四十六 

 秀孝が、
「肩ももげよと投げた尾崎はどういう人でしたか」
「いつもニコニコ笑ってる岩だった。マスコミに何でいつも笑ってるんだと難詰されたときも、『いつも笑っていたいんです、笑うと心が落ち着きます、ぼくはごらんのとおり働いてる大人ですよ、子供っぽく媚びを売ってるんじゃない』と記者連中を睨みつけたんだよ。それ以来彼の周りにはマスコミ陣はほとんど寄り付かなくなった。彼を高校二年で中退させたのは私なんだ。早いうちに適所で才能を使ってやりたくてね。その大事な才能を私は何の躊躇もなく酷使してしまった。ニコニコ笑って、バッタバッタ切り倒すのを見てるのが痛快でね。自分の喜びのために、十八歳から二十二歳までのあたら青春を潰してしまった……悔やんでも悔やみ切れない。いいかい、どこか悪いところがあったらかならず言いなさい。だれかを犠牲にしたチーム成績なんてウンコだよ。記録がほしいなら出しつづけてやる。そうでないなら休ませる。その前に故障が出ないように計らうからね。そうやって和気藹々と野球をやろう。人間の根本である情熱と和気を甘いと言って、他球団へ移っていった球の遅いピッチャーがいたが、せっかくショッパイ野球を目指しても、球が遅くて変化球が切れなんじゃ使ってもらえない。的外れのショッパさの前に、まず実力なんだよ。きみたちの実力は球界ナンバーワンだ。ショッパイ自己鍛錬のあとでショッパイ野球なんかする必要がない。野球に対する情熱と和気に満ちた協調があれば百点だ」
 コーチ陣から拍手が上がり、私たちの大拍手がつづいた。
 芦屋、尼崎、大阪と停車し、水原監督を先頭に飛行機組がタラップを降りた。大阪が在の一枝、島根へ帰る新宅、福岡へ向かう江藤と太田、羽田へ向かう水原監督、宇野ヘッドコーチ、徳武コーチ、千原といった人たち。新人は降りられない。
「じゃ六日後、三月一日日曜日、中日球場で。名古屋も冷えこんでるそうだから、風邪に気をつけて。元気な顔を見せるんだよ」
 一行がホームで手を振った。私たちも手を振った。足木マネージャーとトレーナー連がタラップの框で礼をした。
 名古屋組が車中に残った。めいめい身近に荷物を据え直す。足木マネージャーが新幹線の切符を配る。新大阪まで六分で着いた。マネージャーのあとについて在来線ホームから階段を昇り、かなり歩き、改札を抜け、昇って新幹線ホームに着く。六、七分かかった。
 公衆電話から北村席に連絡を入れ、ソテツに十二時四十八分のひかりのグリーン車に乗ると告げる。貸切りではなく座席指定。電話はなく途中停車駅は京都のみ。乗りこむ。岐阜羽島に停まるこだまは一時台しかないので、高木はホームに残った。
 高木に手を振る。永の別れではないので笑い合って手を振る。前四列目からマネージャー、コーチ、トレーナー、スコアラー、その後方は選手たち。荷物は棚に載せたり、足もとに置いたりする。前方と後方の十数席は報道関係者や一般客が座っている。私のそばには中、木俣、秀孝、菱川、戸板、谷沢。その谷沢にCBCのアナウンサーが突撃インタビューをしにきた。
「キャンプ終了、ご苦労さまでした。今年の活躍、心から期待しております」
「ありがとうございます」
「プロに入っていちばんすごいと思ったことは?」
「ピッチャーの球が速くて、よく曲がることです。まだ目が慣れていません。それからバッターの打球がよく飛ぶこと。この驚きはずっとつづくと思います」
「一年目に向けての決意は?」
「一軍の試合に数多く出場すること。ホームランをたくさん打てるように。そこにこだわりたいです」
 菱川が厚い唇を歪めて、
「こだわるな。死ぬぞ。マックス二十本台でいい。打率でいけ。新人王は狙えよ。一生に一度しか獲れないからな」
 そう言って、目をつぶり睡眠に入った。曇り空。素早く過ぎ去る窓外の景色には興味がない。私もまねをして目をつぶった。戸板にマイクが向けられる。
「入寮した感想はどう?」
 新人と侮って気安い感じで声をかける。
「田舎の自分の部屋より狭いです。畳を敷いたベッドはめずらしいと思いました」
 めずらしいかもしれない。浅間下のベッドがそうだった。
「練習施設についてはいかがですか」
「すばらしいです。ジムも広くて、器械が多いので、やりたいことができます。トライするのが楽しいです」
 秀孝が、
「鍛えたい部位を鍛えるマシン以外はやらないほうがいいですよ。池藤さんによく訊いて。あとはとにかく走るだけ。雨の日にランニングマシンをやるのはいいかも。ぼくは雨の日も合羽を着て走りますけど。前へ進む感覚がないと、全体の筋肉のバランスがとれませんから」
