六十七

 十月七日火曜日。七時半起床。晴。十三・五度。寒い感じはない。とっくにネネの姿はない。うがい。軟便をし、シャワーを浴びながら歯を磨いたあと、ルームサービスでビーフカレー。三種の神器で腹ごなしをし、清水谷公園目指してランニングに出る。ジャージを着た江藤、太田、菱川が玄関スロープで笑いながら立ち話をしていた。
「やっぱりきよった。サボらん男よのう。きょうは千鳥ヶ淵までいってみんね。三キロにちょい足りんくらいや。ちょうどよかろ」
「はい! おもしろそうですね」
 江藤が先導して玄関スロープを駆け下りる。紀尾井町通りを直進して堀を渡り、青山通りへ左折。小坂を登り、平河町のあの砂防会館を左に見て坂をくだる。菱川が、
「このあたりが、かの悪名高き永田町です」
 関心なし。彼も関心のないことをあえて口にしている。
「菱川さん、ここ、走ったことがありますね」
「はい。こっそり開拓しました。俺がきのう江藤さんと太田に教えたんです。神無月さんを喜ばせようって」
「ありがとう。清水谷よりずっと走りでがあります」
 舗道が広いので走りやすい。最高裁判所を左に見ながら坂のふもとへ。三宅坂の三叉路。桜田濠が見える。生きとし生けるものと同じように、すべての無機物にも名前がある。きちんと知って、きちんと呼んでやりたい。信号を渡り、濠端の並木の下を走る。濠全体が美しい緑に縁取られている。ジョギングする人たちが時おりすれちがう。太田が、
「神無月さん、この並木は何ですか」
「ユリノキ。黄葉しはじめてるね。春に咲く花は、白いチューリップみたいできれいだよ。モクレンの種類だから」
 見渡すかぎり濠だ。濠だけでこの大きさなら、皇居に着くのは一日がかりだ。菱川が、
「神無月さんは頭がいいですね。どうしていつも自分をバカと言うんですか」
 速度を少し緩めて走る。
「利口に比べたらバカだからです。きょうこそ、馬鹿の意味をわかってもらうように説明しますね。―バカはせいぜい物知りにしかなれないんです。物知りの実績なぞ、資格試験に通る程度のところで終わりです。たとえば、科学の分野で貢献する人のことを考えてみてください。人間のからだの仕組みのこと、病気のこと、遺伝のこと、コンピューターのこと、地球や宇宙のこと、動植物のこと、都市計画のこと、運輸通信技術のこと、環境保護のこと。どれほど複雑なことを考え、発見し、着想し、分析し、解決し、考案するかと考えてみてください。物知り程度の頭では太刀打ちできないんです。彼らは人間全体の進歩に貢献します。そういう人をほんとに頭のいい人って言うんです。芸術も同じです。現代は芸術も学問化してる。感情や情緒を表現する芸術を現代人は求めていません。ぼくは馬鹿なので性懲りもなく求めていますけどね。ぼくは野球しかできない頭の悪い男です。人間全体の進歩ではなく、退歩に貢献してるんですから。ただ、人間というものはいっとき退歩しないと癒されないんです。ぼくに癒されたあとで、また進歩を目指す生活に戻ってくれれば、野球バカとして生まれてきた意味があったというものです。社会の進歩には貢献できませんが、進歩のための癒しには貢献できる。ぼくは人類向上のための知識ではなく、疲れた心を癒す時間を貢ぐことができる存在というわけです。そのためには絶対的なバカでないといけません」
 江藤が足を止め、私を抱き締めた。私は江藤の腰を抱いた。菱川と太田も江藤の両腕にかぶさって抱いた。走り抜ける人たちが訝しげに見ていく。
「恥ずかしいですよ。いきましょう」
「おお、千鳥ヶ淵が目の前たい」
 ふたたび走り出す。菱川が左手を指差し、
「あれが国立劇場です」
「国立劇場って何をするところですか?」
「さあ」
 頭を掻く。江藤が、
「歌舞伎や日本舞踊。ま、伝統芸能ゆうやつやな、そればやる劇場ばい。心を癒す場所やろう」
 赤シャツに黒い半パンを穿いたジョッガーがやってくる。挨拶をして行きすがる。警察の派出所がある。菱川が、
「半蔵門です。江戸城の門の一つです。一大事のときに将軍を逃がすための門です。将軍のガードマンをした服部半蔵がこのあたりに組屋敷を構えていたので、そう呼ばれました。逃げるためだから、正門の大手門じゃなく、その反対側にある裏門の搦手(からめて)門です。質問魔の神無月さんのために勉強しました。国立劇場は考えもしませんでした」
 三人声を上げて笑う。
「あ、このあたり一帯はもう千鳥ヶ淵公園です」
 ユリノキの並木が途切れたところで、信号を一つ渡った。瓦屋根の大時代な派出所があり、その背後に澱んだ池が拡がっていた。井之頭池より趣がなかった。
「千鳥ヶ淵です。川を堰き止めて造った江戸城の堀です。桜の名所です。俺は観たことがありません」
「武将の棲み家に天皇を住まわせて、神域にしちゃったんですね。神さまは政治を知らないから、そばに政治家や護衛役が住まなきゃいけないというわけでしょう」
