七十七

 大瀬子橋までゆっくり走り、神戸町の坂から内田橋の大通りへ出る。傾いた陽が真横から差してきた。伝馬町のゆるやかな上り坂を立ち漕ぎでいく。大型のトラックが猛スピードで通り過ぎる。ふと、巻きこまれたら木田ッサーになるな、と思った。思いもしない誘惑があったけれども、すぐに消えた。
 急速に暮れていく牛巻坂を立ち漕ぎで登る。野球だけが人生じゃない、という平凡な言葉が活字になって頭に浮かんだ。何でもかんでも人生だ―格言の意味はすべてそのひとことになる。アスファルト道をくだっていくとき、自転車ごとからだが落下していくようで、血がすべて抜き去られて生まれ変わった気分になった。
 牛巻病院に射しかかる街灯の光が、きょうはどこか沈んだ色合に見える。自転車を桜の木の下に停め、スリッパを履いてロビーに入る。リノリウムの廊下、白っぽい壁、あたりにただよう薬品のにおい―いつもと同じだ。ちがうのは、とうとう康男が退院するということ、もうこの病院にかよわなくてすむということだ。
 七時を回ったロビーには人影がなかった。受付にめずらしく婦長が座っている。節子は非番のようだ。頭を下げ、三階へ昇っていく。康男と何百回も歩いた階段。手すりを触りながらゆっくり昇る。大部屋は人工の光でいっぱいだった。三人ほど新顔が増え、三吉一家のベッドに、中年の痩せた男が掛蒲団をはいだパンツ姿で横たわっている。
「いてェんだよ。早く医者呼べよ!」
 片足が膝からないことに気づく。袋を縫い閉じたような切断面が目を射った。付添いの女に足の痛みをしきりに訴えている。目を逸らした。康男はすでにさっぱりとした半袖のシャツと麻のズボンに着替えていた。笑いながら寄ってきて手を握った。強く握り返す。
「とうとう、退院か……」
「八カ月ゆうと長く感じるけど、何年おるかわからんやつに比べたらましや」
 そう言いながら、リューマチ先生を振り返る。先生はにこやかに手を上げた。三吉に代わっていつもの言葉をかける。
「一段と男前ですね」
 看護婦を連れた白衣の医師が入ってきて、男の足に注射を打った。男は一分もしないうちに静かになった。付添いが、お騒がせしてすみません、と頭を下げた。
「ない脚が痛むらしいわ」
 康男がめずらしく同情めいた表情を浮かべて言った。
「こんなところに三日にあげずかよってきて、イヤになりませんでしたか。みんな能もなく病室にこもっているだけのヤカラだったでしょう」
「ひでえこと言うなよ。病人なんだから仕方ねえやろ。俺が退院したら、もうあんたの憎まれ口を聞いてやるやつもおらんようになるで」
 康男が笑いながら言う。新顔たちもつられて笑った。
「いやいや、聞いてもらえなくてもしゃべりますよ。もう少し世にはびこって、日本の行く末を見てみたいですからね。とにかくよかった、康男くんもついに退院ですか。これで郷くんの顔も見れなくなるなあ」
「いえ、また康男と、ときどききます」
「俺はこんぞ。こんなシンキくさいところには二度とこんわ」
「まだリハビリが残ってるでしょ」
「まあな。それも週に一回や。ここには寄ったらん」
 笑いながら言う。白いスーツを着た光夫さんが、両手に果物籠を提げて入ってきた。みんなに向かって深々とお辞儀をする。
「みなさん、長いこと弟がお世話になりました。いろいろ失礼なこともしでかしたでしょうが、どうぞご寛恕願います。おかげさまで退院できることになり、もとの生活に戻してやれます。中学生は学校で勉強するのがいちばんです。どうぞ、これ、みなさんで召し上がってください。付添いさん、よろしく」
 大きな籠を戸口に並べて置く。リューマチ先生が康男に、
