八十三 

 タケオさんは足音の気配を感じて、隣の勉強部屋に引っこみ、襖を閉めた。縮れ毛を濡らした浅野が上ってきた。机をあごで示し、
「俺がずっと使っとった机だ。抽斗はきれいにしてある。少し机に向かえ」
 机に向かうことはもともと苦痛ではないので、素直に従った。ただ、きょう、この瞬間に、他人の机に座って何か頭を働かせるにはかなり疲労していた。それでも私はカバンから教科書を取り出して、形ばかりに開いた。ステテコ一枚になった浅野は、蚊帳の中の敷布団にあぐらをかき、あしたの下調べをしているようだった。
「何時までやればいいですか」
 背中で尋いた。
「適当でええ。たくさんやればそれだけ成績が上がるというものでもにゃあ」
 弟に言うこととちがっている。私は一行も教科書を読み進めないまま、机から離れることも、振り向くこともできなかった。退屈な時間を、かたくなに姿勢を正したまますごした。意識が教科書に入りこんだり、そこから出ていったりする効率の悪い時間の中で、私はカズちゃんとすごした記憶の断片を少しずつ拾い集めたり、つなぎ合わせたりした。
 ときどき浅野が私の背中に声をかけた。それはでたらめとも思えるほど、異なった価値観の呟きだった。たとえば、こんなふうに―。
「直井はキレがない。あんなガリ勉野郎に負けるのはつまらんだろう。……俺もおまえの年ごろには、やっこ凧みたいにのしていたもんだ。寺田どころじゃなかったんだぞ。家族にも相手にされない、悪評さくさくの人間だった。この傷も、駅裏で愚連隊と立ち回りをしたときにできたものだ」
 とか、
「現役で早稲田の教育学部に受かったんだが、家の経済と、親孝行も考えて、地元の大学にした。いま思えばやっぱり早稲田にいっておけばよかったなあ」
 とか、
「俺は、ドラマのないやつはきらいでね。ひとの五分の一、十分の一の努力でのし上がるってのがいいな」
 結局のし上がりたいのですか、とは訊かなかった。権威主義が、まじめな努力家特有の不満に根ざしていることを直観で知っていたからだ。その不満は表向き努力を軽んじてみせるダンディズムの根にあるものだけれども、じつは努力を尊重する心こそ彼の本領だった。威嚇的な口調で弟を鼓舞したことが曲げられない証拠だった。でも、彼はそのことを口に出してはならなかった。努力を軽蔑する姿勢が大事だった。
「何時までやればいいですか」
 もう一度、私は訊いた。浅野は作ったような重々しい声で言った。
「そうだな、十二時、いや、一時にしよう。勉強は苦しいものだということを、肌で知らなくちゃいかんからな。旭丘はきびしいぞ。宮中から、一人、……うーん、せいぜい二人くらいかな。……俺も起きてるから、がんばれ。しかし、おまえ、直井なんかに負けつづけて、情けなくならないか」
 思ったとおりだった。彼の興味はひたすら勝ち負けにあるのだ。何がドラマだ、何が五分の一、十分の一だ。勝ち負けがドラマになるはずがない。
「べつに情けなくないです。彼は怪物だから」
「ほかの先生がたも言っとる。おまえは直井や甲斐とは素質がちがうとな。おまえは天才なんだよ。ふつうにやれば、すぐ一番になれる」
「わかりました。それじゃ、中間テストの勉強でもしようかな」
「そうしろ。目標は十一月の中統全県五番以内だぞ」
「はい」
 五番だろうが、一万番だろうが、天才だろうが、凡才だろうが、とどのつまりは、スジコの背比べだ。だれがだれやら区別のつかないスジコ連中に混じって、チャイムに合わせていっせいに、はじめ! やめ! なんてゲームをしながら、悦に入っていられる神経がわからない。そんなテストでいい成績をとったからって、何がどうなるというのだ。勉強なんかガキの遊びだがや、と言った康男の気持ちがいまは痛いほどわかる。
 私は適当に、理科の教科書に赤線を引くふりをしていた。しかし、いつしかしっかりと暗記に努めている自分に気づいて、苦々しくなった。振り返って浅野に問いかけた。
「先生、康男はのしてると思いますか」
「思う。おまえはどう思う」
「……康男は、のしてるんじゃなくて、何もしなくても、でき上がっているんですよ。大きくね。先生がいつか言ったように、もともと大人物なんです。のす必要なんかない」
「俺のような小物はのす必要がある、ということか? それは失敬した。寺田も友人冥利に尽きるだろ」
 額の下から見つめる目に、もって回ったあさましい利己心が覗いた。私がそんなことを皮肉らしく言ったのは、この目の利かない教師を赤面させてやるためだった。効果はあった。しかし、こうした観念の遊びは、ちぎれ雲のように、私の心の上を過ぎた。そんなことをしても何の喜びもなかった。
「寺田は二、三日中に学校に出てくるぞ。しかし、進級は危ないな」
