四十
戸板は初球、思い切り腕を振ってど真ん中に速球を投げこんだ。山口が少し後ろにからだを反らせた。ナチュラルにシュートして浮いてきたのだ。
「ストーライ!」
ウワーという喚声。木俣がきびきびと返球する。二球目、真ん中低目速球、振り遅れてファースト右へゴロのファール。バットが折れたようで、山口はベンチへ走ってバットを取りにいった。新しいバットに滑り止めを噴きつけて戻ってくる。ボールボーイが審判にボールを運ぶ。戸板がニューボールをこねる。三球目、外角スライダー、山口の振り出したバットが止まる。ボール。ツーワン。胸がドキドキする。戸板にとって生まれて初めての他チームとの対戦だ。四球目、外角胸の高さの速球、当てたが詰まった。高いセカンドフライが上がる。高木がオーライオーライと叫びながらファールライン上でキャッチした。
九番米田、気をつけろ。初球、少し気を抜いた外角高目ストレート、コーンと当てられる、かなり深いライトフライ。太田がキャッチ。ツーアウト。木俣がマウンドに走っていって叱咤する。力を抜いちゃだめだと言っているのだろう。戸板は激しくうなずく。
一番福本、カチンと決まった独特の構え。弾かれる前の発条。私がピッチャーならふるえ上がる。初球、内角腰の高さへ高速スライダー、福本腰を引く、ストライク。二球目、外角ぎりぎりのカーブ、福本伸び上がって縮む、ストライク。三球目、内角低目に落ちるカーブ、どうにか当てて一塁線ファール。木俣のすばらしい配球だ。福本はボックスを外して膝の屈伸運動をする。四球目、外角の剛速球、入ったか? ボール! 木俣が立ち上がって審判を振り返る。久喜は首を振っている。福本はボックスの外に出、バットを肩に担いで何か考えている。ボックスに入りなおした様子から見て速球を待っている雰囲気だ。五球目、外角パワーカーブ、引っかけてショートゴロ。チェンジ。木俣が飛んでいって肩を叩く。よくやったということだろう。出迎えるベンチのみんなも肩を叩く。水原監督が尻を叩き、
「小野二世誕生だよ。合格!」
六回裏ドラゴンズの攻撃。バッターは三番江藤。
「そろそろいくばい!」
米田はロジンバッグを掌でポンポン弄びながら、まったくの無表情だ。頭でも掻くように振りかぶって、初球、外角カーブ、ボール。地面スレスレに落ちたのでフォークかもしれない。二球目、真ん中低目シュート、コンパクトに振り抜く。センター前痛烈なヒット。
「ヨッシャー、つぶすぞ!」
森下コーチの檄が飛ぶ。
「四番、レフト神無月、背番号8」
轟音のような喚声。米田は相変わらず無表情でロジンバッグをいじっている。何か考えているとは思えない。私も何も考えずにいく。きた球を打つ。初球、真ん中フォーク、ワンバウンド。思わず前のめりになる。私にしてはめずらしい。それほど変化が激しかった。二球目内角地面近くへフォーク。心静かに見逃す。ボールツー。岡村が立ち上がり、ちょっと米田に近づいて一塁を指差す。敬遠はないだろう。一塁線を抜かれない球を投げろという意味か、あるいは牽制しろという意味かよくわからない。三球目真ん中低目フォーク、ボール。手を出さないとわかった以上、あとは直球一本だろう。四球目、内角ストレート、ぎりぎりストライク。どれもこれも〈きた球〉にならない。五球目、外角高目速球、振らせ球。インに小さくステップし、左掌の土手を強く押し出す。
―食った。
大歓声が上がる。左中間へ高い飛球。矢野と福本がバックする。喚声が後押しする。フェンスすれすれに舞い落ちた。江藤が右こぶしを突き上げて走る。長谷川コーチとタッチ、江藤の背中を追う。水原監督と短い抱擁。
「ほとんど立ち振りだったね。めずらしいものを見せてもらった」
「ぼくも初めてです。腰を利かせました」
歓迎する仲間たちの中へ飛びこむ。尻や腰を叩かれる。五対十五。
五番木俣、センター前へゴロで抜けるヒット。つるべ打ちになるかと思ったが、菱川センターフライ、太田ファーストゴロ、一枝三振でスリーアウトになった。
七回表。もちろん戸板続投。木俣としばし打ち合わせ。サインだろう。阪急のバッターは二番阪本。さっきはセンター前にクリーンヒットを打っている。初球、外角低目ストレート、ボール。二球目、内角高目カーブ、ボール。のけぞらせる。三球目、内角低目ストレート、ストライク。四球目、内角低目カーブ、ストライク。気づいた。紅白戦とちがって無理に三振を取りにいっていない。それでいてスピードは秀孝に肩を並べる。三振は取ろうと思えば取れる。つまり秀孝と同様、大投手の素質があるということだ。それにこの二人は、キャンプでも人一倍特守をしていた。しかも自主的に参加してだ。五球目、内角低目ゆるいストレート、サードライナー。うまい。菱川がマウンドへ走ってボールを渡しにいく。
三番サングラス森本。初球、真ん中フォーク、木俣後逸、愛嬌。よく落ちることを示すためにわざと後逸したのかもしれない。二球目、内角スライダー、ストライク。森本が久喜を見て頭をひねる。三球目、外角落差の大きいカーブ、一塁スタンドにファール。四球目、外角へゆるいカーブ、ショートゴロ。いつあの剛速球がくるのかと戦々恐々の気持ちでバッターボックスにたっていたら、こういう結果になるのが当然だ。
