百十二

 私はワイシャツにセーターを着こみ、傘を差して裏木戸を出た。ジャブジャブ雪になっている。関野商店から道を渡って、石造りの正門の前に立つ。牧場のような校庭だ。人の気配はない。右に練兵舎の野球グランド、左にラグビーグランドを交互に見ながら、白い校舎に近づいていく。白亜のマナビヤなどと謳い上げているにしては、よく見ると、ペンキは剥げているし、玄関から覗く廊下もボロくさい。しかし、外見はどうであれ、この高校には肉体以外の何かを育む霊気がある。ここは私を育んだ場所ではない。ここの先達として私を顕彰することは、長く受け継いできた精神性の伝統を汚す。青木小学校も宮中学校も東京大学も同じだ。学校と名のつくところに私は育まれなかった。記憶の区切りを与えられただけだ。
 引き返し、校門を出る。左の森へはいかない。いけばあのころの無為が蘇り、まちがいなく首を吊りたくなる。もう訣別のときにカズちゃんの名を呼びたくない。カズちゃんに私の名を呼ばれたい。カズちゃんは私の幸福の確認のために生きている。彼女とともに生き、名を呼ばれながら幸福だと示して死ななければならない。
 ―ぼくはカズちゃんより先には死なないよ。でも、もしそんなことになってしまったらどうする?
 ―死ぬわ。
 ―その選択肢しかないの?
 ―ないわ。キョウちゃんは私の心臓。有無を言わさぬってやつよ。でも考えないことよ。自分の死んだあとのことなんかわからないんだもの。好きに生きなさい。キョウちゃんが生きてるかぎり私は死なないから。
 ―ほかの女たちは?
 ―それぞれでしょうけど、案外強く生きていく人も多いと思うわ。でも、それがキョウちゃんを愛してないということにはならないのよ。どんなに愛が強くても、覚悟どおりに死ねるわけじゃないの。死ぬことって怖いから。私は、自分が死ぬのは怖くない。キョウちゃんが死ぬのがいちばんこわい。
 ぼんやり門のところに立っていると、雪道にサンダルを突っかけ、傘も差さないカズちゃんが走ってきた。
「キョウちゃん! どこにいってたの。部屋にいないからびっくりしたじゃないの」
「青高を見てきた。しばらく見れなくなると思って」
「馬鹿、馬鹿。どっかにいっちゃったと思った。顔が真っ青よ」
 カズちゃんに傘を差しかけてやり、銭湯の煙突のほうへ歩き出す。カズちゃんの靴下が濡れている。
「……キョウちゃん、死ぬつもりなのね。それも、ぐずぐずしないで、スッパリと」
「まさか、ぜんぜんそんな気持ちはないよ」
「迷ってるんでしょ、みんなことを考えて……。自分のことで迷う人じゃないもの。……キョウちゃんは初めて遇ったときから、魅力的な死に方で死んでたわ。真っすぐで、やさしくて、ゾッとするくらいさびしく笑うのが、とても神秘的だった。ちっとも生命欲がないのに、なんとか生きる興味を引き立てて、努力したり、競争したり、それがまるで自分の命みたいに、一つひとつのことに没頭しようとするんだけど、ふっと醒めてしまう。つまり死ぬの。とても魅力的な死に方。醒めなければ、何かの形をした自分が達成される。それがキョウちゃんはいやなのよ。自分の外形が社会的に決まるということに極端な嫌悪感があるの。醒めたらもうやらない。たぶん野球も世間的な理由なく引退するでしょうし、文章も理由なく筆を折るでしょうし、女も早いうちに見かぎるかもしれないわ。……生きながら死ぬ……でもそれでいいじゃないの。何度でも生きながら死んでるんだから、わざわざしっかり死んで見せなくても。だいたい私のような女を連れて歩くこと自体、社会的に死んでるのよ。私は、そうやって、真っすぐでやさしい心を持って、繰り返し自殺しているキョウちゃんが好きなの。お願いだから、ほんとうの心臓は止めることはしないで。少なくとも、私の生きているあいだは動かしていて」
 ボロボロ涙が流れてきた。手を差し出すと、待っていたようにカズちゃんが握った。
「……泣かなくていいのよ。私の言葉なんかに涙を流すことはないの。キョウちゃんは何かに〈ならない〉気質を持って生まれてきた自分が恥ずかしいのよ。何かに〈なる〉ための努力を嫌う自分が恥ずかしいの。恥ずかしがることはないわ。何かになりたがらない人間なんて、この世にいるはずがない。めずらしすぎて、とても神秘的よ。そういう人間こそ、ありきたりでない言葉で人の胸をふるわせることができるのよ。そのままでいて。したいことをしていて。キョウちゃんは神、神を愛する私は女神。死ぬまで女神のままでいさせて」
 一気にしゃべると、白く澱んだ雨空を見た。私も傘を傾けていっしょに見上げた。美しかった。生きて、この空を見ることができてよかったと思った。何度もカズちゃんといっしょにこの空を見るために生きていよう。
「七時半か。あと十三時間もすれば名古屋だ」
 遠く八甲田の低い山並を二人無言で見つめた。山稜をオレンジ色の輝きが縁どっている。その上方に白色光のように冷たそうな虹の帯が架かっていた。
「足が霜焼けになっちゃう。早く帰ろう」
 裏木戸から離れに入る。カズちゃんは靴下を履き替え、母屋の食堂へいった。晴れやかな女生徒たちの声が聞こえる。
 青森放送で今年の世相のまとめをやっている。2ドア式冷蔵庫登場、パンタロン、マキシコート流行、玉電と親しまれた東急玉川線廃止、反体制フォーク流行、クレジットカードの利用者急増。八時のNHKニュースに替える。池袋パルコ開店。何のことやらわからない。東京都が七十歳以上の老人医療無料化実施。これはわかる。
 最後にスポーツ。中日ドラゴンズ、合同自主トレ実質廃止。オ? 