「康男くんは俠気(おとこぎ)もあるけれど、頭もよさそうですからね。勉強するのも、オツなものかもしれませんよ」
 康男は胸を張り、
「くだらん。俺は、自分に似合わんことはせんのや」
「とにかく、ときどき顔を見せてください。いつでも待ってますよ。私はここに永住ですから」
「もうこんと言っとるやろ」
「郷くんは遊びにきてくれますね」
「はい」
 光夫さんが先生に向かって、
「こいつもよこしますよ。こんなふうに事情を同じくするかたがたが、一つところにつどっている生活からは、落ち着いた〈いにしえぶり〉というものが学べます。けっこう模範になるんですよ。互いに助け合ったり、かばい合ったり、かける言葉も工夫し合って、いい意味の徒党を組んで暮らしていく。見る目のある人間には、輝いて見えると思いますよ。私も何度かかよってきて、病院というものを好きになりました。みなさんは病人らしく神妙に猫をかぶっているというわけではなくて、正直に、のんびりと暮らしている。世間の浮ついた連中に比べれば、病院暮らしの人たちのほうがずっとましですね。少なくとも、頭を養っていらっしゃる人間が多い―」
 なにやら小難しいことを言い出す。光夫さんらしい口ぶりだ。
「あなたも、じゅうぶん頭を養ってらっしゃいますよ」
 二人の会話はたいていこの調子になる。
「ありがとうございます。だいたい、世間のまじめでない連中は―いや、ワシはまじめですよ、仕事を選びそこなっただけで(と言って笑いながら頭を掻いた)。まあ、一般に覚悟のない連中は、これといった職にもつかずにただぶらぶらと遊び暮らしながら、棚からぼた餅が落ちてくるのを待っている。退屈しのぎに外へ出てみても、別に気晴らしになることがあるわけじゃなし、それでもエネルギーは発散しなくちゃならんというわけで迷惑千万な馬鹿騒ぎをやりはじめる。昼日なかに悪さをすれば露見するおそれがあるし、悪さの度が過ぎれば警察に挙げられてしまう。だから、抜け目なく夜陰に乗じてイタズラに及ぶわけです。いつかの三吉一家のボンボンなんかその好例です。あの節は、ご迷惑をおかけしました。ま、こういう世の中に、こんないい環境があれば、神無月くんのような理解のいい子の例も出てきて当然です。愚弟のためばかりでなく、かよいやすさもあったでしょう」
「言い得て妙ですな。郷くん、また、ほんとに顔を出してくださいよ」
 康男はベッドの下から大きなトランクを引きずり出し、洗濯をしていない下着だの、靴下だの、スリッパも、使ったことのないような箸も茶碗も、手当たりしだいに詰めこんだ。光夫さんがそれを持った。私は蒲団一組を担いで、光夫さんが乗ってきたライトバンまで運んだ。忘れ物を確かめに一人で大部屋へ引き返したとたん、看護帽をかぶった節子が戸口に顔を出した。
「ヤッちゃん、退院おめでとう」
 小声で言うと、私を見ないようにして足早に立ち去った。私はその後ろ姿を何の思いもなく見送った。光夫さんが戻ってきて、
「それじゃ、先生、みなさん、失礼いたします。ほんとに長いあいだ、弟がお世話になりました。ありがとうございました。また、折を見て寄らせていただきます」
 光夫さんに合わせて、私も大部屋の人たちに向かって頭を下げた。ベッドからリューマチ先生が小さく手を振った。
「じゃ、神無月くん、いこう」
「はい」
 彼は廊下を歩きながら、
「若頭があんたに会いたがっとる。ワカは名古屋抗争で一躍勇名を馳せた男ですが、頭が切れるだけでなく、義理人情にも厚いかたで、今回の神無月くんの行いには痛く胸を打たれておりました。もちろんワシは、それどころでない感謝の気持ちでいっぱいです。これからも康男のこと、くれぐれもお頼みします」