 それきり無言になった。眠れないでいるらしく、意味もないがさごそという音だけが聞こえた。眠りに墜ちかかる朦朧とした状態がやってきた。私は起きていることを浅野に示すために、わざと椅子をきしませたり、目の前の教科書をぱらぱらとめくったりした。
 やがて浅野は眠りに就いた。それと同時に眠気が消え失せ、目が冴えてきた。肩越しに窺った。いつのまにか彼は、天然パーマの髪にヘアネットをしていた。間近で見られているとも知らずに、口をだらしなく開けている。年より老けた、つまらない顔だ。机に顔を戻し、政治経済の教科書を取り出して、赤鉛筆を握る。

 基本的人権とは、人間が人間である以上、人間として当然持っている基本的な権利。日本国憲法は、思想・表現などの自由権、生存権などの社会権、参政権、国・公共団体に対する賠償請求権などの受益権を基本的人権として保障している。

 よくわからない文章だ。〈人間が人間である以上〉とはどういう意味だろう。人間として当然持っている、というのもわからない。適当に線を引く。……権、……権、……権。浅野の規則正しい寝息を聞くまいとして、からだじゅうの血が逆流する思いに駆られる。私は彼に背中を向けたまま教科書を閉じ、何もない机の表面に活字が貼りついてでもいるように、じっと視線を凝らしていた。タケオさんの部屋からコトリという音が聞こえた。
 夜中を過ぎて、机にいるまま、腕に頭を預けてしばらく眠った。ふと目覚めると、ベランダに雨垂れの音がしていた。静かな、切れ目なくつづく音だった。自分がどこにいるかに気づいて、一瞬激しい動悸が拍った。私は教科書を閉じると、蚊帳をたくし上げ、浅野の隣に接して敷かれたタオル掛けの蒲団にズボンのまま横たわった。
         †
 それから何日かというもの、私は浅野にぴったりつき添われて登校し、授業のあいだは両腕に頭を沈めていた。私の無気力な態度を咎める教師は一人もいなかった。たまに顔を上げると、教室はいつものとおりいやに明るくて、埃っぽく、黒板の上には美しい光の模様が揺れていた。
 康男は相変わらず教室に坐っていたけれども、浅野に何か強く言い含められているらしく、私が視線を投げると、すまなさそうにうなずくだけだった。私に笑いかけることさえ許されていないようだった。クラスのだれも彼に話しかけようとしなかった。もう寺田康男は隠れた権威者ではなく、単なる足の悪い、目立たない生徒になってしまったのだった。
 昼休みになると、私は弁当箱に屈みこんでめしを食った。毎日浅野の母親に持たされる、玉子焼きとかウィンナーの入れてある弁当だった。うまかった。食いながら窓の外に顔を向け、ぼんやり下の校庭の生徒たちを眺めた。康男を振り返ると、殊勝な顔で黙々とパンを食っていた。彼は、たいてい午後の授業を一つか二つ早目に切り上げて、ひっそりと帰っていた。たまらないさびしさを感じた。なぜ彼が最後の授業まで受けないのか、その理由はわからなかった。
 浅野は昼も夜も私から眼を離さなかった。混雑した電車の中では、その固太りのからだが遠くへ引き離されることが多い分、少しは気がまぎれたけれども、二人きりで歩く登下校の道は、直接そばに寄ってこられる窮屈な思いにひどく悩まされた。とりわけ野球部を終えたあと、彼といっしょに帰っていく下校時間はうとましかった。
 炭屋は適度に繁盛していたが、父親は雇い人を置かず、妻と二人太物の青い前掛をして炭を分別したり、俵へ詰めたり、灯油を量り売りしたりしていた。家族の訪問客というものはほとんどなかった。彼はかならず晩酌をし、世間に対する苦情を言った。彼が酒を飲みだすと、母親は土間へ下りて風呂を沸かしにいった。
 無聊と倦怠に満ちた新しい時間を積み重ねていくにつれ、たぶんそのせいで、私は驚くほど健康になった。弁当を含めて三度のめしを食い、夜は勉強だけをし、毎日きちんと仕舞い風呂に入る。風呂の小窓から古いナツメの木を眺めながら、坊主頭にシャボンを立てるのが習慣になった。
 しかし、浅野に背中を睨まれてすごす単純で健全な日々よりも、これまでのどんな不健全な一日も複雑に輝いていたように思われた。飯場の夜の喧騒や、突貫工事で社員たちが出払った昼間の静けさがなつかしかった。わけても、カズちゃんといっしょに夜更けの大瀬子橋から眺めた黒々とした川面が恋しかった。
         †
 登校の道は、名古屋駅へあわただしく急ぐばかりで、何の趣もなかったけれども、夕暮れの帰り道は、どこかの梢で鳴いているヒグラシの声を聞いたり、民家の庭先で鳳仙花の実の弾ける音が聞こえたりして、少しばかりの慰めがあった。
 休日になっても、散歩すら許されなかった。休日はタケオさんがお守り役だった。彼は感じのいい人物だった。浪人という身分は、寝ても覚めても、一日じゅう勉強をしていなければならないものらしく、彼が廊下の障子を開けて出ていくところをめったに見かけなかった。ある意味、彼も私と同様、軟禁状態だった。