『ドラゴンズは、年明けに名古屋の大幸球場で行なってきた恒例の合同自主トレを廃止した。選手それぞれの自主性を尊重することが狙いだと言う。合同自主トレなき個別練習の成果を見るという方針は球界初の試みである。毎年一月中旬、新しい背番号をつけたルーキーたちを先頭にランニングする〈風物詩〉的なトレーニング風景も、少なくとも昭和四十五年度は見ることができない。この時期のドラゴンズ選手の練習は、大幸球場で、国内各地で、そして海外でそれぞれ始動する。一人で黙々と調整する選手もいれば、チーム内の気心知れた仲間とともに汗を流す選手もおり、他球団の選手といっしょにトレーニングする選手もいる。日本一を成し遂げて二年目、ドラフト補強も含めて、現有戦力がどこまで力をアップするかがきびしく問われるシーズンとなる』
 監督やコーチが遠巻きに練習を見てチェックすることがなくなっただけで、寄り集まって練習することはなくならないだろう。キャッチボールやノックの練習は欠かせないはずだからだ。ただ、監視がなくなったので、手抜きしたいやつはいくらでも手抜きできる。
 菅野とのランニング、三種の神器、自室でのジムトレ、一升瓶、素振り、ふだんの練習はそれでじゅうぶんだとは思うが、とにかく、からだを痛めない程度にユルく運動しつづけなければいけない。娯楽的な合同練習も有効な息抜きになるかもしれない。一考の余地ありだ。
 ドラフト五位までを思い浮かべてみる。戸板光、谷沢健一、渡辺司、松本幸行(ゆきつら)、渋谷幸春。打者は谷沢一人、あとはぜんぶピッチャー。まだ親しみ合ってもいない彼らのだれとも合同トレーニングなどしたくない。どうせ明石キャンプで顔を合わせる。高木は孤高の人なので声はかけられない。江藤か、木俣か、菱川か、太田か、星野、あるいは小川。彼らの予定はどうなっているだろう。十二月は全休の予定で行動しているはずだから、年が明けたら連絡して訊いてみよう。彼らとなら和気藹々と練習できる。候補の筆頭は野球博士と言われている木俣だろう。女房にテニスボールを投げてもらって選球眼を養ったり、家にジムトレやウェイトの機器を入れて日々鍛錬している男だ。まじめさは信頼できる。彼のモットーの〈ダウンスイングはだめ、レベルスイングで打て〉は私のモットーにも反しない。キャッチボール、ノックもたがいに助け合ってできる。休息が必要な江藤を除いて、四人と暖かい土地で一週間ほど合同練習をしてもいい。いや、それだと本筋が旅行になる。娯楽になる。娯楽が頭を占めると、プロとして大事な緊張の糸が切れる。
 女学生たちのおさんどんを終えて、ユリさんとカズちゃんがニコニコ離れに戻ってきた。
「ハーフのお友だちですかって訊かれたから、東京時代のお友だちよって答えました。神無月さんの恋人だなんて言ったら大騒ぎになりますから」
「実際は、ほかに恋人が三人もいるわけだし、話のついでに調子に乗ってポロリと知れたら、騒ぎの収拾がつかなくなっちゃう」
 ヒデさんととミヨちゃんが離れにやってきた。
「みんな揃ったわね。キョウちゃん、お昼を食べに出るまで、野球の話でもしてあげたら」
「そうだね……質問してくれれば、知ってるかぎりで」
 ミヨちゃんがさっそく、
「江夏投手について―」
「右バッターの外角低目が浮いてくる。十センチくらい。ぼくには内角になる。内角はぼくの得意コースなので江夏はめったに投げてこない。ストレートと小さなカーブ。高木さんが彼の癖を見抜いてた。セットポジションのとき、両肘を広げてグローブを胸に持ってきたらカーブ、広げずに胸に持ってきたらストレート。ぼくはそんなの関係ない。ただボールを見つめるだけ。それより同僚のエピソードでも話そうかな。いつも感動してるのは高木守道さん。バッティングも一流だけど、とにかく守備がすごい。バッターが打つ前から打球の場所にいく」
「えー!」
 みんなびっくりする。ヒデさんが、
「郷さんも何度かやってますよ」
「高木さんは〈何度か〉のレベルじゃない。毎回なんだ。あとで、すばらしいかったですって褒めると、それほど大したことじゃないよと応える。これぞプロだって感じた。バックトスだけじゃない、ポジショニングがすごいし、ベースカバーもすごい。キャッチボールの基本も彼から教えてもらった。からだを大きく使えって。目が覚めたようだった。彼は、毎試合ユニフォームを替える。ぼくも替えるけど、ストッキングまでは替えない。高木さんは試合前の練習のストッキングも、試合ごとのストッキングもぜんぶ替えて、履いてたやつはゴミ箱に捨ててしまう。たいてい木俣さんが、もったいないと拾って持ち帰る。洗って履くんだそうだ」
