三十三

 二月も半ばを過ぎ、急に暖かい日がつづきはじめた。このあいだまで厚いオーバーを着て猫背で歩いていた人たちが一皮脱ぎ捨て、顔を上げて行き交っている。
 第三回の実力試験で、鈴木尚を抜いて二番になった。直井とは十一点差だった。平均点も九十六点になり、周囲の視線が変わってきたのがわかった。スモールティーチャーが、ある日下駄箱のところで、
「いつかはすまなかったね。きみは、万能の天才だよ。もう先生方は、みんなわかってるから安心しなさい。あのテストの意味をこれからはきちんと生徒に伝えるようにと、校長からお達しがあった。ほんとうにすまなかった」
 と言った。私は笑ってうなずいた。忘れていたようで、忘れていなかった。どこか心にしこりを残していたので、心底うれしかった。この話は母に告げなかったが、カズちゃんには彼女の帰りぎわに裏庭で話した。彼女は、
「あたりまえよ。何をいまさら」
 と言って、私を抱きしめた。
 新学期が待ち遠しい。いよいよ本格的なレギュラー練習と公式戦が始まる。左肘の痛みはなく、バットを握った感触も完璧なので、思い切りフリーバッティングができる。右腕のコントロールもほぼ正確になってきた。キャッチボールや遠投も楽しみだ。
 春休みに入ってから、毎朝六時、事務所から宮中の正門まで、片道二キロの道のりを往復するようになった。退屈しないように、毎回なるべく知らない道筋を通った。目に入るものすべてに目を凝らすつもりで走る。とくに石段の多い寺や神社を見かけると、駆け登って境内に入りこみ、薄暗い木立の中で柔軟体操をし、それが終わるとゆっくりとあたりを散策した。古そうな家並も一軒一軒、足をゆるめて観察した。
 生垣の向こうに巨木がこんもり枝葉を拡げ、その隙間から母屋が垣間見えるような邸宅にいき当たると、私は足を止めてしげしげと眺め入った。どうしてそんな古いものに魅かれるのかわからなかった。
 初めて見る商店街に出る。朝早いのにほとんどの店が開いている。電柱のスピーカーから、ザ・ピーナッツの『ふりむかないで』が流れている。ちっとも胸に響かない歌。『スーダラ節』がはやっていたときにも、どうしてこんなつまらない歌が流行るのだろうと不思議に思った。ふと、自分の耳が悪いのかもしれない、きっと頭がトロいせいだ、と本気で感じてゾッとした覚えがある。特に、あの山田先生の件があって以来は、大勢の人が感銘するものに共感できないときにはそう感じた。でもいまはちがう。自分の感覚を信じようという勇気が出てきた。
 何通りか道筋を変えて走っても、最後は伏見通りの文房具屋を折れ、宮中の正門につづく堀川沿いの道に入ることになる。川端の景色は毎日見慣れているのに、岸辺の柳や、民家の前栽や、校舎沿いの木立に、日ごとの変化が感じられて飽きなかった。
 この何日か、堀川の水がぬるそうに見える。岸の柳はまだ葉のない赤茶けた枝を垂らしているけれども、よく見ると、その一本一本の枝に、無数の瘤のような芽が盛り上がっている。校舎の生垣をなしている桜の樹から花びらの群れが吹き飛ばされてきて、堀川の黒い水面に散りこぼれる。筏が花びらを掻き分けるように漕ぎ下っていく。船頭の使う竿がきらきら光る。少しスピードを上げて引き返す。
 この一年間に打ったホームランはたった一本だった。しかも練習試合で。記録は公式戦しか残らない。だから、0本ということになる。今年は何本打てるだろう。
