五十六

 光夫さんは話をつづけた。
「人間というのは、思っとることをなかなかうまく口に出せん。思うことをうまく口に出せんから、音楽にするんでしょうなあ。ま、音楽の話はもうええとして、見てのとおり、ワシの将来は松葉会という檻に閉じこめられとります。いまはそれ以外の生き方を考えつきません。運よく若頭にかわいがられとるんで、いずれ狭い檻の中で出世して、金看板背負って一家を構えるところまではいくんでしょう。そうなれば、たぶんおもちゃには、不自由しません」
「おもちゃ?」
「金のことです。しかし、それから先の出世は、上の覚えとかコネだけでは足りん。ちょこっと政治が必要になる。政治というのは金を使った勝負事やからね。……正直なところ何がまっとうな生き方なのか、ワシにもわかりません。この生き方を選んでしまった以上は、なんとか生き抜いて、命を賭けんとあかん。あの三吉のチンピラも、ワシも、ちんけな代紋抱いて、義理だの渡世だのと浮かれ騒いどるうちに、齢ばかり食って情けないジジイになってしまう。野垂れ死にすることもあるでしょう。それはそれで仕方がない。自業自得やからね。しかし、弟にはこのからだを張ってでも、まっとうな道を歩かせてやりたいんです。上の学校で勉強する気持ちがあるなら、勉強させてやりたい。ちゃんと世間に出て、逆に、ヤクザ者のくだらない人生を見直すような余裕を持たせてやりたいんです。だから、あんたのような友達は大歓迎や。模範を示してやってくれませんか」
 私は、自分がひどく買いかぶられていることを知ってあわてた。便所のオナニーのことや、痴漢のこと、ニセ定期や、草に転がった金井のことなどが頭に浮かんだ。
「ぼくは、そんな、模範を示せるような人間ではありません。みっともないことばかりしたり、考えたりしてるし、頭もそれほどいいわけじゃないし。康男は、さわやかで、とても頭がいい。何よりも度胸があります。それなのに、ぼくみたいなやつと友達になってくれました。やさしい男なんです」
「ふうん、弟から常々聞いとりましたが、なるほどねえ。ええお人や、あんたは。吉本先生といい、あんたといい、きょうはいやに謙虚なお人にばかりお目にかかる。やさしいなどと言われたのは、康男は生まれて初めてやないですかね」
「ほんとのことです。ぼくなんか、康男の相手にされるような人間じゃないんです」
「ありがとう、ありがとう。まあ、弟のことを悪く言われたら、ワシもいっしょに非難されたような気持ちになるところやった」
 柱時計の打つ音がロビーに響いた。くだらないことを言ったような気がした。光夫さんはいっさい表情を変えなかった。
「康男があんたのことを〈金無垢〉と言った意味がわかりました。弟もワシもメガネは狂っとりませんよ。……あいつのやさしさってのは、言ってみれば原油みたいなもんで、においがきついんやな。使いみちのない油を使ってもらったのは、弟のほうです。あんたは前途洋々や。男というものは、常に大道を、大手を振って歩かんといかん。しかし、そうできない男どももいる。ねえ神無月くん、ワシはいつもこう思っとります。ワシらのような電車を走らせるレールはない。線路端の草むらみたいな引こみ線に隠れとって、カタギの人たちを乗せた電車を見送らんといかん。……身内にそんなまねはさせとうない。康男を頼みますよ」
 光夫さんはそんなふうに語り終えた。そしてもう一度頭を深々と下げると、ギターケースを持ち上げ、ゆっくり廊下の外れの通用口へ歩いていった。仕立てのいいズボンのポケットに片手を入れた、静かな後ろ姿だった。男の理想の姿だった。
 康男には、どうしても光夫さんのようなヤクザになってほしい。学校なぞにいって、〈まっとうな〉身分に落ち着いてほしくない。そんなものはすべて棒に振って、ヤクザになってほしい。ヤクザになって、もっともっと光り輝いてほしい。
 私はベンチから立ち上がり、スリッパを鳴らして見舞い通用口へ向かった。受付のウィンドーの向こうで二人の看護婦が笑いながら何か話し合っていた。彼女たちは私が通り過ぎるとき、
「さよなら、またあした」
 と声をかけた。私は頭を下げた。
 陽が落ちて、風が冷たかった。私はだらだら坂を登って下り、踏切を渡って神宮の東門に入った。あたり一面にかすみがかかっているようだ。暗い参道を歩いて燈籠を通り過ぎた。警衛詰所の窓のカーテンから温かい明かりが透けている。そこのほかは、拝殿へ向かう玉砂利も樹木も暗闇に包まれていた。