 笑いが満ちる。
「高木さんは無口だ。ほとんど口を利かない。その彼がこの一年ぼくとよく口を利いてくれた。彼は仲間から食事に誘われてもめったにいかない。試合が終わるとすぐ帰る。ぼくよりも早く帰る。あれって思うと、もういない。ごくマレにみんなといくことがあっても、一時間もしないうちに金をたっぷり置いて帰ってしまうらしい。むかし杉浦監督から守備に難癖つけられて、怒って試合中に帰ってしまったことは有名だから話さなくていいね」
 ユリさん以外の全員がうなずく。
「短気な人でね、味方のピッチャーのコントロールが悪いと、何やってんだ、グズグズするな、打たせろよ、ぜんぶ捕ってやるからって怒鳴る。小川さんのくどい牽制球をスパイクの底で蹴ってマウンドに返したこともある。彼の口癖は、〈野球選手は勝つためじゃなく、格好よく見せるためにプレイする。うまくないと格好よく思い切ったプレイはできない。つまりうまい個人同士でカバーし合うのが野球だ〉。ほかにも木俣さんから聞いた話だけど、高速道路を百四、五十キロでビュンビュン飛ばすカーキチ、衣装道楽、靴道楽。ストッキングの話からわかるようにお洒落なんだね。痛快だよ。木俣さんという人も、グランドで黙々と野球をやるプロ職人で、工夫した自己鍛錬をきびしくやる人。ドラゴンズ選手の精神的な要だね。大リーグのアイシングを初めて採り入れたり、キャッチャーの喉当てをミズノに作らせて初めて着用したのも彼で、トレーニング方法や食餌療法にも精通してるから、野球博士とか医学博士と呼ばれてる。有名なマサカリ打法は、一度バットのグリップを下げてから、ヘッドを高いトップに持っていって打ち下ろす打法。金太郎のような風貌からマサカリと名づけられた。だから木俣さんはドラゴンズの初代金太郎なんだ。ぼくのことを彼は大金太郎って呼んでる。ベーブ・ルースや大下弘も、彼がドラゴンズに入団したときの西沢監督も、現役時代はヒッチ打法だったことを頼みにして、しつこく改造を迫られてもぜったい変えなかった」
 カズちゃんが、
「意志が強くて、素朴な探究心にあふれた人なのね。高木さんや木俣さんばかりじゃなく、北村席には水原監督はじめ、コーチやマネージャーのかたがた、中さん、江藤さん、一枝さん、菱川さん、新人の太田さんや星野秀孝さんまで、いままで十人と言わず遊びにきたけど、みんな人間が濃いの。俠客という感じ。その人たちが、女みたいに、ある意味からだを投げ出して全力でキョウちゃんを愛してる。キョウちゃんには最高の環境ね」
 ヒデさんが、
「郷さんはほんとうの幸福を手に入れたんですね」
 ミヨちゃんが、
「安心しました。中島さんと私は、これからは郷さんのことをあれこれ心配しないで、一生懸命勉強するだけですね。うんと勉強して、北村席というお城に入る日まで」
「そうね、がんばりなさい……」
 カズちゃんはチラと横顔に、ついさっきの正門前の切々とした訴えを偲ばせるような不安の影を浮かべて、二人にニッコリ笑いかけた。
 九時。雨の中を昼食に出るのを取りやめて、離れでゆっくり食事の支度をし、そのあいだのんびり会話をしたりテレビを観たりしてすごすことになった。そのほうが、日曜日にほとんど外出をしない居残り学生の食事の支度もしやすいし、ヒデさんとミヨちゃんもふだんの勉強に戻りやすくなるというわけだった。ユリさんが、
「いつまでも名残を惜しんでいるわけにはいきませんよ。おたがい早くいつもの生活に戻らないと」
 私たちは一も二もなく賛成した。カズちゃんは、飛行機の便も予定よりも早めのものに切り替えることにした。夜の予約を取り消して二時五分の便に振り替えてくれるよう空港カウンターに電話した。空港まで車で二十分、雪道を考えても三十分。搭乗一時間前の午後一時にタクシーで出発すればじゅうぶん間に合う。
「三時半ちょうどに名古屋空港に着くわ」
「一時間二十五分か。架空だね。青森と名古屋がそんなに近いなんて現実じゃない。そう考えると、島流しなんて席換えみたいなものだ。乗り物に乗っている時間も悲愴感に影響してるな。笑える」
 カズちゃんが、
「席換えくらいで人生を奪われることはないでしょう? そんなふうにおどけて、みんなを安心させようとしてもだめよ。ますます悲しい人間になっちゃうでしょ? 人の気分なんか考えなくていいのよ。奪われて取り戻したこの五年間のドラマを素直に受け入れてね。みんな受け入れてるんだから」
 彼女は私の肩を抱いた。ヒデさんとミヨちゃんも私の手を強く握った。


