二十五

 十月七日。快晴。宮中の校庭に集合。
 神宮前から名鉄に乗って、南区の桜に向かう。敵は本城中学校。右投げに替えてから初めての練習試合だ。そして私には、中学生になって初めての試合でもある。公式戦は勝ち抜きなので、もう宮中に参加資格はない。これから先はぜんぶいわゆる消化試合になる。でも、ほとんどの学校がその運命なのだ。スタメンはたぶん、思い出作りの三年生がほとんどで、下級生からレギュラーに抜擢されるのは二年生の本間と、一年生の私だけだろう。デブシや関たちは来年待ちだ。
 電車に乗りこんだとたん、三振王の王がとうとう開眼してホームラン王になったという話題で持ちきりになった。何カ月か前の大洋戦、一番打者で出た王は、ホームランを含む五打数三安打の活躍をした。ただ、そのときのバッターボックスの姿勢がとても奇妙で、右足をからだのそばに高く引き上げ、片足だけの猫背になってじっとピッチャーの投球を待つという形をとったのだ。とにかくそれ以来、王はすごいペースでホームランを打つようになり、とうとう三十八本打ってホームラン王になった。打撃コーチの荒川が王にこの打法を伝授したのだという。吊り下げた和紙を本物の刀で切り落とすところが週間ベースボールに載っていた。そういう練習を畳が擦り切れるほどやった、と書いてあった。
「王はこのぶんだと、来年は三冠王になってまうで」
 関が言う。
「いや、首位打者はやっぱり長嶋やろ」
 デブシが異を唱える。私もそう思った。それほど遠くないうちに王は三冠王を獲るかもしれないけれど、首位打者は簡単にはいかない。ひょっとしたら長嶋だって危ない。それにしてもあの一本足打法はすごい。あんなバランスをよくとれるものだ。本間がフリーバッティングでまねをして打ってみたけれど、一本も外野まで飛ばなかった。
 岡田先生が電車の中で、七人のスターティングメンバーの名前を告げた。やっぱり本間と私を除けば、ピッチャーの与野を筆頭にぜんぶ三年生で固めていた。初めて聞く名前の補欠まで入っている。
「二年は本間、一年は金太郎。毎年残り三試合は全員三年生でいくんだが、この一試合だけは下級生を出す。ひとまず先例を作っておかなくちゃな」
 桜駅を降りて、工事中の新幹線の高架をくぐり、国道を渡って呼続(よびつぎ)公園野球場に出る。
「この球場は硬式用のグランドだ。両翼が九十メートルしかないうえに、外野の向こうがすぐに民家だから、十メートルの高さのネットを張っとる。軟式をやるやつには、つらい距離だ。百メートル越えのフライを打たんかぎりホームランにならん」
「それ、ぜったい無理やが」
 デブシがため息をつく。
「さすがの金太郎も、今回は三塁打止まりかもしれんな」
 関が大島と二人でうなずき合っている。私は先生の言葉を耳に留めながら、いまの肘で百メートルは無理だなと思った。御手洗が、
「金太郎さん、一本いってや!」
 と背中を叩いた。
「ミートを心がけるよ。まだ左肘で押し出すのは無理だ」
 私はこの試合で右の遠投力を試したいと思っていた。バッティングは少しでも勘を取り戻せればいい。ほんとうに三塁打が打てるなら、もう満点だ。
 呼続球場は手入れの行き届いたグランドだった。でも野球場と呼ばれるには少しもの足りないところがあった。まずスコアボードがなく、ホームベースの後ろに高い金網のバックネットがそびえているきりだった。外野のコンクリート塀は人の身長ほどで、すぐ向こうに民家が建てこんでいる。だからゴルフ場のようなネットがぐるりと張りめぐらされているのだ。グランド自体はかなり広い。センターの塀に百二十メートルの表示がある。さすが硬式野球場だと思った。
 両チームとも守備練習のみで、バッティング練習はなし。本城中、宮中、それぞれ十分ずつ。私はできたての鉄砲肩を何本か敵チームに見せつけた。彼らの目がそれに釘づけになっているのがわかった。
「集合!」