 康男が火傷をしていなかったら、と私は空想してみた。そうでなかったら、友情の貴さをここまで深く理解できなかっただろうし、光夫さんにも会わなかっただろう。ときどき健康な彼に牽かれて悪さをしながら、ひたすら野球と勉強にかまけた〈まっとう〉な生活をしていただろう。毎日何かに感動しながら、こんなに充実した人間関係の中で生きることなどなかったただろう。
 私は、自分を包みこんだ感動的な新しい生活が、いままで希望の鋳型に嵌めていた計画から逸れていくだろうということをはっきり予感していたわけではなかった。ただ、いま自分をとり囲んでいる感動的な生活、それこそが自分にとっての全人生だと感じていて、そこから離れる意志も計画も持たなかった。親友の見舞いと、野球と、勉強と、飯場の人びとへの想いと、その全体に捧げるまごころが織りなす生活に、このまま身をゆだねていたいと思ったのだった。
 十時を過ぎて飯場に帰り着いた。西田さんがテレビを観ていたが、カズちゃんの姿はなかった。母に帰りなさいと言われたにちがいない。
 ―馬鹿息子が、夜中にでも帰ってくるんでしょう。
 母の言った科白は予想がついた。その証拠に彼女は、
「よくこんなに早く帰ってきたね」
 と皮肉を言った。不機嫌な母を背中に、味噌汁と香の物だけの遅い晩めしをすませると、私は勉強小屋に戻り、蒲団に入ってすぐに目をつぶった。眠れなかった。起き出し、机に向かって週間ベースボールを開いた。ついきのうまで愛読していた雑誌だった。つまらなかった。数学の教科書を開いた。空しかった。私は仕方なくステレオをつけると、ボリュームを絞ってコニー・スティーブンスのシッスティーン・リーズンズを聴いた。
         †
 心の革命が起こっている感じだった。私はそのことを教室の仲間たちに高らかに宣言したい気持ちに駆り立てられた。しかし、これまで経験したことのなかった優越感の芽生えを宣言するには、心の中の言葉が単純すぎた。その単純な言葉で、私は飯場の人たちや病院の人たちを見直した。
『おまえたちの中に、光夫さんや、リューマチ先生のように深く思考できるやつが何人いる? 康男や、クマさんや、カズちゃんや、吉冨さんや、小山田さんや、荒田さんのように、愛のこもった考えを正確に表現できるやつが何人いる? 彼らの偉大さをわかるやつが何人いる? 肩書だけの人生を立派なものだと思っているおまえたちに―』
 和田先生がわざわざ私の机の脇まできて、
「これと似たような因数分解を、中間テストで十問出すぞ」
 と、私の教科書を指で示しながら言った。
「野球部員への贔屓ですか?」
「まあな。そのかわり、今度の山田中戦で、ホームラン二本な」
 頭の中に茫々とした言葉が逆巻いている。この言葉をしっかりと定着させたい。
 グランドを走っているときも、その感じはつづいていて、投げても、打っても、脳味噌が熱湯に入れ替わったような苦しい気分だった。部員たちがみんな幼い子供に見えた。私は毎日、教室のだれとも言葉を交わさず、進学のことなどもまったく考えずに、まじめに授業を受け、野球部では思い切り声を出し、汗をびっしょりかきながら走り回った。四月十九日の日曜日、山田中との公式戦初戦。それだけを考えるようにした。
 スカウトはあれからもきてくれているだろうか。いまのところ小山田さんたちは何も言わない。じっくり待とう。どの野球の名門校も、まちがいなく、今年の私のできに注目しているのだ。夏までに目覚ましい結果を出せるかどうか。一戦一戦、丁寧に打って、守って、走ろう。デブシや太田の目の色もちがってきている。関までが、野球一筋の雰囲気をただよわせはじめた。何せ宮中は、去年の準優勝校なのだ。
 汗まみれのユニフォームを部室のフックに掛け、ワイシャツと学生服に着替えて、黄昏の中を病院に向かった。神宮前の踏切をのんびり渡る。最近本を読んでいない。書店に立ち寄り、新刊書の棚を見上げた。『愛と死をみつめて』と『若きいのちの日記』の二冊を収めたケースが目に入った。抜き出して手に取った。二冊のうち、大島みち子という女性の書いている日記のほうを開いた。ぺらぺらやっていると、後ろのほうのページに短い詩が載っていた。読み進むうちに、からだがふるえだした。

