十七

 入院は十日間ですんだ。夏休みに入るのとほとんど同時だった。一週間の病院生活で身についた習慣といえば、
・ベッドのシーツをしっかり伸ばして敷く
・朝晩二回歯を磨く
・何か言おうとしている人とはできるだけ長く話をする
・消灯のあと二階の病室から忍び出て一階の薬品くさい廊下をうろつく
 それくらいのことだった。人気のないしんとした夜の廊下を歩くのは、とても気持ちがよかった。少なくとも、野球のグランドにいるときよりも落ち着いた気持ちになった。頭がひんやり冷えて、古い悲しい思い出がどんどん湧いてくるようだった。そういうときは急に日記みたいなものが書きたくなったけれど、私にはその習慣も、思いつく言葉もなかった。
 逆に、昼間は頭がぼんやりした。観察したり悲しい思いに浸ったりすることが億劫になって、だれかがだれかを見舞っているのをぼうっと眺めたり、廊下を往復したり、待合室のテレビを観たりしながら、ただ時間を潰しているだけだった。病室の外には関心が向かなかった。窓から昼間の空を眺めたのは、たぶん二度か三度にすぎなかった。いつも同じ明るさの人工の光の下をぼんやりさまよっているうちに、いつのまにか左腕の分厚い添え布をはずされ、退院の日が近づいてきた。
 医者も看護婦も、飯場の人たちや康男のように目立ったところがなく、みんなまとめて一人しかいないように感じた。だから、夜の廊下と、ダッコちゃんの話と、不随者病棟のほかには、ほとんど関心が湧かなかった。たしかに気分のいいときは、医者や看護婦のいる景色もなかなか趣のあるものだったけれども、彼らを見ていると、たいていの場合、軽いめまいや、頭の中で何かざわざわするものや、ちぐはぐした感じみたいなものにつきまとわれた。彼らは私をだました人びとだった。
 どうやって右投げに変えようか―その課題だけが、いつも頭の中で逆巻いていた。退院が近づき、これでやっとベッドから降りて、陽が照ったり雨が降ったりするほんとうの空の下で計画を実行できると思ったときには、何とも言えずうれしかった。
 退院の日の午前、クマさんがクラウンで迎えにきて、小物や蒲団をトランクと後部座席に詰めこんだ。左腕は、まだ三角巾で吊るしたままだった。ダッコちゃんが松葉杖をつきながら玄関まで見送りに出た。
「ようやく、病院ともおさらばだな」
 クマさんが言った。それは私の正直な気持ちでもあったので、私は思わずクマさんに笑いかけた。ダッコちゃんも同意するように笑っていた。彼は名残惜しそうに私の手を握った。私も強く握り返した。友情に似た親しい思いを伝えたかった。
「遇えてよかった。神無月郷という名前をずっと忘れないよ」
「ぼくもダッコちゃんのこと忘れません。毎日励ましてくれてありがとう。ときどき、お見舞いにきます」
「リハビリついででいいよ。郷くんの貴重な時間がもったいない」
「……はい」
 時間が貴重なのは私だけではないと思った。病気の快復を計るための時間という意味なら、ダッコちゃんの時間のほうがはるかに大切だった。少なくとも私は、彼よりも全体的に健康だった。
「どんな障害があっても、野球をあきらめないでね」
「もちろんあきらめません。ちゃんと計画と希望があるんです」
 ダッコちゃんはそれが何かは訊かなかった。ただやさしくうなずくだけだった。クマさんもダッコちゃんに手を差し出し、
「あんたみたいな人もこの世にはいるんだな。カズちゃんや吉冨から聞いて驚いたわ。あんたこそ人生あきらめるなよ」
「はい。ありがとうございます。私にも郷くんと同じように、計画と希望がありますから」
 そう言って足もとを見つめた。
「表に出なければ手に入らないものはないかい。買ってきてやるぞ」
「だいじょうぶです。お心遣い、ほんとうにありがとうございます」
 二人はもう一度手を握り合った。
 車が走り出すと、私は助手席の窓から身を乗り出して、寝巻のまま松葉杖にもたれているダッコちゃんの姿に長いこと手を振った。クマさんが殻つきの南京豆を一握り、上着のポケットから取り出して私の掌に載せた。
「西田のクニから送ってきたやつだ。俺にも剥いてくれ」
