四十六

「覚悟していますよ」
 母は身を乗り出しながら所長の言葉に応えた。つまり、所長の言葉を自分への励ましとして受け入れたのだった。この二人が、スカウトを追い返したのだ。母の声があまりに皮肉な調子に満ちていたので、温厚なクマさんが目つきを鋭くした。
「おばさん、いったいどういうつもりなんだ。キョウをなぶり殺したいのか。岡本さん、あんたもまともな人間ならわかるだろう。何の権利があって、キョウの将来を潰さなくちゃいけないんだ。あんたとキョウの将来と、どういう関係がある? あのスカウトを捕まえて、申し訳ないって謝らないと、キョウは一生浮かばれないぜ」
 クマさんは爆発する一歩手前の感情を懸命に抑えていた。 
「それはどうかな、熊沢くん。きょうだって、私が叱らなければ、この鬼子は見舞いにきたかな」
「ここにくることでキョウは浮かばれるのか。見舞いにくりゃ、ご褒美に中商にいかしてやるのか。親孝行か何か知らないが、キョウをこの鬼親の奴隷にすることに、いや、あんたがそれに加担することにどういう意味があるんだ、教えてくれ」
 所長は黙り、代わりに母が言い募った。
「部屋代も湯銭もいらないような、甘えればだれかが何でも買ってくれる贅沢な暮らしをしてると、その生活を支えてるのはだれかってことを忘れちゃうんでしょうね」
「生活を支えてやっていれば、犬ころ扱いしていいのか。天才をだぞ。支えるなら、まともに支えてやんなよ」
 所長はハッハッハと磊落を気取った声を上げた。何がおかしいのかわからなかった。
「子供のころは、みんな天才だよ。私もそう言われたもんだ」
 クマさんが舌打ちした。
「格がちがうぜ! ライバルになりゃしねえよ。ああ、そういうことか。あんたたち、キョウと競い合おうとしてんのか? ……そうか、そうか、あんたたちがキョウを憎んでる意味がようやくわかったよ」
「熊沢くん、クラウンの運転手は辞めてもらうよ」
「ズバリときたな。願ったりだ。俺にはトラックが似合ってるよ。あしたから酒井棟で働かしてもらうわ」
 私はクマさんと並んでベッドから離れて立ち、他人のような視線で母を眺めていた。
「ま、ゆっくり養生して」
 所長は母に言葉をかけて立ち上がり、私とクマさんに向かい合う格好になった。彼は私たちに一瞥も与えないで、
「おい、原田くん、いこう。このあたりじゃ、タクシーを拾うのが手間だ。伏見通りまで出よう。きょうは、クラウンはこの子専用らしいから」
 彼の嫌みにクマさんはまた舌打ちした。
「おお、きょうだけは車借りるわ。帰りにめしでも食わしてやりたいからな」
 母はこの場の角逐に意を介していなかったようなケロリとした顔で、原田さんに頼みごとをした。
「クリーニング屋に出すワイシャツの手配とか、風呂掃除や部屋の掃除、くれぐれも根気よくやってほしいと、カズちゃんに伝えてください」
 と頭を下げた。所長と原田さんが部屋を出ていくと、母は、私とクマさんをぼんやり見つめながら、ゆっくりと蒲団の上掛けを整えた。
「もういいんだよ、お義理でいてくれなくても。おまえの言うとおり、かあちゃん、自分の病気は自分で治すよ。毎日勉強だけはちゃんとしなさい。ごはんはなるべく、みんなが終わったあとで食べるんだよ。熊沢さん、郷のいい父親代わりをしてくれて、ほんとうにありがとうございます」
 クマさんは三度目の舌打ちをした。
「キョウは独立独歩だよ。何があったって、乗り越えていくさ」
「病気の親を無視してね」
 母は苦々しい顔で、水屋の上の吸飲みを取った。彼女はうまそうに冷えた茶を飲んだ。私は、クマさんしか人間の熱を発していない寒々しい雰囲気から早く逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「どこまでも自分しかないようだな、おばさんは。息子の人生なんかどうでもいいって親を、俺は初めて見たぜ。病気? 俺もこの病気、経験があってね。大したもんじゃないんだよ。家でちゃんと薬を飲みつづけていれば、石は融けちまうんだ」
 母は大儀そうにうなずき、
「ええ、そうなんでしょうね。ありがとうございます。熊沢さんはじめ、みなさんいい人たちばかりで、大勢のかたに見守られて親子ともども幸せ者です。三沢や横浜のころに比べたら、天国のようですよ」