  病院の外に
  健康な日を三日下さい

  一日目
  私は故郷に飛んで帰りましょう
  そしておじいちゃんの肩を叩いて
  それから母と台所に立ちましょう
  おいしいサラダを作って
  父にアツカンを一本つけて
  妹たちと楽しい食卓を囲みましょう

  二日目
  私は貴方のところへ飛んで行きたい
  お部屋をお掃除してあげて
  ワイシャツにアイロンをかけてあげて
  おいしいお料理を作ってあげたいの
  そのかわり
  お別れの時 やさしくキスしてね

  三日目
  私は一人ぼっちで思い出と遊びます
  そして静かに一日が過ぎたら
  三日間の健康ありがとうと笑って
  永遠の眠りにつくでしょう


 涙で活字がかすんできたので、閉じてケースにしまい、二冊組のままカウンターに持っていった。カバンの底からへそくりを出す。八百円もした。生まれて初めて、自分の金で本を買った。クマさんとカズちゃんからもらった手つかずのお年玉をいつもカバンの底にしのばせている。折があったら康男におごってやろうと思っているからだ。
 坂を上りながら歌が口をついて出た。先日、仕事の帰りぎわにカズちゃんが、
「いい歌よ、ステレオで聴いてみて」
 と言って小屋の窓から差し出した歌だった。

  幸せをもとめて 二人の心は
  
よりそいむすびあう 愛のともしび
  
悲しみをなぐさめ よろこびをわかちあい
  
二人で歌う 愛の歌

 唄っているうちにいま読んだ詩を思い出し、また涙があふれてきた。いつものパン屋でクリームパンを買ってカバンに入れる。
 大部屋に着くと、康男は眠っていた。手紙を書いたりしている人もいて、ひっそりした雰囲気だった。リューマチ先生の話によると、康男は初めて大部屋の窓辺から戸口までの十メートル足らずを、三十分もかけて往復したのだという。
「すっかり疲れてしまったんですね。いやあ、感心。よくやりましたよ。少し薄皮が破れたみたいですけどね。なあに、何度か破れているうちに、丈夫になるでしょう」
 私はクリームパンを先生に、食べてください、と差し出し、康男を起こさないまま帰路についた。牛巻坂を登るとき、ふと、病院が自分の永久の棲み家になってしまって、そこから飯場へかよっているような錯覚にとらわれた。


