると、大きな目を暗がりの中できらめかせた。
「どうして私の脚、こんなになってまったんやろ」
 そう言うときの雅江の細めた目つきに、私は何か楽しげなものを感じた。
「楽しそうだね」
 雅江は驚いて私を見つめた。
「楽しそう?」
「うん、楽しそうだ」
 たしかに宿命は彼女に障害という重荷を負わせた。でも、障害の暗い穴に嵌まりこんだ雅江は、宿命とのあいだに個人的に結んだ取引にこっそり満足しているはずだ。
「楽しくなんかあれせんわ、ぜんぜん」
「どんなことにも耐えていかなくちゃいけないって、自分が知ってるからだよ。太いとか細いとか言ったって、歩けるんだ。歩けるなら、耐えられる。それがわかってるから、楽しそうにしてるんだ」
 次に何と言ったらいいかまたわからなくなった。
「じゃ、手も足も、使えればええの? みっともなくてもええの?」
「そうさ。ちゃんと動くなら、人は満足しなくちゃいけないんだよ。満足すれば、どんな醜さも、大したことじゃないって思えてくる。酒井リサちゃんていう飯場の子は、トラックにひかれた脚にすごい傷跡が残ったけど、歩くことはできる。藤本今朝文も、あんな足だったけど、ちゃんと歩けた。肘の手術をしたとき、同じ病室にダッコちゃんていう下半身不随の大学生がいて、足がぜんぜん動かなかった。おしっこもうんこも垂れ流しだった。でも、そのダッコちゃんでさえ、立派に、明るく生きてた」
 雅江は私の言ったことの意味を考え、自分の気持ちが整理のつかないものになったような、少し不快そうな表情をした。慰めてくれると思っていた相手が、気休めの一つも言ってくれると思っていた相手が、自分の急所を衝いて、するどく刺激したという表情だった。
「でも、いややな―」
 雅江はその表情を崩さないで言った。そうしてしばらく黙っていた。
「何がいやなの?」
「神無月くんもいやでしょ。両方、ちゃんとそろった足のほうがええでしょ。ウソ言ったらあかんわ」
 切実な響きを持った声だった。
「いやとか、いやじゃないとか、考えたことはないよ。つらいだろうなって、思ったことはあるけど」
「つらいことがわかるってことは、神無月くんはいやだと思っとることになるでしょ」
「いやじゃないけど、仕方ないなって思ってる。仕方ないなって思うことは、いやだと思うこととはちがうんだ。仕方ないってあきらめれば、ほかのことが考えられる。ほかのことを考えるところへいくまでが、つらいだろうなって思う。どう言えばいいのかな―加藤さんみたいな人には、そんな仕方のないことをいつまでも悩んでほしくないんだよ」
「私みたいな人って?」
「強い人。そして、きれいな人かな」
「当たり障りのないことを言わんといて……。私はまともに生きてみたいだけ。それがさせてもらえんのは、不公平でしょ?」
「まともって、どういうこと?」
「いろんな運動をしたり、勉強をしたり……そういうこと。脚が悪いからって、それができんのは不公平やわ」
「してるじゃないか。人一倍やってるよ」
 加藤雅江はスカートを叩くように弾き下ろし、ポニーテールを揺すりながら喉の奥で唸った。彼女が言いたいのは運動や勉強のことじゃない、と私は思った。
「どうしたの、怒ったの?」
 雅江の顔が蒼ざめ、一つの考えに凝り固まったような表情になった。
「ええ、怒ったわ。……神無月くんは、こんな私のこと、好きですか?」
 私は即座に答えた。
「好きだよ」
「いやだ―」
 雅江はかすかに口を開けて、しかめ面になった。ほんとうに腹を立てているようだ。私はイライラした。こうやって時間をつぶしているのが耐えられなくなってきた。