 戸板は目を丸くしてうなずいた。
「身近に置いているこだわりの品物は?」
「神無月さんの小説を切り抜いたスクラップブックです。神無月さんには高校時代の県予選で、試合が終わったとき信じられないほどやさしい言葉をかけていただき、その言葉を励みにプロを目指してきました。あの当時、どうして神無月さんがそこまで人を励ますことができるのか謎でした。そういう神無月さんを作り上げた歴史はぜひ知りたいことだったので、せっせと中日新聞を切り抜きました。……神無月さんの〈悲しみ〉が理解できました。長いあいだ悲しみを大事に抱えてきたからこそ、人の痛みに敏感になれるとわかったんです。スクラップブックは肌身離さず持っているたった一つのものです」
「神無月選手がかけたのはどういう言葉だったんですか」
「二十三対七で大差負けしたんです。神無月さんにホームランを打たれまくって。整列して握手したとき、神無月さんはこう言いました。―すばらしいピッチングでした。これからはストレート一本で押してください。……ぼくが、神無月さんのホームランは一生忘れない、プロにいってもがんばってください、って言ったら、もしプロにいくことができたら、あなたを待っています、って応えました。それからはドラゴンズに入団することだけが夢になりました」
「……いいお話、ありがとうございました」
 京都を過ぎた。菱川が目を手で拭いながら起き上がり、
「CBCさん、せっかく寝たふりしてる神無月さんにマイク突き出したらだめだよ。そんなこと憶えてないって言うに決まってるから」
 はい、とアナウンサーは応えて、後方の席へ移動していった。谷沢が菱川と戸板に、
「神無月さんは、夜ぼくが部屋を訪ねていったときも、快く話してくれたんです。一時間も。細かい技術論も含めて、話したすべてのことが重要すぎて、からだじゅうが熱くなりました。一本の道に秀でようとする情熱と鍛練について噛み砕いた精神論も語ってくれましたが、何より忘れられないのは、自分は野球をしなければ生きていけないと自他と約束すること、という哲学です。自分だけではなく、他人とも約束する―自分との約束には甘えが出ますが、他人との約束には甘えが出ません。命まで関わってきます。戸板くんがやさしさと言いましたが、そのとおりだと思う。命を捨ててないと本物のやさしさは滲み出てこない。……一生を預けても悔いのない人です」
 菱川がしっかり起き直り、
「あのさあ、神無月さんのことを語らないでよ。涙が止まらなくなるから。みんな語るんだけどさ。語らなくちゃいられないんだよね。……神無月さんがいなくなったらと考えると、怖くて怖くて眠れなくなることがあるもん。太田なんか、女を神無月さんほどは愛せない、結婚できないんじゃないかと思うって真剣に言ってたよ」
 私は目を開け、
「寝たふりしてるとわかってる人間の横で褒めちぎるのは拷問ですよ。鼻くそほじったり、尻を拭いたり、女とやる姿を想像すれば、ケッとなりますよ」
「それでも泣ける」
「かなわないなあ」
 ドヤッとみんなで笑った。中が、
「金太郎さんのことは空気と思ったほうがいいぞ。気にしたら自然な息ができなくなる。酸素、酸素、目に見えない大切な酸素。いなくならないよ。いつもいてくれる」
 木俣が、
「ときどき横顔を見て拝むような気持ちになればいい。かならず助けてくれるサボらないホトケサマだから、山も谷も乗り越えさせてもらえるよ」
 秀孝が、
「ぼくは神無月さんに抱き締めてもらいたくて、去年一年がんばりました。ホームランを打って戻ってきたところへ抱きつくんです。大きくてあったかいんだなァ」
「ほんとに、かなわないな」
 前のほうの席から、カハハハという笑い声が上がった。太田コーチが、
「金太郎さん、黙って言わせとけ。そういう話を聴いてる私たちも心から癒されるんだからさ。そいつらも同じだ。しゃべって癒される。ほんとにこういう癒しのないほかのチームが気の毒になるよ」
 後ろのほうの席から小川が、
「死にもの狂いで努力したあとでしかしゃべれないという条件つきだから、ハードルが高いぞ。な、菱」
「そんたうり!」
 小野の太い柔和な声がつづいた。
「神無月くん、去年は引留めてくれてありがとう。一年、生き延びた。これで心置きなく引退できるよ」
「ほんとに今年で……」
「ああ、私はほんとに今年が限界だ。このキャンプで確かめた。でも、死にもの狂いでがんばるから勘弁してね。五勝は挙げるからね」