         五十七
  
 久しぶりに早く帰った私がうまそうにどんぶりを掻きこむ姿を、カズちゃんは微笑みながら、母は疑惑に満ちた目で見ていた。
「きょうは、見舞いはいかなかったのかい」
「いったけど、リハビリの初日だったらしくて、疲れて寝てた」
 ビールを含んでいた小山田さんが、
「大将は歩けるようになったのか」
「十メートルの往復を三十分。ふつうに歩けるようになるまでには、二、三カ月かかるんじゃないかなあ」
「ほんとに死ななくてよかったな。キョウちゃんのたった一人の親友だもんな」
「うん。心臓が強いから生き返ったって、看護婦さんが言ってた」
 吉冨さんが、
「もう四カ月、照っても降っても、見舞い通いか。まねできることじゃない。友情こそよけれ。雨天の友。慈愛だね。維摩経じゃなかったかな。仏教語で〈慈〉というのは、じつは友情のことなんだよ。男は友情に厚いのがいちばんだ。あとはぜんぶ付録だね」
 カズちゃんが涙ぐんだ。小山田さんは感心したようにうなずき、
「吉冨は、いつそんな教養を身につけたんだ?」
「高校時代かな。野球をやる以外は、けっこう読書してましたよ」
「いまも暇があれば本を読んでるな」
「映画も、ね」
 シラスおろしと白菜の浅漬けで、二杯目のどんぶりめしを食い終えた。カズちゃんが目を丸くしている。味噌汁を一気に飲んで、
「さ、バットを振らなくちゃ。吉冨さん、読み終えた本があったら、貸してくれない?」
「いいよ、あげるよ。あしたのうちに、勉強部屋の玄関に積んどくから」
「ありがとう」
 勉強小屋に戻る。素振りを百本やって、夜中まで大島みち子の日記を読んだ。
 大島みち子は高校生のころに、鼻中隔の軟骨肉腫にかかった。病名は本人に知らされなかった。伊藤正義もきっとそうだったろう。彼女は大阪の大学病院に入院し、そこで受験浪人の河野実(まこと)という男と出会った。河野の病気が何だったか読んでいるうちに忘れた。そのころはまだ、大島みち子は自分の運命にそれほど不吉なものは感じていなかっただろうけど、二年、三年と治療が長引くうちに確実な死の予感を抱いたにちがいない。
 大島みち子は同志社大学に、河野実は中央大学に進学し、それからも二人は、マコ、ミコと呼び合いながら文通をつづけた。大島みち子を支えるのは、その手紙だけだった。そのことを河野という男はよくわかっていて、ぼくがついていると励まし、弱気を叱りつけ、善人らしく振舞っている。魂のやり取りのはずの手紙に深刻な苦悩が少しもにおってこない。加藤雅江なら、自分がほんとうに思っていることを書いてくださいと、怒るところだ。
 生き延びるためには顔の半分を切り取る選択肢しかないというのが悲しい。顔の半分がなくなるという不幸を考えるだけで、恐怖に満たされる。そんな不幸の渦中にいてまで、人は愛を継続できるものなのか。絶望は人にすがるきっかけにはなっても、愛のきっかけにはならない。それでも手紙はつづいた。大島みち子は何度も自分をあきらめるように河野実に説いている。あたりまえのことだ。
 しかし、顔の半分! 延命医学の犯罪だ。大島みち子は何度も自殺を考える。それでも彼女が生きようとするのは、マコに愛されているという一縷の希望があるからだ。とっくに命をあきらめているのに、愛のために死に切れないのだ。手術の効なく、癌は脳に転移し、大島みち子は猛烈な頭痛に冒されながら、二十二歳の若さで死んだ。