「何がイヤなんだ。そんなにせっぱつまったしゃべり方は、きみらしくないよ。なぜもっとぼんやりしていられないんだ。脚が悪けりゃ、一巻の終わりなのか」
 彼女が穏やかな気持ちでいられない原因のくだらなさが、私の口調をきつくした。
「何も考えるなってこと?」
「大事なことをいつも考えてれば、ほかのことでぼんやりしていられるさ。ぼくがきみだったら、たしかに脚のことはつらいけど、自分の価値のことだけを考えようとする。どうにもならないんだから、そうするしかないだろ」
 さらに突き放した言い方になった。雅江は私の言葉の冷たさにたじろぐように、小さくなった。
「そんなに、はっきり言わんでも……。私なんか、たとえ足がよくたって、何の価値もあれせん」
 私は雅江に対する苛立ちと同時に、自分が口にする強い言葉に反した、ほとんど感激に近い胸のざわめきを覚えた。それは加藤雅江が心のすべてを包み隠さず見せているせいだった。
「価値がないのか。……もともと価値がない穴の開いた人生なら、何をされても損はないってことだろ。損のない人生なら、新しい時間をぜんぶ穴埋めに当てることができる」
「穴の開いた人生を、新しい時間で?」
 雅江には自分が非難される調子のほかは、ほとんど私が何を言っているのかわからないようだった。彼女は愛する少年のほうを見た。彼のからだがするどい武器になって、ただ自分を傷つけるために突っかかってくるように見える。
「価値がないと思ってるのは、自分の人生にふつうの人にない穴が開いてると思ってるからだろ? それなら、穴埋めしなくちゃ。ぽっかり開いた穴ばかり眺めてため息ついてるやつは、穴埋めしたって甲斐がないと思ってるし、穴埋めがうまくいかなかったらおっかないものだから、やけくそで何もしようとしないんだ。きみはそんな人じゃない。ちゃんと穴埋めしてる。勉強だって、運動だって、こうやっていま、ぼくに自分の気持ちを打ち明けたことだって、そういう時間を作って―」
「あ、わかった。ほかのことに関心を向ける時間やね! 足のことを思ってる古い時間じゃなくて、新しい時間」
「そう!」
 加藤雅江に私の言葉が一瞬のうちに理解され、さわやかな啓示になったようだった。私がまじめに考えた非難の言葉は、彼女の心に新鮮な切り傷を作って刻みつけられた。私はその先を言おうとしなかったけれども、雅江にはよくわかった。雅江は深い眠りから目覚めたような顔つきになって立ち上がり、無言で私を見つめた。私も雅江の顔を見つめた。雅江はあわてて手の甲で涙を拭った。
「もう、いきましょ」
「うん」
 私は雅江の先に立って教室から校庭へ出た。雅江はひょこひょこした足どりで私のあとをついてきた。雅江は声を詰まらせながら言った。
「ごめんね、つまらないこと言っちゃって」
 少し間をおいてから、私も気軽な調子で応えた。
「ちっとも、つまらなくないよ。ぼくがきみなら、もっと悩んでる」
「もうええの。気使わんと、もっともっと野球がんばって。野球イノチ、だもんね、神無月くんは」
「―ちゃんと書くからね、交換日記」
 ほとんど暮れかかった校庭で、雅江の黒い目がやさしく光った。私は思わず雅江の手を握った。目が熱くなった。そっと手を離そうとしたとき、
「もう少し、こうしとって。元気が出てくるから」
 校門を出てからも、雅江は不細工な足どりで、からだに弾みをつけながら私と並んで歩いた。
「歌を唄ってあげる。大好きな曲なんだ」
 私は唄いだした。ザ・スカイライナーズの『シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー』という曲だった。歌詞はラジオからテープレコーダーに吹きこんで耳で覚えたカタカナ英語だったので、意味はわからなかった。