 立ち止まって会釈をする。私は、ハイ、と応えたけれども、自分の不安定な心を振り返って、あてのない悲しさを感じた。それにしてもなんという律儀な口の利き方だろう。私にとってこれまでヤクザとか暴力団員というのは、映画でしか知らない夢まぼろしの人びとだった。けっして近づくことのできない、覗き見することさえできない、想像の世界の人びとだった。その世界に君臨している幹部の一人に、いまこうして丁重に話しかけられ、頭を下げられている。きっと、何か自分の行動や態度に、この種の人びとに強く響く要素があるのにちがいない。若頭という男の、おごそかな、するどい顔を思い出した。私は、自分の不器用な直情の性質が、荒ぶる人たちの胸を打つような洗練されたものにすり替えられてしまった気がした。玄関に康男が立っていた。
「いくぞ、神無月」
「ぼくは自転車なんだ。ここで見送るよ」
「そうですか、ワカにはきょうのことを伝えておきます。じゃ、またの機会に」
 光夫さんが運転席に乗った。カーラジオから、スー・トンプソンの『ハヴ・ア・グッド・タイム』が流れていた。看護婦や医者たちは、申し合わせたように、玄関に顔を出さなかった。節子も姿を現さなかった。康男は助手席に乗りこみ、手を振った。光夫さんと康男を乗せた車は信号を渡り、テールランプを光らせて夜の牛巻坂のほうへ走っていった。康男がからだをねじって、いつまでも手を振っていた。
 もう病院に用はない。一月から九月。真冬が秋になった。立ち漕ぎで夜の坂を登っていった。いただきで自転車を停めて振り返った。灰色の四角い三階建ての病院が、街灯の薄い光の中にたたずんでいる。カズちゃんのくれた千円札がポケットにあるのに気づき、ノラのそばの甘味屋で、きつねうどんと白玉あんみつを食った。カズちゃんのやさしさを思いながら食った。店を出ると、ふとなつかしくなり、自転車を牽いてノラの看板の前までいった。丸ガラスの中で、女たちの動く影が見えた。
         † 
 水のような諦念などまがい物だとわかった。スカウトの件ですっかり勉強意欲が失せてしまっていた。勉強そのものに何の意義も見出せなかった。野球の未来への希望あっての勉強だったと思い知った。私はまったく机に向かわなくなった。学校ですごす時間以外のすべてを、本を読み、音楽を聴くことに費やした。
 一つ目の練習試合には、ホームランを一本打って勝利した。対戦相手の名前も、得点差も、ホームランの軌道も、何日もしないうちに記憶から消えていった。教室に私はぼんやり座っていた。カズちゃんの笑顔だけを想った。
 九月の十九日に、年に二回の恒例行事である校内実力試験が行なわれたが、いくらがんばっても、頭の中にひねり出せる蓄えがなく、何の思いつきも、記憶の切れ端も浮かんでこなかった。試験結果の望みのなさは自分でも笑いたくなるほどわかっていた。ついに勉強する気が根こそぎなくなり、もともと投げ出していた社会科の次に理科を、理科の次には数学を投げ出した。それから急に、知識のひどい欠乏に苦しみはじめた。その結果、抜き打ちの補習テストでさえ、校内で五十番を外れた。
 野球の声望とは関係なく、教師たちや級友たちのあいだで、自分の評価がだんだん下がっていき、満点から八十点へ、八十点から五十点へ、最後には二十点や十点まで落ちていくのを、私は何の不安もなく眺めていた。
 近視が進んだせいで、授業の最中に決まったように頭痛がするようになったけれど、眼鏡をかけたいとは思わなかったし、母にも何も言わなかった。頭痛がしないときは、カズちゃんのことを考えながら、ぼんやり教室の外を眺めていた。するとなぜか野球に対する奇妙なファイトがみなぎってきて、授業を終えると、だれよりも先にグランドへ走り出ていった。