 彼はいつも明るかった。ある日曜日の夜、休日出勤をしている浅野の留守に、タケオさんが襖からひょいと顔を出し、
「おいで、レコード聴かせてあげる」
 と部屋に誘った。網戸を閉めた空に星が淡く瞬いている。窓の外は裏庭らしく、痩せたヒマラヤスギの葉先が見えた。タケオさんはニキビ面に微笑を浮かべながら、小振りなステレオでレコードをかけた。プレスリーの涙のチャペルだった。次にフォー・シーズンズをかけた。初めて聴く美しい曲だった。しばらくポップスを聴いていなかったので、一心に耳を傾けた。
「きれいなメロディですね」
「アメリカのヒットチャートでいま一位をつづけてる曲だよ。ラグ・ドール。ボロ人形って意味。貧乏な女の子に恋する男の子の話だ」
 タケオさんは澄んだテノールで、レコードに合わせて唄った。私がうなだれてじっと聴いているので、
「気に入ったみたいだね。あげるよ」
 とEPのジャケットを差し出した。
「いいんですか」
「もちろん。それとも、新しいレコードを買ってあげようか?」
「いいえ、これでいいです」
 いつ聴けるかわからないけれど、自分のステレオでじっくり聴いてみようと思った。
 タケオさんの部屋には自分用のテレビも置いてあって、家の人たちが彼に気を使って贅沢な浪人生活をさせていることがわかった。彼がテレビを点けると、西郷輝彦が青い背広姿で唄っていた。
「十七歳のこの胸に、か。やっぱり歌謡曲はピンとこないな。日曜の八時に逃亡者っていうおもしろい番組があるから、観においで」
「先生がいいって言ったらね」
「どうせ下で兄さんも同じものを観てるんだ。何も言わないよ。おっと、そろそろ兄さんが帰ってくる時間だ。部屋に戻ったほうがいい。この家は、兄さんが一番だからね」
         †
 何日も浅野家の家族を観察して暮らした。散歩もできない身では、そんなことをするしかなかった。飯場の人たちに親しんだ目に、彼らは機転の利かない無趣味な人びとに映った。彼らは冗談も言わなければ、抽象的な人間分析もせず、芸能人と社会的事件と天気と仕事の話ばかりした。ささやかなりとも苦悩と呼べるものは生活のそればかりで、目が常に世間に向いていた。せめて顔かたちだけでも際立った点はないかと考えて観察をつづけたが、収穫はなかった。みな美しくなかった。反っ歯の小山田さんでさえ彼らに比べれば思索の深みを偲ばせるイイ顔をしていた。どこからどう見ても彼らは、飯場の人たちとはまったく生きている次元も姿かたちもちがうのだった。
 燃料の販売を生業にする浅野の父母は、客がきたとき以外はどこかの部屋に引っこんでいて、一日何をしているとも知れなかった。平日も休日も、いっときにぎやかになるのは食卓だけで、私はそこで目立たないように箸を動かし、母親の立てた風呂を使い、静かに二階に上がって、深夜まで律儀ぶって机に向かった。むろん、彼らは私にあれこれ話しかけたし、私もそれなりの応答はしたけれども、それだけのことだった。どこにも接点を見出せないこの人たちとうまくやっていくには、とてつもないエネルギーを必要とした。私は疲労した。



         八十四

 監視はいつまでも途切れなかった。もちろん私には道草の暇などなく、カズちゃんに会いにいく時間はなかった。教室の机に座っているとき、グランドでボールを追いかけているとき、浅野の視線に背中を刺されながら古机に向かっているとき、そして寝床に入ってからも、絶えずカズちゃんを思いつづけているせいで、何かをしゃべったり何かをしたりすることに意識が戻っていくためには、えい、と踏ん張るような努力が必要だった。
 しつこい監視と、ひとりの女への恋心に枷をはめられながら、私は毎日本を読んだ。まるで復讐か何かのように、活字の深みに溺れこんだ。浅野の書棚にある本も、片端から読んだ。されどわれらが日々、おれについてこい、行為と死、虚構の唇……。彼が並べている本は、いまどき話題になっているようなものが多く、心を轟かせるような巨きなものを望むにはほとんど役に立たないものばかりだった。
 毎夜、浅野が寝入る時間になると、私は一日の深い疲労感を覚えた。それは寝不足のためでもなければ、野球や勉強や読書のためでも、そして、カズちゃんと引き離されたためでもなかった。言動の一つ一つが監視の的になっている窮屈さに激しい疲れを覚えはじめたのだった。妥協にまみれた、それでいて神経の張りつめた毎日が重荷になってきた。浅野はいつもぐっすり眠りこんで、目を覚ますことはなかったけれど、そのいぎたない寝姿を見るときにも、いよいよ疲れが増した。
 私は深夜の机に向かい、ことばノートに疲れた詩を書いた。すると、無気力に思われていた自分の心臓が、絶え間なく、活発に動いていたことに気づくのだった。

  陽は照るままに照り
  英雄のようだった!