  アイ ドン ハブ プランザンスキー
  アンダイ ドン ハブ ホープアンドリー
  アアアアイ ドン ハブ エニーシン
  シンス アイ ドン ハブ ユー
  アイ ドン ハブ フォンディザー
  アンダイ ドン ハブ ハピアー
  アイ ドン ハブ エニーシン
  シンス アイ ドン ハブ ユー
  アイ ドン ハブ ハピネス エンダイゲー
  アイ ネバ ウィル アアアゲエエエン
  ウェン ユーアー ウォークタンミー
  イン ウォークトル ミザリー
  アン シーズィンゼア シンゼー
  アイ ドン ハブ ラブトゥシェー
  アンダイ ドン ハブ ワンフーケー
  アアアアイ ドン ハブ エニーシン
  シンス アイ ドン ハブ ユー


「すてき! すごい声」
「スカイライナーズの『きみがいないので』という曲。……いまの気分にぴったりのような気がして」
「―好きなんです、神無月くんのこと。それだけを伝えたかったのに、新しい時間を使うことができなくて」
 大瀬子橋にさしかかったとたん、雅江はぴょんぴょんと片足を振り子のように前へ跳ね上げながら、橋の反対側のたもとまで駆けていった。川風にひるがえるスカートの裾から片ちんばな脚が見えた。彼女は欄干の外れで立ち止まり、しばらく放心したように臙脂色の空を見上げていた。それから振り返り、
「さよなら! きょうはほんとにありがとう」
 と叫んだ。


         三十八

 野球をしているときの神無月くんは、しなやかな全身がバットやグローブと一つのものになって、駆けたいように駆け、停止したいように停止し、跳ねたいように跳ねます。だれの目にも、神無月くんが野球を身に合ったものとして愛し、打ちこんでいるのがはっきりわかります。恵まれた才能に対する賞賛と、それに応えられる自信が、神無月くんに寡黙を命じているのです。四年生の秋に、真っ白い校庭で、神無月くんが寺田くんと戦う姿を目にして以来、私はいつも神無月くんのことが頭にありました。
 どんな不運や失意も乗り越えて、神無月くんは野球に没頭しています。私は神無月くんのように没我の気持ちになることができなくて、それで、ネット裏から見ていると、ひどく励まされ、新しい意欲が湧いてくるのを感じるのでした。まるで、グランドを走り回る少年が小さな導火(みちび)になって、いつも自分に点火してくれるような感じなのです。でも、自分の体力ではテニス部の練習にはとてもついていけないので、先日退部届を出しました。なんとか一年余りがんばってきたけれど、神無月くんの言ったように、やっぱり自分には無理だと思います。
 毎日私は、カバンをからだの前に提げ、放課後のほとんどの時間をバックネットの後ろにたたずんですごしました。一年生のころよくいっしょに立っていた杉山啓子さんも、二年生になってからはさっぱり顔を出しません。少しせいせいしました。見守るというのは根気がいるのです。あこがれの神無月くんは、グランドを一生懸命走り回っています。神無月くんの動きは滞るところがなく、くっきりと目標の輪郭が定まっているせいか、保証された将来に向かって着々と歩いている感じがします。私は、目の前で神無月くんが敏捷に動いている姿を見つめながら、いままで一度も自分があんなふうに明確に行動したことがなかったような気がしました。
 少し小さめのからだがバッターボックスにどっしり重心を落とし、ボールがやってきたとたんにバットをするどく振り抜く。神無月くんはボールを遠くへ飛ばすことで夢中のようです。そんな姿を見るにつけ、私は神無月くんを深く愛しました。神無月くんはいかにも素朴で、そして自分一人だけで充足していました。ときどき気まぐれにネット裏に視線を投げてよこすことがあるけれども、それは私を見るためではなくて、何か野球の問題を思いをめぐらすためのようです。その証拠に、神無月くんはすぐに視線をもとに戻して、真剣な顔つきになります。ほかの部員に対しても似たり寄ったりです。私は神無月くんの目に映るグランドの風景の一部にすぎません。 

 加藤雅江の文章は、中学生のものとは思えなかった。将来小説家になる女なのではないかと思った。ノートに書かれている〈神無月くん〉が、自分のことだと信じるのは困難だった。
 国語の授業で、宮沢賢治の『永訣の朝』という詩を習った。私はその悲痛な響きと、言葉のリズムの見事さに舌を巻き、こんな素晴らしい詩を書けたら、野球ができなくなってもかまわないな、と思わず考えたくらいだった。
「神無月、読んでみろ」
 青山先生が言った。彼は二年生にも国語を教えている。今年からはもう習字はない。私は東北弁で読みます、と応えて読んだ。

  ああとし子
  死ぬといういまごろになって
  わたくしをいっしゃうあかるくするために
  こんなにさっぱりした雪のひとわんを
  おまへはわたくしにたのんだのだ
  わたしもまっすぐすすんでいくから
     (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
  すきとほるつめたい雫にみちた
  このつややかな松のえだから
  わたくしのやさしいいもうとの
  さいごのたべものをもらっていかう
  わたしたちがいっしょにそだってきたあいだ
  みなれたちゃわんのこの蓋のもやうにも
  もうけふおまへはわかれてしまふ
     (Ora Orade shitori egumo)