 数学の和田先生と、社会科の久住先生だけが、評判を落とした私に同情を示した。和田先生は補習テストを回収している最中に、私の机に近づき、明るく笑って、
「どうした、最近は。簡単すぎて勉強する気がなくなっちゃったか? おまえはいいな、野球の才能があるもんな。でも、気が向いたら、勉強も頼むよ。俺を喜ばせてくれ」
 と言った。太くて響きのいい声なので、私は元気よく、ハイ、と応えた。
 片腕の久住先生は、私を廊下で呼び止めて、
「だれに何を言われようと、好きなように生きろ。勉強なんてのは、どんなに曲がりくねった人生の中でも、その気になればいつでもできる」
 と肩を叩いた。これにもまた私は、ハイ、と元気よく応えた。
「このあいだの練習試合、見てたんだぜ。でっかいホームラン打ったな。驚いたよ。和田さんが、記録に残らないホームランだけに何か価値がある感じだって言ってたぜ。あと何試合あるんだ?」
 長髪を左手で掻き分けながら尋く。
「今月の末に一試合、十月に二試合です。別に出なくてもいいんですけど」
「出ろ、出ろ。いいか、神無月、野球をやりつづけろ。おまえは絶対モノになる。それからな、いまおまえは人からいろいろ言われてるが、めげるんじゃないぞ。世間常識の提灯持ちなんか、何を言おうと屁でもない。どんな人生歴をたどろうと、教育の結果得られる精神の高さがなければ、人間はけっして大を為すにはいたらないのさ。おまえは教育されることに素直だし、勉強というものを愛している。これからどういう道をたどろうと、将来は心配ない。神無月郷はね、一般の中にかならずいる明達の士とか、俊敏な人びとといった人格じゃないんだよ。もっと次元のちがう孤高の人間だ。やつらの考えには収まらないよ」
 難しい物言いだったが、励まされていることだけはわかった。私は廊下を去っていく彼の背中に深く礼をした。


         七十八

「神無月、サンフランシスコ講和条約締結は何年だ」
 日本史の時間、中村の馬公が、教壇から長い顔を伸び上げて言った。
「知りません」
 実際、私はその年号を知らなかった。言い捨てて、窓の外を無聊げに眺めた。これまでの中村なら、生徒のその程度の反応に誇りを傷つけられることはなかった。しかしこの日は何かの事情が、彼に怒りの導火線を用意していた。彼は教壇を跳び下りて、私に駆け寄った。
「なんだ、その態度は! なめくさって」
 ビンの毛を引っ張り上げようとした。私はその手を払いのけ、中村の目をまともに睨みすえた。馬公は怒り狂って、
「いいかげん態度を小さくしろ! 傲慢な野郎だ。この世のみんなが、おまえの味方だと思ってるのか」
 私は自分のいる位置の感覚をすっかり失った。沸騰する頭で私がとりあえず考えたことは、このしゃべりすぎる男に恐怖感を与えなければならないということだった。
「気をつけてものを言えよ。オレは寺田の留守番だぜ」
 馬鹿なことを言った。私は恥の上塗りをするように、オレは松葉会のワカのお気に入りだ、とまで言おうとした。教室のどこかで、せせら笑う声が聞こえた。その声に励まされて馬公も頬で笑った。
「そんなことで俺がすくみ上がるとでも思っとるのか!」
 中村専修郎はたちまち一振りビンタを飛ばした。私は座っていた椅子から転がり落ちた。中村はなおも私を立たせて胸倉を絞め上げ、平手を打ち下ろした。加藤雅江が椅子を鳴らして立ち上がった。
「やめてください!」
 ガラスを引っ掻いたような声の余韻が、耳の中でジンジン疼いた。