  運動と学業と
  その子の誇りだった
  ああ 扶翼の韻律が胸に萌え
  年たけた女をかたみに愛するまでは


 そんな絶望と希望がない交ぜになっている詩を毎晩書いているうちに、やがて、北村和子に対する自分の執着に怒りを感じはじめた。そして、この分別のない執着のせいで、愛する人間を遠ざけてしまったのだと確信するようになった。
 同級生たちは、私が高みから転げ落ち、ふたたび高みを目指すのをとっくにあきらめてしまっていると感じていた。康男だけはそう思わなかった。
 ―自分のせいであいつはつまらない拘束を受ける成りゆきになってしまったが、あいつならそんなことには負けないで、いずれ明るい万能ぶりを取り戻すだろう。
 寺田康男はいつも胸を痛めながらそう思っているにちがいなかった。いつも教室の隅から遠慮がちに、友のうっ伏した背中を見つめて憤っているにちがいなかった。学校なんかいつやめてもいいけれど、あいつのことだけが気にかかって去りがたいと思っているにちがいなかった。
 そんなある日、別棟の技術家庭の授業が解散したあと、加藤雅江が廊下を走ってきて、私の前に回ると大きくからだを揺すりながら方向転換した。張り切っていた。
「練習終わったら、いっしょに帰ろ。浅野先生に頼まれちゃった。白山の中学校で出張会議があるから、遅くなるんだって」
 きょうは浅野と帰らなくてもいいのだという喜びが電流のように走った。ただその電撃はあまりにとつぜんやってきたので、この幸運をどう活用すればいいのか、とっさに思い浮かばなかった。
「神無月くん、いま浅野先生のとこに下宿させられとるんでしょう? 何か悪いことしたの?」
「ああ、たぶん。毎日、夜遅く帰ってた」
「見舞いのせいやね」
「……いろいろと、ね。義理と人情だよ」
「寺田くんと夜遊びしとったってこと?」
「遊んではいないよ。一言では説明しにくいな。とにかく、なるようになったんだね」
「悪い結果が出ちゃったんやね。……でも、お仕置きされるってことは、浅野先生によっぽど気に入られとるんやね。寺田くんよりは見こみがあるってことでしょ?」
「関係ないね。オフクロに頼まれて、仕方なく預かったんだ。毎晩、あいつと枕並べて寝るよ。ゾッとする」
「神無月くん、なんだか、むかしとぜんぜんちがってまったね」
「どこが」
「……みんな、神無月くんのこと、心配しとるんよ」
「みんな? ぼくのことなんか、だれも心配するはずがないよ。心配というのは、その人のために痩せ細るほど気を揉むってことだよ。心配しすぎて、命を失うこともあるかもしれない。人間なんてせいぜい、心配が実現しないようにと願うだけさ」
「また、そういうことを言う。じゃ、神無月くんを下宿させた人たちが〈実現しないように〉と願っとることは、なに?」
「進学の失敗だね。進学なんて、ぼくの人生の目的じゃない。きざなことを言うようだけど、ぼくは社会的目的というものを持ってないんだ。野球で生きたいというのは趣味的なもので、社会的と言うのはオーバーだ。でも、お金をもらうという意味では、社会的な目的に属するのかもしれない」
「じゃ、神無月くんの人生の目的って、なに?」
「……社会の群衆とは関係のない、個人的目的かな。自分を愛してくれる者だけを愛するという……それが叶えば、社会的な成功は要らないな。……もともと、高校なんかいく気はないんだ」
 心の底にあったことを言った。
「本気?」
「……ぼくの理想は、中学出たら働くことだ。好きな人のためにね。でも、そういうことで周囲に波風を立てたくないから、結局高校にいくことにはなるだろうけど、少なくともそれはぼくの思いどおりの生き方じゃないね」
「そうできるのにそうせんのを見て、心に波風の立たない人なんかおらんわ。……好きな人がおるの?」
「いたっておかしくないだろ。知恵遅れじゃあるまいし。じゃ、いっしょに帰る前に、グランドで一汗流すか」