 八百清の前までシロが迎えに出ていた。事務所まで並んで全力疾走する。ちょうど腹がへってきて、みんなと朝めしになる。母が料理したときは、塩鮭と糠漬けと味噌汁くらいだが、カズちゃんが手伝うと、かならずだし巻き玉子がつく。甘じょっぱくてうまい。めしのあと、裏庭で柔軟体操。トネリコに、いつかクマさんの言っていたとおり、きれいな緑色の花が咲いている。机に向かって三十分、モンテクリスト伯を読む。図書室に四回延長願いを出した。長い小説だったけれど、あと数日で読み終える。女の浅ましさと、復讐の爽快さ。この小説と、レ・ミゼラブルは痛快冒険小説の金字塔だと思う。いつか、ドン・キ・ホーテも読もう。一日三十分、こつこつ読めば、どんな長い小説も読み終わる。
         †
 始業式の朝礼のとき、何人かの先生の異動報告があった。中に岡田先生が混じっていた。びっくりした。ちょい待ち草以外の野球部監督に親しみが持てるだろうかと、心配になった。ふと思い出して、下級生の中にあの辮髪ありがみちこの大きな姿を捜したけれど、見つからなかった。口ほどにもない。キ印っぽいふりをして、ふつうの女だったんだな。いろいろ思い直して、高蔵女子中学へいったのだろう。拍子抜けした。
 二年C組に決まった。三塁側の平屋校舎。渡り廊下にいちばん近い教室だ。担任は理科の近藤正徳先生。あの直井整四郎と甲斐和子が同級になった。沸き立つものがあった。
 髭の濃い近藤先生は出席表をひと通りめくり終えると、バッタのような菱形の顔を上向けて、うーんと腕組みをした。
「直井に神無月に甲斐か。すごいクラスだな」
 張り出した眉の下に、人のよさそうな金ツボまなこが光っている。近藤先生は勘ちがいしている。直井と甲斐は勉強のプロだけれども、ぼくはちがう。野球が本職の、勉強は試験のときに徹夜で暗記するだけの素人だ。直井はオールラウンドな成績優秀者だ。私には社会科という不得意科目がある。それでかならず総合点を引き離される。成績だけ見れば私も、直井や甲斐と同様秀才と見られていいはずなのに、そんなふうに仲間が見ている気配はない。これまで褒めてくれた教師も、スモールティーチャーただ一人だ。
 直井のライバルは、甲斐和子と鈴木尚と井戸田務だということになっている。私の成績は彼ら三人に優っているし、一年生の通知表も、社会科と技術家庭だけが4であとはぜんぶ5なのだから、何も気後れする必要はないのだけれど、小学校以来の評価も考え合わせると、やっぱり下地のある秀才たちと、叩き上げの自分とのあいだには、いわく言いがたいミゾのようなものがあるように感じる。それだけに、勘ちがいとは言え、近藤先生の感嘆が耳にやさしく響いた。
 直井整四郎は当然のように学級委員長に選ばれ、もう一人の委員には、全校女子のナンバーワン甲斐和子がなった。二人は教壇で挨拶した。直井の顔と小さく引き締まったからだをあらためて間近に見て、私はわくわくした。
 ―怪物、直井整四郎か。
 キョロリとした二重まぶたの目に、太い黒縁の眼鏡をかけ、思ったより明るく気さくな様子で、教室の連中を注意深く見回している。一見したところ、近づきがたい秀才というよりは、日焼けの似合わない、頭の大きい幼児体型のちびだった。彼はしゃかしゃかと動き、オハイオ州(おはよう)とか、さよオナラとか、くだらない駄洒落を飛ばし、どちらかといえば、おしゃべり小僧のいでたちだ。でも、授業中の彼の顔は青黒くこわばっていて、軽薄な雰囲気は微塵もない。彼は、英・国も数学も、社会科や理科までも、噂以上におそろしくできた。先生たちからどんな質問をされても、答えに詰まるということがない。抜群の記憶力の持ち主で、それに機転の利いた説明を加えることも多い。
「直井、ワーテルローの戦いとは?」
 質問したのは、あごに傷のある中村専修郎だ。