 放課後、私は浅野に職員室へ呼びつけられた。私はグランドにいた和田先生に事情を言って野球部の練習を休み、そのまま職員室へいった。浅野はカバンを提げている私を横目で制し、おもむろにカラス色のライターで煙草を吸いつけた。窓から射しこむ西陽に頬の傷がくっきりと浮き出し、どうしても目がそこへいってしまう。浅野は説教の釣果をあげるための重厚な語り口を思案しているようだった。煙を吐き出しながら、チューと鼻をすすり上げた。
「どうだ、最近は―」
 冷静をてらいながら彼が見やった窓の外、たいして遠くないところで、テニス部員が並んでラケットを振っていた。中に、片脚の短い加藤雅江の姿もあった。まだテニスなんかやっているのか。
「雅江はええ子やな。美人だし、頭もええし。おまえ、雅江と交換日記しとったってな。聞いたで。なかなか、やるやないか」
 明るく気取っていた時期の苦々しい思い出だ。
「馬鹿でしたね。恥ずかしいですよ。脚を治してやるなんて書いてね。格好つけてたんですね」
 浅野が、ふん、と鼻を鳴らした。
「露悪的だな。そんな話を聞いたら、雅江が悲しむぞ。しかし、そこまでものを考える力のあるおまえが、このごろ、どうしたんや」
「どうしたって、ふつうです」
「ふつうのはずがあるか! 何きばっとるんや。寺田のまねしとるつもりか」
 遠くの机から久住先生が目を上げ、片目をつぶった。
「まねなんかしてません」
「そうか……。どうのこうの言っても、あいつは大人物や。おまえごとき小物じゃ、とても追っつかん」
 浅野は歯をこすって笑った。醒めた笑い方だった。浅野は自分の言葉が生み出した効果を上目で観察していた。そして、大時代な身のこなしで椅子を回した。
「ま、さしずめ、いまのおまえは、屋根の樋に挟まってしぼんでまったゴムボール、あれやな。飛びすぎて、逸れて、とんでもないところに嵌まっちまったな」
 そのイメージは私にも鮮やかにイメージできた。人目につかないところで雨風にさらされ、硬くなってしぼんでいく―。
 浅野は私の表情の変化を認めると、傷のある側の頬をゆるめた。もともと声の小さい浅野の揶揄はほかの教師たちの机までは届かず、彼らはめいめい雑談に興じていた。声が聞こえてくる。
「高島忠夫の赤ちゃんを殺した十七歳の女中は、新潟から出てきた金の玉子らしいわね。上京した当初は、相当高島夫妻にかわいがられたんですって」
 つまらないことに関心があるものだ。
「そのあとで生まれた赤ん坊を、自分よりかわいがるようになったから、夫婦に復讐したという話だけど、まったく見当のつかない理屈だなあ。山口二矢(おとや)以来この数年、十七歳の犯罪ばかりで、空恐ろしい気がするよ」
 応えるほうも応えるほうだ。
「祭壇に死んだ子の笑顔の写真なんて……。私なら、立ち直れません」
 浅野がもう一本煙草に火を点けた。
「……俺はな、おまえにしぼんでほしくないんだ。―寺田はたしかに大人物かもしれんが、あれは、カスだな。頭はいいが―」
 足の裏にひやりと寒けが走った。浅野は机に置いた濡れ羽色のライターを指で弄んでいたが、人の悪そうな笑みを浮かべながら横ざまに煙を吐いて、こう言った。
「おまえの頭の良さとは質のちがうもんだ。ひょっとしたら、知能はおまえが一番かもしれんと先生方も言っとる。事情は山田先生から聞いとるからな。しかしな、それとは関係なく、とにかく小物はカスにもなれんのよ」
 校庭を走り回るテニス部のランニングの地響きが、とつぜん職員室を揺すり上げた。何か大きな憤りに似た悲しみが私を満たした。
「よくわかりました。じゃ、帰ります」
「今度よからぬ報告を受けたら、ほんとにうちへきてもらうぞ」
「はい―」
 私は立ち上がると、離れた机にいた久住先生に目礼をして、職員室を早足に出た。