         百十三

 私は北村席に電話した。ソテツが出て、すぐ菅野に代わり、
「到着三時半ですね。了解しました」
「それから菅野さん、古いほうのグローブ、ミズノに修繕に出したかどうか確認しておいてください。忘れちゃったんです。出してなかったら、ミズノに連絡して修繕部に送付しといてください」
「それも了解です。ところで、十三日の中商講演会は午後一時じゃなく、午前十一時になりました。題目は自由にお決めくださいとのことでした」
「オッケーです。木俣さんと連絡はとれてますよね」
「現場に直接いくという連絡がきました。二十三日の千年小学校は一時のままです。じゃ、くれぐれもお気をつけてお帰りください。空港でお待ちしてます」
 テレビは観なかった。ヒデさんとミヨちゃんは、青森高校の学生や教師たちの奇人ぶりや、太宰治の一番の傑作は何かという品定めや、今年の夏の台風の被害状況や、受験の希望と不安について話した。ほとんど思いもしなかった初々しい話題で、なかなか口を挟めなかった。私は中日ドラゴンズという理想郷の話を、チームメイトの顔を一人ひとり思い浮かべ、うーん、うーんと言葉を選びながら語った。ヒデさんとミヨちゃんはときどき私の手を握った。ユリさんとカズちゃんはにこやかな表情で聞き役に回っていた。
 人は言語宇宙の中に暮らしているけれども、宇宙と呼べるほどの抽象世界に浸ることはめったになく、たいてい具体的な事象の説明に終始する。そして心安らげる。
 十一時を回ったころに昼めしになった。ユリさんの得意な肉野菜チャーハンだった。料理の腕に衰えはなかった。居残り組にも同じものを作ってやったようだった。
 ユリさんは電話でタクシーを呼んだ。関野商店までみんなで送って出た。私とカズちゃんは一人ひとりと握手してタクシーに乗りこんだ。私は後部座席の窓からいつまでも手を振った。胸が締めつけられる。
「具体的な生活を始めるね」
「そうよ、少しはラクをして暮らさないと」
 奥野の交差点から左折して二車線の道に入る。運転手に問いかける。
「この道も堤橋からの松原通りのつづきなんですよね」
「はい、県道1号青森十和田線です。浪岡までいってます」
 それきりよけいなことはしゃべらない。安らぐ。どこまでも銀世界。青森の見納めはやはり雪の平原になった。
         †
 三時半。名古屋空港到着。十・六度。タラップの外に強い雨が降っている。フィンガーコンコースの乗降口まで短いトンネルが用意される。カズちゃんは手荷物受取場でボストンバッグを受け取る。到着ロビーに菅野と睦子と千佳子、そしてメイ子が笑顔で出迎えた。四人と握手。菅野がボストンバッグを奪う。カズちゃんが、
「お土産ないわよー」
「ほーい。それどころじゃなかったでしょう。あ、神無月さん、グローブやっぱり修理に出してなかったので、ミズノに送っておきました。今月の中ごろまでには紐革も新しくして送り返すそうです」
「ありがとう。千佳子と睦子はローバー?」
「はい、ムッちゃんを助手席に乗せて菅野さんのあとをついてきました」
 出口ドアの外にも強い雨。傘を差して駐車場まで歩き、それぞれの車に乗りこむ。セドリックの後部座席にはカズちゃんとメイ子が仲良く座った。私は助手席に。出発。
「さあ四十分で北村席だ」
「きょうは一日雨です。迎えにくる途中でドシャ降りにやられました。二台並んで路肩に停めてやりすごしましたよ。ワイパーじゃ視界を確保できなくなったんで」
「そんなに!」
「はい、この十分ほどでようやく落ち着きました。それでも雨脚は強いですけどね。まず県道448号線です」
 菅野の道案内が始まった。ワイパーの動きに心が浮き立つ。睦子を乗せた千佳子のローバーが後ろをついてくる。一キロ余りの片側二車線の道。トタン塀と瓦屋根の平屋が連なる。幸田の交差点を左折。私もこの一年で、主だった交差点の標示板を見る習慣がついている。
「国道41号線、いわゆる」
「空港線」
「はい」
 これから何度も走るだろう見慣れた道。古い二階家の並びにガソリンスタンドや低いビルが混じる。
「新川中橋まで一気に南下します」
 工場や倉庫の群れ。庄内川の支流を渡る。
「帰ってきたわねえ……」
 カズちゃんがしみじみと言う。メイ子がハイとうなずく。私は、
「八面六臂の活躍だったね」
「キョウちゃんこそ。しばらく本気でノンビリしてね」
「うん」
「キョウちゃんがいなくなると、みんな心に穴が開いちゃうから、ときどきいってあげなきゃいけないわね。でも、この四月にいくのは考えたほうがいいかも。今年はもっと自分にかまけてほしいわ。やっぱりシーズンオフにしましょう」
