百九
ヒデさんは、
「ふつうの男って、からだと心をどう考えてるんでしょう?」
カズちゃんが、
「キョウちゃんと生涯をすごす以上は、ふつうの男なんてどうでもいいことだけど、まあ杓子定規ね。からだにも心にも自分がないの。頭で考えて、精神と肉体の関係なんてことをやりだすの。私も大学時代に、気まぐれで哲学の教養科目をとっちゃって、一行もわからないベルグソンなんかに悩まされたことがあったわ。肉体は現在に拘束される、心は時間と空間の記憶を持っている、だから心は現在に実存する肉体を超える、しかし科学的に言うと、時間も空間も肉体に内蔵されている脳が意識したものなので、脳を持つ肉体を超えたことにならない、なんてね」
「〈超える〉の同意語は〈一致しない〉だよね。〈超えない〉の同意語は〈一致する〉。ということは、時空は肉体と一致するとベルグソンは言ってるんだね。時間も空間も肉体の意識にすぎないって、だからイコールだと」
「そう。へんでしょう? だって、時間も空間も肉体とは別にたしかに存在するもの。それをイコールとすることを方法論にしてるから、まちがいないと言い張るだけ」
「事実が正しいんじゃなくて、方法論が正しいというわけだ」
「やってられないでしょう? それこそ学問だと主張して、反省することをしないの。どんな文系学問も主張は仮説。仮説が手段になると、仮説好き相手につまらない堂々巡りの議論をするだけになるわ。学者でない私たちは時空と肉体じゃなく、心と肉体を対比して考えようとするわ。そして私たちが考える心と肉体ってもっと単純なもので、倫理と感覚の調和の問題よ。極論すると、愛情とセックスのことでしょう?」
「はい、よくわかります。和子さんて、すばらしい頭脳の持ち主ですね」
「ありがとう。超えたり一致したりするから、人間は不思議でいとしい存在なのよ。人間は哲学的な存在でも科学的な存在でもないわ。奔放にいったりきたりできる存在。そんなわけで、学問なんてしたくなくなっちゃった。栄養学のような理科的な勉強のほうがずっとマシ」
ミヨちゃんが、
「いったりきたりできるのが郷さんなんですね」
微笑みながら私を見上げた。彼女は私以外の何ものも見ていない。
「そう。ふつうの男は紋切り、杓子定規。正式な婚姻関係以外の女のほうからスケベなことを仕掛けられれば秘密主義でそれなりに応えるし、愛してると言われると秘密主義で俺もと応える。つまり道徳の範囲内で受け答えして、それを逸れたことが起きて秘密がバレそうになると、逃げ出したり、尻拭いを女になすりつけたりする。最低。結婚してる女も似たようなものね。女というものは、仕掛けられ愛されたい生きものなのに、そういう男は自分からスケベなことを仕掛けもしなければ、愛情を注ぐこともしない。そんな男と付き合うと、結局、女ばかりが割を食うことになるわ。キョウちゃんは女の気持ちがよくわかる人だから、表から帰ってくるなり、裸になってオマンコと叫ぶこともあるし、女にオシッコさせて胸に受けることもあるし、四人、五人といっしょにセックスすることもあるわ。女を喜ばせるために自分から仕掛けるわけ。見せかけのスケベに見えるけど、本気なの。でも、そうしてあげることで女の遠慮が取れて救われた気持ちになるという信念も確実にキョウちゃんの頭にあるわ。だからかならず本気で、愛してると言ってくれる」
ユリさんが、
「女のほうから仕掛けられたら、どうするんですか?」
数年前の自分を思い出しながら問いかける。
「もちろん女のほうから仕掛けても、ふつうの男と同じように応えるけど、きびしく選別したうえでなのよ。選別の基準は、形に囚われない健全な女ということと、顔やからだが趣味に合っているということ。そして、どんな関係もぜったい秘密にしない。道徳なんか何ほどのものとも思ってないから。キョウちゃんのふだんの知的な言葉や、鍛錬の真剣さや、底なしのやさしさが、そういう行動とぜんぜん矛盾しないの。これが楽しくて仕方のない理由」
ヒデさんが、
「栄光は影のように美徳に従う、ですね」
「キケロね」
「はい。郷さんは美徳のかたまりです。私は郷さんの心とからだと言葉が、特に顔がたまらなく好きなので、郷さんのすること考えることはぜんぶ肯定します。見せかけだろうと不道徳だろうと関係ありません」
カズちゃんと片手タッチをする。カズちゃんが、
「羽島さん、さびしかったら名古屋に出てきなさいね」
「ありがとうございます。でも、さびしくありません。学生と付き合いながらの一人暮らしは気楽ですし、ときどき神無月さんも訪ねてきてくれますから。もう五十一です。第二のふるさとで余生を送ります」
「第一のふるさとは?」
「東京です。東京では暮らしたくありません」
