十三

 九時を回って室内の明かりが落とされた。夜が訪れた。私はベッドの天井を見つめながら、あしたの手術のこと考えた。何も思いつかなかった。痛みの実感も、恐怖も湧いてこない。ダッコちゃんはベッドに仰向けになって、小さなスタンドの灯りで難しそうな本を読んでいる。消灯といっても、枕もとのスタンドは点けていいことになっている。
 ふと、何かが足りないと思った。すぐにわかった。ラジオがないのだ。それは音楽がないということだった。
「ダッコちゃんは、音楽好き?」
「嫌いじゃないけど、あまり聴かないね」
「そう―」
「うるさい感じがしてね」
 集中して勉強をする人は、きっとそうなのかもしれない。
「お家の人は見舞いにこないの?」
「このごろはね。農業というのは、一年中こまかい予定の立った仕事だから、なかなか出てこられないんだ」
「学校の友だちは?」
 ダッコちゃんは少し沈黙した。
「みんなにはそれぞれの生活があるわけだから……。郷くんとちがって、ぼくは目立たない男だったしね。思い出してもらえる回数は少ないかもしれない」
 そう言って、ひどく悲しそうな顔をした。ぐずぐず鼻水が出はじめ、いくらかんでも止まらない。私は大きな音を立てて鼻をかんだ。
「風邪、ひいちゃったのかな」
「ぼく、もともと、よく鼻をかむんだ」
「片方ずつかまないと、耳を傷めるよ」
「もともと、右の耳はほとんど聞こえないんだ。ステレオを聴くとき、少し顔を斜めにして聴くんだよ」
「……そう。じゃ、不便だね」
「ダッコちゃんほどじゃないよ。手も脚も動くから」
 つまらないことを言ってしまった。
「手は危機に瀕してるね。ぼくとちがって、有為の人材の手だ。ぜったい治してもらおうね。……じゃ、おやすみ」
 ダッコちゃんが眼鏡を外した。スタンドの明かりが消えた。
「おやすみなさい」
 しじまが訪れ、ダッコちゃんの鼻息が一定になった。私は眠れずに何度か寝返りを打った。どうしても眠気が襲ってこないので、こっそり廊下へ出た。水洟をすすりながら、暗い廊下に明かりが洩れている病室を覗きこんでいく。ダッコちゃんと同じように下半身を露わにした患者たちがベッドに胡坐をかき、弱い明かりの下で楽しそうに花札をしたり将棋を指したりしている。ほとんどの人が猫背で極端に胴が短いので、頭が大きすぎるような気がした。中の一人の患者が、松葉杖もつかずに立っている私に気づいて、訝しそうにこちらを見た。私はそっとドアから離れた。
 廊下の突き当たりの仕切りは硝子の引き戸になっていて、向こう側にもっと薄暗い病室がつづいていた。その戸を引こうとしたとたん、夜回りをしていた看護婦が暗い廊下の向こうから声をかけた。
「こっちは女性病棟ですよ。お見舞いのかたですか」
 私を病室まで連れてきた小柄の看護婦だった。
「あら、神無月くんじゃないの。だめよ、こんな時間にうろうろしちゃ」
「はい」
「あしたは手術でしょ。ゆっくり休養とらなくちゃ。すぐ、ベッドに戻りなさい」
 私は素直にお辞儀をして、病室へ引き返した。
         †
 目覚めると、窓の外に雨の気配がしている。私はカーテンを透いてくるにぶい陽射しを眺めながら、蒲団の襟を首まで引き上げた。ダッコちゃんのにおいが相変わらず病室の中にこもっている。廊下に足音が聞こえはじめ、はっきり目覚めた。病院で迎える初めての朝だ。
「顔を洗いにいくよ」
 ダッコちゃんが松葉杖にすがってゆっくり立ち上がった。畠中女史が水屋にしまっておいたタオルと歯ブラシを手に、ダッコちゃんについていく。トイレのそばに大きな洗面所があった。ダッコちゃんは片方の杖でからだを支えながら、もう一方の手で慣れたふうに歯を磨いた。顔も片手で器用に洗った。私が、ふーん、と感嘆すると、ダッコちゃんは笑いながら、