 加藤雅江は練習のあいだじゅう、何度もテニスコートから上がってきて、気もそぞろに私の行動を窺っていた。このごろでは、私はバッティング練習をほとんどしない。どんな大きい当たりを飛ばしても、チームメイトにはべつに目新しいことでないし、だれかその関係の人間が見ているという可能性もない。張り合いがないのだ。だから、守備練習ばかりしている。外野に転がってきたボールをタイミングよくすくい上げ、渾身の力でセカンドやホームへ投げ返す。そんな単純作業を、彼女はからだいっぱいに責任感をたたえて見守っていた。加藤雅江はトレパンを穿いていた。テニス部員の中でトレパン姿は雅江だけだった。早く暮れていく秋の陽が彼女の傾いた影を長く引き、いっそう激しいアンバランスを目立たせていた。
 加藤雅江は熱田駅までついてきた。伏見通りの坂から、外苑のまばらな木立を透いて茜色が拡がっているのが見える。林の上の空に巻き上げるように雲が湧いている。
「うれしいな、神無月くんのお守りをするの」
 彼女はまぶしそうに私を見上げた。私は通りすがる一人の女を指差し、
「大きな胸だな。揉み心地がよさそうだ」
 とか、別の女の後ろ姿をじっと見て、
「尻が小さい。セックスアピール、ゼロだな」
 などと声高に下卑た批評をした。加藤雅江は頬を緊張させ、いちいち取ってつけたように笑った。
「神無月くん、ほんとに変わってまったね」
 この親切な女をますますからかってやりたくなった。
「アタマの中身のこと?」
「そうよ、気持ちのことよ」
「もちろん、気持ちはきのうと同じじゃない。この気持ちにきのうがあったことが不思議なくらいだ。気持ちだけじゃない。ほかのところも、きのうとちがってオトナになったんだぜ」
「いや!」
 先に立って歩きながら、私は背中で語りかけた。
「こう見えても……」
「やめて、いやらしい!」
「いやらしいもんか。この世でいちばん神聖なことだよ」
 駅舎が目の前にあった。不意に心が決まった。ふるえるような気がした。私は加藤雅江を振り返った。
「悪いけど、ここで帰ってくれないか」
 雅江はまじまじと私を見つめた。肩で切り揃えた髪が、ひどく素朴に見える。
「ええわよ。どうせ熱田駅まで送ってくれって言われたんやから。……でも、やっぱり改札口まで見送ろうかな」
「頼むから、帰ってくれ。寄らなくちゃいけないところがあるんだ。きょうしかチャンスがないんだよ。ぜったい迷惑はかけないから。……それから、このことは内緒にしてほしいんだ。雅江と見こんで、頼む」
「だれに会うかだけ、教えて」
「康男だよ。リハビリの日なんだ。会いにいって、びっくりさせてやりたい。ここんところ、学校であいつと口を利けなかったから。浅野に止められててさ」
「いいわ……」
 渋々加藤雅江はうなずいた。
「でも、約束して。遅くならないうちに、ちゃんと電車に乗るって」
「約束する。まちがいない。一時間、いや、二時間以内に、かならず浅野の家に帰る」
 加藤雅江はカバンを持ちかえ、美しい顔を二度三度うなずかせた。そして身を翻すと御陵の坂の麓へ引き返していった。私は数秒待ってから彼女のあとを追った。雅江は神宮前の商店街を上下に揺れながら東門のほうへ曲がっていった。伏見通りへ戻ったほうが近いのに、おかしなやつだ。神宮の境内を抜けていくつもりだろうか。
 ―かえって好都合だ。
 窒息しかかっていた肺にたちまち新鮮な空気が入ってきた。私は自分を生き埋めにしていた土くれをかき分けるように、御陵の坂を戻り、足早に神戸町目指して歩いていった。胸の鼓動が止まなかった。
 ―どうか、奇跡的にアパートにいてほしい。
 鶴田荘のある道の外れから、鉄階段の下でアパートの前通りに水を撒いている大柄な女の姿が見えた。鼓動が最高潮に達した。長い髪を揚げて丸め、頭の後ろに留めている。ゆったりとした茶のスカートに見覚えがあった。
 ―カズちゃんだ!