 冷笑的な口もとが、だんだん強く引き締められていく。皺の多い母の顔は、病室の蛍光灯の明かりにひび割れて見えた。
「キョウ、帰ろうや」
 帰り道、私はクラウンの助手席から古墳の丘を眺めた。街に青白いモヤのようなものがただよいはじめている。そのモヤの中で古墳は静かに白々と輝いていたけれども、その美しさを味わう気になれなかった。心が閉じていた。他人の言葉や態度を反芻して、あとで胸の傷を深くするのが私の常だった。クマさんは私の浮かない顔色を見て、
「食えない野郎の言うことなんて気にすんな。キョウはな、不器用で、情のこまやかな人間なんだよ。威張らないから、すぐつけこまれちまう」
 パサパサ乾いていた気分が潤いはじめた。
「クマさんは、クビになっちゃうの?」
「所長ごときの権限で俺をクビにはできないよ。酒井頭領のところで資材トラックにでも乗るさ。あそこは西松関連でない仕事もしてるからな。トラックの仕事なんか、いくらでもあるよ」
「社員寮は?」
「俺は西松の社員だぞ。部署替えになるだけだ。あそこにずっと住むよ」
「よかった!」
「何心配してるんだ。心配してもらわなくちゃいかんのはキョウのほうだろ。味噌煮こみうどんでも食っていくか。内田橋にうまい店があるんだ」
 私はまだ晩飯を食べていなかったことを思い出した。
「うん」
「そうそう、そうやって笑った顔がいちばんいい。そんじょそこらじゃ見かけない美男子だぞ」
         †
 三日もしないうちに母が退院した。きょうのためにわざわざ午前出勤していたカズちゃんが、勉強小屋に知らせにきた。彼女といっしょに食堂へいった。新聞の日曜版を拡げながらくつろいでいる小山田さんや吉冨さんたちに母が挨拶していた。形ばかりに様子を伺う西田さんや東大に病気の経過を伝え、原田さんにねぎらいの言葉をかけられていた。クマさんと畠中女史の顔はなかった。母をねぎらうのは原田さんばかりだった。それに不足を感じたのか、
「キョウもフアンが多くて―。私がキョウをなぶり殺しにしてるんですって。親不孝なんてそっちのけなんですからね」
 母がクマさんの悪口を言いだすと、カズちゃんや小山田さんたちの表情が固くなった。さすがに原田さんもいやな顔をした。母は気にしなかった。彼女は所長の後ろ盾があれば何でもできると思っているのだった。
 私は表から飛んできたシロの頭を撫ぜた。母はカズちゃんとテーブルに向き合って、十日間の仕事のはかどり具合を訊いた。気の利いた返答をしようとするカズちゃんの様子が気の毒だった。それがすむと母は裏庭に出て猫の名を呼んだ。猫の親子はどこかに出かけていていなかった。カズちゃんが冷蔵庫で冷やしたウイロウを切って出した。私も勧められてつまんだ。
「あら、こんな時間。亭主の世話に戻らなくちゃ。四時半にまた戻ります。シロとミーたちには、毎日ちゃんとごはんあげときましたから」
「すみませんでしたね、ほんとに」
 カズちゃんが引き揚げると、原田さんが、
「所長から食事代を預かってますから、快気祝いということでメシでもとりましょう。どうぞ遠慮なく」
 原田さんはみんなのリクエストをメモした。母はタヌキそばを頼み、私はシロと半分分けするつもりでカツ丼にした。吉冨さんと西田さんは天ぷら蕎麦だった。
「小山田さんは?」
「俺は、ざるだ」
 と素っ気なく言って、また新聞に目を落とした。原田さんは近所の蕎麦屋へ注文の電話をかけに事務所へいった。
「……胆石は痛い病気ですからなあ」
 小山田さんは新聞を畳み、冷えた茶を湯飲みに注ぎながら、取ってつけたように言った。
「今回はみなさんに不便な思いをさせてしまって、申し訳ありませんでした」
「カズちゃんがよくやってくれたから、何ほどの不便もなかったけど」
 吉冨さんが言う。母が少しムッとした顔をした。原田さんがあわててうなずいて、
「考えてみたら、おばさんは食事の世話以外にも、毎日いろいろ重労働だからね。倒れるのも無理ないな。もう一人ぐらい中働きを置くように、所長に進言してみるか」
 吉冨さんがいまに唾でも吐きそうな顔をした。
「いいんです。カズちゃんがいてくれれば十分。あの子、弱音も吐かずに、ほんとによくやってくれてますから。でしょ、吉冨さん」