「そうだね……」
 メイ子が、
「私たちも、神無月さんに負担をかけないようにしましょうって、じっくり話し合ったんですよ。何ごとも、神無月さんしだいで行動しようって」
 菅野が、
「その場に女将さんも私もいましたよ。文江さんもいたな。キッコと千鶴のようなトルコ経験者がいちばん真剣に主張してた。いままでの自分たちはわがまますぎたって」
 カズちゃんが、
「またやってると思ったでしょ。心に決めたとおりにいけば、私もラクなんだけど、そばにいると、つい」
「はい……」
「それで、かなり頻繁に話し合いをすることになるんですね。男だってむちゃくちゃうれしいわけですから、女はそれがからだにきちゃう、と」
「そういうこと」
 新川中橋北詰。川を渡る前に橋の途中の信号を右折。ローバーがちゃんとついてくる。
「県道162号線に入りました。いわゆる土手道です」
 雨に打たれながら悠然と流れる庄内川の右岸を走る。すべてが岩塚近辺の風景とそっくりになる。車の数が極端に少ない。
「このあたりは洗堰(せんせき)緑地でしたね」
「はい、野球場が四つ五つ、サッカー場、ラグビー場が二つ三つあります。向こう岸はゴルフ場です」
「あのあたりに小田井という駅がありますか」
「あります。名鉄線の」
「山田中学校もありますね」
「あります」
「名西のころ、麻雀をしに小田井に住んでる友人の家にいったことがあって、こてんぱんにやられました。麻雀というゲームは〈地アタマ〉のよさを見せつけられます。同じ人間と思えないのが爽快です」
「ハハハ、神無月さんにも少しぐらい不得意分野がないと、周りの人間が威張れない」
 恋に命を懸けた横地三樹はもうこの世にいない。私は生きている。すみませんと言いたくなる。また野球場のバックネット。庄内川橋北詰。強い雨が降りつづいている。低い灰色の空に気づく。左折して長い橋を渡る。
「県道63号線です。明道町まで十分ほど真っすぐ南下ですが、浄心で天神山へ曲がって帰ります」
 延々とマンションと事務所と古民家の連なり。太閤通と見まちがう。名古屋特有の街並だ。ポツポツとバス停。枯れ並木。傘差してゆき過ぎる自転車。緊張が解れていくからだに、ようやく空腹感が訪れる。四時を回った。秩父通。やっと市電の姿を目にする。ここから市電といっしょに走る。浄心。私は浮いた声で、
「勝手知ったる市電道。天神山から押切町」
 雨に街並が煙っている。朝のランニング道。運動が習慣になるかならないかで、肉体労働者と知的労働者に分かれる。娯楽芸能伝達者と文明伝達者に分かれる。むろん何も伝達しない、肉体にも知性にも長けていない中間労働者が人類の大半だ。家庭を根城に世の流れに身をまかせるだけでつつがなく暮らせる人びとだ。
「菊井町から那古野町」
 カズちゃんが合わせる。菅野も笑って、
「はーい、則武のガード、あと二分」
 牧野小、牧野公園、北村席。まだ大粒の雨が降っている。生垣の常緑の立木が目にやさしい。車二台を車庫に納れ、五人傘を差して門の内へ入る。菅野がボストンバッグを提げる。四時十五分。関野商店を出てから三時間十五分。やはり架空だ。横殴りの雨が降ってきた。五人傘を斜めに走って玄関へ急ぐ。
「ただいまァ!」
「お帰りなさーい!」
 一家がいっせいに応える。ジャッキがかわいく吠え、主人に先立って直人が走り出てきて私の胸に飛びつく。抱き締める。ジャッキが足もとにまとわりつく。主人が、
「お帰りなさい。きょうはどえらい雨ですよ」
 カンナを抱いたトモヨさんが、
「ちょうど着陸のころに大雨になったので心配しました」
 ジャッキがうるさいので、幣原が夕方の食事を与えた。素子が、
「十ミリの大雨ってニュースで言っとったけど、ミリって何」
 私は直人を抱いて式台に上がり、
「高校の地学で習った。雨の降った地域に十センチぐらいの深さのプールを作ったと考えればいいんだ。そこに六時間のあいだに降った雨の量を深さで測ったものがミリだ。飛行機が欠航するほどの大雨って、三十ミリから五十ミリの集中豪雨。ふつうの大雨なら、風が強かったり、視界が悪かったりしないかぎり欠航はしない」
 菅野が、
「ワイパーで雨を弾けなくてたいへんでした」
 ソテツと幣原が五人の傘を畳んで傘立てに入れる。百江が菅野からボストンバッグを受け取る。イネとキッコが髪を拭くタオルを用意する。目に親しんだ、うるさくない心遣いだ。座敷にゾロゾロ入る。縁側の窓が雨でサーッと鳴っている。畳に横たわった私に直人が乗っかってくる。トモヨさんが、