みんな腹いっぱいめしを食った。
八時だった。私はゲップを一つし、ジャージの上下を脱いで裸体を曝した。その必要があるなしにかかわらず、カズちゃんが言ったとおり〈仕掛け〉たのだ。四人の女が目を輝かせた。カズちゃんが、
「すてき! キョウちゃんの全身像なんてめったに見られない」
ユリさんが、
「背が大きくなりましたね。五、六センチくらい?」
「うん、高校一年生からちょうどそのくらい」
「筋肉もついて。立派に……」
目を潤ませた。ヒデさんが、
「プロ野球選手って、こんなに大きいんですね。からだが一つの世界―」
股間のものが情けなく萎んでいるので、みんな大して好色な気分にはならないようだ。風呂の湯を抜いておいたことをユリさんに言うと、
「後片づけが終わったらお風呂を入れます」
彼女も全裸になる。
「こんな姿をお見せできるのはあと十年もないと思いますから」
カズちゃんも服を脱ぎ落とすと、
「和子さん、すてき!」
と言って、ヒデさんもミヨちゃんも全裸になった。四人の女が後片づけのためにシンクに立つ。私は居間に戻りテレビを点けた。ときどき廊下越しに四人の裸体を眺める。壮観だ。チャンネルを回す。劇場中継、何でもやりまショー、八時だヨ!全員集合、コント55号の世界は笑う。金田が出ていたので、何でもやりまショーにする。
「ワシが昭和四十年にジャイアンツに移籍しようとしとったとき、石原慎太郎が大反対してね、なんでいまさらいちばん強いチームにいかなきゃならないんだ、負けつづける国鉄スワローズをきみが一人で支えている、そこに金田正一の男があるんじゃないか、ヘミングウェーの有名な言葉に《勝者には何もやるな》というのがあるけれど、その言葉こそきみにふさわしい、それほどの大投手なんだ、巨人の肩書なんかいらないんだ、とね。彼はワシの業績しか目になかった。今年、なかなか四百勝できんかったときも、何やってんだとキツく言われたよ。彼はワシより一歳年上なんじゃ。で、ワシは彼に言った。あんたはなんでいつもワシにきびしいんや。そのとき彼ははっきりと、きみが好きだからだ、日本一の大投手だから黙っておられないんだよ、と答えた。四百勝達成したときは、これを区切りにスパッとやめちまえ、と言いおった」
いい話だ。十月放送開始以来、金田はレギュラー出演のようだ。素早いタレントへの転身だ。石原慎太郎のビデオが流れた。
「いまや神無月郷という超のつく天才が現れて、傍流球団である中日ドラゴンズに国民の関心が向けられるようになったけど、十年くらい前はジャイアンツしかなくてさ、野球中継が始まると、みんなジャイアンツ戦を観たくて仕事どころじゃない。そこに立ちふさがっていたのが、孤軍奮闘する金田正一だった。やはり象徴的だったのは、鳴り物入りで巨人に入団した黄金ルーキー長嶋を迎え撃った四打席連続三振。周りのジャイアンツファンが、これでいいんだ、と言うんだよ。これで長嶋は一流の選手になる、とね。その言葉に金田正一がいかなる存在であったかがわかるじゃないか。実際、長嶋は翌年の開幕戦で金田からホームランを打ったわけだから、すごくドラマチックな話ですよ。今年、引退の年にさえ、金田はドラマを一つ作ったね。彼の貸したバットで神無月郷がホームランを打ったことさ。ハハハ」
廊下越しに乳房や陰毛が動き回るのを見ているうちに、じゅうぶん屹立してきた。廊下を渡ってキッチンへいき、シンクの脇でミヨちゃんと皿を拭いていたカズちゃんの胸を揉むと、微笑みながら屈んで尻を向けた。挿入する。動く。シンクにいたヒデさんもユリさんも突発事にハッと驚き、首筋を固くして皿を洗うふりをする。ミヨちゃんは私とカズちゃんの様子を頬を赤らめて見つめている。
「キョウちゃん、ありがとう、うれしい、ああ、すぐイクわね、おお気持ちいい、イクイクイク、イク!」
意識して声を艶かしくする。抜いて、カズちゃんをまねて屈んだミヨちゃんに突き入れる。しとどに濡れていた。見たばかりのカズちゃんの痴態に安心したのか、ミヨちゃんは布巾を握りながらたちまち後頭部を反り上げ、
「ああん、郷さん、気持ちいい! 愛してます、愛してます、イキます、イ、イ、イックウウウ!」
へたりこもうとするミヨちゃんから抜いて、痙攣するからだを床に横たえ、皿鉢を洗っていたユリさんに移って挿入する。ユリさんは皿をシンクに取り落とした。ヒデさんはテーブルに移動し、手を突いて準備する。
「あ、神無月さん、すごい! イキますね、強くイク、イ、イ、イ、イクウウウ!」
引き抜いて、テーブルへいってヒデさんに挿し入れ、激しく往復する。だれよりも濡れていた。
「き、郷さん、好き、大好き、あああ、イキます、うーん、イク、イク!」