 そこまで事実のあらましがわかったあとで、あの詩の大きな悲しみは、大島みち子の才能が生み出したフィクションなのだと気づいた。自分の心を詩に移して、架空の理想世界を作り出す。そんなことができるのは彼女の言葉に魔力があるからにちがいない。往復書簡や、マコを思う日記を読んでも、いや、悲惨な病気で大島みち子が死んだという事実を突きつけられても、大して胸を揺すぶられないのに、彼女が自分だけの理想を吐き出した文章の一部や、あの素朴で美しい詩を読むと、どうしても目の奥が痛くなり、頬が歪んでくる。
 河野実に愛の香りがない。もし自分が彼なら、恋人の顔を切り取る手術に同意などしないで、痛み止めを打ちながらでも美しい顔の思い出を抱いたまま生き延びてくれるよう説得しただろう。そして、手紙などで永い春を実践しないで、彼女とサッサと結婚し、彼女が死んだらいさぎよく自分も後を追っただろう。大島みち子はほんとうに美しい顔をしていた。その写真を眺めているだけで私は何度も涙を流した。
         †
 校舎の周囲や上の校庭の桜が、何日も降りつづいた雨であっけなく散ってしまった。葉の色が一段と濃くなった。牛巻病院の玄関前にも、桜の花びらが散り敷いている。
 康男がかなり歩けるようになった。三階の大部屋から一階のロビーまでを、壁や階段の手すりを伝いながらゆっくり歩く。私はそばについているけれども、肩は貸さない。貸そうとすると、うるさがられる。康男の話では、昼のあいだに一人で大部屋の中を何往復もしているらしい。痛みをこらえる表情に少し余裕が出てきた。
「ゲンカイまでやっとる」
 野球部が忙しくなった最近は、私が病院にくるのが六時を過ぎるので、歩行訓練はもっぱら通院患者のいなくなった夕食後の時間にやるのだと言う。一階ロビーのはずれまでいって、もう一度、三階の大部屋へ引き返す。それだけでたっぷり三十分はかかる。
「もう一回やるで」
 二度目は肩を貸してやる。康男も文句は言わない。
「このぶんだと、五月中には、壁や手すりに頼らなくてもなんとかなりそうだね」
「皮がちゃんとして、膿が出んようになれば、もっと早う歩ける」
 額が脂汗で光っている。
「全治六カ月か。少なくとも七月には学校に出てこられるだろうね」
「いけたらええけどな」
 包帯交換のときに康男が癇癪を起こすこともなくなった。膿の量が減り、かなりしっかりした皮膚が張って、心なしか脚全体の肉の量も増えた気がする。あの勇ましい滝澤という看護婦は、あれからもよく医師の回診についてきて、康男の脚の膿を拭い、ぐるぐると包帯を巻いた。医者が言う。
「まずもって、歩くことが第一だ。さぼると、寝たきりになるぞ」
 看護婦は医師の言うことに大きくうなずきながら、よく聞きなさいというふうに康男の顔を見つめる。
「言われんでも、ちゃんとやっとるわ」
「ゲンカイまでね」
 私が援護した。看護婦が思わず微笑んで私の顔を見つめた。
 当直の日には、私は滝澤看護婦といっしょに康男に手を貸して廊下を往復する。そんなとき彼女はかならず、細く澄んだ声で流行歌を口ずさむ。

