五十九

 十五歳になった。
 五月の中ごろから野球部の練習が、ふだんのハードなスケジュールに戻った。中村区の笈瀬中との二回戦が近づいてきたからだ。私は熱心にボールを投げたり、捕ったり、打ったりした。
「王の今年の第一号ホームランは、百五十一メートルも飛んだんやて。金田が腰抜かしたらしいわ。きのうも四打席四ホームランや。この分やと、軽く野村の五十二本を超えるやろな」
 デブシが鼻をぴくぴくさせながら、準優勝のご褒美のバッティングケージの脇で太田としゃべっている。
「な、神無月、どう思う」
「さあ、わからないな。百五十メートルはすごいと思うけど。べーブルースの六十本は超えられないんじゃない?」
 実際のところ興味がなかった。このごろでは、食堂のスポーツ新聞にも目がいかず、あれほど好きだった長嶋や山内のことさえあまり思い出さなくなった。野球で生きられなければ死ぬ、とまで思った情熱はどこへいってしまったのだろう。それでも、私は野球しか得意でないのだから、結局野球で生きることにはなるだろうとぼんやり考えていた。そしてその生き方は、想像するかぎり、いちばん充実した生き方だった。
 二回目のフリーバッティングが始まった。 
「おい、もっと身の入ったスイングをせんか!」 
 いつの間にか顔を出した和田先生が、ネット裏から甲高い声で叫んだ。私はライナー性の打球を打つことに集中していた。掬い上げて遠くへ飛ばすのはたしかに胸のすくものだけれども、低いライナーの美しさも捨てがたいものだ。しかしそれはじつは怠惰からくる妥協で、すくい上げるよりもレベルスイングのほうが楽なのだ。山田中戦でも、片手でちょんと打っただけでも、目の覚めるようなライナーが飛んだ。やっぱりライナーは打ち損ないの一種だ。遠くへ飛ばすためには、ほんとうは芯を食うようにボールの下を叩かなくてはいけない。腰の回転とフォロースルーをしっかり決めないと掬い上げられない。それなのに、たいていの人は楽なレベルスイングにばかりこだわる。ダウンスイングやレベルスイングでホームランになるのは、よほどうまくバットがボールの下をこすって、逆回転を与えることができたときだけだ。和田先生はそのことを叱ったのだ。私の練習ぶりを見て、関が心配そうに声をかけた。
「乗っとらんな。大きいのが出んが」 
「乗ってないわけじゃない。山田中のときの関のまねをして、ダウンスイングの練習をしてるんだけど、なかなか打球が上がらないんだ」
「ダウンスイングは、ええ当たりでもおじぎしてまうでな。よっぽどボールをしごかんと飛んでかんで」
 関はわかっている。それでもこのごろの彼は板についたダウンスイングで、センター中心に大きな当たりを飛ばすようになった。初戦でもライナーで体育館に当てるホームランを打っている。私はそのことを話題に出し、
「関のホームランは、ダウンスイングで打ったんだよね」
「あれはまぐれや。バットのええところに当たったわ。長打は神無月くんとデブシにまかしとる。俺は年に一本か二本、まぐれで打てればええ。それでも贅沢なくらいや。金太郎さんはホームランを打つのが仕事やろ。地道にヒットを飛ばすのは、俺たちにまかせとけ」
 デブシが、そやそや、と合いの手を入れた。
「レベルスイングは、おまえらしくないで。スポーツマン金太郎は、全打席ホームランを狙うんやろ。いつもそう言っとるでにゃあか。俺たちが掬い上げると、アッパースイングになってまうでフライしか打てん。掬い上げてもアッパーにならんのは神無月だけや」
「デブシだって、手首を返すだけできれいに掬い上げることができるじゃない」
「よっぽどうまくいったときな」
 私は腰を利かせて次のボールを思い切り掬い上げた。打球は更衣小屋のはるか向こうへ消えていった。
「そや、そや、それでええんや! あんな打球、俺たちなんか百年野球やっとっても打てんで」
 デブシは大はしゃぎで、私につづいてバッターボックスに入った。和田先生は安心したふうに、
「職員会議だ」
 と言い残して、また下の校庭へ降りていった。