私が全裸になったときからこうなることを四人とも待ちかねていたのだ。急に射精が迫ったので、引き抜いて、まだシンクの脇で尻を向けているカズちゃんに挿入すると、
「クク、イク! 愛してるわ、羽島さんに、羽島さんに、あああ、イクウウウ!」
カズちゃんが危険日だったことを思い出しあわてて抜いて、ユリさんに挿しこんで発射した。
「グウ、イグウウウ!」
腰が落ちそうになったので、腹を抱えて律動する。
「うれしい! イック、ウ、クウ!」
彼女の尻が反射的に私を突き飛ばしたので、ヒデさんに挿入してできるかぎり残りの律動を与えた。
「き、郷さん、愛してます、イク、イク! 死ぬほど好きイ! イックウウウ!」
尻を私の腿に押しつけて、結び合いを解かないように痙攣する。奥の壁が亀頭を心地よく揉みしだく。そっと抜き離れると、ユリさんと並んでへたりこんだ。カズちゃんは開脚したまま、シンクの脇で前のめりになって膝をふるわせている。美しい性器が開放されている。彼女に射精していないので、精液が流れてこない。膣口がわずかに丸く広がり、会陰が濡れて光っている。淡い陰毛の割れ目に真珠のようなクリトリスが覗いている。ユリさんが床に手を突いて上半身を起こそうとし、視線を上げた。
「きれい!」
その声に驚いて、ヒデさんとミヨちゃんも見上げた。
「わ、すごくきれい!」
ユリさんは目を細め、
「ほんとに……こんなにきれいな……信じられない」
私は心から満足して、ユリさんの代わりに風呂を入れにいった。湯を埋めながら浴槽にあぐらをかいていると、明るく笑い合いながら四人の女が入ってきた。カズちゃんだけが私と並んで入る。ヒデさんが、
「和子さんて、何から何まで美しくできてるんですね」
「顔もあそこも、ただの皮でしょ。あなたたちも選りすぐりの美人だけど、美人と言っても皮一枚、付いてるものもすることもみな同じ。私がきれいになったのはこの五、六年なのよ。羽島さんもそうでしょ?」
ユリさんが、
「はい、神無月さんに遇ってからです」
「愛のせいね。月並みに思えて、月並みでないもの」
ユリさんとヒデさんは精液のついた秘部を洗ったあと、横坐りになってシャボンを立てはじめた。ミヨちゃんが並びかけ、ユリさんに、
「きょうは初めての経験を助けてもらって、ありがとうございました。私、もう三度もしてもらいました。すみません」
「記念日の特権よ。今夜もまたしてもらえるわ」
ヒデさんが、
「私と羽島さんも二度してもらいました」
湯船のカズちゃんが、
「秀子さんは三カ月の辛抱、美代子さんは二年の辛抱よ。うんと勉強してね」
「はい」
声を合わせる。
「羽島さんはいちばんたくさんしてもらわないと。きっと、一年に一度の逢瀬になるでしょうから」
「神無月さんとこうしてお会いできただけでじゅうぶんです。……二度もしていただきましたし」
百十
湯が貯まってきた。湯船を交代する。ミヨちゃんとヒデさんが入る。私とカズちゃんにユリさんがシャボンを立てる。カズちゃんが、
「秀子さんは何学部志望?」
「文学部です」
「馬術部に入るんですって?」
「はい。小さいころから乗り慣れてますから。どの馬も目が郷さんそっくり」
「いつもキョウちゃんといっしょにいる感じになるのね」
「はい。……あの、郷さんは講演をする前に何の準備もしてませんでしたよね」
「うん。一人と対話してると思ってるから」
「聴衆が一人ということですか」
「うん。全体が一人。何十、何百の目を持った一人。何十、何百の投法を持った一人のピッチャーに対応するつもりでバッターボックスに入るのと同じ。聴く人は一人、こっちに投げられる視線は何十、何百の直球や変化球。文化人はそれに対応するつもりがないから原稿を用意してくるようだ。小林秀雄にしても寺山修司にしてもね。自分の一定のスイングを一方的に押しつけるだけで、相手の投球に対応しようとしない。俺はこうなんだ、合わせたボールを投げろと押しつける。得意なスイングで振りたいからだね。ぼくには、得意なスイングはない。人と向き合う以上〈対応〉だと思ってる。こうだと思うけど、確信が持てないから、とにかく一生懸命振りました、と勘弁願うんだ。ぜんぶの直球や変化球はねじ伏せられないからね。……文化人は知識と理屈でねじ伏せようとする。だからほころびのないような草案を準備しなくちゃいけなくなるんだ。もっともらしい知識と理屈を説かれたら、聴衆は考えようがないので、ただ受け入れるだけになる。ぼくのようにオロオロしゃべるほうが、聞き手は自分で考える喜びを持てる」
ミヨちゃんが、
「でも、何の準備もなく語れるなんてすごすぎます」