四番長池。この男もうまく料理できるだろう。初球、内角高速スライダー、ストライク。二球目、真ん中高目豪速球、わずかに高く、ボール。手が出なかった感じだ。三球目、外角パワーカーブ、一塁スタンドへファール。四球目、外角高目豪速球、空振り三振。打たせても取り、空を切らせても取る。二回、打者六人、パーフェクト。時計は三時十分。三回でだいたい一時間だから、ふつうのペースの試合時間だ。ネット裏を見ると、つららの姿がない。遅番出勤で帰ったのだろう。望月優子の顔を思い浮かべる。小川がブルペンへ歩いていく。
七回裏、米田も続投。バッターは戸板。プロ初打席。舐められるだろうな。初球、外角速球、明らかなボール。二球目、外角速球、ぎりぎりのボール。よく見切っている。三
目、しつこく外角速球、ストライク。四球目、内角高速シュート、ストライク。打てないところだ。五球目、外角スライダー、しっかり腕を伸ばして打つ。フラフラとセンター前に上がる。福本、前進、前進、前にのめってグローブを差し出し、地上スレスレで脇腹を滑らせてキャッチ。内野スタンドは戸板の善戦に拍手を送り、外野スタンドは福本のファインプレーに拍手を送る。戸板はベンチの連中に肩を叩かれる。川地民夫がはにかむ。一番江島。初球を打ってセンターフライ。二番高木、三球目を打ってセカンドゴロ。
八回表、戸板お役御免となり、いよいよ小川健太郎登場。アナウンスと同時に大歓声が上がる。小川の投球練習はおもしろい。速、速、遅、速、速、遅のコンビネーション。速は秀孝や戸板と見まごうスピード、遅は山なりのスローボールだ。スタンドが大笑いになる。この回を抑えようとするのではなく、三、四点をくれてやる心づもりでいるのが、観客といっしょになって笑うその表情から窺える。天真爛漫の自然児。
「八回表、阪急ブレーブスの攻撃は、五番レフト矢野、背番号23」
初球、ど真ん中速球、ファールチップが久喜のプロテクターを直撃する。大事なし。二球目、ど真ん中低目カーブ、ボール。三球目、ど真ん中高目ストレート、詰まってセカンドゴロ。高木軽快にさばいてワンアウト。次から次と繰り出される好投手に阪急ベンチは茫然としている。十点差に絶望するばかりで、何の策も思いつかないようだ。六番石井にようやくピンチヒッターが出る。デカい男が出てきた。
「石井に代わりまして、バッター、フランク・カストロ、背番号5」
小川は巨体の外人に驚いた様子もなく、初球、インハイのストレートで脅しにかかる。そのボールをカストロはムチャ振りして、センター前にポトンと落とす。
「一塁ランナーカストロに代わりまして、大熊、背番号12。大熊選手は八回の裏からファーストの守備に入ります。バッターはピッチャー米田、背番号18」
初球、真ん中速球を打って、平凡なセンターフライ。これが手を出したくなるちょうどいい高さのボールなのだ。小川がいつか言っていた。
「三振を取りたかったり、強打者を打ち取りたかったりするときは、配球やボールの種類やスピードを考えるから七、八球を覚悟するけど、大したことのないバッターを一球で終わらせたいときは、ど真ん中に小さいカーブを投げれば内野ゴロ、肩の高さに半速球を投げればセンターフライ。そうやって、試合を早く終わらせるようにする」
打順は一番に返って、福本。初球インローの直球、ストライク。二球目同じコースやや内側、ボール。三球目、外角ぐにゃりシュート、空振り。小川の指先はどうなっているのだろう。四球目、外角低目猛速球、ボール。ツーツー。五球目、内角低目パワーカーブ、ボール。球数を使って楽しんでいる。六球目、真ん中高目、スローボール、福本は確かにジャストミートして右中間に大きな当たりを打ったけれども、フェンスの前で江島に捕球された。楽しいショーだった。
八回裏、ドラゴンズ最後の攻撃。三番江藤から。米田が投げ切るようだ。ほかに抑えられるピッチャーがいないからにちがいない。初球、内角低目ストレート、三塁線へライナーのファール。二球目、ど真ん中のストレート、江藤はアッと驚いて見逃す、ストライク。三球目、外角高目スライダー、のめりながら痛打、センター前ヒット。
「神無月ィー! 最後に見せてくれェ!」
「天馬ァ! ホームラン!」
叫び声がスタンドのあちこちで上がる。一枝が、
「金太郎さん、最後の花火!」
「ドーン!」
杉山コーチの声だ。初球、外角遠くへカーブ、ボール。私はバッターボックスを出ないので、米田も速いテンポを崩さず投げられる。二球目、真ん中高目にきょう最速のストレートが飛んでくる。手首を絞って叩き斬った。今度も左中間センター寄りに高く舞い上がる。距離が足りなさそうだ。いや、案外早く福本があきらめた。セカンドの塁審道仏が走っていく。スコアボードの手前の芝生席に落ちた。噴水のように観客の頭が左右に分かれる。道仏の手袋がクルクル回った。割れんばかりの喚声。タッチ、抱擁。祝福のルーティーン。水原監督が、