 練習をすますと、私は一目散に部室にかけつけ、学生服に着替える。試合の前でないかぎり、ユニフォームは部室に置きっぱなしだ。毎日、汗の乾ききっていないユニフォームを着る。酸っぱいにおいがする。着てしまえばどうせ汗でびしょびしょになるので関係ない。試合の前に袋に入れて持って帰り、洗濯する。そういえば、山田戦以来もう十日以上も洗濯していない。強いアンモニア臭を発している。笈瀬中戦の前にしっかり洗おう。
「きょうも寺田の見舞いか」
 関が心配顔で訊く。
「ああ、ようやく歩けるようになった」
「あんなおそがい男と、おまえもよう付き合っとるな」
「康男は恐い男じゃないよ」
「ほうか?」
「ああ、いつもそばにいなくちゃわからないさ」
 大急ぎで別れを告げ、牛巻外科へ向かう。御陵の坂道を早足で登る。神宮の境内を東門へ抜け、バスロータリーを横切って、開かずの踏切へ。足踏みしながら遮断機が上がるのを待つ。ゆるやかな坂道を登りながら、西郷輝彦の『君だけを』を口ずさんだ。

  いつでも いつでも 君だけを
  夢にみている ぼくなんだ
  星の光を うつしてる
  黒い瞳に 出合うたび
  胸がふるえる ぼくなんだ


 このあいだこの歌を唄いながら帰ってきたら、八百清の小僧が店先で呼び止めて、いやに詳しいことを言った。
「西郷って西郷隆盛からとった芸名でな、本名は今川っていうんよ。鹿児島から家出してきたんやと。青い背広着て唄うんやが、かっこええで」
 西郷輝彦が何者なのかは知らないけれど、最近よく太田や高田が更衣室で唄っているので自然と覚えてしまった。今年から、大瀬子橋のたもとの小島初美と、本遠寺裏の魚屋の清二が近づいてきて登校仲間になったが、彼らもよく西郷の歌を口ずさんでいる。肥満児の清二はビブラートまでまねて上手に唄う。女みたいな名前の初美は孫一郎の友人で、焦げ茶色の顔をした気のいい男だ。細い目をもっと細くしていつも笑っている。彼の家は死んだ木田ッサーの二軒隣で、同じように縄文時代めいた造りをしている。父親が山本法子の店がある路地で焼鳥屋をしている。初美が言うには、歌のうまさでは橋幸夫が一番で、次が舟木一夫、それから西郷輝彦だそうだ。清二がつけ加える。
「人気は、西郷やな」
 清二は十五歳にして、もう頭のてっぺんが薄くなっている。ラグビーボールのような顔をした肥大漢で、大きなからだをしているくせに、ふだんは教室のどこにいるのかわからない。初美も清二も家の手伝いをしているので、授業が終わればさっさと姿を消す。だから彼らと口を利くのは、登校のあいだだけだ。しかも週に一、二回。
 だれでもそうだろうけれども、私にもこういう得体の知れない〈友人〉が何人かいる。康男にしても同じにちがいない。そういうやつらは、病気をしたってぜったい見舞いにはこない。そして、たぶんそういうやつらにまつわる記憶は、この先しつこく長つづきするだろう。深く関わらなかった人びとや風景……。なぜだかわからないけれど、人間の頭の仕組みは、それを夢に見るほど印象に残すようになっているらしい。
 牛巻坂―いつのころからか、自分だけでそう呼んでいる。沈みかけた夕陽が街路樹を照らし出す。坂のいただきから病院が見えてくると、かならず康男の顔や大部屋の人たちの顔が浮かぶ。ただこの数日、あの看護婦の顔がまっさきに浮かんでくる。そういう心の変化が、少しいやだ。
 病院の玄関を入ると、受付に滝澤看護婦の姿がない。診察室にいるのかもしれない。大部屋へ上っていく前に、通院患者にまぎれてロビーのいちばん端のベンチに腰を下ろす。大きな鉢植えでほかのソファと仕切られたベンチのあたりは、廊下よりも薄暗い。目の前の壁にぎょっとするほど大きな時計がかかっている。ゆっくりと重そうな振り子が動いている。患者が一人、二人と退いていく。彼女の姿はなかなか現れない。大部屋ではそろそろ夕食が始まる。そのあとはいつもの歩行練習だ。ふと、パンを買うのを忘れたことに気づいた。
 二十分ぐらい経って、受付に目当ての横顔がのぞいた。私は鉢植えの陰にからだを引いた。喜びと裏腹に自分が小さくしぼんでいくようなさびしい気分になる。彼女の姿がまた診察室に消えたので、ベンチから立ち上がってゆっくり三階の大部屋へ上がっていった。
「いよ、色男! 遅かったな」