「はい、一八一五年六月、イギリス・オランダ・プロイセン合同軍が、エルバ島を脱出したフランス皇帝ナポレオンを破った戦いで、ナポレオンの最後の戦争として知られています。ナポレオンは敗戦もつらかったでしょうが、夏場のタムシもつらかったでしょう。いつも胸に手を入れていたのは、タムシを掻くためだったと横光利一が書いています」
 みんなキョトンとした顔で直井の話を聞いている。ノラの女たちほどの深みはないけれども、その軽妙な応答もまた私の感嘆の種だった。直井の舌の滑らかさは、知ったかぶりの岩間とちがって、この上なく上品なものに思われたのだった。
 親しみやすそうな男だとわかっても、クラスのだれも彼に自分から近づこうとはしなかった。私にしても、格別その風采に惹きつけられたわけでもないのに、彼をしょっちゅう見ていなければならないような、それでいてそばに寄っていけないような奇妙な圧迫感を覚えた。
 私には、直井の軽やかな挙措にまとわりついている知的な香りが、ひどく好ましく感じられた。それこそ飯場暮らしの私にとって、嗅いだことのない洗練された香りだった。ときどき私は、意識して直井の机のそばを通り過ぎた。彼がただよわせている知性のにおいを嗅ぐためだった。守随くんや鬼頭倫子のスケールを一回り大きくしたにおいがした。彼らを熟し、発酵させると、たぶん直井のにおいになるだろう。
 直井に比べて、甲斐和子はまったく印象の薄い生徒だった。横浜の福田雅子ちゃんに似た豊頬の顔に、中学生らしい長めのおかっぱ髪を垂らし、いつも微笑むように口の端を上げている。ふだんは目立たないけれど、ふと気がつくと、たいてい自分の机でじっと教科書に目を落としている。これといってでしゃばったところもないので、だれかの想い姫にでもなれそうな感じには映るけれど、目がひどく小さい分、そういうことには縁遠い勉強家のイメージが強かった。彼女は始業と終業の号令以外はほとんど口を利かず、教師の質問にもぼそぼそと答える。だからといって暗い雰囲気はなく、別教室へみんなを誘導したり、ホームルームで発言したりする段になると、張り切った言動をする。つまり、伝説負けしているごくふつうの女の子で、気の毒なことに、直井と比べてあまりにも生彩に欠けていた。
 今年も康男や、守随くんや、鬼頭倫子といっしょのクラスになれなかった。酒井リサちゃんも、加藤雅江も、杉山啓子も、関をはじめとする野球部の連中さえいない。それどころか、一年生のとき同級だった清水明子や、加賀美幸雄、河村千賀子、天野俊夫もほかのクラスに去り、後藤ひさののだぶだぶセーラー服もどこかへいってしまった。でも、あの桑原のはしこい姿をまた教室に見つけたときには、心底ガッカリした。彼は例のイエッサイドゥーを連発して、初日からみんなの目を惹いていた。そんな桑原もやがて、直井に引きずられて勉強色の濃くなったC組の空気に馴染めず、教室の隅に撤退し、だんだん無口になって忘れられていった。
 近藤先生は授業のたびに、小山田さんに似た出歯の口をもぐもぐさせながらへんな雑談をして、そのいかつい顔に似合わない気遣いでみんなを和ませる。
「鼻汁(はな)を強くすすると、喉に落ちる。おまえたち、よくやるだろう。その鼻汁はバイキンだらけなので、飲みこんだらいかんぞ。チリ紙に吐き出せ」
 とか、
「煙草の吸殻をたくさん集めて、それをタライの水に漬けておくと、こげ茶色の液体ができる。そこへずぶりと足を浸せば、水虫が一発で治る」
 などとまじめな顔で言う。それでも、授業中にうるさくしたり、習ったことの質問に答えられなかったりすると、
「チョト、いらっしゃい」
 と教壇へ手招きし、おそるおそる進み出た生徒の側頭部にぐりぐり拳骨をめりこませる。いくぶん手加減をしてくれるので、みんな愉快そうにそれをやられている。