 踵の低いサンダル履きの豊満なからだが、入り陽を受けてきらきら輝く飛沫にうっとり見とれているようだった。私はあまりの幸運にうろたえ、思わず駆け足になった。胸の弾みに合わせてカバンの中身がゴトゴト鳴った。
「カズちゃん!」
 彼女はぼんやりした眼差しで振り向き、そこにあるはずのない私の笑顔に出会うと、ワッと手を上げてホースを取り落とした。
「どうしたの、キョウちゃん!」
「カズちゃんこそどうしたの? 飯場は?」
「きょうは生理で体調が悪かったから、お休みをもらったの」
「ああよかった、いてくれて。一か八かできてみたんだ」
 ホースからほとばしる水が、素足のかかとを洗っている。私は水を止めにいった。
「信じられない。きてくれたのね……。夢じゃないのね」
 カズちゃんはしっかり私を抱き締めた。乳房のふくらみが心地よく肋骨を押した。あたりかまわず口づけをする。彼女の顔が涙にまみれていた。唇を離して、しっかりと私を見つめる。
「こんなことして、危ないんじゃないの?」
 私は彼女の肩に手を置き、
「だいじょうぶ、浅野は白山の中学校に出張だって。一、二時間で引き返せばなんてことないよ。ごめんね、ぜんぜんあの家から出るチャンスがなかったから」
 カズちゃんは両手で涙を拭いながら、
「私こそキョウちゃんに会いにいかなくてごめんなさい。毎日、居ても立ってもいられなかったわ。でも、お母さんを刺激したらたいへんなことになるし、高校受験前の大事なときだし、とにかくキョウちゃんに迷惑かけたくなかったの。飯場に帰ってくるまで辛抱強く待とうって決めてた……」
「会いたかった、ほんとに」
「私も。毎日、息が詰まるくらい胸が苦しかった。たった一週間なのに、何年も経ったみたい。ほんとうにキョウちゃんは運が悪かったのね。……籠の鳥になってしまって」
「……そうだね。棺桶の中って、きっとこんな感じかもしれない」
「縁起の悪いこと言わないで。あのイヤな男、熱血先生を気取ってるわけね。でも、キョウちゃんにそんな仕打ちをするのは見当ちがいだわ。自分に恥じるような悪いことなんて何もしてないのに。こんな仕打ちをする人たち、いつか化けの皮が剥がれるわよ。ああ、キョウちゃん、うれしいわ。……コーヒー一杯くらいなら飲んでいけるわね。セックスはいまできないから、がまんしてね」
「もちろん! 会えただけで、もうじゅうぶんだ」


         八十五

 二人で鉄階段を上りかけたとき、カズちゃんはふと、私の肩口から訝しげな視線を投げた。私はぎょっとして振り返った。意外なほど間近に加藤雅江が立っていた。上目づかいの泣き顔でふるえている。
「こういうことやったの……。商店街から振り返ったら、神無月くんが急いで信号を渡るとこやったから、追っかけてきたんよ」
「なんだよ、卑怯なやつだな、こそこそ跡をつけやがって。ちゃんと帰るから安心しろって言ったじゃないか」
 加藤雅江は激しくカバンを振って、私の腰を打った。
「嘘つき! 神無月くんの神経ってどうなっとるの。正直に言えばいいじゃない。私が信用できんの」
 彼女は健康なほうの脚に重心をかけて立ち、引きつった頬をカズちゃんに向けた。カズちゃんは輝くように笑った。雅江はそれに応えず、
「……やばいと思うよ。知ってる人に見られたらたいへんじゃない。それじゃ、私、ほんとに帰るから。遅くならんといてよ。これでも信用あるんやから。この時間に先生が帰っとって、何か訊かれたら、私に誘われてコーヒー飲んでたって言い訳すればええわ。話合わせとくから心配せんといて。……さよなら」
 私は、沈んでは伸び上がる気丈な背中を見送った。スカートが揺れながら、彼女の貧しいからだの線を追いかけた。私はいびつな動きを目で追うことで、募ってくる不安をまぎらそうとした。
「気の毒な子―」
 カズちゃんを見ると、その顔に偽りのない同情の色が浮かんでいた。
「私と同じ気持ちの子だわ。かわいそうに」
 カズちゃんは早口で話しだした。私がいますぐにでも帰らなければならない事情を知ったからだった。彼女は私の心にいつも響いてくるあのまじめな、明るい表情で話した。私は充血した目で彼女を見つめ、そうして何度もうなずいた。
「逃げ出したくなったら、かならず私を連れて逃げてね。愛し合ってさえいれば、人生なんてどうにかなるわ。でも、そう決めるまでは、ぎりぎりまでがんばって。野球選手になる夢だけは捨てちゃだめ。きょうから日記をつけてね。そして、最初の一冊を私にちょうだい。大将さんを大切にしてね。たった一人のお友だちなんだから。私の電話は××―××××よ、覚えた? ××―××××。急いで帰って。愛してるわ。ほんとうに、キョウちゃんだけを、死ぬほど愛してるの。さあ、急いで、急いで帰って。いっしょにいきたいけど、だれかに見られたらたいへんだから、ここで見送る」
 私は、さよなら、と小声で言った。唇を噛みしめながら、振り返り、振り返り、道の角に向かって歩いていった。