「はあ―」
 小山田さんが、
「……ま、せいぜい、からだを労わって働いてくださいよ。俺たちもできるだけ、夜遅くまで飲まないようにしますわ」
 二人がかりで岡持が届き、お通夜のように静かなめしになった。カズちゃんがいてくれれば、もっとわいわい食べられるのに、と思った。
「クマはトラックに戻るのか」
 ザルそばをすすりながら、ポツリと小山田さんが言った。原田さんが、
「あそこまで所長とぶつかるとね」
「熊沢さんは本望でしょう。オトコですよ」
 吉冨さんが言った。小山田さんがうなずき、
「酒井組が契約してるのは、西松だけじゃないから、仕事はけっこうあるんじゃないか。クマは出向扱いになるだろう。トラックに乗ってるときもそうだったんだ。もとに戻っただけだ」
         †
 夕方、私はクマさんの社宅までいって、快気祝いの話をした。房ちゃんがにこにこ笑って、いつかの夜のようにすき焼きの準備をした。
「キョウ、安心しろ。酒井頭領がな、堀田の仕事くれたよ。そこでダンプに乗る」
「堀田って、友だちの飯場があるところだよ。築堤工事でしょ」
「ああ、向こう二年の仕事がもらえた。給料もいまよりいい」
 房ちゃんが、
「郷くんのおかげよ。ひょうたんから駒」
 と言って、小さな蒲団でごそごそ動いている赤ん坊の様子をやさしい目で見つめた。
「ぼく、何か罪滅ぼししたいな」
「何の罪だ? キョウに罪なんかあるわけないだろ。ほら五百円。野球部の帰りに今川焼きでもを買って食え」
 胸もとに赤ん坊を抱き直してあやしていた房ちゃんが、
「この子も、キョウちゃんていうのよ。満一歳」
「郷太郎だったよね」
「よく憶えてるな。いつもキョウの名前を呼んでるみたいで、落ち着くんだよ」
「ほんとにそうね。郷くんみたいに、心のきれいな子になってほしいわ」
「ああ、それだけでいいな。それがありゃ、ほかに何もいらないよ」
 赤ん坊に乳をやり、寝かしつける。すき焼きの夕食になった。好物のシラタキ、シイタケ、豆腐、ネギを、溶き卵に浸けてもりもり食べる。ときどき房ちゃんが肉を私の小鉢に入れる。
「……おい、キョウ、久しぶりにあれ聞きたくなった。中日球場のウグイス嬢のまね」
 クマさんのリクエストが出る。
「うん、いいよ。今年は与那嶺が巨人から移籍してきたから、いつもと少し打順がちがうけど。中日のキャッチャーはころころ変わるから、何年か前の吉沢にしとくね。じゃ、いくよ」
「いけ!」
「―本日の第二試合、中日ドラゴンズのスターティングメンバーをお知らせいたします。一番、センター中(なか)、背番号3、二番、セカンド井上、背番号51、三番、ファースト与那嶺、背番号37、四番、ライト森、背番号7、五番、レフト江藤、背番号8、六番、サード小淵、背番号13、七番、ショート河野、背番号12、八番、キャッチャー吉沢、背番号9、九番、ピッチャー板東、背番号14。主審、島、塁審、ファースト大里、セカンド筒井、サード三谷、線審、ライト宮下、レフト手沢、以上でございます。なお、ファールボールにはくれぐれもご注意くださいませ」
 クマさんも房ちゃんもゲラゲラ笑いながら、激しく拍手をした。赤ん坊が少しむずかった。食事が終わると、房ちゃんが、
「郷くん……。めげちゃだめよ。いつも応援してる人がいることを忘れないで」
「そうだぞ、いつもキョウは俺に名前を呼ばれてるんだぞ。俺が死ぬまでな」


         四十七

 登校路の公孫樹の葉が鮮やかな黄色になった。一雨ごとに寒くなってくる。
 二学期も押しつまったある日の昼休み、桑原が、日比野中の金井というパチンコ店の息子が特攻隊を仕立てて康男に喧嘩を売りにくると騒ぎ立てていた。つい先日、宮中の正門に徒党を組んで下見に現れた金井を、ランニングの途中で見かけた。茶色い丸顔で、眼光が鋭く、筋骨隆々、どこから見ても暴力好きなたたずまいだった。ひしゃげた不細工な顔が、映画俳優のアーネスト・ボーグナインにそっくりで、見るからに頭の悪そうな、ねじくれた様子をしていた。
「寺田の話だとよ、きょうの夜が決闘やて。場所は言わんかった。さすがの寺田も、今度は手ごわいで。金井は高校生も手下(てか)に入れとるらしいわ」