 読み終わると、青山先生は涙ぐんだ。
「うまいねえ、それは岩手の方言なのかな?」
「いえ、青森弁です。ぼく、青森で育ったから」
 直井が拍手し、教室中が拍手喝采になった。
 たとえこんなに美しい詩は書けなくても、下手くそなりに、自分の心を伝えるだけのものは書けるだろう、そう思って私は、詩とも言えないようなつたない断片をあれこれ工夫しながら、その夜の交換ノートに書き記した。
 加藤雅江の文章に見合ったものを書こうとしても、鉛筆が滞るばかりだった。できあがった詩は、恥ずかしいほど貧弱なものだった。

  きみの竹ヒゴを治してやろう
  きみの竹ヒゴを太らせてやろう
  きみのまわりが砂漠でなく
  スイカズラのにおいに満ちた花園だと教える前に
  とにかくその足を治してやろう
  約束しよう
  いつかきっと
  きみの竹ヒゴを真っすぐ太らせてやる


 書きながら、『おい、大それたことを言うなよ』という声を背後から聞いた。しかし翌週の土曜日に思いがけない返事が返ってきて、私を喜ばせた。

  神無月くんはやさしい人ですね。やさしいから、つい人の気を引くようなことを言ってしまうんですね。私の脚なんか治さなくてもいいです。立派な野球選手になることだけを目指してください。あんなふうな脚の見せ方をした私はひねくれていました。神無月くんはそのひにくれた心を治してくれました。それで十分です。心といっしょに、足も治ったような気になりました。神無月くんの言葉こそ、スイカズラの花のような香りがします。神無月くんは名医です。

 それからというもの、雅江は私が書いてやった文章をことごとく褒めちぎり、その内容を肯定した。私の書くことはほとんど野球に関する大望のことで、雅江の書くことは、それへの励ましと、英語か数学の質問だった。私は質問に丁寧に答えた。
 ある日の下校どき、雅江の家の生垣に、ウツギの白い花がちらほら頭を出しているのが見えた。そこで私は交換日記にこう書いた。褒められることに慣れたせいか、それはもうほとんど意味のない、独りよがりな気取った単語の連なりにすぎなかった。

  遠くに見える白いものは
  霧の切れはしか うつぎの花か
  きみに逢いたくて ここへきた
  きみの家のそばを 素通りしてしまうことはできない
  寂しい空が 真珠色にたれこめる
  垣根にただよう うつぎの花のにおい
  きみのにおいだ
  立ち止まり 視線を凝らす
  いたるところに純白の花
  枝と葉を背に
  象牙や星型の白が 散っている
  どれがきみだかわからない


 しばらく雅江は日記を返してよこさなかった。私はひどく後悔した。十日ほどして彼女はまじめな返事を書いてよこした。

 まず詩について書きます。なんだかおかしな詩でした。ことばを飾ることがよいことだと思っているみたいで、意味もハッキリしません。
「きみはうつぎのにおいのする人だ」
 とだけ書けばよかったのではないでしょうか。そんなふうに書かれても、私でないみたいで恥ずかしいですけど。神無月くんが詩や文章に書くことは、本気なんだと思わせてください。これからはもっと自然に書いてほしい。毎日の出来事について、心から感じたことを、意味がわかるように書いてください。私のことなんか、どうでもいいのです。〈逢いたい〉のは私のほうで、神無月くんではないのですから。神無月くんは、野球はずば抜けているし、頭はいいし、ほれぼれするほど話し方も上手です。ふつうの人は、他人がそんなにすぐれたものをたくさん持つことは許せません。私は神無月くんが好きなので、許せます。