「今年初の三打席連続!」
「本番の花火は減りますよ」
「オープン戦までは派手にお願いするよ。神無月郷健在をアピールしたいから」
「はい!」
五対十七。五番木俣、ライトフライ。
六番菱川のとき、痛烈なレフト前ヒット。最後のアトラクションのようなできごとが起きた。一塁へ走りかけた菱川がつまづいてスッテンコロリン。起き上がってふたたび走ろうとしたが、あわてすぎて、また転んでしまった。矢野は捕球に忙しくこのことに気づかない。一塁へ直接送球せずに、ショートの阪本にふつうに返した。残り二メートルほどを四つん這いで走っている菱川に阪本も気づかず、一塁に送球しない。菱川は九死に一生を得た。たぶん球界初の〈レフトゴロ〉になるところだった。コントさながらの珍場面にスタンドとベンチは大爆笑。すぐに水原監督は井手を代走に出す。捻挫でもしたかもしれないと思ったのだろう。監督はベンチ前まで走っていって、戻ってくる菱川の尻を強くバシッと叩いた。
「お仕置きだ!」
ふたたびスタンドとベンチに笑いが起こった。
「どこもひねってないか」
「はい!」
七番太田、セカンドフライ。八番一枝、ショートゴロ。全攻撃終了。
九回表。やはり水原監督はピッチャーを代えてきた。
「中日ドラゴンズ、小川に代わりまして、ピッチャー水谷寿伸、背番号27」
もう一人の生え抜きのベテランの存在を強調したかったのだろう。あるいは一点でも多く阪急に得点させて、ファンを堪能させたいと思ってのことかもしれない。水谷寿伸は入団から五年間は肩の故障のせいで下積みだった。バッティングピッチャーをしていたようだ。肩の癒えた六年目から十勝以上挙げる中堅になったが、たった二年間活躍したのち、五、六勝ピッチャーに落ち着いた。好調のときの球のキレはすばらしい。外角いっぱいに決まる速球、内角をかすめるシュート、タイミングを外すカーブ。去年一、二度目にしたことがある。しかし、打順は二番からだ。得点される可能性のほうが大きい。
二番阪本、初球、外角低目ストレート、ストライク。二球目同じコースへスライダー、ボール。三球目、外角高目カーブ、空振り。四球目、外角カーブ、ワンバウンド。これは危ない。五球目、外角高目ストレート、ボール。六球目、まったく同じコースへ同じストレート。痛烈なライト前ヒット。
三番森本、初球、外角スライダー、ボール。一塁牽制。二球目、同じコースへスライダー、空振り。一塁牽制。水谷のインターバルが長い。少しイラつく。三球目、真ん中低目ストレート、空振り。四球目、外角へ大きく外す。五球目、外角へ外す。一球もインコースへ投げない。ツースリー。六球目、外角ストレート、一塁スタンド場外へファール。七球目、外角低目ストレート、ボール。フォアボール。ノーアウト一、二塁。
四番長池、水谷二塁牽制の構えだけ。初球、真ん中高目、ボール。初球、真ん中高目ストレート、痛烈なレフト前ヒット。私の肩を考えて、阪本ストップ。満塁。ブルペン全員引き揚げた。何点入るかじっくり見ようということになったようだ。水原監督提供のショーだと思えばいい。
五番矢野。内角低目カーブ、ボール。初めて内角を投げた。投球間隔も短くなる。二球目、真ん中高目ストレート、バックネットへファール。三球目、内角高目ストレート、三塁線へファール。四球目、真ん中低目ストレート、センター前へゴロで抜けるヒット。阪本、森本生還。七対十五。ノーアウト一、二塁。三振。四番長池、三振。五番矢野、左中間深いところへツーベース。阪本生還。水原監督が苦笑いしている。六対十七。
六番大熊、きょう初打席。初球真ん中高目、外すつもりのストレート、強打。センターライナーが不気味に伸びて江島の頭を越えた。スタンディングダブル。二者生還。八対十七。観客の喜ぶこと。ノーアウト二塁。
七番岡村。初球、外角ストレート、ボール。もうほとんど投球間隔がないも同じだ。二球目、外角カーブ、流し打ってライト前ヒット。大熊生還。九対十五。判官贔屓になった観客はピッチャー交代を望んでいない。このまま続行だ。
八番山口。初球、外角高目ストレート、ボール。私の目には百四十キロ半ばのスピードに見えた。二球目、外角低目シュート、ボール。これも速い。もう阪急は点が入らないな。三球目、外角低目速球、ファーストの左へ痛烈なゴロ、江藤弾いたが冷静に処理して二塁フォースアウト。一塁はセーフ。
「九番米田に代わりまして、ピンチヒッター高井、背番号35」
中背だがデップリした男だ。日本シリーズには出場していなかった。レフトスタンドから歓声が上がる。知る人ぞ知るの選手なのだろう。初球、外角低目、走りはじめたストレート、一塁場外へファール。二球目、外角高目ストレート、ボール。三球目、内角シュート、バットの折れた音がした。サード菱川へのハーフライナー、ショートバウンドで掬い捕って、5―4―3のみごとなダブルプレイ。ビッグショーが終わった。