「なるほどのう。さ、戻るばい。よか見物やったろ」
「はい」
 走りながら太田が、
「政治家って、むかしは武士も兼ねてたんですよね」
「うん。いまの政治家とはちがう。武士は親分を護るヤクザ集団だった。国を統率し、暴力もしっかりふるったからね。武士の仕事は、死ぬこと。いまの政治家は、武士のなれの果てだ。ぼくたちから搾り取って、ラクしてカネを儲けたがるという点では相変わらず武士然としてるけど、死のうとしないという意味ではヤクザじゃない」
 菱川が、
「政治家ですか……。そう言えば、市民栄誉賞には秋月議員が出てきますよ」
「そうみたいですね。喜んで賞を受けます。彼の友だちは牧原さんです。だから彼はヤクザ気質の政治家ですね。ただ、ほんもののヤクザじゃない。死ぬ覚悟がないので、秋月さんとはお付き合いはしません。付き合うのは牧原さんのほうです」
 江藤が、
「ワシは金太郎さんと付き合うて、死ぬるばい」
「わかってます」
「俺も」
「俺も」
「わかってます。ぼくの愛する人は、男も女もみんなヤクザです。ぼくもいっしょに死にます」
 部屋に戻ると、巨人の川上監督から電話が入った。驚いた。
「川上監督、おひさしぶりです。……どういうご用件でしょうか」
「いや、どういうということもないんだが、敬愛する神無月郷くんと少し話がしたくてね」
 警戒心はなかった。彼の人間性に対してはすでに印象を異にしていた。好意すら感じていた。
「はい、どういうお話でしょう」
「少し長くなるけど聞いてほしい」
「わかりました」
「恥ずかしながら私も神と呼ばれた男ですし、きみも神と呼ばれている男です。きみは正真正銘の神だから、人が思うほどの重圧は感じていないのかもしれないが、私は三割をつづけて打った程度で、ホームランも大して打てず、ヒットの中にはかなりテキサスが混じっているような、神などと呼ばれるのはおこがましい男だったので、その重圧たるやものすごいものでした。私は打席の中でまったくと言っていいほど自信が持てなかったんです。中島治康さんのスイングを手本にしてバットを振りこんだ戦前も、戦地で生きるか死ぬかの極限状況を経験して戻った戦後も、いくらバットを振りこんでもだめでした。私はきみとちがって何の工夫もなく振りこんでいただけだったから、きみのようにはスパッとミートポイントがつかめなかったんです」
 そんな野球の体験話をしたくて電話をかけてきたはずはない。私は受け答えの発声もしないで黙っていた。
「……前置きが長くなって申しわけない。打者が投手と対峙するということは、戦地での体験にも劣らぬ緊張感を持っています。バッティングを職業としている人間の場合は当然のことです。それを思い知った私は、自分に冠せられた称号に見合った技術に確信を持つまで習得に励むことに腐心しました。……いまでこそちがうが、戦後の私は、三原さんから交代した水原さんと感情的にうまくいかなくてね、そういう努力の日々の中で極端なスランプに陥ってしまった。たまりかねて私は、休日を返上して個人練習に取り組むことにしたんです。チームメイトの何人かに打撃投手と球拾いを頼んで、多摩川グランドで特打ちをやった。時間を忘れてひたすらボールをひっぱたいた。するとあるとき、ボールがミートポイントで止まったように見えたんです。それからはすべてのボールが同じ点で止まる。これだと感じることを繰り返した。もう勘弁してくださいと言うチームメイトの声でハッとわれに返ると、自分の中に自信のようなものが芽生えていたんです。……きみは職業人でもない小学時代にすでにミートポイントを眼目に励んでいた。根本的な天賦のちがいです」
 野球の話だ。しかしここからが本題だろう。
「……私は神と呼ばれるに値しないただの人間です。人間はまちがいをする、見栄を張る、そうすべきでない相手を冒涜する。そして、省みない。―これまでの失礼をあらためて心からお詫びしたい。水原さんには、すでに自宅をお訪ねして、何度もお詫びを入れました。彼は笑って、金太郎さんは最初からかわいらしい神さまだとわかったものでね、神さまの言行に疑惑を持つことは悩ましい悪行ですよ、自分の人間としての人生を肯定することになるからね、自分を肯定しちゃいけない、ただ神さまを信じてすがればいい、とおっしゃりました。きみこそ神です。出会ったとたんにきみを愛した水原さんも菩薩だ。言いたかったのは、これだけです」
 私はおそらく呼吸の音がするほど息を深く吸った。
「面映いですが、感激しました。ありがとうございました。胸の内を真率に吐露する物言いほど美しいものはありません。美しいものに触れると長生きしたくなります。ただ、川上監督には錯誤があります。ぼくは神ではありません。動物に近い感覚と生命欲を持っている、しかも窮鼠のような破滅欲も持っている、少し頭の足りない、正真正銘の凡人です」