 すぐにベンチに引き上げ、岡田先生を中心に円陣を組む。
「本城中の校庭は狭いんでな、練習も試合も、ぜんぶこの球場でやるそうだ。贅沢なもんだ。ということは、だれも使ってないときしか利用できないわけだから、たぶん練習不足だろう。そこがつけ目だぞ」
 いつもとちがってあまり説得力のない檄(げき)に、みんなニヤニヤしていた。それというのもブルペンで投げている本城中のピッチャーのボールが、六年生の決勝戦の旗屋のノッポと同じくらい速かったからだ。
「イグゼー!」
 与野と本間が気合を入れる。
「オー!」
 初めて試合に出られる三年生の補欠たちが、張り切った声を上げる。今年のチーム力は手薄だ。その証拠に、ここまで全敗している。そのうえこのメンバーでは、きょうはぜったい勝てないだろう。
 トレパンを穿いた審判のプレイボールの声とともに試合が始まった。本間はジャンケンに負けて先行をとらされたが、私は喜んだ。千年小学校では、これまでジャンケンに勝つとかならず先攻を取ってきた。もし後攻を取って、敵の一回表の攻撃が長引いたら出鼻を挫かれる、それに先攻は勝っていても負けていても、確実に最終回まで野球を楽しめる、という考えがチーム全員に浸透していたからだ。敵がジャンケンに勝てばまちがいなく後攻を取ってくる。だから、千年小学校はいつも労せずして先攻ということになっていた。
 しかし、喜びもつかの間、一回の表、あっという間に三人で終了。つけ目も何も、つけ入る暇さえない。
 一回裏、さんざん与野が打ちこまれ、三回で交代した轟も、あとにつづいた崎山も滅多打ちに合い、六回までに被安打十五、九対一で見事に負けた。味方は二安打しか打てず、二本のヒットのうち、一本は三回の本間のレフト前、もう一本は最終回の私のソロホームランだった。ホームランを打ったとき、私は奇妙な感覚を経験した。それまで私は、二打席連続で空振りの三振をしていた。ただその二打席で、強振しても左肘が痛まないことを確かめた。舞い上がるほどうれしかった。三打席目、顔のあたりにきた速球を上から叩きつけた。瞬間、バットの表面でボールがグニャッとつぶれ、ゆっくり離れていくのがはっきり見えた。川上哲治のようにボールが止まって見えることはなかった。スローモーションでボールが潰れ、バットから離れていくのが見えたのだ。低いライナーでライトへ伸びていったボールは、ネットの前で急上昇し、ぎりぎりにネットを越えて民家の屋根に落ちた。屋根の上に二人の見物人が腰を下ろしていて、一人が伸び上がってそのボールに片手を差し出した。ボールは彼の手に当たって屋根に転がった。
 試合のあとで、本城中の監督がベンチにやってきて、
「いいものを見せてもらいました。軟式であのネットを越えたのは、成人を含めて初めてのことです」
 岡田先生は、ほう、と得意げにうなずいて、
「こいつが小学生のホームラン記録保持者の神無月ですわ。いずれ、中学生記録も塗り替えるでしょう」
 帰りの道すがら、岡田先生は上機嫌で歌った。
「春がきたかよ、宮中のお庭には。どんぶり鉢ァ浮いた浮いた、ステテコ、シャンシャン」
 つづけて、夏、秋、冬と、同じ歌詞を繰り返した。意味はわからなかったけれど、最後はみんなで声を合わせて歌った。
 その後、練習試合は秋の初めに二つあったきりだった。その二試合は、本間や私はもちろん、下級生はだれ一人出してもらえなかった。そして宮中は、一勝もできずに一年を終えた。
         †
 プロ野球のペナントレースは、セリーグが阪神タイガース、パリーグはやっぱり尾崎の東映フライヤーズが優勝した。尾崎は二十勝をあげて新人王に輝いた。一本足の王は、ホームラン・打点の二冠を獲った。首位打者は広島の森永だった。長嶋は一年じゅうなんとなくスランプで、ホームランと打点こそ王に次ぐ成績だったけれど、持ち前の打率は二割八分にとどまった。