 校門を抜け、飯場と逆の方角を目ざして歩いた。練習に精を出している関やデブシや太田の顔が浮かんだ。沈みかける陽を追って歩きつづけているうちに、いつのまにか神宮の境内の大楠の前にきていた。参道に冷えびえとしたまだらの夕日が落ちている。肋骨のように張り出した根方に横たわり、カバンを枕に仰向くと、痛みを覚えるほど高ぶっていた神経が静まっていった。見上げた目に、高い梢の隙間の明るい空が見えた。
 野球をしていない時間がゆっくりと過ぎていく。私はその時間の中で、自分に誠実に生きるという意味を考えようとした。しかし何も、何一つ、これといった意味を思いつくことはできなかった。たった一つ、目まいがするほど喜ばしいことを確信できた。それは北村和子を心から愛しているということだった。彼女を抱擁し、口づけをし、その性器に自分の性器を埋没させる悦びを思うとき、憂鬱な気分はあとかたもなく消えていった。
 あの廊下の暗がりで節子と口づけをして以来、葉が枝から離れ落ちるように、母親という枝から抜け落ちていく自分を感じてきた。しかし、そのすがすがしい感覚の浄化は、異なった世界へ生まれ変わるというほど革命的なものではなかった。単に古くて気に染まないものを捨てて、未来を楽観するという快さに基づいていた。私はカズちゃんによって生まれ変わったのだった。彼女に対する自分の気持ちを見極めようとは思わなかった。なつかしく胸を満たす思いを、曖昧なまま放っておきたいと思った。
         †
 涼しい風が吹きはじめた。
 退院以来どこにいるとも知れない康男に会っていなかった。また、リューマチ先生の期待を裏切り、一度も牛巻病院へ出向かなかった。私はひたすら野球に没頭した。そうしなければ自分の悍気(かんき)を抑えきれない気がしたし、いまここで日常の習慣から逸脱すれば、せっかく大事に護ってきたすべてを失いそうな気がした。
 本城中との練習試合まで、あと一週間と迫っていた。場所も二年前と同じ笠寺球場に決まった。和田先生が張り切っている。
「ここにきて中村には確実な長打力がついたし、野津のコントロールも見ちがえるほどになった。大砲二台じゃ、ちょっと心もとないが、これまでの勢いでなんとかいけるだろう」
「ウース!」
「いけるで!」
 背高ノッポの関と、いやに尻のあたりに筋肉のついた太田が、ドスの利いた声を上げた。俺の存在も忘れるなというデモンストレーションだ。御手洗がニヤニヤしている。私は関や太田よりも、御手洗のシュアなバッティングのほうを高く買っている。
「リリーフも二枚、バッチリだ。向こうも今年ベストエイトまでいったチームだ。二年前に一度やられてる相手だが、今年は互角以上だろう。気負わないでいけば、勝てる」
 卒業していった崎山と今に代わって、三年生の補欠から抜擢された努力家らしい右投げの二人が、この春から野津の控えとして投球練習している。私は彼らを見ても、名前を思い出せなかった。野津に比べたら小便球しか投げられないけれど、一、二回の救援で目先をくらますにはこれでいいのかもしれない。
「あいつらが投げたら、ぜったい打たれるで。野津がもてばええけど、いつ乱れるかわからんもんな。やっぱり、打って勝つしかないやろ。もう本間さんもおらんし、神無月一人に頼っとれんぞ」
 二人のピッチャーを眺めながらデブシが言った。その日は部員たちのバッティング練習に力が入った。私は、十本のうち五本はするどい当たりを飛ばせるよう、確実なミートを心がけた。関や太田も強振せずに、コンスタントにライナーを飛ばしている。
 ベーランが終わり、後輩たちの後片づけを手伝っているところへ、康男が、足を引きずりながら現れた。思わず私は階段の上がり口に目を凝らした。浅野の気配はない。