 彼はキャンプのあいだ、紅白戦以外はずっと気配を消していた。あえて消していたのではなく、ただ黙々と練習に励み、黙々とルーティーンをこなしていただけなのかもしれない。
「でも紅白戦ではあんなに……」
「何も応えなくていいよ。何も言わなくていい。あと三十分で名古屋だね。名古屋で降りようと思ってたけど、あのアパートには帰りたくなくなったなァ。きょうも、神無月くんといっしょにいたくて飛行機をとりやめたんだけど、やっぱり名古屋で降りずにこのまま乗っていって東京へ帰ることにするよ。女房のそばにいてやらなくちゃ。好きでいっしょになった女だからね」
 車内販売がきた。めいめい缶ビールやコーヒーを買っている。水谷寿伸が小野に、
「阪神にいった葛城さんとは連絡とってますか」
「とってない。気になるの?」
「それは……三十九年から六年もいっしょにやった人ですから。チャンスに強い、二割八分は確実に打つ人でした。よくホームランも打ちましたし」
 西本監督によく似た葛城の顔を思い出した。なつかしかった。
「涙もろい感激屋でね。私は好きだったな。水原さんも手離したくなかっただろう。噂は流れてくるよ。例の黒い霧関係でね。田宮さんからもときどき電話がある。私もあらぬ噂を立てられたけど、彼は〈あらぬ〉とは言えないようだ。私や小川くんのように潔白が証明されそうもない。ギャンブル場で不正レースの配当金を受け取っちゃったからね。そのうち逮捕されるかもしれないね。それまでは何試合か出場させてもらって、クビだ。そのときは、田宮さんの経営する自動車修理会社で引き取ることになってるそうだ。もう三十四、五だ。そろそろ休憩してもいいんじゃないの。私なんか三十七がくるよ。粘りすぎだね。野球は少年がやるスポーツだよ」
「中さんや江藤さんは三十過ぎてますよ」
「天才は、少年、大人という年齢の区切りでは分けられない。戦前から戦後にかけて活躍した若林という阪神のピッチャーは、四十五歳まで投げた。大学二年までは剛速球だったけど、肩を壊してからは変化球ピッチャーに転向した」
 私は、
「七色の変化球で有名ですね」
「うん、絶妙のコントロール。私が大毎に入る三年前の三十一年まで十八年間投げてたようだけど、それまでに二百三十七勝を挙げてる」
 水谷寿伸の隣にいた伊藤久敏が、
「七色というのは、カーブ、シュート、スライダー」
「シンカー、ドロップ、ナックル。彼はナックルを投げた最初のピッチャーだ」
「それとフォークですか?」
「いや、縦や横に変化する球じゃない。だろ? 星野くん」
「はい、ストレートですね」
「そう。配球というのは相対的なものだから、ストレートも変化球だ。奇しくも去年星野くんが言ったことだ」
「ぼくでしたっけ? 神無月さんじゃなかったかな」
「どっちでもいい。とにかく、一球前に投げた球とちがってストレートを投げれば、相対的に変化したということになる。そういう変化球をとんでもない制球力で投げ分けた天才だった。天才は盛りの時期が長引く。私は全盛期に球が速かっただけの凡才だ」
 名古屋が近づいてきた。カメラマンがカメラをしまい、レポーターがマイクをしまい、寝ていた者たちが目覚め、みんなで荷物の整理にかかる。小野はコーチやトレーナーに挨拶しにいった。
「……はい、二十七日から昇竜館に泊まらせていただきます。二十八日に室内練習場を使わせていただき、三月一日の南海戦にはベンチで控えさせていただきます」
 太田コーチが、
「親分、寮はいつでも自由に使ってちょうだい」
「は、ありがとうございます」
「二十六日には江藤くんもタコも帰ってくるから、賑やかになるよ」
 選手たちがぞろぞろと車内通路を歩いて出口へ向かう。私たち五、六人は小野と握手して出口へいった。


         四十七

 一時四十二分。列車がホームへ滑りこんだ。かなりの数の報道陣がホームに控えている。小川が、
「さあ、掻き分けていくぞ」
 木俣が先頭で降りて、報道陣を押しのける。駅員たちも協力する。私たちは出ていく列車の窓に手を振った。小野は恥ずかしそうに手を振り返した。ファンが手帳とペンを持って押し寄せてくるが、たいていの選手は無視。私は一人の少年にサインした。菱川と秀孝が同じようにする。フラッシュが煩わしいので改札へ移動。寄せてくるマイクは無視。階段を降りる途中で菅野たちの姿が改札の外に見えた。そこにも大量の報道陣だ。
「ウヘエ!」
「無視、無視」