 今年も食堂のテレビで、みんなこぞって日本シリーズを観た。四度も延長戦になる緊迫したシリーズだったけれど、大毎の山内に「ボールが消えた」と肝をつぶさせた肝心の尾崎の速球は、初戦でしか見られなかった。それもチラリと出ただけだった。残念なことに尾崎はその試合、延長十回裏5対5の同点からリリーフに出て、牛若丸吉田にさよなら二塁打を打たれてしまった。それっきり第七戦まで二度と投げさせてもらえなかった。
「尾崎が見たいのに、これじゃ蛇の生殺しだわ」
 テレビの前に坐るたびに、小山田さんが嘆息した。みんな同じ気持ちだった。結局、東映が土橋と安藤の二本槍で優勝したのだけれど、なんだか見たいものが見られなくてひどい欲求不満が残った。せいぜい、藤本と張本のホームランや、村山のザトペック投法を見て溜飲を下げるしかなかった。村山は第二戦、吉田勝のポテンヒットのせいで、日本シリーズ史上初の完全試合を逃した。結局東映の四勝二敗一引分。阪神の勝ち星は二つとも、針の穴を通すコントロールの小山ではなく、村山があげたものだった。


         二十六

 野球部の帰り、校門のところで、小太りの女生徒が声をかけてきた。
「すみません、ちょっといいですか」
 離れた民家の生垣のところから尻を突き出すようなお辞儀をした。太り具合といい、ポニーテールといい、一瞬、清水明子かと胸がときめいた。大声でしゃべりながら後ろからやってきたデブシや大島たちは、急に口数が少なくなると、彼女の前を静かに通って帰っていった。関だけが残った。
「神無月くんですよね」
「うん―」
 私は相手の顔をはっきり見定めようとして目をすがめた。最近では、日が暮れてからはそうやって焦点を合わせるようにしている。明るい日中なら、教室でもグラウンドでも見るものの正体があらかじめわかっているので、目に力をこめなくても見える。もちろん野球をやるのに何の不便もない。フライもゴロもちゃんと捕れるし、バッティングのときのピッチャーの球筋なんかは、指を離れた瞬間からハッキリ見える。あたりが暗くなってくると、ちょっと怪しくなる。眼鏡をかければ多少はマシになるとわかっていても、母に買ってくれと言えないし、野球選手に眼鏡はぜんぜん似合わないから、当分このままでいようと決めている。
「ある人から、伝言があるんです」
 近づいてきた女生徒の顔は、ニキビだらけだった。額に噴き出したニキビの一つに黄色い膿が小さくこびりついている。私はその膿をいますぐ搾り出したい気がした。どちらかといえば目も鼻も大づくりな外人ふうで(杉山啓子ほど尖った感じはしなかった)、厚く肉の盛り上がった唇をしている。ふさふさしたポニーテールにリボンを結び、前髪はきちんと揃えていた。関が私の肩口に囁いた。
「やっぱり俺も帰るわ」
「ちょっと待てよ」
「長くなりそうだでよ、じゃな」
 関は手を振りながら、ちらりと女生徒を見た。知っているような視線だった。彼女は関にきちんとお辞儀をした。
「ぼくもいろいろやらなくちゃいけないことがあるから、さっさとすませてね」
 彼女はニキビの頬を赤く染め、落ち着いた声で言った。
「ユニフォーム、格好いいですね。私、F組の山本のりこといいます。たぶん、私のこと知らないと思うけど、私のほうは神無月くんのことよく知ってます」
 たしかに彼女の顔は一度も見た覚えがなかった。
「伝言て?」
「うちのおかあさんが、遊びにきませんかって」
「それが伝言?」
「はい」
「でも、きみのお母さんが、どうして」
「好きな男の子がいるって私が言ったら、連れてきなさいって」
 私はこういう事柄にうれしくなるタチではなかった。そういえば、スエゼンのありがみちこはどうしているだろう。来年、宮中にやってくるのだろうか。
「あ、気にしないでください、私の一方的な気持ちですから」
 目立った顔立ちのわりには表情が落ち着いているせいで、加藤雅江と似たような、静かな雰囲気があった。