「何だって必要に迫られれば、できるようになるものさ」
 配膳のおばさんが朝食の盆を持って入ってきた。小鯵のひらき、片目焼き、焼海苔、豆腐にワカメの味噌汁。夕飯よりも品目は少ないけれど、好きなものばかりだった。おいしく感じた。ダッコちゃんの言ったとおりだ。
「おいしいだろ」
「うん! ここに白菜の浅漬けがあれば最高だな」
「ああ、いいね。ぼくも好きだな」
「醤油と味の素でね。ホタテの貝焼きも、そのままストーブにのっけて、味の素と醤油をかけて食べるんだよ」
「へえ、うまそうだな」
 食後にスピーカーで呼び出されて、パジャマ姿のまま一階の事務室へいった。背広を着た事務員ふうの男が、母に何か形式張った説明をした。母は私を自分の隣に坐らせて承諾書にサインした。
「じゃね、かあちゃん忙しいから」
 廊下に出た母はぶっきらぼうに言うと、思ったとおり病室にすら寄らずに大急ぎで帰っていった。私はらせん階段を昇って二階の病室へ戻った。松葉杖ついたダッコちゃんが窓辺に立って空を眺めていた。七月の薄い陽が彼の頭部を縁どっていた。私はダッコちゃんに声をかけ、ユニフォームを取り出してベッドに拡げた。
「すてきだね」
「小学校のとき、飯場の人に買ってもらった。大きめのを買ったから、いまちょうどいい大きさなんだ」
「背番号はつけないの」
「小学校の決勝戦では7をつけてた。小学校も中学校も、背番号は準決勝からつけることになってるんだけど、もし中学校でも準決勝までいけたら、8にしようと思ってる」
「どうして」
「ベーブルースと長嶋の3を両側からくっつけると、8になるでしょ。というより、大好きな山内一広の背番号なんだ」
「ふうん」
 私はいつまでも目の前のユニフォームを飽かず眺めた。
「呼び出しは何だったの?」
「かあちゃんが手術の承諾書にサインしにきたんだ。ダッコちゃんに挨拶もしないで帰っちゃったけど、ごめんね」
「いいんだよ。人には都合があるって言ったよね。忙しくない人の都合を、忙しい人に押しつけないようにしなくちゃ」
「うん」
「ほら、きた。いよいよ手術だ」
 いつもの看護婦がやってきて、体温を測り、それから丁寧に肘に剃刀をあてた。ダッコちゃんがじっと見ていた。


         十四

 手術室まで看護婦と二人で歩いていき、パジャマの上半身を脱いだ格好で手術台に横たえられた。頭まですっぽり白いシーツがかぶせられる。蛍光灯が透けて見える。ものの形はわからない。腕に注射を何本か打たれたけれども、意識ははっきりしている。足音が近づき、何人かが手術台の周りに立った。声からすると、男が三人、女が二人だ。
「傷跡が外から見えないように、肘の内側を切りますからね」
 きのう診察した医者の声だった。私はシーツの下でうなずいた。
 ―腕の傷跡なんか気にしないのに。
 足もとの看護婦が、
「この子、足が大きいわねェ」
 と小声で言った。いつも気にしていることを言われて、思わず私は足の指を丸めた。こんなときに、足の大きさを話題にするのが不思議だった。いや、彼らにとって、腕一本の手術なんか何ほどのこともないのだろう。
「バカの大足、タワケの小足、ちょうどいいのはオレの足、か」
 執刀医が軽口を叩くと、助手や看護婦が笑った。彼の上機嫌は手術室のみんなの基調になった。私は医者が余裕たっぷりの様子を演じていることを、かえって不安に思った。豊かな経験を持った人たちが、手術台で怯えている少年をくつろがせるために和やかな雰囲気を作り出している―きっと難しい手術なのかもしれない。
「一日に二、三回しか排尿がないというのは、おかしくありませんか」
 女の声が言った。いつも体温計を持ってくる看護婦の声だ。
「そういう体質の子もまれにいるんだ。心配ない。いずれ大人になれば、酒を飲んだり煙草を吸ったりで、適当な回数になる」