 いつものように三吉一家が声をかける。康男が満足そうにうなずき、リューマチ先生は顔だけ向けてニコニコ笑う。
「このごろ、おまえ、ますますええ男になったわ」
 康男は笑わずに言う。
「へい、こっち向いて!」
 いつのまにか三吉一家が私のほうへカメラを向けている。パチリ。
「仕上がったらヤッさんに渡しとくわ」
 こうしてきょうも、きのうと同じような時間が過ぎていく。この時間はいままでの私には至福のときだった。しかし、たった数日のうちに、その幸福の中へかすかな異物が雑じりこんできた。
「じゃ、歩こうか」
「よっしゃ」
 康男の歩き方は、日に日に危なげのないものになってきている。もうヨチヨチ歩きではない。焦げ具合の深かった左足を少し引きずるぐらいで、よそ目には足の不自由な人が健気に歩いているぐらいにしか映らない。
「もう完全復帰だね」
「おう、来月には退院できるで。三吉よりも早く出れる。来週は兄ちゃんが、新調したズボンとブレザーを届ける言っとった」
 一階から三階まで五回往復した。いつもより二回も余分だ。やりすぎてしまった。よほど辛いのか、康男の顔が真っ赤になった。でも、寝巻きの裾から覗く包帯に血は滲んでいない。最後の昇りのときは、受付から出てきた滝澤看護婦も手を貸した。
「皮膚は固まったみたいね。すごい回復力よ。努力の賜物だわ」
「俺もここまで治るとは思わんかったで。……疲れた。寝る」
「そうしなさい」
 滝澤節子は私に微笑みかけると、階段をゆっくり戻っていった。私は康男を部屋のベッドに送り届け、彼が眠るのを確認してからみんなに別れの挨拶をした。三吉一家の女がカツサンドを勧めたけれど、断って一階へ降りた。八時半を過ぎていた。
 通院患者の姿はすっかり消え、ロビーが静まり返っている。ぺたぺたと自分のスリッパの音が響く。受付に滝澤節子の顔が見えた。仕事仲間と何やらしゃべっている。足音をしのばせ、受付にいちばん遠いソファに座った。かすかな笑い声に混じって、廊下のはずれから足音が聞こえてきた。やがて同じように若い看護婦が二人でやってきて、大時計の掛かっている突き当たりの壁の方から、順にスイッチを落としていった。とつぜん暗くなった廊下に、受付の明かりだけが射してきた。一人の看護婦が受付に入った。
「じゃいってきます」
 もう一人の看護婦は受付に声をかけ、懐中電灯を手に階段を上がっていった。病室の見回りをするのだ。看護帽を指で整え、姿勢を正す滝澤節子の姿が窓口に見えた。外を見るというよりは、ガラスそのものを見つめるように前方に視線を向けていた。ふくらんだ頬が目立つ。彼女と口を利けなくても、べつそれは気の滅入ることではない。いや、そのほうが気楽だ。ただ顔だけは見たい気がした。私は、ソファの薄闇で石のようにじっとしていた。と、彼女が何かに気づいたように、受付の小窓を開けてロビーの暗がりを覗いた。
「キョウちゃん?」
 彼女はじっと私のシルエットを見つめた。すぐに看護帽が窓口から消えて、階段脇のドアから出てきた。私はからだを縮めて、診察室のドアから小柄で豊満な白衣姿がゆっくりこちらへやってくるのを見ていた。逃げ出したい気持ちだったけれど、もっと強い何かに引き止められて身動きできなかった。


         六十

「やっぱり、キョウちゃんね―」
「こんばんわ」
 滝澤節子は私の顔にグイと自分の顔を近づけた。
「どうしたの、帰らんかったの?」
 目の奥を覗きこむ。
「ええ、ちょっと疲れちゃって……」
「そりゃそうよ。きょうはヤッちゃん、たっぷり練習したから」
「来月、退院だって聞いたけど」
「え! ヤッちゃん、そんなこと言ったの? まだお医者さんから聞いてないのね。……左脚の皮膚移植が、もう一回残ってるのよ。今度は脇腹から皮膚を取るの。退院は早くて七月かな。八月になるかもしれない」
「よかった」
 と私は言った。
「その気持ち、わかる。握手」
 滝澤節子はニッコリ笑って手を差し出した。私はその手を握った。湿って、ひんやりした手だった。私の気持ちがわかっているはずはなかった。
「康男は、腹を立てるかもしれないけど」
「……いい子ね、キョウちゃんは。傷は完全に治したいものね」