「なるほど、きみはそういうふうに語る人なんですね。二人きりのときにきみの言葉が聞けてよかった。私だけが聞けた言葉です。……やはり、人間じゃない。ありがとう。まちがった人間の行いをご寛恕くだすった。心が晴れました。残り試合、おたがい全力を尽くしましょう。四球や敬遠が多いのは気の毒ですが、巨人軍はそんな姑息なことは意識してやらないからね。思い切りあのみごとなバッティングをしてほしい」
「はい、精いっぱいがんばります」
「じゃ、グランドで」
「失礼します」
 長い電話だった。
         † 
 眼鏡をかける。両チームのダッグアウト横や、ネット裏の中段あたりで、テレビスタッフたちが中継に備えて機材をセットしている。ネット裏最上段のゴンドラ席や一塁ベンチ上の最前列に一溝穿たれた記者席では、テレビ・ラジオのアナウンサーや主要スポーツ紙の記者たちが報道の準備に大わらわだ。
 試合開始三十分前。ドラゴンズの守備練習終了。後楽園に秋風が吹いている。肌に風の圧力を感じる。気温十六・○度。内野二階席では場内係員が立ち見の客に向かって、もっと詰めてください! と叫んでいる。多少空席があっても三万八千人の観客だ。ほかの球場とは客の詰まり具合と、ざわめきのレベルがちがう。選手名鑑、ビール、助六寿司、ホットドッグの売り子たちは何度目かの分をすべて売り終え、新たに商品補充のために前籠を揺すりながら大急ぎで通路を戻っていく。早くしないと階段出入口が立ち見のフアンで埋め尽くされてしまうからだ。十年前の中日球場のオールスター戦のように。中が、
「噴水は今年かぎりで廃止だそうだよ」
 情報通の太田が、
「後楽園球場は来年からもっといろいろ変わりますよ。内野二階席が拡張され、外野照明塔がいまの二基から小さいもの四基に変わり、スコアボードは電光式に変わり、ブルペンはホームチームだけ内外野の仕切り通路に移動、スコアボード真ん中下の広告は大正製薬からパイオニアに変わります」
 高木が、
「どうでもいいこといろいろ知ってる野郎だ」
「どうでもよくないですよ。ビジターのブルペンだけ現状のままなんですから」
 木俣が、
「そうだ、あれはひどい。キャッチャーの後ろのスタンドがカーブして迫ってて、フェンスは低いし金網もないから、ピッチャーが逸らしたらたいへんだ。客はみんなゲームを観ててこっちを見もしないから、ほんとに暴投したら大ケガだ。ワンバンがきたら命懸けで押さえてるよ」
 高木が、
「内野の天然芝、取っ払ってくれないかな」
 中が、
「いいじゃない。きれいだよ」
「外野はどうか知らないけど、内野は雨上がりにとにかくボールが滑る。夏場水を撒いたあとも滑る。外野の返球を後逸したら、ツルツル石切りみたいに走っていったことがある」
 木俣が、
「悪いことに、ここのホームベースの後ろ、ほらあそこ、バックネットの両サイドにドアのない関係者入口があるだろ。あの中はすぐ階段なんだ。一度あそこに飛びこんだことがある。人がいたら大ケガだぜ。どっからきたんだ! って怒鳴り声が聞こえたけど」
 三塁側照明塔の柱に大きな日立のネオンが煌々と灯っている。カクテル光線に照らされた内外野のダイヤモンドターフが美しい。電光掲示板が設置され、内野にスタンドが増設されると太田は言うけれど、この景観が損なわれないだろうか。不安だ。太田が、
「年間一千万人に近い野球狂がセ・パ両リーグの球場に観にいくんですけど、そのうち四人に一人は後楽園球場に押し寄せるんですよ」
 一枝が、
「名にし負う〈ジャイアンツ〉をその目で見るためだろ。王、長嶋、柴田ってわけじゃない。どうのこうの言ってもジャイアンツを見たいんだから、永久に変わらないよ」


         六十八

 白ユニフォームに白帽子のグランドボーイがベンチ脇の定位置に着く。務台嬢の抑揚のないソフトなアナウンス。
「ただいまより読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ二十二回戦を開始いたします。両チームのスターティングメンバーを発表いたします。先攻は中日ドラゴンズ、一番センター江島、センター江島、背番号37、二番セカンド高木、セカンド高木、背番号1、三番ファースト江藤、ファースト江藤、背番号9、四番レフト神無月、レフト神無月、背番号8」
 歓声が破裂し、一瞬後続の放送が聞き取れなくなる。
「五……チャー新宅、キャッチャー新宅、背番号19」
 木俣がうなずきながら笑っている。彼はおそらく水原監督にしつこい陳情をして新宅の出場を図ったのだろう。中は自己申告でベンチ待機。
「六番サード菱川、サード菱川、背番号4、七番ライト太田、ライト太田、背番号40、八番ショート一枝、ショート一枝、背番号2、九番ピッチャー星野、ピッチャー星野、背番号20」