  逢えなくなった あの人と
  
なごり惜しんだ 花散る木かげ
  
黒髪 黒髪 あの人の黒髪の
  
甘い香りをしのべば泣ける


「それ、なんていう歌?」
「梶光夫の『黒髪』。いい歌でしょ」
「とってもいい歌だね」
「とってもいい歌だね、か。神無月、おまえこいつといると、ふにゃふにゃになってまうな」
「友だちからかってどうするの。ほんとに、不まじめなんだから。ヤッちゃんに歌ごころなんかわからんでしょ」
「わからん。神無月はわかるみたいやで。ようレコード聴いとる」
「そりゃそうよ、ヤッちゃんとはできがちがうもの」
「頭か、顔か」
「両方よ」
「これでも、けっこう女にもてるんやで」
「どこの女? 中学生がナマ言ってんじゃないの。はい、はい。もっと歩くわよ。さあ歩け、歩け、のしのし歩け」
 ふつうの女たちは、なりふりを装うことで他人にいい印象を与えようとするかもしれないのに、滝澤看護婦の場合そんな作為はこれっぽっちもなく、いっさいが自然だった。そしてその自然さが私を深く感動させた。たぶん、康男も同じだっただろう。
         †
 四月十九日、快晴の日曜日、公式戦一回戦の相手山田中を宮中のグランドに迎え撃った。先発は二年生の野津。リリーフに今年抜擢された三年の田島と大曽根が控える。崎山と今が抜けた後釜だ。アンダースローがほしいということで、和田先生の命令で大曽根が今年からその投法に変えた。ノーコン田島の速球は、めきめき威力が増してきた。野津が潰れても、この二人でまずいける。キャッチャーはデブシ一人。控えに五代と陣内がいるけれど、デブシは一度も故障したことがないから、まず彼らの出番はない。ファースト関、セカンド御手洗、サード太田、ショート高須に代わって一年生の芝原(高須よりもグローブを器用にさばく)、レフト私、センター大曽根(ピッチャー兼務)、ライト高田。これが一年間動かないレギュラーになった。
 ホームグランドなので、きょうも応援が三塁側の花壇の向こうに陣取っている。じりじり熱い陽の下に、日傘を差した加藤雅江と山本法子の顔がある。何の気まぐれか、直井整四郎まで、彼女たちの肩口から眺めていた。
 不公平がないように、主審を務めるのは熱田高校の野球部に進んだ本間先輩、塁審はファーストに宮中の体育担任の磯部先生、サードには驚いたことに浅野が立った。これが意外とハキハキとしたジャッジをして、フェア、ファールを示す手振りが堂に入っているのだ。丸いからだからは想像できないけれども、野球の経験があるのかもしれない。浅野は私が打席に立つごとに、じっと視線を凝らしていた。
 試合は一方的になり、十四対二で五回コールド勝ちした。野津の取られた二点は、いつもの立ち上がりの悪い癖で、連続フォアボールのあとのバント守備エラーで満塁、押し出しフォアボール、そして外野フライ、と立てつづけに入れられたものだった。
 私は一回の裏にスリーラン、四回にツーランホームランを打った。スリーランはいつものように更衣室の向こうへ飛んでいく特大のものだったけれど、ツーランは左中間を抜いて体育館横の生垣に埋まりこんでしまうランニングホームランだった。外角をつんのめるように片手で打ったら、ライナーでぶっ飛んでいった。
 ―一打席、一打席、丁寧に。
 それはきちんと実行できている。こんなところまでスカウトはやってこないけれど、こつこつ実績を積み重ねていけば、かならず注目されるはずだ。
 なんと、関もダウンスイングで体育館にぶち当てるソロを打った。生まれて初めてのホームランだと喜んだ。デブシが目を剥いて、
「野村みたいなホームランやなあ!」
 と褒めた。
 ゆっくり更衣室から出てきた私と関に、雅江と法子が声をかけた。
「直井くんが、感動したって伝えてくれって。それから、きみはきみの道をいけって。でもいっしょの高校にいけたらうれしいと言っとった」
 雅江は頬を赤くして言った。
「あれだけ走り回ったら、くたくたに疲れちゃったでしょ。甘いものをおごったげる」
 と法子が言う。
「アンミツ食いてえな」
 恥ずかしがりの関がめずらしく誘いに乗ったので、私も喜んでおごられることにした。
 女二人は神宮を通り抜けて、東門から名鉄神宮前に出た。関は雅江の歩きぶりから目を逸らしていたけれども、私はいつものとおり胸を温めながら見つめた。
「ほかの人たちも誘えばよかったかなあ」
 法子が関に話しかける。
「デブシたちは今川焼でも食って帰るんやないか。あいつらにおごったら、破産するわ」
 小路の入口にある甘味店で、アンミツときしめんをご馳走になった。その並びの何軒か先がノラだった。
「応援しすぎて声が嗄れてまった。二人とも、すごいホームランやったね。今年こそ、優勝やないの」
 関は雅江の言葉に応えず、黙々ときしめんをすすっている。
「そのつもりだよ。でも、ベストフォーがいいところじゃないかな」
 私が応える。雅江が真剣な顔で身を乗り出した。
「どうして?」 
「宮中は土俵際に弱い。な、関」
「今年はみんなレベルアップしとる。きょうもデブシは二塁打二本、高田も太田も三打数三安打や。これでおまえが打てば、鬼に金棒やろ。優勝はもちろん、県大会にもいけるで」
「野球選手って、気分いいなあ。男の中の男ね」
 法子がじっと私を見つめながら言った。その横顔を悲しそうに雅江が見た。
「二人に言っとくけど、神無月は女に興味あれせんで」
 法子はケラケラと笑った。雅江がつられて微笑んだ。
 関と雅江の二人とは駅前で別れ、山本法子と牛巻坂を登っていった。二年のあいだにニキビが治まり、胸も尻も、ひどく発達していた。異国風のきれいな女という表現がピッタリだった。
「きれいになったね」
「ありがとう。神無月くんに言われるのが、いちばんうれしい。このごろ、お店、手伝ってるのよ」
「ふうん。ドレス着て?」
「そう、わがまま言って作ってもらった。法律違反だから、カウンターでお皿を洗うくらいだけど。お客さんは増えたわ」
「何でも、一生懸命になれるのはいいことだよ。山本さんが一生懸命だから、お客さんが増えたんだね」
「ありがとう。神無月くんぐらい、もっともっと一生懸命になってみたいわ」
「いまは野球よりも、康男の見舞いに一生懸命だ」