 私は、詩をこねくり書いたときに味わった不満を忘れ、雅江が〈作品〉を気に入らなかったという事実に傷ついた。野球も勉強もそうだが、私は肯定や否定の評価を受けないかぎり、自分がしていることをはっきり意識することのできない性質だった。だから雅江の返事をじっくり読むことで、頭の雲が晴れ、自分が得意になってこしらえた〈詩〉の性質を納得することができたのだった。
 こんなに万事心得ているふうの雅江に、あの痴漢のことをくまなく暴露してしまおうかと思ったけれど、彼女が性欲というものの真理や謎を教えてくれたり、笑ってそれを肯定してくれたりするとは思えなかった。だから私はそのことを、雅江はもちろん、心から尊敬している康男にもけっして語らなかった。
 それからも雅江はよくグランドの〈神無月くん〉を見つめていた。彼女は、彼が風に祝福されるように、機敏に、たくましく動き回っているのを感じた。そして彼が、しっかりと自分の肌に触れてくれないのを感じた。彼のしなやかなからだの動きは、いかにも伸びのびとしていて、その表情はいかにも屈託がなさそうで、そして、それは自分とはいっさい関係のないもののように思われた。加藤雅江は彼に触れられない自分の無力さに、悲鳴をあげたくなった。
 交換日記は二カ月ほどつづいた。私の判断とはちがって、加藤雅江という女は、自分の内面を素直に人に打ち明けるような性質の人間ではなかった。彼女にはいつもある不可解さがつきまとっていた。でも、ほとんどのことを内に包んで語らないのは、それだけ多くのものを持っているからにちがいない、と私は思い直した。
 つまり、彼女の外見の哀れさはだれの目にも明らかだったけれども、その外見の中に人間的な深みが包み隠されていた。そう気づいたことが私の好奇心を刺激した。自分の長所を包みこむ分、彼女は自分の外のものごとを批判する眼が鋭かった。だから私は、雅江と肩肘張った文章をやりとりすることで、ぼんやりものが見えるようになり、いままで気づかずにいたことがかなりわかるようになった。それは感謝に結びついたが、恋心に結晶することはなかった。
         †
 夏の盛りが近づき、トーナメント試合の間隔が詰まってきたころ、交換日記を書く野球少年の筆が渋りはじめた。加藤雅江も言葉を捜しあぐねて、紋切り型の文章を書くようになった。少年は誤解されることを嫌って、彼女に対する同情めいたことはいっさい書くまいとしたし、雅江も苦しいほどの恋心を隠して、女の友達に対するように淡々と書いた。
 加藤雅江はようやく、私が彼女にだけではなく、女一般に関心の薄い人間なのだと気づいた。目つき、声色、ものの言い方なぞ、まるで下心というものがなく、どんなに控え目に女生徒に接している男子の態度とも千里の隔たりがあった。しかし、そんなことに気づいたところで、恋心を抑えることはできなかった。やがて、夏の終わりがこないうちに、自然と交換日記はとだえてしまった。
 あるとき雅江の父が、娘の机の上に置いてあった『交換日記』とペン書きされたノートに目を留めて、身の引きしまる思いで開いてみた。彼は涙を流した。日記の中の二人はたがいから遠い話をしていた。詩や感想のかけらを記した活字のかもし出すイメージは、なるほど二人に尽きない話題を提供していた。しかしそれは、肉体をあきらめている娘に心やさしい〈恋人〉が同情しているからだった。父は少年の顔を見た覚えがあった。ユニフォーム姿がさっそうと家の前を過ぎていくのを何度か目にしていた。
 父は、娘が少年のすべてをものにできずにいることを感じた。何か、少年の大きな、そして本質的な部分を占めている、神秘的と言えるほどの明るさに娘は手を出せずにいて、父の感じたところでは、自分ばかりでなく他人の秘密も尊重する主義の娘は、彼の美質を後天的に獲得した秘密として尊重し、同化しようともしなければ、理解しようともしていなかった。
 彼に言わせると、こんなたがいの遠慮から成っている不毛な交渉は、肉体から遠い活字を焚いてエネルギーにしているようなもので、くべる活字がなくなればたちまち火は消えてしまうのだ。そしてそのとおり、交換日記の日付はかなり前で途切れていた。しかしそれはたぶん、幼い娘にはどうにも解決できない問題なので、父は何か娘が言い出すまでは放っておくことにした。ふと彼は、いつか遠い将来、娘が自分の殻を破って恋の相談をしてくれば、大人になったあの少年と親身な話をすることがあるかもしれない、と思った。