 またもやものすごい歓声。ここは後楽園だ。星野が押しも押されもせぬスターになった証拠だ。
「対しまして後攻は読売ジャイアンツ、一番レフト高田、レフト高田、背番号8、二番セカンド土井、セカンド土井、背番号6、三番ファースト王、ファースト王、背番号1、四番サード長嶋、サード長嶋、背番号3」
 負けじと、グワングワンと響きわたる歓声。
「五番ショート黒江、ショート黒江、背番号5、六番ライト末次、ライト末次、背番号38、七番センター柴田、センター柴田、背番号12、八番キャッチャー森、キャッチャー森、背番号27、九番ピッチャー堀内、ピッチャー堀内、背番号18。球審は原田、塁審は一塁井上、二塁丸山、三塁寺本、外審はレフト松橋、ライト山本。以上でございます。なお試合開始に先立ちまして、ただいまより始球式を行います。投球いたしますのは、駅前シリーズ、旅行シリーズ、二等兵物語、飢餓海峡等、ユーモアとペーソスにあふれるユニークな演技で名高い映画俳優、アジャパーのバンジュンこと、伴淳三郎さんです。ちなみに伴さんは、お顔のホクロの位置がよく似ていることから、ドラゴンズの一枝選手の大ファンでございます。したがいまして、始球式のバッターには特別に一枝選手に立っていただきます」
 笑いと拍手。ライトの内外野の切れ目の通路から、リリーフカーに乗ってバンジュンが現れる。ワーという歓声。二等兵物語の軍服を着ている。一枝もピョンとベンチから飛び出す。バンジュンは車から降りると、ヒョコタンヒョコタンとおどけたふうに奇天烈なパフォーマンスをする。爆笑。私も思わず微笑む。一枝が打席に立つ。江島はウェイティングサークルにいる。バンジュンは軍帽を取って四方のスタンドに振る。それから一枝に深く一礼すると、振りかぶってヨイショと投げた。ツーバウンドでベースに届いたボールを一枝は全力の空振りをした。拍手喝采。バンジュンはホームに向かって一直線に走っていき、一枝と抱擁し、握手した。もう一度リリーフカーに乗って去っていく。四方に振りまく笑顔がひどく満足そうだ。芸人が極める〈芸〉とはどういうものだろう。たぶん瞬間芸じみたものではなく、思わず微笑を誘う〈香り豊かなたたずまい〉のようなものかもしれない。
         †
 中日は一回から三回まで堀内の前に三者凡退を繰り返した。私はドロップを打って強いピッチャーゴロ。堀内の華麗な守備に難なくさばかれた。
 巨人は一回、二塁打の高田を置いて王がライト前ヒットを打って一点、二回センター前ヒットで出た黒江を柴田が送り、森がライト前ヒットで還して二点目。そこまでで攻撃がピタリと止んだ。愉快なほどいつもと同じパターンだ。ヒットはその四本きり。星野は五回裏まで打者二十二人、被安打四、失点二に抑えた。三振は意外と少なく、四個。フォアボール三個、自責点二。星野にしてはけっこう苦しんだほうだった。川上監督の言ったとおり、巨人が力いっぱい体当たりしてきたからだ。六回裏から水谷寿伸に交代した。
 中日は四回表、先頭打者江島、ツースリーからフォアボール、高木二球目のドロップを打ってレフト前ヒット、江藤初球のシュートを打って詰まったレフト前ヒット。ノーアウト満塁。ここで私はフルカウントから二球つづいたドロップを足もとへのファールで粘って、九球目の外角低目のストレートをスコアボードの大正製薬の広告の裾まで飛ばすホームランを放った。噴水が上がる。百五十一号グランドスラム。四対二と逆転した。
 六回表、高木がセンターフライに倒れたあと、江藤がレフト中段へ六十三号ソロ。私はライトフライ。新宅から代わった木俣がライト前ヒット、菱川がレフト上段へ三十五号ツーラン。七対二。
 七回、八回、九回とドラゴンズは三者凡退。私の最終打席はライトのファールフライだった。四の一。堀内をコンスタントに打てなくなった。
 水谷寿伸は、八回裏に長嶋にレフト前ヒット、黒江にライトオーバーの三塁打を打たれて一点を失い、九回裏には柴田の代打国松にライト前ヒット、森の代打森永にライト前ヒットを連打され、堀内の代打林千代作に左中間を抜かれて二点を失ったが、どうにか三失点に抑えて逆転を免れた。七対五で勝利。星野は十二勝目。試合終了のとき、一塁ベンチの川上監督が満足げにうなずいていた。
 試合途中の八回から降りだした雨が、ホテルに戻るとすぐに激しくなり、翌八日の試合はまちがいなく中止だろうということになった。しかし、決定したわけではないので、みんな内風呂で汗を流し、宴会場でめしを食ったあとは、夜更かしをせず、早めに部屋に退がった。
 堀内から一安打しか打てなかったことや、昨夜の川上監督の一言半句や、きょうの彼の柔らかい視線まで細かく思い浮かべながら目をつぶった。
         †
