三

 二月の雪深いころ、裏庭から迷いこんだかわいらしい三毛猫が合船場に居ついた。ふわふわした小さなキンタマがついていたので、ミースケと呼んでかわいがった。ナマス漬の鰊を台所の漬物甕からつまんで与えたり、じっちゃのくれたビスケットの欠けらをやったりした。
 ミースケはいつも外(そと)出(で)をしていて、たまに帰ってくると、家中のだれかれからいきあたりばったりに頭を撫でられていた。それでも私が幼稚園から戻ってくる頃合には、かならず道のどこからかひょっこり現れて、勢いよく肩に跳び乗った。そうして、玄関の引き戸を開けたとたん、飛び降りてまたどこへともなく走り去るのだった。
 そのミースケが何日も帰ってこなくなった。真っ先に私が騒ぎだし、それからばっちゃが心配した。
「魚盗りの名人なんだじゃ」
 と、義一がこっそり教えた。
「しぶとく生きてるべたってよ。魚盗んで、とっつかまって、棒でぶったぐられて死んだかもしれねな」
 私は義一に合わせてうなずきながらも、ひそかに彼の生還を信じていた。
 それからも私の関心はずっとミースケを去らなかったけれども、強がって気にしないふりをしていた。義一は毎晩蒲団に潜りこんだあと、私の心配をすっかり裏づけるようなため息をついてみせた。そうして、私のもの問いたげな視線から目を逸らし、大きい歯を見せながら、
「生きてるでば」
 と言った。安心してまどろむと、かならずミースケのかわいらしい瞳が夢の中に現れた。
 何日目かの夕方に、義一が息せき切って裏のキビ畑から飛びこんできた。
「いたど!」
 大きく目を見開いている。なんだかその慌てぶりがわざとらしく見えた。
「どこに?」
 義一は言い渋るような様子で、
「殺されてらった。……目(まなく)玉(たま)、くり抜かれてよ」
 まじめな顔だ。
「あんべ!」
 私は彼について土間の木戸から走り出た。かつがれているのだと思った。義一はあとで目をキョロキョロさせながら、
「嘘だず」
 と言うに決まっている。
 スグリの生垣が走る向こうの草地に、柔らかそうな雪が積もっていて、林檎園の仕切り柵までつづいている。畑にはところどころ肥溜めがあるので、夏でも秋でも林檎を盗むとき以外はだれも近づかない。義一は気にかけずぐんぐん歩いていく。安全な道筋を知っているのだ。
「ワの歩くとおりにこい」
 義一が足を止めた木柵の鉄条に、ミースケが吊るされていた。両目を抉られ、空ろな眼窩に針金が通してあった。針金は頑丈によじられていた。垂れた舌に冬の虫がたかっていた。けいこちゃんのときに感じたのと同じ取り返しがつかないという恐怖に襲われ、涙があふれ出した。
「逃げそこなったんだべ……」
 義一が言った。私は死骸に平たく貼りついたパサパサした毛を撫ぜた。肩に飛び乗り、ゆらゆら揺られながら耳もとで鳴いた声が蘇ってきた。このままあきらめてしまうのはひどく不自然なことのように思われた。どこのだれだかわからないが、殺してやりたいと思った。
「ワも殺してやる!」
「だれをよ」
 義一がどぎまぎして訊き返した。
「ミースケを殺したやつ―」
「ンガも目えぐられてまうど。しかし、だァがやったんだべなあ。危ね野郎だ。善司に調べてもらうが?」
 義一はかりそめの関心を示して、話に区切りをつけようとした。私はやり場のない悲しみに身をよじった。そして生まれて初めて、憎しみという感情を知った。
 日も暮れて、学校から帰ってきた善夫に頼んで針金を外してもらい、庭のスモモの根方に、固くなったミースケを埋めた。穴も善夫が掘った。私は何度も雪の上で足を踏み替えながら、善夫の静かな仕事ぶりを眺めていた。

         †

 寝床で義一が、
「かっちゃに会いて」
 と言った。
「カズのかっちゃは、下北さいってしまったんでねの」
「八戸にいるてじゃ。浜のおんじがへってらった」
 浜のおんじというのは合船場の親戚の漁師で、いつも水揚げしたばかりのウニやホタテを持ってきてくれる一人暮らしの老人だ。佐藤家の遠縁に当たるということは知っているけれど、届け物をするとすぐに帰っていくような無口な人なので、義一にそんな情報を洩らしたとは信じられなかった。
「ンガがここさくる少し前、とっちゃにスキー買ってもらってよ」