 改札を出た木俣が、
「じゃ、俺、ここから名鉄へいくから。じゃ、三月一日に」
「失礼します!」
 私は頭を下げた。太田コーチが足木マネージャーに、
「寮バスきてんの!」
「はい、交通公社の前に!」
「移動!」
「失礼します!」
 また頭を下げた。菱川と秀孝と戸板と谷沢がトレーナーら寮組の人並に揉まれながら去っていった。新幹線で口を利かなかった松本幸行、渋谷幸春、渡辺司、佐藤進の後頭部が見えた。佐藤は太い首をしていた。
「タクシー組も移動!」
 小川が叫ぶ。
「失礼します!」
 中と小川と伊藤久敏と水谷寿伸と足木マネージャーとコーチ連を、ほとんどの報道陣が追っていった。私は主人と菅野とソテツといっしょに立ち尽くした。二、三人のカメラマンが囲んでいる。フラッシュが光る。菅野がダッフルを私から受け取って担ぎ、ソテツが小バッグを提げた。主人があらためて、
「お帰りなさい、神無月さん、ご苦労さまでした」
「ただいま」
「きのうの三打席連続ホームラン、テレビで観ましたよ。一本目の場外はいつもどおりとして、ぎりぎりに落とした技ありの二本、みごとでした」
「ありがとうございます!」
 菅野が、
「軍隊調になってますよ、神無月さん。北村席に帰ってきたんですから、くつろいでください」
 マイクが伸びてきた。歩き出す。
「東海テレビです。明石キャンプお疲れさまでした。去年と同じように猛烈な滑り出しですね。二年目の意気ごみをお聞かせください。また、目標がありましたら教えてください」
 やはりコンコースの柱の陰からマイクやカメラがぞろりと現れ、囲むようについてきた。模範回答をする。
「今年も日本一になることを目指してがんばりたいと思います。目標は常に一つ、ホームラン王です。なかなか簡単にいく世界ではありませんし、二年目ということで周囲の期待も高まるので、去年よりいろいろとキツくなるでしょう。これからもからだのケアをしっかりとしながら、コンディションをベストに保ち、ケガをすることなく、よい結果を出せるよう前進していきたいと思います」
 これでいいだろう。期待されたとおりの回答ができた。
「サンフランシスコの自宅で東海テレビのインタビューに応じたウィリー・マッコビーさんが『今回映像を観て、ストレートも変化球も左右に広角に打てる、ものすごいバッターだと感じた。しかもまだ二十歳、信じられない。カンナヅキはこれからもっとストロングになるし、もっとクレバーな選手になるだろう。今年も百本以上のホームランを打つことを期待している。彼が幼いころから私のファンだったと知って、飛び上がるほどうれしい。早く三月の日米野球で会いたい』と語り、日本語で『私はあなたを応援します。あなたのファンです』と祝福しました」
「そうですか、光栄です。ぼくも早くお会いしたい。色紙とボールにサインしてもらうつもりです」
「神無月選手のバッティングのすぐれた点は? と訊くと『ボールを強く叩くこと。ホームランというものは、どんなボールでも、どんな球場でも、強く打たなければいけない。カンナヅキはかならずそうしている』と答えました。あのスムーズなインパクトを強く打っていると見抜いたんですね」
「うれしいとしか言いようがありません」
 牧野小学校を過ぎた。私たちは早足になる。
「最後にもう一つお願いします。プロ野球選手として自分はラッキーだなと思われることは?」
「数え切れないほどありますが、卑近なことを一つ言うと、乗り物。とくに電車でしょっちゅう旅ができることです。鈍行でも新幹線でも同じです。親しんだ生活場所から親しまない遠い場所へ運ばれていくこと自体がワクワクすることだからです。思春期のスリルを味わう気持ちに似ています。そして旅先で身も心も疲労し、親しんだ生活場所へはるばる戻ってくる。少し年をとって郷愁を求める気持ちに似ています。これもまたワクワクすることです。この二つをいっぺんに味わえる電車の旅は最高です。プロのスポーツ選手でなければ叶わないことでしょう」
「ありがとうございました!」
 北村席の数寄屋門に着いた。カメラとマイクが引き揚げていく。菅野が、
「神無月さん、飛行機はどうなんですか」
「速すぎてワクワクしてる暇がない」
「車は?」
「始発駅、停車駅、終着駅がカチーンとしてないので、多少グウタラな気持ちになります。どんな道端でも降りられるというね。すごく安心感がある。それだけ、運ばれていくという運命的な不安を感じないですね」
 庭石を歩いて玄関へ近づいていく。