「おとうちゃんは疲れてるのよ。優子さんたちに遊んでもらいなさい」
 女将が、
「一週間ぶりやもの、甘えたいわな」
「おとうちゃん、あおもりって、どこ?」
 東西南北はわからないだろう。考えて答える。
「ずっと遠いところ。歩いたらちょっといけないな。だから飛行機でいって、飛行機で帰ってきたよ」
「どうしてあおもりにいったの」
「野球のことをお話してくれって頼まれたからだよ」
「どうしてたのんだの」
 トモヨさんが直人の腋を抱えてサッとさらっていった。キッコが受け取り、
「おとうちゃんは、野球ですごいことをしたさかい、呼ばれてお話をしにいったんやで」
「さんかんおう!」
「そう!」
 カズちゃんが、
「キッコちゃん、大検どうなったの」
「よう訊いてくれました。あさってあたりと思っとったら、きょうの昼に封筒できたわ。菅野さんたちを見送るついでに郵便箱開けたら入っとった。まだだれにも言っとらん」
「で、どうだったの!」
「合格」
「ほんと! どれどれ、見せて」
 女たちがワッと集まる。キッコはスカートのポケットから〈科目合格通知書〉と書かれた一枚の紙を取り出して畳に広げた。直人まで覗きこむ。素子が拍手するのに釣られてみんな拍手する。合格した科目の欄に世界史、日本史、政治経済、物理、数学Ⅱとあり、免除科目には英語、国語、古典、数Ⅰ、地理、生物、地学、保健とあった。ソテツが、
「あした、鯛の尾頭つきを用意します」
「特別なことせんといて。照れてまうさかい」
「ぜんぶで十三科目もあったのか! そのうち合格五科目、免除八科目。しかし、物理と化学をよく取れたね」
「必死で勉強した。神無月さんが叱ってくれたさかい」
「なんて?」
「人とちがう人生を歩みたくて勉強を始めたからには、生やさしい気持ちでいたらいけない、目指すと宣言した以上はやり遂げないとみっともないって」
「覚えがないな。キッコの作り話じゃないの?」
「今年の夏やで、七月、まだ半年も経ってないわ」


         百十四

 睦子が、
「でも一発で合格なんてすごい。おめでとうございます」
「ありがと。大検取っても、定時制やと、卒業してもせんでも高校中退の扱いになるんやて。大学を受験できるさかいそんなこと関係あれへんけど。……じつは、科目免除申請のために何人かの先生たちが単位取得証明書を書いてくれたんやけど、大阪で中退した高校とこっちの高校で取った単位分を合わせて、一学年修了の書類を書いてくれたらしいわ。一学年度分の単位取らんとほんとは出せんことになっとるらしいから。今週中に大検合格科目の単位取得証明書を書いてくれるんやと。あとは大検事務局に合格申請をすればオッケーや。どうなるかわからんけど、二月に大学に願書出してみる。なんか怖いなあ。不合格やったら、四月から河合塾かよってきちんと浪人したほうがええやろな」
「その実力ならまず受かると思いますけど、あと三カ月弱しかないと考えると心もとないですよね。まんいち不合格になっちゃったら、私、一年間お手伝いします」
 女将が、
「ソテツと河合塾にかよえばええがね」
「焦らずに、そうしたほうが確実かもわからへんね」
 私は、
「怖いだろうけど、不合格になったあとのことなんか考えずに、あと三カ月で受かろうとしたほうがいいよ」
 キッコは、え? という顔で私を見た。カズちゃんが、
「そうね。せっかく大学を受けられるようになったんだから、早いうちに怖い目を見たほうがいいかもね。受かっちゃえばラッキー、受からなければアチャー。二十二歳の女らしく自由にやりなさい」
 厨房が賑やかになる。直人がキッコの膝に乗って、
「じゆうにやりなさい」
 とカズちゃんの口まねをした。私は直人を抱き取って膝に乗せ、
「どんなことでも、これと決めたものごとをやろうとすると、怖くなるものだよ。怖いときは、自分が正しいことをしているときなんだ。ここにいるみんなは怖いことをしてきた人ばかりだ。わが身の快適さのために安全なことをしてるとき、人は怖くない。自分にとって正しい生き方をしようとすると、怖くなりはじめる。自分の人生にちゃんとした意味を見つけようとするのは怖いものだ。意味が見つからなかったらどうしようと思うからね。ちゃんとした意味だと思ったものをを追求しようとするかしないかは、自分で決められる。決めた瞬間に新しい運命に変わる。そう考えるとたしかに怖いね。でも、だれもが人生の一瞬一瞬、ほんの少しの情報や手がかりに頼って決心を迫られるんだ。その決心をするかしないか、それはその人の自由だ。決心すれば、成功や挫折と関わりなく、自分が決めて納得した運命になる。決めなければ、人に流されるままの運命になる。怖くない運命を選んで、たとえ成功したとしても、ちゃんとした意味のない運命を選んじゃったということだね。―受験ごときにオーバーなことを言いすぎた。オーバーな人間なんで勘弁してね」