 二年C組の教室は、粗末な屋根があるきりの短い渡り廊下で鉄筋校舎の音楽室や理科室とつながっている。一年生のバラック時代とちがって、ほとんど移動の手間がない。下の校舎へ出向いていくのは、男女別の技術家庭の授業のときだけだ。ときどき窓から、上のグランドでやる体育の授業の声が入ってくるけれども、うるさいというほどではない。
「みんな、見てみろ。この教室は環境バツグンだな」
 チョークを止めて運動場を見やった近藤先生につられて窓の外へ視線をやると、上の校庭を縁取る桜の花が満開だった。グランドと平屋校舎のあいだに作られた花壇には、薄紫の勿忘草(わすれなぐさ)の花が咲きそろっていた。
 新学期が始まって何日も経たないころ、直井整四郎が私の机に近づいてきて、
「きみ、寺田くんの友達だって?」
 と、好意のこもった目で訊いた。
「うん」
「野球、すごいんだってね。ぼくは野球のことはあまり知らないけど、勉強とスポーツを両立させることは難しいというのはわかる。少なくともぼくは難しい。どんなふうに毎日すごしてるの?」
 ―両立? なんてありきたりな言葉だ。平凡な言葉には平凡な考えしかくっついてこない。スポーツも、勉強も、読書も、映画も音楽も、全部いっしょにやるものだ。何と何を調和させるというものじゃない。そうやって人は何気なく生きているのだ。
「さあ、考えたこともないけど」
「さすがだね。一年生のとき、寺田くんからきみのことをよく聞かされたんだ。おまえいつか神無月に抜かれるぞって。ぼくは抜かれないよ。いい成績をとりつづけるのは簡単じゃない。学校の勉強だけじゃ、ぜんぜん足りない。塾に通って、勉強のやり方を知っている人に教えてもらわないと、頭打ちになってしまう。塾にはライバルもたくさんいるし、勉強の中身もちがうし、学校で教わらないことだってどんどん教えてもらえる。神無月くんもぼくの塾にきたらどう? 紹介してあげるよ」
 眼鏡の奥の目がきらきらしている。直井はハッキリと、塾のおかげで自分はほかの級友たちに抜きん出た存在になっていると言った。ある意味それは謙虚な言葉に聞こえる。彼なら、塾など通わなくてもやっていけるだろう。それにしても、どこまでありきたりなんだろう。これじゃ、ちっとも化け物じゃない。
「いいよ、紹介してくれなくても」
「きっちりライバルとして戦おうよ。いまのままだと、ハンデもらってるようで、気分が悪いんだ」
 ふと、直井が自然な標準語を話しているのに気づいた。ひょっとしたら彼も山本法子と同じように、東京からきた転校生なのかもしれない。
「ほかの子に紹介してあげたら? 甲斐さんとかさ」
 直井は、ちょっときて、と言って、私を廊下へ連れ出した。そのとき、ちらっと甲斐和子を目で捜すようなそぶりをした。
「甲斐さんはとっくに、別の塾に通ってる。このクラスの成績優秀者で、塾にいってないのは神無月くんぐらいじゃないかな」
 直井の怪物のイメージどんどん崩れていく。きょう朝礼で校長先生が言っていた小さな親切を率先して実践するつもりでもないんだろうが、もっと怪物らしく超然としていてほしかった。
「ぼくは貧乏だからね。それにお金を出してまで……」
「しっかりした教育を受けるのには、お金が必要だよ」
 どこかで聞いたような科白だ。
「母が納得しないだろうね」
「そんなに高くない。ふつうの塾の半分くらいだと思う」
「半分でも、金は金だ」
 直井は考えこむ顔で、
「熱田神宮のそばの英語塾なんだけど、自転車持ってる?」
「うん」
「自転車で通えば、交通費はかからないよ」