四十一
審判団が集合し、バックネットに向かって久喜の右手が上がる。
「ゲーム!」
四時二十二分。サイレンが鳴り、きれいな声のアナウンスが流れる。去年の南海との交流戦とちがい、選手同士ホームベースに整列することはなかった。
「ごらんいただきましたように、本日の中日ドラゴンズ対阪急ブレーブスの交流試合は九対十五をもちまして中日ドラゴンズの勝利となりました。昨年の日本シリーズの再戦を観ているような、胸躍る見応えのある試合でございました。両チーム、昭和四十五年シーズン、どんな姿を見せてくれるのかとても楽しみです。ドラゴンズはきょうでキャンプ打ち上げでございますが、ブレーブスはあと五日間、高知でのキャンプがつづきます。行楽を兼ねたご旅行などで明石にいらっしゃっているかたがいらっしゃいましたら、ご都合がよろしければどうぞ高知のほうへもお立ち寄りくださいませ。高知市野球場でお待ちしております。本日の放送を担当いたしましたのは、阪急ブレーブス広報の山下久美でございました。ご来場まことにありがとうございました」
西本監督が一塁ベンチにやってきて帽子を脱いだ。水原監督に、
「きょうはありがとうございました。相も変わらず厚い胸やったわ。鉄板みたいやな。ピッチャーはええし、バッターはええし、かなわん。今年のセリーグ優勝は中日さんで堅いやろうけど、パリーグはドングリやで、なんとか優勝できるようがんばりますわ。今年はオープン戦で合わんことになっとるで、日本シリーズでしか会えんですから。ほな、お茶のときに」
帽子をかぶり直して去っていく。宇野ヘッドコーチが、
「用具をめいめいちゃんとまとめとけよ。トラックは陸送だから、届くのに時間がかかるぞ。忘れたら取りに戻る手間がたいへんだ」
水原監督が、
「鉄道でも空輸でもたいへんだ。とにかく忘れ物をしたら連絡し合うのに余計な手間がかかる」
「オース」
足木マネージャーが、
「二十五日は給料日です。昨年度から銀行振込みになって安全性が増しましたが、相変わらず外食は領収証が必要で不便です。しかしこれはがまんしてください。サインのツケなどにすると、店側の不確実な請求などがあって、結局選手に迷惑がかかります。球場食堂での飲食等に関してはサインでけっこうですが、最近、自球団や他球団の選手の名前をサインする者が出てきて問題になっています。給料明細で食費が多いことにビックリしている人もいると思いますが、これは解決しようがありません。年俸の多い選手は特にそれをやられる危険性が高いです。冗談で、あるいは双方了解でやっているうちはかまいませんが、看過できなくなったら食堂に調査を入れるつもりです」
なぜか一同大笑いになった。けっこうみんなおたがいにやっているようだった。
「五時から阪急さんと三十分ほど懇親会です。球場玄関のサインなどはほどほどにしてホテルへ引き揚げてください」
球場の正面口で数人の少年たちに捕まった。みんな歩きながらサインしていく。
「どうやったら神無月選手のような野球選手になれますか」
「だれのような野球選手にもなれないんだよ。自分のような野球選手にしかなれない。人のすることにあこがれないで、みんなで野球をすることにあこがれて、精いっぱい努力しなさい」
「はい」
「ぼく、少年野球チームにいるんですが、監督やチームメイトの悪口をいう人がいるんです。どうすればいいですか」
「悪口も意見なんだ。ちがうと思ったらちがうと言えばいいし、そうだと思ったらそうだと言えばいい。ただ黙っているのはだめだ。まあまあそう言わないでなんてあいだを取り持つのはいちばんだめ。仲間同士、心の団結をしなくちゃ。意見を言い合うようにならないとチームは弱くなるよ」
中が、
「さすが金太郎さん、いいことを言うね」
江藤が、
「胸にくるばい」
菱川が少年たちの頭を撫でながら、
「心の団結をして、自分の技を磨く。わかった?」
「はい!」
喜春の間で両チームのメンバーにコーヒーとケーキが振舞われた。十四人掛けテーブルが四脚置かれ、私たちレギュラー組は両チームのフロント陣のテーブルと阪急の控え組のテーブルに挟まった格好で座った。阪急のレギュラー組は一つ離れた奥のテーブルに座った。阪急のバッティングピッチャーをしていた佐々木誠吾が私に、
「さっき後ろを歩きながら、みなさんと子供たちの話を聞いてたんですが、意見というのはところ嫌わず言っていいというわけではないでしょう」
「もちろんそうです」
菱川が、
「球場内で仲間内でだけ。球場の外ではだめだ。特に、マスコミの人間につい言ってしまうやつがいる。そこからマスコミの手で尾ひれがつけられる。それがいい方向へいけばいいけど、たいてい悪い方向へいく」
長谷川コーチが、
「監督室、コーチ室、ロッカールーム内での話はそこで終わり。どんなにぶつかり合ってもいいけど、そこで終わり。そこで終わらせないチームはかならず下降する」
水原監督が、