 直人が、
「かんべんしてね」
 と言った。主人がウーンとうなり、菅野が飛びつくように握手してきた。キッコが、
「乗った船は早く向こう岸についてほしいさかい、あと三カ月一生懸命勉強して挑戦してみるわ」
 カズちゃんが、
「その意気よ。ただしゆったりした気持ちでね」
「はい」
 夕食になった。メインはキンメの切り身の煮つけ。キッコの前にだけ尾頭つきの小ぶりな姿煮が置かれた。
         †
 トモヨさんと直人を連れて風呂にいく。直人のからだを労わるように手のひらで洗ってやる。そのあいだにトモヨさんは私の背中を労わるように流した。直人を抱き、トモヨさんと肩を並べて湯に浸かる。
「直人はよくしゃべるようになったね」
「なった」
「二歳児は言葉の爆発期と言われてるようです。なんで? とか、これ何? とか、質問が増えてたいへんです。なるべく丁寧に答えるようにしてます。人まね、テレビのまねも頻繁になりました。いちばん多いのは、口まね。きょうも多かったでしょう?」
「ユーモアがあった。いいことだと思ったよ。大人同士自然に話してればいいと思う。ただ、エッチな単語は控えるように心がけないと」
「そうですね。その手のことはほんとに気をつけないと」
「行動もね」
「はい」
「エッチ」
「ほらさっそくだ」
 ギュッと抱いて頬にキスをする。私と直人が上がるのと交代で、百江がカンナを抱いて入ってくる。トモヨさんと二人でねんごろにカンナを洗うのだろう。
 座敷でみんなワールドキックボクシングを観ている。私も仲間に入る。直人は興味を示さない。居間で菅野と晩酌をしている主人のもとへ走っていく。やがてトモヨさんたち三人が風呂から上がってきて、直人か座敷の私たちに大声でお休みなさいを言う。トモヨさんと直人は、カンナを抱いたイネと引き揚げる。キッコと睦子と千佳子が優子や丸と風呂へいく。
 キックボクシングに戻る。選手入場のときにテーマ曲が流れることに驚く。沢村忠を初めて知る。真空飛び膝蹴り。相手選手が蹴りを待ち構えているふうなのに気づき、プロレス興行のような作為的なものを感じた。
 七時を過ぎて雨脚がすっかり弱まってきた。女将が帳場に退がり、カズちゃんと素子とメイ子がこぞって風呂へいき、主人と菅野は早めの見回りに出た。三上、木村、近記、ほかのトルコ嬢たちとアップダウンクイズ。これも初めて観た。十問正解してハワイへいきましょう。風呂から戻ってきたキッコたちが混じる。優子と丸が私の脇につく。
「第一回のオリンピックが開かれた都市はどこでしょう」
 何人か同時に、
「アテネ!」
「正解です」
 みんなでパチパチ。
「東京オリンピックのころ、ニチボウ貝塚の女子バレーボールチームは何というニックネームで呼ばれたでしょう」
「東洋の魔女!」
 三上ルリ子が答える。
「正解です」
 パチパチ。愉快になってきた。
「昭和三十九年、プロ野球セリーグは阪神タイガースが優勝しています。このとき二十九勝を挙げてセリーグ最多勝利投手になった外人はだれでしょう」
 みんなで私を見る。その年はリアルタイムの記憶がない。テレビの解答者が答える。
「バッキー!」
「正解です!」
 キッコが私を見て、アチャー、と言う。なぜかパチパチ。
「中国のフカヒレスープ、フランスのブイヤベースとともに、世界三大スープと言われるタイのスープは何でしょう」
 厨房で、トムヤンクン! とソテツの声がした。
「正解です!」
 厨房でもこの時間は小型のテレビを点けているようだ。パチパチパチパチ。賄いたちの手でコーヒーが出る。カズちゃんたちが風呂から上がってくる。
「次の問題からはイエスかノーでお答えください。ワカメは大きくなると昆布になる」
 全員声を揃えて、ノー!
「正解です。そんな馬鹿なことがあるわけありません」
 パチパチパチ。
「日本銀行の資本金より、東海銀行の資本金のほうが多い」
 みんな静まり返った中でカズちゃん一人が、
「イエス! 何千倍もちがうわよ」
「正解はイエスです。日本銀行は一億円、東海銀行は三千百十六億円です。では次の問題。タツノオトシゴの仲間にタツノイトコがいる」
 全員で、ノー!