 ちょうど母親が実家に逃げ帰った当初、いつも他人行儀にしていた父親が、頼みもしないのにスキーを買ってくれたことがあって、それがとんでもなく高いスキーだった。
「なんだか、危ね感じがした」
 その父親もどこかへいってしまった。それ以来、ちっとも爺婆や叔父たちに馴染めない。かっちゃの悪口を聞くと腹が立つのは、きっとこの世でいちばんかっちゃが好きだからだ、などと、洟をすすりながら、くぐもった声で切々としゃべった。私は自分の身の上に重ね合わせて、じっと耳を傾けているうちに、義一のためばかりでなく、自分のためにも何かしなければいけないような気がしてきた。
「いこうよ、カズのかっちゃのとこ」
 義一は、駅の柵をくぐり抜けたり、汽車の中で身を隠したり、八戸駅の改札を銀映のように駆け抜けたりする作戦をこまごまと説明した。面倒を嫌う私の単純な頭には、そんなものはどうでもいいことのように思われた。私はただ義一についていって、別の光に照らされたいと思っただけだった。
 大粒のわた雪が降っている朝、義一と私は幼稚園をサボり、野辺地駅の焼け焦げた柵条をくぐり抜けて、上り方面のホームに立った。改札の駅員が遠くからこちらを見ている。
「追っかけてこないかな」
「こね。キップ切るのに忙しすけ」
 汽笛が鳴ったと思う間もなくプラットフォームがふるえはじめ、機関車が車輪の槓杆(こうかん)を規則正しく動かしながら目の前を過ぎた。肩と帽子を雪で真っ白にした機関士の制服が見えた。まだ見たことのないじっちゃのむかしの姿が浮かんだ。列車が停まり、吐き出される蒸気が真っ白くあたりを覆っている。義一はわざとゆっくりと客の少ない車輌を物色し、隅っこの座席に貼りついた。首を縮めるように私と向かい合って坐る。作戦を立てていたときとは打ってかわって、沈みこんで、あたりをキョロキョロ見回している。私はわざと尻を跳ね上げたり、窓を肘でこすったり、できるだけ快活に振舞おうとした。
「厄介かけるなじゃ」
 大人っぽく言う。二人の長靴についた雪が融けだし、黒い床に溜まっている。汽笛が鳴りわたり、とつぜん車体が激しく揺れてガタンと動きだした。私はこぶしをしっかり膝に置き、唇を噛んだ。
「八戸って、十三湖に近いの?」
 一日心にしまっておいた質問をした。
「わがんね。なして?」
「かっちゃが先生してるって」
 義一は何とも答えなかった。窓の景色がスピードを上げて野辺地から遠ざかっていく。もう二度と戻ってこられないような気がした。義一がにっこり笑って、ダンボ帽子の耳でハナを拭った。
「ワ、かっちゃに会ったら、もう野辺地さ帰らね。すたらもう、蚤クソに染まったパンツ穿いてって、ばっちゃにケツ叩かれねですむべおん」
 彼の一途な表情から、自分には見当のつかない複雑な思いがにおった。義一にうまく言えなかったけれど、それは要らない悩みのように思われた。ばっちゃの温和な顔が思い出された。ばっちゃが義一のケツを叩くのには、きっとそれなりの理由があるのだ。
「ワのパンツは、蚤クソに染まってないよ。ちゃんと拭くから」
「ワだって拭くじゃ!」
「じっちゃも、ばっちゃも、おっかなくないよ」
 明るく言った。
「キョウにはな。ばっちゃはオメを散歩さ連れていぐべよ」
 義一は、よそよそしい態度で横を向いた。私のことは好きなのだが、ひいきされているのが気に食わないという顔だ。
 じっちゃやばっちゃが私だけをえこひいきしていることは、うすうす察していた。そのうえ、私はじゅうぶん祖父母や叔父たちを愛していたので、単調な生活から滲み出てくる侘びしさみたいなものを感じることもなかった。
 とはいえ、合船場の寝起きから、幼稚園の生活にいたるまで、何もかもに満足しているわけではなく、それなりに気ボネの折れることも多かった。幼稚園に遊び相手のいないこと、気まぐれに見せる善夫や善司の素っ気なさ、二人の老人の言い争いや愚痴。いちばんの不満は、どうして自分は野辺地にくる前にクマモトにいたのか、それからなぜ東京でしばらく暮らしたのか、クマモトや東京はいったいどこにあるのか、それをだれも進んで教えてくれないことだった。もちろん私は子供なりの遠慮から、そんな不満を一度も口に出したことはなかった。