「不安が好きな人だからなあ」
 主人が、
「制服と平服みたいなものやろう」
「ですね。ああ、神無月さんといっしょに楽しい会話が戻ってきたなあ」
 ソテツがギュッと腕にしがみついた。門を開けて飛び石を歩き出したとたん、遠くの犬小屋から駆け出してきたジャッキが四人の周りで跳ね回った。大きくなった。茶色に白の毛づやも美しい。しゃがんで頭を撫でる。玄関戸を開け、
「ただいまあ!」
「お帰りなさい!」
 女将、トモヨさん、キッコ、睦子、千佳子、百江、優子、イネ、幣原、千鶴が式台に出迎える。アイリス組とアヤメの中番遅番組がいないだけで、ほとんどの顔が揃っている。直人はまだ帰っていない。女将が、
「はい、お疲れ、お疲れ。ゴロッとなりゃあ。三十分もしたら、直人が帰ってくるで」
 カンナを抱いたトモヨさんが、
「はい、おとうちゃんお帰りなさいって」
 顔の前にカンナを近づける。ほっぺにキスをする。
「ただいま」
 小さな手で頬をつかまれた。ウソのように柔かい感触だ。その手を握り締める。柔かくて、あまりにも小さい。千佳子に、
「学期試験は終わったの?」
「はい。この八日で。十六、十七日の追試も終わりました。三月三十一日までひと月半のお休みです」
 ソテツと千鶴がコーヒーを持ってくる。睦子が、
「キッコさんは十日に願書を出して、十八日に受験票が届きました。文学部です。受験日は三日と四日。青森の中島秀子さんからも電話があって、受験するのはキッコさんと同じ文学部。四日の試験が終わったら、北村席にくるそうです。二十日に合格が決まったら、アパートを決め、青森に帰って、こちらに荷物を送ってから出てくる予定です。学費納入は五月の初旬までですからぜんぜんだいじょうぶ」
「試験中はどこに泊まるの?」
「名古屋観光ホテル」
 女将が、
「えらく豪華なホテルに泊まるもんやね」
「一生に一度の贅沢をして一発で合格するためって言ってました」
「ここにくればええのに」
「郷さんの顔を見たら、気が散って受験どころじゃなくなるって言ってました。わかる気がします」
 千佳子が、
「私もわかる。気は散るし、からだが疼いちゃう。ムッちゃんや秀子さんのやり方がベストよね」
「郷さんがそばにいなくても、顔を思い出すだけで疼いたわ。初日が終わったときはたいへんだった」
「やっぱり! 私、初日に帰ってきてから神無月くんにお願いしちゃった」
「そのほうが健康的よ。でも大きなイベントのときは禁欲も励みになるし。何とも言えません」
 千鶴が私に、
「秀子さんて、きれいな人?」
「千鶴と同じくらい」
 主人夫婦やトモヨさんや菅野がニコニコ聞いている。トモヨさんはひさしぶりにカンナに乳を含ませている。百江や幣原やイネたちは厨房でおやつの仕度。新しく仕入れたオーブントースターでアップルパイを作っている途中だという。キッコが、
「うちは合格発表まで禁欲する。そう決めとるから。秀子さんはいつチェックインするん」
「三月一日。それから名大の試験会場の下見。私たちがついてってあげます。一泊して、二日は市電に乗ったり、適当に降りて歩いたりしながら沿線を散策するんですって。それも心配ですから、いっしょにいきます」
 菅野が、
「稲葉地までいって引き返して、天神山までいって西高を見て引き返す。途中でめしを食う」
「じゃ食事代をあげなくちゃ」
 ポケットを探ろうとすると、
「いつもお父さんからたっぷりお小遣いをもらってます。心配いりません」
「観光ホテルから名大まで遠くない?」
「東山線の伏見駅まで歩いて三分、そこから本山(もとやま)まで十三分。降りて歩いて十五分。ホテルを八時に出れば余裕で九時前に着きます。試験は九時四十分からです」
「二年後にミヨちゃんがきて、名大イベントはオシマイか。千佳子たちは四年生。一年生から四年生まで揃い踏みだね」
 菅野が、
「壮観ですね。直人やカンナもうれしいでしょう」
 トモヨさんが、
「知性も情操も、すばらしい育ち方をすると思います」
 菅野とトモヨさんが立ち上がり、私と睦子たちも立ち上がった。トモヨさんはカンナを背中におぶった。土間に控えていたジャッキに鎖をつけ、
「連れてくよ。ウンコとオシッコすましてる?」
 式台で見守っている幣原に尋くと、
「はい、すませました。お庭の定位置で」
「そこ、グチャグチャにならないの?」
「かならず新聞紙やビニール袋で取って、ゴミ箱に捨ててます。ときどきふだんとちがう場所でチャッカリ用を足しているときもありますけど、見つけたら同じように始末してます。オシッコは好きなところでします。庭木の肥料になるのでさせっぱなしです」