「正解はイエスです」
 ワハハ、ホホホとみんなで大笑い。これはテレビのいい観方だ。
 女たちがNHKの歌の祭典を観ているあいだ、私は寝転んで主人の番外編と書いてある薄いスクラップブックを眺めた。長嶋千打点、中千五百安打、江藤二百五十本塁打、野村千得点、長嶋三百本塁打、長嶋千五百試合出場、高木守道百本塁打、張本千五百安打、阪急四イニング連続本塁打パリーグ新記録……金田現役引退表明、正力松太郎死去、ニューヨーク・メッツワールドシリーズ優勝、王四百号本塁打、高橋一三沢村賞、永易将之永久追放。
 主人と菅野が帰ってきた。菅野とビール片手にテレビの前に座る。女将はじめ千鶴たち賄いやトルコ嬢まで、ほとんどの女たちがテレビの前に坐る。NHK天と地と、第四十九回。カラー放送。川中島の章、その三。芸能人総動員のわけのわからない乱痴気騒ぎ。上杉謙信や武田信玄が何だというのだろう。三船敏郎や仲代達矢なら、チンプンカンプンな内容でも少しは観てみるかという気になるが、石坂浩二に高橋幸治ときては、演技が軽すぎて食指が動かない。
 優子が熱心に観ている。主人が、
「おまえの里の笛吹市は武田信虎の石和(いさわ)館のあったところやろ?」
「はい。そのくらいのことしか知らないんですけど、なんだかうれしくて」
 菅野が、
「武田と上杉が戦った理由は領地争いじゃなくて、部下を離反させないためのデモンストレーションだったらしいですよ。とにかく戦国物は、そういうことも含めて難しくて」
「NHKがどこまで有名役者を集めてまじめに芝居させられるか、それを国民に自慢するためのものやろう。志村喬や滝沢修まで出とる。ワシらは役者を見とればええんだよ」
 睦子が席を立って金魚に餌をやる。千佳子とキッコが二匹の金魚の様子をじっと見ていたが、ふと私とカズちゃんに気づいて、礼儀正しく挨拶すると、三人でそっと二階へ上がっていった。彼女たちにはするべき日課が多い。適当なところで腰を上げなければならない。素子が、
「二十四日の山口さんのリサイタルのとき、水原監督の家でごちそうになるらしいわ。監督からお姉さんに電話があった」
「よかったね。監督の自宅は目黒区の緑ヶ丘だったね」
「さあ……」
 カズちゃんが、
「そう、東横線の都立大学か自由が丘のそば。大井町線だと緑ヶ丘。高級住宅地よ。裕次郎の乳母車って映画があったでしょう、撮影舞台はあのあたりだったはず」
「直人の誕生会のときここにきた運転手さん、何て言う人だったっけ」
「仁科さん。二十年も水原監督のお付きの運転手をしてるって言ってたわね」
「うん、きっとあの人の運転する車でいくんだろうな」
 あしたから仕事のあるアイリス組とアヤメ組の一部がぼちぼち腰を上げはじめる。番組終了の八時四十五分になり、主人が風呂入って寝るわと言って離れへ去り、菅野が腰を上げる。
「きょうは最後まで雨でしたね。さ、第一陣を拾いにいって送り届けてこよう」
「第二陣は?」
 私が尋くと、
「十一時半くらいです。それまではここで宵っ張りの女たちとテレビを観て、二陣を送りがてら家に直帰して、グーと寝ます」
 玄関で尻尾を振っているジャッキの頭を撫ぜて出ていく。菅野が女たちと観るテレビはたぶん、唄子啓助のおもろい夫婦と、FBIアメリカ連邦警察だな。
「雨の日はたいへんですね。あした九時過ぎでいいですよ」
「九時少し前にいきます」
 菅野が出かけると、ようやく住みこみの賄いたちが厨房から座敷へ出てくる。ソテツ、千鶴、幣原、ほか二、三人。帰宅組の賄いは皿鉢の拭きじまいをしている。イネはトモヨさんの離れに退がっている。ソテツに尋く。
「かよいにも早番と遅番があるの?」
「はい、早番は六時から三時、遅番は三時から十時です。みなさんたいてい三十分以上早くきます」
「プロ中のプロだ。どんな片隅にもプロはいるんだね。じゃ、今夜はこれで帰るね、お休み」
「お休みなさい。一週間の〈遠征〉お疲れさまでした」
「ありがとう」
 千鶴と幣原と賄いたちもお休みなさいを言う。カズちゃん、素子、メイ子、百江が立ち上がる。
 いつもの夜道が戻ってきた。歩いているうちに雨がすっかり上がり、涼風が吹きだした。十二月の涼風だ。腕時計を見ると十四度だった。
「クイズって楽しいね。できても楽しいし、できなくても楽しい。これからはときどきみんなで観ようね」
 素子が、 
「そうしよまい。お姉さんの、イエス、格好よかったわ。キョウちゃんは格好悪かった」
「アハハハ、バッキーのバの字も出てこなかった」
「あのクイズに出された年に青森に送られたのよ。オリンピックの年」
「ほうやったね! 答えられんはずやわ。なんかあのクイズ、オリンピックの問題が多かったね」
 私は素子に、
「きょうは、うちに泊まりなよ。みんなで寝よう」
 百江が、
「……うれしい。時間がチョッと止まります。人は年をとらないと、時間の速さに気づきません。みなさんは先が長いからまだ心配要りませんけど、人生はアッと言う間です。……きょうは最高」
「百江、まだ生きてる?」
「はい、健康です」
「よかった。それなら、人生はアッと言う間だなんて口にするのは早い。まだまだ時間があるよ」
 カズちゃんとメイ子が明るく笑った。百江の肩を抱いてやった。素子も肩を抱かれるためにからだを寄せた。


第13章 シーズンオフ終了

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