「本音でしゃべることだね。おたがいを褒め合って欠点を言わない傷の舐め合いがいちばんよくない。傷ついた者の傷を舐めることは、誠心こめているならいいことだ」
長池が、
「みなさんは神無月さんと空気みたいに溶け合ってますが、俺なんか畏れ多くて近づけないですよ。ギクシャクしませんか」
高木が、
「するかい。金太郎さんは空気だもの。だから溶け合ってるんじゃなくて、自然と金太郎さんを呼吸してるんだな。たしかに驚くことはあるよ。野球じゃない。野球は究極の人だから、観て楽しんでるだけ。金太郎さんも俺たちのことそう思ってるみたいだけど、それも溶け合ってるということになるのかな。驚くのは、金太郎さんの体質だね。手のひらと足の裏に汗をかかない。それだけでもビックリだけど、いちばんのビックリは、夏にアンダーシャツを着替えないこと。試合前の練習のときにいっぺん、試合になったら少なくとも二、三イニングにいっぺんはだれだって着替えるよね。ピッチャーなら毎回かもしれない。洗濯屋が持ってく大籠に投げ入れる。金太郎さんも手足の裏以外は汗をかく。ところが汗でからだが濡れてる感じが好きだ、動きにくい感じが好きだ、蒸発してからだが冷えてく感じが好きだってんだから、こりゃ驚きだろ。驚くけど、ギクシャクするってシロモノじゃない。おもしろくてホノボノとする」
「みなさん、おたがいに大好きなんですね」
「おお、愛し合うとる」
山田や梶本や米田や、福本らはニコニコしていたが、何人かの選手がフンと横を向いた。露骨に顔をしかめる者もいる。水原監督が、
「私のいちばんの驚きは、金太郎さんの芸能人嫌いだよ。きみたち大好きでしょ。私もきみたちの年ごろには大好きだった。彼らと顔広くつき合うのがステイタスだと思っていたからね。ここにいる中年選手どももみんなそうだ。私と同様、結婚までした男たちも何人かいる。金太郎さんの場合、まあ嫌いと言うより、無関心と言ったほうがいいかな。当然マスコミにも無関心で、マスコミ人に知り合いは一人もいない。お付きの記者もいない。これは確言できる。後援会は全国各所に勝手にでき上がってるみたいだけど、名古屋の一箇所にしか出席しない。どう? だれもまねできないでしょ。なら驚かなくちゃ」
控え選手たちのほとんどが眉をしかめた。江藤が声を荒らげた。
「おまえら何ね、そのつらは! 誠意ある人間の顔をつぶすのが趣味ね。カタキのところにきても、機嫌ようして口ば並べるもんぞ。コーヒー飲んで、ケーキ食わんか!」
西本監督が仰天した顔でこちらを見た。水原監督が怒鳴られた控え選手たちに向かって、
「失礼、失礼。ドラゴンズの選手たちは、気はやさしいんですが、曲がった根性には敏感に反応して矯め直そうとする愚直さがありましてね、オダテやおべっかを許さないし、嫉妬や冷笑や反感も許さないという正義心も旺盛なんですよ。人の誠意を見抜くということですな。誠意ある言葉にはかならず耳を傾け、感激をする。すべて神無月郷がドラゴンズに持ちこんだ心的姿勢です。だからどうしても、誠心誠意、金太郎さんを褒めることになる。その言葉に耳を貸さない人間はドラゴンズには一人もいないわけですよ。金太郎さんにかぎらない。一人ひとりみんな認め合って、褒め合って、感激し合って、短いプロ野球人としての生命を燃焼させてます」
木俣が、
「曲がった根性の持ち主というのは江藤さんの言いすぎだったかも知れんけど、すぐれた存在に嫉妬したり、反感を持ったりするやつは、ドラゴンズだって人間の集団だからそれはいるさ。でもそういう選手は例外なく、上に上がってこれん。あるいは他球団に移っていって埋もれちまう」
中が、
「きょう一日、全力を出し合い、胸襟を開いて戦い合った人間同士なので、またおそらくその人間を気に入ったので、慎ちゃんもよかれと思って声を荒らげたんでしょう。ふつうなら無視ですよ。たった三十分の茶話会ですからね。ニコニコしてればそれですむ。しかしそうしなかった。あなたたちにくすぶってもらいたくない、早く上にいってほしい、そういう気持ちからでしょう」
西本監督がポツリと、
「親身なことを言ってもらった者は、相当努力せんといかんわな。親身なことを言ってもらわんでも、山田や福本の努力は並でなかったからね」
水原監督が、
「じつは、ドラゴンズもそこが悩みなんですよ。上の連中は黙っていてもますます努力するし、下の者は目覚めなくてなかなか上がってこない。金太郎さんが休日返上で二軍の練習に参加して、実技を指導し、親身なことを言っても、何人かしか刺激を受けなかったと二軍のヘッドに聞きました。努力の成果は誠実な精神のありように比例するとわかってても、なかなかうまくいきませんよ」
「やっぱり、総じて観たところ、チームの精神的な和ですな。中日さんの強さの秘密はそこですわ。重々参考にします。こいつらの胸にも響いたやろう。いや、ありがとうございました。じゃ引き揚げます。これからキャッスルホテルに戻って風呂入って、着替えをしたらすぐ出発です」
「どうぞお気をつけて。また秋にお会いしましょう」