 そういえばきのう、彼女が熱を計りにきたとき、いろいろ質問した中に、
「おしっこは一日に何回ぐらいするの?」
 というのがあった。二回か三回、と正直に答えると、
「オーバーね」
 と言って頬っぺたをつついた。畠中女史といい、カズちゃんといい、私はよく女から頬をつつかれる。
「それに、心拍は平均九十五で、百十回以上拍つこともあります」
「めずらしいけど、それでこの子は生きてきたんだから、きちんと適応しているということだろう。波形は?」
「ときどき乱れることはありますけど、正常の範囲です」
「長生きするさ。疲労は強いだろうけど」
 ぜんぶ聞こえる。毎年春の健康診断でかならず捺されてくる《頻脈》という青いハンコを思い出した。いつかそのことを母に指摘されて、からだが弱いと決めつけられたことがあった。なんだか心細くなってきた。
「……××時××分。始めます」
 医師の声に全員が息をつめる気配がする。メスがギリギリと音を立てて、肘の皮膚を切り裂いていく。痛みはまったくない。
「ああ、きれいだね。惚れぼれする。ぼくの見立てじゃ、遊離軟骨じゃないことは確かなんだ。ね、見当たらないでしょ」
「見当たりませんね。擦過音がする部位はどこでしょう」
 助手の声。
「もう一度レントゲンを撮って確認しよう。おーい、写真」
 ゴトゴトとレントゲン車の近づく音がする。
「写真、急いで」
 手術開始からまだ十分も経っていない。
「うーん、やっぱり、ここに影があるな。腫瘍かな」
「腫瘍じゃないでしょう。影が細すぎます」
「……もう少し、奥へいってみるよ」
 ふたたび室内に沈黙が訪れる。数分して医者がため息をついている。やっぱり手術は無駄だったようだ。私はこうなるのがはっきりわかっていた気がした。
「……わからんな。どういうことだ?」
 もうやめればいいのに、と私は思う。
「おや? 四指と五指の神経に沈積があります。ここです」
「なるほど、カルシュームか! ふつう、骨に沈積するんだがなあ。神経に付着して刺激してたわけだ。この子は肘を机の角で打ったと言ってたが、どうもそれが原因だな。てっきり腱の断裂だと思ってたよ。これじゃ、さぞ痛かったろう。少し削(そ)いでおいたほうがいいか」
 その瞬間、私は藤本今朝文を許した。運が悪かったのだ。こうなったのは私が持って生まれた運命で、今朝文が悪いのではない。
「神経をいじるのは危険じゃないでしょうか」
「そうだな、指が利かなくなるおそれがあるよね」
「ええ、このまま閉じたほうがいいと思いますよ」 
「うん。カルシュームを多少削ったところで、特に治癒が早まるというものでもないだろうしな。……ま、年齢がくれば、組織へ融解するかもしれない。しかし、このまま酷使したら沈積の度合いは増すぞ」
「一年ほどは腕を使わないよう、アドバイスしたらどうでしょう」
「そうだな……。仕方ない、閉じよう」
 手術の経過を私はすべて理解した。ヒゲの執刀医はまちがいなく、私の腕にしか麻酔をかけなかったことを忘れていたのだ。私は心の中で胸を撫で下ろした。無駄なことをしてくれなくてよかったと思った。何も切り取られなかったし、痛みのもとも確かめた。運命が決まるとき、そこには憐憫も不公平もない。決定があるだけだ。傷口が閉じられる。あわただしく金属が触れ合う音が聞こえる。私は晴ればれとした心で考えた。
 ―早いうちに右投げに変えよう。右手さえあればなんとかなる。
「先生―」
 私はシーツの下から声をかけた。看護婦が顔のシーツを取りのけた。マスクを外した医者の口もとが、ヒゲといっしょに固く引き締められている。びっくりしたようだ。
「お、目が覚めたか。無事、すんだよ。神経にね、ちょっとカルシュームがくっついてたんだ。それは削っておいたからね。あとはきみの地道な訓練しだいだ。一年ぐらいは腕を使わないほうがいいな」