「そういうことじゃなくて、一円の月謝も母は出さないということだよ。というより、ぼくがいきたくないんだ。英語も国語も得意だし」
「うん、いつも一番だね。でも、いまのうちだけかもしれないよ」
 いやな言い方だ。
「いまのうちだけじゃないと思う。親戚の通訳の叔父さんに、小学校のときから英語を習ってきたから。英会話も少しできるし、英語で書いてある本も、辞書を引きながらなんとか読める。ラフカディオ・ハーンの『雪女』、ヘミングウェイの『老人と海』……」
 反発する気持ちから大げさに言った。直井は自分の話をつづけるために、私の話が終わるのをじりじりしながら待っているようだ。将来性の垣間見える原人を説得したくて、すっかりそれに注意を奪われているのだ。
「言いたいことはわかるよ。いまの神無月くんの英語や国語にはだれだってかなわない。でも、きっとそのうち、だれかが、ひょっとしたらぼくかもしれないけど、コロッと逆転しちゃうかもしれない。だって、塾では学校よりずっと難しいことやってるから」
「逆転されたら、されたでしょうがない。もっとがんばるしかない。学校より難しいっていったって、せいぜい中三の勉強をしてるだけでしょ。高校生の勉強をしてるわけじゃない」
「とにかく、覗くぐらいしてみなよ。八時に校門で待ってるから」
 なんて押しつけがましいやつだろう。面倒くさい。
「きょう?」
「善は急げさ。クラブが終わったら、いったん家に帰って、ご飯を食べて、ひとっ風呂浴びてから出てくるよ」
「じゃ、覗くだけ」
 仕方がない。一回だけ付き合ってやろう。
「そうしなよ、いけばその気になるから。じゃ、八時に」
「じゃ、正門でね」
 すたすたとチンパンジーのように両腕を振って去っていく。


         三十四

「学校で一番の子に、塾にいかないかって誘われた。見学にいってくる」
 酒盛りを始めた社員たちに混じって遅い晩めしを食いながら、忙しそうにしている母に言った。酒の肴に焼いているホッケの干物の脂と煙にむせて、母はいつもの、ヘッシ、ヘッシというくしゃみを立てつづけにした。
「塾なんかいかせてやる余裕はないよ」
 予想通りの反応だ。焼きあがった魚を皿に移し、また新しい魚を網に載せた。たちまち脂のしたたる音が弾けた。シロが戸口でステンレスのお碗に鼻を突っこみ、味噌汁めしを一心に食っている。私はシロがものを食べている姿が大好きだ。自分だけのことに没入している彼を見るのが快いだけでなく、彼が健康でこれから何年も生きられると感じるのがうれしいのだ。
「キョウちゃんは塾にいかなくてもだいじょうぶでしょ」
 カズちゃんが魚をひっくり返しながら言う。
「しつこく誘われたから、一回だけ付き合ってやろうと思って」
 小山田さんが険しい目で、
「塾なんかいく必要ない。勉強の基本は独学だ。そんなことより、野球だろ」
 原田さんが異を唱える。
「野球第一はよしとして、小さいうちの独学ってどんなものですかね。私は近所の塾にいきましたよ。十人足らずの生徒しかいない小屋掛けの塾でしたが、京大を出た先生に、一人きりの勉強じゃ気づかないようないろいろなことを教えてもらいました」
「ある程度学校で教えてもらってるんだから、あとは独りでがんばるのが、ほんとうの勉強だろ。人から教えてもらうばかりじゃ、余分な知識が増えるだけで、自分なりのアイデアが湧いてこない。勉強というのは想像力を鍛えるもんだ。人に気づかせてもらってどうする」
「小山田さんが言うのは、学問の話で―」
「学問と勉強と、どこがちがう。キョウちゃん、いま成績はどうなんだ」
「学年の二番」
「ほら見ろ、これが独学の成果だ」
 原田さんは黙った。吉冨さんがいい気味だという顔でへらへら笑っている。カズちゃんが少し胸を張った。