 ほとんど陽が落ちていた。坂下の十字路まで一息に歩き、東門のほうを見やった。早々と大戸を下ろした神宮前の商店街は、淡いネオンに照らされながら、殻を閉じた貝のように一列に並んで押し黙っていた。
 帰り着くと、浅野はまだ戻っていなかった。かなり遅い私の帰宅を、母親は問い質さなかった。先生は、と尋くと、
「連絡こんから、遅く帰ってくるのかもしれん。郷くんは詩を書くんやね。机にノートが開きっぱなしになってたから、失礼して読んでまったわ。少し難しかったけど、ええ詩やった」
 ノートが置きっぱなしだったのは事実にしても、開けたままだったというのは作り話だろうと思った。
 母親の給仕でひとりだけの夕食をすまし、風呂を使ったあと、机に向かった。カズちゃんや加藤雅江のことを考えながら、長いあいだぼんやりしていた。ふと、日記帳をちょうだいと言ったカズちゃんの真剣な顔を思い出し、タケオさんの襖に声をかけ、新しい大学ノートを一冊分けてもらった。
「ふうん、日記帳を作るのか」
「日記をつけるの、初めてなんだ。タケオさんも日記をつける?」
「つけない。これといって、書き留めるほどのこともないから」
「……大学に入るのって、難しいの」
「うん、ぼくにはね。今度失敗したら、国家公務員の二級を取って、区役所にでも勤めようと思ってるんだ。いま、その勉強もしてる」
「たいへんだね」
「ちょっとね」
 つらい勉強のせいか、いつもよりにきびの色が濃くなっているような気がした。いっしょに蚊帳を吊り、蒲団を敷いた。タケオさんはシーツをきちんと引っ張りながら、
「郷くんのようないい子が、どうしてこんなことになっちゃったんだろうね」
 そう言っただけで、私がここに預けられたいきさつについてはけっして訊こうとしなかった。訊かれたとしても、私にはどう説明したらいいかわからなかった。康男の火傷から話しはじめなければいけないと思ったし、もっと前の白い校庭の喧嘩から話さなければいけないような気もした。そして、カズちゃんや滝澤節子のことを秘密にする以上は、結局何も話せないだろうと思った。
「音楽聴きたくなったら、声かけてね」
「はい」
 タケオさんが部屋に戻るとすぐ、スー・トンプソンのハヴ・ア・グッド・タイムが流れてきた。何年か前、クマさんからもらったLPの中に入っていた曲だ。康男の退院の日、光夫さんのカーラジオからも流れていた。中島そのみに似たキンキン声なのでそれほど好きではないけれど、このバラードだけは胸にくる。
 蚊帳にもぐりこんで、枕にあごを預け、考えあぐねた末に、大学ノートの表紙に『いのちの記録』と書いた。大島みち子の本の題名をまねていた。真新しいページを手のひらで圧し開いた。

 九月二十二日(火)曇り
 きょう劇的な出会いをしたカズちゃんが、日記を書いてほしい、そしてそれをちょうだい、と言ったので、きょうからこのノートを書き記すことにする。愛する彼女のために、偽りのない気持ちを書いていこう。


 小学四年のときカズちゃんに初めて出遭ってからのこまごまとした心の動きを、それにまつわるできごとなどを思い出しながら書いていった。康男の名前が何度も出てきた。彼についての描写は何か終わってしまったことのように、遠いイメージで語られた。彼から受けた影響のことはいっさい記さなかった。カズちゃんへの愛情ばかりを浮き彫りにして、康男へのそれは友人の一人といった程度のおろそかなものになった。
 カズちゃんが気の毒な子と言った加藤雅江のことは、どう書いたものか迷った。好きでもない女のことで妙に心を騒がせたくなかった。そこで、彼女にちなんだ印象的な一つの逸話を潤色して書くことに決めた。

 暗い教室の中で、加藤雅江の脚を見た日のことです。クラブの帰り、制服姿の彼女に呼び止められました。彼女は教室の暗がりで、何も言わず、ぼくの手をもてあそんでいましたが、とつぜん、スカートをまくり上げました。「見て」と彼女は言いました。薄暗がりに白い細い棒が見えました。「この脚だけが」そう言いながら彼女は、いとおしそうにしおれた太ももをさすったのです。その脚が自分のものでないことを願いながらじっと見下ろしている横顔が哀れでした。どうにかしてやりたいと思いました。ぼくは彼女の細い脚にキスをしました。そのあと、「だれももらってくれなかったら、ぼくがもらってあげるからね」と約束したのでした。

 こう書けば、カズちゃんは私の行為を高く評価するだろうと思った。私はこの日記を読んでいる恋人のやさしい眼差しを思い浮かべた。嘘つき、という加藤雅江の声が聞こえた。あわてて、脚にキスをした場面を消しゴムで消し、気の毒な子、と言ったときのカズちゃんの悲しげな顔のことを書いた。
 どんなふうに書いても、ただ、北村和子という女が好きだということを表現しているにすぎなかった。私はそれに気づいたとたん、じかに彼女の顔を前にして口でしゃべることのほかに、自分はほんとうに書きたいことがあるのだろうかと考えはじめた。彼女から離れてこうやって書いていることは、ぜんぶ作りごとじゃないのか。