 私はよく、じっちゃがばっちゃを怒鳴りつけるたびに、しょげ返ったばっちゃといっしょに浜坂を下って海へいった。一面につづいている砂利浜には、二人のほかだれもいなくて、ひっそりしていた。
「なんも、悪気のね人間だたて、理屈が勝ってまいね」
 ばっちゃは風をよけるために破船の陰の廃木に腰を下ろした。私は、波が絶え間なく砂浜に崩れかかる音を聴いていた。その静かな音と、悲しげなばっちゃのあいだに挟まれて坐っていることに、なぜか胸がときめいた。私は雪を含んだ雲の一隊を見上げた。雲は強い風に追い立てられ、蒼い海の上を愉快そうに動いていった。ばっちゃといっしょに腰を上げて、丘の道をたどる。
「あれは?」
「さんざし」
「あそこの崖の、丸い葉っぱは?」
「イワレンゲ」
「じゃ、これは?」
 足もとを指差す。
「コケモモ」
 道端の草や木の名前を尋くと、ばっちゃはことごとく即座に答える。私はそれがとても楽しみだったけれど、結局ばっちゃは、じっちゃに対する不満を聞いてほしいのだった。
「だれに食わしてもらってると思ってんだか。仕送りはオラさ千円だけよこして、あとはぜんぶ独り占めよ。ニタクタした顔で郵便局さいくべよ。オラだっきゃ、浜さ日傭取りにいかねばなんねんだ」
 その先、どういう文句がつづくか、すっかりわかっている。都会へ働きに出ている子供たちの不実を呪う言葉だ。私はやさしいばっちゃの繰り言を残らず聞かなければならなかった。
 義一の不満げな顔から、窓の外の平べったい雪景色に眼を移した。義一はたとえかっちゃに会えていっしょに暮らせたとしても、ばっちゃにケツを叩かれたことのほうをもっと幸せな気持ちで思い出すだろう。でも義一は、こんなつらい生活をしていたら心のいちばん大切な部分が磨り減ってしまうと感じているようだった。要らない悩みと思ってみても、義一の深刻な表情は私の急所に触れるものがあった。
「ウガも、かっちゃに会いたんだべ?」
「うん、カズがかっちゃに会ったあと、ワもかっちゃに会う」
 なぜか十三湖は八戸のそばにあるような気がした。
「そうすんだ、ワがついてってやるすけ」
 列車が坂道にさしかかり、ぜいぜいという苦しげな音が聞こえてきた。遠く近く、雪をかぶっているブナの林を無言で眺めた。聞き覚えのない名前の駅をいくつも過ぎた。雪の中を進みながら、窓から見上げる灰色の空のどこに太陽がめぐっているのかわからなかった。
「乗車券を拝見いたしまーす」
 検札が回ってきた。義一はいっそう窓際にへばりついた。車掌はいったん私たちをいき過ぎ、何かがひそんでいる気配に気づくと、すぐにきびすを返した。
「おめんど、だれかといっしょが?」
 目尻に柔和な皺を寄せて言う。こんなときの義一の作戦をたしか聞いたような気がするけれども、思い出せなかった。義一もとっさの本番に青くなり、すがるように私を見つめた。型どおりな作戦計画など頭に入れなければ、得意の頓知が不意打ちを食ってかえって働きを増したかもしれなかった。車掌がけわしい眼つきになった。
「おめんど、切符持ってっか」
 義一は車掌の緊張した顔から目をそらし、そのまま固く押し黙った。
「持ってねなら、無賃乗車で突き出すど!」
 剣幕のすごさに、二人同時にいやいやをした。車掌はみるみる眉を曇らせた。
「二人っこで、汽車さ乗ったのな」
 一転してやさしい調子になった。私はなんだかホッとして彼を見上げた。義一が声を震わせて言った。
「八戸のかっちゃが払ってける!」 
「八戸? 駅さ迎えにくるのな」
「十三湖」
 私もつづけて答えた。
「十三湖だあ? 津軽半島の先っぽだど。逆方向だべに」
「八戸のそばの十三湖」
 義一が私の袖を引いた。車掌の顔が微笑に輝いた。二人の肩に大きな手のひらを置いた。
「おめんど、ちょっとこっちさこい。叱らねすけ」
 最後尾の車両まで連れていかれ、詳しく事情を訊かれた。義一が泣きじゃくり、私もつられて泣いた。車掌は古(ふる)間(ま)木(ぎ)という駅で二人に降りるよう手配し、そのことを年上と見た義一に言った。義一はうなずいた。
 雪に煙った古間木で列車が停まると、車掌は時間を気にしながら二人の手を引いて駅長室へ連れていった。机に座っていた痩せていかめしい顔をした男に念入りに申し渡しをし、敬礼をして去った。