「人間同士の会話はそういうものだよ。準備しない。たとえばカズちゃんに音楽の話をしかけてみるよ。いまカズちゃんはそんな準備をしてなかったはずだからね。カズちゃん、カーペンターズってどう思う?」
「好きじゃない。曲が単調でメリハリがないし、歌詞に味もないから」
「たった一曲、いいのがあるんだ。『ワン・ラブ』。帰ったら聴かせるよ。LPを探るとどんな歌手にも一曲ぐらい名曲がある。それをチョイスして、テープに録って貯めていくということをやってみようかな」
「そうしてくれるとうれしいわ。気に入った曲を自分なりに聴きこむこともあるし、アイリスや商店街の有線から流れてくるの曲に耳を傾けることもあるけど、やっぱりキョウちゃんが、これはいいよって教えてくれる曲が抜群」
「ほらね、何の準備もしないのに、おたがい考えながらの会話が成り立っただろ?」
ヒデさんは湯で肩をさする手を止めて、
「ほんとだ!」
ミヨちゃんが、
「講演は、相手の視線に対する応答を考えながら話しかけるんですね」
「そのとおり! だから準備なんかできない。学校の授業じゃないんだから」
ミヨちゃんと交代でユリさんが湯船に入る。カズちゃんがミヨちゃんのからだを洗う。「ぼくは、童謡とか唱歌が好きだから、名古屋に戻ったら買い集めてみようと思ってる」
カズちゃんが、
「私も大好き。特に女の子の独唱」
「小さな女の子の声は、魂をえぐるよ。合唱はだめ。カズちゃんの言うとおり独唱がいい」
湯船のユリさんが、
「むかしから神無月さんは褒められるのが嫌いでしたけど、こんなふうに有名になってしまうと、そういう機会がますます増えて、ぐったり疲れるでしょう」
「褒め言葉は聞き流せない。等身大以上のことを言われちゃうからね。むかしは逆らってたけど、このごろでは自分の等身大がわからなくなってきて、とにかく黙っていることにした」
風呂から上がり、五人、裸に寝巻きをつけただけの格好で、炬燵に坐ってテレビを前に蜜柑を剥く。コンビネーションサラダも置いてある。
「寮生たちは?」
「勉強するなり、娯楽室でテレビを観るなりしてます。食堂の冷蔵庫にはジュースやコーラなどの飲み物を入れてあるので、記帳して好きに飲んでいいことにしてます。夕食後はほったらかしです。具合が悪くて薬でももらいにこないかぎり、離れには訪ねてきません」
キーハンター、右門捕物帖、ズバリ当てましょう、土曜映画劇場。カラー放送のズバリ当てましょうにする。家電製品の〈おもらい〉番組だ。チラチラ流し見しながら会話をする。ヒデさんが、
「この松本めぐみって司会者、『これが青春だ』の小野雪子ですよね」
カズちゃんとユリさんはわからないという顔をする。私は、
「これが青春だは知らないけど、エレキの若大将には出てたね。端役で」
カズちゃんが、
「これだけ家電が並んでると、喉から手が出るわ」
「電気製品と乗物は不思議のきわみだね。使いたくなるし、乗りたくなる」
三人もぞもぞする。隣の部屋に蒲団が敷いてある。カズちゃんがみんなの気を紛らせるように、
「いまはどこへいくにも飛行機でひとっ飛びだけど、汽車のころはたいへんだったでしょうね」
「小学校三年のころだから昭和三十三年か、一人で上野から野辺地まで、東北本線の鈍行で二十三時間かけていったことがあったけど、それに比べたら一時間半とか二時間というのは架空だね」
ヒデさんが、
「二十三時間なんて、気の遠くなるような時間ですね。小学生が一人でよく……」
「いろいろな親戚へ一人でいった。母が追い出すんでね。あっちへいけ、こっちへいけって」
サラダを噛む。ヤギかヒツジになった気分だ。カズちゃんがレタスを一口に頬ばる。私はチャンネルを土曜洋画劇場に替えた。相当古い白黒映画だ。新聞の番組欄を見ると、『情無用の街』となっている。ギャングとFBI潜入捜査官もの。テアトル新宿で観た『アラモ』や『シャイアン』などの長編スペクタル映画に出演していたリチャード・ウィドマークが悪役。相変わらず圧倒的存在感だ。めずらしいセミ・ドキュメンタリータッチに思わず釣りこまれる。みんなで蜜柑やサラダを食べながら、ウィドマーク一味が射殺されて全滅するまで見てしまった。カズちゃんが、
「芸能人て、シナのある顔をしてるわ。私も芸能人に見られちゃうことがあるけど、シナがあるということはまだまだ人間的に修行が足りないからね。案外キョウちゃんは芸能人に見られないのよ。さすがね」
「シナはないけど、底の透けた顔なんだよ。寄りつきやすい」
「キョウちゃんの精神の底は、想像を超えて深いわ。キョウちゃんは外ヅラで表現しないから、一見、ただの美男子」
「ただのブ男よりはマシとしよう。さあ、今夜は何回戦いこうか」
ユリさんが、
「私と和子さんは遠慮して、娯楽室で休みます」