 二人でポリポリやりながら飯場へ帰った。うれしかった。うだるようなアスファルト道も、通りすがりの人びとも、風にきらめく街路樹も、紫がぬけて白っぽくなったアジサイの群れも、目にするものすべてが微笑みかけているように見えた。
「最初のうちは無理するなよ。ゆっくりやれ」
「うん。一カ月くらいは、ほっておかないとね」
 食堂で社員たちがみんなで南京豆を食べていた。楽しそうに大騒ぎしながら殻を床一面に散らかしている。ようやくここに帰ってきたと思った。
「千葉の実家から届いた上物です」
 と西田さんが愛想を振りまいている。
「おう、天才のお帰りだ。なんだ、痛々しいな」
 三角巾を見て小山田さんが言った。吉冨さんが立ち上がり、ギュッと私を抱きしめた。照れくさかった。
「今夜はキョウちゃんの退院祝いだ。カズちゃんが自腹切って牛肉買ってきたんだぜ。すき焼きだ」
「みんながカンパしてくれたのよ」
 女史も、彼女の兄さんも、原田さんもいた。みんな笑っていた。女史の兄さんが寄ってきて、
「あのときはすまなかった。きみが新聞に載るほどの名選手だとは知らなくてね」
 原田さんが、
「無事これ名馬。これからはじゅうぶんケガに気をつけるんだよ」
 吉冨さんが、
「トゲのあること言うなよ。名馬だって、夜道の石は避けられないんだよ。そうだろ、キョウちゃん、それ、野球が原因じゃなかったんだろ」
 するどい勘だ。
「うん。いたずらばかりするやつに後ろの席からくすぐられて、腹立てて振り向いたときに机の角で肘を打っちゃったんだ。それが原因だって」
「やっぱりね。夜道の石だ。これから気をつけるのは、野球そのものでの酷使だな。バットもあんなに振らなくてもいいよ」
 小山田さんが三角巾の肩口を揉んで、
「ちょっと痩せたな。しばらくカバンを左手に提げて登下校したらどうだろ。それだけでもだいぶちがうと思うぞ。さて、すき焼きの準備にかかるか。バイショクの栄をたまわるとしよう」
 女史に寄り添って小さくなっていた母が、
「すみません、野球小僧ごときに、こんなにしていただいて」
 彼女はにこりともしなかったが、みんな笑顔を崩さなかった。バイショクの意味がわからなかった。
「グローブ磨いてくる」
「おお、いってこい。バットも振ってこい」
 小山田さんが背中から声をかけた。私がもう左腕を使えなくなったことを、畠中女史とダッコちゃんしか知らなかった。野球に詳しくない女史は、私が洩らしたことは手術がうまくいったあとの私の疑心暗鬼にすぎなくて、別に人に知らせる必要もないと思っているのだろう。
 勉強小屋に戻ると、肘を手術したことがまるで夢のように思われた。でも、小さな玄関の隅に立てかけてある二本のタイガーバットと、机の上に置いてある左利き用のグローブが、夢を見ていたわけではないことを教えた。
 私は国語辞典で、バイショクをひいた。陪食―身分の高い人といっしょに食事をすること、とあった。読みさしていたモンテクリスト伯が目の前にあった。考えられないほど初々しい勉強意欲が湧いてきて、私はあらためて第一章から読みはじめた。


         十八

 数日して抜糸をした。六対に並んだ縫い穴の跡が生々しかった。縫い合わさった傷口から、赤い肉が細く覗いていた。糸を抜いた若い医者が言った。
「くっつきが悪いのは体質かもしれないね。でもだいじょうぶ。四、五日もすれば自然とカサブタができるから」 
「薬指と小指が、少し痺れてるんですけど」
「二、三カ月したら、治ります。それ以上長くかかることはないから安心して」
 ダッコちゃんの病室に回ったけれども、計画と希望の歩行訓練に出ているらしく不在だった。いつものように整ったベッドの枕の上に、分厚い数学の本が載っていた。
 宮中に向かうつもりで労災病院前から市電に乗った。リハビリが始まるまでしばらくのあいだ、肘の曲げ伸ばしができないので、用心のためにまだ腕を三角巾で吊るしている。小指と薬指をそっと動かしてみる。痺れているようでまだ思いどおりにならない。たぶんリハビリが終わっても、もとの握力は戻ってこないだろう。こぶしを握る感覚からそれがわかる。せいぜい腕立てをして、腕力だけは回復しておかないといけない。電車の窓から明るい日差しを浴びた街路樹が見える。風にそよぐオヒョウの大きな葉が涼しそうだ。