         三十九

 クラスに本山(もとやま)という色の白いノッソリした生徒がいる。四角い板から突き出した把手のように、鼻だけが高い。運動も勉強も不得手だ。いつも教室の窓際にひっそりと座っている感じなのだけれど、まっすぐ背筋を正しているたたずまいには、いわく言いがたい深みが感じられる。熱田神宮の神主の息子だそうだ。
 本山はその雰囲気と、神主の子という連想から、ホンザンというあだ名で呼ばれている。国語の時間などに、私が当てられ起立して答えると、窓際からじっと見つめていることがよくある。そのホンザンが、夏休みの日盛りの午後、練習を早めに切り上げた野球部の連中に近づいてきて、
「たこ焼き、食わん? ぼくが焼くんやけど」
 いつものノッソリした口調で尋いた。彼の顔見知りは私たった一人きりなので、きっと私だけを誘ったつもりなのだろう。
「こんなクソ暑いときに、たこ焼きか? ふざけんなや。冬だったら、なんぼでも食ったる」
 本間があしらい、ずんずん歩いて門を出ていってしまった。三年生のレギュラーや補欠連中も彼のあとを追った。ホンザンは老け面で、おっとりしたものの言い方をするので、一見、年の長けた頭の弱い高校生に見える。本間は、ふらふら校庭にまぎれこんできた危ないやつに話しかけられたと誤解したのかもしれない。私はホンザンを気の毒に思い、
「本山くんのお父さんは、熱田神宮の神主さんなんだ」
 とデブシたちに説明すると、関が、
「こいつ、神無月のクラスか。知らん顔だと思ったわ。そういえば、なんか神主みたいな面しとるな」
 と言って笑った。私はたこ焼きというものを知らなかったので、
「たこ焼きって、今川焼きみたいなもの?」
 と問いかけると、
「今川焼きじゃなくて、大阪が本場の丸くて小さいお好み焼き。中にタコの足やテンカスを入れて焼くんだよ。ほら、縁日でよく見かけるがね。十六個焼ける鉄板を持ってるんやけど、五十個は焼くと思うから、一人じゃ食い切れん」
 ホンザンは笑顔でのろのろ答えた。どうも私だけを誘ったのではなかったらしい。御手洗があきれたふうにホンザンを見た。
「なんやそれ。一人で食い切れんで、いきあたりばったりに俺たちを誘ったんか。アホやなあ」 
「真っ昼間から、そのおっさん面でうろうろしとったら、本間さんでなくても気持ち悪う思うわ」
 太田が追い討ちをかける。
「おもしろそうだね。どうやって作るの?」
「鉄板の丸くへこんどるとこへ、練り粉を流しこんで焼くんや。もう、すっかり準備できとる」
「じゃ、ごちそうになるかな」
 私が食指を動かしたことで、デブシも関も太田も、御手洗や高田までが、
「食おまい、食おまい」
 と調子に乗った。みんなでぞろぞろホンザンのあとをついていく。アイロンのきいた白い半袖シャツの背中が涼しそうだ。運動部でもないのに、なぜか真新しいトレパンを穿いている。奇異な感じだ。照り返しのきつい伏見通りを渡って小ぶりな門に出る。門を入った右手の林の中に、横井くんが描いた南神池がある。写生大会以来なのでなつかしい。
「ここは西門。孫若御子(ひこわかみこ)神社や日割御子(ひさきのみこ)神社のそばにある正面の門は、正式には南門て言うんや。名鉄神宮前のほうは東門。門のそばに神宮学院があるやろ。あそこは禰宜(ねぎ)や祝(はふり)クラスの神官を養成するところ。神官ゆうても、神主、禰宜、祝、と三階級もある」
 だれも聞いていない。
「お父さんは、神主?」
「そう。学院の垣根の外に、粟田くんの電器屋があるよ」
「知ってる。ほら吹き野郎だ」
「嫌いなん?」
 ホンザンは親しげに私に問いかけた。
「このあいだ、あいつの店でテープレコーダーを買ったんだ。友達だって言えば三割引いてくれるって言ったのに、一割しか廉くしてくれなかった。元値でいいです、って二万二千円も出して買った」
 カズちゃんの毅然とした顔を思い出した。
「粟田くんはお調子者やからね。悪い子やないんよ」