ヒデさんが、
「美代子さん、少し時間をいただくわね。郷さんと少しお話したいの。二時間もしたら離れにきてちょうだい。それから朝までは郷さんとゆっくりしてください」
「はい、そうします」
素直にうなずく。カズちゃんが、
「お話しながら、なつかしい感じで、のんびりくつろぐのよ。焦らないで」
「はい」
三人がお休みなさいを言って、母屋の娯楽室へ去った。ヒデさんと手を取り合い、三組敷いてある蒲団の一つに全裸になって潜りこむ。映画を観ているあいだにユリさんの手でシーツが取り替えられている。
「ミヨちゃんと仲が悪いわけじゃないよね」
「大の仲よしです。親友と言ってもいいくらいです。きょうはいっしょに郷さんと寝ましょうねって約束してたくらいですから。さっきも、私のあられもない姿に美代子さんは何の嫌悪感も持たなかったと思います。少なくとも私は美代子さんに嫌悪感を持ちませんでした。それより、郷さんの前に出ると他人同士がここまで心もからだも解放できるんだと知って、とてもうれしかった。……二人で抱かれるのがいやだったんじゃなくて、フッと郷さんと東京の思い出話をしたくなったんです。去年九月にお訪ねしたときの」
「そうだったのか」
「それだと共通の話題じゃなくなるから、美代子さんを退屈させちゃうと思って。どんな女の人だって、郷さんと共通の思い出を話し合いたくなることはあると思います」
「たしかにそのとおりだね」
ヒデさんは私にかぶさるように抱きつき、
「あの日が私の記念日。一年前の九月二十五日、水曜日」
「……雨の日だったね。よしのりに連れられてきた。セーラー服に黒のストッキング」
「黒のローファ」
「ローファにちょっと泥ががついてるのがかわいらしかった」
「最初に三人で阿佐ヶ谷のポエムにいきましたね」
「うん、ジャーマンブレンド」
「受験の話が出たとき、郷さんの言った言葉をはっきり憶えてます」
「何て言ったっけ」
「合格そのものでない目標を見据えた挑戦には、合格以外の楽しみが出てくるって」
「努力の楽しみのことだね。勉強が楽しくなる」
「はい。印象的な言葉をほとんど思い出すことができます。―甘え合って生き延びることこそ愛そのものだ。愛の義務は信頼と延命だ」
「……よく憶えてるね。迂闊なことを言ったんじゃないかな。怖いな」
「郷さんは迂闊なことはひとことも言いません」
「それから大将にいった?」
「はい、ホレタマ定食。おいしかった。それから本郷にいって、郷さんのユニフォーム姿を見ました。一球目からライトのネットへホームラン。すごかった。―キャンパスはつまりませんでしたけど」
「本郷キャンパス自体が前田の殿様の屋敷跡で、封建臭、貴族臭芬々だ。散策する人たちを和ませる自由な雰囲気がない。学問をする人間はあんなものでも落ち着くんだろう」
「ほんとに神無月さんは、東大が嫌いなんですね」
「ぼくは大学なんてものは、もともとどこもかしこも好きじゃない。人がいく分には何とも思わないし、好きな人間が合格したら祝福したくなるけどね。野球も何もかもうまくいかなくなったとき、中学校を出たら働こうと思った。冗談でなくね」
「野辺地にきたときですね」
「うん。その動機を考えると、若気のいたり以外の何ものでもなかったけど、いまでも、もし幼稚園にいく前の幼いころに戻れたら、学校なんかいかずに、じっちゃやばっちゃの手伝いをして大きくなり、それから、彼らのために毎日働いて、働いて、くたくたになって、夜は蒲団の上にごろんと横たわりたいって思う。朝起きたら顔を洗って、また一日働いて、休日には、寝床で本を読んだり、草野球をしたり、じっちゃやばっちゃの昔語りを聴いたり……」
「美代子さんは私と二人で話をするとき、よく神無月さんの悲しみの話をするんです。私は神無月さんの倦怠の話をします。神無月さんにはきっと、倦怠に入り混じるように深い悲しみがあるんだと思います」
「持病みたいなもんだね」
「そうかもしれません。……神無月さんの持病の倦怠と悲しみは、自分に対する憎しみだと思います。自分を憎むことが、人に愛されたりするような何かうれしいできごとで中断されると、倦怠や悲しみに名前を変えるんです。神無月さんは、自分の純粋さを憎んでます。そのせいで苦しんできたから。……純粋さこそみんなの憧れの的なのに、劣ったものだと信じてる。その信仰が中断されると、自分には愛される資格はないと思い直して、あえて倦怠や悲しみに身を投げこむんです。純粋な行動を若気のいたりと罵る言葉ではっきりわかりました。何もかも投げ捨てたくなる気持ちも、痛いほどわかりました。でも、純粋なままでいてください。私を魅きつけたものは、神無月さんの倦怠のもとになっている純粋さなんです。それを恥じてほしくありません。愛されることで神無月さんが生き延びられるなら、私は命がけで愛します。それで神無月さんが悲しもうと倦怠に浸ろうと、私の知ったことではありません」