 白鳥東の停留所で降りる。宮中まで歩く道でテニス部のランニングにぶつかった。直井の小さいからだが列の中にあった。先輩の掛け声に合わせて声を張りあげていた。滑稽な感じがした。彼には運動というものが似合わない。雅江が舟を漕ぐような格好で最後尾を走っている。彼女はうつむき、声を合わせ、真剣な面持ちをしていた。
 ―まだテニス部をやめていなかったのか。
 前方にぐんと脚を投げ出し、反り返った姿勢のまま地面に着地する。すぐ軸足を次の場所に移し、ふたたび新しい勢いで悪い脚を投げ出す。そうやって空間を獲得する。彼女は障害に安んじて怠ける特権をじゅうぶん持っているのに、ああやって懸命にがんばっている。かわいそうに。それでも、ダッコちゃんよりはずっとマシだ。両脚が動くのだから。
 雅江は私に気づかずにギクシャク走り過ぎた。
 職員室の戸を引くと、夏期出勤の何人かの先生が机から振り向いた。岡田先生の顔があった。
「神無月ィ! 退院したのか」 
「はい、水曜に。きょう抜糸でした。糸を抜くまでは、なるべくじっとしてるようにって言われてたんで、学校はずっと休んでました」
「手術したのは肘だったんだって? 肩が痛いなんて、嘘を言いやがって」
「すみません。肘なんて言ったら、絶望すると思って」
「まあな……。お母さんから電話もらって、びっくりしたよ」
「練習試合、どうでした」
 すでに二回戦の常滑中との試合が終わって何日か経っていた。
「浄心に大差負けしてしまった。いやあ、与野が打たれたのは仕方ないとして、打線がさっぱりでな。常滑にも敗けた。やっぱり大砲がいないと勝てん。……で、どうなんだ、手術の結果は。一、二カ月で戻ってこれるんだろう?」
 岡田先生は不安そうな顔で訊いた。
「それなんですけど。二週間ぐらいリハビリにかよえば、治療はおしまいです。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「しばらく、試合には出られません。―左は、もう使えないんです」
 岡田先生はとっさに私の言葉の意味を理解しかね、チョットマテというふうに片手を上げた。
「ちょ、ちょい待ち草。使えないって、どういう意味だ?」
「手術は、ただ開けて、閉じただけでした。指を動かす神経に、カルシュームが溜まっていて、それを削り取ると、指が動かなくなる危険があるんだそうです」
 岡田先生は深くうなだれた。
「それじゃ、試合に出られないというより……もう、野球はできないということじゃないか」
 あまりの落胆ぶりに、私は思わず先生の手をとった。
「左では、ね。心配いりません。―右投げに変えようと思ってますから」
 私はおおらかに笑った。岡田先生は、そろそろ子供らしい丸みが削れてきている四番打者の顔を見つめた。それから、肩から吊った三角巾へ視線を移した。
「……左腕では、もう投げられないんだな?」
「はい。このまま酷使すると、どんどんカルシュームが溜まっちゃうんだそうです」
 先生は私の手をそのまま握り、
「しかし、金太郎さん、右投げに直すったってなあ」
 私は先生の手を離し、右腕を投球フォームで振って見せた。
「ほら、だいじょうぶです。なんとかなりますよ」
 岡田先生は物思わしげに二度三度うなずきながら、顔に暗い翳が射さないように努力していた。
「左打ちから右打ちに変えるのとは、わけがちがうぞ。左投げから、右投げに変えたなんて話、聞いたことがない」
「とにかくやってみます。もちろん、バッティングは、ずっと左でいきます。右打ちには変えません。ホームランが打てなくなりそうで。とにかく、野球をあきらめるわけにはいかないんですよ」
「そりゃそうだ、おまえは野球選手になるために生まれてきたんだ。うん、そのアイディアはいいとして、投げる感覚ってのはどうなんだろうな……」
「自分の腕で投げてるって感じがつかめるまで、二カ月くらい練習期間をください」
「二カ月? それっぽっちでいいのか!」
「はい、じゅうぶんです」
「うーん、おまえならできるかもしれんな。……よし、二カ月でも、三カ月でも、納得がいくまでデブシや大島と練習してみろ。試合には、ピンチヒッターで出してやる」