「なんだか面倒だなあ」
「そんなに冷たくしないでください」
「冷たくしてるつもりはないけど。ぼくのこと、よく知ってるって言ったよね」
「はい。神無月くんのことは、雅江ちゃんからいつも聞いてたし、有名だから」
「加藤雅江と友達なのか。やっぱりね」
「やっぱりって?」
「雰囲気がよく似てる」
 私は歩きだした。
「……そうかもしれません。五年生のころからの仲良しだから、似ちゃったのかも」
「じゃ、きみは千年なの?」
「はい。でも、私、雅江ちゃんみたいにきれいじゃないです」
 山本のりこは短く笑うと、私に寄り添って歩調を合わせてきた。そういう態度をとるのに慣れているらしく、自然で、図々しい感じがしなかった。
「雅江ちゃんと同じ放送部にいました」
「知らなかった。関とも知り合いみたいだね」
「関くんとは同じクラスでした。だから神無月くんが転校生で、野球がすごくうまいことも知ってます。寺田くんと喧嘩したときなんか、最初から最後まで見てました。私も転校生なんですよ。二年生のとき、東京からきました。神無月くんは横浜からよね」
「うん。加藤雅江って、いいやつだよね。きれいになったし」
「ほんと……。雅江ちゃん、杉山啓子さんと競るくらいきれいなのに。……脚があんなふうでなかったら、ミス宮中になれるわ」
 私は一瞬聞き耳を立てたけれども、何も言わなかった。この女はほんとうに雅江と仲良しなんだろうか。もし仲良しなら、友達の欠点をあんなふうなどとは言わないはずだ。
「伏見通りの坂下まで送ってくれる?」
「いいよ。……脚なんか関係なく、きれいな人はきれいだよ」
 加藤雅江は片足が細くて短いということが嫌でたまらないにちがいない。もし彼女の足が人並みだったら、身の周りの世界はこれまでとちがったものに見えるだろうし、人からもいままでとはちがった扱いを受けるだろう。雅江だってきっとそんなふうに考えて、悪い脚を引きずりながら、ソフトボールやテニスに励もうとしたのだ。どんなに励んでも脚は人並みにならないし、世界はこれまでと同じなのに。でも、脚なんか彼女の美しさとは関係がない。そんなこともわかってやれないなんて、この女は友達失格だ。
「雅江ちゃんて、自分のきれいなこと、ちゃんと知ってるんです。でも、自分でそう思うのは許せても、まわりからきれいだと思われるのはうれしくないみたいで、きれいだって言われると、とても不機嫌になるの」
「ふうん、複雑なんだね。褒められるのが嫌いだなんて」 
「単純じゃないんです、雅江ちゃんの気持ちは」
「きみは人の気持ちがよくわかるんだね。聞いたわけでもないのに」
「聞かなくたってわかるわ。同じ女だから。私だってからだのどこかが悪かったら、ほかのところを褒められるのはいやです」
「加藤雅江は、顔だけがきれいだって言われたくないんだよ。ほんとうのことだから。一つほんとうのことを言われたら、ほかのほんとうのことを黙っていられると、気持ち悪いんだよ。脚は格好悪いけど、顔はきれいだね、なんて言われてうれしいわけがない。ぜんぶいいって言われないと、つらい気がするもんだ。そういう気持ちは、ちっとも複雑だとは思わないな。ただのわがままだと思う。きっと自分がわがままだと知ってるから、加藤雅江は運動に励んで自分をいじめてるんだと思う」
「ふうん、神無月くんて、頭もキレキレなのね」
「そのくらいのこと考えてあげられないようじゃ、友達と言えないよ」
「わかりました。反省します。でも、どうやって考えてあげればいいのかなあ」
「加藤さんのぜんぶがきれいだって、思いこめばいいじゃないか。脚も顔も心もひっくるめて、ぜんぶ。一つ一つじゃなく、加藤さんぜんぶに注目すればいいんだよ。それが友達っていうものだろ」
「私には難しいな。でも、そうするように心がける。……中村くんや関くんたち、あわてて帰っちゃったね。私、評判悪いから」
 彼女は思わせぶりな笑い方をした。