ぼろぼろと涙をこぼした。私は何も言えなかった。何を言えばいいだろう。私はヒデさんをそっと抱き締めた。
「思い出話をつづけよう」
「はい。……それから三鷹の旅館にいきました」
「きっと名前も憶えてるんだろうね」
「ぜんぜん憶えてないんです」
「ぼくも」
「旅館の食事を終えて玄関を出るまでの三時間は、私だけの思い出にとっておきます。たとえ郷さんとでも思い出話をしたくありません。一瞬一瞬私だけの宝物です。……その帰り道で、質屋さんに寄って、小さなダイヤモンドのネックレスを買ってもらいました。ティシュに包んで宝箱に入れてしまってあります。洋服屋さんではウールの黒のオーバー。あれ以来あのオーバーばかりずっと着てます」
「……その日は荻窪に帰って」
「ええ、荻窪に泊まり……すばらしい思い出……。翌日は西荻窪にいって、山口さんに会いました。立ち食い天ぷらそば、おいしかった」
「山口と吉祥寺の井之頭公園にいったね」
「いきました。ミズヒキソウ……。立原道造の詩を山口さんが暗誦して、郷さんが斉藤茂吉の歌を暗誦しました」
「道造の詩集萱草(わすれぐさ)に寄す、茂吉の歌集ともしび、その中からの詩と歌だった。あまり知られてない歌だったのに、山口はたちどころに、茂吉だな、って言った」
「さすがですよね、山口さんは。あのとき、俺は神無月の脳味噌の襞をなぞるのが趣味だから、やむを得ず多読になる、と言ってました。立原道造の詩は読んだことがありましたけど、斉藤茂吉の歌は知りませんでした。ともしびという歌集だったんですね」
「うん。その歌集自体は呼んだことはないけど、花の図鑑の文献例で覚えた。秋ふけし日のにほいだつ草なかに金線草(ミズヒキグサ)もうらさびにけり。井之頭公園から次にいくとしたら、オリーブの樹、武蔵野だな、きっと。定例行動だから」
「お店の名前は忘れてました。ミートソースとサントス。おいしくて感激しました。山口さんのお話は深くて難しくて……。神無月は、他人が渡すまいとしてるものをハナから必要と思ってないんだよ。だから手に入れたいものがない、と言うと、郷さんが、手に入れたいものはあると言ったんです。そしたら山口さんが、愛だな、それはもともとおまえを満たしてる現実だ。求める必要はないと言いました。耳に残ってます。それからみんなで上野駅までいきました。郷さんは青森までの切符と駅弁を買ってくれて、参考書代と言って五万円もくれたんです。……抱いてください。終わったら美代子さんを呼んできます」
百十一
口づけを交わし合い、たがいの秘部に触れ合う。ヒデさんは口を離すと、からだを起こし、私のものをやさしく含む。
「……入れて」
熱い膣の中へ挿し入れる。握るように締めつけてくる。
「ああ、ほしかったんです、すごく気持ちいいです」
ミヨちゃんとちがい、腰の動きが自発的だ。いっしょに風呂に入ったときからこうだった。前後する動きがあまりにも艶かしく妖しいので、私はひどく興奮し、早々と射出の予感に襲われる。用心して抽送をゆるやかにする。それでもヒデさんはじゅうぶんな快感を得て、グイと陰阜を突き出し腹を収縮させた。とにかく一度達してくれたので、彼女が痙攣しているあいだ摩擦を休止することができた。
「愛してます、愛してます、もっと、もっとしてください」
射出の危機は治まらないので、抽送を始められない。待ち切れずヒデさんの腰が貪欲に動きはじめる。
「あ、いい、気持ちいい、あ、イク、もうイキます、イク! イク!」
さらに強く腹を収縮させる。私はようやく抽送を始める。
「あ、うれしい、どうかなりそうです、気持ちよすぎて、あ、漏れる、出ちゃう、あ、ああ、イグ!」
発声にわずかに訛りが出る。ふるさとの女らしくて耳ざわりがいい。少し小水が混じったようだ。
「あああ、気持ちいい! あ、またイク、もうだめみたいです、イク!」
私にも迫った。心を決めて激しく往復する。
「郷さーん、愛してます! イクイクイクイク、イグ、イグ、イイグ!」
ヒデさんは片腿を抱えて乳房のほうへ引き揚げ、結合部を曝しながら伸び縮みする。私はこの瞬間の彼女の内部の感触を知りたくて、膣の中ほどで射精した。襞が奥へ奥へと蠕動して、私の先端を搾る。
―けいこちゃんはいない。甦ってヒデさんになった女がいつまでも全身をふるわせている。
ヒデさんは脚をゆっくり伸ばす。私は離れ、寄り添って頬ずりをした。小さくあえぎながらヒデさんは口を利こうとする。
「あ、愛してます、ごめんなさい、洩らしてしまいました」