 桑原が久しぶりに水を得たように教室で騒いでいるのを聞いて、私は金井の額に刻まれた醜い皺を思い出した。たまらなく心配になった。康男には子分など一人もいない。
 ―三、四人なら、康男もなんとか相手にできるかもしれないけれど、それより多くなったら無理だ。いくら康男が宮本武蔵のようなすご腕でも、高校生まじりの特攻隊は防ぎきれない。
 とつぜん教室が灰色になり、窓の外にぱらぱらと雨が落ちはじめた。遠くで弱い光が閃き、時間を置いてドロドロ響いてきた。バリンと音立てて稲妻がきらめくたびに、教室の床をふるわせる重い音が轟く。女子がキャーキャー言い、教室じゅうが色めきたった。乾いた埃の匂いが立ちこめ、あたりが夕暮れのように暗くなった。本格的な吹き降りがやってきた。風にあおられた横殴りの雨が通り過ぎていく。雨と風がもつれ合いながらザーとという音を立てている。校舎塀や葉の茂みに打ち当たって一面に霧が立つ。だれかが廊下に出て窓を閉めようとしたとき、激しい雨に白濁した外の景色が見えた。反対側の薄暗い校庭に目をやると、土に雨が刺さってしぶきを上げていた。
「なんじゃこれ! おもしれえがや」
 だれかが叫んだ。五分もすると嵐はやみ、校庭に涼しげな風が吹きだした。
 野球部が中止になった。関と帰る。下の校庭で康男が待っていた。
「あ、康男。待っててくれたの」
「頼みごとがあってよ」
 関が、私の尻をポンと叩いて帰っていった。
「決闘だって?」
「おお」
「何時?」
「七時。カツアゲしたあの公園や。金井はたぶん四、五人連れてくる。一枚加わってくれんか」
 私の胸に火のようなものが点った。立派に片棒をかついでやろう。
「わかった。高校生もまじってるんだってね。念のために、光夫さんにも頼んだら?」
「ガキの喧嘩やで。兄ちゃんに迷惑はかけられんわ。東門で待っとる」
「オッケー」
 きちんと晩飯をすますと、私は古いタイガーバット一本を持って出た。だれかれかまわず、腰から下を殴りつけてやろう。頭や顔を殴るのは危ない。死んでしまったら康男に迷惑がかかる。ぼくはどうなったってかまわない。どうかなったほうが、これからの人生がおもしろくなりそうだ。
 大瀬子橋を渡る。雨のあとの曇り空から冷たい風が吹いてきた。堀川の流れが速い。黒い雲がしきりに動いて、月が出たり隠れたりしている。私はからだを暖めようとして速足になった。月明かりが隠れると、アスファルトの窪みに溜まった水たまりが一瞬、深い穴のように見えた。
 神宮前の表通りは人工の光で明るかったけれども、そこから見える境内の繁みは真っ暗だった。東門の木陰で康男が待っていた。
「バット持ってきたんか!」
 康男は感心した様子で、小学生のように顔を輝かせた。
「頭は殴らないよ」
「馬鹿力のおまえがバット持ったら、鬼にバットやで。どうせ〈目覚まし〉くれてやるなら、強烈なほうがええわ」
 康男は東門の正面から入ることはしないで、しばらく築垣(ついがき)に沿って歩き、あたりをきょろきょろ見回すと、垣根のあいだからよじ登って公園へ侵入した。
「不意打ち喰らったらヤバイでよ」
 私は康男に倣ってよじ登った。学生服に泥が染みた。公園のところどころに庭園灯が点いていて、あたりを白っぽく照らしている。雨に叩き落とされたたくさんの花が芝の上に散っている。じっと息を殺していた康男がようやく一歩踏み出した。少年たちがばらばら走ってきて、頭目の金井が間近に立った。
「遅いでにゃあか」
 背後に、七、八人の影がある。目が暗さに慣れてくるにつれて、だんだん木立の色が青くなり、芝の緑がガラスのようにきらめいた。
「汚ねえ野郎やな。ザコは群れたがる。一人で喧嘩もできんのか」
 康男はゆっくりと近づいていく。少し距離を置いて私もつづいた。金井のほかに、きっちり八人いる。
「死ねや!」
 問答無用で、手下の一人が殴りかかってきた。康男は少しもうろたえず、身を低くして相手の腹に烈しく拳を叩きこんだ。ゲッと折れ曲がったところを、よどみなく膝で蹴り上げる。言葉の激しさのわりには、敵はたわいなく倒れた。愉快になってきた。木刀を持った二人が康男の両側から押し寄せてくる。私は素早く走っていって、彼らの脚をバットで思い切り払った。ゴン、ゴンと乾いた音がした。地面に倒れた二つの顔を康男が順繰り蹴っていく。