「とにかく、約束したから、いってくる。吉冨さん、自転車借りるよ」
「オッケー。ライトは点かないぞ」
「だいじょうぶ」
「ヨシノブちゃんみたいに誘拐されんなよ」
 何のことかわからなかった。
「何言ってるんですか、貧乏人の子なんか誘拐されませんよ。会社の自転車なんだからね、パンクさせるんじゃないよ」
 めしを途中にしてあわてて追ってきたシロが、ガレージから引き出した自転車にじゃれついた。しゃがんで頭を撫でてやる。
「長生きしろよ」
 シロは湿った鼻面を私の手のひらに擦りつけた。
 ゆったり自転車をこいでいく。生暖かい風が頬に当たる。杉山薬局から加藤雅江の家を過ぎて、大瀬子橋を渡る。板敷きの歩道がカタカタ鳴って気持ちがいい。いつもより堀川においが弱い。四月の陽は傾いているけれども、まだ水の上に燃え残っている。空に接している水平線に、愛知時計の工場群のぼんやりした輪郭が浮き出ている。
 木之免町の路地を抜けるとき、卓球部の石田孫一郎に遇った。背中を丸めて、しきりに四角いラケットを振っている。私の右隣に坐っている内気なやつだ。切手集めが趣味だとかで、ときどき机の下で大事そうに切手帖を開いて見せる。講釈が長いので、いつも無視する。いっしょに切手を買いにいかないか、と誘われたこともある。もちろん無視した。
「よう」
 短く声をかけてきた。目だけで応えて通り過ぎた。
 宮中の正門まで自転車だと十分もかからない。直井が手を振っている。こざっぱりした灰色のポロシャツを着ている。洗いざらしの袋をかぶっているように見えた。
「こっから五分もかからないよ」
 いっしょに漕ぎ出した直井の自転車は、がっしりとした年代物だった。何の数字か、ハネ除けに『5』という番号が白いエナメルで書かれている。前籠にノートと筆箱が放りこんであった。直井が話しかける。
「神無月くんは、図書室によくいく?」
「ときどきね。小説を借りることが多い。もう十冊くらい読んだかな」
「図書室って神秘的だよね。棚に並んでる本がみんな、秘密を抱いて静かに息をしてるんだ。何年も、何十年も」
「何の秘密?」
「本を書いた人の秘密だよ」
「書いちゃったら、もう秘密でなくなるんじゃない?」
「そりゃそうだけど、秘密にしておきたいことを思い切って書くから、名作になるんだよ」
 気取ったやつだな、と感じた。それでも、何かさすがだとも思った。
「きみと同じテニス部の加藤雅江―」
「うん、去年同じクラスだった。きれいな人だなあ。宮中でナンバーワンじゃない? 何でも努力するし、気取らないし、とにかく満点だね。見ていて涙が出そうになることがあるよ。そういえば、神無月くんのこといつも話してる。きっと好きなんだね」
「女は苦手だ」
 直井は雅江の脚のことを言わなかった。
「ところでさ、寺田くんに聞いたんだけど、神無月くんは飯場に住んでるんだって? びっくりしちゃったよ。ぼくも飯場なんだ。神宮前の線路の向こうの、堀田というところなんだけど、そこの事務所にとうさんが勤めてる。とうさんとかあさんとぼく、三人で飯場暮らし」
 へえ、と思った。飯場暮らしは、宮中のなかでも私ぐらいだと思っていたので、意外な気がした。
「何年くらいになるの?」
「まだ、三年くらいかな」
「いままではちがうところにいたの?」
「いろいろ。とうさんは一級建築士だから、あちこち転勤するんだ」
 たちまち保土ヶ谷の父の顔が浮かんできた。
「ぼくのとうちゃんも、一級建築士だったんだって。いまはいないけど……」
「ふうん。お母さんと二人か」
「そう。……建築士なら、社宅をもらえるんじゃないの」