 私は彼女の手がそのまま離れていかないことに気づいた。胸の鼓動が早くなった。
「このベンチに、いつからいたの?」
 私はあわてて手を離し、
「十分ぐらい前から」
 滝澤節子は何かに、まっすぐ胸を打たれたようだった。彼女はしばらくのあいだ、まじまじと私を見つめていた。そして廊下の闇をちらとうかがってから、驚くほど間近に顔を寄せてきた。白い頬が上気している。
「こっちにきて」
 そのまま私の手を引いて立たせ、見舞い通用口のほうへ歩きだした。私はカバンを手に提げ、廊下の外れまで彼女についていった。通用口の下足場から薄暗い廊下がつづいていて、その突き当たりに病室ではなさそうな部屋の扉が見えた。
「急患収容室よ」
 私の心臓がさっきよりも激しく打ちはじめた。滝澤節子は廊下をゆっくり歩いてゆき、その扉の前で立ち止まると、振り返って、とつぜん両腕で私を抱きしめた。私は思わずカバンを取り落とした。小さな彼女の上半身が私の胸に埋もれた。髪から整髪料の匂いが立ち昇る。
「キスして―」
 滝澤節子が見上げて細い声でそう言ったとき、その意味はずっと遠くのほうからやってきて、猛烈なスピードでからだの中を通り抜けた。あれほどの秘密を教えてくれたカズちゃんとさえキスをしたことはなかった。形よくふくらんだ唇が見える。私は両手を垂らしたまま、その唇にぎこちなく自分の唇を押しつけた。重なった唇の下で彼女のそれがかすかに動くのがわかった。私は柔らかい唇が波立っているのを感じて、目を閉じた。深い水底に沈んでいくような気がした。背中の皮膚がざわざわと騒いだ。息苦しく、自分が何をしているのかわからなくなった。
 目を開けると、長い睫毛がすぐそばにあった。見えるのはその睫毛だけだった。両手でそっと滝澤節子を抱きしめた。そのとたん、知識にない肩甲骨の曲線に指が触れ、手のひらに背中の小さな筋肉を感じた。彼女の両腕が私の首に絡みついてきた。からだがふるえた。私はうめき声を漏らした。声を出したのが自分だということがすぐにわかった。すると、何もかもが恥ずかしくなって、唇を離した。
「節ちゃんて呼んで」
「節ちゃん」
 滝澤節子はうれしそうに微笑み、私の坊主頭の後頭部を手のひらで撫ぜると、もう一度私の顔を両手で引き寄せた。歯と歯が打ち当たった。彼女の舌が私の舌に絡みついてきた。全身の力が抜けていき、生まれて初めて経験する肉体の感激が私を包みこんだ。彼女は唇を離そうとしなかった。まるで私の命を吸い取ろうとでもするように。
 彼女がやっと私を離したとき、私は少しよろけて壁に手をついた。
「じゃ、私、いくわね。もうすぐ婦長さんが見回りにくるし、まんいち急患が入るといけないから」
 私の頬をやさしく手のひらでひと撫ぜすると、彼女はロビーのほうへ急ぎ足で歩いていった。
「節ちゃん!」
 滝澤節子が振り向いた。
「さよなら―」
 シルエットが手を振った。私はカバンを拾い上げ、ゆっくりと見舞い通用口へ向かった。靴を履き、表の道に出る。きのうとちがう夜が私を迎えた。風がある。勉強小屋へ、あの穴倉へ帰らなければならない。そのことだけが頭にあった。ぼんやり玄関の前を通り過ぎた。そうしてしばらく思索のない時間の中を歩いていった。牛巻坂を上がり、下り、踏切を渡り、いつのまにか神宮の杜にいた。玉砂利を見るともなしに見ながら歩いていて、忘れ物をしたような気がして立ち止まった。
 ―玄関から受付を見るのを忘れた!
 緑が夜の中に沈んでいる。樹の葉を揺らす風の音がかすかに聞こえた。風が通り抜ける参道を献灯の明かりに向かって進み、朱塗りの大鳥居から大通りへ出た。振り返って見上げた神宮の空が濃い藍色をしていた。ちらほら人が歩いている。不思議だ! 私のことなど考えたこともない人たちが歩いている! あの人たちも、私と同じような気持ちで生きているのだろうか? そうに決まっている。一人ひとりが、だれかのことを、自分ではない人のことを思って生きているのだ。私に挨拶もせず、視線も送ってよこさない人たち。私のことにまったく心を使わないとしたら、いったい、彼らの心を占めている人はだれだろう。そんな自意識に満ちた疑問が、生まれて初めて私の頭に浮かんだ。そしてその疑問から、さらに、彼らがだれを生きがいにして、毎日その人のためにどんな生活を送っているのだろうという疑問が、次々に生まれてきた。もちろん、そんなあたりまえのことはとっくのむかしからわかっていたような気がした。でも、いまのこのときまで考えたこともなかったし、思いついたことさえなかった。