「や、右投げが完成するまでは、練習にも試合にも出ません。ベンチにも入りません。そんなことしたら、絶対やりたくなりますから。中村や大島の邪魔もしたくないので、とにかく当分一人でやります」
 そうか! と岡田先生は大声を上げた。職員室じゅうがこちらを見た。
「よし、わかった! 何か手伝えることがあったら、遠慮なく言ってくれよ」
「はい」
 私は元気よくお辞儀をして職員室を出ると、グランドの仲間の顔を見るために上の校庭へ登っていった。なつかしいかけ声が聞こえてきた。石段を登りつめないうちに、デブシの丸い顔が覗いた。下の校庭へ球拾いにいくところだった。私は小さく手を振った。
「神無月やないか!」
「やあ、ひさしぶり」
 デブシはめずらしそうに三角巾を見つめた。
「もうええんか」
「リハビリが終わるまで、あと二カ月ぐらいかな」
 関節の曲げ伸ばしを回復させるリハビリは、糸を抜いて二週間で終わるけれど、自分なりの計画は二カ月のメドを立てている。そう伝えた。
「そのくらいかかるやろな。ええ顔色しとるがや。野球やりたて、うずうずしとるんでにゃあか」 
「そりゃそうだよ。ちょっとみんなに挨拶していこうと思ったんだけど……」
「いこまい、いこまい。いまレギュラーが、フリーバッティングしとるとこだが」
 イグゼ、イグゼ、という声が合唱のように聞こえてくる。関や大島の元気な声も混じっている。デブシは先に立って、グラウンドのほうへ戻ろうとした。とつぜん不安が押し寄せてきた。
「やっぱりいい、きょうはやめとく」
「なんでや」
「バッティング見るのが、つらい。打ちたくなる」
「そんな腕で打てるわけないが。がまんもいっときやろが。ええからいこまい」
「手術、失敗だったんだ」
「なんてか!」
 デブシはあらためて三角巾を睨み、
「もう野球やれんのか!」
 と声を荒くした。肉づきのいいあごがふるえている。
「そうじゃない。手術しても治らない神経の病気だとわかって、開いたあとすぐに閉じたんだ」
「……もう、野球やれんやないか」
「やれるよ。右投げに変えようと思ってるんだ」
「右投げ! そんなの無理やろ」
「やってみせるさ。やるしかないだろ。こんなこといちいち説明するの面倒だし、みんなが大事な練習してるときに、迷惑だよ。だから、帰る」
 デブシは球拾いも忘れて、長話をする身構えになった。
「右投げて……。いまから練習するんか」
「そう、きょうから」
 泣きだした。
「おまえが野球やめたら、俺は、俺は……」
「心配するな。二ヵ月後にかならず戻ってくる」
「簡単やないやろ……」
「簡単じゃないさ。でも、がんばるしかないんだ」
 本間や足立の楽しげな、のんびりした声が聞こえてきた。
「おまえがおらんと、宮中はもう終わりやで」
「だからがんばるんだよ。腕を振り下ろした感じなんだけど、なんだか左より右の肩のほうが強そうなんだ」
「左よりか! すげえな。左より強いてどんなもんか、見てみたいわ」
「うん、楽しみにしててよ。四番は、本間さん打ってるの?」
「おお、神無月が戻ってくるまでの留守番や言っとる。本間さん、フォーム改造したで。近鉄の土井みたいな格好になった」
「円月殺法か」
「おお、けっこう鋭い当たりを飛ばしとる」
「右投げのこと、みんなに内緒にしといてね」  
「あたりまえだのクラッカー。だれにも言わん。はよ戻ってこい。そのとき、びっくりさせたれ」
「うん、毎日ランニングだけには参加するよ。じゃあね」
 堀川端の道を帰っていくとき、またテニス部にいき当たった。今度は雅江が気づき、笑って手を振った。私も振り返した。通り過ぎるとき、気がかりなふうに三角巾を見た。雅江は手術のことを知らないのだろうか。
「ノーダン満塁、それチャンス、大きなホームラン かっとばせ……」
 歩きながら、横浜の福原さんの家で観た『ホームラン教室』の主題歌がふと口をついて出た。歌詞に、野球に打ちこんでいる者だけの胸に響いてくる何ともいえない郷愁があって、私は口ずさみながら、この歌がそのまま自分の人生になってほしい気がした。



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