「ううん、運河築堤の短期の現場だから、臨時の飯場掛けしてるだけ」
「じゃ、それ終わったら、またどこかへいくの」
「うん。あと二、三年でね。こっちの高校は転校してるかもしれないな」
「チクテイって、なに」
「堤防の建設や修繕。伊勢湾台風の後始末だね。そのうち昭和区の天白に移って、庄内川の築堤の長期仕事になるらしいけど。どっちにしても、もう大学生になってるね。―神無月くんのところは何ていう会社?」
「西松建設」
「ぼくのところは清水建設。どっちも大手だね」

  涙のォ オォォォォ おわりのひとしずく
  ゴムのかっぱにしみとおる
  どうォォせ おいらは ヤン衆かもめ

 とつぜん直井が歌いだした。
「何、それ」
「なみだ船。知らないの、北島三郎」
「知らない」
「いいよ、演歌って。『王将』みたいな、いかにも人生堂々ってやつは苦手だけど」
「ぼくはポップスしか聴かない」
「ぼくもときどき聴くけど、演歌のほうがずっと好きだな。水原弘の黄昏のビギンなんか最高だ。雨に濡れてーた、たそがれの街、あなたと逢った、初めての夜」
 だんだん直井の印象がよいほうへ変わりはじめた。なるほどこんな性格なら、康男とへだてなく口を利けたはずだ。きっと康男も安心して話しかけただろう。
 熱田神宮に沿って下る伏見通りの坂道から、黒々と茂っている宮の杜の西側を走り、森後町の入組んだ住宅街へ曲がりこんだ。
「五分くらい遅れちゃったかな。ここの先生は、明和高校から東大の英文科を出た人なんだ。ぼくも明和にいって、とうさんと同じ東大の建築科を目ざすつもり」
 道のはずれの袋小路になった一画に、壁につたを這わせた二階建ての家が見えた。垣根のない庭に建てられた物置のような小屋に、煌々と灯りが点っている。母屋の二階からさびしげなピアノの音がした。
「先生の奥さんは、ピアノ教室をやってる。東京芸大。すごいよね。いま聞こえてる曲はショパンのプレリュード四番」
 直井は自転車から降りるとき、何かあこがれるような顔で、ピアノの音がやってくるほうへあごを上げた。それから前輪に鍵をかけると、小屋のある庭へ入っていった。耳障りな学歴礼賛さえなくなったら、直井もいいやつなのにと思った。
「途中から入室しても叱られないんだ。早退(び)けも自由」
 そっとガラス戸を引いた直井に導かれて、いちばん後ろの席に坐った。細長い教室だった。三人掛けの長机が十脚ほど縦に並んでいる。そのすべての席が男女の生徒で埋まっていた。だれも遅れて入ってきた者に注意を向けない。
「ゼイ、リブ、オン、ザ、ハドソンリバー」
 四十歳くらいの長髪の教師が、眼鏡を押し上げながらへたくそな発音で読み上げる。生徒にわかりやすく聞こえるように、わざとそういう発音でしゃべっているのかと思って耳を澄ました。どうもちがうようだ。軽妙に舌を巻いている気分らしい。Rの発音を意識しすぎているせいで、『リバー』が『ウバー』に聞こえる。Rはあまり舌を巻いてはいけないとサイドさんに教えられた。ハドソンもDがほとんど聞こえないはずなのに、ハドソンとはっきり言う。それに、声が小さい。からだ以外の何かに頼って生きている人に特有の弱々しい声だ。飯場の男たちとはぜんぜんちがう。こういうのをインテリというのかもしれない。彼が手に持っている本は、学校の教科書ではない薄手のもので、表紙に何やらこまかい英語の題名が書いてあった。
「ゼイ、リブ、オン、ザ、ハドソンリバー」 
 生徒がそのままのろのろ繰り返す。それを何の工夫もなく二度、三度とやる。彼らは教師が眩しいものでもあるかのように、決して顔を上げない。なんてつまらない勉強の仕方だろう。意味もわからず、でたらめの発音に合わせて繰り返すなんて。サイドさんならすぐ発音の訂正が入るし、すぐ意味も言ってくれる。