「鼻、イカレたで。あとで病院いけや」
 手下の残りは五人になった。金井のがっちりしたシルエットの脇に一人、高校生らしい背の高い男が、遠い園灯を逆光に立っていて、康男が突進しかけると、ひるんだふうに何メートルか後退した。腰のあたりに刃物(えもの)を閃かせている。
「ヤッパか! 腕で受けたる。腹にきたら、殺すで!」
 康男が身構えると、そのノッポは意気地なく踵を返して一目散に走って逃げた。残りは四人になった。転がっていた男たちが起き上がろうとする。その鼻面をまた康男が無慈悲に蹴った。その一人の顔に見覚えがあった。またこいつか! 六年生の春の練習試合でホームランを打ってセカンドを回ったとき、足を引っかけて私を転がした少年だ。日比野小の番長の山中が千年に殴りこみをかけたときも、金魚の糞でくっついてきていた。今回の日比野中の番長の家来か。私はそいつの尻をバットで思い切りどやしつけた。
「金井さん、早く始末してくださいよ」
 その男が悲鳴を上げた。
「よし!」
 金井の手にもナイフが握られていた。康男はずんずん近づいていく。
「ちょっとでもかすったら、カタワにしたる」
 金井はハッと顔色を変え、苦しそうな、不自然な微笑を浮かべた。まくれ上がった唇から八重歯が剥き出ている。
「素手でこんかい!」
 康男が追い討ちをかけて怒鳴る。
「金井さん、ぶち殺していいですよ」
「殺したれ!」
 味方の鼓舞に支えられた金井の口から、弱い者に特有の調子に乗った科白が噴き出した。
「おお、やったる。寺田、おまえのひょろひょろパンチが俺に効くかや。俺のパンチは急所に当たったら死ぬで」
 そう言って金井は刃物を投げ捨てた。彼は、康男よりも一段すぐれたこぶしで頭目の尊厳を保たないかぎり、仲間の信頼を回復できないと悟ったらしかった。彼は左右の指を組み合わせ、ぽきぽきと鳴らした。私は、加勢を控えて康男の後ろに退いた。
「くたばれ!」
 金井の腕がみっともなく空を切った。
「遅えパンチや、見えとるが!」
 丁々とわたり合うということもなく、たちまち決着がついた。康男の拳が金井の顎に当たったとたん、太ったからだがもんどりうって倒れた。康男は地面に横倒しになった腹を、三度、四度と蹴った。金井は一方的に打ちのめされる恥ずかしさから逃げるように大きな背中を丸めた。康男は膝をつき、こぶしを固めて、横向きになった頬のあたりに一発打ち下ろした。
「神無月、こい!」
 立ち上がった康男が手招きをするので、バットを構えながら寄っていくと、
「どこでもええ、思い切りヤキ入れたれ」
 頭にバットを振り下ろしたら確実に重傷を負うか、死んでしまうだろう。私は、バットは使わずに金井の腹を強く蹴った。ズック靴の先が柔らかい横腹にめりこみ、大きなからだがもう一度丸くなった。康男のまねをして顔も蹴った。ゲッという声が聞こえた。
「もう、じゅうぶんだよ」
「おまえがええなら、やめとこ」
 康男は微笑した。金井は肘を突いて上半身を起こし、強がって笑おうとしたが、うまく笑えずに痙攣するような泣き笑いの顔になった。見かけほど肝の据わった男でないことは初めて見たときから薄々感じていたけれども、それにしても予想以上の崩れ方で、私は呆れるよりも心が痛んだ。横たわっている金井の子分たちが、彼に与(くみ)したことを悔いる目つきで見守っている。もう私たちに何も言わず、悪態もつかなかった。何人かの顔からかなりの鼻血が流れていた。
「もう一人だけ」
 私は例の男に近づくと、金井にしたよりも強い力で腹を蹴った。康男が関心を示した。
「だれや?」
「小六のとき、ぼくにわざと足をかけて転ばしたセカンドだ。山中が千年に喧嘩売りにきたときもいたよ」
「よう憶えとったな。そういうやつは懲りんでよ、二度と立てんように、おまえを転ばした足を折っとくか?」
 男がヒーと言って這って逃げた。
「いや、もういいんだ」
 残酷な気持ちが、康男のさらに残酷な提案のおかげで帳消しになった。私は腹を押さえている少年に語りかけた。
「ぼくを憶えてるか。六年生の春の試合で、おまえに足を引っかけられて転ばされた神無月だ。野球はどうしたんだ。忘れてしまったのか」