愛液の量よりは多い水分がシーツを濡らしている。けいこちゃんのゆばり。
「だいじょうぶ、二人の愛の証だ。誇らしいくらいだ」
ヒデさんは私の唇を吸いながら腹を圧しつけてくる。余韻が伝わる。
「心から愛してます。郷さんに抱かれると、なんだか人間のエキスに抱かれてるみたいになって、わけがわからなくなります」
「ヒデさんをだれにも渡さないよ。永久にぼくのそばにいてね」
「はい、私は死ぬまで郷さんの女です」
ヒデさんは股間にティシュを使い、シャワーを浴びて戻ると、私に並んで横たわった。
「名古屋へはあのネックレスをしていきます。受験にもしていきます」
「北村席に泊まるんだね」
「はい。もう和子さんと話し合いました。三月三日が受験初日なので、来年二月二十八日に北村席にいくことになりました」
「名古屋へは飛行機だね」
「はい」
「迎えにいけたらいくよ。菅野さんという人といっしょに」
「気を使わないでください。どうやっても北村席までいけますから。和子さんにも言ったんですけど、かならず空港に迎えにいくって言うんです」
「当然だよ。人の出迎えと見送りはぼくたちのシキタリだもの」
「ありがとうございます。じゃ、美代子さんを呼んできます」
†
明け方の四時過ぎに目覚めた。音を立てて雨が降っている。ミヨちゃんが、何枚も重ねた蒲団の中でぐっすり眠っている。彼女と深夜に一度交わって、数分もしないうちに寝こんでしまったことを思い出した。下着をつけ、ジャージを着て居間の炬燵へいく。ボストンバッグから電気カミソリを出して薄いヒゲをあたり、ふつうの軟便をし、シャワーを浴びながら歯を磨いた。洗髪もした。
襖を閉めて明かりを点け、ブレザーから手帳を出す。炬燵に入り、一時間ほどかけて詩を書こうとした。書けなかった。美談や清談の影を求める習慣が、もはや私に詩を書かせなくなっている。書けないことを示す痕跡だけを残した。
天使にもおとる黒衣の聖母
神の子を捨て
天使に牽かれて玉座から昇ることがあっても
またふたたびひとりやってきて
わが子に寄り添う
私はもう一度蒲団に戻った。ミヨちゃんが半睡状態で抱きついてきた。胸を吸い、臍を吸い、襞を吸う。挿入すると肉体が目覚め、呼吸が荒くなる。
「好き、神無月さん、好き!」
腹の上に放出する。ミヨちゃんを快楽の沼に浮かべ、大きな胸をさすってやる。すっかり目覚めたミヨちゃんは、腹や胸の精液をみずからティシュで拭い取り、それから私の全身を撫で回す。やがて私の胸に頭を預け、言う。
「神無月さんの何もかも死ぬほど愛してます。未来を遠くに眺めるのはつらいので、未来をいつもあしただと考えることにします」
泣いている。そして頭を動かさない姿勢のまま、いつまでもいとしそうに私の肩を抱いたり、腕を握ったりした。女のあふれる涙が同量の愛情の意味だとわかるようになってからは、私はただ感謝して、じっと抱き締めるようにしている。
「どんな遠い未来もいずれは〈いま〉になって、いまの後ろへ〈過去〉として追いやられるんだ。ぼくはどう努力しても、みんな過去に思えて、経験の整序がうまくできない。だからいつも人生の時間の流れをいびつなものに感じてる。そのいびつな感じをわかり合いたい。未来をいつもきのうだと思えば、すべて実現したことになるから、とても気がラクになると思うよ」
「はい……」
二人でしばらく眠った。
†
十二月七日日曜日。雨。一・五度。女たちが立ち働いている。風呂場の洗面所で歯を磨く。健康な軟便をし、シャワーを浴びながら丁寧に歯を磨き、頭も洗う。すべて爽快になった。六時半。居間に置いてあった日刊スポーツを見る。中日関係の小さな記事を見つける。
中日は六日午後三時十五分、市内中区栄の球団事務所で、ドラフト会議第三位指名のノンプロ石川島播磨重工・渡辺司投手(19)=175センチ、72キロ、右投げ右打ち、宮崎高鍋高出=の入団を発表した。契約金一千万円、年俸百五十万円(推定)。背番号は22になる予定。上手投げでカーブが得意。タフでバネがある。村迫代表も「うちがドラフトの第三位に指名したのは、各スカウトから、からだはそんなに大きくないがバネがあり将来が大いに楽しみだ、という進言があったからだ」と言っている。この秋後楽園球場で行われた産別大会でリッカーミシンの片岡(東映が第一位指名)と投げ合い、ホームランを打たれて1―0で敗れたものの、そのピッチングはプロ向きと高く評価された。
一軍にはしばらく上がってこれないだろう。キッチンの食卓につく。女たち五人とも身なりを整えている。新鮮な焼き鮭と玉子焼き、シュウマイ、蒲鉾、ひじき、シイタケと蒟蒻の煮物。シバ漬けは、昨日のうちに準備しておいたもののようだ。めしが進む。ユリさんが言う。