 ―私がもっと若かったら、奪っちゃうのに。
 私はもう一度、神宮の杜を振り返り、それから目をつぶってみた。すると滝澤節子が高い木立の上の虚空から降りてきて、私を奪い去り、遠くへ連れて逃げていく幻が見え、そして彼女といっしょに逃げれば、生きることにまとわりついているすべての疑問は声をひそめ、しつこく頭をもたげる将来への不安もすべて鎮められるような気がした。
 鳥居から真っすぐ内田橋へ出て神戸町へ折れ、宮の渡し公園を左手に眺めながら、家々の窓を見つめて歩いた。明かりの灯っている窓はまれだった。護岸のない公園越しに暗く静かな堀川が見える。大瀬子橋まできた。橋の途中で足を止め、周囲を眺めたとき、見慣れた欄干も、コンクリートの護岸も、両岸の工場街の屋根も、分譲住宅の列も、絵に描いたように美しく見えた。
 舳先に灯火をつけたダルマ船が下ってきた。水面にかすかな光の波を描いている。波が光を呑みこむたびに闇が深まった。ふたたび歩みはじめると、橋板の一枚一枚が新鮮な音で鳴った。川から何のにおいも昇ってこなかった。
 十一時に近かった。娯楽部屋で麻雀牌の音がしていた。母の姿は食堂になく、カズちゃんが一人で洗い物をしていた。私を認めるとカズちゃんは飛び上がらんばかりに喜び、小走りに寄ってきてしっかりと抱きしめた。
「心配で帰れなかったわ。よかった。無事に帰ってきて。お母さん、またお腹が痛いって部屋に戻っちゃった。お腹すいたでしょう」
「うん」
 めし碗のそばに横たわっていたシロが足もとにやってきて、私をやさしい目で見つめた。カズちゃんのおさんどんで一人きりの晩めしを食べた。おかずは温め直した豚の生姜焼きと味噌汁だった。母なら肉の表面でラードが白く固まったものを出すところだ。豆腐とネギの熱い味噌汁もうまかった。肉の半分をシロにくれてやった。
「カズちゃん」
「なに?」
「ぼくは、カズちゃんがこの世でいちばん好きだよ。いちばんきれいだとも思ってる」
 たちまち彼女の目に涙が浮かんだ。滝澤節子の柔らかくて暖かい唇の感触が蘇ってきて、せっかくの告白を蹂躙しようとした。
「私もよ、キョウちゃん!」
「ぼくがどうなっても、見放さない?」
「もちろんよ、死ぬまで」
「……今度、カズちゃんちに遊びにいっていい?」
 大人である滝澤節子のことを、もっと大人のカズちゃんに話して、心の整理をしたいと思った。カズちゃんならこの心の混乱を救ってくれるか、滝澤節子の言葉の意味を解きほぐし、解明してくれるかするだろう。あるいは、彼女の言葉や態度に隠された意外な醜い面を浚いだして、私の甘さを戒めてくれるかもしれない。
「いいわ。……いつでもいいから、日曜日にいらっしゃい。神戸町の鶴田荘っていうアパートよ。二階の三号室。待ってるわ。亭主とは別れたの。私一人きりよ」
 日曜練習の帰りにかならずいこうと思った。寝ていたはずの母が起きてきて、なんだか荒い呼吸をしながらテーブルについた。入れ替わりにカズちゃんは、失礼します、と言って帰っていった。
 母は私から返事が期待できないことがわかっているので、何も訊かない。いらいらとテレビを点けた。最終のニュースをやっていた。ビートルズがこの夏にアメリカで公演する予定で、一、二年したら日本でもやるらしいと言っている。
「中学を出て働くのか?」
 黙っていた母が口を開いた。私は素直に答えた。
「そんな気はない。スカウトがきたら、今度こそ野球の高校にいく。こなかったら、旭丘でも、明和でも、母ちゃんの好きな高校へいくつもりだ。いまのまま、ふつうに勉強してれば、ふつうに受かるさ」
「大口たたいて。寺田の大将にそっくりだね。毎晩遅くまでつるんで何してるんだか」
「何もしてないよ。康男はリハビリで精いっぱいだ」
「どうだか。旭丘、明和? 聞いて呆れるよ。こんなにグウタラになっても、まだ、おまえは勉強には未練があるのかね」