「ちょっと待ってて。いま着替えてくる」
「おお」
 康男から視線を逸らしてうつむきがちにしている部員たちを尻目に、更衣室に駆けこんで着替えをすませると、並んで歩きだした。
「リハビリ、順調にいってる?」
「あと、五、六回やな」
「いま、どこにいるの」
「松葉」
「あのアパートは?」
「かあちゃんと男の、チンチンカモカモ部屋や。あの年になって、よう飽きんもんやで。弟の教育に悪いけど、しょうないわ。リハビリついでに、リューマチに会いにいったったわ。さびしいやろ思ってな。帰りにセッチンにも廊下で会った。おまえのこと、細かく報告してくれって言われた。報告せんけどな」
「とにかくぼくは、彼女のことは何とも思ってないんだよ。誕生日のプレゼントまでもらって、冷たいやつだと思うかもしれないけど。……リューマチ先生、喜んだろうな。康男はやさしい男だね」
「あの先生も、よう生きて、あと二、三年やろ。これも何かの縁やからな」
 私はとつぜん、リューマチ先生に対するなつかしい気持ちでいっぱいになった。
「そのうちぼくも会いにいくよ」
「無理すな。……浅野に見張られとることだけは、セッチンに言っといたで。おまえが薄情者(もん)て思われたら頭にくるからな。―ちゃんと浅野がおらんのを確かめてから上がってきた。心配せんでええ」
「きょうは、どうしたの。まさか節ちゃんの伝言を知らせにきたわけじゃないだろ」
「……兄ちゃんが連れてこいってよ」
「光夫さんが? どこへ?」
「松葉の本宅やが。兄ちゃん、いま、校門で待っとる」
 敬愛をともなった好奇心が湧き上がった。
 校門の外に、トレンチコートに灰色のスーツを着た光男さんが待っていた。
「ご迷惑でなかったですか?」
 彼は頭を低くして尋いた。
「いえ、ぜんぜん」
 光夫さんはかすかな笑みを浮かべた。彼にはヤクザ者らしくないぎこちないところがあった。それが恐ろしげでもあり、魅力でもあった。彼は康男の脚を気遣うように、下目使いに歩きだした。
 松葉会の本宅は、宮中から歩いて五分ほどの、本遠寺裏の民家が建てこんだ一画にあった。しかし、一見してその種の人たちが棲む建物だとわかった。あたりの家とはちがって旅館ふうの棟長の二階家で、黒木の柱を対に並べた門の両側に、葉の大きいタイサンボクと、寒竹が植えてあり、打ち水をした玄関まで飛び石が伸びている。踏み石の両側に砂利が敷きつめられ、竹以外に表からの視線をさえぎる障害物はなかった。すぐ目につくのは全面ガラスの引き戸で、ガラス一枚ごとに松葉会の紋章が金で捺(お)されていた。
 ガラス戸を空けて、何人かの男が光夫さんを迎えに出てきた。光夫さんはコートを脱いで中の一人に渡し、康男を伴って式台を上がった。カバンを持った学生服の私だけが玄関土間に残された。
 土間に居並ぶ男たちの目つきには、ふつうの大人らしい分別も窺えたけれど、それと同時に何か挑みかかるような光もあった。しかし彼らはいかにも礼儀正しかった。顔を見ると一々礼を返す。彼らはまばゆい者たちだった。命に関わる仕事をしている人びと、たとえば兵士とか、ボクサーとか、機動隊といった人びとの身の周りにただよう、死に侍っている者の発する威光のようなものが彼らにあった。ふつうの人は、そういう光を発している人間がそのへんを悠々と歩き回っているのに出遭えば、ひたすら畏怖するだけで、それ以上近づきにはなろうとしない。懇意になって、いきなり死のほうへ連れていかれてはかなわないからだ。




宮中学校 その5へお進みください。

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