 十月八日水曜日。起きると九時だった。二日分寝た感じがした。カーテンを引くと曇り空が垂れこめている。順延でないかもしれない。きょうも形のある排便。シャワーを浴びながら歯を磨く。髪が伸びている。少しヒゲが指先に触る。うれしい。ブラウンを用心しながらあてたが怖いので途中でやめる。
 十六階の中華料理大観苑にいき、五目旨煮スープそばを食う。三階に戻り、アーケードの理髪店にいく。慎太郎刈り。薄いヒゲもあたってもらう。抵抗なく動く剃刀が快適。
 ロビーへいくと、選手たちがいつもとちがった雰囲気でざわついている。江藤が、
「大したことになっとるげな」
「どうしたんですか」
 太田が、
「スクープ、スクープ」
 一枝が、
「まあ、これ見て」
 読売新聞を差し出す。ロビーのほぼ全員がいろいろな新聞に見入っている。

 西鉄ライオンズの永易将之(ながやすまさゆき)投手が暴力団の野球賭博に関与し、敗退行為を行なっていたことが判明。西鉄側もこれを認め、永易投手を今季かぎりで解雇すると発表した。
 
 それだけの記事だった。中が、
「こりゃ、あっという間に大問題になるな」
「これ、八百長のことですよね。野球って、八百長できるんですか」
 中に訊くと、
「できる。わざとフォアボール出したり、三振したりするんだ。順位に影響のない下位のチームの選手しかやらない。わざとホームランは打てないだろう? それと同じでわざと勝つことはできないから、わざと負けるのが八百長だ」
「なるほど、それで敗退行為」
 小川が、
「水原さんが俺たちを吉野鮨に連れてってくれたときに、勉ちゃんのことを言ってたの憶えてるか? 予想がつくと思うけど、勉ちゃんも永易から金受け取ってたんだよ。八百長はやらなかった、というより、長谷川さんの話だと、フォアボール出すつもりが打ち取っちゃって失敗したらしいんだが、胴元の暴力団から金を受け取ったということがフロントにばれて、それを耳に入れたドラゴンズが首を切った」
 高木が、
「勉ちゃん、よっぽど金に困ってたんだろうな」
 いつかだれかが呟いたのと同じ科白を言う。小川が、
「暴力団から借りたギャンブルの金が溜まって、首が回らなくなってたらしい。俺も大井オートに勉ちゃんに誘われていったんだが、あいつ、もろに車券を当てて俺にご祝儀をくれたんだよ。どうもそれが暴力団から受け取った金をオートの選手に渡して、八百長をやってもらった結果だったらしいんだ。勉ちゃんは辞めさせられるとき、その八百長に小川も加担してたって、最後っ屁みたいに球団に報告してさ」
「何やと!」
 江藤が目を剥いた。小川は笑いながら、
「水原さんが連盟に、小川くんがそれと知らずにオートレースの八百長に巻きこまれたことは調べがついている。ドラゴンズはそのことの責任は問わない、またそのことは野球賭博とはいっさい関係ない、って庇ってくれて、どうにかことなきを得たけど、危なかったよ。最後っ屁のおかげで、この七月に、俺、足木マネに東京の警視庁へ事情聴取に連れていかれる破目になっちゃった。オールスターの直後だったけどね。朝の五時半だぜ。足木さん、マスコミが張ってない彼の自宅の裏口から俺を車で連れ出して、東名高速走って東京までいったんだ」
 高木が、
「えらい迷惑だな!」
「俺のふだんの素行の悪さもこうなった原因だってわかってるから、あのときは腹くくったよ。もう野球できなくなっちゃうんだろうなって。足木マネージャーに車中で無言を通されたのがつらかったなあ。気の毒そうな顔してるんだもの。ちょうど窓から富士山が見えててさ、まだ東京まで半分の道のりだったんだぜ。桜田門に着いたのが十時半。五時間が十時間に感じたわ」
 菱川が、
「警視庁にもマスコミがいたでしょう」
「ああ、いた。足木マネが担当刑事に直通電話をかけて、地下駐車場から庁内に入るように取り計らってもらった。まあ、取調べで贈賄の疑いが晴れたからよかった。小型自動車競争法違反という罪だよ。いま警察が内偵をさらに進めてるらしくて、来年の半ばにはオートの選手やプロスポーツ関係者からかなり逮捕者が出るという話だ。勉ちゃんは逮捕確実だな。俺も事情聴取なんて悪夢を見ちゃったけど、暴力団とのつながりがまったくないことをわかってもらえてラッキーだった」
 私は、
「苦労でしたね! そんなことひとことも言わずに、いままで黙々と投げるのはたいへんだったでしょう」
「そうでもないよ。俺は極楽トンボだから。それより、俺の手でドラゴンズの名を汚さずにすんでホッとした」
 木俣が目に涙を浮かべ、
「初耳だ、健太郎さん。俺という女房にも黙ってたなんてなあ。もう、ギャンブルなんかやめてくださいよ」
「ああ、懲りた。パチンコぐらいで溜飲を下げとくよ。こんな状況で二度目の沢村賞を獲れたら、小川健太郎は神仏に護られてる男だということになるな」