 個人の苛立ちなど、こんなふうにいつもナアナアになっていく。だからどんなことでもあとで思い返すと、大したことではなかったように感じられるのだ。これが、悪人が助かりつづける仕組みだろう。
「高いもんなんやなあ」
 関が羨ましそうに目を輝かせた。彼には下校の道々、裕次郎やプレスリーを何度か唄って聴かせた。そのたびに彼はきらきらと瞳を光らせる。歌を覚えようとすることもあるけれども、なかなか覚えられない。俺もステレオが欲しいな、といつも言っている。
 ちょうど二年前の夏、決勝戦の前に風邪で寝こんだとき、関は親切に見舞いにきた。クマさんがステレオを買ってくれたのは、そのすぐあとだった。まだあの音を聴かせていないけれど、遊びにこい、と言う気はしない。音楽は人に聴かせるものではなく、自分だけで聴いて、そうして、発見するものだ。
 西門を入るとあたりが緑一色になった。
「きみはいいところに住んでるね。自然が一年中きれいでしょ」
「きれいはきれいやけど、それほどいいところとは思わん」
「どうして」
「みんなよく自然の美とか言うけど、ぼくはあんまりそういうのは好きじゃない。自然に押しつけがましくされると、うるさいなって思う」
 聞きなれないことを言う。トロい男ではなかった。
「押しつけがましいって、どういうこと」
「見ろ、見ろって、ゴリ押しでくること。大事なのは、見ることやない。人と話したり、本を読んだり、考えたりすることや」
 新鮮な意見だった。ただ、観ることは考えを引き出す上で、とても大切な要素だと思ったけれども言わなかった。
「何かを観ていて、ものを考えるヒントを見つけたり、逆に、考えたり、話したりしながら、思わず、美しいなって周囲を眺めちゃうことはないの?」
「ない。小さいころからここにいるし、めずらしい気もしないから」
「ぼくは、毎朝走っていて、つい木の多いところへ入りこんで深呼吸するよ。庭のある家は眺めちゃう。自然の美というより、心が和むというか。そうすると考えが湧いてきたりする」
「めずらしいからでしょ。生きている人間のほうから心をかよわせて、緊張したり、感動したりして初めて、和んだ気持ちにもなれるんやが。自然のほうからは心をかよわせられんがね。自然は、黙っとるか、暴れるかのどっちかや。人間やったら、そんな人、ぜんぜん魅力がない」
 みんな要領を得ない顔つきでホンザンとの話を聴いている。頭はいいけど、なんだか振幅の少ない男だなと思った。彼は西門から参道まで伸びているマテバシイの生垣に沿って歩き、途中に切ってある小さな柴門を開けた。中に入ると、立ち木に囲まれた小庭になっていて、そのはずれにひなびた小庵が建っていた。
「ここらへんは菅原社の一画で、あの小さい建物は『又兵衛』という茶会所だが。向こうにそびえているのは有名な大楠。その下にある大きな建物は、殿舎じゃなくて休憩所」
 又兵衛のそばに稲荷のようなものがあって、絵馬がたくさん奉納されている。中に両手を並べた格好を描いた絵があった。
「何、あれ?」
 私が尋くと、
「職人が奉納したんだが」
「くだらん説明はもうええわ。おまえんちは、どこや」
 太田がイライラした声で言った。
「又兵衛の裏」
 みんなで又兵衛のほうへ歩いていく。湿った地面にスパイクが突き刺さる。
「なんや、汚ねえ小屋だな」
 デブシが又兵衛の小さな濡れ縁の手すりをこすりながら言った。
「ぼろぼろやが」
 みんな手すりをゴシゴシやる。その小屋は私の目にも、すっかり古ぼけて、あばら家のようにしか見えなかった。
「触らんといて。神宮内の建物はほとんど文化財になっとるで。こういうものは、ただ古いとか、今昔の感に堪えないといった見方をしたらあかんのだが。むかしをしのぶだけでなく、新しい建築技術に応用するための研究材料にもなるんや」
 高田が八の字に眉をしかめて、
「コンニャクノカン……なんやて?」
「こんにゃく、じゃなくて、こんじゃくの感―」
「面倒くせえな。早くたこ焼き食わせろや」
 太田が声を荒くした。
 又兵衛の背後の木立に隠れるように、古びた一軒家が建っていた。玄関らしいものはなく、覗きこむと、一間きりのようだ。裏庭に回ると、垣根にトタン屋根の物置がへばりついている。