 少年は顔も上げなかった。康男が思い切り額を蹴り上げた。
「いくぞ!」
 康男は私に向かって顎を振ると、表門に通じる参道へ歩み出した。樹のにおいが重たく流れてきた。私は湿っぽい空気を胸いっぱいに吸った。
         †
 金井はわざわざ下校時に日比野中から出張ってきて、宮中の正門に待機し、死んだ伊藤正義のように康男の露払いをするようになった。芝生に転がった彼の手下どもも離れて従っていた。あの少年は交じっていなかった。どいつもこいつも顔じゅうを絆創膏だらけにしていた。
 康男は彼らの忠臣ぶりを迷惑がっている様子だったけれども、追い払おうとはしなかった。私は、彼らが暴力を介してたやすく和解できる柔軟性に驚いた。私が康男と和解したときは、たわいない暴力のほかに、好奇心と、親密な言葉と、深い敬愛があった。
 私は、また懲りずに、康男の下校してからの行動を考えた。母親と兄が不在の時間に、弟と母親の愛人がいる部屋に直行するというのは奇異な感じがする。めしを食いに帰るというのはもちろん考えられるけれども、食事の支度をするのはだれだろう。きっと外ですませてしまうのにちがいない。弟や愛人も同じようにしているにきまっている。家になど帰る必要がないのだ。学校以外ですごす彼の膨大な時間から、定期券偽造や、カツアゲのような趣味、それから私との友情の時間を除けば、すべてが、私の知らない人間たちとすごす時間で、そして、彼が自分だけの孤独を愛する時間だった。それはまったく謎に包まれた時間だった。
 自分の落ち着き先を見つけた金井は、あの夜以来、一段とふてぶてしい態度で、宮中の近辺をうろつくようになった。野球部帰りの私とたまたま顔を合わせたときだけは、軍隊式に深々とお辞儀をして、〈将軍の親友〉が通り過ぎるのを待った。私と同様、金井たちも康男を尊敬し、愛しているのだった。ひと月もすると、康男に何を諭されたか、それとも教師たちに注意されるかしたのだろう、彼らの姿が見えなくなった。私は、彼らが仲たがいしたのではなく、伊藤正義のときと同じように、康男と彼らの関係が安定期に達したのだと思った。


         四十八

 二、三日つづいた雨が上がって、本格的な冬に入った。大好きな季節がまためぐってきた。木の葉を濾してくる光が冷たい。草の枯れた道を眺める。イヌタデの赤い色や、高架橋の下の水溜まりに生える黄色いオグルマ菊が目に沁みるようだ。名古屋にきてから五回目の冬だ。野辺地のように粉雪が冬の到来を告げるということはないけれども、町並の樹木から色が抜け、毎朝霜が降りるようになると、ほんとうの冬がやってきたとわかる。
「力道山が刺されて死んだがや」
 粟田が残念そうな顔で直井に話しかけている。こいつは口を開けば、勉強かプロレスの話だ。横浜の福原さんの家のテレビで一、二度目にしただけの黒タイツのプロレスラーに、私は興味も同情も湧かない。喉もとに打ちつける空手チョップは嘘くさかったし、そもそも、あの黒タイツ姿がきらいだった。
 粟田はひとしきり、木村とか、ルー・テーズとか、プラッシーとか、プロレスに関する知識をしゃべり尽くしたあと、成績表が返ってきたばかりの中部統一模擬試験に話題を移した。いわゆる中統模試は三年生用の試験だが、宮中は二年生の十二月の第四回模試から参加することになっている。愛知、岐阜、三重の三県の総合成績で返してよこす。
「三百番に入ったが」
 私は全校の四番、三県総合成績十九番、英語と国語の二科目は一番だった。総合点で甲斐和子にも井戸田にも負けた。直井はなんと校内どころか三県でも総合トップだった。 
 きょうの社会科の授業も直井の独り舞台になっている。
「直井、憲法発布の年は」
 中村専修郎が信頼した眼で直井を見つめる。正解しか言わない生徒を愛する眼。
「一八八九年です」
「よし。そのときの起草者と内閣は」
「起草は伊藤博文、井上毅。内閣は黒田清隆」
「よし!」
 もう直井のことを人間と思うやつはいない。彼は知識の妖怪だ。みんなの口から、旭丘とか明和という単語が以前よりも頻繁に出るようになったけれども、とりわけ、直井と甲斐は当確だと言われている。私のことは、相変わらず取り沙汰されない。ただ担任の近藤正徳先生だけは、