「はい。ありがとうございました」
 看護婦たちが助手と顔を見合わせ、もじもじしている。
「……麻酔が切れたら、かなり痛みだすよ。今夜はガマンの一晩になるぞ」
「何日ぐらい入院するんですか」
「長くて二週間かな。それからは通院して、糸を抜くだけだ。リハビリも三、四回ですむからね」
 私はにっこり笑った。たしかリハビリは二週間と言っていたはずだ。
「早く投げたいなあ。投げられるようになったら、報告にきます」
 医者と助手はきまり悪そうな顔で見つめ合った。腕にぐるぐると包帯が巻かれた。帰りは看護婦に肩を借りて歩いて戻った。病室の入口でダッコちゃんが待っていた。
「ひどく痛んだら呼び鈴を押してね。痛み止めを打ってあげるから」
 そう言って看護婦は引き返していった。
「だいじょうぶだった?」
 ダッコちゃんにはほんとうのことを告げなければいけない。
「神経にカルシュームがくっついて溜まってたんだって。神経をいじるのはあぶないからって、そのまま閉じちゃった。腕だけの麻酔だから、そういう話がぜんぶ聞こえてくるのに、お医者さんはつい忘れてしまったみたい。あとで、ちゃんと悪いところは削り取っておいたよ、なんて言うんだ」
「そう……」
 ダッコちゃんは心から同情するように微笑んだ。そして何も言わずに私のベッドのスツールに腰を下ろし、私が横になるのを見つめていた。
         †
 医者の言ったとおり、激痛に苦しめられた。猛烈な痛さに、私は息も絶えだえにうなった。傷が痛むのか、腕全体が痛むのか、よくわからなかったけれど、とにかく痛くてたまらないので、一度だけ押しボタンで呼んだ看護婦に痛み止めを打ってもらった。ちっとも効かなかった。ダッコちゃんは枕もとにつきっきりで、
「がんばれ、郷くん、がんばれ」
 と励ましつづけた。ときどき目を開けると、ダッコちゃんは私の視線に応えるようにうなずいた。
 深夜に近く、ようやく私は眠りについた。
 しらしら明けに目覚めると、枕もとにカズちゃんがいた。驚いた。
「カズちゃん!」
 彼女は唇に指を当て、
「あちらさんが床に着いたばかりだから、ね」
 と言った。ダッコちゃんはこんな時間まで私を見守っていたのか。
「でも、こんなに早く……」
「起きられる?」
「うん」
 痛みはほとんどなかったけれども、腕全体が重く熱っぽかった。カズちゃんに表の廊下にいざなわれ、ベンチに座った。
「お母さんが見舞いになんかいかなくていいって言ったんだけど、私の大事なキョウちゃんを見舞わないわけにはいかないわよね。小山田さんと吉冨さんは、二、三日中に様子見にくるって。出勤前にきたから、こんなに早くなっちゃった。だからお見舞品はなし。……一晩中苦しんだんですって? あの気の毒な人が言ってたわ。あんなに献身的に……よっぽどキョウちゃんのことが好きなのね」
「ダッコちゃんていうんだ。背骨を折っちゃったんだって。ずっとぼくを見てるのは、たいへんだったろうなあ」
「朝ごはんまで起こさないようにしないとね」
 プリーツスカートの膝に手を置く。ふっくらとやさしい手だった。
「うん。いま何時?」
「五時少し過ぎたところ」
 腕時計を見るカズちゃんの睫毛が長かった。
「じゃ、タクシーできたの」
「そう。気が気でなかったから。亭主、グーグー寝てたわ。キョウちゃんも、もう少し寝ないと。これで安心したから、あとは退院を待つだけ。もうこないわね。お母さんが目くじら立てるから」
 そっと手を握って帰っていった。胸に温かいものがひたひたと押し寄せてきて、女から包みこむように愛されているという感じを生まれて初めて抱いた。年の差という感覚はいっさい思い浮かばなかった。



(次へ)