「会えるようがんばります。じゃ、失礼します」
「失礼します!」
「失礼します!」
阪急のレギュラー一人ひとりが、中日のレギュラー一人ひとりと握手して去った。パリーグを経験したことがある森下、井上二人のコーチと水原監督は目礼ですまし、木俣はそっぽを向いていた。阪急コーチ陣や、控え選手や、二軍連中は形ばかりに辞儀をし、無言で通り過ぎた。佐々木誠吾一人は私としっかり握手すると、仲間に遅れて出ていった。江藤が、
「胸くそ悪か。自分ぎりチヤホヤされたかて顔ばしくさって。いっちょん反省の色のなかごたる。能なしは能なしらしく殊勝にせんば。やつらの態度ば叱るんは、監督や一軍連中のすることばい」
水原監督が、
「プロ野球人というのは、金とアクセサリーで人を見る癖があってね、人間そのものでは見ない。金太郎さんのことも金と野球の名声で褒めれば、彼らも素直な態度をとったんだろうけど、金のことは言わないし、アクセサリーのシンボルの芸能界やマスコミのことも否定するときては、癪に触って仕方なかったんでしょう」
井上コーチが、
「中日ドラゴンズは、特に水原指揮下のドラゴンズは特殊な集団ですよ。個人個人がユニークすぎる。その特殊なところを語っても理解してもらえない。チーム全体の強さでグイグイ押していくしかないんですよ」
杉山コーチが、
「おととしまでコーチをしていたころのドラゴンズといまのドラゴンズは、まったく別物です。そのころまでは勝つことばかり口にして、上に気を使い、仲間に気を使うただのプロ野球チームだった。いまでは野球の強さのほうが付属物になってる。強さでだけ採り上げられる巨人とは異質の球団だ。ここにいると誇らしい気分になる。たぶん特殊な金太郎さんがチームに加わったことで、それぞれが自分を奔放に表現しだして、全体が人間的にさらに特殊になった。特殊の底に奥床しさがある。しかも、鍛練もプレイも抜かないというのがすごい。ま、理解されることはあきらめて、強いだけのままでいましょう」
水原監督が、
「風呂に入って、めしにするかな。きょうは二軍合同の食事会です。好きなことをしゃべり合って、伸びのびとやってください」
部屋に戻り、シャワーを浴びた。新しい下着とジャージを着る。きょう着たユニフォームとアンダーシャツとソックス、汚れた下着とタオル、きのうまで着たジャージを段ボール箱に詰める。グローブとスパイク、グリース、帽子をダッフルに入れる。小バッグには書物とノートと文具、枇杷酒、爪切り等小物類を入れた。段ボール箱と小バッグとバット二本収めたケースを持ってフロントに降りる。住所を書いて係に預ける。あした持って出るのはジャージを入れたダッフルだけだ。
四十二
十人掛け長卓四脚が、大きな十人掛け丸テーブル六脚に入れ替わっている。二卓ずつ三列並び、最後列は入口近くに据えられている。私の顔を見た何人かが、オス、オス、と挨拶してくる。
手招きされて、二列目のテーブルにつく。隣の一列目の二つのテーブルには、監督、コーチ、トレーナー、スコアラー、マネージャーが入り混じって座っている。二列目の二卓には投手陣も含めた一軍レギュラーたち。三列目二卓には一軍控え陣と二軍選手が入り混じって座っている。
宇野ヘッドコーチと中がテーブル越しに、中日ドラゴンズにキャプテンは必要かという話をしていた。中が、
「リーダー的存在がいれば、問題ないでしょう」
「金太郎さんか」
「いまは四人です。年度によって世代交代しながら、二人になったり一人になったりすればいい。いまは慎ちゃんとモリミチと達ちゃんと金太郎さん。だれでもリーダーになれるというわけじゃない。まじめ、好人物、人気があり、プレイも確かなものがある、それだけじゃリーダーになれない。成績が伴わないとチーム仲間の信頼が得られない。仲間に刺激を与えるには人気や人望も大事だけど、成績も大事。その両車輪を兼ね備えた人物がリーダーですね」
和洋折衷懐石が運ばれてくる。肉と天ぷらとライスだけを食う。残りはぜんぶよそへ回す。刺身、焼魚、ムニエルの類。高木が、
「阪急はおそろしく年俸が安いらしい。福本は気さくなやつで、試合の帰りぎわポロッと年俸の話をして、二年目に百八十万から十万円上がって百九十万になったと言ってた。エッと、息を呑んじゃったよ」
江藤が、
「そんなもんかもしれんたい。ワシらも一千万いかん時代が長かったけんのう。長嶋の七千万やら王の五千万ちゅうのはウソやろうと思っとったけんな。今年でぜんぶ変わったっちゃん。いっぺんにやつらを抜いてしもうたばい。二軍連中は金の話ば聞きたかったやろうもん」
菱川が、
「二軍は年俸百万いかんやつがほとんどです。コーチでも四百万くらいでしょう」
「得体の知れない格差ですけど、関心ないものに無理に関心は持てません。周りの人たちが稼いでくれてますから、実際、野球さえさせてもらえれば文句はないんですよ。みなさんは一本きりの大黒柱ですから、給料を気にして当然です。……でも百万円あったら、ひと月八万。独り暮らしにはじゅうぶんですね」
太田が、