「これがおまえの家か!」
 関が憐れむような声で言った。
「勉強部屋や。家族が住んどる神主本舎は、龍影閣のそばにある。信長塀に隠れるように建っとるから、外からは見えん」
「いちいち、わけのわからんこと言うな!」
 デブシの叫びに、私たちは思わず笑い声をあげた。また一人、変人発見、私はそんな気持ちだった。
「上がって、上がって。ちょっと狭いけど、詰めて坐れば―」
 甲高い声でホンザンが言った。みんなずかずか部屋に上がりこむ。足のにおいが充満した。私は鼻をつまむ格好をして、
「みんな、足くさいなあ」
「神無月はくさないんか」
 太田が言う。
「肘の手術で入院したときにわかったんだけど、手と足に汗を出す穴がなくて、年中かさかさしてるんだ。ストッキングなんか泥で汚れたとき以外は替えない。これ、もう二週間履いてる」
 太田は足裏を撫ぜてみた。
「ほんとや!」
「足はいいとして、掌は不便だよ」
「それで金太郎さん、よう掌に唾つけとるんやな」
 御手洗が納得のいったようにうなずいた。デブシが私の掌をさすった。関は自分の手柄のようににこにこしていた。
 窓際の大机の上に、二十ワットの立派な蛍光灯スタンドがでんと置かれ、目の前の壁に吉永小百合と舟木一夫の大きなブロマイド写真が貼ってあった。敷居の向こうは、二帖ほどの台所になっていた。
「小百合かあ、好きだなあ、俺。映画ぜんぶ観とる」
 関が言った。関と映画は結びつかなかった。すかさずデブシが、
「こないだ小百合の家に、ピストル強盗が侵入したこと、知っとるか」
「おお、テレビのニュースで観た。小百合の腕に自分の名前を入れ墨しようとしたんやて」
「見守るということを知らん人は、ほんとのファンとは言えんと思う」
 とホンザン。
「なんで、小百合と舟木なんだ」
「彼は、純粋な歌を唄うからね。そこが吉永小百合と共通してる」
 変人、かつ、ミーハーでもあることがわかった。
「ハイキングかフォークソングの歌やろ。学園ソングやら、俺は好かん」
 太田が皮肉っぽく吐き出した。六畳の真中にすでに鉄板が据えられ、刻んだネギや、タコの足や、天カス、擂(す)りつぶしたカツブシ、紅生姜などが深皿に盛られ、ステンレスのボールにはどろりとした粉っぽい液体が入っている。ソースやマヨネーズ、採り皿には割り箸まで載せてあった。
 机の上の本立てに、見たこともない学習参考書がぎっしり並んでいる。部屋の突き当りには、万年蒲団が行儀よく敷いてあった。
「蒲団ぐらい上げろや」
 デブシに言われてホンザンはあわてて蒲団を畳むと、押入へ放りこんだ。それだけで六畳がよほど広くなった。
「長芋も擂って入れといた。うまいで」
「蒸し風呂やな、この部屋。窓開けろ。戸も全部開けろ」
 関が部屋中の窓と戸を開けた。デブシはホンザンのしかめ面を無視して、汗と土にまみれたストッキングを脱いだ。みんなそれに倣った。さらに強烈なにおいがムッときた。関が、
「くっせえなあ! 金太郎さん見習えや」
「見習えるか!」
 デブシが関に足を突き出す。勉強部屋そのものが木陰にあるせいで、気持ちよく冷えた風が入りこんできた。鉄板の下は四角い大火鉢になっていて、埋火が細く熾(おこ)っている。
「いま炭をカンカンにするからね。暑いけどがまんしてよ」
 ホンザンは灰から種火を掘り起こし、新しい炭を足した。油っぽい小さなモップを丸いくぼみにせっせとすりこみ、しゃもじですくった粉水を豪快に流しこんだ。
「荒っぽいね」
「これでいいんよ」
 タコ、天カス、紅生姜、カツブシと器用に落としこんでいく。私は感嘆した。
「名人だ」
「肝心なのは、天カスとカツブシ」
「カツブシはあとでかけるんでにゃあのか」
 太田が言う。
「それじゃ、隠し味にならんわ」
「隠し味てか。隠さんと、ちゃんと味わわせろや」
 遠慮のない笑い声が上がった。


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