「どうして評判が悪いの」
「お母さんが神宮前でバーをやってるの。お酒を飲ませるお店。神宮日活のすぐ前。あのあたり、知ってるでしょ」
「ああ、熱田にきたばかりのころ、一度映画を観にいったことがある」
 私は、細い路地に民家と飲み屋が雑居しているたたずまいをぼんやり思い出した。
「そんなことか。くだらない」
 彼女は何か拗ねたような表情をした。負けん気な気性が感じられた。
「そう言えるのって、格好いいわね」
「ぼくも飯場で暮らしてるけど、べつに評判なんか気にしないよ。近所の人によく、飯場のキョウちゃんて呼ばれるけど、好意さえ感じるな」
「神無月くんは男の子で、ヒーローだから気にならないのよ。私みたいに何もない女の子はそうはいかないわ」
「それじゃ訊くけど、きみは陰口を言うような人間かい?」
「言わない、と思う」
「だろ。陰口を言うやつなんて、ろくなやつじゃない。ろくでなしの言うことは無視すればいい。だいたい、陰口なんて陰で言うんだから、聞こえてくるはずがない。それでも聞こえるって言うなら、ひょっとして被害妄想っていうやつじゃないの」
「…………」
「とにかく、まんいち噂が聞こえてきても、無視していればいいさ」
「そうね。ああ、なんだか、せいせいした感じ」
 山本のりこはおとなびた笑い方をした。神宮の森が見えてきて、坂が下りにかかった。私は話題を映画に戻した。
「石原裕次郎と小林旭、どっちが好き?」
「私、映画はあんまり観たことないんだ」
「ぼくは裕次郎だな。横浜のころは、裕次郎の映画なら手当たりしだいに観てた。入口のスチール写真を見てると、どうしても入りたくなっちゃうんだ。『嵐を呼ぶ男』『錆びたナイフ』『赤い波止場』『鷲と鷹』『男が爆発する』。みんな主題歌がすばらしい。さびしい感じがして」
「裕次郎の歌がさびしいの?」
「不思議だけど、そうなんだ」
「ちょっと歌ってみて」
 私は『口笛が聞こえる港町』の歌い出しを口ずさんだ。

きみもおぼえているだろ
別れ口笛 別れ船
二人の幸せを 祈って旅に出た……


「ほんとだ、さびしい感じがする」
「一週間に一度、映画館にかよった」
「叱られなかった?」
「たいてい土曜日の昼だったから。かあちゃんは日曜が休みなんで、土曜はかならず残業して帰ってくる。映画館には一時ごろに着いて、たいていラストまで、二本立てを三回は観た。終わるのは十時過ぎ」
「すごい!」
 名古屋にきてからは、その情熱もしだいに薄れていき、裕次郎や浅丘ルリ子や芦川いづみの看板の前を、心も動かさずに通り過ぎるようになった。裕次郎がスキーで脚を骨折したというニュースを聞いても、ふうんという程度にしか感じなかった。
「三回も観ると、主題歌もほとんど覚えちゃうから、歌いながら帰った。半ズボンのくせに、裕次郎の真似して、ビッコひいて」
「ビッコ?」
「裕次郎は高校時代にバスケットで膝に大ケガをして、その後遺症で片脚を引きずって歩くようになったんだよ」
 帰り道の寝静まった町並を思い出した。ほんの数年前のことなのに、無性になつかしくなった。
「映画きちがいだったんだ」
「うん。でも最近はほとんど観なくなった。女とおかしなデュエットなんか歌ってる裕次郎は、もう裕次郎じゃないよ」
「銀座の恋の物語でしょ? 私も、あの歌きらい。もともと石原裕次郎も、小林旭も、赤木圭一郎や高橋英樹も、みんなが言うほど素敵だと思わないし」
「それにしちゃ、名前をよく知ってるじゃないか」
「名前だけはね。目の前にいつも看板が出てるから。宍戸錠、小高雄二、葉山良二、浜田光夫、和田浩二……」
「女もいるよ。筑波久子、芦川いずみ、浅丘ルリ子、吉永小百合」
 神宮の森を右手に見ながら、暗い町並を下っていった。山本のりこの歩調が名残惜しげにゆっくりになった。



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