「もともとそんなものはないさ。野球にはあるけど」
「それなら、勉強なんかサッパリやめちゃいな。いままで成績がよかったのは、運がよかっただけだよ。運なんて、長つづきしないんだからね。この調子じゃ、ま、県立はとうてい無理だろ。泣いて頼んだって、私立なんかにはいかせてやれないよ」
「野球の名門に無料でいくさ。だめなら、県立のトップへいってやる」
 皮肉らしい目が睨んでくる。
「野球もどうだかね。そんなにおまえがほしいなら、もっと頻繁にくるだろう」
「くるさ。今度スカウトがきたら、ぜったい追い返さないでよ」
「……寺田の大将は、おまえの助けが必要なのかい。いいか、郷、あの子は人でなしなんだよ。でたらめに暮らしてきた子だよ。いくらおまえがあの子に尽くしたって、みんなムダ。用心しないと、それこそ人生ぼろぼろにされてしまうよ」
「また、〈人でなし〉か! とうちゃんも人でなしだったんだよね! 康男はけっして心の曲がった人間じゃない。ああいう態度をとってるのも、悪気からじゃなく、何も偏見を持たないせいだ。大胆なせいなんだよ。あいつは一生懸命リハビリをやってるんだ。ぼくはその手伝いをしてやりたいだけだよ」
 母は私を睨みつけていた視線を逸らして、じっと考えこむふりをした。やりきれない気分だった。私は荒々しく箸を置くと、裏庭へ出た。シロがうなだれながらついてくる。しゃがんで撫でてやる。静かな目をしている。母がシロだったらどんなにいいだろう。
 ―知恵のない、美しい心。正しく、やさしく、勇ましく、だ。
 机に向かい、窓を開けた。シロは、今度は玄関に横たわった。
 県立はとうてい無理だって? 目をつぶっていても受かる。占い師を気取って、転落の予言でも聞かせるつもりなのだろう。試験勉強なんかより、野球の登竜門をくぐるほうが、ずっとずっと難しいのだ。
 窓の外に生暖かい大粒の雨が降りはじめた。向かいの下駄屋の木立が音を立てる。小屋のトタン屋根が鳴る。窓を閉めないまま外を眺めていると、すぐに雨が細くなった。初夏の香りが漂ってきた。
 頭の中を、つい何時間か前に起きた出来事が鮮やかにめぐりはじめた。滝澤節子の唇がまだ自分の唇にくっついたまま、妖しい力で魂を吸い出しているように感じた。彼女の目をつぶった顔や、柔らかい肩甲骨の感触が甦ってきた。いまごろ、彼女は受付に坐って同僚と話でもしながら、急患に備えているだろうか。ぼくがぼんやり病院の玄関の前を通り過ぎるのを見ただろうか。挨拶をしなかったのを不実に思わなかっただろうか。
 私は蒲団を敷いた。横になってしばらくすると、滝澤節子の誘うような微笑と、熟(な)れたキスの仕方を思い出した。
 ―彼女は、まじめにぼくを相手にしたんじゃないのかもしれない。
 胸の深いところから不安が湧き上がってきた。何も考えたくなくなり、痺れるようなけだるさがからだを浸した。


         六十一

 三年生になって第一回目の中統模試が近づいてきた。気になる数学の教科書を開いた。三年生になって数学が難しくなった。平方根やら、円の接線ら、三角関数、二次関数。やたらに公式が増えて、理屈よりも方法を呑みこむのに苦労しなければならない。和田先生がこのあいだ、期待にあふれる目で私を見つめながら、
「中統で県の一番になれよ。三県五番以内。おまえならなれる」
 と言った。そんなふうに彼に励まされたのは初めてだったので、なんだかくすぐったい気がした。自分にとっては、勉強するときはいつも脇道を歩いているような気分になるけれども、励ましてくれる人がいるなら真剣に打ちこまなければいけないと思った。直井整四郎の相変わらずの怪物ぶりは考えの外に追い出すとして、甲斐や井戸田にだけは負けないようにしよう。数学はなんとかなる。とにかく社会科がカギだ。
「おい、ちょっと寄っていかんか」
 練習の帰りがけに、職員室の窓から中村専修郎に声をかけられた。いつもの眼光が和らいでいる。
「ちょっと、急ぎの用があるんで」
「寺田の見舞いだろ。十分もあればすむ」
 かしこまって職員室に入った。
「ラーメン、食ってけ」
 出前のラーメンが二つ、机の上に置いてあった。
 ―いつのまにとったんだ?