「神無月も旭丘へいくんだろうが、先生がたは、もったいないと言っとるぞ。だれだっておまえには野球をやってほしいからな」
 私は旭丘や明和にはまったく関心がない。野球を思う存分できる高校へいきたい。中京商業、名電工、東邦高校。みんな私立だ。しかし、そこから、またスカウトがきてくれるだろうか。きてくれなければ、どんな高校でもいい、野球さえしっかりさせてくれる高校ならば。しかし、旭丘や明和のような進学校でいくら活躍したところで、先がないような気がする。
 冬休みの午前、私は畳に寝転び、図書室から借りてきた宮沢賢治の詩集を読んでいた。彼の詩は、学校のどんな勉強より難しい。しかし、たとえどれほど難しくても、いったん活字の世界に入りこむと、すべてのものがたちまち消え去って、音のない、濃密な感覚だけに包まれる。
 小岩井農場をパート一からパート九まで読む。停車場で降りてから、植物採集のために小岩井農場へ向かう二十キロの道のり。現実の風景の中にポツポツ浮かんでくる心象風景から、彼がこの道を前にも一度歩いたことがわかる。スタンザを追うごとに、季節も刻々と変わっていくように感じるけれども、どういう時間の交錯なのかわからない。とにかく言葉が美しい。そして、長くて、ひどく難解だ。でも、恋愛を変態と定義し、その変態を無理に求めようとする傾向を性欲と決めつけたあとの最後の数行を目にしたとき、首筋に粟が立った。

  
もうけっしてさびしくはない
  なんべんさびしくないと言ったとこで
  またさびしくなるのはきまってゐる
  けれどもここはこれでいいのだ
  すべてさびしさとかなしさを焚いて
  ひとは透明な軌道をすすむ
  ラリックス ラリックス いよいよ青く
  雲はますます縮れてひかり
  かっきりみちは東へまがる


 ラリックスは落葉(から)松のこと、と書いてあったけれど、間投詞ととったほうがしっくりくる。本を閉じ、机に向かった。
 勉強に取りかかる前に、ステレオのラジオを聴く。藤木なんとかという新人歌手がやかましく唄っている。ロックンロール。ツイスト。食堂のテレビには、ジャガジャガした音を浴びて腰をくねらせる若者の姿がいつも映っている。このあいだ、チャールストンを踊りながら三匹の仔豚を唄うスパーク三人娘とかいうグループをテレビで見ていたとき、園まりという好みの顔をした女がいて、胸がときめいた。私はさっそくヘソクリを手に彼女のマッシュポテト・タイムというシングル盤を買ってきて、しばらく聴いた。すぐに飽きて、D・D・シャープの原曲で口直しをした。
 ステレオをラジオからレコードに切り替え、テディー・ベアーズの逢ったとたんに一目ぼれ、フランキー・アヴァロンのヴィーナス、ナンシー・シナトラのレモンのキッス、と立てつづけに聴いた。安っぽい和製ポップスとはまるで別物だ。外国と日本とではどうしてこうも歌手の音色と声量がちがうのだろう。楽器の演奏にしても、外国のほうがずっといろどりが豊かだ。日本人のポップス歌手の中にも、弘田三枝子みたいに弾むような喉の持ち主はいるけれど。
 そんなことをぼんやり思いめぐらしていると、とつぜん、庭にばたばたという大きな足音が聞こえた。
「キョウ、シロが犬取りにやられた!」
 小屋の玄関に飛びこんできたクマさんの目が悲しげに見開いている。心臓をかなづちでぶん殴られた気がした。
「殺されたの!」
「事務所の前からもってかれた。ほっとくと薬殺されちまう。いまから保健所へいく。キョウもいっしょにこい」
「うん!」
 カズちゃんもあたふたとやってきて、
「うちの犬です、連れていかないでくださいって言ったんだけど。首に針金かけて無理やり引っ張っていっちゃった。鑑札つけてなかったから―」
 血の気が退いている。そういえばきのうも学校から帰ってきたとき、大きな金網の籠を荷台にたくさん積んだトラックが、事務所の前から浄水場のほうへゆっくり走りすぎていくのを見かけた。私はあわてて学生服を着ると、クマさんについて表へ飛び出した。トラックによじ登る。
「ちょうど酒井棟から通りかかったときに、カズちゃんが騒いでてな」
「仕事にいかなかったの」