 小野が、
「いや、そんな事情じゃまず獲れないと思うよ。獲らなくたっていいじゃないか。沢村賞は、社会の木鐸を気取る新聞記者の人気投票だから。最多勝と最高勝率がピッチャーの勲章だよ」
「ですね。その二つは獲らないとな」
 たとえ人気投票でも、大好きな小川にもう一度沢村賞を獲らせてやりたかった。胸が詰まってきたので、みんなに挨拶してロビーを去ると部屋に戻った。ふだん格好つけて大口叩いていても、いざコトが起こると私には何の〈案〉もない。自分の首を絞めるだけのギャンブルは、別に他人に害を与える罪悪とは思えないけれども、過剰に利得を得ようとすると、どうしても人びとの気に入らないものになる。司法の力まで動員して裁こうとする。不正に基づいて利を得ようとする〈権力集団〉は見逃してやるが、純粋に勝負して過剰な利を得る〈個人〉は許せないのだ。
 クサクサしてきた。たしかに苦境を脱しようとしてオートレーサーに八百長を持ちかけた田中勉には、惨めさや哀れさを感じるけれど、単に一六勝負を楽しもうとして不正の意識もなく〈友情〉に巻きこまれてしまった小川には、同情こそすれ、怒りは感じない。自分のふところ事情に友人を巻きこんだ田中に憤りを覚える。
 昼下がりに強い雨が降り出して、すぐに宇野ヘッドコーチから各部屋に試合中止の報が入った。九日、十日と連戦になると言う。太田がドアを叩いた。
「テレビ、テレビ」
「なに? 田中さんのこと?」
「ミズノのコマーシャル」
 太田とベッドに腰を下ろしてテレビを点けた。とつぜん画面から私の走る姿が飛び出してきた。納屋橋あたりをスローモーションで走っている。ミズノのシューズがアップになる。
 ―前衛を極めろ! 
 静かなドスの利いた声で、テロップに合わせたナレーションが流れる。
「走れ、前衛を極めろ!」
 ロードランニングの横顔から久屋公園の三種の神器へ。とりわけ、片手腕立て。バットスイング全コース一本ずつ、六振り。早送りとスローを混ぜる。ジャージの胸のミズノのロゴ。胸もとのロゴから顔へのパン。うまい具合に額に汗が滲んでいる。路上でジャンプする姿とシューズの大写し。
「フライハイ、未来へ!」
 笑わない顔の大写し。名古屋駅の噴水と青年像に向かって走る背中。
「前衛を極めろ!」
 叫びとテロップ。私はテレビを消した。
「美しい人ですね。絵になる」
「浮ついてるね。太田はうれしいの?」
「はい、うれしいです」
「そう……」


         六十九

「きょう一日バットを振れなくなりますね」
「こういうときのためのジムだ。いってみよう」
「はい。神無月さん、入会したんですか」
「した。一万円。暇潰しにはいい」
「菱川さんも連れていきましょう」
 私たちは菱川を誘ってロビーに降り、江藤と小川と高木に声をかける。
「金太郎さんも会員になったとね。ワシも入会せんばな」
 小川と高木はすでに会員だ。菱川が、
「神無月さんがそうきたら、俺たちお供は随うしかないでしょ」
 太田に笑いかける。太田はうれしそうにうなずく。小川が、
「俺はふだんあまり走ってないから、ホテルにジムがあると大助かりだ」
 私は、
「それで、小川さん、あまり朝ランをやらないんですね」
「夜ランもやらない。試合日の球場を五周ぐらいするだけだね。足腰は鍛えてあるからだいじょうぶ。キャンプのときだってキツそうにしてなかっただろ」
 生返事をする。キャンプのときはだれにも注意していなかった。六人でジムへいった。江藤が受付の男に、
「三人見学するけん、よろしく」
「はい、どうぞ見て回ってください。大歓迎です」
 すぐに江藤と菱川と太田の三人は女性従業員に連れられていった。私は小川と高木の訓練風景を見るためにトレーニングルームに入った。人が大勢いる。熱気がすごい。二人は更衣室に入り、ジムから借り出した半パンのウエアを着、靴下とシューズを履いて出てきた。小川が、
「金太郎さんみたいに自前のジャージでもいいんだが、俺はたいていジャージを持ち歩かないからな」
「そう言えば小川さん、ユニフォームのとき以外は、ビシッとスーツですね」
「家ではジャージだけどさ」
 男女の指導員が一つひとつのマシンのそばに控え、機具の名前と使い方を客に教えている。高木が、
「この機械が王様だ」
 二人並んでランニングマシンに乗った。速度と傾斜の角度を調整して走りはじめる。小川が高木に号令をかける。
「十五分走るぞ」
「ウス」 
 小川が走りながら私に説明を始める。
「短時間で効果の出る脂肪燃焼ツールだ。膝や足首にもいい。傾斜は一パーセントから五パーセントだな。それ以上は負荷が大きすぎる」
 高木が、
「まあ、それ以上の角度をつけたら、ゆっくり歩けばいいんだけどね。十パーセントを超えたらぜったい歩かないとだめだ。とにかく、信号や自動車に注意する必要がないので集中して走れる。天気、季節、昼夜を問わないからね」