 あごの傷を突き出し、痩せこけた恐ろしげな顔つきで椅子を勧める。
「まだ伸びてないぞ。おまえに食わせてやろうと思って、野球部の連中が部室に引き揚げてから注文したんだ。いま届いたばかりだ」
 職員室には彼以外だれもいなかった。
「どうだ、最近、社会科は」
「さっぱりです」
 ラーメンは久しぶりなので、思い切りすする。これでパンを買わなくてすむ。
「怠け者だな。暗記すればいいことだろう。英・国で穴埋めしてるわけだ」
 中村もズーズー音立ててすすっている。
「そういうわけじゃありません。ただ不得意なだけです」
「ふうん……。おまえ、この半年、寺田の見舞いに通いづめだな」
 なるほど、ラーメンをおごる目的はこれだったのか。
「しっかり歩けるようになるまでは、毎日通うつもりです」
「感心だな」
「褒められるほどのことではありません。すごい回復力で、切らなきゃいけなかった足でいまはちゃんと歩けるんだから、びっくりします。どんどん治っていくのを見てるだけで楽しいし―」
「褒めてるつもりはないよ。浅野さんも大変だということさ。クラスに二人もでき損ないを抱えてるんだからな。夜遊びしとるという報告が入っとるぞ。家でも荒れとるそうじゃないか。内申書もあることだし、大人しくしてたほうがいい」
「報告って、だれからですか」
「決まってるだろ。見舞いにしては、少し度が過ぎてるようだから、注意してくれないかということだ」
「ま、これは担任の浅野さんの領分なんだが、久住さんが彼にストップかけとる。そんなこと、注意するに当たらないと言うんだよ。浅野さんは久住さんに心服しとるからな。それでまあ、お節介だが、俺が浅野さんに代わって、ということだ」
 不愉快だった。母は私に不満や皮肉を言うだけでなく、ちゃっかり学校にまで連絡を入れていたのだ。
「気を悪くするなよ。見舞いにいくのがだめだと言ってるわけじゃないんだ。ただ、どんな善意も度が過ぎると、わが身を滅ぼすからな」
「わかりました。見舞いの回数を減らすようにします。しっかりリハビリをやったおかげで、もう、だいぶよくなってきましたから」
 途中で割箸を置いた。
「そうか、じゃ、頼むぞ。なんせ、おまえは直井につぐ期待の星だからさ」
「でき損ないじゃないんですか」
「学生の本分を尽くしていないという意味だ。……それ、食ってしまえ」
「腹いっぱいです。ごちそうさまでした」
「何ごとも本分を尽くすというのは、甘えた気持ちじゃできない。学生の本分は勉学と決まってる。押し通すにはきびしい道のりだ。道草を食う暇はない。せいぜいわが身を引き締めてかからんとな」
 中村の言ったのとはちがった意味で、私は自分をでき損ないだと思ってきた。その不完全さは、深い哀しみをともなって、かなりむかしから私の胸の底にあった。私は何かをおろそかにしようとしてサボっているのではなかった。道草を食っているつもりもない。自分なりにしっかり勉強をしていたし、野球も希望を捨てずに精を出している。病院に通うことで、その二つがおろそかになるということはまったくなかった。生活の大きなリズムにさえなっていた。
 ただ、勉強とかスポーツといった単純な作業に打ちこむような通りいっぺんの努力では、自分の中に波立ちはじめた悍気(かんき)を抑えることはできないと感じていたし、自分の成長の遅さに焦れるような気持ちにもなっていた。そして、そういう感情を、でき損ないの人間に特有の誠実さだと納得していた。その誠実な焦りにくらべれば、勉強やスポーツのような単純作業は、そしてそれを無垢だと考える単純な精神も、忌まわしいごまかしに過ぎないと思いはじめていた。
 口づけの夜以来、少しでも滝澤節子のことを思い出しただけで、からだじゅうの血液がいっぺんに胸の中に集まり、それが不安のかたまりになってわだかまるようになった。といってもそれは、野球の未来がかんばしくないと予想するときのやるせない不安とはちがって、心のどこかで未知の妖しい喜びを期待しているような不安だった。
 当然のことに、その妖しい期待の中に、あのカズちゃんが教えないと言った、女のからだの深奥部を知ろうとする好奇心が含まれていた。それはかならずカズちゃんに教えてもらおうと思っていたし、大好きなカズちゃんとの大切な約束事だった。カズちゃんと約束を結んで以来、私はオナニーをまったくしなくなったほどだった。しかし、カズちゃんと同じものが滝澤節子の股間についているという考えはしっくりこなかった。考えようともしなかった。とりわけ、大人の女の心の仕組み……それを知りたかった。カズちゃんは私を全肯定し、素直な愛情を表現してはばからない。彼女に私は作為なく甘えればいいだけのことだった。そういう開け放しの愛情をにおわせない女の心の仕組みや、生活の謎を私は知りたかったのかもしれない。そういう女心を、私は妖しく高級なものと錯覚していたのだろう。
 あの夜以来、病院での滝澤節子の様子には少しも変わったところがなかった。それはひどくがっかりすることだった。とても微妙な変化か、それとも打って変わった変化か、いずれにしても何らかの変化はあるだろうと私は思っていた。私に対する態度にしても、恥ずかしそうにするか、急に親しさが増してくるか、それとも迷惑そうにするか、とにかく応対を変えてくるだろうと思っていた。