         五十八

 坂のいただきにきた。
「じゃ、ここで帰る。寺田くんによろしくね」
「いっしょにいくつもりじゃなかったの?」
「話すことないもの。そう言えば、杉山さんきてたわよ」
「どこに」
「理科室から見てたみたい。もてまくりね。私でよければ、いつでもお相手するわよ」
「相手?」
「じゃね、女嫌いさん」
 手を振って別れた。
 時分どきに近かった。早々と店屋物を掻きこむ三吉の枕もとで、恋人が壁のカレンダーをめくっていた。
「なかなか傷が落ち着かないわねえ。あんた、お酒、飲んでるでしょ」
「ああ、たいした量じゃねえよ」
「酒も煙草もダメだって、お医者さんが言ったでしょう。言われたことをきちんと守らないでどうするの。いつまでも退院できないじゃない」
 パーマをかけたての髪をそっと押さえる。
「へいへい。もう四月の二十七日か。五カ月になるな。たしかに早く傷が固まらんとワヤや。義足も作れん」
「やっぱり義足にするんか」
 康男が首をもたげて尋いた。
「おお、足首から先のな。スキー靴みたいなやつや」
「俺は傷がしっかり固まったで。補助器もいらん」
「ようそこまで快復したなあ」
「メタボリックのできがちがうでよ」
 夕食の配膳車が入ってきた。私はカバンから菓子パンを取り出す。康男はさっさとめしをかきこみ、味噌汁を飲み干す。訓練の時間が近づいている。
「康男、時間だよ」
「ほやほや。その前に、洗面所まで肩貸してくれ」
 康男を二階の共同洗面所へ連れていった。歯を磨くのだと言う。
「虫歯になりかけとるでな。歯が痛いと、気が散るでよ」
 康男が歯を磨くこと自体、不思議な気がした。片手を洗面台の縁につき、上半身を深く屈めてせっせと磨いている。荒っぽい磨き方だ。不自然な格好だけれど、だれもそんな磨き方をしないので、かえって豪快に見える。片手で水をすくってうがいをしたあと、
「あの花、ええな。何やろな」
 裏庭にちらほら咲いている花を指差した。洗面所の窓から見下ろすと、枇杷の木に隠れて黒っぽく見える。
「夾竹桃。もう少ししたら、もっときれいに花が咲く。赤いのも白いのもあるよ」
「神無月は何でも知っとるなあ」
「知ってるやつなんて、感じてる専門家には敵わない」
「ん?」
「光夫さんみたいな人―」
「ああ、なんかわかるで。兄ちゃんのギター、おまえの野球やな」
「そう言われるとうれしいな」
 一時間ほどの歩行練習を終えてベッドに戻ると、康男はたちまち寝入った。きょうは二階と三階の廊下を二往復ずつしたので、よほど疲れたのだ。リューマチ先生が予備灯の光で本を読んでいる。
 私はカバンを手に一礼すると、足音を立てないように薄暗い大部屋を出て、一階のロビーへ降りた。灯りを落としたロビーの隅に、ちかちかするテレビの明かりが見えた。見覚えのある背中がその前に座っている。白帽を脱いだ滝澤看護婦がテレビの前に持ち出したスツールに腰を下ろし、前屈みになって画面に見入っていた。外股に開けた靴先が女らしい。私は彼女のすぐ後ろのソファに腰を下ろした。白いベルトで白衣の腰を締め上げ、足には白いストッキングを穿いていた。丸く膨らませた髪の下の細い首に、テレビから放射される光が当たり、首の産毛がはっきり見える。下膨れのえらが丸く張り出している。
 彼女が観ていたのは、倉丘伸太郎の『姿三四郎』だった。飯場の社員たちも、去年の秋から始まったこの月曜日の人気ドラマを熱心に観ている。私も一、二度吉冨さんたちといっしょに観た。三四郎に怨みを抱く檜垣源之助の謀りごとや、村井半助師範の娘乙美との恋は、よほど彼らの歓心を買うらしい。ただ、柔道家と空手家のイタチごっこの筋立てが単純すぎて、何度でも観たいというほどのものではなかった。
「人に勝つより自分に勝てと、言われた言葉が胸にしむ」
 エンディングのテーマ曲を、吉冨さんや西田さんがテレビに合わせてかならず唄うのがおかしかった。
 滝澤看護婦の顔がさらにテレビの画面に近づいた。源之助との決闘で傷ついた三四郎に駆け寄った乙美が、彼を後ろから抱きかかえ、愛しそうに頬をすり寄せる場面だった。私は思わず尻を動かした。彼女が振り返った。私は照れ笑いをしながら頭を掻いた。彼女はスツールを中心にしてからだ全体で振り返り、まともに私の顔を見た。
「こんなとこ、子供が見たらあかんよ」
 わざとらしく睨みつける。テレビに背を向けて影になった彼女の顔の、下歯だけが濡れて光っている。けいこちゃんの歯だった。
「リハビリ終わった?」
「はい」
「当直で手伝えなくてごめんね。いま、ちょっと息抜き」
 彼女は立ち上がり、テレビを消した。指で探りながら看護帽をヘアピンで留め直す。
「じゃ、またね」