 浅野は帰ってこなかった。出張先に泊まって、早朝に帰宅することにしたのだろう。この夜ばかりは、鉛筆の音やページをめくる音が不自然に途絶えても、
「どうした、何を考えとる!」
 という浅野の恫喝が背中に突き刺さってはこないのだった。ノートを閉じて蚊帳にもぐりこみ、仰向けになって天井を見つめながら、きょうのことを思いめぐらした。加藤雅江さえ引き返してこなければ、二人でコーヒーを飲み、熱田駅まで歩くことができただろう。
 私は下腹に手を伸ばし、そっと自分のものに触れてみた。その小さなものがカズちゃんの中に収まり、彼女の体液で温められ、戦慄したことが信じられなかった。そしてその記憶だけでも、これから先、生涯にわたって彼女を愛していけるだろうと思った。
 たとえ制限つきでもじぶんには自由があるのに比べて、働いているカズちゃんにはあまり自由がないように思われた。自分が囚われの身であることで、ちょうど二人の不自由の釣り合いが取れていると考えても、安心がいかなかった。考えれば考えるほど、いまこの手のひらの中にある小さな感覚器でカズちゃんと結ばれていることだけが、二人を結び合わせる固い絆であるように思われた。彼女も同じように思っているかどうかは心もとなかった。
         †
 覚悟して受け入れたはずの不良が、犬の散歩よろしくおとなしく連れ出され、連れ戻されしているうちに、浅野家の人びとの私に対する好奇心はしだいに薄れていくようだった。父親は私と顔を合わせることを巧みに避け、母親はただ無意味に寛容な微笑を送ってよこすだけになった。
 康男から何度か電話があったと、タケオさんがこっそり教えてくれた。電話は一度も私にとりつがれなかった。とりついではいけないと浅野が家族の者にいましめてあるのだという。
「寺田は来月中に別の中学校へ転校することになった。それで、おまえとはすっぱり縁切りになる」
 その話を聞いたとき、私はひどく驚いた。転校? しかし、浅野の表情から作り話でないと一瞬のうちにわかったので、聞き返すことはしなかった。
 ―ひどいことになってしまった。ぼくたちは、いつからこんなひどいことになったのだろう。
「転校するときには、いっしょにめしに連れてってやる」
 と浅野はつけ加えた。康男の転校を祝うつもりか? 何よりも、康男はなぜ追放されるのだろう。ヤクザ者だからか。彼がその流れであることは、むかしからだれでもわかっていることだ。いわゆるひと粒選(よ)りの期待の星を悪の道に誘ったから? 私は学校の宝物ではないし、私に対するその評価自体、真実でない。学校の秩序を乱したから? 彼はおとなしい無頼漢だった。学校を窮地に陥れたことなど一度もない。つまり、どれもこれも放逐の理由にするにはあいまいすぎる。おそらく、彼は単に煙たがられたのだ。
 静かな気持ちがやってきた。考えてもどうしようもないという、いつもの無性にさびしい気持ちだった。康男は私の犠牲になったのだ。学校にいてほしくないのは、じつは中学生として大いに破目を外している私のほうで、ところが多少進学の実績を期待できる私を追放するのは〈もったいない〉ので、学校には役立たずのコワモテの大物をスケープゴートにすることにしたのだ。そういうことなら、もうその決定は動かしがたいものにちがいない。康男もきっと私と同じようにあきらめているはずだ。決め事の好きな権力者たちに白兵戦を挑むつもりなど、ハナからぜんぜんないだろう。
「半年もしないで卒業なのに、康男もかわいそうですね」
「彼の兄さんから出た話なんだよ。こちらが強制したことじゃない。寺田はあの暴力団の屋敷を出て、母親のアパートに戻ったよ」
 光夫さんは私のことを気に入って、いつまでも康男の友だちでいてやってほしいと言った。その光夫さんが康男の転校を願い出るわけがない。まちがいなく学校側が光夫さんに働きかけたのだ。弟さんが転校してくれれば、前途有望な神無月に連帯責任は負わせないとか何とか言って説得したのだ。康男を愛している光夫さんにとって、それは弟の価値を私よりも劣ったものと値踏みされて、冷たく間引きされるような理不尽な言い草に聞こえただろう。
 ふと私は、カズちゃんのことさえ知られなければいい、そのためには、〈番長と秀才〉の友情を教師たちが危惧していて、彼と私の価値のバランスに気を配ってくれたほうがなにかと彼らの目を逸らすのに都合がいい、とエゴイスティックな気分になった。
 心が静まると、私は浅野に言った。
「康男と同じことにならないように、せいぜい勉強しなくちゃ」
 その夜、私は遅くまで机に向かい、そして、翌日の教室では真っすぐ顔を上げて授業を聴いた。康男と顔を合わせても、もちろん転校の話は持ち出さず、目礼を交わしただけだった。彼は私の視線に応えて、やっぱりやさしく笑っていた。
 私は自分の卑劣さにとつぜん胸がむかついた。すると、確信に近い思いが全身を浸した。
 ―遠からず私は康男と同じ運命をたどるだろう!



(次へ)