 歩いて保育所に向かう。菅野がジャッキに牽かれていく。牧野公園の垣沿いに小菊の黄色い花が咲き乱れている。晩秋に咲く花なので、植えつけられたものだろう。これまで見かけなかったサルスベリの幼木が、切り倒された桜の切り株の近くでポツポツ桃色の花を点じている。これも夏の花なので植樹されたものにちがいない。見回したところ、切り倒された桜は一本だけのようだ。アヤメの一画を過ぎる。
「あ、シネマ・ホームタウンの建設現場ですね。ちょっと見ていきましょう」
 たまたま宗近棟梁も見物にきていて、白いビニールシートの垂れた隙間から基礎工事の様子を覗きこんでいる。私たちも覗きこむ。ジャッキに気づき、大きくなったな、と言って頭を撫でる。ふたたび隙間を覗きこむ。私も覗きこむ。鉄骨が縦横に入り組んでいる。
「地下基盤を作ってる現場です。捨てコンを敷いて、その上に基礎配筋をしてるんですな。あそこの現場監督みたいな二人が図面を持ってノロノロ横歩きしてるでしょう。配筋検査をしてるんです。大事な作業です。ここにコンクリを埋めて基盤にします」
 さっそく専門的な話になる。耳を傾ける。菅野が、
「私たちは先にいってますよ」
「はい、すぐ追いかけます」


         四十八          

 棟梁は説明をつづける。
「ところどころ鉄筋のあいだに筒が通ってるでしょう。あれはボイド管と言って、設備の線が入る配管になります。コンクリを打設する前にあれを鉄筋のあいだに入れておけば、コンクリを打設しても筒の中には入らないようになっているので、トンネルができるという仕組みです」
「なるほど」
「お、ミキサー車が横づけされたな。打設をする車です。あの車とポンプ車でブシュ、ブシュとコンクリを押し出すんです。コンクリが隅々までいきわたらないと中に空気が入ってしまう。それだと耐圧コンクリの力を発揮できないので、バイブレーターで振動を与えて隅々までコンクリを流すわけです」
「耐圧コンクリというのは?」
「建物の全荷重を底面全体に分散させる役割をするものです。手抜きのない立派な映画館ができ上がりますよ。ああ、もういってらっしゃい。直ちゃんが心配します。私も帰ります。保育所から帰るころには、この区画面の打設が終わってますよ」
「はい、じゃ失礼します」
「神無月さん」
「はい」
「阪急戦、すばらしかったですよ。何というのか、ふつうのプロ野球の試合じゃないですな。野球漫画を見てるようでした。あれはおもしろい。今年はできるだけ球場に観にいくようにします」
「ありがとうございます」
 ゆっくり保育所へ向かう。信号を渡り、河童商店街を歩く。通りの外れまできたころ、睦子と千佳子に両手を引かれた直人が、カンナをおぶったトモヨさんやジャッキに牽かれた菅野といっしょにやってくるのが見えた。手を振ると、
「おとうちゃーん! おかえりなさーい!」
 と叫んで走ってくる。しゃがんで受け止める。明るい陽射しの通りをみんなで歩きだす。トタン造りの二階家、牧野町のバス停、四階建てマンション、サタケデンキ、ビジネスホテル、駐車場が多い。安兵衛市場、腰の曲がった老爺老婆がチラチラ出入する。家族の買い物を頼まれたのだろうか。
「年寄りに買い物を頼んじゃいけないな」
 トモヨさんが、
「独り暮らしかもしれませんよ」
 マンションがつづく。ヤマシタ自転車、森正学生服(黄金中学指定)。菅野が、
「この西にある中学校です。牧野小と米野小の生徒は黄金中にいくことになってます。おととしプールと体育館ができました。立派な中学校ですよ」
「おとうちゃん、ホームラン、たくさんうったね」
「うん、がんばったよ。もっともっと打つからね。おとうちゃんの試合はぜんぶテレビに映るから直人が観れるよ。もうすぐアメリカ人とも試合をするんだよ」
「アメリカにも、かつ?」
「わからないな。強い相手だから。でも、おとうちゃん、ホームランを打つよ」
「きっとうってね」
「うん、約束する」
 須佐之男社、歩道に立っている楠の大木、河童の坐像。うどんきしめん、いせや。マンション、駐車場、アパート。小路を覗くと、睦子と千佳子といった喫茶モック。色ちがいのソーダ水を飲んだ。
 太閤通に出る。ビルの疎らな連なりのあいだに古民家が雑じる。信号を渡る。ほとんど解体の終わっている古民家を曲がって、白いビニールシートに出る。車は引き揚げている。
「おとうちゃんのえいがかん」