「佐藤善吉てな? 野辺地の……」
 駅長は私たちの顔を眺めながら、野辺地駅へ電話をした。笑ったり、頭を振ったりして、電話が長くなった。
「やっぱりあの人な。おう、おう、佐藤善吉。そう、野辺地の。うん、まちげねな。名代の機関士だ。引っこんでから、だいぶ経つべおん。んだ、んだ、子供二名。駅員一人つけて、このままくだりで送り返すすけ、よろしぐ願います」
 コークスストーブのそばの丸椅子に坐らされ、もう一度事情を訊かれた。
「ふうん、善吉さんの孫だってか。なして、こたらことしたのせ」
「カズがね、かっちゃに会いたいって言ったから、ワも十三湖のかっちゃに会いにきたの。ほんとだよ」
「二人ともかっちゃといっしょに暮らしてねのがい」
「うん。じっちゃとばっちゃのところにいるの」
「じっちゃさ言わねえでけろ」
 義一が、またベソをかきはじめた。
「したたって、もう電話してしまったべおん。おめんどのじっちゃも、そたらに叱らねべせえ。善吉さんか、たいしたアダマのいい人でな。県で二人しか受がらね試験さ通って、軍艦でシベリアさいったんだ。帰ってきて汽車さ乗ったんだども、またえらく腕のいい機関士でなあ。天皇陛下の東北巡幸のみゆき列車牽っぱってよ。名誉の機関士でェ」
 義一がめそめそ洟をすすっている。
「……泣くなじゃ、なんも、心配しなくていいでば」
 それから駅長は、うどんを二人前とって、
「ケじゃ。あったまるすけ」
 と言った。私は彼が強い味方のような気がして、勇んで箸を動かした。義一はいっこうに食欲がないふうで、横目でちろちろ戸の外を眺めている。
「うめえよ、カズ」
 義一は駅長に上目を当てたまま、渋々うどんをすすった。やがて、青森行きの汽車が雪を巻き上げてホームに滑りこんできた。
 野辺地駅のホームで、じっちゃが背中を真っすぐ立てていた。その穏やかな顔にいつもの威厳があった。めずらしく笑っていた。それでも、汽車から降りてきた二人の頭を思い切りゲンコで叩いた。義一はもう泣かなかったし、私も彼といっしょにお仕置きされたことがひどくうれしかった。
 夜、私たちは善司や善夫から腫れ物に触るように扱われ、ばっちゃからは特別にオハギを振舞われた。うどんを食べ残した義一はもりもり食べた。私はオハギは苦手なので喉を通らなかった。
「浜のおんじも、くだらねこと聞かせたもんだでば」
 ばっちゃは舌打ちした。そして、義一に言う。
「おめのかっちゃは、もう八戸を出てよ、行方がわがねんだ。いずれ金曲さ帰ってくるんでねが」
「ワのかっちゃは?」
 私が尋くと、
「古間木のホテルで働いてら」
 偶然私は母のいる駅に降り立ったのだった。
「先生を辞めたの」
「十三湖で代用してたのは、ウガの生まれる前だ。十九、二十のころだ。それも一年くれやっただけで、あとはここで適当にぶらぶらしてたのせ。そのうちプッと出ていってしまった」
 教職を退いて十年も経っている母が、いまも十三湖で先生をしていると私に伝えたのはだれだろう。私が長く信じてきたからには、そう教えた人間がかならずいる。事情を知っているじっちゃやばっちゃではない。善夫や善司とはほとんど口を利いたことがない。とすれば、残るは義一だ。ことのあと先もよく知らない彼が、聞きかじりの話をまことしやかに私に吹きこんだのだ。彼の話さえ聞いていなければ、ひょっとしたら私はばっちゃに頼んで、二人で古間木の母に会いにいったかもしれない。
 ばっちゃの話を聞いているうちに、昼のあいだ保っていた心の平静が早くも破られてしまったのか、じっちゃは、トン、と煙管をはたき、苦虫を噛みつぶしたような顔でプッと煙を吐き出した。
「この家にいたぐねんだか。親も、子も、勝手なもんだじゃ」
「ワラシのしたことだいに。なんも、ホンツケねのよ」
 ばっちゃが胸に手を当てる仕草をした。少しさみしそうだった。またじっちゃがトンと煙管をはたいた。
「オラんどは兄弟だすけな」
 下座でじっとうつむいて聞いていた善夫が、涙声で言った。善司はさっきから自分の部屋にこもり、ぜんまい蓄音機で何度もカモナマイハウスを聴いていた。



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