 ところが何も変わらない。まったくこれまでと同じだった。廊下や大部屋で遇っても話しかけてこない。きちんと挨拶をし、別に避けるでもない。何となくいっしょにベンチに座るタイミングになって微笑み合うこともあるし、黙っていることもある。私にとってはきまりの悪い沈黙も、彼女にとってはなんともないようだった。すべてがいつもと同じ調子だったし、快活なのに控えめに見える彼女の様子もいつものことだった。私はどうしていいかわからなかった。
 そんなある夜、私はベンチで言った。
「キスしたとき、いっぺんにからだの力が抜けてしまったみたいだった。いま思い出してもそんな感じなんだ。節ちゃんは?」
「私も」
 ふだんの表情で私を見つめる。私はすっかり肝をつぶしてしまった。まるで何もなかったも同然なのだ。見たところ彼女は、二人のあいだにあったことを、どんな意味でも気にしているような素振りは見えなかった。私としても、できるだけさり気ないふうに振舞ってはいても、心は一途にその説明を求めた。
 あのことが実際起こったことはまちがいないとしても、もういっさい考えまいと決意しているのだろうか? あのまま忘れたいと思っているのだろうか? 私には、それは彼女の年齢からして、大人の知恵を偲ばせる姑息な態度にも思えたけれども、いずれにせよ自分は、彼女の心にもからだにも、これ以上近づくことはできないだろうと感じた。
 寺田康男への友情が薄れることはまったくなかった。滝澤節子の不実に接して以来、私は深く反省し、彼との友情以外のことは、だんだん縁遠いものになっていった。それでいながら、三畳の部屋で音楽を聴いたり本を読んだりしていても、教室で勉強したり、グランドを夕暮れまで走り回ったりしていても、絶えず物足りないさびしさが襲ってきて、心がまとまらなかった。あれほど夢中だった野球や、音楽や、読書から、価値と輝きが失われていった。そんなものは、この十年の旅の道で、たまたま、からだの表面にくっついた埃や垢のようなものだと思った。
 からだの内側の水脈―それこそ重要なものだった。私は、周囲で起こることをいちいち入念に観察し、感じたことを自分なりの言い回しで克明に書き留めておくという、根気と手間の要る習慣を身につけはじめた。ときどき、散文に交えて、詩のスタンザのようなものも書いてみたりした。

  なんときみを恋していることだろう
  なんときみを愛していることだろう
  あの夜よ 戻っておいで!


 表現ともいえないもどかしい言葉の断片には、ありもしない恋心を活字の力で飾ろうとする野心だけが目立っていたけれども、詩を書いているときは、なんだか気高くて、自分がきらめくような思いに捉われるのだった。
 牛巻病院の看護婦たちは私にやさしかった。キョウちゃん、郷くん、と呼びかけ、微笑を投げ、親しみをこめた目礼をした。そのおかげで私は、病院にいるときだけはふだんの満たされない思いを忘れて、持ち前の陽気さを思う存分発揮することができた。
 親切ということでは、大部屋の人たちも例外ではなかった。
「郷くんを見ていると、偏屈な気持ちが真っ直ぐになります。きみの目の輝きは、精神の栄養剤ですよ」
 と、リューマチ先生は口を極めて褒めたし、三吉一家も、
「あんたの一本気は宝物だな。俺なんざ、とんと、そういう……」
 と嘆息し、言葉を濁して照れくさそうに口もとをゆがめた。
 ある日私は、大部屋に向かう階段の下で、滝澤節子の声を聞いた。彼女が同僚と笑い合いながら階段を降りてきた。上司の看護婦の悪口を言っているようだった。踊り場に近づいたあたりで二人の足が止まり、声をひそめ合った。足から胸もとまでは見えるが、顔が見えない。彼女たちを下から覗きこむように見上げた。二人ともしきりに何かを飲み干そうとしていた。カラン、カランと乾いたビー玉の音が階段にこだました。ラムネを飲んでいるのだ。そのラムネは患者からの差し入れらしく、持ち場に戻る前に、医師やほかの同僚たちに内緒で飲んでしまおうということらしかった。首を伸ばして見ると、節子の丸く張ったあごが覗いた。私は彼女のあごと喉の動きを見ていた。
「あら―キョウちゃん!」
 節子が気づいて見下ろした。
「こんにちは」
 彼女はひとしきり恥ずかしそうにケラケラ笑って、
「この子が、いつも言ってるキョウちゃんよ」
 と同僚に紹介した。その女は何度か受付に詰めているのを見かけたことがあった。
「知ってる。有名人だもの」
 微妙な笑い方をした。
「ラムネは急いで飲むのは難しいですよね」
 二人は一瞬きょとんとし、それからからだを折り曲げて笑った。
「きょうは私たち、早番なの。これで、上がり」
 そう言ったきり、節子は空瓶を振りながら同僚と並んで廊下を歩いていった。私は先夜の口づけが、まちがいなく夢だったと信じた。


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