「覗いてみよう」
 シートを開いて全員で覗きこむ。縦横に組まれた鉄筋の一画が、すべてツヤのあるコンクリートで平たく隠れていた。残りの三区画に鉄骨が複雑に走っている。菅野が、
「解体した古民家の跡地は駐車場にする予定です。建物は六月には完成しそうですね。上映準備に一カ月かかるとして、やっぱり開館は七月くらいかな」
「出し物の準備はスムーズにいってますか」
「ご心配なく。中村区長である北村社長と椿商店会後援会が呼びかけたことと、小山オーナーの口利きのおかげで、専門家がどんどん動きはじめてます」
「小山オーナーが!」
「はい、社長が今月何回も電話しました。小山オーナーと白井新聞社主を仲立ちに、その筋の重鎮への手回しを頼んだんです。映写設備や音響設備のアドバイスはもちろん、フィルム配給にしても、中日本興業や大手の広告代理店が、東宝、日活、東映、松竹関係の古いところの上映の下ごしらえにかかってくれてます。中日本興業というのは市内の映画館のほとんどを所有してる二部上場の株式会社です。豊田ビルの名古屋グランド劇場、毎日会館のアスター劇場、三井ビルのセントラル劇場、シネラマ名古屋といった映画館はその一部です。天下の神無月郷のために一肌脱ごうとする人間はいくらでもいますよ。映画館を建てるなんてプロ野球人は、あとにも先にも神無月さん一人でしょうからね」
「何から何までありがとうございます。いろいろな人の力添えのおかげで、十年、二十年潰さないでやっていけそうです。直人、いい映画をたくさん観せてやるからな」
「うん」
 いつものとおり、わけもわからずうなずく。
 アヤメを過ぎ、牧野公園から遠く名古屋駅の方角を眺める。心なしかビルの数が増えているように感じる。左手の辻の向こうに牧野小学校の校庭と校舎。こちら側の垣は金網しかないので、そっくり全容が見える。サルスベリの巨木が何本も植わっている。辻からこちらが北村席の生垣とガレージとその裏手にファインホース。公園を外庭にするすばらしい立地だ。
 数寄屋門に到着。菅野はファインホースへ。ジャッキを門内に放す。直人がキャーと奇声を上げてジャッキを追いかける。叫び声が耳鳴りと共鳴して〈シャー〉が大きくなる。これが始まるとしばらくつづく。物音を聞き取るのに何の支障もないので気にしなければよい。気にするとその音だけになる。ただ、小便やシャワーに共鳴する〈ザザザ〉には困(こう)じ果てる。
 ジャッキが土間に寝そべる。子犬のころのねぐらがあった場所だ。三和土に直接毛布が敷いてある。ソテツに、
「あのシャレた犬小屋は?」
「ジャッキのからだに窮屈になったので、納戸部屋にしまいました。すごく寒いときは土間で寝せますけど、そうでなければ玄関の犬小屋に寝せます。小屋の中にたくさん毛布を敷いてありますから」
トモヨさんは背中からカンナを下ろしてイネに預ける。イネは離れへカンナの昼寝をさせにいく。女将が私を居間に呼び、葉書が届いていると差し出す。見ると、五百野校了の報せだった。最終チェックが終了したので表紙作成と版組み印刷にかかる、初版十万部、売行き好調の場合にはいくらでも備えられる態勢でいる、新聞掲載終了の時点で予約販売がすでに二万部に達している、これは出版業界空前の記録である、全国発売は三月半ばの予定、新美南吉文学賞は決定した、表紙は当時の浅間下か保土ヶ谷の古い写真を油絵風にアレンジすることになっている、等々細かい字で書いてある。
 何ですかとやってきた睦子たちもハガキを見て、ポカンとし、それからまじまじと私を見た。
「二万十万なんて架空の数字だね」
 トモヨさんがひさしぶりにカンナに乳を含ませながら、
「架空じゃないですよ。知性派の人には気の毒だけど、本物の芸術って、大勢の人に支持されるものじゃないかしら。知識を大盤振舞いして大勢の人をギョッとさせ、一握りの知識人を悦に入らせるものじゃないと思います。大勢の人の感情を自然にふるわせて、しみじみと幸せな気持ちにさせるもの」
「それは正しい考え方だと思う。でも、そういう人は〈大勢〉じゃない。古今東西、少数派だ。特に日本では〈無勢〉だ。知性人が〈多勢〉なんだ。そんな少数派がどこにもかしこにもいたら、知性の国日本の面目は丸つぶれじゃないか。やっぱり架空の人たちですよ」
 主人が、
「架空の人たちのおかげで入ってくる印税は、現実のものですよ。大矛盾やが」