「そんたうり。二軍選手の寮費は一万円前後、たまにグローブ、バット、スパイクなどの用具代、出歩くときの交通費、ジムの月謝代くらいですから、遊び回らなければラクにやっていけます。ユニフォーム、遠征費は球団持ちですからね。分相応以上です。野球だけに関心の持てる贅沢な身分です」
小川が、
「相応を超えると、関心が野球だけでなくなるんだ。俺みたいなバカはな。いまはちがうぞ。バカを見るのは好きじゃない。むかしの自分を見てるようでさ。金太郎さんもよく二軍教えにいったよ。あいつらの関心は、高い給料、車、女、芸能界やマスコミとの付き合いばっかりだろう。金太郎さんの奇妙さがわかるはずないよ」
木俣が、
「あんなのが下にいるんじゃ、今年の阪急の優勝はないぞ。慎ちゃんや金太郎さんに対してハハアというところがなかっただろう。なんじゃ、あのつらは」
まだ怒っている。水原監督が、
「長池、山田、福本たちは畏まってたよ。しかし、彼らは下の連中には慕われてないね。阪急というチームが上下をはっきりと切り離す体質なんだろう。そこが弱いところだ。日本一の覇権が獲れないゆえんだ」
岩本二軍コーチが、
「今年のキャンプは昨年につづいてケガ人を一人も出さずに終えることができました。みなさんの自己管理の優秀さに感心します」
水原監督が、
「江藤くん、右肘はどうですか」
「問題なかです。特守百本を都合五回やったけんが、ビクともせんかった」
「中くん、膝は?」
「今年は絶好調です。水抜きはオールスターごろの一回ですみそうですよ」
太田コーチが、
「ピッチャーの投げこみは百球までと言い渡しといたが、小野、健太郎、秀孝、戸板を除いて、百五十球ぐらい投げてるやつがほとんどだったな。村山や江夏は三百球投げこむそうだが、そんなことしてたら二、三年でピタッと勢いが止まる。金田も稲尾も杉浦も、百球程度しか投げこまなかった。ヨネカジも同じだ。高校時代から千球も投げこんでた板ちゃんの肘がボロボロだったことをいつも思い出してくれ。シーズン中の練習の投げこみは、四、五十球ぐらいにしておけよ」
「ハーイ!」
彼らがいつ投げこみしているかを知らない見物客が多い。ベンチの横のブルペン投げこみなどできない。彼らは午前の合同のウォーミングアップが終わったあと、昼めしまでのあいだ、両内野スタンド下(つまりダッグアウト裏)の投球練習場で三、四十分まじめにやっている。それから球場の外周を黙々とランニングしたりする。杉山コーチが、
「神無月くんは試合後のマッサージとかアフタケアはしないと聞いてるけど、どうしてなの?」
池藤トレーナーがビールを含みながら、
「彼は必要ないんですよ。奇跡的に柔らかい、新陳代謝のいい筋肉ですから、張りがすぐ回復するんです」
私は、
「それはそれでありがたいんですが、マッサージしないのはぼくのこだわりなんです。せっかく自分なりに鍛えた筋肉をほぐして柔かくしたらいけない、そんなことしたら自分なりの〈強さ〉の感覚が崩れる、というこだわりです。このキャンプでの特守もかなり筋肉が張りましたけど、そのすぐあとから動ける範囲でまた鍛えていくということをしました。疲れたらアップやランニングで少しずつ強くしていこうという考え方です」
「強化はそれでいいとして、ケガをしないためのトレーニングもやってるんでしょう?」
「胸筋や二の腕を強くするためのトレーニングは、名古屋の家にいるときだけします。二十分ほどね。バーベルは挙げません。百、百三十、百五十とやってみたんですけど、それこそケガをしそうな気がしてやめました。ケガをしないためには、腹筋背筋と腕立て伏せでじゅうぶんです」
池藤が、
「送球は腹筋と背筋でしますからね」
「そうですか、知りませんでした。倒立腕立てや股割りはやっぱり危険な感じがするのでやめました。あとはほぼ毎日、起きがけに四、五キロのランニング、二百本弱の素振り。たまに一升瓶に砂を入れて手首の鍛練、軽いダンベルを両手に持って蝶々のようにヒラヒラさせて、肩関節を鍛えることもあります。ほんとにたまにね。キャッチボールと七十メートル程度の遠投を無理なくやってれば、肩はだいじょうぶです」
鏑木コーチが池藤に、
「バットを振るための筋肉とそれに連動する筋肉の強化以外は、不要な鍛練をキッチリ取っ払ってますね」
「ほんとだねェ。負荷の軽いものをスピード豊かにやって、バネを失くすムキムキのからだにしないようにしてるんだよ。いまでもふつうの選手よりはムキムキだけど、勝手についた筋肉という感じだね。いずれにせよ、揉みほぐす必要のない筋肉というのは財産だ」
則博が、
「走るときに気をつけていることは何ですか」
「走り方は鏑木さんに教わったとおりのバランスで腕と脚を動かしてる。自分なりに気をつけてることは、グランドに入ったら運動靴では走らないということだね。スパイクで走ると疲れる。それだけ鍛えられるということなんだ。テレビで他チームのキャンプの様子を見ると、運動靴でやってる選手が多い。神聖なグランドでラクをしてどうするんだと思うよ。と言うより、紅白戦なんかで試合前の運動靴を負荷の大きいスパイクに履き替えて、いきなりボンと試合に入ったら、ケガをする危険性がある」