 滝澤看護婦は白いローヒールを鳴らしながら、受付につながる階段脇のドアに入っていった。私はカバンを持ち、ゆっくり立ち上がった。いつもとほとんど同じ時間だ。飯場に着くころには八時を過ぎる。食堂がめしから酒に切り替わる時間だ。コップを手にした社員たちがテレビを観てくつろいでいるだろう。私はうつむいて受付の灯りの前を通り過ぎた。
「キョウちゃん、かわいいね」
 女の声が背中を追いかけてきた。振り向くと、滝澤看護婦が笑いを浮かべて見つめている。私は受付にのろのろ引き返していった。彼女は首筋をまっすぐ伸ばして私に向き合った。膝に両手を置いてじっと座っている。名札をつけた大きな胸が目の前にある。
「いい男ね。私がもっと若かったら、奪っちゃうのに」
 なんとなくその言葉の意味はわかった。どんな事情も無視して、私にかかりきるということだろう。
「ぼくの名前知ってるの」
「ヤッちゃんに聞いたわ。ほんとにキョウちゃんは、友達思いね。感心しちゃう」
「親友だから、あたりまえだよ」
「ヤッちゃんがいつも言ってる。〈あぶく〉みたいな俺の命より、神無月の命のほうが何倍も大事だって。わかるなあ。キョウちゃんは男に惚れられるタイプなのよね」
「…………」
「ということは、女にも本気で惚れられる男ってことよ」
 看護婦が笑ったので、私も笑った。
「康男は夾竹桃が好きなんだ」
「え?」
「ほら、裏庭に咲いてるでしょ」
「ああ、あれ。きれいよね、あの花。……キョウちゃんは、ヤッちゃんのことばかりね」
 窓口の鉢でオジギソウが葉を広げている。指先で触れると、たちまちしぼんで垂れ下がった。彼女の眼が私の節くれ立った指に当てられたような気がして、そっと引っこめた。
「滝澤さんは、なんて名前?」
「節子。田舎臭い名前でしょ」
「いい名前だと思う」
「ヤッちゃんたら、セッチンで呼ぶんだから。……ほんとに田舎の出身なのよ。ふふ」
 笑うと、目が頬に押し上げられて細くなった。
「田舎は、どこですか?」
「知多のタケトヨってところ。田舎。有名なのは知多木綿くらい。織物工場のほかには何もない町」
 こんなふうに親しげに話しかけてくるまで、彼女は気がかりな存在ではなかった。実際に声をかけられたとたん、現実的な何かになった。その何かは、すぐ私から逃げていこうとした。この女は時間つぶしをしているのだ。カズちゃんのようなまじめな雰囲気が感じられない。中学生なんか相手にしていられないような、大人の都合の中で生きているはずなのに、よほど当直仕事が退屈なのだろう。姿三四郎といい、私といい、少しでも暇つぶしがしたいのだ。不信の雲が胸にかかった。早く引き揚げないと、彼女に何かの都合が持ち上がるだろう。
「キョウって、ふるさとの郷と書くんだ」
「いい名前ね。きっと、人から故郷のようになつかしく思ってもらえるようにって、願いをこめてつけられた名前ね。私は節分の節。単純」
 それで話すことがなくなった。
 私の幼い世界では、人間はまったく相反する二つの部類に分けられていた。一つは愚劣な人間で、人が考えるように考え、周囲の反応をきょろきょろ気にし、自分の進路を人に決めてもらうような連中。もう一つは、そういった人たちの中に紛れこんでいる人間らしい人間で、寛大なことはもちろん、快活に行動し、しかも大胆で、素直に自分の歓びを追求し、人の目など笑って無視する人びとだった。クマさんたちや、カズちゃんや、康男はその典型だった。滝澤看護婦は、どちらに分類したらいいのかわからなかった。
「引き留めてごめんなさい。家の人に叱られちゃうわね」
「だいじょうぶです。ぼくは、母が賄いをしている飯場に暮らしていて、けっこう出入りが自由なんです。……でも、もう帰ります」
「気をつけて帰ってね。またあしたもくるんでしょ?」
「はい。じゃ、さよなら」
「さよなら」
 私は急ぎ足で見舞い通用口に向かった。私は歩きながら、自分が滝澤節子という看護婦のからだにまとわりつく一枚の紙きれになったように感じた。カズちゃんにこういう感じを持ったことはなかった。
 通用口でズックを履いて立ち上がると、下駄箱の脇の鏡に自分の上半身が映った。学生ズボンの腰から長すぎるベルトがみっともなくぶら下がっている。表通りからかすかに射してくる明かりのせいで、鼻の脇の傷が暗く凹んで見えた。下あごは張り、まるでホームベースのような顔だ。滝澤看護婦はこんな顔をなぜかわいいと褒めたのだろう。
 玄関の葉桜の前を通りかかったとき、私は首を伸ばして、もう一度受付を見た。滝澤節子はうつむいて、何かに見入っていた。胸の名札がきらりと光ったので、からだがこちらを向いたことがわかった。私にお辞儀をしたようだった。



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