「矛盾は解消しなくちゃね。実際いるはずもない架空の人たちのくれた印税は、架空の人たちにお返しする。そんなものを受け取っていたら、大勢の知性人を怖がって、感情豊かなやさしい人を宝石のように選んできたぼくの人生も台無しになる。読者は愛する数人でいい。その意味で、このハガキにも書いてある新美南吉文学賞は受けようと思ってる。五万円の賞金もお返しせずに喜んでいただく。文学賞というところが引っかかるけどね。ぼくの書くものは子供の作文だから」
「郷土の児童文学者新美南吉を顕彰して設けられた賞、と謳ってるからですか?」
「そこを謳ってるからじゃないんです。知性派・東の宮沢賢治、抒情派・西の新美南吉と謳われた人だからです。作品もいくつか読んだので、この対比は信用できます。この賞の選考にあたる人は子供の心を失くしていないことが必要条件になるでしょう。だからこそ、このご時勢で五万円なんだと思う。五百野が純朴な子供の心にあふれてると判断されたにちがいないですから」
 千佳子が、
「でも、どうやってお返しするの?」
「施設や機関への寄付しかないと思う。知名度や流行で本を買った人たちにも、不幸な身内はいるにちがいないんだ。買った人たちよりも数は多いはずだ。その人たちにお返しする。たとえば孤児院にいる子供たち、母子家庭父子家庭の子供たち、いろいろな障害者施設の人たち、極貧に苦しむ人たち、老いて捨てられた人たち、病気に苦しむ人たち、そういう人たちに施設や機関を通してお返しすれば、もともと買った人たちに返すことになる。心の琴線に触れ、愛を感じて買った人たちには微々たる印税なんか返す必要がない。本棚に飾らずに机に広げる本を通して毎日心を触れ合ってるようなものだからね。それでじゅうぶんな心のギブアンドテイクになってる。何の精神的なやりとりもない架空の人たちには、微々たるものでもぜんぶ返さなくちゃいけない。架空の人たちから人は利益を得ちゃいけない」
「新美南吉文学賞という宣伝に動かされて買う人は?」
「選考委員は、新美保三、渡辺正男、中日新聞文化部長、婦人部長。聞いたこともない人たちばかりでしょう? たぶん賞の存在すらだれも知らないだろうね。宣伝効果なんてないんですよ。たとえその宣伝を見て買うとしても、知性的でない子供向けの本だとわかったうえで買う人だから、オーケー。そういう人はほんとにごくわずかだと思うな。おそらく百人もいない」
 睦子が、
「野間文芸賞の候補を辞退したのは、選考者が知性人だからですね?」
「うん、ズラッと知性人でかつ有名人。ふるえ上がるよ。これまで選ばれた人たちも錚々たる知性人。辞退したのはあの名作『青べか物語』を書いた山本周五郎だけ」
 キッコが、
「直木賞をいらんゆうた人やろう」
「うん。どんな賞でもずっと辞退しつづけてきた人だ。ことごとく権威的なものを拒絶する姿勢の根もとには、ぼくなんかよりもはるかに深い哲学的な理由があるんだろうと思う。山本周五郎のことはどうでもいい。とにかくそんな選考者たちに、いまを時めく野球選手というだけで、まんいち気まぐれに選ばれでもしたら一大事だ。〈文芸〉とは無関係の〈おべっか賞〉だとはっきりしてるわけだから、そんなものを受けちゃったら人間としてとんでもなく恥ずかしいことをしたことになる。才能のある、誠実な魂を持った、人びとの模範となる本物の芸術家を侮辱したことになる。生涯にわたっていくら悔やんでも悔やみ切れない。だから新美南吉文学賞以外は、この先、すべて辞退する」
 主人が、
「神無月さんは、人間の中の人間ですよ」
 幣原が、
「アップルパイできました!」
 みんなで座敷のテーブルに畏まる。直人は私の膝に収まる。百江が、
「今年、リボン食品から冷凍のパイ生地が発売されたんです。日本初。それがなければ自家製の生地を作らなくちゃいけなかったところだったので、あと二時間はかかりました」
 五枚のアップルパイが賄いたちの手で切り分けられてテーブルに載る。フォークで切り取って直人の口に含ませる。
「うまいか」
「おいちい!」
 賄いたちがうれしそうに笑う。ソテツが、
「幣原さん、百江さん、今度パイ生地の作り方教えてね」
「はい、いつでも。根気が要りますよ」
「がんばります」
 リンゴの歯触りが快適で、ほんのり甘くてうまい食い物だった。クマさんと平畑の喫茶店で食べたアップルパイの味と似ているかどうか思い出せなかった。もう少し甘かったような気がした。アヤメの遅番組が出かけていった。




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