「椅子にどっかり座ってやる自転車漕ぎマシンは効果なしだ。下半身だけ鍛えたいときはいいけどな」
「ハンドルバーを握って手と脚を交互に動かすやつがあるだろ。クロストレーナーって言うんだけど、あれも効果が薄い。デブが腹を引っこめるにはいいかも」
「クロストレーナー型の自転車漕ぎは効果大だ。ステイショナリーバイク。サドルは高くしないとだめ」
「ボート漕ぎのローイングマシンはじつに効果が高い。関節を強くする」
「最高に効果のあるのは、いまやってるこれ、トレッドミル。いわゆるランニングマシンというやつだ。全身の持久力をつける。最強。これを十五分やればオッケー。走りすぎは故障のもとだから、十五分」
 二人は走りながらしゃべりつづける。私は自分が日々理想に近い練習をしているとわかった。
「じゃ別室で三種の神器をやってきます」
「おう」
 見学から戻ってきた江藤たちと回廊で出会う。
「入会しましたか」
 笑いながら指で丸印を作る。太田と菱川も同じ格好をする。
「手続にいってくるわ。サウナとプールが魅力たい。星野と江島も誘っちゃろ」
「トレーナールームで三種の神器をやって、それからめしに合流します」
「気使わんでよか。原稿書きやら何やら急がしかろ」
「原稿は持ってきてません」
「一人食いが好きやゆうことはみんなわかっとる。ワシらはラーメン食いに外に出るけん、気にすな」
「雨ですよ」
「タクシーでいく」
「わかりました」
 トレーナールームに入っていく。ここも大した熱気だ。七、八人の男女が女性指導員たちとじゃれ合っている。そう見えるのは、どちらも笑顔でたがいに適当なストレッチをやり合っているからだ。客もトレーナーのストレッチを助けてやって練習のコツを飲みこむというのがこのルームの売りのようだが、そのおかげでトレーニング室とはちがった独特の和気を醸し出している。客は男女とも全員中年以上がほとんどで、若いのは彼らのあいだを飛び歩いているトレーナーたちだけだった。
 バレリーナが柔軟体操をするようなバーを渡してある隣室へいく。客が二人しかいない。広い空間で存分に三種の神器ができそうだ。ここにも離れた一角にフロントがある。会員証を提示する。
「いらっしゃいませ、神無月さま。お預かりものは?」
 女子事務員に訊かれる。
「ありません。や、ポケットに二万円入れてきたな」
「運動で湿ってしまいます。これからは、お財布等お預かりものがございます場合は、こちらの化粧バッグに入れてフロントにお預けください」
「はい」
 差し出された小さなバッグに金を入れて手渡す。
「専用のトレーニングウエアをお使いになりますか」
「けっこうです」
 壁の片面が鏡貼りの部屋に入った。一人の中年男が、紺色のジャージを着た二十代の女性インストラクター二人に背中を押してもらったり、足首を持ってもらったりして、真剣にストレッチをしている。もう一人の丸顔のインストラクターが休憩をとって、室の隅の椅子に脚を組んで座っている。彼女からかなり離れたところで、四角い顔のインストラクターが年配の女性客の股割りを手伝っている。私は空いている空間で三種の神器を始めた。
「お手伝いしましょうか? 神無月選手」
 休憩中の丸顔のインストラクターが緊張顔で近づいてくる。
「いいです。ストレッチは自分で負荷をかけないと筋を痛めるので」
「そうですか。ご用のときはお呼びください」
 彼女を見上げて驚いた。短いポニーテールに髪をまとめている点を除けば、顔の造作が睦子とよく似ている。そっくりではないが、似たような色香をただよわせている。勃起しかけた。まずい。
「その運動に股割りを少し混ぜてみたらいかがですか」
「股割りってストレッチですよね」
「いいえ。股割りは筋肉を伸ばすストレッチじゃないんです。股関節の可動域を広げる運動です」
「巨人の金田みたいに、よく広がるって自慢してるスポーツ選手も多いけど、実際どういう効果があるんですか」
「柔軟な動きができるようになって、その分、バネもつきます―というのは建前で、腰痛の防止が主なものです」
 清川虹子に似た中年の股割り女が聞きつけて、
「そうなのよ。私、腰が悪くてね。股割りのおかげでだいぶ緩和したんですよ。あなた神無月選手でしょ」
「はい」
 不快な女だ。てきめんに勃起が治まった。
「聞きしにまさるイイ男ねえ。食べちゃいたいわ」
 聞き捨てて、鏡の前のバーに片脚を載せて前屈してみる。ラクだ。脇壁で倒立腕立てを始める。さっきの丸顔のインストラクターがやってきて、
「やり方がまちがってます。両足首を持ってますから私の言うとおりにしてください」
「わかりました、よろしく」
 両手を挙げて構える女に向かって倒立し、足首を握られた格好で腕立てを始める。壁相手に何度か則武でやった運動だ。どこがまちがっているのだろう? 一回、二回、ゆっくり腕立てをする。