「こんなに食欲があるの何年ぶりかしら」
カズちゃんが、
「私はいつもモリモリ。お昼は外食にしましょうね」
「そうだね。エビフライか何か、洋食がいい。ユリさん、学生たちの朝食は」
「日曜日なので八時からです」
カズちゃんが、
「ゆっくり作りましょう。秀子さんと美代子さんの分はいらないから、六人分ね」
ヒデさんは静かに箸を動かしながら、
「……なぜ郷さんの講演が、教養人と呼ばれる寺山さんの講演とちがって魅力的だったのか、座談会のときから考えてたんです。郷さんの言葉を聞いて、私は気持ちを慰められました。みんなそうだったと思います。自分自身のこととして言われたことが、たくさんの人の気持ちに橋を架けることがあるんですね。寺山さんは、母親に苦しめられた神無月くんは自分に似ている、母親の手で体内に心臓をせかせる汽車を叩きこまれて、いつも汽笛が鳴る。そのポーという音を、野球のバットのカーンという音が吹き飛ばした。それではまるで意趣返しのために野球をやったみたいに聞こえます。意趣返しでホームラン王や三冠王を獲れるはずがありません。寺山さんは、ポーやカーンの音をオノマトペと言いました」
ユリさんが、
「オノマトペ?」
「擬音語とか擬態語という意味ですけど、難しい言葉を使わなくても、音と言うだけで話の内容を伝えられるんです。その言葉を聞いたとたん、郷さんの顔がゆがみました。私しか気づいていないと思います。郷さんの顔がゆがんだのは、そのてらった単語を使ったことばかりでなく、話の内容がまちがっていたからです。郷さんはお母さんの警笛を弾き飛ばすために野球をやったんじゃないんです。こよなく野球が好きで、そういう自分を愛してくれる人たちに感謝を捧げるつもりで野球をやってきたんです。だから、郷さんは野球のことしか語りませんでした。努力と感謝という言葉を交えて。―胸の勲章に甘えて気をてらっている人の言葉に説得力はありません」
「ありがとう、ヒデさん。でも、彼は芸術世界の大スターだ。ぼくのような職人の勲章と彼のような独創者の勲章には雲泥の差がある。芸能人やスポーツ選手の勲章とは価値がちがう。彼らには、教科書に載るような知性の歴史に残る可能性があるんだ。そういうたぐいまれな人は、名声を愛することを一瞬も忘れられないと思う。強い自信のもとに吐き出す言葉が気障になるのは避けられないんだ。庶民に対する誠実な伝達は彼らの本分じゃない。きのうも言ったとおり、庶民を脅すことが本分だ。世界じゅうの知性が支援してるからね。誤解のもとに語ることも、脅す範疇に入ってる。ぼくは職人だ。支えてくれるのは庶民なんだ。だから、誠実な努力の成果と誠実な言葉を庶民に伝達しなくちゃいけない。おまけに旬のある仕事だ。伝えられるのは旬のときだけだ。……ああいう語り方しかできないんだよ」
カズちゃんが、
「秀子さん、そういうこともぜんぶ含めて、キョウちゃんにはどうでもいいことなのよ。てらった学術語はいいかげんにしろ、なんて反発する気持ちもないの。そういうキョウちゃんを私たちは愛してるの。何も考えずに愛しましょう。キョウちゃんと暮らす世界は楽しい世界よ」
「はい!」
ユリさんが、
「和子さんの肩甲骨の下に、三センチほどの白い傷がありましたけど、かなり深いものだったんでしょう?」
「フフ、バイクを乗り回してたころ、女同士で喧嘩してね、ナイフでやられたの。相手のことは、気の荒い馬鹿な女だったということしか憶えてない。族の頭を寝取られたと思ったのね。手すら握ったことのない男だったのよ。私にいつも色目を使ってた」
「和子さんに近づける男はいませんよ」
「でも、気の弱そうな二人とは関係しちゃった。経験とも言えない経験だから、キョウちゃんに申しわけないと思ったことはないわ。申しわけないのは、キョウちゃんより十五年も長生きしてること」
「私は三十一年も。申しわけない、掛ける、二」
「私は、郷さんより二年、生き遅れたこと」
「私は四年」
「この理屈だと、キョウちゃんと同い年の女だけ、申しわけながらなくていいってことになるわね。馬鹿みたい。撤回。私はキョウちゃんに生み出されたと思ってるから、じつはキョウちゃんより年下なのよ」
「やった!」
ヒデさんの笑顔を見て、ユリさんが、
「死ぬまで年下なんですね」
「そう」
「やった!」
「みんな、理想的な能天気だね」
「キョウちゃんの子供だもの」
四人仲よく寮生の朝食を作りにいった。
「二人は勉強しなさい。お昼を食べにいくときは呼ぶから」
というカズちゃんの声が聞こえてき
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