二軍のテーブルにいる選手たちは、ひとことも聞き逃すまいという真剣な表情で肩を張っている。箸やフォークの動きがぎこちない。伊熊が、
「いちばん苦手なピッチャーはだれですか」
「江夏です。内角低目のシュートと、外角へ逃げる小さなカーブ。特にカーブは飛んでくる球の回転でカーブだとわかるんだけど、そう思って振り出すと、思ったほど曲がらないで小さく変化するだけ。肩すかしを食ったみたいに空振りしてしまう。今年はカーブ回転で飛んできても直球だと思って振ってみようと思います。芯を外れるけど、ヒットになる可能性がありますからね」
長谷川コーチが、
「金太郎さんは心の動きが静かな人だから、よほどのことじゃないと感動することはないと思うが、いちばん最初に感動した野球選手はだれかな」
「広岡達朗です。軽い山なりの一塁送球に美しさを感じました。横浜の小学校の二年生の秋でした。昭和三十二年です。近所の家の白黒テレビで観ました。ボクシングのストレートみたいに腕を突き出して軽く投げるんです。ピタッと一塁手のミットに収まりました」
「西鉄との日本シリーズだな。平和台だった? 後楽園だった?」
「さあ、遊びでソフトボールしかしたことがなかったころに、生まれて初めて観たプロ野球でしたから、野球場などというものはまったく知りません。三十三年の春にたまたま入った映画館で、長嶋の四打席四三振のニュースフィルムを観て、ようやくプロ野球とはこういうものか、すばらしいなと思ったくらいでした。その年はよくその家でテレビを見せてもらって、国松や坂崎、阪神では並木、藤本、村山を知りました。中日ドラゴンズのことは、翌年名古屋に転校してから知りました。と言っても、転校は秋でしたので、中日球場で初めて野球選手を観たのは昭和三十五年の五月だったと思います。伊勢湾台風でボロボロになった中日球場が改築された年です。プロ野球というものが、プロ野球選手というものが鮮やかに脳裡に叩きこまれました。岡島さん、中さん、井上さん、森さん、江藤さん、いまスカウトをなさっている法元さん、いまロッテにいる前田さん、キャッチャーの酒井さんといった名前を覚えています。高木さんはその試合に出ていませんでした。相手チームは忘れましたし、中日もだれが投げていたのか覚えてません。木俣さんや小川さんや一枝さんがまだいないころです」
水谷寿伸が手を挙げた。
「俺はいたよ。初めて使ってもらった年で、一勝零敗だった」
「俺もいた。翌年からコーチ兼任になって、四十年に引退した」
本多二軍ヘッドも手を挙げる。高木が、
「そのころ監督は杉下さんだったけど、ヘッドコーチは天知さんで、俺はだいたい二試合に一試合の割合で使われてた」
吉沢二軍コーチが手を挙げ、
「酒井くんはいっとき私と正捕手の座を争ったライバルの一人でした。私は三十三年から正捕手の座について、神無月さんが初めて中日球場でプロ野球を観たその年は、ほぼ全試合に出てます。たまに酒井くんと江藤くんが私の代わりに出てた。三十六年も正捕手でしたけど、オフに近鉄に放出されました。濃人さんが監督になって、自分が連れてきた九州勢を重く使うことで天知体制をぶっつぶすというわけで、岡島くん、森くん、大矢根くんがトレードで出され、井上くんも南海にトレードされた」
江藤が、
「ワシと権藤はその年からドンドン使われるごつなった。日鉄二瀬絡みやったけん、エコ贔屓たいね。あのとき放り出されたみんなは腹立ったやろのう」
高木が、
「俺は井上さんが出されたおかげでレギュラーになれた。いろいろ事情を知ると、複雑な気持ちになるよ」
水原監督が、
「何も考えることはない。すべて川の流れだよ。瀬あり、淵あり、淀みあり。みんなそのときどきの流れに耐えたり喜んだりしてきたから、いまここにいるんだろう。この場所と時間を楽しんで流れていこうや」
「オス!」
足木マネージャーが、
「あした十一時までにチェックアウトしたら、めいめいお好きに塒に帰ってください。私は名古屋組といっしょに帰りますのでその分の切符を用意しますが、そのほかの人たちはかならず交通費の領収書を球団宛てに郵送してください。途中下車して遊ぶ人は自腹でやってください。三月一日からオープン戦だということを忘れないように」
「オース!」
「じゃ、名古屋組の人、挙手してください。チェックしていきます」
中が手を挙げると続々と手が挙がった。新宅は挙手しなかった。一枝が、
「俺、大阪までの切符でいいよ」
島根に帰る新宅が、
「俺も大阪まででいい。伊丹から松江まで飛行機とバスで帰るから」
「東京組も伊丹から飛行機ですね。領収書をお願いします」
江藤が、
「ワシとタコは九州たい。伊丹から飛行機でいくけん、切符は大阪まででよか」
「つまり全員大阪まではいきますね。名古屋組の人には、新大阪で新幹線の切符をお渡しします」