 ―ゼイ、リヴォン、ザ、ハッスンリヴァー、が正しい。『オン』はそばとかほとりという意味だ。すぐそれを教えてあげなければいけない。
「ほとんどの子が、明和か、旭ヶ丘狙いだよ」
 そう言うと、直井もさっそく仲間に入った。みんなと同じように一心に復唱する。共同作業には何か気持ちを陶酔させるものがあるので、批判がその指導者に降りかかることはない。こんなやつらのことを、秀才と呼ぶのだ。
「ゼア、ハウス、イズ、ア、ツー、ストーリード、ワン」
 やっと次の文章に移る。教師が気持ちよさそうに、本から目を中空に泳がせる。またみんなで声を張り上げて同じ唱和を繰り返す。ぶつ切りの英語が耳にうるさい。私は彼らを見ていて、部落の酋長にひざまずきながら祈りを唱える土人のような気がした。
 Their house is a two storied one. ということだな。トゥー、ストーリード? どういう意味だろう。たぶん、二階建て、ということかな。
「ストーリーに、階って意味ある?」
 私は直井に小声で尋いた。
「ある! よくわかったね」
 直井も小声で答える。
「どうして、ストーリードって言うの。名詞に受身はないよね」
「受身なんて、よく知ってるね。これはなんとかストーリードという連結語。なんとか階建ての、という意味」
 直井の言ったとおり、たしかに学校より難しいことをやっている。でも、文章の全体のかたちが、サイドさんの教えるものより簡単すぎる。中学生の勉強室だってもっと難しい文章を載せている。私は生徒たちの後頭部を眺めた。耳もとで蚊の羽音がした。手で追い払った。そのとき、長髪の教師が私の様子に気づき、硬い調子で言った。
「単純な作業を軽く見てはいけません。そういうのは若いころにありがちな傲慢です。単純で、確かな地盤にしっかりと根を下ろして行動しなければ、たとえどんな高い複雑な目標を抱こうが、それはあやふやに終わってしまいます」
 ふと思いついて勉強から逸れてみたというのでもなく、彼は不まじめな様子の私に向かって意見しているようだった。直井が驚いて教師を見つめている。ふだんこんな話はしないのだろう。まるで自分にもともとあった深い考えを打ち明けているように見えるけれど、何も目新しいことを言っているわけではなく、むかしからよく言われる他人の意見を小声でなぞっているだけだ。そして言いたいのは、たぶん、さぼらず俺のあとについて復唱しろ、ということだけだった。
「ごめん、ぼく、帰るよ」
 私は直井に言った。直井の目がひたと私を見つめた。それは自分の見こんだものが正当に評価されない悔しさを訴えている目だった。私は気持ちを変える気はなかった。
「きょうはありがとう」
 直井は渋々うなずいた。戸を引いて出るとき、教師がギロリと睨んだ。
 のろのろ自転車を牽いて商店の並ぶ表通りへ出ると、ひんやりした夜気が頬に当たった。どの店も大戸を下ろしている。町筋が薄暗い。直井整四郎という男は、きのうまで私の向学心を奮い立たせる怪物だった。もう彼は怪物ではない。興味がなくなった。
 私は神宮の杜を見やりながら、すがすがしい気分で自転車を飛ばした。なぜか『月光仮面』のテーマ曲が口をついて出た。孫一郎の家の前を通り抜け、たちまち大瀬子橋に漕ぎ着いた。加藤雅江の楠木を目の端に捉えながら、窓明かりだけの町を過ぎる。私は猛スピードで自転車をこぎながら、意味もなく大声で叫んだ。
「月光仮面だ!」



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