「この事務所から堀田へ電話した。仮病、仮病」
「お願いします!」
 カズちゃんの切ない声が背中から聞こえた。クマさんは洗いざらしのジーパンに黒いアンダーシャツを着ていた。目にすがすがしかった。
「まず、保健所で手続だ。それから野犬収容所。あんなおとなしい犬をなあ。くそ!」
「注射打たれて、殺されちゃうんでしょ」
「二、三日はだいじょうぶだ。くそ!」
 シロのやさしい目が浮かんだ。涙が出そうになった。
 千年の交差点からしばらく東海通りをまっすぐ飛ばし、何度も信号に妨げられながら、どこをどう走ったかわからないうちに、人家が途切れ、トラックは三角のコンクリートブロックが乱雑に積み重なっている川沿いにきた。草ぼうぼうの土の道をひたすら走る。
「ここはどこ?」
「埠頭の近くだ。収容所は山手のあたりにあるんだが、まず役所へいかないとな。熱田区の役所は港区との境にあるから、遠くて不便なんだ。最初にそこへいって鑑札を取る。そういや、このへんは大将の家のそばじゃないか?」
「正確にはよくわからないんだ。東海橋までしか送ったことがないから。まだ一度も康男の家にいったことがない」
「……そうか。何か連れていけないわけがあるんだろう。大将の家もけっこう複雑そうだからな」
 小さな堀池を過ぎ、針金の柵をめぐらした手入れの悪い畑を抜けると、そのあたりからまた人家が始まっていた。遠くの交差点を市電が通り過ぎた。クマさんは器用にハンドルを操って狭い路地を抜け、大きな灰色の建物の前でトラックを停めた。
「保健所?」
「区役所だ。次に保健所に回る」
 揚げ物のいい匂いがした。肉屋の看板が見えた。
「降りるぞ」
 クマさんはつかつかと肉屋のウィンドーに近づき、メンチカツを五枚買った。
「シロに食わせてやらんとな。俺たちも腹ごしらえしとこう」
 その場で二人、メンチカツを一枚ずつむしゃむしゃ食べた。シロのことをひどく心配しているはずなのに、おいしく感じた。
「うめえな、これ」
 私の心を察したみたいに、クマさんが申しわけなさそうに言った。
「きっとシロも喜ぶよ。こんな贅沢なもの、食べたことないから」
 区役所の玄関からロビーへ入ると、カウンターの仕切りの向こうでまだ弁当を使っている人たちがいて、食事を終えた所員たちは書類を見たり、茶を飲みながら静かな声で話したりしている。外とはちがう時間が流れているようだ。こういう時間が流れる場所を小さいころから何度か見た覚えがある。青木小学校の職員室、母といった野毛山の病院、宮中の図書室……。
 壁の時計は一時にもうすぐなるところだった。二十分ほどベンチに腰かけて待った。一時が過ぎると、彼らはおもむろに紙切れをめくったり、それに向かって何やら書きこんだりしはじめた。クマさんはカウンターのそばにいた黒袖の男に近づき、
「犬をもっていかれたんだ」
 と言った。指で示されて、二人は保健衛生課のカウンターへ回った。眼鏡をかけた中年の女が座っていた。
「飼い犬がもってかれた」
 とクマさんは同じことを言った。
「鑑札をつけてなかったんですね」
「ああ」
「登録してください。届を出して、そのあとで登録料を払ってください」
 素っ気ない返事だった。クマさんは届出用紙にシロの飼い犬登録をした。クマさんが差し出した登録料には千円札が混じっていた。それからだいぶ時間が経って、ようやく鑑札をもらった。役所の時計はもう二時になっていた。なんという段取りの悪さだろう!
「これを持って、保健所へいってください。この建物の裏にありますから」
 苛立った気分で出向いた保健所は、白いペンキの剥げかかった木造の建物だった。窓口に若い男が現れた。
「飼い犬を取られた。取り戻したいんだ」
 ここでもまたクマさんは同じことを早口で言った。
「鑑札をお持ちですか?」
 クマさんは薄っぺらいアルミの札を差し出した。
「いつ連れていかれたんですか」
「きょうの十一時ごろだ。早くしてくれ」
 男は二つ三つの質問をクマさんにしながら、急いで紙片に何やら書いた。
「収容されている場所はわかりますね。ここからだと、ちょっと遠いですよ。市電の道なりに、終点の停留所になります」
「ああ、わかってる」
「この書式を向こうで出してください」



(次へ)