「もう少し両腕の幅を広くしてください。倒立腕立ては最強の自重(じじゅう)筋トレです。肩の負荷が激増するし、大胸筋も、首周りの僧帽筋も、すごいレベルで鍛えられます。ゆっくり五回、三セットがいいですね。ケガをしないように肩の筋肉に意識を集中してください。慣れてきたら、お腹を覗きこむようにしてやると、背筋も鍛えることができます」
 三セットでやめて、ドタリと仰向けになって呼吸を整える。正式にやるときつい運動だ。
「いままで使わなかった筋肉が、新鮮な活動を開始する感じでしょう?」
「はい。ちょっとお願いできますか」
 もう一度倒立して足首を支えてもらった。片手腕立てをやってみるが、二回が限度だった。脂汗まで出てきたのでやめる。
「ありがとう。いい運動になりました」
 脚を下ろして正対すると、女が真っ赤になっている。
「これからはここにきたときは手伝ってもらっていいですか」
「喜んで。でもすごい筋肉ですね。質のいいことも一目でわかります」
「そうですか。あなたは体育関係の大学ですか」
「東京教育大学、体育学部です」
「体育学部ってどういうことを学ぶの?」 
「体育に関するほとんどのことです。すごい科目数。八十科目以上。いちばん力を入れて勉強したのは、アスレティック・トレーニング論と、アスレティック・トレーナー実習です。保健医学や衛生学も学びました」
 中年の男女がサウナへ去ると、手の空いたインストラクター二人が寄ってくる。三人に取り囲まれる。
「神無月選手ですよね」
 高橋弓子のような四角いいかつい顔だ。
「はい」
「すっごい、美男子! きのうからテレビのコマーシャルが流れてます」
「はあ、そうですか」
 もう一人の目鼻立ちの整った品のよさそうな女が、
「ちょっと触ってもいいですか」
「どうぞ」
 ジャージの上から二の腕やふくらはぎの筋肉を揉むように触る。ほかの二人も参加し、柔らかいわ、柔らかいわね、とうなずき合っている。
「搗きたてのお餅みたい。いつも負荷をかけすぎない運動をしているということよ。ボディビルみたいな鍛え方をすると、お菓子のグミみたいな筋肉になっちゃうのよね」
 ポニーテールの丸顔が、
「神無月さんの筋肉は特別じゃないかしら。さっき倒立腕立てしてたとき、石のようにカチカチになってたもの。ふだん柔らかい筋肉じゃないと、あそこまで硬くなれないのよ」
 高橋弓子が、
「いまこれだけ柔らかいということは、回復力が並じゃないということでしょう」
 丸顔が、
「ぜったいと言っていいくらいケガをしない筋肉ですね」
 品のいい顔が、切れこんだ二重まぶたをしばたかせながら、
「ポイントは、ふだん練習しすぎてないってことね」
 口々に褒める。上品顔が、
「野球はいつ日本にきたんですか」
「野球選手ですから、そういうことは詳しいですよ」
 歓心を買うつもりもなく、中村図書館の野球事典で蓄えた知識をまとめるつもりで語りだす。記憶を探り、ピンセットでつまむ。
「明治六年、一八七三年ですね、ほぼ百年前、東大のアメリカ人教授のホラス・ウィルソンという人が学生に野球の手ほどきをしたんです。それから全国に流行りました」
「やっぱりアメリカですか。アメリカの野球はいつ始まったんですか」
「年代はわかりませんが、イギリス人移民がアメリカにクリケットを持ちこんで、それを改良したものが南北戦争で広まり―」
 高橋弓子が二人の同僚に、
「一八六○年代よ」
「はい、一八七一年に最初のプロ野球リーグが設立されてます。一八七六年に大リーグが成立してます。日本では、一八七八年にアメリカから帰国した平岡なにがしが、新橋アスレチック倶楽部という日本初の野球チームを作りました。その後、急速に中等野球や大学野球が広まり、一九○三年には早慶戦が始まりました」
 ピンセットでつまみつづける。選手仲間から聞いた知識もつまむ。
「一九一五年には、甲子園球場の完成より十年も早く、いまの高校野球大会が始まり、大正十四年、つまり一九二五年には、東京六大学リーグ戦が始まりました。その翌年、神宮球場が完成してます。昭和に入って、都市対抗、甲子園ラジオ実況、大リーグ来日、戸塚球場で大学野球初ナイター、ベーブ・ルース来日とつづき、そしてついに昭和十一年、一九三六年、日本のプロ野球創立。つまり、プロ野球ができてまだ三十三年しか経っていないんですよ。それから太平洋戦争で中断がきて、戦後プロ野球復活、横浜ルー・ゲーリック球場でプロ初ナイター、昭和二十五年セ・パ二リーグ制となる、以上。日本の野球はアメリカとほぼ同時進行です」
「すごーい!」
 三人で狂ったように拍手する。


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